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小説46(第二部スタート)(サンライズ・サンセット)

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第二部-1

フォレストシンガーズストーリィ・46

「サンライズ・サンセット」

1

 ちび仲間の章がいたらいじけそうな光景が眼前に広がっている。神さまってなんて不公平なんだろうと俺もつくづく思い、なあ、章? と同意を求めたくなっていた。金子さんも徳永さんもかっこよすぎる。
「徳永さんのデビューが決まったんだそうです。後輩たちでお祝いしようって案が出てるんですけど、三沢さんも乗りません?」
 電話をかけてきたのは、シゲさんよりも低い本物のバスの持ち主、酒巻だった。徳永さんは我らがリーダー本橋さんと、サブリーダーのポジションにある乾さんと同年だから、俺よりはふたつ年長になる。俺が大学を卒業してから四年、徳永さんが卒業してからだと六年だ。
 二十五歳になった俺がフォレストシンガーズのメンバーとしてからメジャーデビューしてからだと、三年以上が経過している。その間に徳永さんと会う機会はあったのだが、彼自身の境遇については詳しく話してくれず、おまえは嫌いだだの、本橋や乾に会ったら塩をまくだのと、けんもほろろにあしらわれていた。
「そうか、徳永さんも二十七歳にしてついにデビューが決まったか。めでたいね。けどさ、なんでおまえが電話してくんの? おまえが祝いの会の発案者?」
 大学合唱部では一年後輩に当たる酒巻に尋ねると、彼は言った。
「本当の発案者は金子さんなんですけど、金子さんが言うと徳永さんは拒絶する恐れがある。金子さんが後輩から言われたってことにしたら、さすがの徳永さんも渋々でも出てくるんじゃないかと……」
「入り組んでるんだな」
「そうなんですよ。そこで、金子さんは彼か、または彼か、と後輩たちの名前を頭の中でひねくったんだそうです。金子さんの推測によりますと、徳永さんは小笠原さんには信が置けると考えていた節があるんだそうですけど、小笠原さんは行方不明でしょう? いろいろと考えてみたんだそうですけど、適任者が思い当たらない。で、徳永さんの記憶にある後輩たちのうちの最年少者、酒巻、おまえに頼む、ってことになりまして……なんだって僕なんでしょうね」
「金子さんには深遠なる謀略があるんだよ。おまえは金子さんを知ってたっけ?」
「学生時代の金子さんは知りません。三沢さんも知らないでしょ?」
 二年年上の徳永さんのさらに二年年上、シゲさんやヒデさんが一年生だった当時の男子部キャプテンであった金子さんは、俺の四歳年長になる。ただいま二十九歳だ。金子さんが卒業してから俺が入学したのだから、むろん彼がどのようなキャプテンだったのかを俺は知らない。伝説で聞いた像しか知識にはなかった。
 以前からたまには会っていたのだが、金子さんは徳永さんの二年前にプロシンガーとしてデビューしている。いわば我々とは同業者なのだから、そうなってからはお世話にもなった。この世界ではフォレストシンガーズが金子さん、徳永さんの先輩に当たるとはいえ、大学の先輩なのだから、敬意を持って接している。徳永さんには粗略に扱われているのだが、金子さんは常に鷹揚で寛大な態度を崩さない。
「徳永さんも出てくれるって?」
「金子さんが言い含めてくれたんでしょうね。そうまで言ってくれるなら、って感じだったみたいですよ。それで、名目上の発案者はおまえなんだから、フォレストシンガーズのみなさんにもおまえから声をかけてくれ、って頼まれました。三沢さんも乗ってくれますよね」
「そういうの、本橋さんに言うのが筋なんじゃないの?」
「本橋さんは……」
「怖いか」
 ええ、まあ、と酒巻はもごもご言っている。本橋さんは酒巻が入部してきた当時のキャプテンだ。男子合唱部キャプテンとしての本橋さんは、そう怖い先輩でもなかったのだが、酒巻との間にはなにかとあったようだし、彼の気持ちもわかるので、俺は請合った。
「わかった。うちのみんなには俺から言っておくよ」
 うちの先輩たちは、徳永さんとの間にもなにかとあった。章は一年で中退しているので徳永さんとはほとんど関わりがなかったはずだし、シゲさんもたいして関わっていなかったはずだが、本橋さんと乾さんは徳永さんとは同年の好敵手だっただけに、深く重く関わっていたのだ。
 酒巻とは俺はずっとずっと親しくしている。合唱部の後輩の中ではもっとも深く、長く交流が続いていて、大阪へ連れて行ってナンパの方法を伝授してやったこともある。であるからして、酒巻からも金子さんについては聞いていた。酒巻は金子さんにはとてもとても恩義を感じているのである。
「徳永がデビューするのか。それはよかった。祝いの会? 本橋、どうする?」
「んん……俺が行ったら……おまえは、乾?」
「めでたい会がハチャメチャになりそうな懸念もなくはないか」
 年長者ふたりは悩み深い表情になり、シゲさんも気乗り薄の様子で、章は、俺には関係ないじゃん、の態度だった。俺だって徳永さんには嫌われてるんだけど、こうなればフォレストシンガーズの代表を持って任じるしかないではないか。金子さんが徳永さんをコントロールしてくれると信じて、出かけてきたというわけである。
 少人数の集まりだった。酒巻が発案者とされているのだから、彼が懇意にしているライヴハウスを借りて、合唱部時代のなつかしい顔がそろっていた。年齢が上の者から並べれば、会が開始された時点では、渡嘉敷さん、金子さん、金子さんと同年の皆実さん、実松さん、俺、酒巻、主役の徳永さんを含めて七人。男ばっかり。
 なつかしいとは言っても、俺は渡嘉敷さんは知らない。金子さんよりも一年上で、徳永さん世代が入学した年の副キャプテンだった。皆実さんも知らない。彼は金子さんがキャプテンだった時期の副キャプテンで、渡嘉敷さん、皆実さんは、徳永さんと親しかったのだそうだ。直接会ったことはなくても、ふたりともに大先輩なのだからお名前は聞き及んでいる。現在はサラリーマンになっているおふたりとも挨拶をかわした。
 実松さんはシゲさん世代のキャプテンで、俺ともつきあいがあった。現在は彼もサラリーマンだ。金子さんと徳永さんと俺はシンガー。酒巻はFMラジオでDJをやっている。
 フォレストシンガーズが誰も来ていないので、俺が学生時代を知っているのは、実松さんと徳永さんと酒巻の三人だけとなる。こじんまりとしているのが功を奏したか、徳永さんも不機嫌顔はせずに、三沢も来てくれたのか、と愛想はないままに歓迎してくれた。
 歴代キャプテンが三名、副キャプテンが二名、主役の徳永さんと下っ端酒巻の七名で、色気もなんにもない会がスタートした。三沢、おまえがキャプテンだったなんて嘘だろ、と今さらながらに先輩たちに攻撃されたりもして、それなりに楽しく会が進行していくと、実松さんが言った。
「そこにピアノがありますよ。金子さんのピアノ、久し振りで聞かせてもらえませんか? 金子さんと徳永さんのデュエットなんつーのも聞いてみたいなぁ。なぁ、三沢?」
「俺も歌っていいですか」
「おまえはあとからにせえ」
 大阪弁実松さんに命令されて、先輩の言にはさからえませーん、となって、金子さんと徳永さんがステージに上がるのを見ていた。なんとまあ、なんてかっこいいんだろ。
 デビューは遅かったものの、金子さんも徳永さんもずっと歌の世界に身を置いていた。もとからのルックスのよさが研磨されたのか、ひがみたくなるほどかっこいい。天は二物を与えず、だなんて嘘八百だ。彼らはいくつの輝きを神から授けられているのだろう。
 背丈は徳永さんが本橋さんほど。本橋さんよりもややスリムで、乾さんと本橋さんの中間あたりの体格だ。金子さんは徳永さん以上に背が高い。顔立ちは好みもあるから一概には言えないだろうが、金子さんの女性人気の高さが窺える。徳永さんもデビューしたら女性に騒がれるに決まっている。
 声は金子さんは本橋さんタイプで、甘く低く太い。徳永さんは行方不明のヒデさんタイプの声か。ヒデさんのかすれ気味のハイトーンにハスキーカラーを濃くし、とびきりセクシーな金粉をふりかけたような声質をしている。歌のうまさは言うまでもない。高くて子供っぽい声をしている俺から見れば、うらやましくてため息が出そうな大人の男の声だ。
 身長や声は本橋さんと比較のしようもあるが、顔は較べたら本橋さんが気の毒だし、ファッションを較べたら本橋さんが怒るだろう。男は服装になんかかまわなくていいんだ、と本橋さんが言っているのが聞こえてくる気がする。
 そんなことないんですよ、リーダー、俺たちもシンガーなんだからね、センスも着こなしも大切ですよ、乾さんをちっとは見習ってね、と俺は本橋さんに言いたい。乾さんも顔は金子さんや徳永さんと比較すれば見劣りするけど、ファッションセンスは負けてませんよ。
 ピンキッシュグレイとでも言うのか、淡く渋い色のスーツが長身に映える徳永さん。白のセーターとごく淡いパープルのパンツに、紫紺のサッシュベルトをきりりと腰に巻いた金子さん。さすがの着こなしだ。こんな服装は一般の男にはあり得ない。本橋さんにも似合わない。乾さんも着ないだろう。シゲさんがこんな格好をしているのは想像もできなければ、俺では仮装行列に見えてしまいそうで、章だったらなんとかなりそうかもしれないけど、あいつはちびだから無理か。
 声はいいんだよ。三沢幸生はこの声があってこその三沢幸生なんだから。だけど、身長と顔とこのセンスはほしいよなぁ、と見とれていると、ピアノの前にすわった金子さんが言った。
「本橋も来ないかな。昔、あれは本橋と徳永が二年のときだったか。実松は知ってるよな。本橋と連弾をやっただろ」
「ああ、覚えてますよ。鮮烈でしたね。金子さんがオーケストラからピアノを借りてきて、シゲが先頭に立ってピアノを部室に運んだんでした。シゲが真っ赤な顔して踏ん張ってたのも思い出します。シゲも来んのか、三沢?」
「今夜は別件の仕事が入ってまして……すみません。来られたら来ると思うけど……」
「おまえはいなくていい仕事か」
「はい、徳永さん。俺は仕事はなくて……」
 仕事があるのは本当だ。俺たちだってそれなりには忙しい。
「リーダーと乾さんは打ち合わせ。シゲさんはラジオ。章も別のラジオの仕事です。時間が空いたら行くと言ってました」
 時間が空いたら、は失礼なのかもしれないが、徳永さんは言った。
「ご多忙はけっこうじゃないか。いいさ。金子さん、なにを歌います?」
「徳永はジャズが本職っていうシンガーになるんだよ。俺はバラードが多いな。俺の持ち歌なんてのは、みんなは知らないか」
「知ってます」
 知ってます、知ってます、と実松さんと酒巻も言い、皆実さんも言った。
「俺が知らないわけないだろ。渡嘉敷さんは?」
「俺も知ってるよ。この間、社内親睦飲み会でその歌を歌ったんだ。俺も学生のころはシンガー志望だったんだぜ。会社の奴らは知らないし、俺が合唱やってたのも知らないから、みんなして無言になってた」
「女の子にもてたんじゃありません?」
「もてるっていうより不気味がられたな。本格的すぎるってのか」
 皆実さんと渡嘉敷さんは既婚者だ。今さらもてたくはないのかもしれないが、結婚していてももてたいのが男のサガだと俺は思う。渡嘉敷さんはくくっと笑って言った。
「金子のオリジナルだな。「花盗人」。徳永も知ってるんだろ。歌ってくれよ」
 いっとう年上の渡嘉敷さんに言われて、金子さんがピアノの鍵盤に指をすべらせた。繊細なメロディが流れ出すのに耳を奪われていると、渡嘉敷さんが皆実さんに話しかけた。
「金子のトッポジージョ奏法ハープも絶品だったよな」
「金子は楽器演奏にも才能を発揮するんですよね。金子はピアノもハープも演奏しててさまになるけど、本橋のピアノもたいしたものでしたよ。今はあいつはピアノは弾かないのか、三沢?」
「腕が錆びついてるからって弾いてくれないんですよ。本橋さんも来ればいいんだけどな。金子さんとの連弾って聴きたいですよ。俺がいなかったころでしょ」
「そうだよ。しかし、本橋が来ると……静聴しよう。徳永が睨んでる」
「はい、皆実さん。徳永さーん、ごめんなさーい。どうぞどうぞーっ」
「おまえが一番うるさいんや」
 実松さんに怒られて、口を閉じてデュエットに聴き入った。本橋さんと乾さんのデュエットにどこかしら通じる部分があるのは、金子さんがバリトン、徳永さんがテナーだからだろう。が、似ているようでいて全然ちがうのは、テナーがまったく異質だからだ。徳永さんのセクシーヴォイスは、女性のみならず男心をも悩殺しそうだった。
 ピアノと歌の両方をやっている金子さんは、掛け値なしにもてるだろう。背が高くて凛々しい顔立ちをしていて、性格も俺が見る限りではマイルドで、男っぽい美声と抜群の歌唱力を持っている。頭脳明晰で、乾さんと張り合うほどに言語能力が高い。欠点が見当たらないので、そこが女性を引かせる一因となるやもしれないが。
 一方の徳永さんも、外見的には非の打ち所はない。しかし、乾さん以上のアイロニーの持ち主であるので、徳永さんはもてないかも……なんてこともないんだろう。この場に女性がいないので、女性が徳永さんをどう評するのかは聞けないが、乾さんはもてもてなのだから、徳永さんもきっともてる。
 結婚しているにしても、皆実さんもたいそうルックスがいい。背丈は徳永さんほどで、きりっとした美形だ。渡嘉敷さんのルックスには特筆すべき点はないが、彼も既婚者なので、もういいじゃん、もてなくても、とさきほどとは矛盾することを考えた。それから実松さん、じゃがいも。たぶんもてないと思う。酒巻、俺以上にちっちゃくて子供っぽくて可愛げがある。彼は章や俺の仲間に入れてやってもいい。あとからもてるのかどうか尋ねてみよう。
 男を見ると、こいつってもてるのかな、と考える癖のある俺は、ついついいつもの癖を出して全員を観察していた。それでも耳は徳永さんと金子さんの歌に集中して、デュエットを堪能させていただいた。
 なんといってもここにいるのは全員がもと合唱部だ。コーラスのパートでは、皆実さんと徳永さんと俺がテナー、金子さんと実松さんがバリトン、渡嘉敷さんと酒巻がバス。昔ながらにみんなで合唱をしたりもして、従業員の女の子が拍手してくれた。おー、ここに女性がいるじゃん、となって、俺は彼女に近づいていった。
「すみません。思わず……だって、すごいんだもの」
「いいのいいの。拍手してくれてありがとう。俺たち、とある大学の男声合唱団のOBなんだよ。歌がすごいのは当然でしょ。きみの店のシェフの料理がすごいのと同じだよ」
「うちにはシェフってほどのひとはいませんけど」
「電子レンジがシェフだったりして。ま、いいじゃん。ねえ、きみがこの中から彼を選ぶとしたら誰にする?」
「彼ですか。んんとんんと……」
 あなた、と指差してはくれず、彼女は真剣に考えていた。
「背は高いほうがいい?」
「そうですね。低いよりいいかな」
「そうでしょうね。顔は?」
「あ、あの方、金子将一さん? きゃあ、サインもらっていいですか」
「金子さんか。金子さん、彼女がサインしてほしいんだそうですよ」
 この中でもっとも有名なのは金子さんなのだから、彼女の反応も当然だろう。金子さんもやってきた。
「サインですか。ありがとうございます。ただ、今夜はプライベートな集まりですから、あなたのお仲間には内緒にして下さいね。お名前はなんとおっしゃいます? マリさん?」
 時として有名人も訪れるのだそうで、そのために準備してあったという色紙をマリちゃんが差し出し、金子さんはさらさらとペンを走らせた。感激の面持ちでマリちゃんが去ると、金子さんは俺の耳を引っ張った。
「う……金子さーん、うちのリーダーみたいなことを……いででっ、いでってばっ。金子さんってある面は乾さんに、ある面は本橋さんに似て……いでぇ、降参ですよぉ。金子大先輩、耳がちぎれますよぉっ」
「けたたましい声だな、まったくおまえは」
「俺の価値はこの声にあるんです。離して下さいまーせませっ!!」
「まーせませじゃないんだよ。ちょっと来い」
「なんにもしてないでしょうがぁ。ナンパしたんじゃありませんよ。俺はマリちゃんに素朴な疑問をぶつけたにすぎません。なんだって女のひとはだあれも来てないんですか。女のひとがいないから、ですね」
「うるさいんだ。来い」
 やっぱり先輩は先輩で、ソフトに見える金子さんも後輩には上から目線になる。立って向かい合うと文字通りに見下ろされて、耳を引っ張られたまんま部屋から連れ出された。
「去年、宮崎で会っただろ」
 別室のソファにすわらされると、金子さんが尋ねた。
「徳永はまだデビューしてなかったな。覚えてるんだろ」
「覚えてますよ。あのせつはお世話になりました。いでで……耳が真っ赤になってません?」
 知らんぷりして、金子さんは続けた。
「山田さんはなにか言ってなかったか」
「美江子さんですか。なにかってなにを?」
「俺が訊いてるんだよ。なんにも言ってないのか。正直に言え」
「……んんと……あのとき? 徳永さんにはまたしても、俺は前からおまえが嫌いだったと言われるし、金子さんは本橋さんたちと話してて、俺は無視してたし……章の声についての議論をなさってたんですよね」
「そうだったな。木村の声は特異だもんな。それはいいんだ。山田さんだよ」
「美江子さんからは特にこれといった話は……」
「そんならいい」
「なんですか。気になる。聞かせて下さい」
「三沢」
 笑いを含んだ瞳に睨まれた。
「好奇心は猫をも殺すという。三沢幸生も好奇心に殺されないようにしろよ」
「……殺されかねないなにかですか? 剣呑だなぁ。大事件?」
「徳永と俺にとっては、人生を左右するかもしれない事件だった」
「そこに美江子さんが? ……お、おおお? えええ?」
「なにを察した? おまえも剣呑な奴だな。乾に感化を受けたか」
「乾さんの感化は多大も多大ですが、え? あああ? いいい? ううう? えええ……いてっ。ああ、もう、先輩ってどうしてそうなの? 俺はいっつも本橋さんにぼかすかやられてるんですからね。金子さんまで殴らないでってばぁ。えええのおおお、かかか……ききき……はい、やめます。キリがありませんね。おー、そうなのかぁ」
「本橋の気持ちがたいへんによくわかったよ。おまえのその言葉の爆走を聞いてると、後輩だったとしても殴りたくなるだろ。酒巻を連れてこようか。先輩が後輩を殴ってもシャレにもならないと誰かが言ってたらしいが、逆はどうだ?」
 瞳には笑みを含んだままで、俺を脅迫する。金子さんってお人がよくないからね、と乾さんが言っていたのを思い出した。
「酒巻とだったら殴り合いでも受けて立ちますよ。先輩方はオールパス。俺では太刀打ちできません。実松さんの大阪弁には関東人はついていけないし、皆実さんも弁が立つでしょ。徳永さんは皮肉の権化。金子さんは言語学の権威。渡嘉敷さんは大先輩にすぎて腰が引けます。口で勝てそうなのも酒巻だけだよぉ。わーん、俺のアイデンティティが崩壊するよぉ」
「乾に鍛えてもらってるんだろ」
「俺が乾さんにかなうと思います?」
「思わない」
 一言のもとに断定された。
「我喋るゆえに我あり。我高き声ゆえに我なり。我、口以外不可能勝負。我、不可避先輩対決?」
「本気で殴るぞ」
「きゃああ、ご勘弁をば」
 人には意外性があるとは、二十五年の人生で骨身にしみ込まされている。あの章にしたって、こいつにこんな面が? と目を見張る一面もあるのだから。だから知ってはいたけど、理論武装キャプテンだったと聞いている、ついでに派手で華やかだったとも聞いている金子さんも、本気で殴るぞ、と後輩を脅す一面があったのだ。迫力があって本橋さん並に怖い。
「その調子で本橋からも逃げるんだな」
「ご明察でございます。俺にはこれしか手立てがないんですよ。ちびでしょ。力もないでしょ。まして本橋さんは先輩ですよ。他にどんな手段があるんですか。あったら教えて下さい」
「ないな」
「ほらあ、またそうやって……」
「しかし、おまえはコンプレックスを逆手に取って世渡りしてるんだな。おまえがキャプテンだった時期があるってことの、一端は腑に落ちたよ」
「おひとり腑に落ちられましても、僕ちゃんにはよくわからないのですが……本題に戻ってもよろしいですか」
「本題ってなんだ? むこうに戻ろうか」
「ごまかしたらいやいやーん」
 いきなり、ちょんとくちびるをつつかれた。
「きゃっ」
「疑われたらどうする? 金子と三沢が密室にこもってなにをしてたのか。よもやあいつらは……ってさ。三沢、俺に惚れたのか? キスしてやろうか」
「うぐ……それ、俺の戦法なのに……男にキスを迫って突き飛ばされるのっていまや快感……嘘ですよ。快感じゃないけど、さかさまって経験ないよ。金子さんにはそんな趣味が?」
「おまえは口からそうやって言葉をこぼしつつ、次の手段を考えてるだろ? 頭で考えるより先に言葉が出るんじゃなくて、喋りながら考える口だな。木村が特異声質ならば、おまえは特異性質だ。俺にそんな趣味があったらどうする?」
「……金子さんも同類ですか。乾さんにも見抜かれてないはずですが」
「馬鹿か、おまえは。乾はとうに見通してるよ。おまえと何年つきあってるんだ」
「そうですねぇ。いえ、俺にはそんな趣味はありませんから」
「馬鹿。俺にもねえよ」
 会話になっていないようでなっている会話のあげく、金子さんは再び俺の頭をげんこつで殴った。合唱部の先輩って根本的にはみーんなこのタイプか。卒業後四年にして知ったとは、三沢幸生の不覚であったのか。今夜の収穫のひとつだったのか。すると、別室にいる他の先輩たちもこんなの? 下手をすると俺の頭がでこぼこになりそうだから自重しなくちゃ、と決意して、澄まし顔で部屋から出ていく金子さんのあとを追いかけた。

 
2

 和やかに、それでいて水面下では腹の探り合いというか、それをやってるのは俺だけのようだけど、だって気になるんだもーん、ってわけで、誰彼となく質問していた。
「彼女ぐらいおるわい。もうじき結婚するねん、俺」
「実松さん、見栄張ってません?」
 ばかっと来た。実松さんにはかつても殴られたことがある、幾度も幾度も。
「もててもててもててもててもてもてすぎて、ひとりに絞るのに苦労したんだよ。このままじゃ女に四方八方から押されて圧死しそうだから、ひとりに決めて結婚したんだよ」
「なーんていう幻覚を見ていたと? きゃああ、ごめんなさーい」
 こっちもぼかっ。学生時代には面識もなかった渡嘉敷さんにも殴られた。
「俺の場合は身近にこいつがいただろ。自覚がなかったみたいだけど、そんなの信じられるか? ファンクラブがあったんだぞ、金子には。なのにこいつときたら、俺はもてないだとか言いやがって、うぬぼれの裏返しなんだったらぶん殴ってやろうかと……思い出したら腹が立ってきた」
「……だからってなんで俺に……」
 八つ当たりのぼかっ。皆実さんにも殴られた。
「僕ですか。うふっ、ご想像におまかせします」
「気持ち悪いんだよ。その声で含み笑いすんな」
 こいつにだけは強く出られるので、今度は酒巻を殴ってやろうとしたら、肩をつかまれて引き戻されてぽかっ。誰に殴られたのかと顔を見たら、徳永さんだった。
「徳永さんまで暴力派なんですか。ねえねえ、別室でお話を聞かせてもらえません?」
「おまえと話すことなんかない」
「あるんじゃないんですかぁ? 美江子さんも誘えばよかったですね」
 完璧なるポーカーフェイスで黙殺され、インタビューの企ては崩れ去った。この面々だと最年少酒巻がいじられるのが普通なのだが、酒巻は意外にも言動が落ち着いている。昔よりは大人になったと見える。ってことは俺はまったく大人になってないってわけで、先輩たちに苛められっぱなしで、頭がでこぼこになりそうだと心配していたのが実現しそうだった。
「よお、来てくれたのか」
 もうひとり、キャプテンが登場。俺が一年生だった当時のキャプテン、渡辺さんだ。来てくれたのか、と言った金子さんに丁寧に礼をしてから、渡辺さんは徳永さんに包みを手渡した。
「うちの家内から」
「家内? 結婚したのか。おまえは今は仕事はなにをやってる?」
 尋ねたのは金子さんで、金子さんに応じてから、渡辺さんは後輩の徳永さんにも丁寧に言った。
「弁護士事務所につとめてます。徳永さん、このたびはまことにおめでとうございます」
「ありがとうございます」
 お先に失礼します、と帰っていくひともいれば、途中からやってくるひともいる。それにしても男ばっかりだなぁ、と思っていると、ようやく女性たちが集団であらわれた。
「徳永さん、おめでとうございます」
「一段と素敵になって……徳永さんと同じ大学だったなんて、友達に自慢できそう」
「きゃあ、金子さんも、お久し振りです」
「徳永くんと金子くんがそうしてると、星がふたつきらめているみたい。金子くんはもはやスターかな。徳永くんも近いうちにはきっとそうなるよ」
 知っている女性も知らない女性もいるのだが、最後の発言は俺の先輩に当たるひとだろう。金子さんまでをくん付けで呼んでいるところを見れば、俺より四つ以上年上だ。徳永さんは女性たちからどさどさっと花束をもらい、そのひとは金子さんに花束を渡した。
「金子くんがデビューしたときにはお祝いしてないから、私は金子くんにプレゼント」
「ありがとう。今夜は俺は脇役なんだけど、嬉しいよ。久し振りだね、大野さん。まだ大野さん?」
「まだとはなによ。そうですよ」
 互いの口のききようからすると、ふたりは同い年だ。俺は控えめに口をはさんだ。
「はじめまして、でよろしいですか。大野さん? あのぉ、俺のことは……」
「ん? どなたでした?」
「ああ、さようでございますか。失礼つかまつりました。俺はむこうに行きますので……」
「いやーね。三沢さんでしょ? 私は金子くんとおんなじ年だから、あなたとはいっしょに活動してないんだけど、お名前は知ってるよ。フォレストシンガーズの三沢幸生さん」
「はい。そうです。ああ、幸せだなぁ。光栄のあまり俺は倒れそうです」
 金子さんが彼女を紹介してくれた。
「俺がキャプテンだった年、つまり、小笠原と本庄が入部してきた年の女子部キャプテン、大野莢子さんだよ」
 莢という字を書くのよ、と教えてくれてから、大野さんは尋ねた。
「本橋くんと乾くんは? 本庄くんは? 木村さんは?」
「生憎、今夜は仕事でして……俺がフォレストシンガーズの代表ですので、なんでも聞いて下さい。フォレストシンガーズの歌を歌いましょうか」
 むこうでは徳永さんを取り囲んでいた女性たちの輪がほどけていて、そのうちのひとりが俺の腕に触れた。
「大野さん、三沢くんを借りてもいいですか」
「いいよ。どっか連れてって。私は金子くんと旧交をあたため合うんだから」
「どこへでも連れてって。なんなら地の果てまで連れていって、地面に深い穴を掘って埋めてきてくれてもいいよ。いや、女性にそうは頼めないか。地の果てから突き落としてきて下さい」
「金子さん、三沢くんがなにかしました?」
「本人に聞いて。じゃあ、メンバーも入れ替わりつつあるから、改めて乾杯しよう。大野さん、乾杯の音頭をよろしく」
 乾杯につきあってから、俺は彼女を見つめた。彼女だったらよくよく知っている。俺たちと同年の片瀬美耶子。みんなしてミャーコちゃんと呼んでいた。
「ものすっごく久し振りだね。ほら、フォレストシンガーズがデビューするって決まったころに、部室の近くで会ったじゃない?あれ以来だよね。三沢くん、元気そう。元気すぎて金子さんになにかしたの?」
「なにもしてないけど、なにか言ったんだよね。でね、先輩全員……っていっても、いなくなったひともいるし、あとから来たひともいるんだけど、そのときにはいた先輩四人か、五人か。全員に殴られた。頭がでこんぼこんだろ」
「そおお? でこぼこなんかしてないよ」
 優しい手で俺の頭をさわって、ミャーコちゃんはくすくす笑った。
「三沢くんってあいかわらずなんだ。殴られたってほんと?」
「ほんとだよ。軽くぼかっ。こんな感じ」
「自分でまで叩かなくてもいいでしょうに。そんな感じだったらどうってことなくない?」
「なくなくない」
「……意味わかんない」
 男ばっかの中でいじられてるのもそれはそれで楽しかったけど、こうして女の子と話していると楽しさが数倍になる。ミャーコちゃんには恋はしていなかったが、俺は合唱部の女性はみんなみんな大好きだった。もっと言えば、同じ大学の女性はみんな大好き。さらに言えば、全世界の女性が大好きなのだが、地球的規模になると収束がつかないので、合唱部にとどめておこう。
 今度はふたりで乾杯して、学生時代の話になった。目の前にいるミャーコちゃんも二十五歳になって、大人らしい魅力をたたえているけれど、話しているとあのころとひとつも変わらない。
「木村くんも元気だよね。時々はラジオを聴いてるから知ってるよ」
「FSの朝までミュージック? 聴いてくれてるんだ」
「聴いてる。とっても楽しい。本橋さんと乾さん、木村くんと三沢くん、本庄さんとテニスの川上恭子さんがペアでしょ? 早朝番組だから毎日は聴けないけど、聴ける日には聴いてるの」
「ありがとう。特に俺の日?」
 というと章の日になる。ミャーコちゃんは実は、章が好きだったひとなのだ。俺にはひとことの相談もなく、章が大学を中退してしまったころに、ミャーコちゃんが俺に話しかけてきた。
「木村くん、学校もやめちゃったんだってね」
「うん。ミャーコちゃんも知ってるの?」
「知ってる。木村くんったらねぇ……いいや、言っちゃお。聞いてくれる?」
「うん。聞く。章が非道な真似をしたんだったら、とっつかまえてぎゃふんって……」
「それはいいから、聞いてよ」
 大学はやめるんだけど、そんな俺でよかったらつきあってくれない? と章はミャーコちゃんに言った。びっくりして返事ができなかったミャーコちゃんに、章は言った。
「俺、ロックバンドやってるんだ。ジギーっていうんだ。ここに出てるから、OKだったら来て。来てくれたらすっげえ嬉しいよ」
「やめちゃうの、学校?」
「うん。俺はやっぱりロックがいいから。そのうち絶対にビッグなバンドになるからね」
 そう言い残して去っていった章の告白を噛み締めて考えて、数日後にミャーコちゃんは、章に渡されたメモに書いてあったライヴハウスへと足を向けた。すると章は……?
「ところが、木村くんったら、私の知らない女の子とキスしてたの。私、目撃しちゃったの。あれってなに? 私とつきあってほしいって言ったのはなに?」
「章はロックバンドやってるんだろ。ファンの子じゃないの?」
「ファンの子だっていったって、他の子とキスしてるような奴はいやだよっ」
「うん、そりゃあそうだろう」
 さっきミャーコちゃんが言っていた、フォレストシンガーズがデビューしたころに大学で会ったときにも、彼女は本橋さんや乾さん、シゲさんにその話をしていたらしい。彼女と会った途端に章が逃げ出し、俺は章を追跡したので、先輩たちとミャーコちゃんの会話は聞こえなかったのだが、おそらくはそうだろう。
 その日、俺は章をとっつかまえて尋問した。おまえが中退して間もなくのころに、俺はミャーコちゃんから聞いたんだぞ、と迫ると、章は定まらぬ視線で答えた。それを思い出して、今さらではあるが、俺はミャーコちゃんに問いかけた。
「ことの真相は章から聞いたよ。聞きたい?」
「いいよ、そんなの。そんな話はやめようよ。フォレストシンガーズの話をして。どう、毎日?」
 そんな話、がなんの話なのかをお互いに理解して、すぎたことだからって笑って、別の話題が展開していく。そんなの忘れたよ、俺が女の子とキスしてた? キスくらいいっつもやってたよ、と章は言っていたのだが、ミャーコちゃんには脚色して話すつもりだったのに。
「このところほんのちょっと売れつつあるかな、って段階までは届きつつあるかと……断言できないしね。そのような感触を持ちつつあるかなと」
「感触でもいいじゃない。徳永さんに追い抜かれないようにね」
「だよねぇ、追い抜かれたら大変だ。金子さんには追い抜かれてるけど、本橋さんも乾さんも、金子さんだったらしようがないって思ってるみたいなんだ。徳永さんだったらそうは行かないだろうな。あのころはミャーコちゃんも俺も、一年、二年だったから先輩たちの事情はわかってるようでわかってなかったけど、複雑だったみたいだよ。いまだに本橋さん、乾さんバーサス徳永さんの図ってのは、複雑怪奇にねじれてからまってるんだ。乾さんの性格のごとく……いや、徳永さんの……金子さんもか。誰が特異性質だよ。それはあんたらじゃん」
「三沢くんもなかなか大変なんだね」
「そうなんだよ。わかってくれるのはミャーコちゃんだけだね。ミャーコちゃんは仕事は?」
「証券アナリスト」
「……うへ、そっちのほうが大変そう」
「ったって新米だよ。ベテランの先輩たちに教わってがんばってるの。きつい先輩や上司にもめげないのは、体育会系合唱部での訓練のおかげじゃない? 大野さんは薬剤師さんなんだけど、異種業界交流パーティで会ったのね。大野さんは四年先輩だから知らなかったんだけど、大学の話をしてて、あら、おんなじ? あら、あなたも合唱部? って、お互いにびっくりしたの。それから親しくしてもらってる。今夜の集まりも大野さんに聞いて連れてきてもらったんだ。三沢くんも来ててよかった。私たちと同い年っていないよね」
「ここにいるよ」
 口を突っ込んできたのは鈴木だった。おーおー、久し振り、となって、ミャーコちゃんとの会話は中断されてしまったのだが、今夜は合唱部同窓会の様相になってきて、あっちでもこっちでも思い出話に花が咲いていた。


「ねえねえ、美江子さんったらぁ、どうしてなーんにも話してくれないの?」
 ほのめかしただけで、金子さんははっきり言ったわけではない。徳永さんには聞き出すチャンスもなかったのだが、俺の想像ははずれてはいないだろう。では、一方の張本人に当たるまでだ。翌日、フォレストシンガーズの練習用スタジオで会った美江子さんに、俺は尋ねた。
「昨夜なにがあったかは話しましたよね。美江子さんも来なかったのは、徳永さんとも金子さんとも会うと気まずいから? ふたりともに告白されたの? いつ? 宮崎で同時に? 美江子さんったら罪つくりなお方」
「ひとりでなにを先走ってるの? 幸生くんの悪い癖だよ」
「誰も来なかったんですよ。仕事があったのは事実だけど、ちょこっと顔を出すくらいはできただろうに。先輩たちったらつめたいんだから。美江子さんもだよ。おかげで俺は金子さんにも徳永さんにも殴られて、脳震盪を起こして救急車で運ばれて、今朝方やっと復活したんですからね」
 まるっきり本気にもしてくれず、美江子さんは言った。
「その調子だからね。そうやってエスカレートしっぱなしだから、本橋くんにぽかりってやられるのよ。金子さんや徳永くんが幸生くんをぽかっとやったとしても、いつものそれのせいでしょ? 私のせい?」
「いいえ」
「でしょ? なにが脳震盪よ。だけど、ほんとに叩かれたの?」
「叩かれたなんて生易しいものではありません。カナヅチでぼかぼかっと……」
「ほら、また。いい加減にしなさい」
「はい。いい加減にしますけど、告白はされたんでしょ? 結婚してって?」
「馬鹿。つきあってってよ」
 どうやら俺と話していると、人は誰でも「馬鹿」と言いたくなるらしい。俺ってそんなに馬鹿? と問い返したいのだが、今はそういう場合ではない。想像はビンゴであった。
「そんで、両方ふった?」
「私は仕事が恋人ですから」
「なーんて言ってるうちに年を取りますよ。命短し恋せよ乙女」
「去年の話だから二十六だったんだけど、乙女よね、私ってまだ」
「もちろんですよ」
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりし。金色銀色桃色吐息、綺麗と呼ばれるときは短すぎて……」
「咲かせて咲かせて桃色吐息、あなたに抱かれてこぼれる花になる、ってか」
 歌っている場合でもない。美江子さんの桃色吐息って色っぽい、と感心している場合でもないので、俺は言った。
「誰にも言いませんから、俺にだけ内密で教えて。どういったいきさつだったんですか」
「本橋くんも乾くんも知ってるよ。話したんだもの」
「……む。俺には話してくれなかったくせに」
「子供みたいにすねないの。すぎたことでしょ。昨夜は楽しかった?」
「だーからー、俺は先輩にぼかぼかやられてばっかりで……」
「脳震盪だったよね。お大事にね」
 ろくろく取り合ってもくれず、美江子さんは立ち去ってしまった。好奇心は猫をも殺す、と金子さんが言っていたが、知りたい。こうなると俺の好奇心は止まらない。俺は猫ではないのだから、好奇心ごときでは殺されないのだ。しかし、本橋さんや乾さんに聞いても、表面だけしか知らないのではなかろうか。
 いったいいつから、なにがどうなって金子さんと徳永さんのふたりそろって、美江子さんに恋をしたんだろう。どうやって告白して、どうやってふられたんだろう。せめて前者の疑問だけでも解きたいではないか。
 質問できる相手は徳永さんしかいないのだが、乾さんの上手であるはずの、一筋縄ではいかないお方だ。昨夜は穏やかなほうだった。おまえは嫌いだ、大嫌いだ、と言われた記憶がいくつもあって、頭の中でリフレインする。男に嫌われたってへっちゃだもん、が俺の常套句ではあるのだが、ああまで嫌われると精神衛生によくない。なんとか徳永さんの、俺に対する嫌悪感を覆す方法はないものか。そんなふうに考えて数日がすぎた。
「幸生、おまえ、このごろおとなしいな。病気か?」
 本橋さんは言い、乾さんも言った。
「平素が病気なんだろ、幸生は。健康になったんだよ」
「乾さん……それってなんですか? だったら乾さんの口の健康は……」
「おや? シゲ、おまえも言うようになったね。どうせ言うなら最後まで言えよ」
「言えません」
 章も言った。
「徳永さんの祝いの会でなにかあったのか」
「さまざまな会話がほうぼうで展開されてたけど、とりたてて言うほどのこともないよ。そうか。あのとき、俺、一年上も二年上も三年上も、四年上も五年上も、ヒエラルキーが上の先輩にいーっぱい殴られたから、だからおとなしくなってたんだ。理由が判明したら霧が晴れました。リーダー、今後はもとの俺に戻りますから」
「戻らなくていい。殴られたらおとなしくなるんだったら、俺が百発ばかり……」
「きゃんっ、やだってばっ!!」
 すっかり戻ってるよ、よかったな、と乾さんは言い、章とシゲさんはため息で応じていた。
 そんなある日、「FSの朝までミュージック」の仕事を終えた早朝のラジオ局で、徳永さんにばったり会った。章は徳永さんに挨拶して逃げていき、徳永さんは言った。
「俺も正式に同業者になったから、こうやって会う機会もふえるかな。三沢、朝メシはまだだろ」
「まだでーす。ごちそうさまでーす」
「朝メシくらいおごってやるよ。俺もここの局の深夜放送でDJをやるって決まったんだ。シンガーってのはラジオの仕事もよくあるんだよな」
「ありますよ。俺らってテレビからはあんまりお呼びがかからないから、ラジオとライヴが命です。徳永さんはそうなるとは決まってないし、顔でも売れるタイプだからちがうかな。むしろラジオはね、徳永さんって愛想なさすぎでしょ」
「仕事なんだから喋るさ。なにを食う?」
「和定食」
「うん、俺もそれがいいな」
 ラジオ局から出て、早くから開けている大衆食堂に入った。
「木村は俺を敬遠したのか」
「そうでしょうね。徳永さんの噂を聞いてて、本人をよく知らないあいつはびびりますよ」
「本橋と乾か。なにを噂してるんだか……」
「言っていいですか」
「言わなくていい」
 悪口も言わなくもないけど、乾さんは常々言っている。相手に取って不足のない、彼によって我も磨かれる、徳永はまさに本物のライバルだった、って。俺はライバル視はしてなかったけど、むこうがああだからこっちもこうなるんだよ、とも言っていた。こっちとは乾さん自身ではなく、本橋さんだろうと思われる。
 学生時代には徳永さんは、男子部ナンバースリーと評されていた。黙々と焼き魚定食を食べている徳永さんと、ふたりきりでメシを食うのは初のはずで、そうしていると思い出した。一年生だった俺は、部室で友人たちと、徳永さんの噂をまじえて、俺自身の話もしていた。徳永さんに聞かれていて、その場から連れ出されたのだ。
あのときにはじめて、徳永さんに「おまえは嫌いだ」と言われたはず。「こりない奴だな」とも言われた。
 こりない奴、だなんて誰からも言われる。おまえは嫌いだ、と他の先輩にも言われたことがある。シゲさんもいつだったか、おまえがおまえじゃなかったら、嫌ってたかもしれないな、と言った。男に嫌われたって平気だもん、は俺の建前で、本音はちょっぴり悲しかった。
 今では開き直って、嫌う奴は嫌え、と思っているけれど、あのころの俺は十八歳だったんだもの。あの日の時刻までは覚えていないけど、サンライズだったはずはないのでサンセットだったのだろうか。沈みゆく夕陽が目にしみた記憶があるようないような。徳永さんは覚えてるかなぁ、と考えつつ、俺は卵焼き定食を食っていた。
「過去はいっか。これも過去なんですけど、話してくれないかな。金子さんに聞いたんですよ。美江子さんも認めてました。でも、双方ともに詳細を話してくれないんです。そう言ったらわかるでしょ? 話してくれないんだったらいいんですけどね」
 ああ、あれか、とうなずき、煙草をくわえて、徳永さんはしばし黙考していた。

3

 以下は、徳永渉の語りである。

 二年前、奇しくも現在の俺と同年齢だった大学時代からの先輩、金子将一がプロの歌手としてデビューした。ラジオ局のプロデューサーである溝渕奈々子という女性と知り合い、当時の所属プロダクションから、溝渕奈々子の姉が雇われ社長となっているプロダクションへと移ったのがきっかけだったと、俺は聞いている。
 人生の岐路にはひょんなきっかけがころがっている場合が間々あって、俺はそいつと巡り会えていないのだろう。だから俺はデビューできない。金子さんを祝福しつつ、俺は我が身について考えていた。
 焦りも苛立ちもあったものの、プロになった金子さんが俺を引き立ててくれて、仕事はふえた。持つべきものは先輩だ。俺が二十六、金子さんが二十八歳のある秋の日に、長崎でおこなわれる歌のショーのために、ふたりして現地に赴いた。そこで再会したのが、フォレストシンガーズの五人だったのだ。
 学生時代からのライバルで、大嫌いだと決めていた本橋と乾、同様に大嫌いだった三沢とは口をききたくない。本庄や木村はどっちでもよかったのだが、彼らのマネージャーたる山田美江子との再会は歓迎すべき出来事だった。
 ショーを終えてから八人で酒を飲み、山田さんと話した。記憶が曖昧になっていた部分もあって、山田さんは本橋か乾のどちらかとつきあっていると思い込んでいたのだが、そうではないと彼女はきっぱり言った。そうなると俄然、だったら俺とつきあってくれ、と言いたくなった。が、彼女との会話を妨害した奴がいた。おまえだよ、三沢。
 妨害されて、じっくりと考える時間が生まれた。金子さんとも話し合いが持てた。いつだったかは忘れたのだが、金子さんもたしか、山田さんが好きだったと言っていた記憶がある。その夜、俺は金子さんと話した。
「はっきり言って下さい。金子さんは山田さんと今後、どうするつもりですか」
「東京に帰ったら打ち明けるよ」
「俺も打ち明けますよ」
「なんだと? おまえもやっぱり……徳永、おまえこそはっきり言え。いつからだ」
「俺が言ったら金子さんも言いますか。逃げを打ったら卑怯者と見なしますよ」
「逃げは打たない。言え」
 つらつら考えるに、いつからだったのかは定かではない。本橋や乾に、俺は美江子さんが好きだ、と言ったのは、本心ではなかった。二十代前半の俺は、本心を口にしないのが美学だったような……まあ、そんなことはどうでもいいのだが。
「いつのころからかですね。山田さんとは同い年で、けっこう交流もあった。そうしているうちに積み重なっていった想いが重くなっていったんですよ。恋心には一種類しかなくはないでしょう。思い起こせば、山田さんとの会話、ほんの些細な触れ合い、そんなものがいくつもあった。雪が降り積もるようにそれらが積もっていって、今回の再会であふれ出したんです」
「なるほど。ならば俺も似たようなものだな。俺は山田さんとのつきあいは二年間にすぎない。しかし、リリヤも山田さんにはなにくれと世話になっていたようだし、リリヤとのデュオの仕事でも世話になった。そんなこんなが積もりに積もって、いつしか恋へと変化したんだ」
「なるほど。では、勝負ですね」
「ライバルがいないと燃えないおまえの胸のうちで、炎が燃え盛ってるのが見えるよ。地獄の業火か」
「金子さんの炎は劫火ですか。あなたの身を灰燼と化す危険性のある火だな。人間世界まで壊滅させないで下さいよ」
「ふられたとしたら、我が身が壊劫と果てて燃え尽きても悔いはないさ」
「壊劫って果てるものですか?」
「世界が壊滅するのは果てるとは言わないのか」
 宗教論にそれていきそうなそんな会話を終え、翌日、俺は山田さんが宿泊しているホテルに出向いた。
「昨日の俺のそぶりで察したんでしょ。よろしかったら俺とつきあって下さい。返事を待ってます」
「……徳永くんって告白もクールだね。ぶってない?」
「あなたの態度もクールだね。断るつもりだったら今すぐでもいいよ」
「……考えさせて」
 その前だかあとだかは知らないが、金子さんも山田さんに告白はしたはずだ。同時にふたりとは、彼女も戸惑っただろう。そのせいもあったのかもしれないが、東京に帰ってから電話がかかってきた。
「ごめんなさい。私は仕事が大切だから、今はまだ恋愛はね……徳永くんは嫌いじゃないんだけど……ごちゃごちゃ言われるのは徳永くんのほうが嫌いだよね。これからも友達でいてって言われるのもいや?」
「あんたとは友達づきあいもしたくない、って言われるよりはいいよ。ふられたら潔く諦める。いつかまた会ったら、友達として酒を飲もう」
「……徳永くんって変わらないね。友達としては好きだよ」
 はたして、金子さんの顛末はいかに? 気にはかかっていたが連絡を取らないでいると、次に仕事で会った際に金子さんが話しかけてきた。
「勝ち誇った顔をしてるかもしれないと思ってたけど、その面だと撃沈したな。俺の劫火はいっとき燃え狂い、すでに沈静したよ。しかしなぁ、これって山田さんには失礼なふるまいじゃなかったのか?」
「失礼ではないでしょう。そんじょそこらの下らない男だったらともかく、金子さんと俺ですよ。金子さんと俺に同時に告白されたら、たいがいの女は内心では嬉しいはずだ」
「おまえのその傲岸不遜ぶりは、いつかおのれに災厄をもたらすぞ」
「恋には不器用なようですね、金子さんは」
「経験に乏しいんだよ」
「そういうことにしておきましょうか」
 二十代も後半に突入している俺は、多少は本心も口にするようになっている。この話には欺瞞はない。すべてが真実だ。少なくとも俺の部分に限っては。金子さんは知らないよ。あのひとは俺のことなど言えないほどに……三沢も今では知ってるんじゃないのか。


 業火に劫火に壊劫ときたか。乾さんはそんな単語を口にしたっけ? 話を聞いてて漢字に置き換えるのに一苦労した。やはりやはり、金子さんも徳永さんも、言語能力は乾さんの上手であるようだ。
「徳永さんは学部は?」
「語学部中国語科だ。中国語なんてろくすっぽやってないようなものだったから、もはや頭の中から消え失せたよ。ちなみに、金子さんは言語学専攻だよ」
「ああ、そうなんだ。乾さんは古典文学でしょ。各方面での言葉の大家?」
「大学で学んだだけの半チク知識を大家とは言わない。生兵法は怪我のもとだ」
「はあ……俺も言葉ってけっこう……自信壊滅、自己世界崩壊、頭の中身がぴぴぴのピーマン、きゃあ、頭の中に蝶々がひーらひら。蝶々の羽根には読めない漢字がゆーらゆら」
「おまえも言語関係の学部か。単なる奇妙な言語感覚の持ち主か」
「俺は経済学部ですから、後者ですよ。幼少のころには妹たちに、長じては章や乾さんと口で闘ってきて、ちっとは言葉に自信があったんですけど、改めて修行に励みます。よろしくご指導下さいませ」
「おまえに指導する能力も気もねえよ。ふむ、すると俺は金子さんに鍛えられたか。金子さんにしたって学者でもないけど、おまえとは別種の変な言語感覚を持ってる。妹がいるとそうなるのかな」
「リリヤさんって金子さんの妹の美少女でしょ。噂には聞きました。俺の妹は口だけ女たちでしたけど、俺も口だけ男か。乾さんは口だけじゃないですよね」
 間髪入れずに反論されると思っていたのだが、徳永さんは言った。
「だろうな。乾の話しはいいよ。気分が悪くなる」
「なんでそう乾さんが……? あ、それも本音じゃないとか?」
「本音だよ。馬鹿野郎」
「はい、三沢幸生は馬鹿ですよ。このところ何度馬鹿と言われたか……メモっておこうかな。いや、それもいいんですけど、だったら金子さんと徳永さんって、どこかでお互いに張り合ってて、美江子さんを出汁にした節もなきにしもあらずなんじゃありません? 真相を知ったら美江子さんが怒りそうだな」
 語っている間に何本かの煙草を灰にしていた徳永さんが新しい煙草を取り出し、俺にも一本、と所望すると、これまたよく言われる台詞が返ってきた。
「おまえも吸うのか? 似合わないな」
「煙草は似合う、似合わないで吸うものではありません。徳永さんには似合ってるし、乾さんも似合いますけどね」
「乾も吸うんだよな。他の奴らは?」
「章は昔吸ってて、ロッカーやめてから禁煙が続いてます。本橋さんとシゲさんはもともと吸わないんじゃないかな。本橋さんは煙草なんていう瑣末事に関しては言うことがころころ変わるから、どうだったのか謎です。今では乾さんと俺がたまさか吸う程度で、あとの三人は非喫煙者です。乾さんや俺にしても、徳永さんのようなヘヴィスモーカーではありません」
「俺だってヘヴィじゃねえよ。山田さんが怒るか。そうだなぁ。俺も恋愛経験乏しいから、そう言われたらそうかもしれない」
「恋愛経験乏しい? 金子さんも徳永さんも?」
「金子さんは乏しくないと思うけど、そう言いたがる。あれはなんの裏返しだろうな。俺は事実、恋の経験はほとんどないんだよ。俺がホモだって噂が立っただろ」
「ああ、ありましたね」
「もてないのが高じてああなったんだ」
「……嘘つきにも程がある」
 もてる男に限って、俺はもてないと言いたがる。もてない男に限って、俺はもてると言いたがる。徳永さんの祝いの会での先輩たちの台詞からしても明らかではないか。反語なのだと解釈しておくべきだろう。
「恋ではない経験だったら山ほどあるんでしょ」
「おまえに言う必要はない」
 またこれか。ありがちな台詞だ。
「美江子さんには言いませんよ。半分でも真相が知れたんだから、一応は満腹しましたから」
「メシも食って満腹したよな。出るか」
「そろそろ混んでくる時間ですね。ごちそうさまでした」
「な、三沢?」
「はい?」
「いや、いいよ」
 本橋や乾は大嫌いだと決めていた? 三沢は大嫌いだった? 徳永さんの語りの一部分がよみがえる。過去形か? 決めていたっていうのは、本心ではない? それとも、ただの言葉の綾? わかりづらいひとだなぁ、とつきあいが深くなるにつれ、ますますそう思うしかなくなっている徳永さんは、乾さんに似たところがある。それだけは確信を持ったのだが、だからなんなのかとなると、よりいっそうわけがわからないのだった。


深夜ラジオを聴く会を催そうと言い出したのは金子さんだった。今回も主役は徳永さんなのだが、ラジオでの主役も兼ねているのでここにはいない。以前に徳永さんが主役だった会と同じライヴハウスを酒巻が手配してくれて、ラジオ放送がはじまる前に、俺はライヴハウスの一室のドアを開けた。この店には小さなステージを備えた個室が幾室かあり、アマチュアライヴなども行われると聞いていた。
「金子さん、こんばんは。こら、酒巻、逃げるな」
 来ていたのは金子さんと酒巻で、酒巻は俺に続いて入ってきた男を見て逃げ腰になった。
「金子さんと本橋さんに囲まれるんだぜ、俺。おまえがいてくれなくっちゃ大変じゃん。先回の様子からしても、俺ひとりで金子さんと本橋さんを相手に取ったら、どうなるかは火を見るより明らかだろ。酒巻、本橋大先輩に挨拶は?」
「は、はあ、あの、本橋さん、キャプテン、お久し振りです」
「なにがキャプテンだよ。俺から見たら金子さんがキャプテンだ。そういうのはなしで行こう。酒巻、久し振りだな。山田も元気にやってるぞ。連れてくればよかったか?」
「いえ、あの……」
「なぜここに山田さんの名前が出てくる? 本橋、おまえらしくもなく意味ありげだな」
 金子さんに見つめられて、本橋さんは金子さんと酒巻を交互に見てから言った。
「幸生、言ってもいいぞ」
「本橋さんはどこまで知ってるんですか? 酒巻の過去の話は当然知ってるんですよね。えーと、金子さんのほうの件も知ってるんだっけ」
「ん? おまえもか」
「さあて、なんの話しでしょうね。ねぇ、金子さん?」
 どうにかして逃亡しようとしている態度ありありの酒巻の腕をつかみ、俺は言った。
「酒巻くんったらねぇ、彼が大学一年の年に美江子さんと……」
「三沢さん、本橋さん、そんな昔々の話を蒸し返さないで下さい。許して下さいよぉ」
「なにも吊るし上げようってんじゃないから安心しろ。幸生、酒巻を苛めるのはそのくらいにしておいてやれよ」
「言い出したのはリーダーじゃん。あ、そうだった。キャプテンだのリーダーだのって呼び名はなしでしたね。はい、この話はここでおしまい。まずは乾杯します?」
 ちょっと待て、と金子さんが言い、酒巻をじーっと見た。
「ふーん、人は見かけによらないと言うが……」
「金子さん、金子さんまでなんですか?」
「いや、いいよ。酒巻、なにをぶつくさ言ってるんだ? 本橋が来るとは想定外だったのか。今日の集まりの趣旨は、集まれる者で徳永のDJぶりを拝聴しようってのがひとつ、もうひとつはピアノだ。そのために本橋にも来てもらったんだよ。本橋は徳永がいない場のほうがいいんだよな」
「そうでもありませんけど、俺はよくてもあいつが……」
「だよな」
 じゃ、乾杯、と金子さんがグラスを掲げたとき、ドアの外で女性の声が数人分聞こえた。
「はいはい、なんでしょうか?」
 ドアを開けると、立っていたのはマリちゃん。先日、金子さんにサインをしてもらって感激していた女の子だ。彼女の背後には五、六人の女の子がいた。
「すみません。ついつい話しちゃったら、みんなも金子さんにサインしてもらいたいって」
「ありがとうございます。マリさんでしたね。恐縮しなくていいんですよ。そうやってサインがほしいと言っていただけるのは、我々の職業の者には冥利に尽きるんですから。サインさせていただきますからどうぞ」
 いやな顔ひとつ見せず、女の子たちに囲まれている金子さんを見やって、本橋さんが小声で言った。
「こういうところは金子さんは乾に似てるよな」
「そうですね。乾さんは金子さんに、ファンの方々に対する態度を教わったのかな」
「そんなことを教わる機会はなかったと思うんだけど、そうするのは大切だって自然に身についたのかもしれない。ファンの方ってのは俺たちの財産だろ」
「そうそう。俺も合格ですか」
「そこんところだけは合格点を与えてやるよ」
 そこんところだけ、というのは気に食わないが、合格点などはめったにくれるリーダーではないので、喜んでおくとしよう。女の子たちひとりひとりの名前を聞き、丁寧にサインしている金子さんを見ながら、俺も小声で言った。
「金子さんの気性ってよくわかんないな。本橋さんの印象ではどんなふうだったんですか」
「華も実もあれば、けれん味もあるキャプテンであり、歌い手でもあった。派手好みだとも思ってた。なにせこのルックスでこの歌唱力だもんな」
「……リーダーが男のルックスに言及するとは、前代未聞じゃありません?」
「そうか。そうでもねえだろ」
「前代未聞ですよ。男は顔じゃない、服装でもない、がリーダーの主義主張じゃありませんか」
 そうかなぁ、と首をひねりつつ、グラスを口に持っていってやめたのは、先輩よりも先に飲んではいけないと気づいたからだろう。こういうところは実に本橋さんらしい。
「まあ、ルックスなんてのは付属品だよ。いいにこしたことはないって程度だな。しかし、金子さんといい徳永といい、これだけの……それはいいとしても、金子さんの気性ってのは俺にもつかみ切れなかった。なんとなく見えてきたと思ったら、別の面を見せる。このひとはいったい……って悩んでるうちに金子さんは卒業してしまった。二年のつきあいで本質が見えるような男じゃないのかもしれないな」
「底が深い? 乾さんのように?」
「乾はねじくれてるだけだろ。おまえはねじがぶっ飛んでるだけだ」
 黙って話を聞いていた酒巻が、低く笑った。
「酒巻、なにがおかしいんだよ?」
「幸生、後輩に当たるな」
「あらま、リーダーの台詞? いつもいつでもいつもいつでも、後輩たる俺に当たってるのはどなた?」
「誰がおまえに当たったって?」
「そこでこわーい顔をしている本橋真次郎さんです」
「あれは当たってるんじゃねえだろ。おまえがだな……」
「僕ちゃんがなあに?」
「それだ」
 まったくの想定内そのまんまにぼかっとやられて、想定内だってのによけられもせずに頭を押さえていると、金子さんが女の子たちを送り出して部屋に戻ってきた。本橋さんが金子さんにグラスを手渡し、乾杯がすむと、本橋さんは言った。
「うちも多少は売れてきて、ファンの方もついてくれるようになってきてるんですよ。愚痴なんですけど……この場にいない奴をあれこれ言うのもいやなんですけど、金子さんにアドバイスをお願いしたくて……」
「この場にいない奴のファンの方に対する態度か」
「そうです」
「……木村か」
「わかりますか?」
「わかるよ。乾がファンの方に無礼な態度を取るとは思えない。本庄もやらないだろ。三沢はここにいるし、彼は常に愛想がいい。そしたら木村じゃないか」
「ご明察です。幸生、言え」
 言いにくいこととなると俺に言わせるんだから、とは思ったが、リーダーの嘆きを代弁した。
「章って昔はロックバンドやってたんです。だから、アマチュア時代から若いファンの女の子が大勢いたんですよね。あいつはどうも、ファンってのはうざい、うるさい、ってのがしみついてるようで、徳永さんじゃないけどファンの方につっけんどんな態度を取るんですよ」
「徳永のファンの方に対する態度は、おまえに対する態度とは百八十度ちがう」
「あ、すみません。そうですよね。徳永さんがつっけんどんなのは俺や本橋さんにでした。いや、だからね、章ですよ。章はそれでよく乾さんにも怒られてます。もちろんリーダーにも怒られてますよ。俺も言い聞かせようとはするんですけど、聞き分けがないんですよね。ロックバンドのグルーピーとなると……ってのが骨身にしみてるようでして」
「たとえ過去にどのようなファンに悩まされたのであれ、そんなものは一度、完全に洗い流して心を入れ替えるしかない。本橋、今度木村がそういうふるまいをしたら殴れ」
「殴るんですか」
 げんこつを出すのは本橋さんの常套手段ではあるのだが、案外、シリアスな叱責には暴力を伴わない。そっちは乾さんのほうがやるんだよね、と考えていると、本橋さんは言った。
「ほらな、幸生、またまた金子さんの意外性が見えただろ」
「うーん、俺は金子さんの学生時代を知りませんから」
「金子さんは後輩を殴ったことなんかないでしょう? 軽く殴る程度だったらあったんでしょうけど、むしろ、幸生みたいな戦術を……」
「そうですよぉ。この間も……」
 この間って? と本橋さんと酒巻が同時に問い、金子さんは俺の顔を押しのけた。
「おまえはしばし黙ってろ、三沢」
「はい。その台詞は聴き慣れております」
「だろうな。俺は後輩たちにどう思われていたんだろ。今になって気になってきたよ。山田さんに言わせると、短気で本橋に似てるとなる。本橋に言わせると、三沢に似てるか」
「乾にも似てますね」
「徳永さんに言わせると?」
 思わず、といった調子で酒巻が質問し、金子さんは苦笑いの表情になった。
「徳永はなにを考えてるのか、俺には謎中の謎だよ。あいつとは卒業してからも関わりがあったから、プライベートな話をする機会も多かった。熱いのかと思ったら醒めてるし、クールかと思ったら滾るし、本橋や乾を本音の本音ではどう思ってるのかさえも、俺には理解できなかった。いまだに謎だ」
「へええ、そうなんですか。徳永さんも底が深いんですね」
 酒巻が言い、俺も言った。
「浅いのはおまえだけじゃないの?」
「酒巻、殴っていいぞ」
「金子さん、およしになって。先輩にはぼかぼかやられてるのに、この上後輩にまで殴られたら身が保ちませんよーっ」
 押さえつけてやろうか、と本橋さんまでが言い、酒巻はぶるぶる首を振っている。金子さんはグラスを揺らしつつ言った。
「酒巻だって意外だったよ。彼の底も他人には見えない。おまえがねぇ……」
「それって俺がここに来たときのあの台詞が……?」
「そんなことはどうでもいい。現在につながる過去はどうでもよくないが、途切れてしまった過去の話は過去にすぎないんだ。ラジオでは徳永はどんな一面を見せるんだろうな。さてと、本橋」
 グラスをテーブルに置いて、金子さんはピアノに歩み寄った。
「おまえとの連弾を三沢が聴きたがってたぞ。やろう」
「え? ピアノですか? いや、俺は遠慮したいんですが……」
「リーダーってば、先輩命令にさからうんですか」
「いや、腕が……」
「いいじゃん。俺たちはシンガーが本職で、ピアノは余技ですよ。余興みたいなものですよ。ね、金子さん?」
「その通り。本橋、命令だ。来い」
 はああ、かなわないな、と苦々しい顔をして、それでも本橋さんは先輩命令に従った。ピアノの前に本橋さんとふたりしてすわった金子さんが、俺に尋ねた。
「おまえは恋はしてるのか?」
「……捨てられたばっかりです」
「そうなのか? いつ?」
「リーダー、俺は章じゃないんですから、恋愛話はいちいち口にしません。それが俺の美学です」
 けーっ、と本橋さんは鼻で笑い、金子さんに脚を蹴られて表情を引き締めた。金子さんの指が鍵盤で踊りはじめる。しなやかに優美にピアノを弾きながら、金子さんは言った。
「そんな三沢にぴったりの曲だ。人生はすべからくこうだよ」
「金子さん自身にも言い聞かせて……いえいえ、わかりました。だけど、金子さんのアレンジがなされてるんでしょ? 俺はいきなりですよ」
「弱音を吐くな、ついてこい」
「……先輩命令ですね」
「リーダー、章や俺の気持ちの端っこが理解できたでしょ」
「おまえは黙って聴いてろ」
 後輩ふたりが耳を傾ける中、流れてきたしらべは「サンライズサンセット」。陽は沈み、また登る。だったはず。俺は英語は苦手なのだが、ピアノに合わせて酒巻が口ずさんでいた。
 過去にしろ現在にしろ、エピソードってものは、誰かの頭の中にはころがっていて、誰かの頭の中には影も形もなかったりする。この中のふたりには、遠い過去と近い過去に美江子さんが関わっていて、本橋さんも両方を知っている。金子さんは察したであろうが、酒巻は金子さんのほうを知らないと思える。
 それらが本橋さんの頭の中ではどう作用しているか、そこまでは俺には読めない。わかりやすい性格をしている本橋さんにだって、内心での葛藤ってのはなくもないのか、結局のところ、本橋さんが徳永さんや美江子さんをどう思っているのか、本人にしかわからない。いや、本人でさえも明確にはわかってなかったりして?
「おまえは彼女は?」
 こそっと訊いてみたら、酒巻はこの間と同じように含み笑いをした。こいつもわかりやすいほうだと思ってたけど、案外……なのかもしれない。人は皆、案外……その語に続く単語はさまざまにしても、案外、のない人間はいないのだろう。
 案外俺もこれでね、とひとりごとを言ってみて、案外、なんなんだよ、と自分に突っ込んで、ピアノ連弾を聴いていたら、ラジオから徳永さんの声が流れてきた。こんばんは、お初にお耳にかかります、徳永渉です、だってさ。このひともやっぱり案外、だな。案外愛想のある声を出してるじゃん、だった。
 歌うとハイトーンのセクシャルなハイキーヴォイスが、セクシーなのはそのままに、落ち着いた低い声でトークを続けていく。これだったら安心して聴いてられますね、と本橋さんに目で語りかけると、当然だろ、とばかりにうなずいた。ほんとに人間って……先輩たちってなに考えてるんだろ。この本橋さんまでもだもんなぁ、ってわけで、俺の頭の中の先輩感がさらに複雑になる一夜となったのだった。

 
4

 酔わせて口を割らせるってのはどうだろ、と目論んでいたのだが、徳永さんのデビュー祝いの会でも、金子さんはあまり飲んでいなかった。金子さんって酒には弱いの? とそーっと本橋さんに尋ねてみたら、答えはこうだった。
「酔って乱れるようなひとじゃないよ。その点も乾に似てるな」
「ふーむ。本橋さんの尊敬する先輩の第一って高倉さんでしょ? 二番目は金子さん?」
「俺の先輩だったひとで、キャプテンをつとめていたひとはみんな尊敬してるよ」
「副キャプテンには尊敬できないひともいた、とね」
「いたっけ? 忘れたな」
「忘れたいひともいる、と」
「乾や金子さんは先読み、深読み。おまえは先走り、先回りだな」
「本橋さんって乾さんも尊敬してるんですね」
「してねえよ」
「してますよ。だって、なにかといえば乾さんを例に出すんだもん」
「近くにいるからだよ」
「俺を例に出すのは?」
「またとない反対例だからだ」
「あっそ」
 徳永さんと金子さんが前後して美江子さんに恋の告白をしたという件については、金子さんパートも徳永さんから聞いている。どうやらこのふたりの先輩たちは、本音をたやすく口にしないのが美学であるらしいので、金子さん本人も徳永さんから聞いたのと大同小異の顛末しか話してくれないだろう。
 ならば聞いても無意味であろうから諦めて、金子さんと本橋さんがかわるがわるピアノを弾いてくれたり、徳永さんのラジオ放送を聴いたりしているうちに夜明け前となって、会もお開きとなったのだった。
「三沢さん、恋愛にもがんばって下さいね」
「酒巻、おまえは誰に向かって言ってるんだ?」
「三沢さんです」
「……そうだったね。俺なんかは先輩扱いしてもらえない。シゲさんの気持ちがわかったような気がするよ」
「三沢さん、本庄さんには先輩としての敬意を表してないんですか。いけませんよ」
「おまえにまで説教されたくねえんだよ」
 って感じで会が進行していきましてね、と、翌日、俺はシゲさんに話した。乾さんには本橋さんが話すだろう。一年で中退してしまった章は、大学時代の話題となるとひねくれたりもするので、進んで聞こうとはしない。美江子さんがからんでいる部分は省いて、昨夜の数時間を話すと、シゲさんは興味深げに聞いてくれた。
「酔わせようとした目論見は失敗と終わりました。飲めないわけじゃないんだよね。金子さんも酒には強いんだよね。しかし、無茶飲みはしない。リーダーやシゲさんとはそこがちがう」
「俺だって無茶飲みはしないだろ」
「シゲさんは飲んでも酔わないザル胃袋だもん。リーダーはうわばみ。章は頭がザル」
「章の話しはしてないじゃないか。金子さんを酔わせてなにを聞き出すつもりだったんだ?」
 おっと、言ってはいけないのだった。それはいいんだけど、とごまかして、俺は尋ねた。
「シゲさんの金子さんに対する印象ってどんなの? エピソードもあるんでしょ?」
 金子さんは言っていた。本庄にも俺の印象を聞いてみろ、また別の話をするんじゃないのか、と。シゲさんはいっとき考えてから口を開いた。
「いくつかはあったよ。徳永さんが関わってるエピソードには、門外不出、口外無用ってのもあるんだけど、金子さんのはいいかな。時効かな」
「門外不出? そういうのをこそ聞きたいな」
「話せないから門外不出なんだよ。俺のこの話は誰かから聞いてるか」
「どの話?」
 照れたような怒ったような、なつかしいな、とも読み取れるような表情になって、シゲさんは言った。
「ヒデからも聞いてないか。リリヤさんの話しだよ」
「リリヤさん? 金子さんの妹さんで、いまや三児の母なんでしょ? 肝っ玉母さんみたいになってるとかいう……?」
「リリヤさんが肝っ玉母さんだなんて、どうしてもどうしても想像できない。俺にはうまく表現できないけど、リリヤさんを知ってる乾さんだったら、彼女をロマンティックな詩にしてくれるんだろうな。なんて言うのか、風に揺れるたおやかな花一輪か。なんの花だろ。綺麗だったよ。とにかく綺麗だった。金子さんは背が高いけど、金子さんの妹にしたら小柄だったな。ほっそりしてて、それでいてこう……なんの花だ?」
「花の名前なんか知らないよ。それは乾さんの領分でしょ? ははーん、わかった。誰からも聞いてないけどわかった」
「誰からも聞いてないか。そうなんだろうな。わかったか。それもおまえだったら不思議でもないよ」
 まだ俺は大学に入学していなかったころ、シゲさんが一年生のときの恋物語なのだろうと見当がついた。シゲさんのかつての恋はひとつ、ふたつ知ってはいるけれど、そりゃあ、堅物野暮天シゲさんにだって他にも恋はあったのだろう。
「目がとろんとしてる。素敵な恋だったの?」
「とろんとなんかしてないだろ。素敵な恋かぁ……考えようによってはそうと言えなくもないけど、俺の片想いだよ」
「でしょうね」
「でしょうねとはなんだ」
 リリヤさんはシゲさんと同い年で、一年生のときには合唱部にいたと聞いている。ところが、彼女は一年生の終わりに電撃結婚をして、合唱部はやめてしまった。大学は卒業したのだが、なにしろ学生数の多い大学だったので、学部のちがう先輩とは触れ合う機会などはまずない。リリヤさんの名前は学生時代からちらほら耳にしてはいたが、本橋さんや乾さんやヒデさんの口には上らなかった。つまり、シゲさんとの間にそういったエピソードがあったからなのだ。
 卒業してから四年もたって知ることというのも、最年少の俺には今後も出てくるのだろうか。章が知らないのは当たり前にしても、先輩たちはそういうところは口が堅い。本人が言わない限りは言わない、というのが不文律となっている。
「だって、リリヤさんはシゲさんじゃない男と結婚したんだから」
「そうだよな。リリヤさんはいいんだけど、そのときに金子さんとはなにかと……あんまり思い出したくないな。その前から金子さんは印象的だったよ。俺が入部した当時のキャプテンなんだから。ヒデが言ってたな。金子さんも皆実さんも東京出身の都会っ子だろ。東京の男って憎たらしいほどかっこいいよなぁ、だったか」
「本橋さんも東京ですが?」
「本橋さんだってかっこよかったよ」
「うん、まあ、見方を変えればかっこいいと言えなくもないかも。俺は横須賀ですが、いかが?」
「おまえは今でもそうだけど、ガキガキしすぎなんだよ」
「がきがき……」
 当たっているので言い返せないでいると、シゲさんは吐息をひとつ漏らして続けた。
「三年年上、しかもキャプテン、うちの合唱部の体質からすれば、天上人じゃないか。あんなことでもなかったら、俺なんかは声もかけてもらえなかったかな。ああ、思い出してきた。金子さんはあんまりだ」
「あんまり? どうあんまり?」
「言いたくない」
 言いたくもないようななにかを言われた? もしくはされた? 金子さんってそんな先輩だったのか、と首をひねっていると、シゲさんは苦く笑った。
「そう言われても無理のない、冴えない奴だったからだよ、俺が」
「ふーん。じゃあ、シゲさんは金子さんには悪印象を持ってるわけ?」
「いいや。キャプテンとしてはたいしたひとだったよ。金子さんと皆実さんのコンビは、一年生でうろうろしてるしかない俺たちの目にも、立派な両首脳として刻み込まれてる。俺の個人的な……思い出させるなってのに」
「そおお? 徳永さんは?」
「徳永さんはハードボイルドじゃないのか」
「俺はソフトボイルド?」
「おまえの話はしてないけど、おまえは半熟卵だな」
「……シゲさん、けっこう言うじゃん。うまい」
「半熟卵じゃなくてたこ焼きエピソードもあるんだけど、俺はそこにはいなかったから……ヒデがな」
「ヒデさんにも聞きたいな。シゲさんはヒデさんとそんな話もいっぱいしたんだろうけど、俺もヒデさんから直接聞きたいよ。シゲさん、ヒデさんはどうしてるの?」
「俺が知りたいんだよ」
 今度は心底なにも言い返せなくなって、無言でシゲさんを見返した。ヒデさんはいつまでたっても時効にはならないのだろう。とりわけシゲさんには。シゲさんはふっと笑って、俺の額を指先で押した。押されて倒れてみせたら、大げさなんだよ、とふくれっ面になって、そのくせ心配そうに言った。
「幸生、大丈夫か?」
「シゲさんったら力ありすぎなんだから。手加減して下さいよね。昨夜だって先輩ふたりにぼかぼかやられて、このごろ俺は生傷が絶えないんですよ」
「おまえのそのお喋りを聞いてたら、金子さんでさえも殴りたくなるんだな。気持ちは非常によくわかるよ」
「あああ、僕ちゃんって不幸だわ」
 手を貸して助け起こしてくれてから、シゲさんはくくっと笑った。
「門外不出の話をまた思い出した。あれは徳永さんも大変だっただろうな」
「なんの話し?」
「門外不出だと言ってるだろ。幸生、おまえはだいたいからしてお節介がすぎるんだよ。他人のプライバシーに頭を突っ込むな」
「そういえば、俺も門外不出のエピソードを知ってるんですよ。聞きたくない?」
「門外不出なんだったら聞きたくないよ」
 ここがシゲさんと俺との決定的差だろう。門外不出、口外無用と言われると、俺だったらどうにかして探りたいと思う。シゲさんは聞きたくもないと思うらしい。人の性格ってさまざまだねぇ、としか言いようがない。
「徳永さんの放送は聴いた?」
「いや、聴こうと思ってたんだけど寝ちまったよ」
「薄情者。聴いてないんだったら話さない」
「話したくないんだったらいいよ」
 と言われると話したくなって、俺は徳永さんのラジオ放送について語った。
 時おり流れるピアノのモノローグ、静かな語り口調の徳永さんの声、今夜はどうして女性はまったくいないの? とぼやきたくなるような、男ばっかで聴いてるなんてもったいないよ、と言いたくなるようなひとときだった。徳永さんは単独でDJをやっていて、問わず語りに話していた。
「先だって、学生時代の後輩に会いましてね、朝メシはまだだろ? と僕が話しかけたら、ごちそうさまでーす、と切り返されまして、はじめて彼とふたりっきりで食事をしたんですよ」
 ぎょ? それって俺? 耳を集中させていると、徳永さんは笑みを含んだ声で続けた。
「男ですよ。彼と言ったでしょ。僕は大学では合唱部に所属していまして、男子合唱部の後輩です。ふたつ年下なんですが、昔から小生意気な奴でして、僕は彼が嫌いでした。僕は人の好き嫌いが激しいと先輩に言われてまして、たしかにそうなんですね。嫌いな奴とはメシは食いたくない主義でした。そういう性格ですから、合唱部の仲間たちにも、こいつとは断じていっしょにメシは食いたくないと決め込んでいた奴が大勢いました。合宿所などではやむなくともに食事もしましたが、そんなときにもそいつはうるさくてうるさくて、頭から水でもぶっかけてやろうかと……ああ、失礼しました。では、僕のデビュー曲を聴いて下さい。「あの日」です」
 そいつって? と他の三人が俺に注目している中、徳永さんの歌声が聴こえてきた。

「後悔だってあるさ
 そんなもんだろ、人生って
 今さら悔やんでなんになる
 あの日に帰りたい? 
 誰がそんなこと……
 思っていても言わないのが俺だと
 おまえは知ってるはずじゃないか」

 むむむっ、なんたる意味深な詞だろう。徳永さんの作詞? と誰にともなく問いかけると、金子さんが答えた。
「徳永は作詞も作曲もしないよ。本橋も乾もソングライティングの方面でも才能を発揮するから、彼は敢えてしない、と言ったらうがちすぎか。俺も考えすぎだな。歌には徳永の特色と才能がいかんなく発揮されてる。本橋、どうだ?」
「いい歌ですね。徳永の声には似合ってますよ」
「面と向かって言ってやるか」
「そのうちには」
「そのうちっていつだよ」
 ブルースジャズだろうか。けだるさのあるマイナーな曲調に、徳永さんの声がまたとなくふさわしかった。
「やっぱ女のひとと聴きたいなぁ。金子さんも本橋さんも同感でしょ? 金子さんにも本橋さんにも彼女はいないんですか」
「黙って聴け」
 金子さんに遮られて、再びはじまったトークに耳を澄ませたのだが、さきほどの話題は終了していて、旅の話になっていた。
「シンガーの仕事をするようになってからは、仕事で各地に旅をするようになりました。学生時代までは旅行の趣味はなかったもので、ほとんどどこへも行かなかったんですが、大学一年のときに親戚の家を訪ねて金沢へ旅をしたんです。雪の加賀。そこで出会った美しい女性……年頃は僕の母に近いようでしたが、和服姿でしてね、そのひとに傘を差しかける若い男の姿とあいまって、一幅の絵のごとく、僕の脳裏に焼きついています。雪が降り、彼女と周囲の風景を幻想的なものに変えていく。僕は今、江戸時代の加賀へタイムトラベルしているのではないかと、そんな錯覚に陥ったものです。お元気で暮らしていらっしゃるでしょうか。あなたにはもう一度お会いしたいですよ」
 母に近い年頃? 徳永さんって実は年上趣味? と思っていたら、金子さんが言った。
「乾も金沢だよな。こんな話は俺も聞いたことがないけど、徳永が一年の冬休みか」
「雪が降ってたんだったらそうでしょうね。そのときには乾も帰省していたはずですよ」
「若い男とは乾、和服姿の美女は乾の母上だとか?」
「そんな偶然はないでしょう」
「ないだろうな」
 俺には黙れと言うくせに、金子さんと本橋さんは時おり、そうして小さな声で話し合っていた。
「私学はどこでもそんなものでしょうか。うちの大学にはいい家の息子や娘が多くて、都内に無数の店舗を持つとある店の娘やら息子やら、彼の故郷であるその土地では有名な老舗の倅やら、そんなのが大勢いました。帰国子女もいましたね。そうした同窓生たちが卒業して、歌の世界へ進んだ者も多々おります。僕の合唱部時代の仲間たちのうちで、年齢の近いプロシンガーの歌を二曲お届けします。聴いて下さい」
 流れてきたのは、金子将一「花盗人」。二曲目はフォレストシンガーズ「あなたがここにいるだけで」だった。金子さんの歌は意外でもないけれど、徳永さんが俺たちの歌をかけてくれるとは思いもよらなかったので、本橋さんと顔を見合わせていると、金子さんが笑い出した。
「やってくれますな。徳永もやっぱり……」
「やっぱり、なんなんですか?」
「さあなぁ。彼の本心は読めないって言っただろ」
 本橋さんは腕組みをし、俺はそんな本橋さんを見つめ、酒巻までが腕を組んでなにやら考えていた。後輩たちを眺め回して、金子さんはひとりで低く笑っていた。
「なんだかね、徳永さんってやることなすこと謎めいてるよね。やっぱ俺には乾さんに似てると思えるんだけど、シゲさんはこの話を聞いてどう思います?」
「有名な老舗の倅、金沢。それって金子さんの言う通りじゃないのか」
「乾さん? そんな話を乾さんから聞いてる?」
「聞いてないけどさ、前に金沢でも……」
「俺もはっきりとは知らないけど、かなりご大層な家のひとり息子なんでしょ?」
「そうに決まってるよ。あの家なんだから」
「徳永さんはどういう家の息子?」
「知るわけないだろ」
 知る必要もないのかもしれないけれど、知りたいことが増えていく。頭の中身が章並のどんがらがっちゃんハードロックになってきそうだ。
「本橋さんも悩んでたけど、乾さんはラジオを聴いたのかな。シゲさん、突撃してみません?」
「乾さんにか。乾さんが自ら話す気になったら聞くけど、そうじゃなかったら聞きたくないよ」
「シゲさんはいつもそれだもんね」
 お節介幸生と言われるのも毎度のことで、そう言われたからなんだと言うんだ。好奇心むくむくは止めようがないのだから。

 
 えー? 徳永さんを? とばかりに、章はいやぁな顔になった。
「おまえも徳永さんの放送は聴いてなかったんだろ。すっげえ興味深い話が出てたんだよ。だからさ、おまえと俺のラジオ放送に徳永さんをゲストに招いて、思い切り質問攻めにしよう。ラジオでだったら徳永さんは人が変わるから、話してくれるよ」
「俺は興味ないよ」
 さもあろうが、そこをまげて、と章に向かって手を合わせていると、乾さんがやってきた。
「リスナーのみなさんには、章以上に興味ないんじゃないのか」
「乾さん、聞いてたんですか」
「徳永の放送は聞いたよ」
 微妙にとんちんかんというか、故意なのかもしれないが、乾さんは澄まして応じた。
「内緒にしてたわけじゃないんだけど、機会を逸したってふうになるのかな。金沢での逸話の和服の女性は俺のおふくろだよ」
「ええ? ほんとに?」
「彼女に傘を差しかけてた若い男が俺だ」
「……徳永さんは乾さんのお母さんに恋をしたんですか」
「そうじゃないよ。先走るな」
「そしたらどういうことですか」
 計略を用いるまでもなく、乾さんが話してくれた。
「偶然なんだよ。本橋にも聞かれたけど、金子さんがおっしゃった通りのまさしく偶然だ。俺が郷里に帰っていた、十八の年末だった。母の買いものにつきあって街に出たんだ。雪が激しくなってきて、和服姿だった母の足元が危なっかしく思えて、買いものはそこそこで切り上げて、帰ろうとしたんだ。その前にうまいコーヒーを飲みたくなって、母を誘ったんだけど、母は先に帰ると言う。俺は母と別れて喫茶店に入った。そしたら徳永がいた」
「徳永さんのラジオでの話を、別視点で聞けるんですね。はい、どうぞ、続きを」
「徳永は妙な誤解をして、今の女はおまえの恋人だろ、みたいなことを言った」
「お母さんでしょ? たしかにずいぶん若く見える方ですけど」
「そうみたいだな。それに、徳永は母のうしろ姿しか見ていなかった。それでも俺の恋人には見えなかったはずだけど、あいつはそう言い張る。証拠を見せろとまで言うから家に連れていった。母に紹介したら納得したようで、我が家は大掃除中だったのもあって、徳永は帰っていった。それっきりその話はしなかったんじゃないかな。覚えていたとは驚いたよ。そもそも、あいつとはそんな話をする仲じゃなかったからかな」
「それだけ?」
「それだけだよ」
「なんだか怪しい。それがすべてじゃないでしょ?」
「すべてだよ」
 ふーん、と章は呟き、乾さんは言った。
「他に質問は? 徳永に訊いたってはかばかしい返事はしないに決まってるんだから、俺に答えられる質問だったらしてもいいぞ。都内に無数の店舗を持つとある店とは、金子さんのご両親の店。老舗の倅は俺。帰国子女は幸生も知ってるだろ」
「えーと……歌姫?」
「そうだよ」
「その老舗とは?」
「俺の親父が営む和菓子店だ。みんな甘いものは嫌いだろ」
「そういう問題ではないんですけど……」
「うん、親父の店にもいつか連れてってやるよ」
「……徳永さんはどういう家の?」
「言われたくないのかな。今さらいいだろうから言うけど、あいつは医者の息子だ。ご両親そろって医者だそうだよ。他人ごとみたいに喋ってたけど、てめえも金持ちの倅じゃないか」
 いつの間にかシゲさんと本橋さんもそばにいて、乾さんの話しを聞いていた。すこし前に金沢で仕事があって、そのときに乾さんの生家を皆で訪ねたのだが、お父さんは不在だった。あの屋敷とお母さんを見れば、乾さんがどのような家庭の息子なのかはわかったのだが、あのときだって内実を詳しくは話してくれなかったのだ。
「機会を逸すると言いづらくなっちまう、ってわけで、俺も詳しくは話さなかったんだけど、そこらへんは徳永と同類だったんだな。今になると思うよ。親の職業を口にしないなんてのは、ガキだった証拠だ。金子さんはおおっぴらに言ってたよ。皆実さんも社長令息だそうだし、本橋だって会社重役の令息だよな」
「誰が令息だよ」
「人の息子は誰しも令息」
「そうだよ。幸生、その通り」
 いい家の坊ちゃんだからこそ、親がなにをしているのか言いたくない。ただの銀行員の令息の俺としては、むしゃくしゃしなくもないのだが、むしゃくしゃするのも変な話なのだろう。俺は言った。
「親がなにをしていようと、問題は本人ですよね。俺が言うと負け惜しみ?」
「そうじゃないさ。おまえの台詞は本質をついてる」
「乾さんに褒められるとあとが怖いかも。褒めてます?」
「褒めてるというよりは、当然のことを言うな、ってのかな」
「恐れ入りました」
 だからさ、と乾さんは全員を見回した。
「いつになるかは知らないけど、徳永も含めてみんなで酒でも飲んで、若いころはなんだってああつまらないことにこだわってたんだろうな、って笑い合える日も来るんじゃないのか。そのためにも、俺たちも成功しなくちゃ」
「負け惜しみじゃなくするために?」
「そうだよ、章」
 だな、と本橋さんもうなずき、シゲさんは言った。
「学生のころっていろいろありましたけど、楽しかったですよね」
「ね、シゲさん?」
 なんだ? と見返されて、俺は言った。
「俺、やっぱシゲさんがいちばん好き。だって、わかりやすいんだもん」
 おまえはまた先輩に向かって、と乾さんには睨まれ、本橋さんにはごちんとやられ、章には蹴飛ばされて蹴飛ばし返し、シゲさんはため息をつき、俺は首をすくめてから言った。
「陽はまた沈み、陽はまた昇るんですよね。本橋さん、ピアノはないけど、この間の歌を五人で歌いましょうよ。日本語版で歌いません?」
「サンライズサンセットか。英語で歌おう」
「英語はやだ」
 やだと言っても聞き入れてもらえず、先輩たちが歌い出した。章もロックで覚えた英語はまずまずの水準なので、俺のみが英語が弱点ということになる。徳永さんも金子さんも英語は得意みたいだし、俺も英語にも磨きをかけなくっちゃな、と考えながら、発音は度外視して俺も歌った。そんな歌詞じゃねえだろ、と章にまで怒られたけど、歌詞ではない、歌はハートだ、ソウルだ。
 シゲさん以外の先輩たちってほんと、わかりづらいよな、と思うのは、俺はまだまだガキだからか。春になれば二十六になるのだから、英語のみならず、成人男子としても自身に磨きをかけなくちゃ、そしたらまた新しい恋もやってくる。真実の恋も訪れる。そうと信じて、地平線に沈んだ陽はまた昇ると信じて。

E N D

ここから第二部がスタートします。
以後もよろしくご愛読のほど、お願い申し上げます。



 
 
 
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~ Comment ~

NoTitle

おおお、FSにライバルがっ!!!
こういう展開だったんだ~。
まぁ、でも、実力派の先輩とすでにライバルだった相手だから、必然ですかね。

そして、美江子さん。
そうかそうかそうか。
美江子さんって、何げに良い存在感ですね。

彼女は誰とならうまく道行けるんだろうな、とちょっと考えてしまった。
ベタベタした恋愛にはならないだろうから、やはり、友人感覚の恋が良いのかな、ここまで来ると。
星さんと再会ってのはナシ?

fateさんへ

いつもありがとうございます。

第二部にたどりつかれたのですねー。
書いたほうとしましても嬉しいです。
フォレストシンガーズストーリィをいちばんたくさん読んで下さっているのは、fateさんでまちがいないはず。
ほんとに感謝しています。

ライバルと申しますか、これからは徳永、金子はけっこう出てくると思います。
徳永くんってなにか、出てくるたびに言うことがちがってるような気がして、私にとってはもっとも動かしづらいキャラなんですよ。

それから、美江子。
彼女の伴侶につきましては、ここには書けませーん。
って、もったいぶらなくてもいいんですけどね。

これからも美江子は恋をして……そして……です。
べたべたしてると自分で照れる、そういうところは、美江子は私に似ているのでしょうね、きっと。
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