番外編

番外編12(海は恋してる)

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番外編12

「海は恋してる」

1

 若くして結婚して夫婦で東京で暮らし、夫を亡くしてひとりになって、文字通りの女の細腕でコーヒーショップを切り盛りして生きていた叔母は、私の母の妹である。
「優衣は大学には行くの?」
 春になれば高校三年生になるお正月に、私の家にやってきた叔母が尋ねた。
「行きたいけど、うち、お金ないし……」
「そうやねぇ。義兄さんは斜陽産業の漁師だものね。だけど、行きたいんでしょ?」
「行きたい」
「なんの勉強がしたいの?」
「気象予報士になりたいなぁ……って、夢やけどね」
「夢って実現させるために見るんだよ。優衣は理科は得意科目だよね。よし、私にまかせて」
 両親に話しをしてくれた叔母は、翌日、私を呼んだ。
「私が卒業した大学、知ってるでしょ? あそこだったら私の住まいからも近いし、私学にしたら授業料もそうは高くないの。大きな大きな大学で、学部も数え切れないほどある。理学部はちょっとむずかしいけど、優衣の偏差値からすれば勉強すれば合格するよ。一年間、必死になって勉強しなさい。そして、私といっしょに暮らそう」
「叔母ちゃん……」
「楽しみだな。私には子供はいないからね。気難しい叔母ちゃんだけど、優衣のお母さんがわりというよりも、お姉さんがわりになってあげる。ただし、浪人は駄目。現役合格したらって条件つきよ。がんばれるね? 私の姪なんだもの。ガッツはあるよね」
「はい」
 それからはもうもうもう、わき目もふらずに勉強して、翌年には受験のために上京して叔母の家に泊めてもらった。家に帰ってからも、合格したんだろうか、落ちたんだろうか、と不安で眠れない日々が続いていたら、叔母が晴れやかな声で電話をかけてきた。
「優衣、やったね。合格発表を見てきたよ。受かってたよ」
 電話口で泣き出した私に、叔母は言った。
「泣いてる場合じゃないよ。これからが大変なんだから。待ってるからね、早くおいでね」
 実は両親は、進学するとしても京都の短大に、と考えていたようなのだが、叔母に押し切られ、私が合格してしまったものだから、もはや反対もできなくなって、快くとまでは言えないまでも、東京に行くのを許してくれたのだった。
 ひとり暮らしをするのでもないのに、母は心配のあまり倒れそうになっていたらしい。父もたぶん同じ気持ちだったのだろう。ぶすっとしながらも、がんばれよ、と言ってくれた。いよいよ東京に行くという日、父は黙って見送ってくれ、私は母といっしょに在来線と新幹線を乗り継いで東京へとたどりついた。
「ここが優衣の部屋」
 東京駅まで迎えにきてくれた叔母は、母と私を連れて早速家に帰り、びっくりしそうな華やかなインテリアに変わった部屋を見せてくれ、豪華なごちそうも用意してくれて、三人で私の大学入学祝いパーティをした。母も私も涙ぐみ、母は何度も何度も、優衣をよろしくね、と叔母に言って帰っていった。
 あれから約二ヶ月、私は大学に通いながら、お店が忙しい叔母のために料理をしたり掃除をしたりして、新生活を送っている。
 叔母の店は住まいよりもさらに大学に近く、私の仲間となった学生たちもたびたび顔を見せるという。私はまだほとんど行ったこともないのだが、「オレンジペコ」という紅茶の名前がついている。コーヒーショップが紅茶の名前とは変な気もするが、むろん紅茶も多種そろえてあるのだそうだ。
「お帰りなさい。ごはん、できてるよ」
「優衣も東京の女の子になりつつあるね。まだちょっぴりなまってるけど、京都弁は可愛いって言われるでしょ?」
「私のは京都といっても……でもね、京都っていったら京都市内の観光地を思い浮かべるひとが多いみたいで、京都の海のほうの出身だって言ったら、京都に海があるの? ってびっくりした子もいたの」
「そうみたいね。私は説明するのが面倒で、店の常連さんたちには京都市内出身だって言ってあるから、時々、いやぁ、おこしやすぅ、とか言ってるのよ」
 帰宅した叔母と遅い夕食を食べながら、学校の話しをした。
「理学部って女の子は少ないの。一年生のうちはそんなには勉強もむずかしくなさそうだし、サークル活動っていうのもやってもいい?」
「私の許可はいらないのよ。余裕がある間は好きにしなさい。ただし、東京の男には気をつけて」
「理学部には男の子はいっぱいいるけど、あんまり話しかけてもこないよ」
「優衣が美人だから気後れしてるんじゃないの?」
「私は田舎の子で、美人じゃないし……」
「なに言ってるのよ。優衣は美人の誉れ高き私の姪だよ。優衣のお母さんだって若いころは美人……でもなかったか。克子さんより節子さんのほうが美人だって言われてた。私は姉に似ぬ美人の妹だって言われてたよ。あ、姉さんには内緒ね」
 お母さんに言ってやろ、と呟いた私を見て笑ってから、叔母は真顔になった。
「たしかに優衣はまだあかぬけてないけど、これからどんどん綺麗になるのよ。今度の休みにはお洋服を買ってあげようか。口紅もつけてみたら? 私には若すぎるピンクの口紅があるから、あげようね」
 淡いピンクの口紅を塗ってもらって、鏡を見た。お化粧なんて生まれてはじめてした私が恥ずかしがっていると、うしろから鏡を覗いた叔母が言った。
「ほら、またもっと綺麗になった。明日はそうやって学校に行くといいよ」
「このくらいだったらいいよね。だけど、サークルってなにがいいかな」
「そうね。私が卒業したのは二十年近くも前だけど、そのころから合唱部が有名だったのよ。優衣は歌も好きじゃなかった? 行ってみたら?」
「聴くのは好きだけど、歌うのは……んんと……でも、大きな口を開けて大きな声で歌うとストレス解消になりそうだね」
「うるさい叔母さんがストレスを与えまくってるもんね。そうそう、ストレス解消してきなさい」
「うるさいなんて言ってないじゃないの」
 しかし、新生活にはストレスはなくもない。叔母に合唱部の存在を教えられて、私はその翌日、学生課で聞いた合唱部室を訪ねた。
「失礼します。入部を受け付けていらっしゃいますか」
 ここは女子部のはず。なのになぜか男子学生がいる。力士みたいな体格のひとと、ラグビー選手みたいな体格のひとが、私を認めて立ち上がった。ものすごく大きな男たちだった。
「やあやあ、お名前は? 俺、小桧山っていうの」
「コスモスの花みたいなひとだね。俺は荻野。合唱部に女の子がふえるのは嬉しいな」
「おまえ、コスモスってどんな花だか知ってんのか」
「彼女みたいな花だろ。風にも耐えなん風情でいながら、心根は強く、けなげではかない。俺、「コスモスの花一輪」って詩を書こう。きみをモデルにしよう。なんて名前?」
 力士が小桧山さん、ラグビー選手が荻野さん。ふたりは圧迫されそうな身体で私に迫ってきた。
「は、はい、水無月優衣です」
「みなづき、ゆいちゃん、なんていい名前なんだぁ。小桧山、彼女が暑苦しがってるだろ。離れろ」
「おまえだって暑苦しいよ。自覚がねえのかよ。はいはい、優衣ちゃん、入部手続きしましょうね」
「あの、合唱部は男子と女子に分かれてるんじゃないんですか。部室の看板も別々でしたし……私、まちがえたんじゃ……」
「まちがえてないよ。いいからいいから」
 他の人がいないのも不思議だったのだが、男子の先輩が女子の受付をしてくれるのも不思議だ。妙なしきたりがあるのだろうか。私は首をかしげつつも、小桧山さんが取り出した書類に記入していた。と、ドアが開き、荻野さんが怒鳴った。
「入ってくるな。男は立ち入り禁止だぞ」
「その声は男ですよね。荻野さんですか。なんですか、なんなんですか、これは」
 両手に看板をふたつ持って入ってきたのは、小桧山さんや荻野さんと背丈はさして変わらないものの、ずっとほっそりした男性だ。ほっそりしていると見えるのは、小宮山さんや荻野さんがごつすぎるからであって、ひとりでいたら彼もか細いわけではない。
 口のきき方からすると、新しく入ってきたひとは下級生だろう。彫りの深い綺麗な顔立ちに見とれそうになって目をそらすと、小宮山さんが言った。
「星、邪魔すんなよ。一年生のくせに」
「一年生のくせにって問題じゃないでしょう。あなた方は四年生にもなって、こういうガキみたいないたずらを……なんの意図があるんですか、女子部と男子部の看板を取り替えておくってのは。まちがえて入ってきた女の子にもいたずらをしようとしたんですか」
「いたずらなんかしてねえだろ。水無月優衣ちゃんを歓迎してたんだよ」
 荻野さんも言い、小桧山さんとふたりして立ち上がった。星さんと呼ばれた一年生であるらしきひとも長身だが、力士とラグビー選手にはかなわない。先輩たちは後輩をぼかぼかっと殴りつけ、悲鳴を上げそうになった私には微笑みかけて出ていった。
「星さん……大丈夫ですか?」
「慣れてますのでなんともありません」
「慣れて……?」
「きみは一年? だったら敬語はいらないね。きみも普通に喋って。そう、慣れてるんだよ。女子部は決してそうではないが、男子部の先輩たちときたら……今年の三年、四年は特別荒っぽいんだそうだけど、後輩を殴るのなんて挨拶がわりってなもんなんだよ。鍛えられるからいいんだろうけどね。女子部は決してそうではないから安心して」
「そ、そうですか」
「怖そうにしてるね。男子の先輩はきわめて荒々しいんだけど、稚気もあるだろ。ガキみたいないたずらしてさ、馬鹿野郎だよな」
「いたずらって?」
「つまり、さっきも言ったけど、女子部と男子部の看板をつけ替えてあったんだよ。だからきみは男子部に入ってきた。ここは男子部。女子部には女性の先輩がいるけど、気づいてないのかな。となりの部屋に行こう」
「他の男子の方は?」
「今日は誰も来てないようだね。男には飲み会で紹介してもらえるから、まずはきみは女子部で入部手続きをしなくちゃ。書類は持って、行こう」
「はい」
 立ち上がった私に、星さんは優しく言った。
「まさかあいつら、きみに不埒なふるまいはしなかっただろうね」
「先輩をあいつなんて呼んだらいけないんでしょ」
「いたら殴られるだろうけど、いないんだからいいんだよ。あいつら、きみになにもしなかった?」
「なんにもされてないし、愛想はよかったですよ。大きいから怖かったけど」
「俺も怖い?」
「星さんは怖くはありませんけど、知り合ったばかりだからわかりません」
「これからじっくり知り合おう。きみ、可愛いね」
 身をかがめてちらっと囁いて、私をどきんとさせて、星さんは私を外に連れ出した。
 ピンクの口紅のせいだろうか。故郷では可愛いなんて、男の子に言われたことはない。叔母は美人だと言ってくれるけど、まだまだこれから、みたいにも言っていた。
「優衣ちゃんって呼んでいいか? 合唱部の友達だもんな」
「友達……? 同じ一年生ですものね。これからもよろしくお願いします」
「俺は星丈人、タケでもいいよ」
「たけひとさんっておっしゃるの? お似合いの名前ですね」
「優衣ちゃんって名前も姿にぴったりだ。優美だよね、きみは。東京の子じゃないだろ?」
「京都の海の近くの出身です」
「俺は新潟。きみのその愛らしいなまりは、京都の子だからか」
「京都っていっても、田舎ですよ」
「俺も新潟の田舎の出だよ。田舎ったって新潟と京都じゃ大違いだろ」
「だから、京都は京都でも……」
「きみの姓は水無月さんなんだね。月だろ。俺は星。縁があるんだよ」
 外でそうして立ち話をしてから、星さんは恭しくお辞儀をした。
「どうぞ。女子部に行って正式に俺たちの友達になってきて。次は飲み会で会おうね」
 先輩たちとは大違いの優しい態度に促されて、私は女子部のドアをノックした。
「水無月優衣さんっていうの? 素敵な名前だね」
 女子部キャプテンの里中さんはハーフなのだそうで、色白で長身の素晴らしい美人だ。里中さんから合唱部についていろいろと教わって、女子部の先輩は優しいと知って、私は胸を撫で下ろしていた。すでに合唱部には私よりも前に、何人もの一年生が入部しているとも聞いた。
「今のところはまだ練習もしてないんだけど、部室に遊びにくるのはいつだってかまわないのよ。ただし、男子部の三年、四年の連中には気をつけてね。女の子には手荒な真似はしないはずなんだけど、外部では言われてるらしいの。男子合唱部ってのはほんとに合唱部か? だそうなんだけど、優衣ちゃんもすこし見てたらわかってくるよ」
 すこしだけは見たので、すこしだけはわかったつもりになって、私はうなずいた。
「一週間後に飲み会をやるから、みんなにもきちんと紹介するね。だけど、お酒が入るとますます危険だから、三年、四年の男子にはくれぐれも気をつけて」
「そんなに危険なんですか」
「お酒を飲むと裸踊りだとか、剣舞だとかってやり出す奴もいるのよ」
「裸踊り……剣舞……」
「だから、気をつけてね。そういう奴のそばには寄らないほうがいいからね」
「わかりました」
 入部手続きをすませて叔母の家に帰り、食事を作り、やがて帰宅した叔母に、今日の出来事を報告した。
「裸踊りなんて無邪気なものなのかもしれないけど、優衣は別の方面に気をつけなくちゃね」
「別の方面って? 私は十八歳なんだから、お酒を飲む会には行ったらいけないってこと?」
「行っていいわよ。ただし、くれぐれも気をつけてね」
 キャプテンも叔母も気をつけてと言う。荒っぽい男子の先輩たちのそばに寄ると、小さい私は跳ね飛ばされて怪我をするかもしれないからだろうか。剣舞とは、日本刀を振り回して踊る? ほんとに合唱部か、と言われるという男子部には、刀が置いてあるのだろうか。
 頭の中にいくつかの疑問が浮かんだのだが、それよりも一年生の仲間たちにも会えるのが楽しみで、一週間後の飲み会当日、私は叔母に買ってもらった初夏のワンピースを着て、ピンクの口紅もつけて出かけていった。
「優衣ちゃん、優衣ちゃん」
 部室の前に集合している一年生たちの中には、星さんもいた。星さんのとなりには、おじさんっぽいと見えなくもない男性もいた。星さんが私の名前を呼び、連れの男性が星さんに目で質問していた。
「先に紹介するよ。俺たちと同学年の高倉さん。合唱部に入る前には全然知らなかったひとなんだけど、短い間に親しくなったんだ。高倉さん、彼女が水無月優衣さん」
「はじめまして、高倉です。俺は三浪してるんで、老けてるでしょ」
「言われる前に自分で言うんだな」
「おまえたちだって、最初からこそこそ言ってたじゃないか」
 ああ、それで、と言いそうになって、言っては失礼だろうから口を閉じて、三人で歩き出した。
「俺はとにかく音楽が好きで好きで、学部も芸術学部なんだよ。専門課程になったら音楽学科に進むつもりなんだ。大学に合格したら音楽関係のサークルに入ろうとも決めていた。苦節三年、やっとやっと合格して大学生になって、合唱部のドアを叩いて入部させてもらったんだ。一年生の中では俺がいちばんに入部したんだよ。だもんだから、早くから合唱部にいて、新入生たちを迎える役目もしてた」
「あの合唱部の主のごときオヤジはなにものだ、って、俺も渡嘉敷と噂してたんだよ。優衣ちゃん、渡嘉敷ってのもあとから来るからね。それで、高倉さん、続きをどうぞ」
「一年生なのに主だのオヤジだのって言われるのも、俺は今の四年生と同い年なんだから無理もないんだよな。それでなくても老け顔してるんだから、言われてもしようがないんだけど、なんであの男はあんなに老けてるんだ、とも言われてたんだろ」
「言ってる奴らはいたな。そうしていたら、優衣ちゃんは野球部の大泉さんって知ってる?」
 名前には聞き覚えがあったのでなんとなくうなずくと、高倉さんが言った。
「大泉も一浪してるんだけど、俺よりは二年前に大学に合格して、野球部のスターになったんだ。俺とは広島の高校のころからの悪友なんだよ。その大泉が合唱部にあらわれて、高倉をよろしく頼む、なんて言ったものだから、三年生の大泉と一年生の高倉はどういう関係だ? なーんてみんながざわざわしてて、俺は言ったよ。大泉と俺は同い年、つまり、俺は三浪してるんだよ、ってさ」
「あの大泉さんと親友だなんて、すげえ、って感じでさ、一年生たちのみならず、二年生も三年生も四年生も、高倉さんを尊敬しちまったんだよな」
「尊敬はされてないよ。敬遠されたんだ。みんながこころなしか俺を遠くから眺めてるって雰囲気になって、まずいなぁって思ってたら、星や渡嘉敷が話しかけてきて、俺にも合唱部に同年の友達ができたってわけだよ」
「同年じゃなくて同学年だろ」
「細かいところを突っ込むな」
 かわるがわる、友達になったいきさつを話してくれるふたりに相槌を打ちながら、飲み会の会場になっている居酒屋さんに着くと、渡嘉敷さんという男性も来ていた。
「水無月さん? 星から聞いてたよ。渡嘉敷です、よろしく」
「よろしくお願いします。星さんは新潟で、高倉さんは広島なんですね。渡嘉敷さんはお名前からすると沖縄の方ですか」
「うん、そう。水無月さんはなまりからすると関西だね」
「やっぱりまだなまってますか」
「いいじゃないか。可愛いなまりなんだから」
 星さんが言い、大きなテーブルを囲んで四人ですわった。
 男子部キャプテンの斎藤さんと女子部キャプテンの里中さんの飲み会開会の挨拶がすむと、最近になって入部した一年生の自己紹介になった。私も自己紹介をしていると、蛮声が飛んできた。
「コスモス優衣ちゃん、俺、きみをモデルにした詩を書いてるんだよ!! こっちにおいでよ」
「優衣ちゃんをモデルにした詩を書いてるのは俺だ」
「やかましい。おまえは黙ってろ」
 早くももめているのは、私にとっては初日だったあの日にいたずらをした、小桧山さんと荻野さんだ。小桧山さんの席から荻野さんに向かってなにかが飛んでいき、荻野さんもなにかを投げ返し、近くの席にいた女の子が悲鳴を上げ、立ち上がった斎藤さんが低い声で一喝した。
「こらっ、小桧山、荻野、開始早々から騒ぐんじゃねぇ。静かにしろ。一年生たちが驚いてるじゃないか」
「こいつが……」
「おまえだろうが、小桧山」
「おまえだろ」
「四年生がそんなじゃ、下級生にしめしがつかないじゃないか。外に出るか」
「キャプテン、まあまあ、まあまあ」
 となりの席の男性が斎藤さんのシャツの裾を引っ張り、すわらせてお酌をしている。小桧山さんと荻野さんは、かなり離れた席にすわっているのに、視線と視線で火花を散らしている。星さんが立ってきて、私に言った。
「優衣ちゃんは俺たちと飲もう。ああいうのには近寄らないに限る」
 高倉さんと渡嘉敷さんのいる席に戻り、合唱部全員で乾杯してから、四人でお話をした。渡嘉敷さんは社会学部だそうだが、音楽には詳しい。高倉さんは音楽学科に進む予定、工学部の星さんは音響工学科に進む予定だという。三人ともたいそう音楽が好きなのであるらしい。
「星も俺も声は低いんだよな。渡嘉敷はさらに低いだろ。バスだよな」
「だろうな。こーんな声も出るよ」
 うーうーうーーっ、と渡嘉敷さんが唸っているような声を出し、星さんも言った。
「ここで歌うと先輩たちに睨まれるかな。おまえたちにはまだ早い、って怒られそうだから、そーっと抜け出さないか。三人で歌うとどんな感じなのか、俺は自分の耳でたしかめてみたいよ」
「三人で歌うのか? 低い声ばっかりで? テナーがいないじゃないか」
 渡嘉敷さんが言うと、星さんは私を見た。
「テナーはいないけど、テナー以上にいいハーモニーをつけてくれそうなひとがいるよ。優衣ちゃんはメゾソプラノかな、アルトかな。話し声は低めで落ち着いてるけど、歌うとどうなんだろうな。高倉さん、話し声と歌う声って一致しない場合もあるんだろ」
「そうだよ。渡嘉敷はバスだろうけど、歌うと高めの声も出るかもしれない。俺も興味が出てきたよ。すこしだけ抜け出して、互いの歌声を聴いてみよう」
「優衣ちゃんもおいで」
 四人で外に出ると、高倉さんがポケットから音叉を取り出した。
「簡単な歌でためしてみようか。楽譜はないんだもんな。「菩提樹」あたりは?」
「じゃあ、「菩提樹」で。渡嘉敷は最低音パート、高倉さんと俺は中音部。優衣ちゃんは高音部を歌ってみよう」
「高音部って……」
「この音が基本だよ」
 音叉が澄んだ音を響かせ、わかったようなわからないような気分のままで、私も三人についていった。高音部だというのだから、とにかく高く歌えばいいのかと思って歌っていると、ワンフレーズがすぎたあたりで、高倉さんが言った。
「ちょいストップ。優衣ちゃんはソプラノだな」
「高校の音楽の時間に独唱のテストがあったのね。ピアノの前で歌ったら、水無月さんは歌うと声が高くなるのね、って先生に言われたっけ。それがどうしたの? としか私は思わなかったんだけど、ソプラノ?」
「ソプラノだよ。綺麗な澄み切った高い声が出る。星、渡嘉敷、いいよな」
「いいね。しかし、ここで長々と話してると、野蛮な男があらわれて怒鳴るかもしれない。相談の続きは後日にしよう」
「高倉さん、星、なんの相談だ?」
「いいからさ、とにかく戻ろう」
 なんの相談なのかは私にもわかっていないのだが、渡嘉敷さんもわかっていない様子だ。高倉さんと星さんは嬉しそうにしていて、首をかしげながらも、四人でもとの席にすわった。
「もうっ、やめなさいよっ!!」
 すわった途端に、里中さんの怒り声が聞こえた。あーあ、おっぱじめたよ、と星さんが呟き、高倉さんも言った。
「あれだったら優衣ちゃんも見てもいいだろうけど、悪酔いしそうな眺めだな」
「なに? 剣舞ってあれ?」
 上半身裸になった小桧山さんと荻野さんに斎藤さんまでが加わって、三人が野球のバットを手にしてでたらめな踊りをやっている。でたらめではあるのだが、さすがに合唱部の四年生たちだからだろうか。それなりにさまにはなっている。
 バットでは剣舞にはならないだろうけど、日本刀を振り回したり、裸踊りをはじめるよりはいいんじゃないのだろうか、私はそう思って、それでもぽかんと口を開けて、男子部の先輩たちの変な踊りに見とれていた。
 

2

 飲み会の夜の相談の続きは、合唱部室の裏手の芝生で行われた。
「優衣ちゃんは自信なさそうに歌ってたけど、初に四人で歌ったにしたら、みんな上出来だったよ。一年生が生意気だって先輩には言われそうな気がするんだけど、四人で歌わないか」
 高倉さんが言い、星さんも言った。
「渡嘉敷はどうだ? 優衣ちゃんは?」
「俺は……やってみたいな。あの晩、四人で歌ったのは最高に気持ちがよかった。もっと本格的に歌いたいよ。優衣ちゃんも加わってくれないか」
「私なんかは邪魔になりそうで……」
 そんなことはないっ、と三人そろって断言してくれて、やろうやろうやろう、と三つの低い声が言い、躍起になって私を説得する。しばしののちに、そこまで言ってくれるんだったら、となってうなずくと、三人は握手した。
「ふーん、一年坊主が四人でグループを結成して歌うってのか。前例はあったのかな」
 その声に一斉に振り向くと、男子部の斎藤キャプテンが腕組みをして立っていた。
「前例があったのかどうかは俺は知らないけど、今年の夏にもコンサートがあるのは知ってるよな。コンサートでは恒例として、一年生は混声合唱をやる。夏の合宿では、一年生はそのために特訓するんだ。一年生の合唱とはいえ、我々は合唱部なんだから、ド素人の下手な歌を客に聴いてもらうわけにはいかない。渡嘉敷、わかってるよな」
「はい……」
「そこんところはどう考えてるんだ、高倉? 混声合唱は?」
「もちろん、練習には僕らも参加します。猛練習します」
「二兎を追うものは一兎も得ず、って言うよな、星?」
「二兎を得てみせます」
「でかい口を叩いてるんじゃねえよ」
 もともと斎藤さんも声が低い。その声をぐっと低めて星さんを恫喝し、一歩、近づいた。
「一年生が勝手にグループを結成して歌うなんてのは、キャプテンである俺が許さない、と言ったら?」
「斎藤さんにはそれを許さないと言う権限があるんですか」
「ますます大きく出たな。てめえ、くそ生意気だぞ」
 もう一歩近づき、電光石火の早業で、斎藤さんは星さんを殴りつけた。星さんの顔がのけぞり、渡嘉敷さんは息を呑み、高倉さんは静かに言った。
「そのような問題で後輩を殴るのは、キャプテンの権限ではないはずですね」
「おまえも生意気だな、高倉」
「申し訳ありません。先輩に無礼な口をきいた生意気な一年生だったら、殴られてもしようがないんでしょうね。どうぞ」
「そうなると俺もですよね。どうぞ、キャプテン」
 渡嘉敷さんも言って、高倉さんを押しのけて一歩、前に出た。
「ええと……だったら私も? 私も……私も?」
「泣きそうな顔をするなよ、水無月さん。きみは俺の権限外だし、女の子を殴ったりしたら、俺が里中にのされちまう。きみはいいんだよ。おまえらだ。おまえらはガキのくせしてでかい口を叩きやがって、三人まとめて……高倉はガキじゃないけど、一年生だもんな。三人まとめてぶっ飛ばしてやりたいところだけど、水無月さんに嫌われたくないからやめとくよ。歌ってみろ」
 は? と目を丸くした高倉さんは、ポケットから音叉とたたんだ楽譜を取り出した。
「星も渡嘉敷も初見は利くんだよな。優衣ちゃんは? 無理か。ええと……では……」
 英語の歌詞のついた楽譜は、タイトルが「California dreamin'」と読めた。「夢のカリフォルニア」。有名な歌なのだから、私も知っている。高倉さんは楽譜を指さして教えてくれた。
「高音部は優衣ちゃんだよ。きみが承諾してくれたら、四人で歌うつもりで持ってきたんだ。この歌は知ってる? そんならいいよね。きみはこのパートだ。楽譜は優衣ちゃんに渡しておくから、星も渡嘉敷も歌えるよな」
 オーケイ、とふたりがうなずき、四人で歌った。
 
「All the leaves are brown and the sky is gray
 I've been for a walk on a winter's day
 I'd be safe and warm if I was in L.A.
 California dreamin' on such a winter's day

 Stopped into a church I passed along the way
 Well I got down on my knees and I pretend to pray
 You know the preacher likes the cold
 He knows I'm gonna stay
 California dreamin' on such a winter's day」

 英語の発音もメロディも、私はたいへんに怪しかったのだが、高倉さんと星さんは楽譜も見ずになめらかに見事に歌いこなしている。渡嘉敷さんの声が刻むベース音も見事で、飲み会のあとで三人で練習したのではないかと思われた。
「でかい口を叩いたんだから、両方ともやれよ。合唱の練習をさぼったら承知しないぞ。星、渡嘉敷、返事は?」
「わかりましたっ」
 ふたりが声をそろえ、高倉さんは言った。
「俺は返事をしなくていいんですか」
「おまえはどうもやりにくいんだよな。なんて言ってちゃいけないんだけど、高倉ってのは先輩に見えちまうんだよ」
「俺は斎藤さんの後輩です」
「年は上だろ」
「同じのはずです」
「ああ、そうか。同い年には見えなくて……うん、まあ、いいか。で、四人のユニットの名前はどうするんだ?」
 もう名前まで? なにもかもが突然すぎて戸惑っていると、斎藤さんは言った。
「コスモス……優衣ちゃんがコスモスみたいだって言ったのは、うちのあの馬鹿ども……いやいや、一年生の前では慎もうか。利口な小桧山だったか、利口な荻野だったかが言ったんだよな。その優衣ちゃんのいるユニットなんだから、コスモスってよくないか」
「コスモスではユニット名にはなりませんね」
 顎のあたりが赤くなっている星さんを見ると、私は首をすくめたくなる。なのに星さんはなんにも気にもしていない様子で言った。
「なんとかコスモス……コスモスって宇宙って意味もあるでしょう。小宇宙……」
「ミクロコスモス」
「うん、高倉、センスがいいとも言えないけど、おまえたちのグループは歌で小宇宙を作り出すんだから、なかなかいいネーミングだよ。俺の言い方もセンスないか、星?」
「あるとは言いにくいですね」
「まったくおまえは生意気だよな」
 突然すぎる四人の小さな宇宙は、そうしてはじまったのだった。
 すこし打ち明けにくかったのだが、これこれこうでね、と話すと、叔母は私を見つめ、笑顔で言ってくれた。
「そのうちには勉強も大変になるんだろうし、一年生の間だけかもしれないんだから、今は好きにやりなさい。優衣には男の子の友達が三人もできたんだね。うちで練習してもいいよ。連れてきたら?」
「練習は高倉さんのアパートでするんだって。星さんはギターも弾くの。上手なのよ、とっても。高倉さんの部屋には楽譜やら音楽の本やらがいっぱいあるから、便利なんだって。私も行ってもいい?」
「優衣が行かないと練習にならないじゃないの。行っておいで」
 一年生全体の混声合唱の練習もあり、ミクロコスモス四人の練習もあって、夕食の支度をするのをさぼっても、叔母は不満も言わなかった。
 こんなに甘えていてもいいんだろうか。叔母には学費も出してもらっている。生活費も出してもらっている。親元から送られてくるお金はお小遣いにしなさいと言ってくれる。せめて私は家事手伝いをして、叔母の手助けをするつもりでいたのに、近頃はなにもしていない。なのに叔母は怒りもしないで、好きにしていいと言ってくれるのが心苦しくてならなかった。
「そうか、心苦しいってのはわかる気もするな」
 幾度目かの四人での練習の帰り道、私を送ってくれた星さんが言った。いつもは渡嘉敷さんと星さんが、私を叔母の家の近くまで送ってくれるのだが、今夜は星さんとふたりきりだ。
「俺もこのごろは歌ばっかり歌ってて、バイトをさぼってるからクビにされそうだよ」
「学校もクビにされたりして?」
「それは避けないとな。バイトのかわりはあるだろうけど、受験はし直したくないよ」
「そうよね。私もそうだもの。でもね、こうやって練習してて、それでどうするの? 夏のコンサートでは一年生は混声合唱だけでしょ? どこかで四人で歌うの?」
「ハーモニーが一応完成したら、公園ででも歌おうか。ストリートライヴみたいな感じでさ」
「公園で? 恥ずかしい」
「恥ずかしくないだろ。聴いてくれる客がいたら、歌うのはいっそう楽しいはずだよ」
「そうかな。私は下手だし……やっぱり三人の邪魔をしてる気がして……」
「下手じゃないよ。わかってないな、優衣は」
「……なにをわかってないの?」
「なんだろうね」
 なんだか気まずくなってきて、私は言った。
「渡嘉敷さんは今夜は? デート?」
「用事があるって言ってたけど、なんだかは知らない。あいつもバイトをさぼってるから、あやまりにでも行ったのかな。高倉さんもさぼってるんだよな。バイトをはじめたのはいいけど、金に不自由になるのは我慢して、仕送りだけでやってったほうがいいのかもしれないな。俺は今はバイトよりも歌っていたいんだ。高倉さんだって渡嘉敷だって同じ気持ちだよ。優衣ちゃんはそうじゃないのか」
「ううん。私も四人で歌ってるのは楽しい。でも、邪魔になってるんじゃないかって、どうしても思ってしまうの」
「馬鹿だな」
 これほど優しい「馬鹿」って言い方があるなんて、私ははじめて知った。ほのかな月明かりと遠くの外灯のもとで、星さんの横顔もとてもとても優しく見えていた。
 

「まあね、男の子たちも一年生なんだから、いいったらいいんだけど」
「だけど、生意気ったら生意気じゃない?」
 部室のドアを開けようとしたら、中で話している女性たちの声が聞こえて、足がすくんだ。
「そうだよね。斎藤さんも里中さんも黙認してるみたいだけど、あんなのって昔もあったの?」
「ないんじゃないの? 一年生なんてのは昔はもっと、先輩の命令にはおとなしく従って、口答えなんかしなかったって聞いたよ」
「生意気って言ったら星くんも……」
「斎藤さんが言ってたんだって。生意気な野郎だけど、星って奴は……」
「星って奴は、なに?」
 そこで声が小さくなって聞こえなくなり、ややあって女性たちがきゃーっと叫んで笑いさざめいた。
「かっこいいよね、一年生にしたら」
「かっこいいって言うか、生意気のかたまりなんだけど、あの星くんだったら許せるかも」
「そうなのよ。だからよけいに癪にさわるんだよね」
「水無月優衣が? もしかして……?」
「そんなんじゃないけど、年下なんて……なんだけど、うーん、やっぱりなんかこう……」
「はっきり言えば?」
「なによ。あんたこそ」
「気に食わないよね、水無月優衣って」
「そうそう。ちょっと可愛い顔してるったって、田舎者じゃないの」
「可愛くないよ、あんなのは」
 三年生の女性三人がかわしているのは、私たちの噂だ。中に入っていけなくなって、私はきびすを返した。声の持ち主が誰なのかは知っているが、そんなことはどうでもいい。私は先輩たちにあんなふうに思われている。
 里中さんは私には、しっかりね、と言ってくれたけれど、他の先輩たちはああなのだ。同年の女の子たちにしても、私と仲良くしようとはしないのは、私ひとりが身勝手なことをしているためなのだろうか。
 一年生はおとなしくしていないといけないのだろうか。私なんかはたいして歌も上手ではないし、先輩たちが言っていた通りに、田舎者。そんな女の子が目立つふるまいをすると、同性には嫌われるのか。女子部の仲間たちにはずっと疎んじられているような気がしていたのは、私の誤解ではなかった。
 叔母にも迷惑をかけて、女子部のみんなには嫌われて、だったら、星さんたちと歌うのはやめようか。暗い気持ちになってひとりで歩いていると、ベンチにすわっている高倉さんと渡嘉敷さんと星さんが見えた。私は彼らに気取られないように、咄嗟に隠れて会話に聞き耳を立てた。
「なんだよ、高倉さん、言えよ」
 まず聞こえたのは渡嘉敷さんの声で、高倉さんは黙っていて、星さんも言った。
「ひょっとしたら、こう? 高倉さんは優衣ちゃんが好きだとか」
「え……おまえ、星、聡いんだな」
「そうなのかよ。あてずっぽうが的を得てたってわけだな。好きなんだったら直接言えばいいじゃないか」
「言えるかよ、俺みたいな……」
「俺みたいな? 俺みたいなオヤジ顔がって?」
「星、きついんだよ。高倉さんはオヤジ顔……たしかにそうだな。けど、男は顔じゃない。高倉さん、優衣ちゃんに告白しろよ」
「渡嘉敷までそう言うのか。いいのか?」
 いいよ、と渡嘉敷さんと星さんは言い、私の心臓の鼓動が激しくなってきた。
「渡嘉敷も優衣ちゃんが好きじゃないのか」
「好きったら好きだけど、告白しようっていう感情じゃないよ。高倉さんが彼女を好きなんだったら、遠くから声援を送るよ」
「星は? どうも優衣ちゃんはおまえを……」
「俺がなに? 俺だって優衣ちゃんは好きだけど、彼女になってほしいタイプじゃないな。俺はもうすこし、気性のさっぱりした女の子がいいよ。俺が浮気でもしたら、優衣ちゃんは生霊になって……うわっ、怖っ。そんなふうなタイプに見えないか?」
「つきあう前から浮気の心配かよ。あのな、星、おまえな……」
「はい、先輩?」
「俺はおまえの先輩じゃないだろ」
「高倉さんは人生の先輩だよな、渡嘉敷?」
「月並みな台詞だ。聞いてて恥ずかしいよ」
「そうかぁ」
 心臓の鼓動が激しくなったのは、高倉さんが私に告白したい、と考えていると聞いたからではない。私だって高倉さんは嫌いではないけれど、告白なんかされても困ってしまうだけだ。
 三人は呑気な話をして笑っているのだが、私はその場を離れて小走りになった。胸がざわめきっぱなしなのは、高倉さんのせいではなくて星さんのせい。星さんの言葉が耳の中で繰り返し聞こえる。彼女になってほしいタイプじゃない、もうすこし気性のさっぱりした女の子がいい、俺が浮気でもしたら、優衣ちゃんは生霊になって……
 私は星さんの好みではない。そうと知って、そうと知って自分の気持に気づくなんて……私が告白してほしいのは星さんだなんて。
 可愛いと言ってくれたのも、優しい声で「馬鹿だな」と言ったのも、みんなみんな戯言のようなもの? きっとそうだったんだ。気づいてみてもどうしようもない、星さんに好かれてはいないのだと知ってしまった今は、自分の気持ちに気づいても仕方がないのだとまで、知ってしまったのだから。


合唱部全体の練習に参加すると、高倉さんと渡嘉敷さんと星さんに会う。三人のうちの誰かが、私にメモを手渡してくれる。そこには、私たちの練習時間のお知らせが記されている。一度、二度と、今日は行けないと断っていたのだが、何度も断るわけにはいかずに困っていた。
「デートのお誘い?」
 その日も渡嘉敷さんにメモをもらって、どんな口実で断ろうかと考えていたら、女子部一年生の中島さんがメモを覗いた。
「デートじゃなくて歌の練習なんだけど……」
「男のひとのアパートに行くんでしょ? 行くと水無月さんは女の子はひとりっきりなんだよね。気をつけないと、お嫁に行けなくなっちゃうよ」
「お嫁にって、どうして?」
「男子部の先輩たちが噂してた。水無月さんっておとなしそうな顔して、たいした女だよな、男三人と夜にアパートの一室にいて、なにをやってるんだか、ってさ」
「だから、歌の練習……」
「私は水無月さんのためを思って忠告してあげるんだけど、他人が見たらそうは見えないんだから。女の子がひとりで夜に男のひとの部屋に行ってたりしたら、変な噂を立てられてもしようがないのよ。田舎でだってそうだったでしょ? 水無月さんって実はすっごく遊び人じゃないのか、だとかね」
「そんなんじゃ……」
「ほんとにそんなんじゃないの?」
 ひどくいやな目つきをして、中島さんが私をねめつける。女子部でも男子部でも、私の噂、噂。
「水無月さんがなんと言われてもへっちゃらだったらいいんだけど、同級生として忠告してあげるんだから、誤解を招きそうな行動は取られないほうがいいんじゃないの? 誤解じゃなかったりして?」
「……忠告してくれてありがとう」
「張り合いのない女。これだから田舎者ってやなんだよね」
 つんっとして中島さんは行ってしまい、私はその日も高倉さんのアパートに行くのはやめて帰った。叔母のために夕食を作りながらも、もう高倉さんたちと歌うのはやめようと考えていたら、口実を思いついた。
「どうしたの? 優衣、風邪?」
 マスクをしている私を見て、帰ってきた叔母が尋ねる。私は嘘咳をしてごまかして、食事も少なめにして部屋に閉じこもった。
 次の日には朝からマスクをして、講義の間も合唱部の部室でも、風邪を引いているとみんなに言って、そうなると合唱部の練習にも参加せずに帰った。今日もごはんを作って掃除をして洗濯もして、私はこのほうが気楽でいいんだと思っていると、叔母が帰宅してくる。会話すらもとぎれがちに食事をしていると、叔母が言った。
「なにかあったの? 優衣は風邪を引いたって言うけど、そんなふうでもないようじゃないの? 歌いたくないから?」
「……そうなのかもしれない」
 思い切って叔母に打ち明けた。
 女子部の先輩たちの噂。男子部の先輩たちも噂しているという、中島さんから聞いた言葉。合唱部の女性たちの冷淡な態度。時として聞こえてくる、意地悪な言葉。高倉さんが私に告白したいと聞いたとまでは言えなかったのだが、叔母は黙って私の話を聞いてくれた。
「私、悪いことなんかしてないのに……」
「若い女の子っていうのはね……今どきの子でもそんなのなんだね。要するに優衣はやっかまれてるんだろうけど、いやな噂を立てられるのはつらいよね。それでも彼らと歌っていきたいってほどの情熱は持てない? 根も葉もない噂なんか吹き飛ばしてやろうって、そうは思えない?」
「私はそんなに強くないし……それにね、それに……」
「それに? 他にもあるの?」
「ううん。なにもない」
 噂以上につらいことは、叔母には言えずじまいだった。食事を終えてまた部屋に閉じこもると、電話が鳴っているのが聞こえた。
「はい……あら、星さん? いつも優衣がお世話になっております。そうなのよ。風邪を引いたみたいで、声もがらがらになっちゃってるみたい。あれでは歌えないでしょ? あなた方との練習もしばらくはお休みするって言ってます。ごめんなさいね。ううん、でも、たいした風邪ではないから心配しないで」
 電話を切った叔母が、ひとりごとのように言った。
「これでいいのかしらね」
 叔母がああ言ったら、星さんたちだって無理には私を誘い出そうとはしないだろう。私なんかはいなくても、三人の男性の声で歌えば充分のはず。最初から私はいないほうがよかったのだから、これでいいんだ、と私は自分に言い聞かせていた。
 
 
3

数度は合唱部の練習にも、星さんたちとのグループの練習にも加わって歌って、私は歌うことが好きだと知った。けれど、叔母が言うように、いやな噂を立てられてまで、それでも歌いたいとは思えない。
 いつしか合唱部からも足が遠のき、もちろん高倉さんのアパートにも行かないでいるうちに日が過ぎて、夏休みに入った。夏休みには合唱部の合宿があるのだが、参加しようとも思えなくて欠席届を出し、家で家事をしたり勉強したり、図書館で借りた音楽の本を読んだりしていると、叔母が言った。
「若いのに家にばかりいたら引きこもりになっちゃうよ。遊びにいかないの?」
「行かない。遊びにいくところなんかないもの」
「じゃあ、私の店で働きなさい。オレンジペコでアルバイトしなさい」
「ええ? 私にそんな仕事ができる?」
 接客業などは初体験だが、私の姪なんだからやれるわよ、と叔母に言われて、お店に立った。夏休みなのだから私の大学の学生たちもやってはこないだろうと考えていたのだが、すこしは仕事に慣れてきたころに、ふらっとあらわれた男子学生を見て、私は逃げ出したくなった。
「優衣ちゃん……合宿に来ないと思ったら、バイトしてたのか。金に困ってるのか」
「いえ、そうじゃなくて……荻野さん、ええと、あの、この店は……」
「荻野さんっておっしゃるの? 優衣と同じ合唱部の方? 私はオレンジペコのママなんだけど、優衣は私の姪なんですよ」
「そうだったんですか」
 へええ、合唱部の男の子とは思えないね、と叔母がこっそり言ったのは、荻野さんがラグビー選手並の体格の持ち主だからだろう。お店は暇な時間で、コーヒーを運んでいく私に、叔母が耳打ちした。
「荻野さんと話しをしてきてもいいよ」
「話しなんてないけど……」
「優衣にはなくても、彼は話したいような顔をしてる。荻野さんってたしか……面白そうなひとね。ああいう男はおなかの中は真っ白って気がするわ。合唱部の内部だってよく知ってるんだろうし、私よりも優衣の悩みがわかるんじゃないの?」
「悩みもないけど……」
「いいから話しをしてらっしゃい」
 そう言われて荻野さんの席に行くと、彼もまた言った。
「すこしだったら話せる?」
「はい、荻野さんがよろしいんでしたら」
「俺はきみと話をしたかったんだよ。込み入った話はここではよくないかな」
「込み入った話ってなんですか」
「んんと……なにから話せばいいのか」
 コーヒーをがぶっと飲み、あちちっ、と言ってから、荻野さんは話しはじめた。
「きみは長く合唱部にも来なかったよね。風邪を引いてるって言ってマスクをしてたから、こじらせてしまったのかと思って、里中さんに訊いたんだよ。里中さんも事情はよく知らないって、顔を曇らせてた。ただ、女子部では優衣ちゃんについてとやかく……って、そういうことがあったの?」
「とやかく? なんのことですか」
「俺も詳しくは知らないよ。俺なんかは頭も感覚も雑駁だからさ、ややこしいのは苦手なんだよ。だけど、ちらほらとは聞こえてきてた。女ってややこしいよな」
「男子部でも言われてたそうですね」
「男子部でも? 誰が? なんて?」
「誰なのかは聞いてませんけど、いいんです」
「よくはないだろ。誰だ、男のくせしてとやかく言ってる奴は。誰なんだかわかったら俺が……って、そのとやかくの内容も俺はよくは知らないんだから、俺がここで息巻いたって意味はないんだよな。ええい、うっとうしい。うっとうしいのも俺は大嫌いだよ」
「荻野さんってそんな感じですね」
 荒っぽい先輩の代表格みたいに見えていた荻野さんが、ちょっぴり微笑ましく感じられた。
「ありがとうございます、私なんかを心配して下さってたんですね。だけど、いいんです」
「退部するつもりか?」
「合唱部で歌うのは楽しいんですけど、私みたいなのが高倉さんたちのグループに入れてもらって、変に目立ってでしゃばってたみたいに見えたんでしょうね。目立つほどの人間でもないんだから、私がいけないんですよ。高倉さんたちはどうなさってるんですか」
「三人で歌ってるようだよ」
「よかった。私なんかは忘れてくれたんですよね」
「忘れてはいないだろ。俺は高倉たちにだって詳しくは聞いてないけど、うまくは言えないけど……あいつらの仲間になったのが、きみをそうやって……なにかあったの?」
「なんにもありません」
 疑っているような目で、荻野さんは私を見る。雑駁だと言うわりには、その目は私の内心を読もうとしているようにも見えた。
「わかんないな。俺にはわかんないよ。俺はこんなだからさ……ごめん。いつまでもふたりで話してたらいけないよね。きみは仕事をしてるんだもんな。帰るよ」
「ありがとうございました」
 飲み終えたコーヒーカップをテーブルに置き、私に料金を手渡して、荻野さんは店から出ていった。
「彼、優衣を好きなんじゃないの?」
 あとから叔母がそう言ったのだが、私は言った。
「荻野さんは男子部のひとだけど、合唱部の先輩ではあるんだもの。私がさぼってばかりだから心配してくれたのよ。ああ見えて優しいひとなのね」
「優しいっていうのは……まあね、私にも……どうなんだろ」
「叔母さんらしくもなくむにゃむにゃ言ってるけど、荻野さんが私を好きだなんて、あるわけないじゃない。考えすぎ」
「そうかしらね」
 仕事に慣れてくると、接客業も楽しく感じられるようになってくる。常連さんたちは私に親切にしてくれて、叔母の勧めに従ってよかった、と思って働けるようになってきた。そんなある日、またしても知っているひとが店にあらわれて、今度こそ私は本気で逃げ出したくなった。
「どしたの、優衣? どなた?」
「優衣さんの叔母さまでいらっしゃいますね。電話では自己紹介をさせていただきましたが、お会いするのははじめてですから、改めまして。星です」
「あら、星さん……あらあら……はーん、はははーん」
「よろしければ、優衣さんと話をさせていただけませんか。外で話してもよろしいでしょうか」
「外のほうがいいかしらね。近くには他の喫茶店もあるし、連れていってくれてもいいですよ。優衣、外は暑いから熱中症にならないように、帽子をかぶっていきなさい」
 頭に麦藁帽子を乗っけてくれて、叔母は私を追い立てた。外になんか行きたくない、星さんと話しなんかしたくない、抵抗しようとしても叔母も星さんも聞いてもくれずに、私は星さんについて外に出た。
「コスモスではなさそうだけど、帽子についた花がよく似合ってるよ。そうしていると高原の少女みたいだな。きみはなんだって俺たちを避けてたんだ?」
「避けてなんかいません」
「避けてたじゃないか。逃げるなよ」
 手首を握られて、「オレンジペコ」からはいくぶん離れた喫茶店に連れていかれた。
「荻野さんに聞いたんだよ。俺はきみの叔母さんの店は知らなかったんだけど、荻野さんが場所も教えてくれた。ざっと事情も聞いたよ。女の子たちがきみについてとやかく言ってるって? 気にしなくてもいいじゃないか」
「気になるから……私なんかが……なんだから……いいんです、もういいんですから」
「優衣ちゃんは高倉さん、渡嘉敷さん、星さんって、俺たちを年上みたいな呼び方をしてたよな。高倉さんは実際に年上だけど、渡嘉敷や俺は同い年なのに、いつまでたってもさん付けだ。はじめのうちは丁寧語で喋ってて、今どき珍しい奥ゆかしい女の子なんだって思ってたよ。そのうちには丁寧語は砕けてきて、それはそれで嬉しかった。なのにまた逆戻り? 俺たちは友達だろ。タケとでも呼んで、ですますなんてやめろよ」
「言葉遣いも呼び方もどうでもいいですから」
「切り口上だな。俺たちはきみになにか、失礼なふるまいをした? 女子部ではなんだかんだと言ってたらしいけど、ミクロコスモスのメンバーとして、仲間として友達として、楽しくやってると俺は信じてた。これからだってそうしていけると思ってた。続けてはいけないのか。誰のせい? 俺?」
「私が悪いんです」
「きみはなんにも悪くないよ」
 苛々しているのか、星さんは煙草を取り出して火をつけた。
「星さん……煙草?」
「ああ、俺は品行方正じゃないんでね。これでもけっこうワルなんだよ。高校のときから煙草は吸ってる。煙草ごときでは不良でもないと思うけど、新潟では他にもなにかとやったよ。酒も喧嘩も女もさ。自慢するこっちゃないんだけど、自慢に聞こえる?」
「不良だったって自慢なんですか」
「自慢ではないと言ってるだろ。不良だったんじゃなくて、今でも不良なのかもしれない。その点、高倉さんは真面目で温厚ないい男だよ」
「高倉さんは別に……」
「もしかしたら、聞いてた?」
「なにを?」
 問い返した私の顔には、聞いていた、と書いてあったのだろうか。星さんは無言になって煙草を吸い込んだ。それからふたりとも黙っていて、運ばれてきたアイスコーヒーにも手をつけず、氷が溶けていくのをぼんやり眺めていたら、星さんが口を開いた。
「高倉さんとつきあう気はないんだな」
「ありません」
「すると、高倉さんが悪いんだ。あいつがきみの気持ちを乱して、引いては俺たちの関係をばらぱらにしたんだな。そうとわかっていても、好きになったものは仕方がない。そこに女子部の噂ってのも加わったんだろ。荻野さんも言ってたけど、男子部では変な噂なんか出てないよ。優衣ちゃんって可愛いよな、あんな可愛い子をおまえたちがひとり占めしやがって、って言われたんだけど、ひとり占めじゃなくて三人占めでしょ、って言い返したら殴られたよ。先輩たちってじきに後輩を殴るけど、からっとしてて、俺はそういうのはいやじゃない。三人占めにしてたらよかったのに、高倉さんが……しかし、そういう気持ちになって、そうしたいって思って、俺たちにも話してくれたのは、高倉さんが悪いと言い切れるものじゃないだろ」
「高倉さんは悪くありません。悪いのは私です」
「なんだってそうなるんだよ。誰も悪くなんかねえだろ」
 低くて激しい調子の声に、私はびくんとした。
「悪いとか悪くないって問題でもないんだろうな。人の気持ちはどうしようもないんだよ。きみが俺たちとはやっていけないってのはわかった。俺から高倉さんや渡嘉敷には言っておくよ」
「なんて言うんですか」
「きみにはもはや関係ないんだけど、そうだな。優衣ちゃんは高倉さんじゃなくて、俺が好きなんだってさ、ってのは?」
「そんなふうに言うと……」
「それで俺たち男三人もばらばらになるんだったら、それだけのものだったんだよ。いいさ。どうせ俺なんかは、優衣ちゃんに好いてもらったとしても……これはたとえ話だけど、優衣ちゃんが俺を好きになってくれたとしても、俺にはほうぼうにちょいとつきあってる女だったらいるし、って感じで、格好をつけておこうかな」
「……いるの?」
「いるよ」
 いたら悪いのか、星さんのまなざしがそう言っているように見えて、私はうつむいた。
「仕事の邪魔をしてごめん。叔母さんにはよろしく言っておいてくれ」
 うつむいたままの私の耳に、ひとりで出ていく星さんの足音が聞こえていた。


 夢のように時はすぎ、あのころから何年たったのだろう。私は合唱部を退部し、男子部のメンバーとも女子部のメンバーとも一切の関わりがなくなった。学業と家事と、休暇には「オレンジペコ」でのアルバイトがあって、歌わなくても日々は流れていった。
 ただ、一度だけ、偶然にも高倉さんと星さんと渡嘉敷さんの歌を聴いた。私がいなくなって「THT」と三人のイニシャルを連ねたユニット名に変わって、低い声が三つで、カレッジフォークを歌っていた。「海は恋してる」だと教えてくれたのは、そのころの私が交際していた理学部の男性だった。
 彼の名前も顔も思い出せない。それほどに遥かな時が流れたのだろうか。THTの歌を聴いたのは、私が何年生のときだったかも忘れてしまったのに、三人の歌声は覚えている。
 叔母の援助があったからこそ大学に通え、卒業して、就職にも叔母が力を貸してくれて、気象庁に勤務するようになった。今夜の私は出張で海辺の街を訪れていて、仕事をすませてただひとり、見知らぬバーでカクテルグラスをかたむけている。私はまだ年を取ってはいないのだから、気象予報士になるという志が潰えたわけでもない、来年にはもう一度チャレンジしようかと考えながらも、グラスの中に揺れる昔の幻を見ていた。
 大学一年生のほんの数ヶ月、私はこの幻のように揺れていた。なぜ、こんなにも昔を思い出すのだろう。なぜ? 声が聞こえるから? 星さんの声? 私はひそかに店内を見回した。
「俺はおまえをこそ泣かせてやりたいよ、金子。乾には一年のころから可愛げもあったけど、おまえには可愛げなんてのはひとかけらもなかったもんな。どうやったら泣くんだ?」
 たしかに星さんがいる。カウンターにすわっている星さんの両隣には、男性がふたりいる。金子? 私の席から見える金子という名の男性には見覚えがある。歌手の金子将一だ。彼が私と同じ大学の一年年下だとも知っている。星さんに似た体格の金子さんが、グラスをもてあそびながら言った。
「俺が一年のときでしたよね。星さんにきびしく叱られて殴られて、部屋に戻って泣いてたんですよ。合宿での夜でした。皆実と同室で、声を殺して泣いてたのに気づかれて、わけを話したら皆実にも殴られましたよ。おまえはそれでも男か、そんなことで泣いてる奴は出ていけっておっぽり出されて、おもてに立たされた。雨の夜でしたよ」
 もうひとりの男性は、乾というのだろうか。彼も同じ大学の卒業生なのか。フォレストシンガーズというヴォーカルグループがいて、五人のメンバーが全員、私と同じ大学出身のはず。すると、彼はフォレストシンガーズの乾隆也か。記憶を確認しつつ、そっと見ていると、乾さんが金子さんに問いかけた。
「なにをして泣くほど叱られて殴られたんですか」
「自由時間にひとりでキャッチボールをしてて、近くの家の窓ガラスを割ったんだ。星さんがその家の奥さんに詫びてくれて、そのあとで叱られたんだよ」
「小学生じゃあるまいし。星さん、本当ですか」
「俺は他人を殴ったことなんかないよ」
「星さんまで嘘つきなんだから。俺は殴られましたよ。二、三度」
「覚えてないな」
「俺も人間を殴ったことはない。犬も猫も殴ったことなんかないぞ」
「金子さんもまったく嘘つきなんだから。俺は金子さんにも星さんにも殴られましたよ。あれしきは殴ったうちに入らないんでしょうけど、今だって殴ったじゃありませんか」
「殴ったか、金子?」
「撫でたんですよ」
「そうだな。気持ちよかっただろ、乾?」
「ええ、たいへんに」
 情けなそうな顔でうなずく乾さんの頬が、両側ともに赤くなっている。金子さんも乾さんも合唱部出身だと私は知っているから、彼らが星さんの後輩なのだともわかる。男子合唱部は私がいたころとなんの変わりもなく、卒業してからも男性たちはこんなふうに触れ合っているのだろう。
 とりとめもなく話している彼らの声を、とりわけ星さんの声を、私は不思議な心持ちで聴いていた。金子さんは声も星さんに似ている。とりたてて関心もないので、金子将一の歌を真剣に聴いたことはないけれど、歌声も似ていただろうか。
 低くてメロディアスな星さんと金子さんの声。ふたりと比較すれば高めで明るい乾さんの声。三人の男性の会話は、カクテルとともに、私を酔い心地へといざなってくれていた。
 金子さんと乾さんはプロのシンガーだが、星さんはどんな仕事をしているのだろう。高倉さんや渡嘉敷さんや荻野さんはどうしているのだろう。一切の関りを絶ってから、彼らがどんな道を歩いてきたのか、私はまったく知らない。知る必要もないのだろう。
 やがて、三人の男性は店を出ていき、私もすこし時間を置いて店を出た。彼らは海辺を歩いている。私もなんとなく、彼らのあとをついていった。
 心地よい晩夏の夜の潮風が吹いている浜辺に、三人の男性が腰を下ろす。私もだいぶ離れた場所にすわる。彼らが私に気がついていないのを幸いに、低くかすかに届く男の声を聴いていた。目を閉じて三つの声だけを意識していると、歌声が耳に届いてきた。

「海は素敵だな
 恋してるからさ
 誰も知らない
 真っ赤な恋を」

 ああ、この声は星さん。私が最後に聴いたTHTの歌と同じ、「海は恋してる」だ。

「海が照れてるぜ
 白いしぶき上げて
 えくぼのような揺れる島影」

 この声は金子さん。歌声もどことなし星さんに似ていた。

「海も失恋すんのかなぁ
 涙をいっぱい溜めるのかな
 だけど、あふれ出したら困っちゃうな
 だって、俺、泳げないんだもん」
 
 台詞の部分は乾さんの声。照れたような台詞回しが可愛らしく聞こえた。

「きみは綺麗な海の恋人
 優しく抱かれて
 夢をごらんよ」

 三人の声がハーモニーになって流れていく。海の風と同化して、私の髪を揺らしている。
「僕はああいう古い歌が好きだから、昔のヒット曲を集めたアンソロジーCDで聴いたよ。もともと低い声の男が歌ってるんだ。彼らも三人ともに声が低いから、いい選曲だね」
 そう言っていた、名前も顔も忘れたひとの低い声が、耳元に蘇ってくる。今夜の三人のハーモニーは、乾さんがテナーなのでTHTとはずいぶんちがっているのだが、なつかしさと切なさがないまぜになって、私は思わず小さく拍手した。
「聴いて下さってる方がいらしたんですね。ありがとうございます。女性のひとり歩きですか。夜も遅いですし、お送りしたほうが……」
「乾、野暮だぜ」
「そうですか、金子さん……どなたかと待ち合わせかな」
「そうかもしれない。ね、星さん?」
「そうかもしれないな。お気をつけて」
 私に向かって言っている星さんの声に、私は黙ってうなずきかけた。まさか覚えてもいないだろうし、夜なのだから私の顔は見えないだろうし、けれど、声を出すともしや……まさかね、とひとりで笑って、私は海に視線を向けた。
 海って恋をするのだろうか。そうして泣いたりもするのだろうか。星さんと最後にふたりで会った日の夜に、私もひとりで泣いたっけ。二十歳にもなっていなかった星さんが、不良ぷって大人ぶって、私に言った言葉を私はすべて鵜呑みにして、あんなひとは大嫌い、星さんなんて大嫌い、と考えようとして、なのにそうはできずに、夜通し泣いていた。
 起きたら目がぽっくり腫れていて、叔母は私が泣いていたと知っていただろうに、なにひとつ言わなかった。それからだってなにも言わずにいてくれた。
 その星さんが大人になって、手を伸ばせば届く距離にいる。もはや遠い過去になったあのころの話をしてみたい気もしたけれど、なにもかもが今さらだ。彼は私なんか覚えてはいない。感傷や追憶は振り払って立ち上がった私に、三人の男性が会釈してくれた。
 通りすがりの女にすぎない私も会釈を返して歩き出すと、砂浜のとぎれたあたりに、コスモスの花群れが揺れていた。あのころの私の心のように揺れていた。

END



ここで第一部終了です。ご愛読ありがとうございました。
第二部もあります。まだまだ続きますので、よろしくお願いします。 

 

  
 
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