番外編

番外編10(二十四時間の神話)

 ←小説39(フォレストシンガーズ・ファーストワンマンライヴ2) →小説40(最後の学園祭)
grape1-2006-1.jpg
番外編10

「二十四時間の神話」

1 

窓際の隅っこの席で黙々とカレーライスを食べていたら、カウンター席からよく知っている声が聞こえてきた。
「おまえはひとり暮らしか。カレーなんて飽きてるかな」
 この声はこの声は……振り向きたいけど振り向けない。星さんだ、と気づいて胸がときめきはじめて、カレーの味がわからなくなってきた。おまえと呼ばれた相手は?
「いえ。ひとり暮らしですけど、カレーってそんなには……うちは祖母が料理をしてましたんで、和食が多かったんですよ」
「金沢出身だったな。外食には慣れてないのか」
「昼メシはたいてい学食ですし、夜は自炊してます」
「感心だな。ま、食ってみろ」
 むこうは私がここにいるとは気づいてもいないが、星さんと話している声は乾くんだ。私の席から見える鏡に写ったふたりをちらりと見ると、乾くんはカレーをひと口食べて小声で叫んだ。
「か、からっ……なんですかっ、これはっ。口の中が火事ですっ」
「男がカレーごときでうろたえるな。食え」
「全部?」
「食いものを残すな」
「……はい。うへ、からっ、水……からぁっ」
「うるさいな。うまいだろ」
「ひと口はうまかったんですけど、からすぎて味もなにも……東京のカレーってこんなのですか。ばあちゃんのカレーは優しい味だったのに」
「世の中は優しくも甘くもねえんだよ」
「はい」
 うまいじゃないか、と星さんは平然とカレーを平らげつつ、にやっとした。私は彼らと目が合わないように、時おり隙を窺って鏡を見ていた。
「それは辛味のレベル2だぞ。俺のは5だ。ここは10まであるんだよ。今度は10に挑戦しろ」
「10なんて……口がしびれます」
「弱音を吐くな。食え」
 星さんに命令されて、乾くんがつらそうにカレーを食べている姿が鏡に写る。しばらく黙って食事をしてから、乾くんはなにか言いたそうに星さんを見、言いにくかったのか、煙草を取り出した。
 未成年のくせにお店で煙草なんか吸って、いいのだろうか。私も乾くんと同じ一年生で、十八歳なのだから、煙草はひとりの部屋でしか吸わない。十八歳で煙草を吸うなんてのはよくある話だろうから、乾くんにしても不良じみたタイプでもないのだから、普通なのかもしれない。
 そしたらかまわないのか。私も吸おうかな、とバッグを探していたら、鏡の中で星さんが手を上げた。そろえた右手の指先が乾くんのほっぺたをびしっとやり、乾くんは首をすくめた。
「いてっ」
「これしきのどこが痛い。ガキがなんだ、煙草とは」
「ああっと……すみません」
「レベル2のカレーでひいひい泣いているガキが、煙草とは生意気なんだよ。箱ごとよこせ」
「はい」
 乾くんは星さんに煙草を没収され、私も慌てて取り出そうとしていたパッケージをしまった。
「高校くらいから吸ってるのか」
「……いえ、吸ってません」
「嘘つけ。乾、忠告しておいてやるよ。煙草はこっそり隠れてやれよ。俺は先輩として、成人として、今はおまえの保護者みたいなものなんだから、堂々と煙草を吸ってるのを見逃すわけにはいかないけど、おまえがこっそりやってるのまでは知らないもんな。誰もいない場所で吸え」
「わかりました」
「痛かったか。泣くのか」
「痛くなんかありませんから泣きません。でも、星さんだって吸ってるのに」
「馬鹿野郎。俺は二十歳はすぎてるんだよ」
 四年生の星さんが二十歳をすぎているのは当然だ。星さんは乾くんから取り上げた煙草を自分がくわえて火をつけ、さもおいしそうに深々と吸い込んだ。
「乾、俺になにか話があったんじゃないのか」
「えーとですね……星さんが一年生のときに女子部のキャプテンだった、里中アリスさんをごぞんじですよね」
「ハーフの美人だろ。知ってるよ」
「里中さんは今は文学部の院生でして、俺、学部でお世話になってるんです。こうなったら単刀直入に言いますが、里中さんは星さんが好きだそうです」
「ほお、三つ年上のあんな美人がか。嬉しいね」
「里中さんに、つきあってほしいって言って下さいますか」
「あのな、乾、そういうときにはまずは、星さんには恋人はいないんですか、と質問してからだぜ」
「ああ、そうか。いるんですか」
「今はいないよ」
「昔はいた?」
「当たり前だ」
 今はいない? 昔はいたのは当たり前だろうけれど、今はいない? 私はひたすらに耳をふたりの会話に集中させていた。
「大学に入ってから何人かな。両手の指でも足りないな」
「そんなに?」
「足の指も足したらなんとか足りるか。ついこの間まではほら、フレンチロックの女性シンガーが来日してただろ。彼女にひとめ惚れされて口説かれて、いやだと言ってるのに襲われてさ」
「え? あの来日していた? 星さん、そんなことを話したらいけませんよ」
「いけなくないだろ。終わったんだから。それから、ニュースキャスターのあの女……うちの大学の先輩。知ってるだろ」
 うちの大学の先輩女性ニュースキャスターは、ひとりしかいないはずだ。あのひとと? 星さんったら……乾くんは呆然と星さんの話を聞いているが、私は腹が立ってきた。とはいえ、むこうに割り込んでいくわけにもいかないので、気づかないで、と念じながらただ聞いていた。
 あのひともこのひとも、あの女もこの女も、と星さんの話は続く。もてたって自慢話……星さんって馬鹿だったんだ。けれど、でも……腹が立つのを通り越して悲しくなっていると、乾くんが感嘆しきりの声を出した。
「すげぇ。星さんだったらありますよね。そんなにもてるんだ。だけど、やっぱりそういうのってあまり話さないほうが……」
「いいじゃないか。嘘なんだから」
「嘘?」
「俺の好みのタイプの有名人を並べ立てたんだよ。あるわけねえだろ、バーカ」
「……星さんだったら信憑性があるんですよ」
「ねえよ。ガキだな」
 嘘……私はがくっとしそうになり、それでも安心し、再びふたりの会話に聞き耳を立てた。
「ま、女は何人かいたけど、清算したよ、みんな。今は好きな女の子がいるんだよ」
「そうなんですか」
「里中さんには会ってもいいぜ。一夜だけだったらつきあってくれますか、って言うよ」
「……好きなひとがいるのに?」
「里中さんもそれでもいいって言うかもしれないだろ」
「女のひとはそんなふうには言いませんよ」
「おまえは女を知らないな」
「知ってます。高校時代には彼女もいました」
 高校時代か、とせせら笑ってから、星さんは真顔になった。
「おまえはなんでも本気に受け取るんだな。一年生なんてそんなもんか。うん、いや、俺は彼女に操を立てる。彼女に断られたら、改めて里中さんを口説くよ」
「そんなの、里中さんはいやがりますよ」
「さあね、どうだろうね。おまえもいつまで女に幻想を抱いてられるのかな」
「……幻想ですか」
 やがて、私にはまったく気づきもしないままに、星さんが支払いをして、ふたりは店から出ていった。私も一分ほどしてから店を出た。
 好きなひとがいる。なのに、里中さんとは一夜だけだったらつきあいたい。大学生の男なんて、本音を言えばみんなそうなのかもしれない。里中さんは文学部の院生だそうだから、社会学部の私は彼女を知らない。星さんの三つ年上ということは、私の六つ上なのだから、知るわけがない。
 ハーフの美人、もと合唱部の女子部キャプテン。背が高くて綺麗な顔をした、綺麗な声の女性なのだろう。大学院に残って学問をしているのだから、頭もいいのだろう。そんな女性にも星さんは恋をされている。
 青葉したたる五月の街は初夏の爽やかさにあふれているけれど、私はちっとも爽やか気分になれない。星さんなんて馬鹿じゃないの。そんな男を好きだなんて、外見に惑わされているだけじゃないの。渚、目を覚ませ、と自分を叱咤してみても、だって、好きなんだもん、と弱気に呟く私がいる。
 一ヶ月くらい前にキャンパスを歩いていたら、あとで名前を知った高倉さん、星さん、渡嘉敷さんの低音トリオが仮設ステージで歌っていた。目を引いたのは星さん。背が高くて彫りの深い顔立ちで、まろやかな低い声が魅力的だった。
 他のふたりが凡庸な男性だったせいもあるのだろうが、星さんのかっこよさは三人の中でも際立っていた。これはなに? 合唱部の勧誘活動? サークルか。私はサークルなんてどうでもいいと思っていたけれど、合唱部って悪くないかもしれない。
 ステージの横には別の男性がふたりいたので、私は彼らに歩み寄っていった。そのふたりもずいぶんとかっこいい男性たちで、ひとりが教えてくれた。
「小田桐渚さん? いいお名前ですね。俺は金子将一、男子合唱部の三年生です。彼は俺と同じ三年生の皆実聖司。歌っているのは四年生で、男子部キャプテン高倉さん、副キャプテンの渡嘉敷さん、それから星さん。あなたも魅惑的な声をしてるね。アルトパートかな。では、女子部室に行って下さい」
 お言葉に従って入部はしたものの、ただの気まぐれにすぎなかったのだから、一ヶ月がたっても私は女子部のメンバーたちとすらも親しくなっていない。練習も怠けがちで、先輩に白眼視されている気もする。小田桐さん? 知らないな、と同年齢の女の子たちも言うだろう。なのに、星さんだけは別だ。
 部員が多くて、熱心ではない子も大勢いるのだから、さぼってばかりいても目立たないけれど、合唱部なんかに入ったのがまちがいだったのか。星さんと恋人同士になれるんだったら、合唱部に入ってよかったと思えるのだろうけど、彼には好きなひとがいるという。
 たぶん星さんは、小田桐渚という女子部の一年生を知りもしないだろう。なのだから、星さんの好きなひとが私であるわけがない。乾くんも私を知らないのか。カレーショップでも気づかれないようにする必要もなかったのかもしれない。
 外見も声も好みなのはまちがいないが、ひと目惚れではなかった。高倉さんや渡嘉敷さんと歌っている星さんを見たときには、かっこいいと思っただけだ。かっこいいと感じた男のすべてに恋をしていたら、身体がいくつあっても足りはしない。
 なのにいつしか……私は星さんが……さきほどの乾くんとの会話を思い出してみると、星さんは好きなひととやらと恋人同士になったのではないようだ。よし、だったら私が横から奪って……みせる? 無理じゃない? 星さんの好きなひとが誰だか知らないけど、きっと綺麗な女なのだろう。私はごくごく平凡な女なのだから、横から略奪するなんて無理に決まっている。
 お昼を食べて学校に戻り、気の乗らない講義を一応は受けて合唱部室に行くと、四年生たちが女子部で名簿を前に話していた。
「今年も新入部員はおおむね出揃ったかな。名簿の整理をしなくちゃ。男子と女子がごっちゃになってないか」
「男性だか女性だかは名前で識別できるでしょ。きちんとファイルしてないの?」
「したつもりだけど、男子部は星がさ……星、来てないのか」
「星さんは来てないみたいね。星さんって几帳面なのは苦手なんじゃない? 男子部のファイルを見せて下さい」
 この発言は女子部キャプテンの坪井さんだ。大勢いる部員の名前を私は把握していないのだが、主要メンバーだったら覚えた。坪井さんが高倉さんから男子部の名簿を受け取り、渡嘉敷さんが女子部の名簿を眺めて言った。
「まじってるよ。これ、男だろ」
「名前からすると……誰か、この名前を知ってるか。金子のほうが星よりもこういうのは得意だろ。金子、いたか。来い」
 一年生の私は黙ってそちらを見ていて、高倉さんに呼ばれた金子さんが名簿を見た。
「女性ですよ、彼女は。そこにいるじゃありませんか」
「……ああ、彼女? これはどうも失礼」
 照れ笑いの渡嘉敷さんが、私に軽くうなずきかけた。
 小田桐渚、男にも女にもある名前だ。男女混合名簿だったりするとまぎらわしい。男性向けグッズの案内DMなどが、小田原の実家にも現在の住まいにも届いたりする。いっそ男の子だったとしたら、乾くんみたいに星さんにランチをおごってもらって、可愛がってもらえたかもしれないのに。
 ううん、そんなの無意味。私は女の子として、星さんに好きになってもらいたい。星さんが好きだと言っているひとと恋人同士になる前に、なんとかしなくっちゃ。


 歌ではなくて興味の対象はほとんど星さんなのだが、むろん誰にも言えない。そんな不純な動機で合唱部にいるなんて、退部しなさい、と坪井さんあたりに言われそうだ。
 合唱部は男子部、女子部と分かれていて、部室も別々なので、好きなひとの顔を見たいなどとなると不便だが、同じサークルではあるのだから、合同練習も合同飲み会もある。今日は夏休み終盤に行われる主催コンサートの練習日で、一年生の混声合唱の指導には、三年生男子の金子さんと三年生女子の服部さんが当たってくれていた。
 課題曲の練習をしていると、一年生の女の子が別の女の子に耳打ちしているのが見えた。最近は以前よりは熱心に練習をしているので、一年生の名前は覚えつつある。私を横目で見てとなりの女の子になにか言っているのは、八幡早苗だ。
「早苗ちゃん、練習中に私語は禁止だよ」
 咎めたのは服部さんで、早苗は口をとがらせて反抗した。
「だって、音痴がいるんですもの」
「音痴なんていないでしょうに。耳にさわるの?」
「さわりまーす。音程がずれてる女子がいます。アルトの子に」
「他のみんなもそう思う? 私は気づかなかったな。金子くんは?」
「いや、特には気づかなかったよ。練習段階なんだからずれるってのもまだあるだろうし、なにしろむずかしい歌なんだから、最初から完璧には歌えないよ」
 コーラスアレンジは金子さんがしたのだそうで、もと歌よりは平易になっているのだが、歌詞が文語体でむずかしい。「梅雨の晴れ間」という古い歌の楽譜とは別に、ルビつきの歌詞カードも配られていた。ルビも文語タッチだ。

「廻(まは)せ、廻(まは)せ、水ぐるま、
 けふの午(ひる)から忠信(ただのぶ)が隈(くま)どり紅(あか)いしやつ面(つら)に
 足どりかろく、手もかろく
 狐六法(きつねろつぱふ)踏みゆかむ花道の下、水ぐるま……

 廻(まは)せ、廻せ、水ぐるま、
 雨に濡れたる古むしろ、円天井のその屋根に、
 青い空透き、日の光
 七宝(しつぱふ)のごときらきらと、化粧部屋(けしやうべや)にも笑ふなり。

 廻(まは)せ、廻せ、水ぐるま、
 梅雨(つゆ)の晴れ間(ま)の一日(いちにち)を、せめて楽しく浮かれよと
 廻り舞台も滑(すべ)るなり、
 水を汲み出せ、そのしたの葱の畑(はたけ)のたまり水。

 廻(まは)せ、廻せ、水ぐるま、
 だんだら幕の黒と赤、すこしかかげてなつかしく
 旅の女形(おやま)もさし覗く、
 水を汲み出せ、平土間(ひらどま)の、田舎芝居の韮畑(にらばたけ)。

 廻(まは)せ、廻せ、水ぐるま、
 はやも午(ひる)から忠信(ただのぶ)が紅隈(べにくま)とつたしやつ面に
 足どりかろく、手もかろく、
 狐六法(きつねろつぱふ)踏みゆかむ花道の下、水ぐるま……」

 大学合唱部ともなると、一年生の合唱もこんな歌になるのだ。もう一度、と金子さんが言い、一年生男女が歌った。歌い終わると、金子さんが早苗に尋ねた。
「八幡さん、まだ耳についた?」
「つきます。私は耳がいいんですよ。それにさ、一年生の中ではいちばーん歌がうまい男子ふたりがいないんだもの。それだけでもレベルが落ちちゃうよね」
「本橋と乾か。彼らはデュエットの練習だよ。あいつらがいなくてもきみたちは全員で上達して、完璧に近いコーラスを完成させる。そのつもりで歌え」
「徳永くんもいませんよ」
「さぼってる奴はいいんだよ。徳永には俺があとでさぼりの理由を問い質しておくから、きみは気にしなくていいんだ」
「徳永くんったら……」
「早苗ちゃん、本橋くんも乾くんも徳永くんも、今は関係ないんだよ。あなたは自分の練習に全力を尽くしなさい」
「そうそう。服部さんの言う通り」
 すこしずつ合唱部の内部事情を知っていくと、男子部の内部も見えてきた。本橋くんと乾くんはキャプテンにえこひいきされていて、一年生の他の男子が妬んでいるとか、徳永くんは本橋くんと乾くんの陰に押しやられていて、実力があるのにナンバースリーの座に甘んじているとか。
 女子部は歌の実力はあまり問題視されていないようだが、男子部はライバル意識がほうぼうで燃え盛っている。四年生の主要三人、星さん、高倉さん、渡嘉敷さん、三年生の金子さんと皆実さん、一年置いて、一年生の本橋、乾、徳永、男は闘争本能が強いから、というのもあるのだろうか。特に一年生三人はライバル意識が激しいのであるらしい。
 中では乾くんがもっとも低いが、本橋くんも徳永くんも乾くんも背が高い。星さんと金子さんと皆実さんも高い。全体的なルックスはなんたって星さんが一番だけど、女によっては、徳永くんがいいとか金子さんのほうがいいとか言うだろう。
 そうして私が考えをよそにそらしているうちにも、早苗はまだなにやら不平を言っている。音痴がいる、歌えない、邪魔になる、とぶつぶつ言っている早苗を見て、喜多晴海が手を上げた。
「服部さん、発言していいですか」
「いいよ。なに、晴海ちゃん?」
「音痴じゃなくてまだちゃんと歌えてないからでしょ。音痴っていうんじゃないと思います」
「私もいいですか、服部さん」
「美江子ちゃん、どうぞ」
 女の子たちは姓ではなく名前で呼び合っている場合が多いようで、服部さんに指名されたのは山田美江子だった。
「たしかにすこし、音がずれてるんです。私もそうなんだけど、そんなには上手ではないひとが何人もいますよね。そこをまとめていくのが……」
「そうだよ、山田さん。そのために練習してるんだよな。こら、そこのふたり、ごそごそするな」
 服部さんや美江子には穏やかな口調だった金子さんが、端っこでつつきあっている男子たちを一喝した。
「椎名、和田、おまえたちはどう思う?」
「ええと……」
「すんません。聞いてませんでした。なんの話しですか」
「……聞いてなくてもいいけど、だったらおとなしく立ってろ。ごめんね、山田さん、喜多さん、発言を続けて」
「私は続けたらいけないの?」
「八幡さんも言いたいことがあればどうぞ。他の一年生もなんでも言ってもいいよ。服部さん、一旦休憩して討論しようか。椎名、和田、売店でウーロン茶でも買ってこい」
 金子さんにお金をもらった男子ふたりが外に出ていくと、めいめいにすわって、服部さんが言った。
「早苗ちゃん、あなたはなにが言いたいの?」
「はっきり言っていいですか。音痴だし、そのくせ真面目に練習しないから、下手くそで聴いてられない子がいるんですよ。男子にもがなってるみたいな歌い方の子がいたけど、女子のその子は調子っぱずれで、自覚してなくない、あなた? えーと、名前はなんだっけ?」
 まったく無関係だと思い込んでいた私は、早苗に指さされてびっくりした。
「え? 私? 音痴ですか、私……」
「音痴じゃないよ。小田桐さんの調子はみんなとちょっと合ってないけど、さっきからも言ってる通り、練習段階だからだ。合ってない者は他にもいるんだけど、八幡さんは小田桐さんと立ち位置が近いから耳についたんだね。練習を積めば合ってくるよ」
「そうかな。小田桐さんっていうの? 生まれつきの音痴じゃないの? やめといたほうがいいと思うけどな。金子さんったら優しすぎません?」
「早苗ちゃん、あなたにやめたほうがいいなんて言う権利があるの?」
「だって……服部さんも優しすぎるっていうか……」
「だったら言うけど、あんたもあんまり合ってないよ」
 晴海がぼそっと言い、美江子も言った。
「私も下手だからやめたほうがいいのかな。そしたら、半分くらいやめないといけなくなるんじゃない? ねえ、晴海ちゃん?」
「美江子ちゃんもあんまり上手じゃないよね。私も合ってなかった気がする」
 私もかな、と他の女子も言い、俺もかも、と男子も言い、金子さんが両手で全員を制した。
「何度も言うけど、ハーモニーってのは練習を重ねて合ってくるものなんだよ。八幡さん、納得してくれた? ああ、和田、椎名、ご苦労さん。紙コップがあっただろ。お茶を入れて」
「俺たちが? そういうのって女の子が……」
 どちらがどちらだか私は知らないが、ペットボトルをぶらさげて戻ってきた男子のうちひとりが言い、金子さんは言った。
「男はお茶を入れられないのか。そうか、じゃあ、俺がやるよ」
「いいえ、やりますっ」
「何人います? えーと……和田、紙コップ」
 椎名、和田両名はお茶の支度にとりかかり、金子さんは早苗に視線を向けた。
「全員が一からスタートだよ。八幡さんも同じ。わかったね?」
「本橋くんたちは……」
「本橋くんと乾くんは格がちがってるのよ。そういうひとだっているんだけど、他はみんな横一直線。お茶を飲んだら練習しようね」
「服部さんったらずるい」
「早苗ちゃん、ちょっと外に出る?」
 横目で早苗を睨む服部さんを、金子さんが苦笑して止めた。
「おいおい、服部さん、穏やかにやろうね」
「こんなふうに言ってるのが一年生の男子だったとしたら、金子くんはどうするの?」
「もちろん、穏やかに説得するよ」
「そうかな。ま、いいわ。和田くん、椎名くん、ありがとう。喉が渇いたからお茶がおいしいね。ね、早苗ちゃん?」
 つんっとして、早苗は紙コップを手に取り、美江子が私にこそっと言った。
「小田桐さん、同じアルトパートなんだから、あとでアルトの女子ばかりで練習しようか」
「私、そんなに下手?」
「私のほうが下手だよ」
「そうかな。あ……お茶」
「おっと」
 素早く立ち上がって身を遠ざけた美江子のスカートに、早苗がこぼしたお茶がかすかにかかった。わざと? なんで? 私は首をかしげていたのだが、ふたりともになにもなかったような顔をしていた。

 
2

 帰りがけに服部さんが言った。
「小田桐さんってひとり暮らし? アパートは? 私のアパートに近いんだね。いっしょに帰ろうよ」
「はい」
 うしろをすりぬけざま、早苗が捨て台詞を残していった。
「ひいき? 私、服部さんにひいきされてるんですか」
「私にひいきされたってなんにもならないよ。早苗ちゃんって……いいか。ね、小田桐さん、ついでだからごはん食べて帰ろう。私もひとり暮らしなの。神奈川出身なんだけど、厚木だから自宅通学はできないんだよね」
「服部さんも神奈川ですか。私は小田原です」
「ふるさとも近いんだ」
 背が高くてすらーっとしている服部さんは、ファミレスの席にすわるころには、私を渚ちゃんと呼んでくれるようになっていた。
「私は服部一葉っていうの。樋口一葉と同じ字で「カズハ」って読むんだよ。グラフィックデザインを専攻してるの」
「すると、デザイナー志望ですか。私は社会学部で、観光学科に進みたいんです」
 こうして合唱部の誰かと食事をして、話をするのははじめてだ。学部にも特別な友達はいないので、いつだって私は食事もひとりだった。互いのプライベートな話をしているうちに、合唱部の誰彼の噂話しに流れていった。
「早苗ちゃんって対抗意識が強いのかな。彼女は美人だっていう強烈な自意識もあるんだろうね。美江子ちゃんだとか香奈ちゃんだとか晴海ちゃんだとか、坪井さんだとか大野さんだとか沢田さんだとか、綺麗な女には敵意を向ける傾向があるんだよね。大野さんっていうのは私と同い年の莢子ちゃん。沢田さんはひとつ年下の愛理ちゃん」
「先輩の名前は全部は覚えてないし……香奈ちゃんって今日もいました?」
「今日はいなかったね。吉崎香奈ちゃんっていうのよ。乾くんとつきあってるの」
 入部して二ヶ月もたつと、誰と誰がつきあっているという話も出てくるのだろう。サラダとパスタをオーダーして、服部さんは言った。
「早苗ちゃんは先輩にはまあまあ遠慮がちなんだろうけど、同い年になると対抗意識が強くなるのよね。渚ちゃんを攻撃したのも、あなたが美人だからかもしれないよ」
「私は美人じゃありませんけど、美江子さんも美人?」
「美江子ちゃんはぱっと見は地味目だけど、よく見るとかしこそうな美人だよ。あの星さんが選んだんだから、そりぁね」
 星さん? 星さんと美江子が? 星さんの好きなひとって……頭がくらっとしたのをこらえていると、服部さんはなにも知らぬげに続けた。
「渚ちゃんは真面目に活動してないから知らなかったんでしょ。美江子ちゃんが自分で言ってたよ。星さんに告白されて、恋人になったんだって。星さんって大人気だから、なんであんな子と、って怒ってる女子も数知れず、なんだけど、選ばれた者の強みかな。美江子ちゃんはどこ吹く風って感じだよ。強いね」
「そうだったんですか。服部さんは彼は?」
「いるよ。いいじゃない、私の彼なんて……それより、金子くんはどう?」
「どうって……」
「星さんもかっこいいけど、金子くんも皆実くんも負けてないでしょ。でも、私は金子くんって嫌い。憎たらしい」
「憎たらしいんですか」
 サラダとバスタが運ばれてくると、服部さんがとあるエピソードを話してくれた。
「私の彼は背が低いの。私よりも低いの。だから、私は背の高い男が嫌い。星さんは別に嫌いじゃないけど、あの遊び人は……美江子ちゃんには内緒だよ。去年だったっけ。合唱部をやめてしまった男の子がいたのね。彼も背が低くて、そのせいで金子くんを嫌ってて、ふたりして金子くんに仕返ししてやろうよって相談したの」
「背が高いから嫌いって……他にも背の高いひとはいるのに?」
「金子くんはかっこよすぎて憎らしいのよ。弁も立つし頭もいいし、東京生まれの東京育ちで金持ちの坊ちゃんで、顔だってあれじゃないの。金子くんファンもいっぱいいるけど、私はああいう男は嫌い。男は身長でも顔でもお金でもないの」
「そうですよね」
 してみると、服部さんの彼はそのどれもを持っていないのだろう。
「仕返しって……金子くんになにかされたんじゃないけど、なんとなく憎らしいから仕返ししてやろうって決めたんだ。去年の合宿で小細工を弄して、遠泳で私が金子くんに勝って、横内くんが言ったのよ。もっとやらない? ってね」
「金子さんに遠泳で勝ったんですか」
「私は水泳は大得意なんだけど、小細工したって言ったでしょ。でないと金子くんには勝てないよ。あれは痛快だったよ、服部さん、かっこよかったよ、って横内くんが言って、私もその気になっちゃったんだ」
 横内という名の男性が、退部してしまったというひとらしい。
「一年生のときにも二年生のときにも、金子くんは歌だけじゃなくて、楽器もやらされてたの。ハープだのフルートだのって大変だったみたいだけど、初体験の楽器だってものすごく上手にこなすんだよ。憎らしいでしょ」
「そう……かな」
「憎らしいのよ。それでね、金子くんは去年はフルートの練習をしてたから、中にものを詰めてみたり、ばらばらにして三つの部品を別々に隠したりしたんだけど、金子くんは全然動じないの。子供のいたずらみたいのじゃ効果がないと思ってたら、横内くんが耳寄り情報を持ってきた」
 携帯用ゲーム機で、金子さんはRPGをやっていたのだそうだ。クリア寸前までいってセーブしてあったゲーム機を持ち出してきた横内さんが、服部さんに言った。
「ここでデータを消してやったら、さすがのあいつも怒るよ、怒らせよう、って横内くんは言ったんだけど、やる勇気がなかったのね。私にやれって言うからやって、横内くんが金子くんのバッグに戻しておいた。だけど、金子くんったら怒りもしない。横内くんのほうこそ気になって気になって、それとなくのつもりで訊いてみたら、やったのはおまえかよ、ってなったらしいのね。横内くんときたら、ちがうよ、服部さんだよって……なのに、それでも金子くんは私にはなにも言わなくて、だいぶたってから、あれ、クリアしたよ、って私に話しかけてきたの」
 二度目? と服部さんは問いかけ、二度目はむしろやりやすかったよ、と金子さんは答えた。
「そんなんで怒る男じゃないみたいね。横内くんは退部しちゃったし、つまんないからいたずらもやめたんだけど、怒らせる方法はないかな」
「さあ……私には思いつきませんけど……」
「だから私は、金子くんは嫌いなんだけど、ああしていっしょに一年生の指導なんかしてると、役に立つ奴だとは思うよ。私がひとりでやってたら、早苗ちゃんを怒鳴りつけかねないもんね」
 仕返しというよりもいたずらの話を聞いて気がまぎれていたのだが、服部さんにごちそうしてもらった食事がすんで、近くまでふたりで帰り、住まいにたどりつくと思い出した。
 なんとかしなくちゃ、と決意したものの、私がなにもできないでいるうちに、星さんは美江子に告白して恋人になってしまった。私には美江子は美人だとは思えないけど、星さんにはそう見えるのか。男は顔でも身長でもないのだとしても、女は外見だろう。
 ひょっとしたら早苗も星さんが好きで、そうと知っていて、美江子にお茶をひっかけた? そんなのどうだっていいけど、早苗よりは美江子のほうが、星さんの恋人としてはふさわしいだろう。今はそう思って、ざわつく気持ちをなだめているしかなかった。
「はいはい、うるさいな」
 そうしていると電話が鳴った。出てみると案の定、母だった。
「渚、いつ帰ってくるの? 夏休みは?」
「三日にあげずかけてこなくても、変わりないよ」
「合唱部は楽しい? そんなの私にはどうだっていいんだけど、夏休みには帰っておいでよ」
「夏休みは合唱部の合宿があるの。合唱部ってすっごく練習が忙しくて大変だから、夏休みは帰れそうにないのよ。そのうちにね」
「そのうちそのうちって……」
 お母さん、寂しいわ、と言いかけているのを遮って電話を切り、結局、星さんは諦めるしかないのかな、そうなんだよね、お母さん、と呟いてみた。


いたずらでもしてみたら星さんの気を引けるのかもしれないけど、美江子とつきあいはじめた星さんの気を引いても、今さらどうにもならないだろう。乾くんとカレーを食べて、好みのタイプの女性を並べていた星さんの台詞を思い出してみると、美江子はそのタイプではない気がするのだが、恋は外見ばかりではないのか。
 夏の合宿には行かなかったので、そのときになにがあったのかは知らない。私はあいかわらず女子部のメンバーとも仲良くはしていないので、噂を聞かせてくれる子もいない。星さんと美江子は顔を合わせてもよそよそしいふうをよそおっているが、ふたりきりになると……変な妄想が起きそうになるのは私だった。
 合宿に行かないと猛練習ができなくて、私はコンサートにも学園祭にも欠席した。そんなこんなで疎外感が募り、時たまにしか部室に顔を出さないでいるうちに、一年生もほとんど終わりに近づいてきていた。
「……ここに入れておいたらいいかな」
 退部届けを持って部室を訪ねたときには誰もいなくて、デスクの引き出しに届けを忍ばせた。こうしておけば誰かが見てくれるだろう。届けもなしにやめてしまうひともいるのだから、お行儀が悪くもないだろう。はじめのころには練習にも参加したけれど、結局は私は合唱部のはぐれ者だった。
 結局は誰とも親しくもならず、すこし優しくしてくれた服部さんにも、相談さえしなかった。私の名前と顔を一度で覚えてくれた金子さんとも、好きだった星さんとも、話もろくにしなかった。はじめから合唱部になんか入らなかったらよかったのかもしれない。
 サークル活動なんてその程度のもの。中学生や高校生だったら、部活で苛められたのを苦にして世をはかなんだりもするらしいけど、私はそこまで子供じゃないし。苛められたわけでもなく、歓迎してもらっていたのでもない私は、ひっそりやめていけばいい。
 一度だけ振り向いて一礼して、私は部室から出ていった。青葉の季節に大学に入学して、合唱部にも入部して、あれから季節がすぎて、今は雪がちらほらと舞っている。星さんはもうじき卒業だ。
「おや、きみは?」
 部室を出て歩いていたら、そのひとが私の目の前にいた。
「……星さん……」
「近頃は合唱部は活動休止状態だろ。なにか用事だった?」
「退部届けを出しにきました」
「そうか、やめるのか」
「はい」
「俺ももう引退したようなものだけど、届けを受理しておくよ。ほんの二ヶ月ほどしたら来期の女子部キャプテンが決まる。来期は大野さんらしいんだけど、坪井さんだか大野さんだかにわかるようにしておくから、ちょっと待ってて。いっしょに出よう」
 こうしてはじめて星さんとふたりで帰るのは、彼が卒業してしまう間近。私が退部届けを出した日。皮肉なものだ。ふたりで歩き出すと、私は言った。
「星さんはなんのご用だったんですか」
「用はないんだけど、部室には二度と来ることもないかなってさ。ガラにもなく感傷なのかもしれない」
「感傷的になってしまうものなんですか。あの、美江子さんとは?」
「別れたよ」
「……別れたの?」
「俺は就職するんだよ。すでに研修もやってるし、半分は社会人だ。こうなってみると大学一年生で、これからも気楽な学生でいられる彼女とはつきあっていられない。しようがないな。ええと……」
「私の名前、知らないんですか。渚です」
 敢えて姓を告げなかった私を、星さんが誘ってくれた。
「今日は時間があるんだ。渚ちゃんは? メシでもどう?」
「星さんと私の送別会?」
「なんだっていいよ。行こう」
 ここへは美江子とも来たのだろうか。ここには来なかったのだろうか。学校の近辺にある小さな繁華街は、どの店もこの店も、いつもは学生たちで賑わっている。今日は学校にも人影は少なかったから、星さんに連れられていった静かなレストランにもお客は少なかった。
「酒は?」
「飲んでもいいんだったらいただきます。保護者がついてるんだし」
「ちょっとだったらいいんじゃないのかな」
「美江子さんにも飲ませた?」
「ちょっとだったらな」
 焼酎のお湯割りとライムサワーと突き出しが出てくると、星さんは煙草を取り出した。
「私も」
「あれ? きみも吸うのか。女の子が煙草ってのは……」
「美江子さんは吸わないの?」
「吸わないんだろうな。あいつが煙草を吸ってるのは見たことないよ。おまえは煙草が好きか? って訊いたら、嫌いだって言ってたから、俺もあいつの前では吸わなかったな」
「私は煙草は嫌いじゃないし、自分も吸うんだからへっちゃらですよ」
「きみは未成年だろ」
「十九歳です」
「十九歳は未成年じゃないか。まあ、いいけど。酒も煙草も好きにやってくれ」
 どうでもいいから好きにすればいい、と言われているのだろう。乾くんにはあんなふうに……もしも美江子が煙草を吸ったとしたらどんなふうに……? これまでは人前では吸わなかった煙草を取り出して、ふたりともに煙を漂わせて無言でいた。
 料理が運ばれてきても、星さんは手をつけない。きみは食えよ、と言って煙草を吸っている。私なんかといても楽しくないんだったら、誘わなかったらいいのに。むしゃくしゃしてきたので、私はひとりで喋り出した。
「じゃあ、いただきます。私は合唱部にはまともに行かなかったから、あまりよくは知らないんですけどね、それでも時々は行ってたし、星さんと美江子さんの様子を見たりもしましたよ。他人同士みたいなふりをしてすれちがうときに、美江子さんが星さんをちらっと見るの。星さんも美江子さんを見るの。目と目が雄弁に気持ちを語り合ってるってああいうのかな。男のひとの気持ちはよくわからないけど、美江子さんは星さんに思い切り恋をしてたんだろうな。そんな目をしてた。今、ちょっぴりだけ星さんが美江子さんの話しをしたでしょ。私には星さんの心はやっぱりわからないけど、美江子さんはどうだったのかな。星さんが別れようって言ったんだよね」
 黙って首を縦に振り、煙草の煙を吐き出す。焼酎をひと口飲む。遠くから見ている分には年齢以上に大人びた雰囲気を持っていた星さんは、いっそう大人の翳をまとって見えた。
「泣かなかった、彼女は?」
「泣かせなかったんだよ」
「どうやって?」
「美江子の話はいいだろ」
「泣かせなかったってどうやるの? 泣きたくなったらなにをどうしたって泣くじゃないの」
「あいつは……だから、いいんだよ、そんな話ばかりするな」
「そしたらなんの話をするんですか」
「きみと飲んでるんだから、きみの話をしろよ」
「私は……」
 約一年、なんにもしないですぎていった気がする。合唱部はさぼりっぱなし。学業にも熱が入らず、アルバイトもせず、趣味もなく、友達もなく、星さんが好き、なんて思っていても、なにひとつ行動を起こさずに、美江子とつきあいはじめたと聞いて諦めてしまったようなものだ。
「なにをしてたんだろ、私……そう訊かれたら愕然としちゃう。この一年って……私、なんにもしてません、なーんにも」
「なんにもしてなくはないだろ。煙草を何箱も灰にして、酒も飲んでメシも食って」
「そんなのはなにかしたとは言いません」
「そうか。じゃあ、高校のころの話は? きみはどこの出身?」
「小田原です。小田原のかまぼこ屋の娘」
 かまぼこ屋といっても大手の製造業者のひとり娘として生まれた私は、母の秘蔵っ子であったらしい。父は仕事が忙しかったのだが、母が旅行好きで、小さな私を連れてほうぼうに旅に行った。私が観光業を学びたいと考えるようになったのは、まちがいなく母の影響だ。
 若くして結婚した母は私と二十歳しか年齢に差がなくて、私が成長するにつれて友達のようになっていき、遊びにいくとなるといつもいつも母とばかりだった。
「渚ったら、友達と旅行に行くって言うの? 私は連れてってくれないの。私とも行こうよ。友達となんか行かないで、私と行こうよ」
 観光業を学んで旅行関係の仕事をしたい、と志望したのもあるが、東京の大学を選んだのは、母から離れたいためもあった。私が東京に行くと言ったら寂しそうに、それでも反対はせずに、休みのたびに帰ってきてね、と言っていた母。が、私は一度も故郷に帰っていない。
「夏休みは合唱部の合宿があるし、冬休みはアルバイトで忙しいし、春は二年生になる準備をしなくちゃいけないし」
「大学ってそんなに忙しいの? お母さんは渚に会いたいわ」
 嘘ばかりついて春にも帰らないでいるつもりだったのは、とにかく母がわずらわしいからだ。
 そうして高校生までの私を思い出すと、友達というものがほとんどいない。遊びにいくとなると母とで、ショッピングでも旅行でも外食でも映画でも、母としか行かなかった。友達のいない身の上に馴れてしまっていたので、大学でも友達がいないのが苦痛ではなかったのだろうか。
 どこにでもいっしょに行こうと言いたがり、私の話を聞きたがった母が身近にいなくなって、むしろせいせいして、ひとりでいるのが苦にならなかった。そうなのかもしれない。
「いいことも悪いことも母の影響で、それで私……友達なんかいなくてもいいって、無意識でそう思っていたのかな。渚の仲良しは誰? って訊かれても、ひとりも思いつきません。学部にも合唱部にもひとりもいない。別にいいんですけど、それって変?」
「孤独が好きならいいんだけど、男友達もいないのか」
「いません。でも、以前に服部さんに食事をおごってもらって、お喋りしたのは楽しかったんですよ。服部さんは金子さんが大嫌いだって言って、そのくせ金子さんの話をいっぱいしてくれました」
「服部さんか。あの子は楽しい子だね。そうするときみは、孤独が好きってわけでもないんだな」
「どうなんだろ」
 孤独が好きか嫌いか、考えてみるのもはじめてだが、母のいないひとり暮らしは好きだ。現在は映画でも食事でもショッピングでもひとりでする。旅行をしているゆとりはないが、机上で旅行のプランを立てて遊ぶ場合も、ひとり旅を設定していた。
「私は頭の中で旅行計画を立てるのが好きだから、そうやってひとりで遊んでるのは好きですよ」
「そうすると、なにもしてなくはないじゃないか。将来は旅行の仕事がしたいんだろ。将来の役に立つ遊びだよ」
「そうなるのかな」
「恋はしたくないのか」
「したくなくはないけど……」
 あなたにしてました、と言ったら、星さんはどんな顔をするのだろう。想像しようとしてもうまく行かなくて、実際の星さんを見つめた。
 美江子の話はしたくなくて、していると食欲が失せるのか。私の高校時代の話をはじめると、星さんの表情がゆるんで料理も食べている。ささみのお刺身を箸でつまんで、大きく口を開けて放り込み、私にもひと切れ差し出した。
「生ものは苦手です」
「うまいぞ。鳥って高たんぱく低脂肪でダイエットには最適……きみはダイエットなんてしなくていいんだよな」
「美江子さんが言ったの?」
「あいつだって太ってないのに、こんなの食べると太るだの、夜中に食べると太るだの、ああ、そんな話はいいんだよ」
「別れるのは仕方がないにしても、寂しいんでしょ?」
「寂しくねえよ」
「美江子さんはちょっと太めじゃありませんか。星さんはぽっちゃり型の子が好み?」
「あいつは太めか? 女の子から見ると……あのな、おまえな」
「はい?」
「俺を怒らせようと……考えすぎか。美江子の話はするな」
「私はしたいんです」
「するな」
 私の意図には気づいたようだが、怒らないつもりでいるようでいて、いささか声が怒っている。面白くなってきたような、悔しいような心持で、私はさらに言った。
「寂しいくせに強がっちゃって、男だから寂しくないふりをするの? それって男らしくてかっこいいの? 星さんって意外に子供っぽいところもあるんですね」
「おまえに言われたくねえんだよ」
「そんなふうに美江子さんにも言った?」
「意地が悪いんだな、おまえ。そんなだから男ができないんだよ」
「そんなだから友達もできないんだよ。知ってますよーだ」
「……うん、まあ、いっか」
「なにが?」
「こっちの話しだ。いちいちうるさいんだよ、おまえは」
 別れてしまった彼女が、私とこうしている星さんを見たら? そう口にしたとしたらどうなるか。言ってみたいけど言えない。本気で怒らせたくない、嫌われたくない。諦めたはずの恋心は、私の中で消え失せてはいない。だからといってどうしようもないのも事実だった。

 
3

 なんら変わりもなく、ではなく、合唱部はやめてしまったのでマイナス要素ができて、その分暇がふえてアルバイトをはじめたというだけで、二年生になり、観光学科に進んでから約半年がすぎた。
「お母さんが入院したんだよ」
 母にばかり電話をさせて、自らはなにも言ってこなかった父が、そんなころに電話をしてきた。
「病気?」
「たいした病気ではないんだけど、渚、今年の冬休みには帰ってこられないか。お母さんはおまえの顔を見たがってるよ。お父さんもおまえに会いたいよ」
 この声はただごとではない。たいした病気ではないと言うのも嘘に思えて、学校は休んで故郷へと電車に乗った。入院している母を見舞って、気落ちしている父を励まして、慌しく東京に帰ってくると、私は服部さんに電話をかけた。
「はい、あれ? 渚ちゃん?」
「ごめんなさい。服部さん、相談もしないで合唱部をやめちゃって……こんなことを言えた義理でもないんですけど、聞いてもらえますか」
 あいかわらず友達というものがいない私は、打ち明け話をしたいとなると、服部さんしか思い当たらなかったのだ。電話番号だって服部さんのしか知らないのだから。
「渚ちゃんがやめちゃったって聞いてびっくりしたんだけど、事情もあったんでしょ。気にしなくていいよ。話があるの? 明日、学食でごはん食べようか」
 約束ができて、学食で服部さんに話した。
「小田原なんて近いのに、入学してから一度も帰ってなかったんです。数日間でも顔を見せに帰ればよかったなって、後悔しました。胃潰瘍だそうですから、私が母をないがしろにしたせいなのかな」
「私もあんまり帰省してないけど、そう、お母さまがご病気なんだね」
「服部さんは就職は決まりました?」
「なんとかね。でも、私の就職なんかどうでもいいじゃない。渚ちゃんはどうするの?」
「父が言うんですよ。渚、東京に行ってしまうのか。お母さんが入院して、お父さんはひとりぼっちになって、どうやって暮らしていけばいいんだ。ひとりでごはんを食べててもうまくもなんともないんだよ、って。あんなに気の弱いひとだとは知りませんでしたよ」
 仕事人間で家庭も娘も母にまかせっ放しだったゆえなのか、父の気落ちは激しかった。
「私、学校やめてうちに帰ろうか、って言ったら、学校はやめるなって言ってたけど、本音は帰ってきてほしいみたい。母の病気は重くはないらしいんですけど、入院が長引くかもしれないし、父をひとりにしておけないから、中退しようかなって思ってるんです」
「中退しなくても休学にしたら?」
「その手もありますね。やっぱり先輩に相談してよかった。休学なんて思いつかなかった。そうします」
「休学だったら学校に戻ってくるんだけど、そのころには私が卒業しちゃってるよね。それでもいいから、連絡は取り合おう。私の彼も中退して故郷に帰ったのよ」
 服部さんの彼とは誰なのか聞いていない。合唱部の四年生なのだろうか。彼にもむろん事情があったのだろうが、服部さんは詳しく話してくれなかった。
「私はやめちゃったけど、合唱部はどうですか」
「女子部は大野さんがキャプテンになって、男子部は金子くん。金子くんはいまや大学でもスターなんだから、渚ちゃんにも聞こえてきてるんじゃないの」
「すこしは聞こえてますけど、やめてしまうと合唱部には……」
「あまり聞きたくない? そういうものなのかな」
 そして私は大学を休学し、故郷に帰って主婦がわりとなった。母の入院が思いのほか長くなり、父に頼られて家業のかまぼこ製造の仕事にも手を貸していると、東京も大学も遠ざかっていく。一年がすぎても復学する目処が立たなくて、ついに休学ではなく退学になった。服部さんとも連絡はしなくなった。
 母の病気が胃潰瘍ではなく、胃癌だと知ったのは、大学にいれば四年生になる春だった。発見されたのはごく初期だったのだが、転移してどうにもならなくなって、父が私に告白したのだ。四十歳をすぎたばかりの母の癌の進行は早く、その年のうちには逝ってしまった。
 あのまま大学にいたら順調に卒業して旅行会社に就職して、したかった仕事ができてるかな、なんて、想像したりするのもやめて、私は主婦業のかたわら、父のもとでかまぼこ製造のノウハウを学ぶようになっていた。
 小田原に戻ってから四度目の秋、二十四歳になっていた私に、父が言った。近くの電機メーカーの保養所に手伝いにいってくれないかと言うのだ。
「うちのかまぼこをどっさり買ってくれてる弁当屋の頼みなんだから、無下に断れないんだよ。渚、引き受けてくれないか」
「なにをすればいいの?」
「保養所で社員の研修があるそうで、大勢の社員が泊まり込むんだそうだ。人手が足りない。食事は弁当屋が一手に受けるからいいんだけど、掃除だのベッドメイキングだのなんだのって、雑用係がいるんだよ」
「要するに掃除婦か。いやだとは言えないんだろうからやるしかないじゃない」
「ありがたい。頼むよ」
「父さんもやるの?」
「俺は仕事があるし、掃除ったら女の……」
「私はアルバイト掃除婦をしてくるんだから、父さんは家の掃除をしておいてね」
 渋々ながら父の頼みを聞いて保養所に出向くと、私以外はおばさんとおばあさんが数人、手伝いにきていた。若いのにえらいわね、なんて言われて愛想笑いを浮かべつつ、保養所の本来の従業員の指示に従って、せっせと掃除をした。
 掃除をすませたころには、エリートビジネスマンの匂いのする若い社員が続々と到着する。業界では大手の企業であるだけに、いばった奴もいた。
「おばさん、俺の部屋の隅にモップが置きっぱなしだよ」
「そうですか。だったら持ってきて」
「あ、きみ、おばさんじゃないね。お姉さんだ。お姉さんでもおばさんでもいいけど、なんで俺が掃除道具を片づけなくちゃいけないんだよ。あんたが取ってこいよ」
「私は忙しいんです」
「暇そうにしてるじゃないか」
「モップを取りにいってここに持ってくるくらいがなんだって言うの。そんな汚れ仕事はできないって? 手が汚れたら研修にさしつかえるって?」
「そうは言ってないけど……あんたらの仕事だろうが」
「誰の仕事だっていいでしょ」
 太ったいばった男と睨み合っていると、トレーニングウェア姿の別の男が、厨房に入ってきた。
「すみません。お茶を至急大部屋に……」
「お茶くらい自分でどうぞ。私は掃除のバイトであって、お茶汲みじゃありません。そんなの私の仕事じゃありませんから」
「お怒りのご様子ですが、山下、おまえ、彼女になにか言ったのか」
「なにかって……モップが……星さん、この女、生意気なんですよ。たかがバイトのくせして」
「星さん?」
 東北地方には多い姓だと聞いているが、関東には「星」姓はそんなにはいないのではなかろうか。それでもあの星さんがひとりっきりではないのだろうが、この声は……顔を見上げると、まぎれもなくあの星さんだった。
「やあ、久し振り。渚ちゃん、奇遇だね」
「星さん、お知り合いですか」
「まあな。モップがどうしたって?」
 仕事の後輩であるらしく、山下と呼ばれた男は星さんにさきほどのモップ云々を繰り返し、星さんは言った。
「そんなもん、ここへ持ってきて返しておけばいいだろ。さっさと行け」
「はい」
 山下は素直に星さんに従い、先輩後輩関係って合唱部のころと変わってないみたい、私はそう思って星さんを見ていた。とうに私に気づいていたらしき星さんは、ウィンクとともに言った。
「今日は今年の春に入社した男子社員の研修なんだよ。俺は入社六年目だから、彼らの指導要員として来てる。従って自由時間もある。あとで会える?」
「私はいいんですけど」
「じゃあ、決まり。どこがいいかな」
「お酒はいいんですか」
「いいよ。酒がないと旧交があたため合えないよな。夜は丸ごと自由時間だから、ゆっくり飲もう」
 驚いていたのも束の間、近くの居酒屋で会おうと決めると、嬉しいようななんとも言いがたいような、複雑な気分になっていた。


 私服のチェックのシャツにジーンズ、無造作な服装がなかなかに決まっている星さんと向き合って、あれからどうしていたのかの話題がすむと、星さんは言った。
「そうか、大変だったんだな」
「そんなでもありませんよ。母が逝ってからだと三年半もたつんだから、かまぼこ屋修行も主婦業も板についてきちゃった。かまぼこですから板につくんです」
「オヤジギャグの説明はしてくれなくていいんだけど、渚ちゃんは明るくなったな」
「そうですか。あのころは暗かった? 星さんは私をあまり知らなかったくせに」
「うん、あまり知らなかったけど、一度飲んだだろ。あのころは俺も暗かったかもな」
 あのころとは、星さんが美江子と別れて間もなくて、私は合唱部に退部届けを出した日だ。あれから私はたしかに変わったのだろう。明るくなったというよりも、図々しくなったのかもしれない。
「恋人はできました?」
「渚ちゃんは?」
「私は働く主婦ですから、友達や男と遊ぶ境遇ではありません」
「主婦ったって結婚してるんじゃないんだろ」
「結婚する暇もなさそう」
 いつの間にやら煙草も吸わなくなったのは、父にいやがられそうだからだ。星さんも煙草は取り出さず、今日も焼酎のお湯割を飲んで、料理をつまんでいた。
「このかまぼこ、うちのですよ。おいしい?」
「うん。小田原のかまぼこって名物だもんな」
「名物にうまいものもあるんですよ」
「そりゃああるさ。新潟にもあるよ」
 星さんは新潟県長岡市出身だと、あの日に聞いたのを思い出した。新潟は米も魚も酒もうまい、と言ってから、星さんは話題を変えた。
「フォレストシンガーズって知ってるだろ」
「なに? 知りません」
「知らない? うちの合唱部出身のヴォーカルグループだぜ。まったく知らない?」
「知りません。音楽なんて全然聴かないし、テレビも見ないから」
「知らないとは意外だけど、まだ売れてないし、テレビにも出てないみたいだよ。デビューしたばかりだから知らなくても不思議はないのか。きみと同じ年の男がふたり。きみは合唱部は一年でやめたんだから知らないんだろうけど、ひとつ下の男がひとり。学校も二年でやめたんだったら知らないはずの、ふたつ下の男がふたり。合計五人で、ついこの間、プロになったんだよ」
「私と同い年って、徳永くんと本橋くんと乾くんのうちのふたり?」
「本橋と乾だよ。本橋がリーダーだそうだ」
 あとの三人は私は本当に知らないが、本庄、三沢、木村というのだそうだ。本橋くんと乾くんの歌唱力が抜群だったのは覚えているが、フォレストシンガーズの名も、彼らがプロになったとも初耳だった。
「俺も卒業してからは合唱部にはとんと無縁になっちまったんだけど、金子は知ってるだろ」
「知ってます」
「金子とは時おり飲むんで、後輩の話もあいつから聞く。フォレストシンガーズがデビューしたってのも金子に聞いたんだ。金子もプロになりたいんだけど、なかなか希望がかなわないって言ってるよ。徳永も同じく。プロシンガーってのは並大抵ではなれないんだな」
「そうでしょうね。私には関係ないけど」
「興味もないか」
「興味はなくもないけど、どうでもいいかな」
「俺には興味ある?」
 いたずらっぽい目で見られて、私も見返した。
「どういう意味?」
「きみと最後に会った夜を、こうしてると思い出すよ。意地の悪い生意気な女だと思ったんだ。言わなかったか」
「言われたかもしれないけど、覚えてないな」
「俺もはっきりとは覚えてないけど、もうひとつ、思ったよ。意地が悪くて生意気で、可愛い女だなってさ。抱きたいな、とも思った」
「……昔の話でしょ」
「いいや。今はますます抱きたい」
「……酔ってる?」
「酔うほど飲んでないけど、きみは帰らないといけないのか。残念だな」
 家には父が待っている。母が亡くなって私を頼りにして、渚もいつかは結婚しないとな、だけど、ずっとうちにいてほしいな、と言いたそうに私を見る。父がいるという事実にすがりつかないと、揺らめいてしまう。いや、とっくに揺らめいていた。
「保養所の掃除をしたみんなでごはんを食べてから帰るって連絡はしたんだけど、遅くはなれない。星さんだって後輩たちのところに帰らないといけないんでしょ」
「俺は夜は丸ごと自由時間だよ。きみがいやなら無理には誘わないけど」
「恋人、いるんじゃないの?」
「いないよ」
 今はいない、だけど、好きなひとがいる、だけど、一夜だけなら……そんな言葉が耳元で聞こえる。あれはいつ、どこで、誰が言った? 星さんが誰かに言っていたのを聞いたのだった。私とも一夜だけ? それでもいいと思ってしまう。
「私、経験ないんですよ」
「嘘だろ。こんなに魅力的ないい女がさ」
「田舎のおばさんになりかけてるから、魅力的なんかじゃ……」
「卑下は駄目だよ。きみが自分を魅力的じゃないと思ってるんだったら、俺が気づかせてやる。きみがどんなふうにいい女なのか、俺が教えてやるよ」
「美江子さんにもそうやって……」
「渚、こっちにおいで」
 畳に座布団、田舎っぽさが売りの店は座席がそうなっていて、私はふらっと座布団から立ち上がった。ふらふらと歩いていって、星さんの腕の中に倒れこんだ。
「ほんとだから……経験ないから……」
「俺がきみのはじめての男? 嬉しいね」
「嬉しいの?」
「俺は嬉しいよ。俺が嬉しいんだからいいだろ。遅くならないように送っていく。行こう」
 外に出てタクシーに乗ると、星さんが私の聞いたこともないホテルの名を告げた。調べてきたんだろうか。最初からその気だった? こうして女を口説いてホテルに連れて行く。さぞかし慣れているのだろう。頭をかすめても、それでもいいと思っていた。
「私ね……ううん、いいの。私も嬉しい」
 ホテルにつくと部屋に通されて、抱きしめられて背の高い星さんの顔を見上げた。
「美江子さんにも……」
「うるさいんだよ、おまえは」
 息が止まりそうに激しく強く抱きしめられて、荒々しいキスでくちびるをふさがれて、膝が崩れそうになって、意識が遠くなっていくようで……気がついたらベッドに横たえられていて、服を脱がされていくのをぼーっと感じていた。
 
「もっと弱く抱きしめてくれたなら
 きっと早くあなた
 忘れられたのに
 あの日見た夢が今でも心さまよう
 二十四時間の神話と知っても
 あの日見た夢は覚えていてはいけない
 離れていかない
 あのひとの夢」

 初恋だというのは面映いけれど、私にとっては星さんは初恋のひとで、かなわない恋だと諦めていた。たった一夜だけ、私の恋がかなったのだから、それでいい。それ以上なんて望まない。なのに、耳元に歌が聞こえる。「二十四時間の神話」。私の一夜の恋はこの歌の通りで、星さんには? ううん、彼がどう考えたとしても関係ない。
 二十四時間にも満たない夢は終わって、星さんは私をタクシーで家の近くまで送ってくれて、保養所に帰っていったのだろう。
 あの日見た夢は覚えていてはいけない。そこも歌の通りなのだろうから、忘れようと決めて仕事をしていたら、ふっとフォレストシンガーズの名前が脳裏に浮かんだ。ちょうど目の前にパソコンがある。デビュー間もないグループにも公式サイトがあって、簡単なプロフィールと、メンバーのひとこととやらが載っていた。
「本橋真次郎です。我々はでっかい大学の合唱部出身でして、学生時代からずっと仲間として活動しています。このたびプロになれました。決意新たに励んで参りますので、みなさま、応援よろしくお願いします」
「乾隆也です。プロのシンガーズという未知の大海に漕ぎ出した我々は、空に輝く星を目標にして泳いで参ります。ご声援を送って下さるみなさまの想いがなによりの糧となりますので、僕たちにいっぱいいっぱい糧をいただけますように、心からお願い申し上げます」
 このふたりは多少は知っているのだが、あとの三人はまったく知らないので、本庄、三沢、木村とスルーしようとしたら、最後の文章に目が止まった。
「木村章です。僕は一年で合唱部も大学も中退していまして、他の四人とは立場がちがうんです。そのせいでちょっとひがんでますが」
 一年で中退か、私に似てる。共感を覚えて続きを読んだ。
「なにしろみんな、長年のつきあいですから。マネージャーの山田美江子さんも同じ大学の同じ合唱部だったんですよ。ま、なにはともあれ、フォレストシンガーズをよろしくお願いします」
 山田美江子……そうだったのか。星さんも知っていたのだろうに、言わなかったのは思いやり? 美江子さんは……と言いかけるたびに私を遮った声や態度も思い出して、またしても複雑な気分になった。
 はっきり言って私はフォレストシンガーズはどうでもいい。山田美江子も今さらどうでもいい。電機メーカーのオーディオ部門勤務だという星さんは、彼らとの接点があるのかないのか。美江子が現在の彼にとってどういう存在なのか、それももはやどうでもいい。
 そのうちには私も結婚して、小田原のおばさんになるのかもしれないけど、二十四時間の半分ほどの神話は覚えてもいてもいいじゃないか。私の初恋がほんのちょっとかなった一瞬を、時々思い出してほんわかするのも、私には悪くない時間じゃないか。
 そう決めたら元気が出てきたようで、インターネットの接続を切り、私は仕事に戻っていった。これで私はきっと、強くなれるのだと信じていた。

END
 

 
 
 


スポンサーサイト


  • 【小説39(フォレストシンガーズ・ファーストワンマンライヴ2)】へ
  • 【小説40(最後の学園祭)】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【小説39(フォレストシンガーズ・ファーストワンマンライヴ2)】へ
  • 【小説40(最後の学園祭)】へ