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小説37(たこ焼きラプソディ)

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フォレストシンガーズストーリィ・37

「たこ焼きラプソディ」


1 幸生

 深夜バスの中でぺちゃくちゃ喋ると周囲のお客さんの顰蹙を買うであろうから、今のうちに喋っておかなくてはいけない。時間厳守で待ち合わせ場所にやってきた酒巻に、俺は言った。
「酒巻、晩メシ食ったか。おごってやるよ。行こう」
「三沢さん、悪いことしたんじゃありません?」
「悪いことってなに?」
「いえね、オフィス・ヤマザキは仕事で大阪に行く三沢さんに新幹線の料金も出してくれないケチなのかと、僕は三沢さんに同情しそうになってたんです」
「同情してちょうだい。うちの社長はケチだよ。ケータイも買ってくれないんだもん。大阪にだっておまえはひとりで行くんだし、おまえがフォレストシンガーズの中ではいちばん若いんだから、バスで行けって社長が言ったってさ、話しただろ。それでなにを悪いことをするって言うんだよ」
「……おごってくれるってここですか。了解、悪いことはしていませんね」
 社長が新幹線代をくれたのに、俺がそいつをちょろまかしてバスにした、とでも考えていたのだろうか。先輩に向かって無礼な奴だ。が、おごってやると言った店がハンバーガーショップだったので、酒巻も心根を入れ替えたらしい。ごちそうになります、と丁寧に頭を下げてついてきた。
 我々フォレストシンガーズ初のテレビ出演は、デビューした年の冬ごろだった。乾さんと章がケーブルテレビのバラエティ番組に、同じ事務所のジャパンダックスのシブとゴンと四人で出たのだ。その後も乾さんがひとりで雪女役をやったり、五人でバラエティ系の番組の賑やかしに出たりして、去年、はじめて音楽番組にも出た。
 多少はテレビにも慣れてきた昨今、このたびは俺の単独出演が決まった。おー、やったねっ、と俺は飛び上がりそうになり、心を鎮めて社長に質問した。
「俺がソロで歌うんですか」
「いや、大阪のローカル番組で、地元では人気のあるお笑い芸人さんがやってる生放送だよ。夜中のトーク番組だな」
「またバラエティ?」
「バラエティだってテレビだろ。きみたちはテレビをメインとするシンガーではないが……」
「はい。名と顔を売るにはテレビが一番、が社長の持論ですよね。わっかりましたーっ。三沢幸生、誠心誠意この口をフル回転させて参ります」
「きみの口はフル回転なんかさせなくていい。半分でいい」
「社長ったら、遠慮しててどうするんですか。大阪のみなさまに精一杯三沢幸生の口を売り込んできます。楽しみにしててね。社長も見てて下さいね」
「……東京では流れないんだけど、三沢、口は半分でいいんだぞ。半分だぞ」
「いいえ、常の百倍喋ってきます」
「きみが百倍喋ると、テレビがこわれる」
「やーねっ、そんなに褒めないでったらーっ」
 そのようなやりとりを社長が本橋さんに告げ口したようで、本橋さんにはこう言われた。
「あいつに頼んだのはまちがいだったか、って社長は後悔してるようだったけど……」
「後悔はさせません。見てて下さい」
「俺たちは見られないんだけど、しっかりやってこい」
 やりすぎるなよ、と言いたそうな本橋さんに激励され、乾さんは言った。
「半分じゃなくて三分の一でいいんじゃないのか、おまえの口は」
「百分の一でもいいんじゃないかな。しかし、トークの司会ってお笑い芸人なんだろ。それだったら三分の一程度は回転させてもいいと思うよ」
 章は言い、シゲさんも言った。
「大阪ローカルか。じゃあ、泉水に録画してもらって送ってもらって、みんなで見よう」
「おーっ、シゲさん、その手があったんだ。シゲさんらしくもなくいい方法を……いえ、よろしくお願いします。みんなも見てくれるんだ。ますますがんばろーっと」
 こいつがあまりにがんばりすぎると……とばかりに不安そうなみんなと別れて、俺は深夜バスに乗るための準備を整え、ついでに酒巻に電話をかけた。すると、酒巻が連れていってほしいと言い出したのだった。
「その日は僕、休みなんです。大阪ってあんまり行ったことないから、ひとりで行くのはちょっとなんなんですけど、三沢さんといっしょだったら心強いです。僕、付き人をつとめますから」
「深夜バスで大阪につくのは早朝だろ。番組は夜だから、午前中は大阪見物できるよな。その日は大阪で泊まって、翌日の深夜バスで東京に帰る。翌日も約一日あるんだ。とすると、ひとりよりはふたりのほうがいいか。しかしさ、手のかかる章がいないからのびのびできそうだと思ったら、おまえがついてくるのか。章とどっちが手がかかるんだろ」
「僕は木村さんほどは手はかかりませんよ」
「そうかなぁ。ま、いいや。付き人くん、ついてきなさい」
「ありがとうございますっ」
 臨時付き人と決定した酒巻とふたり、出発までの時間にハンバーガーとフライドポテトとコーラで夕食をしたためつつ、俺は尋ねた。
「去年、俺たちが全員で出た、夜中の番組は見た? テレビではじめて俺たちが歌ったやつ」
「すみません。知りませんでした」
「ファーストアルバムの宣伝もできるってんで、社長が売り込んでくれて実現したテレビ出演だったんだよ。見てないとは、後輩の風上にも置けない奴だな」
「教えて下さったら……って言っても、あのころは僕がどこでなにをしているのか、三沢さんは知りませんでしたよね」
 メジャーデビューしてから約一年半がすぎて、ファーストアルバムが出せてテレビにも出た。ファーストアルバムはまったく売れてはいないのだが、フォレストシンガーズは進歩はしているはずだ。俺はこの春、二十四歳になり、合唱部の一年後輩の酒巻は二十三歳になった。
 アナウンサー志望だった酒巻は志望をDJにと変更したのだが、オーディションを受けてはすべりまくっている。コンテストに不合格になりまくっていた、デビュー前の俺たちのような境遇にある酒巻と再会したのはラジオ局の廊下で、彼はそのときからずっと、アルバイトでラジオのアシスタントディレクターをやっている。不遇といってもいい立場の酒巻に、ハンバーガーくらいおごってやらなくては、大阪にも連れていってやらなくては、先輩として大きな顔をしていられないではないか。
「んでね、もうじきファーストワンマンライヴもやるんだ。決定したんだよ。そのリハーサルだのなんだのに忙殺されている今、貴重な休みを仕事に費やす。僕ちゃんってよく働くだろ」
「ほんとですね。休みがなくなっちゃうんですか」
「大阪で遊べるからいいんだけどね。おまえさ、俺たちのアルバムは買ったんだろうな」
「はい。二枚買いました」
「二枚? 一枚は彼女にプレゼントしたの?」
「二枚とも僕が聴いてます」
「二枚をかわりばんこに? 一枚は永久保存しておけよ」
「そうですね、そうしましょうか」
 二枚買ってくれたのならば売り上げに貢献してくれているわけだが、変な発想をする奴だ。
「じゃあさ、ファーストライヴのチケットも買ってね」
「はい、買います。行きます」
「だから俺、おまえって大好きだよ」
「はい、僕も三沢さんが大好きです」
 素直で可愛いところもあるから、たしかに俺は酒巻が好きだ。それ以上に好きなのは、彼がちっちゃいから。世間をぐるりと見回してみても、俺よりも小柄な男なんてものは、老人世代にだってそうはいない。同世代では章くらいなのだが、酒巻は章よりも背が低い。こんなにちっちゃくて坊やみたいな後輩を連れて深夜バスに乗るのだから、俺が守ってやらなくちゃ、って気分にさせられる。
 それでいて酒巻はシゲさんばりの低い声で喋る。俺たちの会話を姿を見ずに聞いている人がいたとしたら、渋い声の大人の男と、高い声の少年が話していると錯覚するのではなかろうか。姿を見たらどう思う? 少年ふたりか。
「ま、いいさいいさ。今に見ていろ僕だって……」
「三沢さん、僕だって、なんですか?」
「十年後を見てろ」
「三沢さんの十年後ですか」
 三十四歳になった俺はスターシンガーズの一員となって、大阪に行くとなったら新幹線のグリーン車にふんぞり返って、出発前の夕食だって豪華にファミレスのステーキ定食かなんか……なんで豪華な夕食がファミレスなわけ? 自分で自分に突っ込んでいると、酒巻が夢見る瞳で言った。
「僕は十年後には結婚してて美人の奥さんがいて、可愛い子供もいて……」
「んで、おまえは専業主夫?」
「主婦ですか」
「夫のつく主夫ね。それもいいじゃん? 俺はスターになるからね」
「僕は超人気DJになります。でもね、DJって表に顔は出ないでしょう? スターシンガーになったら、こんなところで晩ごはんなんて食べていられませんよ。ファンの方に囲まれて大騒ぎされますよ」
「されてみたいよーっ」
 ファミレスじゃなくて、もっと豪華な……というのがもうひとつ想像しにくいのだが、ハンバーガーもうまい。フォレストシンガーズの三沢幸生がこんなところにいるなんて、周りのお客さんは意識もしていない。そもそも、フォレストシンガーズってなに? 三沢幸生って誰? だろう。現在の俺はそんなもんだ。
 だけど、十年とたたないうちに、俺はきっとスターになる。そのころにはかっこいい大人の男になる。もはや背は伸びないだろうけど、ちびでかっこいい大人の男だっているはずだ。いないんだったら俺がそうなる。なってみせる。根拠なんてなくてもいいんだ。絶対になってみせるんだから。
 バスの出発時間が来るまでは、そうして酒巻と将来の夢を語り合っていた。俺たちの心はまさしく、夢見る少年たち。けれど、夢を夢で終わらせてなるものか。


 五センチほどは俺より背の低い酒巻と歩いていると、大きくなったような気分になれる。それは虚しい錯覚であって、長身の女性たちとすれちがうたび、もっと高い男たちとすれちがうたび、やっぱ俺ってちびじゃん、ではあるのだが、仕事前に歩く大阪の街は賑わいと喧騒に満ちていて、俺の気性にはぴったりだと思うのだった。
「酒巻、大阪ははじめてじゃないんだろ」
「はじめてではありません。高校の修学旅行で来ました。僕は山形出身ですから、関西弁にはまったくなじみがなかったんですよね。テレビからは大阪弁が聞こえてきてましたけど、東北人は大阪弁にはなじみにくいんですよ。異国語に聞こえてました」
「修学旅行で来て実際の大阪弁を聞いたんだな。大学に入ったら先輩にもいたろ」
「実松さんですね。実松さんにはびっくりでしたよ。最初になにを話したのかは覚えてませんけど、モロ大阪弁でしたよね。大阪人って東京の大学生になっても大阪弁で喋るんだって、尊敬しちゃいました」
 我が母校には日本全国から学生が集結していて、土佐のヒデさんやら三重のシゲさんやら、金沢の乾さんやら、稚内の章やらもいた。酒巻は章が中退してからの入学なので互いに学生時代を知らないのだが、他にも地方出身の先輩が大勢いて、その中でもまれて、口の重かった少年が口を使う職業に就きたいと望むようになった。
 五年前の大学新入生だった酒巻を思い出してみれば、東北なまりがあった。大阪弁に誇りを持っていた実松さんとはちがって、東北人はたいてい、なまりを隠そうとする。酒巻もなまってはいたものの、決して山形弁は使おうとしなかった。加えて、彼は自身の低い声にコンプレックスを持っていた様子で、合唱部に入部してきたばかりのころは、ずいぶんと口数が少なかった。
 そのくせ、言うべきことはけっこう言っていた記憶がある。これは根っからの無口ではないのだと当たりをつけて、俺は彼にせっせと話しかけた。ヒデさんやシゲさんにくっついていって、ふたりしてメシをおごってもらったりもした。ふたりきりだと俺も酒巻におごってやった。
 後輩におごってやるって金銭的にはつらいけど、それでこそ先輩なんだよな、と満悦していた俺自身も思い出す。大人数だった合唱部にはもちろん後輩は何人も何人もいたのだが、実質的には俺のはじめての後輩が酒巻だった。なんの因果かなんの摂理か、卒業して道が別々になっても、こうしていっしょに大阪の街を歩いている。
 はじめて俺がなついた先輩はシゲさんで、はじめて友達になったのが章で、はじめてなつかれてやった後輩が酒巻で、三人ともが今でも身近にいるというのは、俺はたいへんに幸せ者だ。よし、後輩に大盤振る舞いしよう。
「昼メシ食って、そろそろテレビ局に行こうか、付き人くん?」
「僕もついていっていいんですか」
「いいんじゃないの。おまえの勉強にもなるだろ。ただし、付き人ってのはナシ。俺の友達としてついてきなさい」
「友達ではなくて後輩ですけど、付き人を連れてるってまずいんですか」
「まずいだろうな」
 名もなきシンガーの分際で生意気だと見られるのは避けたい、と思っている俺の心を読んだかのように、酒巻は真面目にうなずいた。
「わかりました。ね、三沢さん、お昼は僕がお金を出しますよ」
「なーにをぬかしてやがるか。俺にまかせておけばいいんだよ」
「でも……なにを食べるんですか」
「シゲさんの大好きなあれ」
「あれですか。では、おまかせします」
 たこ焼き、たこ焼き、たこ焼き、大阪の繁華街にはそんな幟や看板がどこにでもここにでもある。本橋さんやシゲさんだったらたこ焼きごときはほんのおやつだろうが、酒巻や俺ならば軽い昼食がわりになる。身体が小さくて胃袋も小さい俺たちは経済的なのだ。
「あの屋台を選んだのはなぜですか。おいしいって評判なんですか」
「おばあちゃんの顔がおいしそうだからだよ」
「……ほんとだ。おいしそう」
 ふっくらふくふくたこ焼きみたいに色黒で、まん丸のたこ焼きみたいな顔をした小柄なおばあちゃんがたこ焼きを焼いている屋台に、酒巻と近づいていった。
「こんにちは。はじめまして。いいお天気ですね」
「へえ、ええお天気でんな。なんかご用?」
「とびきりおいしそうなのを、二人前下さい」
 なんや、お客さんかいな、と笑ってから、おばあちゃんは重々しい口調になった。
「兄ちゃんら、ええとこに来た。これはなぁ、長年たこ焼きを焼いてる私が、今日、はじめて到達した最高傑作の作品や。まあ、食べてんか。二人前でええのんか? 若い兄ちゃんらやねんから、もっとぎょうさん食べな出世せえへんで」
「このたこ焼きをぎょうさん食べると出世するんですか。しかも最高傑作? それは二人前ではもったいない。三人前にします」
「三人前やなんて言うてんと、十人前にしいな」
「そんなに食う人は今日はいませんので、四人前程度で勘弁して下さいな」
「四人前か。よっしゃ」
「……三沢さんってノリがいいんだから」
 小声で呟いた酒巻にも、おばあちゃんは言った。
「あんたら、どっから来たん? 大阪観光? ナンパかいな。ナンパやったらひっかけ橋に行き。ひっかけ橋はあっこやで。見てみ。暇そうな兄ちゃんらが暇そうな姉ちゃんらをナンパしとるやろ。あんたらはあんなんしてたらあかんねんで」
「あかんのですか」
「あかんあかん」
 ナンパしておいで、と言いたいのではなく、してはあかん、なのであるらしい。酒巻は真面目な上にも真面目な顔で、僕はナンンパなんか致しません、と言っていたが、おばあちゃんは彼の声が聞こえているのかいないのか、たこ焼きをふたつの大きな包みにしてくれた。
「はい、四人前、千二百万円」
「……万円ですか」
「酒巻くん、お約束だよ」
「お約束? 三沢さん、こういうときってどんなリアクションを取ればいいんですか」
「こうだよ。はい、千二百万円」
 千円札を一枚と百円硬貨を二枚手渡すと、おばあちゃんはにこにこと言ってくれた。
「毎度おおきにぃ。はじめてのお客さんやけどな。これ食べて出世しいや」
「ありがとうございまーす」
「あ、どうも」
「そっちの兄ちゃんはもひとつやけど、あんた、なかなかおもろい兄ちゃんやな。きっと出世するで」
 もひとつやと言われた酒巻は苦笑し、俺は言った。
「大阪のひとにおもろいって褒めてもらえるなんて、すでに出世した気分ですよ。がんばりまーす。熱々たこ焼きとおばあちゃんの微笑みに、僕のハートもほっかほか」
「ぬくぬく」
「ぬくぬくですね。ぬっくぬっくのたこ焼き。さあ、食べようぜ」
「はあ……」
 屋台から遠ざかりつつ手を振ると、おばあちゃんも満面の笑みで手を振り返してくれた。酒巻はなぜだかため息つきつき、ふたりして、近くの橋にもたれて包みを開いた。
「うん、最高傑作だね」
「そうなんですか。たこ焼きって、僕、あまり食べたことないんで……でも、おいしいですよね」
「うまいよ。これだけ食ったら腹いっぱいになるよな」
「でしょうね。食べ切れるかな」
「ええ若いもんが、これしきのたこ焼きを完食できんでどないこないすんねん」
「三沢さん、変な大阪弁はやめて下さい」
 たこ焼きを食べながら、酒巻が言った。
「テレビに出るとなると、男も化粧するんでしょ? 口紅とか塗るんですか」
「テレビ映りがよくなるように、ドーラン塗ったりはするけど、メイクアップじゃないんだよ。俺がアイシャドーや口紅やつけまつげつけたらどうなる? 化け物とはなんやねーんっ」
「言ってませんよ。さっきのおばあちゃんにも、今夜はテレビを観て下さいね、って言えばよかったのに」
「ばあちゃんの古典的関西ギャグに対抗するのに頭がいっぱいで、そこまで思いつかなかった。言ってこようか……わわっ」
「うわっ……」
 いきなり、人通りの多い橋のど真ん中を自転車が疾走してきた。乗っているのは中年男で、片手で漫画なんか読みながら、片手でハンドルを操っている。道行く人々は自転車を身軽によけたり、アホか、あのおっさんは、と罵ったりしているようだ。男は漫画がおかしかったのか大声で笑い、その拍子に酒巻にぶつかりそうになった。
「危ないっ!!」
 咄嗟に酒巻を突き飛ばして叫ぶと、自転車は急ブレーキをかけて止まった。
「酒巻、大丈夫か?」
「え、ええ。自転車に追突されるよりはいい……いてて」
「くじいた?」
「すりむいただけです。大丈夫ですよ」
 はずみでころんだ酒巻が立ち上がるのを、自転車を止めた男がじろじろ見ている。俺は男に言った。
「たいした怪我もしてないようですけど、これだけの人込みなんですから、自転車は押して歩いたほうがいいんじゃないんですか。危ないですよ」
「危ないのはワレのほうやんけ」
「ワレって我? そうですよ。あなたが危ないんですよね」
「ワレっちゅうのんはな……おまえや。おまえら、大阪のもんとちがうんかい。どこのど田舎から出てきたんか知らんけど、そんなとこでぼーっとたこ焼きなんか食うとるから危ないんじゃ。自転車がいかれたんとちゃうかな。買うたばっかりの新車やぞ」
「新車にしたら年季が入ってますね。急ブレーキかけたからいかれた? ちゃちな新車」
「なんやとぉ。ワレ……」
 早口でなにやらまくし立てたのは、俺にはほとんど聞き取れなかった。なんかしてけっかんねん? 意味不明。その後も男は早口で怒鳴り続けていて、罵詈讒謗であろうとは理解できたのだが、普通の大阪弁だったらともかく、こうなると俺の頭も舌もついていけない。実松さんに救いを求めたくなる。酒巻とふたりして呆然としていると、俺たちの前に立ちふさがった人がいた。
 小柄なおばあちゃん。たこ焼き屋さんではないか。おぱあちゃんは男に立ち向かい、男と同じような言葉で応酬していた。半分も意味が理解できなかったのだが、標準語にしてみれば、このような大意だったようだ。
「あんたはこんなちっちゃい学生さんたちを相手に、いい年をしてなにを言っているんだ。往来を自転車で走るのが悪いんだろう。そんな自転車は最初からポンコツだろう。もはや完全にいかれてしまってるのではないか。動くかどうか、ためしに運転してみたらどうだ」
 その合間には大阪弁の罵り言葉やら、ギャグのようなものまでが混じっていたのだが、おおむねこんなところだろうと思える。酒巻と俺はひたすら唖然呆然でやりとりを聞くのみで、この俺にもまるで口ははさめなかった。
「じゃっかましいわい、くそばばっ!! 動くわいっ!! ほら、見てみい!!」
「動いてよかったな。そのまんま走っていき。うちの倅もあの年頃やけど……ほんま、ええ年して……」
 嘆くおばあちゃんの前から、自転車はなにごともなかったかのように走り去っていき、酒巻が大きな息を吐いた。
「すっげえばあちゃんですね。大阪のおばあちゃんってみんなこんな?」
「俺には大阪のおばあちゃんの知り合いはいないけど、たこ焼きのよしみで助けてくれたんだね。酒巻、もっとたこ焼きを食おう。腹が張り裂けてもいいから、十人前ずつ食おう」
「無理です。もうおなかいっぱい。それより……」
「おばあちゃんにお礼を言わなくちゃな」
 やれやれ、すんだ、といったふうに、おばあちゃんが腰を叩いて歩き出した。歩きながら俺たちに手を上げて呟いた。
「あんたらも気いつけてな。あれ? おかしいな。あれれ?」
 二、三歩進んだおばあちゃんが、ふらふらっとくずおれた。あたりを行きかう人々は、薄気味悪そうにおばあちゃんを見ている。酒巻と俺は悲鳴のような声を発して、おばあちゃんに駆け寄った。

 
2 國友

 なんともないて、救急車やなんていやや、と言い張るおばあちゃんを三沢さんが背負って表通りに出て、どうにかタクシーをつかまえて、病院に運んだ。三沢さんは仕事があるので、僕におばあちゃんを託して行ってしまった。
「お孫さんですか」
 待合室のベンチにすわっていると、若い看護師さんが僕に声をかけた。
「いえ、通りすがりの者なんですけど」
「通りすがり? おばあちゃんは保険証を持ったはりましたし、心臓の持病があるみたいやけど、今のところはたいしたこともないみたいです。今は空きベッドに横になったはりますけど、ひとり暮らしなんですって。今日は入院してもらったほうがええんですけど、通りすがりの人に言うてもねぇ……」
「たこ焼き屋さんの客なんですけどね、僕は」
「ああ。おばあちゃん、たこ焼きの屋台やってるって言うてはりました」
 どうしたらいいのかと困惑していると、看護師さんが言ってくれた。
「病院へ連れてきてくれはったんやし、会うていきます?」
「はい、とりあえず」
 立ち上がって看護師さんについていく。年頃は僕と変わりないようだが、大きくてたくましい。看護師さんは彼女の天職ではなかろうか。優しそうで声も優しくて、それでいて、あのおばあちゃんくらいだったら軽々と抱っこして運べそうな力持ちに見える。彼女に連れられていった病室では、おばあちゃんがベッドに横たわっていた。
「えらいすんまへんでしたな。どっかのおっさんと喧嘩したなんて言うたら、お医者さんに怒られるかと思て……」
「喧嘩したん? それで興奮したんとちがいますか。なにをしてそうなったんかは、ちゃんと言わなあきませんよ」
「いやな、あのな、道頓堀の橋の上を自転車で走ってるおっさんがおって、うちの屋台のお客さんの高校生くらいの兄ちゃんらを脅かしてるのが見えたもんで、ついかっとなって……」
 まとまりのないおばあちゃんの話に僕が補足して、さきほどの事情を看護師さんに説明した。看護師さんは苦笑いで話を聞いてくれて、僕はさらに言った。
「そういうわけなんですけど、おばあさん、いえ、お名前は?」
「信子」
「信子さんですね。あのね、僕たち、こう見えても高校生ではありません。僕の連れは三沢さんって言うんですけど、僕の大学時代の先輩です。僕は酒巻と申しまして、彼も僕も大学を卒業した社会人です」
「そうなんかいな。そうは見えんかったから……」
「そうは見えなくてもそうなんですよ。二十三と二十四の男がふたりでいて、ご年配の女性に救ってもらうなんてだらしないんですけど、なにしろ、あれでしょ。三沢さんって口は世界一ってほど回るんですけど、あの大阪弁がむずかしくて、お手上げだったんですよ」
「あれは河内弁や」
「河内弁っていうんですか。あのひと、こう言ってましたよね。なんかしてけっ……なにかして?」
「なにをぬかしてけつかるんじゃ、て言うたんや。あのおっさんは」
「けつかる?」
 ケツを刈る? ますます理解不能。僕が首をかしげていると、看護師さんが教えてくれた。
「なにをぬかしてやがるんだーっ、ってとこかな。酒巻さんは東京のひとですか」
「出身は山形ですが、大学から東京ですので、東京暮らしは六年ほどになります。とにかく、そんなわけでお世話になったんですから、今夜は僕が付き添います。信子さん、付き添わせて下さい」
「そこまでしてもらわんでもええんよ。結婚した娘がおりますんで、看護婦さん、電話してもらえますか」
 看護師さんは信子さんから聞いた電話番号をメモして出ていき、僕は言った。
「じゃあ、娘さんがいらっしゃるまではいます。お邪魔じゃありませんか」
「邪魔なんかやないけど、あんたこそ、ええのんか。大阪へはなにしに来たん?」
「えーとね……テレビ……」
「テレビに出るんかいな。あんた、仕事はなに?」
「いえ、僕じゃなくて三沢さんがテレビに出るんです。僕は……」
 ADなんて言ってもおばあちゃんには通じないかと、アルバイトです、と言ってから、三沢さんの話をした。
「フォレストシンガーズ……? 知らん。そやけど、テレビに出る? 見たいわ。テレビはないのんかいな」
「待合室にだったらありましたよ。だけど、信子さんは動いたらいけないでしょう」
「ええねん。見にいこ」
「夜中の番組ですから、まだやってません。病人さんが夜更かししたらいけませんよ」
 見たい見たいーっ、と信子さんが駄々をこねるのを一生懸命なだめていると、やがて、娘さんがやってきた。娘とはいっても中年のおばさんではあるが、信子さんにとっては娘である静江さんに、今夜のいきさつを話し、静江さんにもお礼を言われ、それで僕は用済みになった。
「では、お大事にして下さいね。僕は帰りますから」
「酒巻さん、テレビ、見たい」
 あきません、と看護師さんにも静江さんにも言われて、信子さんはふくれっ面になった。
 今夜の予定では僕もテレビ局についていって、どうにかして番組を見学させてもらうはずだった。そろそろ番組がはじまる時刻だが、この分では見られそうにない。番組は大阪ローカルなので東京では放映されないのだが、本庄さんの幼馴染で大阪に住んでいる瀬戸内泉水さんという女性が、番組を録画してくれるのだと、三沢さんは言っていた。
 瀬戸内さんは本庄さんと同い年で、僕にとっても大学の先輩に当たる。とはいえ、彼女は合唱部には入っていなかったそうだし、僕は彼女と一面識もないのだし、電話番号さえも知らないし、知っていたとしても連絡なんてできっこない。録画したビデオを送ってもらったら、三沢さんに頼んで見せてもらおうか。今夜はホテルに帰って、三沢さんの帰りを待つとしよう。
 そうしかしようがないのでホテルに行って待っていると、夜も更けてから三沢さんから電話がかかってきた。三沢さんも僕も携帯電話は持っていないので、ホテルにかけるしか方法がなかったのだ。
「おばあちゃんはどうだった?」
「はい、お元気になられてましたよ」
「そうか。よかった。じゃあ、俺も今からホテルに行くから、酒巻くん、お風呂に入って綺麗になって、俺の帰りを待ってなさいね」
「……先にお風呂に入らないといけないんですか」
「あとでもいいよ」
「あとにします。お風呂は先輩が先ってのが筋ですものね」
「そうですか。はいはい、よろしい」
 なんだってお風呂の話になるのかは謎だったが、電話を切って待っていると三沢さんが帰ってきて、今度は病院でのあれこれを説明した。
「信子さんっていうんだね。娘さんが来てくれたんだったら、ひとまず安心だな」
「三沢さんのテレビ出演はいかがでした?」
「うん、ま、あんなもんじゃないの」
「あんなもんって?」
「司会者の芸人さんが俺に向かって発した第一声は、あんた、誰? だった。あとは推して知るべし」
「……そんなだったんですか」
「喋らせてくれないんだよ。俺がなにか言おうとすると、あんた、誰やった? えーと、それから、とかって話をそらすんだから。今日の昼間にあった変わった出来事、って話題があって、大阪の街のど真ん中を自転車で疾走してるおじさんがいたって話しをしたのが関の山。そんなん、普通やん、なーんもおもろないわ、って言われちゃったりしてね」
「信子さんの話はしなかったんですか」
「ダンディな男はそういう話はしないの」
 誰がダンディ? と言いたがる口を自分でなだめ、僕は尋ねた。
「明日はどうします?」
「信子さんのお見舞いに行っていいかな。途中でほっぽってったから、顔だけは出してきたいんだ。信子さんに改めてお礼を言って、それからあとは、信子さんおススメの行動に移ろう」
「たこ焼きを十人前食べるんですか」
「たこ焼きじゃなくて、楽しみにしてなさいね」
 うふふっと含み笑いをする三沢さんの表情はかなり不気味だったのだが、信子さんおススメとはなんなのか、思い出せないので諦めた。楽しみにしていなさいと言われたのだから、楽しみにしていよう。
 
  
 人型のたこ焼きが自転車に乗って繁華街を走っている。危ないよ、と声をかけたら、ぬくぬくの小型のたこ焼きがあとからあとから飛んできて顔を攻撃され、熱いよぉーっ!! と悲鳴を上げた。
「……酒巻、酒巻」
「火傷……痛い。たこ焼きが顔にべちゃべちゃっ……」
「たこ焼きの夢を見てたのか。起きろよ。起きないとキスするぞ」
「うわっ!! 許してっ!!」
 飛び起きたら、三沢さんが呆れ笑いで僕を見ていた。
「夜には深夜バスで東京に帰るんだから、時間は少ないんだよ。起きて顔を洗ってどこかで朝メシ食って、行動開始。寝ぼけてるのか? ぱっちりと眼の覚めるユキちゃんの熱いキスがほしい?」
「起きますからしないで下さい」
 たこ焼き攻撃以上にキスは恐ろしい。三沢さんだったらやりかねないからさらに恐ろしい。
 身支度を整えてビジネスホテルをチェックアウトし、近くの喫茶店でトーストとコーヒーの朝食をすませ、信子さんのお見舞いに行くと、静江さんが僕たちを出迎えてくれた。
「昨日はありがとう。母は寝てますけど、昼前には退院できますから。三沢さんて、昨夜はテレビに出はったんですって? 私も観たかったんやけど、母は待合室には行かれへんし、私だけ観にいったら怒るから、母の枕元におって観られへんかったんよ。残念やったわ」
「僕もとっても残念ですが、またの機会に。信子さんは大丈夫なんですね? くれぐれもお大事にして下さい。信子さんのたこ焼きは大阪の宝なのですから、身体をこわしてお店をやれなくなったら一大損失ですよ」
「宝やとまで言うてもろたら、母も喜びますわ。酒巻さんもありがとう」
「いえ、僕は……」
「ええひとやね、あんたら。今どきの若い男の子を見直したわ」
 わずかに涙ぐんで見つめられ、僕はどこを見たらいいのかわからなくなったのだが、三沢さんは軽い調子で言った。
「またの機会にはテレビで僕らの歌を聴いて下さいね。僕はフォレストシンガーズの三沢幸生です。フォレストシンガーズ、とりわけ三沢幸生、しっかり覚えて下さいね。なーんて言うと売名行為みたいですね。下心もあったんだってわけで……」
「下心?」
「下心っていうと、色っぽい想像しちゃいます? 静江さんって美人だし、俺も想像していいかな。あの信子さんの娘さんだけあって、色香したたるいい女」
「……三沢さん」
「はっ、ご無礼申し上げましたっ!!」
 怒るのかと思ったら、静江さんは笑い出した。
「面白いひとやな。私、そんなん言われたん何年ぶりやろ」
「大阪の方に面白いと言っていただけたのを胸に刻んで、三沢幸生、今後とも精進して参ります。俺の心にたこ焼きのぬくもりとともに、静江さんの美しい横顔を残して帰ります。感触も残していただいていいですか」
「なんの感触?」
「こう」
 わっ、調子に乗ったらいけません、と止めようとしたのも遅く、三沢さんは静江さんの頬にちゅっとくちびるをつけた。今度こそ怒るのかと目を閉じたら、静江さんの温和な声が聞こえてきた。
「そんなキスも何年ぶりかしらね。お返ししてええ?」
「大感激、大感動。俺は死んでも静江さんとのキスを忘れません。あんまりやると旦那さまがやきもちを妬かれて、喧嘩になったら大変ですので……」
「旦那は見てないんやからええんよ」
 目を開けると、三沢さんが静江さんをハグしていて、静江さんが三沢さんの頬にキスのお返しをしていた。三沢さんももう一度キスをしてから言った。
「これは信子さんへの分です。素敵な女性たちと知り合えて最高の大阪の旅になりましたよ。いつかまたお会いしましょうね」
「どないしよ。好きになってしまいそうやわ」
「静江さん、愛には年の差はありませんが、あなたは人の妻。悲しいけどお別れです」
「いややわ、うち」
「あのね、あのね……三沢さんも静江さんも……」
 袖を引くと、三沢さんは名残惜しそうに腕をゆるめ、静江さんがその腕から抜け出した。
「ああ、面白かった。酒巻さんはキスしてくれへんの?」
「よろしいんでしたら……」
 僕ともほっぺにちゅっちゅっとやり合って、静江さんは改めて頭を下げた。
「ほんまにありがとう。あんたらはうちのお母ちゃんのたこ焼きを食べたんやし、私とキスもしたんやし、絶対に出世する。私が保証したげる。がんばりなさい」
 はいっ、と三沢さんとふたりして頭を下げると、静江さんは病室に入っていった。信子さんは眠っているようなので声はかけずに、三沢さんと病院を出ていった。
「俺、大阪って大好き。大阪のおばちゃんも大好き」
「東京のおばちゃんも好きでしょ?」
「この世のすべての女性は好きだよ」
「知ってます」
 ここまでの女好きはいっそ天晴れだと、三沢さんは誰彼となく言われているらしい。僕も同感だ。静江さんもさすがに大阪の女性で、ノリがいいところは三沢さんに似ていた。
「これで仕事の鬱憤は晴れたよ。女のひとっていいよねぇ。さてと、酒巻、本番開始。昨日の橋に行こうぜ」
「昨日の橋? いやです。たこ焼きに襲われますから」
「時間は少ないんだ。つべこべ言わずについてこい」
 なにをするつもりなのか。いやな胸騒ぎがする。昨日の橋とは道頓堀の橋? 信子さんも言っていたのではなかったか。通称ひっかけ橋。ひっかけってなにをひっかける? 魚を釣るのか。いやいや、僕もそこまで世間知らずではないので知っている。
 釣るのは……三沢さんの得意技? ひっかけ橋、またの名はナンパ橋。僕はそんなことはしたくないと抵抗しても虚しく、否応なく連れていかれてしまった。
「大阪の女の子って派手好きだって言うけど、可愛い子もいっぱいいるじゃん。酒巻、ナンパのやりようを伝授してやるから、よーく聞けよ」
「聞きたくありません」
「冴えない顔してどうしたの?」
「三沢さん、忘れたんですか」
 忘れるはずがないではないか。あれはついこの間だ。珍しくも僕は女の子に声をかけられ、彼女についていった。ふたり目となる女の子とのベッドでの経験は心地よかったのだが、そのあとが最悪だった。
 起きたら財布がなくて、彼女に盗まれたのだと気づいてとぼとぼアパートに帰り、馬鹿をやった僕が悪かったのだと反省した。なのに彼女がまたしてもあらわれ、お金を抜き取った財布を返してくれて、またしても僕を誘った。
 彼女は悪魔の手先。僕は悪魔に操られた惨めな男。彼女はまたしてもお金を要求し、お金がなかった僕は、三沢さんに相談したくて彼のアパートに行った。彼女もついてきた。
 三沢さんのアパートには部屋の主はいなくて、乾さんが来ていた。僕のへどもどした言い訳を聞いた乾さんはことを察し、彼女にお金を渡して追い払ってくれた。彼女は乾さんにお説教をされた格好になって怒っていたけれど、実のところではなにを考えていたのか、僕には悪魔の手先の考えなんて読めない。
 悪魔は僕の心に住んでいて、してはならないことをさせたがる。彼女はその化身だったのか。乾さんは僕を叱りつけたのだが、どこかで自らをも叱っていたのか、僕をひっぱたいた。そこに三沢さんが帰ってきて、乾さんも帰ってしまったのか、立ち去って戻ってこなかった。
「酒巻、気づいてる? おまえのほっぺたの手形は右についてる。乾さんは右利きだよ」
 ふたりでビールを飲んで自棄みたいに笑って騒いでいたら、三沢さんが言った。僕はその一幕を克明に覚えているのだから、三沢さんが忘れるはずがないのだ。
「二度もって……懲りろって、乾さんに叱られました。途中からは三沢さんも知ってるんですよね」
 たった今、僕は言った。
「右利きの乾さんが左手で僕を叩いた。力が入りすぎないようにって気遣いでしょ。乾さんって力は強いんですよね」
「ああ、あれか。乾さんは力はあるよ。俺は二、三日、疼くほどに殴られたことがあるんだもん」
「え? なにをして?」
「いいんだよ。それで? なにが言いたい?」
 腹が立って僕を殴ったのだとしたら、左手を使うなんて気遣いはできないだろう。乾さんは怒っていたのではない。だからこそ、自らをも叱ったのだと僕はあとから考えた。乾さんはあれっきりその件はひとことも口にしない。金を返せとも言ってこない。なにも言わないのは三沢さんにしても同じだったのだが、僕は言いたかった。
「子供だとか女のひとだとかを叩くんだったら、左手を使ってってのもあるかなぁって……」
「子供への体罰だったらやるかもしれないけど、乾さんは女のひとは左手でだって叩かないよ」
「乾さんはそうでしょうけど、一般的にはね。僕は子供か女の子扱いされたのかなって。それって乾さんが気遣ってくれたと感謝するべきなんですか」
「乾さんは女は左手でも叩かないって言ってんだろ」
「じゃあ、子供扱いですね」
「子供なんだからしようがねえんだよ。おまえも俺も、乾さんから見たらガキなんだ」
「乾さんはそんなに大人なんですか」
「俺たちと比較したらね」
 次第に三沢さんの声が常と変わってきている。彼が乾さんに殴られたといういきさつを思い出しているのだろうか。それは三沢さんにとってはどんな感慨が? 僕が見返すと、三沢さんはいつもの調子に戻った。
「それはそれ。ナンパってのは男にとって得がたい経験だよ。先輩に殴られるのもいい経験だよ。ほら、あの子、声をかけてみろよ。ちっちゃくて可愛いじゃん」
「いやです」
「酒巻、ナンパってのは強気で押すんだ。押したり引いたり笑わせたりのかけひきは人生勉強じゃん」
「僕は強気なんてできません」
「じゃあ、俺がやる」
「やめて下さい。ナンパなんて真人間のやることではありません」
「真人間?」
 まざまざと僕を見つめ、やがて三沢さんは肩を落とした。
「時間もないんだし、お茶を飲むだけだよ。さっきの子は行っちゃったから、ふたり連れの子とダブルデートね。おまえはここで待ってろ」
 おばさんも好きだと言うが、若い女の子はもっと好きなのだろう。三沢さんはおとなしそうに見える女の子ふたりに近づいていった。三人の会話が耳に届いてくる。おとなしそうなのだから拒否するだろう。ふられたら笑ってやろうと目論んでいたのだが、しばらくすると三沢さんは僕に向かって指で丸を作ってみせた。
「……参りました。ま、お茶だったらいいか」
 大阪弁のおばさんもおばあさんも、僕だって嫌いではない。おじいさんでもおじさんでも、お兄さんでも子供でも、大阪弁でも山形弁でも、穏やかで優しい人だったらみんな好きだ。僕は人間が好きだ。
 そうは言っても、彼女たちが連れていってくれたお好み焼き屋さんで、彼女たちが焼いてくれたお好み焼きを食べて、三沢さんに負けずによく喋る若い女の子たちの大阪弁を聞いて、僕もすこしは喋って、そうしているのはたいそう楽しかった。
「酒巻さんてDJ志望? DJになったら大阪のラジオにも出てね。待ってるよ」
「三沢さんはフォレストシンガーズで成功したいんやね。フォレストシンガーズて知らんかったけど、応援したげる。ふたりともがんばって。私も夢を持たなあかんな」
「私も。本気で英会話やって、スッチーの試験、受けよかな。あ、身長が足らんかも」
「そうやんねぇ。スッチーは身長制限があるんよ。なんでやねん」
 ここには悪魔の手先が入り込む余地はなく、みんな、がんばろうね、と言い合って別れると、三沢さんが自慢した。
「楽しいひとときをすごせて、夢を語り合えて、お好み焼きもうまかった。俺のファンもふたり増えた。おまえがDJになって大阪のラジオに出て、彼女たちが聴いてくれたら思い出してくれるよ。おまえの声は特徴あるし、酒巻って名前もありふれてはいないんだから、あっ、あのときの、って感激してくれるよ。一石何鳥? ナンパって悪くないだろ。今度はおまえもやれよ」
「僕には無理ですが、楽しかったです」
「だろ? ナンパって危険もなくはないから、それを回避するのも勘の働かせどころなんだよ」
「そうなると増してや、僕には無理です」
「無理だって言ってたらなんにもできねえんだよ」
「ナンパはできなくてもかまいません」
 ナンパはいいけど、無理だと言っていたらなにもできない、その言葉は胸にしみた。三沢さんというひとは軽い軽いノリの男だけれど、昨日の行為といい、時として口から出す言葉といい、断じて軽いだけではないのだと、卒業してからのほうが認識を新たにできていっている。
 大阪への一泊二日の旅は、僕にとっても有意義だった。三沢さんの仕事は成功とはいかなかったようだが、彼はめげてなどいない。ナンパはいいとして、僕も今後も懲りずにがんばろう。DJになれたあかつきには大阪のラジオに出演して、「けつかる」って言ってみようか。よくない言葉だからよくないのだろうか? 
 

3 幸生

 ナンパ経験がないという男はいてもおかしくはないのだろうが、そやつたちは本当に正直に言っているのだろうか。
 章は稚内で雑魚をひっかけたと言っていたし、東京に来てからもやっていただろう。ロックバンド時代にはもてまくっていたそうだから、ナンパなんかしなくてもよかったのかもしれない。シゲさんはないと言うが、シゲさんならばたしかにないだろう。嘘ではないだろう。
 乾さんもないと言う。乾さんもロックバンド時代の章と同様、ナンパをする必要性がないからなのならば信は置ける。では、本橋さんは? ないとは言うが、彼は信用できない。リーダーはなにかにつけて、言うことが時によって変わるのだから。
 煙草は大学に入ってやめたんだ、だの、煙草なんて一度も吸ったことはない、だの、俺はもてるんだ、だの、俺はもてないもんな、だの、幸生、おまえは世界一の馬鹿だ、だの、おまえ、案外頭は悪くないんだよな、だの、乾のへなちょこ野郎、だの、乾はたいした奴だよ、だの。
 彼らの言い分にしても頭から信用してはいけないだろうが、シゲさん以外は女の子と幾度もつきあったはずだから、放っておいてもいい。ナンパなんてしたかったらすればいいし、したくなかったらしなかったらいいだけだ。
 が、酒巻はしてみたほうがいい。ナンパなんてものは駄目でもともと、当たって砕けて散る、の精神でやれば、うまく行く場合もある。ふられたら足元の小石でも蹴飛ばして、空に向かって口笛でも吹いていればいいのだ。なのに、ナンパは真人間のすることではない、とまで言いやがった。
 大阪から深夜バスに乗ってふたりで東京に帰り、酒巻とバイバイしてアパートに戻ってきた。今日もオフなので、往復深夜バスの疲れを取ろうと、ストーブをつけて音楽をかけて湯を沸かして、インスタントラーメンでも食ってから寝て英気を養うつもりで、俺は畳に寝そべった。
 湯が沸くまでの間、大阪でのできごとを思い出していた。大阪のひっかけ橋も思い出す。
 たこ焼き屋の信子さんは入院はしたものの、大事には至らなかったようだったので安心して、ならばおススメに従おうとなったのは、俺だったら当然だ。信子おばあちゃんはおススメしてくれたのではなく、したらあかん、と言っていたような気もするが、ひっかけ橋とはナンパ橋ではないか。やらずにいられようか。
 小さめで可愛らしい女の子を物色して、声をかけろと言った俺に、酒巻は先日の一件を持ち出した。その日に俺の部屋で、酒巻はある夜、女の子に逆ナンされてついていって、その子に財布を盗まれたのだと告白した。それで懲りたらいいものを、こともあろうに金を抜いた財布を返しにきてくれた女の子に再び誘われ、こともあろうにまたもやついていって、またもや金を要求された。
 アルバイトADは稼ぎも少ないのだから、金がなくて困り果てて、俺に相談にきたらしい。酒巻が女の子を連れてやってきたときには、俺はコンビニに出かけていて部屋を留守にしていて、訪ねてきていた乾さんに事情を打ち明けたのだ。俺は途中からしか目撃しなかったのだが、酒巻は乾さんにひっぱたかれたのであるようで、右頬を赤くして泣きそうになっていた。
 男とは罪深いもの、乾さんはそう言いたかったのだろう。大学三年のときに、ややちがった形で罪深い行為をした俺も、乾さんに殴られた。あのときの乾さんのパンチは相当にこっぴどかったのだが、酒巻は殴られたというよりも、軽くひっぱたかれた程度に見えた。
 ひ弱といえば章も俺もだが、酒巻は章や俺以上にひ弱そうな外見をしている。乾さんが章を本気で殴ったことがあるのかどうかは知らない。章は乾さんにしょっちゅう叱られているけれど、乾さんはめったに他人に手は上げない。
 めったに人に手を上げない乾さんに殴られたのだから、俺はそれほど悪質な真似をしたのだと、心にしみた想い出が俺にはある。酒巻にしても人に殴られた経験は数少ないようだから、乾さんにひっぱたかれたのが衝撃だったのだろう。それを肝に銘じてナンパはしない。感心な心がけ? いやいや、さかさまだ。だからこそ、酒巻はナンパくらいしたほうがいいのだ。
 恋愛経験はなくもないのだろう。俺も酒巻の恋はひとつ、ふたつなら知っている。それはこの際無関係としても、ナンパすらしたことのない男だからこそ、タチのよくない女にひっかけられて、金を盗まれたり金を要求されたりというていたらくに陥ったのだと俺には思える。
 逆ナンなんかよりこっちからナンパするほうがはるかに好きな俺だって、女に誘われてついていったことはある。だが、彼女はタチは悪くなかった。枕探しも美人局も売春もしなかった。俺にはそのたぐいの女を見分ける嗅覚はあるつもりだ。これぞ経験の差ではなかろうか。
 そりゃあね、僕だって彼女はほしいけど、それより先決は仕事ですよ、就職しなくっちゃ、早くまっとうな社会人になりたい、深夜バスの中で酒巻が言っていたのも思い出す。ナンパして知り合った女の子と食べたり話したりするのも楽しかったけど、恋ってそんなものでは……酒巻はそんなふうにも言っていた。
 たぶんもてない男の双璧。シゲさんと酒巻はタイプこそ別々だが、そういう男こそナンパでもして、女性経験のはじっこにでも触れるべきなのに。俺が言っても、ふたりともに聞く耳は持たない。シゲさんと酒巻は頑固で堅物なところは似ている。
 堅物が逆ナンされてついていくのか? シゲさんが質問しそうな気もしなくもないが、シゲさんだって女に誘惑されてふらーっ、ってのがあったじゃないか。あの女もタチはよくなくて、俺はいつになく怒ったものだ。酒巻からつながって、シゲさんの恋の顛末をも思い出すと、今さらながら腹が立ってきた。
 あれにしても俺はすべてを知っているのではないが、合唱部時代の本橋さんや乾さんと同年の女性、YSさんと再会したシゲさんは、彼女に恋をしたのだろう。女に慣れていない男は、恋がじきにおもてにあらわれる。あのころの俺は、シゲさんにもやっと恋人ができたんだね、よかったね、と思っていた。
 フォレストシンガーズはアマチュアで、シゲさんは大学四年生だった。俺は大学三年生で、くるみちゃんをだましてホテルに連れ込んで、そうと打ち明けて乾さんに強烈なパンチを食らったのも、近い時期だったか。ふたつの想い出は、今でも俺を暗い心持にさせる。
 くるみちゃんの件は俺が悪いのだから、何度でもごめんなさいと言うしかない。言おうにも会うおりもなくなってしまったくるみちゃんには心で詫びておくしかなくて、なのに俺はいまだに……なのだが、それはそれとして、シゲさんだ。シゲさんの恋のお相手は、実は本橋さんが好きだった。
 とすると、やっぱリーダーはもてるんじゃん、なのであるが、それもまあそれとして、シゲさんは彼女の裏切りを知った。知ったからといって泣き言は言わずに、なにもなかったようなそぶりでいた。けれども、男の人生には女とのあれこれがついて回るのだから、人生勉強ではないか。心に傷を抱えていても、シゲさんはそれからだって強く雄々しく歩いてきて、もてないもてないと嘆いてはいるものの、しっかり立ち直った。
「シゲは最近元気がなかっただろ。元気が戻ってきたのは、がつんと一発どやされたかららしいぞ」
 話してくれたのは、あのころはいたヒデさんだった。
「誰に?」
「乾さんだよ」
「がつんって? 乾さんがシゲさんを殴ったの?」
「俺だったら殴ってしまいそうだけど、乾さんはそうはしないよ。がつんとどやすってのにもいろいろあるんだな。シゲは詳しくは言わないけど、どんなふうだったんだろうな」
「乾さんだったら……俺にもよくわかんないけど、ヒデさんは乾さんに殴られたことってある?」
「ないよ。おまえはあるんだろ」
 えっ? なんで知ってるの? と言いそうになって、慌てて口を閉じたのも思い出す。
 軽くこづく程度だったら、シゲさんやヒデさんにも乾さんはたまにはやっている。本橋さんもシゲさんやヒデさんをこつんとやったりはする。しかし、シゲさんやヒデさんは本橋さんや乾さんから見て、章や俺ほどのガキだとは映っていなかったのだろう。明らかに態度が異なっていた。
「先輩面しやがって、いばってばっかり、説教ばっかり」
 章が言っていた通り、乾さんには叱りつけられ、本橋さんにはげんこつをもらい、といった風景が日常的な章と俺は、いつになっても先輩たちの前では後輩でガキで、なのだろう。そこは会う機会の少ない酒巻も近い立場だと思える。
 だからこそ、乾さんは酒巻や俺だときつく叱って殴った。章は性格がああなので、迂闊に手は上げられないのか、あるいは、章も乾さんに殴られたことはあって、言わないだけなのかもしれない。いずれにせよ、ガキはガキ扱いされてひっぱたかれる。酒巻はおのれが大人になったつもりでいるのかもしれないが、俺にはガキだという自覚も多少はあるのだから、時には殴られるのもいいではないか。
「叱ってくれるひとは……きびしくしてくれるひとは……でないと……そんなひとがいないと……俺は……おまえだって……だろ、酒巻?」
 ひとりごとを言っているつもりが、言葉が出てこない。頭の中で自分の言葉が響いている。俺は眠っているのか? 鼻腔にきな臭さが流れ込んでくる。ストーブ? 火にかけっぱなしの鍋? 鍋の湯が蒸発して空焚きになって爆発寸前? 大変だ、起きなくちゃ、とは思うのだが、身体が自由にならない。
 手を上げると空気をつかむ感触。目は閉じている。身体が動かない。金縛りに遭っているかのごとく、俺は夢うつつの中でもがいていた。もがいているのは精神で、肉体は畳に横たわっていたのだろう。ついに鍋が爆発した。爆発はしたのだが音が聞こえなくて、気配ばかりが伝わってくる。
 必死になって起き上がろうともがいていると、身体が宙に浮いた。誰かにかつがれて部屋から連れ出されていく。アパートの近所の人々も出てくる。人々が大騒ぎしているのも気配だけしか感じられなくて、外の地面に降ろされた俺は、ぼけーっと乾さんの顔を見上げた。
「……なにが? なんで乾さんがここに?」
「ぼけてんじゃねえんだよ。大惨事になるところだったんだぞ。鍋を火にかけて眠りこけてる馬鹿があるか。目を覚ませ!」
 思い切り殴られて眼が覚めた。だが、なぜだかまったく痛くない。殴られたのはまちがいないはずなのに、痛くもない平手打ちってあるんだろうか。
「……そっかぁ。乾さんの手には愛がこもってるから、痛いとは感じないんだね。鍋が爆発したんでしょ? 火を消してくれたんですね」
「ああ」
「俺を心配してくれたあまり、乾さんったらそんなに怒ってるんだ。心底怒ってる乾さんの顔を見るのは珍しいけど、素敵だわ」
「なにを言ってるんだよ、おまえは。おまえの身よりもアパート自体だとか、近所の方々のほうが心配だろ。まだ寝ぼけてるのか。あと二、三発……」
「うん、もっともっとぶって。乾さんの愛情あふれるてのひらでぶたれるんだったら、ユキちゃんは幸せよ。抱っこして連れ出してくれたのよね」
「抱っこじゃなくてひっかついだんだよ」
「ユキちゃんは女の子なんだから、優しく抱いて運んでくれたらいいのに。ぶつにしたって女の子なんだから……ほっぺを叩くなんてひどいわ」
「こんなときには女だって……いや、ごめん。痛かったか?」
 周囲で近所の人々が騒いでいたはずだが、外野は意識の外に遠ざかり、乾さんの声も優しくなった。
「おまえがぼーっとしてるから、正気に戻そうとしてひっぱたいてしまったんだよ。ごめんな」
「ううん、いいの。愛があったら痛くはないから」
「そうか。それにしても、ユキ、おまえは女の子だろ。俺とはなんだよ」
「俺って言った? 正気じゃなかったからよ。乾さんにぶたれて正気になったから、俺なんて二度と言わない。乾さん、ユキ、火事に……怖かったよぉっ!!」
「よしよし。もう大丈夫だよ」
 胸に抱きついてわあわあ泣き出した。鍋が爆発しただけですんだのは、乾さんのおかげだ。どうして乾さんがユキのアパートに来たのかは、恋人同士なんだから、理由なんかどうだっていい。来たくなったから来て、そのおかげでユキは救われた。
 火事騒ぎもおさまって、近所の人々が部屋に引き取っていく。あたたかな胸に顔を埋めて泣いていると、乾さんの手が顎をつまんだ。
「部屋に入ろうか」
「……ユキ、脚ががくがくして歩けない。抱っこしていって」
「おまえが悪いんだぞ。反省してるのか」
「してる。部屋に入ったらもっとぶってもいいから、その前にキスして」
「可愛いユキをひっぱたいたりしちまって、俺も反省してるよ。おまえは女の子なんだよな。忘れてた、ってーのか、なんだって忘れてたんだろ。おまえ、女だったか」
「女じゃないのよ。我に返らないで。抱っこ、キス」
「俺は女の子をおまえと呼ばない主義というのか……女の子を叩いたのも生まれてはじめて……うーむ、変だな」
「変じゃないわよ。部屋に入ったら確認する? ほら、抱いてたってわかるじゃないの。こことかこことか」
「……やっぱり変だ。おまえの言葉遣いはおねえ言葉みたいだし」
「失礼ね。ユキはいつもこうやって喋ってるじゃないの」
「そうだったかな。とにかく、部屋に入ろう」
 ささやかなキッチンは見ないようにして、焦げ臭さが漂っているのも無視して、ふたりして部屋に入ると、ユキは目を閉じた。
「ユキの身体にもこげ臭っぽさがしみついてる? 狭いけど、いっしょにお風呂に入りましょ。そしたら、ユキが女の子だったら変だなんて思わないわよ」
「……うーん……」
「いつまで悩んでるの? じれったいわね。早く脱がせて。ユキ、乾さんに裸にされるのって大好き。乾さんも脱いで」
「自分で脱げよ」
「自分で脱ぐの? つまんないの」
 いまだなにやら悩んでいる乾さんを見やりつつ、服を脱いだら胸がぺったんこだった。
「え? ユキちゃんのバストが消え失せちゃったよぉっ!!」
「火事騒ぎで頭が錯乱してて、俺まで乗せられちまったよ。おまえにはもともとバストなんてないじゃないか。その骨ばった堅い身体のどこが女だ。おまえも自ら錯乱してたんだな。鏡で確認してみろ。触れてみろ。全身男だよ。それ以上脱がなくてもいい。下着ごしだってそのケツは男だろうが」
「……ええ? うっそぉ」
 畳にあぐらをかいていた乾さんが、ユキを、いや、俺を、だろうか。どっちだかわからなくなっているユキをぎろっと睨んで立ってきた。
「それ以上脱ぐな。おまえの裸なんか見たくないんだよ。脱ぐなと言ってるだろ」
「だって、お風呂……」
「風呂にもひとりで入ってこい。おまえは男なんじゃないか。なんだってそういう根本的事実が錯乱するのかね。男だったらあと何発でも張り倒してやってもいいんだぞ。おまえはまだ寝ぼけてるのか。脱ぐな」
 蹴飛ばされそうになって、乾さんに蹴飛ばされたら下半身全体を複雑骨折しそうで、悲鳴を上げた。その悲鳴は女の子のものに相違なかったのだが、俺はもとからこういう声で悲鳴を上げる。蹴られてもいないのに吹っ飛んでみせて、畳に倒れたら眼が覚めた。
「ありゃあ? やーね、ユキちゃんったらはしたないわっ!」
 女言葉で言ってみたのは、ジャージパンツが脱げかけていたからだ。夢の中で脱いでいたから、現実世界でも寝たままごそごそやっていたのか。
 現実世界でもなんとなくきな臭い。はっと気づいてキッチンに駆け込んだら、鍋が爆発しかけていた。空焚きになってしまった鍋の立てる音とにおいが、俺にあのような夢を見せたのだろうか。夢とは短時間を長い時間だと錯覚するものなのだろうから、早く眼が覚めてよかった。
 レンジの火を消し、ストーブも無事なのをたしかめて、俺は畳にすわり込んだ。なにか食う予定で湯を沸かしていたのだが、食欲は失せてしまっている。あの夢は一部分が予知夢? 結果的には夢のおかげで、現実の惨事から救われた。乾さんのおかげだったと言えば言える。
 女の子に変身する夢を見るのははじめてではないのだが、今日のはややリアリティがあった。あの夢が中途で方向転換しなかったとしたら……と想像してみたら、乾さんが気づかないままの続きを見たかったような、見なくてよかったような。
 いくら夢でも、女の子のユキが乾さんと恋人同士で、いっしょにお風呂に入って、それからベッドに……なんてのは、見ないほうがいいだろう。そっか、夢だから殴られても痛くはなかったんだ、と納得して、乾さんに殴られる云々なんてことを考えながら居眠りしたから、あんな夢を見たんだとも、一応は納得がいったのだった。


 バスの停留所からバイト先に直行して仕事だと言っていた酒巻に、その夜、電話をかけた。お疲れさまでした、と低くて渋い、顔を見なかったらどれほどかっこいい男だろうかと幻惑されそうな声を出す酒巻に、挨拶を返してから言った。
「俺さ、乾さんにひっぱかれたんだ」
「大阪でも言ってましたね。どうしてだかは教えてくれなかったけど、どうしてなんですか」
「ついさっきだよ。居眠りしてて火事を出しそうになって、そこに来てくれた乾さんに連れ出されて、火事は未然に防がれたんだけど、ものすっごく叱られて怒鳴られて何発も叩かれて、顔がふくれ上がってるんだ。明日は仕事なのに、こんな顔で外に出るのはいやだよ」
 一瞬息を呑み、未然に防がれた? だったらよかった、と息を吐いて、酒巻は応じた。
「火事よりはよほどいいですよ。冷やすと腫れが引くんじゃありませんか」
「冷やしたくらいでは引かない。両方のほっぺたが倍にふくれてるんだぜ」
「まあねぇ、それだったらね……不注意で火事を出したりしたら、江戸時代だったら火あぶりですよ」
「一族郎党火あぶりだよな。酒巻もいっしょに火あぶりになってくれる?」
「なんで僕が……助命嘆願書を出してあげますよ」
「江戸時代の刑罰なんかどうでもいいだろ。今は江戸時代じゃないんだから。ほっぺが痛いよぉ。ええーん、痛いよぉ。ユキちゃんは女の子なのに、乾さんったらひどいんだから、ああまでびったんびったん叩かなくてもいいじゃん」
「三沢さんは女の子ではありませんから」
 そうだった。酒巻も俺が女の子芝居をやるのを知っているが、あれはあくまでも芝居なのだから、夢を侵食させてはいけない。
「でも、そんなにひどく叩かなくてもいいですよね。口答えでもしたんですか」
「してないよ。ごめんなさーい、もうしませーん、って泣いてるのに、いっぱいぶたれたのっ」
「それはひどいかも」
「蹴られそうにもなったんだよ。乾さんってサドなんじゃないかな。泣いてる女の子を見ると被虐的になって、もっと苛めたくなるんだよ」
「女の子じゃないでしょ?」
 あのときは女の子だったんだもん、と言うと話が複雑になる。そもそも夢では叩かれたのは一度だし、まるで痛くもなかったのに、乾さんは詫びてくれた。夢の中でもすべての行為が乾さんらしかった。
「酒巻だったらどうする? 俺だったら……」
 恋人の部屋を訪ねて火事が起きそうになっていて、彼女がその中で寝ていたとしたら、俺だって全力で火事を防ぎ、彼女を部屋からかつぎ出す。彼女ではなく、たとえばそれがシゲさんだったとしたら? 俺では重たいシゲさんを引っ張り出すのは無理があるが、どうにかして外に出す。
「できるかな。やらなくちゃね。夢とはいえ、乾さんだったらそうしそうなシーンだったな」
「夢? 夢なんですか」
「そうだよ。言わなかった?」
「聞いてませんよっ」
 だったら顔なんか腫れてないんでしょうがっ、と酒巻が叫んでいる。夢のシーンも大幅に大げさに言ったのだが、大げさでも控えめにでも夢は夢なのだから、こまかい部分にこだわらなくてもいい。
「俺が人騒がせなのは覚えておきなさいね」
「とうに知ってますけどね。ところで、三沢さん、瀬戸内さんがビデオを送って下さったら、僕にも見せて下さいね」
「うん、反面教師になるだろうから、見せてやるよ」
「約束ですよ。楽しみにしてますから」
 楽しみにされるようなものではない。うちの仲間たちにもあまり見られたくない。泉水さんは見たのだろうか。泉水さんにも電話しようか。
 そうは思ったのだが、泉水さんが送ってくれたビデオで俺自身を客観的に見てから、泉水さんにお礼の電話をしよう。番組に出演している時間には、客観視する余裕なんてなかった。どうも俺はお笑い芸人さんと相性がよくないのではなかろうかと思っていたのだが、なに、そんな経験は乏しいのだから、現時点では相性が悪いとは言い切れない。
 人生、なにごとも経験だ。シンガーであってもお笑い芸人さんと対抗して、トークに磨きをかけるのも俺の経験。現実では経験したくない火事を夢で経験させてもらったなんて、神さまは粋なはからいをしてくれるじゃん。たこ焼きもお好み焼きもおいしかったし、「たこ焼きラプソディ」って詞を書いて、章に曲を書いてもらおうか。
「よーし、書こう」
 明日は乾さんに、あの夢をどう脚色して話そうかな。シゲさんやリーダーは現実だと話したら真に受けるだろうけど、乾さんはそうは行かない。対策を練らなくちゃ。我々のソロライヴも近づいている今、俺には練るべき対策がいくつもあって、数多の人生勉強をさせてもらえる環境を、心から神さまに感謝していた。それはそれで置いておいて、たこ焼きの詞も書かなくっちゃね。

END


 
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~ Comment ~

乾さんがひとりで雪女役をやったり

↑おお、これ、映像で観たかったなぁ!

今回は、テンションが高くって、すんげー面白かったっすよぉぉっ!!!

やはり幸夫ちゃんの語りは最高でした!!
酒巻くん、けっこう良い味出しているのは、幸夫先輩が相手だからかな。
たこ焼き屋のおばちゃんも、現実にいそうで、ものすごいリアリティありました。もしかして、モデルいらっしゃいます???

そして、ナンパについて真面目に語る幸夫くんの理論に実はちょっくら頷きました。
fateは、今回、幸夫くんがやったことはナンパとは呼ばない。
海外ではフツーのことです。
ちょっと一緒にお茶や食事して会話を楽しんで、じゃ、またね~、という感覚。
そういうのって大阪くらいの開けた都市では、日常的にあっても良いんじゃないかなぁ、とマジ、思います。東京はかえって変に外国人が混じって、変に開けて田舎者も多いからむしろ、危険。でも、大阪のように閉じた大都市。独自の文化が根付いて未だに繁栄している特殊空間では、そういう楽しみ方があっても良いと思う。
価値観の違う人間同士がちょっと触れ合って語り、縁があったらまた会いましょう、みたいな自由さ。
日本に足りないのはそれ。
過剰なものはいっぱいあるのに、そういう触れ合いを男女の型にはめすぎなんだよ。
何かの縁で、例えば、店先に陳列してあった小物の好みが同じだった、なんて程度で会話がはずみ、ちょっとお茶しよっか、とカフェに座って語る。そして、またね、と分かれる。
それだけ。
人は人との出会いに寄って磨かれ、意識レベルの高い人と関わることによって、自らのレベルも引き上げられる。
幸夫くんがやってるのは、そういうことだと思う。
ただ、彼も日本男児だから、あわよくば彼女になってくれたら、という下心はあるんだろうけどね。

ああ、また無駄に長くなりました(^^;

十年後のフォレスト・シンガーズ、早くお会いしたいなぁ!!!!

皆、きっと、元気で変わらないだろうことが嬉しい。

また来ます~

fateさんへ

幸生ってのはまーったく私とは性格がちがってまして、そういう奴を書くのがいちばん、気楽というか書きやすいというか、
なのだなぁと、fateさんがご感想を下さると改めて思います。

酒巻くんはおとなしくて控えめで、弱虫泣き虫キャラなのですけどね、こうやって出てきたがるのは、意外に自己主張の激しいタイプなのかもしれません。

たこ焼き屋のばあちゃんには特にモデルはいないのですが、不特定多数の大阪の飲食店のウェイターさんの集合形といいますか。
大阪のレストランなんかには、時々このたぐいの従業員がいます。やたらノリがよくって、シャレを言いたがったりギャグを言いたがったり。

私なんかは慣れてますから、ああ、またこんなウェイターがいる(おじさんに多いです。稀には、おばちゃんやおばあちゃんもいます)、って苦笑してるくらいですが、よその地方の人は少々びっくりするみたいですね。

ナンパにつきましては、ですね、彼女になってほしいというよりも、幸生や章の場合の目的は、あわよくばホテルですよね。

まー、ナンパしてくる男性が本心ではなにを考えているのかは謎ですから、される側としてはリスクもありそうで逃げるわけで。
する側としても、変な女にひっかかる可能性もないわけで。
逆ナンなんかもあって、スリルを楽しむっていうのもいいかもしれませんが。

でも、気の合いそうな人とお茶を飲んでお喋りする、そういう出会いだったらたしかに、楽しそうですよね。
恋人だのベッドだのではなくて、そうやって友達になれたらいいでしょうねぇ。

「俺、今、三十三でしてね。
このころに夢見た俺に……ちょっとは近づいてきてるかなぁ。
いいや、もっともっとがんばるぞっ!!
ナンパも……ごにょごにょ、がんばります」

今日は幸生からの伝言でした。
ありがとうございましたー。
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