番外編

番外編9(ケ・セラ・セラ)

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番外編9

「ケ・セラ・セラ」

1

 八名の十八歳女子がファストフード店でわいわいお喋りしていると、こうなるのは自然の流れだろう。高校のときには彼はいたの? 別れたの? 今は好きなひとは? 私の回りにすわった合唱部の新入部員たちは、人の話を聞いているのかいなのか、てんでんばらばらに喋っていた。
「この間の飲み会で、男子たちの自己紹介も聞いたじゃない? なかなかかっこいい子もいたよね」
「かっこいいって誰? 誰かを好きになった?」
「一年生なんて子供じゃないの。上級生の男子のほうがずっとかっこいいよ」
「私は高校のときの彼が忘れられない」
「星さんとか金子さんとか皆実さんとか、そっちのほうがいいな」
「一年生にもかっこいい男子はいるよ」
 ユッコ、アミ、チエ、ゆかり、美江子、香奈、早苗、そこに私を含めて八人もの女の子がいるので、誰の発言なのかが聞き分けづらい。誰がなにを言っていてもたいした内容でもないから大勢に影響はないので、私は半ばぼんやりと女の子たちの会話を聞いていた。
「晴海ちゃんは無口なんだね」
 ただひとり口をきかなかったからか、香奈が私に視線を向けた。
「晴海ちゃんには好きなひとはいないの?」
「恋なんて飽き飽き」
 きゃーっ、すっごい大人の台詞ーっ!! と誰かと誰かが叫び、詳しく聞かせてよ、と目を輝かせる。よし、話してやろうじゃないか、と私はうなずいた。
「高校のときにさ、時間差で何人もの男の子につきあってほしいって言われて、面倒くさいからそいつら全部とつきあってたら、ばれちゃって大変だったんだ。あっちでもこっちでも血を見る騒ぎになっちゃったのよ」
「晴海ちゃんってそんなにもてたんだ」
 目をまん丸にして言ったのはユッコで、香奈は懐疑的な目つきで私を見た。
「もしもそれが本当だとしても、そんなのは恋とは呼ばない」
「そしたらどんなのを恋って呼ぶの?」
 香奈に尋ねたのはアミ。恋っていうのはね、と香奈が持論を展開しはじめ、他の六人は彼女の恋愛論に耳をかたむけている。香奈の話を聞いていないらしい美江子が、私に言った。
「じゃあ、晴海ちゃんは恋はもうしないの?」
「しないつもりだったんだけど、この間の飲み会で男の子たちを見回してたら、可愛い子がいたのよ」
「可愛い子って?」
「乾くん」
「乾くんって可愛い?」
「可愛いじゃない。緊張しちゃってさ」
「緊張はみんなしてたじゃないの。私だってしてたもん。緊張してなかったのは本橋くんと徳永くんと、それから晴海ちゃん。私にはその三人だけに見えたよ」
「私もちょっとは緊張してたっての」
 そうかなぁ、と美江子はちろりと舌を出し、私たちをほったらかして恋愛論議をやっていた他の女の子たちのうちの、早苗が言っているのが聞こえてきた。
「あんなの、見栄だよ。そうなってたらよかったのにな、って願望じゃないの? あの子がそんなにもてるとは思えない」
「早苗ちゃんにはそんな経験ないの? 客観的に見て、この中でいちばんプロポーションがよくて美人なのって早苗ちゃんじゃない?」
 おっとりと言うユッコは、この中でもっとも背が低くてころころしている。アミはやや長身で骨太っぽい。チエは中肉中背。美江子は中背ですこしふっくら型。香奈は小柄でほっそり。ゆかりは長身で細身。たしかに早苗は背も高くてメリハリのあるプロポーションの美人だ。顔立ちは美江子のほうが上にも思えるが、美江子は一見したところ、それほどの美人にも見えない。早苗のほうが華やかなのだろう。
 純情可憐タイプの香奈も男受けする顔立ちに見えるが、ユッコ、アミ、チエ、ゆかりは顔立ちはさほどでもない。三大美人は私の判定では、美江子、早苗、香奈となるのだが、男が見るとまた別の判断をするかもしれない。
「私にはそんな経験なんてないし、あったとしても、ちゃんとひとりを選んでつきあうよ」
 そんな経験とは、私がさっき言った経験だろう。早苗はこだわっているらしく、私に険しい目を向けている。香奈も私を非難のまなざしで見ている気がする。なんとなく雰囲気がよくなくなってきたのを察したのか、ユッコがさらにおっとりと言った。
「でも、晴海ちゃんも美人だよね。美人だからこそもてたんでしょ?」
「だから、そんなの見栄だってば……」
 言いかけた早苗を遮って、私は言った。
「美人だからってもてるとは限らないよ。私はそんなに美人じゃないって自覚してるけど、私のことは置いとくとしても、男好きする女ってのがいるの。それについては男の目で選んでもらうしかないね。女にはわかんないんじゃないかな」
「男子部で新入生女子の人気投票でもしてもらう?」
 冗談めかして言ったのはアミで、ユッコがぶるんぶるんと首を横に振った。
「やだ。私には一票も入らないに決まってる」
「ユッコちゃんってそんなに自分に自信ないの? ユッコちゃんは可愛いじゃないの。ちっちゃくってふわーっとしてて」
 チエが言い、ゆかりもうんうんと賛成し、香奈は言った。
「人気投票なんて不真面目。私はそういうのは嫌い」
「香奈ちゃんったら、実はどきどきしてない? 私は何位になるんだろって? 女子部の一年生は他にもいるけど、ここにいる誰かが一位になるだろうな。私たちで投票してみようか」
 意地悪っぽく早苗が言い、香奈はむっとした顔で早苗を見返した。
「一位は早苗ちゃんでしょ」
「香奈ちゃんかもよ」
「私はそんなの、興味ないの」
「ありそうな顔をしてる。知りたくてうずうずしてる」
「してない」
 今度はこのふたりが険悪ムードになってきて、美江子がとりなすように言った。
「それより、私たちで内緒で男子の人気投票しようよ。結果はここだけの話にしておこう」
 賛成、と美江子とは仲良しのゆかりが言い、みんなして真剣な顔になった。
 無記名投票にしようね、と美江子がまとめ、ノートになにやら書いている。覗き込んでみると、美江子は男子部の数名の名前をノートに書いていた。
「かっこいいって評判のひとたちをセレクトしたのよ。星さん、金子さん、皆実さん、溝部さん、先輩たちではそれからそれから……一年生は誰にする、晴海ちゃん?」
「乾くんと本橋くん、徳永も入れてやって」
「票が割れそうだね。えーと、他にも……」
 各々がかっこいいと決めた男子の名を書くと、文字で誰が書いたかわかってしまうからなのだろう。美江子はノートに男子の名前を列記し、選んだ彼に丸をつけるという方法を考えついたのだ。美江子は二十名ほどの、人気のある男子の名前をノートに書き連ね、コピーしてくると言って一旦店から出ていった。
 間もなく戻ってきた美江子がコピーされた用紙をみんなに配り、みんなしてますます真剣な顔になった。私は私で、コピー用紙を睨んで考えた。
 一票も入らなかったらかわいそうだから、徳永に入れてやろうか。しかし、あいつは見た目は悪くないのだから、かっこいいと思う女の子もいるかもしれない。そしたらやっぱり乾くんか。このところ時々、乾くんって可愛いじゃないの、などと人に言っているので、なんとなくその気になってきた。
 高校時代の私がそんなにもてまくったなど言ったのは、見栄ではなくてただの脚色である。本当の話をするのならば、高校生のくせして本気で恋をしていたつもりの彼を、親友のつもりだった女の子に奪われたという、ありふれた出来事。それでも私はショックを受けて、二度と恋なんかするもんかと心に誓っていた。
 けれど、口に出すとひとはその気になるというのも真実であるようで、乾くんっていいよね、となど言っているうちに恋心のようなものになりつつある。恋に飽き飽きなんかしてないよ。乾くんが言ってくれたらいいな、晴海ちゃん、俺とつきあってくれない? って。
 さて、投票結果は。
 本橋くんが三票、乾くんが二票、金子さんと皆実さん、星さんが各一票。ここには八人の女子がいるのだから、全員がきちんと丸をつけたのだ。誰が誰に丸をつけたのかたいへんに気になり、特に乾くんに入れたもう一票は誰だ? と見回してみたのだが、当然のごとく、誰も言うはずがない。
「徳永には入らなかったか」
 呟くと、美江子が言った。
「晴海ちゃんと徳永くんは単なる友達だよね」
「当たり前でしょ。誰があんな奴と……」
「だよね。私も本橋くんや乾くんとは単なる友達だから、わかるよ」
「ほんと? 美江子ちゃんは誰に入れたの?」
「晴海ちゃんは? ううん、言ったら無記名投票の意味がなくなるじゃないのよ」
 お遊びでも真剣になるのがこの年頃の女の子。私もその年頃の女の子。男子部で人気投票したら、私に入れてくれる男はいるのかな、とちらっと思ったのだが、蒸し返すと香奈と早苗がまたぞろ、となりそうなので言わずにおいた。
 それから一ヶ月ほどして、今日は合唱部の活動はないので、教室で顔を合わせた徳永とふたり、夕食を食べにまたまたファストフード店に来ていた。同じ合唱部にいて、同じ学部にいて、そういう存在は徳永と私だけだったので、なんの因果か親しくなってしまった奴である。
「なんだよ、俺の面をじろじろ見て。なにが言いたいんだ」
「男子部では女子の人気投票なんてやらないの?」
 残念だったね、あんたには投票する女の子がいなかったよ、と言ってやったら、徳永はどういう反応を示すだろうか。あの場での結果は八人だけの秘密だと誓い合ったのだから、言いたくても言ってはいけない。言ってはいけないのだけど、徳永だったら、八人くらいの投票なんてあてになるもんか、と言いそうな気もしていた。
「人気投票? 下らねえ」
「下らないね。そんなら話題を変えよう。徳永ってどこの出身?」
「埼玉」
「埼玉なのにひとり暮らししてるの? 近いんじゃないの? 親はなにやってるひと?」
「身元調査か。どうだっていいだろ」
「どうだっていいけどさ。あんたが話したくないならいいけど、私の話は聞く?」
「したいんだったらしろよ」
「やかましいんだよ、うちは」
「親がか」
 親ではなく環境がやかましい。都内ではない東京の一都市の町工場。住まいと隣接した工場が私の両親の職場だ。父が社長で母が専務。典型的零細企業である。朝から晩まで工場の騒音が鳴り響く中で育った私は、いまだに喧騒に取り巻かれている。
「だからさ、私も家を出て独り暮らしがしたい。ずるいよ、あんたは。家が近いくせにアパート借りてもらって」
「したらいいだろ」
「私の家も大学から近いの。遠くもないのに独り暮らしなんて、お金がかかってしようがないんだから許してもらえないの」
「そうかもしれないな」
「徳永は兄弟は?」
「兄貴がいる」
「私は弟がいるんだ。そいつはゲームマニアで、朝から晩までぴこぴこゲームやってるんだよ。うるさくって頭が変になりそう」
「弟は学生だろ」
「高校二年だけど、将来はゲームクリエイターになりたいんだって」
 長男なんだからおまえが工場を継げ、と父は弟に言う。姉ちゃんに継がせろ、と弟は言う。まっぴらだ、と私は言う。その騒ぎも相当にやかましい。
「学校には行ってるけど、部活をやってるわけでもないし、休みの日は一日中ゲームだよ。だから私はなるべく家に寄りつきたくないの。だから活動がきびしいって合唱部に入ったんだよ。歌が好きだったのもあるけどね」
「なるほど」
「そうだ、徳永、いいこと思いついた。同棲しよう」
「……下らない。下らなすぎる」
 下らない、は徳永の口癖だ。私も下らないとは思うのだが、なおも言った。
「同棲ったってルームメイトだよ。あんたんちはどうせ金持ちなんだろ。無料のルームメイトにしてよ」
「乾んちに押しかけたらどうだ?」
「やだ。そんなあつかましい」
「俺に言うのはあつかましくないのか」
「あんたにだったらいいの。そっか、乾くんも独り暮らしだよね。私と同棲しようって……言えないよぉ」
「下らない」
「あんたはそれしか言えないのか」
 などなどともめていると、店員さんと目が合った。徳永も彼に気づき、いやないやな顔になって立ち上がった。
「あいつがバイトしてる店だったのか。食ったものが逆流しそうだよ。俺は帰るぞ」
「なんでそう毛嫌いするかね」
「おまえはいるのか。帰らないのか」
「徳永の部屋に?」
「おまえはやかましい家に帰れ」
 言い捨てて、徳永は店から出ていってしまった。乾くんがこの店でバイトしてたんだったらよかったのに、と内心でぼやきつつ、私はアルバイト店員さんに近づいていった。
「本橋くん、仕事?」
「そうだよ。喜多は徳永とデートしてたのか」
「晩メシ食ってただけ。デートしてるんだったらさ、いくら大嫌いな奴が店にいたからって、女をほったらかして帰る?」
「だよな。そうか、大嫌いな奴か」
「本橋くんも徳永が嫌い?」
「別に……なあ、喜多、俺の勤務はもうすぐ終わりだから、俺にもつきあってくれないか」
「いいよ。待っててあげる」
 ひとりっきりよりは本橋くんでもいっか、と考え直して待っていると、やがて私服に着替えた本橋くんがあらわれた。よれよれのTシャツによれよれのジーンズ。徳永は服装のセンスは悪くないし、乾くんもまあまあ見られるのだが、本橋くんはひどい。服装はひどいとはいえ、体格はいいほうだし、顔は全然いけてないとはいえ、声がかなりよくて歌は抜群に上手なので、本橋くんっていいよね、と言う女の子もけっこういるのだ。四月の人気投票でも本橋くんが三票。いちばん人気だった。
「なにか話したいの? 徳永の話?」
 外に出ると、いや、まあな、と本橋くんはもごもご言う。なにやらためらってから口を開いた。
「喜多って乾が好きなのか」
「誰に聞いたの、美江子?」
「山田じゃねえよ。誰に聞いたのかは忘れた。本当なんだな」
 ちなみに、美江子の姓は山田、私は喜多。本橋くんは同級生ならば誰でも彼でも、姓を呼び捨てにする方針であるらしい。
「本当だけど、乾くんには彼女がいるんでしょ。本橋くんにもいるの?」
「俺にはいない」
「じゃ、私とつきあう?」
「冗談なんだろ」
「うん、冗談」
 可愛いだとか、乾くんってタイプだな、とか言っていたのも冗談のつもりだったのに、あれれぇ? 冗談がほんとになっちゃうってこれ? になってしまった。けれど、だからってどうするわけでもなく、乾くんにしても私に恋をしているなんてこともなく、気がついたら乾くんは香奈とつきあいはじめていた。
「乾ってもてるんだよな」
「そのようだね。本橋くんはもてないの?」
「俺はもてないよ」
 もててたよ、と言ってあげようかと思ったのだが、内緒なので言えない。本橋くんも私とどこへ行こうというのでもないらしく、ただゆっくりと歩いていた。
「美江子とは恋人同士じゃなかったんだ」
「誰があんな奴と」
「そうか。むこうもそう言ってるよね」
「だろうな」
 その美江子は、私が入部早々徳永と親しくなったのと同じように、本橋くんや乾くんと親しくなったのだそうだ。三人してよく連れ立っているので、美江子はあのふたりのうちのどっちかとつきあってるのかな、という噂もあった。美江子が否定しても、つきあってるんじゃないの? との噂は消えなかった。
「でもさ、ほんとは好きだったんじゃないの? がっかりしてるんじゃないの?」
「俺が山田をか。冗談じゃねえんだよ」
「そっかなぁ。美江子はなんとも思ってなくても、本橋くんのほうは、ってありそうだけどな。でもさ、ライバルが星さんじゃかないっこないよね」
「ライバルなんかじゃないよ」
 乾くんは香奈と、美江子は四年生の星さんと、そうやって徐々に一年生たちもカップルになっていく。他の女の子たちもそのうちには恋をするんだろうか。一年生の男子たちも、そしたら徳永も? あいつって恋愛の似合わない男じゃないんだろうか、と考えていると、本橋くんが言った。
「念のために聞くんだけど、徳永と喜多ってつきあってるんじゃないよな。友達なんだろ」
「友達としてだってつきあってるっていえばつきあってるんだけど、恋人じゃないよ。そういえば、なぜだか、本橋くんと乾くんのどっちかと、美江子は恋人同士なんじゃないの、って噂はあったけど、徳永と私が、って噂はないよね」
「特にはないみたいだな」
 すると、私にも恋は似合わないのか。それとも、徳永と私が似合わないのか。後者なのならば幸いだ。
「徳永はね、あいつって私生活について話したがらないんだよね。私が水を向けても家族の話もしない。さっきはそんな話をしてたんだけど、兄貴がいるって言った程度だったよ。知り合ってからだいぶたつってのに、どこの出身だとか家族はどうだとかって、そういう話ははじめてしたんだよね」
 言っていて思いついた。
「本橋くんって私に興味あるんじゃないよね。徳永に? まさか徳永に恋をしてるとか……」
「なんつう発想をするんだ」
「だってさ、徳永の恋愛に興味ありそうだから」
「そうじゃねえよ」
「そんなら私になにが聞きたいの?」
「いや、もう時間も遅いし……喜多とだって友達なんだし、おまえだって女なんだから、ひとりで帰らせていいのかなと……」
「送ってくれるつもりで呼び止めたの? 本橋くんって……」
「なんだよ」
 いやいや、とかぶりを振ってから笑い出すと、本橋くんは怒りの形相になった。
「送ってなんてくれなくていいよ。でもさ、本橋くんもけっこう可愛いんだね」
「……そうかよ、勝手にしろ」
 いっそう怒った顔になって、くるりと背を向けた本橋くんの背中にこっそり言ってみた。あんたにも恋愛って似合わない気がしてたけど、そうでもなさそうだよ。けっこうもてるんだし、そのうちには本橋くんにも彼女ができるよ。少なくとも徳永よりはずっと、あんたには恋が似合いそう。


 夏休みが近づいてきているころに学校近くの喫茶店に入ると、早苗がノートを広げてひとりでお勉強をしていた。
「テストはすんだのになんの勉強?」
 問いかけると、早苗は顔を上げてじろりと私を見た。
「晴海ちゃん、ひとり?」
「ひとり。すわっていい?」
「いいけど」
「いいけど、いや?」
「いやじゃないよ。どうぞ」
 そそくさとノートを閉じ、早苗はほっと吐息をついた。
「香奈ちゃんや美江子ちゃんって真面目そうに見えたのに、誤解だったのかな」
「真面目なんじゃないの?」
「真面目な女がそう簡単に男とくっつくものかしら」
「……早苗ちゃん、星さんか乾くんが好きだったの? 奪われて怒ってんの?」
「そんなことは言ってないでしょっ」
 荒々しくテーブルを叩いて私を睨みつけ、そのままの表情で早苗はまくし立てた。
「美江子ちゃんにしろ香奈ちゃんにしろ、勉強するために大学に入学したんじゃないの。合唱部に入ったのは歌いたいからじゃなかったの? なのに、同じ合唱部の男性に言い寄られたらころっとなびいて、勉強も歌もおろそかにして恋に生きるってふうになっちゃって、そんなだから近頃の学生は嘆かわしいと言われるのよ。まだ一年生なのに、将来についても考えなくちゃいけないのに、男にばっかりよろめいててどうすんのよっ」
「まだ一年生なんだから、将来はいいじゃないの」
「よくない。私たちの本分は恋じゃなくて学問と考察よ」
「早苗ちゃんは恋はしないの?」
「しないっ」
 決然と断言する早苗を見ていると、意地悪を言いたくなってきた。
「気持ちはわからなくもないな。早苗ちゃんの本音はこうなんじゃないの? あの子たちには言い寄ってくる男があらわれて恋に墜ちた。私はあの子たちよりずっとずっと美人なのに、なんで私には……でしょ? 早苗ちゃんだってそのうちにはきっと……」
「そんなことは言ってないっ」
「言いたいんでしょ?」
「言いたくないっ」
 いちいち語尾に「っ」がつく。それだからかな、と私は言った。
「ヒステリック性格? それだから男が寄ってこないのかも……」
「晴海ちゃん、あんた、私に喧嘩を売ってんの?」
「そうだったらどうする?」
 まぎれもなくヒステリー気質であるようで、早苗はきーっ、と歯を食いしばって私にノートを投げつけた。それをキャッチして中を開くと、本橋、本橋、本橋……とずらずら書かれてあった。
「本日の本橋くんのランチ……カツ丼、B定食、ラーメン……」
「返してよっ。人のノートを勝手に読まないでっ!!」
「あんたが投げたんじゃないよっ!」
 語尾の「っ」が私にもうつって、ノートを投げ返してやろうとしたら、うしろで男の声がした。
「喜多さん、こんなところで喧嘩はやめなさい」
「……その声は金子さん?」
 うしろに立っていたのは男子部三年生の金子さんだ。私の手をやんわりと押しとどめて、金子さんは言った。
「なにが原因だか知らないけど、女性の喧嘩は優雅にやろうね」
「優雅な喧嘩ってすっごく陰湿そう」
「そうかもしれないけど、こんなところで金切り声を上げてものを投げ合うなんて、ほら、人が見てるよ。ふたりとも落ち着いて。八幡さん、泣かないで」
 早苗の姓は八幡。金子さんは本橋くんとはちがって、下級生でも女子だと姓にさんをつけて呼ぶのであるらしい。金子さんは私の手からノートを取り上げて早苗に返した。
「八幡さんが泣くと喜多さんが悪いように見えてしまうんだけど、喜多さんの冷静な判断ではどちらがよくなかったの?」
「んんと……私かも。ごめんね、早苗ちゃん」
「ほお」
 ほお、と金子さんが言ったのがなぜなのかは知らないが、これ以上早苗のとばっちりを受けたくないので、あやまっておいて立ち上がった。
「早苗ちゃん、私が悪かった。ね? 泣かないで。金子さん、あとはおまかせしますからよろしく」
「おまかせって、ここで俺が彼女と向き合ってたら、途中から見たひとは俺が彼女を泣かせたんだと思うじゃないか」
「そんなの慣れてらっしゃるくせに」
「慣れてないよ」
「嘘ばーっか。慣れてるとしか思えません。ではでは、よろしく」
 待て、と金子さんの声が聴こえてはいたのだが、聴こえないふりで逃げ出した。逃げ出しつつちらっと振り向いたら、金子さんは私がかけていた席にすわって、しくしくやっている早苗にハンカチを渡していた。
 ノートに、本橋くんの本日のランチ、とまで書かれていたところを見ると、早苗の恋する相手が誰なのかは考えてみるまでもない。するとすると、次なるカップルは早苗と本橋くんか。あるいは、早苗の片想いであって、本橋くんがなんにも言ってくれないから苛立っているのか。そのせいで恋愛の先を越された香奈や美江子、その上私にまでとばっちりを向けたのか。
 おまえって他人の噂話が好きだよな、そいつを金棒引きっていうんだぜ、と徳永は言うのだが、私が噂を探らなくても、むこうから飛び込んでくるのだ。にしても、ことが明々白々になるまでは言わないよ、と今日も私は、こっそり早苗に言ったのだった。
 
 
2

 二年生になる前の春休みに、私は叔母が営む花屋でアルバイトをした。ある朝、出勤すると叔母が私を呼んだ。
「晴海、配達についてきて」
「ひとりじゃ持ち切れないほどたくさん花を届けるの?」
「そうなのよ。小倉物産の社長さんのお屋敷でパーティがあるらしいのね。なんのお祝いだかは知らないんだけど、社長令嬢にプレゼントするんだって。お嬢さんに恋してる男性からのプレゼントなのかしらね。注文に来てくれたのは別の人なんだけど、うちみたいな小さい店で買ってくれたのは、私のフローリストとしての腕前を見込んでくれたそうだから、張り切って作ったの。どう、これ?」
「いいね、素敵」
 店の前にはいくつものアレンジメントフラワーが並んでいて、叔母とふたりで車に運び込み、叔母の運転で小倉物産社長宅に向かった。小倉物産とは総合商社で、私もその名は知っていた。
「だけど、花なんてこんなにいくつも贈ったら値打ちが減るよね。真紅の薔薇の大きなブーケひとつのほうが、もらったひとは嬉しいんじゃないの?」
「パーティなんだから、広いお屋敷のあちこちに飾るんでしょ。うちの儲けになるんだから、私は嬉しいわよ」
「ボーナス、出る?」
「そこまでは儲かりません」
 たどりついた社長のお屋敷は、なるほど、ここならばアレンジメントフラワーもいくつも必要だろうと思える、豪邸であった。応対に出てきた家政婦さんらしき女性の指示で花の数々を運び込んでいると、その家の娘があらわれた。
「誰かが私にプレゼントしてくれたって? 誰? ああ、彼? なんだ、つまんない」
「つまらないんだったら、こんなのいらないよ、って返します?」
 叔母が目配せで、こらこら、黙りなさい、と言いたそうにしていたが、私は娘に言った。
「高そうなドレスだね。それってパーティの衣装?」
「パーティのときには着替えるのよ。あなたは花屋の店員さん?」
「アルバイトです。本職は学生」
「どこの大学?」
 学校名を告げると、お嬢さんが目を丸くした。
「私もよ。私もおんなじ大学。何年生? 今度二年になるの? おんなじだ。私、芸術学部なの。あなたは?」
「語学部」
「そう。うちの学校にも苦学している学生がいるのね。あなた、お名前は?」
「苦学っていうか……ま、いいんだけどね。喜多晴海」
「私、小倉花蓮っていうの。お友達になってくれる?」
「いいけどさ……もしかして、花蓮さんってここまでの家のお嬢さんだからって、学校の子に敬遠されてるの?」
「そうなのかもしれない。大学でも友達ができないのよ」
 苦学は誤解だが、花蓮さんのほうこそよほど気の毒な境遇に思えた。小倉物産の社長令嬢が同窓生だとは知らなかったけれど、うちの大学は大きすぎるので、私が知らなくても無理はない。花を運び込む私についてきて、花蓮さんは話してくれた。
「今日のパーティって私の進級祝いなのよ。大学二年になるからって、パーティしなくちゃいけないようなことでもないのに、ママがパーティ大好きで、なにかしらあったらパーティしたがるの。私のドレスや振袖を作るのも趣味なの。私も晴海さんみたいにジーンズを穿きたいな」
「穿けばいいじゃん」
「女の子はズボンを穿いたらいけないって、ママが言うんだもん」
「信じ……られない」
 そのようなとんでもないママに較べれば、町工場で汗をかいて働いているうちのママ、ではなく母は、私によけいな干渉をしない分、素晴らしくありがたい。花蓮さんのママは有閑夫人ってやつで、私の母は専務の肩書きはあれど、働く庶民の主婦。母は忙しいので、息子や娘の服装に口を出す暇はないのだ。
「私も一応、社長令嬢なんだよ。だから、苦学してるんじゃないんだけど、友達になろう。学校がはじまったらいっしょにごはんを食べよう。学食って行ったことある?」
「ううん。お昼はさっきの家政婦さんがお弁当を作ってくれるの。車で届けてくれるから、車の中で食べるの。そんなことばっかりしてるから、友達ができないのよ」
「通学も運転手つきの車?」
「そう」
 ますます気の毒な境遇に思えて、私がちっとは庶民ってものを教えてやろうと決意した。このままでは卒業しても、普通の社会人にもなれはしないではないか。
 新学年がはじまると、花蓮と学校で会った。今まで彼女の存在を知らなかったのが不思議なくらい、彼女は周囲から浮き上がっていた。なにしろいつだって車で学校に乗りつけてきて、一昔前の映画女優のようなドレスを着ていて、晴海さん、ごきげんよう、などと挨拶するのだから。
 一年間はかわいそうだったね、これからは親に反逆しなよ、とそそのかして、学食に連れていって安くてまずいランチを食べさせたり、体格は同じくらいなので、私のジーンズを貸してやったりした。さながら「ローマの休日」のプリンセスのごとく、花蓮はなんでもかんでも喜んで、わくわくと楽しんでいた。
「晴海ちゃんは合唱部なのね。うちはママが、学校が終わったらまっすぐに帰ってきなさいって言うから、サークル活動なんてできないの。アルバイトもさせてもらえないのよ」
「花蓮ちゃんはアルバイトはしなくていいよ」
「そうかしら」
 お嬢さまは働く必要なんかないだろうけど、サークル活動をさせてもらえないのはかわいそうだ。金持ちのお嬢さまというものは女の子には憧れではあるけれど、こんな不自由な境遇に生まれなくてよかったと、現実のお嬢さまと友達になった私はしみじみ思う。しかし、大学二年生にもなっているのだから、いちいち親の許可を得なくてもできるではないか。
「花蓮ちゃんは絵が好きなんでしょ。美術系のサークルだってあるよ。今からでも入ったら?」
「絵は先生についてるの。したいことがあったら先生について習い事をしなさい、ってママが……サークル活動なんて不真面目な学生が集まって、不純異性交遊でもやってるんじゃないの? ってママは言うのよ」
 不純異性交遊か。たしかにやっている奴らはいる。温室育ちの花蓮は恋愛にも免疫がなさそうだから、華道に茶道に絵にと、お嬢さまらしいお稽古事をしているほうが似合いなのかもしれない。とはいえ、花蓮は合唱部に興味津々のようなので、女子部だったらいいだろうと誘ってみた。
「女の子だけしかいないの?」
「女子部は女子の合唱部だから、女子しかいないよ。ただし、男子部もある。そっちには男がうじゃうじゃいる」
「うじゃうじゃ?」
「花蓮ちゃん、ほんとは男子部を見学に行きたい? 婚約者がやきもち妬くんじゃないの?」
 聞くところによると、叔母の店にたくさんのアレンジメントフラワーを注文したのは、花蓮の婚約者なのだそうだ。花蓮が十八歳になった年に婚約が整って、花蓮が大学を卒業したら結婚する。婚約者も金持ちの坊ちゃんなのだそうだが、花蓮は彼があまり好きではないらしい。
「男子部のキャプテンもいいうちのぼんぼんなんだよ。金子ファニチャーの息子。知ってる?」
「金子ファニチャーだったら知ってるけど、子供さんは知らない」
「じゃあ、金子将一見物に行こうか」
 女子部に連れていく予定を変更して、男子部室に行くと、金子さんと乾くんがいた。私が花蓮を彼らに紹介すると、金子さんが言った。
「きみの噂は聞いてたけど、親がなにをしていようと、息子や娘には無関係だよね。子供に過干渉する親ってのは困ったものだ。俺でお役に立てるんだったら、相談に乗るよ」
「花蓮ちゃん、金子さんには気をつけてね。金子さんよりは乾くんに相談に乗ってもらったほうがいいよ」
 去年、乾くんは香奈とつきあっていた。本橋くんはゆかりとつきあっていた。金子さんや徳永は誰かとつきあっているという話しを聞かなかったが、一年生も先輩たちも、合唱部の内でも外でも、不純だか純粋だかに関らず異性交遊は盛んにおこなわれている。そして、乾くんと香奈のカップルも、本橋くんとゆかりのカップルも消滅してしまったと聞いていた。
 ゆかりは合唱部もやめてしまったのだが、香奈はなにもなかったような顔をして部室に来ている。乾くんと別れてむしろさっぱりしたようにも見える。つまり、今はチャンスなのだ。フリーになった乾くんに、その気にさえなれば私のほうから告白できる。なのに、花蓮をそそのかしてどうする? 乾くんは私のものよ、とでも言っておくべきなのではないのか。
 しかししかし、私はもはやその気にならない。冗談のつもりではじまった乾くんへの恋心は、いつしか本物の冗談になってしまったようで、私は熱しやすく冷めやすいタチなのか、もしくは、熱していたのも錯覚だったのか。乾くんと花蓮が恋人同士になったら? と想像してみても、花蓮のママがあたふたしそうで面白いじゃないか、としか思えないのだった。
「ふーん、そうなのか」
「晴海ちゃん、なにがそうなのか? 俺は社長令嬢の相談になんか乗れないよ。そういうのはやはり金子さんのほうが得意なんじゃないかな。俺はそういう世界は知らないんだから」
「でも、金子さんって危険でしょ? 乾くんも危険かな。花蓮はどっちがタイプ?」
「……わからない」
「婚約者とは結婚したくないんじゃないの? 男子部にはかっこいい人もけっこういるし、誰かと恋をして、親を慌てふためかせてやればいいんだよ。ね、金子さん?」
 考え深そうに花蓮を見てから、金子さんは言った。
「恋ってそんな動機でするものじゃないだろ。親にあてつけるための恋なんかするくらいだったら、親の決めた相手と結婚すればいいんだよ。そのほうが花蓮ちゃんにとっては幸せな人生を送れそうな気がするな。俺の勝手な考えだから、気にしないで」
 そう言って金子さんは出ていってしまい、乾くんは言った。
「どことなし、彼には虚無の匂いがする」
「乾くん、なに言ってんの? 乾くんは実は金子さんに恋してるの?」
「晴海ちゃんの発想はじきにそこに行くんだね。たとえ金子さんがどれほど興味深いひとであろうとも、俺は男には恋はしないよ。恋ってのは……失礼。もっと考えてから話すから」
 乾くんも出ていってしまい、花蓮は言った。
「合唱部の男子ってああいう人ばかり?」
「ああいう人ばかりじゃないよ。金子さんと乾くんは特例。徳永って特例もいるから、変な奴は多いかな。やっぱ女子部に行こう。むこうのほうが平和だから」
 私たちも出ていこうとしていると、男子部室に一年生たちがやってきた。
「そやからな、東京の食いもんは味が野蛮や、っちゅうとんねん」
「そうやきに。東の味はだだっ辛くて、メシ食ったら喉が渇くもんな」
「学食のメシもひどいよな。安いから許せるけど、あれだったらうちの高校の食堂のほうがうまかったよ」
「そうかぁ。けど、量は多いよ」
 四人の一年生は、一年生であるとは知っているが、名前までは知らない。彼らは私たちに気づき、大阪弁の男子が私に言った。
「えーと、喜多さんでしたよね。そのせつはどうも」
「そのせつ? ああ、徳永と私が勧誘した子だよね。実松くんだっけ」
「はい。喜多さんと徳永さんに勧誘してもろたおかげで、楽しゅうやっとります。こいつらは俺と同学年で、小笠原のヒデ、本庄のシゲ、それと安斉です」
「喜多晴海です。彼女は小倉花蓮ちゃん。よろしくね。小笠原のヒデくんも徳永が勧誘したんだったっけ。キミたちは少年らしく健全な話題でよろしい。キャプテンや先輩たちには変なのもいるから、悪影響を受けないようにね」
 そうなんですかー、悪影響ってどんな? と問いかけている一年生たちに、花蓮が言った。
「私は見学に来てるんだけど、学食のごはんってまずいの? 私にはおいしかったけど……おいしかったっていうか、新鮮な味だったよ。あなたたちって西のひと? 西のひとにはおいしくないごはんなの?」
「小笠原です。俺は土佐、高知なんですけど、西の出身でなくても学食のメシはまずいんじゃないんですか。小倉さんって東京ですか」
「安斉です。俺は岐阜です。俺にも学食のメシはうまいとは言えないな」
「本庄です。俺は三重県出身ですけど、奈良県に近い地域なんで、味付けは西のほうでしょうね。いや、俺はうまいかまずいかなんて意識してないから……」
「シゲは食えたらなんでもええんやろ。俺は実松です。大阪です。そらもう、食いもんは大阪が一番や。小倉さん、喜多さん、そのうち、大阪のたこ焼きをごちそうしましょうか」
「たこ焼きって、私、食べたことないのよ」
 へ? へ? へ? へ? と四人の一年生はそろって口をぽかんと開け、花蓮は言った。
「たこ焼きってどんなもの? 名前は聞いたことがあるけど、たこをどうやって焼くの?」
「いか焼きは大阪以外の人間は知らんみたいやけど、たこ焼き知らんて……小倉さんっていったい……」
 あとの三人がまだぽけっとしている中で、実松くんが尋ねた。返事をしようとした花蓮に、私は言った。
「たこ焼きの話はあとにしようね。花蓮ちゃん、女子部に行こう」
「そうね。では、みなさん、ごきげんよう」
 は、はあ、ごきげんよう、と応えたのは小笠原くんで、あとの三人はまたもやぽけっとしていた。
 後日、徳永にその話をした。徳永には花蓮の話はしてあったのだが、たこ焼きのくだりを聞くと、皮肉っぽい目つきになって言った。
「カマトトぶってないか、花蓮って子は」
「そうなのかなぁ。天然だと思うけどね」
「いくらなんでもそれって、リアリティないだろ。今どき親の決めた婚約者だの、女の子はズボンを穿いたらいけないだの、学校が終わったらまっすぐ家に帰ってこいだの、サークル活動は不純異性交遊の巣窟だの、あげくはたこ焼きを知らない? あり得ないよ」
「花蓮の実物を見たら、あり得るって納得するんじゃないかな。私も最初は信じられなかったけど、ほんとみたいだよ。会わせてあげようか」
「いらねえよ」
 そんなこんなで花蓮とのつきあいも忙しく、徳永に彼女を紹介する間もなく日が過ぎて、二年生の夏合宿がやってきた。今でも女子部のみんなで男子の話をしたりすると、私は乾くんがいいなぁ、なんて言ってはいるけれど、特別な関係になりたいとは思わない。女の子ばかりでわいわいやったり、徳永と話をしたり、花蓮と遊んだりしているほうが楽しい。
 男同士に、あんたたちって恋してるの? と言ってはいやがられることはよくあるのだが、もしかして私も、実は女が好き? まさか、そんな傾向はないはずだ。女の子と遊んでいれば楽しいけど、特定の女と恋をしたい気持ちにはならない。そりゃあ、恋をするなら男がいい。だけど、乾くんに恋はしていないと気づいた今、恋をしたい男がいない。
 合唱部じゃなくても学部にもいないし、アルバイトをしている叔母の店は、従業員は女の子ばっかりだ。このままでは私は恋をせずに卒業してしまうのか。それは避けたい。合宿のおこなわれている浜にすわって、ひとりで考えていると、かたわらに誰かがすわった。
「サンセットだね。晴海ちゃんの頬が夕陽に染まって綺麗だよ」
「……金子さん、花蓮は金子さんにアプローチしてきました?」
「いいえ」
「時々、女子部に連れてきてみんなでお茶を飲みにいったりはしてるんですけど、男子部には行ってないのかな。花蓮はやっぱり温室育ちの男には免疫のない純情な……」
「花蓮ちゃんはどうでもいいよ。きみには彼はいるの?」
「いません」
「徳永はきみの恋人じゃないんだよね」
「あんな奴と恋人になるんだったら、金子さんのほうがずーっといいな」
 やけにセクシーな笑みを浮かべて、金子さんが顔を寄せてきた。
「キスしない?」
「え? 金子さんのほうがいいとは言ったけど、それは徳永と較べてであって、私は金子さんみたいなタイプとつきあいたくはないし……」
「いいんだよ、それで。キスしよう」
「……キスくらいだったらいいですよ」
「話せるね」
 キスだけだったらいいけれど、それ以上先に進もうとしたらなんとしようか。突き飛ばして逃げるのも無粋だろうか。力いっぱい抱きすくめられたら、私ではこの大きな男にはかなわないだろうし、それ以上先ってのも悪くはないか。けれど、こんなところではいやだし、と気持ちをよそにそらしていたのだが、軽く抱きしめられた腕の感触はいい気持ちだった。
「これだけ?」
「もっとしたい?」
「金子さんは?」
「晴海ちゃんが望むんだったら、してもいいよ」
「なに、その言い方。私はこれだけでいいです」
「そう、よかった」
 この野郎、私をからかってるな、とも思ったのだが、金子さんのソフトなキスは、たいそう気持ちがよかった。


 どうやら金子さんは、合宿では女子部の誰彼となくキスをしていたらしい。とはいえ、キスした相手は女子全員ではない。ルックスなんだか中身なんだか知らないが、金子さんの許容範囲をはずれる女の子は誘わないのであるらしい。とすると、私は合格ラインに入っていたわけだ。
 男子部ではかっこよさナンバーワンと誉れも高い金子将一とキスできたんだから、得しちゃった、ってなもので、私にとってはそれはそれだけのこと。彼にとってもあれはあれだけのことで、やがて金子さんは卒業していき、私も三年生になった。
 三年生になるとぼちぼち、周囲では就職の話題が出てくる。もしも就職できなかったら、私には親の工場で働くという手があるのだが、そうすると町工場の後継者にされてしまう恐れがある。それだけは絶対にいやだ。ゲームマニアの弟も私とは別の大学に入ったので、後継者はあいつに押しつけて、私は私で好きにしたい。
 好きにしたいって、なにをしたいの? と自問してみれば、やはり中国語だ。歌は好きだけど、私の歌はそれで生計を立てられるようなレベルではない。中国に留学して中国語に磨きをかけて、将来は中国語教師になろうか。しかし、私は社長令嬢とは名ばかりで、我が家の家計は決して楽ではないのだから、留学したいなんて親には言えない。
「徳永は就職しないの?」
「しないよ」
「あっさり言うんだね。あんたにはあんたの考えがあるんだろうから、いいんだけどさ」
「おまえはどうするんだ」
「考え中だよ」
 今年中に結論を出そうと考えていたころ、二年生になってから大学に編入してきたという帰国子女が、合唱部にも入ってきた。親の仕事の関係でウィーンで育ち、オペラの素養を積んできたという彼女の名は轟ジザベル。ハーフではなさそうだから、ジザベルは本名ではないのかもしれないが、本人がそう呼ばれたいのなら、そう呼んでやってもいっこうにかまわない。
 この身体なのだからこの声量があってもなんの不思議もない彼女は華麗なるソプラノの持ち主で、ジザベルどころか「オペラの歌姫」と自称しはじめた。そう呼んでほしいのなら、というわけで、私たちも歌姫と呼ぶようになった。
「ねえ、晴海さん、晴海さんは徳永さんとは親しくしてらっしゃるんですよね」
 雲つくばかりの大男という形容はあるが、女でもそう言ってもさしつかえないだろう。雲つくは大げさかもしれないが、女子部の中では歌姫はいっとう背が高い。男子部の中でも一番かもしれない。おまけにヴォリュームも相当なもので、くっついてこられると息苦しくなりそうだ。そんな歌姫が私に身を寄せてきて小声で言った。
「徳永さんってゲイなんですか」
「ちがうはずだよ」
「いいえ、きっとそうですわ」
「なんで?」
「だって、この私が、この私があれだけ言ってあげたのに、徳永さんったら……ゲイだからなんだわ。そうに決まってます」
「あれだけって? 口説いたの?」
 どうも彼女は徳永を好きであるようだ、とは気づいていたが、積極的に口説いたとはなかなかやるではないか。お嬢さまなのは同じでも、花蓮とはまるっきりタイプがちがう。しかし、徳永は断ったのだろうか。断るってのが順当だろうなぁ、と見つめている私の前で、歌姫はもじもじしていた。
「そうか、徳永はゲイなのか」
「きっとそうですわ」
 それから数日後、また言ってるよ、と覗いてみたら、歌姫は男子部の三年生、溝部さんと立ち話をしていた。ふたりはひそひそと胡乱な相談をし、私はそれを徳永に知らせてやったのだが、徳永はほっとけと言った。放っておいているうちに噂が広がっていって、徳永渉はゲイなのだ、と言われるようになっていった。
 そうじゃないとは思うけど、徳永は金子さんみたいに女好きではないし、たしかに女の子とのスキャンダルってものが一切ない。彼女はいるの? なんて尋ねる気にもならないので質問していないのだが、いないようだ。私の知らない好きな女の子がいるのか。もしや不倫? それとも、同性? 徳永ってほんとにゲイなの? 私はそうだとしても平気だけど、それだとこの先の人生がつらいかもしれないね、などと、私もいっとき、悩んでいた。
「タイガー、徳永ってゲイじゃないよね」
 悩んだあげく、徳永の友達に尋ねてみた。学部にも合唱部にも友達なんていない、強いていうならおまえだけだな、と私に言っている徳永には、が、ひとりだけ別の学部に友達がいる。加藤大河という寄生虫学科の同年の男で、私も彼とはたまに話をしていた。ニックネームはタイガー。ロンドン生まれの学究の徒タイプの男である。
「ゲイ同士はゲイというものに敏感だと聞きますが、僕はゲイではありません。ですから、本当のところはよくわかりません。しかし、渉はゲイではないはずです」
「だよね。そしたらさ、タイガーだったら徳永の彼女の話を聞いたことある?」
「ありませんね。晴海さんが聞いていないのでしたら、僕が聞いていたとしても言うべきではないでしょうけど、ありません」
「女嫌いってやつかな」
「晴海さんとは友達なのでしょう?」
「私は徳永にとっては女じゃないもん」
「はて、それは日本語のレトリックですか」
「レトリックじゃなくて、そのものずばりだよ」
「はて、難解ですね」
 タイガーは役に立たない。私が悩んでも意味はない。徳永は澄まして、俺がゲイだと思いたい奴には思わせておけばいいと言うので、そんならいいや、と放っておいたら、そのうちには噂も消えていった。


3

 中国語学科なんだから、父の会社の中国向け部門の就職試験を受ければ? と勧めてくれたのは花蓮だった。縁故入社というほどでもないにしろ、コネがあるのならば活用しない法はない。四年生になる前に小倉物産に内定が決まり、中国語を活かせる仕事につけるとなって、ひとまずは肩の荷が下りた。
「小倉物産で働いてお金を貯めて、中国語にも磨きをかけて、いずれは中国に留学するんだ」
「まあ、今のうちは甘い考えも抱いていられるよな」
「私は勝手に甘い考えを抱いてるけど、あんたはどうするんだよ」
「俺はシンガーになるよ」
「やっぱりそうか」
 女子部では聞かないが、男子部には歌手になりたいと考えている男が何人もいると知っていた。金子さんも卒業してからも歌手を目指しているのだそうだし、本橋くんや乾くんもだ。徳永もそうなのだろうと薄々感じてはいたのだが、予想通りだった。歌手なんて中国留学以上に甘い夢なんじゃないの? とは口にせずに、しっかりやりなよ、と激励しておいた。
 就職が決まると説明会だのなんだので会社に行く機会ができて、同期入社となる予定の同年齢の男女と話したりもした。大会社であるだけに内定者も数多い。彼らと飲み会をやっての帰り道、そのうちのひとり、よその大学の倉田欧州という名の男と、連れ立って帰ることになった。
「欧州って名前をつけられて、フランス語の勉強しようって気になったの?」
「そうなのかもしれないな。俺はいずれはフランスに赴任したいんだ。三年の夏休みにバックパッカーやっててフランスにも行ったんだけど、駆け足で回っただけだから。それでもよかったよ。フランスの田園地帯。あそこに住みたいな」
「私は中国には行ったことはないんだけど、仕事で行けたらいいだろうな。甘いのかな」
「甘くはないだろ。喜多さん、いや、晴海ちゃん、俺たち、同じような夢を持ってるんだし、お互いに励みにもなるだろ。俺とつきあってくれないか」
「うん、いいよ」
 同じ大学では冗談みたいな恋しかしなかったけれど、そうして私にもようやく恋人ができた。
「新しい彼氏ができたよ」
 徳永に打ち明けると、ほおお、よかったな、とどうでもいいような返事をよこした。古い彼氏はいないのだから、彼氏に「新しい」をつけなくてもいいようなものだが、徳永は忘れてしまっているにしても、彼氏はいるよ、と前にも言ったのだから、つけておかねばならないのだ。
 そりゃあ私の彼氏はどうでもいいんだろうけど、あんたは彼女は? 歌手になりたいって夢はかなうの? 訊きたいことはいくつもあったけれど、うるさがられるのは目に見えているので訊かない。タイガーは大学院に残るんだ、本橋と乾はシンガーズを結成するんだそうだ、と徳永は他人の話ばかりしていた。
「酒巻くんって三沢くんと仲がいいよね。三沢くんが本橋くんたちに誘われてヴォーカルグループに入ったって聞いたんだけど、知ってる?」
 卒業が近づいてきて合唱部の部室にもほとんど行かなくなっていたころ、久し振りに顔を出したら、一年生の酒巻くんが話してくれた。
「はい。三沢さんから聞きました。本橋さん、乾さん、小笠原さん、本庄さん、三沢さんの五人です。フォレストシンガーズっていうんですって」
「フォレストシンガーズね。ださくない?」
「三沢さんももっとかっこいい名前のほうがいいのにな、って言ってましたけど、覚えやすくていいんじゃありません?」
「俺もシゲとヒデから聞いたで」
 三年生の実松くんも会話に加わってきた。
「本橋さんと乾さんは一年生のときから、デュエットをやったはったんでしょ。そやからデュオで歌手になるんかと思てたら、五人グループやそうで、なんでか言うたら、乾さんの考えでは、顔のせいなんやそうです」
「顔か。うん、わかる。金子さんと徳永だったら女の子がきゃあ、かっこいい、って言いそうだけど、本橋くんと乾くんでは、顔で人気が出るってのはちょっと……だからだよね」
「そういうもんですか。うーん、ヒデはまあまあ顔はええけど、そないかっこええってほどでもないし、シゲはあれやし、三沢もあれやし、本橋さんと乾さんは……うーん、そうかなぁ」
「実松くん、キミが悩まなくてもいいんだよ」
 背が高くて声がよくて歌がうまくて、顔立ちは怖そうで性格も荒っぽいのだけど、実は優しいところもあると知っている本橋くんは、一年生のころから女の子にはけっこうもてていた。ゆかりと別れたあとで一年年下の下川ノリちゃんとつきあって、ノリちゃんとも別れてしまって、ノリちゃんも合唱部をやめてしまったのだから、あれでけっこう女を泣かせる悪い奴なのだ。
 本橋くんと徳永が同じくらいの背丈で、乾くんはそのふたりよりもやや低いとはいうものの、長身の部類には入るだろう。本橋くんや徳永のような筋肉質体型ではなく、乾くんはすらっとしている。香奈と別れたあとの彼の恋人は知らないが、どうやらいたらしい。本橋くんにも現在は別の彼女がいるらしい。ふたりとももてるのだが、酒巻くんや実松くんは知らないのだろうか。
 小笠原のヒデくんも背は高いほうで、よく見るとなかなか顔立ちも整っている。たいして話をしたこともないから、彼の恋人なんかは知らないが、まったくもてなくはないだろう。この三人で充分、女の子に人気のあるトリオになりそうな気もする。
 本庄のシゲくんは中背で力持ちっぽい体格をしている。もてそうには思えないが、彼女はいるのだろうか。彼では女の子のファンを獲得できそうにも思えないが、男声ヴォーカルグループなのだから、ベースマンとして選ばれたのだろう。
 三沢幸生って子は人なつっこくてものすっごくよく喋る男の子だし、最年少の二年生なのだから、歌のうまさと声の高さと、あの愛嬌のよさで選ばれたのではあるまいか。三沢くんとも個人的にはあまり会話もしなかったのだが、彼が一年生のころから、女子部に出没してけたたましく喋ったり笑ったりしていたのは私も見聞きしていた。
 小さくて細い三沢くんと、乾くんとヒデくんがテナー。本橋くんはバリトン、シゲくんはバス。五人グループとしては声のバランスもいい。ルックスは最高とまでは言えないけど、まずまずそこそこではあろうし、なにしろみんな歌は上手なのだから、プロのシンガーズを目指しても甘いとは言えない。
 対する徳永はソロシンガーを目指すのか。徳永にとっての本橋くんや乾くんはライバルで、男子部では彼らに次ぐナンバースリーだなんて言われて、その影に隠れていた節もあるのだが、徳永だって歌唱力では彼らに引けは取らない。それになんたって、徳永はルックスではフォレストシンガーズの誰よりも上等だ。
 ソロシンガー徳永渉、フォレストシンガーズ。それから金子将一もいる。私と関りのあった七人の男たちの、誰がもっとも早くデビューするんだろうと、私もその日を楽しみにしていた。


 無事に卒業式も入社式も終えて、社会人としての生活がスタートしたら、学生時代の友人とは大多数が疎遠になってしまった。会社の若い仲間たちとばかりつきあうようになって一年余り。大学生だったころの友達の中で交流が続いているのは二、三人なのだが、そのうちのひとり、花蓮が電話をかけてきた。
「いい季節になってきたね。晴海ちゃん、彼氏とうちへ来ない?」
「もしかして、結婚記念日のパーティやるの?」
「そうなの。彼氏とふたりでなくてもいいのよ。会社の方でも学生のころの友達でも、いっぱいお招きしたいな。だって、私、毎日暇なんだもの」
「そのでかいペントハウスを掃除してたら、日が暮れるんじゃないの?」
「掃除なんてつまんない。同じ年頃の人たちとお喋りしたいのよ。来て来てーっ」
 パーティ好きの母親の娘は、結婚してから暇を持て余しているせいもあって、母親と同じパーティ好き主婦になった。去年のクリスマスにもパーティを催し、そこに欧州を連れていったので、花蓮と欧州は顔なじみだ。パーティでなくても花蓮は時々、遊びにきてよ、お喋りしたいー、とねだるので、幾度かは彼女の新婚家庭を訪ねていた。
「今回は結婚一周年記念じゃない? 特別ななにかをしたいなって、彼と相談してたの。晴海ちゃんは合唱部にいたって、彼も知ってるのよね。誰かに来てもらって歌ってもらえないかな。フォレストシンガーズ? 徳永さん?」
「まだアマチュアだよ、彼ら」
「アマチュアにしたって、歌は最高に上手なんでしょ。私は乾さんや本橋さんとはお話ししたことがあるけど、徳永さんとは会ってないのよね。できれば徳永さんがいいな」
「徳永か……うん、一応、声はかけてみるよ」
「失礼ではないんだったら、些少ながらギャラも出しますわよ」
 そんな金持ちのお嬢さまなんぞに紹介していらねえよ、と徳永は言っていたので、花蓮とは会っていないのは事実だった。しかし、ギャラが出るのならば仕事だ。おまえの彼氏になんぞ紹介していらねえよ、と言うであろうから、欧州とも会わせていない。いい機会なので両方と会わせようとのたくらみを胸に秘めて、仕事だよ、仕事だよ、と口説いたら、徳永は渋々うなずいた。
 結婚なんかしたくないなぁ、と言っていたわりには、花蓮は結婚式のときにも幸せそうだったし、現在ではますます幸せそうな若奥さまぶりだ。花蓮の夫の浩介さんはなかなかのハンサムである上に、ここまで豪華なマンションで優雅に主婦をやっていられるのだから、新米OLとしては、文句を言ったりしたら怒ってやりたくなる。
 当日は浩介さんのお客と、私が連れていった会社の連中も集まって、若い世代ばかりの気の置けないパーティとなった。新婚夫婦双方の親や親戚や会社関係者を招いてのパーティは花蓮のママが企画しているそうだが、そっちに呼ばれなくてよかった。花蓮はフリルひらひらのドレスを着て、高そうなスーツを着た夫に寄り添い、嬉しそうにホステスをつとめている。私は壁にもたれて、欧州と話していた。
「クリスマスには楽団が来ててダンスパーティだったろ。今日は音楽はCDなのか」
「もうすこししたら、特別な趣向があるんだって」
 歌は内緒にして、お客さまたちをちょっとぴっくりさせようね、とのことなので、私も欧州にも話していない。ちょっとびっくりはいいけれど、徳永で大丈夫だろうか。もっとびっくりさせるために、有名なプロの歌手を招いてもいいのではなかろうか。浩介さんは彼の父親の会社の常務の肩書きを持っていて、財力のあるひとなのだから、有名な歌手にだってギャラは払えるはずだ。そういう人種の知り合いもいるはずだ。
 なのに私の友達のアマチュアを呼べとは、ひょっとして、恵まれないアマチュアシンガーに歌う場を与えてくれようとしているのか。私はありがたい話だと思わなくもないが、あのひねくれ者の徳永渉は、そうと聞いたら怒らないだろうか。
 あいつだってプロを目指している身なのだから、怒りはしないのだろうか。ありがたいと感じるのだろうか。現在の徳永は歌で食べてはいるようだが、CDを出していないとプロとは呼べないのか。私にはもうひとつよくわからないその業界のからくりなどなどを考えていると、欧州が声を低めて言った。
「晴海、俺さ、やっぱフランスに行きたいんだよ。仕事で行ける日なんか待ってたら、いつになるやら」
「そうだろうね。私も下っ端仕事ばっかりで、仕事で中国に行ける日なんてはるか先……ううん、永久に来ないかもしれないと思ったりもするよ」
「晴海も俺とフランスに行かないか」
「フランスには興味ない」
「そう言うなよ。ひとり旅よりふたり旅のほうが、なにかと便利だよ。俺の知り合いの旅行会社に勤めてる奴が、安い航空チケットを取ってくれるって言ってるんだ。チケットだって一枚より二枚のほうが格安になるんだよ。貯金だってふたり分合わせたら、旅行代くらい出るだろ。いっしょに行こう」
「私のお金も欧州に預けるの? で、フランス? 私は中国に行きたいのに」
 力を込めて手を握られた。
「晴海はひとりで中国に行くのか」
「そのつもりだよ」
「女のひとり旅なんて、心配で行かせられないよ。中国にはいつか連れていってやるから、俺とフランスに行こう」
「連れてってもらうなんてやだ」
「おまえは俺の彼女だろ。俺に合わせろよ」
「なんだよ、その理屈は」
 社会人になって一年間働いて、あの町工場の喧騒がかまびすしい親元で暮らしているおかげで、多少は蓄えもできた。欧州とは同期入社なので収入の額はほぼ同程度だが、彼は宮城県出身でひとり暮らしなので、私ほどは貯金はできないだろう。わずかなお金を貸してあげたり、夕食の代金を私が払ったりしていた。
 小銭がないんだ、悪い、出しておいて、と言われる頻度が重なって、彼のためにけっこうお金を使っている。私のほうが余裕があるんだからいっか、と思って出してあげていた。フランスにだって絶対行きたくないわけでもないけど……どうしようか。なにも彼がひとりで行くから、金を貸せと言ってるんでもあるまいし。心が揺れつつあったときに、歩み寄ってきた男がいた。
「……遅かったね、徳永」
「徳永?」
「あとで紹介するから、欧州はちょっと待ってて。歌はまだなんじゃないの?」
「晴海、こっち来いよ」
「私だけ?」
「そっちの彼はご自由に。ここではなんだから、晴海はこっちに来い」
 なんなんだ、こいつ? と欧州が視線で尋ねる。徳永は私をどこかに連れていこうとしている。すこしばかりためらってから、私は徳永についていった。連れていかれたのは徳永のための控え室であろうか。欧州もついてきて、三人でそこに入ると、徳永が言った。
「だいぶ前から待機してたんだよ。準備はすんだんで退屈だったから、パーティ会場を覗きにいったんだ。そしたら、壁のところで晴海が男と話してる。聞き耳を立ててみたら、会話があれだろ。彼がおまえの彼氏か?」
「そうだけど、あんたは誰だよ」
「あんたはしばし待ってて。そのようだな。おまえの彼氏なんだろ」
「そうだけど、あんたにごちゃごちゃ言われるいわれはないよね」
「ないんだけど、会話を聞いてて感じたことをひとつだけ。たとえ夫婦であろうとも、他人の金をあてにする奴はろくなもんじゃない。おまえがそれでもいいんだったら別だけどな」
「なんだよ、あんた、あんたは晴海のなんなんだよ」
「うるさいな。あんたは黙ってろ」
 むかっとしたらしく、欧州は不機嫌きわまりない顔になって黙り込み、徳永は私に言った。
「おまえには行きたいところがあるんだろうが。そっちを優先させるべきだぜ。うん、それでも彼氏に従うって言うんだったら……へええ、あの晴海がな」
「なんなんだよ、その顔は。私は男になんか従わないよ」
「だろうな」
 皮肉っぽいのは昔からだったが、今の徳永がなにを考えてこんな態度に出ているのか。私には読み切れない。ひとりでなにやら納得して、ひとりでくすくす笑っている。欧州が我慢できなくなったように口をはさんだ。
「彼女は俺の恋人だ。恋人同士がふたりでフランスに行こうって相談してるのが悪いのか。あんたは何者なんだよ」
「俺が何者であろうとも、さっきの会話は相談ではなく、あんたが晴海をたぶらかそうとしていると聞こえたんだよ。晴海は中国に行きたくて貯金してるんだろ。その金をあんたのために使えって言ってたんだろうが」
「ふたりで行くんだよ」
「あのまんまじゃ……いや、まさかな。この晴海なんだから、そうはならないだろうけど、まさかもあるだろうからお節介を焼いたんだよ。あんたの貯金はあんたのものだけど、晴海の貯金は晴海のものだろ」
「彼女なんだったら……俺のために使ってくれたって……」
「甘えんな」
 徳永はつめたい目つきで欧州を見ていて、私は言った。
「フランスに行くのはお金が貯まってからにしたら? 私は中国に行くから、私ももっとお金を貯める。恋人同士だって別々に海外旅行したっていいじゃん。ね? 欧州?」
「晴海をひとりで行かせたくないんだよ」
「私はひとりでだってへっちゃらだよ。千円や二千円くらいだったらこれからだって貸してあげるし、晩ごはんも割り勘でいいし、そしたら欧州ももっともっとお金が貯まるよ」
「そんな細かい金の話はしてないんだ。俺はおまえとフランスに行きたい。おまえをひとりで外国になんか行かせたくないんだよ。わかってくれよ」
 と、徳永がよけいな口をはさんだ。
「そんなに心配なんだったら、中国には俺がついていってやろうか」
「……だから、あんたはいったい晴海のなんなんだ」
「どうだっていいだろ。俺が晴海のなんなのかなんて」
「どうだってよくはないよ。そうなのか、晴海? だからなのか? こいつはおまえの……だから、そうやって細かい金の話を持ち出して俺を惨めにさせて、こいつと中国に行く約束してるのか」
「してないよ。徳永は学生時代からの友達。徳永、あんたはなんだってそうやって欧州をからかうの?」
「からかってないぜ」
「からかってるじゃないか。晴海もだ。ああ、そうか、そうかそうか。そんならいいよ」
「……欧州」
 勝手にしろっ、と怒鳴って、欧州は部屋から出ていってしまった。追おうかどうしようかと迷っていると、徳永が言った。
「あいつ、おまえにメシまでおごらせるのか」
「おごるっていうか。彼にお金がないときには私が出したりもしてるよ。恋人同士って男が払うのが当たり前なの?」
「そうとは決まってないけど、あいつだって稼いでるんだろうが。おまえがいいんだったらそれでもいいけどな」
「そればっか。なに、徳永? 実はあんたは私が好きで、欧州とつきあってる私を彼から奪いたくてよけいなお節介したのか」
 返事は毎度のごとく、下らねえ、だった。表情も、下らない、と言っていた。
「そうだよね。口説くチャンスだったら前にも何度もあったのに、今さらだよね。けどさ、あんたってライバルがいないと燃えないタイプだって、誰かが言ってた。私のそばにライバルがいたから?」
「下らない。そういうのもうぬぼれって言うのかな」
「うぬぼれか。よかった」
「よかったな。あいつ自身ではなく、恋人同士でああいう話ってのはさ……俺はいやだったから、そのせいだよ」
 たとえ恋人同士であろうとも、金銭がからむとドロドロしてくる。私に男とドロドロさせたくなかった? あんたらしくもない、と呟くと、なにが? と徳永はしらばっくれてみせた。
 パーティで歌う歌手のために控え室を用意できるとは、さすがに部屋数もたくさんあるペントハウス住まいの新婚夫婦だ。そこに思い当たると、欧州が花蓮に借金を申し込みはしないかと不安になってきた。花蓮なら貸してくれるかもしれない。そうしたら、友達の間にまで金がからむ。もしや欧州が借金を踏み倒して、フランスへ永久逃亡でもしてしまったら? 控え室から出て探してみたが、欧州はいなかった。
「花蓮、欧州となにか話した?」
「急用ができたから帰るって。機嫌がよくなかったよ。喧嘩でもしたの?」
「別に」
「あ、徳永さん、よろしくお願いします」
 不安といえばこいつもだ。徳永も出てきて、愛想よく礼儀正しく今夜のホステスに挨拶し、パーティ会場へと歩いていった。花蓮は彼のうしろ姿を見送って言った。
「晴海ちゃんから徳永さんの話は聞いてたけど、かっこいいじゃない?」
「格好はいいんだけど、中身が悪いんだよ」
「中身の悪い男のひとと、晴海ちゃんはずっと友達なの? 嘘だぁ」
「嘘じゃないよ。花蓮だってあいつとつきあってみればわかるよ」
 だけど、中身が悪いと言い捨てられないのが、あいつの始末の悪いところなのかもね。そう思って私も徳永を見送り、ややあってから花蓮とふたりで会場に入った。歌声が聞こえてくる。徳永のハスキーでセクシーな声が、ラヴソングを歌っている。永遠の愛を誓う男の歌なんて、徳永の中身にはまるっきりふさわしくないのだけれど、歌声は素晴らしくて、私にもある「女心」ってやつを震わせた。徳永の歌にだけは私もしびれるのだった。

 
4

 年がら年中やかましい町工場のとなりの住まいから抜け出したいと願い続けて約二十五年。私はいまだに親元で暮らしている。そのおかげで貯金は着々と増えていき、通帳を見てはにやつくという業突く張り婆さんみたいな楽しみが身についてきたころ、地元のスーパーマーケットに出かけた。買い物のためではない。目的はフォレストシンガーズだ。
「早苗ちゃんじゃないの? フォレストシンガーズを見にきたの?」
 今年の初秋にデビューしたフォレストシンガーズを見にきていた合唱部の仲間は、私ひとりではなかった。なぜだか隅っこに身を潜めて、帽子を目深にかぶっている女。変装しているつもりなのかもしれないのだが、八幡早苗にまちがいない。
「なにをこそこそしてんの?」
「……晴海ちゃん? しーっ、気づかれるよ」
「気づかないんじゃない? それにさ、気づかれたっていいじゃないの」
「駄目なの。困るの。あとでね。あとで」
 そんなら私は早苗とは離れた場所で見ようと、適当な場所にすわった。
 デビューしたてで売れてはいない歌手なのだから、このような東京近郊のスーパーマーケットで無料ライヴなどという仕事も珍しくはないのだろうか。お子さま向けの着ぐるみショーとセットになった歌のショーで、彼らはデビュー曲の「あなたがここにいるだけで」と、子供が好みそうなアニメソングを歌った。
「お嬢ちゃま方、お坊っちゃま方、お母さま方、お父さま方も、おじいちゃま方もおばあちゃま方も、僕らの歌を楽しんで下さいましたでしょうか」
 小さなステージ、子供たちが走り回ったり、泣いていたりする狭い客席、ただなんだったら聴いてあげようかな、って態度のお客たち。売れない歌手ってこんなところで歌うんだ。私のほうこそ暗くなりそうになっていると、三沢くんがステージでMCをやっているのが聞こえてきた。
「フォレストシンガーズです。覚えて下さいね。お嬢ちゃまやお坊っちゃまたちも、僕たちの名前を覚えて下さいね。もちろんお母さまやお父さまもおばあちゃまもおじいちゃまも……おーっと、そこの坊や、泣かないのよ。べろぺろばー。お兄ちゃんの顔、面白いでしょ。リーダー、リーダーは顔が怖いんだから、子供さんがよけいに泣くでしょ。引っ込んでて下さいね」
 本橋くんは苦笑いしていて、乾くんも泣いている子供をあやそうとしている。木村くんと本庄くんは、どうしようか、と言いたげにしている。そうしている彼らに司会者が割り込んできた。
「はーい、フォレストシンガーズのみなさんでしたー。次はお待ちかね、ポポンちゃんとリーナちゃんの登場でーす」
 司会者がそう告げると、子供たちの間から歓声が起きた。子供たちのお目当てはポポンちゃんとリーナちゃんであるらしい。それがなんなのか私はよく知らないが、五頭身の可愛い女の子の着ぐるみを着た人間が、子供たちの大騒ぎの中に登場し、フォレストシンガーズは手を振って舞台の袖へと消えていった。
 子供たちはもはや彼らを見てもいないが、私はしっかり見ていた。本橋くんも乾くんも本庄くんも三沢くんも木村くんも、そこはかとなく情けない顔。あなたたちの気持ち、私にはなんとなくはわかるよ。新米シンガーズって大変なんだね。だけど、まだデビューすらしていない徳永と較べたら、フォレストシンガーズのほうがましじゃない? 
 はーっとため息をついて、私も立ち上がって客席から離れた。早苗はと見ると、こそこそと逃げ出そうとしている。私は小走りで彼女を追ってつかまえた。
「別に晴海ちゃんに用はないし……」
「私も別に早苗ちゃんに用はないけど、久し振りに会ったんじゃないの。お茶でも飲まない? 早苗ちゃんのうちはこの近く?」
「私は都内だけど、晴海ちゃんはここらへんに住んでるの?」
「地元も地元だよ。このあたりには詳しいんだ。行こうよ」
「……しようがないか」
 どうして観念しなくてはいけないのか知らないが、早苗は観念した様子になってついてきた。喫茶店に入って、今はどんな仕事をしてるの? と近況報告をし合って、一段落すると、早苗が言った。
「晴海ちゃんは知ってたんだよね。私が本橋くんに……」
「ああ、そういえば」
 学生のころに、早苗がノートに本橋くんの名前を書き連ねていたのを思い出した。
「本橋くんには一年生のときにも二年生のときにも、三年生のときにも四年生のときにも、彼女はいたのよね。私が彼を好きだなんて、彼は全然気がついてもいなかった。本橋くんって彼女ができても、わりにさっさと別れてしまうじゃない? 二年三年のときの彼女とは長続きしたほうかな」
「そうだったみたいね」
 その彼女とは下川ノリちゃんだ。私も合唱部の誰かと誰かがつきあっているという話しには通だったはずだが、早苗は本橋くん情報にはさらに精通しているようで、四年間、ねっとりと彼を見ていたのかと思うと、ちょっとばかりぞぞっとした。
「彼女ができて別れて、次の彼女ができるまでの間には、それとなく言い寄ったりもしたのよ。だけど、彼って鈍感だから、それとなくじゃなんにもわからないの」
「それとなく、じゃなくアタックしたらよかったのに」
「でも、彼って、告白は男からするもんだ、って主義みたいなのよね。私がためらってるうちに、またまた次の彼女ができちゃうのよ。そりゃあね、私がこんなに好きなんだから、本橋くんがもてるのは当たり前だよね」
「ふむ、そういう理屈になりますか」
「でね、彼が四年生のときの彼女とも別れたみたいだったから、卒業間際に、今度はそれとなくじゃなく、打ち明けたの。そしたら、俺は忙しいから、だとか、そういう気分でもないな、だとか言って、やっぱり私から告白したのはまちがってたのかと……」
「ふられたんだったら諦めるしかないんじゃない?」
「そうなんだけど、諦められなかったのよ」
 逃げようとしていたくせに、話しはじめたらとことん言いたくなったのか、早苗は続けた。
「一昨年の夏だった。私が就職した年で、本庄くんは四年生だったのね。大阪で研修があって、終わってから大阪城の近くにいたら、本庄くんとばったり会ったのよ。本庄くんは三重の実家に帰る途中で、大阪に寄ったって言ってた。就職はしないんだって言ってたのは、あれのせいよね。さっきのあれ」
「本庄くんは関係なくない?」
 あれとはさきほどのステージであろうが、本庄くん? 本橋くんの話しではなかったのか。
「あるのよ。本庄くんは私を崇拝しているような目で見つめた。これは使えるなって思って、大阪でデートして、東京に帰ったらまたデートしようよって誘ったら、本庄くんは困ったような嬉しいような顔をして、本当に何度かデートしたの」
「使える?」
「本庄くんに頼んで、フォレストシンガーズの歌の練習に連れていってもらったの。本橋くんも乾くんも三沢くんも小笠原くんもいたよ。小笠原くんが今はいないのは、どうしてだか知らないけど」
「私は徳永から事情は聞いたよ」
 その話はあとで、と遮って、早苗は続けた。目が据わっている。怖い。
「なのにね、本橋くんったら逃げたのよ。私が差し入れしてあげるって言って、三沢くんとふたりでコンビニに夜食を買いにいってる隙に、汗をかいたから銭湯に行くだなんて口実を作って逃げたの。卑怯じゃない?」
「卑怯かなぁ。そうかなぁ」
「卑怯だよ。だから、私、悔しくて腹が立って、悲しくもなってきちゃって、私も帰るって言ったの。本庄くんが送ってくれて、魔が差したとでも言うのかしら。ホテルに連れ込んだ」
「本庄くんを? はーん、なかなかやるじゃないの」
「なかなかやるってね……そんなの……そんなの……」
 ぎりぎりっと歯を食いしばって、そのまんまの怖い顔で、早苗は続きを話した。私としてはあまり聞きたくなかったのだが、途中で席を立つわけにもいかないので聞いていた。
「あとから本橋くんにみんな言っちゃった。あんたのせいだよって」
「本橋くんにふられたから? ふーん」
「なによ。非難のまなざし? どうせ私は最低の女よ。本橋くんにもそう言われた。私もいろいろと言ったけど、怒ってたからなにを言ったのかは覚えてないな。あんたたちなんかプロになれなかったらいいのよ、夢破れてうちひしがれてる顔を見て大笑いしてやりたい、みたいなことを言ったような気がする」
 覚えているではないか。
「本庄くんは本橋くんに話したんだろうか。そうしたらどうなる? 彼らが仲違いしたりしない?」
「本橋くんが早苗ちゃんを好きだったんだとしたら、そうなるかもしれないけど、好きじゃなかったんでしょ」
「嫌われた」
「そりゃ当然だ」
「なによなによ、晴海ちゃんまで……どうせ私は……」
「で、彼らがプロになって、あんなちっぽけなステージとはいえ、お客の前で歌うって聞いて、見にきたんだね。プロって言ったってたかがこんなものじゃないの、って笑ってやってきたら?」
「そうやって意地悪言うんだ」
「意地悪かな。じゃあさ、早苗ちゃんは私になにを言ってほしいの?」
「知らない」
 げに度し難き女心、ってやつなのだろうか。こんな女に惚れられた本橋くんも、利用された本庄くんも気の毒に、ではあるのだが、私の中にもまぎれもなく「女心」ってやつはあるのだから、かすかにはわかる気もする。早苗も気の毒といえば気の毒なのかな、かもしれない。沈黙が重くなってきて、私は言った。
「小笠原くんはやめちゃったんだそうだよ。私は徳永からちらっと聞いただけだけど、フォレストシンガーズが雌伏していた時期に、結婚するって言って脱退したんだって。小笠原くんのかわりに木村くんが入ったんだね。木村くんって一年生のときには合唱部にいたじゃない? 私には出せないような高い声を出してたから、私は覚えてた。それはいいにしても、新米シンガーズってのはああなんだね」
「……晴海ちゃんは徳永くんとずっとつきあってるの?」
「つきあってるよ。そんなには会わないけど、たまには電話で話したりする」
「そういうのをつきあってるとは言わないんじゃないの?」
「恋人じゃないから、そういうのでいいのよ」
「……あなたたちもわけわかんない」
 フォレストシンガーズなんてどうでもいいわっ、と語尾をとんがらせるのを聞くと、早苗と喧嘩になりかけていたところに、金子さんがやってきたのも思い出した。私たちは昔の仲間のよしみで、彼らを応援してやろうよ、と私は言いかけたのだが、早苗はテーブルにアイスコーヒーの料金を乗せた。
「フォレストシンガーズなんて売れないまんまで、解散してしまえばいいんだ。そしたら今度こそ、いい気味、って笑ってやれるのに」
「執念深いね。男にふられていちいちそんなになってたら、疲れるでしょうに」
「晴海ちゃんはふられたことなんかなさそうね」
「あるよ。この間もふられた」
 その話を聞かせてよ、と言うのかと思ったら、早苗はそうは言わずに立ち上がって歩き出した。
 この間といってもだいぶたってはいるけれど、徳永が花蓮のマンションでよけいな口出しをしたせいで、欧州は疑心暗鬼になっていた。あいつはほんとはおまえの昔の男なんだろ、とふたこと目には言いたがって、否定するとますます疑う。徳永が歌手の卵だとは知らない欧州は、あいつはいい服着てたし、金も持ってるんだろうな、俺なんかおまえにたかろうとするヒモみたいなもんでさ、とまで言うようになって、私もとうとう切れた。
 あのパーティの日から約半年、欧州とつきあうようになってからならば約三年、そうして会わなくなって、そうしてふたりの仲に終止符が打たれた。徳永がよけいなことを言わなかったとしても、いずれは終わっていたような気がする。そうして私は、恋よりもお金を貯めるのが楽しくなって、今や業つく婆さん? ま、いっか、お金が貯まったらあの家のみならず、日本からも脱出するんだから、と開き直って、貯蓄に励んでいる今日このごろだ。
 私が日本から脱出するころには、フォレストシンガーズは売れてるかな。金子さんもデビューしてるかな。徳永もプロになれてるといいね。そして早苗は? つまらない妄執は捨てて、別のことに情熱を燃やすべきだよ、と言いたい。けれど、どれもこれも、私の手の及ばないことがらばかりなのだから、私がなにを言ってもなんの意味もないのだった。


 もうすぐ金子さんはプロになるのだそうだ。フォレストシンガーズはデビューしてから一年足らずで、いまだに無名のシンガーズだが、徳永はまだデビューの道さえ開けていない。そんな徳永とふたり、初夏の海辺を散歩していた。
「正式に退職したんだろ」
「うん。春でやめた。夏のボーナスをもらってからって手もあったんだけど、渡航の手続きも整ったし、善は急げ。女二十五歳の再出発だよ」
「上海でなにをするんだ?」
「当座のお金はあるから、就業ピザが下りたら改めて考えるよ。私がいなくなったら寂しい?」
「ああ、心に穴が穿たれるようだ」
 言っておいて鼻で笑うのだから、嘘に決まっている。せいせいするよ、とまでは言わない分、徳永も多少は世慣れてきたのだろうか。
 地元のスーパーマーケットでフォレストシンガーズの無料ライブを見て、彼らとは顔も合わせないままに帰ったあの日、私が漠然と考えたことのうちの、ふたつはかなった。私の長年の夢、日本から脱出して中国へ渡る。それから、金子さんもプロになる。フォレストシンガーズは売れてはいないにしろ、プロにはなっているのだからとりあえずよしとして、早苗はあれっきり音沙汰もないのだからどうしようもないとして、徳永はいったいこの先、どうなるのだろうか。
 心残りといえば心残りではあるのだが、口にすれば、おまえに世話を焼かれる筋合いはない、くらいは言う奴だから、私が怒りたくなる恐れもある。晴海は言いたい放題、なんでもかんでも言う女だと徳永は思っているのだろうけど、これでも言っても仕方のないことは言わないんだよ。
 だけど、ほんと、あんたはこれからどうなるんだろうね。二十五にもなって卵のまんまだなんて、一生卵だったらどうするの? となりを歩いている徳永を見上げると、そ知らぬていで口笛を吹いている。彼の心になにがあるのか、私には読めたためしがない。こんなんで友達だと言えるのだろうか。
 会うのは久し振り。この次はいつ会えるのかも不明。私がいつ日本に帰るつもりなのか、予定は立てていない。弟が大学を卒業して親父の会社で働きはじめたので、親は私の中国行きに反対はしなかったのだが、私自身も上海でどうやって暮らしていくのか、確定はしていない状況だった。
 口笛をやめて煙草をくわえた徳永と、黙って歩いていく。合唱部時代の女友達とはほとんど会わなくなったのに、徳永とだけはこうしてドライブしたり散歩したりが続いているのは、なにがどうなっているのか。それさえもよくわからない。わからなくてもいいんだろうな、としか言いようがない。
 無言で歩いていると、むこうから男が歩いてきた。ふらふらと私のほうへ寄ってくる。広い浜辺なんだから、すれちがう必要もないのに、私の横をすり抜けざま、男が手を伸ばした。その手は私の胸元を狙っている。あやういところでよけたら、たたらを踏んだ男が私の腰に抱きついてきた。
「……なにすんだよ。むこうを歩けってのっ!! わっ!!」
 はずみでそいつといっしょにころびそうになった私の腰から、徳永がそいつの手をはたき落とし、私をささえてくれた。男はひとりでひっくり返って、へらへら笑っていた。
「ガラの悪い姉ちゃんだな。おーい、兄ちゃん、立てねえよ。起こして」
 徳永はものも言わずに脚を上げた。その脚が男のどこかを蹴ろうとしていると察したので、私は慌てて止めた。
「酔っ払いだよ。もののはずみみたいだから、ほっとけって」
「確信犯だ」
「いいからさ、ほっとこう」
「……こういう奴はほっとくとよその女にも悪さを……」
「いいから、いいから、喧嘩なんかになったら大変だろ。いいからいいからいいから」
 よくねえだろうが、と言ってはいるものの、私が手を引っ張ると、徳永はついてきた。
「……あんたってわかんない奴だよね。昔さ、思い出した、今ので」
「なにを思い出したって?」
 一年生だった春の日に、合唱部の同年の仲間たちで、ハイキングに行った。徳永はそのたぐいの行事には参加したがらないので、むろんそこにはいなかった。休日だったからハイキングコースはごった返していて、酔っ払い男も歩いていた。私はユッコとふたりでお喋りしながら歩いていて、酔っ払いがユッコの胸をさわろうとして、ユッコは悲鳴を上げて飛びのいた。
 なにするんだよっ、とそいつを突き飛ばしたのは私で、なにするんだよっ、とそいつも怒った。私がそいつと睨み合っていると、前を歩いていた美江子やゆかりが引き返してきた。女の子たちに口々に攻め立てられた酔っ払いは、やがて閉口したように逃げていき、そのころになって引き返してきた乾くんが言ったのだった。
「男も近くにいたんだろ。ユッコちゃんをかばってやれよ」
 あの日は本橋くんはいなくて、男子のうちの誰かが乾くんに言った。
「俺の彼女だっていうんだったらともかく、ユッコちゃんは別に……」
「そういう問題じゃないだろ」
「乾くん、いいのよ。私たちであのおじさんは撃退できたから」
 美江子が言い、私も言った。
「ああいうときは女が睨んでやったほうが、酔っ払いは怯むのかもよ。乾くんも覚えておきなよね」
「……そうかもしれないけど……ユッコちゃん、大丈夫? 怖かった?」
 こっくりはしたものの、泣きべそをかいているユッコに寄り添って、乾くんがなだめてやっていた。あのころの私は乾くんに恋をしている錯覚をしていたから、いいなぁ、ユッコったら、なんて呟いていた。
「七年も前だけど、今ので鮮やかに思い出したよ。男ってそうなんじゃないの? 彼女のためだったら不埒な男に立ち向かってやるけど、彼女でもない女のためにそんなふうにして、怪我でもさせられたら損だもんな、っての? あ、そっか。徳永は実は荒っぽいのがけっこう好きなんだ。喧嘩したかったの? 憂さ晴らしとか?」
「なんの憂さ晴らしだ。下らねえ」
「出た」
「出たってなにが?」
「なんでもないよ」
 ほんとはいい奴なんだよね、あんた、と言ったとしたら、徳永はきっとまた、下らない、誰がいい奴だよ、と切り返すだろう。いい奴だと言うと機嫌を損ねる変な奴。わかりづらい男ではあるけれど、徳永が変な奴だということだけは、絶対にまちがっていないはずだ。


 それから二年、私は上海にいた。仕事も一応はあって、恋人ができて、けれど、国際結婚ってのはたやすくないんだなぁ、と思い知らされて気分がダウンして、思い出したのは徳永だった。久々で日本に電話をしたら、徳永が出てきた。
「徳永はまだデビューしてないんだろ。結婚もしないのか」
「しないよ」
 言ったってしようがないのだけれど、言いたくなって話した。
「私、結婚しようかなって思って……」
「上海の男か」
「そう」
「結婚するって言ってるわりには、声に元気がないな」
 元気のない声を出しているとわかるらしい。我知らずため息をこぼして、私は言った。
「プロポーズされたから、結婚してもいいつもりになってたの。だけどさ、やはり無理だって。親に反対されたらしいんだよね。日本の女とだなんて滅相もない、だそうだよ」
「それで元気がないのか。親の反対なんか押し切って駆け落ちしちまえよ」
「私はそうしてもいいんだけど、中国人は家族の絆が強いみたい」
「そうらしいな。ま、そのうちまたおまえにプロポーズするご奇特な男もあらわれるさ。落ち込むなよ」
「落ち込むよ」
 徳永の無愛想な声を聞いていると、すこしは元気を取り戻せる。あんたほどじゃないけどね、と笑って、私は尋ねた。
「徳永の落ち込み具合はいかばかり?」
「俺は落ち込んではいないよ。デビューはできないけど仕事もあるし、結婚の予定はないけど女はいるし」
「女、いるの?」
「ベッドでつきあう女は多々いる」
「へえぇ、そうなんだ」
 ホットドッグを食べていて、私の口元がケチャップまみれになって、なめてやろうか、と徳永が言って、なめて、と言った記憶がある。私と浮名を流そうか、なんて言った記憶もある。きわどい会話は幾度かしたが、徳永にそんな女がいるとは……いや、そんな女ならばいそうなタイプではあったのだから、不思議ではなかった。
「徳永ってさ……ほら、昔あったじゃない? あいつはゲイなんじゃなかろうかって噂」
「あったっけな。おまえはあのときも言っただろ。本当なんじゃないの? ってさ」
「言った? 私が? 言ったかもしれない。実際、疑ってたんだもん。徳永は大学のころには彼女はいなかったんだよね」
「いなかったよ。今でも彼女なんてのはいない」
「セックスフレンドか」
「ゲイだったらいわゆるそういう女はいないだろうから、俺はゲイじゃないんだよ。安心したか」
「私が安心するもしないもないけどさ……」
「男に捨てられて寂しいんだったら帰ってこいよ。抱いてやるから」
「……いらないよ。だいたいからしてあんたはねぇ……」
 だんだん腹が立ってきた。
「そうやってろくでもない生き方をしてたら、ろくでもない死に方をするんだよ。この歌、知ってるよね」
「どの歌だ?」
 「憎み切れないろくでなし」。徳永にはぴったりの歌だ。私が歌っているのを遮って、徳永は言った。
「恋になんか埋もれないよ。恋なんかしてないんだから。その歌のタイトルは悪くないじゃないか。ろくでなしとはいえ憎めないんだろ。俺もそういう男になりたいな」
「あんたは憎たらしいよ。憎たらしいろくでなし」
「うん、言えてる」
「徳永、真面目に聞いてよ。あのね……」
「おまえも老けたな。説教したがるのは年を取ってきた証拠だぞ」
「……徳永!!」
「はいよ。帰ってきたら抱いてやるから、元気にしてろよ。それ以上老けるなよ」
 徳永、徳永ってば、と呼びかけているというのに、電話が一方的に切られた。
「まったくあいつは……」
 こっちも電話を切って、まったくあいつは、まったくもう、と怒り気分のままで考えた。
 日本に帰って、約束通りに抱いてよ、と迫ったらどうする? 逃げるんじゃないの? 私にはそんな気はさらさらないけれど、言ったとしたら徳永がどう出るか、ためしてみたいような気もする。
「あーあ、しかし、あんたも私もこの先、どうするんだろうね」
 呟いたら、こんな歌を思い出した。「憎み切れないろくでなし」は徳永にまたとなくふさわしい曲だが、こちらは彼にも私にもふさわしい。私だってもとは合唱部だったのだから、歌ってみた。

「まだ小さい頃 ママに聞いたわ あたしは何に?
 美しい娘に? お金持ちに?
 ママは答えたわ ケ・セラ・セラ なるようになる
 先の事などわからない ケ・セラ・セラ わからない

 学校に行きはじめて 先生に聞いたわ あたしは何に?
 美しい娘に? お金持ちに?
 先生は答えたわ ケ・セラ・セラ なるようになる
 先の事などわからない ケ・セラ・セラ わからない

 大人になり恋をして 恋人に聞いたわ 未来には何が
 幸せな生活が待っているの?
 恋人は答えたわ ケ・セラ・セラ なるようになる
 先の事などわからない ケ・セラ・セラ わからない」

 そう、先のことなどわからないんだから、わからないからこそ生きていけるんだろうから、もうちょっとがんばってみようか。徳永も私も、「ケ・セラ・セラ」の精神でね。

END

 

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