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小説327(雨の物語)

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R18:ベッドシーンがあります。

フォレストシンガーズストーリィ327

「雨の物語」

1・渉

 その名前を聞いたとき、忽然と浮かんできた会話があった。
「僕には妹がいるんだ。静香っていって、勝気な奴でね、僕はいつだって言い負かされているんだ」
 楽しそうに言っていたのは誰だったか。渡辺静香という名前から連想したのだから、俺よりは一年年上の、俺が三年生だった年の大学合唱部のキャプテンだったか。
「あなたには兄さんはいる?」
「いえ、姉だったらいますけど、兄はいません」
 ならば別人だろう。渡辺なんて苗字はありふれているのだし、あの渡辺さんの妹にすれば、彼女は若すぎる。
「あの、なにか?」
「なんでもないよ。渡辺さんって知り合いを思い出しただけだ」
「……徳永さん、これからどうなさるんですか?」
「メシ食って帰るよ」
「ご一緒してもよろしいですか」
 我が母校の合唱部出身ミュージシャンは、クラシックからパンクロッカーまで何人かいる。クラシックの音楽家だってミュージシャンと呼んでもいいだろう。
 同じ大学出身のミュージシャンたちに共通しているのは、テレビにはあまり出ないことだ。クラシック番組はそもそも少ないので、そっちのジャンルの人には当然だろうが、ポピュラー系のフォレストシンガーズも金子将一も、俺もテレビには出ない。
 ケーブルテレビの音楽番組にならばたまに出る程度の俺にしても、世間一般にはさして名も顔も知られていない。その分、ラジオの仕事はけっこう多い。
 メジャーデビューしたばかりのころに、徳永渉として初にレギュラー番組を持ったFMラジオ局で、番組編成変更があった。深夜放送も一新されるとのことで、俺も新しくレギュラーを持つことになる。その打ち合わせのためにラジオ局に出向き、初対面を果たしたのが渡辺静香だった。
 やや小柄でほっそりした、可憐な顔をした女だ。フリーライターだそうで、俺もDJを担当する深夜放送の一部のコーナーを受け持つ。おとなしそうな顔をして積極的なのかと思ったので、軽口をきいてみた。
「ご一緒って、ベッドにも?」
「そこまでは言ってません」
「ジョークだよ。金に困ってるのか?」
「え? 食事をおごってもらおうと……そういう意味では言ってません。徳永さんって意地が悪いんですね。そしたら帰ります」
「怒りっぽいんだな。帰りたかったら帰れよ」
 これからはたびたび会うのだから、今夜のところは帰らせてもかまわない。次回を楽しみにしていよう。
 正式に番組が開始すると、静香とはトークするようになった。彼女は十五分ほどのコーナーで、女の子から女の子へのイチオシ、とかいって店や品物の紹介をする。俺は男の立場からコメントする。徳永さんって意地悪、と言っては笑うのが、静香の決まり文句のようになってきていた。
「静香、終わるまで待ってろよ」
 一ヶ月ばかり経ったころに、静香のコーナーが終わったあたりで言ってみた。
「今日は俺はこの仕事が終わったら、明日まで丸二日ばかりオフなんだ。まずはメシに行こう」
「まずは?」
「そうだよ。そのあとでどうするかはそのとき次第だろ」
「私は締め切りがあるんだけど……午前中だけだったらおつきあいしますよ」
 もったいぶって言った静香は、それでも素直に俺を待っていた。
「いい子で待ってたんだな。ご褒美に……」
「なによ、子供扱いして。ご褒美にはうんとおいしいものをおごってね」
「ご褒美には抱いてやりたいんだけどな」
「そんなもの、褒美になりませんっ!!」
 きっとした顔で言うのがおかしくて、俺は静香の頭を抱いた。静香は赤くなって俺の腕を振りほどき、先に立って局の外に出ていった。
「女を抱くのって男のほうへの褒美でしょ」
「そうかな。フィフティフィフティだろ」
「そんなの、男の詭弁ですよ」
 ファミレスに入ってメシを食いながら、そんな話をした。
「徳永さんってフライドポテトが好き? わりに子供っぽい食べ物の趣味なんですね」
「そうだな。俺は食いものにはあまり興味ないからさ……」
 食いものといえば思い出す女がいる。彼女は俺とは大学が同じで、合唱部の一年後輩で、俺の大嫌いな本橋真次郎の恋人だった。
 大学のころの俺は気が多くて、あの女も可愛い、あの女だったら抱きたい、あの女とだったらキスしてもいいな、あの女、脱がせてみたいな、程度に好色心をかき立てられているばかりだった。恋はしなかったけれど、何人もの女を抱き、反面、こりゃいかん、こいつは俺の手には合わないと思った女とは、手も握らなかった。
 ただの友達で、いまだ続いている女もいる。女と見ると裸にしたい、キスしたい、抱きたいと思う俺なのだから、晴海にだって変な気分になったこともあるものの、あいつとだけはそんな関係になりたくないのもあった。
 それはいいとして、本橋の恋人、下川乃里子は大学卒業後に母校の事務職員になっていたから、俺がメジャーデビューする前に再会して、一度だけベッドにも入った。
 母校には俺の数少ない友人のひとり、加藤大河がいる。タイガーと呼んでいる彼に会うために時おり、俺は母校に顔を出す。いまだ続いているその習慣のせいで、乃里子とそんな関係になった。が、乃里子は二十代の終わりごろに職を辞して、消息が途絶えてしまった。
「徳永さん、恋人はいるんですか」
「最近、昔の女と再会したんだよ」
「そう……なの?」
「彼女、結婚してるんだけどさ、若いころよりもむしろ熟れていい女になったから、たまに密会して抱く。そんな仲の女だったらいるよ」
「それって彼女?」
「彼女とは言わないだろ」
 恋人、彼女、その定義などは知らないが、俺が「彼女」だと思っていた女はひとりもいなかった。ただのゆきずりだったら覚えてもいないほどいて、乃里子は覚えているほうだから、ほぼ嘘の話を静香に聞かせた。
 実際には乃里子に再会したのは他人のブログの中だ。話は十年以上前に遡る。
 大嫌いな本橋真次郎と大嫌いな乾隆也が、小笠原英彦、本庄繁之、三沢幸生の三人の後輩を誘って、フォレストシンガーズというヴォーカルグループを結成した。むこうは徳永渉をさまでは嫌っていなかったのか、俺も誘われたのだが、当然はねつけた。
 五人のグループはアマチュアとして二年余りの活動をし、本橋と乾が二十四歳の年にメジャーデビューする。俺はこのふたりと同い年で、二十四歳ではアマチュアだった。
「木村章? 小笠原ではなくて?」
 彼らのデビューを教えてくれたのは先輩の金子さんで、金子さんがフォレストシンガーズのデビューシングルCDを見せてくれた。そこには小笠原ではなく、木村章が写っていた。
 木村もまた合唱部の後輩だったのではあるが、一年で中退してしまっていたので、俺の記憶からは薄れていた。小笠原にはその後、偶然にも会って、金子さんと三人で語り合って、フォレストシンガーズを脱退して結婚したのだと聞いた。
 フォレストシンガーズデビューから一年の後には金子さんもプロになり、その二年後には俺もプロになった。それから五年ばかりがすぎて、小笠原がフォレストシンガーズのみんなに会いにいくのだと、俺も金子さんから聞いて知った。
 そうして再会した小笠原は、いくらか前からブログをやっている。嫌いなもの見たさとでもいうのか、大嫌いでも無関心ではいられない奴らだから、俺はフォレストシンガーズの公式サイトもよく見ている。小笠原のブログもしばしば斜め読みしていた。
 そのブログに出てきたのだ、この女はまぎれもなく、下川乃里子だと確信の持てる人物が。
 先輩のMSさんの彼女だった、淡路島に住む働く主婦。彼女には子どもがふたりいて、旦那がやきもち妬きなので内緒とか言いつつ、小笠原とはメールのやりとりをしている。食いものといえば俺が思い出す乃里子は、病院食の仕事をしているらしい。
「そっか、乃里子、おまえらしく生きてるんだな」
 ブログには乃里子はごくたまにしか登場しないが、出てくると俺は楽しい気分になって記事を読む。小笠原には漫画家の彼女がいるそうだから、乃里子と不倫をしているのではないだろう。
「不倫ってことですよね」
「そこまで深入りはしてないけど、不倫ったら不倫だろうな」
 でたらめを真に受けて、静香は深刻な顔をした。
「そんなの、やめたほうがいいですよ」
「大きなお世話をありがとう」
「だって、徳永さんは有名人なんだし、もしも発覚して、その女性の夫が週刊誌に売ってスキャンダルになったりしたら……」
「俺はダーティなのは平気だよ」
「その女性は?」
「あいつも好きでやってるんだからさ」
 くちびるを噛んで俺を睨み上げていた静香は、ふいに立ち上がった。
「私が週刊誌に売ってもいいの?」
「おまえ、そんな女だったのか。いいよ」
「……そんなに軽く言っていいの?」
「裏を取ってからにしろよ。恥をかくのはおまえだからさ」
 あくまでも軽く口にすると、静香は食事の途中で席を蹴立て、足音も荒く歩いていってしまった。
「あれから考えたんですけどね」
 一週間後のラジオの仕事の日、オンエアの前に静香が言った。
「裏を取れって言ったってことは……」
「気づいたか」
「嘘だって?」
「まあな」
 ううっ、もうっ、と唸ってはいたものの、その場ではそれ以上は言わず、十五分間の共演のときにも静香は尋常に仕事をこなしていた。
「静香、待ってたのか」
 早朝に仕事が終わると、俺はいつも局の通用口から外に出ていく。静香がそこに置いてある物置のようなものの陰にいたので声をかけると、いきなり殴りかかってきた。
「なんなんだよ。そんなに怒ったのか」
「だって……私、本気で悩んじゃって……悔しくて……大嫌い!!」
「なのに仕事はちゃんとやったんだな。いい子だ」
「子どもをあやすみたいに言わないで」
「おまえ、けっこう気が荒いよな」
 振り上げたこぶしをよけて腕をつかみ、引き寄せる。脚までが俺を蹴飛ばそうとしているので脚でガードして抱き上げて、くちびるを奪った。
「ご褒美、やるよ」
「いらないっ!! 大嫌いっ!!」
「そんなに怒るな。泣くな。よしよし、いい子だ」
「……降ろしてよ」
 しっかり抱え直してもう一度キスをすると、静香の全身から力が抜けていった。


2・静香

 十も年下なのだから、彼には私が純情な小娘に見えるのだろうか。純情なんかじゃないし、小娘でもないし、男にだって慣れてるし、と言ってみても、本当にいやになるほど女に慣れているらしき彼には、鼻先で笑われる。
 高校を卒業して編集者を養成する専門学校に入学した。大学にやってもらう余裕は親にはなかったし、奨学金は返さなくてはならないし、短大よりは専門学校がいいかと思ったのに。
「やはりね、出版社ってのは大卒をほしがるんだよ」
 就職活動の時期になると、学校の教師はそう言った。名もなきタウン誌にだったら就職できるかもしれないと言われたが、そんなところからは求人がない。
 焦っているうちに卒業式になってしまって、私はフリーターになるしかなかった。フリーターになってからも就職活動はしていたのだが、希望している出版社なんか、面接もしてくれない。ところが、大手出版社にエッセイ原稿を応募したら、佳作を受賞したのだった。
 やりたい仕事ができない日々をユーモラスに綴ったエッセイが雑誌に掲載され、編集者が駄目だったらエッセイスト、と胸をふくらませたのもつかの間、エッセイでは仕事にはならない。
 アルバイトはやめてしまったから、どうにか伝手をたどって文章を書かせてもらって、フリーライターとして生計を立てている。今回のラジオの仕事にしても、大手出版社に伝手ができたからもらえたのであって、エッセイの佳作受賞は無駄ではなかった。
 風俗や美容整形やエステのルポ、読者の体験手記らしきものをでっち上げる、著名人のゴーストライター。そんな仕事がメインの私には、ラジオの仕事は楽しかった。
「徳永渉? かっこいいよね」
 純粋に言っているのではない口調で、顔見知りの音楽雑誌の編集者が言っていた。
「彼、かっこよすぎるから、静香ちゃんは気をつけてね。徳永渉って女心をくすぐるタイプみたいだからさ」
「仕事なんですから、恋なんかしません」
「うん、そのほうがいいよ」
 そう言われていたのに、簡単に口説かれて簡単に落ちたなんて、私って馬鹿?
 名前ならば知っていたけれど、私は音楽には特別な関心はなく、徳永渉という歌手をよくは知らなかった。彼がDJをやるラジオの深夜番組の一コーナーを担当させてもらえると決まって、彼にはじめて会ったときには、どきっとした。
 ほんとにかっこいい。背が高くて引き締まったボディをしていて、脚が長い。服装のセンスもいい。ビターチョコレートみたいなテイストの顔をしていて、低くてややハスキーな声が震えてしまいそうにセクシーだった。
 親しくなりたくて食事に誘ったら、意地の悪い言葉で切り返す。私を怒らせておいて、子供扱いしてあやそうとする。
 果ては不倫しているなんて嘘をついて、嘘だよ、と匂わせる発言をする。本気で信じて本気で怒った私は、後先も考えずに待ち伏せして彼に殴りかかり、負けてしまった。あのとき、抱き上げられてキスされて、彼は言った。
「今日はこれから仕事があるんだよ。夜になったら車で迎えにいくから、家で待ってろ」
 どうにか収入の目途が立つようになって、ひとり暮らしをはじめたとは徳永さんにも話してあった。
「私だって仕事が……」
「そうか。そしたら別の日でもいいよ。いつにする?」
 恥ずかしいのをこらえて、私は言った。
「……今夜」
「うずいてるのか」
「あ、駄目っ!!」
 フロアに降ろされて片腕に強く抱きしめられて、もう片方の手がジーンズの中に入ってきそうになったので、その手を叩き落した。
「存分に狂わせてから、鎮めてやるよ」
「……いや」
「いや? いい子で待ってろ」
 そんなことを言ったらいや、恥ずかしいからいや、そういう意味で言ったのに、今夜までは待てない、と受け取ったのだろうか。徳永さんは私を離して局から出ていってしまった。
 午後八時になると約束どおり、徳永さんの車が迎えにきてくれた。
「おまえがスカートを穿いてる姿ってはじめて見たな。俺の手が入りやすいようにか」
「どうしてそんなことばっかり言うの?」
「言葉ってのは火をつけるだろ」
 助手席に乗った私の頭を抱き寄せてキスをして、片手は私のスカートの中に忍び込む。頭を抱いていた手は私の胸元に入ってくる。
 あ、いや、あん、だなんて恥ずかしい声が漏れて、ここで? そんなのいやだ、とも言えないでいると、徳永さんが離れる。自分のものではなくなってしまったような身体が、車がスタートするのを意識していた。
「いつもはジーンズだのパンツだのって、少年っぽい服装だろ。それでも胸や尻の大きさはおよそはわかるし、脚の綺麗な子だとは思ってたんだよ」
「嘘」
「背は小さいほうだけど、いいプロポーションしてるよ。今、ほんのすこしさわった乳房も尻も、ウェストも腿も、いい感触でいいサイズだった。期待してるよ」
「……言わないで」
「言葉よりも行為がいいか? 俺は早くおまえの裸が見たいよ」
「言わないでったらっ!!」
 自信満々みたい? そんなに慣れてるの? 徳永さんのエロティックな言葉が羞恥をかき立てる。こんなに恥ずかしがったら子ども扱いがはなはだしくなりそうなのに、我慢できなくて、やめてやめてと小声で叫ぶと、彼は黙ってくれた。
 黙ってしまった彼の運転で、車がホテルにつく。ホテルの駐車場に車を停めて、先に立って歩いていく彼についていく。部屋に入ると抱き上げられて、ベッドに降ろされて服に手をかけられた。
「……風呂に入ってきたのか? 俺もシャワーは浴びたよ。ああ、いい形だな」
「やめてってば」
「やめていいのか」
「そうじゃなくて……」
「俺は思ったことは言いたいんだよ。外から透視していたのに近い、可愛い形の胸だ。ウェストも細くて臍も可愛いな。その下も……」
「あん」
「そら」
 ころんとうつぶせにされて、ショーツを脱がされた。
「なんとも可愛い尻だな。さわり心地も満点だよ」
「……あ、もう、ああっ……」
「声もいいな。おまえのこの脚も……」
 セクシーな声と言葉の内容に、全身についた火がぽーっ、ぽわーっと燃え上がる。歯を食いしばっていないと叫び出しそうで、耐えられなくなって彼の手に爪を立てた。
「そんなことをするとしてやらないぞ」
「……だって……」
「感じやすいんだな。泣いてるのか」
 両腕で私を包むように抱きしめて、面白そうに顔を覗きこんでくる。私はこんなにも乱れているのに、彼が意外に冷静なのも悔しくて、近づいてきた鼻に歯を立てた。
「おまえは暴力女かよ。そのつもりだったら……」
「あ、ああっ……」
 焦らされるってこれ? 手や指や口や言葉で私を炙るようにして、ほしい!! と叫ぶのを待っているの? 気が遠くなっていきそうで、私は彼にしがみついているしかない。ようやく彼が私の中に身体を沈め、それからは無言になってともに果ててから気がつくと、彼の身体は傷だらけだった。
「……私がやったの?」
「荒っぽいよがり方をする女だな」
「そういう言い方、やめて」
「女が恥ずかしがると言いたくなるんだよ」
「意地悪」
「俺が意地悪だって、知ってただろ」
「サド」
「おまえはマゾだな」
 きーっ、とヒステリックな声を上げて抱きつくと、骨がきしみそうな強さで抱きしめられる。私、ほんとにちょっとマゾ? 知らなかった。気が遠くなっていきそうな快感に我を忘れて、首がのけぞっていく。


3・渉

 大嫌いな奴らも東京を拠点にして仕事をしているのだし、ラジオにもよく出ているから局で顔を合わせることも間々ある。大嫌いなフォレストシンガーズの中で、とりわけ大嫌いな奴。本橋といずれがより嫌いか。どっちも嫌いだ。
 というような奴が、ラジオ局の喫茶室にいた。見つけられてもいいつもりでやや離れた席に腰かけたのは、乾の向かい側に静香がすわっていたせいもあった。
「うん、まぁ、わからなくはないよ」
「……私、愚かですよね」
「恋は愚かといえば愚かだけど、人生の中では大切なものだ。仕事の糧にだってなるでしょ」
「私は糧にはなりません。仕事の邪魔になります」
「俺もいつだったか……」
 テーブルには煙草が乗っている。ラジオ局に出入りする人間は喫煙者が多くて、この喫茶室は禁煙ではないようだが、静香が吸わないせいか、乾も火をつけようとはしていなかった。
「あなたは私の仕事の邪魔になるって言われて、ふられたことがあるよ」
「乾さんがふられたことなんかあるんですか」
「何度も何度もふられてますよ。だけど、あなたの言っている邪魔って意味と、俺の彼女が言ったのとはちがってるみたいだね」
「……私は溺れるから」
 そういう話になるのか。溺れる相手は俺なのか?
 規格はずれの大女でもなければ、俺は女の外見に細かい注文などつけない。好みというのもあるようでないようなものではあるが、静香は見た目も可愛く、つっぱって大人の女を気取りたがるところも可愛かった。
 ベッドでの反応も上々。あまりにおぼこいのは避けたいし、あまりにもの慣れていると白けるから、静香くらいがほどよい。
 なのだから、静香とだったらベッドでだけ恋人でいるのは歓迎だ。けれど、溺れるなどと言われると途端にわずらわしくなる。静香はめそめそしていて、乾は腕組みをし、視線を宙にさまよわせ、俺は煙草をくわえた。
 位置的に俺に気づいたのは乾で、静香は背を向けているので気づいていない。煙草のけむりがむこうに漂っていく前にと、俺は腰を上げた。
 今夜の仕事は、ラジオ番組内で俺が歌う挿入歌の打ち合わせだった。作詞、作曲を担当する中年ソングライターと、番組の担当者たちと数人でミーティングをして完了。局の会議室から出ていくと、むこうで手を振っている奴がいた。
「……会うとなると一日に二度も会ったね。いや、もう日付が変わってるから、連日か。静香さんは今日は帰ったみたいだよ」
 一瞥だけして足を速めると、乾が横に並んだ。
「飲みにいこうか」
「なんのために?」
「同期生だろ。たまには昔の友達と飲みたいと思うのも人情じゃないか」
「旧交を温めるよりは、急行で帰りたいよ」
「幸生みたいに……」
「授業が休講だと嬉しかったもんだな。休校だとさらに嬉しかった」
 ぶすっとした顔になるのが面白くて、俺は言った。
「おまえ、ホモになったのか?」
「そりゃあ俺だって、おまえと飲むより美女と飲みたいよ」
「そんならそうしろ。おまえはなにか言いたいのかもしれないが、俺は聞きたくないんだよ」
「……なんというのかねぇ。金子さんにはかつて、虚無的な香りを感じたことがある。彼は沢田さんに恋をして、というか、恋をしていると自覚してからいささかは変わった。おまえも恋をすればいいんだ。してないのか?」
 してないよ、と心でだけ言う。乾はぶつくさぼやいていたが、面倒なので歩く速度を上げたら、それ以上はついてこなかった。


 別の男のことを言っているのならよかったのだ。それだったら、彼氏ができたのか? よかったな、と祝福してやって後腐れもなく別れられる。だが、静香のこの態度は、やはり溺れる相手は……という意味であるらしい。
「この間、乾さんに会ったの」
 ホテルの部屋で、静香が言った。
「渉さんと仕事をしてるのは知ってらしたから、学生時代の渉さんの話、してってせがんだの」
「悪口ばかりだっただろ」
「悪口っていうのか、親しみのこもった楽しいエピソードは聞かせてくれたよ。あのひねくれ者が……みたいに言ってた」
「ふん」
 うつむき加減になって、静香は上目遣いで俺を見た。
「そんな話をしてもらってるうちに、言ってしまったの。私は渉さんが好き。本気で恋をしてしまってるみたいだって。ねぇ、迷惑?」
「今夜も抱いてほしいのか?」
「それは……?」
「俺はおまえに恋はしていないよ」
 態度では示していたつもりだったが、はっきり言うのははじめてだ。静香は顔を上げ、はっとしたように俺を見つめてからこくんとうなずいた。

「化粧する君の その背中がとても
 小さく見えて しかたないから
 僕はまだ君を 愛しているんだろう
 そんなことふと思いながら

 窓の外は雨 雨が降ってる
 物語の終りに
 こんな雨の日 似合いすぎてる」

 静香の背中は小さいのだから、小さいものが小さく見えるのは当たり前だ。俺はおまえを愛してはいない、とは言うまでもなくて。
 常にも増して乱れに乱れた静香は、けだるさの余韻をまとったような仕草で化粧をしている。今夜で別れることになると知っているのか、徳永渉みたいな男に「恋をした」などと口にした愚を後悔しているのか。

「誰もが物語 その1ページには
 胸はずませて 入ってゆく
 僕の部屋のドアに 書かれていたはずさ
 “とても悲しい物語”だと」

 物語は短いほうがいい。俺には根気がないから、長編恋愛小説を読破する根性はない。こんな歌を心で歌うのは未練がゼロってわけでもないのだろうが。
 黙って化粧をしている静香の小さな背中が、霧雨に煙って見えたような気がしたのは一瞬だ。俺はクールで醒めた女がいい。セックスを快楽だと割り切れる女、この次はそんなのを探そう。男に溺れる女なんてまっぴらだ。


END
 
 
 

 
 
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