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小説36(そんなおまえが)

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フォレストシンガーズストーリィ・36

「そんなおまえが」

1
 
 本橋と俺が大学二年生、金子さんが四年生のある日、本橋も誘って金子さんにトレーニングジムに連れていってもらい、トレーニングマシンで汗を流した。トレーニングウェア姿になると、本橋は金子さんと優劣つけがたい体格をしていたけれど、顔がちがいすぎる。体力も抜群の金子さんは、本橋と競ってトレーニングを楽しんでいた。
「乾、へばったか。本橋はまだまだだな。泳ごうか」
「水着がないんですけど……」
「借りられるよ。乾は?」
「泳ぎます」
 気分爽快、身体疲労困憊、心と身体がちぐはぐながらもトレーニングメニューをこなし、シャワーを浴びて着替えて外に出ると、飲みにいこう、と金子さんが言った。
「俺たち……まだ未成年なんですけど……本橋も俺も三月生まれですから」
「四捨五入したら二十歳じゃないか。飲み会でだって飲んでるだろうが。いいからついてこい」
 連れられていったのは、安直な居酒屋だった。こんな店なら慣れている。酒だって実は高校生のころから飲んでいる。金子さんも本橋も旺盛な食欲で飲み食いし、俺は金子さんにどやされた。
「乾、もっと食え。酒は無理には勧めないけど、食わないと筋肉もつかないぞ。たんぱく質だな。肉を食え」
「肉が即、筋肉にはなりませんよ」
「肉を食うと身につく気がするじゃないか。本橋はよく食うな。腹をこわさないか」
「俺は生まれてこの方、腹をこわしたことは一度もありません」
「鉄の胃袋の持ち主か。本橋は身長は?」
「百八十にちょい足りません。体重はさっきはかったら七十キロほどでした」
「乾は?」
「身長は本橋にちょい足りません。体重は六十キロそこそこです」
「乾は五キロばかり筋肉をつけないとな。食え」
「はい、食います」
 金子さんの身長、体重は? と尋ねると、百八十二センチ、七十三キロだという。体脂肪率は低いのだろう。本橋も俺も体脂肪率は一桁だったが、俺は体筋肉率も低い。背丈の差は金子さんとだと五センチ、本橋とだと二センチ。なのに体重は十キロも少ない。男は身長と筋肉か、と俺もせっせと食べたが、彼らに食欲勝負を挑むと胃袋が破裂しそうだった。
「体質もあるんだから、無理はしないほうがいいか。本橋は酒も強そうだな」
「強いんでしょうね。まだそんなに経験積んでませんけど」
「酒は慣れもあるよ。これからだ。三十代がいちばん飲めるとも言うよな。本橋はなんでもかんでも強そうだけど、精神力は乾のほうが上かもな」
 さらりと言われて、本橋は横目で俺を見た。金子さんは続けて言った。
「俺は卒業したらリリヤとデュオでデビューすると決まってる。世の荒波に漕ぎ出していくんだよ。武者震いが起きるな」
 夏のコンサートが終了してしばらくした日、夏休み期間ではあったのだが俺が部室に行くと、本庄と小笠原が話していた。どうやら本庄は恋をした様子だった。相手は男子部キャプテンの金子将一氏の妹、リリヤ。猫型美少女とでもいうのか。無邪気にも奔放にも見える大きな瞳を輝かせた十八歳。なりゆき上とはいえ、リリヤをその腕に抱いた本庄が恋をしてしまったのは無理もない。
 大柄で都会的な美青年である兄と、妹の顔立ちは似ている。顔立ちは似ているものの、体格は似ていなくて、リリヤはそう背は高くなく華奢でもろそうではかなげな、守ってやりたい、と男に思わせる身体つきをしている。本庄はがっしりしていて強そうだから、ああいうタイプが好みなのだろうか。
 高校生だったリリヤに俺たちは会っている。本橋と俺が初のデュエットのステージに立つ前に、金子さんに連れられたリリヤが控え室を訪ねてきたのだ。顔が顔が、とばかり言うリリヤを兄貴が外に連れ出したあとで、俺は本橋に言った。
「噂には聞いてたけど、きわめつけの美少女だな。金子さんは大きいけど、妹はわりに小さいんだ。あれはもう、兄貴としては気が気じゃないんじゃないのか」
「うん……それより乾、俺はそれどころじゃないぞ。心臓が破裂しそうだ」
「おまえはそんなに気が小さいのか」
「気は小さくねえよっ」
 これからはじまるステージで頭が満杯で、本橋はリリヤなどは意識外だったようだが、俺の心には残っていた。ひとりっ子の俺に将一さんのような兄さんと、リリヤのような妹がいたらな、などとも考えた。
 その翌年に小笠原も本庄も、リリヤも合唱部に入部してきて、リリヤは兄とともに夏のコンサートのステージに立った。そのステージが発端で、本庄はリリヤと抱擁し、それからもなにかあったようで、フォーリンラヴとあいなったのだろう。女子部室にリリヤがいるのを知っていたので、行ってこいよと本庄に言い、小笠原とふたりして男子部室に残って話していた。
「……よかったのかな、ああ言って」
「リリヤさんに告白してこいって? うーん、シゲは高嶺の花だって言ってましたよね。その通りですよね。乾さんだって知ってるでしょ。リリヤとつきあえるんだったら俺も俺も、って、名乗りを上げる男はいっぱいいますよ。合唱部だけじゃないですよね。街を歩いてる男のふたりにひとりは、リリヤだったら大歓迎、って言いそうじゃありません?」
「ふたりにひとりくらいだったらそうかもな。おまえもか?」
「俺はああいうガラス細工っぽいのよりは、もうちょっとこうどんどーんと……」
「巨乳に顔を埋めて窒息させられたいんだったな」
「俺、そんなこと言いました?」
 合宿所の風呂場でたしかに聞いた。こほんと咳をして、小笠原は言った。
「シゲがリリヤちゃんとだなんて、似合わないにもほどがあるんですけどね。あいつはいい奴なんだけど、見た目はあれだから」
「そのあたりはリリヤちゃんがどう考えるかにかかってるんだけど、あの兄妹は……」
 兄の将一さんが大学を卒業する来春には、兄妹デュオとしてメジャーデビューがほぼ決定していると聞いている。俺の心情としては本庄の応援をしてやりたくて、行け、と言ってよかったのだろうか。
 リリヤの乙女心が本庄の告白にどう動くのか、俺にはわからない。が、兄心ならばわかる気もした。あのときの顛末を本庄がどう消化して受け入れたのかは知らないが、結局は失恋となったのだ。将一さんに妨害されて告白すらできずに恋に破れた本庄と小笠原と本橋と俺、四人で俺のアパートに行ってビールを飲んで歌って、本庄は酔い潰れて眠ってしまった。
「男はこうやって大人になるんだよ」
 言った本橋に、そんなに単純なものではないんだよ、と言いたかったのだが、兄の真意を俺が知っているわけでもなく、推測したにすぎない。
 あのとき、リリヤとふたりきりになってから彼は、恋は先になってからにしろ、俺たちには今は優先すべきことがある、とリリヤに告げたのだろうと俺には思える。かわいそうなのは本庄だが、リリヤの本心がどうだったのかは知らない。かわいそうなのは、妹の恋を邪魔した兄も、だったのかもしれない。
 金子さんが恋人を持たないのは、おのれの道が定まっていないからなのか。それほど歌への決意が強いのか。俺には彼の本心も読めないけれど、恋なんかしなくてもいい、と考えているのだろうか。恋愛至上とまでは言えないにしろ、恋のない人生は寂しいと思わなくもない俺とは、金子さんの主義はちがうのだろう。俺は頭を振って言った。
「リリヤちゃんも兄さんといっしょだと心強いですね」
 うちは金持ちだから、俺は小遣いには不自由してないんだよ、と金子さんはいつもてらいもなく言う。そんな金子さんにおごってもらって、三人で外に出た。公園を横切ろうとしたらホームレス老人がいて、彼の犬をからかっている少年たちがいた。老人が怒っても少年たちは意にも介していない。図に乗って犬を蹴飛ばそうとしている少年の襟首をつかんだ金子さんが、ぽいっとその身体を放り出した。
 高校生だろうか。大柄な少年もいて、数えてみれば六人もいる。彼らは険悪な雰囲気になって金子さんを取り囲み、本橋がひとりの少年の脚を蹴った。あんなに飲んだのに大丈夫なのかね、だったのだが、俺は犬を抱き上げて老人に渡した。
「危害の及ばない場所に避難して下さいね。おじいさんはなにもされてませんか」
「されてないが、警察を呼ぼうか」
「警察を呼ばれると俺たちも逮捕されますよ。適当にやって逃げますから、おじいさんも早く逃げて下さい。警察は後ほどにして、不良少年たちから守って下さいとの方向でお願いします」
「あっちの兄ちゃんら、でかくて強そうだな。あんたもわしと逃げるか」
「俺も逃げるのはあとにします。俺は弱そうでしょうけど、おじいさんにもおわかりでしょう。これでも男ですから」
「そうだな。おう、がんばれよ」
 老いたりといえ男であるおじいさんはうなずいて、犬を連れて早足で歩み去っていった。本橋は酔っているが、酔いが体内にアドレナリンを作り出していると見える。金子さんはたいして酔っていない。ふたりとも張り切って闘っていた。俺もちょこっとだけ参戦して、隙を見て三方に逃げた。誰を追おうかと右往左往の少年たちをうまくまいて逃げおおせたのだが、金子さんと本橋は無事だったのだろうか。アパートに帰ってから金子さんの自宅に電話をしたら、リリヤが出た。
「お兄ちゃん? さっき帰ってきて寝たよ」
「えーと、なんともなさそうだった?」
「なんともって? 酔っ払ってたけど」
 怪我してない? と訊いたらリリヤが驚くだろうから、それとなく尋ねた。
「リリヤちゃんは真面目だから、夜遊びなんかしないんだよね。リリヤちゃんも未成年なんだし、酒を飲んだりしたらお兄ちゃんに叱られるだろ」
「お兄ちゃんはうるさいからね。プロになるって決まってるのに、未成年のおまえが酒を飲んでるのを撮影されたりしたらどうするんだ、って怒るの。前にちょびっとだけ飲んで帰ってきたら、すっごい怒られた。自分は飲んで帰ってくるくせに」
「将一さんは成人じゃないか」
「成人っていうより、男だからいいって言うの。男って勝手だね」
「返す言葉はありません。ごもっともです。前に飲んで帰ったの? ぶたれなかった?」
「このごろぶたれなくなったよ。ちっちゃいときにはごつんってやられたけどね」
「ごつん?」
「お兄ちゃんが叩くのはリリヤの頭。この間は乾さんには大げさに言ったけど、ひどくはされないよ」
「ほんとは優しいお兄ちゃん?」
 優しくないもん、とは言ったが、リリヤは話してくれた。
「そのときは遅くなったのね。迎えにきてって電話しようかなって思ったんだけど、怒られるのは先延ばしにしたいじゃない。だからひとりで駅から帰ってたら、男のひとに声をかけられた。お嬢さん、綺麗だね、つきあわない? って。無視して逃げたのに追っかけてくるの。そしたらお兄ちゃんに会ったの。お兄ちゃんがそのひとの前に突っ立って、妹になにか? って低い低い声で言ったら、そいつも逃げてった。それからあたしをぎろぎろっと睨んで、叩かれるかと思ったけど、あたしの手を引っ張ってうちへ連れて帰って、それから延々お説教。あたしは寝ちゃったのよね。気がついたらベッドで寝てた」
「抱っこしてベッドへ運んでくれたんだ」
「そういうのって昔からしょっちゅうだったよ」
 愛する女性を抱えてベッドに運ぶ。俺にも経験はなくはないが、金子さんは妹にそうするのか。美少女の妹の寝顔を見て、困ったもんだ、と苦笑いして、足音を忍ばせて妹の部屋から出ていく。金子さんに恋人がいないのが本当だとしたら、それもまた一因ではないのかと思えた。
「お兄ちゃんが高校生のときだっけ。私は中学生だったんだけど、クラスの男の子たちが三人でうちに来て、あたしにプレゼントをくれたのね。誕生日のプレゼントだって言うから開けたら、中からネズミが飛び出したの。あたし、びっくりして泣き出した。お兄ちゃんが部屋から出てきて、男の子たちを怒鳴りつけてくれた。なんだよ、ただの冗談じゃん、とか言って、その子たちがお兄ちゃんに一斉に飛びかかったの。お兄ちゃんったら強いんだよ。あっという間に三人とも投げ飛ばしたもん」
「そっか。だったら無事だな」
「なにが? お兄ちゃん、起こしてこようか」
「いいよ。リリヤちゃんも夜更かししないで、おやすみ」
「乾さん、なにが言いたくて電話してきたの?」
「金子さん、ごちそうさま、ってさ。乾も元気ですよ、ともね」
「なーんだ、そんなの明日でいいのに」
 きみは本庄をどう想っていたの? とは訊けないままに電話を切って本橋にもかけたら、彼はけろりとしていて、おまえこそ大丈夫か、よかった、と息をついた。
 ブラコンリリヤちゃんも恋には大いなる障壁があるね、と思っていたのだが、なんとリリヤはそれからほどなく恋をし、妊娠までして結婚してしまった。合唱部もその噂で持ち切りで、本庄繁之の恋も完璧に砕けて散った。


間もなく三年生の夏のコンサート当日がやってくるその日、俺は本橋の家にいた。父親は化学品メーカーの重役というだけあって、本橋の自宅は大きい。東京にしては敷地も広く、ふたりの兄さんが寮暮らしとなってからは部屋が余っているとのことで、友達を泊めるのもしばしばであるらしい。一年生のときには、宇都宮から上京してきたミエちゃんの弟たちを泊めたのだとも聞いている。
 格式ばった俺の家とは大違いで、お母さんもお父さんもおおらかで豪放だ。両親そろって身体も大きい。兄さんたちもたいそう大きい。今日は兄さんたちは不在だが、幾度か会わせてもらっているのでよく知っている。乱暴者の兄貴たちにおもちゃにされて育ったと本橋は言うが、真次郎は敬一郎さんや栄太郎さんにそっくりだ。外見は兄さんたちのほうがいかついが、気性がそっくりなのだ。そう言うと本橋が怒るのは、兄弟の機微というものを知らない俺には謎だった。
「じゃあ、ラヴミーテンダーだな」
「うん、ざっとおさらいしよう。本橋、ピアノを弾いてくれよ」
 コンサートでふたりで歌う歌を、本橋のピアノに合わせてリハーサルしていると、お母さんが部屋に入ってきた。年頃もそうは変わらないだろうし、同じ日本の中年女性でありながら、俺の母とはあまりにもちがいすぎる。本橋の母、巴さんは、アイスコーヒーを二杯とスナック菓子やらなにやらを山盛りにしたトレイを、重そうな顔もせずに運んできてくれた。
「お邪魔してます。うるさくてすみません」
「うるさくなんかないのよ。乾くんっていい声よねぇ。それにいつだって礼儀正しくて、お育ちがいいんでしょうね。私には息子が三人もいて、ほったらかしにして育てたからこうなっちゃったんでしょうけど、真次郎、あんたもお友達のおうちに行ったらきちんとご挨拶してるの?」
「それは小学生に向かって言う台詞だ」
「頭の中身は小学生と変わらないじゃないの。図体ばっかり大きくなっちゃって、声だってあんたのはドラ声でしょ。それが意外に歌うと綺麗な声を出すのよね。もっと歌ってよ」
「あんたがそこにいると歌えないんだよ。出ていけよ」
「本橋、お母さんに出ていけとはなんだよ」
「おまえはうるせえんだよ」
 もしも俺が金沢の家にいて、母が部屋に入ってきて、出ていけ、と言ったらどうなるだろう。祖母が生きていたら、彼女よりもはるかに身体の大きくなった孫息子はぶっ飛ばされる。祖母はすでにみまかっているので、その心配はないにしろ、母はどうするだろう。親子喧嘩などしたこともないので、うまく想像できない。
「母さんは口うるさいから、親父とだって喧嘩ばっかしてるんだろ。俺は親父の気持ちがわかるよ」
「ま、生意気言って。あれはお父さんが悪いんです」
「いつも父さんが悪いのか」
「いつもよ。私が悪くて喧嘩になったことなんかないでしょうが。あった? あったんだったら言ってみなさいよ」
「……いちいち覚えてねえんだよ」
 この親子の会話からすると、本橋家では夫婦喧嘩もしばしば勃発するのであるらしい。うちの両親って夫婦喧嘩するんだろうか、と考えて思い出した。
 たったの一度きり、父と母の喧嘩を目撃した。両親の部屋の前を通りかかったら、襖のむこうから押し殺したように低くて迫力のある女性の声が聞こえてきた。お母さまの声? あんな恐ろしい声ははじめて聞いた。小学生だった俺はぎくっとして、固唾を呑んで聞いていた。
「そうですか。では、お好きになさいませ」
「そう言われてしまっては話し合いになりはしないよ。とわ子さん、怒らずに聞いてくれないか」
「怒ってはおりません。怒るなんてみっともない」
「あなたは冷静にすぎるね」
「怒るなとおっしゃったり冷静すぎるとおっしゃったり、どうしたらお気に召すんですか」
「だからさ……とわ子さん……」
 父の声もぐぐっと低まって耳に届かなくなり、ふたりはなにやらぼそぼそ言い合っていた。と、乾いた平手打ちの音が聞こえ、俺は襖を開け放った。
「お父さま……お母さまを叩いた?」
「いや、もののはずみで……」
「そうですよ、隆也さん。お父さまがお母さまを叩いたりなさるはずがないでしょう」
「嘘です。お母さまはほっぺたを……ひどい。お父さまなんか……」
 知らず知らず涙が出てきて、ごまかすためもあって俺は父に武者ぶりついた。こうして思い出すと、ドラマだとしても現代劇では古臭すぎるシーンではないのだろうか。だが、俺の記憶はたしかだ。鮮やかに蘇ってきているのだから。
 飛びかかった俺を抱き留め、父は俺にともなく母にともなく詫びていた。すまない、ごめん、とわ子さん、隆也くん、ごめんなさい、と繰り返していた父の声も耳朶に残っているかのようだ。ややあって祖母が入ってきて、父に命じた。隆之助さん、隆也を外に連れていって下さい、と義母に言われた父は俺を抱きかかえて部屋から出ていき、祖母と母は残って話しをしていた様子だった。
 もののはずみと父は言ったが、母を殴ったのは事実だったのだろう。それからしばらくは祖母と母の父に対する態度は冷淡きわまりなくて、子供心にもおっかなかった。父はそのあとはいいわけもしなかったが、幼い俺の全身に叩き込んだのだ。女を殴ってはいけない、たとえどんな理由があろうとも、女を殴ったりしたら男は身の置き場がなくなる。
 夫婦喧嘩の理由も、どうやって仲直りしたのかも知らない。いつの間にやら両親はもとの両親に戻っていた。もとの両親とは、どこかよそよそしくて息子にも他人行儀な両親を指す。
「ばあちゃん、うちのお父さまとお母さまは仲がよくないの?」
「そんなことないよ。あんたにはまだまだわからないの。そのうち好きな女の子でもできたらわかるようになるかしらね。隆也、だからって女の子を好きになるのは早いよ。大人になってからにしなさいね」
 祖母に対する質問の答えは説教にすり替わり、いまだに俺にはよくわかっていない。うちの両親は仲がよいのか悪いのか。お父さんったらねぇ、と息子に向かって訴えている巴さんのような台詞は、俺の母の口からは断じて出なかった。
「わかったから出てけって」
「わかってないくせに……ま、子供になんかわからないでしょうけどね」
「母さん、俺はもう二十歳だ。ガキじゃねえよ」
「はいはい。身体はガキじゃないわよね」
 まるっきり取り合ってもいないそぶりで言った巴さんは、俺にはにっこり微笑んでくれた。
「私も乾くんみたいな息子がほしかったわ。品がよくて言葉遣いも丁寧で」
「こいつは裏表が激しいんだ。先輩や教授や友達の親にだったらかしこまるけど、同い年だの後輩だので喋ってるときには、けっこうガラも悪いんだぜ」
「あんたほどじゃないでしょ」
「……そうかもな」
「乾くん、今日は泊まっていくのよね? なにか食べたいものはある?」
「手料理ってものには飢えてますから、お母さまが作って下さるものでしたら、なんでもおいしくいただき……」
 言いながら俺は片手で頭をガードした。予想通り本橋のげんこつが即頭部に飛びかけていて、今日は防げた。なにをするのよっ、あんたはっ、と巴さんが怒っても、本橋はそ知らぬ顔をしている。
 よその家ってこれが普通なのかな、うちの家が異常なんだな、などなどと考えながら、やがて帰宅したお父さんもともに食卓を囲んだ。我が家だって祖母と両親と俺の四人で一家団欒、みんなでごはんを食べましょう、というのはあったのだが、なにしろ母は祖母にも父にも敬語を遣う。父も祖母には丁重に接し、祖母も父には同様にしていた。母からは隆也さんと呼ばれ、父からは隆也くんと呼ばれ、隆也と呼び捨てにするのは祖母のみだった。
 自然に俺も両親には敬語を遣うようになり、祖母との意思疎通だけが一般的な祖母と孫だったのだと、今になれば思う。金沢で暮らしていた時代は、俺の周囲は浮世離れしていた。高校までの友達が両親の話をしているのを聞いていたら、よその世界の出来事のように思えて、俺は友達には家庭の話をしないようになった。まゆりにだけは話したけれど。
「真次郎、おまえも飲むか。乾くんもいいだろ。成人になったんだもんな」
「お、飲む飲む。父さんが言ってくれるのを待ってたんだよ。ビールを飲むと母さんのメシがうまくなるもんな」
「ちょっと、真次郎。私は料理が下手だって言いたいの? そんなら食べなくていいのよ」
「食うよ。食う。母さんの料理は最高だよ。な、父さん?」
「まあまあだな」
「ほら、これだから私が怒るのよ。乾くん、どうしたの? おとなしいね。おいしくない?」
「おいしすぎて胸が詰まって、無口になってるんです」
 お世辞がすぎる、とお父さんと息子が口をそろえ、あんたたちは食べなくていい、とお母さんがすね、俺もいつか結婚したら、こんな家庭になるといいなぁ、などとも思っていた。すこしばかりビールも飲んで風呂にも入らせてもらって、真次郎の部屋に引き取って遅くまで話していた。
「おまえってほんと、大人がいると人が変わるよな。疲れないか」
「おまえも大人なんだろ。二十歳なんだから」
「……イヤミな言い方だな。なあ、乾、おまえは親には話したのか。就職する気はない、俺は卒業したらプロのシンガーになるって」
「まだだよ。おまえは?」
「俺も話してないんだ。兄貴たちにも反対されそうだな。歌手なんて軟弱な……ってさ。親父の会社に入れてやるとか言われそうでさ……だけど、近いうちには話さなくちゃ」
 気の早い秋の虫の音色が聞こえてくる。そう、卒業まであと一年と半年の時期まで来ている。結婚したら、だなんて遠い将来でではなく、卒業したら、の近い将来を考えなくてはいけない、大学三年生なのだった。
 翌日は本橋とふたりで学校への道を歩いていた。小学校はすでに新学期がはじまっている。普段よりも早い時刻で、小学生たちも登校時間なのだろう。やんちゃ坊主たちが蹴飛ばし合いながら駆けてきて、ひとりが俺の腹にぶつかった。咄嗟に腕をつかんで、元気でいいね、でも、気をつけて、とその坊やに言うと、彼は俺を睨み上げた。
「なにすんだよ」
「ぶつかってきてころびそうだったから支えたんだ。気を悪くした?」
「……知らない人と口をきいたらいけないんだ」
「そうだね。近頃物騒だもんな。気をつけて学校に行ってしっかり勉強してこいよ」
「……変なの」 
 こら、と本橋が少年に声をかけた。
「知らない人と口をきいたらいけないってのは近頃の教育なのかもしれないけど、おまえがぶつかったんだろ。そういうときにはごめんなさいと言えって教育は受けてないのか」
「……怖い顔」
「俺は生まれつきこんな顔なんだよ。あやまれ」
「本橋、いいって」
 いーっだ、べーっだ、とやって逃げていく少年を、こら、待て、と本橋が追っかけようとする。俺は本橋を引き戻して言った。
「あの悪ガキを見てると、きみ自身の少年時代が髣髴としてくるってわけね」
「俺はあんなんじゃなかったよ。あいつが俺の弟だったら、ぶん殴ってでもあやまらせるんだけど、見知らぬガキにはしちゃいけないんだよな」
「そうそう、ガキに怒るのは大人げないよ。おまえも大人なんだろ」
「どこまでもイヤミな奴だな。だいたいおまえはいい格好しすぎなんだよ。昨日だってああだもんな。おいしいです、おなかいっぱいです、だ? うまい、食った食った、腹いっぱいだーっ、てのはどこに置いてきたんだよ」
「僕、そんなガラの悪い台詞は生まれてこの方一度も……だって、真次郎のガラの悪いのがうつると、お婿にいけなくなっちゃうんだもん」
「勝手にほざいてろ」
 道草ばっかり食っていたものの、今年のコンサートで歌う曲も正式に決めて、当日が訪れた。本橋&乾のデュエットは「ラヴミーテンダー」、徳永がソロで歌う曲は、プログラムによると「LSDブルース」だ。
「イントロのハモニカ、吹かせてもらえませんか、って三沢が言ってきたんだよ」
 キャプテン渡辺さんが話してくれた。
「三沢はハモニカが得意なんだそうだ。だけど、徳永さんって怖そうだから……だとか言って、僕に申し出てきた。僕から徳永に話したんだけど、ハモニカじゃなくてブルースハープです、ガキの伴奏なんかいりません、だってさ。ブルースハープの特訓もしたみたいだよ。楽しみだな。きみたちのデュエットも楽しみにしてるよ」
 先輩が後輩を「きみ」と呼ぶとは、我が合唱部ではまずない。渡辺さんも時には「おまえ」とも呼ぶが、「きみ」も混じる。意図があっての混入なのかどうかは知らないし、本橋は気にも留めていないようなので、ふたりして徳永のソロを聴こうと、ホールの隅っこに立っていた。
 「ラヴミーテンダー」も英語だが、徳永の歌う黒っぽいブルースの発音は堂に入っていた。ブルースハープに続いて、高く低くハスキーヴォイスが歌う。あまり大衆的な歌曲ではないので、聴衆の反応ははかばかしくなかったようだが、本橋と俺は言葉をなくして聴き入っていた。
「腕を上げたな、あいつ」
「喉を上げたんだろ」
「どっちでもいいだろ。おまえはそういうこまかいことをごちゃごちゃと……」
 聴き終えてホールの外へと向かっていると、本橋がまたそう言って怒る。おまえはごちゃごちゃと怒りっぽいな、と言い返してやろうとしていたら、金子さんも外に出てきたところだった。
「金子さん、来て下さったんですか」
 言い返すのはやめて、本橋とふたりで金子さんに駆け寄った。リリヤが結婚してしまって、兄妹デュオが消滅してしまった金子さんは、プロとしてデビューする道までもを閉ざされたと聞いている。それでも表情は明るかった。
「徳永の歌、聴いたんだろ。今やおまえたちのまたとないライバルになったな」
「以前からそうでしたよ」
 俺は言った。
「俺は徳永とはライバル以前に仲間だと考えたいんですけど、むこうが敵視するんだからどうしようもありません。しかし、ライバルとしては奴は最高ですね。だろ、本橋?」
「そうだ、俺たちも負けてちゃどうしようもないぞ。金子さん、聴いてて下さいね」
「ああ、聴かせてもらうよ」
 デュエット曲を歌い終えて外に出ると、金子さんの姿は消えていて、ミエちゃんが話してくれた。
「将一さんもゲストとして歌って下さったらよかったのに、予定にはないからって帰ってしまわれたのよ。今年は将一さんのソロが聴きたかったな。リリヤちゃんとのデュエットもよかったけどね」
「俺たちのは?」
 問いかけた本橋に、ミエちゃんはにっこり応じた。
「歌を表現するってむずかしいね。私は合唱部にいても歌は素人の域から抜け出せないまんまだったし、なんて言えばいいの、乾くん?」
「金子さんはなにかおっしゃってた?」
「本橋にも乾にも徳永にも、先を越されるかもな、って。ちょっぴり寂しそうだったよ。本橋くん、将一さんには決意のほどを表明したの?」
「してないけど……悟られてるんだな」
「さすがだね」
 コンサートが終了して、見つけた徳永に話しかけようとした。よかったよ、徳永、感動したよ、と言いたかったのに、徳永は俺なんぞそこにはいないかのように黙殺して、足を止めてもくれなかった。
 その年の学園祭では合唱の一員として、一員ではあってもふたりが主役として、三沢と木村がコンサートデビューした。渡辺さんが張り切っていたのはこれだったのだと、そのときはじめて俺は気づいた。
 なのに、木村はロックバンドをやるからと合唱部を退部してしまい、大学までを中退してしまった。仲のよかった木村がいなくなって、一時落胆していた三沢はほどなく元気を取り戻し、本橋や俺にとっての最後の合宿のころには、本庄とも小笠原とも三沢ともすっかり親しくなって、三年生になったふたりをシゲ、ヒデ、と呼ぶようになっていた。
 今年のコンサートではオリジナル曲を歌おうと本橋と話し合っていたので、風呂場でもふたりして自作の曲を検討していた。本橋は一年ごとにたくましい身体つきになっていき、俺はあいかわらずひょろっとしてるなぁ、と、検討の合間には自身のコンプレックスを噛み締めたりもしていたら、シゲとヒデと三沢が風呂場に入ってきた。
「こんばんはー」
 相当に気が強いのを今では知っているが、一見はひょうきんでもあるヒデは、背丈は俺より少々低い。筋肉量は俺とどっこいどっこいだろう。シゲはヒデよりさらに少々低い。が、あるいは本橋以上にたくましい筋肉質のボディをしている。ヒデがやや長身でやや痩せ型、シゲは標準身長がっちり型、三沢は標準体型よりもぐっと小さくて、裸身も少年っぽい。
「よろしいですか、後輩もごいっしょして」
 一見ひょうきんどころか、お茶らけるのが生き甲斐ではないかと思える三沢だが、彼も決してそんな面ばかりではないと知る事件があった。けれどそんなことがあったのはおくびにも出さず、今夜も三沢はいたずら坊主の顔をしている。シゲは軽く頭を下げて湯船に飛び込み、ヒデもシゲに続き、三沢は俺のそばに寄ってきた。
「ようやく念願がかなったよぉ。いっしょにお風呂に入りたかったんですよ」
「俺とか? 入ったことなかったか」
「あるんですけど、男が大勢の混浴でしたから」
「男ばっかりでも混浴と呼ぶのか」
「混雑浴ですね。乾さん、どこ見てるの? やーね、えっち」
「男にえっちと言われたくないんだよ。おまえにも蒙古斑はないんだな」
「あるわけないでしょうが。失礼な」
 あるんじゃないのかー、とヒデは言い、本橋は言った。
「前にも蒙古斑がどうとかこうとか言ってなかったか、おまえ? そんなもんが二十歳に近い男に残ってるはずないだろ」
「本物の蒙古斑はないけど……」
 心には青いのが残ってるんだよな、高倉さんや金子さんに引き比べてみれば、俺たちっていつまでもガキのまんまだな、と考えている俺を、シゲが不思議そうに見ていた。

 
有名な曲のカバーしかやってこなかったコンサートで、はじめて俺たちはオリジナルを歌った。大学生活最後の合唱部コンサートで歌うためのオリジナル曲、乾隆也作詞、本橋真次郎作曲の歌が、初に聴衆の面前で披露された。タイトルは「オフサイド」。

「風に舞うピンクの花びら
 陽射しに舞う青いパラソル
 夕べに舞う黄金のわくら葉
 静寂に舞う白い風花

 ひとつひとつの季節に
 僕のかたわらにはきみがいた
 さざめく笑い声
 はじける叫び声
 怒り声も涙も
 この胸にくっきりと残る

 きみの心にゴールシュートを決めたくて
 決めたはずが空回り
 下手くそって笑ったね
 僕の想いは最後までオフサイド」

 きみって誰だよ? と本橋は尋ねた。おまえだよ、と言ったとしたら殴られたかもしれない。おまえだけではなくて、好きだった女の子だけではなくて、学生時代に俺と関わったすべてのひとに、この歌を捧げたい。ホールで俺たちの歌を聴いてくれて、拍手を送ってくれている人々にも、最後のゴールシュートがオフサイドに終わらないように。
 ソングライターの才能はないんだ、と徳永は言っていたから、今年もカバー曲だった。「過ぎ去りし恋」。徳永にも過ぎ去りし恋があったのだろうか。
 無情にもだか非情にもだか、時はひたすらに流れた。二十五歳のこの年になるまでに、愛したひとは何人いただろう。出会った女性のすべてと恋に墜ちるはずもないけれど、偶然と偶然が作用して恋がはじまる。そんな詞を書いたりもした。好きだよ、と言い合って、デートしたりキスをしたりした幼い初恋から、大人の恋のつもりの恋まで。恋の記憶は俺のかけがえのない財産のひとつになっている。
 かけがえのない財産の片翼は、友達、先輩、後輩、恋人ではなかった女の子たち、仲間たち。学生時代を振り返るには早すぎるけれど、仲間がいなかったとしたら、俺は今日まで歩いてはこられなかった。
 七年前の俺は十八歳で、ほやほやの大学一年生。その一年ののちには俺にも余裕ができて、一年後輩たちの自己紹介を微笑ましく眺めていた。本庄繁之です、と名乗ったシゲの生真面目な顔も、小笠原英彦です、よろしくっ、とおどけてみせたヒデの顔もよく覚えている。
 そしてさらに一年後には、木村章です、とぶっきらぼうに挨拶した章と、のっけから愛嬌と愛想をふりまいていた三沢幸生も合唱部の仲間となった。いや、後輩たちがあらわれたのは後のことなのだから、今は追想を七年前に戻そう。本橋、乾、デュオを組んでふたりで歌え、高倉さんのあの言葉がなかったとしたら、俺はプロのシンガーになっていただろうか。合唱部に入部した時点では、歌手になりたいとは夢にも考えていなかった。
 洗練された二枚目で、長身で服装も決まっていて、東京生まれで東京育ちの都会の美青年、金子さんをかっこよくないと言う者は、男にも女にもいなかった。女性には好みもあるので、金子さんなんてタイプじゃないわ、ってひとも、事実、いたのであるが……あれは誰だったか? 服部一葉さんだったような記憶がある。
 ファンクラブもあったし、もてもてにもてていた金子さんは、なのになぜか決まった女性がいなかったようだ。もてすぎてひとりに絞れないのか、ひとりに決めると泣く女性が多いからだったのか、他の理由もあったのかもしれないが、俺は推測しかできなかった。だが、金子さんが浜辺で女性とキスをしていたのは、映画のワンシーンのようだった。あれは恋のゲームだったのか。そんなシーンが金子さんだとこよなく麗しかった。
 先輩たちの中でとりわけ心に残っているのは、高倉さんと星さんと金子さんだ。他の先輩たちも偉大だったけれど、俺は関わってきた三人のキャプテンに心で話しかけていた。高倉さん、金子さん、渡辺さん、俺たち、やっとプロになりましたよ。キャプテンたちもお元気でいらっしゃいますか? 徳永も元気かなぁ。そんなふうに追憶に浸りつつ、控え室のドアに手をかけたら、中から声が聞こえてきた。 
「おまえなんか大嫌いだ」
「俺もおまえなんか大っ嫌いだよ」
 最初のは章、あとのは幸生の台詞だった。子供じみたもめごとはたびたび起こす奴らだが、今回はなんだろう? 控え室に入っていくのをためらっていると、足音が聞こえてきた。振り向くとシゲだった。
「乾さん、どうしたんですか」
「入りづらい。シゲ、公園に行こう。時間はまだあるだろ」
「ありますね」
 でも、なんで? と訊きたそうなシゲを促し、近くの公園に行った。人影まばらな夕刻の公園で、二十歳はとうにすぎた男がふたり、所在なくブランコを揺らした。
 見知らぬ町だ。俺は金沢の出身なので、四国という土地にはなじみがない。讃岐うどんで有名な地だと知っている程度で、うどんにも興味はないので、よく知ろうともさして思わない。香川県の小さなホールで、作家の講演会のおまけみたいな形で日替わりで歌のステージが行われる。今日は俺たち、フォレストシンガーズの出番なのだが、町の人々にしたところで、無名のシンガーズになど興味はないだろう。
 プロデビューを果たしてから一年余り、俺は二十五歳になった。リーダーの本橋真次郎も二十五、シゲ、本庄繁之は二十四、三沢幸生と木村章は二十三歳だ。
「乾さん、乾さん、いったいどうしたんですか」
「この先、俺たち、歌で食っていけるのかな」
「乾さんらしくないなぁ。なにがあったんです?」
 ためらいなど見せず、入っていって幸生と章の仲裁をするのが俺の役割のはずだ。深刻なのかどうかは知らないあいつらの喧嘩だったが、ふざけているようには聞こえなかった。売れない鬱屈? たったの一年で売れっ子になれるはずもないだろ。甘えるな。おまえたちも俺も、好きな歌をうたって生きている、それだけで幸福なのに。
「なんでもないよ。シゲ、服を汚さない程度に、筋トレでもやろうぜ」
「いいですけど、変だなぁ」
「変じゃないよ。トレーナー、どうやる?」
 ブランコから飛び降りて、俺はシゲの言った通りに、互いに背中を合わせて身をそらせたりかがんだり、を繰り返した。兄ちゃんら、なにやっとるん? と子供の声がして、数人の小学生たちが俺たちの真似をしてはしゃぎはじめた。
「ほら、坊主、ここに飛びついていいぞ。こっちも」
「わー、兄ちゃん、力持ち」
「ぼくもやってー」
 両方の腕に子供たちをぶらさげて、シゲが踏ん張った。倒れると服が汚れるのだが、シゲは子供ふたりごときではびくともしない。筋トレ大好きなシゲの面目躍如ってところだった。
「じゃあ、俺は肩車してやろうか。おいでおいで、そこの坊や」
 相手は男の子だし、変質者だとも疑われないだろう。飛びついてきた少年を肩車してやると、きゃっきゃっと笑い声を上げる。そうやって遊んでいたらすこしは気も晴れた。ホールの控え室にシゲとともに戻ると、おまえらはどこに消えてたんだ、と本橋が怖い顔をした。幸生もそ知らぬ顔で言った。
「誘拐でもされたのかと思いましたよ」
「俺がか? 俺なんか誘拐して、誰が身代金を出してくれるんだ」
「そりゃあ、シゲさんよりは乾さんのほうが誘拐されそうだよな、章?」
「よっぽど屈強な誘拐団でもなきゃ、本庄さんは無理っぽい」
 さりげなく観察してみたが、章も幸生も顔は無傷なようだ。殴り合いまでは行かなかったのか、本橋がやってきてやめたか、止められたか、いくつも考えられるのだが。幸生はあくまでもそ知らぬ顔でなおも言った。
「身代金はリーダーが出してくれますよね?」
「そんな金がどこにある」
 下らない話はやめ、仕事だ、と本橋が立ち上がる。続いて控え室から出ていこうとする幸生の脛を軽く蹴ってみた。
「いでっ、いでっ、乾さん、なにするんですか」
 ついでに章の脛も蹴ってみたら、章もいやに大げさに痛がった。してみると、蹴り合いをしたということも考えられる。なににしてもおまえたちにも鬱屈はあるのだろうから、顔は避けてのちょっとした暴力沙汰ぐらいだったらいいとするか。時には喧嘩もいいけど、仲直りしたのか? そんな質問を込めて見つめると、幸生も章もそっぽを向いた。


2

仕事を終えて帰京し、アパートに帰りつくと、俺の部屋の前のコンクリートで女の子がひとり遊びをしていた。ただいま、と声をかけると、彼女、奈々ちゃんは俺に抱きついてきた。
「おにいちゃん、どこ行ってたの?」
「お仕事」
「おしごと?」
 抱きついているのは俺の腰。奈々ちゃんの顔は俺の腹のあたりにある。ちいさなちいさなお隣さんは、まだ五歳だ。
「奈々ちゃんのママは?」
「ママもおしごと。おんなじだね」
「ほんとだね。ごはんは食べた?」
「たべてなーい」
「……」
 奈々ちゃんのママについてはよく知らないが、水商売ででもあろうか。俺とたいして年齢のちがわない、化粧の濃い女性だ。こんな時間に子供にメシも食わせずに置き去りにしていくとは、いくら仕事でも困ったものなのだが、そうしないと彼女は生活していけないのだろう。
「奈々ちゃんは夜、ひとりで平気かな?」
「へーきだよ。いっつもひとりだもん」
「えらいね。じゃあ、おにいちゃんとこでなにか食べる?」
「うんっ」
 幼稚園にも通っていない様子で、いつでも奈々ちゃんはひとり遊びをしている。俺だって子供には慣れていないのだが、見過ごしにできないのはお隣さんなのだから仕方がない。俺は奈々ちゃんと部屋に入り、なにか食べる? とはいってもろくなものはないので、カップ焼きそばをこしらえた。野菜も食べさせないといけないのだが、新鮮な野菜が留守がちの男の自宅にあるわけもない。
「トマトジュース、飲む?」
「いらなーい」
「オレンジジュースは?」
「奈々、カフォオレがいいな」
「あっそ。買ってくるから食べてなさい」
「うん」
 まともに日本語も喋れないくせに、カフェオレときた。旺盛な食欲で焼きそばを食べている奈々ちゃんを部屋に残し、俺はコンビニへと足を向けた。カフェオレってのはコーヒーなのだから、子供に飲ませるにはきついのではないかと思い直し、ミルクや生のトマトなんぞも買って帰ろうとすると、コンビニの外に本橋がいた。
「帰ってきたら暇だな。飲みにいこうや」
「生憎、彼女が来てるんだ」
「なんだとぉ? おまえ、彼女なんかいたのか」
「いるよ」
「そんなら俺が行くと邪魔か」
「邪魔なんだけど……まあいいや、紹介するから来れば?」
「そうか。こんな格好だけど……」
「おまえの彼女じゃないんだから、どんな格好だっていいだろ」
「そういうわけにもいかないだろ」
「それでいいからついといで」
 よれよれぼさぼさ、仕事の際には一応かっこつけてはいるのだが、普段着の本橋にはなんの洒落っ気もない。女性に会うとなると気取りたいのであろうけれど、女性といってもあれなんだから大丈夫だよ、とひそかに笑って、俺は本橋を連れて部屋に帰った。奈々ちゃんを見た本橋は、案の定、口をあんぐり開けた。
「これが……おまえの彼女?」
「これとは失礼だな。奈々ちゃんだよ」
「おまえ、こういう趣味が……」
「ひとをロリコンみたいに言うな」
 口の回りをソースだらけにした奈々ちゃんは、ろりこんってなに? と無邪気に訊く。本橋は慌てて愛想笑いを浮かべた。
「いやいや、なんでもないよ。奈々ちゃん、こんばんは。俺は乾の友達の本橋ってんだけど、よろしく。って、この子、こういうことを言って理解できるのか」
「奈々ちゃんはいくつ?」
「いつつ」
「わかるよね。このひとの名前もわかった?」
「本橋のおじちゃん?」
「こっちは?」
 自分の鼻をさすと、奈々ちゃんは得意げに答えた。
「知ってるぅ。乾のおにいちゃん」
「こらぁ、なんでおまえはおにいちゃんで、俺はおじちゃんなんだ」
「幼児の曇りなき純粋な目にはそう映るんだ」
「そりゃないだろ。俺もおにいちゃんだ。奈々ちゃん、わかるか?」
「うそだもん」
「本当だよ」
「おにいちゃん、このおじちゃん、こわい」
 抱きつかれてシャツをソースで汚されたのだが、俺は奈々ちゃんの頭を撫でながら言った。
「怖いよね。このおじちゃんは凶暴だから、半径一メートル以内には近づかないようにね」
「きょうぼうって?」
「このおじちゃんみたいのを言うの」
「ふーん」
「……乾、てめえ、いい加減にしないと……」
「やめろ、本橋、奈々ちゃんが怯える」
「やーん、こわいよぉ」
 慌てた本橋が、ごめんごめん、と奈々ちゃんにあやまると、奈々ちゃんは言った。
「おなかいっぱいになった。おにいちゃん、カフェオレは?」
「買ってきたよ。本橋も飲むか」
「おじちゃんはお酒がいいんじゃないの? ママんところに来るおじちゃんはみんな、酒、酒って言ってるよ」
 すっかりおにいちゃんとおじちゃんになってしまい、本橋は腐っていたが、幼児の目にはそう見えるのだろう。客観的に見れば同年でも俺のほうが外見は若い。言い方を変えれば、いまだガキっぽいとも言える。
「作ってくるから、おじちゃんにお話してもらうといいよ」
「おい、乾、ふたりきりにするな」
「おじちゃん、おこるとこわい」
「怒ってないない」
 狭いアパートのなお狭いキッチンに立ち、カフェオレをミルクで割っていると、奈々ちゃんと本橋の会話が聞こえてきた。
「奈々ちゃんはなにが好き?」
「んんとね、パンダちゃん」
「他には?」
「マルちゃん」
「マルちゃん?」
「おばあちゃんのおうちにいるの」
「犬か猫か」
「ちがうよ。ぞうさんだもん」
「象がうちにいる? 奈々ちゃんのおばあちゃんちは動物園か」
「どうぶつえん、いきたいなぁ」
 会話がかみ合わないのがおかしくて、俺はひとりで笑った。
「おえかきする」
「……ここに描くか。なに描く?」
「ママ」
「ママね」
 部屋に戻っていくと、裏が白紙の広告を広げて、奈々ちゃんは真剣に絵を描いていた。我々の目には人間には見えない絵を完成させると、奈々ちゃんは呟いた。
「ママ……」
「おっと、泣くぞ。乾、なんとかしろ」
「おまえがなんとかしろ」
「おまえの彼女なんだろうが」
「おまえがママの絵なんか描かせるからだ」
「俺のせいにすんのかよ」
「……奈々、なかないもん。おるすばんしてるって、なかないでおるすばんしてるって、ママとやくそくしたんだもん」
 けなげにも言った奈々ちゃんは、ママの絵にキスし、本橋がしみじみと言った。
「わけありか」
「そうだな。だけど、奈々ちゃんの前では言えないよ。奈々ちゃん、おうちに帰る?」
「んんとねー、奈々、ねむくなっちゃった」
 眠くなるとこてんと寝てしまうのが幼児だとは、俺は寡聞にして知らなかった。奈々ちゃんはころっと横になり、次の瞬間には寝息を立てていた。
「涙ためちゃって……帰らせてひとりぼっちになんかできなくなっちまうよ」
「そうだな。可愛い彼女じゃないか。乾、大切にしてやれよ、おめでとう」
 勝手知ったる他人の家、というわけで、本橋は押入れから毛布を取り出し、奈々ちゃんにかけてやった。
「……馬鹿か、てめえは」
「冗談だ。わけありってのを聞かせろ」
 そんなに詳しく知っているわけでもないのだが、一ヶ月ばかり前にとなりの部屋に越してきた奈々ちゃんと、そのママについて話すと、本橋は唸った。
「ネグレクトとかいうやつじゃないのか」
「幼児を放置して面倒見ないってやつか。そこまでじゃないと思う。虐待でもしてるんだったら俺にもやりようがあるけど、奈々ちゃんのママだって生活かかってるんだから、働きにいくなとは言えないだろ」
「保育園とかベビーホテルとかってのもあるじゃないか」
「よく知ってるね。けど、それって金がかかるんだろ」
「そうだろうな」
 夜が静かに更けていく。このままここで奈々ちゃんを寝かせっぱなしにしてはまずいだろう。そおっと彼女の住まいに戻してくるつもりで抱き上げたとき、鍵をかけていなかったドアが開いた。玄関と居室が直通のちっぽけなアパートだ。入ってきたのは奈々ちゃんのママと見知らぬ男で、ママは険しい表情で言った。
「乾さん、でしたよね。うちの奈々になにをしてるの?」
「なにをしてるって……あなたがほったらかしにするから、うちで食事をさせて、寝てしまったから抱いてお宅に運ぼうとしてたんです。なにかご不満ですか」
「……気持ち悪い」
「気持ち悪い?」
「奈々はちっちゃいけど女の子ですよ。男のひとがそんなふうにしてるって変な感じ。ねぇ、たっちゃん? このごろ変なのが多いっていうよね」
 そういう趣味か、と本橋が言ったのはジョークに決まっているのだが、この方は本気で俺をロリコンだと思っているのか。呆れて脱力したので、俺は奈々ちゃんを毛布の上におろした。たっちゃんと呼ばれた男が言った。
「こんな奴が隣に住んでんのか? 危ないなぁ」
「なにを言ってやがんだ、てめえは」
 先に怒ったのは本橋だった。
「母親がほったらかしにするから、乾は奈々ちゃんになつかれて、メシを食わせたりしてやってるだけだろ。邪推も邪推、最悪の邪推だ。文句あるんだったら自分で世話をしろ、そこの母親」
「なによ、えらそうに。どこの誰だか知らない奴に、そんなふうに言われる筋合いはないってのよ」
「どっちが正しいか、出るとこに出て決着つけようか」
「なんだとぉ、若造が生意気に」
 たっちゃんとやらが凄み、本橋は彼を睨み返した。
「おまえとなんか話してねえよ、黙ってろ。あんただ、これ、見てみろ」
 どこが顔でどこが手足なのかも定かではない、奈々ちゃんの絵を本橋が手渡すと、ママさんは鼻を鳴らした。
「下手くそな絵。奈々が描いたの?」
「あんただそうだぞ」
「あたし、こんなの、たっちゃん?」
「もっと美人だよ、マキはさ」
 ママさんの名はマキさんと言うらしい。ふたりして奈々ちゃんの絵を見てへらへら笑っている。本橋の怒りのたぎりを感じたので、俺は耳元で言った。
「落ち着け。先に手を出すな」
「先じゃなかったらいいのか」
「暴力にならないように、静かに話せって」
「おまえがここに住んでられないようになるからか」
「そういう意味じゃない」
「わかってる」
「挑発もするな。俺は警察を呼んでくる。この男、その筋の人間じゃないのか?」
「そんな感じだな」
 人相は悪いし、服装も崩れている。必要以上に開いた胸元から覗く太いゴールドのネックレスや、ごつい金の指輪は、街を闊歩するちんぴらの風情だった。しかし、どうやって抜け出そうか。俺が悩んでいると、俺の声を聞きとがめたか、男が割り込んできた。
「なにを呼ぶって? あんたらふたりいるってのに、ひとりっきりの俺が怖いのか。情けねえ兄ちゃんたちだな」
「……とにかく、俺は奈々ちゃんに食事をさせただけです。穏便に帰っていただけるんでしたら、なにも呼びませんよ」
「どうだかなあ。しかし、まあ、今夜のところは帰るか。マキ、帰るぞ」
「いいの?」
「いいんじゃねえの」
 拍子抜けだったのだが、このままですむのだろうか。そんな危惧を口にすると、おまえはいつだって考えすぎだ、と本橋は言い捨てた。
 なぜか翌日も、夜になって本橋が我が家にやってきた。奈々ちゃんの部屋は静まっていて、マキさんも出かけたようにない。奈々ちゃんも外で遊んではいない。連日の仕事が入る身分でもなく、本橋も俺も暇だ。今日は掃除洗濯などをしていただけなのでいいのだが、こいつはなにをしにきたんだろ? そう考えて本橋の顔を見ていると、ドアが外から叩かれた。
「どなたですか」
 ドアを開けた途端、俺はなにものかに突き飛ばされ、どやどやと三人の男が部屋になだれ込んできた。本橋が身構えるのが見えたのだが、俺は柱に頭を打ちつけ、しばしぼーっとしていた。そんな俺の耳に、下卑た男たちの声が聞こえてくる。
「昨夜はまぁ、えらそうに言ってくれちゃったよな」
「マキさんが怒ってるらしいんだよな」
「俺たちもさ、マキさんが怒ってると聞いちゃぁ放っておけなくてね」
「……怒るのはお門違いだ」
 言って、本橋は立って俺のほうに来ようとした。乾、大丈夫か、との声が聞こえたのだが、本橋は男のひとりに足払いをかけられ、倒れそうになったところをからくも持ちこたえて叫んだ。
「乾、走れっ!! 外に出ろっ!!」
「そんなわけにいくかよっ!」
「俺はなんとかする。ごちゃごちゃ言ってる場合じゃないんだ。逃げろ」
「いやだっ」
 逃げ出して警察に連絡する? できるならばそうしたほうがいいのはわかっているが、頭が霞んでいて動けない。それに、この場に本橋を置いて逃げるだなんて、俺の心が許さない。そうして意地を張って共倒れになるのか? だけど、ならば、どうしたらいいんだ? ジレンマとジレンマが闘っているうちに、本橋と俺は背中合わせにされ、ネクタイらしきもので手首を縛られてころがされた。ドアには鍵もかけられ、逃げ出す機会は失われた。
「本橋、なんだって無抵抗で縛られるわけ?」
「おまえ、頭は?」
「だんだんもとに戻ってきた」
「そっか」
 どうすべえな、などと男たちが相談している。俺は手首のネクタイをゆるめようと努力しつつ言った。
「最初の質問の答えは?」
「……うーん」
「おまえだったら、三人相手ではかなわないまでも、無茶苦茶に抵抗するぐらいのことはするだろ。それをしなかったってのは、俺の推理を言っていいか」
「暢気な奴だな」
「……俺たちはいまや、売れていないとはいえシンガーのはしくれだ。昔のようには喧嘩なんかできない。ヤクザ者なんぞと乱闘をやったら、変なふうに報道される恐れもある。だからだろ?」
「うぬぼれてんのかもしれないけど、俺はリーダーなんだよな」
「正真正銘のリーダーだよ」
「うまくは言えないんだけど……」
「俺に言えってか」
 どういうわけだか、男たちが行動を起こさない。俺は彼らの存在を意識するともなくしないともなく、本橋に言った。
「おまえひとりがここに残って、たったひとりで華々しく散ろうとでも思ったか。おまえだけがか。俺はリーダーなんだから全責任は俺が取る。俺がひとりでやったんだったら、おまえたちには罪咎は及ばない。かっこつけすぎだ」
「そうとまでは……」
「考えてたんだろ。だから俺を逃がそうとした。なのに俺は逃げもせず、おまえの邪魔だけした。ここは俺の部屋だぞ」
「誰の部屋かは関係……あるのか?」
「おまえが俺の部屋に遊びにきて、俺はいなくて、そこへ因縁つけてきた方々とおまえが乱闘して、そんな筋だったら通るかもしれないよ。それだったら、場合によっちゃ暴力排除のたてまえによって、おまえだけが仕事をクビになって、俺たちは無事だったかもしれないよ。別の場合によっちゃ、おまえはヒーローだったかもしれないよ」
「そっちがいいけどな」
「そううまく行くか、馬鹿」
「馬鹿だな。俺は別に深く考えちゃいなかったんだよ」
「嘘だ」
「ただ、おまえには逃げてほしかっただけだ」
「俺では戦力にもならないってか」
「足手まといにもなりかねない」
 この台詞と、俺の推理と、どちらに本橋の真意がある? 俺には俺の推理のほうだとしか思えなかった。シゲ、幸生、章がここに居合わせていたとしても、本橋は同じようにふるまっただろう。
「どっちにしてもうまくいかなかったな。俺たちになにをなさるおつもりで?」
 顔を上げて男たちに尋ねると、たっちゃんと呼ばれていた昨日の男が問い返した。
「あんたら、芸能人なのか」
「名もなき貧しき芸能人です」
「だったら、金は持ってるよな」
「あのねぇ、なにを聞いてらっしゃるんですか? 貧しき芸能人です。芸能人って自覚なんかなくて、俺たちはシンガーだと思ってたけど、リーダーには自覚もあったようで、俺は考えが足りなかったと反省してますよ」
「シンガーって歌手か。こいつとあんたはいっしょにやってんのか」
「フォレストシンガーズと申しまして、森の歌うたいたちって意味ですね。彼はうちのリーダーです。俺たちが殺されるんじゃなかったら、以後よろしく」
 おまえはなにを名乗ってるんだ、と本橋が言ったが、俺はかまわず続けた。
「殺すんですか? 半殺し?」
「そこまでやる気はねえよ。俺らはあんたが言った通りのもんだけどよ、ただ、マキが怒ってて、落とし前つけろってうるせえから、どうしたもんかと、な」
「ぼこぼこにしたい?」
「うーん、困ったな」
 なあ、なあ、と三人がうなずき合った。
「なんで困る? ぼこぼこにしたいんだったらやれよ。なあ、乾、もうひとつやりようはあるな」
「俺たちは断固無抵抗。殴られ蹴られるままになって、耐え続けるんだな。そしたら、暴力男の汚名は着なくてすむ。こうなったらそれしかないか」
「ないな。好きにしてくれ」
 本橋が男たちに言うと、たっちゃんが大きく息を吐いた。
「そう出られると困る。金で解決しないか」
「金はない」
「俺もない」
 どうする? とたっちゃんが他のふたりを見ると、そのうちのひとりが発言した。
「ついつい聞き耳立てちまってたんだけど、本橋さんとやら、あんた、なかなかの男だね」
「……はあ」
「乾さんも度胸あるな」
「そうですかね」
「俺ら、ヤクザだからよ、そういうのに弱いんだ。なあ、たっちゃん?」
「そうなんだよ。だから困ってる」
 残るひとりも言った。
「そういう奴を殴ると目覚めがよくない気がする。金もないってんだったらしようがねえし、たっちゃん、マキさんにはあんたからよろしく言っとけないか」
「そうだなぁ」
「せめてほどいてやって、普通に喧嘩するってのはどうだ?」
「けど、芸能人が喧嘩しちゃまずいんだろ」
 その通り、と俺は力強くうなずいた。
「気が抜けちまったよな。あんたら、いい友達だな。帰ろうか」
「そうしよ」
 背中を向けた男たちに、本橋は言った。
「……帰ってくれるのはありがたいが、この手首をほどいていけ」
「断る」
「それぐらいはやっとかないと」
「マキさんに申しわけが立たねぇってな、たっちゃん?」
「ちょっとはぼこってきてやった、とでも言っとくよ。なにもあいつも、あんたらを半殺しにしてほしいわけでもないだろうし、金で解決がいちばんなんだが、そうもいかない貧乏人らしいし」
「サラ金で金を借りさせるって手もあるんだがな」
 妙なことを言い出した弟分らしき男の頭を、たっちゃんががんっと殴った。
「やめとくと決めたんだろ。乾さん、あんたらはなんだっけ?」
「フォレストシンガーズ」
「覚えておくよ。じゃあな」
 覚えとけ、は喧嘩の際の決まり文句なのだが、覚えておくよ、ときた。男たちは出ていき、本橋が言った。
「ヤクザにファンになられたら、それもまずくないか?」
「ヤクザと芸能界の癒着ってな。それはあとで考えよう。ほどけないぞ」
「俺もさっきからやってるんだが、あいつら、どんな縛り方をしやがったんだ」
「足も届かない。口も届かない。シンちゃん、全力と気合でぶち切れ」
「無茶言うな」
 どれだけあがいても、手首のいましめがとけない。ひたすら努力してもどうにもならないでいると、ドアのチャイムが鳴った。
「あいつらか」
「ほどきに来て……くれないよな。気が変わったのか。どうするつもりだろ」
「なんだっていい。おまえらが鍵をかけずに出ていったんだろ。開いてるぞ!」
 本橋が怒鳴ると、ドアが開いてきょとんとした顔が覗いた。本橋と俺は同時に叫んだ。
「シゲ!!」
 地獄に仏とはこのことだ。強盗?!  警察?! 焦りまくっているシゲに、俺たちはまたも同時に叫んだ。
「これをほどけっ!!」
はいっ、と大声で返事をしたシゲが部屋に駆け込んできて、鋏でネクタイを切り、俺たちを解放してくれた。ほーっと息を吐いて本橋とふたりしてへたり込み、しばし呼吸を整えてから言った。
「本橋、おまえがなにをしにきたのかもわかったよ」
 考えすぎだと言ったものの、本橋も俺と同様の危惧を抱いたのだろう。だからこそやってきて、危惧が本当になった。ネクタイが食い込んでいた手首をさすりつつ、シゲにざっと事情を語り終えると、俺は再び言った。
「なあ、シゲ、おまえはどう思う?」
「乾さんの推理が当たってますよ。そうでしょ、リーダー?」
「深く考えて行動を起こしたんじゃない。何度言わせる。俺は乾とはちがうんだ。なにかやる前に頭をひねりすぎるとわけがわからなくなる」
 が、シゲは真面目に言った。
「さすがにリーダーですよね。俺、これからもリーダーについていきますから」
「シゲ、やめとけ。照れ隠しに殴られるぞ」
「それは勘弁してほしい。しかし、本橋さんも乾さんも大丈夫ですか? 警察は呼ばなくていいんですか」
「被害はこれだけだ」
 手首をかかげてみせると、シゲは困惑顔になった。
「いいのかなぁ。そいつら、もうこれ以上はなにもしませんか」
「しないと思うよ。本橋の男気にほだされて、あいつらも惚れたんだってさ。ヤクザの琴線をもふるわせる、さすがだなぁ、うちのリーダーは」
「乾さん、危険ですよ」
「おっとっと」
 たっちゃんが弟分を殴ったのと較べれば、俺のは暴力ではない、と本橋が言い張るげんこつは、たしかに柔弱なものに思える。本橋が上げたこぶしは宙を切り、そのまま本橋は寝そべった。
「シゲはなにしに来たんだ?」
「暇だったし、友達にもらったこれをぶらさげて、遊びにきただけです」
 ウイスキーのボトルが、シゲが投げ出した格好で横たわっていた。
「シゲ、助かったよ。おまえが来てくれなかったら、俺たちはあの姿のままでいて、数日後に発見するのはシゲだか幸生だか章だかミエちゃんだか知らないが、そのときには哀れ、餓死していたかもしれない。おまえのおかげで生きていられた。ありがとう」
「乾さんもこんなときによく、そういうことが言えるもんだ。俺は感動しますよ」
「シゲ、乾もだ。その三人には言うな」
 天井を眺めていた本橋が言った。
「こんな話はあいつらにはしなくていい」
「そうだな。じいさんになって、それでもまだ俺たちが仲間だったら、そのときにしてやろうか。俺としては幸生と章はともかく、ミエちゃんの意見だけは聞きたいんだけど、リーダー命令だしな、シゲ」
「わかりました」
 口が堅いという意味ではシゲはうちではナンバーワンだろう。俺は話したい気もするのだが、本橋が照れて怒るのは必至なのでやめておこうと決めた。
「俺もうまく言えないけど……」
 ややあって、シゲがぼそっと言った。
「ヤクザさんたちの気持ちもわかるなぁ。いえ、そういう奴らの考えなんかわからないんですけど、そのときの気持ちはわかる気がするんです。なんたって本橋さんの……」
 しつこいんだ、おまえは、と本橋の回し蹴りが飛んできたのを悠々とかわして、シゲは言った。
「やっぱりリーダーは本橋さんですよね」
「そうさ。俺はナンバーツーがいいんだ。ふむ、そうするとさしづめ、俺は土方歳三だな。悪くないね」
「じゃあ、俺は沖田総司か。いいかも」
「よくない。沖田総司は肺結核で若死にするんだぞ」
「そうでした。よくないですね」
「俺は軟弱だから、戦死はしないよ。シンちゃんは……末は斬首……そこまで考えるのはやめよう」
「だったら、俺は沖田総司でいいでしょう」
 そして、おまえは誰なのか、俺たちがなんといいたいのか、知ってるんだろ? とシゲとふたりで顔を見ようとすると、本橋は両手で両方の顔を押しのけ、ちょっと寝る、とことわって横を向いた。
「おーい、本橋のおじちゃん、寝たか」
 返事はなかったが、俺は言った。
「象さんがおばあちゃんちにいるって言うのは、ぬいぐるみだよ、たぶん」
「……ぬいぐるみか、そっか」
 寝てはいなかったらしく、本橋はそう応じた。
「おじちゃん?」
「シゲ、気にすんな。おまえは武道の心得はあるのか?」
「少年野球はやってましたけど、武道はありません」
 あの場にシゲがいたら、幸生が、章がいたら、そんな無意味な想像をして、あれやこれやとストーリィを作っている俺を見て、シゲは不思議そうにしていた。
「こんな歌知ってるか、シゲ? 前後は忘れたんだけど……」
 そんなおまえがとてもとてもとても……歌詞にはないけれど、好きだよ、と歌ってるのは、男から女への恋心。俺たちは男と男だけど、本橋、俺はそんなおまえがとてもとてもとても……なんだよ。恋心じゃないから心配しなくていい、とは言うまでもないけれど。
「ここでその歌にどんな意味が?」
「意味はなし。歌いたくなっただけだ」
「そうですか、子守唄ですか。本橋さん、お疲れさま、乾さんもですね」
「ありがとう。シゲ、愛してるよ」
「……乾さん、それだけはやめて下さい。幸生じゃあるまいし」
「だって、愛してるんだもーん、シゲさん、ってか?」
 声を上げて笑ったら、乾さんのテンションが変ですよ、とシゲが本橋に言った。毎度のことだろ、ほっとけ、と本橋は言い捨てて寝息を立てはじめた。
 本当にあれだけですんだのか、と軽く心配してはいたのだが、翌日からしばらく地方に行き、帰ってみたら隣室は空き部屋になっていた。奈々ちゃんもマキさんも、たっちゃんも彼の仲間たちも、消え失せてしまった。
 もしかしたらどこかの空の下で、たっちゃんは俺たちの歌を耳にしているだろうか。奈々ちゃんも成長したら歌を聴いて、乾のおにいちゃんと本橋のおじちゃん? となつかしんでくれたり、しないかな。
 センチメンタルにすぎる想像をして、俺は苦笑するしかない。奈々ちゃんに歌を聴いてもらうためには、もっともっとがんばらなくっちゃね。乾のおにいちゃんも本橋のおじちゃんも、奈々ちゃんのためにもがんばって歌うよ。
 マキさんもこれからは奈々ちゃんを大切にしてやってほしい。奈々ちゃん、幸せに。大好きなママと幸せに。そんなクサイ台詞を、俺は心の中でそっと呟いた。

  
 この絶大なる自信が、いつの日か本橋の身を滅ぼす。こんなシーンを見るたび、俺は危ぶんでいた。ヤクザが相手でもああなんだから、いや、あの際は態度が異なってはいたが、ごく当たり前のごく普通の男なんぞに、俺が負けるはずはない、と本橋は過信している。
 現在までのところはその考えがまちがっていなかったのが悪い。悪いと言っても、たしかに本橋は喧嘩に強いのだからどうしようもない。彼と知り合って以来、こんなシーンをたびたび目にしては、毎回同じように考えた。
「乾、来るな」
 だからさ、リーダーだからってなんでもひとりで引き受けようとするなよ、と俺は言いたい。俺はおまえの中では今でもへなちょこ野郎で、腕力では役に立たない男なんだろうけど、そのかわりに口という武器があるんだから。おまえはてめえの口を過信するな、と先輩には何度か叱られたけど、喧嘩のテクニックを過信している男と、口を過信している男が協力して、こんな場面も幾度か切り抜けてきたんだから。
「乾さん、止めて下さいよ」
 乾さんに無理ならば俺が、の構えを見せてシゲが言い、あちゃー、困ったね、と幸生は言い、章はシゲと俺を交互に見ている。本橋はふたりの男と睨み合いの真っ最中だ。こうなった理由はまったく知らないが、放っておいていいはずがない。
「乾、来るな。おまえらは引っ込んでろ」
 そう言われても引っ込んではいられないので、後輩たちを制して進み出た。
「二対二だったらアンフェアではありませんよね。微力ながら俺も参加させていただきます。どうぞ」
「なんだよ、おまえは。止めに入ってきたんじゃねえのか」
「早くも止めてほしいの?」
「……止められると腹は立つけど、なにしろ俺たちは……」
「そうでしょう? この仕事に就いてからというもの、俺は何度言ったかなぁ。先日はおまえも自覚してたじゃないか。なのに元の木阿弥? なんて言ったらいけないね。おまえが悪いはずはない。本橋真次郎は正義の味方なんだから、ここでこうしているのは、彼らにこそ原因があるからだ。俺はそう信じる。確信を持って言い切る。やりますか? それでもやりますか? 言っておきますけど、彼は空手家の兄さんたちに子供のころから鍛えに鍛え上げられて、喧嘩に負けた経験はただの一度もないんですよ。俺が割って入ったのは、彼を適度なあたりで制御するために他なりません。それでもいいのでしたらおやり下さい」
 どうぞ、と一歩下がると、相手の男たちは明らかに怯んだ。本橋は隙すらないポーズで身構えている。その目には猛禽類の輝きが宿っている。男たちは今しも飛びかかりたそうなポーズでいたのだが、じりじりと後ずさりしていた。
「喧嘩なんかしないのが賢明なのは、あなた方も重々承知しておられますよね。けれど、男にはプライドがある。俺だって男なんだからその気持ちはわかりますよ。引っ込みがつかなくなってるんですよね。でも、よーく考えてみて下さい。一時の感情にまかせて喧嘩をする。そのときには気分も昂揚しているでしょうけど、喧嘩のあとはどうですか? 身体中が痛む。悪くしたら入院という事態だって考えられる。さらに別方面から考えれば、警察沙汰になって社会的な汚名を着る可能性もある。喧嘩に勝ったという達成感はあなたたちには与えられず、悪い方面の可能性ばかりが考えられるんですよ。それについては俺が保証します。それでもやるんですか。やるんだったら止めませんよ。どうぞ」
 じりじりっと後ずさっていた男たちの後退が、徐々に速度を増していっているように見える。うしろで幸生が聞こえよがしの声を上げた。
「救急車を呼んでおきましょうか。もちろん、そっちのお兄さんたちのためにね。本橋さーん、ケータイ貸して下さい」
「あ、俺、持ってるよ。おまえは持ってきてないのか」
「忘れてきちゃった。お、サンキュ」
 章も乗ってきて、幸生に携帯電話を手渡した。幸生がケータイを操りはじめ、シゲは視線で言っていた、もう一息、乾さん、しっかり、と読めた。
「救急車に待機してもらっての喧嘩か。ニュースになりそうだなぁ。本橋、おまえもちょっとくらいだったら怪我をしても大丈夫だよ」
「俺が怪我なんかするかよ」
「そうだったね。ご無礼を申し上げました。おまえほど喧嘩の強い男って見たことないもんな。なあ、幸生、そうだろ?」
「はい。本橋さんは喧嘩の達人ですから」
 そこで一拍置いて、幸生は女の声としか聞こえない声を張り上げた。
「じきに救急車が到着しますよーっ。瀕死の重傷を負っても手当てしてもらえますよーっ。きゃーっ、シンちゃん、かっこいいーっ!!」
 まだなんにもやってねえだろうが、と本橋はぼやきつつ、目にいっそうの剣呑な輝きを込めて男たちをねめつけた。男たちは幸生の声に頭が混乱したのもあったのか、ついに駆け足になって逃げ出した。
「……あれって乾さんの台詞を信じたのかな」
 ぼそっと章が言い、はーっとシゲは大きく息を吐き、幸生は言った。
「やっぱ俺には無理かも。あそこまでべらべらとは口が回りませんよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ、章。乾さんったら、今日は止めないで参加するのかってびっくりしたんだけど、ああいう思惑があったんですね。感服つかまつりました」
「勝手に口が動いたんだよ。で、本橋、ああなった原因は?」
「知らないよな。誰も知らないよな。乾だって知らなかったんだろ。いなかったんだもんな。なのにどうしてああなるんだ?」
「ああなるって?」
「俺が悪いはずはないとか、俺は正義の味方だとか……」
「信じてるからだよ。俺はいつだって正義の味方の味方だからだ」
 お先に、と本橋がスタジオから出ていったのは知っている。デートかな? 急いでるんだな、と後輩たちと言い合って、俺たちもぶらぶら歩いて公園にやってきた。そうしたら、たった今のシーンと遭遇したのだ。五人になって歩き出しながら、本橋が話してくれた。
「たいしたことではないんだ。今の奴らは酔ってたんだろ。胴間声を張り上げて、なにやら騒いでた。なにをしてるのかと見てみたら、ほれ、そこに」
 そこ、と本橋が指さしたあたりには、花壇があった。花壇のサルビアが踏みにじられているのを目の端にとらえてはいたのだが、喧嘩とは無関係だろうと思っていた。
「ガキじゃあるまいし、花壇を荒らすな、とな、でな……ああなったわけさ」
「おまえが花に意識を留めるとは前代未聞だけど、そんな気分になるときもあるよな」
「そしたらやっぱりあいつらが悪いんじゃん。ねえねえ、乾さん、あれ、なんていう花?」
 尋ねた幸生は、章は知ってる? シゲさんは、リーダーは? と他の三人にも質問を向けた。知らないよ、と三人ともが答え、俺は言った。
「歌にもあるだろ。色鮮やかに夏を彩るちいさな花。今ごろにも名残の花が咲いてる。寿命は長いんだな。道端や公園に咲く名もない花だとおまえたちは認識してるんだろうけど、名前はあるんだよ。さして華やかな花ではないけど、色はくっきりしてるだろ。これで幸生にはわかるかな」
 いつもいつも思ってた、なんとかの花を、と歌ってみせると、あなたの部屋の中に投げ入れたくて……と幸生が続いて歌い、そのくせ首をかしげた。
「チューリップ?」
「おまえは花というとチューリップか。チューリップは春の花だよ」
「チューリップ以外の花? 薔薇、桜……他は思い当たらない」
「男は花の名前なんか知らなくてもいいんだよ」
 十八番の台詞を出す本橋に、詞を書くには薔薇さえ知ってりゃいいって? と言い返そうとしていたら、シゲが歌い出した。
「そんなおまえがとてもとてもとてもー。乾さん、続きは?」
「こういう歌詞もあったな」

「やや小さめのエクレアと
 アップルパイを買いました
 二十四歳の男が
 お菓子の箱を持てたのも
 きっと誰かのおかげだよ
 そんなおまえがとてもとてもとても……」

 知ってる? 知らないよ、と幸生と章が言っている。シゲも首をひねった。
「二十四歳の男は、お菓子の箱を持ってはいけないんですか」
「ちょうどおまえの年齢だな、シゲ。そういう時代だったんだろ。二十四にもなった男はケーキなんか食ったら恥ずかしい、ってさ」
「ふーん。どうせ俺は食わないからいいんですけどね」
「俺もケーキは嫌いだけど、アップルパイでもエクレアでも、チーズケーキでも大福餅でも、食いたかったら食ったらいいじゃん。箱を持つのも恥ずかしいって、古い時代は窮屈だね」
「幸生、おまえ、ケーキの名前だったら知ってるんだ」
 章が笑って言い、幸生も言った。
「ケーキだったらわからなくもないよ。女の子ってケーキ好きだもんな」
「彼女に連れていかれて食わされたとか?」
「そんなこともあったねぇ。砂を噛むほど味気なくはないけど、ケーキって甘くてべったべったしてて、なんでこんなものがうまいんだ。女はなんでこんなものに情熱を燃やすんだ、ってね。話がそれまくってますね。シゲさん、その歌にはどんな意味が?」
「知らないよ」
「シゲさんが歌いはじめたくせに。乾さんは?」
「古いフォークソングだろ。ばあちゃんに昔教わって、歌詞の一部を思い出したんだよ」
「ばあちゃん? ケーキやら花やらから、果てはばあちゃんか。すっげえむずかしい。そんで乾さん、この花の名は?」
「猿がビールを飲んでるんだ」
「猿が……ビール?」
 うっきゃあーっ、と幸生はまさしく猿のごとき声を上げ、章が言う。猿ビールって花の名前? シゲは匙を投げた様子で、本橋は言った。
「ビールモンキーか。変な名前の花だな」
「逆を英語にしてみろよ」
「ビアザル? ビア樽みたいじゃん。ちがうの? モンキービア? 猿ビア、なにそれ?」
「幸生、正解、サルビアだ」
 そんな花の名前なんか知らない、と四人そろって断言した。
 知らなくてもいいんだけどさ、そんなおまえが、そんなおまえたちが俺は、とてもとてもとてもー、なんだよ、と言うと、意味を察しているシゲはにっこりとうなずき、もうひとり察しているはずの奴は苦い顔になり、なにも知らない年下のふたりは、なおも首をひねり続けていた。

END


 
 
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~ Comment ~

女を殴ってはいけない

↑これは・・・なんか、乾くんの家庭環境の歪みが垣間見えてきつかった・・・。加えて、ネグレクト! そういう子どもに対する虐待って、fateなんてもっとひどいことを描いているくせに、ちょっと苦しい。

過去から現在までを一気に駆け抜けた回でしたね。
しかし、さすが、リーダー、さすが真ちゃん!!
ものすごく分かります。
何も考えてない、考える間なんてなかった、その一瞬で、だけど、彼は彼であることの真髄に命令されて、まったく意図せずにとった言動だったんでしょう。
そういうざっくりさ加減も、仲間を決して見捨てないという信念のようなものも、グループをまとめあげる人間たる器っすね!
そういうリーダーが日本に欲しいよ。

そして、はい。
乾くんはサブですね。確実に。
すごい、素晴らしいメンバーの配置で、このグループは成り立っていることを今更ながらに感じました。
静かに寡黙で、だけど頼りになるシゲさん。
そして、幸夫くんと章くん。
そして、それを支える紅一点、美江子さんの存在感。

それぞれ、その場にいなくても、いつでも皆一緒にいる感じが素敵です。

新緑のテンプレに、なんだか、心も清々しい気分っす~(^^)

fateさんへ

学生時代から二十五歳まで、詰め込みすぎて無駄に長くてすみません。

乾くんはちょっと変わった家庭で育ったのですけど、おばあちゃんがいましたからね。
子どもには誰かひとり、自分にあふれるほどの愛を注いでくれるひとがいれば、まっすぐに育つと聞いたことがありますが。
でもでも、その子の生まれつきの性格ってのもありますから、どんなふうな環境でも、どう育つかは謎だなぁとも思います。

こうやって出てきたキャラの将来というのを書くのも好きでして、この奈々ちゃんは、fateさんも読んで下さったしりとり小説、「お帰りなさい」のあの奈々です。
彼女もちょこっと変わり者かもしれないけど、ちゃんと育ちましたのでご安心を、かな?

まとまりのよくないこんなストーリィも、深く考察して下さってとっても嬉しいです。
近頃は三十代になった彼らばっかり書いていて、変な奴がいっぱい出てきてますので、このころのほうがまともだったかな、と思わなくもなく。

「俺にも注目して下さったんですよね。
嬉しいなぁ。恥ずかしいなぁ。
いやぁ、テレテレテレテレ……」

とシゲが赤面しております。

NoTitle



























やっぱり乾くんが一番かな?
それにしても子供らしい感じがないというか、
親にさん付けでよばれるっていうのは、辛いですね。
おばあちゃんがいて良かった。

乾くんの品の良さって好きです。
年上キラー的な感じがするのは私だけでしょうか??
私が自分の子供の友達として乾くんがきたら、
なんでもごちそうしてしまいそうですw







ハルさんへ

いつもありがとうございます。
コメントの上のほうがずーっと白くブランクになっているのは、なにか意味があるんでしょうか?

乾くんは年上キラー、かな?
小さな女の子から少女、若い女性、お姉さんからおばさんからおばあさんにまでもてる、って感じで書いてますが、なんでこいつがもてるんだ? と読んで下さる方は思われるのではないかと不安だったりもします。

ちょっと変わった家庭で育ったから、ちょっとゆがんでいて、おばあちゃんの影響受けまくりっていうのはあります。彼はグランドマザコンなんですよね。

ハルさんが乾くんの友達のママだったら……それ、いいですね。ぜひ、本橋くんのママ役をして下さい。
って、どうやってやるんでしょうね(^^
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