グラブダブドリブ

グラブダブドリブ「SAYONARA」

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グラブダブドリブ

「SAYONARA」

1・悠介

 その年で初恋? はじめて女の子とつきあうの? 嘘だよぉ、と言われそうで、悠介はごくシンプルに、菜摘に想いのたけを打ち明けた。
「好きだ。つきあってくれ」
「……私と?」
「そうだよ」
 びっくりしたような顔をしていたものの、菜摘は笑み崩れ、悠介の手を取って、うん、いいよ、つきあおうよ、と言った。
 それからは、時間さえあれば菜摘と悠介は喋っている。高校二年生になって同じクラスになった菜摘は、去年も彼氏はいたんだけどね、と言っていたが、悠介は女の子と話すということが新鮮で、こんなに会話のテンポがいいとは、それだけでも菜摘を選んで正解だったと感じていた。
「中根くんって日本人ではない顔をしてるなとは思ってたんだ。ヨーロッパ人種との混血かと思ってたよ」
「フィリピンだよ」
「中根くんのお父さんが、フィリピンから来た女のひとと結婚したってわけ?」
「そうじゃなくて、親父が仕事でフィリピンに行って、現地の女とつきあって孕ませたんだ」
 淡々と語る悠介を、菜摘は目を丸くして見ていた。
「五歳のときまでは俺はおふくろと、おふくろの一族の中で育った。親父はおふくろのことを現地妻程度にしか思ってなくて、帰国したらただちに忘れちまったんだろ。おふくろのほうは親父を愛していたのかもしれない。愚かな女だよな」
「中根くん、そう言ってるわりには目が優しいよ」
「そうか? んでさ、腹の中にいた赤ん坊を産んで、ユウスケなんて名前をつけて、可愛がってくれたよ。五歳までしか一緒に暮らしてなかったけど、記憶の中にはおふくろがいるんだ」
 痩せて引き締まった身体をした、幼児の目には大きく見える母だった。五歳まではその只中で育ったのだから、悠介は家族が使っていたフィリピンの言葉をしっかり覚えている。
「五歳で日本に来たっていうのは?」
「親父が死んだんだよ。それで、親父の落としだねである悠介を引き取って、家と事業を継がせようと画策したんだ」
「誰が?」
「じいさんとばあさん」
 記憶の中の悠介は、泣いて抵抗していた。地団太を踏んで泣きわめく悠介を、母はどうやってなだめたのか。ただ、母の優しい声と、甘い香りに包まれていたことだけを記憶にとどめていた。
「五歳のガキなんだから、抵抗したって無駄だよな。どうしようもなくて日本に連れてこられて、じいさんとばあさんの家で暮らしはじめたんだ」
「その顔は、おじいさんとおばあさんが好きじゃなかったんだね」
「大嫌いだよ」
「今でも?」
「ますます大嫌いだ」
 だが、あからさまに反抗はしない。高校を卒業するまでは祖父母を金づるとして、卒業したら後足で砂をかけて出奔する心積もりでいるのだから、その準備も着々と進めているのだから。
「じゃあ、日本に来て後悔してる?」
「後悔はしてないよ。ギターが弾けるようになったんだもんな」
「私は……中根くんが日本に来てくれてよかったな」
「菜摘と知り合えたからか? 俺たちは恋人同士になったんだろ。悠介って呼べよ」
「悠介、きゃっ」
 照れている菜摘の顔は最高に可愛かった。


 それから約一年、春休みの前に、菜摘が言った。
「お父さん、転勤が決まったの。私は東京に残って、東京の大学に行きたいって言ったんだけど、女の子をひとりで残してなんかいけないって……」
「そっか」
「そっかだけ? 悠介は寂しくないの?」
「寂しいって言って、だからって俺になにができるんだよ」
「……つめたいね」
 つめたいのだろうか。ならば、どうすれば熱く見えるのだろうか。
 五歳児ではないのだから、十七歳なのだから、家を出たって生きてはいける。悠介は一年もしたら、祖父母の家を出て独立する準備を進めている。だが、それはひとりで出ていくという前提があってこそ可能なのだ。
 衝動的な激情にまかせて菜摘とふたりして、家出してなんになる。十七歳のカップルの行く末は目に見えているではないか。
「おまえは親についていくしかないだろうな。大学は東京に出てこられるように、一年がかりで親を説得しろよ」
「悠介は寂しくないの?」
 涙の溜まった目で悠介を睨み上げ、菜摘は背中を向けた。
 祖父母の家に帰り、勉強しているふりをしながら悠介は考える。広げた数学のノートに、手はひたむきに楽譜を綴っていた。
「……今の俺の心境は……マイナーコードのさよならの歌だよ。これって失恋なのか? 高校生にはかけおちもできないから、どうしようもないのはまちがいないけど、このまんま別れていいのか?」
 ならば最後に……。
 最後だとは考えたくないが、夢や希望をまじえなかったら最後だろう。一年後に再会できたとしても、ふたりの心が同じ状態だとは限らない。ならば、最後に……。
「菜摘、旅行しよう」
「……いいよ」
 気持ちは通じて、菜摘はうなずいてくれた。最初で最後のふたり旅。海の見えるホテルではじめてふたりきりですごした夜と朝。悠介の初恋と初失恋は、十数年後にも数学のノートに楽譜となって残っていた。


2・ジェイミー

 パーソン家の子どもたちのイニシャルは、全員がJだ。
 上からジュリア、ジェーン、ジェイミー、ジャニス、ジョリーン。どういう意味があるのかは知らないが、日本語表記にすると全員の頭の文字は「ジ」だ。
 長男であり、唯一の男児であるジェイミーが大学生になるころには、昔は家族そろって世界中を移動していた家族が離れ離れになった。
 両親はイギリスにいる。長姉のジュリアは音楽留学のためにフランスのパリに、次姉のジェーンも音楽留学のためにドイツの古都、アウグスブルグに、上の妹のジャニスは音楽ではない留学でアメリカはカリフォルニアに、下の妹のジョリーンは両親とともにイギリスに。
 そしてジェイミーは、子どものころの数年をすごして空気が合うと決めた日本は東京の、芸術大学の声楽科に籍を置いていた。
「音楽をやってる人間は耳がいいんだから、日本語だってカンペキでしょ」
「そうね。ジェイミーは見た目はどうしたって欧米人だけど、目を閉じて話してるのを聞いていれば日本人だと思うわ」
「この胸毛は?」
「きゃ、くすぐったいっ」
 少女のような声を出す彼女が愛しくて、強く抱きしめて胸毛に彼女の顔を埋めさせた。
 クラシック音楽家の両親のもとに生まれたのだから、親としても当然のように四人の子どもたちに音楽をやらせた。娘たちは楽器で、息子は声楽。
 子どものころには少年合唱団に入っていたジェイミーは、十二歳くらいからはオペラの道に進もうとしていた。アメリカの音楽学校でもオペラを学び、日本の大学でもオペラを専攻している。専門は声楽で、趣味として指揮の方面にも食指を伸ばしていた。
「あなたは指揮者になりたいわけではないの?」
「なりたいわけではないな。俺は近頃はクラシックよりもロックのほうが面白いと思うようになってきてるから、オペラもそのうちには捨てるかもしれないよ」
「まっ!!」
 むこうから話しかけてきて、ジェイミーの応えに柳眉を逆立てたのが、繭子だった。
「繭子さんって、大学の先生?」
「はい。和声論のほうのね」
 和声といえばジェイミーも得意なので、それからは繭子と議論を戦わせるようになり、最終的には言わせた。
「知識は私のほうが上よ。経験だって実践だって私のほうがはるかに上。日本語も私のほうが上のはずなのに、どうしてあなたには議論で勝てないの?」
「それはね、こういうことさ」
「どういうこと?」
 あのときは大学のキャンパスのベンチで話していて、日が暮れてしまうのをふたりともに意識していなかった。真っ暗になってしまって、周囲にいた学生たちも帰ってしまい、ふたりきりになっているのを先にジェイミーが気づき、繭子を抱きしめた。
「俺はあなたが好きだよ。あなたもだろ」
「私は結婚してるって言ったでしょ」
「俺は独身だけどさ、どうだっていいから……」
「遊び?」
「いいからさ」
 馬鹿力にものを言わせて繭子を強く強く抱き、キスをした。
 年齢にしても繭子のほうが十ほど年上だろう。お堅い大学関係者なのだから、学生と教授がどうこうは確実にスキャンダルになる。繭子は気にしている様子だが、ジェイミーとしては平気だ。
 クラシック音楽を嫌いになったわけではない。オペラだって好きだから、きちんと卒業はしたほうがいいと思う。けれど、スキャンダルが明るみに出て退校になったってかまわない。両親も姉たちも妹たちも怒るだろうが、致し方ない。
「だけど、俺はいいけどさ……」
 問題は繭子だよな、と、深みにはまりつつある今は思う。
 三十歳をすぎたばかりの女ざかり。すこしふっくら気味のボディはやわらかくあたたかく、豊満に熟れている。ジェイミーの大きなてのひらにも余るほどの乳房には悩殺されてしまう。
 この年齢で教授なのだから、天才なのかもしれない。繭子も指揮者を目指していたのだそうだが、女性にはことのほか困難な分野であり、挫折しかけていたころに出会ったアマチュアチェリストにプロポーズされて結婚したのだそうだ。
「彼は本業はサラリーマン。私よりもすこし年下。私のことは尊敬してるって言ってくれてるわ。繭子さんみたいなひとが僕と結婚してくれて……って、いまだに感激したまなざしで私を見るの。彼は私を疑ってもいない。だから心苦しくて……」
 言いかけた繭子のくちびるをキスでふさぎ、抱き上げてベッドに降ろして覆いかぶさった、そんな夜をいくつもすごした。
 年上の美人との恋のゲーム。そのつもりだったはずだ。繭子だってイギリス人の金髪美青年とのひとときのたわむれのつもりだったはずだ。なのにどんどん気持ちがのめり込んでいく。揶揄の色がほの見えていた繭子のまなざしにも熱さが増してくる。
「このまんまでは、俺はいいけど……」
 彼女のためだ、と自分に言い聞かせて、ジェイミーは逃げた。


「ジェイミー、なんだか愁いありげね」
 ロンドンの中心部からやや離れた住宅街に、両親が借りている大きな家。爽やかな晴天の午前に、ジェイミーが庭の芝生に寝そべっていると、妹のジョリーンの声がした。
「うん、憂愁の美青年って絵になるだろ。日本語では「ユウシュウ」ってのにはいろんな意味があってさ……」
「自分で美青年だとか言わなくていいの。言わなくてもジェイミーは美青年なんだから」
「美青年のほうじゃなくて、ユウシュウのほう……」
「それもどうでもいいの」
「うん、ジョリーン、おまえも美少女だよ」
「それもどうでもいいからね」
 教授と和声論について話していても負けはしないのに、ジョリーンと話しているとたじたじする。女には負けたほうがいいんだろうな、が、姉と妹に囲まれて育ったジェイミーの実感だった。
「恋の悩みなんだけどさ、高校生にはまだ早いか」
「私だって恋はしてるよ」
「もてるんだろうな」
「当然じゃない」
「うん、当然だ。俺の妹だもんな」
「ジェイミーだってもてるでしょ?」
「ってのかねぇ……」
 上辺だけの軽い軽い話題のようでいて、妹には見透かされている気がする。パーソン家の全員に共通しているブルシアンブルーの大きな瞳が、ジェイミーの内心を映しているように見えた。
「俺、ロックがやりたくってさ」
「やればいいんじゃない?」
「父さんや母さんは反対しないかな」
「反対したとしたらやらないの? その程度だったらやめておいたらいいんじゃない?」
「オペラも極めたいんだけどな」
「両方、やればいいじゃない」
 簡単に言ってくれるものだ、とジェイミーは苦笑した。
「やりたいことはやったらいいよって、父さんも母さんも言ってくれるよ。私はどこの大学に行こうかな。いろいろいっぱいやりたいことがあって、将来を考えるのも楽しいの」
「……若いっていいね」
「大学生にもなったらもう若くないのか。ジェイミーみたいにはなりたくないな」
「うん、そうだな」
 その夜、ジェイミーは手紙を書いた。

「拝啓
 こちらイギリスは若葉の候に候。繭子先生にはご健勝のこととお慶び申し上げます。

 今どき、日本人でもこんな手紙は書かないでしょうけど、俺は書いてみたいで候。
 いや、なんか変ですよね。自分で書いてて変なのはわかりますよ。俺は日本語で喋るのは大の得意だけど、こういった正式な手紙文はむずかしいで候。

 一年ほど大学を休学して、旅に出ます候。
 オペラも極めてロックもやりたい、そのためには体力が必要ですから、貧乏旅をして基礎体力を養いますで候。
 繭子先生もお元気でお過ごし下さいませ候。

 敬具」

 毛筆で水茎のあとも麗しく、とやりたかったのだが、そこまでは無理だろうからペンで綴った。
 「繭子、俺なんか忘れて幸せになれよで候」と書きたかったのは我慢した。万が一、彼女の夫の目に触れてはならないから。まったく、ムシのいい手紙だ。繭子がこれを読んで鼻で笑いながらも、行間にある俺の願いを読み取ってくれれば。
 そのくせ、繭子が傷ついてくれればいいともジェイミーは願う。泣いてほしいとも願う。かといって追ってこられても困るのだから、ムシがいい、ここにきわまれりではあった。


3・ボビー

 ミュージシャンとしては、ライヴハウスの客と恋をするのはありふれた話だ。しかし、俺は恋をしているのか? ボビーとしては疑問でもあった。
 父の妹が日本人と結婚しているから、父が黒人で母が白人という夫婦は、アメリカでは生きづらいから、さまざまな理由があって、ボビーの両親はふたりの息子とふたりの娘を連れて日本に渡ってきたのだと聞いている。
 オーツ夫妻は苦労したあげく、横浜でアメリカ料理のレストランを開いた。
 幼いころから日本育ちなのだから、ボビーは日本語はきわめて達者だ。兄も姉もボビーも両親もバイリンガルといっていいだろうが、日本に来たときには幼すぎた妹は、英語は不得手のようでもある。
「俺はレストランで働きたくはないな」
 高校生だったボビーがそう言うと、父は言った。
「兄さんと姉さんはうちのレストランを継いでくれると言ってる。ふたりが後継者になってくれたら十分だよ。おまえとローラは好きな道に進めばいい。ボビーの好きなことは音楽か?」
「音楽は勉強するものでもない気がするけど、大学には行きたいな」
「ああ、行けばいいよ」
 兄と姉は、親のレストランで働くのに学歴はいらないと言って大学には進学しなかった。本音を言えば、それほど勉強が好きなわけでもないのだから、金のかかる進学はしなくてもいいといったところだったのだろう。
 レストランが繁盛して収入にも余裕ができたのと、ボビーは高校の成績もよかったのとで、親も兄姉も進学を勧めてくれる。
 ま、とりあえずは大学に行くか、大学で将来を考えればいい、俺は三番目の子でよかったな、気楽でいいよな、程度の気分で、ボビーは東京の大学の国際学部に入学した。俺は日本人じゃないから、インターナショナルな学部がいいかな、と思ったからだ。
 なにもかもが気軽な気分で入学した大学で、井上洋一と知り合った。
 百八十五センチあるボビーよりは二十センチは背が低いだろう。体重も二十キロ以上は少ないと思える。おまえ、虚弱体質? と尋ねたくなりそうな顔色と体格をしていた。
「リズム感いいよね」
 学校のキャンパスの芝生でホットドッグを食べていると、洋一が唐突に話しかけてきた。
「リズム感? なんで? 黒人だから?」
「黒人だからってのは意識してなかったけど、きみはよくここにすわって、鼻歌を歌いながらスィングしてるだろ。地面を叩いたりもしてる。音楽を聴いてるようでもないのにさ」
「頭の中には架空のメロディが流れてるんだ。それに合わせて身体を揺すってるんだな」
「音楽、好きだよね?」
「もちろん」
 同じ学年には見えない、高校生だといわれてもうなずけそうな洋一の音楽の趣味を話してくれた。
「クラフトワークにヒューマン・リーグ、ゲイリー・ニューマンか」
「それからブライアン・イーノ」
「二十世紀の音楽だな」
「ボビーはテクノは嫌い?」
「けっこう好きだよ」
「僕は作曲もするんだ。僕は歌いたいんだけど、ボビーはシンセサイザーは演奏できる?」
「高校の情報機器室になぜだか置いてあったから、いじってはみたよ」
 ほぉ、才能あるな、と教師に言われたことはある。シンセサイザーには興味があったのだが、なにしろ高価なものだから、購買にまでは至っていなかった。
「僕の父さんは楽器ってものが好きで、新しいものや珍しいものは買うんだ。買ってはみても手に負えないと放り出す。そうやって投げ出したヴァイオリンやらチューバやら、シンセもうちにあるんだよ。ボビー、弾いてみて。僕が作曲した曲をボビーがシンセで演奏して、僕が歌うっていいだろ」
「洋一の歌は聴いてみたいよ」
 それ以上にシンセサイザーに興味津々で、ボビーは洋一の自宅へついていった。
 そんないきさつで知り合った洋一とは、次第に親しみを深めていった。洋一はなかなかにいい曲を書く。歌詞は意味不明なものが多いのだが、中性的な声で感情のこもらない歌をうたうのは、テクノ系の曲やアブストラクトみたいな歌詞には似合っていた。
「一緒にやろうか」
「ユニット名はボビー&洋一?」
「ボビー&ヨウとか」
 洋一の父親は楽器好きなだけではなく、音楽業界には顔がきく。息子と息子の友達のために、ライヴハウスで演奏できるように手はずをつけてくれた。
 テクノポップなんてものは古い時代の音楽ではあるが、それがむしろ新鮮だと言うひともいて、ファンも少々ならついた。洋一でさえも女の子に騒がれるのだから、ボビーはかなりもてて、同じ大学の者にはイヤミを言われたりもした。
 よく仕事をさせてもらうライヴハウス、「ミントリーフ」の客でもあり、ボビーがアルバイトをしている宅配ピザショップの客でもある陶子と知り合い、なんとなくつきあうようになったのは、どうしてだったのかはわからない。
「陶子ちゃん、可愛いよね。ボビーもとうとうひとりの彼女に絞ったんだ」
「そんな言い方したら、俺が遊び人みたいだろ」
「ボビーは遊び人って感じでもないけど、もてるじゃん」
「もてないわけでもないんだけどね」
 恋というものはしたことはある。中学生のときにも高校生のときにも、日本人の女の子とつきあっていた。中学生のときには淡く、高校生のときにはすこし濃くなった恋愛は、相手をとてもとても好きだと感じていた。
 けれども、今回は陶子を愛しているとは思えない。
 可愛いと洋一が言う通りで、控えめに愛らしい陶子の外見も、ボビーに甘えて、あれをしたい、これをして、どこそこへ連れていって、と言う態度も嫌いではない。彼女が望むならばたいていのことはかなえてやりたいと思う。
 それは恋なのかな? だけど、なぜだか俺は彼女を抱きたいと思わない。中学のときには欲望がふくれあがりすぎて頭が変になりそうだったし、高校のときには彼女に懇願までしたのに。
 あれから何人もの女の子と寝て、そのすべては俺がお願いしたのに。陶子にだけはそんな気にならないのはどうしてだろう。理由もなく、嫌いでもないのに抱きたくない女の子っているものなのか。陶子は俺に熱い視線をよこすけど……。
 悩ましく思いながらも、陶子とはキスもせずにいたころに、彼女の部屋に招かれた。彼女が態度と言葉でほのめかす。拒絶はできなくてベッドに入りはしたものの、ボビーは燃えなかった。


 燃えないからこそ、静かに穏やかに優しくふるまって、ボビーとしてはそれでも楽しかった。しかし、陶子はボビーの心に熱いものがないと気づいたのだろう。
「私、ロックってあんまり好きじゃなかったかも」
「そうかぁ、好みはしようがないよな」
「だから、別れようか」
「……うん、まあ、陶子がそのほうがいいんだったら……」
 ロックが好きだと思っていたからボビーとつきあって、本当はそれほど好きではないと気づいたから、別れようと言い出したのか。
 本音は別のところにあるのではないかと思う。だが、ボビーには別れたくないと言うつもりはない。このまんまでいたっていいし、別れてしまってもかまわない。ボビーの心には陶子に対しての情熱は最初からなかった。
「そうなんだよね」
 寂しげにうなずいて、陶子は言った。
「どこかで会っても、知らないひとのふりをしてね」
「うん、わかった」
 恋には情熱が必要なのだろう。燃えるもののない恋はまやかしなのだろう。
 そうすると、これは恋ではなかったのだろう。恋をした経験はあるつもりだけど、俺のハートって容易には燃え上がらないんだな。いつかは熱い恋をするかもしれない、しないかもしれない。ボビーとしてはどちらでもいい気もしていた。


4・ドルフ

 父親の仕事の関係で日本に来て、日本の高校を卒業した。兄のポールが体育大学を出て教師になったので、ドルフも兄に続いた。
「体育教師はおまえたちには天職だな」
 身体の大きな息子たちを見て、父は言う。が、俺は別に体育の教師になりたくはないな、とドルフは思う。
 かといって、好きなドラムを仕事にできるかといえば……これで食っていけるほどでもない気もする。大学生になってからバンドを組んだり、貸しスタジオにこもってひとりでドラムを叩いたり、バンドを脱退したり、と余暇はドラムにばかりかまけていたが、これは趣味にすぎないのだろうか。
 あのころはただの趣味だと思っていたが。いや、思い込もうとしていたが。
 現在のドルフは女性ばかりのバンド「プシィキャッツ」に誘われて、唯一の男性メンバーとしてドラマーをやっている。
 チカ、マナ、リリ、セナ、長身で気が強くてパワフルな女ばかりだから、誰もが、ロックは女には向かないだろ、と言えるようなタイプではない。それでもやはり、男とバンドをやってるほうがいいと思ってしまう。
 アマチュアなのだからそうは仕事があるわけでもなく、今日のドルフは公園にいた。子ども用の遊具は小さすぎて、大男のドルフがすわったりしたらブランコもこわれそうで、砂場の枠にすわってほげっとしていた。
 子どもたちは学校の時間か。乳幼児連れの母親たちが来る時間でもないようで、公園は閑散としている。そんな中、鉄棒に取り組んでいる少年が見えた。
 逆上がりの練習をしているのだろう。小学校の低学年か。小さくて細い身体で無我夢中になって鉄棒に飛びついては、何度も何度も失敗している。逆上がりができなかった記憶はないドルフには、微笑ましくも歯がゆい光景だった。
「俺は怪しい奴ではないんだけど……」
「……? うげ」
 近寄っていって声をかけると、横目でドルフを見た少年が鉄棒から落ちそうになった。
「うぎゃ、こわっ!!」
「怖くないって。俺はドルフ」
「日本語、喋れるんだね」
 体勢を立て直して地面に降りた少年は、ドルフを恐々見上げた。
「僕は良太、小学校の二年生」
 小さいな、と言ってはいけないかもしれないが、ドルフの腹のあたりまでしかない身長は、七つか八つにしても小柄に見えた。
「俺は体育の先生の卵なんだよ。アドバイスしてやろうか。あ、アドバイスってのは意味は……」
「そのくらい知ってるよ」
「それは失礼。だけど、良太、学校は?」
「逆上がりのできない奴は来なくていいってさ」
「先生が?」
 先生なのか友達なのか、本気でそう言ったのか、ジョークなのか発奮させようとしたのか、良太は詳しくは言わなかったが、逆上がりができるまでは学校に行かないと言っているのは、本人の決意のようにも思えた。
「学校が嫌いってわけではないんだろ」
「嫌いなところもあるよ」
「行きたくなくはないんだろ」
「行きたいよ。逆上がりができるようになってみんなに見せてやりたいんだ」
 ならば、手伝ってやろう。ドルフは腕まくりした。


「お母さんがね、ドルフと遊んだらいけないって言うんだ」
 公園で会った際に会釈だけはした良太の母親は、日本人女性としても小さかった。ドルフよりは良太のほうに近い身体つきをしている女性には、ドルフが恐怖の対象と映ったのか。
「あんなに大きくてヤバンそうな外国の男のひとには、ユーカイされるかもしれないって」
「良太のお父さんは小さいのか」
「ドルフよりはずっと小さい」
「俺はおまえを誘拐はしないけど……」
 中学生くらいになれば親に反抗するのもいいだろうが、小学校の二年生は母親には従順なほうがいい。逆上がりができるまでは手を貸してやりたかったのだが、おしまいにしてもいいだろう。ドルフは言った。
「そうだな。俺はおまえを誘拐して、食っちまうかもしれないもんな」
「……食うの?」
「かもしれない」
「嘘でしょ」
「さあ、どうだろ」
 にやっとしてみせると、良太も怖そうに後ずさりした。
「良太は気にしないで遊びにくればいいよ。俺のほうがもう来ないから」
「そ……う?」
 安心したような落胆したような顔で見上げる良太に手を上げて、ドルフは公園から出ていった。
「ドルフってば、男の子好きのロリコンか」
 背中に聞こえる声は、プシィキャッツのヴォーカリスト、セナだ。
「ゲイだろうとは思ってたけど、あんな小さいのが好きだとは、あたしの予想を上回ってたな。どうやって抱くの?」
「おまえな、それ以上言うと殴るぞ」
「きゃああ、こわぁい。でもさ、あの子のお母さんもそう言いたかったんじゃないの?」
 聞いてたのか、と呟くと、セナが隣に並んだ。
 プシィキャッツでもっとも大きいのはドルフ、次はギターのチカ、その次がセナだ。今日は高い高いヒールのブーツを履いているので、ドルフとだってさほど背丈は変わらない。セナは言った。
「あんなちっちゃい子だと、変質者かもしれないと言われても意味不明だろうし、そこまでは言わなかったのかもしれないけど、お母さんはそう思ってたんだよ。だから、ドルフと遊ぶなって言ったんだね。食っちまうかもしれないって、そういう意味だったんでしょ? きゃああ、睨まないで」
「うるせぇ、女みたいな悲鳴を上げるな」
「あたし、女の子だもーん」
 くねくねっと身をくねらせてから、セナはぷっと吹いた。
「自分で言ってて気持ち悪いぜ。ドルフはゲイかもしれないけど、そこまでの変態じゃないよね」
「俺は変態ではない。ゲイってのは変態ではないだろ」
「あたしみたいな美人にそそられないのは、変態だよ。可愛い坊やにふられたみたいだから、なぐさめてあげようか」
「殴られたいのか」
「いやんいやん」
 タチのよくないジョークを口にするのは、プシィキャッツの女たちは皆同じだ。ドルフがぶすっとこう切り返すのも普通なのだから、他人が聞けば物騒な会話も、当人たちにとっては普通なのだった。
「実はね、あたしね、結婚しようかと思ってるの」
「おまえと結婚してくれる男がいて、よかったな、セナ」
「って言ったのはマナなんだよ。あたしじゃないの。ドルフとしてはよかった?」
「マナに相談されたのか?」
「ドルフはどうなの? あたしが結婚してプシィを脱退してもいいの?」
「マナがそう言ってるのか?」
「チカだけは結婚なんかしないだろうけど、リリにだってあり得るよね。なんでチカだけはあり得ないんだって訊かないの?」
「そっか、マナはやめるのか」
 まるっきりとんちんかんな問答をして、それでもセナの言いたいことは理解して、ドルフは大股になった。
「こらっ、待て。あたしを置いてくなっ、ドルフ、足が速すぎるよっ!!」
 ひとりになって考えたいのだから、セナがわめいているのにはかまわずどんどん歩調を速めた。
 チカだけは結婚して脱退するというのはあり得ない。セナが言ったのは、チカは男みたいな女だから、であろう。男っぽいふうに作りたがる女もけっこういるものだが、チカは芯から男性的なのだとドルフも思っている。
 ぐるぐる歩いてぐるぐる考える。
 そうはいってもチカは女だから、いずれは男と結婚だってするだろう。結婚はしないであろうプシィキャッツのメンバーがいるとしたら、ドルフだ。
 ゲイのつもりはない。男と恋をしたことはない。良太に感じたものは一種の父性愛と友情だ。セナはジョークで、もしかしたら良太の母親は本気で、ロリコンゲイみたいに言っていたのかもしれないが、そんなものではない。
 身体の大きな白人だからといって、それだけで子どもと触れ合うと変質者扱いされるのか。まったくな、ではあったが、怒るつもりもなく、苦笑いが浮かぶだけだ。
 男と恋はしないけど、女とも恋はしたことがない。恋のできない、恋をしたくない人間を変態と呼びたいのならば、ドルフは甘んじて受け入れる。女が嫌いというよりも……なんなのだろう。世の中の男が女を求める気持ちが、ドルフにはわからないというのが正しいのだろうか。
 正しいのかどうかは知らないが、ベースのマナが脱退するらしいとの情報のほうが気になる。
 そもそもプシィキャッツはオール女性のバンドで、ドラマーが脱退してしまったからと、かわりのメンバーを探していた。しかし、女性ドラマーは見つからなかったのだそうで、当時はライヴハウスでドラムソロをやっていたドルフが、彼女たちに誘われた。
 なんだって女ばかりのバンドに俺ひとり……そんなぼやきもあったものの、彼女たちとは息も合って楽しかった。ドルフは基本的には女は好きではないのだから、女々していないみんなが好きだったのだろう。時にわざとらしく、あたしは女の子よーん、などと言うのも、彼女たちならばシャレになる。
 だが、いつまでもこうやって遊んでいるつもりはなかった。
 ドルフにとってのプシィキャッツは遊びだったから、そのうちにはまともなバンドのドラマーになってプロになりたい。体育教師などではなくて、プロのロックバンドの一員になりたい。変質者に見える俺みたいな奴には、教師は向かない。
 最後のフレーズは付け足しにすぎないが、ドルフの気持ちは今ではそう固まっている。ベースのマナの結婚、脱退はいい機会なのか。
「ま、俺に直接言ってきてからでいいけどな」
 話があるんだ、とマナが言い出したら、俺も、と告げよう。ドルフが自身の気持ちを確認しているうちに、公園のほうへと戻ってきていた。
 ひとりでも良太が逆上がりの特訓をしている。ドルフが教えてやった通りにしようと努力しては、できずに無様な格好になる。何度も何度も何度もチャレンジする良太を見ていると、ドルフも手を握りしめていた。
「あ、できた」
 ふとした拍子だったのか、良太の身体が鉄棒でくるっと回った。良太は首をかしげ、もう一度試みる。逆上がりができたとようやく気づいたのか、鉄棒から飛び降りて万歳をした。
「できたーっ!!」
 そこからは再び、何度も何度も何度も逆上がりを繰り返す。良太の短い髪が陽光を受けて、彼の喜びをふりまいているようだった。
「俺もプシィはやめて、本気でプロのドラマーになるよ。きっとできるよな。おまえにだってできたんだから」
 これで俺はお役ごめんだし、最後におまえの勇姿を見られてよかったよ。ドルフは良太の小さな背中に、さよならがわりの声をかけた。
「Good luck!」


5・司

 頑固一徹な父親の血を引いたのだから、沢崎三兄弟が頑固なのも仕方ないと母は笑う。しかし、弟たちの頑固さは現代少年のものではない。おまえらは明治生まれかっ!! である。
 刑事だった父親が殉職し、中学生と小学生だった、長男ツカサ、次男スグル、三男カナメは誓い合った。大人になったら父さんの遺志を継いで刑事になるんだと。そんなものはガキの感傷だ。初志貫徹するのもいいけれど、抜けたからって裏切り者呼ばわりするとは。
「ロックだぁ? そんなものにうつつを抜かして、ロックでメシを食うだなんてふやけたことをぬかして、親父の跡を継ぐってのを断念するような兄貴はいらねえよ。な、要?」
「そうだよ。どうしても刑事にはならないって言うんだったら、おまえなんかはもう兄貴だと思わないからな」
「兄貴じゃないんだから、兄ちゃんって呼ぶのもやめような」
「そうだよな。司、てめえなんかは出ていけよ」
「兄貴に向かって司だのてめえだの、親父が生きてたら殴られるぞ」
「裏切り者のてめえには、親父を親父と呼ぶ権利もねえんだよ」
「あの父さんは、秀兄さんと俺だけの親父だよっ」
「……クダラネ。ガキだね」
 呆れ果てて喧嘩を続ける気もなくした司の横で、母も呆れ笑いをしていた。
 それでも司が高校生のころはまだよかった。剣道のほうが趣味の本道で、ロックバンドでベースギターを弾くのは余技のようなものだったから。
 大学生になっても剣道部に所属して、片手間にロックをやっていた。弟たちはロックを目の敵にしてはいたが、剣道の有段者である長兄をほんのすこしは仰ぎ見ていたはずだ。年も一番上だし、身体も一番大きいし、腕力も一番強かったのだから。
 けれど、司が大学を卒業するころには、秀も大学生になっていた。要は高校生になり、腕力や身体の大きさでは兄と優劣つけがたくなって、取っ組み合いなどすると母を嘆かせた。
「家がこわれるから外でやりなさーいっ!!」
「こいつらが馬鹿で阿呆で間抜けなんだろ。母さん、なんとか言ってやってくれよ」
「私は関知しないの。馬鹿馬鹿しすぎるから」
 クールに母は言い、弟たちはホットにふたりがかりで兄に飛びかかってくる。こうなれば弟というよりも敵であって、司も全力で立ち向かった。
「ずいぶん怪我をしたのね」
 たぎっている弟たちから逃げ出して、自室に入って寝そべっていると、母がやってきた。
「秀や要も言ったみたいに、家を出ていってもいいのよ」
「母さんも俺を追い出したいのか」
「司が出ていってくれたら、家がこわれる心配はなくなるもの」
「そうだな。俺がいなくなったら家が広くもなるよな」
 おそらく秀は、大学を卒業したら警察学校に入学するつもりでいる。要も次兄に続くだろうから、弟たちは大学を出たら家からも出ていく。そうすると母はひとりになる。それでも平気なのか? 司は言葉にはせずに母を見返した。
「うちから出ていったら食べていけないの?」
「ロックの仕事もなくはないし、他のバイトだってやってるから収入はあるよ」
「だったらなんの心配してるのよ。男はいつまでも親元にいるもんじゃないよ。このマザコン」
「あんたに言われたくねえんだよ」
 俺は長男なのだから、などと思ってしまうのも、あの親父の子、あの弟たちの兄だからなのか。それでどこが長男だよ。この不良息子、と司は自分で自分に突っ込みを入れた。
「じゃあ、俺は独立するよ」
「さっさと出ていきなさい」
「うん」
 いずれは自分にぴったりのメンバーに出会って、そいつらと一緒にプロになる。そうすれば親父も弟たちも認めて……認めてくれるかも、と考えかけて、司は頭を振った。
 ロックってのは誰かに認めてもらいたくてやるものではない。CDレーベルの会社だとかファンにならば認めてもらうべきだろうが、親兄弟なんて関係ない。それに、弟たちも父も、司がプロになったからといって認めはしないだろうと思う。
 草葉の陰で親父が怒って、こっちに来たらぶん殴ってやると息巻いていようと。
 あんな奴は俺たちの兄貴ではない、俺たちの親父の息子でもない。司なんか勘当してやる、と弟たちが吠えようと。
 俺は俺の道を行く。それがロッカーだ。だけど、母さんにだけは認めてほしいなぁ、と弱気の虫が呟きたがる。俺もやっぱ古いね、としか言いようがなかった。


END




 
  
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