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小説35(木綿のハンカチーフ)

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フォレストシンガーズストーリィ・35

「木綿のハンカチーフ」


1

幾度か恋はしたけれど、そのころの俺には女はいなかった。リーダーは普段着に無頓着すぎだと仲間たちに責められるので、ある日ふと気まぐれを起こして覗いてみた店に志保がいた。メンズウェアの店のファッションアドバイザーと肩書きがついていたが、早い話が販売員である。いらっしゃいませ、と浮かべたのは営業用スマイルだったのだろうが、その笑みにくらっと来た。
「どういったものをお探しですか」
「えー……どういったものと言われても……お手上げ。降参」
「は?」
「センスないらしいんですよ、俺は。仕事のときにはまあまあらしいけど、普段着はいつだってこんなでね。最悪ですか、俺の今日のファッションは」
「最悪なんてことはありませんよ。失礼ですけど、お仕事はなにを?」
 知らないよな、と思いつつ、シンガーなんですけどね、と答えたら、彼女は案の定知らなかった。
「フォレストシンガーズっていうコーラスグループですか。男性五人の? ステージ衣装はかっこいいんでしょうね。お客さまは背が高くて素敵なプロポーションをなさってますし、なにを着てもお似合いになるんじゃありません?」
「顔がこれですし、センスもあれですから」
 そんなことはありませんよ……としらばっくれて、彼女は俺に適切なアドバイスをくれた。彼女が上から下まで見立ててくれた服に着替えると、彼女は最大限のお世辞を言ってくれた。
「ほらね、素敵ですよ。とってもよくお似合いです。お客さまは……」
「本橋です」
「本橋さまとおっしゃるんですね? はい、本橋さまは健康的なお顔のお色をなさってますから、こういう原色もお似合いだと思った通りでした」
「色が黒いのは生まれつきです」
「男性は色の濃い肌のほうが素敵ですよ」
 セールストークだ、乗せられるな、と自分を戒めていたのだが、俺の気持ちはふらふらふらふらよろめいていた。
「ね、このスタイルでデートにいらっしゃったら、彼女が感激なさいますよ」
「デートの相手はいません。あなたのお名前は?」
 チャンスを逃す手はない。店がすいているのをいいことに尋ねると、彼女はぽかんとした。
「苗字は名札に書いてあるからわかります。お名前は? 俺は本橋真次郎と申します。外であなたの選んでくれた服を見てくれませんか」
「はい?」
「この服であなたとデートしたい」
「……あの、そんな……」
「そこまでやってこそ、あなたのファッションアドバイザー魂を発揮できるってものですよ。今後ともあなたにアドバイスしてもらいたい。この服は気に入りました。ローンでもいいんでしたらそっくり買います。仕事中のあなたにこれ以上ご迷惑をおかけするのもなんですから、続きは電話でやりましょう。電話番号を教えて下さい」
 あとから彼女は言った。
「なにが私のセールストークに乗せられた、なのよ。乗せられたのは私でしょ。あれよあれよという間に電話番号を言ってしまって、え? なに、今の? って思ってるうちに真次郎さんは店から出ていって、その夜には電話をかけてきて……疾風怒濤の口説き文句。完全に巻き込まれてこうなっちゃった」
「こうなっちゃって後悔してんのか」
「してないけど」
「そんならいいだろ」
 仕事の歩みは遅々としていたけれど、恋愛は順調に進んでいた。俺は幸生に尋ねてみた。
「俺の普段着のセンス、よくなっただろ?」
「普段着のセンス? ……不合格」
「どこが不合格だ」
「リーダー、もしかしてセンスのいい彼女ができたとか? 彼女がいろいろと教えてくれるんでしょ? なのにリーダーは、男がこんな服着れるか、だとか、男がそんなアクセサリーつけられるか、みっともない、だとかばっか言って、彼女の教えを退けるんですね。だから不合格」
「……おまえ、どこかで見てたのか?」
「なにを?」
 見てもいないのにこんな台詞が出るとはどういう頭の構造をしているのだろう。志保とは幸生の台詞に近いやりとりがあって、したがって俺は、あいかわらず普段着のセンスが不合格であるらしいのだ。
「えー? ほんとに? リーダーが言うとは信じられないようなことを言うから。だって、いっつも言ってるじゃないですか。普段着なんかどうでもいいんだ、破れたり汚れたりしてなくて、清潔感さえあったら男はそれでいい、女じゃあるまいし、ファッションよりも大切なものがいくらでもあるだろ、ですよね」
「ああ、言ったっけな」
「常にそう言ってるリーダーが、センス云々なんて言い出すからですよ。ファッション関係の彼女ができたのかな、って。できたんですか」
「そんなんじゃないんだよ。この間、洋品店のえらくセンスのいい爺さんに、あれこれ服装について教えてもらったもんだから……ちょっとやってみたけど、俺ではこんなもんだったな」
「ふーん、お爺さんねぇ」
「疑ってるのか。ファッションよりも恋愛よりも、今の俺には仕事が大事だ。歌だ、仕事だ、おまえもだぞ。ナンパにうつつを抜かしてる暇があったら、詞を書け。歌の練習をしろ」
「自分から言い出したくせに……わかりましたよ」
 例によって例のごとくの幸生の出任せだったようなのだが、あながちでたらめとも思えなかった。幸生は鋭い、鋭すぎる。本当はどこかで盗み聞きしてたのではないのか? と疑惑のまなこを向けてみたら、幸生も同様の目で俺を見た。考えすぎだろう。幸生に覗き見や盗み聞きをされる機会は皆無だった。俺が妙なことを言い出したのがいけない。幸生には二度と言わないでおこうと決めた。幸生だけではなく……もうひとりにも。
「本橋、なにかいいことあったのか」
 二度と言わないと決めたのに、むこうから言い出したのは乾だった。
「お肌の艶がいいね。欲求不満がなくなった男の顔ってわけかな」
「なんだ、それは。俺はもとから欲求不満なんかじゃないぞ」
「そうかねぇ。心も身体も充実してこそ、いい歌が書ける。いい歌が歌える。仕事はもちろん大切だけど、ファッションも恋愛も俺たちには大切だよ」
「……盗み聞きしてたのはおまえか」
「なにを?」
「……もういい」
 盗み聞きも覗き見もしなくても、幸生と乾は些細なことがらから他人の気持ちを読む術に長けているらしい。油断禁物、なのはとうに知っているのだが。
 男同士の気持ちを読むのは長けていても、女心はどうなのだろう。志保の本心はどうなのだろう、とふと弱気になると、そっちの方面のアドバイスをしてほしくなる。乾や幸生がどれくらい恋愛経験豊富なのかはよく知らないが、女心を理解できるほどではないだろう。恋が順調だと考えているのは俺だけかなぁ、と時おり心に邪念が忍び込むのだった。
 仕事柄、志保は男と触れ合う機会が多い。客はほとんどが男だ。女客は男のつきそいだったり、誰かにプレゼントする男ものを求めてやってくるのがもっぱらで、メンズウェアの店につとめているのだから、商売相手は男ばかりなのが当然だろう。当然なのについつい疑心暗鬼に苛まれる俺が悪いのか。
 恋人になった、と俺は思っているのだが、彼女もそう思っているのか。他人のふりをして彼女が働く店「ブルーウィンド」に行くと、彼女はいつもいつも男と話している。笑っている。あの魅力的な笑みを浮かべて、トーク全開で男に愛想を振りまいている。あれこそセールストークだ。わかっちゃいるけどもやもやする。
 会った途端に口説いた俺がいたのだから、同じ真似をする他の男がいないわけもない。会った途端の俺になびいたのだから、他の男にも電話番号を教え、そいつの口説き文句にもなびくかもしれない。見るともなく志保と客を見ていると、もやもやはつのるばかりだった。
「うーん、どっちがいいかな。きみが羽織ってみてくれない?」
「私では体格がちがいすぎて、参考になりませんよ」
「きみが男の大きなジャケットを羽織ってる姿、色っぽいだろうな」
 ジャケットを二枚手にした男が、下心満々の顔で志保に話しかけている。俺は横からさりげなく近づいた。
「おたくと俺だと似た体格ですね。俺が羽織ってみましょうか」
「あんたは?」
「臨時店員です」
 ちょっとっ、と志保の目がとんがり、俺をぐいぐい押しやった。
「失礼致しました。お気になさらないで下さいね。お客さまの好みもありますけど、こちらのほうがお似合いかと……」
「こっち? そうだね。あいつはなに?」
「さあ、存じませんが」
「きみにつきまとってるんじゃないだろうね」
「そんなんじゃありません」
「心配だな。帰りは気をつけてね。なんだったら僕が送っていってあげようか」
「ありがとうございます。大丈夫ですから」
 この調子で志保に目をつける男は続出しているのだろう。魅力的な女を恋人にすると気がかりが絶えないのだ。だからってこれでは身が保たない。「ブルーウィンド」に行くのはやめよう。まるきりストーカーみたいじゃないか。俺は店に行かなくても志保に会えるんだから、と考え直して店から出ていき、その夜、志保に電話をかけた。
「……営業妨害しないでよね」
「ごめんな。つい……」
「つい、であんなことされたらたまんない」
「あやまってるだろ。今度いつ会える?」
「知らない」
 がっちゃーん!! と電話を切られて、俺は吐息をついた。
 店の中ばかりではない。外でデートをしていても、俺がそばにいるのに声をかけてくる男がいる。商売柄、志保は男の知り合いがすこぶる大勢いるのだ。俺がガンを飛ばしていても、男はかまわず志保に話しかける。
「先日はありがとう。どう、これ?」
「ええ、とってもお似合いです」
「また行くからね。今度こそデートしてくれる?」
「あのなぁ」
 我慢できなくなって、俺はそいつに言った。
「彼女と俺がなにをしてるのか、あんたには見えてないのか。そのデートってやつをしてるんだ。邪魔だ。消えろ」
「こんなガラの悪い奴とつきあってるの?」
「ガラの悪い奴とはなんだよ。あんたに苛々してるからこうなるんだろ。失せろ」
「趣味がよくないね。きみは服装の趣味はいいのに」
 まったく俺とそいつの会話はなりたたず、志保はそっぽを向いた。
「失せろと言ってるのが聞こえないのか。彼女は俺とつきあってるんだよ。横合いからしゃしゃり出てくるな。文句あるんだったら……」
 おもてに出ろ、とはまっとうな社会人としては禁句だ。学生時代でもあるまいに、俺のほうから喧嘩を売ってどうする、と我が心をなだめていると、そいつは立ち去ってくれたのだが、志保が般若の形相になった。
「あなたは私を所有物視してるんじゃないの? 独占欲が強すぎる。嫉妬心が強すぎる。私は仕事のアフターサービスをしているだけなのに、いちいちそうやってお客さまを敵視されたんじゃやってられないのよ」
「……ごめん。反省してる」
「真次郎くんのその目もその口調も、荒っぽくなるとずいぶん迫力あるんだからね。私のお客さまに食ってかからないで。店に来てもらえなくなったらどうするの? 営業妨害するんだったら考え直そうかな」
「なんかその台詞、どこかのホステスみたいな……」
「……しばらく会うのはやめましょ。冷却期間を起きましょうね」
「わ、失言だった。取り消すよ。志保……そんなこと言うなよ」
「私から電話するから、かけてこないでね」
 返す言葉もなくて、うなだれるしかなかった。なにもかも俺が悪いのか。志保には落ち度はないのか。仕事を錦の御旗みたいに振りかざされたら、俺にはぐうの音も出なくなる。第三者に相談してみたかったけど、かっこ悪すぎて言えやしないじゃないか。
 がっくり落ち込んでいたら、そこに追い討ちのかかる事件があった。仕事の時間が迫っているというのに、章があらわれない。電話をしても出ない。ファーストアルバムが発売されたばかりで、音楽雑誌が取り上げてくれるという。インタビューと写真撮影の仕事が入っていた。
いつまでたっても章があらわれないので、俺は言った。
「俺がインタビューに行かないわけにはいかないだろ。誰か……ったって、章はいないは、その上もうひとりメンバーが欠けるなんてのは……山田、章がどうしてるか見てきてくれ」
「そうするしかないね。どうにかして時間を稼いでおいて」
 マネージャーの山田が章のアパートに出向き、ひとまず四人でインタビューの場へと出かけた。おや、フォレストシンガーズのメンバーは四人でしたか? と白々しくも尋ねるインタビュアーに、俺は頭を下げた。
「申しわけありません! 事故でもあったんじゃないかと思うんですが、連絡が取れないので詳しい事情は不明なんです。木村がまだ来ません。マネージャーが木村のアパートに行ってますので、しばしの猶予を与えて下さい」
「そうなんですかぁ。ファーストアルバム発売で張り切ってらっしゃるのかと思ってたんですけど、そうでもないんですね。木村さんはアルバムなんかどうでもいいんですかね」
「そんなわけはありません。我々は全員……いえ、現に木村は遅刻してるんですから、なにを言ってもいいわけにしかなりませんね。申しわけありません。もうすこしだけ待って下さい」
「もうすこし待っても来なかったら? 僕も忙しいんだけどなぁ」
「すみません。申しわけありません」
 口から出まかせでごまかせる相手と事態であれば、乾、なんとかしろ、ですむ場合もある。が、現状はそうではない。乾も他の三人も平身低頭して詫びるしかなかった。
「しようがないなあ。五人そろってのインタビューは諦めましょうか。先に木村さんぬきではじめましょう」
 インタビュアーが言ったとき、乾が立ち上がった。
「……電話をしてきます。もうすこし、もうすこしだけお待ち下さい」
「もうすこしもうすこしって、すこしじゃないですよ。だいぶ待ってますよ。僕には次の仕事の予定もあるんですから」
「すみません。あとすこしだけ」
 携帯電話を手に乾が立っていくと、幸生が身を乗り出した。
「木村への質問には僕がお答えします。僕は彼とは以心伝心の仲ですし、彼が作曲した曲についても知り尽くしているつもりです。なんでも訊いて下さい。木村になりかわって答えさせていただきます」
「そうですか。じゃあ、この曲のコンセプトは?」
 気の乗らない様子だったインタビュアーは、やがて幸生の話術に引き込まれていった。不機嫌顔が徐々にゆるんでいき、インタビューに熱がこもってくる。乾も戻ってきて話に加わるころには、インタビュアーは章の不在を忘れたように質問を続けていた。
 むろんシゲも俺も、誠意を持ってインタビュアーの質問に答えた。それにしたって乾と幸生があれだけ喋ってくれなかったら、章が仕事をすっぽかしたということで大問題になっていたかもしれない。インタビュアーは最後にこう言った。
「木村さんはいらっしゃいませんでしたね。事情があるんでしょうから仕方ないってことにしましょう。まあ、それはそれで楽しいひとときでした。いい記事に仕上げますよ。木村さんにもよろしくお伝え下さいね」
 皮肉まじりではあったが、インタビュアーが引き上げていくと、俺は息せき切って乾に尋ねた。章の馬鹿たれはなにをしてるんだっ、だった。
「ミエちゃんに連絡が取れたよ。章の馬鹿たれは出掛けにアパートの前の道路で、車と車の衝突事故を目撃したんだそうだ。人身事故だったから大騒ぎになって、第一発見者の章は警察に連行されて質問責めに遭った。仕事に行かなくちゃいけないんだって抵抗に抵抗をしたらしいんだけど、警察がそんなの聞いてくれるはずもない。章は単なる目撃者にすぎないってのに、犯罪者並に強硬な尋問を受けた。ようやく開放されて……ああ、来た。シンちゃん、怒鳴るなよ」
「そりゃまた……俺は章になんと言えばいいんだ?」
「お疲れさん、だな」
「……なんと間の悪い奴なんだろ」
「だよなぁ」
 インタビューはどうにかなっても、予定されていた写真撮影はできなかった。撮影スタッフも引き上げてしまった小さなレストランに、章がしょぼくれた姿を見せた。そのうしろから山田が、なんともいえない顔をしてついてきた。
「事故だよ、これって。本橋くん、怒らないで」
「怒ってもしようがねえだろ。章、ご苦労」
 乾も言った。
「章、べそかいてるんじゃないぞ。おまえのせいじゃない」
「俺のせいですよ……俺は運が悪すぎるんだぁ。俺は俺は俺は……こんな大切な仕事をすっぽかして……なんでそんな日に交通事故なんか目撃するんだよぉ」
「で、おまえはなんともなかったのか?」
 幸生が問い、章が答えた。
「ハート丸ごとブロークンだよ。死にたくなってきた」
「馬鹿。つまらないことを言うな」
 シゲは怒り口調で言い、おまえは事故は目撃しただけなんだろ? と続けた。
「はい。俺は身体はなんともありません。ただ……俺は見てただけなのに、警官の奴らが過酷な質問ばっかりしやがって……あ、眩暈が……いや、大丈夫……」
「だらしねえなぁ。おまえはいつもそれじゃん。熱が出てるんじゃないのか。うん、熱はない。熱はないけど顔色が真っ白だ。リーダー、貧血ですよ。ほっとくと章が倒れますよ」
 章の額に手を乗せ、顔色を検分し、服をゆるめてやり、とやっていた幸生は、シゲに言った。
「章はやわなんだから、送っていってやらなきゃ。シゲさん、おんぶしてやって」
「はいよ。章、おぶされ」
「ええ? そこまでしてもらわなくても……」
「いいからおぶされ」
 声音が荒くなったシゲの迫力に気圧されたか、章は一歩下がった。シゲが背を向け、乾がうしろから章の腰を持ち上げて、シゲの背中に細い身体を背負わせて全員で歩き出した。
「ミエちゃんもお疲れさま。警察から章を引き取ってきてくれたんだろ」
「そうなのよ、乾くん。あなたは木村さんとどういうご関係ですか? だなんて、怖い顔して訊かれた。仕事仲間です、って言ったら、それはどういった? ってしつこいの。木村章は歌手で、私は木村のマネージャーです、って言ったら言ったで、木村章なんて歌手は知らないなぁ、だって。本橋くん、いずれは日本中のひとが知ってる歌手にならなくちゃね」
「ああ、そうだな」
「私や章くんだとおんぶしてやろう、ってなるのは軽いから? 章くんにもこうなんだから、私が女だからってわけだけじゃないんだね」
「ミエちゃん、なんだか嬉しそうだね。そうだよ。幸生はシゲや本橋に背負われる事態にならないからやったことはないけど、章やミエちゃんだとわりに楽に背負えるだろ。だからこうなる。この際そんなことはどうでもいいけど、ミエちゃんにはどうでもよくないみたいだし……章、正気は保ってるか?」
「は、はい」
 アパートにたどりつくころには章の顔色も平常に戻っていたが、ダウンモードが戻るには時間がかかった。
 結局、写真撮影はおこなわれず、インタビュー記事も当初の予定よりちっぽけなものになっていて、おざなりの売れないシンガー扱いでしかなかった。
 その音楽雑誌は業界では大手で、大々的に写真つきで掲載されたら話題にもなるだろうと期待していたのに、腰砕けで終わってしまった。章はひとりになってから泣いていたのかもしれないが、事故である以上は致し方ない。しかし、俺としてもがっくりで落ち込んでいた。
「真次郎くんって男らしいひとだと思ってたけど、そうでもないのね」
 志保にそう言われたのは、落ち込み気分満タンのそのころだった。
「やきもち焼きって最低。私は真次郎くんに独占されたくないの。あんなに熱心に口説いてくれたからその気になったけど、あなたとつきあってると疲れるんだよね。売れない歌手の鬱憤を私にぶつけないで」
「そんなものをぶつけてない」
「もっとこう、仕事も充実してる男だったら余裕もあるのかもしれない。軽い気持ちでつきあったら駄目だね」
「……後悔してるのか」
「してる。私を口説きたがるひとは他にもいるんだから、なにもあなたに……」
「そうか。そうだろうな。俺なんかじゃきみは満足できないってわけだ」
「そうなのかもね」
 勝手にしろ、と決裂して、それっきりだった。何度目の恋だかは忘れた何度目かの恋は、そうしてはかなく砕けて散った。未練はあったけど、他の男に目移りするような女は俺が願い下げだ、と強がって、忘れようとつとめていた。
 けれど、仕事の失敗と失恋とのダブルショックにはへこんだ。仲間たちの前では弱音は吐けない。章は仕事の失敗は自分のせいだと考えているのだろうし、あの雑誌とは縁がなかったんだよ、と軽く言った乾にしても、失望はあっただろう。幸生やシゲも落ち込んでいないはずもないのに、平素と同じにふるまおうとしている。なのに俺がしょぼくれててどうする、とおのれに言い聞かせて、俺も平素のままにふるまおうとした。
「本橋くん、ちょっとばかり元気ない?」
 そうかもな、と応じたら、山田はにっこりして言った。
「あの件以外にもなにかあった? そっちはなんだか知らないけど、私がついてるよ。しっかりしなさい」
 どんっと背中をどやされて、痛いだろ、この暴力女、と睨むふりをしたら、山田はくすくす笑った。そうか、俺にはおまえがついてるんだな、あいつらには言えない本音も、おまえにだったら言えるんだ、と見直した気分になった。
「それは近頃のおまえの口癖だな」
「どれが?」
「私がついてるよ」
「ああ、そうだっけ? ついてるんだもん」
「おまえは背後霊か」
 うまいこと言うじゃなーい、きゃははっ、と幸生みたいに笑って、山田は歩み去りながら振り向いて微笑んだ。


2

先輩に向かってその態度はなんだ、と時おり、シゲに対している幸生に言ってやりたくなる。乾や俺には敬意を払っていると見えなくもない? そうは見えない、ともいえるが、幸生としては払っているつもりでいるらしい。だが、幸生はシゲには敬意のかけらも見せない。
 にしても、シゲがいいんだったらいいか。そこまで言ってもキリがないし、というわけで、放っておくことにしていた。シゲは常々、幸生に鷹揚に接しているのだが、唯一、幸生とシゲがいがみ合う話題があった。
「明日、ハマスタでオープン戦があるよ。シゲさん、行こう」
 幸生が切り出したこの話題である。プロ野球だ。
「もうそんな季節なんだな。相手は……だよな」
「そうだよ、タイガース。行こう。ぜーったいに負けないからね」
「おまえが試合するんじゃないだろ。やるのは選手だ。おまえがかっかしても、負けるときは負けるんだよ。だいたいからしてベイスターズなんてのは、タイガースの敵じゃない」
「おー、大きく出たね。ベイスターズが勝ったらおごってくれるんでしょうね」
「タイガースが勝ったらおまえがおごるのか」
「そんなの失礼じゃん。後輩が先輩におごるなんて」
 三重県出身のシゲはタイガース、横須賀出身の幸生はベイスターズの熱烈ファンである。よし、行こう、とシゲと幸生はうなずき合い、シゲが言った。
「席は三塁側だぞ」
「なんで? 一塁側でしょ」
「いやだ。おまえが譲れ。後輩なんだろ」
「俺もやだよ……そんなら分かれてすわろう。野球だけは敵同士なんだもんね。だけど、そしたらひとりで観にいくのとおんなじじゃん。リーダーも行きません?」
「カープの真っ赤な旗を持っていって、ベイスターズの応援団の中でふり回すぞ。それでもいいなら行く」
「大人げないんだからぁ。リーダーってば」
 セ・リーグには興味がない、と知らん顔をしていた乾が、章に話しかけていた。
「プロ野球ファンってみっともないよな。特定のチームを応援するとああなるんだ。俺も野球は好きだけど、どこかのチームに熱を入れるなんて気はない。シゲでさえシゲでなくなるし、幸生も幸生らしくなくなる。本橋はもとからああいう性格なんだけど、ますますみっともなくなるね」
「……だけど、リーダーは東京出身でしょ? なにゆえカープファン?」
「シンちゃーん、言っていいか」
「俺が言う」
 そう言えば俺も不思議だったんだ、と幸生が言い、ほんとだな、とシゲも身を乗り出した。生粋の東京っ子である俺がなぜカープファンになったのか、俺は話しはじめた。そのわけを知っているのは乾だけだ。
 大学の合唱部の新入生だったころ、乾と俺は当時の男子部キャプテンだった高倉誠氏のお眼鏡にかなったとでもいうのか、大抜擢されてデュオを組んだ。夏休みの合宿でも休み中も、ふたりで練習、先輩の特訓、と歌、歌、歌三昧の日々だった。夏休みが終わって、活動が本格的に再会された日に、高倉さんが乾と俺に言った。
「たまには息抜きしろ。いいところへ連れてってやるよ」
 いいところとは、神宮球場であった。当時の俺は野球になどなんの関心もなかったのだが、その後も暇さえあれば高倉先輩に、神宮球場、横浜スタジアムへと拉致された。東京ドームはたやすくチケットが手に入らないから、他の近場の球場へ連れていかれたのだった。
 広島出身の高倉さんは、シゲや幸生に勝るとも劣らない熱烈カープファンだ。野球はカープじゃけんのぉ、と、野球を語るときに限っては、広島弁を出していた。
 関心がないだけに白紙状態だった俺は、高倉さんの洗脳によってプロ野球に目覚め、高倉さんの洗脳によってカープファンになってしまった。乾もよく連れていかれていたのだが、奴は白けていて、特定の球団は応援しない、と言い張っていた。
「リーダーも高倉さんには弱いんだよね。今、ここにいて下さればいいのに、高倉さんが」
 むろん高倉さんを知っているのも、乾と俺だけだ。シゲは一年下、幸生と章は二年下なので、彼らが大学に入学してきたときには、高倉さんはすでに卒業していた。ただいまの高倉さんは音楽プロデューサーであるのだが、近頃はお会いしていない。高倉さんがいてくれたら、と言った幸生に、乾が言った。
「高倉さんは本橋以上だぞ。怖いぞぉ。高倉さんもうちにいらしたら、幸生や章は泣き暮らさないといけなくなる。うん、しかし、章の根性アップにはいいかもしれないな。高倉さんにも参加してもらおうか。な、本橋?」
「こうやってできあがってる俺たちのグループに、高倉さんを招くなんて僭越だろ」
「ふむ、そうか」
 穏やかな性格の高倉さんは怖くなどなかったのだが、なんのために乾が怖いと言ったのかはわからない。本橋のほうが優しいんだぞ、とでも? なんの魂胆があって言うのかもわからない。もっとも、乾の言葉の裏なんぞは俺には読めるわけもないので、はなっから諦めていた。
 ベイスターズVSタイガースのオープン戦などに俺が行っても無意味なので、シゲと幸生は勝手に行かせておいて、乾と章と俺の三人で、初ライヴの話題に熱中していたら、夜になってシゲと幸生がスタジオにやってきた。ふたりの表情を見れば、どちらが勝ったのかは一目瞭然。幸生はふくれっ面、シゲは晴れ晴れしていた。
「いいんだ。たかがオープン戦だもーん。あんなの小手調べだもーん。今年こそ優勝だーっ」
 幸生が言い、シゲも言った。
「優勝はうちだよ」
「いいや、優勝はカープがいただく」
 今だけはどこのチームのファンも意気軒昂だね、と乾がせせら笑った。
「セ・リーグの弱小三チームのファンも、今だけは夢と希望に胸をふくらませて、夏ごろになったら、来年こそ優勝だーっ、になるんだよな。ご愁傷さま」
「この野郎、てめえはなぁ……そうやって皮肉ばっかり言ってろ」
「乾さん、聞き捨てならないですね。優勝は我らがベイスターズだっ!」
「いいや、タイガースが今年こそ優勝します!」
 三人して乾を睨みつけてみたのだが、章までが言った。
「どうせ今年も、セ・リーグ優勝は東のチームのどっちかですよ。戦力に差がありすぎ」
 生意気言うな、おまえらはセ・リーグはよく知らないくせに、と怒ってやりたいところだったのだが、乾や章の台詞に返す適切な言葉は、セ・リーグ弱小チームファンの俺たちには、ひとつも見つからなかった。


 どうせ売れもしないのに、アルバムなんて出すだけ無駄、と章が言ったとき、俺の怒りが燃え盛ったのは、決定的な痛点をつかれたからだったのだろう。シングル曲も売れないのに、アルバムなんてなおさら売れない、そんな危惧は全員の中で渦巻いていたはずだ。章を追い出したあとで、乾が言った。
「シゲ、そんなことしなくていい。こういうときはむしろ、本橋は暴力には訴えないよ」
「……そうですね。失礼しました」
 二本まとめて俺の腕をつかんでいたシゲが手を離し、乾の台詞が続いた。
「相手にもよるから一概には言えないよ。赤の他人だったら、本橋は喧嘩を買ってるかもしれない。章の言い草は喧嘩を売ってるのも同然だったもんな。けど、章は仲間だろ。なにをイラついてたのか知らないけど、わかる気もするけど、章は思ってもいないことを言ったんだ。思ってもいないんでもないのかな。みんなかすかには思ってる。それでいて断じて口には出さない。章の勇気ある台詞に、おまえは腹が立ったか、シゲ?」
「呆れましたよ。なにを言い出すんだ、この馬鹿は、ってなものでした」
「幸生は?」
「うわうわ、リーダーが怖ーい」
 例によって幸生はジョークでまぎらわせようとし、乾は言った。
「それを言っちゃおしまいだよ、だな、章の台詞は。思ってもいないのではなく、思っていても口にしてはいけない台詞だね、正しくは。本橋は章を殴りたかったのか」
「さあな」
「いつになく静かな怒りがみなぎってて、それゆえにいっそう恐ろしかったけどね、おまえの顔。章はひとまずアパートに帰るんじゃないかな。幸生、行ってやれ。おまえが行くのがベストだ」
「わかりました。行ってまいりまーす」
 素直に幸生は乾の言いつけに従い、シゲと乾と俺の三人になると、乾はまたもや言った。
「いつだってそうだよな。幸生がシャレだのギャグだのを言いすぎておさまらなくなったときとか、章と幸生の馬鹿話を止めてやらなきゃどうしようもないとか、本橋が殴るのはそういうときだろ。深刻な事態……かな、今は」
「おまえは俺が自分でわかっていないようなことを、そうやって……」
「わかってなくないくせに。待とう、シゲ、本橋」
 なにがあったのか正確には判明していないのだが、章は誰かに殴られて発熱し、それがいいほうへころんで話はおさまった。売れる保証などみじんもないけれど、アルバムのレコーディングも完了して発売を待つばかりになっている。なにはともあれ俺たちのファーストアルバムだ。
 メジャーデビューを果たしてから約一年半。はじめてのアルバム。はじめての単独ライヴも決定して、多少は気分が浮わついている。野球の話題で盛り上っていたのも、そんな気持ちのあらわれだった。
「アルバムの曲を全曲やっても、時間が余る。オリジナルばかりじゃなくてカバーも必要だな。ライヴステージってのは他人の舞台だったらたくさん観てるけど、俺たちは初体験だろ。プロデュースは俺がやるんだな。どうしろって……いや、やるぞ。おまえらも歯を食いしばってついてこい。こら、章、寝るな」
「寝てませんよ。リーダー、テンション上げまくりはいいけど、怒りの方向へ持っていかないで下さいね」
「怒ってんじゃねえんだよ。乾、笑うな」
「笑ってませんよ。がんばって下さいね、リーダー」
「他人ごとみたいに言うな。シゲ、よそ見すんな」
「はっ、承知しました」
「初体験だよね。初体験初体験。いやーん、ユキちゃん、恥ずかしい」
「馬鹿野郎ーっ!!」
 身をくねらせている幸生を怒鳴りつけたら、声が上ずって乾みたいな高音になった。いかん、冷静に冷静に。ライヴとはいっても小さなライヴハウス、客のキャパシティもごく少なければ、大物ミュージシャン並の長時間ライヴでもない。張り切りすぎて上滑りしては元も子もないのだから、冷静に練り上げて、冷静にステージをこなさなければならないのだ。
「章の「Coward boy lullaby」を、ロックテイストにアレンジしてみたんだ。章のソロでやるか」
 乾が話題を引き戻し、ライヴのための選曲とステージ進行の相談をまとめるとどっと疲れた。今の段階で疲れててどうするんだ。とは言うものの、初体験は疲れるものなのだろう。そう言うとまた、幸生がなにを言い出すかわからない。幸生がそばにいると疲れが倍増しそうだ。乾のお喋りも今夜は聞きたくないので、ひとりで酒場に赴いた。
 隅のテーブルに席を取り、表にしたステージ進行のおおまかな流れを検討していると、おや、本橋さんじゃありませんか、と男の声がした。
「……塚本さん」
 二ヶ月ほど前に、関西の温泉場でのイベントで共演したシンガーだ。これまたなにがあったのか判然としてはいないのだが、シゲとの間に悶着があったらしい。俺は塚本さんに言った。
「先だってはうちの本庄がご迷惑をおかけしたようで、申しわけありません」
「ご迷惑をおかけしたのは僕ですよ。なにがなんだかよく覚えてないんだけど、本庄さんにもあやまられて、いやいや、なんて言ったんですけど、悪いのは僕でしょう。本橋さんにまで詫びてもらうと恐縮するしかありませんよ。ここ、いいですか?」
 はい、どうぞ、と言うしかない。ひとりでじっくり考えたかったのに、内心でいささか舌打ちしつつうなずくと、塚本さんが俺の前に腰を下ろした。
 売れないシンガー同士ではあるのだが、中年男となにを話せばいいのだろう。あのシゲを怒らせた男なのだから、俺だと簡単に発火しそうな台詞でも口にするのだろうか。しかし、あの町でも俺は彼をシゲに押しつけた。なんとはなしに敬遠したいタイプだったからに他ならなかったのだが、出会ってしまった以上は逃げるわけにもいかない。塚本さんは俺の目の前の表を見やって言った。
「コンサートですか。今どきはライヴというのかな」
「どちらでもいいんですけど、そうです」
「あんたたちは五人いるし、みんな歌は上手だし、いいですなぁ、華やかなライヴができそうですね」
「華やかと言われましても、見た目は地味な男ばっかりですから」
「見た目はともかく、歌には華がありますよ。僕もあんたたちの歌はそれほど知らなかったんだけど、あの日に生で聴いて恐れ入りましたよ。アルバムを出すそうですね。買いますよ」
「ありがとうございます」
 あの日にあんたたちが歌った「白い冬」、なつかしかった、我々の年頃だとリアルタイムで聴いてるんですよ、と言って、塚本さんが口ずさんだ。
「……おっと、やめよう」
「やめなくていいじゃありませんか。もっと歌って下さい」
「いやですよ。ステージでこの歌を歌ったのは乾さんでしょう? あの綺麗な声、あの節回し、あの歌唱力、彼の歌の前では僕は消えてしまいたくなる。なんだってこんなにも差があるんだろう。世の中は不公平なものだな。僕みたいなのをプロにした世の中がまちがってるのかもしれない」
 このぐだぐだうだうだだろうか、シゲを怒らせたのは。シゲの怒りの沸点はかなり高いのだが、いじいじうじうじはシゲの嫌うところだ。シゲは乾や幸生のように口を高速回転させられない。俺のように手も出さない。口も手もシゲは迂闊には使わない。シゲの腕力は肝心の役立つところで発揮されるので、貴重ではあるのだが、それだけに暴発でもすると、あるいはうちでいちばん怖いのかもしれないと、俺はふと思った。
 本橋さんのおっかなさはわかりやすくて、乾さんのそれはわかりにくくて、だから乾さんのほうが怖い、と言ったのは幸生だったか。いやいや、シゲのはさらに怖いかもしれないぞ、と気持ちをそらしていたものだから、俺は知らず笑っていたらしい。塚本さんが気色ばんだ。
「笑わなくてもいいでしょう。そりゃあね、本橋さんだって僕なんかよりずーっと歌が上手ですよ。僕の歌なんかはお笑い沙汰でしょうよ。だからって失笑しなくても……」
「失笑ではありません。別のことを考えてて……」
「僕の与太話なんか、聞いてもいられませんか」
「そうじゃなくて……失礼しました。今夜はすこしばかり疲れてまして、上の空になってました。平にご容赦を」
「いいんですよ、おまえは失せろ、ですか。失せましょうか」
「なにもそんなことは言ってません。そんな、大先輩にそんな失敬な……」
「大先輩ったって、キャリアが長いだけですよ。なんの遠慮がいるんですか。この世界は売れてなんぼでしょ」
 売れてないんだから、俺たちはあんた以下だろ、と思っても言えない。俺には合唱部での体育会系がしみついているので、よほどでもなければ先輩に失礼な言動は取れないのだ。
「僕なんか長年やってても売れないし、歌は下手だし、生き残っていられるのが不思議ですよ。こんなんでシンガーだと名乗っていたら、世間さまに顔向けできません」
「そこまでおっしゃるんでしたら、世間には他に仕事もあるんですし……」
「やめちまえと?」
「若輩者にそんな僭越な台詞は言えませんが」
 うじうじいじいじが嫌いなのはシゲだけではない。俺も大嫌いだ。いかん、このままだと噴火する。しかし、止めてくれる者はいない。乾を連れてくるんだった、と後悔しても遅い。自力で事態を収拾しなくてはならない。
「まあ、どうぞ」
 酒を勧めるとよくないのかもしれないのだが、他には手段が見当たらなくて、俺は塚本さんのグラスにウィスキーを注ぎ足した。塚本さんはこの店の常連であるようで、店の者がテーブルに塚本さんのボトルを運んできていたのだ。選んだ店がまちがっていた、と後悔しても遅い。
「はあ、僕なんか……」
 改めてうだうだがはじまって苛立ってきた。塚本さんは愚痴ぐち愚痴ぐちを限りなく続け、やはりシゲの怒りの原因はこれだったのだと認識した。シゲが怒るほどなんだから、俺が怒っても無理ないだろ? 腹が立ってきたぞ。どうしよう? 塚本さんがボトルを入れている店に俺が入ったのは偶然なのだから、再度の偶然が起きてもいいだろう。乾、店に入ってこい。
 リーダーは結局、乾さんに頼ってるんじゃん、と言ったのも幸生だった。認めるから来てくれ。乾じゃなくて幸生でもいい。章やシゲは俺といっしょに怒りそうだから来なくていいけど、口先男の乾か幸生がやってきて、塚本さんを丸め込んでくれ。俺の怒りをよそに向けてくれ。
 が、俺の切なる願いはかなわなかった。塚本さんは際限もなく愚痴を垂れ流し、俺の怒りはぶすぶすくすぶって、出口を求めている。もはや塚本さんの話す内容を聞いてはいなかったのだが、口調だけでも苛々してきた。うっとうしいったらありゃしない、黙れ!! と一喝したくなってきた。
 よほどのことがなければ、俺は先輩に失礼な言動は取れない。これはよほどのことか? そうでもないだろ。そんなだからおまえは、誰にでも彼にでも怒りっぽいと言われるんだ。鎮まれ、俺の怒り。黙ってくれよ、塚本さん、いっそ酔いつぶれて寝てしまえ。ついにはそう願っていたら、そちらの願いがかなった。
「……んん? すると俺はあの夜のように?」
 この男をかついで連れて帰るのか。愚痴は途切れたけれど、別件の困った事態に陥った。シゲも塚本さんを背負って民宿まで歩いてきたのだから、俺もそうするしかないのか。しかし、俺は塚本さんの自宅なんか知らないぞ。困り果てていたら、テーブルに女が近づいてきた。
「まことにご迷惑をおかけしました。塚本の家内でございます」
「は、はっ、そうでしたか。いや、こちらこそ。はじめまして、本橋です」
 四十代半ばにはなっているのだろうから、塚本さんが結婚していないほうが不自然なのかもしれない。年のころなら四十前後か。やつれているとも見えなくもない、痩せた女だった。
「本橋さんとは、塚本が親しくさせていただいてるんですか」
「親しくってほどでもありませんが、同業者です。眠ってしまわれたんでどうしようかと……」
「そのようですね。このお店には塚本がよく通っていますもので、店の方が連絡して下さったんです。時々こうして迎えにくるんですよ。私が連れて帰りますので」
 優しく甘く低い声だった。彼女がやつれているのは亭主のせいだろう。美しく装えば美人になるだろうに、このおっさんは奥さんに苦労をかけ通しであるらしい。ほら、起きて、歩いて、と奥さんに言われても立ち上がらない塚本さんを見ていると、またぞろ腹が立ってきた。
「こうなっては奥さんには無理でしょう。タクシーまで僕が運びます」
「そこまでご迷惑をおかけしましては……」
「どうってことはありませんよ。塚本さんを背負って運ぶ程度の体力はあるつもりです」
 立ち上がると、小柄な塚本さんよりもさらに小柄な奥さんは、俺を見上げて微笑した。
「本橋さんは力がありそうですね。そしたらおまかせしようかしら。すみませんけどよろしくお願いします」
「馬鹿力はありますからね」
 すみません、すみません、と繰り返す奥さんと、塚本さんを背負った俺は店を出た。空車が通りかからないので、俺は奥さんとしばらく歩いて話した。
「このひと、僕は歌が下手だー、ばかり言っていたでしょう?」
「おっしゃってましたね」
「本橋さんもごぞんじなんでしょう? そんなに下手ですか、彼の歌は」
 たいへんにお上手です、とは言えなくて口ごもっていると、奥さんがくくっと笑った。
「僕は歌が下手だ、歌なんかやめてしまいたい、でも、やめられない、なんてことばかり言ってるのは、私が彼のファンだったからかしら」
「そうなんですか」
「木綿のハンカチーフって歌、ごぞんじですよね」
「知ってますよ。こうでしょ?」

「恋人よ、僕は旅立つ
 東へと向かう列車で
 華やいだ街できみへの贈りもの
 探す探すつもりさ」

 歌ってみせると、奥さんは小さく拍手した。
「お上手。だからひがむのね、このひとったら」
「歌は……ええ……えっとですね、味わいというものも大切でして……」
「そうでしょう? 彼の歌は味わいがあるでしょう? 私は昔から彼のファンだったんだから、ずーっと彼の歌を聴いてます。うまくないのは知ってます。それでも大好きだった。今でも大好きですよ。ただのファンだったのにひょんなことで彼と交際するようになったのは、「木綿のハンカチーフ」のおかげ。私、そのころは別の男のひとと遠距離恋愛をしてて、この歌の通りになりかけてたんです」

「あなた、最後のわがまま、贈りものをねだるわ
 ねえ、涙ふく木綿のハンカチーフ下さい
 ハンカチーフ下さい」

 歌詞には男言葉と女言葉が交互に出てくる。男は都会に出ていき、故郷に残された女が男を想う。都会と田舎で別々に暮らす恋人たちの心がいつしか離れていって、そんな歌詞の内容だ。ラストはこうだった。俺が歌ってみると、本当にお上手ねぇ、と呟いてから、奥さんは言った。
「そのころに塚本と知り合って、恋愛の相談をして、別れるしかないみたい、って言って泣いてしまったら、彼が私にハンカチを差し出して、下手だけど味のある歌を歌ってくれました。私ひとりのためにその歌を歌ってくれました。素敵な歌でした。ごめんなさいね、本橋さん、私ってばなにを言ってるんでしょうね。ただね、一度言っておきたかった。私はあのころの気持ちを変えてませんよって」
 ああ、そうか。俺の背中で塚本さんは目覚めていて、奥さんの声を聞いているのだ。もぞもぞ動いているのからしてそうなのだろう。奥さんは俺に話していたのではなく、夫に言い聞かせていたのだとやっと俺は知った。
「つまりそんなにも、奥さんは塚本さんを愛している。だったらうだうだ言ってないで、がんばらなくちゃね。塚本さんも」
「そうしてほしいです。私とふたりで」
 おーい、おっさん、聞いてるか? とちらりと見ると、塚本さんは咳払いした。
「タクシーが来たみたい。本橋さん、ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそいいお話を聞かせていただきました」
「いいお話? おばさんの昔話にもつきあっていただいて、ありがとうございました。それでは、失礼します」
「お気をつけて」
 酔っ払いをバックシートに押し込み、奥さんもそのかたわらに乗り込むと、タクシーが走り出した。若いころのあのおっさんがねぇ、どんな顔してハンカチを差し出したんだ? そのころの奥さんはさぞかし可憐な風情で泣いていたのだろう。そんな奥さんをやつれさせたのはあんただろ。しっかりしろよ、おっさん。
 あんたには絶対的最高的強力無比のファンがついてるんじゃないか。一生そばにいてくれるんじゃないか。走り去っていくタクシーを見送って、おっさん、しっかりしろよ、ともう一度言ってみた。おっさんがんばれよ、ばかりじゃないな。言うまでもないけど、奥さんもがんぱって下さいよ。そうだ、俺たちもがんばらなくちゃ。
 いい話を聞かせてもらった、と言ったのは、あながちお世辞でもない。夫婦ってそういうものなのか、とでも言えばいいのか、人生経験の乏しい俺には勉強になった。そういう意味では今夜は無駄な時間でもなかった。おまえらもがんばれよーっ、と夜空に向かって、声には出さずに叫んだ。おまえらってのはうちのメンバーたちもだし、ついでと言ってはなんだけど、カープもだ。
 さて、ライヴだライヴだ。俺ももちろんがんばるぞーっ。小声で叫んでガッツポーズをしてから、俺はきびすを返した。


E N D



 
 
 
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~ Comment ~

あんたには絶対的最高的強力無比のファンがついてるんじゃないか

↑良いですね、これ。
なんとなく心に沁みるstoryでした。

真ちゃん、女運悪いね~
というのもしみじみ。面食いなんかなぁ、こういう男っぽい男ってのは。
志保さん、悪い人じゃないんだろうけど、真ちゃんみたいに、一途な男性はダメっすね、きっと。
いつでも自由でいたいんでしょう。
結婚にも向かなそうだし、男の人を支えるタイプの女性じゃないもんな。
それはそれで悪いことじゃないけど、自分だけを見て欲しい男性には無理だね。

塚本さんと奥さんのstoryは、ああ、良いなぁ、と素直に思えました。素敵ですね、そういうご夫婦。
一生、ファンだなんて、ウラヤマシ~!!

でも、fateも男女問わず、女々しい人間って嫌いなんだ(^^;
愚痴は垂れ流しちゃいけませんぜぃ。
真ちゃん編になると、シンガーズとしての展開が進むので、楽しいですな。
一歩ずつ一歩ずつ。
それでも、ほんと、有名になって、それまでの屈辱を晴らしてくださいね~~~!
応援してるよ~ん!

fateさんへ

本日もどうもありがとうございます。

志保さん、これから十年後くらいにまた登場します。
こういう奔放な女っていうのかな、そういうタイプは私とはかなり遠いですので、むしろ憧れたりもするのですが(かっこいい、と言って下さった女性もいましたが)書くのはむずかしいですね。

奔放な女性をいやらしくなく書く、というのは私の目標のひとつでもあります。
こういうタイプって、彼女の意志ではあまり動いてくれないものですから。

塚本さんと奥さん、なんてところに注目していただけると、この夫婦もまた出そうかな、なんて。
この夫婦の子どもってのもいいですよねぇ。

fateさん、応援ありがとう。
そう言っていただけると、俺もめげずにがんぱれます。
フォレストシンガーズのソロライヴができるようになったらチケットをお送りしますので、ぜひいらして下さいね。
東北でのライヴって、いつになったらできるかなぁ。

と、シンちゃんからの伝言でした。
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