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小説319(My lost love)

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フォレストシンガーズストーリィ319

「My lost love」

1・繁之

 本橋真次郎、美江子夫婦のマンションに集まって、フォレストシンガーズの五人に、ヒデも入れて七人で、酒を飲んだり食ったり喋ったりしている。
 学生時代には本橋さんは親元から通学していて、独立したのは大学四年の夏休みだ。あのころは俺は本橋さんとはさほどに親しくなかったから、あとから聞いたところによると、俺は就職はしないで歌手になるんだ、と両親に告げて反対され、決裂して飛び出したのだと言う。
 高給取りのお父さんとふたりの兄さんがいるから、自宅通学なのだから、本橋さんは金にはわりあい不自由していなかったらしく、バイトの賃金は貯金に回し、そのおかげでアパートを借りる資金があったのだと言っていた。
 乾さんの協力もあってひとり暮らしになった本橋さんのアパートは、彼が結婚するまで本橋真次郎の巣だった。俺たちも何度遊びにいったことか。
 飲んだり食ったり喋ったり、相撲を取ったり音楽を聴いたり議論したり、ギターを持ち出して歌を作ったり、酔って歌ったり口論したり。テレビを見たりゲームをしたり、相談したり泣き言を言ったり、短い学生時代にだってこの部屋にはいくつもの思い出がある。
 先に本橋さんと乾さんと美江子さんが大学を卒業し、フォレストシンガーズを結成してからは、この部屋に集まって公園で歌の練習をした。公園と本橋さんの部屋と、いずれでだったのか記憶がごた混ぜになるような思い出が増えていった。
 ヒデが乾さんに自作の曲を見てもらい、ここは盗作だろうと指摘されてかっとして、乾さんを殴りたくなったのを我慢したと笑っていた。
 美江子さんが夜食を作ってきてくれて、みんなでありがたくいただいた。シゲくんってほんっとによく食べるんだよねと美江子さんが笑っていた。
 幸生が乾さんや本橋さんにキスを迫り、ヒデとふたりしてとっつかまえて持ち上げて放り投げたら、幸生はけたたましい悲鳴を上げながらも笑っていた。
 みんなが笑っていた思い出が鮮やかに蘇ってくる。
 そして、ヒデがいなくなってしまい、章がやってきた。章はこの部屋でも公園でも本橋さんや乾さんに叱られて、ふてくされたり泣きそうな顔をしたりして、それでも最後にはみんなで笑った。
 思い出したくない記憶は閉じ込めておいて、楽しかったことだけ思い出そう。
 先輩たちが二十四歳の初秋にフォレストシンガーズがメジャーデビュー。まるっきり売れない時代を経て、すこしずつすこしずつ上向いていって、初のラジオのレギュラー番組を持った。
 ラジオで共演した川上恭子と恋をして、俺が結婚したころからフォレストシンガーズがなお上向いたといわれているのだから、恭子は幸運の女神なのだ。俺は結婚すると決まって引っ越し、同じころに乾さんもマンションに転居した。
 やがて恭子が妊娠し、本橋さんと美江子さんが結婚し、いなくなっていたヒデが戻ってきた。フォレストシンガーズはさらなる上昇を続け、現在ではみんながマンション住まいになった。
 乾、章、幸生は独身だが、三十代半ばの独身男は東京では珍しくもない。ヒデだって婚約はしているらしいが神戸のバツイチ独身男。はたからとやかく言ってもどうにもならないのだし、俺よりはもてる男ばかりなのだから、静観しているしかない。
 そうやって俺たちの境遇は次第に変わり、住まいも変わってはいるものの、心情的にはどこであろうとも本橋さんの部屋。美江子さんが本橋さんの奥さんとしてかたわらにいて、夫の友人たちをもてなしてくれる。美江子さん自身も俺たちの仲間だというのがすこぶる心地よい。
 本当に俺はこれでもう満足だ。これ以上なんか求めなくてもいい。私生活も仕事も充足し切って、今だってこんなにいい気持ちだ。なのに。
「はじめてのあのときは……」
 誰が言い出したのだったか、女の子とはじめて寝たのはいつだ? という話題になった。美江子さんがまだ帰っていなかったので、男ばかりだと遠慮もない。俺は聞こえないふりをして食っていたが、いささか心がざわめいていた。
「その話ってすんだんだよね」
 途中で帰ってきた美江子さんが、餅ピザや米飯ピザを作ってくれて空腹も落ち着いたところで、美江子さんが言った。
「その話、うん、その話ね。で、失恋の話ってのは?」
 女性とのはじめてのあのとき、の話よりは、失恋話のほうがやりやすい。俺も思い出してみよう。失恋だったら何度も経験がある。俺のは淡すぎて、みんなと較べたら失恋もお子ちゃまっぽいのだろうけど、較べるものでもないだろうし。


片想いが破れたり終わったりをも「失恋」と呼んでいいものならば、俺にもそんな経験は数多くある。が、そもそも女性とつきあったことがほとんどないのだから、交際の果てに別れた経験はない。はじめてできた彼女とは結婚した。
 となると、失恋経験のない幸せな男なのか? 十八ぐらいで結婚したのならばそうかもしれないが、彼女いない歴二十六年の末にようやく恋人ができたなんて、恭子と知り合うまでの俺の女性関係は無残のひとことだった。
 合コンで他の男はもてているのに、俺ひとりが女性全員に敬遠されていたり。あぶれた同士でくっついた形になって、あんたみたいな男と私がなんでっ!! と切れられたり。
 フォレストシンガーズのみんなといるときにだって、あとの四人は女性あしらいが上手なのだから、俺はいつだってみそっかすにされていた。みんなで恋の話をしているときだって、俺には話題すらもなかった。
 つきあってはいないけれど、心と心が通い合った経験だったら、俺にもある。恭子には話せない思い出をたどろう。
 我々がデビューして一年足らずの夏の終わり、フォレストシンガーズは沖縄離島にできたリゾートホテルのオープニングパーティで歌う仕事をいただいた。メインはセシリアさんという美人シンガーで、我々は前座であった。
 催しが行われるホテルには泊めてもらえなくて、売れないシンガーズは近くの民宿を宿舎と定められていた。
 民宿の経営者は中年の女性で、俺たちは彼女をお母さんと呼ばせてもらっていた。お母さんの娘のリエさんと親しくなって、乾さんや幸生が彼女と仲良く話しているのを、うらやましい気分で眺めていたのをよく覚えている。
 当時はトラブルメイカーの傾向のあった章が、美江子さんと喧嘩をして飛び出していった夜、島を台風が襲った。
 幸生と本橋さんが章を探しにいき、乾さんと美江子さんとお母さんとリエさんと俺は一室に集まって、身体を寄せ合って三人の帰りを待っていた。リエさんは雷が怖いと言い、俺はそんな彼女をなだめるために抱きしめた。
「お父さんみたい。本庄さんにこうしてもらってたら怖くないよ」
 そう言ってくれたのだったか。俺はあのとき、まぎれもなくリエさんに恋をしたのだ。
 幼いころに父親を亡くしたというリエさんは、あのころからオヤジっぽかった俺を、頼もしい父親のように見ていた。それもあったのだろうが、本庄繁之に好意を持ってくれているのだとも信じられた。
 だが、リエさんは島の娘。民宿の跡取り娘だ。俺は東京のシンガーズのメンバー。彼女を東京に連れていくわけにもいかず、俺が島に残るわけにもいかず、淡いキスをかわしただけで別れるしかなかった。俺にとっては美しい思い出だ。
 花の名前をほとんど知らない俺の想い出の中に、沖縄の花「島あざみ」がある。リエさんが摘んで俺にくれた白い花だった。
 東京に帰ってからも、おりにふれてはリエさんを思い出した。とりわけ嵐の夜、雷鳴が轟くと、腕の中で震えていたやわらかな身体を思い出す。そっと触れた甘いくちびるも、本庄さんの声が好き、と言ってくれた綺麗な声も思い出す。
 淡い淡い触れ合いとはいえ、俺には「失恋」と呼べるものはそれだけしかない。今では妻子がいるのだから、そんなものはなくってもいいようなものだが、数少なすぎる恋の追憶ってやつを思うと、ちょっぴり寂しくなるのも正直な気持ちだった。


2・美江子

 シゲくん、なにを思い出してるんだろう。あれかな? 私が知っているシゲくんの恋といえば……あれは私だって思い出したくもないけれど、彼の失恋に含めていいのだろうか。
 年長の三人が大学を卒業した年の秋ごろだったか、アマチュアフォレストシンガーズが練習していた
本橋くんのアパート近くの公園で、私は一生口にしないつもりでいる場面を目撃した。八幡早苗と本橋真次郎の会話も聞いた。
 誰にも話してもいない、私が見ていたとも言っていないのだから、彼らの誰からも聞いてもいない。でも、私はおおまかな事情は知っている。
 同年齢なのだから私とは合唱部では仲間のようでいながら、根性の悪いいやな女だとも思っていた八幡早苗。彼女は本橋くんが好きだった。けれども、本橋くんは早苗に告白されて断ったのだろう。そのような話を吹聴するひとではないから、誰もその事実も知らなかったはずだ。
 早苗はそれを逆恨みし、本橋くんに復讐しようとした。復讐したいんだったら殴るなりわめくなりですませておけばいいものを、シゲくんを使って報復した。
 外見だけは綺麗な早苗に誘惑されて、シゲくんは彼女とベッドに入ったらしい。早苗だってせめてそうしたことで復讐をすませればよかったのに、のこのこ公園にやってきて、みんなの前でこれこれこうだと大声で言っていた。
 会話をかわしていたのは本橋くんと早苗だが、ヒデ、幸生、乾、シゲも聞いていた。私も内緒で聞いていた。
 あんな卑劣な復讐があるなんて、早苗がそこまでの女だったなんて、私は知らなかった。今でも思い出すと怒りが燃え上がるから、私はその事実を知っているということも墓場まで持っていく。夫にも話さない。
 ごめんね、シゲくん、思い出すだけでもよくないね。あなたは天井に視線をやって、うっすら笑っているから、もっといい思い出をよみがえらせているんだよね。沖縄のリエさんかな。あれはとっても素敵な思い出?


 さて、私自身は。
 十九歳になったころから、幾度思い出しただろうか。他のことではさっぱり潔いミエちゃんであるはずなのに、こればっかりは消滅してくれない。
 大人になり、結婚もした美江子にとっては、拘泥したり悔やんだりする追憶ではない。むしろ、少女期のエロスの香りもする甘酸っぱい記憶だ。私のはじめてのひと、はじめての本当の恋。あなたはどうして今でも独身なの、星さん?
 若いときよりももっともーっといい男になったあなたは、ずるいほどかっこいいよね。私もからんで知り合った若い女の子に恋されて、彼女が若すぎるからって退けたやり方も、私から見れば憎らしいほどだった。
 あんなこともあったから、あなたはいまだに私の心を揺らす。あなたなんかと結婚していたら、私はまともに仕事ができなかったかもね。
 だって、そうでしょ? あなたはどこでもここでももてるんだもの。
 本橋真次郎? 彼だってルックスも悪くないし、若々しさも保ってるし、歌手として成功しつつもあるだけに自信がみなぎってきて、昔以上にかっこいいよ。だけど、星さんと並べたら外見的にはちょっとだけ劣る、かもしれない。
 中身は真次郎のほうが、私にはお似合いなの。だからいいんだけどね、星さんが気になるな。
 早く結婚しなさいよ。私を安心させてよ。まるで実の妹みたいな心境になって、私は過去の男を想う。誰かいいひと、紹介してあげたいな。
 強引に彼女にされて、子供扱いされながらも愛されて、私も彼を愛した。大人ぶって背伸びした十八歳の美江子は、彼の前では対等の女でいたくて、駄々をこねたりわがままを言ったりしてはいけないと決めていた。
 泣くのだけは我慢できなかったけど、それでもそんなに泣いたりはしなかった。だから星さんは別れのときに言ったのだった。
「おまえは泣かない女だろ。泣くなよ」
 詰らせてもくれず、泣かせてもくれずに、十九の私を捨てた星丈人。
 なんてね、三十五歳にもなると、ドラマティックな過去があるっていいよね、と思ってひとりで笑っていたりする。結婚した女の余裕なんてものもあるのだろうか。
 失恋の傷を癒してくれたのは乾くんと本橋くんだ。それから時がすぎて、互いに互いを選んだ本橋真次郎と山田美江子。子供がほしいな、と真次郎は言いたいようで、私もほしくなくはないのだけど、ためらってしまうのは、フォレストシンガーズがあるから。
「子供を産んだら一時休業させて」
 そう言ったとしても、フォレストシンガーズは大丈夫だろう。私がついていなくても、彼らは五人でやっていける。
 私がいなくちゃどうしようもないとうぬぼれているのではなくて、フォレストシンガーズがないと私がどうしようもないんだよ。フォレストシンガーズから離れるのは、十九歳の失恋以上の痛手になる。私が耐えられないだろうから。
 星さんの腕の中で考えたことは、このままで時が止まればいいのに、だった。今の私は切実に思う。時がゆっくりすぎてくれればいいのに。


3・隆也

 口に出しては言わずに、みんなして失恋の思い出を噛み締めているのか。言い出したミエちゃんまでが、なんとなくゆうらりと追憶に浸っているように見える。
 失恋なんて驟雨の数ほどにした。俺の記憶の中ではそのことごとくはふられて終わったとなっている。ミエちゃんがはじめてふられたのは星さんだったのかな。時の中で発酵して貴腐ワインのようになった、ミエちゃんの失恋の記憶は、芳醇に甘くかぐわしいのだろうか。
 はじめて女の子とつきあったのが高校のときで、彼女と距離が離れて別れていったのが俺のはじめての失恋。ほのかな恋は計算に入れずにおこう。
 ひとりで東京に出てきて、香奈と恋をした。香奈にふられてから、純子に恋をした。純子にもふられ……それからそれから、俺は女性とはけっこう何度もつきあっているのだった。失恋ってものは、ミエちゃんだってそうなのだろうが、時が経つと甘い記憶に変わりがちだ。
 俺のひとつの失恋は、まだそこまでは至っていない。本橋に寄り添って笑うミエちゃんや、ああしている姿を見ると胸がちくっと痛む。
「本橋くんだったらこのくらい、食べられるでしょ。食べちゃってよ」
「腹がいっぱいだよ。これ以上食わせて、俺を太らせたいのか」
「いいから食べなさい」
「……うっ、堅くなってるぞ」
 こんな姿は恋人同士ではなく、生活感のある夫婦だ。夫婦だからこそ胸がやるせなく痛むのか。俺も夫婦ってものに憧れているから。加えて、彼の妻が美江子だからだ。


 ミエちゃんへの失恋はいい。時の風がいつかは心から微笑ませてくれて、いつかは言えるだろう。
「俺はきみに恋してたんだよ。本橋に横合いからかっさらわれて、傷心の俺にミエちゃんは気づいてもいなかっただろ」
 優しい皺の増えた笑顔で笑い飛ばして、ミエちゃんは本気にしてくれないかもしれない。
 すでにそんな心境に近くなっている、遠い恋の記憶だってある。章や幸生には、乾さんは女にもてすぎるから、失恋ってか別れってかが多すぎるんだと決めつけられそうなうちのひとつ。俺は何人の女性と触れ合ったのか。
 いや、自分の失恋なんて語っても意味がないから、他人の失恋にしようか。俺とは関わりの深いあいつに恋した、可愛い女の子。
 四年間、欠かさず参加した学生時代の合宿。一年生や二年生の年には先輩方に叱られてばかりだったが、三年生にもなると後輩を指導する立場になる。三年生の夏には俺には彼女はいなくて、本橋にはいた。
 合宿が行われていたのは海辺だったから、俺たちの大学の人間だけではなく、もちろん大勢の観光客がいた。地元の方々が商売をしていたりもした。俺たちも歌の練習だけをしていたのではなく、泳いだり散歩したりもしていた。
 一年生のころはまったくなかった余裕もできて、三年生になると本橋とふたり、早朝から海辺に出て泳いでいたこともある。本橋も俺も水泳は好きだから、暇を見つけては海に行っていた。
 そんなある日の午後の休憩時間、その日は朝から歌の猛練習をしたので疲れていて、俺は部屋でうとうとしていた。三年生の合宿は本橋とふたり部屋だったのは、渡辺キャプテンの配慮だったのか。俺たちを白眼視していた先輩もいたからだったのかもしれない。
 うとうとしていて目を覚ますと、横で寝そべっていた本橋が消えていた。泳ぎにでもいったのだろうと思って、俺も水泳パンツに着替え、Tシャツを羽織ってビーチサンダルを履いて外に出た。
 陽に灼けた広い背中が俺のかなり前を歩いていくのが見える。本橋……大きくなったよなぁ。一年生のときから較べれば、背まで伸びたんじゃないのか? 図体ばかりでかくなって、と彼のお母さんが言っていたのを思い出して、くすくす笑いながら本橋のあとを追った。
 と、視線を感じる。視線をも追っていってみると、なにげないふうについてきている女の子がいた。海辺で見かけたことがあるような女の子だった。
 こっちも気づかぬていで、彼女をさりげなく観察する。中学生か高校生か。本橋は早足で行ってしまい、小柄な彼女は置き去りにされる。俺は引き返して彼女の正面に立った。
「……あ……あの……」
「俺は彼と同じ大学の乾っていいます」
「え、えと、知ってます。本橋さんが乾って呼んでたから……」
「彼の名前も知ってるんだね」
「えーと……」
「ごめんね。高校生?」
「中学二年生」
 それならば小柄でもないだろう。あどけない少女だった。
「アルバイトじゃないんだよ。親戚のうちの手伝いなの。お金はもらうけど、働いてるっていうよりも……ええと……」
「告げ口なんかしやしないよ」
 ナホと名乗った彼女の親戚の家は、海辺から近い小さな街でコンビニをやっている。夏季には海の家のようなものも営んでいて、ナホちゃんはそちらの手伝いをしているのだそうだ。
 自動販売機のチェックをしたり、かき氷を売ったりの仕事をしていると、合宿の大学生たちが目につく。彼女ははっきり言ったわけでもないが、本橋のあとから歩いていっていたところを見ても、彼と俺の名を知っていたところからしても。
「……あいつ、ナホちゃんのタイプ?」
「そんなんじゃ、ないっ!!」
 真っ赤になって叫んだところを見ても、本橋に恋をしたのだろう。
 おまえはもてるから、と俺に言う本橋は、彼だってけっこうもてる。野性的、すなわち動物的である男っぽい男が好きな女性は、この世には大勢いる。本橋さんってかっこいいよな、惚れたよ、と言う男も大勢いて、俺もそのひとりだ。
 なのだから、本橋に恋をする女性は何人もいる。本橋が「告白は俺がする」光線を出しているせいか、女性から告白されたという話は聞かないが、俺には言わないだけなのかもしれない。
 しかし、中学生の女の子が大学生の男に恋をする、告白をする、は俺の個人的意見としては勧められない。片想いでいいじゃないか、とも言えなくて、ナホちゃんの話を聞くだけにとどめた。
 それからもナホちゃんは時々、本橋をどこかから見つめていた。本橋のほうはなんにも気づいていないらしく、闊達に泳いだり笑ったりしている。本橋が合唱部の女の子とふざけているところを見たナホちゃんが、切なそうな表情になるのも目撃した。
 数日後の夜、本橋が言った。
「一年と二年の男数人、五人だったかな。そいつらが悪ふざけしやがって、俺が止めたんだけど、女の子が泣いてたんだよ。今夜、そいつらを呼び出したんだ」
「殴るのか?」
「殴りはしないけど、ちょっとな」
 邪魔すんなよ、と本橋は言ったが、後輩たちと対峙して怒りが燃え盛りそうになった場合、おまえが制御しろ、と言いたかったのかもしれない。俺は傍観するつもりで、夜になってから本橋の言った場所へと出ていった。
「そっか、そんならかかってこいよ」
 暗い浜辺には、遠くにカップルがいるのが見える。女性のふたり連れも二組いる。あの女性たちも合唱部のメンバーか。そんな中、本橋の低い声が聞こえ、続いて別の男の声もした。
「本橋さんにですか……そんな……」
「いいからかかってこいって言ってんだろ。来られねえのか。そんならこっちから行こうか」
 えいっ、とか、うおっ、とかいうような声を上げて、まだ少年の年頃の後輩たちが本橋に突進していく。本橋は鮮やかに彼らを受け止め、身をかわし、次々に五人ともを砂浜に投げた。
 殴るのはよくないかもしれないが、あれだったらいいだろう。どんないたずらをしたのかは知らないが、女の子を泣かせたのならば、あのくらいの制裁は受けて当然だ。制裁ではあっても、時が経てばいい思い出になりそうにも思えた。
 女性たちも見物していたようだが、一組は帰っていった。彼女たちはふたり連れだから大丈夫。残っている一組は、と見ると、ナホちゃんと、もうひとり、知らない女の子だった。
「怖いよ、本橋さんってあんなことするんだ」
「そうだね、乱暴だよね。ナホ、泣いてるの?」
「泣いてないけど、ああいうことをする男のひとって、結婚したら奥さんに暴力をふるうんじゃないのかな?」
「そうなのかなぁ」
「そんなひと、嫌いだ」
「ナホ、本橋さんが好きだって言ってたじゃん」
 俺の予想は当たっていて、ナホちゃんが、本橋さんってあそこの合宿所にいるんだよ、とでもいって
友達を連れてきたのだろう。そうして偶然、あんな場面を目撃したのか。
「好きだったけど、かっこよかったけど、ああいう乱暴なのはやだ」
「うーん、わかるけどね。どっちにしたってさ……」
「どっちにしたって、カレシになんかなってもらえないよね。もういいんだ。ユリ、帰ろ」
 ナホちゃんは自分を欺いたのか、そう言ってかなわぬ恋を諦めたのか。夜だったから表情までは見えなかったけれど、あれも彼女の想い出の中の、失恋のひとこまなのだろうと思う。ナホちゃんはどうしているのか。会えるものならば会ってみたいひとのひとりになっていた。


4・英彦

 ひとりっ子の乾さんあたりは、妹というものを美化したがる。実際に妹のいる幸生と俺は、現実問題として妹の話をしていた。
「金子さんの妹のリリヤってのは、ほんとにほんとに美少女だったよ。あれだけ美人の妹を持つと、兄貴の感覚ってちがうのかもしれないな。幸生も会ってみたかっただろ」
「そこまでの美少女は次元がちがうから、ヒデさんの妹の美咲ちゃんに会ってみたいな。美人なんでしょ」
「けっこう綺麗だよ」
「そりゃ、ヒデさんの妹なんだものね」
 ヒデの妹なんだから美人だろ、とはそれまでにも友人に言われていた。
「おまえの妹たちは?」
「あいつらと会うと口しか見えない。声しか聞こえない。どんな顔をしていたのか、どんな話をしていたのかは記憶に残らなくて、動きすぎる口と黄色い声だけが印象に残るんですよ」
「……そりゃ、おまえの妹だもんな」
 なにからなにまで兄に似ている妹がふたり、幸生の妹ならば小さくて可愛くてうるさいだろう。俺の妹の美咲は俺とはあまり似ていないはずだが、気の強いところだけは似ていた。兄が土佐のいごっそうならば、妹ははちきんだ。俺にはもうひとり弟がいて、あいつもきかんきな悪ガキだった。
 きょうだいというものは年が近いほうが親しみが沸くもので、幸生はひとつ年下と三つ年下の妹とは、三人してころげ回って育ったようなものだったらしい。
 シゲも姉の希恵さんとは三つちがいだが、姉がしっかりしすぎていて、弟がぼーっとしすぎていて、子どものころから圧倒されっぱなしだったようで、だが、仲はよかったのだろう。照れ屋の弟の言葉の端々からも姉弟の親しみは感じ取れた。
 章の弟は十二も年下で、ガキのころよりも現在のほうが仲が深い。
 本橋さんの場合はやや特殊で、七つ年上で双生児である兄さんたちにきびしくきびしく育てられた。本橋さんはいまだに兄さんたちには頭が上がらないというか、子ども扱いされている部分もあるらしくて笑える。
 五人きょうだいの長女の美江子さんは、同性である妹との親しみが深かったようだが、俺は同性の弟よりも、年の近い妹のほうに親しみがあった。
 みんなの失恋話を聞いていると、妹を思い出す。子どものころには母が人形の服を買ってくれないと俺に訴え、俺が母の財布から金を盗んで買ってやり、母にばれて大目玉なんてこともあって、妹はなんでも俺に話していた。
 いつのころからか、妹が思春期の少女になって、兄貴にはなんでもかんでもは話さなくなって、お姉ちゃんがいたらえいのにな、などと言うようになった。
 そのころの思い出を語ったら、文筆家のみずき霧笛さんが物語に仕立ててくれた。私は土佐弁は苦手なんで、あとから標準語を土佐弁に直して下さいね、とみずきさんが笑っていたストーリィには、脚色もフィクションも混ざってはいるが、おおむねはこんなふうだった。

「机の上で頬杖をついて、美咲がため息を漏らす。妹が幽愁の美少女に見えて、英彦は尋ねてみた。
「どうかしたのか?」
「どうもしないよ。お兄ちゃんには関係ないんだからほっといて」
「なんだよ、その言い方は」
 頭をぽかっとやってやろうかとこぶしを振り上げると、美咲が口をとがらせて兄を睨み上げる。その瞳に光るものが溜まっていて、英彦はどきっとした。
「やーめた。ちょっと殴ったら大げさに泣いて、母さんに言いつけるんだもんな。それで怒られるのは俺だもんな。おまえになんかかまうのもやめるよ」
「……ふんっだ」
 鼻の頭に皺を寄せて舌を出していても、今日の美咲はやけに綺麗だった。


 坂本龍馬も見ていたのであろう桂浜を臨む雄大な景色を前にしていても、英彦はなんとなくむしゃくしゃしていた。
「こんなときには喧嘩でもしたいな。なぁ、そう思わないか?」
 近くに英彦と同じくらいの年頃の少年がいる。話しかけると、彼は驚いた表情になった。
「喧嘩したいの?」
「そうだよ。おまえはしたくならない?」
「僕は喧嘩なんかしたことはないし……喧嘩ってのはほら、あの、殴り合ったり取っ組み合ったりってやつでしょ?」
「そうそう、投げ飛ばしたり蹴飛ばしたり、ラリアットとかコブラツィストとか四の字固めとかもかけたりするんだよ」
「なに、それ?」
「プロレスの技だろ。知らないのか」
「知らないよ。プロレスなんて見ないもん」
 しっかり見てみると、なるほど、色白で軟弱そうなひょろっとした少年だった。
「おまえはこのへんの高校? 俺は高一の小笠原英彦っていうんだ」
「僕は中学三年生、山本です」
 どこの中学校なのかを聞いても意味もないから、英彦はさきほどの話題を続けた。
「きょうだい喧嘩ってのだったらするんだろ?」
「姉と喧嘩ってのは……しなくもないけど、一方的にががっと言われて負けちゃうかな」
「姉さんがいるのか。俺には妹と弟がいるんだよ。妹は中一、弟は小学校の三年生。妹は女だし、弟はちっちゃいから喧嘩ったって軽いもので、俺はどっちにも負けてやってるんだ。でないと親がうるさいもんな」
 ふむふむ、と山本は笑い、だからこそだ、と英彦は言った。
「同じ年かすこし年上の高校生の男とだったら、手加減なしで暴力を使った喧嘩がやれるだろ」
「きみは喧嘩が好き?」
「好きってわけでもないけど、勝ったら気分爽快になるじゃないか」
「負けたら?」
「負けないよ」
「負けるってこともあるだろ」
「ないっ!!」
 負けそうになったら逃げるから、完敗した経験はない。逃げるとは言わずに、俺は喧嘩には負けない!! と言い張っていても山本はしつこくて、英彦は彼の胸倉をつかんだ。
「ちょ……ちょっと……」
「そんならためしてみよう。おまえは俺よりも年下だし、弱そうだからハンディはつけてやるよ。おまえは全身でかかってこい。俺は上半身だけだ。脚の攻撃は封じる。かかってこいよ」
「いやだよっ!! 離してって!!」
「だらしないな。喧嘩ってんでもなくて、バトルの稽古だよ。おまえだってしたくなくても喧嘩しなくちゃいけないときもあるんだろうから……」
「いらないっ!! 離してっ!! やめてっ!!」
「なんだよ」
 弱いものいじめをしている気分になってきたので、英彦は腕をゆるめた。
「そんな乱暴な……ううん、ごめんなさい。ごめんなさいっ!!」
 悪いことをしたわけでもないのに蒼白な顔で詫びて、山本は走り去っていってしまった。


 創立記念日で高校が休みだった日、英彦はジョギングの途中で美咲の通う中学校に立ち寄った。五月の若葉が木漏れ日にきらめき、気持ちのいい日だった。
「おー、やってるな」
 校庭では何組かのクラスが体育の授業をやっている。男子と女子に分かれて六組いるので、一年、二年、三年生が各一クラスずつか。あきらかに身体つきが子供っぽくて、一年生だと思える女子たちは、鉄棒をやっていた。
「あ、美咲がいる」
 ということは、一年生にまちがいないだろう。美咲のクラスの男子たちは、跳び箱の練習をしているようだ。
 二年生らしきクラスは球技で、男子と女子が別々にサッカーの練習をしている。中学生でも綺麗な脚をしていたり、けっこう胸の大きな子もいたりするので、英彦の意識は女の子たちにばかり集中していた。
 中学、一、二年でも色っぽい子がいるのだから、三年生ともなるとどうなんだろ、と目をやる。三年生らしき女子は遠くのほうで体育教師の話を聞いているようで、姿がよく見えない。男子のほうはハードル競技の練習をしていた。
「あー、あいつ、山本……」
 ひょろっとした少年がハードルを飛び越えようとして、どでっところんだ。立ち上がって次なるハードルに向かって走っていき、再び足を取られて転倒。英彦は額を押さえた。
「運動神経ゼロだな。あれだったら喧嘩なんかもできないだろ」
 教えてやりたいけど、俺は教師ではないのだから、お節介は焼けない。英彦は校庭の隅から、すわり込んでしまった山本と、鉄棒の上で逆立ちしている美咲の伸びやかな肢体を見比べていた。
 すると、山本と美咲は同じ中学校の三年生と一年生なのだ。高知市内の中学校だから生徒数はわりあいに多く、学年も性別もちがっていたら知り合いでもないだろうと思っていたのに。
「あれれ?」
 もうじき美咲も授業が終わるのだろうから、一緒に帰ろうか。今日は汗ばむほどの陽気だから、アイスキャンデーでも買ってやろうか、英彦はそのつもりで、学校の回りをジョギングして待っていた。一時間ほど走っていると、中学校の下校時刻になる。
 クラブ活動のない生徒たちが、ぞろぞろと中学校から出てくる。アヤシイ奴だと思われてはいけないので、さりげなく待っていたのだが、美咲はなかなか出てこない。入りたい部活はないと美咲は言っていたから、クラブ活動はしていないはずなのに、掃除当番だろうか。
 面倒になってきたので帰ろうとしていたら、山本が校舎から出てきた。はじめて会ったときには高校生かと思ったぐらいだから、彼は背が高い。学生服を着ていると秀才にも見えた。
「ちょっと……待って」
 早足で歩いていく山本をなんとなくつけていたら、だいぶ歩いてから女の子が追いかけてきた。英彦がびっくりしたことに、彼女は美咲だった。
「待ってるって……言ったのに……」
「そうだったかな」
「約束したのに」
「約束なんかしたっけ」
 生意気にも中学生でつきあっているのか? 美咲が三年生の山本の下校を待って、一緒に帰る約束をしていたのか。出るに出ていけなくなって、英彦はこっそりふたりを尾行していた。
「ゆっくり歩いて。走ってきたんだから」
「小笠原英彦って知ってる?」
 息を切らしている美咲に、山本は冷淡な声で言った。
「小笠原と関係なくはないだろ」
「……兄ちゃんに会ったの?」
「そういえば小笠原に似てたよ。背は僕くらいあって、整った顔をした乱暴な奴。桂浜の近くで会ったんだ」
「いつ?」
 あの日、たしかに山本と会った英彦の話を、ふたりは熱心にしている。美咲もそいつは私の兄だと認め、山本は言った。
「僕はああいう奴っていやなんだ」
「乱暴って、兄ちゃん、山本くんになにか言ったの? なにかしたの?」
「なにか言ったし、されそうになったから逃げたんだよ。小笠原とつきあったりしたら、あの乱暴者の兄貴になにされるかわかんないだろ。だから、ついてくんな」
「……そんなのって」
「つきあおうって言ったのは取り消すよ」
 脚の長い山本はさっさと行ってしまい、美咲は立ちすくんでいた。山本の言う小笠原というのが美咲のことなのだろうから、深いつきあいをしているわけではないと英彦は思う。
 それにしたって、おまえが美咲とつきあおうって言ったんだろ。美咲はそのせいで恋する娘になって、幽愁までをたたえた美少女に見えたんだ。なのに、俺みたいな兄貴がいるからってつきあうのはやめる? 本気で殴ってやろうか。
 だが、小笠原美咲に近寄った男は兄貴の英彦に殴られるなんて噂が立ったら、美咲は結婚もできなくなってしまう。これだけのことで山本がもしもそんな噂を流したら、そのときこそ呼び出して殴ってやろうと英彦は決めた」


 みんなが話している自分の失恋、そういうのは俺にもある。最大の失恋というのか、恋でもなかったから失恋でもないのか、離婚の経験だってしている。自分の失恋なんて語りたくもないから、みずきさんが書いてくれた小説の話をした。
「それ、まだ本にはなってない分でしょ。俺も構想は聞いたんだけど、どこまでが本当?」
 幸生が尋ね、俺は答えた。
「大筋は本当だよ」
 中学一年生の美咲がつきあっていた男、山本という名前ではなかったが、事実、そんな奴はいた。彼は中学三年生で、白皙の秀才だった。
「あたしは兄ちゃんみたいな肉体派じゃなくて、頭のえいもの静かな男の子が好きなんやきに。兄ちゃんみたいな荒っぽい男は嫌い!!」
 つきあっている男はいると聞いていたので、中学校へ見にいって、そいつに小説の冒頭のような言葉を浴びせた。そいつはぶるってしまって、美咲に小説にも出てくるようなことを言ったらしく、美咲が暗く暗くなってしまった。
「兄ちゃん、彼になんて言うた? なにをした? 彼ははっきりとは言うてくれんきに。なにをしたんよっ!!」
「あんなことでおまえと別れるなんて言う男、やめとけ」
 というような出来事は、事実、あったのだ。美咲はそれから長く口をきいてくれず、両親にまで詰られて、しかし、両親には内緒の交際だったらしいから俺はなんにも言わなかった。
 失恋ってものは時が癒してくれる。妻に捨てられて子を捨てたことすらも、時間が癒してくれた。中学生の恋愛なんてものはもっと簡単に時が忘れさせてくれて、美咲はじきに以前のまんまに俺と接してくれるようになった。
 だけど、美咲、ごめんな。大人になったおまえは恋をして、結婚もして子供も持つようになったのだから、中学生の恋なんて忘れただろうけど、おまえの恋を邪魔して失恋させたのは俺だよ。ごめんな、と今さらながら詫びておいた。


5・真次郎

はじめて女の子とつきあったのは中学生のときで、受験勉強をしなくてはならなくなって自然消滅したのだから、失恋とも呼べない。
 高校生になってから好きになった女の子とは、告白もしないで片想いのままだったり、なんだ、こんな奴だったのか、と本性を知ったつもりになって勝手に幻滅したりしているばかりだった。高校生活最後に告白したのは断られたわけだから、あれが最初の失恋経験か。
 優しい色あいの絵を描く、理知的な風貌の女の子。
 彼女は俺よりも一年年下で、彼女と同じクラスの野島を好きだったのかとも思う。野島……しのぶ、どうしているのかなぁ。
 淡い恋と失恋の記憶は、歌を書いて歌う者には財産かもしれない。
 大学生になってからは、女の子と実際につきあうようになった。年齢的には大人になって、精神的にはガキだったあのころから、アマチュアフォレストシンガーズの時代、売れないフォレストシンガーズの時代。
 真面目につきあった女の子も、ベッドのつきあいだけだった女もひっくるめれば、女の数は多いほうなのだろうか。幸生が一番、章が二番、俺が三番? 寝た女の数を競うなんてのは馬鹿な男でしかないだろうが、ひそかに計算したくなる。
「男の競争本能って信じられない」
 女はそう言うが、女のその本能とはややちがった作用をするだけだ。女だって勝ち負けを考えているくせに。
 幸生と章が無意味に数が多いのはまちがいないだろうから、俺は三位だろうか。シゲは別として、乾は女とのつきあいには深さやこまやかさを求めるようだから、数は多くないはず。惚れられた女の数は乾が一番にしても、寝た女、惚れた女は意外に少ないとは、小癪な奴だとも言える。
 二十代後半から三十歳くらいまでの俺は、刹那的に女とつきあった。
 あのころの俺はなにを考えて女と軽い気持ちで寝たのだろう。中には真剣だった相手もいるものの、そんな女とも続かなかった。
「真次郎は売れない鬱屈を私にぶつけてるんじゃないの?」
 そう言った女もいた。
 絶対にそんなことはないっ!! と否定はしたものの、今となって考えれば、あったのかもしれないなと思う。売れないフォレストシンガーズに苛立って、女のぬくもりに癒しを求めた。真剣につきあっている女でも、ゆきずりの相手でも、抱きたいと強く感じて突き進んだ。
 真剣だといったって、結婚までは至らなかった。女にプロポーズされた経験もなくもないのだが、あのときには逃げることしか考えていなかった。
 その女とは結婚なんてしたくない、というよりも、誰とだって結婚はしたくなかった。結婚なんてとんでもない、俺は一人前の男ではない、仕事だってまるで確立もしていないし、てめえひとりの面倒も見切れないし、俺はリーダーとして、フォレストシンガーズのみんなへの責任もあるのだし。
 気負いもあったあのころの俺は、心に住む女とベッドで抱く女が別々だったりもして……思い出すと胸が痛む。失恋なんてものは、罪もなかったガキのころの思い出のほうがいい。大人になってからだと、罪の意識がつきまとうから。
「仕事ばっかり大切でデートもすっぽかすような真次郎には、ついていけないのよ」
「売れないからって鬱憤をぶつけるあんたとは、つきあってられないわ」
「本橋くんはすぐに怒るし、優しくないし、さよなら」
 何歳のときだったのかがごちゃ混ぜになって、過去の女たちの別れ言葉を思い出す。
「金子さんは思いやりがあって優しいよね。本橋くんとはえらいちがい」
「……そう、あのひとのほうが好き。別れて下さい」
「本橋くんは忙しいんだもんね。私はもっと私にかまってくれる男がいいの。だけど、仕事を減らしてなんて言えないから、バイバイしようね」
「転勤するの。真次郎とは会えなくなるね。せいせいするわ」
 大部分はそうして俺がふられたわけだが、ほんの少々、俺から去った相手もいた。
「本橋さん、抱いてもらって嬉しかった。ほんとよ。私にだって彼はいるんだから気にしないで。遊びでよかったのよ」
「あなたと結婚できないんだったら故郷に帰るわ。探さないでね」
 そっちの女の別れ言葉が俺の胸に痛みを蘇らせるとは、俺ももてる男みたいだな。乾隆也じゃあるまいし、かっこつけるんじゃねえよ、本橋真次郎。


 今、同じ部屋の中にいて、テーブルの残りものをつまんだり、残っている酒を改めてグラスに注いだりしながら、すこしばかり喋るのが途絶えている奴らにも、失恋経験はあるのだろう。あって当然だ。
 男たちの失恋ってのは、俺もそうだったなぁ、と共感を持ったり、おまえ、それはないだろ、と意見してやりたくなったり、ほぉぉ、さすが乾、かっこいいな、と皮肉まじりに思ったりする程度だが、女は……ここにいる女は。
「シゲくん、足りた? お茶漬けでも食べる?」
「いえ、もう、おかまいなく」
「遠慮しなくていいのよ」
「じゃあ、ごちそうになります」
「みんなは? いらない?」
 もうけっこうでーす、腹いっぱーい、などと章と幸生は言っていて、乾とヒデもかぶりを振る。美江子はうなずいた。
「日本茶も淹れてくるね」
「おい、俺にはお茶漬けはって聞かないのか?」
「食べたかったら手伝いなさい」
「……はい」
 わっははははっはっはーっ!! とはじけた笑い声は幸生だ。
 ここにたったひとりだけいる女は俺の妻。こいつの失恋話は聞きたくない。失恋の前の男との恋の日々を連想してしまうから、俺も知っているエピソードもあるだけに、美江子の恋は思い出したくない。
 身勝手なガキが成長して、身勝手な大人になった。身勝手な中年になりつつある俺は自省する。フォレストシンガーズのリーダーとして、自分のことだけを考えていては生きていけなかったはずだけど、こと女房の過去となると心が狭いんだよな。
 仲間たちの恋も失恋も、あって当然だと感じるくせに、美江子に過去がないなんて、無垢な女すぎたら気持ちが悪いとも思うくせに、聞きたくないとも思う。シゲ、おまえもそうか? 恭子さんの過去は知りたくないのか?
 失恋話がすんだら、シゲとふたりだけで人の夫の心境話でもしようか。かつてはその経験があり、近く再びその仲間入りをするのであろう、ヒデも加えてやってもいいな。


6・幸生

 俗説によると、男のそのことには限りがあると言う。
 シゲさんはきっとまだまだ続くのだろうが、乾さんや章はもうじきおしまいだったりして。そうと断言できるほど、俺はこのふたりのもてもて男のその実数は知らないのだが。
 そして俺は? 俺もたぶん相手の数もその数も多いほうだと思う。ベッドに入って狭義の意味で愛し合った女性は何人いるのか、覚えていないほどだ。おそらくは数だけだったら乾さんには勝つ。章にも勝つかもしれない。
 ヒデさんも案外、本橋さんだって案外……ではあるのだが、他人はまあいいとして。
 そのことには限りがあるのだとしても、恋には? 人間が生涯でできる恋の数も決まっているのだろうか。失恋の数も?
 美江子さんと本橋さんとシゲさんは既婚で、ヒデさんには恋人がいる。乾さんにも好きなひとがいるらしい。章にもなにかあるらしいが、俺にはなーんにもない。
 なんでなんで? このところは俺はまったく恋をしていないのはなぜ? 章は若いころと変わらず、あの子が好きだのあいつにふられたの、昨夜はちょっとな、むふっ、だのと言っているのに、章と同年の俺はなぜ?
 ゲイのおじさんにジョークっぽく口説かれたりだったらあるが、章だと忌避する悪い意味での変な女にさえも、三沢さんはいいわ、その気にならないの、と言われるのはなぜ?
 恋をしすぎたから? ってほどの経験はないはずなのに、どうして俺の毎日には華やいだ「恋」がなくなってしまったのだろうか。不倫の恋をしたから? 詩織さんにだってふられて、彼女は夫のもとに帰っていったのに。
 不倫をした罰として恋ができなくなるんだったら、世の中、悲しい男女がいっぱいになるはずだ。妻のある男と恋をして別れた女性には二度と恋がやってこないとは、神さまはそんなに無情ではないはずだと思いたい。
 そっかー、現時点での俺の最後の恋、最後の失恋はあれだったんだ。
 あれからだって淡い恋のようなものならしたけれど、真剣に恋をして、彼女を求めて悶え苦しんで、代償としてナンパして誰彼かまわず寝ていた、あれほど狂おしい想いは絶えている。
 真剣に詩織さんに恋してたくせに、ナンパなんかしたからそっちの罰か? 詩織さんに捨てられたのだから、罰はそれだけで十分だろ。あるいは、俺はやっぱり女とはシリアスな恋のできない体質なのか。だからこそ独身なのか。
 フォレストシンガーズの独身三人は、三人ともに性格がちがう。
 惚れっぽくてふられっぽい章。恋に恋する乙女……って、誰が? みたいなところがなくもない乾さん。そして俺は、弥生さんにこう言われる奴なのだった。
「ユキちゃんは不実っていうんでもないんやけど、結婚はせんほうがええね。ずーっと独身で好き勝手にやってたらええやん」
 自分でもそうかもしれないと思うのだが、恋はしたい。
 というわけで、俺は恋にも失恋にもとんとご無沙汰で、女の子のユキちゃんに変身して隆也さんといちゃつくというか、俺のほうからいちゃつきにいって適当にあしらわれるというか、そういうことをして寂しさをまぎらわせている。いや、半ばはジョークで。
 そんなユキにライバルが出現した。いや、半分は冗談で。
 その女の子の名は千鶴。ユキが具象化してもとうていかなわない美少女だ。具象ユキは十八歳。小柄で華奢でありながらプロポーションは抜群の美少女という設定だが、千鶴ちゃんは女優の卵だし、一般人のユキでは張り合えない。
 ユキの職業までは考えていなかったけど、一般人ってことにしておこう。十八歳だったら学生ってところだろう。
 どうしてだか未公開で、ひょっとしたら幻の名作になるんじゃないかとも言われている映画、「タブーNO.3」に、乾さんがミュージシャン役で出演し、同じ映画に佐田千鶴も通行人の役で出演した。ほんの端役だったふたりが宣伝用ポスターに抜擢されたのがなぜだったのかは俺は知らない。
 女性たちが感じるエロティックをあらわすために、顔は見えなくて身体の美しい若い女性と、体格も顔立ちも男々はしていなくてセクシーでもある乾隆也が使われたのか。だったら俺だって……ってのはどけておこう。
 ポスターは評判になり、しかし、乾隆也の相手役の女優の名は映画と同じで未公開だ。「タプーNO.3」の関係者は徹底的に秘密主義であるらしい。
 エロティックなポスターなのだから、千鶴ちゃんと乾さんの服装やポーズもエロい。俺は千鶴ちゃんが乾さんに恋したいきさつを詳しくは知らないが、千鶴ちゃんとは親しい哲司が言っていた。
「あいつは浅はかだから、演技でエロっぽく千鶴を抱いたりさわったりする乾さんにしびれちゃって、恋をしたんだよ」
 幾度かそんなふうに言っていた哲司は、千鶴ちゃんとなにかあったのだろうか。俺をジョークで口説きたがるゲイのおじさんというのが哲司の恋人で、哲司はバイセクシャルなのだそうで、女性がその手の男をどう思うのか、女性によってちがうのか、といったあたりも謎だが。
 それはともかく、千鶴ちゃんは乾さんに恋をし、乾さんに拒絶され、たしかに浅はかな行動に出た。
 恋をしてくれない男には嫌われたいと願ったのか。ああ、もしかしたらその続きで千鶴ちゃんは哲司と……そうとも考えられる。
 あれからくねくねした道を歩いたのか、千鶴ちゃんと乾さんはもと通りに、兄と妹のような、家庭教師と生徒のような、教育係の執事とお嬢さまのような、そんな関係に戻っている。千鶴ちゃんがそれでいいなら、俺にはなんにも言う権利はない。
 乾さんに恋をしている女性は何人もいる。乾さんの気性からしても、恋心が成就する幸せな女性はたったひとりだろう。ただ「抱いて」だけだったら俺だったらかなえてあげるけど、乾さんはそうはしないのだから。
 そういう意味では昔から乾さんに失恋した女性は大勢いるのだろうけど、俺は千鶴ちゃんにもっとも感情移入してしまう。千鶴ちゃんがユキと似てるから……とは、千鶴ちゃんは言われたくないだろうけど。


7・章

 昔の失恋なんて今さらどうでもいいじゃないか。俺の場合は……と言いかけると、シゲさんにさえぎられた。
「章はまだ現役なんだよな、いいなぁ」
「シゲくんなんかは恋からはリタイアして、そのうちには広大や壮介が彼女を連れてきたら、ってふうに考えるんでしょ」
「美江子さんだって恋はもう……でしょ?」
「人妻が恋なんかしてはいけませんよ」
 真面目な顔で幸生が言い、本橋さんは美江子さんをちろりと見、乾さんは言った。
「幸生の言葉を信じるとしたら、なーんにもないんだそうだよな。他の五人は失恋するような状況にはいないんだ。おまえだけだろ。話したいのかな、章くん?」
 一時は恋愛から遠ざかり、俺はこれで枯れてしまうのかと思っていた。
 が、最近は年に三、四回恋をしているのではないだろうか。そんなに何度も恋ができるのは、すべてふられてしまっているからだ。
 この子、好きだ、彼女になってほしいと感じたのは、小柄でほっそりしたいい女。たいていは若かった。ナンパみたいにしてベッドインだけした女の中には、俺に近い年齢の女も背の高い女もいた。俺は年上と長身と太ったのは苦手だが、寝るだけだったら許せる場合もある。
 デートはできてもそれだけだったり、口説きもできずに諦めたり、手が届きそうになったらはしごをはずされたり、俺ってこのまんま、じじいになってもこんな恋愛人生を送るのか。だったら早々にしおれたほうがいいのか。
 そんなふうなのだから、たまに女と寝られたらそれでいいとも思っている。
 寝るだけは恋ではないから、それだけで女とバイバイしたって失恋とは呼ばない。俺の失恋……彼女は? あれは失恋なのか。俺は彼女に恋をしたのか。
 俺が大学を中退してから、幸生が彼女と知り合ったのは三年生の年だったという。それからブランクがあって、声優になっている彼女が幸生と再会したのが数年前。そのときには俺も彼女に紹介してもらって、可愛いな、好みだなと感じた。
 小柄で華奢でアニメ声の、三沢幸生の女性版だとも言われるらしき古久保和音。「ふるくぼ・かずね」が本名である彼女は、芸名を「古久保ワオン」という。ワオンとは学生時代に幸生が命名したニックネームだそうだ。
 幸生とは因縁がなくもなく、ヒデさんの現彼女とも友達であるワオンちゃん。年齢は俺と同じ。声はきわめて若く、見た目も若い。好みのタイプなのはまちがいない。
 ワオンちゃんとだったら恋人になりたいと思う。なのに俺にはわだかまりがあって素直にできない。俺は好きになった女の子にはストレートに告白するのだから、こんなふうに屈折するのはなにかしらの理由があるはずだ。
 その理由がてめえでもつかみ切れない。
 もしかしたら、ワオンちゃんと幸生は学生時代につきあっていた? ベッドにも入る仲だった? 尋ねられない。
 それに、こっちがワオンちゃんとつきあいたいと思っていたって、むこうは俺にその気ではないはずだ。仕事がらみで話してもつんつんしてるし、偶然出会った店では俺を無視して本を読み、煙草はやめろと言っても聞かなかった。
 結局のところ、俺はワオンちゃんに嫌われているのか。だったらやっぱり失恋か。昔の失恋にはなつかしい味がする場合もあるだろうけど、現在の失恋は苦いだけだ。


END
 
 
 
 
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