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小説33(白い冬)

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フォレストシンガーズストーリィ・33

「白い冬」

1

 合唱部の先輩同輩後輩たちが、大学生としての本分である学問のほうではなにを専攻しているのか把握していなかったころ、本橋さんが言った。
「俺はガキのころからそういったたぐいに関心があって、それゆえに選んだんだ」
 そういうたぐいとは、ウルトラマンをはじめとする特撮のヒーロー、怪獣、それらにまつわるもろもろのことがらだ。俺の両親だったら、繁之、そんな遊びみたいな動機で専攻学問を決めるのはやめなさい……と言いそうであるが、本橋さんはそれゆえに、宇宙科学を選んだのだそうだ。本橋さんが理系人間であるとは、俺にもうなずけなくはない。
 一方、典型的文系人間である乾さんは、日本文学、しかも古典文学専攻。俺は好きだからというだけの理由で日本史を選んだ。俺は文系でもなければ理系でもない頭の持ち主だと思うのだが、そうすると歴史系人間になるのだろうか。
「俺は大学ではとりたててなにをしたいとも考えてなかったっていうか、そこまでわかってないままに大学受験に挑んだから、とりあえず経済」
 そう言ったのは幸生で、小笠原のヒデが続いて言った。
「俺は心理学。心理学なんてガラじゃないんですけど、それがなんなのか深くは知らずに入学してしまいましたから、幸生とは似たようなものかな。美江子さんは教育学部ですよね。先生になりたかったんですか」
「私には向いてるかな、って思ってたけど、どうだろうね」
 そのころは俺たちの会話の中にはいなかったけれど、その後フォレストシンガーズに加わった章は、一年間だけとはいえ通信工学専攻だったのだそうだ。
 教育学部、理学部、文学部、史学部、経済学部、工学部と、なんの接点もなくばらばらの学部で学んでいた俺たちは、合唱部で強く結びつき、幸生も大学を卒業してから一年半以上がすぎた今では、出身学部とはなんの関わりもない職業についていた。心理学のヒデはどこでなにをしているのか、現在では誰ひとり知らなかった。
「耐寒訓練を兼ねて、外で歌の練習をしよう」
 メジャーデビューしたのは去年の秋で、あれから一年余りの時がすぎ、今日の俺たちは関西の田舎町にいる。温泉のある町で、明日のイベントのために呼ばれていた。外で練習しようと言ったのはリーダー本橋さんで、章がぶちぶち文句を言いかけ、乾さんに睨まれて口を閉じ、真っ先に外に飛び出した幸生が言った。
「ねえねえ、リーダー、乾さん、おふたりが世に出るきっかけになった、引いては俺たちのデビューのきっかけになったともいえる曲があるでしょ。ウォーミングアップとして歌って下さいよ。章は知ってるか、その歌?」
「白い冬だろ。俺はリーダーと乾さんのデュエットの「白い冬」は聴いたことないな。歌って下さーい。その間に俺もなんとかコンディションを整えて、歌えるようにしておきます」
「じゃあ、シゲさん、章のコンディションのためにご尽力を……」
 幸生の提案に応じて、なにからはじめる? と俺が言うと、章はあとずさりした。
「喉のコンディションのためのトレーニングには、本庄さんの協力はいりません」
「いいや、おまえのためにはシゲさんの協力が必要不可欠だ」
「うるせんだよ、幸生は。いらないっての」
 コートを着込んでマフラー巻いて、こんな格好でトレーニングなんかできるかよ、と俺がコートを脱ぐと、章が逃げ出した。幸生が大声で、あんまり遠くへ行くと遭難するぞーっ、と章に呼びかける。遭難するほどの場所でもあるまいに、なにかにつけて幸生は大げさなのである。
 明日のイベントは町のちいさなホールで開催される。我々が宿泊しているのはホールにほど近い民宿で、部屋で歌の練習などすると相客の迷惑になる。だからこそ外で、となったのだが、じっとしていると寒い。くちびるまで凍えてきそうなので、俺は駆け足で章に近寄ってつかまえた。
「歌が聴こえる程度の範囲で走るぞ。章も走れ。幸生も喋ってばかりいないで走れ」
「歌う前にダウンしますよ、俺」
「そんなんでダウンする奴は……」
 歌わなくてもいい、とも言えなくて困っていると、美しい声が聴こえてきた。乾さんのヴォーカルだ。ふきのとうの「白い冬」。大学一年生の合唱部新入生当時に、本橋さんと乾さんが初デュエットした曲だと聞いていた。

「ひとりで想う秋はもう深く
 過ぎ去れば虚しく消えた日々
 あなたに会えた秋はもう遠く
 迎えつつあるは哀しい白い冬」

 なんだって男にこんな声が出るのかなぁ、と俺は何度でも不可解に思う。男にだって高い声、透明な声、綺麗な声の持ち主はいくらもいると知ってはいるのだが、乾さんの声は特別だ。美しく透き通った声を出すだけではなく、力強く男っぽいヴォーカルもできるのだから、乾さんの喉は特別製の構造になっているのだろうと理解しておくしかない。
 あなたに会えた……のフレーズからは、低く本橋さんがコーラスをつけた。本橋さんの声は適度に太く低く、男の声以外のなにものでもないので、こちらは俺にも不可解ではない。不可解といえば幸生と章の声はさらに、なのだが、とりあえず幸生と章はうっちゃっておいて、俺は先輩たちの歌に聴き惚れていた。

「もう忘れたすべてあなたのことは
 秋の枯葉の中に捨てた」
 
 逃亡したそうだった章も、黙っているということがほとんどできない幸生も、無言で歌を聴いていたのだが、乾さんが口笛で間奏をかなではじめると、幸生が言った。
「この歌って、男の高い声に男の低い声がコーラスつけるでしょ。シゲさんと俺とで歌ってみましょうよ」
 フォレストシンガーズとして発表した歌はまだ多くはないのだが、書き溜めたオリジナルもいくつもある。既成の曲のコピーをするのならば、ジャンルは無限に広がる。「白い冬」は古いフォークソングだが、こういった昔の歌も俺たちのレパートリーにはたくさんたくさん入っていた。
 幼少のころからピアノをやっていた本橋さん、ガキのころには少年合唱団にいたという幸生は、クラシックが出発点だったのだろう。乾さんはおばあちゃんに歌わされて、民謡や演歌の知識を蓄積している。乾さんはフォークソングも好き。幸生はグループサウンズナンバーが好き。章は生まれも育ちもハードロックなのだそうで、俺はとりたててなにが特に好きというわけでもなく、歌ならなんでも好きだ。
 そんな五人に歌える歌は、なんでもかんでもすべて、だと俺は思う。章はロックにこだわりがあるようだが、このジャンル、と限定する必要はない。そこらへんを走って身体がいくらかあたたまったので、次は幸生と俺がデュエットした。ソロパートは声の高い幸生、コーラスパートが声の低い俺だ。
 
「ひとりで暮らす冬ははや涙
 思い出せば虚しく消えた日々
 あなたを愛した秋はもう去って
 感じるものは哀しく白い冬」

 身体のトレーニングは避けたがるのだが、歌ならいつでも大歓迎の章が言った。
「高い声同士でもいいだろ。幸生、次は俺とデュエットしよう」
「ふきのとうの他の歌でやってみろよ。流星ワルツはどうだ」
 ふきのとうというフォークデュオには、多数のレパートリーがあるのだと乾さんが言った。乾さんはふきのとうがお気に入りらしいので、俺も乾さんから何曲も何曲も教えてもらっていた。歌詞もメロディもしっかり覚えている。

「誰にも知られずひっそりと
 離れ離れに生まれ落ち
 闇から闇へと駆け巡る
 男と女の流れ星
 ワルツを踊りましょう、足並みそろえて
 今は涙をふいて流星ワルツ」

 不可解といえばさらに、を思い出した。幸生と章の声の不可解さは乾さんの声の比ではない。乾さんの声は高くても男だが、章ときたら夜空を超えて宇宙へまで飛翔しそうな高音だし、幸生は甘くとろけそうな声を出す。ふたりの「流星ワルツ」は、男同士のデュエットだとは俺にはとうてい思えない。
 章が加わって、フォレストシンガーズとして歌いはじめてからだと二年以上にもなるのに、章と幸生の声はいまだに俺を幻惑させる。章はロック声だと自他ともに認めるところだが、フォークソングもしっかりこなすし、幸生は低く落ち着いた声で歌えば、ああ、男なんだ、と思えるし、変な奴ら、という結論に達するしかないようだった。
 「白い冬」は彼らの代表曲なのだそうだが、五人の組み合わせを幾通りにも替えて、ふきのとうの歌を何曲か歌った。歌の練習にはうってつけで、最後に本橋さんが言った。
「じゃあ、次はシゲと俺とで「風来坊」をやろう。シゲ、知ってるよな」
「知ってます」
 
「この空どこまで高いのか
 青い空、おまえと見上げたかった
 飛行機雲のかかる空
 風来坊、さよならがよく似合う」

 高めの声は本橋さんにも俺にも出なくはないけれど、テナー三人に高い声で対抗するのは無理がある。俺たちは大人の男、男そのもの路線でな、と本橋さんが囁いたのは、本橋さんもいつしか、対抗モードになっていたからかもしれない。本橋さんと俺のデュエットに、幸生がコメントを述べた。
「こういう声だけは俺には出せないんだよね。太くて低い声。出ない。出してみたい」
「いくらなんでも人の出せる声には限りがあるんだよ。おまえの声はもとから高いんだし、女声まで出せるんだから、それ以上を望まなくていい」
 乾さんが言い、「白い冬」をテナー三人で歌おう、と続けた。今夜最後の歌の練習は、不可解のきわめつけコーラスになった。聴いていると頭が混乱してくる。それはそれは美しいコーラスであるのはまちがいないのだが、目を閉じて聴き入ると変な気分になってくる。
 それぞれの声の聞き分け……この声は章。へヴィメタ金属声、きんきらきんの声。なのに今は、フォークソングタッチに声を変換している。これは幸生、まるで女声が加わった混声コーラスみたいだ。そしてこの声は乾さん。聴きようによっては、少年ふたりと高い声の大人の男のハーモニー、にも思える。
 三つの声がとけあって、寒い夜空に響いていく。おあつらえ向きに雪がちらついてきて、明日の朝には本物の「白い冬」になりそうだった。
「寒い。もう帰りましょうよぉ」
 ついに章が音を上げ、そうしよっか、と五人で民宿に戻りかけると、大きな鍋をえっちらおっちら運んでくる女性に出会った。民宿の娘さんの千鶴さんだ。
「練習はすみましたか。寒かったでしょう。私もしばらく聴いてたんやけど、ええもんがあったって思い出して。お好きやったらええんやけど」
 持ちましょう、と申し出たのは乾さんだったが、千鶴さんの返事を待たずに、本橋さんが彼女の手から鍋を取り上げ、うっ、と唸った。
「……なんですか、これは」
「本橋さん、落っことさないで下さいよ。手伝いましょうか」
 俺が言ってみたら、本橋さんは足を踏ん張り、これしき、手伝ってもらわなくても平気だ、と言った。千鶴さんはくすくす笑って言った。
「重たいからここで召し上がります? あったまりますよ」
 鍋には丼がぶらさがっていて、地面に下ろしたそれを俺もためしに持ち上げてみたら、たしかにたいそう重かった。本橋さんは女性の手前、重い、シゲ、手伝え、とは言えなかったと見える。千鶴さんが鍋の蓋を開け、中身を覗き込んだ俺たちは、うわわ、どうしよう、となってうろたえかけた。
「千鶴さん、こりゃ重いですよ。本橋がぐらつくほどなのに、よくその細い腕でここまで運んできましたね。ありがとうございます。あなたの心づくしには感謝してもし切れない。みんな、いただこう」
 私、力持ちなんですよー、と俺にはなつかしい関西なまりの千鶴さんが、乾さんに応じている。中身はぜんざい。東京では汁粉と呼ぶのであるようだが、実は全員、回れ右して逃げたいところだったのだ。
「食え、シゲ、ほら」
 千鶴さんが丼によそってくれたぜんざいを、乾さんが俺につきつけた。
「はい、いただきます」
「おまえのは大盛りだ。本橋、食え」
「食うよ、いただきます」
「幸生、そら、章も」
「へーい、うわー、おいしそう。ね、ね、章」
「うん、おいしそうだね」
 そこはかとなく情けない顔になって、乾さんの手から回ってきたぜんざいを食べた。入っていた餅ばかりを食べていると、幸生が俺をつついた。
「シゲさん、ミスってひっくりかえしたってのはなしですよ。おかわりはいっぱいあるし、二杯目はどう?」
「もう腹いっぱいだ。おまえこそおかわりしろ」
「いいえー、俺ももう……このへんでギブアップしたら駄目?」
「駄目だ」
 こら、そこのふたり、と本橋さんが幸生と俺に視線を向けた。
「なにをこそこそ言ってる。うまいだろ」
「はい、最高。ねえ、シゲさん?」
「う、うん、うまい」
 訝しげに見えなくもない表情で五人を見比べていた千鶴さんが、はっとした顔になった。
「あの、もしかしたら、おぜんざいは嫌いって方がいらっしゃいました?」
 実は全員、甘いものは大の苦手なんです、とは言えるはずもなく、乾さんが代表してごまかした。
「そんなはずがないでしょう。歌ってたら腹は減るし寒くなってくるし、最上のおもてなしです。あなたがこんな重いものをひとりでここまで運んできてくれたのに……」
「そやからいやいや食べてる?」
「そんなことは決してありません。うん、うまい。感動的にうまい」
 なんとなく涙目になってるぞ、乾さん、と章がごくごく小声で呟き、自棄になったみたいに丼にじかに口をつけて、中身を飲み干した。


 予定外の突発事件はあったけれど、歌の練習は満足のいく出来だったし、温泉に入ってビール飲んで寝よう、と決めて、宿の近くの露天風呂に五人そろって入りにいった。熱いほどの湯から出ている顔は冷気にさらされて、ちらほらと雪が舞い、見上げれば夜空に星、星、星。歌の練習は終わったのに、乾さんがまたもや歌いはじめた。今度は乾隆也ソロバージョンの「流星ワルツ」だった。
「乾さんの歌を聴きながら温泉につかってると、とろとろーっと眠くなりそうですよ。このお湯の上に、お銚子でも浮かんでたらもっといいのになぁ」
「風呂に入りながら酒を飲むのは、あんまりよくないと聞いたぞ。思い切りあったまったら寝る前にビールだ。シゲ、それまで我慢しろ」
「まだ口の中が甘くて……うー、参った」
「同感だけど、千鶴さんは親切でしてくれたんだろ」
「はい、わかってます」
 あっちでは幸生と章が、まるっきりガキみたいにお湯をかけ合ったり、隙を見ては互いを湯の中に沈めようとしたりして遊んでいる。俺は本橋さんと話をしていて、乾さんの歌声が夜空に上っていく、平和なひとときだった。そのうちに熱くなってきて、てんでに手近の岩に腰かけた。
「男の声ってのは、もちろん男性ホルモンが作り出すんだよな」
 ふきのとうから他の歌へと移って、フォークソングメドレーを独演していた乾さんが、ふと歌いやめて言った。
「男性ホルモンが多いと、男っぽい低い声になるのか、本橋?」
「さあ?」
「おまえ、理学部だろ。知らないのか」
「そんなの俺の専門分野じゃねえよ」
「おまえの専門分野はウルトラマンであって、生物学じゃない、ってね」
「俺の専門分野は今では歌だ、音楽だ」
 声帯は生物学の分野なのかな、と首をかしげてから、乾さんが言った。
「専門的にはどうなんだか知らないけど、俺はそうだと思うな。男性ホルモンが多いと男性的な声になるんだ。見回してみろよ。うちのこの五人、声の低いふたりが身体つきも男性的で、声の高い三人は身体つきも脆弱そうだろ」
「乾さんは幸生や章ほどじゃないけど、細いですねぇ」
「シゲに言われると恥じ入りたくなるけど、しようがないだろ。俺はこういう体質だ。男性ホルモンは少ない」
 そこで意味ありげににやりとした。
「しかし、幸生、章、ひとついいことがあるぞ。男性ホルモンが多いと将来、頭髪に問題が出てくるんだ。な、本橋、そうだよな? 頭髪をつかさどるのは女性ホルモン、すなわちシゲとおまえは……」
「するとなにか、幸生と章とおまえは女性ホルモンが多いのか。男性ホルモンが少ない、イコール、女性ホルモンが多いってことなのか」
「そうじゃないのか?」
「……そうだとしたら、そのうちおまえらは……」
「そのうち、なに?」
 きゃっ、うわっ、大変っ!! と悲鳴を上げて、幸生がいきなり湯に飛び込んだ。あんな声が出るんだから、幸生は実際女性ホルモンが多いにちがいない、と思いながら振り向いて、俺も悲鳴を上げそうになった。あとの三人も俺が見ているものに気づき、一斉に湯に飛び込んだ。
 湯気にかすんだ白い人影……ってのはなにかの歌のワンフレーズだが、まさにその通りの光景が見えていた。バスタオルで胸から下を覆ってはいるものの、ゆっくりと近づいてくるのは女性だ。この露天風呂は混浴なのだろうか。しかもしかも、その女性は千鶴さんだった。
「ごいっしょしてよろしいですか」
 尋ねられても誰も返事ができない。身動きもできずに呆然としていると、千鶴さんが重ねて尋ねた。
「あかんのかしら? お邪魔?」
 い、いえ、どうぞ、とかすれた声で返答したのは乾さんで、千鶴さんは嫣然と微笑んでバスタオルをすべらせた。本橋さんは温泉の中に潜水してしまい、乾さんと俺はうしろを向いた。うしろを向くと幸生と向き合う形になったのだが、幸生は目を手でふさぎ、指のすきまからしっかり千鶴さんを見ていた。章は乾さんに両手で目隠しされ、乾さんはきつく目を閉じている。俺も幸生の目をふさいでやろうとしたのだが、幸生が急に笑い出した。
「なーんだ。あれだったら見てもいいみたいですよ、シゲさん」
「ん?」
 うふっと笑って温泉に身を沈めている途中の千鶴さんの胸元には、布地があった。そうか、水着をつけているんだ、とわかって、俺は安堵の吐息をついた。はー、びっくりした、だった。
「リーダー、出てきていいよぉ。いつまでもそんなことしてたら窒息しますよ。リーダーってば」
 湯の中に沈んでいるのだから、本橋さんには幸生の声は聞こえないだろう。浮かび上がってくる気配もないので、俺ももぐっていって本橋さんの腕をつかんで引きずり上げた。ぶはっ、と水面に顔を出した本橋さんは、千鶴さんと目が合うと、再びもぐろうとした。
「リーダー、大丈夫ですって。千鶴さんは水着を着てます」
 幸生に言われて、あ、あ、そうか、とうなずいた本橋さんもため息をつき、乾さんが言った。
「いたずらがすぎますよ、からかわないで下さいね、千鶴さん。僕らは純情なんだから。うちのリーダーは特に」
 うふふ、としか反応しない千鶴さんは、水着を着ているとわかっていても色っぽい。まともに話せているのは乾さんと幸生だけで、それでもいくぶん狼狽気味の声で乾さんが質問した。
「千鶴さん、ここは混浴なんですか」
「夕方くらいには地元のおじいちゃんやらおばあちゃんやらが、賑やかに混浴してます。男湯とか女湯とか分かれてないし、ええんとちがうかしら」
 この民宿の近くにいい露天風呂がありますよ、と教えてくれたのは千鶴さんだった。千鶴さんがいいんだったらいいんですけどね、と乾さんはごにょごにょ言い、幸生も言った。
「こんな綺麗な女性と混浴だなんて、一度でいいからやってみたいとは思ってたけど、本当になるとパニクっちゃうもんですね。さすがの乾さんもそうなったか。章なんかはやったことあるんだろ」
 ねえよ、と章は否定し、俺もないぞ、と乾さんも否定した。
「露天風呂で混浴はそうそうできる経験じゃないけど、ホテルの風呂で彼女と混浴、ってほうの経験だったら……」
 皆まで言わせず、本橋さんが幸生の頭を押さえて湯に沈めた。一時的にしろ幸生が静かになると、空気を静寂が支配した。視線はどうしても千鶴さんに漂っていきたがる。じろじろ見たら失礼だろ、とおのれを叱って、千鶴さんから身を遠ざけていたら、乾さんがそばに来て尋ねた。
「民宿の娘さんっていうと、思い出すひとがいるよな。ここにいるお嬢さんとはタイプのちがうあのひと。シゲの胸にはあのひとがまだ住んでるのか」
「……きれいさっぱり消えてはいませんね。俺はそんなに器用じゃありませんから」
「器用がいいとは限らない。不器用が悪いとも限らない」
「……乾さん、わかりやすく言ってもらえませんか」
「わかりやすくは無理だ。俺にも消化し切れてない。それよりシゲ、どうやって出る? 彼女は水着を着てるんだからいいけど、俺たちは出るに出られないぞ。おまえは平気か」
 そういわれてみればそうだった。いつの間にやら解放された幸生はにこやかに千鶴さんと会話しているのだが、本橋さんと章がひそひそ話しているのも、どうやって出よう? との相談だと思える。幸生と千鶴さんの会話はこんなだった。
「練習やったんでしょう、さっきの? 明日は本番の歌が聴けるんですね。楽しみやわ。ほんまにもう、すっごい素敵やった」
「千鶴さんの好みでは、誰の歌がいちばん素敵?」
「みーんな。私は知らん歌やったけど、いろいろな組み合わせで歌ってはったでしょ? どれもこれも素敵やった。明日も歌ってもらえます?」
「ふきのとう? 明日の予定には入れてないんだけど……そうだなぁ」
 と、本橋さんが千鶴さんに訊いた。
「千鶴さんの言葉はこのあたりの方言ですか。他のひとたちとはちがうような気もするけど」
「私、出身は京都です。このへんの言葉とはちがってるでしょうね。本橋さん、ようおわかりやわ」
「リーダーはひとの言葉遣いとか、なまりとかに敏感なんですよ。変な特技でね、ひとの出身地あてが大得意。だけど、千鶴さんはモロ京都弁では話してないでしょ? 女のひとの京都弁ってすっげえぐっと来るんだよなぁ。なんとかどすえ、っての? はんなりまったりっての? 話してみて」
 幸生に言われた千鶴さんは、そうやねぇ、と小首をかしげてから言った。
「なんとかどすえ、なんて、最近はあんまり言いまへんのどすえ。なあ、三沢はん、本橋はん、さっきうとうたはった歌、明日も聴かせてほしいわぁ。よろしおっしゃろ? あきまへん?」
 う、テクニカルノックアウト、と幸生は言い、のけぞってみせた。
「本橋さん、どうします?」
「白い冬を歌おうか」
 いやぁ、嬉し、と千鶴さんは言い、幸生は言った。
「では、そういうことで。あのね、千鶴さん、お願いがあるんですけど」
「なんどっしゃろ?」
「……たいへん言いにくいんですが、先に出てってもらえません? あなたの見ている前で素っ裸で温泉から出ていけるほど、俺たち、あつかましくないんですよ。恥ずかしいからね、お願い。待っててもらっていっしょに帰りましょ。俺たちが服を着てからね。ね、千鶴さん?」
「ようわかりましたえ、三沢はん」
 うちも熱うなってきましたさかいに、先に出ますわ、とやわらかに優しく言って、千鶴さんが湯から出ていった。これでいいですかー、みなさん? と幸生が全員を見渡すと、本橋さんが言った。
「てめえ、やっぱり慣れてるな。こういうシチュエーションは初体験じゃないんだろ。乾でさえへどもどしてたってのに、おまえはパニクってたってのも嘘だろ」
「あーら、なんのことかしら。たまんね、ゆだりそう。出ようっと」
 白々しくも言って、二番目に湯から出ていった幸生のうしろ姿は、十代の少年だと言っても誰も疑わないであろうと思える姿形をしている。なのに中身は……か。不可解の最たるものは幸生や章の声ではなくて、幸生の人間性なのではなかろうかと、改めて俺は思った。

 
2

 出番を終えて戻ってきたホールの控え室には、本日の共演者がいた。二十三から二十五歳までの俺たちよりは、二十歳近くも年上であろう男性シンガーだ。お疲れさん、と迎えてくれた塚本さんは、ほっと息を吐いてから言った。
「あんたたちは歌が上手ですなぁ。上手だなんて言うまでもないんだろうけど、僕は下手ですからね」
 自ら下手だと言われても、そうですね、とも返せない。たしかに塚本さんは歌がうまくはないのだが、うまくはないのにしみじみした味わいを出せる歌手というのも、この世には大勢いるものなのである。アイドルシンガーの下手とは下手がちがう、とでも言えばいいのか、俺にはうまく言えないのだが。
「なんて言われても、あんたたちも困ってしまうね。仕事もすんだし、一杯やりませんか? いける口でしょ」
「いける口はシゲがいちばんです」
 本橋さんだってけっこういける口なのに、なぜか俺に塚本さんを押しつけ、あとの四人は出ていってしまった。じゃあ、本庄さん、行きましょうか、と言われて断るわけにもいかず、俺は塚本さんと近くの飲み屋に行った。
「消えてなくなるほどでもなく、売れるわけでもなく、だらだらでれでれともう二十年になるかなぁ。フォレストシンガーズはデビューしてから何年ですか」
「まだ一年ちょっとです」
「そのくらいだったら希望も夢もなくならないね。うらやましいですよ」
 中年男と俺が飲んでいて盛り上るはずもなくて、塚本さんの延々たる愚痴を聞かされるばかりで、夜が更けていった。塚本さんはすっかり酔っ払って、僕は歌が下手だしね、を連発しながらも、カラオケマイクを取り上げて歌い出した。俺の知らない古い演歌だった。
「……いや、俺には上手な褒め言葉の持ち合わせはないんですけど、いいじゃないですか、塚本さんの歌。もとは演歌を歌っておられたんですか」
「昔はロックバンドにいたんですよ」
「ロックですか」
 すると、髪を長くして派手な衣装を着て……? 像が結べない。
「一柳敏郎って知ってますか。今はスタジオミュージシャンなんだけどね」
「ドラマーの一柳さんですね。面識はあります」
「あいつとバンドをやってたんです。むろん他にもメンバーはいましたよ。僕らのバンドは一応メジャーデビューはしたんだけど、売れなくてね。僕はソロシンガーとしてデビューしないかって話に乗って、仲間たちを裏切る形になった。一柳はドラムの腕が超一流だったから、今も第一線で活躍してる。他の奴らはちりぢりになっちまって、どこでどうしているのやら。僕も今でも歌手にしがみついてはいるけど、あのころがなつかしい。ちょうど本庄さんたちの年頃だったなぁ。あのころは楽しかったなぁ。年でしょうね、近頃しきりと昔を思い出すんですよ」
「そうだったんですか」
 売れないのは現在の俺たちもだ。二十年後にこんなふうになって、こうやって愚痴をこぼすようになるなんてまっぴらだけど、そんな経験が塚本さんの歌の味わいを深めている、とも考えられる。若造がそんな口はばったい台詞を吐けるはずもなくて、俺はただうなずいて日本酒のグラスを干していた。
「ちらっと聞いたんだけど、おたくの木村さんもロックバンドを?」
「そうです。木村はロックヴォーカリストだったんですよ。あいつはプロになる前に、バンドを解散してしまったんですけどね」
「木村さんは僕なんかよりずーっと歌がうまいのに、それでもプロにはなれなかったんですね。僕はこんな実力でプロになれたんだから、幸せなんだろうけど」
「……俺には上手には言えませんけど、そうやって卑下されると……」
「卑下じゃない。僕はおのれの歌を知り尽くしている。卑下でも謙遜でもなくて、つくづくと僕は歌が下手だと実感してるんです。あんたたちの歌を聴くとなおさらですよ」
 話が堂々巡りしていて、乾さんに助けを求めたくなってきた。しかし、乾さんとて若造なのは俺と同じだ。塚本さんになにが言えるとも思えなかった。
「そろそろ宿に帰りませんか。あまりすごすと身体に毒ですよ」
「そうですな」
 案外あっさりうなずいてくれたのでほっとして、俺は塚本さんと連れ立って店の外に出た。俺もだいぶ飲んではいたのだが、戸外の凛冽なまでの寒さに触れると、酔いはほとんど醒め果てた。塚本さんはそうはいかないようで、千鳥足を通り越してふらついている。塚本さんをささえて歩いていると、突然塚本さんがくずおれた。
「しっかりして下さい。大丈夫ですか」
「……僕はもう駄目だ。やめてしまいたい。けど、僕には歌以外になんのとりえもないんだ。どうしたらいいんだー」
「塚本さん?」
 泣き上戸か、悪い酒だ。塚本さんは顔を両手で覆って嗚咽を漏らしはじめ、行きかう人々が不思議そうに俺と塚本さんを見比べていく。こうなったらかついで連れて帰るしかない。宿舎は俺たちと同じだから、連れて帰って布団に放り込むしかない、と決意して、俺は塚本さんを背負った。
「んん? ああ? ええ? うう……」
 おのれがどんな状況にいるのか理解していない酔っ払いは、俺の背中で呻いている。塚本さんの気持ちはわからなくもない。歌しか能のない男といえば、俺もおんなじだ。俺にはFSの他のメンバーたちのような、作詞作曲能力もない。他の仕事の経験もない。歌えなくなったら路頭に迷うしかない。
 だからこそなのか、うだうだ言われると腹が立ってくる。歌なんかやめちまいたい、だの、だけどなぁ、他になにができるんだ、だのとぼやいている塚本さんを放り出すなんてできないのだが、できるものなら……いや、こんなに寒い夜なのに、ほっぽり出して凍死でもされたらえらいことだ。
 小柄な塚本さんはたいして重くもないのが幸いだったが、宿に帰りつくころには疲れと苛立ちが俺の中でふくらんでいた。塚本さんを背負って帰ってきた俺を、千鶴さんが仰天して出迎えてくれ、慌てて敷いてくれた布団の上に、俺は塚本さんの身体を投げ出した。
「……本庄さん、そんな乱暴な……」
 宿のひとが告げたのか、襖のむこうにうちの仲間たちが顔をそろえていて、千鶴さんは布団の上に丸まっている塚本さんを介抱しようとした。
「あとは俺がしますから、千鶴さんはもういいですよ」
「そんなわけには……きゃっ」
 酔っ払いとはまったくどうしようもない。なにを思ったか、塚本さんが千鶴さんに抱きつこうとして、俺は咄嗟に塚本さんを突き飛ばした。うわっ、シゲさんっ! と叫んだのは幸生だと気づいていたが、かまわず俺は言った。
「こんなのにかまうとろくなことはありませんよ。千鶴さんはむこうに行って」
「は、はい、そやけど……本庄さん……」
「いいから行きなさい」
 はいっ、とひと声残して、千鶴さんは駆け出していき、俺はまたもや丸まってしまった塚本さんを見下ろした。
「……」
 なにをどう言えばいいのかわからない。大丈夫ですか、でもないし、この酔っ払いのくそったれ、はひどいだろうし、あんたの気持ちはわかるけどなぁ……のあとはどう続ける? 無言で塚本さんを見下ろしている俺のそばに、本橋さんがやってきた。
「怒りの沸点ってのがあってな、シゲ?」
「はあ」
「俺だろ、うちでそいつがもっとも低いのは」
「それがどうかしましたか。本橋さんらしくもなく回りくどいですね」
 やっぱりそうだろ、と本橋さんのそばで呟いたのは乾さんで、本橋さんは言った。
「まあ聞けよ、シゲ。俺の次に低いのは章だな。幸生がもっとも高い。いや、あいつの怒りの沸点なんてのはないのかもしれない。幸生が怒ったのは見たことあるか?」
「本心からってのは見たことないですね、たぶん」
 章ともめごとを起こしている幸生ならばたびたび見るが、そんなときにも本気で怒っているのは章のみで、幸生はどんなときにも冗談半分にしか見えない。本橋さんの言いたいことが俺にも徐々に読めつつあった。
「乾の怒りの沸点は、俺にはなんとなくわかるけど、奇々怪々だからな、乾も」
「奇々怪々? そう思われてるわけか、俺は」
「おまえはなにか言いたくてうずうずしてるんだろ。続きは言わせてやるよ」
「では、お言葉に甘えまして」
 襖のむこうには幸生と章がそのままいて、乾さんが言った。
「幸生と俺はリーダーに言わせると奇々怪々らしいけど、おまえの怒りの沸点も相当高いよな。軽く怒ってるんだったらなくもないけど、今夜は本気だろ。塚本さんをおまえに押しつけたせいか。シゲ、ごめんな」
「怒ってますか、俺は」
「怒ってるんだろうが。塚本さんに対する行為といい、千鶴さんにむこうへ行けと言った声音といい、シゲだとは思えなかったよ。千鶴さんが怖がってたぞ」
「……すみません」
「いささかもとに戻ってきたな。安心したよ。本橋、塚本さんを……熟睡しちまったみたいだな」
 本橋さんが塚本さんを抱え上げ、乾さんが布団を整え、塚本さんの防寒服を脱がせて、身体をきちんと布団に横たわらせた。
「シーゲさん、ご機嫌いかが?」
 そのあたりで幸生がやってきて、猫なで声を出した。
「こんなに怖いシゲさんはいやーん。ユキちゃん、ショックで悶絶しちゃうわ。シゲさん、なんとか言ってよ。おまえはうるさいんだよ、でもいいからさ」
「……おまえはうるさいんだ」
「いつもよりもっと声が低い。まだ怒ってる?」
「おまえがうるさいから怒ってるんだ」
 俺に怒ってるのぉ? と俺をじっと見て、幸生はなおも言った。
「章ちゃんも怖がって、近寄ってこれないみたいだよ。章ちゃんったらさ、か弱いもんだから昨夜のあれやこれやで衰弱しちゃって、熱が出てるんだ。シゲさんがそんなだと、高熱を出してダウンしちゃうかもしれない。急性肺炎急遽入院、強制送還、異常事態、我々危機、仕事ができなーい。あれ? 仕事ができないを四文字熟語にするとなに? 乾さん、乞教……あれれ? わかんなくなってきた」
「こうきょうってなんだ? こっちがわからないよ」
「乞う、教え」
 あまりにも馬鹿馬鹿しい幸生の言葉の羅列に、怒りが醒めてきた。醒めたらはたと思い当たった。
「章が高熱?」
「シゲさんが怒ってると、そうなりかねないかもしれないってだけでーす。シゲさんがもとに戻ったら、章も戻る。章、具合はどうだー?」
「熱なんかないよ。おまえはよくもそれだけ……」
 言いながら章が近づいてきて、幸生の頭をはたいた。いてえなぁ、と幸生は章を蹴り返し、それでもまだ言った。
「出来無仕事、だと五文字熟語だしね……」
「そんなことはどうでもいいだろっ」
「よくない。乾さん、教えて」
「どうしても四文字熟語にしたいんだったら、不可仕事でいいだろ」
「おー、そうか。さっすが」
 やかましい、いい加減にしろ、と本橋さんにはげんこつをもらった幸生は、つい笑ってしまった俺を見て、はー、よかったー、と首をすくめた。


「こんな時間だったら千鶴さんも来ないだろうし、暴漢に襲われたとしても、おまえといっしょなら心強い」
 酔い覚ましに露天風呂に行ってきますよ、とことわって出かけ、昨夜の温泉につかっていたら、乾さんの声がした。
「だけど、酔ってるのに風呂に入って大丈夫か。倒れるなよ」
「倒れたりしません」
「……酔いも怒りも醒めたか」
 今夜は雪もなく、夜空の星が昨夜以上に見事だった。乾さんは俺のかたわらにすべり込んできて、軽い調子で言った。
「幸生の努力ってのも、あれはあれで恐れ入りました、ってなもんだよな。あの芸当は幸生にしかできない。あいつの歌の才能は日々開花していって、このままだとどこへ到達するんだろ、ってほどのものになりつつある。もともとあいつは天才だろ」
「そうなんですか」
「俺にはそう見えるよ。本橋も同意見だ。なんとかと紙一重の、幸生は歌の天才」
「天才肌ってやつですかね。なんとかと紙一重のほうはよくわかります」
「だろ。もうひとつの才能もたいしたもんだよ。だいたいからして本橋とおまえは根が真面目でさ」
 それもわかる。ちがう、とは言えなかった。
「章はどうなんだろうな。どっちかっていうとシゲや本橋に近いのかな。真面目とも言い切れないけど、融通の利かない頑固者って部分はあるだろ」
「それは乾さんにもありますよ」
「俺自身については、俺にはわからない。この際俺はどけておこう」
「そうですか」
「だからさ、ある面、俺たちは幸生のおかげで……なんと言うのか、バランスを保ってるのか。ああやって幸生がなにもかもを丸く、なにもかもをふざけておさめてるって言うのか。幸生はそちらの方面でも稀有な才能を持つ天才だよ」
「かもしれませんね」
 ゆえに、幸生は危なっかしくて、と言いかけて、乾さんは頭を横に振った。
「取り越し苦労はやめておこうか」
「でも、乾さん、幸生のあれって、やりたくてやってるところもありません?」
「それもありそうだから困るんだよな。幸生って奴はまったく……あんな人間はそうそうはいないよ。ほら、オリオン座」
 夜空の一角を指さす乾さんに、あなたのような男もそうそうはいないんじゃないかな、と感じつつ、俺は言った。
「そういうことは、彼女と混浴してるときに教えてあげてくださいね」
「……おまえもなかなか言うようになったね」
 ふふっと笑って、乾さんが歌い出した。
  
「木枯しとだえて さゆる空より
 地上に降りしく くすしき光よ
 ものみな憩える しじまの中に
 きらめき揺れつつ 星座はめぐる」

 くすしき光ってなんですか? と問い返すと、奇々怪々の奇だよ、と乾さんが応えた。「冬の星座」という歌だ。俺はうろ覚えだったのだが、乾さんの高い声にコーラスをつけてみた。

「ほのぼの明かりて 流るる銀河
 オリオン舞い立ち スバルはさざめく
 無窮を指さす 北斗の針と
 きらめき揺れつつ 星座はめぐる」

 なにがあったんだ? とは乾さんは訊かない。なにをそんなに怒ってた? とも言わない。俺が言い出せばよし、言い出さないならそれもよし、の姿勢なのだろう。
「ごいっしょさせてもろうてもよろしおすか?」
 うしろで女性の声がして、乾さんがぎくっとした。
「こんな時間に……女性がひとりで……いけませんよ。入ってこないで。シゲ、俺たちも帰ろう」
「ほっときましょう。ひとりで帰れ。入ってくんな、邪魔すんな」
「シゲ、どうしちゃったんだ? 千鶴さんに怒る理由があるのか」
「俺は関西出身ですよ」
「三重だろ。三重県でもおまえの故郷のあたりは関西なんだよな。だからって……だからなに?」
「関西弁のイントネーションは耳にしみこんでます。東京にいたらまず使わないけど、田舎に帰ったら使ってます。乾さんがそうやって焦ってるのも珍しいから、自分でわかるまで教えてあげません。わかるでしょ、ここまで言ったら」
 関西弁のイントネーション? 繰り返して言って、乾さんは大きくうなずいた。
「若い女の子がこんな時間に、ひとりでうろついてるわけないんだよな、そしたらそこにいる奴は妖怪変化だろ。シゲ、振り向くな。化かされるぞ」
「狸か狐ですかね。日本昔話の世界みたいですね」
「そんないけず言うてぇ……」
 正体がばれているのは知っているであろうに、そこにいる奴はこりずに言った。
「寒いわ、うち。入れて」
 だーめ、と乾さんが言うと、そいつは頭から温泉にダイビングした。
「大失敗。そうかぁ……うぎゃ、なにするんですかーっ!!」
 常の声に戻った幸生の頭を押さえつけた。溺死するっ、降参っ、と大騒ぎしているので手をゆるめると、幸生は温泉を泳いで遠ざかっていき、俺たちの手が届かない距離まで離れてから言った。
「関西弁のイントネーションね。そこまで思い至らなかった俺が浅はかでした。けど、声は似てたでしょ? 乾さんは信じたんでしょ」
「シゲが教えてくれなかったら信じるところだった。おまえは物まねまでうまいんだよな。声はそっくりだったよ。千鶴さんは女性にしたら低めの声だから、おまえが真似るにはぴったりなんだよな」
「俺だとわかったからったって、ひとりで帰れはないでしょ。僕ちゃんもか弱いのに」
「ひとりで来たんだろうが」
「そうですけどね。シゲさんったらひどいわー。ひどいわひどいわひどいわーん、わーんわーんのわーん。あたし、泣いちゃうわ。シゲさん、言って。ユキ、泣くなよ、ってその素敵な声で」
「いつまででも泣いてろ」
「……つめたいのねぇ。だったら隆也さん、言って」
「もっと泣かせてやろうか、ユキ?」
 特技のひとつというのか、これだけはないほうがいいと思える芝居の才能を発揮して、幸生が完璧女モードに突入し、乾さんも乗りはじめた。
「あたしをどうやって泣かせる気? あたしは隆也さんの意地悪は知ってるもの。ちょっとやそっとじゃ泣かないわよ」
「よーし、泣かせてやろうな」
「きゃん、いやん、ああん、いやん」
 うるさーい、と怒鳴ったら、ふたりがかりでユキちゃんを苛めるー、となって幸生が喜ぶかもしれない。このなんとかと紙一重の天才は、ひとたびその気になると、天才と紙一重のなんとかになり切ってしまうのである。幸生は露天風呂をぐるぐる泳いで、きゃーっ、さそりに足を噛まれたーっ、と叫んだ。
「温泉の中になんでさそりがいるんだよ」
「シゲさんの反応って月並み以下でつまんないよ。乾さんの反応は? 楽しみだなぁ。わくわくしちゃうなぁ。乾さん、考える時間が長すぎますよ。寝ちゃった?」
「シゲ、次はなにを歌う?」
 こうやってするりと身をかわすのは本橋さんの得意技なのだが、乾さんがその手段で幸生をがっくりさせ、「冬の星座」の英語バージョンを歌いはじめた。英語は幸生の苦手分野のひとつなので、そんなのやめましょうよー、と口をとがらせている。
 賑やかそのものになってしまったのは、乾さんと幸生がいるのだから当然だけど、あのまんま寝てしまうよりはずっとよかった。怒りはとうに醒めて、明日会ったら、塚本さんにあやまらなくちゃな、と思えるようにもなってきた。もっとも、あやまってみても塚本さんは、なーんにも覚えてはいないのかもしれないのだが。
「もう忘れたすべてあなたのことはー」
 幸生が歌い出したのは「白い冬」だった。まったく別々の歌と歌、英語と日本語、ハイトーンなのは同じでも、まったくちがう声と声。不協和音のようでいて、奇妙に調和もしている。乾さんと幸生の歌声が夜空にきらめく星たちまでをも巻き込んで、このひととき、真冬のハーモニーを奏でていた。

E N D

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~ Comment ~

なんとなく、歌三昧でしたね~

この回は、ずっと歌声が響いている感じでした。
それぞれの声の特徴だとかが静かに語られていて、今まで知らなかった専攻学部のこととか。
なんとなく、一旦休憩してそれぞれの人となりや細部を詰めた回だったかなぁ、という気がしました~

幽霊とか、エイプリルフールとかいった事件的な大きなことは起こらず~
まぁ、まったくない訳じゃなかったけど、トーンが静かでしたね。やはり、語り手のお陰でしょうか。

お汁粉、もしかして、あかねさんも苦手ですか?
fateくんは甘いもの、けっこう好きです~(^^)
(お子様か(--;)

fateさんへ

読み返してみましたら、ほんとにそうですね。
歌、声、歌、それから幸生の性格、のストーリィになっていました。

私は基本的には甘いものは苦手です。
女性はデザートは別腹に入るのだそうですが、別腹というものの持ち合わせはありません。

まったく食べないわけでもないけど、ケーキだったらふたくちほどでいいかなぁ。パフェはいらないなぁ。粒あんは好きだけどこしあんは嫌いだ、とか。

甘いものでいちばん好きなのは、ミルクと粒あんのかき氷ですから、甘いもの嫌いではないのですけど、関西で言うところのぜんざいは駄目です。

甘すぎるあんこを食べると、足の指がむずむずするという体質を持っています。
自分がそんな体質のせいか、男は甘いもの嫌いのほうがいいなぁ、と変な偏見も持っています。

なんか甘いものの話で長くなってしまいました。
fateさんはお忙しくて疲労困憊だそうですのに、いらして下さってありがとうございます。
季節の変わり目でもありますし、ご無理はなさらないで下さいね。

別腹というものの持ち合わせはありません

すみません、思わず笑ってしまったので、再コメです。
そうかそうかそうか。
別腹なし!

まぁ、fateもそんなモノはないかも。
本腹にすべて納まります。
(そっちの方がおかしいだろ!(--;)

甘いもの、辛いもの、しょっぱいもの(東北人は漬けモノとか好きですからぁ)実は何でも好きです。何でも好きって、何も好きじゃないことでは? という突っ込みは無視します。
何でも、好きなんです。
ただ、食べられないものはあります。
生もの系。
ほやってご存知っすか?
三陸沿岸で取れますが。海のパイナップルとかのたまうやつ。
あれはダメです。
それから、牛肉ダメです。
刺身全般、得意じゃありません。が、寿司は食います。

ああああ、食べ物話題になってしまった。
ちなみにケーキもヨウカンも和洋かまわず好きですが、確かにあんまりいっぱいは食べられないっすね。

では、あかねさんとデートするときは、何屋(食い物系)にお誘いしたらいんだろうか???

fateさんへ

きゃはっ、デートに誘っていただけるのですか?
えーと←真面目に考えています。

私は好き嫌いが多いんですよね。
肉はたいてい好きではありません。
牛肉の脂のないところとか、豚ヒレとか、そのくらいしか食べたくない。

魚もそれほど好きではなくて、かれいに鮭にさんまに……くらいしか食べないし、あんたはいったいなにを食べて生きてるんや? と友達に聞かれます。

大好きなものは竹の子とこんにゃくときのこです。

ほやはほとんど食べたこともないけど、うに、イクラ、たらこ、明太子なんかは好きですよ。
大阪で売ってるうには食べられたものではないので、北海道か東北のがいいですね。

でも、fateさんはうにやイクラもお嫌い?
私はお寿司屋さんに行くと、そういうものとかエビフライ寿司とかなすびの漬物寿司とか、手巻きとかばっかり食べている邪道人間です。

まぁ、食べるものはなんだっていいから、fateさんとゆっくり、小説の話、したいですね。
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