番外編

番外編8(夏の思い出)

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番外8

「夏の思い出」

1

 夏休みに入っているのだから登校している学生も少なくて、私の仕事も暇で窓辺であくびをしていたら、キャンパスを歩いている長身の男性と目が合って、彼がくすっと笑った。慌てて口を押さえて、私は気づいた。
「徳永さん?」
「んん? きみはうちの卒業生? 下川さんだったかな」
「覚えていて下さったんですか」
「合唱部にいたよね。俺よりひとつ年下だったか」
「よく覚えてらっしゃるんですね。私なんか目立ちもしなかったでしょうに……」
「あくびをしてるんだったら出ておいで」
 ばっちり見られていたようだけど、あくびをしていたおかげで徳永さんの目に留まったのだから、ラッキーだったと考えよう。はいっと答えてから、私は同僚に言った。
「先輩に呼ばれてるの。ちょっと行ってきます」
「暇だからいいよ」
 同僚もOKしてくれたので、駆け出しながら思い出していた。
 あれは六年も前になる。淡路島から上京してきて、私は現在でも事務員として働いている母校に入学した。子供のころから音楽が大好きで、中学、高校では音楽部にいた。高校は校則のきびしい女子校で、音楽といえばクラシックという頭しか先生にはなかったらしい。音楽部はクラシック鑑賞部のようなもので、私はあのころからあくびばかりしていた。
 退屈なクラシック音楽に辟易しつつも、他には音楽関連のクラブがなかったので我慢して、うちに帰ると流行の歌を聴いていっしょに歌っていた。そうしているうちに、大学に入れたら歌をやりたいと思うようになっていった。
 芸術学部歌唱学科があると知ってこの大学を受験したのだが、合格したのはすべり止めのつもりの家政学部食物科。本格的に歌を学んだのでもないのだから、当然の結果だったのだろう。女の子が浪人だなんて親が許してくれるわけもなく、東京に行くのも渋っていたのをなんとか説き伏せて、胸をときめかせて上京し、歌唱学科が駄目なら合唱部があるさ、と入部した合唱部だった。
 女子校育ちの私には都会の男性には気後れするところがあって、合唱部が男女に分かれていたのも、そんな私には気楽だった。ところが、男子部女子部は新入生歓迎飲み会を合同でやるというではないか。欠席しようかと迷ったのだが、おずおず出かけた飲み会で、思いがけない出会いがあった。
「ノリちゃんはどこの出身? 本橋、当ててみろよ」
 突然、私の近くにすわっていた男子部の先輩が言った。乾さんだよ、と女子部の誰かが教えてくれて、自己紹介はしていたけれど、ノリちゃんだなんて……と戸惑っていると、乾さんは続けて言った。
「俺も本橋には簡単に言い当てられたし、ミエちゃんもだよな。俺は一年のころにはなまってたらしいけど、今ではなまってないでしょ? ノリちゃん、俺の出身地、わかる?」
ミエちゃんとは山田美江子さん。女子部の先輩の名は何人かは覚えていて、親切な山田さんも記憶にあった。
「なまってる……かな。私にはわかりません。乾さんはどこ?」
「金沢」
「そうなんだー。山田さんはどちらのご出身ですか?」
「私ももうなまってないよ。栃木なんだけどね、本橋くん、私、なまってないでしょ?」
「ちっとはなまりが残ってるけど、それほどでもなくなったな。乾、山田、黙れ。ノリちゃんが喋らないと判明しない」
 内心では激しく戸惑っていたのだが、意外にすらすらと話せた。なまりの話? 一生懸命淡路島のなまりを出さないようにつとめているのに……なのに、本橋と呼ばれた背の高い先輩が私を促した。
「ノリちゃん、なにか話して」
「……ええ? そう言われても……なにを話したら……」
「関西だな。イントネーションは関西だ。本庄、おまえも関西だろ」
「は、俺ですか?」
 別の席には別の男子がふたりいて、本橋さんは彼らに話しかけた。本庄くんと小笠原くんだ。彼らは私と同じ一年生。名前は知っている。本庄くんは三重県から来たんだって、乃理子とは出身地が近いよね、と一年生の女の子に聞いた覚えもあった。三重と淡路島は近くもないけど、関東のひとには近く思えるのだろう。
「本庄は関西。おまえの場合は関西だろうとしかわからないけど、小笠原は本庄と喋ってるのが漏れ聞こえたから即座に判明した。その特有の言葉は、土佐、高知だ」
「俺、土佐弁使ってましたか。使ってるつもりはなかったのに」
「ちらっと使ってたよ。えーと、本庄は……ま、いいや。男はそのうちわかる。先にノリちゃんだよな」
 やっぱり私か。どきどきしっぱなしの胸を持て余しながらも、私は言った。
「すごーい、本橋さん。私は本庄くんの出身地は知ってるけど、言ったらいけないみたいだから言いません。私はどこ? 早く当てて」
「関西だよなぁ。神戸か? ちがうだろ。神戸の人間なんてのは、東京にいたって関西弁で喋るじゃないか。なあ、乾、あそこにいる奴らだとか……」
「あいつらを観察してると本橋の勘が冴え渡るんだ。そういうところだけ鋭い本橋くん、どうぞ続けて」
 にこにこと乾さんが言い、本橋さんは私をじっと見つめた。
「関西は関西でも……播州明石」
「近いけど、明石なんて神戸とおんなじようなものですよ。明石のひとも神戸弁に近い言葉で話します」
「そうかぁ、そんなら……淡路島」
 きゃっ、嘘っ、としか言えなくなって私は口を押さえ、乾さんと山田さんはあっけに取られた顔をし、乾さんが本橋さんに問いかけた。
「淡路島っておまえ、なんでわかるんだ?」
「さあな」
 胸のときめきが高まって、それから私は本橋さんばかりを見ていた。背が高くて声が低くて、私の好みにぴったり。話しかけてくれたのは彼が先だったのだから、続きでお話してもいいだろうと決めて、帰りがけに本橋さんに近づいていった。
「本橋さん、ほんとにどうしてわかったの?」
「明石に近くてわりにマイナーな土地。島かな、と思ったんだよ。真っ先に出てきた名前が淡路島だった」
「淡路島なまりは知らないでしょ?」
「そこまでは知らない。播州なまりと似てるのか?」
「似てはいますけど、関東のひとには聞き取りにくいかもしれない。関東では淡路島なんてマイナーですよねぇ。それにしてもびっくりしちゃった」
「当てずっぽうみたいなもんだよ。当たってたとは俺こそびっくりした」
「本橋さんはどこ?」
「当ててみろよ」
「……わかんなーい」
 そんな話しをしているうちに、並んで歩き出していた。
「わかんないわかんない。教えて」
「降参?」
「はい」
「東京」
「なーんだ」
「なーんだ、はないだろ」
 積極的すぎるって嫌われはしないだろうか、なれなれしすぎるっていやがられはしないだろうか、胸のうちには葛藤もあったけれど、いつまでも本橋さんと歩いていたかった。
「さっきはちゃんと食ったか。腹は減ってない?」
「胸がいっぱいであんまり食べてません。でも、いいの」
「俺は腹が減ってきたよ。ラーメン食いにいこうか」
 お酒は飲んではいなかった。未成年は飲んだらいけませんよ、と女子部キャプテンの大野さんに言われていたからだ。食べていなかったのも本当だけど、胸がいっぱいだったと言ったのを本橋さんはどう受け取ったのだろう。顔色からはなにも読めなくて、今ごろラーメンなんか食べたら太っちゃう、と頭をよぎったのも無視して、私はうなずいた。
 これって飲み会の流れにすぎないのだろうけど、デートみたい。女子校とはいっても男の子とつきあってる女の子もいっぱいいたけど、私は男のひととふたりきりでラーメンを食べるなんてはじめて。デートなんて生まれてはじめて。
「うまいだろ、ここ」
「よく来るんですか」
「時々来るよ。食ってないな。まずい?」
「いえ、胸もおなかもいっぱいになっちゃったから」
「残すんだったら俺が食っていいか」
「どうぞ」
 旺盛な食欲で私が残したラーメンをも平らげて、本橋さんは駅まで送ってくれた。それからは私の世界は本橋さん一色に染まった。本橋さんと乾さんは合唱部では有名な二年生で、女の子たちもたびたび彼らの噂をしていた。私は乾さんはどうでもよくて、本橋さんの噂に耳を澄まし、情報収集に熱中していた。
 あからさまに男子部に行くわけにもいかないけど、会いたくて、顔を見たくて、待ち伏せしたりもした。こうなると男女に分かれてるって不自由だなぁ、だなんて、最初は気楽だと思ったのも忘れて、不満を感じていた。
「よ、ノリちゃん、よく会うな」
「偶然ですね」
 本橋さんは山田さんや乾さんと連れ立っているときが多かったけれど、ひとりでいるときもある。そんなチャンスには必ず、さりげないふうに近づいていっしょに歩いた。いっしょにいられるだけで幸せだったのだが、ある日、本橋さんが誘ってくれた。
「ノリちゃんは十八だから、酒は駄目なんだよな」
「本橋さんは二十歳になったんですか」
「俺もまだ十九だけど、内緒で飲んでるよ。俺には兄貴がふたりいてさ、そいつらは双生児なんだ。七つも年上だし、不道徳な奴らだから、真次郎、飲め飲めってそそのかす。だもんだからけっこう強くなっちまった。ノリちゃんは飲めないにしても、居酒屋に行こうか」
「居酒屋なんていいんですか」
「親に連れられた幼児も赤んぼも来てるよ。食いものもあるんだから。いやか」
「連れてって下さい」
 今度こそ本物のデート。ふわふわと雲の上を歩いている心地で、私から告白しちゃおうかと思っていたら、本橋さんが言ってくれた。
「ノリちゃんって可愛いよな。つきあおうか」
「え? ……嘘」
「嘘は言わないよ」
「……山田さんは?」
「山田? ばーか、あいつはただの友達だ」
 感極まって泣きそうになっていたら、本橋さんは驚いたように言った。
「馬鹿って言ったから怒ったか? ごめん。女の子に馬鹿なんて言う男は嫌い?」
「ううん。でも、私なんて……田舎の……」
「そういうところが純朴で可愛いってのかな。うまくは言えないけど、ノリちゃんの出身地を当てられてよかった。だから親しくなれたんだろ?」
「はい。私、私なんかでよかったら……」
「そういう卑下したみたいな口調はやめろよ。ノリちゃんがいいんだ」
「はい……」
 泣くまいと必死でこらえてうなずいて、帰り道では倒れそうになって、本橋さんの腕にすがって歩いた。
「どうした? 酒も飲んでないのに酔ったのか」
「人当たりしたのかなぁ。ちょっと気持ち悪い。ううん、平気。本橋さんの腕ってたくましいよね。ずーっとこの腕にぶら下がってていい?」
「おう、まかしとけ。乃理子のひとりやふたり、背負ってでも歩けるよ」
 その日は私のアパートまで送ってもらった。本橋さんは合唱部では有名なので、女子部ではあっという間に噂が広まって、先輩たちにもやっかまれていたようだけど、私が都会の女のひとにやっかまれるだなんて……と不思議な心持ちになっていた。
「下川さん、私は本橋くんとはほんとのほんとに友達なんだからね。心配しなくていいのよ。私には彼はいるんだから」
「乾さんですか」
「乾くんでもない。別の男性よ」
 山田さんはきっぱりとそう言ってくれて、付け加えた。
「ただね、本橋くんってあの顔で……あ、失礼、人気あるんだよね。私は下川さんが本橋くんのファンの女性に苛められないかと、そっちのほうが心配だな。私が守ってあげたいけど、私も二年生だから、先輩の集団に勝てるだろうか」
「あの顔でって……」
「ごめんね。下川さんは本橋くんの顔も好き?」
「私は面食いじゃありませんから」
 あら、そう、失礼、と言って、山田さんはけらけら笑った。
「わが意を得たり、だろうな。男は顔じゃない、って本橋くんはいっつも言ってるよ。じゃあさ、下川さんは本橋くんのどこに惹かれたの?」
「背が高くて見た目もかっこいいですよ。敏感なほうじゃないでしょうけど、敏感すぎる男のひとって気疲れしません? すこーしぼけっとしてて、心の奥があったかくて優しいの。強そうでいかにも頼りになりそう。おう、まかしとけ、って言ってくれたんですよ。全面的にまかしちゃう」
「……これはもう病膏肓だね」
「なんですか、それ?」
「いいけどね」
 それからしばらくして、山田さんはまた言った。
「それとなく見てたんだけど、女子部の先輩たちってあっさりしたひとが多いみたいね。男子部のほうにこそ、粘着質のひとがいるんだわ」
「溝部さんとか?」
「そう。溝部さんは本橋くんの彼女だからって、下川さんに……考えすぎかな。本橋くんや乾くんはあきらかに、男子部の一部の先輩には白眼視されてるのよ。やーね、男の嫉妬って。溝部さんにはくれぐれも気をつけて」
 嫉妬されるほどのひとの彼女だなんて嬉しいかも、とむしろ、そんなことまでが薔薇色気分に拍車を駆けた。真次郎さん、って呼びたいな、まだそうは呼んだらいけないかな、とちっちゃな悩みを抱いていたころ、本橋さんが運転免許を取ったと聞いて言ってみた。
「本橋さん、運転免許合格したんだよね。おめでとう。だったらドライブに行きたいなぁ。海が見たいの」
「よし、連れてってやるよ」
「わーい、楽しみ」
 ドライブと言っても迎えにきてくれたのはバイクで、そんな服でバイクに乗れるか、って叱られて、おまけに、本橋さんはこう言った。
「長袖と丈の長いズボンにしろ。髪の毛もシンプルにしろ」
「そんなんだったらバイクになんか乗りたくない」
「おまえがドライブに行きたいと言ったんだろ。だいたいからして脚が太いのにそんな短いの……」
 泣いたら嫌われる。泣き虫女なんて嫌われる。幾度か泣きたくなってはそう自分に言い聞かせて我慢していた涙が、そのひとことで堰を切ってあふれ出した。
「私の脚……太い?」
「え? 泣いてんのか? 嘘だよ。太くない太くない」
「太いって言った。ひどい」
「ごめん、泣くな」
 しゃくり上げて、だって、泣けてくるんだもんっ!! とわめいて、本橋さんの胸に飛び込んだ。
「私はちっちゃいし、太ってるし、ダイエットしようと思っても、本橋さんが……」
「俺のせいか。ごめんな。乃理子は太ってないよ。そのくらいで可愛いよ。俺はがりがりの女よりおまえぐらいがいいんだ。痩せなくていい。脚もちょうどいい」
「太いって言ったくせに……」
「そうも激烈な反応を示すとは思ってなかったんだよ。ぼろっと口から出ちまったんだ。許せ」
「ぽろっと口から出るのは本音だよ」
「……しつこいな。怒るぞ」
 はじめてのキスのあとでまたまたそうなって、私はまたまた泣き出して、本橋さんは大慌てで抱きしめてくれた。
「女ってのはさ……」
「なに? 女ってつきあいづらい?」
「先回りすんなよ。乃理子は可愛い」
「……前にも誰かいた?」
「いないよ」
「嘘嘘。本橋さんってもてるくせに。山田さんから聞いたもん。本橋さんって人気があるんだって」
「あの野郎、またよけいなことをぬかしやがって……」
「山田さんだよ。野郎じゃないけど?」
「あいつは野郎でたくさんだ」
 口調が荒っぽいのも新鮮だった。淡路島の男性も荒い口はきくけど、東京生まれで東京育ちの本橋さんの歯切れのいい言葉遣いは大好きで、私も二度と方言なんか遣わずに、都会の女の子になるんだと夢想していた。
「乾さん、本橋さんってもてるって……」
「もてないよ」
「山田さんはもてるって言ってましたよ」
「もてないって、あんな女心の……おっと、ノリちゃんの前では禁句だったね」
「もてないと断言されると、複雑な気分」
「女房妬くほど亭主もてもせず、ってばあちゃんが言ってたな。至言だね」
「……乾さん、そういうややこしい言い回しを……」
「ややこしくないだろ」
「ややこしいもん。私はもの知らずの田舎者なんですから」 
 あのね、ノリちゃん、と、こちらも背の高い乾さんは、私の目の高さにかがんで言ってくれた。
「本橋にしたってたかが十九の青二才なんだよ。きみよりは年上だし、先輩でもあるからって卑屈になるのはいけない。きみは彼の恋人なんだから。彼にふさわしい大人の女性になりたいと思ってる?」
「私なんかなれない」
「またそういうことを言う。今のまんまのノリちゃんが本橋は好きなんだ。そのままでいいよ」
 そんな話をしていたのは、合唱部室の外でだった。そこに本橋さんがやってきて、乾さんの頭をうしろからぽかっとやった。
「不意打ちは卑怯だぞ。心構えができてなかったじゃないか」
「山田といいおまえといい、なんだってよけいなことばかり言うんだ」
「よけいなことは言ってないよ。ね、ノリちゃん?」
「乾さんって優しいんですね。だけど、私は本橋さんのほうが好き」
 ごちそうさま、と乾さんは微笑み、本橋さんは照れて怒った顔をした。
「ふーん、本橋の趣味ってきみみたいのか」
 ある日には、問題の溝部さんが私の前に立ち止まり、じろじろと私を見て言った。
「しかし、あいつは山田さんとつきあってるんだろ。いいのか、きみは?」
「ちがいます。山田さんは本橋さんとも乾さんともつきあってないって……」
「どうだかね。口ではなんとでも言えるさ」
 鼻先で笑って歩いていった溝部さんを見送って、山田さんに告げ口をした。
「まったくあのひとには困ったもんだね。それだけだったら耐えて。本橋くんには言いつけないで。本橋くんったらなにをするかわかんないんだから」
「山田さんに聞いてもらったからいいんですけど、八つ当たりだったらしてもいいですか」
「本橋くんに? 私の許可はいらないじゃない? どうぞご自由に」
 男子部室に走っていって、ドアの近くにいた小笠原くんを呼んだ。彼は本橋さんよりは聡いようで、私が本橋さんに恋していると早くから見抜いていたので、こんな頼みごともできる。
「本橋さんに伝言してくれる? いつもの場所で待ってる。五時に」
「いつもの場所? いいなぁ。俺ともデートしない?」
「私は本橋さん一筋なのっ!」
「わかった。伝えておくよ」
 一時間も待たされて、悪い悪い、と言いながらあらわれた本橋さんを見て泣きそうになって、私は先に立ってずんずん歩き出した。
「合唱部の用が長引いたんだ。怒るなよ。乃理子、なんとか言え」
「時間にルーズなひとは嫌い」
「連絡のしようもないだろ。ごめんって」
「嫌い」
「俺もしつこい女は嫌いだ」
「いいもん」
 走り出そうとしたら手首をつかんで引き戻されて、ぐいっと抱きしめられた。
「やだ。こんなところで……」
「どこかに行こうか」
「やだ、離して」
「なにをそんなに怒ってんだよ」
「本橋さんも声が怒ってる」
「おまえがしつこく怒ってるからだ」
「悔しいんだもん。八つ当たりしたいんだもん」
 してもいいって山田さんも言ったもん、とは言えなかったけど、本橋さんの胸にあやしてもらって、いろんな怒りは醒めていった。外ではやめろ、と言う本橋さんの手に無理やり手を押し込んで、はじめて手をつないで歩いた。
「俺が遅刻したからか」
「うん。待たされたから。おなかすいたし」
「太るから食わないって言うなよ」
「太っても嫌いにならない?」
「あんまりでぶでぶになられると……」
「だったら食べない」
「なにごともほどほどが肝要だろうが」
 すねたりふくれたり喧嘩をしたり、仲直りしたりキスしたり、もっと先も……恋愛に関わるなにもかもが、私にとってのはじめてのひとは本橋さんだった。あのころは幸せだったなぁ、と思い出して切なくなっていると、目の前に徳永さんがいた。
「下川さん、どうかした?」
「あ、きゃっ」
「おいおい、悲鳴を上げるなよ。俺がなにかしたみたいだろ」
「すみません」
 長い長い追憶から醒めたら、今の私にはこれが現実。だけど、徳永さんと再会できたのだから、今だけはちょっぴり嬉しい。徳永さんは本橋さんと同い年で、あのころから合唱部にいた。こんなにかっこいいひとだったっけ? と考えて見上げていたら、あのころの徳永さんも思い出されてきた。私の大学一年生の「夏の思い出」。本橋さんがはじめてキスしてくれる前の、合宿での日々も思い出した。


2

 都会出身の代表格、東京で生まれ育った金子リリヤは、女の私でさえもぼーっと見とれてしまいそうな美少女だった。都内では有数の家具店「金子ファニチャー」のひとり娘で、兄がいる。その兄とは男子部キャプテンの金子将一さん。人も羨む境遇にある彼女を、私は当初は敬遠していた。けれど、リリヤのほうから話しかけてきた。
「ノリちゃんって淡路島出身なんだって? あたし、淡路島って行ったことないな。どんなところ?」
「田舎」
「海が綺麗なんでしょ。里帰りしたりするの?」
「夏休みは合宿があるんだよね。コンサートもあるんだよね。帰れるかな」
「夏がいいよね。ねえねえ、里帰りするんだったら連れてって」
「え? いいけど……」
 きゃあ、うーれしいなー、と歌うように言って、リリヤは声を低くした。
「ノリちゃんって本橋さんとつきあってるんだってね。本橋さんって優しい?」
「リリヤさんだって……彼はいるんでしょ」
「いないんだよね。いっつもいっつもお兄ちゃんが邪魔するから、男の子に告白されても恋が実らないの。ノリちゃんは本橋さんに告白されたの? なんて言われたの?」
「ええとね、ノリちゃんは可愛いな、つきあおうか、って」
「いいんだいいんだ。うらやましいー」
 東京育ちのお金持ちの娘で、あんなにかっこいいお兄ちゃんがいて、というせいだったのだろう。なんとなく感じていた反発心は、リリヤのあけっぴろげさの前に薄らいでいった。それからはいろんな話をした。
「リリヤって物理学科? うひゃあ、私は物理なんて大の苦手だよ」
「乃理子は食物科なんだね。私は家庭科が苦手。食物だったら理科系に近いからなんとかなるかな。私は理科と数学が得意なんだけど、文系は全部駄目。家庭科は特に嫌い。お兄ちゃんは文系なんだけど、私は理系なの。苦手分野を教えてくれるお兄ちゃんがいて、ラッキーなんだけどね」
「お兄ちゃんはどこの学部?」
「言語学。言語学なんてどんな勉強してるのか、聞いてもさっぱり意味不明だよ」
 合宿がはじまるころには、合唱部にも友達がふえていた。一年生女子グループの部屋に三年生の先輩が班長さんとなって、お姉さんみたいに世話を焼いてくれる。リリヤ、恵、美子、沙織、私の五人の部屋の班長は沢田愛理さん。お姉さんっていうよりも、保育士さんみたいだね、って男子に言われたよ、と言っていた。
「あなたたちって無邪気っぽく見えるのよね。この部屋の女の子たちって小さめがそろってるから、大きめの私が保育所の先生に見えるんだ」
 いちばん背が高いのは恵で、ほっそり華奢なリリヤが二番目、三番目は私、次が沙織、と続いていって、ニックネームはミコちゃんの美子がいちばんちっちゃい。沢田さんは恵と同じくらいで、わりに大柄なほうだろう。沢田さんはグラマーで大人っぽくて、母性的というのか、お姉さんというよりお母さん、なんて言ったら怒られそうだけど。
「十八か十九でしょ。実は実は……なのよね。男性には内緒にしておこうね。無邪気で可愛い新入生たちだと信じ込ませておきましょう」
「私、ほんとに無邪気で可愛いもーん」
 恵が言い、よく言うよ、と沢田さんが混ぜっ返し、みんなして笑った。
 沢田さんは愛知、リリヤが東京、恵は茨城、ミコは佐賀、沙織は岩手、私は淡路島と、出身地も北から南までに散らばっている。合宿初日の夜には六人でいろんな話をして、話題が自然に恋愛に流れていった。
「好きなひとはいないの?」
 リリヤが質問し、みんなして私を見つめ、見つめながら沙織が言った。
「好きなひとはいるんだけどね。ミコちゃんは?」
「いないよぉ。恵ちゃんは?」
「同じ講義を受けてる男の子にいるんだけど、誰も知らないよね、彼は。リリヤちゃんは?」
「お兄ちゃんが邪魔するから恋ができないの。乃理子は……」
「ノリちゃんには本橋さんが……」
 沙織がはっきり名前を出し、ミコはため息をついた。
「いいなぁ。沢田さんは?」
「私はいいのよ。私は今夜は聞き役。だけど、私だって恋のひとつやふたつやみっつ……なーんて、言ってみたいな」
 そうすると、彼女たちの言葉を信じるとすれば、好きなひとがいるのは恵と沙織と私か。沢田さんは教えてくれないけど、こういう女らしいひとは男性に人気がありそうな気がする。恋は置いといて、好みからすると男子部では誰がいい? と沢田さんが目をきらきらさせて質問した。
「ノリちゃんは本橋くんだろうからほっといて、恵ちゃんは?」
「外見は溝部さん」
「ミコちゃんは?」
「んんとね……誰にも言いません? 好きなタイプっていうんだったら……やっぱり言えない」
「それって本気だからじゃないの? 誰だろうね。リリヤちゃんはお兄ちゃん?」
「お兄ちゃんほどかっこいい男のひとはいません。沙織ちゃんは?」
「かっこいいひと? かっこいいと思うひと? 皆実さんかな」
「皆実さんも金子さんも素敵ですよね。でも……」
 はいはい、ノリちゃんは本橋さんでしょ、と全員に決めつけられて、ぶっとふくれてみせたりもした。
「私はなかなか友達ができなかったのよね。このなまりのせいで」
 翌日、海辺でふたりだけになったら沙織が言った。
「関西のひとはおおっぴらに関西なまりで話してるけど、東北弁は笑われたりするから……」
「関西弁だって笑われるよ。漫才みたいだって。漫才は大阪弁なの。私は大阪人は嫌い。それはどうでもいいけど、沙織ちゃん、今では友達がいっぱいいるじゃない」
「うん、金子さんのおかげ。金子さんが言ってくれたの」
 東京言葉しか話せない俺とはちがって、方言を持つひとは一種のバイリンガルだよ、と言われたと、沙織はうっとりした目で話してくれた。
「沙織ちゃんの好きなひとって……?」
「片想いだもん。リリヤちゃんには言わないでね」
 妹のリリヤには聞かれたくなくて、それでも誰かに話したくて、私に話してくれた? 詳しい話はしてくれなかったけど、沙織の好きなひとは金子さん。片想いじゃなくなるといいね、と言ってあげたいけど、恋人のいる子に言われたくないよ、と沙織が怒りそうで、言えなかった。
 夏休みのおしまいごろには、合唱部恒例のコンサートが開催される。今年は金子さんとリリヤ、本橋さんと乾さんのデュエットが決定していて、他にも実力のある先輩が、ソロで歌うらしいと噂されていた。リリヤは特別扱いだから、すこし前の私だったらやっかんでいたかもしれない。ちょっとは羨望気分も残っていたけれど、親しくなってしまえば、リリヤ、がんばってね、と心から言えた。
 その他の新入生たちは全員で混声合唱を行う。一年生は男子も女子もいっしょになって、合宿二日目からは練習だった。今年はこれ、と全員に配られた楽譜は「夏の思い出」。
 
「夏が来れば 思い出す
 遥かな尾瀬 遠い空
 霧の中に 浮かび来る
 優しい影 野の小道
 水芭蕉の花が 咲いている
 夢見て咲いている 水のほとり
 石楠花色に 黄昏る
 遥かな尾瀬 遠い空
 
 夏が来れば 思い出す
 遥かな尾瀬 野の旅よ
 花の中に そよそよと
 ゆれゆれる 浮き島よ
 水芭蕉の花が 匂っている
 夢見て匂っている 水のほとり
 まなこつぶれば なつかしい
 遥かな尾瀬 遠い空 」

 これ、なんと読むんや? 花の名前か、花と書いてあるんやから、そうなんやろ、などなどと、楽譜を見て言っている男の子たちがいる。西のなまりの話し口調に振り向くと、小笠原くんと実松くんと本庄くんだった。
「下川さんやったら知ってるやろ。女の子やもんな」
 なんて読む、これ、と楽譜の一部を示しているのは実松くんで、ふりがながないと読めんやないか、とぼやいている。彼は私の嫌いな大阪人なのだが、本庄くんは三重、小笠原くんは高知、私の故郷から近いといえば近い、西の国の出身者ではあるので、教えてあげることにした。
「みずばしょうは読めるよね」
「みずばしょうってなんや?」
「花。尾瀬に咲いてるの。こっちはしゃくなげ」
「どんな花?」
「どんな花かまでは知らない」
「まなこってなんや?」
「目じゃないの」
「へぇぇ、下川さん、かしこいな」
「……かしこいというか、常識とちゃうのん?」
 思わずつられて私も関西弁になってしまって、だから大阪人と話すのはやなんだよね、と呟いたら、実松くんが言った。
「なんでやねん。下川さんも関西の子やねんやろ。小笠原も本庄も関西人やろうが。なんで堂々と関西弁を使わんのや」
「私は関西弁は嫌いなの」
「俺は関西とちがう。土佐は関西ではない」
 小笠原くんが言い、本庄くんも言った。
「三重県も関西ではない。俺の故郷のあたりは関西エリアだけどな」
「うん。小笠原の土佐は関西とちゃうよな。そしたらおまえは土佐弁を使えよ」
「シゲがうるさいんだよ。ヒデ、方言が出てる、っていちいちケチつけるんだ」
「ケチつけてるんじゃないだろ。注意してやってるんだよ」
「あんたらみんな関西なまりはあるよな。小笠原は土佐なまりか。それにしても、どいつもこいつもええ格好しいじゃ。下川さんは東京の男とつきおうてるから、かっこつけて東京弁になろうとしてるんか。下川さんは淡路島やったよな。東京の男となんかつきあうと、イヤミな東京人になってまうぞ」
「東京人ってイヤミ?」
「イヤミやんけ。なあ、小笠原?」
「大阪人にもイヤミなところはあるけど、まだしも東京よりは田舎ちやな。土佐の田舎もんには大阪の人間のほうがまだしもつきあいやすい。そうするとなにか、実松? 下川さんは東京の男とつきあうのはやめて、おまえとつきあったらえいがか」
「映画化?」
 訊き返した私に、本庄くんが言った。
「な、ほら、そうやってヒデが土佐弁で喋ると、地元の人間じゃなかったらわからないじゃないか。合唱部にはほうぼうの出身者がいるんだから、みんなが方言で喋ると混乱を招くんだよ。そのために標準語があるんだろ」
「そうだな。俺もそう思うよ。大阪弁はメジャーだけど、土佐や三重や淡路島の言葉なんてのは、関東の人間には意味不明だったりするんだもんな。シゲの言う通りだ。だから俺も土佐弁は封じる。ちなみに、下川さん、えいがか、はいいのか、だよ」
「私は大阪弁だったら喋れるよ。故郷の言葉に近いから。だけど、大嫌いだから喋りたくないの」
 なんでやねんなんでやねん、とまたまた実松くんは言った。
「大阪の男にふられたんか」
「アホ」
「アホいうたら関西弁やろうが。アホ言うもんがアホじゃ」
「あんたはたすいんやから……ああん、もう、だから大阪の人間って大嫌い。実松くんは私に話しかけんといて。ああんああん、もうっ!!」
 たすい? と三人してぽかんとしてから、小笠原くんが言った。
「淡路島弁のアホか。うん、わかった。実松は本当にアホやから、言われてもいかんはない。おい、実松、めっそにしろ……うわわ、シゲ、なんとかしてくれー」
「下川さんもヒデも落ち着けよ。気持ちを静めて、標準語にチェンジしよう。実松はほっとこう」
「おう、ほっといてくれ。わしはわしで好きにするわい」
 回りには一年生たちが大勢いるのだけれど、関西圏の出身者は東京には少ないせいか、私たちの会話を聞いて笑いころげている。誰も私を助けてもくれない。小笠原くんって坂本龍馬みたいだね、と女の子の誰かが言って、なぜだか小笠原くんはがっくりしてみせた。
「坂本龍馬はやめっちゅうねん。って、俺の方言がまぜこぜになってきたやんけ。俺、どうも大阪弁がうつりやすい体質みたいなんだよな。そうだ、話を戻そう。まったくシゲの言う通りだよ。下川さん、俺たちは標準語で話そうな」
「言われなくてもそうするけど、普通にしてていちばん方言が出てるのは小笠原くんだよね。その上大阪弁までうつったらますます下品に……」
「土佐弁は下品かい」
「ええと……」
「ヒデ、やめろよ。口がすべっただけだろ」
 止めてくれたのは本庄くんで、小笠原くんは私をちろっと睨んだ。
「シゲの言い分も当たってるけど、実松の言い分もまちがってはいないんだよな。東京の男ってのは……」
「それって本橋さん? 本橋さんのどこがなんなの?」
「本橋さんだけじゃなくて、東京の男全般が……」
「田舎者のひがみだよ」
「そうだよな。そうなんだ。シゲ、相憐れもう」
「あんたも参加せえや」
 口をはさんだ実松くんに、私は言った。
「大阪人ってそれだから嫌いなの。あんたは都会人のつもり?」
「大阪は都会や」
「横浜に人口で抜かれそうだとか抜かれたとかって聞いたよ」
「人口で都会かどうか決まるんか。横浜で万博やったんか。横浜に通天閣があるんか」
「通天閣ってね、そんなださいものを持ち出さないで」
「ださいとはなんじゃい。淡路島にはなーんもないやろが」
「ないよ。悪かったね」
 そのへんにしろよ、と男のひとの声がして、そろってそちらを向いた。次の瞬間、男の子たちはそろってあとずさりした。
「みんなとっくに練習に行っちまったぞ。いつまでそんなところで喋ってるんだ。男子部にはたるんでる奴らに与える厳罰っていうのがあるんだけど、おまえらは知らないよな。知らないほうが幸せだ。知らなくてはならない羽目になる前にさっさと行け」
「はい。すみませんでした。ヒデ、実松、行こう」
 本庄くんがあとのふたりを促して駆けていき、私はそのひとを見上げた。
「徳永さん?」
「そうだけど」
「……女子部にも厳罰ってあるんですか。さぼりの罰?」
「あるんじゃないのかな。俺は女子部の罰なんて知らないけど、なくはないだろ。きみも早く練習に行けよ」
「……徳永さんって本橋さんと……」
「本橋がどうかした?」
「いいえ、どうもしません」
 お辞儀をして私も駆け出しながら思い出していた。徳永さんの名前は本橋さんの口からたまに出る。あいつはなにを考えてるんだか、と嘆いていた記憶がある。徳永さんの存在を知ってはいたけど、本橋さんは詳しくは話してくれなかったし、口をきいたのはほとんどはじめてのようなものだった。
 あいつはなにを考えてるんだか? それってなんなんだろう。徳永さんは本橋さんや乾さんのライバルだという噂も聞いたけど、それもなんなのか、そのころの私にはもうひとつよくわかっていなかった。
 それからは四年生の先輩の指導で、来る日も来る日も「夏の思い出」を練習した。それでも女子部には自由時間もけっこうあったのだが、男子部は体力トレーニングまでをやっている。合宿の何日目かには男子部には遠泳があると、女子部キャプテンの大野さんが教えてくれた。
「むこうに小島が見えてるでしょ。あそこまで泳ぐの。女子の中にも体力や泳力に自信のあるひとはいるよね。そういうひとは泳いでもいいんだけど、見学に行ってもかまいません。ただし、お手伝いはしなくていいからね。これは女子部の申し送り事項で、毎年言っておかなくてはいけないの。お手伝いしましょうか、だなんて言ったら、図々しい男子が図に乗るからって 二年生以上は聞いてるんだけど、一年生のために今年も言います。手伝わなくていいのよ」
 遠泳かぁ、見たいな、と言ったのはミコで、ノリちゃんも行かない? と誘われて、ふたりで見学に行った。
 見学の女子はボートに乗せてもらって小島に渡る。浜から次々に男子たちが島に泳ぎついてくる。一年生が先で、小笠原くんも本庄くんも実松くんも泳いできた。小笠原くんは私を見るとにこっとして、そばを歩いていた本庄くんの背中に覆いかぶさった。
「なんだよ、ヒデ?」
「シゲー、おんぶ」
「なにを言ってるんだ。しゃんと歩け」
「シゲくーん、俺もおんぶして。しんどい。たまらん」
「実松まで……ふたりともきちんと歩け」
 本庄くんに怒られたふたりはぺろぺろっと舌を出して、私たちに手を振って元気そうに歩いていった。
「男の子って子供だよね」
 子供でアホで、と私が言うと、ミコはくすっと笑って言った。
「私も子供だからあんまり言えないけど、一年生の男子は子供っぽいね。二年生になるとぐっと大人になるみたい」
「二年生はそりゃあね」
「ノリちゃん、本橋さんが来たよ」
「うん」
 一年生に続いて島に泳ぎついてきた二年生のトップは本橋さんだった。姿勢のいい長身が私たちには目もくれずに歩いていく。髪からしたたる雫も濡れた身体もまぶしくて、目をそらしたいのを我慢してじーっと見ていた。本橋さんは私にはなんにも言ってもくれずに遠ざかっていき、次に島に到着したのは徳永さんだった。
「徳永さんもわりかしかっこいいんだね」
「本橋さんほどじゃないけど?」
「んんと、そうは言ってないけど……ミコちゃん?」
「え? なに?」
「ほっぺが赤い。ミコちゃんはもしかして……」
「暑いからほっぺたが赤いんだよ。変なこと言わないで」
「言ってないのに……ふーん、そうだったんだ」
「ちがうったら」
 そうかそうか、沙織は金子さんで、ミコは徳永さんか。恵やリリヤは誰なのかなぁ、だなんて考えつつ、私の目は本橋さんばかりを探していた。けれど、本橋さんは一度も私と視線も合わせてくれなかった。こんなに近くにいるのに、眠っている部屋も近いのに、話もできない。だんだん苛々してきて、最終日の夕方に、本橋さんを待ち伏せしてつかまえた。
「ちょっとだけ散歩したい」
「……遊びにきてるんじゃないんだから」
「だって、楽しみにしてたのに……せっかく海に来てるのに、いっしょに泳いだり歩いたりってしたらいけないの? してるひとだっているよ。カップルで散歩してるひとたち、見たもん」
「ああ、じゃ、ちょっとだけな」
 いやそうな顔をしているように見えたけど、本橋さんは私のお願いを聞いてくれた。聞いてくれたのはいいけれど、手をつないでもくれない。となりに並んだら先に行ってしまおうとする。私は本橋さんの背中に言った。
「遠泳を見学に行ったのだって、気がついてもいなかったんだよね」
「来てたのか」
「うん。本橋さん、一等賞だったよね。知らなかったんだったらしようがないけど、私を見てほしかったな。にっこりしてほしかったな。本橋さん、足が速すぎる。ゆっくり歩いて。そんなに迷惑?」
「迷惑じゃないよ」
「こんなの、散歩にもならない。いいもん。帰る」
 いつもは無口でもないくせに、話もろくにしてくれない。走り出しても追いかけてきてくれない。待てよ、と言ってくれるのを期待して走って、そんな声は聞こえなかったのに失望して、ひとりになって浜辺にすわった。毎日練習して全身にしみこんでしまったような「夏の思い出」をひとりで歌っていたら、うしろに誰かが立ったのを感じた。
「来てくれなくていい。私なんか邪魔で迷惑なんだろうから、無理してくれなくていい」
「音程が微妙にずれてたな。練習じゃないんだからいいんだろうけど」
「……?」
 声がちがうので振り向いたら、徳永さんだった。
「喧嘩したのか」
「喧嘩なんかしてません」
「あんな男とつきあうと女の子は大変だな。あいつはあの面でよくもまあ、似合わないっつうのか、俺も言ってて恥ずかしいけど、照れが激しいんだよ」
「見てたんですか」
「なんにも見てないけど、きみがつきあってる男は誰だか知ってる。きみがそんなふうになってるのも、そいつのなんのせいなのかも見当はつくよ」
「照れ?」
「俺は照れ屋さんなんてのではないけど、男はたいていそうだよ」
「本橋さんが照れ屋さん……そうなのかも。だけど、徳永さん、徳永さんが照れ屋さんだなんていう言葉を使うのも似合いませんね」
「その調子であいつにもずばっと言ってやれよ。すねてたらあいつは困って、困り果ててるのが怒りに向かう。だから困った奴なんだ。おっと、邪推されて殴られそうだから退散するよ」
 え? なんのこと? となっているうちに、徳永さんは行ってしまい、かわりに本橋さんがやってきた。
「誰かと喋ってたか」
「徳永さんがね、私を好きだって」
「徳永が? あいつ……おまえと俺がつきあってるって知ってるはずだけど」
「知ってるから言うんだって。あんな奴より俺のほうがいいよ、考えておいてくれないか、って言われたの」
「で、どうするんだ」
「……私が徳永さんとつきあってもいいの?」
 ぶるぶるっと首を横に振る本橋さんに抱きつきたくて、だけど、私のほうからそんなふうにできるはずがないと思い込んで、もっともっと嘘を言おうか、どうしようかと迷って、うつむいてぽつりと言った。
「嘘だもん。徳永さんは本橋さんよりかっこいいのに、私なんか好きになるわけないよ」
「あいつはかっこいいんじゃなくて……いや、顔は俺よりいいよな。けど、そんなの関係ないだろ。金子さんほどかっこいい男が乃理子を好きになったとしても、なんの不思議もないよ」
「どういう意味?」
「俺はかっこよくはないけど、おまえが好きだ。おまえは俺の彼女なんだろ」
 なにを言えばいいのか、どんな態度を取ればいいのか、なにひとつわからなくなってただ見つめている私を抱き寄せて、好きだ、ともう一度言ってくれた。それから本橋さんは私の顔を覗き込んだ。
「徳永はほんとはなにを言ったんだ?」
「私がここで歌ってたから、音程がずれてるって」
「それだけか」
「うん」
「そっか」
 安心したよ、と本橋さんの胸の鼓動が言っていた。キスしてくれたらいいのにな、と思っていても言い出せなくて、ただただ、そうして立っていた。


3

 あんなにあんなに好きだったのに、彼も私を好きだと言ってくれたのに、どうして別れてしまったのだろう。本橋さんの大切なものは私ではなく、歌だと悟ったから? 彼のいちばん大切なものになりたかったのになれなかったから? 今となれば、私が幼すぎたからだとしか思えない。
「仕事中に立ち話をしてたらまずいだろ。仕事が終わるのを待ってるよ。ドライヴしようか」
 私が二年生、本橋さんが三年生になった年に別れてしまうまで、本橋さんからは時々聞いた。あいつは性格が悪い、乾以上だ、あの根性をどうにかして叩き直してやりたい、と本橋さんは言っていたけれど、そうでもないと思うけどなぁ、と私は心の中で言っていた。そうでもないとは思うけど、そうでなかったらどうなのか、はっきり言えるほどには知らなかった徳永さんが、二十四歳になった私の前にいる。ドライヴ? と問い返すと、きみさえよかったら、とクールに微笑んだ。
「車でいらしてるんですか。合宿をしてた海に行きたいって言ったら、連れてってくれます?」
「いいよ」
「だったら早退しようかな。どうせ暇だし」
「夏休みだからね」
「事務員も明日からは夏休みなんですよ」
「じゃあ、いい日に来たんだな。明日以降だったらきみには会えなかったんだ」
「私と会っても別に嬉しくないでしょうに」
「嬉しいよ」
 嬉しいんじゃなくてなつかしいんでしょ、と小声で言って、早退の許可を得に事務所に戻りながら、またしても思い出していた。一年生の夏のコンサートも終わったあとで、リリヤが打ち明けてくれた。
「本庄くんって私を好きみたい」
「本庄くんが? リリヤも彼が好きなの?」
「嫌いじゃないよ。告白してくれるんだったらつきあってもいい。でも、お兄ちゃんがね……」
 似合わないなぁ、と思ってはいたのだが、お互いに好きだったらそれはそれでいい。私はそのころは本橋さんとの恋に夢中だったから、リリヤと本庄くんがつきあいはじめたのかどうかも知らないうちに時がすぎ、その次にリリヤの打ち明け話を聞いたのは、それからだいぶたってからだった。
「できちゃったの。結婚するんだ」
「……本庄くんと?」
「別のひと」
「ふえっ」
「本庄くんとは思った通りに、お兄ちゃんに邪魔されたんだよね。お兄ちゃんと私はお兄ちゃんが卒業したら、メジャーデビューが決まってる。だからなんだ。恋なんかしてる場合じゃないって。わかってるけど、恋はしたいよ。恋をしたらプロの歌手になれないだなんて、お兄ちゃんの考えは変なんだから。でもね、でも、そう言われたらとことんさからえなくて、お兄ちゃんの言う通りにするしかないかって諦めたの」
 しかし、リリヤは理学部の教授と懇意にしているという関係で知り合った、とある男性と電撃的に恋に墜ち、あれよあれよという間に妊娠し、結果的に結婚することになったという。その結果、お兄ちゃんを裏切ってメジャーデビューさえも蹴飛ばした。なんとまあ、もったいないといおうか、勇気があるといおうか、私はひたすら唖然呆然としていた。
 お兄ちゃんのほうとは私はほとんど話したこともないので、彼がどんな気持ちでいたのかはよく知らない。金子将一さんは卒業し、沙織の片想いにもそこでエンドマークがついた。ミコと徳永さんもどうにもならなかったようで、そうこうしているうちに私は本橋さんと別れ、他人のことを考えている余裕はゼロになってしまって、自身の心の痛みだけを抱えて生きていた。
 合唱部に籍は置いていたものの、歌もどうでもいい気分になってしまったのは、本橋さんがなによりも大切だと思っている歌そのものに嫉妬して、歌までを嫌いになっていたのだろうか。部室にも行かなくなって、なし崩しに合唱部からも歌からも離れていった。
 合唱部から離れてしまうと、そのころの友達とも疎遠になった。卒業したら淡路島に帰ってきなさい、と言う両親と言い争ったりもした。
「淡路島で就職するとなったら、農協か信用金庫か土産物屋の店員? いやだいやだ。私はもう東京の人間になったの。就職は東京でする」
「そんならせめて大阪で……」
「大阪は嫌い。住みたくない」
 好都合にも母校の事務員に空席ができて、卒業してももとの大学に通う日々となって、現在では平和にのんびりと暮らしている。徳永さんの出現は久し振りの事件だった。
「加藤は知ってる? 加藤大河。医学部寄生虫学科」
「徳永さんと同い年の方ですか。名簿を見たらわかりますけど」
「うちは学生が多いから、事務員さんもすべては知らないか」
 快く早退させてもらって、徳永さんが運転する車で海に向かいながら、話していた。
「加藤はずっと大学にいるんだなって思ってたんだよ。きみも……いや、女性はそうは行かないか」
「いるかもしれませんよ」
「結婚しても働くのは、今どきの女性としては普通か。もちろん知ってるんだよね、フォレストシンガーズ」
 知らない、なんて言えるわけがない。フォレストシンガーズ全員の出身校で働いているのだから、彼らの噂は聞きたくなくても聞こえてきていた。
 あの本庄くんと小笠原くんと、乾さんと、それから本橋さんと、私よりも一年下の三沢くん。三沢くんについてもよく知っていた。乾さんのなめらかな弁舌も有名だったけど、三沢くんは乾さんの二代目だろうと、女子部でも評判になっていたのだから。その五人がヴォーカルグループ、フォレストシンガーズを結成して活動しているとの話は、彼らがアマチュアの時代から私もたびたび耳にしていた。
 私が母校の事務員になった翌年、フォレストシンガーズはメジャーデビューした。メンバーのひとりが小笠原くんではなくて木村くんに変わっていた理由は知らないけど、木村くんも記憶には残っていた。
 乾隆也、本庄繁之、三沢幸生、木村章、リーダーは本橋真次郎。リーダーの名前を聞くと胸が苦しくなって、けれど、もはや私には遠い遠い、なんの関わりもないひとだと思おうとしていた。それでいて気になって、CDも買った。本橋さんの歌が聴こえてくると、今さらなのに涙がこぼれた。
 あの顔で、あの面で、と山田さんや徳永さんが言うほどには、顔だって悪くなかった。金子さんや徳永さんほどの美形ではないけど、私は綺麗な顔の男のひとなんかよりも、本橋さんの荒削りでワイルドな顔立ちが好きだった。短気で怒りっぽかったけど、私がすねたりふくれたりすると慌てて抱きしめて不器用になだめてくれた。街を歩いていても周囲に誰もいないと、手をつないでくれるようにもなった。肩を抱いてくれたりもした。
 つきあいはじめたのは私が十八、本橋さんが十九歳の春の日。夏から秋に季節が変わるころに、はじめてキスをした。デートの数は少なかったけど、お酒も教えてくれた。
「サワーなんてアルコール度数は低いんだから、ジュースみたいなもんだよ。飲むか?」
「いいのかなぁ。私、未成年だよ」
「俺もだけどな。警察に見つかったら逮捕されるのか。そんならやめとくか」
 居酒屋の片隅で小声で話して、甘いのだったら飲みたいなって言って、カルピスサワーに恐る恐る口をつけた。
「たいがいの奴は高校のころから飲んでるだろ。乃理子は飲まなかったのか」
「うちはお父さんも飲まないし、友達も真面目だったから」
「ほんのすこしは不真面目なのも楽しいだろ」
「本橋さんも真面目だと思ってたよ」
「十九にもなって酒も飲まない真面目な男が好きか」
「ううん、本橋さんが好き。あ、おいしい」
「だろ? 乃理子……」
 目元がほんのり染まって色っぽいな、と囁いてくれた低い声も思い出す。本橋さんが二十歳になって間もない春。私たちがつきあいはじめて一年たったころに、デートからの帰り道に本橋さんが言った。
「なんて言えばいいんだろうな。こんなこと、言ったことないから……」
「なに?」
「この目で察してくれないか」
「目?」
 立ち止まって目を見つめ合った。はじめて言うの? はじめて? 本橋さんがはじめて? 信じられなくて、私は顔をそむけた。そむけた頬に手が触れて、本橋さんのほうに向かされた。
「嘘だ」
「嘘なんか言わないよ。いいか? いやか?」
「はじめてなんて嘘だよ。そんなはずないもん。そんなの、別に嬉しくないもん」
「俺だってな、女なんか慣れてるって言いたいんだよ。そうじゃねえんだから言えないんだよ」
「女に慣れてる男なんかもっといや」
「……どっちがいいんだよ」
 いくつもあった「はじめて」の中でも大きな大きな「はじめて」の記憶が、私の中に強く残っている。好きだったひとは遠く遠くなって、あれから別の恋もしたけれど、その恋も終わってしまうと、カルピスサワーを飲んでは、本橋さんは元気かな、とセンチになったりしていた。
「金子さんにCDをもらったんだ」
 聴いてみる? と言って、徳永さんがカーステレオにCDをセットした。

「大地すれすれの花が時々想い出したように
 おまえの手から解き放たれた香りの輪を見つめている
 だがわたしは芳しき洞窟も知っている
 そこには独特な蒼い煙がたちこめて
 夜よりも甘美なそして昼よりも純粋な
 おまえが愛に疲れた神のように横たわっている」

 アポリネール作詞、金子将一作曲、「煙」。デモCDとでもいうべき限定盤なのだそうだ。リリヤとのデュエットではかろやかなラヴソングを歌っていた金子さんが、現在ではこういったむずかしい歌を? 金子さんについての噂ももちろん学校には聞こえてくるので、彼のデビューが決まったとも知っていた。
「俺はフォレストシンガーズとは関わってないんだけど、金子さんには親しくしてもらってる。こういう歌は金子さんの趣味であって、メジャー発売されるのは一般大衆受けする曲だよ。売れたら趣味に走ったアルバムを出したいとも言ってたな」
「フォレストシンガーズは売れてないんですよね」
「やっと一年だろ。結論を急がなくてもいいよ。俺なんかデビューもしてないんだから」
 一年上の本橋さんは、私が卒業する一年前に卒業した。本庄くんと小笠原くんと三沢くんはフォレストシンガーズとしての活動もしながら合唱部にも続けていたそうなのだが、私はそのころには部室には足を向けなくなっていたから、事実上は退部したようなものだった。
 時おり合唱部の男子部室の前を通ると、ざわめきが耳に届いてきた。いるはずがないのに、本橋さんの声も聞こえてくるような気がして、裏に回って窓から覗いてみたりもした。私が四年生になっていた年の男子部のキャプテンは実松くんで、部室で男子たちが賑やかにやっているのを微笑ましく見つめて、だけど、私にはもう関係ないんだから、ときびすを返した。
 その翌年には大学職員になった私が働いている事務所に、三沢くんがやってきたこともある。彼は当時のフォレストシンガーズの中ではただひとり、大学の在校生で、男子部キャプテンになっていたから、合唱部のなにかの届けを提出にきたのだった。
「三沢さんは私を覚えてませんよね」
 受け付けた私は、彼に話しかけた。
「私も卒業生なんですよ。二年生くらいまで合唱部にいたんです。下川乃理子と申します」
「二年生までですか。やめちゃったんですか」
「きびしくてついていけなくなって……本庄さんや小笠原さんと同い年ですけど、彼らも覚えてくれてないかな。訊いてみなくてもいいんですよ」
「そうですか。下川さん、そろそろお昼どきですよね。いっしょにごはんを食べません?」
 彼は私を覚えてはいないようだったし、そうすると本橋さんとの恋も知らないのであろうから、うなずいて学食に行った。
「お、弁当……うまそう」
「食べます? 私はいっつもお弁当だから、今の季節だったら校庭で食べたりしてるんです。学食のランチなんて卒業してからは食べてないから、私はそっちがいいな」
「いいんですかぁ。おー、感激。いっただきます。そしたら学食のランチは俺が買ってきますよ。なにがいい?」
「スパゲティミートソース」
「はいはい」
 お弁当とランチを取替えっこした形になって、嬉しそうに食べている三沢くんと話した。
「学生さんにまざると落ち着かない気分だな」
「下川さんは春に卒業したばかりでしょ。学生に見えますよ」
「そうだったら嬉しいな。フォレストシンガーズの話は聞いてますよ。どうですか」
「コンテストを受けてるんですけど、合格しないんですよね。俺はまだ現役だから呑気にしていられるし、シゲさんとヒデさんにしても、卒業して間もないから焦ってはいませんよ。シゲさんはのほーんとしてるし、ヒデさんは肝っ玉が据わってますからね。あ、シゲさんとヒデさんって……」
「シゲさんが本庄くん、ヒデさんが小笠原くんですよね。彼らは西のひとで、私も西の出身なの。だから、方言のことで口喧嘩したりしたな」
「下川さんも西のひと? リーダーだったら言い当てそう」
 当てられたのよ、そうして恋になったのよ、と言いそうになって、別のひとを話題に出した。
「三沢さんは実松くんとも仲良しでしょ」
「仲良しっていうか、前キャプテンですからね、三沢、キャプテンってえのはしんどいぞぉ、おまえにできるんかいな、だなんて言われました。実松さんは大阪ですよね」
「そう。ああ、なつかしいな。一年生の合宿では実松くんと本庄くんと小笠原くんと四人で、方言の話をしてたんですよ。なんで関西人のくせに堂々と関西弁で喋らないんだ、って実松くんが怒って、私は関西弁は嫌い、って言い返して、喧嘩になりかけてるうちに他の一年生は練習に行ってしまって、徳永さんに叱られました」
「徳永さんが? あのひともそういうことをするんだ」
「徳永さんはね……本橋さんは言ってたけど、変な奴だ、性格が悪い、そんなふうにばっかり言ってたけど、そうでもないんじゃないのかな。それなりには優しいひとだったけど……」
「女のひとには優しいんだ。その点は徳永さんもまっとうな男なんだな。下川さん、本橋さんと親しかったんですか」
「いいえ、全然」
 否定の仕方が断固としすぎていたのか、三沢くんは視線を上に向けてなにか思い巡らせているように見えた。
「親しくなんかありませんよ。男子部のひとと話したのって、実松くんたち、同年のひととだけです。三沢さん、小笠原くんに確認したりしないでね」
「なるとぼ……あれれ? 了解致しましたっ」
 おまえもよく喋る女だな、と本橋さんには言われたけど、本当にそうだ。よけいなことを言う私の口を呪いたくなっていると、三沢くんが言った。
「乾さんや本橋さんだって、表面上は焦ってはいないふうに見えますよ。本橋さんはいつだって強気。リーダーだもんね。リーダーがどんっと構えてないと、グループはやってられない。乾さんは本橋さんの陰になり日向になりして俺たちをまとめてくれてます。リーダーは怒りやすい体質だから、乾さんはフォローに苦労してるんですよ」
「そうだろうね」
「俺はフォレストシンガーズでは最年少だし、永遠の美少年、永遠のボーイソプラノだと言われてますから、粗略に扱われてる。リーダーはなにかっていえば俺をぽかぽかやるんだけど、そのげんこつがあったかいってのかな」
「げんこつがあったかいの?」
「たとえとしてあったかいんですよ。乾さんにも殴られたことはあるけど、あのげんこつもあったかかった。先輩たちのお叱りはあったかい。痛いんですけどね、俺なんか、叱られないとなにをしでかすか、てめえでてめえがコントロールできないってガキですから」
「そうなのね。私も本橋さんには時々は叱られたけど、叩かれたりなんて一度も……あ、聞こえなかったよね?」
「はい、今は一時的に難聴になってましたから」
 上手にとぼけてくれてから、三沢くんは本橋さんの話をいくつも聞かせてくれた。聞いているとなつかしさと恋しさと切なさがないまぜになって、知らない間に涙がにじんでいた。
「聞かないでね。また難聴になってくれる?」
「耳のコントロールはできますよ。どうぞ」
「二年足らずだった。好きだって言ってくれて、私も好きで、なのに、私は子供だったから、歌うのが忙しくてデートばっかりしてられねえんだよ、ちっとは我慢しろ、って怒らせて、私も怒って、喧嘩して、そんなふうなのが続いて、私よりも歌が好きなんだったらいいもん、ってすねて……そんなことの繰り返し。我慢できなかった私がいけないの。そんなの昔の話なんだし、私にだって今では彼がいるんだから、こだわってなんかいないよ。学生時代の素敵な思い出をありがとう、って言いたいな。山田さんはどうなさってるの?」
「山田さんは我々がデビューしたら、マネージャーになってくれるとみんなで決めてます」
「そうなんだ」
 山田さんはこれからも、きっと本橋さんといっしょにいられる。うらやましくて、私も本橋さんの恋人ではなくて、友達だったらよかったのに、と考えたりもした。
 だけど、友達なんかじゃいられなかっただろう。私は本橋さんが好きだったのだから。恋していたのだから。本橋さんも言ってくれた。おまえが好きだ、と言ってくれたあの言葉は、キスしてくれて抱きしめてくれて、愛してくれたあの行為は、一時的にしろ真実だったのだと信じていた。
「デビューしたらフォレストシンガーズのファンになる。三沢さん、約束してね。あなたに聞いてもらって嬉しかったけど、ここだけの話にしてね」
「約束します。絶対に他言はしません。フォレストシンガーズがデビューして単独ライヴができるようになったら、大学の事務所気付けで下川さんにチケットを送りますよ。ふたつの約束は厳守します。三沢幸生に二言はないっ」
「……特に三沢さんのファンになる。私も約束する」
「おおおーっ、感動的!!」
 ライヴチケットは送られてきていないけれど、単独ライヴがまだ実現していないからなのだろう。もうひとつの約束は守ってくれていると信じている。三沢さんは軽そうに見えて、実はそうではないのだと。徳永さんだって本橋さんを嘆かせるようなひとではないのだと。長い長いもの想いから醒めて、車を運転している徳永さんの顔を見た。
「うとうとしてた? そろそろ着くよ」
「どうして私をドライヴに連れてきて下さったんですか」
「きみが魅力的だから。口説きたかったから」
「嘘」
「彼はいるの?」
「今はいません」
「そんならいいでしょ。どう?」
「そういうことをおっしゃるんでしたら帰ります。降ろして下さい」
 ふーん、と私の顔を見返してから、徳永さんは大声で笑った。
「はい、到着。降りて。きみもその気になってくれるんだったら口説きたいけど、いやがられるものを無理強いするほど不自由はしてないよ。口先の礼儀なんだから、気を悪くしないでしょ」
「……礼儀? 徳永さんってラテン系ですか」
「ほお、うまいこと言うな。今度、誰かに言ってやろう。ラテン男は女を見たら口説くのが礼儀だと考えてるんだってね。きみもラテンの国でナンパされたとか?」
「イタリアに行ったときにナンパはされましたけど、イタリア語なんてわからないし、はーい、ばいばーいって言ったら深追いなんかされませんでしたよ」
「イタリア男だって、魅力のない女性は口説かないだろ」
「どうなんだろ」
 合宿に参加したのは二年生までで、三年生と四年生の夏にはアルバイトに精を出していた。ここに来るのは五年ぶりだ。徳永さんに連れてきてもらわなかったとしたら、一生来なかったのではないだろうか。波の音が夏の思い出を呼び覚ます。十八、十九の夏。私の心には本橋さんがいて、本橋さんの心にも私がいた。
「今は誰がいるのかな」
「ん? きみだよ」
「徳永さん、冗談はやめて下さい」
「こうやってきみとふたりきりでいて、他の女がいたら失礼だろうが。吸っていい?」
「駄目って言ったら吸わないんですか」
「きみもなかなかきついんだね。俺は気の強い女は好きだよ。べたべたとからみついてくる女は願い下げだ」
「そういうひと、いるんですか」
 答えは、さあね、だった。
「煙草は嫌い?」
「私に煙を向けないで下さいね」
「わかったよ」
 煙草をくわえた徳永さんと並んですわって、水平線を見ていた。
 今年ももうじきに、この浜で私たちの後輩が合宿をする。今年も新しい恋が芽生え、恋がこわれ、若者たちは成長していくのだろう。私だって若者なのに、私だってまた恋をするんだもん、と呟いて、徳永さんに言った。
「徳永さんとはしませんから」
「言わなくてもふられたのは承知してるよ。妙な真似はしないから、ここにもたれない?」
「ここ?」
 示してくれた肩に頭を乗せた。こうしていると恋人同士に見えるのだろうか。そおっと手を伸ばして触れた徳永さんの胸の鼓動はまったく平静で、私の手を取ろうともしない。煙草の煙がたなびいて、やっぱりこのひとって変なのかな、なんて笑って、私は言った。
「夏の思い出、歌って下さい」
「いっしょに歌おうか」
「やだ。あのころの合唱部ナンバースリーの徳永さんと、その他大勢の私のデュエットなんて、聴いてて私が恥ずかしい」
「ナンバースリーか。はっきり言われると心地いいな」
 たなびく煙草の煙。低く漂う歌声。潮風も吹きつけてきて、くわえ煙草で歌っている徳永さんの肩にもたれたままで目を閉じた。徳永さんとなんか恋をしたら、本橋さんを忘れられない。でも、今はこうしていたい。もうすこしだけ、夏の思い出と徳永さんの変な優しさに浸っていたかった。

END
 

 




 
 
 



 

 
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