novel

小説314(ア・カペラ)

 ←キャラへの質問(真柴豪です) →「We are joker」15 
imagesCACQ9BDY.jpg

フォレストシンガーズストーリィ314

「ア・カペラ」

1

 出演者の顔ぶれも決定し、司会者も酒巻國友と決定し、いよいよ待ちに待ったア・カペラライヴの当日が近づいてきている……はず。日時は未定なので「はず」になる。
 ダンディなおじさんたちの「ダーティエンジェルス」。かっこいい僕の先輩たちの「フォレストシンガーズ」。このふたつのグループが中心となって、何組ものヴォーカルグループが出演する大規模ライヴだ。
 デュオは僕も仲のいいモモちゃんとクリちゃんの「フルーツパフェ」。男性グループは「玲瓏」。女の子たちのアイドルふう「エコール・ディ・フィーユ」。男女混声の「華歌」。等々、バラエティに富んだグループが続々と登場して、どこかとどこかのコラボなどもあるのだそうだ。
 司会の僕には出演者たちとは別個のリハーサルや打ち合わせがある。出演者たちとのコミュニケーションもはかりたい。
 本来ならばニューヨークに留学中の僕は、このライヴ以外には決まった仕事はない。日本にいたころはラジオDJだったので、音楽業界には知り合いも多く、出演者たちのリハーサルにも溶け込める。緊張感やプレッシャーもあるものの、こんな大仕事、嬉しさと楽しさも大だった。
「酒巻さんが司会をやるんですね」
「大河内くん? ダイちゃんだね」
「覚えていて下さいましたか。ご無沙汰してます」
 ヴォーカルグループのライヴなので、僕らの大学出身者の中で出演するのはフォレストシンガーズのみだ。しかし、僕の母校、とりわけ合唱部からは音楽関係者を多数出している。
 ミュージシャンばかりではなく、プロデューサーやアナウンサーやテレビ局勤務やらの放送関係者も数多い。大河内元気もそのひとりで、僕よりはふたつ年下の合唱部の後輩である彼は、音楽評論家になっている。
「フォレストシンガーズのみなさんが、僕を司会にって推して下さったんだよ」
「それでニューヨークから帰っていらしたんですよね。三沢さんから聞きました。脚はもういいんですか」
「うん、ほぼ平気だよ」
 帰国した早々、僕は見知らぬおばあさんからバッグをひったくろうとした泥棒を追っかけて転倒した。泥棒には逃げられるは、腰骨は折るはで散々なていたらく。おばあさんが孫娘を紹介してくれて、人間万事塞翁が馬ってやつかな、と思っていたら、彼女にはふられるし。
 といった事件があって、脚ではなく腰を傷めていたのだが、リハビリの成果は上がっている。帰国してすぐにライヴではなくて、猶予があってよかった。
「骨折は腰なんだけどね、ほら、ここ」
 ライヴのリハーサル会場で、ダイちゃんに骨折した箇所を示して話していると、背の高い女性が近づいてきた。そのひとは僕を見下ろして言った。
「ダイちゃん、誰?」
「あ、ああ、紹介するよ。このたびのコンサートの司会を勤められる、酒巻さん。俺の大学の先輩なんだ」
「ふーん、知らないな」
「ラジオのDJなんだけど、休業中、留学中だからね。酒巻さん、彼女はモデルの亜実ちゃんです」
「はじめまして、酒巻です」
 頭を下げるとつんっとされた。
「留学って、男が? かっこワルっ」
「かっこ悪くはないだろ」
「かっこ悪いよ。ダイちゃん、こんなのどうでもいいからさ、紹介して」
「玲瓏? まあ、彼らが今回の出演者の男性たちの中では一番……だけど、きみは俺の……」
「なにをぶつぶつ言ってんの? 紹介してよ」
「わかったよ」
 亜実さんとはダイちゃんの彼女なのか。僕から見れば亜実さんは背が高すぎるし、ダイちゃんから見てもそうだろう。ダイちゃんは中背よりはやや低めの背丈で、かっこいい男ではない。
 つんつんした美女だとはいえ、あのかっこよくはないダイちゃんにあんな彼女が……亜実さんは僕の好みではないものの、うらやましさは否めない。亜実さんが乾さんの彼女だったら納得もいくが、あのダイちゃんの?
 いやいや、人は好き好きだ。おかしなコメントは述べないでおこう。
 彼女が言っていた「玲瓏」とは、ダイちゃんの言葉通りの男性ヴォーカルグループである。五人全員が背が高くて、顔も整っていて歌もうまいとの触れ込みも当たっている。容貌の美醜なんてものにも個人の好みが反映するのだから、いやな顔立ちの奴もいる、なんてのは僕のやっかみなのだろう。客観的に見れば亜実さんだったら騒ぎそうな美青年ばかりだ。
 あんな美青年たちに彼女を紹介するとなると、ダイちゃんは気が気ではないのだろう。彼がためらいたくなる気持ちもわかる。
 それでもダイちゃんは亜実さんを連れて、玲瓏のメンバーたちに歩み寄っていった。そこには本橋さんもいたので、僕も近寄っていった。
「おまえら、ファンの方ってのをなめてんのか」
 低い声で本橋さんが言い、ダイちゃんも僕もぎくりとした。
「そうは言ってませんが……」
 口ごもっているのが、玲瓏のリーダーの村木くんだ。僕も紹介だけはしてもらったので、出演者たち全員の顔と名前は一致させていた。
「そんな了見でいい歌が歌えるか。出ていけ。外で反省してこい」
「本橋さんにそんな権利があるんですか」
 言い返した村木くんに、本橋さんが鋭いまなざしを注ぐ。僕の前にはダイちゃんの背中があって、亜実さんの手が彼のジャケットの裾を握っているのが見えた。
「あるさ」
 こちらの僕ら三人は固まっていて、さらに背後から声がかかった。
「俺はこのライヴの責任者のひとりのつもりだ。本橋にも責任者の一端をまかせてある。その本橋の台詞なんだ。玲瓏の五人、出ていけ」
 ちらっと振り返ると、再結成されたダーティエンジェルズの中心人物、畑山ヤスシさんだった。
「反省もできないようだったら、ライヴには出なくていいぜ」
 背も高くて押し出しがよくて、下手をするとヤクザっぽくもなくもないヤスシさんは、年齢的な重みもあって本橋さん以上に迫力がある。静かに言われた玲瓏のメンバーたちは、頭を下げて会場から出ていった。
「ダイちゃん、怖いよ」
「うん、俺も怖いよ」
 前ではカップルが言い合っていて、ヤスシさんも言った。
「本橋、なにかあったんだろ」
「ヤスシさんは聞いてらっしゃらなかったのに、俺の言い分だけで?」
「信頼関係ってやつがちがうわな。俺もオヤジなもんで、ああいう若造どもはどうもな……ま、いいさ。あれで反省しないようだったら、そのときはもう一度考える。よ、そこの綺麗な彼女、あなたが亜実さんかな。俺を知ってる?」
 気の強そうな亜実さんが、さらにダイちゃんのジャケットの裾を強く握って返事をした。
「はい」
「怖いって聞こえたけど、本橋が怖いんだろ」
「え、ええと……あの……」
「やっさんって呼んで。お茶でもどう?」
「え、えとえと……あの、ダイちゃん?」
「ダイちゃんも行こうぜ。休憩だ」
 は、はいっ、とダイちゃんも直立不動で答え、三人は出ていき、本橋さんは僕に片手を上げて去っていき、僕はぽかんと突っ立っていた。
「えーと、酒巻さんですよね」
 女性の声がして振り向くと、これまた紹介だけはしてもらっていた人がいた。
「春日弥生さん。お久し振りです」
「お久しゅう。三沢くんから話は聞いてますえ。ニューヨークへ行ってはったんやてね。私はソロやからお声はかけてもろてないんやけど、知り合いのひとはぎょうさん出はるから、差し入れを持ってきたんよ。酒巻さんも召し上がる?」
 大きなバッグを差し上げて、弥生さんがにこにこする。僕はバッグを持たせていただいた。
「いやぁ、悪いね。ありがとう」
「これしきは……では、控え室に参りましょうか」
 フォレストシンガーズの控え室に、と言われて、ふたりで廊下を歩いていった。
「章くんから聞いたことがあるけど、本橋さんってああいう叱り方をしはるんよね」
「弥生さんも見てらしたんですか。原因もごぞんじですか」
「途中からしか見てないけど、章くんが言うてたんを思い出したわ。リーダーが俺をきびしく叱るときにはむしろ殴ったりはせえへん、出ていけ、反省してこい、やって。酒巻さんもそんなん言われた?」
「いえ、僕はあまりきびしく叱られたことってないんですよね」
 学生時代にはキャプテンだった本橋さんに、しっかりしろ、馬鹿野郎、と頭をこづかれた。乾さんにも、張り倒してやりたいところだ、と叱られた経験はある。
 社会人になってからは、乾さんにも金子さんにもびっしびっしと叱られて頬を打たれたりもした。けれど、本橋さんにはさまできびしく叱られたことはない。外に出て反省してろ、と木村さんから僕も聞いた記憶のある、そんな叱責は受けたことはなかった。
「で、やっさんは本橋さんより一枚上。そらそうやわね」
「ヤスシさんとも弥生さんは親しいんですよね」
「彼もキャリアは長いから、昔なじみよ。茶飲み友達みたいなもんやね。ところで……」
 時期が近いころに、弥生さんもひったくりに遭遇している。そのときには僕よりは強い三沢さんが、泥棒を捕らえてくれた。僕もひったくり事件に遭ったので、その話しをしながらフォレストシンガーズの控え室へと入っていった。
「弥生さん、ようこそいらっしゃいませ」
 酒巻もよく来たな、と迎えてくれたのは乾さん。乾さんは喫煙中だったようで、煙草を消して僕が渡したバッグを開けた。
「弥生さんお得意のいなり寿司ですか。ごちそうになります。こんなにたくさん?」
「今日は何人来たはる? みなさんには行き渡れへんやろうけど、一個ずつでも食べてね」
「ありがとうございます。どうぞ」
 ノックの音がして、乾さんが応じる。入ってきたのは村木くんだった。
「漣くん、本橋さんに言われたんとちがうの?」
「あの場からは出ていきましたよ。おばさんは無関係でしょ。黙ってて下さい」
 おばさん? 漣くんとは村木くんの名前であろう。玲瓏は姓のみしか公式には名乗っていないというのだから、弥生さんと村木くんは知り合いなのか。事情はあとから聞くことにして、僕が黙っていると村木くんが言った。
「僕らはキャリアの浅い新人です」
「そうだね。だから?」
「ですから、先輩方の前ではへりくだらないといけないっていう、日本の風習は知ってますよ。下らない慣習ですけど、郷に入れば郷に従えって言いますからね」
「それで?」
「けれど、今回の出演者は対等でしょう? ああいうふうに扱われては我慢できません。僕はリーダーなんですから、みんなを代表して談判させてもらいにきました」
「なんのことかな。俺は知らないんだけどね」
 相手をしているのは乾さんで、村木くんは激情を抑えているかの声で続けた。
「本橋さんが言ったんですよ。このコーラスアレンジはこうしたら、客にも新鮮味が伝わるだろって」
「客とは本橋は言わないな。お客さまだろ」
「どっちでも同じでしょ」
「同じではないよ」
「……お客さまに新鮮味が伝わるって、本橋さんが言いました。そんな高度なテクニックは、素人にはわかりませんって僕が言った。うちのみんなは賛成した。それだけでなぜ、外に出て反省してろになるんですか」
 ようやく僕も先刻の一件の原因を知り、弥生さんも乾さんもうなずいた。
「それで本橋に叱りつけられたんだな。そのときのきみの言葉のニュアンスなんかもあったんだろうね。本橋は怒りっぽいけど、無闇にそんなことは言わないよ。俺は本橋の味方をする。外に出てろと命じられたんだったら出てろ。反省してろ」
「……ヤスシさんも乾さんも、横暴なんですね」
「理由もなく追い出したら横暴だろうけど、きみらが理由を作ったんだろ」
「おばさんもそう思いますか」
 黙って首を縦に振った弥生さんに、村木くんが言った。
「気持ち悪いな。こういうのって日本の最悪の慣習でしょ。こんな気持ちの悪い世界……僕らはどうすりゃいいんですか? おばさんはあんたらの……言ってはいけないんだろうから言わないけど、それも気持ち悪いんですよ」
「俺は以前に、きみが言ってたことは聞いたよ。口に出すつもりだったら外に出ろ」
「それでどうするんですか?」
「殴り合いをやろうか」
 軽く言う乾さんを見て、僕は知らず弥生さんに身を寄せる。弥生さんはごくっと喉を鳴らしてから言った。
「子供やないんやから、漣くんもよーく考えてみたら? 仲間たちの手前、リーダーとして言いにきたんもわかるよ。乾くん、殴り合いなんてやめてね」
「やりたくありませんよ。俺は彼には負けそうですしね」
「乾さん、怒らないで下さいね」
「おまえが泣きそうな顔をするなよ」
 僕の胸はどきどきしているのに、乾さんは涼しい顔。村木くんはくちびるを噛んで乾さんを見据えてから、失礼します、と小声で言って部屋を出ていった。
「乾くんってクールに言うよね、外に出ろ、殴り合いやろうかって。年寄りには心臓のさわりになるんよ」
「僕のちっちゃなハートも破れそうですよ」
「それはそれは。失礼しました」
 本橋さんと乾さんのこの別種の貫禄。僕から見れば出会った瞬間から大人に見えた、三つ年上の先輩は、いまやもっとはるかに大きな存在になっていた。


2 

 ニューヨークにいれば留学生で、小柄な僕は年頃も二十歳程度に見られ、日本人少年として呑気にやっている。勉強やら執筆やらも一生懸命やっているから暇ではないが、日本にいるときとは日常の密度がちがっている。
 外国にいればたやすくは会えないひとにも会いにいきたい。神戸に行くと連絡すると、ヒデさんが「Drunken sea gull」に何人もの人を集めてくれた。
 神戸の港近くにあるこのバーは、日本語では「酔っ払いカモメ」。寡黙な髭のマスターは、昔はミュージシャンだったのか。三沢さん憧れのハードボイルドなおじさんっぽくて、ギターが上手で、カクテルも巧みに作る。
 その店に集まってくれたのは、小笠原英彦、瀬戸内泉水、高畠新之助、ファイ、それから、僕の知らない小柄でぽっちゃり気味の男性だった。
「野島春一って、酒巻は知らんか」
 瀬戸内さんはヒデさんやシゲさんの大学時代の親友。僕にとっても大学の先輩に当たる、大阪在住の会社員だ。新之助くんはヒデさんの若い友達で、ヒデさんが勤める神戸の電気屋さんでアルバイトしている大学生。
 ファイは休止中の燦劇のヴォーカリストで、最近は神戸で歌っているらしい。この四人は僕とも旧知の仲だが、ノジマハルイチ、そんな名前ははじめて聞いた。
「ブログつながりで知り合ったんや。ハルさんは酒巻は知ってるやろ」
「はい、知ってます。酒巻さん、よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 フォレストシンガーズを題材にしたブログで人気のあるヒデさんなのだから、ハルさんはブログ仲間なのか。簡単に紹介してもらったので、僕も頭を下げた。
 シゲさんと同郷の三重県出身、瀬戸内さんは関西弁はあまり使わない。ファイは東京出身、ハルさんも関東出身のようで、基本は標準語だ。新之助くんとマスターは関西弁で、ヒデさんはちゃんぽん言葉で喋り、話がはずんだ。
「ア・カペラライヴですか。高尚っぼいね」
 ハルさんが言い、新之助くんも言った。
「どんな感じかは俺はわかるけど、ロックのほうがええなぁ。瀬戸内さんはそんなん、好き?」
「好きだけど、チケットは買えるのかな? もう売り出してるの、酒巻くん?」
「日時決定次第発売開始です。よろしければチケットの手配はしますよ」
 ぐるっとみんなを見回すと、ヒデさんが言った。
「それにしようか。ハルさん、大阪でのライヴには行ったんだし、東京にも行こうや」
「……井口さんも?」
「井口さんは東京に住んでるんだから、スケジュールが合えば行くんじゃないかな。あのひとも歌は好きなんだよな」
「好きみたいだね。瀬戸内さんはどうします?」
「わからないから参加は見合わせる。新之助くんは?」
「俺はロックがええ」
「よし、ほんなら酒巻、ライヴの日が決まったらチケット三枚、頼むわ」
「承知しました」
 では、行くのはヒデさんとハルさんと井口さんとやらか。ファイはもとより、俺はそんなのいらないよぉ、と言っているので、チケット三枚確保、と手帳にメモした。
「井口さんって誰?」
 ファイが尋ね、新之助くんが頭を振る。瀬戸内さんは言った。
「恭子さんからはちらっと聞いたんだけど、まだあんまり言えないんだよね、ヒデ?」
「俺はえいけんど、ハルさん?」
「いや、大きな声で言える話でもないから……」
 なにかしらわけありなのだろう。井口さん、井口さん……僕には心当たりはない名前だった。
「東京のほうでもややこしいこともあるんやろ」
 ヒデさんが問いかけ、僕は言った。
「僕も東京を離れてますから、よくは知らないんですよ。でも、春日弥生さんとか三沢さんとか、若いヴォーカルグループとか、自称不思議ちゃんとか……」
 東京に住んでいる先輩や友達や仕事の関係者から聞いた話の断片を口にすると、ヒデさんと新之助くんが吹き出し、ファイが言った。
「俺らビジュアル系ってのは、常識的大人には眉をひそめられるんだよな。男のくせに化粧して、とかさ。だけど、俺らって中身は普通だぜ。普通じゃない格好はしてたけど、意外に普通なんだよなぁって、やだやだ、そう思うなんて老けた証拠かな」
「そうかもしれんね。俺なんか若いから、そうは思わんもんな」
「そう言ってるうちに老けるんだよ、新之助」
 この中で一番若いのは新之助くん、続いてファイ、それから僕、あとの三人は同い年だ。それからぐっと年上のマスター。今夜は貸切なのか、他のお客さまはいなかった。
 二十代と三十代の男女六人。さまざまな話題が出てくる。いろんな名前も出てくる。井口、純也、ソニン、シゲ、恭子さん、広大、壮介、本橋さん、幸生、ミルキーウェイ、創始、村木漣、パール、エミー、沢崎司、僕の知っている名前も、知らない名前もあった。
「今さらだけど、酒巻くんは体調はよくなったの? 金子さんが手配してくれたウィークリーマンションですごしてるんだよね」
 尋ねてくれた瀬戸内さんにうなずく。彼女はア・カペラライヴには来られないようだから、会いにきてよかった。女性にこんなふうなこまやかな心遣いを見せてもらうと、不覚にも涙ぐみそうにまでなってしまった。


 東京にはファイと一緒に帰り、ふたりしてオフィス・ヤマザキに顔を出す。山崎社長は僕たちを歓待してくれた。社長の歓待はすなわち。
「うげげぇ、久し振りで社長の説教を聞いたよ。うげうげうげっ」
 口ではそう言っているものの、ファイもなんだか嬉しそうだ。燦劇のメンバーにとってはひたすらうざったいらしき山崎社長の説教は、僕にとってはなつかしくしみた。
 さて、どうしようか? 食事にでも行く? 事務所の外に出てファイに問いかける。ただいまのフォレストシンガーズはア・カペラライヴと彼らの全国ツアーのリハーサルや打ち合わせのダブルで大忙しだから、三沢さんにもあまり遊んでもらえない。
 骨折で入院していたときにはパールがお見舞いにきてくれ、エミーからはお見舞いメールをもらった。ルビーとトビーもよろしく言ってたよ、とパールが伝言もしてくれた。
 ビジュアル系ロックバンドと僕の世界がクロスするなんて、これもDJになったおかげだ。僕の先輩たちの所属事務所に燦劇が所属していたから彼らと親しくなって、後にはビジュアル系ロックフェスティバルの司会もさせてもらった。
 けれど、燦劇は音楽的見解の相違ってやつで、現在は休止中。ビジュアルはいやだと言い出したエミーはロスアンジェルスに留学中だから、僕とは同じアメリカにいるのだが。
 狭い日本の神戸と東京、東京と山形に離れていたってそうそう会えないのだから、広いアメリカのL.Aとニューヨークでは会う機会なんかない。エミーは僕を嫌ってはいないはずだが、お互いに、わざわざ会いにいく仲でもない。
 エミーが好きだったはずのオフィス・ヤマザキの事務員、玲奈さんは結婚して人見玲奈になり、仕事は続けている。エミーはもしかしたら、新婚きらきら奥さんの玲奈さんに会いたくなくて、いつまでも帰国しないのか。
「ロッカーにもいろいろいるけど、エミーはそんな純情じゃねえよ。俺よりはましとはいえ、あいつも遊び人だったんだぜ」
「ファイよりはましったって……」
「酒巻さんと較べれば、百億倍遊び人だな」
 事務所の前で話していると、むこうのほうに小柄な人影が見えた。
「お、クリ!!」
 手を振るファイを認めて、どういうわけかクリちゃんが逃げようとする。フルーツパフェの栗原準。彼も僕のお見舞いにきてくれて泣いてくれて、ア・カペラライヴにも出演すると決まっている、僕の大切な年下の友達だ。
「なんで逃げるんだよ。待て」
 ほんのちょっとだけ僕よりは背の高い程度のクリちゃんは、超長身で超脚長のファイに勝てるはずがない。あっけなくもつかまってしまって、引っ張ってこられていた。
「ちょい早いけど、酒にすっか。玲奈ちゃんから聞いたぜ。白状しろよ」
「な、ななな、なにをですか。酒巻さん、助けて下さいよ」
「モモちゃんはどうしたの?」
「いえ、あの、モモちゃんは……」
 こんなにおどおどしているのは、もとからクリちゃんはファイが怖いというのもあるだろう。ファイは顔が綺麗すぎて背が高すぎて、おまけに荒々しくもあるので、クリちゃんのような男から見ると怖そうなのだ。
 実は僕も昔はファイには怯んでしまっていたし、今でもその傾向がなくもないので、クリちゃんの気持ちはよくわかる。
 が、クリちゃんが引き気味になっているのは他にも理由がある。ファイは玲奈さんに聞いたそうで、僕にもちょこっと話してくれたから、それについて詰問しなくてはいけない。モモちゃんは別の仕事で……とぴくぴく言っているクリちゃんをファイが引きずって、駅の近くの飲み屋に入った。
「酒巻さんとしては腹立たしいよね」
 にやにやとファイが問いかけ、僕はなるたけ重々しくうなずく。クリちゃんは早くもべそをかきはじめた。
 二十代半ばの実年齢にはとうてい見えない、小柄でひょろっとして色白で髭もはえないというところは、クリちゃんは僕に似ている。弱気で泣き虫なのも僕に似ているが、先輩方には言われている。クリに較べれば酒巻は男だ、と。
 そう言っていただければ嬉しくなくもないが、較べる相手がクリちゃんじゃあね。
 と、この僕にまで言わせるほどの栗原準は、結婚しているのだ。彼の奥さんはフルーツパフェの栗原桃恵。モモちゃんである。
 周囲の成人男性たちの中ではおそらく、僕がもっとも背が低く、ファイがもっとも背が高い。その僕よりも背の低い小柄で可憐なモモちゃんは、どこかしらは僕の理想のタイプだ。こんなにも弱虫の夫を叱咤激励してつき従えて進んでいく強いひと。
 いや、僕はここまでは妻の意のままにはされたくないが、結婚できるのだとしたら、モモちゃんに近いタイプの女性がいい。
 愛し合って結婚し、ふたりして山崎社長に認めてもらって「フルーツパフェ」としてデビューさせてもらったモモちゃんとクリちゃん。モモちゃんがいればこそ、彼らはここまで来られた。モモちゃんがいなかったら、クリちゃんは途中でくじけてしまったはずだとみんなが言っている。
 にも関わらず、この裏切り者の浮気者!! 成敗してやるっ、そこに直れ!! と言いたい気もあって、僕はクリちゃんをちろりと睨んだ。
「新しいマネージャーさんなんだってね? 年上なんでしょ」
「酒巻さんは知らない? 俺は会ったよ。ふーん、こういうのがクリの趣味なのかって感じ」
「噂は聞いたよ。前田操さんって言うんでしょ」
「そうそう。モモちゃんが怒る気持ちはわかるな」
「どういう意味でかは言わないでね、ファイ」
「どういう意味かはひとことでは言えないから、言わないけどさ」
 内緒で言わせてもらえれば、その一部は、なんであんなおばさんとっ!! であるらしい。
 恋は異なもの、味なもの。縁とは異なもの、と言う。他人がどう思おうとも、当事者同士がハッピィならばそれでいい。モモちゃんにとってのクリちゃんはそんな存在だったはずだ。
 なのにこの裏切り者、浮気者は、前田操さんというマネージャーさんに恋をした。しかも前田さんは迷惑がっていると言う。仕事に忠実な女性だから、前田さんはクリちゃんを改心させ、マネージャーとしての職務を全うしようと粉骨砕身。クリちゃんはそんな前田さんをも困らせているのだった。
 どうもファイは面白がっていて、僕はかなり憤っている。クリちゃんは冷や汗をかいて縮こまっている。ファイと僕だけが喋り、クリちゃんはウーロン茶を飲んでばかり。
「そんでさ、クリはモモちゃんと離婚して前田さんと結婚したいのか?」
 ファイが尋ね、クリちゃんはいっそう身をちぢこめた。
「モモちゃんはそれでもいいって言うんですよ。仕事さえそのまんま続けていくんだったら、別れてあげてもいいよって」
「本気で?」
「本気じゃなくて、怒り心頭のためです」
「だろうな。おまえはそうしたいのか?」
「前田さんは僕なんかと結婚してくれそうにないし……」
「当たり前じゃん」
 やってらんねーよ、とファイが吐き捨て、僕も言った。
「今はクリちゃんはどうしてるの?」
「モモちゃんとは家庭内別居です」
「それでいいの?」
「……どうしたらいいのかわからなくて……酒巻さん、僕はいったいどうしたらいいんでしょうか」
「きみの思いのままにできるんだったらどうしたい?」
「んんと……」
 長く考えてから、クリちゃんは言った。
「モモちゃんも前田さんも両方……両方ともが僕の奥さんだったらな……うぎゃっ!!」
 大きな手がクリちゃんの耳を両方とも引っ張り、ちぎってしまいそうになったので、僕はファイを止めた。
「ミュージシャンの耳は大切だから、ひどいことをしたらいけないよ」
「この俺がこういう話を聞いて苛々するんだから、こいつ、最低だよな」
「うん、最低」
 僕も吐き捨てると、クリちゃんは真っ青になって泣き出した。
「酒巻さんまで……酒巻さんに見捨てられたら僕は……」
「この話にはまったく結論は出てないけど、モモちゃんは仕事の上ではきみを捨てるつもりはないんだよね。他にもある仕事ももちろん、ア・カペラライヴは死力を尽くして臨むように。生半可な仕事なんかしたら……」
 乾さんにとびっきりきびしく叱ってもらうからね、と言いかけて、別の言い方にした。
「僕が承知しないからね」
「……ひっ!!」
 涙に暮れているクリちゃんが、がくがくがくっとうなずく。ファイが言った。
「出よう」
「クリちゃんは? あ、ああ、わかった。出よう」
 お金は僕が払って、クリちゃんを残して店から出る。ファイは長身をぐっと折り曲げて囁いた。
「酒巻さんって声が低いせいもあるけど、ああやって怒った声を出すと迫力もあるじゃん」
「そ、そう? お世辞じゃなくて?」
「なんかの映画で見たよ。あんたほどに迫力も貫禄もない男はまずいないぜ、って言われてる男がいて、俺はクリと酒巻さんを思い出したわけ。俺の身近にはそういう男がふたりもいるってね。パールも迫力ないけど、あいつは気が強いから、怒るとまあまあ怖いもんな。だけど、あんたらはさ……」
 事実であろうから言い返せないでいると、ファイがにっこりした。
「めったに怒らない酒巻さんが、僕が承知しないからね、って言うとちょっとは迫力あったよ。ってのかさ、相手がクリだからだろうけど」
 相手限定であろうとも、ちょっとであろうとも、迫力があると言ってもらえるのは嬉しかった。


3

 何組ものヴォーカルグループが出演するライヴには、男女混声グループもいくつかある。男性四名、女性二名の「華歌」以外にも、男性ひとり、女性三人の「メロウオルゴール」ってグループもいた。
「酒巻さんは僕と声が似てますね」
 話しかけてきたのは、「メロウオルゴール」のセイくん。彼らもまた僕は紹介してもらっていただけなので、声は初に聞いた。
「メロウオルゴールってそういう構成なんですね。女性たちの綺麗な声に、セイくんのベースヴォーカルがからむんだ」
「そうです」
「昔からベースヴォーカルやってるの?」
 十ほどは僕よりも年下だろう。メロウオルゴールはライヴの出演者たちの中では若手のほうだ。
「僕は中学校から女子校にいましてね」
「へ?」
「僕は男ですよ。でも、父が中高一貫の女子校の理事をしていましたので、特例でその学校に入学させられたんです」
 特例って、そんなのアリ? 三沢さんだったら喜びそうだけど、僕はいやだ。女子校にただひとりの男子生徒なんて怖い。
「中学校で合唱部に入り、うちの三人のメンバーと知り合ったんです。ユズ、ウメ、リンゴ。だから、そのころから僕は女子の声の中で異彩を放つベースヴォーカリストなんですよ」
「は、はあ、なるほど」
 言いくるめられそうになっていると、女性たちの声が聞こえてきた。
「セイったら、よくそんな嘘をつくよね」
「純情な酒巻さんをからかうもんじゃないよっ」
「そういうことを言ってると、乾さんに言いつけるからね」
「酒巻さん、嘘ですからね」
「私たちが中学校の合唱部で知り合ったのは本当ですけど、共学でしたから」
 なんだ、そうだったのか。安心することではないのだろうが、僕は安心して、知らず詰めていた息を吐き出した。
「いえ、嘘ってよりジョークでしょ。本気にしかけていた僕が馬鹿なんですよ」
 若い女性にも酒巻國友は純情だと思われている。純情イコールガキってか、単純ってか。その上に、乾さんに言いつける、の言葉も聞こえた。乾さんもここでも本領を発揮しているらしい。
 中背で筋肉質の、シゲさんに似た体格のセイくん。セイくんよりも高い女性がひとり。セイくんよりは低い女性がふたり。メロウオルゴールの女性たちは僕にはまったく区別がつかないが、ユズ、ウメ、リンゴなんて名前ではなかったはず。そんな名前だったら和風フルーツパフェだ。
 嘘ばっか言うんじゃないのよ、と女性たちに叱られて舌を出しているお茶目なセイくんに笑いかけて、僕はア・カペラライブの出演者たちのリハーサル風景を見物して歩いていた。
 このライヴの発案者は、ダーティエンジェルスである。ダーティエンジェルスのロクさんがシゲさんとともに「ROKUDEARI」というベースマンばかりのユニットを結成し、そこからこのライヴが企画されたのだと聞いている。
 「ROKUDEARI」にはロクさん、シゲさん、「華歌」のカズくん、「Six scenes」のサワさんと四人のメンバーがいた。「華歌」ももちろん、「Six scenes」の出演も決定していて、今日はここの六人の男性もリハーサルに参加していた。
 「Six scenes」は四十代のベテラン男性ヴォーカルグループだ。ルックスはかっこいいとはいえないし、売れているともいえないが、渋くてかっこいいレパートリーを持っている。彼らは童謡や唱歌も得意で、「つくば山麓男声合唱団」のハーモニーは秀逸だった。
「サワさんのバス、最高ですよね」
 バスなのだから僕に似ているといえる声の持ち主。拍手しながらサワさんに話しかけた。
「よっ、酒巻くん、司会、がんばれよ」
「はい、がんばります」
「そうそう、酒巻くんもいることだし、練習にもなるんだからやろうぜ。シゲ、カズ、えーと……ロクさんもいたいた。加わって下さいよ」
 サワさんに呼びかけられた三人が近寄ってくる。「華歌」のカズくんとフォレストシンガーズのシゲさんと、再結成されたダーティエンジェルスのロクさん。「ROKUDEARI」のメンバーが集合だ。
「っつーと、ロクデアリじゃなくてゴデアリか」
「ロクデアリって六人じゃないんだから、そんなことを言うんだったらもとからヨンデアリだろ」
「ヨンデモラッテアリガトウ」
「なんだ、そりゃ」
 臨時再結成のロクデアリを見たいのか聞きたいのか、回りにいた人々も集まってくる。ダーティエンジェルスのヤスシさんを囲んで、シックスシーンの他五名が戯言を言っている。僕もそっちに加わろうとしていたら、ぐいっと襟首を引っ張られた。
「今日は五人だよ。酒巻くんが最低音パートをやってくれ」
 ロクさんに言われて、え? えええ? となっていると、サワさんも言った。
「酒巻くんだって合唱部にいたんだろ。歌は上手なんだろ」
「酒巻さんの歌は僕は聴いたことがないですよ。一緒に歌いましょう」
 カズくんも言い、シゲさんがうなずく。何人もの人の歓声に後押しされて、僕も仲間入りを余儀なくされてしまった。
「えええ? そんなぁ……このメンバーに僕が混じるなんて……」
「それを言うなら僕もです」
 真面目にカズくんが言い、そうかもしれないと思う。実力のある三十代から五十代の男性たちに取り囲まれたら、若いカズくんはつらかっただろう。だけどなぁ、カズくんは本物の歌い手。僕は素人なのだから立場がちがうでしょ。どうしたって尻込みしていると、シゲさんに背中をどやされた。
「酒巻、覚悟を決めてやれ」
「ええ、でも……」
「酒巻、しっかりしろよ」
 やや離れたあたりに本橋さんがいて、げんこつにはーっと息を吹きかけて笑っている。こいつで活を入れてやろうかと言いたいらしくて首をすくめると、乾さんの声も聞こえた。
「酒巻、姿勢を正せ。やれ」
「は、はいっ!!」
 やっぱり僕は乾さんの叱声がいちばん怖いみたいだ。金子さんはもっと怖いけど、ア・カペラグループ大集合なのだからソロの金子さんはいない。そうなると、乾さんがいちばん怖い先輩。乾さんにやれと言われたら、やるしかない。
「よろしくお願いします」
 素人が加わってすみません、との想いも込めて四人のプロに頭を下げ、ロクデアリに加わらせていただく。歌は古いヒット曲で、ダーティエンジェルスの「ソルティガール」だ。ロクさんが担当していたベースヴォーカルを僕が歌うと決まって、五人で並んだ。
 各ヴォーカルグループのバックバンドの人なども来ているから、演奏もしてもらえる。ア・カペラなのでベースギターだけで、歌がはじまった。
 なんて素敵なハーモニーだろう。特にこの会場にいる女性たちはうっとりしているのではあるまいか。僕もなんとかついていきながら、会場のそこここに目をやる。モモちゃんがいる。華歌やメロウオルゴールの女性たちや、女性ヴォーカルグループのひとたちもいる。彼女たちは一様に大人の男性たちのハーモニーに陶酔しているように見えた。
 そんな中にちらっと見えたのは、千鶴さん? 佐田千鶴さんは女優さんだから、このリハーサルにはなんの関わりもないはずだが、乾さんに会いたくてやってきたとも考えられる。
 映画で共演して乾さんに恋したと聞いている十九歳のお嬢さん。僕はほんのすこし言葉をかわしただけだが、映像でだったら見た。僕の数少ない同年齢の大学の友人、香川くんが撮ったフィルムでは、千鶴さんと乾さんのけっこう濃いからみもあった。
 完全なヌードではないにせよ、色っぽいシーンや姿態を見せてもらったから、千鶴さんは印象深い。僕はようやくできた恋人にふられたのに、乾さんはこんなに可愛くて若いひとに恋されて、そのくせ、振り向いてあげないなんて。
 もてていいな、と、乾さんって自分が恋したのでもない女性にはつめたいよね、との想いを抱いて、千鶴さんにはどう接したらいいのかわかりづらかった。
 その千鶴さんがたしかにいた。誰かに話しかけられて、そのひとと一緒に輪の中から離れていった。僕はプロの歌い手さんたちとともに歌うなんていう難行に夢中だったけれど、気になっていた。千鶴さんは誰と、どこに行ったのだろう?


 歌い終えてみなさんに褒めていただいて、恐縮してお礼やお詫びを言ってから、僕も人の輪から抜け出した。乾さんは気がついていないのだろうか。報告するほどのこともないだろうから、とにかく僕が千鶴さんを探そうと思ったのだった。
「どうぞ」
「あのぉ、なにか御用?」
 その会話は、窓の外から聞こえてきた。
 どこを探したらいいのか見当もつかず、闇雲に歩いていた廊下の窓だ。こそっと覗いてみると、建物の外の芝生の上にベンチがあり、そこに千鶴さんと玲瓏の村木くんが腰かけていた。
「まあ、どうぞ」
「はい、ありがとう」
 自動販売機でコーヒーでも買ったのか。村木くんが千鶴さんに小さい缶を手渡す。千鶴さんは受け取って手の中で缶をもてあそび、村木くんはプルリングを抜いてぐっと飲んだ。
「なんだかじろじろ見てませんでした?」
「ここまで来る間に? まあね。僕はあなたには興味津々だったから」
「興味津々?」
「だって、そうでしょ? 内緒にしてるみたいだけど、僕には映画界にも知り合いがいるんだから、知ってるんだよ」
 缶コーヒーを口にするときに、村木くんの端正な美貌が角度を変える。女性ならば見惚れてしまいそうなその顔が、卑賤にゆがんで見えた。
「あのいやらしいポスターで、いやらしいことをされてる女はあなたでしょ」
「……なんのことだかわからないんですけど」
「とぼけても無駄だよ。あなたにいやらしいことをしてる男は、あいつだよね」
「……」
「あいつ、僕はあいつが嫌いだよ」
 部外者は知らないはずの、内輪でだけは周知の事実であるあのポスター。乾さんと千鶴さんの映画宣伝ポスターのことなのだろうとは、僕には理解できた。
「本橋さんはストレートに怒るから、まだしも扱いやすいんだよね。シゲさんなんてのは鈍感で、僕らがなにを言っても困った顔をしてもごもご言ってるだけだ。頭が悪いんだろうね。三沢さんは得体の知れないところがあるけど、小さい男は中身も小さいんじゃないかってか、気にかけるほどでもないよ。木村さんも三沢さんと同じようなものだね」
「そう、ですか」
「だけどさ、乾さんだけは……なんてーのかな。あいつを見てるともやもやっとして、この僕がうまい言葉を見つけられなくなるんだ。つっかかってみてもえらそうだったり、軽くだったりで身をかわされる。そういう態度を取られると苛立ちが募るんだ」
「村木さんって、乾さんに恋してる?」
 どんな表情でいるのかは見えないが、千鶴さんは笑みを含んだ声で言い、村木くんは刺々しい口調で応じた。
「きみも馬鹿な女のひとりだな。女なんてのはたいていは馬鹿だけど、きみもそうなんだろうな。あいつのそっちのテクニックはどうなの?」
「知りません」
「知らないわけがないだろ。あいつらって女の趣味が無茶苦茶だね。春日弥生みたいなばばあから、法律違反ぎりぎりセーフのきみみたいなガキまで」
「……ものすごく失礼だとわかってて言ってるんですよね」
 その反応は無視して、村木くんは言った。
「ばばあはお断りだけど、きみだったら僕もいやじゃないよ。きみはあいつに抱かれて恋をしてしまった愚かな女だって、誰かが言ってたな。近頃ではあいつには抱かれてないの? うずいてるんだったら鎮めてあげようか」
「誰から聞いたんですか」
「誰だっていいでしょ。うん、きみは美人だよね。女なんてのは美人だったら愚かでもいいんだ。愚かなほうが幸せかもしれないよ」
 香川くんのフィルムを見たときには、僕は八つ当たり気味に感じた。セックスを連想させるこんなシーンはいやらしい、乾さんって不潔!! と、思春期少女みたいに思った。
 本人には言わなかったけれど、木村さんにはそれらしきことを言って呆れられた。けれどあの感慨は、僕がふられたばかりだったからだ。僕だって女性とのベッドインは経験があって、ただ、それは密室でひめやかに行われるべきであって、ポスターやフィルムにするとちょっと、だっただけだ。
 僕の感想も馬鹿げていたと自覚はしているが、村木くんはひどすぎる。機材があったら録音してやるのに。乾さんに聞いてもらって、村木くんを叱りつけてもらうのに。
 いや、僕は大人の男だ。村木くんとは腕力でも議論でもかないっこないけど、先輩に告げ口するなんて真似をしてはいけない。村木くんは卑猥で卑俗な言葉を次々に口にし、立ち上がろうとした千鶴さんの腕をつかんだ。
「僕はあいつなんかよりもいいはずだよ。仕事はもうじき終わるから、待ってて。きみの……」
「やめてっ!!」
 村木くんの手が千鶴さんのスカートに忍び込もうとする。千鶴さんはその手を払いのけ、村木くんは冷笑的に言った。
「気取るなよ。あいつにこうされたら濡れてたんだろ。今だって……」
「やめてったら」
「やわらかいね、きみは」
 息を整えてから、僕は窓を全開にした。
「やめろよ」
「んん?」
 振り仰いだ村木くんは、僕を認めてけっと呟いてから千鶴さんを離した。
「言いつけるんですか? ただのエロティックジョークだってのに?」
「言いつけはしないけど、きみは女性に向かってそういうことを言っている自分が恥ずかしくないの? それって訴えられても仕方のない台詞だよ」
「僕らの世界では、この程度はジョークですよね、千鶴さん?」
 うつむいてくちびるを噛んでいる千鶴さんを一瞥して、村木くんは立ち去った。
「あいつに言いつけたらいいんだよ。僕は平気さ」
 証拠もないから平気なのか。あいつ、乾さんに言いつけられたら対決するつもりなのか。どうして村木くんはそんなに乾さんを憎むのか。千鶴さんが泣いているようで、僕はうろたえてしまっていた。
「私は平気。そこに行きますから」
 わずかに湿った声で千鶴さんが言い、待っていると彼女がやってきた。
「酒巻さん、ありがとう。男らしくてかっこよかったですよ」
「あの、それって、乾さんに聞きました?」
「乾さん?」
「酒巻を褒めてやるんだったら、男らしいと言ってやれって。僕は男らしいと言ってもらえるのは声だけですから」
「私が思ったことを言っただけです。なんでも乾さんに教えてもらってるわけじゃありません」
「あ、ああっ、ごめんなさい。失礼しましたっ!!」
 怒ったのかと思った千鶴さんは、うふふっと笑った。
「あ、ねぇ、酒巻さん」
「……あ、フォレストシンガーズ」
 リハーサル会場のほうから、フォレストシンガーズのア・カペラソングが聞こえてくる。千鶴さんが僕の肩に肩を寄せてきて、どぎまぎしてしまう。
 歌が素敵すぎるから、千鶴さんは僕に寄り添いたくなっただけだ。とりわけリードを取っている乾さんの声が彼女を陶然とさせているから、自然に目を閉じているだけだ。僕はここに立っているオブジェのようなもの。
 こんなにも乾さんを好きで、乾さんにも可愛がられていた千鶴さんだからこそ、村木くんはあんな下卑たいやがらせを言ったのか。言葉に出せない疑問を読み取ったようで、千鶴さんは小声で言った。
「芸能界ってそういうものでしょ。あのくらいのことを言われて泣いてたら、私は女優になれないもの。乾さんに頼るほどでもないんだし、酒巻さんに助けてもらったんだし」
「乾さんには言わなくていいって意味ですね」
「はい。ああ……素敵」
 はじめて乾さんに会ったときにも、こうして風に乗って彼の歌声が聞こえてきていた。あれから十余年、大人になった乾さんの歌声が、大人になり切れない僕の耳に届く。千鶴さんの恋は成就しないかもしれないが、女優になりたい、大きくなりたい、との願いはかないますように。
 きみはきみの夢をごらん、僕はきみを見守っていたい、きみはきみの想いをかなえて、きみはそうできるひとだから……乾さんが歌うこの歌も、千鶴さんを応援しているはずだった。


END
 
 
 
 

 
スポンサーサイト


  • 【キャラへの質問(真柴豪です)】へ
  • 【「We are joker」15 】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

おきてがみにコメント下さったTMさんへ

ブログは読ませていただいていますので、事情もなんとなくはわかっているつもりでいました。

メッセージ、ありがとうございます。
くれぐれもご無理はなさらないで下さいね。

ここに書いても見ていただけないかもしれませんが、一応、お返事を。
TMさんの「おきてがみ」にもコメントさせていただきにいきますね。
管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【キャラへの質問(真柴豪です)】へ
  • 【「We are joker」15 】へ