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小説307(酒と涙と……)

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さけ

フォレストシンガーズストーリィ307

「酒と涙と……」


1

 ブログをはじめてからさまざまな出会いがあった。彼女になってくれた漫画家の蜜魅、本名は小山田三津葉とだって、俺がブログをやっていなかったら会わなかったかもしれない。
 ネタに困るとフォレストシンガーズを登場させてしのぐ俺のブログ、「HIDEブログ」にはたびたび行きつけの酒場も登場させる。無愛想オヤジのマスターのいる、神戸港を臨むバー、「Drunken sea gull」。この店の存在があってこそ、俺が仲間たちと再会できたのだともいえる。
 縁ってのはあちこちにころがっているもので、そんなこんなが重なり合って、俺は野島春一と知り合った。
 おぼろな記憶にならばある。本橋さんが彼の話をしてくれたような気もする。本橋さんの高校時代の後輩で、当時は陸上部の希望の星だったのだそうだ。俺が「Drunken sea gull」の名をブログに書いていたのを読んで、野島は俺に会いにきてくれた。
 バーで語り合い、話し足りなくて俺のアパートに誘い、夜っぴて酒を飲んで語り明かした。あれからは彼をハルさんと呼ぶようになり、彼も俺をヒデさんと呼ぶようになった。
 本橋さんが高校を卒業してからは一度も会ってもいない、と言うハルさんは、章とならば会ったのだそうだ。章はお喋りで口が軽くはあるが、大人になってきているからなのだろう。ハルさんが口止めしたのを守っているらしい。
 ハルさんが章に会ったのは、フォレストシンガーズ初の全国ライヴツアーの堺市公演のときだそうだから、四年ほど前か。そのころには俺もフォレストシンガーズの誰とも会ってはいず、ただひとり、かなり前に章にだけ偶然にも会っていた。
 そうすると章がキーパーソンなのか。しかし、あいつは使えるか?
 なにに使えるのかといえば、本橋さんとハルさんを会わせるってことにだ。章ではなく、使えるのはランニング、マラソン。なにしろハルさんはもと陸上選手で、俺だってジョギングは嫌いではなくなっているのだから。
 シゲだったら昔からマラソン大好きなトレーニングおたくだから、神戸マラソンに引っ張り出して俺も一緒に出場して、偶然をよそおってハルさんに会わせるのは可能だろう。が、シゲはあんまり関係ないし、第一、フォレストシンガーズにはスケジュールってものがある。
 学生時代からランニングは身体を鍛える手段でもあり、男子合唱部の罰でもあった。走れイコール罰、と連想するから、俺は長い間ランニングは嫌いだったのだが、ダイエットの手段にもなってからは好きになった。走るという免罪符があれば飲みすぎても食いすぎても多少は許される。
 大学生になって本橋さんと乾さんとシゲと、金子さんや徳永さんや実松なんかと知り合ったころから、俺の人生にランニングが入り込んできた。高校時代にも卓球部だったとはいえ、さぼりまくりでランニングなんてまともにやらなかったのだから。
 ランニングと歌が同時に人生に入ってきた十八の春。そこからはじめて、そろそろっとそれとなく、ハルさんに触れようか。本橋さんもたまには俺のブログを読んでくれているようだから、本橋さんが気づいてくれればいい。俺はパソコンに向かった。
「そうだ、井口憲次」
 本橋さんの高校の先輩で、ハルさんが彼に憧れて陸上部に入部したという男だ。年齢は本橋さんよりも一年上のはずで、俺も数年前までは彼の名前を新聞で目にしたこともあった。
 三十代も半ばとなると引退したのか、最近はめっきり聞かなくなった名前を、先にインターネットで検索してみた。高校、大学、社会人と陸上界で活躍していた井口の名前は、検索画面にずらっと並ぶ。彼の個人ブログにもヒットした。
 ざっと読んでみると、井口憲次は現在では後進の指導に当たっているようだ。母校の大学の陸上部コーチ。俺はジョギングは好きだといっても、マラソンに出たり陸上大会に積極的に興味を持ったりするほうではないので、よほど有名な選手しか知らない。
 コーチまではもちろん知らないので、井口憲次がひっそりこんな仕事をしているとも知らなかった。同じ大学だった赤木のほうも検索してみたら、過去の栄光がちらほらヒットする程度で、彼はブログはやっていないようだった。
 井口の近況は知れたものの、だからってどうしたらいいのかわからないままに、陸上関係のサイトをめぐっていると、女子マラソン選手のブログに行き当たった。

「私が長崎出身だということは、ファンのみなさまはご存知ですよね。
 東京の大学の陸上部に誘われて、コーチの井口先生のご指導のもと、オリンピックに出られるようにもなりました。
 北京では残念な成績でしたけど、この次こそは。まずは出場を勝ち取らなくてはね。

 高校の同窓会でも、少女時代の友人たちに激励してもらいました。
 長崎に里帰りしておいしいものを食べて、親にも甘えてきました。なつかしい友に会った中に、ずいぶん久し振りで会った女の子がいたんです。
 彼女もアスリートになっていたなんて、知らなかったな。
 私はテニスには興味なかったから知らなかったんですけど、彼女は私をこっそり応援してくれていたと言ってくれました。

 それからね、彼女、けっこう有名な歌手の奥さんになってるんですよ。
 男の子がふたりできて、テニスは引退したようなものだけど、私の分までがんばってね、って、彼女が激励してくれました。
 私も三十歳になったんだから、最後のチャンスかもしれない。うん、恭子ちゃん、がんばるよ。
 ありがとう、みんな。みなさんが応援してくれてるんだから、がんばります!!」

 長崎出身、テニス選手、三十歳、けっこう有名な歌手の奥さん、男の子がふたりできて引退、恭子ちゃん。このキーワードから考えつく女性は、本庄恭子さんしかいない。他にいるのだとしたらパクリだ、ってのは言いすぎか。
 ブログ主は甲田ゆみ子、なんとなくだったら知っている名前だ。出身大学は井口憲次がコーチをしている大学だと明記してあるから、ここに出てくる井口先生が井口憲次なのもまちがいない。
 ハルさんと井口と甲田さんと恭子さん、こんなつながりを見つけたのだから、コンタクトしてみよう。ブログってのはたいそう役に立つものなのだ。

「ゆみちゃんのブログを読んだんですか? そこに私の名前が出てくるの? 私は読んでないけど、ヒデさんが言ってる通り、その恭子は私です。
 事情はよーくわかりました。私も同窓会でゆみちゃんには久し振りで会ったんだけど、私だってもとはアスリートなんだし、高校のころにはちょっとは仲良しだったんだし、今はふたりともに東京に住んでるんだし、コンタクトは取れますよ。
 で、井口憲次さんに紹介してもらって、野島さんを井口さんに会わせて、ふたりそろって本橋さんに会わせるの? 野島さんと本橋さんをマラソン大会で会わせるってのは、フォレストシンガーズのスケジュールの都合からしても無理がある、それはたしかにそうですよね。
 ゆみちゃんにお願いして、井口さんに神戸に行ってもらえたらいいんですよね。仕事のついでとかがあったら行ってくれるのかな。「Drunken sea gull」って、私も行きたいな。
 なんにしてもゆみちゃんにコンタクトは取ってみます。私は暇だしね、まずはゆみちゃんのブログを読みますね」

 幼児と赤ん坊の二児の母が暇なはずはないが、メールをしたりブログを読んだりの時間くらいはあるのだろう。俺のメールに恭子さんが返事をくれ、何度かのメールのやりとりの末、恭子さんが連絡してくれた。
 OKの返事を受け取って、俺はハルさんを誘った。
 野島春一は現在は神戸で暮らしている。バツ二で両親もとうに失くし、弟妹には彼らの生活があって、ハルさんの出番はないという。俺以上にさっぱりした境遇のハルさんは、一時期の俺と似た流浪の旅人暮らしをしている。
 仕事があったから神戸に来て住み着いて、俺のブログを読んで本橋さんを思い出し、俺に会いにきてくれたのだろう。ハルさんの思考は一時期の俺にそっくりだから、うらぶれたおのれは本橋さんに合わせる顔はないと思い込んでいる。
 昔はフォレストシンガーズにいたといっても、俺は一般人なのだから、ハルさんにも会いやすかったのだろう。けれど、本橋さんに会いたくないのだったら、俺と触れ合う必要もないではないか。
 結婚するためにフォレストシンガーズを脱退してからは、毎日が慌しくて過去なんて思い煩っている時間はなかった。結婚して妻の親元である茨城県に呼び寄せられ、妻の父親の会社で働くようになり、妻の親父にマンションも買ってもらった。
 娘が生まれ、俺は課長の地位を与えられ、英彦くんは仕事ができるね、と妻の親父におだてられ、東京には行かないようにしていた。
 それでも仕事で東京に行き、大学の先輩に会ったこともある。あのときには俺は、フォレストシンガーズの話なんて絶対に聞きたくなくて、金子さんも徳永さんも俺の気分を察してくれて、近況話だけをしてくれた。
 そんなころにメジャーデビューしたフォレストシンガーズをテレビで見て、心に嵐が吹き荒れた。そのせいだけではないにしても、妻と喧嘩を繰り返すようになり、娘の情緒も安定しないようになったから、離婚届けを突きつけられた。
 これで俺はひとりになれる。妻のため、子供のため、生活の安定のために捨てた歌は戻ってこないけど、ひとりで生きるほうが気持ちがいいさ。
 強がって家を出て、ひとりで暮らすようになった。女と知り合ったりベッドに入ったりすることはあっても、深入りしそうになったら逃げて別の場所に行き、男友達ができそうになったとしても、そいつとさえも濃くなりたくなかったから逃げた。
 逃げてばかりいたあのころに、偶然に章と会って、忘れたつもりだった日々をまざまざと思い出した。あれからは考えるようになった。
 アホボケタコ、とシゲに罵られ、乾さんのあの舌鋒に叱り飛ばされたい。俺はまだ受けた経験のない、本橋さんの強烈なパンチをこの身体にもらいたい。そしたらきっと、たるみ切っている全身にも心にも喝が入る。
 本橋さんに殴られたら、反射的に殴り返すかもな。いや、駄目だな、俺はだらけまくってるから、学生時代と変わらず、どころか、より以上に強くたくましくなっているはずの本橋さんにかなうはずがなくて、泣いてしまったりして。
「馬鹿野郎」
 そうやって怒鳴られてうつむいていたら、幸生が抱きついてきて一緒に泣いてくれるか。章は言うかな、けっ、いい年した男がみっともねぇ、ってさ。
「ヒデくん、あんたはいったいどこでなにをしてたのよっ!!」
 綺麗な顔が怒ると恐ろしくなる美江子さんにも叱りつけられて、ほっぺたを張り飛ばされるってのもいいかもな。そんな想像は甘くて苦くて、惨めな現状から逃避させてくれた。
 ハルさんが俺と同じように考えているってことはないだろうが、近い考えを持つ一瞬もあるのではないだろうか。本橋さんは大学の後輩にだって、高校の後輩にだって態度は同じだろうから、俺に対したようにハルさんにもきっと、そのはずだ。


2

あまり背は高くないが、引き締まった身体つきをしている。現役引退しているといっても、コーチなのだから鍛えているのだろう。井口憲次は若々しいボディを維持していて、それでいて豊かな髪には白髪がまじっていて、かっこいい中年なりかけ男だった。
「本橋はもちろん覚えてるよ、生意気な奴だった」
「井口さんは本橋さんの先輩なんだから、生意気だと思えたでしょうね」
「後輩のヒデさんから見たら?」
「生意気ったら生意気な先輩でしたよ」
 今夜の「Drunken sea gull」にも他には客はいなくて、マスターがそ知らぬ顔でギターを弾いている。
 フォレストシンガーズにはややこしい懸念もあるのだそうだし、俺にも懸念はある。幸生に紹介されて会った純也というロッカーは、マスターのなにに当たるのか。それも解明できていないのだが、今夜はとりあえず、井口さんだ。
 明日は大阪で陸上競技愛好会の集まりがあり、講演をするからと言って、井口さんが神戸に立ち寄ってくれた。「Drunken sea gull」で待ち合わせて初対面の挨拶をかわし、恭子さんとゆみ子さんについても話した。
 恭子さんが事前に紹介してくれていたのもあり、俺も走るのは好きだというのもあって、井口さんとは話がはずんだ。
 東京の高校の校庭で、高校三年生の井口少年が二年生の本橋少年に話しかける。十六歳の本橋さんは俺とは出会ってもいなかったが、いつだったか見せてもらった写真の中にいた、背の高い腕白そうな少年の面影は覚えていた。
 大学でだって、本橋さんは先輩に向かっても吠えていた。乾さんや美江子さんやシゲが、そんな本橋さんを躍起になって止めていた。俺は本橋さんと一緒になって怒ったり、止めるなよ、あんな奴は本橋さんに殴られたらえいんやきに、俺も手伝うきに、なんて思っていたものだ。
 少年時代の本橋真次郎も、青い正義感にあふれた奴だったのだろう。俺は正義感というよりも、人生を楽しく渡っていくことしか考えていなかったから、喧嘩だって面白いから、意地を張っているから、俺の名がすたるから、といった理由でしかやらなかった。
 けれど、本橋さんは理不尽な言いがかりをつけられると血が滾るのだ。井口さんが居丈高なもの言いをしたら、生意気に反抗するのは当然だと思えた。
「はじめて喋ったときには俺は怒ったんだけど、本橋はいい顔してた。あの闘志むき出しの面構えは好きだったよ。陸上には向けてくれなかった闘志を、あいつは歌に向けたんだな」
 好きって、そういう意味ではありませんよね? とは言わない。
 三津葉、哲司、幸生、俺にゲイ関係の悪影響を与える奴らはひっこめ。邪魔をするな、と退けておいて、井口さんのグラスにバーボンを注ぎ足した。
「俺は先に高校を卒業して、大学に進んだから本橋なんて忘れてた。思い出したのはフォレストシンガーズって名前を聞いたときだよ。俺は就職しても仕事はたいしてせずに走ってた。記録が伸びないで悩んでいたり、怪我をしてこれでおしまいかなと思ったり……そんなときもあった。そんなときにフォレストシンガーズの歌を聴いたんだ」
 ラジオから流れてきた甘い男声のハーモニーに興味を持って、フォレスト、という単語を頼りに調べてみたら、デビュー間もないヴォーカルグループに行き当たったのだそうだ。
「その中にいたんだよ。あのまんまの不屈の闘志って面構えをした本橋真次郎がさ。おー、こいつ、こんなことをしてやがるんだって、嬉しいってのか苦笑いってのか、そんな気持ちになったよ。それからはひそかに応援してた。CDも買ったし、ライヴに行ったこともあるんだけど、売れなかったんだよな」
「そうみたいですね」
「なんだったかな、この歌」
 ふっと井口さんが口ずさんだ。

「あの日、あなたに吹きつけた逆風を
 僕はこの手で吹き飛ばしてあげたいと願った
 けれどあなたは自らの力ではねのけて
 走り続けてきたんだね」

 アルバムにしかおさめられていない曲なのだから、井口さんは本物のフォレストシンガーズのファンだ。曲名は失念してしまっているらしいので、俺は言った。
「乾隆也作詞作曲、「心さえ天に舞い」ですよ」
「そうだった。ヒデさんはさすがに詳しいね」
 もっと言えば、シゲが結婚するときに乾さんが書いてくれた曲だそうだ。内部事情にも詳しいのは自慢しているみたいだから、心で呟く。シゲと恭子さんに捧げる歌だったよな、俺はあのときはおまえに祝いも言えなかったけど、よかったな、シゲ、いい先輩が結婚を祝ってくれて。
「テニスボールが天に舞い、僕のハートもきみへと舞う、みたいな歌詞だけど、逆風を自らの力ではねのけて走れって、俺へのエールにも思えたよ」
「そうも受け取れますね」
 アスリートであるシゲの奥さんを思って乾さんが書いたこの詩は、フォレストシンガーズファンのスポーツをやる人々を勇気づけたのだろう。歌ってものにはそんな力があるのだ。
「あれ、マスターが伴奏を……俺は歌は下手だからいいですよ。ヒデさんが歌って」
「あれはマスターの趣味ってか、いやがらせですからほっといて、B.G.Mとして聞き流しましょう。ところで」
 歌いたくはないのではぐらかしてから、俺は尋ねた。
「赤木くんは……」
「赤木って?」
「俺と同じ大学の陸上部にいたんですけどね」
「赤木……いたっけ。陸上選手? 思い出せないな」
 忘れられている奴がいるのも当然だろう。俺はみんなに忘れられていなくてよかった。そんなことを思うとセンチになるので、バーボンを飲んでごまかした。
 野島くんは? とは訊かないほうがいいのか。もうじき約束の時間だ。そこからはフォレストシンガーズの歌の話しをし、ヒデさんも作曲するんだってね、と言われていると、マスターが俺の曲をギターで弾く。これだからこのおっさんはいやがらせなのだ。
「お、いらっしゃい」
 ぶすっと呟くようなマスターの声と同時にドアが開き、野島が入ってきた。
「こんばんは、スモークチーズと水割りを」
「う」
 マスターの返事は、ああ、うう、う、程度が多い。今もそんな返事をしたマスターの目の前、俺たちからは離れた席にすわり、ハルさんはことさらにこちらを見ようとはしない。井口さんはちらりと彼を見たものの、表情に変化はなかった。
 ハルさんのほうは当然、俺を認めている。俺の連れが井口憲次だと気づいているのかどうか、それっきりこっちは見ずに酒を飲み、チーズをかじっている。俺に声をかける気がなさそうなのは、井口さんに気づいているからか。
 話しかけるな、と背中が拒絶しているような気もするのは、井口憲次が俺の隣にいて、親しく話していると知っているからだろう。俺は井口さんに話しかけた。
「俺も歌いたくなってきましたよ。下手になったんですけど、歌っていいですか」
「ヒデさんはもともとそんな声?」
「いや、もともとは木村章に近くて、章よりはもうちょっと低い声でした。俺は章ほどのハイトーンじゃなくて、ハスキーがかってたんですよ。生活が荒れてるうちに声がハスキーそのものになっちまった。煙草はやらないし、酒もそんなには……酒は強すぎてちっとやそっとじゃ酔わないし、不経済だからあまり飲まないようにしてたんだけど……いや、そんなのどうでもいいんだった。歌います」
 歌い出すと、マスターがギターで追っかけてくれる。彼もミュージシャン経験があるにちがいない。

「恋をなくして落ち込んでた奴も
 まったく女なんてのはって嘆いてた奴も
 今でも俺の近くにいるよ

 おまえもどこかで歌っているか
 あのときのあの歌を
 おまえも忘れずにいてくれるか 
 あのときの俺たちを」

 この曲はCDにはなっていない。乾さんが誰かを思って作ってくれた歌だと幸生が教えてくれて、幸生のソロでCDにして俺にくれた。非売品の特別曲だってのに、なんだってマスターには伴奏できるんだ。実はマスターはギターの天才なのではあるまいか。
 音楽の天才ってやつは、はじめて手にした楽器もスムーズに弾きこなすという。この次には別の楽器を持ってきて、マスターに弾かせてみよう。
「ヒデさんの作曲?」
 井口さんが尋ね、俺は言った。
「乾さんですよ」
「乾さんってのは個人的には知らないけど、意味深だな。この歌詞のおまえって?」
 思いついて替え歌にした。

「おまえもどこかで走っているか
 あのときのあの道を
 おまえも忘れずにいてくれるか
 あのときの俺たちを」

 顎を撫でて考えていたような、井口さんが言った。
「本橋? あいつは別の道を走って、ここまで来たんだよね」
「野島くんは?」
「野島?」
 高校の先輩なのにハルさんも忘れたのか。だとしても仕方ないか。ハルさんの背中が緊張したように思える。井口さんは酒を飲み干して立ち上がった。
「明日は仕事だから……ヒデさん」
「あ、はい」
「今度、フォレストシンガーズが大阪でライヴをやるでしょ。俺は行くつもりなんだ。ヒデさんも行こうよ。プロと一緒に聴きたいな」
「俺はプロではありませんよ」
「俺らから見たらプロだよ。まあ、突然会いにいくってのもなんだけど、相手はステージに立つ男なんだから、そいつのライヴを見にいって心の準備ってのもできるだろ。一方的に見られる立場の奴って大変だね」
「それは……?」
「すこしだけゆみちゃんに聞いたから」
 ということは、恭子さんがゆみ子さんにハルさんの話しをし、井口さんも知っていたってわけか。口にはしないものの、そこにいる男が野島春一だと気づいているという意味だろう。
「俺も行くよ。一緒に行こう」
 俺に言っているのではないだろうから、俺は返事をせずにハルさんの背中を見ていた。井口さんはマスターに言った。
「三人分、これで足りますか。足りなかったらヒデさんにつけておいて下さいね」
「はいよ。毎度おおきに」
「また来ますよ、毎度って言ってもらえるほどに何度も来ますから」
「ああ、うう」
 毎度のマスターのああ、うう、に送り出されて、井口さんが出ていった。
 これ以上はハルさんの背中を見ないほうがいい。泣いているのかもしれないんだから、見られたくないだろう。ハルさんはおそらく、フォレストシンガーズの大阪公演に行くつもりになっている。そこで本橋さんとは再会の第一歩、井口さんとは第二歩だ。
 そこからはじめないと簡単にいかないのは、若くもない男なのだから当然だろう。な、マスター? と目で問いかけると、彼はギターをぽろんぽろんとやって、同意してくれたと思えた。


END
 

 
 

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