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小説30(風あざみ)

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フォレストシンガーズストーリィ・30

「風あざみ」

1

 夏がすぎ、東京では涼風が吹くころだというのに、ここ沖縄は真夏の気候だ。陽射しはとことんきつい。デビュー一年目のこの夏は海辺でのイベントに出演していたので、真っ黒に灼けた肌に南国の陽射しがじりじり熱い。夕刻になっても暑いのではなく熱い。麦藁帽子をかぶって散歩していた俺は、足元の名も知らない花を見て思い出した。
「夏はすぎ風あざみ、って歌があるなぁ。風あざみってどんな花だ? あざみっていうんだから花なんだよな。訊いてみよっと。誰に訊こうか、って、考えるまでもないか」
 ひとりで散歩しているのだから、この台詞はひとりごとだ。
 花といえば乾さんか美江子さん。どっちかどこかにいないかな。本橋さんも幸生も章も、まるで花には疎い。俺もしかり。美江子さんは女性だから、花に詳しいのは普通なんだろうけど、乾さんのおばあさんは華道の先生だったのだそうで、そのせいもあって乾さんの花の知識は、美江子さんに負けないほど豊富なのである。
 花に限らず、乾さんの知識はなんでも豊富だ。頭はいいし、口はよく回るし、外見もかっこいいし、俺は後輩でよかったかも。先輩に頭が上がらないのは後輩としては当たり前だし。
 真夏の一仕事を終え、俺たちフォレストシンガーズは東京に戻った。秋風が吹きはじめる今ごろになって、夏真っ盛りみたいな沖縄にやってきたのは、むろん仕事である。沖縄とはいっても本島からはやや離れた島に立派なホテルが建設され、そのホテルのオープニングイベントで歌う仕事が舞い込んできたのだ。
 イベントは立派なホテルで開催されるのだが、俺たちはそんなホテルには泊まらせてもらえず、近くの民宿から歩いて通う。デビューしたての売れないシンガーズとしては、当然至極かもしれない。仕事は昨日で終わり、明後日には帰京する予定なのだが、今日と明日は遅めの夏休みだ。
 その民宿の庭に行ってみると、美江子さんがいた。美江子さんのそばには章もいた。なんだか険悪なムードに見えたので、俺はものかげに隠れて耳を澄ませた。
「章くんは体力ないんだから、無理しないで早めに休んだら? って言っただけじゃない。なにが気に入らないの?」
「ほんのちょっと風邪っ気なだけですよ。こんなに早くから寝られるかよ」
「今すぐ寝なくてもいいけど、お酒なんか飲むと身体によくないよ。章くんは行くのはやめて、早めに寝なさい」
「美江子さんは俺のなんですか? そりゃあ美江子さんだって先輩だけど、俺は大学中退だし、美江子さんにまでえらそうにされるいわれはないんだよな」
「マネージャーとして言ってるんだけどね」
「なーにがマネージャーだよ。無能マネージャーじゃないか。えらそうに言うんだったら、もっと仕事を取ってきて下さい」
「それを言われるとつらいな」
 あんの野郎、美江子さんに向かってなにをほざいてやがる。俺はむかむかしていたのだが、飛び出していくべきかどうか躊躇していた。
「美江子さんみたいの、虎の威を借るなんとか、って言うんじゃないんですか。本橋さんや乾さんや本庄さんにだったら、まあ、えらそうにされてもしようがないかなって思うよ。だけど、あんたなんか女なんだし」
「章くん、なんて言ったの?」
「女にえらそうにされっぱなしはむかつく、って言ったの」
「あっそ。それはそれは、まことに失礼しました」
 ひややかな美江子さんの声に、俺の背筋がぞくぞくっとした。こわっ。
「どこ行くんですか。本橋さんに言いつけに? へっ、だから女なんてのは陰湿でさ……」
「章くん、キミね、この間のイベントでなにかあったみたいね。女を恨んでたりするわけ? 私に当たるのはお門違いじゃありませんこと?」
「美江子さんも同類の女だろ」
「そうよ」
 ふたりが睨み合う。章はちーっとも怖くないが、美江子さんの視線は相当に怖かった。
「だったら好きにすれば? 仕事は終わったんだから、章くんが風邪を引いて寝込んだって知らないからね。ほっといて帰るから、好きにしたらいい」
「好きにするよ」
「ほんとにガキだね。女の子にふられたんだかなんだか知らないけど、かりかりしちゃってさ」
「それ以上言うと……」
「殴るって? やってみなさいよ」
 うううう、と唸った章が、手に持っていたコーラのボトルを美江子さんに投げつけた。コーラが飛び散り、美江子さんの服を汚すと、章はやった途端に後悔したのか、だだっと走り去った。うわわー、これはまずい。俺、知ーらないっと、って逃げ出せたらどんなにいいだろう。
「ミエちゃん? どうした? 章の声がしたような気がするけど……」
 どうしようかな、俺はどうするべき? 章が走り去った方向を見て悩み深くなっていた俺の耳に、乾さんの声が聞こえてきた。
「どうしたんだよ、その服。章がやったのか」
「ちがう。私がこぼしたの」
「……ほんと?」
「本当よ。今夜はみんなで飲みにいくの? 私は仕事があるから行けないけど、あんまり羽目をはずさないようにね。マネージャー命令ですからね」
「はい、マネージャー、仰せのままに。しかしね、ミエちゃん」
「服なんか着替えればいいんでしょ。平気平気。乾くんったら気を使いすぎ」
「そう……かなぁ」
「じゃあね」
 立ちつくす乾さんをその場に残して、美江子さんは歩き出した。俺はどちらに近づけばいいんだろう? 乾さんに近づけば、シゲ、見てたんだろ、なにがあった、白状しろ、となるのは必定で、乾さんに難詰されるとおそらく俺は口を割る。告げ口はしたくない。そうなると美江子さんのあとを追うしかない。
 乾さんは追ってはきていないようだ。俺は美江子さんのあとをつけ、乾さんからかなり離れたと思われる地点で声をかけた。高台を登っていった美江子さんは、海を見下ろす小高い丘のベンチにかけ、シゲくんもすわったら? と静かな声で言った。
「聞いてたの?」
「はい」
「私、マネージャー失格かな」
「なんで美江子さんが。悪いのは章じゃないですか」
「私も感情的になって、売り言葉に買い言葉で喧嘩しちゃったじゃない。シゲくんにしてもみんなにしても、今の境遇に苛々してるんでしょ。章くんなんかそれがありありよ。そういう章くんを上手になだめもできずに、喧嘩してるんじゃどうしようもない」
「そんなことはありません。あれは明らかに章が悪い」
「シャレみたいね。あきらかに、あきら、シゲくんもジョーク言うんだ」
「シャレのつもりは毛頭ありません」
 あっけらかんとした幸生やら、リーダーとしての使命を全うすべく粉骨砕身中の本橋さんやら、本橋さんの補佐に全力をつくしている乾さんやらにしても、売れない、売れない、の焦りはあるだろう。表面にはあらわさないだけなのを俺は知っているつもりだ。そもそもデビューして一年もたっていないのに、まだまだ焦る必要なんかない、と俺は考えているけれど、このまま売れなかったらどうしよう? との思いもよぎる。
 その思いがもっとも強いのが章なのだろう。あいつは大学時代をともにすごしてきた我々とは立場がちがう。ゆえに、とけこんでいるようでいながら、どことなく浮いた存在でもあるのかもしれない。そんなこんながごっちゃになるのか、時として章の不満が爆発する。
「章のクソ馬鹿、美江子さんに、女なんかだとか、陰湿だとか、虎の威を借るなんとかだとか、無能だとか……言いたい放題言ったあげくに、コーラのボトルぶつけて……許せない」
「シゲくん、まずいよぉ」
「ええ?」
 振り向くと、ベンチのうしろに本橋さんと乾さんが立っていた。う、万事休す。
「章がそんなことをしたのか」
「やっぱりね。章がなんかしたんだろうとは思ってたんだよ。ミエちゃんは怒るっていうより寂しそうな顔して、肩を落として歩いていった。自分でコーラをこぼしたなんてはずはない。本橋を呼んで、ミエちゃんを探してたらここにいた。シゲはふたりを見てたのか」
「はあ、すみません」
 告げ口はしたくないなんて、すべてがおじゃんになってしまった。乾さんはため息をひとつつき、言った。
「本橋、章を張り倒すか? おまえだったら、あいつがどれだけ決死の抵抗をしようとも、殴り倒すなんて簡単そのものだよな。制裁として殴る?」
「殴るのは簡単だろうけど、そうすると俺たちはどうなる?」
「場合によっては章が離脱する」
「そうだな。山田、おまえはどう思う?」
「本橋くんが冗談半分で、章くんや幸生くんをぽかっとやるぐらいはどうってことないよ。けど、そんなの駄目。章くんは仲間でしょ? 今までもこれからも、ずっとずっといっしょにやるんでしょ? 私が原因であなたたちが仲違いするんだったら、私がマネージャーをやめる」
 山田、ミエちゃん、美江子さん、と三人三様の呼び名を口にし、俺たちは無言になった。美江子さんの声だけが聞こえてくる。
「章くんの言う通りかもしれない。私が無能だから、半端な仕事しか来ない。FSの歌は世界でいちばんだって私は信じてるのに、売れない。なにもかも私のせいなんだったら、私がやめたら好転するかもしれないじゃない」
 数秒の沈黙のあと、本橋さんが言った。
「んなもん、おまえのせいなわけねえだろ」
「売れる売れないなんてのは、時の運でもあるんじゃないのかな」
「落ち着いて考えてみろよ。どんなに有能なマネージャーがついていたとしても、時代の波に乗ってない奴らは売れないんだ」
「そうだ、本橋、うまいこと言う。俺たちは現在、時代の波だか風だかに乗り切れてないんだ。だから売れないんだ。しかし、ミエちゃん、俺たちは誓うよ。絶対にこのままでなんかいない。だから、きみもそんなことは言わないで。約束してくれる?」
 先輩たちのような台詞は言えない俺は、ただ熱心にうなずいていた。うつむいていた美江子さんは顔を上げ、俺たち三人の顔を順に見つめた。
「ありがとう、本橋くん、乾くん、シゲくんも。シゲくんは、俺はなんにも言ってません、って言うんでしょ? 目が語ってくれてたよ。私ももう絶対に、やめるなんて言わないって誓う。私はあなたたちを信じるからね」
「信じろ」
「信じて」
「信じて下さい」
 でもねぇ、と美江子さんは言い、膝に両肘を乗せて頬杖をついた。
「それはそれでいいんだけど、章くんはどうするの?」
「乾、どうする?」
「乾さん、考えて下さい」
「……うーーん、むずかしいな。とりあえずしばらくほっといて頭を冷やさせよう。頭を冷やすか。シゲ、せんのように海に放り込むってのは……」
「だーめ。章くんは風邪気味なんだからね」
「そうかぁ、じゃあ、考える。しばし待って」
 南国の風が、美江子さんのポニーテールの先っちょをなぶっていく。憂い顔でいる美江子さんの目に、かすかな涙の跡が見えた。俺は思い切って言ってみた。
「俺が章をぶん殴ったらどうですか。リーダーが殴るとシリアスになっちまうかもしれないけど、俺だったらそれほどでもないでしょう? この馬鹿野郎、美江子さんにあやまれ、って。俺は非暴力主義だと章も知ってるから、びっくりして思わず言う通りにする……ってことになりませんかね」 
「却下。おまえが殴ったら章の顔の骨が折れる」
「それはないでしょう、乾さん。手加減はしますよ」
「非暴力主義者はむしろ加減を知らない」
「そう……かなぁ。だったら幸生は? ほら、遠泳したとき、章が足が吊ったなんて嘘をついたときに、幸生が章を殴ったでしょ? あれもわりとジョークっぽくすんだじゃないですか」
「あれはな、乾の計略だ」
「え?」
 初耳だったので本橋さんを見ると、乾さんが笑って言った。
「あんときは、もうちょっとで本橋のパンチが飛びそうだったんだ。俺は咄嗟に目で、幸生、おまえがやれ、って命令した。幸生はああだからしっかり悟って、瞬時に横合いから飛び出して章にアッパーカットを喰らわせたんだ」
「じゃあ、あのあとのは芝居?」
「本橋も気づいたから、三人でひと芝居打ったんだよ」
 力ない声で、リーダー、やっちゃった、と言った幸生の台詞はよく覚えている。あれが芝居? 章と俺は除外の芝居だったのか。俺は呆然となった。
「幸生も暴力なんてのは、ガキのころから数えるほどしかやったことはないんだろ。俺も同じだけど、そういう奴は手加減を知らない。だもんだから、章の顎が腫れ上がったんだよ」
「ははあ、なるほど」
「それでも幸生は非力だから、あの程度ですんだんだぜ。シゲだったらどうなることか。章のためには、まだしも本橋が適当な力で殴るのがいちばんなんだけど、それをやるとシリアスになるってのはシゲの言う通りだよな」
「……恐れ入りました」
 男ってさぁ、と美江子さんが笑いまじりの声で言った。
「乾くんでもそうなんだね。喧嘩の話しをしてると嬉しそう」
「喧嘩じゃないよ。けど、俺、嬉しそうだった?」
「嬉しそうだったよ。殴らないと解決できないの?」
「それを今、考えてるんだ。シゲが口出しするから脱線したんだよ」
「……すみません」
「いやいや、こちらこそ、おまえをのけ者にして悪かったな」
 咄嗟の連携プレイだったなんて、俺が乾さんに合図されていたのだったらきっとできなかっただろう。幸生もたいしたものだ。
「幸生な、幸生、あいつにも相談しようか。あいつは突拍子もないことを考えるのが得意だろ。それとも、幸生は章担当にするか。幸生と章はどうしてるんだろ。章は幸生に泣きついてるかもしれないな」
 ひとりごとめいて言う乾さんに、美江子さんが話しかけた。
「そうだね、幸生くんは章くん担当がいいんじゃないかな。章くんを孤立させたらかわいそう」
「ミエちゃんはこんなに優しいのに、章の馬鹿は考えなしだな」
「私が優しいんだとしても、表面はちっとも優しくなかった。シゲくんは聞いてたのよね、私が章くんになにを言ったのか。優しくなかったでしょ?」
「ほんとにガキだね、とは言ってたけど、そんなことで女のひとに暴力ふるっていいわけないでしょう」
「暴力ってほどでもないじゃない」
「なににしても、あれは全面的に章が悪いんです」
 だからあいつは彼女と喧嘩ばかりして、ふられてばかりいるんだよ、とはこの際、言わないほうがいいのかもしれない。
「夏のイベントで章くんになにがあったの? 本橋くんは知ってる?」
「どっかのアイドルタレントに恋をして、あえなくふられたらしい、としか知らないぜ」
「乾くんは?」
「俺もそんなもんだな」
「シゲくんは?」
「俺もです」
「本橋くんとシゲくんの台詞は信じられるんだけど、乾くんはほんとなの? もっと知ってるんでしょ?」
「知らないよ。まったく章って奴は惚れっぽくてふられっぽくて、そういう星のもとに生まれてきてんのか、ってなもんだ。俺もそれ以上はなんにも知らない」
 ほんとかなぁ、と美江子さんは呟いていたが、俺はまさにそれだけしか知らないのだから、乾さんがなにをどう知っていたとしても皆目わからない。
「幸生くんは知ってるのかな」
「さあね。そんなのどうでもいいんじゃないの。今は目の前の問題だろ」
「そうだけどねぇ」
 美江子さんと乾さんの会話を聞きながら、俺は考えた。本橋さんもなにか考えているようだが、このたぐいの問題の解決法は、乾さんにまかせるのが最善なのだ。乾さんに出せない結論は、本橋さんにも俺にも出せっこないのである。
「美江子さん、風あざみってどんな花ですか」
 無関係なのだけれど、俺が尋ねると、美江子さんと乾さんは顔を見合わせ、ややあって笑い出した。
「少年時代って歌に出てくるのよね」
「シゲ、風あざみは架空の花だ。ソングライターの造語だってよ」
「ああ、そうなんですか」
「へぇ、そうなのか」
 本橋さんも驚いたように言い、これだから男はね、と乾さんが言った。自分も男なくせに、乾さんときたらよく言ってくれるよ。しかし、これで疑問がひとつ氷解はした。あとは章か。こっちは大問題なのかなぁ。章をどうにかしなくちゃ、俺たちの解散の危機が訪れるやもしれない、なのだろうか。


2

 今のところは章はほうっておこうと決めて、民宿に帰ってきた。二階には二室ずつ向かい合わせになって四室があり、そのうちの三室を俺たちが借りている。美江子さんがひと部屋、広い部屋に本橋さんと乾さんと俺、そのとなりが幸生と章だ。美江子さんと本橋さんと乾さんは庭で相談を続けているので、俺は部屋に入り、隣室との境の壁に耳をくっつけた。
 低いヴォリュームで音楽が聴こえている。「島唄」だ。沖縄の歌をカセットに編集して、幸生が持ってきていたものだろう。曲にまじって幸生の声も聞こえてきた。
「まったくね、章ったらね、まったくもう、まったくもう」
 ぶちぶちぶちぶちぼやいている。
「風邪気味だってのにどこ行っちゃったんだろうね? ね、きみ、章の行方を知らない?」
 きみとは誰だろう。ふざけているのでもなければ、幸生は章にきみとは呼びかけない。話の内容からしても章はいないのだと判断して、俺は壁を叩いた。
「幸生、幸生」
「シゲさん? 壁が薄いんだな。よく聞こえますよ。緊急事態なの? なんでそんなところから俺を呼ぶんですかー。おーい、シゲさん、応答せよ応答せよ」
「章はいないんだな」
「いないけど」
「そんなら誰と話してた?」
「窓辺に留まってる小鳥」
「……おまえは人間とでなくても会話するんだったな。章が戻ってきたら大きな物音を立てろ」
「了解。それはいいけど、章はどうしたの?」
「美江子さんと喧嘩して飛び出してった。詳しい話はあとでするけど、帰ってないんだな」
「帰ってないよ。美江子さんと喧嘩?」
 あちゃちゃのちゃー、と幸生は変な声を出した。
「台風が近づいてるって話ですよ。民宿のおかみさんと娘さん、リエちゃんだっけ、彼女が話してた。南の島って台風に直撃されることがよくあるでしょ。そんなときに章の奴、どこ行っちゃったんだろ」
「台風か。飲みにいくなんてできないな」
「できそうにないですね」
「とにかく、章が戻ってきたらどうにかして合図しろ」
「じゃあね、俺、章が戻ったら叫ぶから。章ちゃん、お帰り、愛してるよっ、って。そのときにシゲさんが部屋にいなかったら困るから、章が帰ってきたらずっと喋り続ける。いやがられても蹴られても喋り続けます」
「愛してるよ、はいらないけど、好きにしてくれ」
「愛してないけどね、あんなアホは」
 帰りづらくて帰れなくて、それでも帰るしかなくなって、章が窓から忍び込む場合もあるだろう。念のために幸生に頼んで、俺は下におりていった。庭に出ようとしたら、台所からやってきたリエさんに会った。
「本庄さん、明後日にはお帰りなんでしょ? この分だと船が出るかしら」
「台風なんですってね。俺たちは一日二日遅れても平気なんだけど、リエさんたちは大丈夫ですか」
「沖縄地方の住人は、台風なんて慣れっこですよ」
「そうなんですね」
 どことなくなまりは感じ取れるのだが、沖縄でも若者は方言など使わない。俺よりひとつ年下、幸生や章と同い年だと聞いたリエさんは二十三歳、ホテルのイベントでの俺たちの歌を聴きにきてくれていた。そのあとでかわした話が、リエさんとの初の長い会話になった。
「本庄さんたちの歌って、聴いてて陶酔しちゃうんですよねぇ。長くやってらっしゃるの?」
「俺は高校のときから合唱やってて、大学でも合唱部に入って、本橋さんと乾さんに誘ってもらって、大学を出てからも歌を続けてます。フォレストシンガーズの母体みたいなのを結成したのは、俺が大学三年のときだから、四年ぐらいになるのかな」
「大学三年から四年? えーと、本庄さんはおいくつ?」
「二十四です」
 うっそ、という顔をしたのは俺には感じられたが、リエさんは口にはしなかった。
「本橋さんと乾さんは俺より先輩で、三沢と木村は俺より後輩です」
「乾さんも先輩でいらっしゃる?」
「一年だけですけどね」
「三沢さんと木村さんは年下なんだろうな、って思ってましたけど……」
「俺が最年長に見えますか」
「そんなことないですよ。そういえば、乾さんや本橋さんには、他のお三人は敬語を使ってらっしゃいましたね」
「先輩ですからね」
「本庄さんって声が落ち着いてらっしゃるから……」
 姿かたちも落ち着いてらっしゃるのかな。どうせ俺は老けてるよ、とすねたらみっともないので、照れ笑いでごまかしておいた。本橋さんと乾さんは年齢相応だろうけど、幸生と章は十代にも見える。俺は三十代には……まさか見えないよな。確認するのが怖かった。
「やあやあ、リエさん、聴きにきていただいてたんですね。ありがとうございます」
 そこに幸生が割り込んできた。
「いかがでしたでしょうか、僕たちの歌は」
「素敵でした」
「でしょう? 僕はリエさんがいらしてるのをいち早く発見して、あなたのために心を込めて歌ってたんですよ。そうなんだから、素敵なのは自明の理」
 大学時代から幸生は合唱部の名物男だった。本橋さんや乾さんのような歌の実力で、ではない。歌ももちろんうまかったのだが、それ以外のところで有名になっていた。すなわち、よく喋る、とりわけ女の子を口説くとなったら、平素からなめらかすぎるほどに回転しまくる口が超高速回転をはじめ、次から次へと言葉がほとばしる。俺は小笠原のヒデと、しょっちゅう幸生をこきおろしていたものだった。
 小笠原英彦、フォレストシンガーズ結成時のメンバーだ。今はどこでどうしているのかも不明だが、同年のヒデと俺はたいそう親しくしていた。
「俺が三沢に声をかけたのは、歯車に油さしたて、みたいに円滑回転する口の動きに呆れ果て、いっそ感動までしたせいだったかんだ。女の子を口説いてたんだけどな」
「シゲには不可能な芸当だろ」
「そうだよ」
「俺も聞いたぜ。口説いてたんじゃないんだろうけど、女の子数人と楽しくてたまらないって感じで喋ってた。数人の女の子のお喋りの中でも、ひときわ目立つ喋りをする男なんて、三沢しかいないんじゃないのか。おまけにあの声だろ。女の子の黄色い声やら笑い声やら、歓声やら、そういうのを上げさせてるのも三沢なら、そん中でききーんっと声を響かせてるのも三沢。あいつは女相手のペテン師にでもなればいいんだ」
「いいかもな。結婚詐欺師もやれそうだ」
「結婚詐欺をやるにはルックスが……でもないのかな、話術で勝負か」
 話術といえば乾さんも負けてはいないし、章にしても落ち込んでいないときには幸生と対等に勝負しているのだが、なにせ章は感情の起伏が激しい。章の落ち込み気分を盛り立てようとする際の幸生の奮闘は、涙ぐましいほどである。
 幸生に妨害されたので、リエさんと俺との会話はそこで途切れた。出会ったばかりの沖縄のひとを口説いたりするんじゃないぞ、と視線で言った俺に、幸生はウィンクで答えたのだが、あのウィンクにどんな意味があったのかは謎だ。幸生は今はあらわれないだろうから、俺は安心してリエさんに言った。
「台風はどんな感じですか」
「接近中だそうです。夜半には直撃の恐れあり、って天気予報で言ってました。ほらほら、雲が怪しくなってきたでしょ。風も生あたたかーくて、ひゅーどろどろって幽霊が……本庄さんの背中、そこっ!!」
「うぎゃっ!!」
 悲鳴を上げたのは背中に人の手の感触があったためだったのだが、俺を見てリエさんはころころ笑った。俺は恐る恐る振り返った。
「なんだ……乾さん、やめて下さいよ」
「おまえって案外臆病なんだな。幽霊怖いか」
「怖いです」
「ひとには恐怖の対象が必要なんだよな。幸生と章にはリーダー、おまえには幽霊か。いいこと覚えた」
「なにをたくらんでるのか知らないけど、やめて下さいね」
「台風が去ったら肝試ししようか」
「いやです」
「リエさんもやりません?」
 そうだ、このひとも幸生と同類なんだった。女の子を口説いているシーンを見たことはないが、乾さんがその方面で幸生に負けるはずがない。幸生は来ないと思ったら乾さんが出てきた。ついてない。
「楽しそうですね。この近くで肝試しだったら、いい場所がたくさんありますよ。台風は明日の午前中にはどこかに行っちゃうだろうから、明日の夜にはできそう。私もまぜてもらっていいんですか」
「どうぞどうぞ。女性はふたり組でってことにしましょうか。うちのマネージャーは強気一本の女性だし、リエさんも気が弱そうでもないし、この土地には慣れてるんだし、お化けなんか出てきても一発で撃退できそうだけど、痴漢が出たりはしませんか」
「こんな田舎にそんなものはいませんよ」
「いないとは言い切れないでしょう。女性ふたりのボディガードに立候補していいですか」
 やっぱりはじめてるんだな、癪にさわったので俺は口をはさんだ。
「ボディガードだったら俺のほうが適任でしょ。それにね、乾さん、乾さんには怖いものはないんですか」
「ないよ」
「嘘だぁ。俺、知ってますよ」
「なんだよ」
「おばあちゃん。おばあちゃんが……」
 幽霊になって出てきたらどうします? と言いかけたのだが、失礼かと思い直して口を閉じた。乾さんは口をひんまげ、バカヤロ、と俺の額を指で押した。珍しくも口で勝てたのかもしれない。おばあちゃん? とリエさんが首をかしげ、いえいえ、なんでもありません、と乾さんがごまかしてから言った。
「暢気なこと言ってる場合じゃないね。建物に台風よけをするんでしょ? 手伝いますよ」
「すこしはしないといけないかしら。この島の建物には台風対策をしてあるんですけど、うちは古いし、今日はだいぶ大きなのが来るみたいだから。でも、お客さまにお手伝いなんて……」
 この民宿はリエさんとそのお母さんと、パートのおばさんやおじいさんなどで営んでいるようだ。リエさんにはお父さんはいないらしいし、若い男手はなさそうに思える。
「若い男が五人もいるんです。今はふたりしかいないけど、及ばずながら手は貸しますよ。なんでも言いつけて下さい」
「乾さん、ありがとうございます。男性だったら近所のひとも来てくれますから、お客さま方はお部屋にいらして下さい。ただ、今日は外出禁止ですよ」
「もちろん。しかし、近所のひとはご自宅を守らないといけないでしょう。この数日はリエさんのお宅が我々の住まいだったんだから、お客扱いはしないで下さい。俺たちは都会の軟弱男ってのか、軟弱歌うたいにしか見えないでしょうけど、少なくともこのシゲは戦力になります。俺も精一杯やりますから」
「そうまで言ってくださるんでしたら、お願いします」
「シゲ、がんばれよ」
「はい」
 台風から建物を守る、その経験は俺にもある。手伝いなんてなんでもないが、気がかりがいくつかあったので、リエさんのあとから歩いていく乾さんについていきながら、俺は小声で尋ねた。
「本橋さんの怖いものってなんですか」
「決まってんだろ。ミエちゃんだ」
「あ、そうか。じゃあ、美江子さんは?」
「ゴキブリあたりかな」
「ネズミとか蛇とか? それだったら俺にまかせて下さい。俺は田舎育ちですから、そのたぐいの小動物はなんにも怖くありません」
「シゲがゴキブリ見て、さっきみたいに悲鳴を上げたら、俺が引くよ」
「ですね」
 もうひとつの気がかりも訊いてみた。
「章は帰ってないんですよね」
「ああ。本橋と幸生に探しにいかせたんだけど、見つけられるかな。台風が本物にならないうちに帰ってこいとは言っておいたけど、章が見つからなかったら……なぁ」
 それでさきほどは、シゲとは言っても本橋さんが戦力になるとは言わなかったのか。
「あいつ、風邪気味らしいのに」
「そうらしいんだよな。ミエちゃんも探しにいきたかったみたいだけど、章との喧嘩相手だし、平常の天気ではないし。章が見つかりさえしたら、本橋がひっかついででも連れてこられるんだろうけど、狭い島とはいえ、そうたやすく見つかるのかね。おまえや俺まで行ったら、民宿の人手が足りなくなるしな。リエさんに島を案内してもらうってのも、この非常事態じゃ無理だしな。かなりの四面楚歌だね」
「そうですね」
「この民宿の中での頼りはおまえだ。シゲ、しっかりやれ」
「乾さんは?」
「俺もやれるだけのことはやるよ」
 事態を混乱させたのはおまえだぞ、章の馬鹿たれ。帰ってきたら……本当に俺は章を殴ってしまいそうだった。


 夜半を前に台風が島を直撃した。そうなっても章は帰ってこない。本橋さんも幸生も戻らない。次第に外は大嵐の様相を呈してきて、風がざわめく。雨が激しくなる。樹々が大きく揺れている。客は俺たち六人だけなので、ホテルに避難なさったらどうでしょう、とリエさんのお母さんが提案したのだが、乾さんが応じて言った。
「そんなわけにいきませんよ。なぁ、ミエちゃん?」
「そうです。それに、実はうちの木村が帰ってきてなくて、本橋と三沢が探しにいってるんです。私たちがここにいないと帰ってきた彼らが困りますから」
 ひとりは行方知れず、ふたりは捜索中、パートのおばさんとおじいさんは出勤してきていない。ひとつ部屋に集まっているのは、美江子さんと乾さんとリエさんと俺。リエさんのお母さんは家のほうぼうの台風対策を確認中だった。
「お母さんもじっとしてたほうがいいんじゃありませんか」
 言ってみたが、リエさんはかぶりを振った。
「母はこの島生まれのこの島育ちです。私もなんですけど、母は年の功で、台風ってものをよくよく知ってます。まかせておいて大丈夫です。私がついてくと、かえって足手まといだって叱られるんですよ」
 ふーっと電気が消えた。ドアが開閉する音がして、お母さんが部屋に入ってきた。
「停電ですよ。懐中電灯を渡しておきますね。電池がなくなったら困るから、つけっぱなしにはしないでね。はい、乾さん」
「受け取りました」
「本庄さんも」
「はい」
 闇の中、飛んできた懐中電灯をキャッチすると、お母さんは言った。
「ろうそくを持ってきましょうか」
 リエさんが止めた。
「お母さん、あぶないよ。ろうそくなんかいい。懐中電灯があったらどうにかなるじゃない。本庄さん、真っ暗だと怖いですか」
「まさか」
 脅かす奴がいなかったら怖くない。
「美江子さんと乾さんは?」
「俺は怖くないけど、ミエちゃんも平気でしょ?」
「ひとりっきりだったら自信ないけど、五人もいるもの。特にお母さん、頼りにしてますよ」
「頼りにしてもらうと張り切っちゃいますよ。この性格で私は苦労したんですけどね」
「お母さんのお話を、よろしかったら聞かせていただけませんか」
 真性の闇と呼べそうな暗さの中で、乾さんの声が聞こえた。
「こんな話を聞いたことがあるんです。沖縄本島だったか離島だったか、その島では、亭主ひとり食わせてもいけないような女性は一人前じゃない、って。そういうんですか、お母さん? あ、お母さんなんて呼んでいいのかな」
「いいですよ」
「では、お言葉に甘えまして、お母さん。うちの祖母なんかだと、妻や子を食わせていけない男は半人前だと言いました。現在でもそんな言葉はわりあい一般的ですね。沖縄では正反対ですか」
 海風にさらされた、と形容できそうな、いくぶんしょっぱい声のお母さんが言った。
「私も聞き覚えはありますけどねぇ、沖縄の女は強いってことでしょうか」
「シゲ、三重県の海女さんもそれに近いことを言わないか」
「海女さんは海で働いて、亭主はサブに回ってますね。近いのかもしれないけど、俺はよく知りません」
 会話をリードしている乾さんが言った。
「海で働く女性は強いんだね。ミエちゃん、眠くなった? 寝てもいいよ。ねぇ、お母さん?」
「みなさん、眠くなったら寝て下さいな。お部屋に戻るよりここにいたほうが心強いでしょう。若くて元気な男のひとも、ふたりいらっしゃるんですし」
「ミエちゃんにはお母さんのほうが頼りになりそうだね」
「そうだね。でも、シゲくんも頼りになりそう」
「俺は駄目?」
「そうでもないけど、シゲくんのほうが力も強いし……」
「だね。シゲ、頼むぞ」
「頼まれました。寝て下さい、美江子さんもリエさんも、お母さんも乾さんも」
 そうは言っても誰も寝ないのではないだろうか。俺にしたって寝られない。とにもかくにもこの中で腕力がいちばん強いのは俺だろう。それがなんの役に立つのか知らないけど、力もないよりはあったほうがいい。
 建物が崩壊なんてことはないのかな。そこまでは行かないのかな。台風は外で荒れ狂っている。こんな中、本橋さんと幸生と章はどこにいる? どこかで台風を避けてたてこもっていればいいのだが、避難場所などあるのか。そもそも章は見つかったのか。美江子さんと本橋さんが持っている携帯電話にも、圏外表示が出るだけだった。
 民宿の主母娘も、大雑把な事情は知っている。章がなぜ出ていったのかは知らないにせよ、行方不明を心配してくれているのだろう。俺のかたわらにいたリエさんが口にした。
「大木の陰だとかでだったら、台風もよけられますよ。あ、光った!!」
 稲妻が夜空を切り裂いたのが見え、リエさんがちいさく悲鳴を上げた。
「台風に慣れてるなんて言ったのにね、風台風はなんともないんだけど、雷は……やだ、怖い」
「俺は幽霊には弱いけど、雷は平気だな」
「誰にだって弱みはあります」
「ごめん、怒った?」
「怒ってないけど……いや、また」
 どどどーんと轟音がし、俺は自然にリエさんの肩を抱き寄せた。稲光に俺たちの姿が照らされていたが、かまってはいられなかった。
「雷は怖いの。こうしてていい?」
「俺でよかったら」
「本庄さんの胸は広いから、もたれてると安心してられる。昔、お父さんに抱かれてたのを思い出すなぁ。ちっちゃいころから私は雷が怖くて、こんな雷まじりの大雨の日は、父の膝に抱かれてしがみついてたの。そうしてたらなんにも怖くなかった」
 再び、三度、四度の落雷。美江子さんも時おり、きゃっ、すごっ、などと呟く。都会の雷とは次元がちがうなぁ、と乾さんの声もする。お母さんは窓の外を見ていて、リエさんは小さな声で続けた。
「父は私を膝に抱いて、よしよし、怖くないぞ、ってゆすってくれたの。なつかしい。私も大きくなっちゃったから、今、父が生きててもできないよね。父は痩せた小柄なひとだったから、今の私を抱っこしたら潰れちゃいそう」
「リエさんはそんなに大きくないじゃないか」
「背は高くないけど、太ってる」
「太ってないよ」
 ちょっぴりふっくらしてて可愛いよ、とは、幸生や乾さんならしらっと言うんだろうけど、俺には言えない。この部屋にはふたりきりでもないのだし。
「ミエちゃん、雷は怖くない? こんな台風、初体験じゃないの?」
「ここまでははじめてかな。でも、不謹慎だからこれ以上は言わない」
「もしかしたら嵐好き? ミエちゃんらしいかもな」
「なによ、雷女だとでも言いたいんでしょ」
「滅相もございません」
 あっちでは乾さんと美江子さんが、小声でやり合っている。誰もいないんだったら、特にお母さんがいないんだったら、俺がお父さんのかわりをしてあげようか、とリエさんに言えた、だろうか。せめてなにか気のきいた台詞を口にできないかな。やわらかなリエさんの身体を感じていたら……なんと言えばいいんだよぉ。いきなり、俺、きみが好きだ、ってか?
 言えるわけないじゃないか。出会ったばかり、明後日にはさよならだ。二度と会うこともないに決まってる。好きだなんて、嵐の夜の気の迷いだ。好ましい女性だとは感じていたけど、こんな状況で若い男女が身を寄せ合っていたら、恋に似た感情が芽生えても不思議はない。
 でも、言ってみたい。言ったらどうなる? キスしていい? 駄目? リエさんも東京に出てこない? だけど、出てきてどうする? 結婚は早すぎるし、同棲? リエさんに仕事が見つかるのか? 俺が食わせていくってのも不可能ではないだろうけど、恋にはいつか破局が訪れるもので……そうなったらどうすんだよ?
 本当に恋をしたのかどうかもわからないのに、くだくだしくも将来までを想像して、行動は起こせない。俺は黙ってリエさんの肩を強く抱いた。リエさんの身体が密着してくる。いい気持ちだった。
「台風とちがう音がしなかった、ミエちゃん?」
 いい気持ちをつき破ったのは、乾さんの声だった。
「見てくる」
「俺も行きます」
 残念な気もしたけど、俺はリエさんから身体を離した。懐中電灯をつけて、乾さんとふたりで玄関に向かった。玄関の扉は外から板を打ちつけていない。乾さんが扉を開けようと大奮闘している。外の嵐にさまたげられてうまく行かないらしいので、俺も手を貸して必死で戸を開けた。開いたと思ったら雨と風が猛烈に吹き込んできた。その物音にも負けない大声は幸生だった。
「斥候帰還しましたっ」
「おいおい、大丈夫なのか、こんな台風の中を。シゲ、タオル持ってきてやれ」
「いいですよ。俺は全然へっちゃら。寒くもないんだし、濡れたって気持ちいいよ。みなさんは無事ですか。そりゃあ重畳」
「重畳って、おまえ、時代劇じゃないんだから」
「やあね、乾さんが教えてくれたんでしょ。それはよかった、って意味なんでしょ? まずはお部屋に通していただけませんかね。それから報告致します」
 どこからか探してきたらしい、バスタオルを持った美江子さんもやってきた。
「幸生くんひとり? びしょ濡れ」
「ありがとうございます、美江子さん」
「報告は部屋でだね。それだけいつもの調子で喋るんだから、幸生くんは大丈夫そうだよね。みんな、下の部屋に集まってるのよ。行こう」
「はーい。俺は元気元気ですよ」
 部屋に入ると、バスタオルで荒っぽく全身をぬぐっていた幸生は、リエさんとお母さんに丁重な挨拶をしてから言った。
「みんな心配してるだろうから、おまえが報告に行ってこいって、本橋さんの命令に従って戻ってまいりました。章は見つかりましたよ。台風がやばくなってきて、本橋さんは俺に、おまえは帰れって言ったんだけど、リーダーひとりじゃなんぼなんでもね。俺もお邪魔だろうけどお供して探してたら、草むらでしょぼぼんとしてる章を見つけた」
 最大難問はとにかく解決したのだ。リエさんやお母さんも安堵のおももちになり、美江子さんはぐしゅんと鼻をすすり、乾さんと俺は握手した。
「見つけたのはいいけど、台風が凄まじくなってきたんですよ。三人で走って、でっかい樹のそばで身をひそめてた。章の風邪はひどくはなってなかったみたいだけど、体力消耗し切ってる。本橋さんが背負ってくって言ったんだけど、章はそんなのみっともないって意地を張るし」
「まあ、あれでも男だから」
「そうみたいですね、乾さん。そんなわけで、本橋さんは章を保護してそこにいます。俺は報告に帰ってきたんだけど、雷が落ちてきそうで怖かったぁ。スリル満点だった。面白くもあった。いて」
「なにが痛い?」
「乾さんに殴られそうだったから。本橋さんのかわりに、不謹慎だぞ、ごちっ、って。先にいてって言ったんです」
 こつんと乾さんにやられて、幸生はちろっと舌を出した。
「……不謹慎だぞ。言ってほしそうだったから言ってやった。嬉しいか」
「嬉しくて泣きそう。本橋さんは雷にやられない限りは大丈夫だろうけど、章は高熱出したりしないかな。乾さん、ほっといていいんでしょうか」
「ここからは遠い場所か」
「そんなに遠くない。俺が走って一時間ほどでした、と思う」
「十分遠い」
「そう?」
 一時間も走ってきたのにけろっとして、幸生には腕力はないけれど、体力は非常にある。
「章はべそかいて、泣くな、馬鹿、って本橋さんに怒られて、俺が慰めてやろうとしたら無茶苦茶にキックしやがって、本橋さんに止められて、堰を切ったように号泣して……」
 黙って聞いていた俺は、そこでようやく言葉をはさんだ。
「どこまで本当の話だよ」
「前半は本当ですよ。キックまでは実話。章がべそかいてたのは本当です。俺ももらい泣きして、ふたりで抱き合ってうえーん、うえーん、って。今のも後半は嘘。もらい泣きはしそうになったけど、それどころじゃなかったもん」
「嘘はまじえずに報告しろよ。狼少年ばかりやってると、おまえの台詞を誰も信用しなくなるぞ」
「はーい、乾さん。そんでそんで、どうすんですか? ほっとくの? 俺が取って返しても同じでしょ。シゲさんが行って、有無を言わせず章をかついできたらいいんじゃないですか」
「そうするしかないか」
 しかしなぁ、と言いかけた乾さんに、お母さんが言った。
「台風には目がある。もうすぐそこに入る。そうするとぴたっと嵐がおさまるの。その間にだったら行けるんじゃないかしら。見てごらんなさいな、空の色がちがってきたでしょ?」
 暗い暗い空なのでよくわからないのだが、乾さんはうなずいた。
「一時的にせよ天候が落ち着いたら、シゲ、行ってくれるか。幸生、場所は覚えてるな」
「もっちろん、覚えてます。ばーっちり」
「俺ももちろん、行きますよ」
「俺も行ったほうがいいか」
「乾さんはここにいて、女性たちのボディガードなんでしょ。そんなもんいらないと思うけど、乾さんってそっちのほうが似合ってるし」
「シゲ、それは皮肉か。おまえは俺になにか恨みでもあるのか」
 ありますけどね、言わないよ。幸生が立ち上がって叫んだ。
「濡れついでじゃん。ユキちゃん、再び暗闇を疾走してきます。シゲさん、行こうっ」
「おう」
 雨がやみ、風も静かになってきた外に、幸生とふたりで飛び出した。台風の目にいる間は短時間のはずだ。もう一度嵐が襲ってくる前に、章を連れて帰らなくては。
 
 
3

 あっちあっち、こっちこっち、と騒がしい幸生とふたりで走っている途中で、章を背負った本橋さんと出会った。細めで身長も低めとはいっても、章も子供ではない。本橋さんは歩きづらそうで、章はその背中でぐったりしていた。幸生が先に本橋さんに駆け寄っていき、言った。
「リーダー、章、殴り倒してかついできたとか?」
「馬鹿たれ。そんなことするか。熱が出てきたみたいなんで、無理やり背負ってきたんだよ。シゲ、こいつ、熱くないか」
 触れてみると、章の額はたしかに熱かった。
「熱がありますね。しかし、こんな時間じゃ病院は……」
「この島には医者は常駐してないんだって。臨時診療所みたいのがあって、医者が週に一度来るって聞いたけど、急病だと沖縄本島に行くしかないんじゃないかな。章はそこまでひどくないんでしょ? 台風はまだ近くにいるんだから、章の容態が急を要するってんだったら、セスナにでも来てもらうしかないじゃん。そこまで?」
 俺と同様に章の額に触れた幸生が問いかけると、本橋さんは言った。
「俺にはわからないけど、連れて帰るのが先決だろ。章、大丈夫か」
「だ、だいじょう……」
「熱に浮かされてるのか。答えなくていい」
「本橋さん、代わりますよ」
 うえ、けっこう重っ、とかなんとかぼやきながら、幸生が章の身体をどうにか抱え上げて俺の背中に移した。本橋さんは肩をごきごき回して、幸生に言った。
「おまえ、女にだったらあるんだろ」
「なにを?」
「おんぶとか抱っことか」
「リーダー、そんな暢気な話をしてる場合ですか」
「歩きながらだったらいいだろ。あるんじゃないのか、正直に言え。章の体重は女並だろ。重くもねえだろ」
「俺には重いです。シゲさんには重くない?」
「別に」
 軽くもないけど重くもない。どうってことはない。
「女の子をお姫さま抱っこかぁ。してみたいなぁ。こうやって……いや、幸生さん、駄目、って口では抵抗してみても、その甘いまなざしが裏切ってるんだよね。口づけでくちびるをふさぎつつ、美女を抱いて歩いて、ベッドに放り投げて覆いかぶさって、ああん、俺が駄目ぇ」
 ひとり芝居をやっている幸生の足を俺が踏んづけると、本橋さんも幸生の後頭部に張り手を飛ばした。
「ふたりそろってなにすんですか。ユキちゃんは下っ端走り使いなんだから当たり前だ、って言うんでしょうけど」
 当たり前だ、と本橋さんと声をそろえて言うと、幸生はますます言った。
「当たり前かもしれないけど、ユキちゃん、がんばったじゃん。なのにご苦労とも言ってくれないで、ふたりして俺を苛めるの。本橋さんと本庄さんに暴力ふるわれたら、俺は死にますよ。なんとか言ってよ」
「なぁ、シゲ、風も雨もやんでるな。台風はすぎたのか」
「台風の目にいるらしいです」
「目か。そんならまた嵐になるのか」
「なるんでしょうね」
 なんで俺に返事してくれないのっ、と幸生が叫び、本橋さんは言った。
「なんとか言えって言うから、なんとか喋ってんじゃないか」
「ふーんだ、意地悪なんだから。俺は死ぬって言ってんのに……意地悪、死ぬ? 本橋さんはあるんでしょ? シゲさんにもある? さっき俺が言ったみたいな経験あります?」
「さっき幸生が言ったみたいな? なんだっけ」
「記憶にありませんね」
 もうもう、ふたりともあんまりよっ、と幸生が女言葉を発した。おぶっている章の身体は高熱というほどでもなさそうだし、無事ではあったのだから安心して、馬鹿な話もしていられるのだ。幸生は懲りずに蒸し返した。
「だったらもう一度言いますよ」
「言わなくていい」
「本橋さんが止めても言いたい。女の子を抱え上げてベッドに放り投げて、そいでああしてこうして、意地悪、死ぬわ、って言わせた経験あるんでしょ。本橋さんは?」
 しつこい奴だな、と思いつつ、俺は訊き返した。
「おまえは?」
「俺はいいの」
「よくない」
「そうだそうだー、シゲや俺に言わせたいんだったらおまえが先に言え」
「俺が言ったら本橋さんもシゲさんも正直に告白します?」
 しない、とまたまた声をそろえたら、幸生はちぇっちぇっと足元の小石を蹴飛ばした。
「だったら俺も言わないもーん。シゲさんってどうせムッツリスケベとかいう奴だろうし、本橋さんは粗暴だから、女の子にでもなにするかわかんないし、危険な男だよな、ふたりとも、うんうん。なあ、章、同感だろ?」
「俺さぁ」
 元気のない声だったが、章は笑みを浮かべて言った。
「おまえのその無駄なお喋り聞いてると、ああ、これが俺の運命なんだな、って思えてくるんだ」
「俺はおまえの運命?」
「おまえだけじゃなくて、先輩たちもだよ。覚悟を決めて……絶対に途中で挫折なんかしないって決意して……何度も何度も決意して……なのに俺、こうやってみんなに迷惑ばかりかけて、夏からずっとだ。俺、自分がいやになっちまう。ちらっとだけど、海に身を投げようかと……」
「章、おまえな」
「本庄さん、ちらっとですよ。俺なんかにそんな勇気ないよ。勇気なくてよかったよな。リーダー、俺……」
「もう喋るな、熱が上がるぞ」
「……はい」
 背中に顔を伏せた章は泣いているのだろうか。泣いててもいいよな。おまえが消えちまって、俺は俺らしくもなく、あの野郎、帰ってきたら殴ってやる、とまで考えた。おまえが平然とした顔で帰ってきたとしたら、殴ってしまっていたかもしれない。熱を出しててラッキーだったよな、章。
「章、帰ったら美江子さんにあやまれよ」
 幸生が言い、章の足からスニーカーを脱がせた。ぐっしょり濡れそぼったスニーカーで、幸生が章の足を軽く叩く。本橋さんは片手で幸生の頭を押さえ、空いた片手で章の背中をぽんぽんと叩いた。


「俺も行きたいなぁ」
 ベッドに横たわった章が言う。
「もうなんともないのに、俺も肝試しやりたいな。昼間はおとなしくしてるから、夜になったらまぜて下さいよぉ」
「熱がぶり返したらどうすんだよ。おまえは寝てろ」
「つまんねえの」
 つまんねえつまんねえ、駄々っ子みたいに章はベッドで寝返りを打っている。俺は言った。
「美江子さんにはあやまったのか」
「ってか、先にあやまられちゃって、俺は困り果てました。冷静に考えたら悪いのは俺なのに、美江子さんに機先を制されてへどもどしちゃって、あとから改めてあやまりましたけどね」
「そんならいいだろ」
 昨夜、章を背負った俺と本橋さんと幸生と、四人が民宿にたどりつくと、残っていた四人が大歓声で迎えてくれた。乾さんが俺の背中から章を抱き取り、二階に運んで寝かせてきたころに、台風が再び荒れ狂いはじめた。間一髪だったな、と話し合っていた本橋さんと幸生と俺に、乾さんが言った。
「風邪薬をもらって飲ませてきたよ。様子を見よう。本橋、シゲ、幸生、ありがとう。俺はなんにもしなかったけど、章を連れてきてくれてありがとう」
「乾さんだけじゃん、感謝してくれるの。そっちの先輩たちも乾さんを見習って下さいよ」
 聞こえないぞー、と本橋さんがやり返し、幸生は言った。
「乾さんは策略担当、ボディガード担当だったんでしょ? なんかしてた。乾さんには俺の声、聞こえてます?」
「おまえの声が聞こえないとは、本橋もシゲも耳がおかしくなってるんだ。東京に帰ったら耳鼻科に行け」
「そうですよね。乾さんは章、重かった? あんなの抱いて階段上ったんでしょ? 慣れてるんだな」
「病人なのに、粗雑な扱いできないだろ。大切に抱いて運んできたよ。重いっちゃ重かったから、足を踏み外さないように注意して運んできた。章だからできたんだな。あいつ、俺たちの中ではいちばん体重が少なそうだもんな。で、幸生、なにに慣れてるって?」
「男を抱いて歩くの」
「そんなもんに慣れてるわけないだろ」
「女だったら……」
 伸びてきたてのひらは本橋さんのものだったのだが、幸生はうまくその手をかわした。俺は幸生の首を抱えてうしろにのけぞらせ、乾さんは、なんだなんだ? ってな顔で三人を見比べていた。
 あのあと、美江子さんが章の様子を見にいって長時間ついていたから、その間にふたりは和解したのだろう。薬が効いたようで、章の熱も下がった。平熱になって元気が出てくると、じきに活動したがるのが若者なのだが、ここはおとなしくさせておかないといけない。
「そんなにつまんないんだったら、俺がいてやろうか」
「本庄さんがいてくれてもつまんないから、遊びにいってきて下さい。明日は帰るんだもんな。俺のせいで昨日はなんにもできなかったんだし」
「おまえのせいじゃなくて台風のせいだよ」
「俺のせいでもあるもん。本庄さん……」
 すみませんでした、と小声が聞こえた。
「本橋さんと乾さんから説教されたんだろ。俺にまで言わなくていいよ。じゃ、遊びにいってくる」
「楽しんできて下さいね」
「おまえは抜け出すなよ」
「わかりましたよ」
 ちぇーー、つまんねったらつまんね、と章はなおもぼやいていたが、無視して部屋から出た。台風一過の青空が広がっている。沖縄ではまだまだ泳げるので、章は寝かせておいて、昼間は近くの浜で六人で泳ごうと相談がまとまっていた。それもこれも、章が無事だったおかげだ。
 浜辺には五人がそろっていた。ブルーのシンプルな水着の美江子さん、黒の水着のリエさんもいる。他の三人はどうでもいいので、俺としては女性たちだけ見ていたかったのだが、じろじろ見ると嫌われるかもしれない。特にリエさんばかり注視していると、幸生や乾さんに勘ぐられる。美江子さんにもからかわれそうなので、五人を均等に見て言った。
「章はぼやいてましたけど、明日には普通に動けるようになるでしょう。お待たせしました」
「お母さんがお弁当をつくって下さったのよ。いただいてから泳ぐ?」
「おー、うまそう。美江子さん、早くちょうだい」
「お預け」
「俺は犬じゃないんだけど、お預けしたらくれます? 腹ぺこなんだもん。昼メシ食わせてくれなかったのはこのせいか。豪華な弁当だなぁ」
「昨日はお世話になりましたから、母からのお礼だそうです」
「ユキちゃん、感激ぃ」
 広げた巨大な重箱を前に、美江子さんと幸生とリエさんが笑っている。本橋さんと乾さんと俺も加わって、昼間の宴会みたいになってきた。ビールまで出てくる。
「リエさんはどれ、作ったの?」
 乾さんが訊くと、リエさんは卵焼きを指さした。
「ポークランチョンミート入りです。内地の方のお口に合いますかどうか」
「では、いただきます。うん、うまい」
「ほんとに?」
「リエさんも料理、上手だね」
「母仕込みですから。なんて言ってますけど、母にはかなわないかな」
 ともに台風を避けたからなのか、乾さんとリエさんの会話に親しみが増している。こっちでは美江子さんと本橋さんと幸生が、おにぎりを頬張っては語り合っていた。
「おいしいね。私にはこんなにうまく作れないな」
「そっかぁ、以前におまえが作った弁当、うまかったぞ」
「リーダー、美江子さんに弁当作ってもらったの? いいんだいいんだ」
「俺は試食させられたんだ。山田がそのころにつきあってた男に、弁当作ってやりたいんだけど、自信ないから食べてみて、とか言いやがってよ」
「本橋くん、ばらさないでよ」
「いいだろうが。過去の話だろ」
 シゲ、なにいじけてんの? おいでおいで、と手招きしたのは乾さんで、俺はそちらに参加した。
「本庄さんってよく食べるんでしょ?」
「食べるよぉ。こいつは裸同然になるとよくわかるように、筋肉量が多いでしょ。筋肉ってのは脂肪より重いから、こいつがうちではいちばん体重あるかな。そういう男はよく食う」
「私は脂肪ばっかりなのによく食べる」
「脂肪ばかりじゃないでしょ。スタイルいいよ、リエさん」
 案の定言ってる。俺には言えなかったのに。
「美江子さんのほうがスタイルいいし」
「ミエちゃんも素敵なプロポーションしてるよね。彼女のほうがリエさんよりやや背が高いかな。けど、女性の美しさは多様なものだよ。ぽっちゃり目で可愛いリエさんも、それはそれは魅惑的」
「やだ、本気にしていい?」
「本気で言ってるんだよ。シゲ、なにぶすくれてる? 食えよ」
「食ってます」
 食う以外に俺になにができる。乾さんと幸生がいっしょにいて、俺はリエさんと……ふたりきりになったらなったで、なにを話せばいいのか戸惑うのだろうけど。立ち上がった乾さんは、俺を横目で見てから言った。
「ごちそうさま。泳ごうぜ。腹ごなしやらないと腹が出っ張るぞー。本橋、気をつけろ」
「なんで俺だ」
「おまえの腹は中年になったら前にせり出してくる。俺の予言だ」
「不吉な予言をするな。なんの根拠があるんだ」
「単なる占いだよ。行こう、幸生も。ほら、ミエちゃんも」
「片づけなくちゃ」
 美江子さんは言ったが、リエさんがいいんです、と答えた。
「私がやりますから」
「そんなの悪い」
「いいんですってば。私はいつでも泳げるけど、みなさんは明日にはお帰りなんですもの。時間がもったいないですよ」
「では、シゲを手伝いに残していきますよ。シゲ、頼んだぞ」
 どうして俺なんだろ、と疑問だったのだが、すこし考えたらわかった。乾さんがあんなふうに言うには理由がある。悟られてるわけ? これだから乾さんには勝てない。乾さんは他の三人を促して海へと駆け出していき、ごちそうさまでしたー、の四つの声の余韻の中で、リエさんと俺はふたりきりになった。
「手伝います。ったって、見事に空っぽだな」
「そうですよぉ、片づける手間なんかいらないのに。本庄さんも海へ行けば?」
「乾さんの命令ですから」
「先輩の命令には絶対服従なんですか」
「それが俺たちの掟です」
「オーバーに言ってません?」
「言ってます」
 ふたりで声を立てて笑ったら、言葉遣いも砕けた。
「FSってほんとにいいなぁ。私、ファンになるからね」
「なってなって」
「本島に買いものにいったら、CDも買ってくる。お仕事の前に練習もしてたでしょ? あれを聴いてたときからファンになったの。なんて素敵な歌、なんて素敵な五つの声、なんて素敵なコーラス。なんて素敵な、しか私には言えないけど」
「ありがとう。素敵なって言ってもらえたら嬉しいよ」
 アルバムはまだ出せていない。沖縄にシングルCDが売られているのだろうか。大きな店にならあるだろうか。
「木村さんや三沢さんって、喋ってると子供っぽい声よね。歌うと大人の声になるのはどうして?」
「どうしてだろうね」
「本庄さんにもわからない? ふーん。本橋さんは大人の声ね。本橋さんもああやってはしゃいでると若い男のひとだけど、声はとっても大人なのよね」
「そうだね」
「乾さんの声は、私なんかにはうまく言えないな。不思議な声?」
「そうかもしれない。ああいう声は男にはあまりいないし、女にはまずいないだろうし」
「それでね、本庄さんの声は……」
 どっきーんと心臓が跳ね上がった。
「さあて、おしまい。本庄さんが手伝ってくれたから早くすんだね」
「……俺の声は?」
「あざみが咲いてる」
 なんではぐらかすの? 俺の声はおっさんみたいだから嫌い? 訊けずにいると、リエさんはかがんで白い花を摘んだ。
「あざみって紫の花じゃないの?」
「沖縄のシマアザミは白なのよ。私、あざみって好き」
「とげとげした感じの花なんだね」
 あざみの名は知っていた。紫の花だとも知っていた。だが、形までは知らなかった。リエさんは俺の鼻先にシマアザミを近づけ、囁いた。
「シマアザミは島の花。私は島の娘。シマアザミが好き。本庄さんの声も好き」
「声だけ?」
「声だけでいいでしょう? 私が本庄さんを好きになってなんになるの? 私は島の娘よ」
 海のほうから歓声が聞こえてくる。幸生が大声で歌い出し、本橋さんと乾さんがコーラスをつけた。「さとうきび畑」だ。
「リエさん、歌おうか」
「私、下手よ。本庄さんが歌って」
「切なくて悲しい歌だね。いい歌だよね。俺にもそういうことってうまく言えないんだけど、好きだよ、この歌」
 きみも、好きだよ、言ってなんになる? 好きになってなんになる? リエさんの言う通りだ。
「それとも、こっちはこっちで別の歌にしようか。リエさんは風あざみって知ってる?」
「知らない」
「知らなくて当然なんだろな。架空の花なんだってさ。俺は実在の花だと思い込んでて、乾さんと美江子さんに笑われちまったよ。シマアザミは覚えた。シマアザミの歌は知らないから、風あざみの出てくる歌を歌おうか」
「海であんなに大きな声で歌ってるのに、つられないの?」
「俺はプロのシンガーだよ」
「そうね、失礼しました」
 さとうきび畑に対抗して、俺は「少年時代」を歌った。

「夏はすぎ風あざみ
 誰の憧れにさまよう
 青空に残された、私の心は夏模様」

 ラストフレーズは、八月は夢花火、私の心は夏模様、だ。沖縄の夏はすぎてはいないけれど、すぎていこうとしている。俺の心のひとときの夏模様も、残された時はわずかだ。
 最後まで歌えなかった。仲間たちの歌う「さとうきび畑」に包まれて、どちらからともなくくちびるを合わせた。くちびるの先と先が触れ合う、たったそれだけの、たったそれだけでおしまいになった、俺の夏模様だった。

E N D


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~ Comment ~

おおお、スゴイ! 素敵でした!

これ、良いですね、本当に。
いや、シゲさんだったからこその展開ですかね。
そして、やはり、あるんだろうな、そういう焦り…っていうのもひしひしと感じました。
そう、特に章くんが。
でも、そういう存在が、むしろ、みんなの心を代弁してガス抜きになっているんだろうな、という気もしました。
悶々と鬱積させていたら、いつかもっと違った形で、もっと最悪の状態で爆発してしまうから。
そうやって、お互いにいろんなことを言い合えて、励まし合えて進んでいける。
とても憧れます。
下積みにも、苦労にも、きっと意味があって、こうやって、それぞれがいろんな‘絆’を確認し、深いものを確かめ合って着実に進む。
一気に訳も分からず売れてしまうより、ずっと良い世界が、良い関係が築けると思います。

頑張れ! って本当に言いたい。
そして、シゲさん。
切ないなぁ、そういう出会い、そういう恋。そして、二人の潔さが素敵でした。
本当に、‘素敵’しか出てこないけど、良かったです。

fateさんへ

いつも本当にありがとうございます。

これはもう、ほんとに、シゲが主人公でないとなりたたない物語ですよね。

シゲのこの性格がこういうお話を作ってくれたんだと私も思います。
他の誰かがリエちゃんに恋したんだったら? って、fateさんだったら想像がおできになるのでは?

売れるってことについても、fateさんのおっしゃる通りだと思います。
私の書くミュージシャンは売れてないのが多いですけど(グラブダブドリブも最初は売れなかったけど、彼らは恵まれてるほうですよね)、そのうちには売れてくる。
きっとそのほうが、グループの歴史だの成熟度だのがよいふうになるかなぁと、うまく言えませんが、そう思ってます。

フォレストシンガーズはこれからもがんばっていきますので、見守ってやって下さいね。
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