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小説300(春夏秋冬・three)後編

 ←9「ランプの魔物」 →第九部終了(及び短いあらすじ)
はろー

フォレストシンガーズストーリィ300

「春夏秋冬・three」後編


7・七夕月・繁之

 ちっとも涼しくない風でも風は風で、すこしはしのぎやすくなったような気がする。今夜はお祭りの夜。近所の神社には夜店が並ぶ。
 小さいころには姉も俺も浴衣を着せられて、父は家業の酒屋が忙しくて行けないものの、母に手を引かれて神社に連れていってもらった。たこ焼きやら綿菓子やらりんご飴やらを買ってもらって、金魚すくいをして、時々はお面なんかも買ってもらった。
 俺が小学生になると、姉とふたりでお祭りに行った。昼間はお神輿を担ぎ、町内会のおじさんにお菓子をもらい、夜には縁日に行く。三つ年上の姉が中学生になるころには、姉弟は別々に友達とお祭りに行くようになった。
 お祭りどきは酒屋のかきいれどきだから、両親は俺たちに小遣いをくれるだけで、気をつけて行っておいで、と送り出してくれる。姉は中学生になっても浴衣を着ていたが、俺はそんなものは窮屈だからいらないと言い、ランニングと半パン姿で友達と神社まで走っていった。
 幼いころにはお祭りの夜というだけで心が浮き立っていた。今年も楽しみでわくわくする。だけど、中学生にもなってお祭りが楽しみだなどと言うとガキっぽいかとも思う。両親は数日前から忙しく働いていて、俺は姉に尋ねた。
「姉ちゃん、今年は友達とお祭りに行くんか?」
「うん、行くよ」
 姉は高校生になり、なんだか綺麗になったように思える。ビールケースを運んでいる母のところに行って、言っていた。
「浴衣、着せて」
「ああ、浴衣やね。繁之、あんた、これ頼むわ」
 母に言われて俺がビールケースを運ぶ。父は軽トラの荷台にビールを積んで、お得意さまの家に配達に出向いていった。
「繁之、店番頼む」
 父がそう言い置いていったので、俺が店先にすわる。もう中学生なのだから、お祭りになんか行かずに店番をするべきか。でも、行きたいしなぁ、今年は誰とも約束してないけど、どうしようか、お客は来なくて暇なので、ぼけっとそんなことを考えていると、母の声が聞こえてきた。
「希恵、気をつけて……」
「ふんふん」
「希恵……そやからね……」
「……うん、わかってるって」
 ひそひそ話は一部しか聞こえない。姉が浴衣に着替えて下駄をつっかけて外に出ていくのを、母はなんとなく心配そうに見送っていた。
「繁之もお祭りに行っておいで。はい、お小遣い」
「店番せんでもええ?」
「お母さんがするから大丈夫。行っといで」
 そう言われると意地を張れなくなって、母にもらったお札をポケットにねじ込んで外に出た。
 生あたたかい風に吹かれて、神社への道のりを歩く。ざわめきが伝わってくる。焼いたイカの香りがしてくると、どうしてもうきうきして、俺は走り出した。
 田舎の小さな神社のお祭りでも、けっこうな賑わいだ。年末年始と夏祭りには人出も多くなる。酒屋と神社は似てるのかもな、なんて不謹慎な考えを抱いて、早速たこ焼きを買ってほおばった。夕食は早めにすませていたのに、俺の腹はいつもいつでもすいている。
「中学生の男の子ってのは、いつでも腹が減ってて当然や」
 父はそう言い、母ももっと食べ、たくさん食べ、と言ってくれる。なのだから俺はいつだってたくさん食べているにも関わらず、それでもいつでも空腹で、俺の胃腸には穴が空いているのかと思わなくもなく……。
「あ、姉ちゃん」
 黄色い花の咲いた浴衣のうしろ姿は、姉にちがいない。背中に声をかけようとして思いとどまったのは、姉がひとりではなかったからだ。姉の連れらしい奴は、女の子ではなかった。
 丸刈り頭のたくましい身体つきの男は、俺の知らない奴だ。野球部なのだろうか。そうだったらいいなぁ。姉と同じ高校の何年生なのか。姉の高校の野球部ならば、甲子園出場も夢ではないと言われている。もしも彼がそうなのだとしたら、姉は彼を応援しに甲子園に行かないだろうか。そしたら俺もついていけるのに。
 小学校のときには少年野球をやっていた俺にとって、あのころは甲子園は憧れの地だった。自分の才能のなさを知って、中学生になる前に野球はやめて、今は合唱をやっている。合唱も楽しくて大好きだけど、野球はもっと好きだ。知り合いが甲子園に出たりしたら、想像しただけで胸が高鳴る。
 彼が姉の彼氏だとしても、嫉妬だのなんだのを感じるなんてあり得ない。そうではなくて、彼は野球をやってるんだろうか、甲子園に行くんだろうか、と先走り想像をしていた。
 それでいてやっぱり気まずくて、七味唐辛子を売っている屋台の陰に隠れて窺う。姉と背の高い少年が俺の近くを通りすぎていく。彼は俺の知らない奴だし、姉は俺には気づかない。ちらっと見えた姉の横顔は彼に微笑みかけていて、眩しく俺の目に映った。
 よく考えてみれば、丸刈り頭でたくましい体格だからって、野球をやっているとも限らない。水泳選手も丸刈りかもしれない。それに、姉と同じ高校だとも決まったものではない。姉の彼氏だろうとは思うから、いずれは紹介してくれたりするんだろうか。
 でも、野球だったらいいなぁ。そうではなくても、運動をやっていてほしい。俺の義兄だったらスポーツマンがいい。またまた先走っていると気づいて苦笑しながら、俺もその場から離れた。
 顔を合わせたら姉も気まずいだろうから、ふたりが歩いていったのとは逆方向に歩く。ときおり友達と出会う。小学校のころから友達の泉水の顔も見えたが、泉水も男女合わせた友達何人かのグループで来ていたので、声はかけなかった。
 狭い町の小さな神社のお祭りなのだから、学校の友達に会うのも当たり前だ。姉だって同じ神社に来ているのだから、俺と会ったとしても平気なのかもしれない。泉水も楽しそうだったな。あの中には泉水の彼氏もいるのかな。
 高校生の姉だったら彼氏がいてもいいんだろうけど、俺と同い年の泉水に彼氏って、ませてないか? それとも、俺が遅れてるのかな。俺にだって好きな子はいなくはないけど。そう考えると、好きな女の子の顔が浮かぶ。それどころか、その子の顔が見えてきた。
「え? えええ?」
 幻ではなく本物だった。彼女がいたのだ。
 クラスメイトの中里さん。彼女も浴衣を着ていて、姉よりももっともっと綺麗に見える。ややふっくらした体格の、明るくて可愛い声をした女の子だ。なぜ好きになったのか、理由なんかないけれど、いつのころからか俺の視線は彼女に吸い寄せられるようになっていた。
 中学生になると体育の時間は男女が別々になる。時間割としては同じだから、男子が運動場にいれば女子もいる。白い体操服と紺のショートパンツの女の子たちの中で、中里さんは見分けられた。ちょっとたくましい太腿をしているのも可愛かった。
 浴衣姿ははじめて見る。小学校は別だったから、神社で会ったとしても意識もしていなかった。花火の柄の浴衣が愛らしくて、髪の毛をお団子にしているのも目新しい。中里さんはひとりでいるようだ。思い切って声をかけようか。
 一緒に歩かない? 俺にそんなことが言えるか。他の友達に見られて冷やかされたらどうする? 学校で噂になったらどうする? 恥ずかしくて学校に行けないじゃないか。
 そんなためらいが生じて行動を起こせない。偶然をよそおってそばに行き、あれ? 中里さんも来てたんか、とでも言ってびっくりしてみせようか。大げさに驚いてみせたら、中里さんも笑ってくれて、自然に一緒に歩けないだろうか。
 さりげなーく……なにげなーく……できるだろ。できるよ、やろうよ、後のことなんか考えずに、ここで会ったチャンスを逃さず、声をかけよう。大決心をして一歩踏み出したとき、彼女のそばに少年が歩み寄っていくのが見えた。
「ほら」
「うわ、大きいのがすくえたね」
 少年がビニール袋を中里さんの目の前にかざす。あいつは俺のクラスメートではないが、中里さんとは親しいのだろう。彼の持つ袋には透明な水が満たされていて、その中でオレンジいろの金魚が泳いでいた。
 姉だったらただ、彼氏といるのを眩しく見ていただけだ。ショックなんかじゃなかった。中里さんだってショックでもない。どうせ俺は、彼女が本当にひとりでいたとしても、声なんかかけられなかったにちがいないのだから。
 このほうがいいよな。声をかけて無視されたり、あんた、誰? と言われたりするよりも、このほうがよかったんだ。
 

8・染色月・蜜魅

「はじめまして、蜜魅です」
 この名前を大勢の人の前で口にするのははじめてだ。ひとり、ふたりの人の前でならば口にしたし、応募原稿のペンネームとしても使ったけれど。
「ま、適当にそこらへんにすわってよ」
 何人もいる女性たちは、自己紹介をしてくれるわけでもなく、太り気味の女性が私にそう言ってくれただけで、仲間うちでの談笑に戻ってしまった。
 今年の春に栃木県の高校を卒業して、東京の大学に入学する予定だった。なのに大学に受け入れ拒否されて、つまりは受験に不合格になって予備校に入学した。予備校でも東京に来られたのだからよかったものの、受験勉強をする気にならなくて漫画ばかり描いている。
 本当は美大に行きたいのに、お金がかかる、そんなものでは食べていかれない、就職だってない、と親に反対されて受験させてもらえなかった。
 強い意志があれば親の反対を押し切って、家を飛び出してでも美大を目指せばいいのだろうけど、私は中途半端だ。漫画家としてプロになれたら、大学になんか行かなくてもいい。だけど、新人賞に応募しても佳作にもならない。
 予備校通いは適当にして、邪魔をする家族がいないのを幸いにアパートでも漫画ばかり描いている。ひとりで作った同人誌を手に、七月にはじめてコミケに参加した。
「完売したの? すごいわね」
 どこで見ていたのか、太った見知らぬ女性が声をかけてきた。
「あなたはひとりでやってるの?」
「そうなんです」
「同人誌って嫌い? うちはむこうのほうのブースで同人誌を販売してたのよ。うちもみんな売れちゃったけど、こういう者です」
 もらった名刺には「薔薇の葬列・代表・閨呪杏」とあった。
「……ねや、じゅあん。あなたのお名前は?」
「小山田三津葉です」
「本名? ペンネームは?」
「ハチミツの蜜と魅力の魅で、蜜魅です」
 漢字六文字とは長ったらしくて、響きは悪くないものの、字にすると好きではない名前だ。小田光葉とか山田充羽とかのほうがいいと思っていた。
 覚えやすくて語呂もよくてセクシーでもあるかなぁ、ってわけでつけたペンネームが、ミツミ。みんなにみっちゃんと呼ばれていた私にはなじみやすい語感でもある。私の個人同人誌を買ってくれたおたく男子が、ハニーチャーム、可愛い、なんて言ってくれた。
「うちはけっこう人数の多い同人集団なのよ。小説も漫画も扱ってるの。蜜魅ちゃんは綺麗な絵を描くわよね」
 自分のために取っておいた私の漫画同人誌を見て、閨さんが言った。
「ボーイズラヴは描かないの?」
「嫌いじゃないですよ。今回はちょっとロリっぽいのを描いて、男のひと受けを狙ってみたんですけど、少年愛も描きます」
「うちはBL専門よ。同人誌の王道はBLだわよね」
「そう……ですか」
「八月最初の日曜日にうちの定例会をやるの。あなたもいらっしゃいな」
 定例会の時刻、場所、店名、地図などを書いた薄いリーフレットをもらった。ゴシロリファッションの閨さんは、いくつぐらいなのだろうか。二十歳から四十歳までの間と幅広い年齢に見える彼女は、私が当然、来るものと決め込んだ様子で歩み去っていった。
 せっかく誘ってもらったのだし、今日はなんの用事もなかったので、同人「薔薇の葬列」の定例会が行われているカフェにやってきた。カフェの名前も「黒薔薇」。薔薇は男性同性愛の象徴なのだから、カフェも名前で選んだのだろうか。
「きみはなにを描くの?」
 しばらくはひとりでぽつんと、アイスミルクティを飲んで同人誌のメンバーたちを眺め、会話を聞いていた。そうしていると、唯一私に声をかけてくれた小太りの女性が話しかけてきた。
「漫画です。七月のコミケで閨さんと知り合って、例会に誘ってもらったんです。閨さんはいらっしゃらないんですか」
「閨先生はもったいぶってるから、特別なときにしか顔を見せないよ。僕はコータロー。この名前、誰にちなんでるかわかる?」
 プロの作家にも男名前を名乗る女性は珍しくないのだから、同人誌となるとさらに頻繁だろう。コータローとは有名人の名前を拝借したのか。どこにでもありそうな名前に思えて、即答できなかった。
「知らないの? きみはロックファンじゃねえの?」
「ロックよりはフォレストシンガーズが好きです」
「なんだ、それは」
「男性五人のヴォーカルグループですよ」
「知らねぇな。音楽ってのは僕はロックしか認めないもんね。コータローのいる「ポイズンビー」。あいつらの音楽がベストさ」
「音楽の趣味は個人の自由ですよね」
「てめ、ナマだな」
 ナマとは生意気であろうか。わざとなのかどうか、コータローという男がこういうタイプなのか、妙に古臭いのがかっこいいとでも思っているのか。
 この暑いのにタンクトップの上に革のベストを羽織り、ボトムはストリートキッズふうの太いハーフパンツ、アンバランスなファッションもコータローとやらの模倣なのかもしれないが、大きな丸顔、むちむちの腕、ぼてっとしたバスト、さらにぼてっとした下腹部、さらにさらにぼってりしたヒップや脚の持ち主にはまったく似合っていず、むしろ滑稽だった。
 斜に構えて煙草をふかすポーズも僕という自称も滑稽だ。帰ろうかなぁ、と考えつつも、ねちねちからんでくるコータロー氏の相手をしていた。
「きゃああ、しおんさまっ」
「しおんさまだーっ」
 ふいに同人誌のメンバーたちが騒然となる。ドアが開いて入ってきたのは、黒ずくめ魔女ふうファッションの閨さんと、長身の颯爽とした美人だった。
「騒がないのよ。うるさいのよ、あんたらは」
 こちらはまた古色蒼然女言葉の閨さんが皆を黙らせ、長身美人とともに座の真ん中に腰を降ろした。
「あら、蜜魅ちゃん、来てくれたのね。みんなにも発表するわ。こんなことでもなかったら私は例会になんか来やしないんだけど、今日は特別よ。しおんちゃん、あなたが発表する?」
「てめえがやれよ。俺はかったるい」
 低い声でしおんさんとやらが言う。こっちは俺か。ここにいる女性たちの中にも、僕、ボクと自称するひとはいるし、私の友人にもいた。
 高校のときには漫画研究会に入っていたから、コータローのような口調の女友達がいた。彼女は小柄で細い私と似た体格で、ボクね、みっちゃん、だーいすき、などと言っていると少年のようで可愛かった。中学生や高校生ならばボク、でも可愛いですむが、コータローさんは……。
 コータローさんはいいとして、しおんさんだ。彼女は袖を半分引きちぎったような白い半袖Tシャツを着て、スリムなグレイのジーンズを穿いている。しおんさんもロッカーファッションであろう。この美貌とほっそりして脚の長いプロポーションには、憎らしいほどに似合っていた。
「じゃあ、私から発表します。このたび、桜庭しおん先生が「闇に光る愛」でデビューなさることが決定しました」
 きゃああっ!! 素敵!! すごいっ!! おめでとうっ!! などなどの声がメンバーたちの間から飛び、皆に合わせて私も拍手した。
「うん、ま、俺だったら当然だろ。ブロになるのが遅すぎたほどだ」
「ねぇ、しおんさま、こんな店だったらお酒も飲めないし、お祝いにならないじゃん? 祝賀パーティしようよ。アナンのおうちにいらして」
 ひとりの女性がしなだれかかるのを、しおんさんは邪険に突き飛ばした。
「暑苦しいんだよ。さわるな」
「ああん、ごめんなさい」
「アナンの家なんかじゃなくて、ボクんちでパーティしようよぉ」
「あたしのおうちでもいいよ」
「いいよ、じゃなくて、ぜひ私の家にいらして」
「しおんさま、ミカを見てっ」
「しおんさまのおうちでって駄目? しおんさまのおうちに行きたいな。あたしたちがお料理しますからぁ」
 プロの作家になれるほどの実力があるからなのか、美人だからもあるのか。女性の集団はこういう男っぽい美人をもてはやす傾向がある。しおさんは仲間たちに大人気のようで、あっちからもこっちからも熱視線を向けられていた。
「我々は創作者集団なんだから、お祝いは同人誌を作るのよ。桜庭しおんプロ作家デビュー記念と銘打って、特別号を発行しましょう」
 代表者が発言し、しおんさんは言った。
「そのほうがいいよな。やかましい女たちにきゃあきゃあ言われるよりも、俺もそれがいいよ。プロになったって俺は同人誌も続けていくつもりだから、特別寄稿してやるぜ。閨、他には誰に書かせるかって決めてんのか」
「そうね。どう?」
 リストができているようで、閨さんがしおんさんにそれを見せている。コータローさんが挙手して言った。
「僕は書いていいんだよね」
「コータローはエッセイを書きなさい」
「えー? 小説じゃねえのかよ」
「あんたの小説、書かせてあげるつもりだったんだけど、実力のあるひとが入ってきたから、彼女に漫画を描いてもらうわ。コータローは一千字のエッセイね」
「たったのそれだけ? 実力のある奴って誰だよ」
「おまえ?」
 しおんさんの指が私を示し、私はぎょっとした。
「私は同人誌に入るとは言ってませんが……」
「そうかよ。そんならやめとけよ。おまえは漫画を描くんだったよな。なにが実力があるんだよ。プロじゃねえんだろ。そしたら僕らと同じじゃないかよ」
 がたんと音を立てて立ち上がったコータローさんが、私のカットソーの襟首をつかむ。衿を破られそうな勢いで引っ張られて、力ではかなわなくて悲鳴を上げそうになっていると、しおんさんがコーターローさんの頬をひっぱたいた。
「いったーいっ!!」
「やめろ。馬鹿」
 きゃっ、怖っ、と言いたくなるような迫力のある声で言い、しおんさんは私をじろりと見た。
「閨が認めたんだから、観念しろよ」
 ひっぱたかれたはずみで、コータローさんは私から離れている。しくしく泣いては、他のひとたちになぐさめてもらっている。しおんさんは私を真っ向から見据え、私も彼女を見つめ返していた。
「痛いよぉ」
「うんうん、コータロー、かわいそうにね」
「でもさ、しおんさまにぶたれたなんて、あたし、コータローがうらやましいわ」
「愛されてるからだよ」
「うん、そうだね」
 なにやら気持ちの悪い会話をしている彼女たちを一瞥して、しおんさんは吐き捨てた。
「誰がてめえなんか愛してるかよ。コータローは文章もド下手なんだから、プロになろうって気を起こすと惨めになるだけだろ。同人誌で趣味としてやってるほうが身のためだから、ここに置いてやってるんだ」
「だから、しおんさまって優しいの」
 潤んだ瞳で彼女を見上げ、甘い声を出す女性を蹴ろうとしたのか、しおんさんが脚を上げる。私はその脚を止めた。
「暴力的なのってやめましょうよ」
「……あ、そだな」
 意外にも素直に脚を引っ込め、しおんさんは私を見下ろした。
「おまえはちびだな」
「当たってるから反論はしませんけど、桜庭さんのそのふるまいは、どなたのコピー?」
「中根悠介」
「グラブダブドリブの?」
「そうさ。誰だ、それは? って聞き返したりしたらおまえを蹴飛ばしてやろうかと思ってたんだけど、合格だな。よぉ、閨、他には誰に描かせるんだ。コータロー、うるせえんだ。黙れ」
 ひっく、うぇっく、と泣きじゃくっているコータローさんの声以外は静かになった中、閨さんの声が特別号の執筆予定者の名前を粛々と読み上げる。入会するとも言っていないのに、蜜魅の名前もしっかりあって、本当に観念するしかなさそうだった。


9・寝覚月・隆也

 子供のころにはすこしは彼女たちと話もしたのだが、中学生になると祖母に厳命された。
「毎年のようにうちには若い女の子が働きにくるでしょ。あの子たちはお華のお弟子さんだったり、縁続きのおうちの娘さんだったりするの。行儀見習いの意味もあってうちへ働きにきてくれてるのよ。隆也はあの子たちのことはよく知らずに、お手伝いのお姉さんだと思ってお世話になっていたんだね。でも、もうあんたは小さい子供ではないんだから、あの子たちは女のひとなんだから、近づいてはいけませんよ」
 中学生ともなれば反抗心が芽生える年頃なのだから、反論したい気持ちはあった。が、ことは男女の問題に抵触するのか。となると言い出しづらくて、はいはいと応じておいたのだった。
「隆也、絢子ちゃんがお使いに行くのよ。ついていきなさい」
「僕はあのお姉さんたちに近づいたらいけないんだろ」
「今日は特別ですよ。外には危険だってあるんだから、あんたも行きなさい」
 勝手なときには勝手な命令をするのがおばばってものなのだから、今日もはいはいと応じて絢子さんのお使いに同行することになった。
「買い物ですか」
 九月の金沢はまだ暑くて、絢子さんは半袖のブラウスを着ている。俺……祖母の前では僕と自称しているものの、友達といれば「俺」になる。絢子さんは家族の一員、祖母サイドのひとなのだから、僕と自称すべきか、迷いながら問いかけた。
「お届けものです」
「持ちますよ」
「私のほうが力はありそうだから、大丈夫」
「僕は男ですから、力もありますよ。貸して下さい」
「おばあさまの教え?」
 たしかに力のありそうなむっちりした腕で、絢子さんは風呂敷包みを抱えている。僕が持つ、いいえ、けっこうです、と言い合いながら歩いていった。
「絢子さんって意地っ張りだな」
「隆也くんについてきてくれなんて頼んでないのに。ひとりで行けるのに。おばあさまは心配性でうるさいんだから」
「言えてますね」
 若い女性とはいえ、どうして昼日中のお届けものに付き添いが必要なのかといえば、昨日は金沢を台風が襲ったからだ。北陸地方は台風は少ないのだが、珍しく大型で勢力が強いってやつが上陸した。
 大きな災害や被害はなかったけれど、強風が吹き荒れて道路にはさまざまなものが落ちている。一夜が明けても台風のはじっこが金沢地方近辺に居残っていて、まだ風は強い。それでも急ぎなのだろう。絢子さんは出かけなくてはいけないのだから、俺がお供を任じられたわけだ。
 意地っ張りというのか、二十歳ぐらいの絢子さんは中学生に頼るとはプライドが許さないのか。どうしても荷物を持たせてくれない。重たそうなのに大丈夫か? でも、まあ、重すぎて骨折もしないだろうから、俺は周囲に目配りをして、飛んできた看板や植木鉢にでも直撃されないように気をつけていればいいか。
 そう考えることにして黙って歩く。歩いていくと小さな男の子が遊んでいるのが見えてきた。雨はすでに上がっているが、昨日は降雨量も多かったので溝の水もあふれそうになっている。危ないな、落ちるなよ、と声をかけてやろうとしたら、案の定、坊やが溝に落っこちた。
「……わっ!! 絢子さん、ちょっと待ってて」
「あーあ、馬鹿じゃないの」
 馬鹿とは溝に落ちた子供のことを言っているらしい。こういう場合に子供を助けても馬鹿だとは言われないだろう。馬鹿でもいいので俺は溝に飛び込んだ。
 子供でも溺れるほどではなくて、俺だと腹のあたりまでの水かさだ。子供を抱き上げると、うわーっと泣き出してしがみついてきた。
「もう大丈夫だよ。泥だらけになっちまったな。なんて名前? いくつ?」
 返事ができないほどに怖かったのか。小学校にも行っていないぐらいの年頃の坊やは泣きじゃくっている。うちはどこ? ママは? 質問してもまったく答えてくれなくて困っていると、絢子さんが呆れ声を出した。
「そんな小さい子だとまともに返事なんかでしないんじゃない? 私、急いでるんだけど」
「そうは言っても、この子を家に送り届けないといけないでしょ」
「交番に連れていけば?」
「交番ってのはだいぶ遠いですよ」
「そしたら放っていけばいいじゃない。近くの子なんだろうから、親が迎えにくるよ」
「びしょ濡れで泥だらけですよ。放っていけません」
「だったら勝手にすれば?」
「……絢子さん、僕もびしょびしょのどろどろ……ハンカチを……」
「いやよ。そんなきったない隆也くんにさわりたくない。その子も近づけないで」
「あ、待って……」
 よそ行きの綺麗なブラウスを着ているのだから、女のひとは汚れたものには触れたくないのだろう。俺も子供も文字通りの汚物と化していて、絢子さんに見捨てられてしまった。
「困ったな。なあ、泣き止めよ」
 我が家の近くは住宅街なので、土曜日の昼間には人通りは少ない。こんなときにはなおさら、頼みにできる大人も通りかからない。この子の家族らしき人の姿も見えないし、どこの子なのかも知らない。近所の子供だったら知っていてもおかしくないのだから、遠くから来たのか。
 やむなく俺は子供をおんぶして歩き出した。だいぶ距離のある派出所へ連れていくしかなさそうだ。
「名前、知ってるんだろ。四つか五つくらいだったら言えるだろ。どこの幼稚園?」
 まるっきり返事をしてくれないので、俺も黙って歩いていった。
 派出所まで連れていくとお巡りさんに、誘拐してきたんじゃないの? という目で見られる。人を見れば犯罪者だと思え、が警察の鉄則か。子供は頑として口をきかず、しゃくり上げるばかり。俺は汗をかいて事情を説明し、ようやく警察官が子供を引き取ってくれた。
 お巡りさんがタオルを貸してくれたけれど、タオルごときではびしょ濡れ泥んこ、おまけに汗だくは拭い切れない。さきほどまでは人通り皆無だったのに、子供を派出所に託して帰路をたどっているときには何人もの通行人とすれちがって、うさんくさそうに見られた。
 あれこれ手間取ってもう夕刻になっているのだから、絢子さんを追っても無駄だろう。今日は諦めてばっかりだな、俺、なにやってんだろ、と思いながら家に帰ると、怖い顔の祖母が待ち構えていた。
「なんですか、中学生にもなって泥んこ遊びなんて」
「遊んでないよ」
「ついさっき、絢子ちゃんが帰ってきて聞いたのよ。隆也くんったら……って」
 ふたりして歩いていると大きな水溜りがあった。隆也はそれを見ると腕白坊主みたいに張り切って、じゃぶじゃぶその中に入っていって遊びはじめた。絢子がお使いなんだから早く行こうと言っても、隆也は聞き入れなかった。
 水溜りにすわり込んで遊んでいたのだから、隆也はドブにでもはまったかのように汚れてしまった。こんな馬鹿とつきあっていられない、となって、絢子はひとりでお使いを済ませて帰宅したのだそうだ。祖母はその話をして、ため息をついた。
「すこしは大人びてきたのかと思ったら……」
 事実、俺はびしょびしょどろどろなのだから、言い訳はできない。またもや諦めて言った。
「野性の血が僕を呼んだんだよ」
「いつまでそんななんだろうね。まあ、男の子ってそんなものかしら。中学生なんてほんとに子供なんだね」
「そのようだね。蔵に入ろうか」
「あんたが小さいころに悪いことをして、蔵に入れられたのはなぜだか知ってる? 暗いところにひとりぼっちにされるのは怖いだろうからだよ。今のあんただと面白がるんじゃないの? そんな子は蔵になんか入らなくていいから、お風呂に入りなさい」
「はーい」
 俺は絢子さんには嫌われているのかな。嫌われるようなことをした覚えはないんだけど、ムシが好かないってのはあるものだから、嫌われたのだったら仕方ない。それも諦めるしかないか。
 学校にだって嫌いな奴はいるし、俺を嫌っている奴もいる。俺は別に絢子さんは嫌いじゃないけど、これまた諦めるしかない事実なんだろうな。そんなことなど考えながら入浴をすませて、祖母が作った地味な家庭料理の夕食となった。
 絢子さんは俺の両親と一緒に食事するのか。両親は多忙だから、俺はたいていは祖母とふたりで、その食卓にはお給仕なんていらない。絢子さんとは顔を合わせたくない気分だったので、ちょうどいい。食事がすむと皿洗いを手伝って自室に入った。
 今日は風は強かったけど、台風一過というように、あの子供を背負って歩きながら見上げた空は青くて爽やかだった。あの風が夏を吹き飛ばして秋を連れてくるのか。机に向かってそのイメージを心の中でいじくっていると、メロディが浮かんできた。
「メロディが……っていっても、音符……ギターがほしいな。書き取れるかな」
 譜面はないのでノートを出して、形にはなり切っていない曲のイメージを音符にしてみようとこころみる。上手にできなくて悪戦苦闘していると、玄関のチャイムが鳴った。
 両親はまだ帰っていなくて、祖母が玄関に出ていったようだ。俺の部屋から玄関までは距離があるので、話の内容は聞こえない。祖母の声と男の声がぼそぼそ喋っている気配が伝わってきているのを、俺は聞くともなく聞いていた。
 数分もたつと来客が出ていく気配。祖母が廊下を歩いてくる足音も聞こえ、俺の部屋の襖が静かに開かれた。
「どこかの小さい男の子と一緒に、溝の中で遊んでたんだって? その子を派出所に送っていって、住所と名前を言ったんだろ。派出所の人が来て、その子はお母さんが迎えにきたって聞いたよ。隆也くん、ご苦労さん、だって」
「ふーん」
「絢子ちゃんはなんであんなこと……あんただって……」
「僕がドブに入ったのは本当だよ」
「そうだね。言い訳なんかしないほうがいいよね。ばあちゃんは潔いのは好きだよ」
 教育方針に反するのか、祖母は俺を叱りはしてもまず褒めてはくれない。が、今のは褒めてくれたのだろう。俺よりも背の低い祖母が、椅子にかけている俺の頭をひと撫でして部屋から出ていく。くすぐったいような祖母のてのひらの感触も、俺の心のちっちゃな台風を吹き飛ばしてくれた。


10・時雨月・雄二

 かぼちゃの煮つけって……なんでこうなるんだよっ、だった。
「ハロウィンなんだからかぼちゃを買ってこいって言ったの、あんたでしょ」
 母が言い、俺も言い返した。
「ハロウィンってのはかぼちゃを繰り抜いて、ジャックザランタンとかってのを作るんだぞ。そうやって遊ぶんであって、かぼちゃを煮るんじゃないんだよ」
「かぼちゃは食べものよ。食べずに遊ぶなんてもったいない」
「そしたらさ、お菓子をくれなきゃいたずらするぞ」
「お菓子なんて棚に入ってるんだから、勝手に食べたらいいじゃないの。中学生にもなってなにを言ってるんだか」
 このおばさんには話が通じないようだから、諦めて戸棚のせんべいをくわえて外に出ていった。
「日本ではあんまりハロウィンは盛んじゃないんだよね。アメリカにいたころにはおばけかぼちゃのランタンを作ったり、仮装パーティをやったり、近所の家にお菓子をもらいにいったりしたのに、日本ではあんまりやらなくてつまらない」
 アメリカ帰りだと聞いているクラスメイトの渚ちゃんが、女の子たちに囲まれてそんな話をしていた。俺は女の子たちの仲間入りはできずに、話を聞いていた。
「日本でもニュースなんかでは言ってるけど、キリスト教でもないんだから、ハロウィンは関係ないって、うちのお父さんは言ってたよ」
「クリスマスだったらやってるくせに?」
「あたしたちもやりたいよね。ハロウィンパーティやらない?」
 別の女の子が言い、いいねいいね、と他の女の子たちも賛成していた。
「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ、って言うんだよね」
「Trick or treat?」
 英語で言った渚ちゃんの発音が素晴らしくよくて、俺はやっぱり彼女を好きになっているのだと思う。渚ちゃんはお父さんの仕事の関係でシカゴにいたのだそうで、日本人ではあるのだが、日本人離れしたプロポーションをしている。
 すらーっと背が高くて脚が長くて、鼻も高くて歯並びも最高にいい。アメリカでは子供のころに歯列矯正をするのが当たり前だそうで、渚ちゃんもやったのだそうだ。渚ちゃんはじきに、アメリカでは、アメリカではと言うから、帰国子女を鼻にかけていると悪口を言う女の子もいる。そのくせ女の子たちは全員、渚ちゃんに憧れている。
 中学生になって同じクラスになった渚ちゃんには、取り巻き女が大勢いる。渚ちゃんに友達にしてもらえなかった女の子たちがひがんで、彼女の悪口を言っているようでもあった。
「渚ちゃんはもっと背も伸びてかっこよくなるんだろうから、大人になったらモデルにだってなれるよね」
「モデルになんかなりたくないよ。モデルって頭が悪くてもルックスがよかったらなれるでしょ。あたしは成績だっていいんだから、いい大学を出て努力しないとなれない職業に就きたいの」
 きゃぁ、かっこいいっ!! とてんでに叫ぶ女の子たちの歓声を聞いていると、俺は落ち込みたくなってしまう。
 アメリカでは謙遜なんかしていると軽視されるのだから、自己アピールはどんどんしなくちゃ、あたしは勉強もできてルックスも最高なんだもん、口に出して言うのが当然でしょ、と渚ちゃんはいつも言っていて、彼女だったら言ってもいいのだろうけど……俺は……。
 はじめて会ったときから、俺は渚ちゃんが好きだった。英語の発音のよさだって好きだけど、渚ちゃんのかっこよさにも恋をした。クラスの男たちは、あいつは生意気だと言うけれど、ひそかに憧れている奴も何人もいる。
 だけど、俺なんかじゃ渚ちゃんの彼氏にしてはもらえないよな。そしたら二番目に好きな子を誘おう。ハロウィンってのは話には聞いていても、うちでは特別にはなんにもしないけど、おばけかほぢゃのランタンくらいだったら作れるだろうと思ったのだ。
「ミキちゃんは渚ちゃんのやるハロウィンパーティには行くの?」
「あたしは渚ちゃんとは仲良くないから、呼んでもらえないよ」
「そしたらさ、俺と一緒にジャックザランタンっての、作らない?」
「面白そうだね。だけど、椎名くんは水泳部は?」
「十月には泳ぎは休みだよ」
 泳ぐのが大好きだから水泳部に入ってはいるものの、年中水泳ばっかりだと疲れる。うちの中学校には温水プールはないので、秋や冬にはトレーニング中心の軽いメニューになって、すこしは遊べるのが嬉しかった。
 ミキちゃんが誘いにうなずいてくれたってのに、母が買ってきてくれたかぼちゃを煮てしまった。かぼちゃの煮つけでハロウィンパーティなんて、恥ずかしくて言えないじゃないか。
 せんべいをかじりながら公園に行くと、兄貴の伊佐雄もいた。五つも年上だから大学生の兄貴は合唱部に入っている。大学では学園祭が近いのだそうで、最近は忙しそうにしている。それでなくても俺をガキ扱いして話しもしてくれないのに、このごろはうちにも帰ってこないから他人のようだった。
「あれ? 雄二、どうした? 皆実さん、弟の雄二です」
 兄貴のそばには、背の高いかっこいい男がいた。
「合唱部の三年生の皆実さんだよ。雄二、挨拶しろ」
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。雄二くんはたくましい身体をしてるな。スポーツやってる?」
「水泳をやってます。皆実さんは合唱やってるんでしょ? 公園なんかでなにをしてるんですか」
「ここの管理事務所でかぼちゃを……」
「かぼちゃ? ハロウィン?」
 皆実さんはうなずき、兄貴が言った。
「合唱部で使うわけじゃないんだよ。皆実さんの友達の学校の学園祭で、小さいかぼちゃをたくさん使いたいんだってさ。俺はたまたま、あそこで小さいかぼちゃが生ってるのを見たんだ」
 あそことは、公園の一画にあるちっぽけな植物園だ。合唱部室で皆実さんがかぼちゃの話しをし、うちの近くの公園にありましたよ、と兄貴が言い、ここまで頼みにきたのだそうだ。
「無料でくれるって言うから、手分けして運ぼうとしていたところだ。ああ、ありがとうございます」
「いやいや、福祉のほうの学生さんのお役に立てたら、我々も嬉しいですよ」
 管理事務所のひとらしきおじさんが、大きな紙袋にちびかぼちゃをたくさんたくさん入れて持ってきてくれた。
「ジャックザランタン、これでだったら作れそうだね」
「おまえもそんなの作りたいのか。学校の宿題か」
「……う、うん」
「雄二くん、ジャック・オー・ランタンだよ。そしたらこれ、ひとつ持っていけよ」
 三角にも見える形のちびかぼちゃを、皆実さんがひとつくれた。
「このくらいのほうが作りやすいと思うよ。きみは中学生? 近頃の中学校は宿題も粋ですな」
 宿題ではないのだけど、女の子との約束だなんて恥ずかしくて言えない。これでミキちゃんと一緒に遊べると思うと嬉しくて、かぼちゃを持って走り出した。
「ミキちゃん、いた? ジャックオーランタン、作ろうよ」
 同じ中学校なのだから、家だって近所だ。ミキちゃんは彼女の自宅の庭にいて、花に水遣りをしていた。
「オランウータン?」
「ちがうって。ジャック・オー・ランタン」
 受け売りなのに、女の子がこう言ってくれると嬉しかった。
「ハロウィンのかぼちゃのおばけ提灯のことだよね。そう言うんだ。椎名くんってもの知りだよね。うん、作ろう。芙美ちゃんもちょうどいいところに来たね。遊ぼうよ」
「芙美ちゃん?」
 振り向くと、ミキちゃんと仲良しの芙美ちゃんが立っていた。ミキちゃんは渚ちゃんほどではないにしても、けっこう可愛くてスタイルもいい。芙美ちゃんはミキちゃんのそばにいると引き立て役にしかならないような、太り気味でにきびのある冴えない女の子だ。
「あたしも……いいの?」
「いいよ。もうじきハロウィンだもんね。ハロウィンってお菓子をもらいにいくんだっけ?」
「Trick or treat?」
「芙美ちゃんもよく知ってるね」
 渚ちゃんが言うとかっこよかった英語も、芙美ちゃんだとださいだけだった。
「中学生にもなったら近所にお菓子はもらいにいけないから、うちにあるのを持ってくるね。ジャックオーランタンって包丁でくりぬくの? 大工道具もあるよ。待っててね」
 楽しそうに言って、ミキちゃんが家の中に入っていく。ミキちゃんがいなくなると、俺は言った。
「やるよ」
「え? かぼちゃ? 椎名くんがミキちゃんと……」
「俺はいいよ」
 おまえなんかがいたら楽しくないもんな、とまでは言ってはいけない。小学生のときだったら言っただろうけど、中学生になったのだから、芙美ちゃんだって女の子なのだから、傷つけるようなことは言ってはいけない。
 傷ついたのは俺なのに、おまえみたいなブスは帰れよ、とも言えなくて、俺のほうがひとりで帰る。渚ちゃんもミキちゃんも俺には高嶺の花なのかもしれないけど、だったら芙美ちゃんでもいいか、とは絶対に言いたくない。
 兄貴や皆実さんにこの話しをしたら、怒られるんだろうか。大学生の男ってのは、ブスな女は嫌いだとは言わないのだろうか。そんなはずはないとは思うけど、自信は持てないから言わない。なんにしたって、俺は芙美ちゃんにはブスだとは言わなかったのだから、それだけでもえらいはずだった。


11・雪待月・幸生

 ゼミ仲間の中西が、授業が終わって外に出たら話しかけてきた。
「三沢、今はつきあってる女はいるのか」
「特にはいないな」
「好きな女はいるんだろ」
「いるよ。いーっぱいいる」
 合唱部にだって経済学部にだって、バイト先にだって買い物に行った先にだって、街を歩いていたって電車に乗っていたって、あの子、可愛い、あの子、好きだ、と目移りばっかりしている。そう話すと、中西は言った。
「誰かひとりに絞るとしたら?」
「ひとりだけ? そんなの絞れないよ。乳搾りじゃないんだから」
「乳を搾りたい女は?」
「ひとりに決めてどうするんだよ」
「彼女にするんだよ」
「おまえには関係ねーじゃん」
「関係あるんだよ」
 うるせーな、ほっとけ、あっち行け、と追い払おうとしても、中西はどこまでもついてきた。
「俺は最高学府の最高学年で、来春には卒業する十一月だ。彼女なんか作っている場合ではないのだ」
「おまえはなんとかいうコーラスグループでプロになるんだから、就職活動する気もないって言ってたじゃないか。そんな夢みたいなことを言ってるんだから呑気なもんだろ」
「おまえは就職は決まったんだったよな」
「当ったりめーだ」
 あたりまえだのクラッカー、なんだ、この頭に浮かんだフレーズは? ものすごく古い気がするから、おばあちゃんっ子の乾さんに教わったのだろう。馬鹿にされそうな気もするので、口にはしないでおいた。
「それで、中西には彼女はできたわけ?」
「できたんだよ」
「おめでとう」
「めでたいのはいいから、おまえに彼女がいないと困るんだ」
「なんで?」
「他の奴らは次の連休の予定が決まってるって言うんだよ。おまえは決まってないだろ」
「……決まってないな」
 合唱部の先輩たちとともに結成したフォレストシンガーズは、二年近くがたってもアマチュアのまんまだ。当初のメンバーの本橋さんと乾さんとシゲさんは卒業し、ヒデさんは脱退して木村章が加わって、依然、アマチュアヴォーカルグループとして活動を続けている。
 十一月の連休にはイベントがあるだろうから、そういうのにお呼びがかからないかと五人で期待していたのに、ハズレだった。であるから、連休にはバイトしようかと思っていた。卒業してもアマチュアのまんまでいる可能性濃厚なのだから、金をためておかなくちゃ。
 章と俺は下っ端だから、メシを食いにいけば先輩たちがおごってくれる。本橋さんや乾さんやシゲさんは、フリーターにもかかわらずおごらなくてはいけないのだから、先輩はつらいのだ。俺は先輩たちに虐げられているけれど、可愛がってももらえる後輩でよかった。
「バイトは休めるだろうけど、なんだっていうんだよ」
「好きな女の子をひとり選んで告白しろ。彼女がうなずいてくれたら旅行に誘え。一泊で紅葉の綺麗な山の民宿に泊まるんだ。ふた部屋、押さえてあるから」
 なんなんだ、それは、と訊くほどには俺は鈍ではない。中西に協力してやろう。
「おまえの彼女を誘ったわけね。だけど、彼女は純情可憐な美少女だから、男とふたりっきりで旅行になんて行けないわ、って言うんだろ。ダブルデートってのか、ダブルカップルの四人旅行だったらいいって言ったんだよね」
「三沢、聞いてたのか」
「僕ちゃんを見損なうな。推理だ」
「うん、そうだよ」
「おーし、手を貸してやろう。ただし、なんかおごれよ」
「ええとええと……」
 なにをおごろうかと考えていたのか。一分ほどたってから中西は言った。
「一日目の昼飯は俺がおごってやるよ」
 金欠なのが日常の俺には、ありがたい申し出だった。
「そんなら告白してくるよ」
「誰に?」
「どっきりでいこうぜ」
 中西も知っている女の子のほうがいいかもしれない。彼女になってくれるほどでもなくて、一泊旅行の連れだけでもかまわない。もうひとりの女の子がいるのだから、女子部屋と男子部屋に分かれて眠るのだと言えばいい。
 首尾よくいけば二組のカップルに分かれてベッドインだってあるだろうし、どっちだとしても楽しいな、って気分で、ゼミの同級生のひとり、美輪ちゃんを探していたら門のところで見つけた。
「美輪ちゃん、どこに行くの?」
「次の講義はかったるいからさぼるの。お茶しにいくんだ」
「ひとりで?」
「ひとりだよ」
「俺も行ってもいい」
 いいよと言ってもらったので、ふたりして学校の外の「ペニーレイン」というカフェに行った。一年生だったころに合唱部の渡辺キャプテンに連れてきてもらったこの店には、時々来る。美輪ちゃんも常連になっているようだ。
「ここ、すいてていいよね」
「混んでるときもあるけど、今日はすいてるよね」
 早めのランチにすることにして、俺はハムエッグサンドイッチ、美輪ちゃんはフルーツサンドをオーダーした。
「フルーツサンドって太りそうだけど、大好きなんだ」
「美輪ちゃんは細くて小さいんだから、太ったっていいじゃん」
「太るのはやだよ。小さいって嬉しくないし」
 体格の話は女の子の前ではしないほうがいい。きみのプロポーションは俺の好みだよ、と言外に匂わせておいて、本題に入った。
「今度の連休、暇?」
「んんと、なにか用事?」
「中西が彼女と一泊旅行するんだって。その彼女ってのは清純で純情可憐だから、ふたりきりだと駄目だって言うらしいんだよね。中西に頼まれたんだよ。三沢も彼女を連れて一緒にいこうよって。俺には彼女なんかいないけど、いい機会だから美輪ちゃんに告白して、旅行に行けたらいいな、って。ふたりきりじゃないんだから、グループ旅行感覚で、どう?」
 うーんとね、と考えて、運ばれてきたミルクティを飲み、フルーツサンドを一枚食べてから、美輪ちゃんは言った。
「楽しそうね。いいよ」
 おー、やった、ガッツポーズをしてから美輪ちゃんの手を取って、軽くキスをした。
 さきほど中西にもらった、場所や日時のメモを読むと、美輪ちゃんが手帳にメモしている。気軽につきあってくれる女の子でよかった。俺にとっては美輪ちゃんは外見だけで好きだと思っている、何人もの女の子のひとりにすぎなかったけれど、これをきっかけに本物の彼女になってもらってもいい。
「じゃあ、そのときにね」
 指切りもして、楽しみにしてるね、と言ってもらって、ランチも終えて外に出てから中西に電話をかけた。
「万事ok。おまえの彼女の名前も言うなよ。お互いに楽しみにしていよう」
「三沢、おまえってなかなか頼りになるんだな」
「あたりまえだのクラッカー。なんだっけ、これ?」
「はあ?」
 そして当日。
「……美輪ちゃん」
 待ち合わせた駅前に立っていたのは、大きな荷物をふたつ持った中西と、可愛いワンピースの美輪ちゃんだった。中西と美輪ちゃんは親しげに寄り添っていて、俺はなにもかもを悟った。ああもうまくいくなんて、変だなと思えばよかったのに。
 中西くんの彼女って誰? とも尋ねなかったのはこんなわけか。疑ってみなかった俺も迂闊だった。
 どこが純情可憐だ。いたずらっ子じゃないか。男ふたりを手玉に取ってもてあそぶとは、将来が末恐ろしい。それでも俺は強い態度は取れなくて、怒るわけにもいかなくて、言った。
「俺の彼女になってくれた子、名前は言わなかっただろ。あれから喧嘩して早くも別れちゃったんだよ。こうなったら中西も美輪ちゃんも彼女の名前を知らなくてよかったね」
 へええ、そうなんだ、三沢くん、かわいそ、と美輪ちゃんは呟いている。きみに翻弄された俺はたしかにかわいそうだよ。
「彼女を説得しようとしたんだけど、聞き入れてくれなかったから報告にきたんだ。俺はこれで帰るから、ふたりで楽しめよ」
「えええ、そんなのぉ。中西くんとふたりきりなんて困るな。三沢くんも行こうよ」
「んんと……メシだけでも食って帰れば?」
「なにを食わせてくれるの?」
「これだよ」
 自宅通学の中西だから、母ちゃんに弁当を作ってもらったのか。おふくろの味の弁当ならば食いたいかな、どうしようかな、と思っていたら、中西は言った。
「一泊二日の泊まりこみバイトだって言ったんだから、こんなにたくさんの量の弁当がいるだろ。おふくろはいやそうな顔をしてて、あんまり言うと嘘がばれそうだから、俺が作ったんだよ」
「男でも親の目を盗むんだな」
「そりゃそうだ。ひとり暮らしのおまえみたいに好き勝手はできないよ。三沢も弁当食って、話し合おうぜ」
 大学生の男が作った弁当なんか、食いたくない。そっちの理由にこじつけて怒ってみせた。
「いらねえよ。そんなもん食ったら腹をこわすだろ。美輪ちゃんもおなかには気をつけてね」
 ええーっ、帰っちゃうのぉ、とか言って身をくねくねさせているものの、そしたら私も帰る、とは美輪ちゃんは言わない。バイバイと手を振って駅のほうへと歩いていきながら、見上げた紅葉の葉は真っ赤に色づいて、俺の感情とは無縁にとっても綺麗だった。


12・暮古月・美江子

 師走っていうんだよね、十二月は。高校の先生もどこかを走ってるんだろうか。考えたくもないことを考えたくなかったので、私は街の中を探してみた。私の学校の先生は走ってなかったけれど、サンタさんがいた。
 イヴの街にサンタさんがいるのは当たり前。本物じゃないのも当たり前。ケーキ屋さんの店先にいるサンタさんは、クリスマスケーキを売るための扮装なのだろう。
 サンタさんのくせして痩せてて寒そう。ケーキは母が買ってくるだろうから、私は買わなくてもいいのだけど、外でたったひとりでケーキを売っていて、寒そうに見えるサンタさんがかわいそうになってきた。
「これ、あげる」
 包みを開いて取り出したのは、片想いの彼にプレゼントするつもりのマフラーだった。高校生になってから、はじめて好きになった男の子だ。
「いや、プレゼントはいらないから。オレはきみには興味ないから」
 そのひとことで失恋した私は、マフラーなんて捨てようと思っていた。でも、捨てるんだったらこの偽サンタさんにあげたほうがいい。マフラーを首に巻いてあげるとケーキ屋さんのサンタさんは目をぱちぱちさせて、私の手になにかを握らせた。
「このろうそくが燃えている間だけ、あなたの夢がかないます」
 小さな小さな声で言って微笑んだサンタさん。私の手が握りたかっただけ? まあいいか、と思って彼にバイバイして歩き出す。私の手には一本のろうそく。
 うちに帰って両親と妹と弟たちと、全部で六人でごちそうを食べてケーキを食べて、クリスマスパーティ。高校一年生の女の子としては、家族じゃなくて彼氏とクリスマスイヴをすごしたかったな。ふられちゃったんだからしようがないけどね。
 食事がすんで部屋に入ると、机の上にろうそくを立てた。弟たちは別の部屋。私とは妹の佳代子が同室で、ろうそくをさわりたがる。
「ケーキに立てたらよかったのに」
「これは綺麗なろうそくでもないから、立てなくていいんだよ」
「机に立ててなにするの?」
「子供には関係ないの。佳代子は寝なさい」
 つまんないのーっ、とか言いながらも、佳代子は布団に入り、私はろうそくを見つめる。
 ひょろっと細いろうそくは、あのサンタさんみたいだ。このろうそくが燃えている間だけ、あなたの夢がかないます。
 夢っていくつもあるけど、そんな短い間だけかなうんだったら、なににしようかな。嘘だったとしてもいいじゃない、と私は考える。片想いの彼とクリスマスパーティ? ふられた男に未練はなーいっ!!
 あいつじゃない誰かとデートしたいな。誰がいいかな。イギリス人の美男俳優? 好きな歌手? 作家の一柳正平さんなんかもハンサムだし、知的なデートができるかな。中学生のときに好きだった、片想いのままだった彼は?
 それとも、私が将来自立した働く女性になって、ついでにとびきりの美人になって、大人のクリスマスパーティでお酒と会話を楽しんでいるとか?
 想像をしているうちに時間がたってしまいそう。妹の佳代子は寝てしまったけど、いつまでも起きていると父や母が、美江子も早く寝なさい、と言いにくるかも。してみたい経験は大人のデート……本当にできるのかどうかもわからないのだから、軽い気持ちでお祈りしてみよう。
 ろうそくに火をつけて、心の中で呟く。将来の恋人とクリスマスイヴのデートをさせて。三年後には私は大学生になるつもりなのだから、大学ではじめてできる恋人がいいな。大人のデートがしたいの。十八歳の美江子と、大人の彼のクリスマスデート。
「寝てるのか」
 からかうような声に顔を上げる。首をねじまげて彼の顔を見上げる。眉目秀麗ってこんな顔? 背が高くてすっごくかっこいい。そう思ったのは一瞬で、私はすねた声を出していた。
「遅ーい!!」
「いつも言ってるだろ。俺は就職が決まってて、会社のほうでの研修やらなんやらもあるんだよ」
「クリスマスイヴでも?」
「今日もついさっきまで、勉強会をやってたんだ。俺はおまえみたいな気楽な学生じゃないんだよ」
「……そんなら帰ってもいいよ」
 迷惑そうに言われるんだったら、デートなんかしてくれなくてもいい。私は彼の横をすり抜けて小走りになった。
「待て、美江子」
「待たない。帰る」
「帰さない。おいで」
 手を握られてぐいぐい引っ張られる。えらそうな男なんか嫌いなのに、リードされる趣味なんかないのに、彼にだけは……彼だったら……私はそんなに彼が好き?
「イヴの夜なんてのはどこも予約でいっぱいだろ」
「それに、高いよね」
「多少は高くても、俺はふところには余裕ができたから大丈夫なんだ。その分、忙しくてさ、店の予約なんてできなかったよ」
「そしたらやっぱり帰る」
「帰さないって言っただろ」
 粉雪がほんのちょっぴり舞っている街の中を、口喧嘩をしながら歩いている。なのに、彼の大きな手が私の手を包んでくれていてあたたかい。手袋なんかよりも百倍もあったかだった。
「俺んちに来るか」
「それで、ごはんは?」
「おまえが作ってくれよ。メシの支度は女の仕事だろ」
「またそれ。そういう主義の人は嫌いっ!!」
「冗談だよ。そう言うとおまえが怒るから。怒ってるおまえは綺麗だから、言いたくなるだけさ」
 ほら、また、うまいこと言って……怒りをそらされてしまって、私は彼を見上げた。
「ふたりで作ってふたりで食べる?」
「鍋にしようか」
「カニ鍋が食べたい」
「おまえはまだ色気よりも食い気なんだな」
 時々言われる言葉を聞いて、ぷくっとふくれてみせる。彼は身をかがめて、私の耳元で囁いた。
「怒ってるおまえには色気はないけど、目がきらきらしてほっぺたもぽーっとなって、綺麗なんだよ。それで怒らせたくなるんだから、俺は変な趣味かな」
「変態なんだね」
「変態はないだろ」
「今夜はカニをいっぱい食べようっと」
「おう、カニを買うぐらいだったらまかせとけ」
 おいしいものを食べるよりも、あなたと一緒に買い物をして、あなたの部屋にふたりで帰って、一緒に野菜を切ったり、あなたが大きなお鍋を運んでくれるのを見ているほうが幸せ。ひとり暮らしの彼の部屋にこんな大きなお鍋があるのは、友達を呼んで鍋飲み会をするからだと話してくれた。
「俺の故郷の酒だよ。飲むか」
 故郷ってどこだったか……知っているはずなのに思い出させなくて、だけど、彼が注いでくれた日本酒をちょっぴり飲む。もっと、と言ったら、ガキはすこしにしろ、と遠ざけられて、彼がひとりで飲んでいる。夕飯は食べたはずなのに、彼とお喋りしていたら、いくらでも食べられた。
「こんなに食べると太るよ」
「いつも言ってるだろ。おまえはもうすこしだったら太ってもいいんだよ」
「太った女の子は好き?」
「おまえだったら好きだ」
「……お世辞も上手だね」
「お世辞じゃないさ。おまえは太ってなんかいないよ。このウェストだって細いんだから」
 ウェストを両手で引き寄せられる。彼の手は大きいから、本当に私のウェストが細く感じる。抱きしめられてキスされて、このまま押し倒されるのかと期待半分、怖いのが半分でいると、彼は低くてセクシーな声で言った。
「おまえは十五歳なんだよな。もうすこし待つよ」
「え? 私、十五歳?」
「せめて早く十八歳になれ。キスだってこのくらいしかできないだろ」
「キスって他にもあるの?」
「あるよ。おまえが十八になったら教えてやる。そら、美江子、片づけだ。手伝えよ」
 いばって命令して、彼が立ち上がる。ここまででおしまい? あとは片付け? 私……私は大人じゃないの? 彼は大人なのに。
「片付いたからケーキを食おうか」
 大きいのはふたりでは食べられないから、小さなケーキを買った。彼は甘いものはあまり好きじゃないと言う。私もそんなに甘党でもないけど、クリスマスイヴは特別な日なのだから、食べなきゃ駄目だよ、なんて言いながら、箱から出したケーキにろうそくを立てた。
「鍋をすると部屋に熱気がこもるんだよな。窓を……」
 立っていった彼が窓を開ける。窓から冬の風が吹き込んできて、私がつけたろうそくの火を消してしまった。
「あ……」
 戻ってきたみたい。ここは私の部屋、私の机。聞こえるのは佳代子の寝息。机の上には火の消えたろうそくの残骸がぽつん。あのサンタさんは本物だったんだろうか。そんなはずはないけどね。
「けっこう素敵だったかも。でもさ……」
 しまったな、私も大人になってるって条件をつければよかった。夢だか幻だかのあの経験の中では、私は十五歳のまんま。彼氏は大学生だったけど、名前もわからなかった。ただ、背が高くてかっこいい人だったとはわかったから、満足しておこう。
「……寝ようっと」
 今夜はとっても幸せだった。偽サンタさんのプレゼント、ありがとう。
 これは夢のようなものなのだろうから、明日の朝には忘れているのだろう。でも、大学生になったら私にはあんな彼ができる。それだけは信じていたかった。

END
第九部終了





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