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小説299(涙くんさよなら)

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フォレストシンガーズストーリィ299

「涙くんさよなら」

1

 我が身の非力などは考えていられなかった。
 夜道を歩いていて見かけた、人間と人間。僕がニューヨークへ留学する前にもこんなシーンを目撃したことがある。あのときには襲っていたのがおじいさんで、襲われていたのはフルーツパフェのクリちゃんだった。
 こっちは小柄とはいえ大人の男性がふたり。あっちは老人がひとりだったのだからどうにか撃退できたけど、今回はそうは行かなかった。
 痩せたおばあさんのバッグを奪おうとしている若い男に、僕はしゃにむに飛びかかった。僕はそいつに殴り飛ばされ、おばあさんのショルダーバッグの紐が切れ、男がバッグをつかんで駆け出す。僕は地面に転倒して、そいつの足音を聞いているしかなかった。
「お兄さん、大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫です」
 おじいさんにだったら勝てたけど、相手が若い男だったら僕には無理なんだな。
 ニューヨークにいたころに、三沢さんもこれと近い経験をしたとメールをもらった。三沢さんは彼の年上の親友である春日弥生さんと一緒で、弥生さんが屈強な若い女性にバッグをひったくられそうになったのだそうだ。
 三沢さんが立ち向かった女性は力持ちで大きくて、通りすがりの老夫婦が手伝ってくれてどうにか取り押さえ、警察に引き渡し、それが小さなスキャンダル記事になったと、三沢さんが報告してくれた。
 大きくて力持ちでもひったくりは女性だったそうだし、手助けしてくれるひとたちもいたのだし、三沢さんは僕よりは強いのだし、大好きな弥生さんのためなら必死にもなれたのだろうし、三沢さんにだったらできたんだ。
「しっかりして。立てますか」
「え、ええ、なんとか……」
 知らないおばあさんのことだって、僕も必死だった。だけど、僕はおばあさんがバッグを盗まれるのを阻止できなかった。
「お名前は?」
「酒巻です……あなたはご無事ですか」
「私はちょっと小突かれたくらいですよ。酒巻さん、立てそうにないんじゃない?」
「いえ……立てます、立ちます」
 こんな小さなおばあさん、僕だって小さいとはいえ、体重をかけるわけにはいかない。差し伸べてくれる腕を避けて立ち上がろうとしたら、悲鳴が漏れた。
「うっ、痛っ!!」
「足が痛い? 無理そうですね。タクシーでも来ないかしら? 救急車呼びます?」
「痛いのは足というよりも腰ですが、これしきで救急車は不要ですよ。ああ、あなたのお名前は?」
「野村です」
 年のころは山形にいる僕のおばあちゃんくらいか。父の母も母の母も元気だから、どちらの祖母をも思い出す、白髪をお団子に結った小柄な老婦人だった。
「野村さんこそ、御用がおありだったんじゃないんですか」
「近くに知り合いの家がありましてね、訪ねていってお暇して、電車で帰るつもりで駅のほうへと歩いていたら、今の泥棒が……」
「そうだったんですか。ご家族が心配なさってますね」
「私はひとり暮らしですから」
 ならば、こんな時間なのだから僕が送っていってあげたい。が、僕の身体は意志のままには動いてくれないのだった。
「どうしましょうね。あ!!」
 グッドタイミングにもタクシーの空車が通りかかった。
「酒巻さん、乗りましょう。救急病院に連れていってもらいましょう」
「ケータイのwebで救急病院を調べますから、先に野村さんのお宅に……」
「ケータイなんて頼りになりませんよ。私にまかせておきなさい」
 結局は野村さんのお世話になり。タクシーの運転手さんにもお世話になって、僕は救急病院へと運ばれた。
 運転手さんは太ったおばさんで力持ちで、病院の中までは僕を背負って運んでくれた。なんだか子供に戻って山形に帰って、母と祖母に甘えている気分。僕ってばなにをやってるんだかなぁ、もあるにはあるけど、若干はあまやかな心持ちにもなっていた。
 ひったくりに殴られた耳の下の打撲、転倒の際に打った腰の骨にひびが入り、コルセットができるまでは安静にしているように医者に言われて、急遽入院となった。急すぎて高額な個室しか空いていないということで、涙を飲んで医者の命令に従った。
「酒巻さんのおかげさまで、私は別に怪我もしていません。ありがとう」
 個室のベッドに横たわると、野村さんが小さな手で僕の髪を撫でてくれた。
「いえ、なんのお役にも立てませんで」
「そんなことはないのよ。酒巻さんもひとり暮らしなんですってね。病院は完全看護ですけど、どなたかに連絡はしなくていいの?」
 タクシーの中では痛くてあまり話もできなかったので、ベッドサイドの椅子にかけた野村さんに僕の境遇を話した。
「僕は山形出身で、東京の大学を卒業して東京でDJになりました。DJってごぞんじですか」
「知ってますよ。ディスクジョッキーでしょ」
「すみません。ごぞんじですよね。DJになってから数年、もっと勉強がしたくなって、英語と音楽について学ぶためにニューヨークへ留学したんです。現在はDJは休業中。本拠地のニューヨークでアパートを借りています。東京には友人知人が大勢いますので、一時帰国すればまずは東京に来るのが習慣になってるんです」
「酒巻さんはどうして、あそこにいたんですか」
 住宅街なのだから、僕が歩いていたのを不審がられるのは無理もないだろう。
 このたびの一時帰国は、ア・カペラグループ大集合ライヴのためだ。メインアクトはダーティ・エンジェルスとフォレストシンガーズで、その他にも何組ものヴォーカルグループが出演するジョイントライヴの司会を、酒巻國友が依頼された。
 フォレストシンガーズの先輩たちの意向では、最初から司会は酒巻に、と考えていた。だが、僕は日本にはいない。他の候補たちにも依頼してみたものの、さまざまな理由で断られ、酒巻、司会するために帰ってこい、と三沢さんに命じられたのだ。
 帰国にはお金がかかるけど、仕事をさせてもらえるのだから嬉しい。フォレストシンガーズのみなさんやら、金子さんや沢田さんや美江子さんやヒデさんや恭子さんに会えるのも嬉しい。会いたくもない奴もいるが、哲司あたりとだったら会ってもいい。
 そんなわけで急遽一時帰国が、急遽入院になってしまった。
 ホテルは取ってあったのにこんなところに来たのは、ニューヨークで聞いたからだ。僕がニューヨークの学校で知り合い、短い間交際してふられた女性、みな子さんが一時期暮らしていたマンションがこの近くにあると。
 ふられた女性が昔、暮らしていたマンションを外から見てなんになる。それでも見てみたかった。みな子さんへの未練を捨て切れない僕は、マンションの外観を見上げて恋人を偲びたかった。
 けれど、マンションへ向かっている途中で野村さんとひったくりに遭遇したのだから、みな子さんのかつての住まいを見てはいない。神さまのお叱りだったのかもしれない。馬鹿な気を起こすから、ひったくりに殴られて軽い骨折という罰を与えられたのかもしれない。
「友達の家を訪ねたんですけど、留守でしたから。それほど親しいひとでもないからいいんですよ。野村さん、お帰りになって下さっても……」
「そうですね。いつまでもいたら迷惑かしら」
「いえ、迷惑ではありません。嬉しいです。でも、野村さん、お金は?」
「友達に連絡して貸してもらいます。その方に警察にもついていってもらって、被害届を出してきますから」
「よろしくお願いします」
 ありがとう、ごめんなさい、お大事に、と繰り返して野村さんが帰っていってから、僕は携帯電話のアドレスに入っている先輩方、友人連中にこの一件の報告メールを送信した。


2

 真珠のような色に染めた髪をした人物は、髪の色と同じ名前を持つビジュアル系ロッカーだ。本名は磯畑耕史郎、ステージネームを「パール」という彼が、お見舞いにきてくれた第一号だった。
「久し振りに会ったら怪我人だなんて、酒巻さん、ついてないね」
 会うのは本当に久し振りだ。
 ニューヨークに旅立つ前に東京の住まいを引き払い、故郷の山形で家族や親戚とすごした。両親と父方、母方の祖父母や姉夫婦、姉の娘の美菜ちゃんやら、親戚一同までが来てくれて、祝ってもらったり励ましてもらったり、お説教されたりした。
「クニちゃんも呑気に勉強だなんて言ってないで、嫁をもらえ」
「そうやってアメリカなんかに行ってる間に、仕事がなくなってしまうんじゃないのかね」
「早く結婚してお母さんやお父さんを安心させてあげなくちゃ」
 親戚のおじさんやおばさんは、山形弁メインでそう言った。僕ははいはいと聞いておき、あとから身内に、あまり気にしないでもいいからね、と言ってもらった。
「クニちゃんが東京の大学に行ったときから、お父さんもお母さんも私が面倒見るって決めたんだよ。姉さんにまかしておきなさい」
「おじちゃん、がんばってね」
「……美菜ちゃん」
 思わず泣いてしまって、小学生の姪にも叱られた。
「泣いてたら駄目だよ」
 故郷でのんびりしたり、親戚つきあいでめまぐるしかったりもしたあとで、僕は成田からひとりでアメリカへと旅立った。三沢さんだのパールだのは見送りにいくと言ってくれたのだが、僕は泣いてしまうに決まっているから辞退申し上げた。
 一度だけ帰国して、俳優の仕事をはじめたという乾さんを羨んだり、三沢さんや金子さんのマンションに泊めてもらったり、学生時代の同い年の数少ない友達の香川くんとの旧交を温めたりして、僕は再びニューヨークに旅立った。
「フォレストシンガーズの人たちは見舞いに来ないの?」
 大きな果物籠を持ってきてくれたパールが尋ねた。彼には先回の一時帰国では会っていない。二十代半ばになった、休止中の燦劇のキーボードプレイヤーは、ちょっぴり大人になっていた。
「フォレストシンガーズは十日ばかりはツアーで東京にいないんだそうだよ。帰ってきたらみんなで来てくれるって、三沢さんからメールをもらった。それまでに退院できるといいんだけどね」
「骨折っていうよりもひび割れてるんだろ? 重傷でもないんでしょ」
「それほどでもないけど、歩きづらいんだよね」
「ア・カペラライヴの司会には間に合うの?」
「大丈夫なはず……」
 酒巻國友の自然治癒能力との勝負なのだから、すこし回復してきたらリハビリもしてがんばらなくてはならない。僕はパールに質問した。
「燦劇は仕事をしてるの?」
「俺はDJやってるよ。俺の声って高くて発音も明瞭で、話題も豊富で話術も巧みだって。酒巻とかいうDJよりは聴きやすいトークをやるって、好評なんだ」
「そうなんだね。音楽は?」
「この間、よそのバンドの奴らとセッションやったよ」
 ギターのエミーはロスアンジェルスにギター武者修行中。エミーがまるっきり帰ってこないのは、むこうに彼女ができたせいか。
 ベースのトビーはグラブダブドリブのベーシスト、沢崎司氏に憧れて、弟子入り志願して断られた。そこで一念発起、グラブダブドリブのツアーローディをしていると言う。トビーとは僕は親しくなかったのだが、初志貫徹する人だったらしい。
 ドラムのルビーは新人歌手のバックバンドで演奏している。燦劇は演奏は上手ではないと言われていたのだが、新人歌手の演奏だったら上手ではないほうがいいのだとパールは笑った。
 ヴォーカルのファイもラジオに出演したり、バンドをやっている連中のステージに飛び入りで加わって歌ったりしているらしい。これはもはや、燦劇再結成があるとしてもかなり先になりそうだと僕は感じていた。
「エミーは帰ってこないし、トビーも一から修行中だろ。ルビーは結婚して子供ができたから、金がいるんだよね。そのためにも働いてるんだ。ファイはほとんど遊んでて、俺も一緒にもとの事務所に顔を出したりするよ。乾さんだの三沢さんだのと遊んでもらったりもしてる。俺はDJって仕事も楽しんでるよ。ファイは作詞の仕事もしてるしね」
 パールと話していると、ドアにノックの音があった。どうぞと返事をすると、でっかい花束が入ってきた。
「花束に隠れてるじゃん」
「え? どなた?」
「酒巻さんっ、大丈夫ですかっ!!」
 金切り声はフルーツパフェのクリちゃんだった。
 本名は栗原準、通称モモクリは夫婦デュオで、僕はクリちゃんともその奥さんのモモちゃんとも仲良くしていた。先回の帰国の際には三人で食事をして、話もはずんだものだった。
「腰の骨折ですか。複雑骨折?」
「複雑骨折ってのは三沢さんの口ぐせでしょ? そんなにひどくはないんだよ。メールにはそう書いたでしょ?」
「ああ、ひどくはないんですか。よかった」
 大人の男というものは、そうそうは泣かない。僕の周囲にいる成人男子で泣き虫ナンバーワンはクリちゃんだ。僕も三十すぎても時には泣くけれど、人前でだけは泣かないと決心している。クリちゃんにはそんな決心はないようで、花束を抱えたままで大粒の涙をこぼしていた。
「こんなに心配してくれる奴がいて、酒巻さんは幸せだね。へい、クリ? 俺がいるって気がついてないだろ」
「へ? パールさん?」
「そうだよ。花ってそうやって放っておいたらいけないんだろ。ここには花瓶もないんだから、花瓶を買って水を入れてこい。ついでに顔も洗ってこい。花瓶は下の売店に売ってたよ」
「は、はいっ」
 クリちゃんが出ていき、パールは肩をすくめて苦笑した。
 昔は僕も人前ででも泣いた。失恋して合宿の海辺で泣いていて、そんなところを見られてヒデさんに怒鳴られて、頬を張り飛ばされたのが昨日のことのように思い出される。クリちゃんは燦劇のかわりのような形でオフィス・ヤマザキに所属している、フォレストシンガーズの後輩なのだから、乾さんや本橋さんに教育してもらっているはずなのに。
「うちの先輩たちや徳永さんに言わせると、クリよりはおまえのほうがよほど、まっとうな成人男子らしいよ」
 三沢さんにそう言われて、喜んでいいものかどうか、と悩んだのも思い出す。
 あれでもクリちゃんは既婚者なのだから、奥さんも大変だなぁとも思う。僕にもモモちゃんみたいな奥さんがほしいなぁとも思う。だけど、僕の負傷を心配して泣いてくれるひとの存在はとてもありがたかった。


 病室がお見舞いの品物であふれ、僕のハートもみなさんの心遣いであふれ、骨折したというのに幸せ気分になっていた。
「こんにちは」
 毎日欠かさず、野村さんはお見舞いに来てくれる。手作りのお惣菜を差し入れてくれて、病院の味気ない食事に彩りを添えてくれる。今日も野村さんが作ってきてくれた、甘い厚焼き玉子で昼食をいただいていた。
「あら、いらっしゃいませ。あらあらあら……」
 野村さんが来ているときには、見舞い客にも彼女が応対してくれる。ドアにノックの音があり、立っていった野村さんが華やいだ声を上げた。
「山形からいらしてるんですか」
「いえ、酒巻さんからお聞きではありません? 酒巻さんは私を助けて下さって、お怪我をなさったんですよ」
「ああ、あなたが野村さんですか。お世話になりました」
「お世話になったのは私のほうですわ」
 男の声は金子さんだ。金子さんを病室に招じ入れた野村さんの頬はぽわんと染まっている。さすが金子さん、何歳であろうとも、女性は彼にぼわっ、ほわっとなるのであるらしい。
「酒巻にとりましては大学の先輩に当たります、金子将一です。歌手です」
「はい、もちろんぞんじあげておりましてよ。酒巻さんはラジオのお仕事をなさってると伺ってますから……金子さんとも……感激ですわ」
 ありがとうございます、と典雅に微笑んでみせてから、金子さんは僕に向き直った。
「それしきで骨を折るとは情けなくもあるけど、ま、よくやったよ。酒巻、具合はどうだ?」
「すこしは治ってきています。金子さんまでがお見舞いに……ありがとうございます」
「仕事も一段落したんだから、来るのが当然だろ。泣くな」
「……はい」
 お見舞いにきてくれた男性には、年下のひとにも泣くなと叱られた。女性の中には僕が泣くとハンカチで涙を拭ってくれるひともいた。野村さんはそんな僕を見るたびに、祖母のようにゆったりした笑顔を向けてくれていた。
「食いものには制限はないんだろ。愛理は来たんだってな」
「はい、沢田さんにはお見舞いの品物もちょうだいしました」
 大学の先輩でもあり、金子さんの恋人でもあり、ラジオのアナウンサーでもある沢田さんは、焼き菓子の包みをお見舞いに持ってきてくれた。
「これと、これ」
 ベッドの横のテーブルに、金子さんが封筒を二枚載せる。開けてみろ、とそぶりで言われて開封すると、一枚には薄い札束が、一枚にはレストランのケータリングサービス券が入っていた。
「……こんなに……」
「実利的な見舞いにしたんだよ。泣くなって言ってるだろ。泣いてると腰が治ったら張り倒すぞ。泣くな!!」
 びしっと低い声で僕を叱りつけてから、金子さんは表情をゆるめて野村さんを見た。
「申し訳ありません、女性の前で乱暴なことを言ってしまいました」
「いえ……私が叱られたんだったら怖いですけど、金子さんって……いやだわ。胸がどきどき」
「どきどき?」
「男らしくて素敵なんですもの」
 弱気になったり愚痴をこぼしすぎたりすると、僕はいつだって金子さんに叱られた。殴るぞと言われたり、実際に殴られたりもして、大学を卒業してから間もないころからびしびしと鍛えられてきた。
 馬鹿な真似をして乾さんにも叩かれたことはあるし、ヒデさんにだって殴られた。泣き虫弱虫の僕は殴られて泣いていっそう叱られて、金子さんのマンションから出ていって三沢さんになぐさめてもらいにいったこともある。
 そんなときに女性がそばにいると、そのひとは僕のために金子さんに抗議してくれる。沢田さんだって、口で言うのはいいけど殴らなくてもいいでしょっ、と怒ってくれた。
 若いころには男の先輩に叱られると震え上がり、叩かれると泣くしかなかった僕は、正直、荒々しい先輩を恨んでもいた。けれど、時がたてば知るようになっている。ヒデさんに殴られたおかげで、僕は合唱部をやめずにすんだ。金子さんに殴られたおかげで、DJをやめずにすんだ。乾さんに殴られたおかげで……その他いくつも。
 それでも、金子さんに荒っぽく叱られると身がすくむ。野村さんだったら金子さんをやんわり諌めてくれるのかと期待していたのに、男らしくて素敵? 年齢的な感覚もあるのだろうか。
「そうですよ、酒巻さん、泣いてはいけません」
「ですよね。野村さんはひとり暮らしでいらっしゃるそうですけど、むやみに泣いたりはなさらないでしょう?」
「むやみには泣きませんけど、この年で女ひとりはつらいこともありますよ」
「お察しならば俺にもできるつもりでいます。おや、なにか思い出されましたか?」
「ええ、ちょっと……」
 なんだかいいムードになってきて、金子さんが野村さんの肩を抱いた。
「あら、そんな……こんなおばあちゃんに……」
「野村さんは女性なのですから、時には泣くのも心の癒しになるでしょう? 俺の胸でよろしければお貸ししますので、どうぞ」
「ほんとにいいのかしら? ああ、いい気持ち」
 まあ、相手はおばあさまだから、沢田さんがこのシーンを目撃しても妬いたりはしないだろう。野村さんは頬を染めて金子さんの胸に抱かれ、目を閉じてとろーっとなっている様子だ。
 ひっでぇ差別!! その感覚はなくもないのだが、僕は三沢幸生ではないのだから、野村さんばっかりずるーい、僕だったら叱るくせに。僕だって殴られるんじゃなくて、そうやって抱っこしてほしいよ、とは思わない。絶対に言わない。
 それよりも、金子さんってさすがだな。悪い言い方をしたら天性のドンファンってやつだよな。おばあさまをさえもたらし込むとは……知ってはいたけど脱帽です、の気分が強かった。


3

 ジョイントコンサートまではまだ日があるという時期に、ようやく退院が決まった。退院しても自由に出歩くのは困難だし、リハビリや診察に通わなくてはならないのだが、退院の日取りだけは決定した翌日、野村さんが来てくれた。
「そうだったんですね。よかったわ」
「よかったね、酒巻さん」
 言ってくれたのは、野村さんの孫の祥子さん。ごく普通にショウコと読む名前があらわすように、理知的で穏やかな物腰の会社員だそうだ。
「それで、退院してからはどちらで暮らすの?」
「金子さんが手配してくれまして、ウィークリーマンションを借りてもらいました」
「それもよかったね」
「おばあちゃんも安心だね」
 近頃はDQNネームだの、お花畑名前だのきらきらネームだのと呼ばれる名づけが横行している。はしりは僕の世代くらいだろうか。僕の世代だとまだ少ないものの、ノアだのエラだのマアサだの、ナイトだのギドウだのって名前は、僕の同級生にもあった。
 最近の子供となるとティンカーペルだのデーモンだのって、レベルアップしている。あまりにけたたましい名前を見ると虚脱しそうになるのは、僕のセンスが古いのだろうか。
 近い世代ですごい名前といえば、燦劇のヴォーカリスト、ファイの本名だ。武者小路蒼。「むしゃのこうじそう」と普通に読めるのだから、さほどのDQNでもないか。フォレストシンガーズの所属事務所の社員にものすごい名前の男性がいるのだそうだが、僕は知らない。
 このセンスのせいなのか、僕は普通の名前の人と会うほうが気持ちがいい。声優さんの芸名なども奇抜なのが多いけど、フランさんの本名が京子さんだと聞いたときには、シゲさんの奥さんの恭子さんと音は同じですね、いい名前だな、って感激して、変な奴呼ばわりされた。
 二十代半ばくらいか。野村さんのお孫さんにしてはすこし年齢はいっていそうだから、野村さんの結婚が早かったのかもしれない。ほっそりしていて小柄なほうの祥子さんは、病室の花の水を取替えにいってくれた。
「祥子さんにもお世話をかけます」
「そんなの、いいんですよ。酒巻さん、祥子はどうですか?」
「どうって?」
「あの子は二十九歳。酒巻さんは三十二歳でしょ。年頃はちょうどいいし、酒巻さんは小柄な女が好きだって言ってたから、好みだろうと思って連れてきたのよ」
「へ……そんな……いきなり」
「酒巻さんには彼女はいないのでしょ」
「いません」
 毎日お見舞いにきてくれた野村さんとは、私生活の話もたくさんしていた。
「祥子にも恋人はいないようなんですよ。私の孫なんだから変な女じゃありません。酒巻さんともこうして知り合って、お人柄も知れました。酒巻さんさえよかったら、祥子とつきあってみませんか」
「僕がよくても祥子さんが……」
「あの子も酒巻さんを好意的な目で見てましたよ。私が保証します。酒巻さんはおいや?」
「おいやだなんて、とんでもありませんっ!!」
 悲鳴のような声で答えてから、息を整えた。野村さんと知り合ったのは神様のお導き? もてない僕に神様がくれた、素敵なプレゼント? 祥子さんと交際できるのだったら、骨折なんてなにほどでもないと思ってしまう。
 祥子さんが戻ってきて、優しい笑顔を見せてくれる。このひとがおばあさんになっても、野村さんに似た笑顔で僕のそばにいてくれるのだろうか。
「今日は祥子が作ったサンドイッチを持ってきたんですよ。夕食前だけど、いいわよね」
「酒巻さんのお口に合うかしら」
「うわー、嬉しいです。でも、太っちゃいそうですね」
 ちびの僕が太ったらますますもてなくなりそうだが、少々食べ過ぎても僕は太らない。その前に下痢をして痩せるのだからして、太っちゃう、は照れ隠しだった。
 美味なサンドイッチと、祥子さんがポットに詰めてきてくれたミルクティのおやつをいただく。僕がコーヒー嫌いなのは野村さんは知っているから、細かい気配りをしてくれているのだ。僕のニューヨークの話やら、祥子さんの仕事の話やらもして、三人での時間がすぎていった。
 祥子さんとは話もはずんで、こうしているとたいそう楽しい。おばあさまとは別居で、祥子さんはご両親と三人暮らし。つきあえるとしても超遠距離だな、などと考えていると、祥子さんが言った。
「私も留学ってしたいんですよ。三十歳になる前に外国で暮らしてみたいの。母はそれもいいと言ってくれてるんだけど、父は反対してます。そんなのよりも早く彼氏を見つけて結婚しろ、だって。おばあちゃんも反対する?」
「ニューヨークに行くんだったら安心だわね」
 いつかこれに近い会話をした。
 三十歳が近い女性が留学したくて、ニューヨークへ勉強にきていた。その彼女と知り合っての会話の中で、彼女には恋人はいないようだと確認して、僕は手に汗を握り締めた。お父さんが早く彼氏を見つけろと言うということは、祥子さんには彼氏はいないのだ。
 あのときの彼女にはふられてしまったけど、恋人にはなれたんだ。今度はおばあさまが積極的に応援してくれているのだし、手ごたえも感じられる。今度こそ、今度こそ僕は祥子さんを離さない。すでに彼女に告白してうなずいてもらったような、幸せな心持ちになっていた。


「おー、そりゃよかったね」
 スケジュールが詰まっていて面会時間には行けそうもないとのことで、フォレストシンガーズのみなさんは僕にお見舞いの品物だけを届けてくれていた。金子さんと同じく、先輩たちには見舞金を下さった方も何人もいた。
 フォレストシンガーズのみなさんに会えないのは寂しいな、という気もあったけれど、祥子さんに紹介してもらってからはそんな気持ちも吹っ飛んで、鈍く残っている腰の痛みすらも忘れそうになっていた。
 入院中は来てもらえなかったものの、退院して初に僕を訪ねてきてくれたのは、三沢さんだ。実務も堪能な金子さんが手配してくれたウィークリーマンションは交通至便、環境もよくて、生活に必要な細々したものもすべて金子さんが整えてくれていた。
「ひったくりはつかまらないにしても、こんないいところで暮らせるのもよかったし、より以上によかったのは祥子さんだろ」
「はい」
「いいなぁ。俺と同じ寂しい独り者はおまえだけだったのにさ」
「そうなんですか」
 本橋さんとシゲさんは結婚している。金子さんには恋人がいる。木村さんにも好きな女性がいると聞いている。ヒデさんだってただいま恋愛真っ只中だそうだ。
 徳永さんをはじめとする、恋の噂はないひともいるが、徳永さんのことまでは僕は考えていられない。ああいう変わった男は恋に関しても変わっているのだろうから、彼は彼の主義に従って恋愛していればいいのである。
 で、あとは? 乾さんにも彼女はいるのか? いるんだとしたら僕も嬉しいな。ヒデさんと乾さんは、いずれが先に結婚式を挙げるんだろ。僕が司会をやらせてもらえるんだったら、宇宙にいたって帰ってきますよ。
「他人のことはいいよな。それで、告白はいつするんだよ?」
「おばあさまはそう言って下さったんですけど、祥子さんとは約束はしてないんです。電話番号やメールアドレスは聞いてますけど、急に連絡してもいいものですかね」
「今、呼び出せば?」
「三沢さんの付き添いはいりませんから」
 そこまでの子供じゃありません、の意味で言うと、三沢さんは真顔でかぶりを振った。
「そうじゃなくて、まだ恋人同士じゃないわけだろ。ふたりっきりで会う前に俺にも会わせて。祥子さんって小柄な男もいやではないんだよね」
「おばあさまがおっしゃるには、背の高すぎる男はいやだと言っていたとか……」
「そしたら俺にも希望は……嘘だよ」
「三沢さんっ!!」
 怒りそうになると、三沢さんはきゃきゃっと笑った。
「冗談だよ。俺は後輩の好きになった女性を横取りするような男に見えるのか」
「見えなくもないです」
「おまえなぁ……」
 珍しくも僕を無言で睨んでから、三沢さんは言った。
「そうじゃなくて、最初からふたりきりだと警戒されるだろ。ここに呼ぶってのも警戒されるだろうから、三人でメシでも食いません? って言うんだよ。俺はさりげなく消えてやるから、ふたりっきりになってから告白すればいいんだ」
「来てくれるかな」
「ものはためしにメールしてみろよ」
 先輩の親心を疑ってすみません、心で三沢さんにお詫びしながら、祥子さんにメールをした。

「私も仕事が終わったところです。
 食事だったら喜んで。
 フォレストシンガーズの三沢さんもご一緒だなんて嬉しいです」

 短い返信が届いて、三沢さんとふたりして待ち合わせ場所を決めて、再びメールした。約束ができると、三沢さんが車を出してくれた。
「意外にひとりでなんでもできるみたいだけど、車のほうが便利だろ。なにかあったときにはひとりではつらいかもしれないんだから、俺に頼りなさい」
「はい、頼りにしてます」
「その身体では早まらないようにね。告白にOKもらったからって、すぐにベッドとまでは考えるなよ」
「僕は三沢さんではありません」
「おまえは酒巻國友だから、じれったがられるときもあるんだろ。でも、骨折は完全には癒えてないんだから、じっくりゆっくりでいいよ」
 女性を口説く心構えなんてものを、運転している三沢さんがレクチャーしてくれる。僕は三沢幸生ではないのだから、性格もちがっていれば口の回転方向も別々なのだから参考にはなりにくいが、一応は拝聴していた。
「こんにちは、はじめまして」
 待ち合わせたカフェには、シックなスーツ姿の祥子さんが先に来ていた。お見舞いに来てくれた日のパンツルックもよかったが、仕事帰りの大人びた姿も素敵だ。
「フォレストシンガーズの三沢さん? お会いできて嬉しいです」
「こちらこそ。酒巻とはお似合いですね」
「私が酒巻さんとお似合い? そんなことないですよぉ」
 笑い飛ばされて、おや? となってしまう。祥子さんは照れてもいないようで、はなっから酒巻國友なんて意識していないような……気のせいだろうか。
「フォレストシンガーズってそんなには知らなかったんですけど、酒巻さんの先輩だって聞いて、CDをレンタルしてみたの」
「いかがでした?」
「あの歌、ほら、えーと、あの歌……」
 バッグからデジタルオーディオを取り出し、祥子さんが選曲している。一曲を見つけ出し、イアフォンのかたっぽを三沢さんに差し出した。
「これですよ。この歌詞の意味、わかりづらいの」
「これ? ここ? ああ、ここはね……」
 ニューアルバムの中の「ひとすじの涙」には、シュールなフレーズがある。作詞をした三沢さんに祥子さんが質問していて、僕ははみ出してしまっていた。
「あの、食事にいきませんか」
「そうだね。行こうよ」
「ああ、そうでしたね」
 カフェがあるのはレストランと同じビルの地階だ。三人でエレベータに乗ると、祥子さんが言った。
「こういうところって、デートでは来ないんですよね」
「デートする相手はいるんですか」
「デートっていうかね……おばあちゃんが変なことを言ったのかもしれませんね。おばあちゃんはいやがってるから」
「ん? なにが?」
「レストランで話します」
 三沢さんの質問をはぐらかすような祥子さんの態度に、いやな胸騒ぎを覚えた。


4

 女性に人気のある気軽なスペイン料理店、三沢さんのなじみの店だからスムーズに予約もできたレストランで、祥子さんが話してくれた。
「酒巻さんのお見舞いにいったときに、変な感じだと思ってたんですよ。あの日は私は暇だったから、おばあちゃんについていっただけなのに、意味ありげだったし、帰り道でもおばあちゃんは思わせぶりでした。私、彼はいますから」
 喉もとになにかがせり上がってきて、瞬時に食欲が失せた。
「彼氏はいないみたいだって、野村さんはおっしゃってたんだよな、酒巻?」
 三沢さんの質問に首で応じると、祥子さんは言った。
「おばあちゃんは反対してるから。ほら、酒巻さんに助けてもらったとき、おばあちゃんが言ったでしょ。友達の家に訪ねていってたって。あれは私の彼のうちなんです」
「野村さんの友達ではなくて?」
「おばあちゃんの友達でもありますよ。一年ほど前におばあちゃんと一緒に、彼の家に遊びにいってから好きになったんだもの」
「っていうと、彼はおばあちゃんと同じ年頃?」
「おばあちゃんの短歌サークルの仲間だから、七十代ですね」
 絶句してしまった僕らにはかまわず、祥子さんは続けた。
「あのときもおばあちゃんについていって、私は彼を好きになった。今度もおばあちゃんについていって、引き合わされた酒巻さんを好きになるとでも思ったんだろか。そんなはずないじゃないの。私は彼に本気なんだから」
「は、はあ……」
 返事は三沢さんがしていて、僕は黙っているだけだった。
「彼と私は結婚するつもりなんです」
「いや、まあ、愛があるなら年の差なんて、って言いますよね」
「そうよ。なのにおばあちゃんだって、彼の子供たちだって猛反対。彼の子供たちなんて、お金目当てだとまで言うんですよ」
 怒りの形相で、祥子さんはイカのフリッターを噛みちぎった。
「そんなんじゃないの。愛し合ってるんだから」
「……そんな愛だってありますよね」
「三沢さんはわかってくれるんですね。私の友達だって、冗談でしょって言ったり、笑ったり呆れたりするの。特に関係のない三沢さんや酒巻さんに聞いてほしかったのもあるし、誤解されてるんだったら訂正しておきたかったから、今夜は誘っていただいてやってきました」
「うん、聞きますよ」
 自分ぱっかり喋って人の話を聞かない、と酷評される場合も間々ある三沢さんは、その気になれば聴き上手でもある。真剣に祥子さんの恋愛話を聞いていた。
 しかし、僕の耳には彼女の話の内容が入ってこない。七十代の老人に恋して、結婚しようとまで考えている女性。おばあさまがそんな縁談に反対するのは当然な気もする。孫の気持ちをそらせようと、僕を紹介して……乾さんだったらよかったのかもしれないね。僕では役者不足がはなはだしすぎて、祥子さんにはまるで魅力を感じさせられなかったんだ。
 七十代の男性がこんなに可愛いひとをゲットして、僕はまたまた彼女にふられる。較べる相手が老人なだけにショックが激しすぎて、ともすれば呆然としそうなのをこらえて、機械的に食事をしていた。
「母はもうすこしよく考えろって言います。父は私に彼氏がいるって知らないから、早くいい人を見つけて結婚しろって言うんですよ。両親に紹介するには年の差がありすぎるけど、愛し合ってるんですから、私は負けません」
「そういう愛の形もあるんだよね。俺は応援してるから、祥子さん、がんばって」
「はい。酒巻さんもがんばって。フォレストシンガーズもがんばって下さいね」
「ア・カペラライヴ、聴きにきてね」
 食事を終えると、地下鉄の駅までふたりして祥子さんを送っていき、祥子さんと三沢さんは言い合っていた。僕はひきつりそうな笑みを浮かべて、祥子さんに手を振った。
「ひとつだけ、いいこともあるよ」
「なんですか?」
「そのじいちゃんが……いや、言ってはいけないな」
「いけないんだったら言わないで下さい」
 ぶすっと言い返し、三沢さんに背中を向けた。
 じいちゃんなんだからおまえよりは早く死ぬだろ、とでも言いたかったのか。そんなもん、待ってられるかよ。
「……クニちゃん、車の中で泣かせてやろうか。送っていってやるから乗れよ」
 忘れていた、三沢さんは車だから、お酒は飲んでいなかったのだ。僕はアルコールは好きではないし、祥子さんも飲まなかったが、三沢さんは飲みたかったのでは?
「泣きたくなんかありません。僕はもう二度と泣きません」
「こんなときには男だって泣いてもいいんだよ。じゃ、俺がかわりに泣いてやるからさ」
 背中に三沢さんの声が聞こえ、僕はひとりで歩き出した。歩きながら口ずさんだ。

「涙くんさよなら
 さよなら涙くん
 また会う日まで

 きみは僕の友達さ
 この世は悲しいことばかり
 きみなしではとても生きていけそうにない

 だけど僕は恋をした
 素晴らしい恋なんだ
 だからしばらくはきみと会わずに暮らせるだろ」

 歌の後半部分が崩れてしまったから、僕はまた泣くかもしれない。けれどせめて誓おう。僕は大人なのだから、人前では断じて泣かない。こらえ切れなくなったなら、ひとりになってから泣こう。


END




 

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