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小説28(moonlight bluce)前編

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フォレストシンガーズストーリィ28

小説27と冒頭はまったく同じです。
第一章の区切りの部分からまるきりの別ストーリィになりますので、すこしだけ我慢して読んでやって下さいね。


「moonlight bluce」前編
(もうひとつの「シーサイドバウンド」)

1・mie

目の前に広がる海で泳ぐには時期が早すぎるし、潮干狩りにも早すぎる。家族連れも若者たちのグループもいなくて、ところどころにぽつんぽつんと見えるのは恋人たち? あーあ、いいな、なんてうらやましがってちゃいけない。私は当分は恋をしないで、仕事に生きると決意しているのだから。
「ここなんですね。俺も一年だけいた大学の合唱部が合宿に来てた海って」
「そうだよ、章くん。あの島に男子は泳いで渡ったの」
 沖合いに見える小島を指さしたら、章くんは苦笑いを浮かべた。
「今が夏でなくてよかった」
「……寒中水泳やろうって、シゲくんか本橋くんが言い出したらどうする?」
「逃亡します」
 デビューしてから半年余りになる新人フォレストシンガーズ、略称FSは、そこそこ仕事もあるものの、いまだ売れているとは言いがたい。新人マネージャーの私は、時には彼らの担当、時には別のミュージシャンの担当で、あやふやな立場にいる。仕事にはまだ慣れていないのだから、早くFSの専属になりたい、と言っても通るわけはないのである。
 しかし、今回の仕事は春先の海辺での週末のイベントに、私も同行させてもらえることになった。しかも、その海は大学時代に毎年訪れていた合宿地だ。私はたいそう嬉しかった。にも関わらず、やってきた海はひっそりしていた。イベントは中止になったというではないか。私は社長に電話をかけた。
「どういうことなんですか、社長?!」
「いやあ、すまんすまん。私も事情は知らないんだけど、中止になっちまったものはどうしようもないだろ。金、土、日の三日間の予定だったよな。休みにしてやるから、六人で羽根を伸ばしてきなさい」
「私もですか」
「きみは今回は彼らのつきそいなんだからな」
 仕事がなくなって悲しむべきか、休みをもらえて喜ぶべきか、その分、彼らのギャラが減るわけなのだから、私としては申しわけない気分で、彼らにこれこれこうと打ち明けた。
「イベントがあるってのにやけに森閑としてると思ったら、中止かよ」
 本橋くんは言い、乾くんも言った。
「仕事が中止になっちまったんだから、帰ってもどうせ暇だろ、ってわけだね。休暇にしてもらえるんだったらそれはそれでいいんだけど、俺たち、どこに泊まるの? 当初の予定の宿舎には泊めてもらえないんじゃないのか」
「社長が話をつけておくって言ってたけど……あそこに泊めてもらうんだって」
 言うと、みんなは一斉にあそこを見、幸生くんが発言した。
「大学のときの合宿所じゃん。あんな広いところに六人? ひとりひと部屋?」
「貸してもらえるのはふた部屋だよ。なにもあの施設は、私たちの出身大学の合宿所専用じゃないんだからね。でも、今は誰も使ってなくて空っぽで、管理人さんも常駐はしてないらしいの。掃除も洗濯も食事の支度もみんなでするのよ。合宿のときにもそうだったよね。鍵を借りてくるから待ってて」
 近くの海の家で管理している鍵を借りてきて、貸してもらえると聞いた部屋の掃除やらなんやらかんやらに、金曜日の半日を費やした。本橋くんとシゲくんは車を借りて街へ買い出しに出かけ、乾くんと幸生くんは男性用の部屋でごそごそしている。私が抜け出して海を眺めていたら、章くんがやってきたのだった。
「寒中水泳って季節でもないでしょ」
「春先の鍛錬水泳」
「いやだよ、俺」
「章くんは合宿には参加しなかったよね。なぜ?」
「なぜってこともなくなんとなくです」
 夕闇が忍び寄ってくる春の浜辺に、なんとなく不満顔の仕事仲間とふたりきり。章くんは仕事仲間であると同時に大学時代の後輩なのだけど、彼はたったの一年しか学校にはいなかったのだし、私はちらほらと話をしたにすぎないのだから、学生のころはしごくなじみは少なかった。
 二年ほど前にFSのオリジナルメンバーだった小笠原英彦、通称ヒデくんが脱退して、そのかわりにと幸生くんが連れてきたのが章くんだ。
そうして三年ぶりに会った章くんは、合唱部の合宿には来ていなかったのだから、つまらないのだろうか。こんなところ、来たくもなかったのに、なのだろうか。仕事ではなくなって休暇になってしまって、なおいっそうつまらないのか。横目で見たら、章くんは本当につまらなそうに海を眺めていた。
 この浜のあそこで、あちらで……私には思い出すひとがいる。星ふる夜がやってきたら、その名をよけいに思い出す。私は章くんとは別の想いに胸をしめつけられて、無言で立っていた。


 休暇二日目、 鍛錬水泳をやろうとは言い出さなかったかわりに、ボートを借りて小島まで行こうということになった。章くん以外は合宿を思い出して、小島へ渡ってみたくなったのだろう。力仕事は本橋くんとシゲくんの担当で、ふたりがオールを持ち、せっせとボートを漕いでいる。半分以上の距離を進んだころ、海に手を浸した乾くんが首をかしげた。
「んん? このあたりは潮の流れが変だな。水がやけに冷たいよ」
「潮の流れ? 乾くんにはそんなのがわかるの?」
「なんとなくだけどね。妙な渦があるよ。幸生、章、見てみろ」
 ありますね、と幸生くんと章くんが答え、乾くんはむずかしい顔になって言った。
「漕ぎ手はふたりしかできないんだから仕方ないな、本橋、シゲ、悪い。もっともっと早く漕いでくれ」
「こうか?」
「こんな感じ? だけど、乾さん、どうしたんですか」
「……うん、なんだか……変な感じが……疲れてないか。代わろうか」
「俺は平気だ。おまえに代わったって意味ないじゃないか」
「俺も平気です」
 腕力も体力も人並み以上の本橋くんとシゲくんなのだから、まかせておいても平気であるらしい。それにしても、私もなにやらぞくぞくしてきた。ボートの動きが奇妙に思えるのは気のせいなのだろうか。本橋くんとシゲくんは踏ん張って漕ぎ続けていて、乾くんが言った。
「ミエちゃん、島が大きく見えてきたよ」
「なつかしいね、合宿を思い出すよね」
「そうだね。ミエちゃん、震えてない? 寒い?」
「どうしたんだろ……寒い」
「がんばって」
 がんばらなくても本橋くんとシゲくんが舟を漕いで、私たちを小島へと連れていってくれるではないか。章くんはきょろきょろしていて、幸生くんが私に尋ねた。
「美江子さん、顔色が真っ青っていうより真っ白。船酔いですか」
「そうじゃないの。ただ……寒い。悪寒がするっていうのかな」
「天気もいいし、気温も高いほうだよね。風邪かな。章はどうだ?」
「俺はなんともないよ。寒くもないし変な感じもしない。幸生は?」
「俺もなんともないんだけどね」
「俺も寒くはないけど……」
 言いながら、乾くんがジャケットを脱ぎかけた。それを見ていた本橋くんが、乾くんを止めて自分のパーカーを脱いだ。
「俺は舟を漕いでるからむしろ暑い。山田、着ろ」
「身体の底から寒いから、なにか着ても……うん、でも、ありがと」
 さからう気力もなくなりつつあったので、私は素直に大きなジャケットを羽織った。私も軽い素材のジャケットを着ているのだから、上着を二枚も羽織っているわけだ。なのに寒さはなくならない。ボートがゆらゆらふらふら……それでもようやく島にたどりつくと、本橋くんに促されて、幸生くんと章くんは先に上陸し、乾くんも降りて私に手を差し伸べた。
「大丈夫、大丈夫だからね……」
「そら、山田、来い」
 なーによ、えらそうに、と言い返す元気もなくて、私は本橋くんに抱き上げられるままになった。私を抱えた本橋くんがボートから降り、シゲくんも降りると、おもむろに幸生くんが言った。
「もしかしたらあのあたりには、海の女神が棲んでるんじゃないかな。ローレライなのかもしれない。海の女神は女性が嫌いだから、美江子さんに祟りを……」
「幸生、不吉なことを言うな」
 いささか本気で怒った顔をして、本橋くんが幸生くんの足を踏んづけた。いででいでででっ、とオーバーに叫んで飛び上がった幸生くんは、すんませーん、と呟いてから言った。
「美江子さん、さわっていい? ほんとに身体がつめたいよ。すっげえ寒いんですか?」
 うん、と私はがくがくうなずいた。何枚の衣服に包まれてもこの寒気は消えない気がする。降ろしてよ、と本橋くんに言う気力もなくて、しっかりしがみついていた。
「身体が冷え切ってるぞ。発熱じゃないんだよな。つめたいんだもんな。乾、どうする?」
「体温がいいか。本橋、ミエちゃんをぎゅっと抱いてあたためろ」
「ああ、こうか」
「……苦しい、馬鹿力」
「憎まれ口は叩けるんだから大丈夫かな。うん、じゃあな、かわりばんこに山田を抱いてあたためよう。幸生、嬉しいだろ」
「リーダーも嬉しそう」
「嬉しくねえよ、俺は」
 仏頂面で言ったものの、本橋くんは私を抱いたままで砂浜にすわり、あぐらの中に私を入れて抱きしめてくれた。そうされていると身体はあたたまってきたけれど、悪寒が消えない。寒くなくなってきたのに悪寒ってどうして? 風邪を引いたの? ううん、そうじゃない。恐怖だ。理由もわからない恐怖に苛まれていて悪寒がするのだった。
「……本橋くん」
「どうした? 力が強すぎるか」
「そうじゃないんだけどね、なんでだか怖いの。怖い。なにかいる?」
「なにかって……そんな気配は感じないぞ。おまえら、回りを見てみろ。なにかいるか?」
 なんにもいそうにないよー、と幸生くん、ちっちゃいカニがいる、と章くん、貝もいます、ヒトデもいます、とシゲくん、乾くんも言った。
「シゲ、ざっと偵察してこようか。この枝は武器になりそうだ」
「そうですね、行きましょう」
 ふたりが行ってしまうと、私はいっそう本橋くんにしがみついた。
「いやだろうけど……私もしたくはないんだけど……すっごく怖いの。どうしてよぉ」
「俺はいやじゃないぞ。おまえもつべこべ言わずに、怖いんだったらそうしてりゃいいだろ。俺はなんにも感じないけど、鈍感だからか」
「きっとそうだね。怖い、怖い、情けないけど怖い」
「なにが怖いんだかわからないから、どうしようもないんだけどなぁ」
 困惑声を聞いていたら、幸生くんと章くんの小声の会話も聞こえてきた。
「……な、章?」
「だな。ああやってなんか言ってるのは美江子さんらしいけど、ああしてるといつになく可愛いかも」
「あのふたり、お似合いだよな」
「そう言われたらそうかもな。本橋さんはまんざらじゃなかったりして?」
「かわりばんこって言ってたのに、美江子さんをひとりじめしてるもんな。けど、お似合いだなんて言ったら、美江子さんに怒られるぞ」
「聞こえてないだろ」
 聞こえてるけど、怒るどころではない。なぜか恐怖心は募るばかりで、いや増す悪寒に私は震えているしかなかった。
「なにが怖いんだろ。俺は別に怖くないけど、章、なにか感じるか?」
「別に。女のひとにだけ感じるなにかか」
「そういうのってありそうな気もするな。変な渦のところからついてきたとか? うえー、ホラーじゃん。想像したら俺も恐くなってきた。章、美江子さんの身体を透視してみろ。服の中を透視するんじゃないぞ。身体の奥の奥だ」
「服の中はできなくもないけど、俺は超能力者でも霊媒でもないよ。ホラーだなんて言うな。俺まで恐くなってくるだろ」
「リーダーの怒りより怖いよな」
 腕組みをして考え込んでから、章くんが言った。
「……うーん、やっぱりそうなのかな。乾さんにも女っぽいところがあるから、流れが変だとか渦がどうだとか、あそこでなにかしら感じたんだよ。島についたら乾さんはなんともなくなったみたいだろ。なんなんだろうな。こら、幸生、くっつくな」
「だって、俺も恐いもん。おまえの台詞が怖いよっ」
 本橋くんは無言で私を抱きしめてくれていて、気をまぎらわすために質問してみた。
「男って、女の服の中を透視できるんだってね」
「俺にはできねえぞ」
「ほんと?」
「やろうと思わなかったらできない。山田、おまえの……」
「なに?」
 リーダーはこう言いたいんじゃないの? 美江子さんのバストってけっこう……などと幸生くんが言い、うるさい、黙れ、と本橋くんが幸生くんを睨み、すこしは気をまぎらわせていたら、乾くんとシゲくんが戻ってきた。
「別段異常なしだよ。ミエちゃん、なにを感じる?」
「なんだかわからないからよけいに怖いの。怖いのはなくならない。こんなところにいたくない。帰りたい。帰ろうよ」
「ミエちゃんがこんなになるなんてよっぽどだよ。本橋、戻ろう」
またしてもあの渦や流れのあたりを通るの? と考えると鳥肌が立ったのだが、戻る以外の手段はないのだった。
「歩けますか?」
 尋ねてくれたのはシゲくんだったが、本橋くんは無言で私を抱えて立ち上がり、全員でボートに乗った。
「帰りは俺が漕ぐよ」
「おまえが漕いだらのろいだろ。シゲと俺が漕ぐ。おまえは山田を抱いてろ」
「……そうか。力がないってのは悲しいな。ミエちゃん、いい?」
「ごめんね。乾くんもいやだよね」
「いやじゃないよ」
 人肌ってこんなにあったかいんだな、本橋くんも乾くんも、もちろん他の三人も優しいね。私が女だから? 女だからって特別扱いしないでよ、と普段だったら怒りたくなるのだけど、今はそんなふうに思えなかった。乾くんの腕の中で目を閉じて、私は言った。
「乾くんは力はあるでしょ?」
「あります。俺はよーく知ってます」
「幸生くんはどういう経験で知ってるの?」
「言えません」
「幸生、おまえ、前にも意味深に言っていたよな。ああなってこうなって、とか」
「章、それは忘れろって言っただろ」
 往路で乾くんが言った、渦、流れ、その付近をボートが通過しているようだ。乾くんの全身が緊張し、私の身体ががたがた震えはじめた。
「……たしかに変だな、シゲ、行きもこうだったか。オールが重いだろ」
「力が入りにくくなりますね」
 本橋くんとシゲくんはそう言い合いつつ、漕ぐ手に力を込めている。幸生くんと章くんは、俺たちはなんにも感じないけどなぁ、と首をかしげていて、乾くんは言った。
「ミエちゃん……しっかりしろよ」
「乾くんこそ……さっきより強い……なに、これ?」
「ミエちゃん!!」
 なにがなんだかわからないままに、ふーっと気が遠くなった。


 目を覚ますと、私は布団にくるまっていた。こそこそこそこそ、話している声がする。ここは合宿所の私の部屋? 起き上がってみたら身体が動いた。寒さも悪寒も消えていたので、私はドアに耳をくっつけた。
「……だからなのか、イベント中止ってのは」
 小声で乾くんが言い、本橋くんも言った。
「らしいな。うへ、俺はそういうのは……」
「そんなのは誰だっていやだよ。しかし、社長はなぜイベントが中止になったわけを知らないんだ? 知ってたんじゃないよな。知ってて俺たちに……」
「知らないだろ。知ってたら帰ってこいと言うさ」
「だよな。俺たちがあの島に行く気になるとは、社長も推測しないだろうし」
 ふたりで話しているのかと思っていたら、幸生くんの声もした。
「そうすると、うちの大学の合宿にも支障が出ますよね。あの島って本物の不吉な島になっちゃったんでしょ」
「そのようだ。章、大丈夫か」
 は、はい、と章くんが震え声で乾くんに応え、シゲくんも言った。
「俺たちはどうすりゃいいんですか。ついてきてないよな、な、章?」
「本庄さん、お願いだからそんなことを言わないで……幸生ぉ、怖いよぉ」
「俺も恐いよぉ。くっついていい?」
「いやだ」
 こんな際でも幸生くんはふざけているようだが、こんな際ってなに? 五人ともに声が震え気味で、不吉だの怖いだのついてきてるだの……なにがあったんだろうか。彼らは誰かから事情を聞いたのだろうか。私は聞きたくもない……ううん、聞きたい。意を決してドアを開けたら、私の部屋の前の廊下で立ち話をしていた五人が硬直し、乾くんが尋ねた。
「ミエちゃん、いつ気がついた?」
「すこし前。なんなの、話して」
「聞かないほうがよくないかな」
「聞かないですむと思う?」
 問い返すと、乾くんは本橋くんを見た。本橋くんは幸生くんを見、幸生くんは章くんを見、章くんはシゲくんを見、視線が順々に移っていってひと回りして、シゲくんの目は乾くんで止まった。
「俺か……俺に話せってか。言いたくないけど、ミエちゃんは真相を知りたいよね。俺がミエちゃんの立場だったとしても知りたいよ。けど……ミエちゃんが知ったらどうなるか。本橋、ミエちゃんをささえてろ」
「ああ」
「そんなことしなくても平気だよ。乾くんもごたごた言ってないで話して! ……あ、ごめん、きつく言うつもりはなかったんだけど……話して」
 乾くんも意を決した様子で話しはじめた。幸生くんと章くんは身を寄せ合い、シゲくんは我が身を我が手で抱いていて、本橋くんは私の肩を抱いた。乾くんは静かに冷静に、動揺するまいとつとめて話している。けれども、乾くんの声はかすれていて、私の顔からも血の気が引いていくのが感じられた。
「……こんなところ。そこらの店のひとから聞き出してきたんだよ。嘘ではないはずだ。ミエちゃん、気をたしかに持つんだよ。本橋、休暇は切り上げて帰ろう」
「そうだな。山田、なんともないか?」
「……なんとも……なくないわけないでしょうが……いやだ、いやいやいや……」
 あの渦のあたりで海に飛び込んだ女性がいて、救い上げられたのはいいけど、あの島で息絶えた? 口にしたくもない、乾くんの話が耳元で繰り返し繰り返し、全身が総毛立ち、あやうく再び失神しそうになった。あとの五人も真っ青な顔になっていたのだが、本橋くんが私を強く抱きしめて言った。
「山田、落ち着け。怖くない。俺がついてるだろ。おまえは俺が守ってやるよ。幽霊だろうと亡霊だろうとなんでも出てこい。俺が撃退してやる」
「幽霊だなんて言わないでよぉ。いくら本橋くんが喧嘩が強くても、幽霊に勝てるはずないでしょ。ああ、いや、いやだ……怖い……怖い!!」
 とうとう私は泣き出して、本橋くんの胸に顔をうずめた。ミエちゃん、大丈夫だよ、もうあんなところには行かないから、もう平気だよ、美江子さん、泣かないでよぉ、でも、こうなるのも無理ないよな、美江子さん、美江子さん、ミエちゃん……四つの男の声が一生懸命なだめてくれる中、私は本橋くんの胸に顔を押し当てて泣き続けていた。
「……私……子供みたいに泣いて……でもね……でもね、どうしたらいいの、私は」
 涙が止まると気まずくなって、誰にともなく尋ねると、乾くんが返事をした。
「帰ろう。忘れよう。そうしかできないよ」
「だけど……だって……」
 なんともいえない顔をして、五人が私を見つめる。乾くんもつらそうに言った。
「泣いたっていいんだよ。ミエちゃんがどうして泣くのかは、鈍い男にだってわかる。泣くのは当然でしょ」
「あなたたちは泣いてないよ。話を聞いて泣いたの?」
「泣かない。人類の歴史と習慣と教育のせいで、男は泣きにくいように躾けられてるんだ。いいじゃないか、そんなことはどうだって。きみは泣いてもいいの。女の子なんだから」
「……女の子なんだから? 他の理由はないよね。ないか」
 ないよ、と本橋くんも言った。
「あんな話を聞いて泣かない女はどうかしてるんだ。話を聞いただけじゃなくて、おまえはその身で……だろ? それをつべこべ言いやがって、おまえは理屈っぽすぎるんだよ」
「本橋くん?」
「なんだよ」
「ううん、いいの。帰ろう」
 そうしよう、と言い合って、荷物をまとめて帰ることにした。支度ができたら幸生くんが、私にこっそり言った。
「章はたまに泣くから、男は云々って乾さんの論はそうでもないんですよ」
「幸生くんは泣かないよね」
「知ってるくせに。ほら、前にも美江子さん、言ったじゃん。フォーレスが死んだときにさ」
「そうだったね。幸生くんは泣いてたんだった。だけど、泣き顔を見てないもの。私はみんなの前で泣いて、みんなに泣き顔を見られたから……なんだかこう……釈然としないっていうか……」
「気持ちはわかりますけどね、泣いちゃったものはあとの祭り」
「そう考えておきましょうか」
「そうそう」
 大丈夫ですか、とシゲくんと章くんは何度も私を気遣ってくれて、私も何度目かに考えた。みんな、ほんとにほんとに優しいんだよね。私が女だから? 女だからだっていい。乾くんもシゲくんも章くんも幸生くんもありがとう。あなたたちが優しいのは知ってたつもりだったけど、心底よくわかったよ。
 それから……と私はなおも考えた。そんなとんでもない真相があったからこそなのだけど、私はおかしかった。おかしいのが続いているんだろうか。中でもとりわけ本橋くんが……幽霊が相手では本橋くんにも対処のしようはないだろうけど、あんなときには人間の本性が出るもので、おまえを守ってやる、と言った本橋くんの台詞が胸にしみていた。
 おかしいからだよね、あんな事件のせいだよね、と私はおのれを納得させて、なにもかも忘れようと決めたのだった。だからってさっさと忘れ果ててしまえるものではなかったのだけど、あれもこれも。
「歌いましょうか」
 歌いましょうと言うのも、幸生くんの優しさのひとつ? 私を元気づけようとして言ってくれているのだろう。幸生くんは率先して歌いはじめた。

「踊りにいこうよ、青い海のもとへ
 ふたりで歌おう、明るい恋のリズム
 でっかい太陽が恋の女神なのさ
 踊りにいこうよ、海は友達なのさ」

 一日目にならふさわしいけれど、二日目の気分には似合わない。だからこそ幸生くんは歌っているのか。なんの歌? と訊いたら、幸生くんが答えた。
「美江子さんは知りません? 昔々のグループサウンズ、シゲさんの好きなタイガースじゃなくて、ザのつくザ・タイガースの歌です。「シーサイドバウンド」。さあさあ、みなさんもどうぞ」
 他の四人は知らなかったようなのだが、二度目にはそろって歌い出した。恋の女神から海の女神を連想して、海の女神からよくないものを連想しそうになって、私はぶるぶるっと頭を振った。忘れよう。忘れる以外の道はない。


2・yuki

 父性本能なんてものが俺にもあるんだろうか。ふたつ年上の美江子さん、いつも強くてきびしくて、凛々しくてたくましくて男らしい、なんて言ったらどやされそうな山田先輩のこんな様子を見ているとぐっと来ちゃって、保護本能そそられるわぁ、って女言葉になってるのはなぜ? 俺は男らしくふるまっても似合わないからか。
 他の先輩たちのようにはできない。本橋さんとシゲさんのように力強く舟を漕ぐには力不足だし、自身もだいぶ参っていたらしいのに、毅然と行動していた乾さんのように強い気持ちを持つには精神力不足で、俺は章と言い合った。
「年下でよかったな、俺たち」
「かもな」
「おまえもしっかりしろよ、章」
「おまえもだぞ、幸生」
 章と睨み合ってから、どちらからともなくため息をついた。
 仕事が中止になって休暇がもらえて、最初はラッキーだと考えていた。事実、一日目は楽しかった。四苦八苦して風呂場を掃除したりもしていたけれど、キャンプみたいに五人でメシの支度をしてみんなで食べて、わいわいと風呂に入って、ビールを飲んで歌を歌った。
 宿泊したのが大学時代の合宿所だったのも、章以外の五人の楽しさに拍車をかけていたのかもしれない。章にしても、ふーん、ここがね、と感慨深げではあった。うまくもない夕食だったけど、味なんてのは問題外で、気分は浮き立っていた。
「温泉じゃないのは難だけど、風呂に入ろうよぉ」
 夕食のあとで、俺は言った。
「俺がぴっかぴかにしたんですからね。美江子さん、風呂場は綺麗だったでしょ?」
「うん、合格。みんなで入ってきたら?」
「そうだな。じゃ、山田、あとは頼む」
 後片付けは美江子さんがやってくれると言うのでおまかせして、そう言った本橋さんのあとについて風呂場に行った。メジャーデビューしてからは何度か五人で入浴したけれど、合宿所の風呂場に章も含めて五人というのはむろんはじめてだった。
 合唱部は大所帯だったから、合宿の際の入浴も全員でとはいかなくて、適当に分かれて入った。女子といっしょに入浴だなんてことはできなくて……などと言ったら、当たり前だろ、馬鹿たれ、と先輩たちに怒られるので言わないけど、本橋さんや乾さんやシゲさんの入浴姿は見たことはある。
 一年生のときには章も合唱部にいたのだが、なんだかだと言って合宿には来なかった。俺が誘っても来なかった。ロッカー気質のひねくれ者は、合宿なんてまっぴらだ、だったのだろうと俺は推測している。新入生の下っ端だったころの俺は、同年の仲間たちとともに入浴した。そのときに風呂場にいたのは大半が一年生だったのだが、そこへ本橋さんと乾さんが入ってきたのだ。
 男同士で裸を見てどきっ、ってわけではないのだが、本庄のシゲさんや山田美江子さんから噂を聞いていた、合唱部では有名人だった本橋さんと乾さん。俺は見ないふりして横目でちらちらとふたりを観察していた。
 ふたりとも背が高いのは知っている。ちびの俺は背の高い男は嫌いだけど、それは単なる妬みであろう。本橋さんは乾さんよりも背が高くて、ひと回りがっしりしている。乾さんは細身ですらりとしている。あれは五年近く前だから、本橋さんも乾さんも二十歳だったのだ。現在よりも子供っぽい身体つきながら、十八の俺よりは大人びて見えた。
 顔はふたりともたいしたことないけど、うしろを向いてるとかっこいいじゃん、お背中でもお流ししましょうか、って言いにいこうかな、と考えながら、俺は一歩ずつ、本橋さんと乾さんに近づいていった。
「乾……疲れたのか。おまえはだらしねえな」
「疲れてないよ。おまえはうるさいな。なにかっていえばだらしねえだらしねえって……」
「疲れた顔してるじゃないか」
「精神的に疲れるってのか……ああ、俺たちも新入生のころはあんなだったな。ガキだね、可愛いね」
「可愛くねえだろ、あんな奴ら。こら、そこの新入生ども、やかま……」
「本橋、風呂場でくらい好きにさせてやれよ。しごかれてるんだから」
「そうだったな。そんなら好きに騒いでろ」
 現役大学生なのに一種伝説のひとであったふたりの三年生の出現に、近くにいた一年生たちは遠慮がちになっていた。遠くにいた奴らは高校生と変わらぬガキじみた真似をやっていたので、本橋さんがやかましいと言いかけた。好きにやらせてやれ、と乾さんは言ったのだが、やかましいと思われているのかと、一年生たちはおとなしくなったのであるらしい。途端に風呂場がしーんとした。
「三沢、おまえがいちばんやかましいんだから、そばに行くな。怒られるぞ」
 そう言って俺の腕を引っ張ったのは、同じ一年生の高槻だった。
「俺はなんにもしてないし、なんにも言ってないよぉ」
「なにか言いそうだ。こっちへ来い」
「邪魔すんな邪魔すんな。俺は先輩たちのお背中を……」
「そこの坊や、背中なんか流してくれなくていいよ。届くから」
 にっこりして乾さんが言い、俺は諦めた。高槻に引っ張られるままに退散して、せっかくお近づきになれるチャンスだったのに、と歯噛みしたものだった。二年生の夏には本橋さんや乾さんと親しくなりつつあり、シゲさんやヒデさんとはとはすっかり親しくなっていた。そして、章はいなくなっていた。
 しかし、俺が二年だと本橋さんと乾さんは四年生。本橋さんは男子部キャプテンで、乾さんは副キャプテンで、多忙だったのだろう。風呂になんか入っている暇があったのだろうか。俺も四年生になったあかつきにはキャプテンだったので、合宿のときのキャプテンの多忙さは身にしみて知っている。
「シゲさんはなんでキャプテンにならなかったんですか」
 この俺でさえも男子部キャプテンに推薦されたのに、シゲさんは四年生当時もキャプテンではなかった。ヒデさんもちがってた。今さらではあるが尋ねたら、二十四歳になっている現在のシゲさんは言った。
「俺はそんな器じゃないからだよ」
「……ふむふむ。ねえ、本橋さん、乾さん、覚えてます?」
 現在の合宿所の風呂場、五人だとがらんとして見える広い浴室で、俺はふたりの先輩にも尋ねた。
「俺が一年のときに、ここで同い年の奴らと風呂に入ってたら……」
「ここで風呂に入る以外のなにをするんだ?」
「乾さんったら、またそういうことを……他にもやってましたよ。お湯のかけ合いっこしたり、この広い浴槽で泳いだり、沈め合いっこしたり、他にもいろいろと……」
「いろいろ、ね。まあわかる。俺たちも一年のときにはやらなくもなかったかな。やったっけ、本橋?」
「一年のときか。特訓でしごかれっぱなしだったのしか覚えてねえよ」
 新入生がデュオを組み、夏休みの終わりの合唱部主催コンサートでデビューしたという逸話を持つ本橋&乾コンビなのだから、本橋さんがげんなりと言うのも無理はないのだろう。有象無象の一年生たちのように、風呂場ではしゃぐ元気は残っていなかったのかもしれない。それゆえに彼らは、俺が在籍していたころの合唱部の伝説のひとだったのだから。
「今はどうなのかな。合宿でこの風呂に入った俺たちの後輩たちは、本橋さんや乾さんの噂をしてたのかな」
「フォレストシンガーズは噂の的になってるのかな」
 章が言い、シゲさんも言った。
「今の後輩たちがどんな噂をしてるのか、聞いてみたい気もするよな。噂に尾鰭がついて、本橋さんや乾さんの伝説はどうなってるか……おまえもだぞ、幸生」
「俺? 俺がなに?」
「とぼけんな」
「この美貌でしょうか。はたまた、女の子たちが俺を取り合って流血沙汰になったとか? 俺の美声は小鳥のさえずりよりもうるわしいとか?」
「おまえのさえずりは麗しいっていうより、けたたましいってんだよ」
 本橋さんが言い、乾さんは言った。
「俺たちがなにを覚えてるって?」
「本橋さんと乾さんが三年、俺が一年のときのここでのエピソードですよ。乾さん、言ったじゃん」
 そこの坊や、背中なんか流してくれなくていいよ、届くから。優しい微笑と優しい声だった。乾さんの本質を知らなかったあのころは、優しい先輩だな、と俺は誤解したものだった。その台詞を話すと、本橋さんは言った。
「俺もいたのか。覚えてないな。乾は?」
「三年のときか……一年の坊やはみんな同じに見えたしなぁ……」
「ちぇー、覚えてくれていないんだ。俺は覚えてるのに、先輩たちってつめたいね。女の子だったら覚えてるんでしょ? ねえねえ、本橋さんも乾さんもシゲさんも、合唱部の女の子とつきあったことあるんでしょ?」
「おまえは?」
「乾さん、質問に質問で応じるのはやめて下さい」
 そろって知らんぷりをして、誰も応えてくれなかった。
 とにもかくにもあの日は楽しかった。暗雲たちこめたのは翌日だ。朝食をすませて舟に乗って、合唱部時代には泳いでたどりついた小島に向かい……オカルト体験をした。乾さんはなにやら感じていたらしいのだが、他の男四人は特別なにも感じてはいなかった。俺は章が変なことを言うので、背筋が寒くなったりはしたけれど、想像力がそうさせたにすぎない。
 が、美江子さんの感覚は強烈だったらしい。あんな美江子さんは生まれてはじめて見た。普段だったら本橋さんに抱え上げられたりしたら、なにすんのよっ、降ろしなさいよっ、と噛みつきかねない勢いで抵抗する。島でも寒い、怖い、と震えていて、本橋さんの胸にしがみついていた。
 帰りの舟が乾さんの言う、奇妙な潮の流れ、奇妙な渦のあたりにさしかかったら、美江子さんは気を失ってしまった。本橋さんとシゲさんが大車輪で舟を漕ぎ、ようやく浜に戻ったのだが、そういえば島と浜の距離は泳いで渡れる程度だ。往復ともにあんなに時間がかかったのもおかしかった。舟を浜辺につけると、乾さんが言った。
「早くミエちゃんを連れて帰ろう。俺がおぶっていくよ」
「なに言ってんだ。おまえも顔がそそけ立ってるぞ。俺がやるよ」
 ぐったりと乾さんにもたれかかり、顔面蒼白のままで意識を取り戻さない美江子さんを見て、乾さんと本橋さんはしばしやり合っていた。
「シゲもおまえもずっと舟を漕いでたんじゃないか。いくら体力抜群だって疲れただろ。俺がミエちゃんを背負う」
「意識のない人間は重いんだ。おまえには無理だよ」
「無理じゃないよ」
「重いなんて言ったら美江子さんに怒られそうですけど、そんなら俺が背負いますよ。乾さん、無理しないで下さい。この上乾さんにまで倒れられたら……」
 シゲさんが言うと、乾さんは肩をすくめた。
「俺はなんともないよ。見損なうな」
「すみません。でも……」
「わかった。意地を張るのもほどほどにしなくちゃな。シゲはなーんにも感じてないんだろ?」
「はい、なんともありません」
「おまえたちもか?」
 問いかけられた章も俺も、なんともありませんと答え、乾さんは言った。
「本橋もそのようだな。ミエちゃんは女性だからか? 俺も女性的だって意味か。頭に来ると言ってる場合じゃないな。もめてる場合でもない。シゲ、頼む」
 そういうわけでシゲさんが美江子さんを背負い、合宿所に戻り、美江子さんを彼女の部屋に寝かせると、乾さんが言った。
「なにかあったんだよ。イベント中止もそのせいじゃないのか。情報収集に行こう」
「そうだな。乾、おまえは山田についてろ。シゲ、幸生、章、手分けして聞き込みに行くぞ」
 刑事みたい、なんて言ってる場合でもないので、乾さんと美江子さんを残して外に出た。海辺の商店の人々の耳に入っていた断片をつなぎ合わせると、まさにホラー、オカルトとしか呼べない事実が判明し、なにも感じていなかった四人も青ざめた。
 ようやく気のついた美江子さんに乾さんが話し、あのときの美江子さんも美江子さんらしくなく、手放しで泣き出した。本橋さんの胸に顔を埋めて泣く美江子さんは可愛かったなぁ、だなんて、ついつい呑気にも考えてしまうのは、俺には実感が沸きにくいからだったのだろう。
 荷物をまとめて東京に帰ってきたものの、美江子さんはげっそりしていた。こんな美江子さんをひとりきりにするわけにはいかない。だけど、女のひとの部屋に男が五人、のこのこ行ってもいいものだろうか、と俺が考えていると、切り出したのも乾さんだった。
「ひとりになりたい?」
「……なりたくない」
「みんなでミエちゃんの部屋に行っていい?」
「みんな? そうしてくれられるんだったらそうして」
 かくして、俺たちは美江子さんの部屋にいる。美江子さんの部屋に入るのもはじめてだ。整理整頓が行き届いているほどでもないが、女のひとの香りがいっぱいの部屋だった。

「お願いだから今夜はそばにいて
 とてもひとりじゃ夜を越せないから
 優しい優しい気持ちになれるまで
 今夜だけそばにいて」

 まったくシチュエーションは合わないのだが、俺の口をついて出た歌は「Moonlight blues」。この歌の主人公の女性のように、美江子さんが頼りなげに見えて歌っていたら、美江子さんが言った。
「幸生くんの甘い声が胸にしみてくるな。もっと歌って。いっぱい歌って」
「はい、まかせておいて下さい」
 そうだね、章や俺は力や男らしさでは貢献できないけど、歌で美江子さんを安らがせてはあげられるんだ。俺は章を促して、いくつもいくつも歌を歌った。
 そのうちには本橋さんも乾さんもシゲさんも歌いはじめ、美江子さんも徐々に生気を取り戻し、俺たちの歌にハミングで加わったりもした。美江子さんとて学生時代は合唱部の一員だったのだ。低く優しいアルトで、美江子さんも俺たちといっしょに歌っていて、俺は言った。
「ね、美江子さん、歌うと元気が出るでしょ? 美江子さんもソロでなにか歌いません?」
「いやだ」
「なんで?」
「なんでだか知ってるくせに。私はあなたたちの前でソロで歌えるほどの恥知らずじゃないのよ」
 下手だもーん、と言う美江子さんに、乾さんが言った。
「率直に言えばミエちゃんは、決して天才的歌い手ではない」
「凡人的歌い手ですわよ」
「そうかもしれないけど、そんなのどうでもいいんだよ。ミエちゃんのしっとりした声で、しっとりした女性の歌を歌って。いくら幸生が女性的な声を出せるといったって、きみの本物の女性の声にはかなわない。ミエちゃんはどんな歌が好き? どんな歌が得意?」
「私は合唱部でソロを取ったこともないよ。得意な歌なんかない。好きなのはFSの歌。私はあなたたちの歌が好き。世界でいちばん好きなのは、フォレストシンガーズが歌う歌だよ。ジャンルはなんでもいいの。どんな歌でもいいの。本橋くんと乾くんとシゲくんと幸生くんと章くんが歌う歌だったらなんでも好き。五人で歌って。私は聴いていたい。聴いてるほうがいいの」
 なにかにつけてきびしい台詞が多いのは、美江子さんと乾さんの相似点ではある。けれど、美江子さんは俺たちの歌には難癖はつけない。いつもいつも俺たちの歌を最大限に褒めてくれる。私は素人だからね、と言うけれど、耳はたしかなはずなのに、俺たちの歌はそれほどのものだってうぬぼれていいのかな。うぬぼれじゃないよね、歌だけは、俺たちの歌だけは世界中の誰にも負けないんだから。
「あなたたちが歌ってくれたら、私は元気になれる。明日にはもとの私に戻って、いつもと同じにがんばるからね。歌って」
 全員を等分に見る美江子さんに、本橋さんが応えた。
「ああ、わかったよ」
 夜まで歌い続けて、もう大丈夫だからね、とうなずいた美江子さんの部屋を辞去した。


 まっすぐ帰る気になれなくて、俺は通りがかりのバーのドアをくぐった。
「いらっしゃいませ……ん? ひとり?」
「ひとりじゃいけませんか」
「きみ、高校生じゃないの?」
「……俺は二十三歳の社会人です」
 マスターらしきオヤジが俺を疑惑のまなざしで見る。運転免許を見せたらやっと納得してくれたのだが、むかっ腹が立ったので吸いたくもない煙草を吹かしていたら、相客がそばにやってきた。
「……なにか? 俺は社会人ですよ。成人男子ですよ。酒も煙草も可の年齢……んんん?」
「その声、やっぱり」
「その声は……おおお、中西!!」
「やっぱり三沢か」
 思いも寄らない再会だった。同じ大学の同じ経済学部の、同じゼミの、合唱部以外の男の中ではもっとも仲の良かった中西だ。卒業してから丸二年、ただの一度も会っていなかった。
「なつかしいな。奇遇だな。三沢はよく来るのか、この店には」
「はじめてだよ。おまえはよく来るのか」
「たまにね。彼女が連れてきてくれて、それから来るようになったんだ。あのマスター、いいひとだしな」
「どこがいいひと? 俺をガキ扱いしたんだぜ」
「おまえはあいかわらずガキっぽいから……」
「そういうおまえは……」
 二十三のわりには老けたな、とはっきり言ってはいけないだろうか、と考えてしまうのは、大人になったからじゃないか。学生時代には雑駁そのもので、言いたいことはなんでも言っていた。
「うん、社会人らしくなったよ」
「今の会社に入ってまだ二年だけどな。三沢はなにやってんの?」
 知らないんだな、がっくり、ではあるのだが、頻繁にテレビにでも出ていればまだしも、無名の新人シンガーなんぞは、関心がなかったら目にも留まらないだろう。
「自慢じゃないけど……って、自慢してるんだけどさ、プロになったんだよ、俺たち」
「嘘だろ」
「嘘じゃないよ。フォレストシンガーズを知らないのか」
「知らない」
「……あっそ」
 フォレストシンガーズというヴォーカルグループに入れてもらって、将来はプロを目指す意気込みでやるんだ、と中西にも話した覚えはあるのだが、失念してしまっているらしい。
「人は誰も自分が自分の世界の主役で、遠ざかっていく友人は日々薄れていくんだ。そういうものなんだな、うんうん」
「三沢?」
「ひとりごとだよ。飲もう」
「ああ、飲もう」
 グラスを重ねつつ互いの近況報告などをして、俺は探りを入れた。さきほどの中西の台詞、彼女に連れてきてもらった、と言った。搦め手から攻めていたら、中西がくくっと笑った。
「おまえも知ってる女の子だよ」
「誰?」
「呼び出そうか」
「こんな時間に女の子を?」
「平気なんだよ」
 携帯電話を取り出して、中西は彼女とやらと話していた。通話を切ると、来るってよ、と言った。来るにしても時間がかかるだろうと思っていたのに、間もなくといっていいほどの短時間ののちにドアが開き、俺は振り向いた。
「……ワオンちゃん……」
「三沢くん、すっごく久し振り」
「ワオンちゃんと中西が? いつの間にいつの間に……くそぉ、く、くくく……くそぉ」
「おまえがなにを怒ってんだよ」
 気を落ち着けて考えみたら、俺が怒る筋ではない。ワオンちゃんも同じ大学の同じ経済学部の同年の仲間で、俺よりも前に中西とは知り合いだったのだ。
「どうしてこんなに早く来られたのかと言えば、和音はここからごくごく近いマンションに住んでるからなんだよ」
 古久保和音、がワオンちゃんの本名である。中西は本名の「かずね」と呼んだ。呼び捨てで呼んだ。
「ここのマスターとは顔なじみなんだよな」
「そうだよ」
「前からつきあってたの、ワオンちゃんと中西は?」
「卒業してから再会して、それから」
 大学時代に友達だった男女が再会して、友達だったはずが恋人に変わる。ありがちな話なのかもしれない。つきあっているということは恋人同士なのだろう。
 俺がワオンちゃんと知り合ったのは、大学時代の夏休みだった。中西に誘われてゼミ友達が大勢で海へ遊びにいくのについていった。お決まりの花火の夕べで、ワオンちゃんのきわめて高いアニメ声に引きつけられ、合唱部に入って、と熱心に勧誘した。ワオンちゃんは歌には興味がないと言って、合唱部には入ってくれなかったのだが、俺とも友達になってくれた。
 だが、俺は友達では満足できなくて彼女を口説いた。口説いても口説いても断じて一線を越えてくれないワオンちゃんが、俺とは寝ないといった理屈はこうだった。
「私は本当に好きになった男の子としか寝ないの。三沢くんは嫌いじゃないけど、寝たりしたくない。本当の恋をするまでは、私は処女でいたい」
 あんたのおかげで俺は乾さんに、こっぴどく殴られたんだよ、と言いたい。責任転嫁するな、と乾さんに怒られそうだけど、くるみちゃんとの一件は、間接的にはワオンちゃんのせいだ。そのせいで俺は、乾さんの真の腕力を知っている。くるみちゃんも俺には忘れがたいひとではあるのだが、忘れたほうがいいので忘れたふりをしている。まあ、それはともかく。
 とすると……中西は……どうしてもそんな気分が沸き起こって、中西を敵意を込めて見たくなる。あんなに口説いても落ちなかったワオンちゃんを、おまえがあっさり落とした? くそくそくそーの真意はそこにあったのだ。
 そうは言っても、卒業以来疎遠になってしまっていたワオンちゃんを、同じく疎遠だった中西が彼女にしてしまったからって、俺がケチをつける筋合いではない。学生時代の友達と友達が恋人同士になってよかったね、と祝福してあげなくてはならない。しかししかし、頭に来る。
「マスターが親しみやすくていいひとだからってせいもあって、このお店は若い女の子のお客が多いんだよ。このくらいの時間だと私の知り合いも……ああ、あそこにいる」
「綺麗な子だね。紹介してよ」
「三沢くんはあいかわらずだね。彼女、宏子ちゃんっていうんだけど、彼氏はいるよ」
 なーんだ、そんなら紹介していらない、と言いそうになったのを押しとどめて、俺は言った。
「そういう意味ではない。ワオンちゃんの友達なんだから、俺も純粋に引き合わせてほしくて言ってるだけだよ」
「そおお? そんならいいけどね」
 立っていったワオンちゃんが、宏子ちゃんを連れてテーブルに戻ってきた。ワオンちゃんと似たタイプの小柄で可憐な女の子だ。つまり、俺の好みにぴったり。
 彼氏のいる女の子を横合いからどうこう、という趣味はないけれど、男がふたりいたら女もふたりいたほうがいいじゃないか。オカルト体験を払拭するためにも、今夜は純粋に昔の友達と、それから宏子ちゃんと楽しく飲もう。厄落としだ、と俺はうなずいて、宏子ちゃんに微笑みかけた。
「三沢幸生くん。中西くんと私の大学のときの友達なの。今はプロのシンガーなんだよ」
「あ、もしかしてフォレストシンガーズの?」
「おおおーっ、知ってて下さいましたか。それはそれは、感動の余り僕は卒倒しそうですよ。宏子さん、今夜はあなたとの出会いを祝して、僕が歌わせていただきます。リクエストはありませんか?」
 あいかわらずだね、三沢くんは、まったくだな、とワオンちゃんと中西が目配せをかわし合っている。俺はそんなふたりをシカトして、宏子ちゃんだけを見つめた。恥ずかしそうに嬉しそうに、宏子ちゃんはリクエストしてくれた。
「フォレストシンガーズの「あなたがここにいるだけで」を歌ってもらえます? 大好きなの。ラジオで聴いていっぺんでファンになりました」
「重ね重ね感動です。三沢幸生、宏子さんのために真心込めて歌います。ワオンちゃんも聴いてね」
「俺は?」
「おまえもそこにいるんだから聴いててもいいよ」
 カラオケには入っていないようなのでア・カペラで、リーダーのソロパートも俺が歌おう。美江子さんは俺たちの歌を聴くと元気になれるって言ってくれたけど、俺は歌うと元気になるんだ。いやないやな経験もそれで振り払える。美江子さんも明日には元気になると約束してくれたし、俺もきっと元気になるよ、と心で言って、マイクを手にした。

後編に続く
 
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~ Comment ~

意外な展開にびっくり!!!

そ…そんなことがあったんだ…
っていうか、やはり、女の怨念のようなモノは女性には届いてしまうのか、美江子さんが、感じ易いのか。
いや、念が強かったって方かな。

美江子さんが、普段そんな感情や女の妄念に関わりそうなタイプじゃないから。
そして、男性連れだったことが、不幸だったんだろうな。

いやいや、びっくりしました。
でも、そういうことって往々にしてあるみたいですね、現実にも。
あかねさんは、そういう経験ありますか???

なんだか、いつも個性豊かだったシンガーズ・メンバーがものすごい一緒になったというか、結束したというか、同じモノを一気に同じように感じて、何かを守ろうと(この場合は美江子さんだったけど)している姿に、ちょっと感動しました。

fateさんへ

このストーリィはちょっと異質でしてね、なぜかこんなのが書きたくなったのでした。
毎度のことですが、無駄に長くてすみません。

私には霊感はゼロですし、ここで大勢の人が亡くなったんだよ、と聞く場所でも、特にはなにも感じませんでした。
鈍感なんでしょうね。

後編も無駄なエピソードがあったりして、だらだらしててすみません。
このころのフォレストシンガーズは売れてないから、仕事とまったく関係ないストーリィが多かったんだなぁと、私もなんだかしみじみしてしまいます。

NoTitle

感情のコントロールは結構難しいものですよね。
確かに最近は私も泣いていないですね。
泣きそうになることは多いですが、
まあそのへんは大人ということで。
未だにね。感受性は高い方なんですよね。
子どものように。

LandMさんへ

いつもありがとうございます。

私は年齢のせいか、悲しくて泣いたり、自分のことで泣いたりということはほとんどなくなってしまってますが、涙腺はむしろゆるくなっています。
もらい泣き、小説やドラマを見て泣く、そっちは増えてますね。

感受性が高いって素晴らしいですよね。
私はそれも磨滅しつつある気がします。
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