番外編

番外編88(異・水晶の月7)《特殊編3・美月さん》

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特殊バージョン番外編part3続編

注意・BLの類似品ふうですので、そのたぐいがお嫌いな方は避けて下さいね。

   美月さんが創作なさったポチをお借りしての、「異・水晶の月6」の続編です。
   もとのポチはこちらにいます。ワン!

   http://niji-noshima.cocolog-nifty.com/sora/2009/06/post-3e1a.html

美月さん、ありがとうございました。



番外編88

「異・水晶の月7」

1

 真相は幸生、いや、ユキだけが知っている。男子学生寮に女の子がひとりいることを、誰もなんの疑惑も持たずに受け入れているのは、魔法使い犬のおかげだ。ポチがすべてのシチュエィションを整えてくれた。
鷺の森大学学生寮に入寮している二年生の三沢幸生は、家庭の事情により休学。幸生は故郷に帰ってなにやらしているらしいが、詳しくは誰も知らない。
 そのかわりとはいえ、幸生と同室だった二年生の木村章と同室になるというわけにもいかないが、幸生の遠縁に当たる三沢ユキが一時的に寮に入ってきた。ユキは信州の大学に在籍する女子大生で、国内留学のような形である。
 一年生の酒巻國友、鈴木強二、尾崎尚吾。二年生は三沢幸生がいなくなったので、木村章のみ。三年生の小笠原英彦、本庄繁之。四年生の乾隆也、本橋真次郎。寮生は総勢八名なのだから、大きくもない寮にも余裕はあって、ユキはひとり部屋にしてもらえた。
 大学サイドだって寮サイドだって、突っ込みどころ満載なはずなのにとりたてて質問もされないのは、ポチのおかげだ。
「ユキってあのときの……なんだか不思議な女の子だと思ったら、きみは幸生の親戚だったんだね。道理ですぐに親しくなれたわけだ」
 スーツケースをぶら下げてやってきたユキを、ただひとり、彼女を知っていてくれる隆也が出迎えてくれた。
「覚えててくれた?」
「もちろん」
「そしたらね、きみなんていやだ」
「おまえって呼べって? ユキは俺たちの後輩になるんだもんな。わがまま娘なのも変わってないんだろうから、しごいてやるよ」
「そんなのやだ」
「いいからおいで、みんなに紹介しよう」
 重い荷物をユキから取り上げて、隆也が先に立って歩いていく。幸生には見慣れた寮の景色でも、ユキになってみると新鮮だった。
 まず、幸生とユキでは体格がちがう。ユキになると目線が十センチほど低くなる。幸生は自分の好みで、女の子になってからのプロポーションに細かく注文をつけた。身長は百五十センチほど。腕や脚は細くて華奢で、バストはそれなり、ウェストはきゅっ、ヒップはふっくらむちむち。
 幸生の好みでもあったわけだが、寮生たちから見てもそんなプロポーションの女の子は好もしいだろう。尚吾と英彦は長身の女の子が好きだそうだが、小柄な女の子だからって嫌うとも思えない。
 十九歳の女の子としては理想的で、たいていの子がうらやましがりそうなプロポーションのユキは、ピンクのカットソーにデニムのミニスカート、白いジャケットを羽織っている。晩秋の東京は肌寒くなっているが、ユキは信州育ちだからへっちゃら、という設定だ。
「生脚、寒くないのか」
「隆也さんったら脚なんか見て、えっち」
「脚は見えるんだからえっちじゃないだろ」
「うん、ユキは寒がりじゃないから平気だよ」
「あいつらには目の毒だろうけどな……」
「隆也さんが守ってくれるんでしょ」
「守ってって……視線だったらともかく、誰もおまえに変な真似なんかしないよ」
「したらどうする?」
「おまえが挑発しなかったらいいんだよ」
 おまえに変な真似をする男は殴り倒してやる、と言ってほしかったのに、隆也はそうは言ってくれない。男の幸生だって隆也といると甘えたくなって駄々をこねてしまうのだから、女の子だとその気分が強く高まってきていた。
 食堂に入っていくと、残り六名が顔をそろえていた。いないのは寮長の本橋真次郎だ。幸生は全員を知っているが、ユキは誰も知らない。挨拶はせずに隆也のシャツの裾を引っ張った。
「おなかがすいた。ごはんはまだ?」
「寮長が帰ってないようだな。誰か、本橋からの連絡を受けてないのか?」
 挙手して発言したのは、酒巻國友だった。
「本橋さんは教務課の方と就職の話をして、夕食までには帰るとのことでした。もうすぐ帰ってこられるはずです」
「そっか。じゃ、待とう」
「やだっ」
「ユキ、おまえは食いもののこととなるとわがままが激しくなるんだな。俺が待つと言ったら待つんだ。わかったのか」
 こんなふうにきびしく言われると、たちまちべそをかきたくなって、たちまちしびれてくる。俺、女の子になったらマゾになるみたい。もとから? ちがうよ、と自分に言って、ユキは口では言った。
「いやだもん。ごはんが食べられないんだったらお菓子は?」
「食事前にお菓子なんか食べてはいけません」
「隆也さんったらママみたい。あ、ポチは?」
「ポチはおまえの引っ越し荷物と一緒にトラックで到着してるよ。庭にいるよ」
「ポチを部屋に入れたらいけないの?」
「そのあたりも話し合おう。本橋が帰ってくるまでは、ポチは庭で待ってるよ」
「寒いのに、ポチが風邪を引いちゃうよ」
「おまえは信州育ちの女の子で寒さに強いんだろ。ポチだって強いさ」
「ポチはまだ子供なんだからね」
 ごはん、おなかがすいた、ポチ、駄々をこねるつもりになったら材料はいくらでもある。ユキは小さな子供のように地団太を踏み、残り六人の男たちは呆れ顔でユキを見ていた。
「そしたらポチを連れてこい」
「甘いですね、乾さんは」
 言ったのは英彦だった。
「こう言ってるのが幸生だったとしたら、わがままはいい加減にしろ、って、ほっぺたのひとつくらい張り飛ばすんじゃないんですか」
「女の子のほっぺたは張り飛ばせないし、これしきのわがままは可愛いものだけどさ」
 余裕で笑っている隆也が憎らしくなって、ユキのほうが手を上げて殴りかかった。隆也は身をかわし、すいっと手首をつかまれて、抱き寄せられて脅された。
「女の子のほっぺたは張り飛ばせないけど、かわりにひっぱたいてやるところはあるよな。ミニスカートを穿いてるユキにそうやるとおまえたちの刺激が強すぎるだろうから、あとだ。ユキ、俺は前にも言ったよな。あまりに駄々をこねたり、俺の言うことを聞かなかったらどうすると言った?」
「やーん、やだっ!!」
「やだと言ったって、やるべきだったらやるんだよ。おまえがうちの寮に入ってきたのはちょうどいい。悪い子になったらお仕置きもして、ちょっと教育し直してやる。そのつもりでいろよ」
「やだもんっ!!」
 つかまえられて叱られているユキは、幼児のようにべそをかいていても可愛らしい。ユキさんって乾さんに恋をしてるんだな、國友の直感はそう告げていた。
 三沢幸生がいなくなったからといって、女の子が寮に入ってくるのは面妖だ。だが、寮と大学が決定したのだから、文句を言ってもはじまらない。文句をつける気もない。ひとつ年上の小柄な女の子で、隆也のみは会ったことがあると聞いていたユキは、どんな女性なのだろうと國友も楽しみにしていた。
 小柄な國友は好みのタイプも小柄である。大きな女性は猛々しくて怖いので、ユキのような女の子が恋人だったらな、と思う。小柄でも夕里みたいなのもいるし、ユキはわがまますぎて、國友では御していけないから無理だろうとはわかったが。
「乾さん、女の子にそれは……」
「おまえだって言っただろ」
「言いましたけど、乾さんが否定すると思って……」
 英彦と言い合っている隆也の腕の中で、ユキが弱々しくもがいている。章は小声で言った。
「あいつ、見た目は可愛いけどなんとなく気に食わねぇ。幸生が性転換したらあいつになりそうだからだな」
「性転換って、木村くんの発想は変だよ」
 強二も言い、尚吾も言った。
「女っていいなぁ。乾さんも叱ってるようでいて、どっかしら口調が甘いんだもん」
「そりゃそうだろ。でも、乾さん、お仕置きって……」
 繁之が言ったとき、おー、遅くなってすまんすまん、と言いながらの真次郎が食堂に入ってきた。
「ええん、寮長さんっ!!」
 腕をゆるめた隆也の胸から飛び出したユキは、真次郎に突進して抱きついた。
「隆也さんがユキをいぢめるの」
「うん? おまえがユキか。幸生に似てるんだな」
「あんなのに似てても嬉しくないよ」
「乾とはじめて会ったときには、幸生の親戚だって言わなかったんだろ」
「内緒にしてたの」
 そうかそうか、とユキの頭を撫でてから、真次郎は言った。
「乾、女の子を苛めるなよ」
「はいはい。寮長、機嫌がいいね」
「ああ、明日、面接に行けるって決まったんだよ。冬休みまでには内定を勝ち取るぞ。メシメシ、メシだ。ユキ、来いよ」
「はーい」
 どういうつもりか、ユキは隆也には反抗し、真次郎には素直だ。苦笑いしている隆也にべっと舌を出して、ユキは真次郎の指示に従って配膳などの仕事をはじめた。
 

 こうなったのは幸生の捻挫がはじまり。
 章といざこざして二階の窓から飛び降り、庭への着地を失敗して足首をくじいてしまった。彼が悪いとも言い切れないのだが、章は罪の意識を覚えたらしくて、幸生への態度が変になった。幸生は章の態度なんかはどうでもよくて、隆也にばかり意識を向けていた。
 足をくじいた幸生をおぶって医者に連れていってくれ、診断を聞いてくれ、薬を買ってくれ、寒いと言ったらたい焼きも買ってくれた。医者からもおぶって連れて帰ってくれて、寮の部屋へは抱いて運んでくれた。
 駄々をこねすぎて叱られはしたものの、幸生はあのときの隆也に参ってしまったのだろう。それまでだって、女の子だったら隆也さんに恋をするのにな、と思っていたのがかなり本気になった。
 なのに、隆也が優しかったのはそこまでで、あとは意外につめたい。隆也は就職が決まっていて、そのための研修があったせいもある。それからは幸生をほったらかしにして、学校をさぼっても叱ってもくれなかった。
 つまらないので公園に行き、知り合ったのが初老男性の宮田さんと、彼の愛犬のポチ。ポチはなんと、魔法使い犬だったのだ。
 おとぎばなしみたいな事実の渦中の人となった幸生は、ポチに願い事をした。
「俺を女の子にして」
「女の子のユキちゃんになって、隆也さんに会いにいきたいんだね」
 そこまで読まれてしまって、ポチの魔法でユキに変身させてもらい、信州の山の中で研修中の隆也に会いにいった。
 本物の女の子だったらわざとらしかったのかもしれないが、外見は女の子でも中身は幸生だからなのか。なにもかもが芝居だったからなのか、ぶりっ子とも天然もどきともいえる幸生の女の子芝居がいい作用をしたのか、隆也には天然不思議系わがまま娘と映ったようだった。
 思う存分にわがままを言って甘えて、かなりきつく叱られて本気で泣いて、女の子として隆也に可愛がられる幸せに酔いしれて、最後には言った。
「ユキをホテルに連れていって抱いて」
 断られてがっかりしたのが半分、そんなひとだからこそ、ユキは隆也さんが好き、と感じたのが半分。あの経験で幸生は隆也をなおさら好きになってしまった。
 けれど、男の幸生のまんまで隆也に愛されたいとまでは思わない。完全に女の子になってしまいたいとも思えない。隆也は春になったら卒業して退寮するのだから、短い期間しか一緒にいられない。今のうちにもう一度、が幸生の望みだった。


2

 卒業に必要な単位はほぼ取得したから、隆也は学校には毎日は行かなくてもよくなった。本日は真次郎がスーツを着込んで二度目の面接に出かけていき、他の者たちは学校に行き、隆也ひとりが自室でノートパソコンに向かっていた。
「誰?」
 耳がキャッチした足音は軽やかで、ドアが開いて女の子が入ってきた。
「ユキ、さぼったら駄目だろ」
「隆也さんだってさぼってる」
 就職が決まっている「原製薬」の内定者研修のために、隆也は十日間ばかり信州の山の中にいた。たった一日の休暇にひとりで出かけて出会った、風のような女の子、ユキ。
 風なのだから気まぐれに小さな嵐を起こして、隆也を困らせた。女の子を相手に怒るとは度量が小さい、そんな男にはなりたくないから、ユキなんぞに本気では怒らない。叱ってやっただけだ、と隆也は思っているが、いくぶんかは本気で怒っていた。
 ユキは幸生の親戚の娘。だからあんなにも最初から親しみが持てて、ユキと呼び捨てにし、おまえと呼び、甘えかかってくるのと自然につきあえた。不思議な子だ、誰かに似ている、と感じたのも、ユキが休学中の幸生のかわりのような形で、寮に入ってきて腑に落ちた。
 大きなスーツケースを持ったユキが寮にやってきてから四日。翌日には大学に行って手続きもすませてきたようだ。昨日も行っていたのだが、今日は早速さぼりか。
「俺はさぼってるんじゃないんだよ。四年生は学校には皆勤しなくてもいいんだって、おまえだって知ってるだろ」
「ユキも皆勤なんかしなくていいの」
「しなくてよくはないだろ。おまえはこっちの大学には留学のような形なんだから、行くべき日には行きなさい」
「今日は行きたくないの。ねえねえ、隆也さん、隆也さんだってさぼってるんだから、どこかに連れていって。ユキは東京だってよく知らないんだよ」
「今度の休みには連れていってやるよ」
「いやっ!! 今!!」
 わがまま娘といえば夕里って子もいたが、昔は夕里は金子が叱ってくれ、現在では星の彼女になっているようだから、先輩たちにまかせておけばよかった。ユキは幸生の代理のようでもあり、やたらに慕ってくるのだから、隆也としては放っておけない。
「俺は就職先についての勉強をしてたんだよ」
「嘘。パソコンで遊んでるくせに」
「遊んでないよ。おまえは学校に行きなさい」
「いやいやっ!! ユキのお願いを聞いてくれない隆也さんは嫌い」
 目を細めてユキを睨んでみせながらも、隆也は思う。
 可愛いな、こいつは妹のようにも見え、俺に恋をしているようにも見える。俺は恋なんかしている場合じゃなくて、きちんと就職して仕事に慣れてからしか彼女を作れないんだし、ユキもじきに信州に帰っていくのだから、つきあうわけにもいかないけれど。
 やはりユキは幸生のかわりだ。幸生はここまでわがままではないが、近い駄々をこねたりして、軽く頬をひっぱたいてやったり、頭をごつっとやってやったりだったら頻繁にある。小言を浴びせたことだったらさらに頻繁にある。ユキもそう扱おう。
「どこかに連れてって。遊びにいきたいよ。隆也さんは車の運転はできるんでしょ。ドライヴに連れてって。車だったらポチも一緒に行けるもんね。ユキは電車なんか嫌いだから、車がいい。隆也さんとドライヴデートして、お昼も夜もおいしいものを食べさせて。研修って有給だったの? お金、もらったの? ああん、やっ!!」
 好き勝手言っているユキを掬い上げ、抱えるというよりもひっかつぐようにして歩き出した。
「やだやだっ!!」
「おまえのわがままぶりには呆れるよ。このポーズだったら俺がそうすると決めたら、いつだってここをぱちーんとやってやれるんだから、そのつもりで駄々をこねてろ」
「やだっ!! 隆也さんがユキをいぢめるよーっ!! 暴力で脅すんだよーっ!!」
 むろん誰も聞いていないのだから、隆也は部屋を出て階段を降りて庭に出ていった。
「ポチ、おまえの許可があったら、俺はユキの尻をひっぱたくつもりだけど、いいか?」
「やだってばっ!!」
「おまえに聞いてない」
 びしっと言うと、ユキはしくしく泣き出し、リードはつけずに庭で自由に遊ばされていたポチが隆也を見上げた。
「ポチはユキに困らされてないのか? んん? おまえにはいいお姉さんなのか? 許してやってって? ポチがあやまるからって? ユキがいい子でごめんなさいをして、俺の言うことを聞くんだったら、今日のところは許してやるよ。ユキ、ポチが言ってるぞ」
「……次の日曜日には、どこかに連れていってくれる?」
「交換条件を出すのか。ごめんなさいは?」
 小さな小さな声で、ユキが呟いた。
「ごめんなさい」
「わかった。連れていってやるよ」
「車、借りてくれる? だって、ポチも一緒がいいんだもん」
「だったら、クニでも連れていくか」
「やだっ。ポチと隆也さんとユキがいい」
「……しようがないな」
 腕から降ろしてやると、ユキはポチを抱きしめて泣いていた。
 胸が締め付けられるほどに可愛くて、俺はたぶらかされつつあるなぁと思う。ユキがわがままにふるまうとひっぱたくなどと言うのも、どうも彼女がそう言われるのが嬉しい様子でもあるからだ。現にユキはこの間会ったときに、その証拠となる手紙を残していった。
 手紙はなくなってしまったけれど、隆也の記憶には残っている。言うだけだったらどしどしきびしく扱って、だけど、可愛がってもやろう。ほんのひとときの仲なのだから。


 要は女という生き物がわがままってことだ、夕里にしたってユキにしたって奔放なわがまま娘で、男はそういう生き物に鍛えられて大きくなっていく。
 達観したようなことを考えているのは、真次郎も内定が勝ち取れたゆえだった。学校が紹介してくれた化学品メーカーに二度、面接に出向いて内々に決定したのだから、これでようやく肩の荷が降り、隆也とユキを微笑ましく眺められるようになった。
「寮長さんの就職は……ポチは関係ないんだね?」
 明日は日曜日、隆也にドライヴに連れていってもらうのだとはしゃいでいたユキが、庭でポチに話しかけていた。
「うん、そうだよね、本橋さんの実力だよね」
 当たり前だろ、ポチが俺の就職になにをどうするんだ、失礼な奴だな、と真次郎は軽い立腹を覚える。悪いジョークだ。
 わがままじゃない女はいないのかな、いないんだろうな。いたとしても俺は乾と同じ立場だから、彼女を作るのはきちんとした社会人になってからだ。来春からは職場の新入社員として、社会人として鍛えられるようになるのだから、女どころではない。
くぅんくぅんと鼻声を出してユキとたわむれているポチを見ていると、真次郎も心が和む。寮はペット禁止という規則があるわけでもなくても、常識的に判断してこれまでは誰も動物は飼ってはいなかった。
 ユキはしきりにポチに話しかけ、ポチが熱心に聞いてやっているようにも見える。うんうん、そうだよね、などとユキが言っていると、会話をしているようにも見える。飼い主と犬というよりも、ユキとポチは仲良しの子供たちのようだった。
「隆也さーん、レンタカーは?」
「これがすんだら電話で予約するよ」
「明日は休みなんだから、車がなくなっちゃってたらどうするの? 早くしてよ」
 門のほうへと歩き出すと、二階に向かって言っているユキの声と、答える隆也の声が聞こえてきた。
「俺は忙しいんだよ。待ってろ」
「そしたらクニちゃん、電話しろよ」
「ユキ、なんだ、その口のきき方は」
「隆也さんはうるさいんだから。クニちゃんは後輩なんだからいいでしょ」
「おまえは女の子だろ」
 小さくなにやら言っている國友の声も聞こえ、真次郎は寮から外へと出ていった。
 三年半、歩き慣れたこの道、見慣れた景色。家は東京にあるのだが、大学生にもなって親と一緒に暮らしたくなくて申し込んだら、寮に入りたがる学生は少ないとのことで受理された。両親も兄たちも賛成してくれて、入寮したばかりの日々を思い出す。
 当時は現在よりも寮生は大勢いた。一年生は乾隆也と本橋真次郎と、他二名。先輩のほうが多いのは当然で、バンカラ学生みたいな上級生もいた。寮は純体育会系で、先輩がいばっているのも当然自然だった。
 朝、洗面所を使っていたら短気な先輩に投げ飛ばされて、その先輩が先に顔を洗った。抗議しようとしたら別の先輩に殴られて、一年生はあとだ、と怒鳴られた。
 そのような理不尽な仕打ちが続出し、真次郎は当時の寮長の部屋に殴りこみをかけようと決意した。剣道をやっている友達に竹刀を借りてこようかとも思ったのだが、武器を携行するのは卑怯だと考え直して、素手で決行した。
「俺もつきあうよ」
 そう言ったのが隆也で、あとのふたりは恐れをなして逃げていってしまった。
 隆也とふたりして寮長の部屋に乗り込み、ぐるりと先輩たちに囲まれて、隆也が凛とした声を上げた。寮の体制は旧態依然すぎます!! と隆也が叫んだ声は今も真次郎の耳に残る。
 夜を徹して皆で議論し、議論が白熱しすぎて殴られたり蹴られたりもしたものの、先輩たちの態度はそれからもあまり変わらなかったものの、昔からの体制はいまだ多少は残っているものの、気持ちは通じ合えたと真次郎は思っている。隆也ともあれで本当に親しくなれた。
「古臭いってかダサすぎってか、僕らはついていけないよ」
「乾、本橋、僕らは退寮するから」
 他二名の同級生には出ていかれ、それからは隆也と真次郎が先輩たちの愛も憎しみも、すべてすべてを一身、ではなく二身に受けて生活してきた。
 年上だとはいっても身体の小さな男もいて、真次郎のほうがはるかに腕力がある相手もいた。小柄な男ほど虚勢を張りたがるもので、理不尽な言いがかりをつけて真次郎に制裁を加えたがった。あんな奴に殴られても痛くねえよ、と言って、隆也に言われたものだ。
「先輩は立てるのが寮の掟なんだから、彼に殴られたら大げさに尻餅でもついて、痛そうな顔をしてやれよ。彼の虚栄心がそれでくすぐられて、本橋は意外と可愛い奴だって思うかもしれないぜ」
「可愛いなんて思ってほしくねえよ」
 とは言ったものの、乾って奴は俺には考えもつかない発想をするんだな、とは思った。
 こっちが先輩になると、後輩を指導する立場になる。一年下は本庄繁之と小笠原英彦。繁之は真面目だが英彦はやんちゃで、よく先輩に叱られていた。悪さをして叱られているのは当然だと思えるのだが、いわれなき叱責を受けていれば隆也が口ぞえをしてやり、そのせいで隆也が殴られていたりもした。
 先輩を見て学んだことは無数だ。反面教師とはよく言ったもので、そんな奴もいたからこそ、先輩としての心構え、寮長としての態度も学べて、結果的には真次郎が寮の責任者としてやってこられたのだろう。
 そんな寮からも春が来る前に出ていき、地方支店で新入社員としての生活がスタートするはずだとは、「タカミネ化学」の人事担当者から告げられている。デリカシーはないと自覚している真次郎も、だからこそ、感傷的になっているのだろう。


3

 ぎゅっと抱きしめられてキスされると、気が遠くなりそうだ。栗原準の望みはそこまで。それ以上は未知の領域だから怖くて足を踏み入れられない。
 高校三年生だった去年、準は大学の寮に体験入寮した。同い年の酒巻國友やら先輩たちとも触れ合って、当時の寮長、金子将一に不可解な感情を抱いた。おのれの感情に恐怖を覚えたのもあり、先輩が乱暴なのもあり、食事がまずいとの理由もあって、寮には入りたくないと両親にお願いした。
 両親は聞き入れてくれて、大学合格は果たしたものの、住まいはマンションを借りてもらった。
 國友は寮に入ったので、友達になれた。あとひとり、金子が妹のように接していた女の子とも変なふうに親しくなった。
 彼女の名は夕里といい、近隣の女子大の一年生だ。夕里は彼氏ほしがり病だったようで、金子にふられて隆也にターゲットを変更し、隆也にもふられると真次郎に突撃して、一時期、つきあっていた。その関係で、準も寮の同窓会に連れていってもらったのだった。
 夕里が荒れて、寮のOBの星丈人と諍いを起こしているのを、準は礼仁に肩を抱かれて呆然と見つめていた。たまたまその場所に居合わせただけの礼仁に口説かれて、準は彼とつきあうようになった。夕里も星とつきあうようになった。
 抱擁とキスだけでは礼仁は我慢できないのかとも思う。けれど、怯えている準のために我慢してくれている。そんな礼仁が大好きだ。
「……ごめんなさい」
「ん? 準はなにかいけないことをしたのかな? なにをしたんだ? 言ってごらん」
 甘い目で礼仁が問いかける。彼のマンションでふたりきりになるのには恐怖心もあるけれど、礼仁には強い自制心があると準は信じていた。
「ごめんなさいと言わなくちゃならないことってなんだ? いたずらでもしたのか」
「そうじゃないんです」
 だってね、キスだけしかさせてあげないから……などと言うと藪をつついてしまうのか。言おうかどうしようか、準がためらっていると、チャイムの音が聞こえてきた。
「待ってて。言わないんだったらあとで拷問してあげるよ」
「そんな……」
 玄関に出た礼仁は、女の子を伴って戻ってきた。
「夕里さん……こんばんは」
「準ちゃんがいてもいいよ。あのさ、礼仁さんって男と女のどっちが好きなの?」
「準と夕里のどっちが好きかって意味か? 星となにかあったのか」
 星は礼仁の大学の後輩に当たる。夕里は星の彼女なのだから、礼仁とも親しいのは不思議ではない。夏には四人で都心のリゾートマンションですごしたのだが、マンションにまで遊びにくる仲だったのだろうか。
「丈人さんって浮気者だろうとは知ってたよ。あれだけかっこいいんだもんね。もてるのは当たり前だろうけど、浮気って許せない」
「星が浮気したって? それで、夕里も仕返しをしにきたのか」
「仕返しなんてつもりはないし、礼仁さんとはとうに……だけどさ……」
 とうに……? 準の背筋を悪寒が這い登ってきた。
「夕里は大好きなひとのたったひとりの女でなくちゃいやなの。丈人さんは言ってくれたよ。おまえは俺の女なんだから、俺の好みに合う女になれって。だからさ、ちょっとくらい叱られても嬉しかったのに、あんなの嘘だったんだよ。礼仁さんには準ちゃんがいるけど、彼がたったひとりの恋人じゃないんでしょ。ああ、でも、駄目だね」
「駄目とは?」
「かーっとしちゃって、丈人さんをひっぱたいて飛び出してきたんだ。将一さんのところに行けばよかったな」
「俺だと駄目か」
「駄目だよ。礼仁さんは性格的に、夕里をただひとりの女にはしてくれないもん」
「性格ってか、性癖的にかな」
 悠然と笑っている礼仁の言葉と夕里の言葉が渾然となって、準の脳裏を旋回していた。
「将一さんには彼女はできたのかな」
「俺は知らないけど、ま、落ち着けよ。準、夕里にコーヒーを淹れてやって」
「……はい」
 自分こそ落ち着こうと、準はキッチンに立ってコーヒーメーカーをセットした。
 浮気疑惑の浮かんだ恋人と喧嘩した夕里が、かっとなって礼仁のマンションに訪ねてきた。そこまではいいにせよ、性格的に、性癖的に、ひとりの女にはできない? 礼仁は女ではなく男を愛する性癖だからか。
 いや、とうに……とはなんなのだろう。準が礼仁のただひとりの恋人ではないと、確信的に夕里は言っていた。とすると、とすると……?
「夕里は寮に行ってくる」
「入れてもらえるかな」
「入れてもらうもん」
 コーヒーを運んでいったときには、夕里の姿は消えていた。
「純愛と肉欲ってのがあってさ」
「……礼仁さん?」
「俺はきみには純愛を捧げているんだよ」
「肉欲は……?」
「きみではない相手で満たすから、きみには……わかるだろ」
 頭では理解できるが、それでいいのだろうか。いいかどうかを決めるのは、僕? 礼仁さんの想いと僕の想いが一致すればそれでいいのか。準の心には果てもなく細波が立ち続けていた。


 日曜日の朝には寮長も副寮長も出かけてしまっていて、三年生が臨時責任者になるしかなかった。ユキと章と國友も出かけているので、一年生と三年生がふたりずつ、強二、尚吾と、英彦と繁之が遅い朝食をすませたところへ、夕里がやってきたのだった。
「ほんとは昨夜、来たかったんだけど、夜中には入れてくれないだろうから、朝になってから来たんだよ。シンちゃんと隆也さんはいないのか。ユキって女の子はどうでもいいけど、ポチなんて犬も木村さんもクニちゃんもどうでもいいけど、シンちゃんは……うーん」
「それで、なにをしにきたんだ?」
 中に通してしまった以上は相手をするしかない。英彦が質問すると、夕里はうーん、うーんと唸っていた。
「シンちゃんって、本橋さんに用なのか?」
「シンちゃんはちょっとは知ってるけど、ヒデちゃんなんかはなんにも知らないんだよね」
「俺はおまえよりも年上だぞ」
「それがどうしたの?」
「……どうもしないけど……」
 英彦から見れば夕里は好みのタイプではない。ユキもタイプではない。英彦はわりあい大柄で背丈もある、肉感的な女の子が好きだ。尚吾の彼女のサミのようなスポーツウーマンタイプではない、バストの大きな子がいい。
 近頃の女の子はおおむね気が強いが、中には優しくて慎ましやかな清楚な女性もいるだろう。現代的な姿態を持ちながら、根は古風なつくし型大和なでしこ。英彦の理想はそんなふうだ。
 理想が高すぎるから彼女ができないのかと思ったり、夕里やユキやサミみたいに女の子を彼女にするんだったら、気長に待ったほうがいいと思ったりもする。しかし、ユキや夕里のミニスカート姿は眼福だとも感じるのだった。
「誰に用ってわけでもないのか」
「ってのかね……」
 この場にいる最上級生として、俺も喋るべきだ。繁之は義務感から口を開いた。
「誰かに用があるのではないんだったら、夕里さんがここにいるのはよくないんじゃないかな」
「どうしてよくないの?」
「いや、あの……」
 繁之には理想の女性像は特にはない。好みを云々できるルックスではないと思っている。それでも許されるならば、俺を一方的にやり込めない、控えめさもある女の子がいい。それでいて、肝心なときにはアドバイスしてほしい。男にリードされたいタイプは俺には向かない。
 ルックス的にはユキや夕里は好みに合っているが、こんなのとはとうていつきあえない。乾さんはユキでも夕里でも上手に扱うんだからさすがだな。ヒデだって夕里には困らせられるんだから、乾さんが戻ってきてくれないかな。
「シゲさんはいいですよ」
 横から口を出したのは、尚吾だった。
 もてそうにないシゲさんや強二や國友は仕方ないとしても、ヒデさん、木村さん、三沢さんにも彼女はいないのか? 本橋さんと乾さんは就職が決まるまではそれどころじゃなかったのだろうが、ふたりともに決まったのだから、今度は恋愛活動か。
 すると、決まった彼女がいるのは俺だけか。なんとだらしない奴ばかりだ。
 章はナンパ活動に精を出しているようで、幸生はただいま休学中だからなにをしているのかは知らなくて、考えに入れないでおこう。やはり彼女がいるのは尚吾だけのようだ。
 サミとはごくごく普通につきあっている。時間が合えばデートをし、金があればホテルにも行く。ふたりともに大学一年生なのだから、そのくらいの交際が適当だろう。一年生は気楽でいいなと、四年生を見ていると実感する。
 気楽な一年生としては女の子のことを考えている時間も多々あるが、尚吾にとってはサミが理想のタイプなのだから満足している。
 欲を言えば、もうすこし上品にしてほしい。街中で女の子に喧嘩を売らないでほしい。男にももちろん売らないでほしいし、子供のアイスキャンデーを取り上げないでほしい。てめえはよぉ、金あんのかよ? と言わないでほしい。
 贅沢はやめよう。長身でプロポーションもよくて頭もいい美人なのだから、俺にとってはサミが一番。夕里なんかよりずっといい。そう思いつつ、尚吾は言った。
「女同士のほうが話しやすいんだったら、サミを呼ぼうか」
 街中でサミが喧嘩を売った女の子が、夕里だった。
「いらないよ。ちぇ、寮に女の子が入れるんだったら、夕里も浪人して鷺の森の入試をもう一度受ければよかった」
「それで、誰かとつきあうのか? 寮の風紀が乱れるんじゃないのかな」
「ユキって子は隆也さんとつきあってるんじゃないの?」
「金子さんと夕里の関係みたいなもんだろ」
「あたしはもう一度、シンちゃんと……」
 強二も言った。
「本橋さんは正式に入社したら、地方の支店で修行だそうだよ。遠距離はつらいんじゃないのかな」
 実質は大学二年生、留年しているので学年は一年生である強二は、親に強制的に入寮させられてからのほうがさまざまな経験をした。可愛い女の子にも、男子寮にいるにも関わらず出会えた。夕里だってユキだって好みのタイプだ。
 でも、むこうが俺なんかは相手にしてくれないと決め込んでいる。夕里は口をとがらせて四人を見回し、強二をまっすぐに見て言った。
「強二くん、あたしとデートしよう。いない人なんかどうしようもないんだし、あとはどうも駄目っぽいから、強二くんがまだ……」
 まし、と言いかけたようなのだが、夕里ははっきりと言わずに強二の手を取った。
「あたしの話、聞いて。ふたりきりになろうよ」
「え、ええ? 俺でいいの?」
「強二くんだったら浮気はしないよね」
「浮気って……」
「気が早いな。つきあってもいないのに浮気? おまえら、つきあうの?」
 頓狂な声を上げた尚吾は無視して、夕里は強二の手を引いて出ていってしまった。
「夕里、本気か?」
「強二があいつとつきあえるか?」
「あいつだったら俺のほうが……」
「俺にはあいつは合わないだろうけど……えええ?」
 夕里が強二に告白すれば、強二はいやとは言わないだろう。なにかしらあって、夕里は自棄になっているのではなかろうか。自棄でつきあったりしたら、強二はじきに捨てられるのではないだろうか。
 なにしろ、夕里が好きになったのは金子将一、本橋真次郎、乾隆也、星丈人なのだから、強二ではレベルが低すぎる。強二には失礼な言い草であると承知していても、仲間の感慨は四人が同一。強二、大丈夫か?


 カフェのむこうのほうには國友がいて、女の子とお茶を飲んでいる。彼女は高校二年生で、國友のおさななじみ、東北から修学旅行に来ていて、自由時間に國友に会いにきたのだそうだ。
 先刻、章を見つけて近寄ってきて彼女を紹介してくれてから、國友と女の子は別の席に行ってしまった。章がひとりだったら腹立たしくなるところだが、口説くつもりでいる女の子を待っていたのだから、寛容に挨拶してやった。
「ね、章くん?」
「ん、リサ?」
 間もなく彼女がやってきて、見つめ合っていると気持ちいい。手を握ったり他愛もない会話をしたり、コーヒーを飲んだり、今夜ははじめてのベッドインという暗黙の了解のもとで、いちゃいちゃしているのも楽しかった。
「強二くんだったら、夕里をただひとりの彼女にしてくれるでしょ」
「そりゃあもちろん。だけど、夕里ちゃんは俺と?」
「そう言ってるじゃん。いやなの?!」
「いえ、いやじゃないよ、でも……」
 きつい調子の夕里の声と、おどおどと応じる強二の声が聞こえてきて、章は耳を疑った。
 寮の近辺には飲食店はあまりないので、デートするカフェといえばここくらいだ。デートしていてバッティングしないのは、尚吾以外の奴には彼女はいないからだと章は認識していた。
 幸生はゲイみたいなものだし、本橋さんと乾さんは就活真っ盛りだし、強二とクニとシゲさんは女には縁がないし、ヒデさんは荒っぽいし、彼女がいなくても無理ないね。気の毒に。尚吾の女はサミだしさ、ほんとにもてるのって俺だけだよな。
 マメにナンパをしたり、バイト先や大学の女の子に声をかけたりすれば、章は女の子には不自由しない。小柄でも顔はよくて、章くんってイケメンだね、と女の子に言われるのだから。
 決まった彼女は面倒だから持たない、というよりも、決まったというほどの関係になる前に別れてしまうのだからどうしようもない。それでも、デートする女の子もいない悲惨な奴らよりはずっといいと思っていた。
 もてない哀れな男の代表格みたいな強二が、夕里につきあってくれと言われているのか? 章は気をそらされて、リサの手を握ったままで視線をめぐらせた。
「あたしは星さんとつきあってたの。知ってたよね」
「う、うん、まあね」
「だけど、星さんったら浮気したんだよ。もてる男はやっぱり嫌いだ。もてない男となんかつきあいたくなかったけど、しばらくは強二くんに傷を癒してもらいたいの。いやだなんて言わないよね」
「うん、う、うう……嬉しいよ」
 事情は章には飲み込めたが、夕里ってのはとんでもなく勝手な女だ。強二はとんでもなく弱気な男だ。これではこのカップルの末は目に見えている。
「ま、いいか。リサ、出ようよ」
「章くん、リサちん、ほしいものがあるんだけどな」
「俺、金ないぜ」
「ローンでだって買えるんだよ。見にいこうよぉ」
「ほしいものってなに?」
「バッグ」
「ブランドものじゃないだろうな」
「そんなに高くないから」
 ブサイクな男やオヤジは、女の子のこの手口にだまされて、ものを買わされて逃げられると聞く。俺はその手は食わないよ。俺ってもてるんだもん、もてる男はゲイに走る必要もないし、二年生だから将来を思い煩うにも早いし、俺くらいが一番だな、章はリサと腕をからめながら、強二をはじめとする寮の仲間たちに同情していた。
 
 
4

 晩秋の道を海へとドライヴしながら、最初のうちはユキは駄々ばかりこねていた。隆也に適当にかわされてむっとして、いっそうじれたりよじれたりしていると、言われた。
「運転してるからなんにもできないけど、どこかで休憩でもしてお仕置きしてやろうか」
「休憩ってホテルに行くの?」
「……おまえを叱るのも疲れたよ。しばらく寝ろ」
「ホテルで寝るの?」
「ユキ」
 睨まれると背筋がびびんっとなる。ユキとしてもすこしは口が疲れたので、隆也にもたれかかると押しやられた。
「運転の邪魔だ。バックシートでポチと寝ろ」
 一旦車を止めて、隆也の言う通りにした。
(ユキちゃん、僕は聞いててひやひやしちゃうよ)
 半ばは眠っている中で、ユキはポチと会話をしていた。
 魔法使い犬ポチには、人の非現実的な望みを実現させる能力がある。夢物語のようなSFに出てくるテレパシーもポチには可能なのだった。
(あまりにもわがままがすぎない? 隆也さんはよくも怒らずにいてくれるもんだね)
(怒られてばっかだよ)
(怒ってるんじゃないよ。まあね、隆也さんだってまだ若い男のひとなんだから、ユキちゃんのわがままぶりにむかっとしたりはしてるみたい。でも、怒鳴りつけたりしないでしょ。できたひとだよね)
(ポチは隆也さんの気持ちが読めるの?)
(そこまではできないよ)
 淡々としたポチのいらえを、ユキは疑った。テレパシー能力があるということは、読心術も可能なのではないのか。ポチに隆也の心が読めるのならば、本心ではユキをどう思っているのか教えてほしい。
 だけど、教わってどうなる?
 隆也の知識だけにのっとって考えれば、ユキはじきに信州の大学に帰っていく国内留学生。隆也は来春には就職して、学生ではなくなって、地方で新社会人としての生活をはじめる。信州には原製薬の研修所があるだけで支店はないから、ユキと同じ土地では暮らせない。
 それでもいいから隆也がつきあってほしいと言ったら? ユキの知識にだけある真実がふたりの交際を阻む。
 ユキの実体は男の三沢幸生だ。ユキになってしまうのが可能だとしても躊躇はある。こんな経験は短い間だから楽しいのであって、完全に女性になってしまいたいとも思えない。女性のユキになると決意したあとで、隆也に捨てられたらどうする?
 完全に女性になれるのかどうかを、ポチに質問するのも怖い。なれるのだとしてもなれないのだとしても、近いうちには幸生に戻るべきだ。
(隆也さんはこうしてるってことを、楽しんでくれてないの? いやだけどユキにつきあってくれてるの?)
(さあ、どうなんだろうね。そこまでは僕にはわからないよ)
 否定されなかったので、楽しくないのにつきあってくれているのではないと信じておくことにした。
「ユキ、ついたぞ」
 目を覚ましたときには海が見えていた。
 ポチと話していたのは本当のことだったのか。ユキとしては曖昧な気分でポチを抱き上げる。隆也は車のトランクを開けてブランケットを取り出し、鼻歌まじりに歩いていった。

「浜辺に車止めて毛布にくるまって
 互いの胸の鼓動
 感じたね夜明けまで

 あのころ、風はきみから俺に
 あのころ、お気に入りのlike a lolling stone」

 そうしてもいい? ユキもそうしていい? ユキはポチを抱いて隆也のそばに駆け寄った。
「寒いよ」
「ユキだろ、海に来たいって言ったのは」
「その毛布に一緒に?」
「ああ。ここにおいで。信州って海がないんだもんな」
 実際には横須賀生まれだから、幸生ならば海は見飽きている。だが、ユキになり切るのもたやすくて、うなずいてから、隆也のかたわらにすわった。
 天気がよくないので鈍いろといっていい、暗い海だった。ユキと隆也さんの将来を暗示しているのかな。だって、ユキは隆也さんと結ばれるなんてあり得ない。男に戻ったらもとの幸生の心を取り戻して、後輩として先輩を慕うというだけの心に戻れるはずだ。
 長い時間こうして女の子として甘えていすぎると、戻れなくなってしまう。それも怖いから、甘えるのは今日までにしよう。そのためには、とユキは決心した。
「隆也さんは身体が大きいから、ふたりで毛布にくるまったらユキがはみ出しちゃうよ」
「もっと大きい毛布にすればよかったな」
「そうだよ。隆也さんが悪いんだもん。ユキがひとり占めしちゃおっと」
「それでもいいけどさ。じゃ、ポチにあっためてもらうよ」
 隆也はポチを膝に抱き、ポチが非難がましくユキを見る。ポチはテレパシーで、どうしてそんな意地悪を言うの? とユキを詰っていた。
「ポチなんか抱っこしたらやだ。ユキを抱っこして」
「そしたらおまえがここにすわって、俺の背中から毛布で包もうか」
「そうしたらユキがはみ出しちゃうもん」
「どうすればいいんだよ」
「隆也さんが考えてよ」
 ユキちゃん、駄目だよ、とポチが言っている。ユキはかまわず言った。
「毛布だけじゃ寒いもん。こうしようっと」
 ポチを隆也の膝から抱き上げ、ひとりで毛布にくるまって隆也の膝にすわる。ポチが言った。
(それでは隆也さんは重いばっかりで、背中が寒いよ)
「いいのっ」
「なにがいいって? まぁ、おまえを抱いてるとあったかいからいいけどさ」
「……おなかがすいてきた」
「売店があるようだな。なにか買いにいこうか」
「隆也さん、買ってきて」
「なにがいい?」
「……それよりも、ユキをこのまんまで抱っこしていって」
「それはおかしいだろ」
 穏やかな口調の隆也に苛立った顔をしてみせて、ユキは言った。
「ユキなんかが隆也さんの連れだったらおかしいって意味?」
「毛布でくるんだおまえを抱いて歩いてたりしたら、不審がられるって意味だよ。おまえはもう捻挫もしてないんだし、ここで待ってるか、またはついてくるかだな」
「じゃあ、隆也さんが買ってきて」
「なにを食いたい?」
「なんでもいいから」
「……まったく、困ったわがまま娘だ」
 外だからなのか、ふたりきりのときよりは隆也は辛抱強く見える。日曜日とはいえ寒くて、海辺には人はほとんどいない。売店が営業しているのが奇跡のようだった。
(ユキちゃん、どうしてそうわがままばかり言うの)
(いいのっ!! ほっといてっ!!)
 きつい口調でやり返すと、ポチのテレパシーが止まった。
「人出も人手も少ないから、売ってるものも少ないんだよ。ミルクティとホットサンド、これだったらいいだろ」
 数分後に戻ってきた隆也が、ユキに包みを差し出す。ユキは無言で払いのけ、はずみでミルクティのカップが地面に落ちた。
「ユキ、なにがそんなに気に入らないんだ」
「ユキはそんなの嫌いだもん。抹茶ラテが飲みたい」
「ラテなんて売ってなかったよ。そんなに機嫌が悪いんだったら別のところに行こうか。都会に帰ればおまえの好きな飲みものも食いものもあるだろ。シーフードグラタンだってあるよ」
「ユキ、ひとりで帰る」
「こんなところからどうやってひとりで帰るんだ」
 ほんのすこし、隆也の声が険しくなって、びくっとしたのを励まして言った。
「ヒッチハイクして帰るから、隆也さんは勝手に先に帰って。隆也さんなんて嫌いだもん」
 毛布を剥ぎ取られ、うつぶせに抱え上げられた。
「きゃーーっ!!」
「いい加減にしろ」
 叱声と同時に平手打ちが飛んできて、ユキは身を竦めた。
「痛ぁい」
「当たり前だ。言っただろ。わがまますぎたら尻をひっぱたくって」
「あんあーん、どこ行くの?」
「帰るんだよ」
「やだっ、帰らないもん」
 叫んでみてももがいてみても意にも介さず、隆也はユキを荷物のように小脇に抱えて運んでいって、車に乗せた。ポチが不安そうにくんくん鳴きながらついてきて、ユキのあとからバックシートに飛び乗ってきた。
(ユキちゃん、ユキちゃんったら……あのね……)
(いいんだ、こうされたかったの)
(ぶたれたかったの?)
(っていうよりもね……)
 泣きじゃくっていてもテレパシーでなら話せるようで、ユキはポチと精神で会話していた。
(感じるとかって変な意味ではないし、厚着してるからぶたれてもそんなに痛くなかったよ。でも、お尻をぶたれるってすごーくきつく叱られたってことでしょ。言われてはいたけど、ほんとにぶたれたのははじめてだもん。これでユキは隆也さんが怖くなって、甘えかかるのはやめるの。怖いだけじゃなくて、そんなところも含めて大好きだけど……)
(僕にはちょっとわかりにくいよ。僕、犬だもん)
(そうだよね、だけど、ありがとう。ユキは幸生に戻るから)
 こうして叩かれまでしてきびしく叱られたら、甘えすぎるのが怖くなって遠慮がちになったユキを演出できる。そうやって隆也から自然に距離を置いて、最終的にはユキはいなくなれる。
 トランクの開く音がする。隆也が毛布や荷物をトランクに放り込み、無言で車を出した。
 それからはユキはポチを抱いて、すすり泣いていた。隆也はなんにも言ってくれなくて、怒っているのかと思うと話しかけられない。無言のドライヴは気詰まりではあったが、ユキとしては、これでいいんだろうな、とも思っていた。
「甘えすぎると怖いひとになるんだよね」
 寮に帰る前にレンタカーを帰しにいき、徒歩になってからユキは隆也をおずおず見上げた。
「……ごめんなさいは? って言ってくれないの?」
「言えよ」
「ごめんなさい」
 言った途端に目がうるうるになり、一度は止まっていた涙があふれ出す。隆也はユキの肩を抱いて物陰に引っ張り込み、頬にキスしてくれた。
「あ……」
「おまえも来年は成人式じゃないのか? すこしは大人になれ。尻をひっぱたかれて泣いてるなんて、恥ずかしくて誰にも言えないだろ」
「はい」
「顔を洗って落ち着いたら、電車でデートしようか」
「もう、いいです。隆也さん、じゃなくて、乾さん、怖いですから」
「おや、薬が効きすぎたか。うん、おまえの好きにすればいいよ」
 お説教されながら寮まで帰る道では、ユキは徐々に幸生へとシフトチェンジしていた。でないと幸生に戻ってから隆也の顔をまともに見られない。言葉遣いも変え、先輩への態度に変えてお説教を拝聴しつつも思う。
 女の子として扱われたあれもこれも、素敵な思い出だった。ポチが見せてくれた夢なのだから、夢として記憶に残しておこう。
 いちばん嬉しかったのは、ユキがデートを断ったときに乾さんの表情をかすめたような気がした、残念だな、って色だよ。俺の錯覚? 錯覚だとしてもいい。この数日は本当に楽しかった。ポチ、ありがとう。
(人間ってある部分は、僕らよりもずーっと複雑だね。僕にはわからないけど、大人になったらわかるようになるのかな)
(大人の犬の複雑さと、人間の複雑さは別種だよ、きっと)
 そうかもしれないな、と分別顔でうなずくポチに視線をやって、隆也は言った。
「ポチって不思議な犬だな。ポチ、ユキを連れてきてくれてありがとう」
 その言葉の真意はユキにもわからなかったけれど、隆也もそう思ってくれていると知れてひたすらに嬉しかった。

END
 

 


 


 
 
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~ Comment ~

面白かったです

久しぶりでしたが、物語の中にすっと入れて・・・ポチもいい感じで、魔法が使えて、おもしろかったです。

また来ますーーっ^^

美月さんへ

私もポチを読み返すの、久しぶりでした。
これを書いていたころはポチにもはまってましたね。
またポチも書きたいなぁ。

ショートストーリィなんかもありますので、またぜひいらして下さいね。
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