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小説26(Every little thing,Every preciouse thing)

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フォレストシンガーズストーリィ・26

「Every little thing,Every preciouse thing」

1

 一月三日には休みが取れて、みんなで初詣に出かけたのだが、まともに神社の神様を拝めなかった。東京の初詣とはすさまじい人出があるものだ。しかし、伊勢神宮の比ではないだろう。
十六歳の正月に伊勢で出会った美少女は、もはや幻のひとのように記憶の中でかすんでいる。けれど、俺はあの幻想みたいな美少女と出会ったからこそ……ぽわんとしてきそうな気持ちを引き締めて、俺は神社に入っていった。
 今年二度目の休日に、改めてひとりで初詣に来た。松の内もすぎた神社には、人影が少なくなっている。賽銭箱にコインを入れて、手を合わせた。
「……フォレストシンガーズが成功できますように。いつかきっと売れますように。他にはお願いなんかありません。ないんですけどね……できればできれば、恋人が……いいや、そんなの先の話でいい。もてたいなんて言いません。それより……ヒデに……いいや、それも……それも……ヒデが楽しく暮らしてて、いつかヒデと会えたら、いつか会えたら……」
 そのころにはフォレストシンガーズもちょっとは売れてて、ヒデに言えたらいいなぁ。おまえもやめなかったらよかったのに、そしたらおまえも俺たちとこうして……などと言ってはいけないのだろうか。
 口に出さない想いまでがあやふやで、確固とした形にならない。フォレストシンガーズとして成功したい、という以外には、俺はなにがしたいのだろう。ヒデに会ったらなにをしたいのだろう。
 美江子さんも含めて六人で初詣に行った帰りには、本橋さんのアパートでふたりでいくつも思い出話をした。本橋さんと知り合ったのは俺が大学一年、彼が二年生のときだったから、思い出話の内容は大学時代に終始した。今でも仲間としてともにいる、本橋さん、乾さん、幸生、章。俺の大学時代にも彼らがいた。章は大学を一年で中退しているので、彼の姿は途中から消えてしまっているのだが、あとの三人は俺の記憶の中で活躍している。
 歴代のキャプテン、副キャプテンにもお世話になった。俺が知っている人といえば、最初は金子さん、皆実さん。続いて渡辺さん、溝部さん。次は本橋さん、乾さん。俺たちの代は実松、安斉だった。こうして並べてみると、ある意味、剛と優のコンビだったのではなかろうか。実松と安斉はお笑いコンビに近かったが、先輩たちはそうだった。
 田舎から出てきたばかりの一年生だった俺には、金子さんも皆実さんも都会的でかっこいい男に見えた。乾さんも言っていたのだから、俺の目はまちがっていなかったのだ。
「金子さんは優美艶麗。それはぱっと見であって、中身は充分に大物なんだよ。でも、金子さんはそういうところを容易には見せてくれない。皆実さんも見た目は洗練された都会の男だね。それでいて背筋のびしっと伸びた、今どきでは珍しくおのれの確立した男ってところかな」
 次なる渡辺さんと溝部さんはすっ飛ばすとして……飛ばしてはいけないか。飛ばさずに考えてみれば、かなり無茶苦茶だった溝部さんを渡辺さんがしっかりフォローして、キャブテンと副キャプテンの立場があべこべって部分もなきにしもあらずだったが、渡辺さんは立派だった。うん、このふたりはこのくらいでいい。
 続いて本橋さんと乾さん、言うまでもなく本橋さんが剛で、乾さんが優だ。同じ学年に徳永さんという傑物がいたので、多少ごたごたしていたようだが、本橋さんが主となり、乾さんが補佐となって合唱部を円滑に回していた。実松は常にあけっぴろげで、大阪弁丸出しで、こんなふうにぼやいていたのも聞いたことがある。
「いややー、もういややー、こんなしんどいのんは俺はいやや。誰か替わってくれやぁ」
「弱音を吐くなっちゅうとんねん」
「ヒデ、大阪弁うつってる」
「実松の大阪弁はすぐにうつるんや。なぁ、安斉?」
「そうそう、俺も岐阜だからさ、関西弁に近いイントネーションがあったりしちゃっちゃうわけよ。しちゃちゃっ……舌噛んだ。実松、おまえのせいやぞ」
「しちゃちゃやとか言うからじゃ。ボケ」
「お笑いじゃないんだから、真面目に議論せんかい、アホ。あ……」
 あのころ、ヒデと俺の頭の中は動き出したばかりのフォレストシンガーズで一杯だった。だからこそ実松に、というのがあったのだが、秘密事項のひとつとして胸にしまってある。
 それでももちろん合唱部の四年生として、実松や安斉に協力はしていた。実松、安斉、ヒデ、そして俺の四人で真面目に議題を論じるはずが、俺にまで大阪弁がうつって収拾がつかなくなりそうになっていると、幸生が横から口をはさんだ。
「うちの大学って東京にあるんですよね。大阪の学校みたいじゃん。俺も大阪弁で話さないといけません? 実松さん、ご教示願います」
「おまえの大阪弁はなっとらん、大阪弁で喋るんやったら、じゃんとか言うな」
「じゃんって言ったらいけないんじゃん?」
「じゃんって言っちゃうんじゃーん」
「じゃんはあかんじゃん?」
「こらー、おまえらはアホかっ!! 真面目にやれっ、真面目にっ!」
「ヒデ、おまえに言われとうないわいっ」
 まったくもうメッチャクッチャ、としか言いようのない会議になったのは、幸生もいたせいだったのだろう。幸生は茶々を入れるのもしょっちゅうだったが、俺たちに協力もしてくれて、翌年は彼がキャプテンとなった。
「あの時代はよく、アホとかボケとかって言葉が部室を飛びかってましたよね。本橋さんだったらバッカヤロー、だったのにさ」
 別の言葉でガラ悪かったよね、と幸生が言い、実松が悪いんじゃ、とヒデも言っていた。おまえだって……あれ? 俺もか、となって、三人で思い出し笑いをした。そのころを知っているのは今では幸生と俺のふたりきりになった。ヒデはもういないけれど、あのころは楽しかったよな、とヒデに話しかけるのは、ひとりでいるときの癖のようになっている。
 俺の記憶の中でもっとも大活躍しているのはヒデだ。いつもいつもいっしょにいたというわけでもないのだが、いつもいつもヒデがそばにいたような気がするのは、それほど大きな存在だったからだろうか。
 合唱部の同い年の仲間というだけで、こんなにも大きな存在になったのはなぜだろう。大学時代の幕開けにもヒデがいる。あのころのヒデは土佐弁が消えていなくて、俺もなまっていて、東京で暮らすんだから標準語を使って、東京の男になろうな、と言い合ったものだ。なのにヒデは興奮すると土佐弁になった。
 けっこう気性が激しくて、先輩にも失礼な言動を取ったり、怒ると誰にでも喧嘩を売りかねない奴だった。俺がいたら止められもするが、俺のいないところでは、ヒデはいったいなにをしていたのか。今さらながら冷や冷やする。
 だから、俺はいつだってヒデとつるんでいたわけではないのだ。俺のいないところでヒデが酔って先輩に無礼な口をきいたと、あとから聞いて意見して、やかましい、と言い返されたり、ヒデのいないところで俺が見聞きした事柄を尋ねられて、門外不出、口外無用、とはねつけては、言え、言え、とくすぐられそうになったり。
 いつまでたってもヒデも俺も、地方出身者のまんまだった。今でも俺はそうだ。東京の本橋さんや横須賀の幸生とは根本的に育ちがちがう。金沢の乾さんや稚内の章は、うまく脱皮したというのか、乾さんはもとから都会的だったと俺は思うけど、いずれにしてもふたりとも、地方出身なんて引きずってはいない。
 ヒデももう、土佐弁は消えたのか? もう一度聞きたいな。おまえのあの、馬鹿やないがかやーっ、って叫び声を。俺も今ではなまってはいないつもりだから、ヒデ、また土佐弁が出てる、と注意してやりたい。昔は何度もやったそんなやりとりが、二度とできないなんて……俺は考えたくもないのだから。
 こんなふうにばっかり考えてたら進歩もないよな。前進あるのみだと本橋さんも言ってたじゃないか。そう思って、俺は神社から出ていった。この神社は俺の母校に近い。昔、ヒデと初詣に来たことがあったなぁ、とまたぞろ思い出しつつ、足が大学に向いた。
「……フォレストシンガーズの本庄さんでいらっしゃいますか」
 冬休み期間だから人はいないのかと思っていたら、いなくもないのであるらしい。白衣姿の男が俺に声をかけてきた。
「はい、そうですが……どちらさまでした?」
「私は加藤大河と申します。現在は大学に残って研究を続けておりまして、あなた方のリーダーの本橋さんとは、お話しさせていただいたことはあるのですよ」
「院生でいらっしゃるんですか。本橋さんと同年ですか。そしたら先輩なんですね」
「本庄さんのひとつ年上に当たります」
「加藤先輩、では……そういう口のききようは……」
「いけませんか」
「いけなくはありません」
 先輩たちの中には稀には、言葉遣いが丁寧なひともいた。だが、先輩から「本庄さん」と呼ばれた覚えは皆無のはずだ。ただいまも、本橋さんや乾さんは俺を「シゲ」「おまえ」と呼ぶし、俺も幸生や章には先輩面をしている。当然すぎるほど当然だというのか、深く考えたこともなかったのだが、先輩にこう丁重に扱われると、背中がこそばゆくなってきそうだった。
 よその文系サークルとなると、入部したてのころは一応先輩を立てているものの、じきに言葉遣いも崩れていくと聞いていた。加藤さんはサークルには入っていたのだろうか、と尋ねてみると、返事はこうだった。
「フェンシング部にいました。合唱部とは大違いの少人数サークルでした」
「白衣を着てらっしゃるところを見ると、理系の学部なんですよね」
「医学部寄生虫学科です。今でも寄生虫学科の研究室に残っているのですよ。お時間がおありでしたら、研究室でお茶でもいかがですか」
「はい、恐縮です」
 フェンシング部、寄生虫学科、俺たちとはなんの接点もないはずだが、本橋さんと加藤さんは友達だったのだろうか。加藤さんは背丈も俺とほぼ同じで、体格は似ている。俺は理系ともなんの縁もないので、初に足を踏み入れる寄生虫学科の研究室に入って、周囲を見回した。大小の瓶の中でうにょうにょと、奇怪な生き物がとぐろを巻いている。
「気味が悪いですか」
「いえ、とんでもありません」
「私のライフワークなんですよ。あなた方が歌に生命を賭しておられるのと同じです」
「はい」
 お茶が出てきて、加藤さんは俺の前にすわった。
「言い忘れておりました。私は徳永渉くんと親しくしてもらっていたのです」
「ああ、徳永さんですか」
「渉も高校時代にはフェンシングをやっていたのだそうでして、私が先に入部していたフェンシング部に見学に来てくれて知り合ったのですよ。渉は入部してくれなかったのですけど、いっしょにメシを食って親しくなりました」
「はあ、いっしょにメシ……ですか」
「学食で渉とはじめてメシを食ったときに、本橋さんが近くを通りかかられまして、渉が本橋さんに話しかけたのです」
「徳永さんのほうからですか」
「はい」
 意外や意外。俺が知っている限りでは、本橋さんや乾さんが話しかけても、徳永さんは木で鼻をくくったような返答しかしなかった。議論を吹っかけているのは見たことがあるが、そうなると乾さんの口には負けて、下らん、と吐き捨ててどこかに行ってしまう。そんな徳永さんしか俺の記憶にはないのだが、加藤さんはにこやかに話してくれた。
「本橋さんは人の出身地を推測するのが大の得意だそうですね」
「はい。得意中の得意です。あ、もしかして……」
 鈍感だと定評のある俺だが、本橋さんと出身地あての話をしたのを思い出した。
「ロンドンで広島って加藤さんですか」
「本橋さんも覚えて下さってるんですね。はい、私は広島出身の両親を持っておりまして、高校三年生になるまではロンドンで暮らしておりました」
「ロンドンですか。桁違いの都会派ですね」
「都会派ではありませんよ。ロンドンは東京と比較すれば静かな穏やかな街です」
 これで話がつながりつつある。運動部出身の加藤さんが後輩たる俺に丁寧な口調で話しかけるのは、日本語がこんなふうに固まっているからなのだろう。なのに、メシを食う、だけが乱暴とも思えるのはなぜだろう。質問してみたら答えてくれた。
「渉が教えてくれたんですよ。男子学生はメシを食うと言うものだ、とね。耳を澄ましてみれば、男子はたしかにそう言っておりました。いっしょにメシを食ったら友達だ、とも渉は言ってましたよ」
「そうなんですか。俺も徳永さんとは合宿でいっしょにメシ食ったけどなぁ」
「それは別なのだそうですが、本庄さんは渉とは友達ですか」
「徳永さんは先輩です」
「先輩は友達ではないのですか」
「友達と呼ぶのは恐れ多いですから」
 ほおお、と腕組みをしている加藤さんに言ってみた。
「徳永さんつながりで、フォレストシンガーズをごぞんじなんですね」
「それもありますが、私もあなた方には注目していましたよ」
「ありがとうございます。徳永さんはデビューはまだ……」
「なかなかうまく行かないようですな」
 上品にお茶をすする加藤さんを見ていると、ふと思いついた。
「我々の所属事務所の社長は面倒見のいいおじさんなんですよ。どうでしょうね、徳永さんだってあれほどの実力をお持ちなんですから、社長に紹介するってのは……」
「溺れる者は藁にもすがりたいと申しますが、渉はまだ溺れてはいないでしょう。あなたが本人にそう言うのを止めはしませんが、どうでしょうねぇ」
 言ってみたらあの強いまなざしで睨まれて、本橋や乾と同じ事務所なんてまっぴらだ、よけいなお節介をするな、と怒られそうにも思える。俺は徳永さんとの直接の関わりはあまりなかったのだが、本橋さんや乾さんを徳永さんがライバル視していたのは、痛いほど知っているつもりだから。
「すみません。差し出口でしたね。徳永さんは俺なんかがよけいな真似をしなくても、きっと近いうちには……」
「私もそう信じていますよ」
 おまえらだって売れてもいないのに、てめえの頭の蝿を追うのが先決だろうが、と徳永さんの声が聞こえてくる気がする。ごもっともです、と頭をかいていると、加藤さんが言った。
「お尋ねしてもよろしいですか」
「はい、なんでしょうか」
「先だって、渉とあなた方の話をしたんですよ」
 そっちのほうこそ俺がお尋ねしたい。徳永さんはなにを言ったのだろう。本橋さんや乾さんの悪口? が、加藤さんはまたしても意外な質問を口にした。
「私も以前から聞いてはいましたが、フォレストシンガーズには当初、木村章さんではないメンバーがいらっしゃいましたね。小笠原英彦さん。彼はどうなさったのですか」
「脱退しました。結婚するからって……歌はやめて彼女との生活を選ぶと言って……俺はそのときにはなんにも言えませんでした。ヒデ……小笠原を俺はずっとそう呼んでましたから、ヒデとしか呼べないんですよ。そのヒデの気持ちもよーくわかる。だけど、結婚と歌は両立できないのかって。言いたくて言えなくて……そうしているうちにヒデは消えてしまって……それっきり、一度も会っても……」
「すみません、本庄さん。わかりました。いいですよ、もうよろしいのですよ」
「いえ、こちらこそすみません。徳永さんはヒデの話をなさったんですか」
「ええ。なんと言っていたかな。正確ではないかもしれませんが、フォレストシンガーズの中では俺はあいつがいちばん好きだったな、でしたか」
「……そうですか」
 おそらくは俺の知らないところで、ヒデと徳永さんにはなにかしらあったのだろう。俺の記憶の中ではクールでニヒルな一匹狼である徳永さんが、あのヒデとどんなふうに関わって、どんなふうにそう思うようになったのか。いつかヒデに訊いてみたい。ヒデが昔のままのヒデならば、すっとぼけた顔をして、さあ? 忘れた、と言うかもしれないが。
「渉は人に誤解される性格をしていますね。本人はそれでいいと思っているんだから始末に負えない。敢えて他人の誤解を招くような言動を取っては、陰で自嘲の笑みだか嘲笑だかを浮かべてるんです。あれほど困った男もめったといませんよ」
「楽しそうにおっしゃってますね」
「内緒ですが」
 無邪気な笑みが加藤さんの顔には浮かんでいた。
「私は単純馬鹿ですから、渉のような男とつきあうと勉強になるんですよ」
「それはつまり……」
「だから、内緒です」
「わかりました。内緒にしておきます」
 それはつまり、徳永さんと加藤さんの関係は、本橋さんと乾さんの関係に近いという意味か。ヒデと俺にも近いのか。ヒデは徳永さんや乾さんほどに屈折はしていなかったが、フォレストシンガーズを脱退する寸前には、彼のまとう翳が濃くなっていた。鈍感な俺にはそのときには、なんとなく危ういと感じていたにすぎなかったのだが、今となればわかる。ヒデは深い深い悩みにとらわれていたのだろう。
 ひねくれ者のねじくれまがってるのと、乾さんを評する本橋さんの表情をかすめるなにかと同様のなにかが、加藤さんの顔にも見える。俺もこんな顔でヒデを語っているのだろうか。幸生と章もきっと……同い年の友達っていいもんだな、と思うと、ついまた想いがヒデに漂っていきたがる。
「単純馬鹿は俺です。加藤さんよりずっと上の単純馬鹿です」
「いえいえ、私のほうが上ですよ」
「俺のほうが上ですって」
 単純がつかなくても馬鹿じゃないのか? つまらん競争していばるなって、とヒデが言っているような気もする。加藤さんの耳には、徳永さんの声で似た台詞が聞こえているのか。ふたりして苦笑した。
「でも、加藤さんは徳永さんとはよくお会いになるんでしょう?」
「知り合いがいなくなってしまう大学に、おまえはいつまでもいるんだろ、だそうですよ」
「それもまた意外な台詞ですね。徳永さんらしくないっていうのか……俺も徳永さんに操られて、彼を誤解してるんでしょうか」
「さて、渉の実像とはいかに。私にも謎ですね」
「加藤さんに謎なんでしたら……」
 そんなものがわかる人物はいないのかもしれない。
 あいつだけはわからない、と乾さんも言っていた。あんな奴はわからなくていい、と本橋さんは言った。けれど案外、うちの先輩たちも徳永さんを……その続きは俺にもわからない。わかるのはただひとつ、それを頭に上せる前に、加藤さんが言った。
「小笠原さんもあなたたちを……」
「はい、そう信じて励みます」
「がんばって下さいね、とは月並みですか。なにせ単純馬鹿ですから」
「加藤さんもがんばって下さいね。俺も単純馬鹿ですから」
 まーた、いばっちゅう、馬鹿がやないがか、とヒデの土佐弁がくっきり聞こえて、俺は言い返した。どこだか知らないところで憎まれ口きいてないで、おまえも出てこいよ。加藤さんが興味深い話をしてくれるのを、おまえも聞けよ。
 答えがあるはずもなかったけれど、ただひとつはわかっている。わかっているのではなく信じてる。昔のようにみんなで、章も入れて人数がふえたみんなで、馬鹿話をして笑える日が近いうちに来るさ。だから歌おうか。おまえもどこかで歌ってくれよ、とヒデに話しかけてから、俺は言った。
「フォレストシンガーズが結成されて、ヒデとふたりで決意を込めて歌った歌があるんです。聴いていただけますか」
「嬉しいですね。フォレストシンガーズの本庄さんの独唱が聴けるとは、望外の喜びですよ」
「そうまで言っていただくと恥ずかしいですが……では、「夢伝説」を」
 立ち上がって歌った。

「遠い昔のことさ
 夢で見たんだ……」

 遠い昔ではないけれど、あれから時が流れて、おまえと俺は離れ離れになった。だけど、絶対にあのときの決意は忘れない。進む道がちがってしまっても、おまえも忘れずにいるはずだ。そしたらきっと、強く生きていける。俺たちもちっとも売れてないけど、みんなして強い気持ちで歌ってる。おまえもそうだよな。
 それを信じて、お互いの道を進もう。そしていつかはきっと、昔のようにみんなで笑おう。これってやっぱり単純馬鹿の感慨かな、と照れくさくなったけれど、あの日にヒデが歌った高いパートもこなそうと、俺は精一杯声を高らかに張り上げていた。

2

 昨年の秋のはじめにファーストシングルCD「あなたがここにいるだけで」が発売され、それから半年たってセカンドシングルの「Sweet fregrance」が発売された。一枚目は乾さんの作詞、本橋さんの作曲で、二枚目は本橋さんの作詞、乾さんの作曲だ。作詞も作曲もこころみてはみたものの、からっきしの駄作しかできなかった俺は、すげえなあ、と乾さんや本橋さんの才能に見とれているしかないのである。
 駄作しかできないのもある上に、作詞作曲というとよくない記憶がよみがえる。よって俺は、歌作りは他の四人にまかせようと決めた。幸生や章は時としてとんでもない詞や曲を書き、なんだ、これは、没!! と本橋さんや乾さんに言われているのだが、俺よりは百倍ましだと俺は思う。
 彼らの頭脳はどうなっているのか、特に幸生と章だ。時としてとんでもないアホな詞や曲を書くかと思えば、時として素晴らしいものも書く。歌は頭じゃなくて感性で書くんだ、と幸生は言った。すると、俺には感性はないのだろうか。あったとしてもガラクタに等しいのだろうか。
「シゲさん、この中でどの子が好み?」
 社長に呼ばれて全員で事務所を訪れ、社長を待つ間の手持ち無沙汰をテレビでまぎらわせていたら、幸生が言った。画面に目をやると、さまざまなスポーツの女子選手たちが、腕相撲大会をやっていた。
「さすがに腕相撲の猛者だけあって、筋肉隆々の女性ぞろいだよね。リーダー、彼女たちに勝てます?」
 勝つさ、と本橋さんは豪語したが、多少自信なさげだった。俺はやってみたくない、と乾さんは言い、俺も……と章も言い、幸生は俺に視線を向けた。
「シゲさんだったら勝てそう? 腕相撲はどっちでもいいけど、好みは?」
「こんなにごっつくて強そうな女はいやだ。どれもこれもストライクゾーンじゃないよ」
「贅沢言ってる場合じゃないでしょ。シゲさんはもてないもてないって嘆くくせに、好みがどうたら言える立場じゃありませんよ。彼女たちのうちの誰かが、本庄さん、私とつきあって、って迫ってきたらどうするの?」
「……仮定の話をするな」
「そういえば俺は、本庄さんの彼女は見たことも聞いたこともないな。今はいるんですか? 昔はいた?」
 章までが言い、幸生はなおも言った。
「今はいないよね。たぶんそうだ。俺にはわかる」
「なんでおまえにわかるんだ」
「章にはわからなくても俺にはわかるんだよ。横槍入れんな」
「横槍はおまえの十八番だろうが。おまえにだけは言われたくねえんだよ」
「俺もおまえにだけは言われたくねえよ」
 この会話も幸生と章の十八番である。彼らは始終、おまえにだけは言われたくない、と言い合っている。本橋さんと乾さんにもこの会話は間々あるのだが、俺は誰かに言われた覚えは……シゲ、おまえにだけは言われたくないんだよ、と? ヒデにだったらあった。
 なぜだか乾さんと本橋さんは黙っていて、幸生と章はそこから丁々発止のやりとりに移行していて、俺は、今はもういないヒデに思いを馳せていた。十八の春にはじめて会った小笠原英彦、大学の合唱部の部室で新入生同士として初顔合わせをし、なんとはなしにふたりで話していた。
「小笠原くんはどこの出身?」
「わしは土佐ぜよ」
「へええ、そうなのか。都会的だから地方出身者には見えなかったよ」
「俺のどこが都会的がかい。本庄くんはどこ?」
「三重。いかにも田舎者だろ」
「……そうかもな」
 むっとはしたのだが、田舎者なのは誰が見てもわかるだろうとの自覚はあった。東京で暮らすんだから標準語で話そうと無理をして、けれど、ふたりともになまりが濃く残る言葉遣いで、部室の外に出ても話していた。なんの流れでそうなったのかは覚えていないのだが、俺は言った。
「俺、小学生のころには野球をやってたんだ。今でも野球は好きだよ」
「プロ野球は? まさかジャイアンツファンとちがうろうな」
「そういうきみは?」
「俺はタイガース一筋」
「お、俺も、俺もや!」
 おー、同志!! と手を握り合い、あれからすっかり親しくなった。くん付けもきみも消え失せ、ヒデ、シゲ、おまえと呼び合うようになって、東京ではじめてできた俺の親友だと、いつしか思うようになっていた。口には出さなくても親友だと俺は思っていたけれど、彼にはそうではなかったのだと、苦い味を噛み締めるのはのちの話だ。
 俺は土佐の田舎者やきに、と言うわりには、ヒデは風采がよかった。顔立ちはさほどでもないものの、俺より背が高くて俺よりすんなりしていて、人当たりもよくて人づきあいもいい。俺とは正反対の男に見えた。気分屋で感情的なところもあって、今から思えば高い声も章といささか似ていた。喧嘩っ早いところは本橋さんにも似ていた。
「シゲ、暇だし、女の子をひっかけに行かないか」
 親しくなって標準語にもなじんできたころ、ヒデが言った。
「いないんだろ、彼女は」
「いないけど……ひっかけるなんていやだ」
「ひっかけるってのは言葉の綾だよ。女の子に声をかけてお茶でも飲んで、仲良くなれたらそのあとはなりゆきまかせ。やったことないのか、おまえは」
「ないよ」
「つまんない青春を送ってきたんだな」
「女の子ってのは……なんていうのかな。好きになって……恋をして? そういう女の子と……いやだよ、俺は。ヒデも遊び半分でなんか女の子とつきあうのはやめろ」
「純情なんだな。泉水ちゃんとはそんなんじゃないのか?」
 泉水、瀬戸内泉水。この春には大阪に転勤させてもらうと言っていたから、今ごろは大阪にいるのかもしれない。俺たちのデビューが決まったころに会って、乾さんと三人で乾さんの部屋で飲んで、近頃は連絡も取り合っていない俺の幼馴染だ。同郷の友達で、大学も同じだった。
「そんなんじゃないよ。泉水はただの友達だって、何度も言ったろ」
「そんならいいだろ。つきあえよ」
「いやだ。おまえも女の子をひっかけるなんてやめろ」
「おまえに言われたくないんだよ」
 小憎たらしい顔をして、おまえは顔に似合わず純真無垢の天然記念物なんだな、と言いやがった。俺は平和主義者のつもりなのだが、あのときばかりは頭に来てぶん殴ってやろうかとこぶしを固めていたら、ヒデは飛びのいた。
「……おまえに殴られたら顔の骨が折れるよ。じゃあな、お先に」
「……ヒデ、やめとけよ」
「ほっとけ」
 そのあと、ヒデがなにをしたのかは知らない。今ではヒデがどこでどうしているのかも知らない。
 フォレストシンガーズがデビューする前に、ヒデは結婚すると言った。俺もヒデの彼女とは会っていたけれど、大学出たてで結婚するとまでは考えていなかった。就職もしていない俺たち、プロのシンガーになると誓い合ってはいたけれど、プロになれるとの保証もない。だからこそヒデの彼女は、歌は趣味にとどめてきちんと働いてほしい、と言ったのだ。
 彼女の言い分もわかるけど、俺にはひとことの相談もなく、勝手に決めて勝手にフォレストシンガーズから去っていった、俺の親友……苦味ばかりを残して、ヒデはいなくなってしまった。俺はフォレストシンガーズをやめます、と彼が言ったあの夜以来、ヒデには一度も会っていない。
「シゲさん、なに考えてんの?」
 我に返ると、幸生の顔が接近していた。
「こっちだったらどう?」
 テレビの中では腕相撲大会は終わっていて、アイドルの女の子たちが水着姿ではしゃいでいるシーンになっていた。
「こんなきゃっきゃっとした顔だけ女はいやだ」
「顔だけじゃないじゃん。ボディも特上品だよ。俺だったらどの子とでもいいから……って、俺の話はしてないの。シゲさんの趣味。どの子か選んで」
「みーんな没!」
「なんたる贅沢。なんたる傲慢。シゲさんは好みがうるさすぎるんですよ。そんなこと言ってると、一生彼女ができませんよ。適当なところで手を打たないと、ふられてばっかとか、先輩に……あわっ」
「幸生、先輩がどうしたって?」
 聞きとがめた章が問いかけ、幸生は必死で口を押さえている。と、本橋さんのげんこつが幸生の頭に飛んだ。
「いでぇ……リーダー、ごめんなさい。失言」
「あやまらなくちゃいけないようなことを口に出すな。この馬鹿たれ」
「はい、反省してます。シゲさん、許して」
 嘘泣きに決まっているのだが、幸生はしくしくやりはじめ、乾さんが言った。
「軽率な言葉を口から出しては後悔する。人生はそういうことの繰り返しではあるんだが、おまえと俺の場合はそれが顕著だからな。幸生、お互い気をつけよう」
「そうだ、おまえも重々注意しろ」
「しますけどね、ならばリーダー?」
「なんだよ」
 ならばリーダー? と本橋さんを見据えたのは、乾さんだ。
「あんたもだよ。あんたも注意しなさいね」
「あんたってなぁ……山田じゃないんだからあんたはやめろ」
「そんならおまえ。おまえも反省しろよ。自分自身の胸に手を当てて、なにを反省したらいいのかよーく考えろ」
「はっきり言え」
「言わなくちゃわからない? 後輩たちの前でリーダーの威厳を損ないたくないんだけどね」
「なにを言ってやがるんだ。言え」
「まあね、きみの場合は自ら喧嘩を売るんじゃなくて、売られた喧嘩は買うっていうんだから、最低だとも思わないけど……学生じゃないんだからね、きみはもはや、一人前の社会人なんだからね。わかるでしょ、シンちゃん、本橋くん」
「……それか」
 なにがあったのかは俺は知らないが、乾さんの台詞で本橋さんにはわかる、なにかがあったのだろう。面白そうに本橋さんと乾さんを見ていた幸生が、俺の耳元で言った。
「こうやって別方向に話を持ってって、俺がやばいことをこれ以上言わないようにって、乾さんのさすがの配慮ですね」
「で、本橋さんを悪者にすんのか?」
「リーダーのあれは、みんな知ってるじゃん」
「なるほど」
 つきあいが長くなってくると、見えてくる部分もある。いまだ首をかしげるしかない部分もある。俺の頭ではついていけない、乾さんと幸生の思考のめぐりも、ほんの一部は察せられる気もするのだが、大部分は謎のままだ。今のやりとりはわかりやすいほうだった。
 おまえにも理解不能な部分はあったけど、乾さんや幸生ほどじゃないよな。章ほどつきあいにくくもなかったし、と俺は、心でヒデに呼びかけた。ヒデ、どうしてるんだ? 妻子ができて幸せにやってんのか? 俺も毎日楽しいけど、おまえがいたらきっともっと…… 
 だって、俺にはいないんだよ。おまえにだけは言われたくないんだよ、と言って、俺もおまえにだけは言われたくないよ、とタメ口で会話をかわせる相手が。そんなのいなくったっていいだろ、おまえは念願だったプロのシンガーになったんだろ、って、ヒデは言うか? その通りなんだけど……先輩たちも後輩たちも、俺には大切な仲間だけど、同い年のおまえとはすこしちがう。贅沢なのはわかっちゃいるけど……
 想いの語尾がとぎれて薄れる。ガラにもなく感傷的になっている俺を、先輩たちも後輩たちも、気がかりそうに見ているのが感じられた。
「シゲ、どうした?」
「いいえ、乾さん、どうもしません」
「そうかぁ、そんならいいけど……ああ、お出ましだよ。説教かな。リーダー、社長の矢面に立ってすべてを受け止めてくれたまえ。まかせるから」
「なにをぬかしてやがるか。あのおっさんとの対決はおまえのほうが……」
「聞こえるぞ。おっさんってのは誰だ? と来るぞぉ」
 発売したCDの一枚目も二枚目もほとんど売れていないのだから、説教なのはまちがいないだろう。事務所に入ってきた社長に、幸生がとびきりの笑顔を見せた。
「こんばんはー。いいお天気ですね」
「天気なんかどうでもいい。本橋、乾、来なさい」
 奥の部屋に入っていったのは、社長と年長者ふたりだった。幸生と章と俺は顔を見合わせて、無責任にも安堵の吐息をついたのだった。


 毎度毎度の説教だよ、と、しばしののちに出てきた乾さんが小声で言った。社長は幸生と章と俺に一瞥をくれたのみで帰っていき、本橋さんは太い息を吐き出した。
「二枚のシングルを出しただけで、売れないって深刻になるのは早すぎやしないのか、乾? 俺はまちがってるか」
「まあまあ、暗くなるなよ。社長もまだ俺たちを見捨てる気はないようだし、気長にやるさ」
「うん。おし、ぱーっと飲みにいこう。ついてこい」
 前を歩く本橋さんと乾さんは、ぼそぼそ話し合っている。こんなときにはいつだって、本橋さんと乾さんが矢面に立ってくれるのだ。えらそうにしやがって、と章はよく乾さんを罵るけど、その台詞が本音ではないにしろ、先輩たちがいなかったら、俺たちだってここにはいられやしないのに。
「シゲさんまで暗くなっちゃって……元気出してね。ユキちゃんのお願い」
「おまえのノーテンキな声を聞いてると……」
「元気出るでしょ?」
「やけっぱちの元気溌剌になるよ」
「おー、その調子」
 自然に力ない足取りになっていた俺のかたわらに、幸生がスマイル全開で並んだ。章はうしろから、小石を蹴飛ばし蹴飛ばし歩いてくる。社長があらわれてからは、章も元気がなくなってしまっていた。
「努力でどうにかなる業界じゃないでしょ。社長の口癖なんだけどさ、きみたちは努力が足りない、根性が足りない」
 太くて低いオヤジ声そのものの、社長の口調を真似しているらしい。が、幸生の声ではまったく似ても似つかない。心地よいはずの春風が頬をなぶるのが、今夜は寒々しく感じられた。
「売れなくったってやるだけさ。悲しくったって、苦しくったって、ステージの上では平気なの。だけど、涙が出ちゃう。だって、ユキちゃん、女の子なんだもん」
「……幸生……俺はもう歩けない」
「どうしたの、シゲさん? 大変だっ!! リーダー、乾さん、シゲさんがシゲさんがぁ……」
「アホか。おまえがあまりに馬鹿馬鹿しい言動を取るからだよ」
「なんだ、そっか。心配して損しちゃった」
 あーあ、俺はおまえがうらやましいよ、と章がうしろでぼそっと言ったのに、俺も心の底から賛成だった。
 浮かび上がりと落ち込みの落差の激しい章と、俺は同類かもしれない。本橋さんは強いて明るく、強気にふるまっている。乾さんは常々泰然自若タイプで、表面には心の波立ちをあらわさない。幸生の明るさは持ち前の才能なのか、乾さんともスケールがちがうので例外中の例外だとしても、俺も章と同様、うだうだくよくよしてしまうタチだ。
 五人で酒を飲んでいてもちっとも明るくなれずに、気分がどよよんとしていた。俺たちはこのままで……このままで続けていけるのか。デビューする前には、ひたむきにプロになりたいと願っていた。その願いがかなった今は、売れない悲哀をかこっている。深刻になるには早すぎる、気長にやるさ、との先輩たちの台詞にも同感だけど、気分がダウンするのはどうしようもない。
 章は無言になってしまい、本橋さんも黙りがちになり、乾さんまでもが言葉少なになり、そうなると俺に盛り上げる技があるわけもなく、幸生ひとりが空回りして、果てしなく鬱々してきた。
「こうもいっそ見事に売れないと……」
 本橋さんがなにか言おうとしたとき、幸生がいきなり割って入った。
「ええい、もう、うっとうしい」
 全員そろってぎくっとした。幸生の声だとは思えないほどに、その声は低かったのだ。
「なんなんですか。リーダーが率先して落ち込んでてどうすんの。乾さんが無口になっててどうすんの。本橋さん、乾さん、あなた方はメジャーデビューしたときに、そんなに簡単に売れると思ってましたか? プロの道なんてちょろいもんだと考えていたんですか。本橋さんは?」
「いや、そんなことは……」
「乾さんは?」
「甘く見てたつもりはない」
「でしょ? だったらたったの半年で、弱音を吐く必要なんかないじゃありませんか。社長がなにを言ったのか、後輩たちは聞いてないから知りませんよ。だいたい予想はつくけど、おまえたちはクビだ、って言われたんじゃないでしょ? そんなら開き直って、俺たちはこれからなんだから、これから売れるんだから今に見てろって、そのつもりでやるしかないじゃん。なんで暗くなるの? このまま続けてたって意味ないじゃないか、なんて考えてるんですか、本橋さんは?」
「そんなはずねえだろ」
「乾さんは?」
「そんなはずはない」
「だったら……」
 すこしばかりたじろいでいるような本橋さんと、ぎくっとしたのは一瞬で、その一瞬のちにはかすかな笑みを浮かべていた乾さんをかわるがわる見つめて、幸生は言った。
「やりましょうよね」
「当然だろ」
「ああ、乾の言う通りだ。当然だ。幸生、てめえはなぁ……」
「きゃああ、勘弁!!」
 とどのつまりはこうなるのか。幸生は黄色い悲鳴を上げて頭を抱え、章と俺にも尋ねた。
「シゲさんも元気だよね。章もだよね。これしきで元気をなくしてたら、この先つまずくたびに、こうやってお通夜みたいになっちゃいますよ。俺はそんなの大嫌いだ。こういう雰囲気は殴られるよりも嫌いだよ。さあさあ、ぱーっとやりましょ。歌いましょ。なにを歌います? シゲさん、リクエストは?」
 元気だよね、と尋ねたくせに章にも俺にも返事もさせず、リクエストは? と言ったくせに、幸生はひとりで喋り続けた。
「スターダストレヴューの歌で、「Average yellow band」。知ってます? バンドだからシンガーズとはちがうんだけど、歌に生きる男たちがテーマですよ。彼らは石の上にも二十年。かたや俺たちは半年。なにをほざいてんだよ、青二才が、っておじさんたちにせせら笑われますよ。笑われないように俺たちもがんばりましょう」
 勝手に決めて、幸生は歌いはじめた。

「幕が開いた瞬間に
 沸き上がった大歓声」

 なじみの店の個室を借りているので相客の迷惑にはならないだろうけど、かたや大歓声、かたや迷惑……と考えるとは、二十年のキャリア差は歴然としているのであるなぁ、と俺が思っているうちに、幸生の歌が続いていった。

「拍手もほしいけど笑いも必要
 石の上にも二十年
 継続なんて力じゃない
 送り出した名曲は
 迷子になってお疲れさん」

 拍手もほしいけど笑いも必要、だなんて、幸生以外にも考えるミュージシャンがいるんだな、と俺は妙に感心していたのだが、幸生はひとりで熱唱し、ありがとうございましたーっ!! と頭を下げた。
「ええと、ちょっと失礼」
 幸生が席をはずしたひとときに、乾さんが言った。
「うちのリーダーは三沢さんのようですな、ねえ、本橋さん?」
「そのようだな。参ったよ」
「……あいつのおかげで……な、シンちゃん」
「ああ、そうかもな」
 俺には予測もつかないとしか思えない幸生の言動が、乾さんには読めていたのだろうか。けたたましくも騒々しい幸生のおかげで……その先、乾さんがどう続けたかったのかは、俺にもいくぶんかはわかる気がした。
「俺もあいつほどの馬鹿になりたい」
「……章、おまえの馬鹿は幸生とは別種だけど、心配しなくてもいいよ。おまえも幸生と張ってるから」
「乾さんはまたしらっとそういうことを……だから俺は、だから俺は……くっそー!!」
「だから俺は? なんだって?」
「だから俺は、だから俺はね、なにが言いたかったんだろ、俺?」
 だから俺、乾さんが大好きなんだよぉ、と、章の声が章の背後で聞こえる。ええっ?! となって振り返ったら、幸生だった。
「章のもの真似だったらそっくりでしょ? どうだった、章?」
「自分の声は自分ではわかんないけど、似てはいるんだろうな。しかし、俺は乾さんなんか大好きじゃねえよ」
「そおお? うん、しかし、乾さんの眼前でそう言えるようになったのは進歩かな、ね、乾さん?」
「そうなのか。で、おまえは?」
「今の台詞は声は章、中身は僕ちゃんです。乾さん、だーい好き、ごろにゃんにゃん」
「ユキちゃんじゃなくてか」
「ユキちゃんがいいんだったら、ユキちゃんになりますが……」
 ならなくていい、と本橋さんと章と俺は声をそろえ、あ、やっぱし……と幸生はがっくりしてみせた。冗談にまぎらわせた本音なのか、本音のふりした冗談なのか、俺にはまだまだ、幸生の心の底は読めそうにもなかった。


3

 泉水と久々で会って、乾さんの部屋を訪ねたあの日、帰りがけに泉水は言っていた。手紙を書けと。早いものであれから一年近くが経過している。
 手紙を書く習慣などはなくて、なにを書けばいいのかもわからなくてほったらかしにしていたのだが、はたと気がついた。大阪でライヴをやるとなったら聴きにいくからね、と泉水は言っていたのに、連絡ができないではないか。東京で泉水が暮らしていたアパートは、電話をかけてもつながらない。実家にかけるのは面映い。となると、大阪でライヴをやれるとなったのに、泉水に教えてやれない。
 ライヴとはいっても単独ではなく、数組のグループや歌手にまじってだ。デビューしてから一年足らずのフォレストシンガーズは当然、その他大勢組である。よほど注意深くチェックしたとしても……コンサートガイド記事に埋もれてしまう。困ってしまったのだが、俺の筆不精のせいだから致し方ない。
「しかし、おまえだって手紙なんかくれないじゃないか」
 ぶつぶつひとりごとを言ったら、新幹線のとなりの席にすわっている幸生が顔を上げた。
「シゲさん、おまえって誰?」
「ひとりごとだよ」
「ひとりごとで名を呼ぶおまえ……その名は?」
「うるさいんだ」
「女のひと? よーし、リーダーに言いつけてこよっと。シゲさんったらねぇ……」
 こいつを行かせてはならない。あることないこと言うに決まっているし、それに、俺は本橋さんから厳命されている。
 去年、大阪に向かう新幹線の中で、幸生は本橋さんにアホとしか言いようのないいたずらをしかけた。あれ以来、本橋さんは幸生を警戒している。いつでもどこでも幸生はなにをしでかすかわからない奴なのだから、おまえが幸生を押さえてろ、シゲ、と今日も言われたのだ。
 口も軽ければ腰も軽い幸生は、使い走りでもなんでも気軽にやるので便利ではある。その反面、時と場合をわきまえず……でもないのだろうけど、なにをやるか予測のつかない奴でもある。そのいたずらをやったときには、章が幸生の隣席にいた。章は寝てしまうとなんの役にも立たないので、今回は俺が幸生の見張りを仰せつかったのだ。
「……なにすんの、なにすんの。きゃああ、シゲさんに襲われ……」
「馬鹿たれ。近くの席のひとが本気にするだろ。黙れ」
 こんなちっこいのは簡単に確保できる。俺がしっかととらえたら幸生は身動き取れなくなるのだが、口も押さえないとなにを言い出すかわからない。おとなしくさせるために、俺は言った。
「話してやるから静かにしてろ」
「はあい、なになに? おとなしくしてるから早く話して下さいよ。ひとりごとで呼んだおまえの正体? 手紙をくれない? 文通してる女のひと? シゲさんったらレトロな交際してるんだね。今どき文通? そのひとは大阪に住んでるの? 顔も知らない謎の美女? だまされてない? 実は男だったりして。ねえねえ、シゲさん、早く話してよ。寝ちゃった? 章じゃあるまいし、シゲさんまで寝ちゃったらつまんないじゃん。リーダーのところに行ってこようかな」
「幸生、黙れ」
「早く話してくれないからでしょ」
「おまえが喋りっぱなしだからだ」
 通路を挟んだむこうの席で、見知らぬ相客が笑っている。幸生が声を低めた。
「漫才師コンビだと思われてるのかな」
「それはおまえだけだ。おまえが芸人で、俺はそのマネージャーってとこ。それだったらあり得る」
「なーるぼとのほどほどぼとぼと……あれえ? 俺、言えない」
「なにを?」
「なるほど、うん、言えた」
「……勝手にひとりで好きなだけ喋ってろ」
「シゲさんの意地悪。わくわくしてるのに。話して下さいよ」
 わくわくするような話ではないのだが、やっと幸生が口を閉じたので、俺は話しはじめた。
「おまえは知らなかったかな。瀬戸内泉水っていって……」
「泉水、男女不明の名前だね。男かもしれないよ」
「おまえが口を閉じていられる時間は何秒間だ」
「あとではかってみます。だってね、文通相手なんでしょ? いずみだなんて名前だったらどっちかわかんないじゃん。インターネットの世界にはネカマってのがいるらしいけど、その泉水さんはテカマ」
「なんだ、それは」
「手紙おかま」
 声はひそめているのだが、幸生はまたまたアホそのものの台詞を口にし、俺はまたまた脱力した。
「シゲさん、寝ないで」
「寝てない。黙って聞け」
「はーい」
 返事は素直なのだが、幸生の頭の中ではどんな妄想が繰り広げられているのだろうか。泉水って奴は口のききようも荒いし、女の子らしいタイプではないし……俺までつられそうになったので、頭を振って言った。
「泉水が女なのは知ってるんだよ。文通相手なんかじゃないんだから」
「女性だって知ってるのか。それは重畳。へええ、なるなるほとほと……ああん、もう、俺、なるほどって言えないよ」
「言ってるじゃないか」
「あれ? 言えたね。シゲさん、脱線してないで早く続き」
 脱線してるのはおまえだろ、と言うと、ますます脱線しそうだ。幸生と会話をするのは俺には荷が重い。乾さんに助けを求めたくなったのだが、そうするとなおいっそう脱線する恐れがある。俺がため息をついていると、幸生が言った。
「女性だと知ってるってことは、そういうわけね。シゲさんったら隅に置けないじゃありませんか。いつの間に?」
「小学生のときからだ」
「初恋のひと? そうかぁ、シゲさんにはそういうひとがいたんですね。引き裂かれて東京と大阪に離れ離れになって、それでもお互いに焦がれてた。今日、ようやく会いにいける。はーるばる来たぜ大阪ぁ……ってなもんか。大阪ってはるばるってほど遠くもないけど、心の距離が遠かったんだね。うんうん、なるなる……」
「なるなるはいいんだよ。おまえは俺に月並みな発想だばっかり言うくせに、おまえの発想は月並み以下じゃないか。いつの時代のストーリイだ」
「繁之泉水のすれちがいストーリイ、こういうのは現代でも世の女性の紅涙を絞るんですよ」
 果てしなく脱線していくのを軌道修正しつつ、俺は話した。
 小学生のころからの幼馴染の泉水、大学も同じだったのだが、彼女は就職し、親元にすこしでも近くにいたいと願って大阪へ転勤させてもらうことになった。彼女の大阪での居場所は知らない。会社の名前すら知らない。初恋のひとではないけれど、ファーストキスの相手ではある、と最後はむろん言わなかった。
「やっぱすれちがいじゃん。手紙を書いてねって言われたのに書かなかったの? 悪いひとね、シゲさんってば」
「あいつもくれなかったんだよ」
「そりゃあね、女のひとはなにかと……泣いてるよ、泉水さんは」
「泉水と俺はそんな関係じゃない。あいつは泣くようなタマでもない」
「シゲさんがそう思ってるだけでしょ? 泉水さんはシゲさんに恋焦がれて、会いたい会いたいと願って、夜毎東京の空に向かって祈りを捧げてる。シゲさんが一刻も早く会いにきてくれますように……って」
「おまえ、メロドラマでも見てはまったのか?」
「メロドラマ? 古ぅ……俺も脱力しそう」
 脱力するのはこっちだよ、と言わずに顔を手で覆ったら、幸生が俺の背中を撫でた。
「シゲさんも泣いてるの? よしよし、泣かないでね。瀬戸内泉水さんか。合唱部じゃない先輩は俺も知らないけど、シゲさんを泣かせるなんて、魅力的なひとなんだろうね。どんなタイプかな。シゲさんの初恋のひとで、彼女が女性であるとシゲさんは知り尽くしている。ってことはつまり、彼女の……いやん、そこまで……いや、つまり、彼女が女性だとわかっているってのは、彼女の全裸……きゃっ、言ったら駄目だってば、ユキちゃん。身も心も捧げて捧げられた初恋のひと。素敵だわぁ」
「……勝手にひとりで話を練り上げるな」
「勝手にひとりで喋ってろって言ったくせに」
「心の中で……心でもやめろ。おまえの妄想はどこまでも広がっていくから恐ろしいんだ。泉水をネタに変な妄想をするな」
「変な妄想なんかしてませんよ。美しき純愛ストーリイじゃん」
「愛じゃない。恋じゃない」
 愛じゃない、恋じゃない、そう思い込もうとしても、心は裏腹にあなたを求める……と、幸生は歌いはじめた。
「次は歌か……あるとしたら……友愛……げげ」
「どしたの、シゲさん?」
「自分で言って恥ずかしくて、気絶したくなったよ」
「だったらリーダーを呼んできますよ。俺ではシゲさんは気絶させられないから」
「呼んでこなくていい」
「そおお? ふむふむ、友愛か。いい言葉だな」
 呼んでこなくても、本橋さんと乾さんが通路を歩いてきた。
「シゲ、お疲れさん。疲れ切った顔をしてるな」
 乾さんが言い、本橋さんも言った。
「幸生、シゲを悩ませてたんだろ」
「悩ましくなったのは俺ですよ。そろそろつきますね。章は? 寝てる……起きるのかな。起きなかったらシゲさん、おぶっていって下さいね」
 言い置いて幸生は、やや離れた席にいる章を起こしにいった。耳をそば立てていると、幸生の声が聞こえてきた。
「この列車はこれから車庫に入ります。どなたさまもご降車いただきますように。ご降車されない場合は、車庫に入れて朝までほっぽっておきますよ。ひと晩、新幹線の中で夜明かしとあいなりますが、お客さま、よろしゅうございますか?」
「車掌さんのもの真似か。そんな七面倒な真似をしなくても、このほうが手っ取り早い」
 歩み寄っていった本橋さんが、章の耳を引っ張って言った。
「起きろ。章、遅刻だぞ」
「……うわっ!!」
 飛び起きた章が、きょろきょろとあたりを見回した。
「……遅刻? まーたやっちゃった? リーダー、だって俺……寝不足で……え? ありゃ?」
「俺は……まったくなんの因果で……」
「リーダー、ぼやくのはあとでね。着いたよ、章、歩け」
 乾さんに言われて寝ぼけ気味の章が立ち上がり、乾さんは近辺の乗客に頭を下げた。
「お騒がせしまして申しわけありません。特にこの……」
「はい、三沢幸生です。我らお騒がせシンガーズ。毎度おなじみちり紙交換じゃなくて……リーダー、耳がちぎれる」
「やかましい」
 すみません、と本橋さんも相客たちに頭を下げ、片手で章の、片手で幸生の耳を引っ張って歩いていった。乾さんが続き、俺も続きながら振り返ると、美江子さんも歩いてきていた。ついでにちらっと見たら、客たちがそこここで話している。お騒がせシンガーズってお笑いのひと? 知らないなぁ、と聞こえて、俺は頭を抱えて歩いていくしかなかった。


 なぜかしらどきんとした。泉水? なにかしら……なぜかしら……どこかが……おーい!! と手を振っている泉水のどこかがちがって見える。どこがどうちがうのかは俺にはうまく言えない。しばらく会ってないからだろう、とおのれを納得させた。
「泉水ちゃん、来てくれてたんじゃないか」
 章は泉水をまったく知らない。幸生も知らないようだ。本橋さんと乾さんは知っている。ライヴが終了してホールの外に出た俺たちに近づいてきた泉水を、乾さんが腕を広げて出迎えた。
「乾さん、お久し振りです!!」
「久し振り。泉水ちゃん、ずいぶん綺麗になったね。見違えたよ」
「まーたお世辞ばっかり」
「お世辞じゃないよ。大人っぽくなったね」
「これでも大人ですからね」
 乾さんと抱き合っている泉水を見ていると、わけもなくむしゃくしゃしてきてむっつりしている俺を、幸生がつんつんとつついた。
「彼女なんでしょ? シゲさんが抱擁しなくちゃ」
「だから、そんな仲じゃないって言ってんだろ」
「乾さんとはそんな仲なんですか」
「うるさいんだよ、おまえは」
 泉水は俺をちろちろ見て、乾さんの腕の中で舌を出している。俺にはひとことの挨拶もなしで、本橋さんには頭を撫でられ、章にはにこにこと、はじめまして、などと言っている。幸生も泉水に近づいていった。
「新幹線の中で泉水さんについては、シゲさんから懇切丁寧なる解説をしていただきました。はじめましてではないんですけど、三沢幸生です。いやいや、シゲさんの愛する泉水さんは……」
「こんばんは、瀬戸内泉水です。三沢さんや木村さんは私を知らなくても無理はないけど、私はよおく知ってますよ。本橋さんと乾さんは前々から知ってます。みなさん、改めまして、デビューおめでとうございます。素敵なステージでした。生で聴かせていただいたのは久し振りでしたけど、感激してしまいました」
「ありがとう。俺たちも仕事は終わったし、飲みにでも行くか」
 尋ねた本橋さんを見上げて、泉水は言った。
「私の部屋にいらっしゃいません?」
「五人で?」
「来ていただけたらいいなぁ、って、そのつもりで準備してたんです。たいしたものもないし、狭い部屋ですけど、ぜひいらして下さい」
「しかし、女の子の部屋に……なあ、乾?」
「お招きは嬉しいけど、女の子の部屋に男が五人でぞろぞろお邪魔しちゃまずいんじゃないの?」
「まずくなんかありませんよ」
「そうは言ってもね……外で飲んだほうがいいだろ」
「そのほうがいいんじゃないのか」
「おいやでしたら仕方ないけど、来てもらえたら嬉しいのにな」
 三人は押し問答をしていて、幸生と章は俺を見た。
「シゲさん、どうしてなんにも言わないの?」
「彼女も本庄さんになんにも言いませんね。ちょっとばかり変な雰囲気?」
「章には俺から話したんだけど、いけなかった?」
「いけなくはないけど、どう話したんだ」
「ストレートにありのままに。そうだよな、章?」
「ストレートだったのかなぁ……幸生は直球ってのは投げられない奴だから、いくぶん変化してたような気がしないでもないっつうか……俺は泉水さんは全然知らないからなんとも言えないけど……本庄さんの幼馴染で、はーるばる来たぜ大阪ー、とかなんとかね」
「嘘は言ってないでしょ?」
 はーるばる来たぜ、はよけいなんだよ、と俺は考えつつ、横目で本橋さんと乾さんと泉水を見た。本橋さんと乾さんは泉水の部屋を訪ねるのを躊躇していて、泉水は熱心に誘っている。乾さんが言った。
「やはり遠慮したほうがいいと思うんだけど……」
「どうして? 私、準備したんですよ。楽しみにしてたのに……」
「あれれ? 泉水ちゃん? 泣かなくてもいいだろ。乾、お言葉に甘えさせてもらおうぜ」
「リーダーがそう言うんだったらそうさせていただこうか。でも、泉水ちゃん……ま、いいか。シゲ、幸生、章、行こう。シゲ、なにやってんだよ。こっちへ来いよ」
「いえ、俺はいいんです」
 んん? といった表情になって本橋さんは泉水と俺を見比べ、乾さんは肩をすくめた。
「幸生が章に話してたのを小耳にはさんだところによると、泉水ちゃんはシゲに手紙を書いてと言ったんだそうだね。しかし、シゲは手紙を出さなかった。泉水ちゃんはそのせいで怒ってる?」
「おまえだって手紙なんかくれなかったじゃないか」
「そっちがくれないからだよ」
 ようやく直接口をきいたら、喧嘩腰になってしまった。
「私はシゲの手紙を……ううん、いいの。シゲなんてどうせそんな奴だよね。シゲは来なくていいよ。本橋さん、乾さん、行きましょ。三沢さんと木村さんもどうぞ」
「そうかよ。そんなら俺はひとりで……」
 馬鹿、とひとこと発して、乾さんが俺の頭を叩いた。
「……乾さん」
「なにを意地の張り合いしてんだよ。シゲ、おまえは大馬鹿野郎だったのか。泉水ちゃんが会いたかったのはおまえだろ。本橋、幸生、章、俺たちのほうこそ別行動しよう」
 そうしましょうか、と幸生が言い、章と本橋さんは怪訝そうにしている。泉水と俺は両側から乾さんにすがり、同時に声を発した。
「乾さん、シゲとふたりきりにしないで」
「乾さん、泉水とふたりっきりなんてのは……」
 同時に言って顔を見合わせ、泉水が言った。
「乾さん、シゲとふたりっきりなんかになったら、大喧嘩になっちゃいますよ。みなさんでいらして下さい。ね、お願いだから。シゲも来たかったら来てもいいから」
「行きたくないけど行ってやるよ」
「では、そういうことで。泉水ちゃん、よろしく」
 変な奴らだな、と本橋さんは呟き、ふーむ、と章は考え込み、乾さんは微笑んでいて、それでも六人で歩き出すと、幸生が俺の横に並んだ。
「シゲさんって泉水さんといると人が変わりますね。美江子さんと喧嘩してるリーダーみたいだ」
 その美江子さんは仕事が残っているので、まだホールにいる。俺が黙って歩いていると、幸生はなおも言った。
「友愛なんでしょ? わかったからさ、せっかく乾さんが気を使ってくれたのに、いつまでもすねてたらみっともないよ」
「すねてないよ。乾さんが気を使ってくれた?」
「そうに決まってるじゃん。リーダーは突発的に手を出す。えーい、面倒くさい、このほうが早い、ってんで、章や俺をぼかっとやる傾向があるでしょ。乾さんはちがう。さっきのも深慮謀略の末ですよ」
「げんこつが深慮謀略……」
「俺はそうだと思うけどな、なにか反論があります?」
「ないよ。俺は乾さんやおまえの思考にはついていけないんだ」
「そうでしょうそうでしょう」
 最前列を本橋さんと泉水が歩き、泉水がなにやら本橋さんに話しかけ、本橋さんは相槌を打っている。そのうしろを乾さんと章、こっちのふたりはぼそぼそ密談をしているようにも見える。四人のかたまりからだいぶ遅れて、幸生と俺が歩いていた。
「だけど、恋愛じゃなくて友愛ね。でしょ、シゲさん?」
「そうだよ。何度も言わせるな」
「友愛にしたって、喧嘩しないでね」
「知るか」
 喧嘩なんかしたくない。旧交をあたため合いたくて、幸生の言ったのとはまったくちがう感情だけど、だからこそ泉水に会いたかった。なのに、会った途端に角つき合うだなんて、小学生に戻ったみたいだ。
 低学年のころならば、男も女もなかった。近所の子供たちがごちゃ混ぜになって、田舎だからまだまだ空き地なんかもあって、昔ながらの子供の遊びをやっていた。俺が少年野球チームに入ったころくらいからか、泉水は女だと、すこし意識しはじめるようになった。だからといってガールフレンドでもなくて、喧嘩友達だったのかもしれない。
 中学一年のときになりゆきでキスをしたけど、あんなのは子供の遊びの延長だった。キスってこんなものか、とくすぐったくて、じきに忘れた。それからも泉水と俺は喧嘩友達だった。
 高校生になって、泉水にはボーイフレンドもいた。俺は女の子とつきあったことは皆無だけど、泉水はなんだかんだとやっていて、そのくせ、俺に恋愛相談なんかはしなかった。高校生同士の男女交際ははかなく終わるのが普通だろう。俺にはそんな経験もないけど、泉水は彼氏と別れて、俺とともに上京して同じ大学に入学した。
 それから、泉水はヒデと一時期つきあっていたらしい。ヒデの口からは一度も打ち明けられていなかったし、泉水から聞いたのもあの日だ。酔ったはずみで言ってしまったのだろうか。最後に会った日に、泉水はあれこれと俺には理解しにくい話をした。たしか、そんなシゲが好きだよ、とも言った。当然、友達としてのシゲが好き、だったはずだ。
 好きか嫌いか考えたこともなければ、とりたてて女だと見たこともなかった泉水。すこしは女の子だと意識はしていたけれど、ヒデとつきあっていたと聞いてはじめて、そうか、こいつも女だったんだ、なんて思い当たったようなものだ。ヒデとつきあってた、俺はなんにも知らなかった。そんな愕然とした想いが、わだかまりになっている? まさか、俺はそんなに狭い了見の男じゃない。
 とばかりに打ち消そうとしてみても、俺はほんとは心の狭い奴なのかな、とも思ってしまって、せっかく会えたのにあんな態度を取ってしまったのか。あいつが俺に冷淡にふるまうからじゃないか。あいつが悪いんじゃないか。
 どっちが悪いのかな、どっちもかな。そうだよな。喧嘩ってのはどっちも悪いんだから、俺ばかりが悪いんじゃない。そう結論づけたらいくぶん気持ちが晴れた。女の口に俺がかなう道理はなくて、小学生のころから泉水には言い負かされてばかりいたけど、今では幸生って奴がいて、言い負かされるのには磨きがかかった。泉水がもしも喧嘩を売ってきたとしても、幸生の口から出まかせよりは対処のしようもあるだろう。
 うん、そうだよな、でも、喧嘩はやめとこうな、と前を行く泉の背中に言ってみたら、となりにいる幸生は、ふーむ、複雑なんですね、と意味不明な台詞を口にした。


4

 狭い部屋に女がひとりと男が五人。そろそろ初夏だというのに鍋がはじまっている。暑くなってきたので窓を開け放して、エプロン姿の泉水ははしゃいでいた。
「量だけはいっぱいありますからね。どんどん食べて下さいね。シゲ、なにぼさっとしてんの。手伝えよ」
「俺はいつでもぼさっとしてるんだよ」
 昔と同じ調子になってきて安心してこき使われていると、泉水がじろっと俺を睨んだ。
「シゲの嘘つき」
「なにが? 嘘なんかついてないだろ」
「手紙」
「……まだ言ってんのか。おまえだって手紙なんか一通もよこさなかったじゃないか」
「シゲは筆不精だって言いたいんだろうけど、メールって手もあるだろ。私が東京にいる間に、メールアドレスを尋ねてきたらよかったのに」
「携帯電話もパソコンも持ってない」
 持ってない? とまじまじと俺を見て、泉水は言った。
「今どきの若者だと思えない。ねぇ、乾さん?」
「俺も持ってないよ。なんたって金がない」
「……本橋さんは?」
「事務所の社長が買ってくれたケータイを、山田と俺が一応は持ってる。幸生も章も持ってない」
 お金がないから? と泉水はみんなを見回し、幸生が応えた。
「そうなんですよ。俺ら、今どきの若者とは思えないほど金がないんです。ケータイやパソコンに回す金があったら、仕事に役立つ方面に使わなくちゃね。生活費にも事欠くありさまなんですから」
「そんなに稼げないの?」
「そ。それでも章や俺はまだいいんですよ。リーダーと乾さんは、金もないのに後輩におごらなくちゃいけないからもう大変。シゲさんは真ん中くらいかな」
「そうなんだ。きびしいんだね」
 おいおい、幸生、と本橋さんが苦笑いを浮かべた。
「おまえはいつだってオーバーなんだよ。生活費に事欠くほどじゃないから、泉水ちゃん、心配すんな」
「ほんと、シゲ?」
「まあ、なんとか食えてるよ」
「……だったらいいけどね……そんならろくなものも食べてないの? 今夜はしっかり食べてってね。シゲ、そういえばちょっと痩せた?」
「痩せたんじゃなくて締まったんだ。トレーニングはせっせとやってるんだから」
「そっか。シゲはトレーニング好きだもんね。煮えてきましたよぉ。食べて食べて」
 鍋をつつきながら、らしくもなくみんなの世話を焼きながら、泉水はまたしても言い出した。
「メールができない事情はわかったけど、手紙が書けない事情は?」
「忙しくて……」
「ろくろく稼いでもいないのに、なんでそんなに忙しいんだよ」
「金にならない部分で忙しいんだよ」
「私に手紙を書いても一文にもならないってのか」
「そうは言ってないだろ」
「言ってるよ」
 ありゃりゃー、と幸生が言い、まあまあ、と乾さんも言い、本橋さんと章は困惑顔。泉水はかまわず続けた。
「葉書も出せないのか。大阪でライヴをやるって決まったら教えるって約束もしただろ」
「おまえの住所がわからなかったんだ」
「だから、私が東京にいる間に手紙か葉書を書けって言ってるんだよ」
「だから、おまえもなんにも言ってこなかったじゃないか」
「あんたから先に出せ」
 水掛け論をやっていると、乾さんが言った。
「泉水ちゃんはどうやって今回のライヴを調べてくれたの? よくわかったね」
「インターネットですよ。職場のパソコンを駆使して、フォレストシンガーズのライヴ情報を集めたんです。ちっちゃな情報しかないから苦労しましたけど、今夜のライヴを見つけたときにはとっても嬉しかった。みなさんも有名になっちゃって、私なんかはそばに寄れないかなって心配だったんだけど……」
「まだまだそこまで行かないよ」
「そうみたいですね。私としてはそのほうがいいかな」
 だからね、あんたのせいだよ、と泉水はまたまた俺を睨んだ。
「シゲなんかはどうせそんな奴だって、私は十五年も前から知ってるよ。約束を守らない嘘つきなんだから」
「俺がいつ嘘をついた、いつ約束を破った?」
「あれは小学校四年のとき。明日は日曜日、ひな祭りが近い日で、うちでお祝いするから来てね、って私が言った。シゲは行くって約束したのに、野球チームの友達に誘われて野球に行ってしまった」
「そんな大昔の……」
「六年生のとき。クリスマスプレゼントの交換ってのをやってみたいな、と私が言った。シゲはプレゼントをくれるって約束した。私も買ってあったのに、当日になったらシゲはころっと忘れてた。頭に来たから私は、シゲのために買ったプレゼントをとなりのおじいちゃんにあげたんだ」
「それも大昔だ」
「中学二年のときには、シゲがよそのクラスの女の子を好きになって、どうしたらいいかな、って私に相談した。私は、手紙を書けば? って勧めた。書くって言ってたくせに、いざとなったら気後れして、あれはやめとく、だってさ」
「……泉水……もういいから」
「それからね……」
 いやぁ、よく覚えてるね、脱帽だよ、と乾さんが言いかけたのを無視して、泉水は続けた。
「そんなのばっかりじゃないか。シゲの嘘つき、卑怯者!」
 いきなり泉水が、手にしていたスプーンを投げた。俺が思わず身をかわしたので、スプーンは狙いがそれて章の胸元に当たり、乾さんが言った。
「泉水ちゃん、気持ちはわかるけど、ものを投げると危ないよ。章は平気だよな」
「はい、別にどうってことは……びっくりしたけど」
「泉水、おまえなぁ……」
「あんたが悪いんだよっ!」
 再び飛んできたのはしょうゆ差しで、今度は狙いが的中し、俺は頭からしょうゆまみれになった。うわっち! と叫んだのは幸生で、やめろよ、と乾さんがほんのちょっと声を荒げた。俺の肩に乗っかっていたしょうゆ差しのキャップを泉水に投げ返したら、乾さんの鋭い声が俺に飛んできた。
「シゲ、やめろ。おまえが応戦したら止め処がなくなる。おまえらしくもない。やめろ。鎮まれ」
「あ……すみません。しかし、いくらなんでも……うへぇ、からい。畳までしょうゆまみれだ。服も……着替えがないのに……泉水、おまえ、いい加減にしろよな。投げるんだったら他のものにしろよ」
「だって……シゲが……」
「シゲもよくないけど、きみが悪い」
 きっばりと言ったのも乾さんだった。
「シゲが手紙を書かなかったのが腹が立つ、っていうのはわからなくもないけど、ここはきみの部屋でしょ。しょうゆまみれにしてどうすんの? ものを投げるのはやめなさい。泉水ちゃん、わかった?」
「だって……」
「だってじゃない。原因はシゲが作ったにしても、そんなものを投げるきみがよくない。もうしないね?」
「……」
 無言で立ち上がった泉水はキッチンのほうへと駆け出していってしまい、乾さんは嘆息した。
「よけいなお節介だったか。なにをあんなに荒れてるんだろうな」
「いえ……俺には言えないし、俺の言うことなんか泉水は聞かないでしょうから……ほんとになにを荒れてるんでしょうね。あいつはヒステリーだったのか」
「おまえもよくないんだろ。もうすこししたらあやまってこい。おまえが心をつくして詫びたらおさまるんじゃないのか」
「手紙ごときで……」
「彼女にしてみたら……まったく、本橋といいシゲといい、女心に無知、ここにきわまれりだ」
「俺を引き合いに出すな」
 黙ったまんまだった本橋さんが、そこで口を開いた。
「まったく、ってのは俺の台詞だよ。てめえはいい格好ばっかりしやがって。おまえにだって女心なんかわからないだろうが」
「よくはわからないけど、おまえやシゲよりはわかるよ。本橋はこの際無関係だから引っ込んでてもらうとして、シゲ、胸に手を当てて考えてみろ」
 胸に手を当てて考えろ、は乾さんの口癖かもしれない。言われた通りに胸に手を当てていたら、幸生が言った。
「うーん、女はむずかしい」
「あのぉ……」
 窓の外から、男の声が聞こえた。一斉に注目すると、外にいた男が俺たちに会釈した。
「ええと……状況がよく……わからないんですが……みなさんはあの……?」
「泉水さんを訪ねてこられたんですか。失礼ですが?」
「えと、あの、泉水の職場の……」
「泉水……ですか。困ったな。お入りになったら……とはいってもこの部屋の主に無断でってのもね」
 男と会話をしているのも乾さんで、俺にも状況が飲み込めなくて戸惑っていたら、泉水が走り出てきた。
「約束は昨日じゃないかっ!! 今ごろ来ても手遅れなんだよっ!! 帰れ!」
 スプーンやしょうゆ差しどころか、今度は泉水は手当たり次第にその男にものを投げつけようとした。章が部屋の隅へと逃げ出し、幸生は泉水に向かって手を伸ばしたり引っ込めたりしてうろたえている。と、乾さんが高らかな声を張り上げた。
「泉水ちゃん、ストップ!!」
 乾さんに目で促されて、俺は泉水に近寄った。
「やめろ。な、やめろって。部屋の中が無茶苦茶になっちまうよ。泉水、落ち着け」
「シゲ……シゲ……私……」
 今度こそ俺は本気で気絶したくなった。泉水に抱きつかれて泣かれるとは、青天の霹靂以外のなにものでもない。窓の外の男はぽかんと俺に見とれていて、幸生が気を取り直したように雑巾を持ってきた。章と幸生はせっせと畳を雑巾でこすりはじめ、本橋さんが言った。
「ほんとのほんとになにがなんだかさっぱりわからないんだけど、泉水ちゃん、あのひとにはどうしてもらうんだ?」
「……ちょっと……待って……ううん、いい。帰って。帰ってよっ!」
 なんなんだよ、と男は呟いた。
「昨日はどうしても来られなかったから、遅くなったけど来たんじゃないか。そしたらなんだ、これ? 男が五人もいて……なにやってるんだ? こいつらは誰だよ」
「あんたには関係ないよ」
「関係ないって言うんだな」
「そうだよ。聞きたいんだったら教えてあげるけど、このひとたちは私の大学んときの友達で、みんながみんな私を好きなの。みんなして私を口説きたいって言うから、誰がいちばん上手に口説くのか見せてもらって、私がいちばんを選ぶって決めたんだ。いちばん上手に口説いたひとと寝てあげるって」
「泉水……」
「私がなにをしようと私の勝手だよ。ほっとけ。帰れって言ってんだろっ!!」
 無茶苦茶の上にも無茶苦茶を言う泉水を見ていた男の表情が険悪になりつつある。窓から飛び込んでこようとしたらしいのだが、本橋さんがその胸を押し戻した。
「な、なんだよ」
「部屋の主に無断で入らないでもらおうか。乾、これでいいのか」
「……泉水ちゃんはこれでいいの?」
 俺に抱きついたままの泉水はうなずき、本橋さんは男に向き直った。
「今日のところはひとまずお引き取り願いましょうか。泉水ちゃんがそう言うんだから、俺たちとしては彼女に従うしかない。あんたを部屋に入れると、彼女になにかする恐れがあるだろ。なにかしたいんだったら俺とやりますか」
「……泉水、いいのか」
「いいよっ」
 いったいぜんたいなにがなにやら……には変わりなかったのだが、男は本橋さんの恫喝口調と泉水のとりつくしまもない態度に諦めたのか、荒々しく窓を閉めて歩み去っていった。


 しばらく泣いていた泉水は、ぺたんと畳にすわって言った。
「ごめんね、シゲ、ごめんなさい、みなさん。あいつ……東京で働いてたころにつきあってた彼なの。私とつきあってたくせに、他にも女がいたんだ。約束を破った嘘つきってのはあいつのことで、シゲを罵ってるうちにあいつを思い出して八つ当たりしちゃった。あいつは別の女と結婚するんだって。私はふられたってわけ。いいわけさせてくれって言うから、私の部屋に来てって言ったんだよね。なのに、来なかった。どっちにしたっていいわけなんか聞きたくもないし、あれでよかったんだよ」
 そう言われても、俺には完全に事情が飲み込めたわけではない。が、乾さんは言った。
「彼は乱暴はしない?」
「しない、と思います」
「思うだけじゃこころもとないけど、泉水ちゃんがそう思うんだったら、俺たちにはこれ以上のお節介は焼けないな。危険なことが起こりそうになったら、警察を呼べよ」
「はい」
「ざっと掃除したけど、しょうゆってのはどうにもこうにも……」
 言った幸生にも、泉水は頭を下げた。
「ごめんね、三沢さん。私、どうかしてた」
「どうかするのも無理ないでしょ。シゲさんは災難だったけど、ま、幼馴染のよしみでね」
「そうだ。シゲ、シャワーを浴びたら? ごめんね、ほんとにごめん」
「やっちまったものは仕方ない」
 シャワーを浴びつつ服を洗っている間に、泉水と他の四人は話を続けていたらしい。俺はしょうゆの匂いを消そうと躍起になって石鹸を泡立てて考えていた。
 ホールの外にいた泉水が昔と変わって見えたのは、ああいう経験をして大人になったからなのだろう。最後に会ったときに言っていた泉水の台詞……してみると、泉水は……いやいや、そんなことはどうでもいい。大人になるってのはさまざまな経験を積むってことなんだな。
 聞いたふうな口をきいているような気がして、そしたら俺はまるっきり大人になってないんだな、と苦く笑って、ヒデも大人になったのかな、なんて考えて、風呂場から出た。あの男に関する結論は出たのか、出せっこないのか、いずれにしても、俺たちにはなにもしてやれない。それはつらいけど、泉水の問題なのだから、泉水自身が解決するしかないのだろう。
貸してくれたスエットの上下はあの男のものか。俺には少々窮屈だったが、他には着るものがないのでそれを着て出ていったら、泉水が言った。
「乾燥機に入れてきた? そんならもうすぐ乾くね。シゲ、ごめん」
「いいよ、もう。俺も……ごめんな」
「なにが?」
「手紙」
「いいよ、もう」
 あっちでもこっちでもため息をついている男たちを見回して、泉水が言った。
「私も高校生のときには合唱部にいたんですよ。みなさんとは較べもできない歌唱力ですけど、瀬戸内泉水、歌わせていただきます」
 おーっ、いいぞいいぞーっ! と幸生が叫び、泉水は歌いはじめた。

「震える爪先、高鳴る鼓動
 何度も何度も胸に手を当ててみた
 見えないハードルにつまずいたとき
 あなたの気持ちがすこしでもわかりたくて

 スタジアムに響き渡る歓声を吸い込んで
 あなたはゆっくり立ち上がる

 Every little thing あなたがずっと
 追いかけた夢をいっしょに見たい
 Every preciouse thing 奇跡のゴール
 信じて今、大地を踏み出した」

 サッカー選手か野球選手か、アスリートに向けて歌っているのだろう。「Every little thing,Every preciouse thing」。俺も知っている歌だった。Every little thing、と自然に俺たちも声をそろえ、Every preciouse thing、と歌が続いていく。気持ちよさそうに、それでいて寂しそうにも見える表情で歌っていた泉水が、歌い終えて言った。
「お粗末さまでした。でもね、これは私からみなさんへのエールです。いかがでした、乾さん?」
「ありがとう。泉水ちゃん自身へのエールでもあるんだよね」
 ふふっと笑って、泉水は本橋さんに視線を移した。
「本橋さん、さっきはかっこよかったですよ」
「かっこいいか。あとでまた……いや、いいんだけどな。俺にはああしかできなくてさ……いやいや、いい歌だったよ」
「木村さんは?」
「しょうゆの匂い漂う中で……っと、それは言いっこなしね。泉水さんは歌がうまいじゃないですか。大学でも合唱部に入ればよかったのに」
「そうだねぇ……三沢さんは?」
「俺たちの奇跡のゴールってのは、ミリオンセラーを出すことかな。そんなちっぽけな夢じゃないよね。世界中のコンサートホールを、フォレストシンガーズが満員にしてみせるんだーっ!!」
「うん、その意気だよ。私も歌ってて元気が出た。今夜はいろいろありがとうございました」
「こちらこそ。泉水さん、シゲさんには訊かないの?」
「訊かなくてもいいの。シゲの気持ちはわかるから」
 ね? と視線で問いかけられて、俺は曖昧にうなずいた。
 章の言う通り、いまだしょうゆの匂いが部屋中にぷんぷんしている。そんな中で泉水がソロで歌ってくれた曲は、なんともベストな選曲だった。今度はいつ会えるかもわからない、俺の幼馴染、俺のたったひとりの女の親友。ヒデには裏切られた感を抱いていたけれど、ヒデにしてもぎりぎりの選択だったのだろう。
 裏切られてなどいない。ヒデもどこかで俺たちを応援してくれている。泉水もまたずっとこれからも、俺たちを応援してくれる。「Every little thing,Every preciouse thing」を口ずさんで、俺たちをも自分自身をも応援して生きていく。
 泉水もヒデも俺の親友だよ。いつか三人で会って、すべてを昔話、笑い話にして語り合えたらいいな、そんな気分で泉水を見つめると、前に会ったときの泉水の声がよみがえってきた。シゲ、がんばれよーっ、ビッグなシンガーズになれよーっ、と、泉水は今夜も、あのときのままに俺に言ってくれているのだと感じられた。
                                               
END
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~ Comment ~

シゲさん、深いっすね。

新たな展開に(新幹線の中は相変わらずで笑えましたが)なんだか、すごく良い感じでした。
シゲさん目線だと、あんまり主観が入らなくて、三人称で語られている感触です。
主観が入らないっていうか、これがまさに彼の持ち味、ニュートラルで、公平で、平等。そんな気がします。
彼がヒデさんを忘れないから、フォレスト・シンガーズはずっと彼を入れた6人構成のような空気で進んでいくんですね。
ものすごく興味深いです。

2枚目シングル。
ううむ、段々、切実感が出て来て、でも、そこでまた幸生くんの存在が救いになったりして、ものすごい臨場感です。
会社もタレントが売れないと困るだろうし、今後、別バージョンのこの展開、楽しみにまたお邪魔いたします。

ちょっと変にひねくれて落ち込んだりして数日、引きこもってみましたが(^^;
結局、それすら根性なくて、復活しました。
はははは。
ご心配いただき、ありがとうございました!!


fateさんへ

復活して下さって嬉しいです。
コメント、ありがとうございます。

fateさんがコメントして下さって、ああ、そういえばそうだなと気づくことはよくありますよ。
シゲはまあ、鈍感だから周囲のことにイマイチ気づいてないと申しますか、そのほうが強いんですけどね。

この回、シゲはやたらにヒデヒデ言ってますね。
自分でも読み返してちょっとびっくりしたぐらいでした。

フォレストシンガーズはこのころは、ヒットチャート200位以内チャートインが快挙だったりしますので、これからもしばらくはこんな感じです。ほんとにね、よくクビになりませんでしたよね。

で、現在の私は三十代のフォレストシンガーズを書いていて、彼らの若いころを知って下さっている方は、年齢だけは大人になった幸生や乾くんをごらんになって、どう思われるのかな、こわぁ……とか想像しているわけです。

NoTitle

「だけど、恋愛じゃなくて友愛ね」
・・・というのは、結構これらのコメントでもやりましたが。
結局のところ、
双方がそれで合意しているかどうかがポイントになるんですよね。
なかなか互いに相手がいれば、何も問題なく友達でいられるんですけどね。。。なかなかままならないときもあるもんです。

ようやく戻ってきました。
お待たせしてすいません。。。
また、コメントさせていただきます。

LandMさんへ

復活なさったのですね。
パソコンデータの復旧は無事にできましたか?
私もわりと最近にパソコンのデータをだいぶなくして、メールもできない状況ですので、気になっていました。
パソコンはスムーズに動いていればいいですけど、トラブルと厄介ですよね。

さて、そうですよね。
女性のほうは友達だと思っていたのに、彼が恋愛感情を抱いていたり。
男性のほうはさらっとつきあっていたのに、彼女のほうは、私を女と見てないの? とか悩んでいたり。

人と人の気持ちは時にすれちがい、ドラマを生むのかもしれませんね。

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