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小説287(Still be hangin' on)

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フォレストシンガーズストーリィ287

「Still be hangin' on」


1

 兄ではないとわかっていながら、彼はあたしの兄だと言いたがる。
 好きだから? 恋してるから? なのにあたしを抱きとめてはくれない男だから、あたしは悠介さんを兄だと言っていた。兄だと信じたくて、事情を知っている他人には口に出して言い、自分でもそうなんだと思い込む。
 日本では最強ともいわれているロックバンド、グラブダブドリブ。美形ぞろいの彼らの中でもナンバーワンの超美形ギタリスト、中根悠介。彼には遠距離恋愛の恋人がいる。彼女は悠介さんをほっぽってドイツに単身赴任中。
 そんな男を兄だと言いたがるのは、あたしの場合は他の女たちとはややちがう。親戚ではあるのだから、そこらへんも事情がちがう。
 小学生のときに母が亡くなり、父はあたしを厄介払いしたがり、親戚に預けた。引き受けてくれたのはあたしの母の伯父。悠介さんにとっては父方の祖父に当たるのだから、あたしは中根姓ではなかったのだが、伯父の養子になって中根瑞樹となった。
 十歳年上の中根悠介は、当時高校を卒業したばかりで、五歳から十八歳までは祖父のもとで養育されていた。あたしがそうと知ったのは後の話なのだが、そのせいであたしは祖父に引き取られたのだ。
 祖父母ははっきりとは言わなかったものの、そうに決まっている。
 中根皓一。私の母のいとこにあたる祖父母のひとり息子は、二十代で夭折した。跡取りがいなくなって焦った祖父母が調べたところによると、彼にはフィリピン女性に産ませた男の子がいた。その名は悠介。
 あたしが十八歳だったころ、親類の山荘で悠介さんと司さんと、フォレストシンガーズの本橋さんと乾さんと山田さんと、六人でこんな話をした。
「ミズキちゃんはどうして、中根さんと関係があるって言わなかったの?」
「だって、あのグラブダブドリブの中根悠介だよ。彼が私のお兄ちゃんだなんて知られたら、その七光りでデビューさせてもらったんだろ、って言われるに決まってるんだもん」
「お兄ちゃん? 兄妹?」
 が、悠介さんが横から言った。
「妹なんかじゃねえよ。俺は口をすっぱくして言ってんのに、こいつがひとりでそう決めてるんだ」
「だって、そうなんだもん。戸籍上はあたしは、悠介さんのお父さんのいとこの子なんだよね。悠介さんのお父さんと、あたしのお母さんがいとこ同士だって話になってるの。小学生のときにお母さんが死んで、お父さんがあたしの面倒見切れないからって、誰か引き取ってくれないかって言ったの。そしたら、悠介さんのおじいちゃんが、ってことは、あたしのお母さんの伯父さんなわけだけど、よし、引き取ろうって言い出したんだって。そんなのおかしいじゃん。あたしがおじいちゃんの本当の孫だっていうんだったらわかるけど、姪の娘なんかを引き取る?」
 おかしくないんだよ、と言ったのは司さんだった。
「ちょうどそのころ、悠介は高校を卒業して家出した。どこやらの電気屋で住み込みで働いて、苦学して大学を出たわけだ」
「俺の話はどうでもいいだろ」
「どうでもよくない。おまえの話からしないと説明できない」
 いやそうにしている悠介さんにはかまわず、司さんは続けた。
「悠介はほんのガキのころに、じいさんばあさんに引き取られたんだよ。込み入った話はしてもいいのか、悠介?」
「しないと説明できないんだろ。しろよ」
 悠介さんの父は、若き日に仕事でフィリピンを訪れた。生活のために夜の仕事をしていた悠介さんの母と知り合い、恋仲になった。恋をしたと考えていたのはお母さんばかりで、お父さんとしては現地妻感覚だった。仕事をすませたお父さんは、彼女を置き去りにして帰国した。そのときすでに、悠介さんが母の胎内に宿っていた。
 愛したひとの息子を産んで育てて、母はひとかたならぬ苦労をしたらしい。日本の両親に頼る気もなかったのだが、ある日、日本から探偵がやってきた。悠介さんの父親が亡くなり、フィリピンに落としダネがいると知った悠介さんの祖父母が手を回して、私立探偵を派遣したのである。
 当時、フィリピンの少年として育っていた悠介さんは五歳。母はこの子は絶対に離さないと言ったのだそうだが、周囲のひとに説得されて泣く泣く手放すことにした。悠介さんの祖父母は会社を経営する富裕層の日本人なのだから、フィリピンで貧しい暮らしをしているよりははるかにいい、と言われたのだろう。
 母と涙の別れをして日本に来た幼い悠介少年に、祖父母はつらく当たった。おまえのせいで息子が死んだ、とまで言われたのであるらしい。そのくせ、おまえは跡取りだ、しっかり大きくなって会社を継げ、とも叱咤した。悠介さんは、ものごころつくころにはそんな生活にほとほと嫌気が差していたものの、独り立ちできるまでは我慢しようと、ぐっとこらえて祖父母の言いなりになるふりをした。が、とことん反抗的でもあったのだそうだ。
 子供のころからギターの腕前には後の才能の片鱗がうかがえ、勉強はできるしメカには強いしで、電気屋のおじさんに見込まれて働かせてもらうことになって、高校を卒業すると同時に家出を敢行し、大学は独力で卒業した。学生時代からギタリストだった中根悠介は、あちらのバンド、こちらのバンドと渡り歩き、そして……と司さんは、推測もまじえて淡々と話した。
「ギターの天才、中根悠介の名はその筋では鳴り響いていたから、俺も知ってたよ。大学を卒業する間際だったな。コンテストで悠介と知り合った。ボビーもドルフもジェイミーも俺も悠介も、別々のバンドでコンテストに出たんだ。そこに真柴豪が審査員として名を連ねていた」
「プロデューサーの真柴さん、ですよね」
 真柴豪は辣腕プロデューサーとしてその名も高く、ソングライターとしても著名だ。山田さんが問いかけると、司さんは言った。
「そう。この前も話したよな。豪と俺と、もうひとり、大学時代は剣道部三羽烏なんて言われてたんだ。こう見えて俺は、剣道二段なんだぜ」
 ほえーっ、と本橋さんがおかしな声を出し、司さんは言った。
「俺の話はまるきりどうでもいいんだけど、話しの流れな。そういうわけで、豪と俺とは長年の友達だ。豪は学生のときにロックバンドの一員として華々しくデビューして、あっけなくもバンドを解散して、大学四年ですでにプロデューサー稼業をやってたんだよ。その豪が俺たち五人を見て、おまえたち、バンドを組め、絶対に売れる、と太鼓判を押した。すぐには売れなかったけど、豪の見る目はたしかだったわけさ。そんなふうに知り合って、悠介と俺は現在に至ってる。悠介のガキのころの話も聞いてる。つまり、悠介の実の親父はこいつが五歳のころにはこの世にいなかったんだ。二十年以上前におっ死んでるんだよ。十八のミズキが悠介の妹だってのは、物理的に無理だろ。ちなみに、悠介のおふくろさんも、その二年ほどあとに亡くなってる。悠介の両親が死んだあとに生まれたおまえが、悠介の妹なはずがないだろ。わかったか、ミズキ」
 改めてあたしにも聞かせるために、司さんは長々と語っていたのであるらしい。悠介さんも言った。
「おまえをじいさんたちが引き取ったのは、俺にこりごりしてたからだよ。手塩にかけて育てた跡取り孫息子は反抗の限りをつくした末に遁走して、なにをどう諭されても、脅されても家には戻らなかった。しかし、跡取りは必要だ。男は二度といやだ、ってんで、そんな時期に引き取ってほしいと頼まれた、女のおまえを迎えて、英才教育しようとしたんだよ」
「だが、ミズキもさすがに悠介と血のつながりのある女の子だ。結局はやっぱりじいさんばあさんに反逆して、高校中退、あげくはロッカーだもんな。気の毒だよな」
「あいつらを気の毒とは言わない」
 黙って聞いていた乾さんが言った。
「事情はわかった。だったらミズキちゃん、きみが中根さんの妹だってのはあり得ないよね。あり得るとしたらその理屈は?」
「えーとね、お父さんは死んだふりしてどこかに隠れてた」
「中根さん?」
「葬式も出した。中根皓一の遺骸は荼毘に付された。死亡証明書もある」
「そんなのニセモノだよ。えーと、他には……お母さんが生きてた」
「おまえは純粋日本人だろ」
「それもわかんないよ。えーとえーと……他には思いつかないけど、悠介さんと私は兄妹なの。決まってるの」
 その根拠は? と乾さんに質問されて、あたしは悠介さんの顔に顔を寄せた。
「顔だよ、そっくりでしょ? 乾さん、似てない?」
「血はつながってるんだし、ミズキちゃんも中根さんも美貌の持ち主ではあるから、まったく似ても似つかないってわけではない。けど、顔立ちは兄妹である根拠にはならないね。DNA鑑定でもしても……いや、沢崎さんの話からすると、きみが中根さんの妹だってのは百パーセントない」
「……だから乾さんって嫌い。山田さんは?」
「へ? 私? 中根さんとミズキちゃんが似てるかどうか? んんと……」
 まじまじとあたしたちを見比べ、山田さんも言った。
「乾くんに賛成。兄妹だって言われても疑うには値しないけど、美貌ってものは、醜貌ほどにはバリエーションがないんじゃない? たしかに中根さんとミズキちゃんはどことなく似てるけど、中根さんの顔のエキゾチックさがミズキちゃんにはないのかな。ミズキちゃんは美少女なんだけど、日本人の美少女顔」
「山田さんはブスじゃないけど、悠介さんとは全然似てないよ」
「そりゃそうよ。似てるわけない」
「あたしは悠介さんに似てるんだもん。お兄ちゃんだからだもん」
 あのころのあたしは山田さんも乾さんも大嫌いで、山田さんが男たちにちやほやされているのをやっかんだのか、ガキだった自分の気持ちは今となってはわかりにくいけれども、バンド仲間のキースにもらった悪い薬を飲ませた。ガキの浅知恵はじきにばれて、悠介さんにものすごく叱られた。
 それはともかく、そのような事情があるのだから、あたしは特殊なのだろう。大人たちに説得なんかされなくても、あたしが悠介さんの妹だとは物理的にあり得ないと知っている。あたしだって大人になったのだから、いつまでも夢見る少女なんかではいない。
 でも、大人になってもあたしは悠介さんが好き。悠介さんがひとりでドイツに行ってしまった彼女一筋だとしても、あたしには冷たいくせに、その彼女、花穂の妹の麻穂にはあったかくても、あたしは悠介さんが好き。
「しつこい女ってけっこういるもんだね」
 低くて抑揚のない女の声が聞こえて、あたしは顔を上げた。
「エターナルスノゥのミズキだろ」
「あんた……ミルキーウェイじゃないの?」
 男が六人、女がひとり。クラシックティストの楽器も使っているロックバンド「エターナルスノウ」で、あたしはヴォーカルを担当している。
 ミズキはあの中根悠介の身内だとは関係者にはひとことも言っていない。エターナルスノウのメンバーには二、三、知っている奴もいるけれど、彼らも口外はしていないはずだ。なのだから、あたしたちが売れたのは実力だと自負している。
 実力で売れるだけでは限りがあって、エターナルスノウはグラブダブドリブほどの超人気バンドではないが、日本のロックバンドはスーパーメジャーにはなりにくい宿命であるようで、ま、仕方ない。そんなあたしを知っているこの女は。
「ミルキーウェイって細くて高い声で淡々と歌うR&B系のシンガーだよね。地声はそんなの?」
「こんな声もあんな声も出るんだよ。あたしも昔は男の子たちとロックっぽいバンドをやってたから、今でもロックは嫌いじゃないの。そこに行っていい?」
 先刻まではここにはキースがいた。エターナルスノウの金管楽器担当、理系大学卒、大学院まで卒業していて、ロックで食えなくなったら貧乏学者に戻るという変り種だ。キースに悠介さんの話をしていて、あたしはいつまでだって悠介さんが好きっ!! と大きな声で言っていたから、ミルキーにも聞かれていたのだろう。
「悠介さんって誰?」
「ロック好きだったら知ってるでしょ」
「んんと……グラブダブドリブの中根悠介?」
「そうだよ」
「どういう関係?」
 歌手だとは知っているが、ミルキーウェイなんて女とは口をきくのははじめてだ。どこの馬の骨かもわからない女に、悠介さんの話なんかしてやらない。
「兄さんみたいに思ってて、なのに冷たくされてるって、あんたは言ってたよね。連れの男は、そんな奴は諦めて俺のものになれって言ってた」
 何度かキースとは寝ているのだが、心までを俺のものにしたいと言う。そう言われて、あたしの心は悠介さんのものだよっ、諦めの悪い奴だな、というような会話をしていたのだった。
「彼はエターナルスノウのメンバーだよね。決まった彼氏ってわけでもないの?」
「人肌が恋しくなったら寝るだけの男だよ」
「あんたってもてそうだな。あたしに似てるもんね」
 たしかにすこし似ている。
 ふたりともに小柄で、ミルキーはあたし以上に背が低くて細い。ミルキーのほうが影の薄そうな美人だが、原型は同じなのかもしれない。このタイプの女は一定割合の男にはもてるのだから、ベッドの相手には不自由しない。そういうところもミルキーはあたしに似ているのだろう。
「不特定多数の男と寝るの?」
「そんなの面倒だから、今はキースだけ。キースに飽きたら別の男を探すよ。ミルキーは何人もの男がいるの?」
「そうでもないけどね……」
 言いかけたミルキーの眉がつつっと上がる。視線がドアのほうへと漂っていく。ミルキーの視線をたどってみたら、乾隆也の姿が見えた。
 ここは夜中の「フライドバタフライ」の店内。ミュージシャンたちに人気のある店だから、乾さんが来ても不思議はない。あたしは店に入ろうとして、乾さんを見つけて回れ右したことだってある。十代だったころほどに乾さんが嫌いではなくなっているけれど、メンドクサイ男だとは思っているから、お酒を飲みたいときには同席したくなかった。
 けれど、今夜はミルキーとふたりっきりは気詰まりだし、ミルキーの表情が気になったのもあって、乾さんに会釈した。
「久し振り。乾さん、こっちに来ない?」
「いや……俺は……」
「他の席は空いてないよ。来れば?」
 ふたりともに変な顔して、なにかあったんだろうか。好奇心も手伝って重ねて誘うと、乾さんはあたしの隣の席にかけた。
「会うたびにミズキちゃんは綺麗になるね。大人にもなっていくね」
「桜田忠弘とも徳永渉とも金子将一とも、泉沢達巳とも大城ジュンともKCイッコウとも寝たよ」
 唐突にも思えるミルキーの言葉は、さっきのあたしの質問への答えか。そうでもないと言ったのは嘘か。あるいはこっちが嘘なのか。
「男なんてのはしゃぼん玉っていうかさ、別の玉だけってかさ」
「……あなたたちってどうして、挨拶もしないの?」
 そろって無視して、乾さんは立ち上がった。
「俺はどうも居心地がよくないんだよ。よそに行く。ミズキちゃん、失礼」
 ミルキーは乾さんを見ていたが、乾さんは彼女には一瞥もくれず、あたしにだけ声をかけて店から出ていってしまった。
「なんなんだ、あれは」
「奈々って女優、知ってる?」
 またもや唐突な話題転換。あたしは面食らいながらもうなずいた。
「十五、六のガキ女優の奈々に聞いたんだ。奈々はあいつにつきまとってて、あいつも奈々を可愛がってるの。奈々とあいつって奈々が幼稚園って年頃からの知り合いなんだって」
 あいつとは乾隆也か。これはまちがいなく、なにかあるようだ。
「あいつにつきまとってるのは奈々だけじゃないんだよね。その中に、多香子って女がいるらしいの。ややこしい事情があるみたいで、奈々も多香子があいつのなんなのかは知らないって」
「ふむ、それで?」
「それであたしは、人を使って上杉多香子って女の身の上を調べたんだよ」
「ったってね、あたしは上杉多香子なんて知らないよ」
「ミズキは悠介さんを兄さんみたいに……なんて言ってたじゃない? 多香子とあいつもそれに似てるってか、近い部分があるんだよ。興味ない?」
 興味はなくもないので見つめると、ミルキーはいやらしい笑みを浮かべた。
「上杉多香子はあいつの父親の隠し子らしいよ」
「あいつって……乾さんは金沢の和菓子屋と華道の先生のひとり息子だよね」
「知ってるんだね」
 うちの親戚の山荘で、そんな話もしていた記憶があった。
「多香子は和菓子屋のオヤジが浮気してできた子だよ。あいつはけっこう有名な歌手なんだから、このネタは使えるよね」
「強請る気?」
「スキャンダルになるじゃない。ミズキはあいつのケータイのメルアドは知らないの?」
「だいぶ前に聞いたから、変わってないんだとしたら……」
 何年前だっただろうか。遊園地で乾さんと、乾さんの大学の後輩だというラジオDJの小さい男と会った。DJの名前は覚えていないけれど、小さい身体に見合った気の小さな男で、あたしは彼に対しては苛めっ子になった。
 いくらいじっても苛めても怒りもしない彼にイライラしてよけいに苛めていたら、乾さんが言いつけたようで、悠介さんがあらわれた。
 悠介さんの車で連れて帰られて、あのときにも叩かれた。悠介さんが叩くといえば、あたしの両方の頬を大きな手ではさむようにしてぱちーん。そんなに痛くもないけれど、叩かれるとわあわあ泣いてしまう。
 山荘で山田さんに一服盛ったときにも、悠介さんにそうやって叩かれた。生まれてはじめて他人に叩かれたあたしは悠介さんを恨み、なのに嫌いにはならなかった。
 いつもは冷たい悠介さんだから、叱られるとしたってあったかかったら嬉しいから? 女にだって手を上げるっていうか、恋人にはしないらしいけど、麻穂やあたしだときつく叱ればそうやって叩く悠介さんが、どうしたって好き。
 叩かれて喜ぶマゾっ気なんかないけど、きつく叱られたら悠介さんの胸で泣けるから? これではロッカーだなんて気取ってられない、つまんない女。でもでも、兄のように好きな男に対する気持ちはそんなものじゃない?
 そうすると、多香子もそんな気持ちで乾さんを見てるの? 母親違いの実の兄妹だったらあたしとは感情もちがっているのか。あたしは多香子を知らないから、感情も知らないけど。
 そんな一件があったから、悠介さんに会わせてくれたから、あのころからあたしの乾さんへの嫌い感が薄れていったのかもしれない。彼の父親の隠し子なんてものを探って、強請ろうとしている? ミルキーのほうに嫌悪が起きる。
 だけど、それだったら乾さんには知らせてあげたほうがいいのだろうか。知らないままで急に週刊誌にでもすっぱ抜かれたら、乾さんが困るよね。あたしも甘いなぁ、嫌いだった奴なのに、そう思いながらも乾さんにメールした。

「ミルキーが重大な話をしたいんだって。多香子って人についてのなにかが発覚したらしいから、心の準備をしてから来てね。フライドバタフライで待ってるよ」

 メルアドは変わっていないようで、間もなく返信があった。すぐに行くよ……あたしには関係ないのにどきどきして乾さんを待っていた。


2

 まっすぐにミルキーを見据えて、冷静な顔をして聞いていた乾さんは、途中でてのひらを広げて遮った。
「俺としては半信半疑なんだけど、それが事実だったとしたら俺はあなたになにをどうすればいいんですか」
「探偵に調べさせたんだから、事実だよ」
「探偵の調査がすべて正しいと決まったものではありません」
「あんたも調べたら?」
「俺は父の……あなたに言う必要もないな。俺はどう行動すればいいんですか」
「だからあたしはあんたが大嫌いなんだよっ」
 ミルキーのほうが逆上して、憎悪のこもった声で叫んだ。
「公表はしないでくれって、土下座しなよっ」
「公表したいのならばすればいい。週刊誌だか月刊誌だかが正式に調べてくれるのかな。そうもせずにガセでもいいから載せるんだろうか。俺の親父のそんなネタにニュースバリューがあるとも思えないけど、スキャンダル雑誌やワイドショーには格好の話題なのかもしれませんね」
「あんたっててめえをものすごく上等な人間だと思ってるだろ」
「だとしたら?」
「……大嫌いだ」
 がたんと音を立てて立ち上がり、ミルキーが店から出ていく。回りの客たちがこっちに注目している。今夜もミュージシャンが多いお客たちには、乾さんの知り合いもあたしの知り合いもいる。乾さんは彼らに軽く会釈した。
「悪かったね。吸ってもいい?」
「あたしも吸うから」
「ミルキーさんは嫌煙家だったよね」
 そんなことは知らなかったけれど、今日は煙草を持ってきていなかったから吸わなかっただけだ。あたしは煙草がないと耐えられないほどの愛煙家ではない。
「一本ちょうだい」
「どうぞ」
 セブンスターを一本もらって、乾さんが火をつけてくれた。
 ミルキーのネタを話題にする気にはならなくて、昨今の禁煙運動ってヒステリックだよね、という話をする。ミュージシャンには喫煙する者も多いけれど、ヘルシー志向の奴もいて、だから私はキースとは寝るだけの仲がいいのだ。
「昔は成人男子は煙草を吸うのが当然みたいなもので、吸わないとむしろ、なぜ? ってなもんだったよ。昔から煙草ってものは身体に悪かったんだろうけど、精神にはよかったのも昔からだろ。煙草自体はなんにも変わっていないのに、日本人の意識が変わっただけじゃないか」
「アメリカが風邪を引くと、日本がくしゃみするって言うよね。だけどさ、煙草を吸う男の中には、女は吸うなって奴もいるよ」
「俺はそうは言わないよ。ミズキちゃんも喫煙ポーズが決まるようになってきたね」
 ヘルシーなんてものには背を向けたいロッカーとしては、嬉しい褒め言葉だった。
「でも、男の身勝手で言わせてもらえば、妊娠出産を控えた若い女性はやめたほうがいいとは思うんだけどね」
「そしたら、あたしの前で吸うなよ」
「それもそうだ」
「いいんだ。あたしは妊娠も出産もしないから」
「そんな主義もミズキちゃんの自由だけど、それは誰のせい?」
「あたしは不健全なロッカーだからだよ。女ロッカーが妊娠や出産ってかっこ悪いもん」
「結婚してママになってる女性ロッカーは珍しくないだろ」
 それでもあたしはそうはしたくない。結婚は絶対にしない。未婚の母だったらちょっとかっこいいかとも思うけれど、出産は痛そうだし育児はわずらわしいだろうから、母になんかなりたくない。
 できれば早死にしたいけど、長生きしてしまったとしたら魔女みたいなおばばになりたい。長い長い爪を真っ黒に塗って、プラチナの髪に沢崎司みたいなエメラルドのメッシュを入れて、超派手な衣装をつけて、ころびそうにヒールの高い靴を履いて街を闊歩する、人々の度肝を抜くおばばロッカーになるつもりでいる。
「ならばぜひ俺も長生きして、そんなミズキちゃんに会いたいな。うちの祖母は別の意味で妖怪おばばだったんだけど、あのひとは長生きはしてないからね」
「乾さんはどんなじいさんになるの?」
「若い者に説教ばかりする、頑固じじいかな」
「そのまんまだね」
「言えてるな」
 乾さんにはじめて会ったのは、あたしが十七歳のときだったか。
 エターナルスノウのミズキとしてデビューして、新人ロッカーが出演するジョイントライヴで燦劇と知り合った。うちのキースと燦劇のギターのエミーが知り合いだったから、お互いのメンバーを引き合わせたのだった。
 燦劇がフォレストシンガーズと同じ事務所に所属していると聞き、頼んでスタジオに連れていってもらったのは、あたしがフォレストシンガーズのファンだったからだ。
 どんな男たちなのかは知らないで、歌がかっこいいからファンになり、燦劇の五人にスタジオに連れていってもらう前に、公園で先にシゲさんに会った。当時は新婚さんだった本庄シゲさんは素朴で可愛い男で、あたしは彼を好きになった。
 好きとはいっても、親戚のおじさんが好きって気分だったか。悠介さんは兄のように、かなわぬ恋だからこそ代償として兄のように好きになり、シゲさんには危険さもきわどさもセクシーさもないから、おじさんを好きになるように好きになった。
 大人になったつもりのあたしは、あのころの自分の気持ちをそう分析している。
 それからフォレストシンガーズのスタジオに連れていってもらって、他の四人にも紹介してもらって、乾さんを嫌いになった。最初からムシの好かない奴だと思っていたのだから、理屈ではない。嫌いなものは嫌いだ。
 子供だったあたしを子供扱いしたから。かっこつけてすかした歌詞を書くから。小さな理由が積み重なって、会えば会うほど乾隆也を嫌いになった。
 シゲさんは好き。あとの三人はどうでもいいかな、があたしの感覚だったのだが、三沢さんや木村さんはあたしの美少女ぶりにいかれていたみたい。自分で言うのもなんだけど、十代のあたしはそれこそ、花の精のごとき美少女だったのだから。
 あんな小娘のあたしよりは今のほうがいい女だよ、ではあるのだが、男は美少女には弱い。あたしの外見ばっかり見て、燦劇のファイとエミーにも恋をされた。
 友達のココを連れてスタジオに遊びにいったり、ファイとエミーに競うように告白されて、あたしの心には悠介さんしかいなかったのだから当然、断って。いろんなことのあった十代後半は、あれはあれでとっても楽しかった。
 フォレストシンガーズはロックではないから、エターナルスノウとは歌う場所が微妙に異なる。仕事で会う機会はほとんどなかったものの、幾度かは会った。山荘で一緒にごはんを食べたり、乾さんなんて大嫌い、と言ってみたり、遊園地でメリーゴーランドに乗ったり。
 メリーゴーランドが回るように時がすぎ、あたしは二十代半ばに、乾さんは三十代半ばになり、その間にもふたりともにいろんなことがあったはず。
「本橋さんと美江子さんは結婚したんだよね」
「ああ。シゲにはふたり目の息子が生まれたよ」
「乾さんは結婚しないの?」
「したいんだけど、相手がいないんだよ」
「その説教好きを直さないと、彼女はできないよ」
「そうだねぇ」
 肝腎の話なんかちっともしないで、世間話みたいに話して、ゆっくりお酒を飲んでいる。乾さんを嫌いだったのはガキのあたし。こうしてふたりでお酒を飲むのも、けっこう楽しいなんてはじめて知った。でも、多香子の件はどうするつもりなんだろう。
「徳永さんとは同じ大学だったよね」
「エターナルスノウは徳永渉と同じ事務所だったね。親しいの?」
「親しくはないけど、会うとすこしは話をするよ」
 歌手に学歴は関係ないだろ、と思うのは高校中退のあたしの強がりか。悠介さんは勉強も猛烈によくできたらしいし、キースも秀才だし、徳永さんにしろ乾さんにしろ大学出だ。
 内緒だけど、あたしはインテリや高学歴男が好き。これも悠介さんを基準にして考えるからだろうけど、頭のいい男は好きで、そのためにキースとだったらたわむれの恋人同士もいいかなぁ、なんて思うようになったのかもしれない。
 で、徳永渉。彼はフォレストシンガーズ全員と同じ大学出身だ。そうと知ったのはあたしたちが所属しているVAN音楽事務所の誰かが話してくれたからだった。
「徳永さん、あたし、乾隆也って嫌いなんだよね」
「そうか。俺もだ。俺は本橋真次郎も大嫌いだよ」
「あたしは本橋さんは嫌いでもないけど……」
「半分だけは意見が一致したな」
 しごくクールにそう言った徳永さんの名前は、ミルキーの口からも出ていた。徳永渉とも金子将一とも……寝た? 金子さんも乾さんや徳永さんと同じ大学。本当なのだろうか。
 ミルキーの話をすると、自然に多香子の話題になる。だから口にはしない。
 多香子って乾さんの中ではどんな存在? と尋ねるには、あたしは多香子という女を知らなさすぎる。けれど、彼女と私には兄のような、そうではないような、そうなのかもしれないような、そんな男がいるという意味では共通点があって、会ってみたいような気もしていた。


 ライヴハウスでエターナルスノウの仕事をして、終わってシャワーを浴びて着替えてから、キースを呼び止めた。
「デートしようよ」
「ああ、いいよ。気が変わったのか」
「あんたとデートしてやってもいいってふうには、気が変わったよ」
 怜悧さが表情にもあらわれているような整った横顔。白皙の秀才とはこういう顔つきを言うのか。細身で背が高くて、このタイプの男が好きな女には絶大な人気を誇る。若いころには女をとっかえひっかえしていたのはあたしも知っているけれど、三十歳が近くなってきて、決まった女を持ちたくなってきたのだそうだ。
「おまえだったら気心も知れてるし、結婚はしなくても決まった男、決まった女、ってふうになれるだろ。おまえは結婚はしたくないって言うんだし、俺もそのほうがいいんだし」
「だから、今んところはあたしはあんたとしか寝てないんだから、それでいいだろ」
「それでいいのかなぁ」
 ロッカーのくせして、約束なんかほしがるな。と、あたしはロッカーとしての格好を気にしてしまう。そうやって意識しすぎるのはかっこ悪いと、キースは言うのだった。
「おまえは意外と支配的関係ってのを好むんじゃないのか」
「男に支配されるのなんていやだよ」
「兄ってのは立場が上だろ。悠介さんを兄と慕い、あったかく叱られるとじんとするなんて言ってるのは、そういう関係を好むってことだよ。俺だってそうしてやってもいいぜ。年上なんだし、精神的におまえを支配して、なんだったら叱ってもやるよ」
「あんたになんか叱ってほしくないよ」
 悠介さん以外の男になんか叱られたくない。いばられるのもまっぴらだから、あたしは男には支配されたくない。乾さんが大嫌いだったのは、彼が説教したがるからだ。なのに悠介さんにだったら支配されてもいいなんて、あたしは一部、歪んでいるのか、古風なのか。いいや、悠介さんは特別だからだ。
 プライベートで会うとそんな話ばかりしていて、あたしは言う。今のまんまでいいじゃん。キースは言う。うーん、そうかな。ってわけで、結論は出ていないのだった。
「メシ食うか。酒か」
「その前に、行きたいところがあるんだよ」
「どこ?」
「いいからさ」
 腕に腕をからめて、ぐいっと引っ張った。
「どこだっていいけど、俺は腹が減ったよ」
「メシはあとだよ。ねぇ、キースはエミーとは仲良くしてるの?」
「最近はメールもしてないな。ロッカーってのはなんにもしなくてもロッカーなのに、エミーもおまえもロッカーらしくしようと格好つけて、そのほうが滑稽なんだよ」
 格好つけロッカー、下手なギタリストの燦劇のエミーは、活動を休止してロスアンジェルスにギター修行に行ったのだそうだ。ビジュアル系ロックバンドは本意ではなかったと、燦劇の休止を言い出したのもエミーだと聞いている。
 あたしはエターナルスノウの音楽は嫌いではないけれど、ヘヴィメタがやりたいなぁ、と言っては、女には向かないだろ、とメンバーたちに言われて、むくれたりしている。なのだから、エミーの気持ちはわかる気がしていた。
「俺は金管楽器だろ。ギターの奴とは感覚がちがうのかもしれないよ」
「燦劇は活動再開するんだろか」
「それは当事者が決めることだけど、俺はあのまんまだらーっと解散するんじゃないかと思うな」
「そしたらあたし、エミーとヘヴィメタやろうかな」
「エミーはヘヴィメタ志向ではないだろうし、あんな奴に近寄るなよ」
「近寄りたくなったら近寄るよ」
 ファイとエミーに口説かれて断った一件は、キースにも話した。今さらこだわっているのだろうか。
 おかしな顔をしてうじゃうじゃ言っているキースとふたり、地下鉄に乗って降りた駅は、あたしがずいぶん久し振りで来る場所だった。
「こんなところになにがあるんだ」
「いいからついておいでって」
 やがて見えてきたのは「オフィス・ヤマザキ」の事務所。キースが察したようでぎくっと足を止める。かまわず引っ張り続けて、フォレストシンガーズのスタジオに到着した。
「この間、乾さんに会ったって言っただろ。あのときに聞いたの。乾さんってケータイのメルアドも変えてないし、フォレストシンガーズはスタジオも同じところなんだよね。今夜だったらスタジオにいるって聞いたから、言いつけてやろうと思ってあんたを連れてきたんだよ」
「……ちょっと待て」
 なにを言いつけるつもりなのかも察しているようで、キースはあたしの腕を引き抜いた。
「そんな昔の話……あのさ、白状するから許してくれよ」
「なにを?」
「おまえがエミーの話をしたとき、俺は変な顔になってただろ」
「なってたね」
 七、八年も前にエミーとファイに告白されて、あたしは両方を断った。エミーだってファイだって背が高くて顔もいいもてもてロッカーなのだから、痛手でもないだろうと思っていたのだが、ふられるってのはダメージになるらしい。
「エミーが落ち込んでるみたいだから、あいつにクスリをやったんだよ」
「麻薬?」
「じゃなくて、媚薬だ」
「媚薬?」
「とはいっても俺が作ったやつだよ。とはいっても効果はためしてあったんだ。あのころの俺の彼女に飲ませたんだよ」
「ひどっ」
 だからこんな奴の彼女になると、ろくなことはないのだ。
「エミーには嘘を言ったってか、事実を半分ほど話したんだったかな。別の効果をためしてみたかったんだよ」
 キースに恋をしている彼女ならば、媚薬を飲むと常のベッドタイム以上に燃えて乱れて激しくなるだけだ。まちがいなく効果はあると知ったキースは、はたとひらめいた。
「そいつに恋なんかしてない女に飲ませたらどうなる? 俺に恋をしていない女ってのは何人もいるけど、ミズキだったらどうなるか……」
「うう」
「俺はあのころはおまえは妹ってか、友達ってかだとしか思ってなかったから、抱きたいって気はなかったんだよ。そんなころにファイとエミーがおまえに告白したって聞いただろ。俺はファイは嫌いだったから、エミーだ。エミーに協力してやろうってさ」
「それでエミーに、そんなクスリを?」
「ミズキに飲ませておまえの想いを遂げろってさ……でも、エミーは使わなかったんだろ」
「あたしには使わなかったはずだけど、他の女に使ったかもしれないね」
「ミズキ、そんな怖い顔をするな。ごめん。告白したんだから許せ」
「そんな話を聞くとますますだな」
 スタジオのドアを開けながら、振り向いて指で招いた。
「キース、いらっしゃいな」
「気持ちの悪い猫撫で声……行けばいいんだろ」
 覚悟を決めたらしきキースがついてくる。こんばんはーっ!! と大きな声で言ってドアを開けると、本橋さんと乾さんの姿が見えた。
「シゲさんはいないみたいだね。キース、かわいそうに」
「なんでかわいそう?」
「シゲさんがいたらかばってくれるだろうに……」
「なにからかばってくれるんだよ」
「両方の告白をしなさい」
「両方ってなんだよ」
 なんだか逃げ腰になっているキースを前に押し出すと、本橋さんが言った。
「ミズキちゃん、久し振りだな」
「彼はきみんところのバンドのキースだろ。話しはしたことがあるよね」
 乾さんも言い、キースは頭を下げ、あたしも言った。
「昔、あたしはよくないいたずらをして、悠介さんに叱られたんだよね。あのときは悠介さんにほっぺたをぶたれて泣いたの。あれはあたしも悪かったんだけど、悪い奴は他にもいたんだよ」
「いつの話だ、ってな昔のことだけど、キースって化学系の学者でもあるって聞いた覚えがあるな。ははーん、なるほど」
「乾、なんの話だ?」
「話の流れを読めよ」
 本橋さんは首をかしげ、乾さんはそこはかとなくにやついている。キースは言った。
「こうなりゃ言っちまいますよ。ミズキはずっと言わなかったんだから、闇に葬り去られたってのか、迷宮入りになったらそれでいいと思ってたんだけど、ミズキが言う気になったんだったら俺も言います。すみませんでした」
「だから、なんの話しだよ」
「本橋さんって鈍いんですね」
「よく言われるよ。悪かったな」
「本橋さんの奥さんがからんでる話です」
「……? ……あれかっ!!」
 それともうひとつ、とキースは、エミーにあげたという媚薬の話を先にし、乾さんが言った。
「そんな話は初耳だけど、きみはレベルのちがういたずら小僧なんだな」
「悪質だよな。うん、俺にもわかったよ。追求はしなかったあの薬の出所はおまえだな」
「はい」
 弁解したり逃げ隠れしたりしようとしない、キースって潔いんだな。悪質ないたずら小僧であるのは否めないし、やばい奴でもあるけれど、こういう性格は嫌いではない。
「ったって今さらだな、本橋、どうする?」
「おまえは喧嘩は強いのか」
「強いわけないでしょ。俺は研究室で本領を発揮するタイプですよ」
「いばるな、馬鹿野郎」
 背丈はキースが一番高いが、体格は一番細い。年齢的にも乾さんや本橋さんよりは若いキースが半ば居直り、半ば反省しているのは可愛くも見えた。
「乾、どうするべきだろうな」
「あのころは奥さまではなかったとはいえ、おまえの愛妻が主役だった出来事だろ。おまえの判断でどうにでもしろよ。俺は止めないよ」
「おまえがキースについて、二対一でバトルをやろうか」
「……なんでそうなるんだ」
「俺はおまえに仕返しする必要があるからだ」
「ああ、あれ? あれは別件だろ。キース、今夜は仕事は終わったのか?」
 うなずいたキースに、本橋さんもうなずいて歩み寄ってきた。本橋さんが拳を出す。キースの顔にげんこつが飛ぶのかとあたしは目を瞠り、キースも目を見開く。が、こぶしはややスローに動いてキースのおなかのあたりで止まり、キースは両手で本橋さんの拳を押し戻そうとした。
「……これぐらいはできるんだな」
「油断大敵だぞ」
 笑って言った乾さんの声と同時に、本橋さんの左の拳が顎に炸裂し、キースはノックアウトされてしまった。


3

 他のメンバーは来ていないようで、本橋さんと乾さんはフォレストシンガーズのコーラスアレンジの作業をしていたのだと話してくれた。
 お兄さんがふたり、そこにキースとあたしも加わって、音楽の話をする。キースは顎に缶ビールを当てていて、いでいで、うぐうぐ、などと唸っていた。
「キースの専門はトロンボーンか。ジャズではなくてクラシック出身なんだね」
「中学、高校ではブラスバンドをやってたんですよ」
「音楽と理科の両方か。俺は理系は苦手だから、本橋とのほうが話題がはずみそうだな」
「俺は化学じゃなくて天文学や宇宙だし、そいつもほとんど忘れたよ」
「本橋はクラシックも得意だろ」
「ピアノだけど、そっちの仕事もしてるよ」
「俺もそれは知ってますよ」
 十代の終わりごろには、燦劇の誰かにくっついてこのスタジオに遊びにきていた。小生意気な小娘だったあたしは、本橋さんや乾さんにくってかかったり、シゲさんに言ったりした。
「奥さんと別れてミズキと結婚しようよ」
 真っ赤になって焦っていたシゲさんを思い出すと笑えてくる。
「俺の愛する女は恭子だけだーっ!!」
 なんて叫んでさらに真っ赤になって、三沢さんや木村さんに冷やかされていた。そんなにも愛されていた恭子さんは、二児の母になっている。そういう幸せもあってもいいけど、あたしはほしくない。
 そしたらあたしはなにがほしいの? 悠介さんに愛されたいとは、現実感がなさすぎて望めもしない。悠介さんの本当の妹になりたいってのも、あり得ないのだから現実感はない。悠介さんに抱かれたい? 今さらじゃない? 愛されるってどういうこと? わかんねーよ。
 ロックバンドとしてスーパースターになるってのもいいけれど、スターになりすぎると問題も起きてくる。グラブダブドリブは私生活では干渉し合わないのがポリシーだそうで、そのおかげでもめごとにはならないと言っているけれど、悠介さんと司さんは仲がいいから、干渉もしなくもないみたいで。
 にしてもグラブダブドリブは十年以上もメンバーチェンジもなく、大きな争いもなく続けている。フォレストシンガーズも同じだと気づいて尋ねた。
「本橋さんと乾さんって喧嘩しないの? 他の三人は後輩だから、先輩には楯突かないんだって聞いたけど、同い年同士だと口喧嘩はする?」
「口喧嘩なんてのはいつだってしてるってか、俺は口では乾に負けるよ」
「そうだろうね。手の出る喧嘩もするの?」
「それは案外、ないんだよな。俺が挑発しても乾が乗ってこないせいだったんだけど、実は先だって……ついにやった」
「あれは喧嘩じゃないだろ。嬉しそうに言うな」
 なんでそんなものが嬉しいのか知らないが、本橋さんは先日、生まれてはじめて乾さんに本気のパンチをもらったのだそうだ。さっき、俺はおまえに仕返しする必要がある、と言っていたのはそれだったらしい。
 理由は教えてくれないけれど、本橋さんが嬉しそうなのは……あたしにはそのわけがわからない。あんたにだったらわかる? と見返すと、キースは顎を撫で撫で言った。
「本橋さんの気性からすると、乾さんの喧嘩の強さを知れて嬉しいとか?」
「前々から言ってたもんな。乾の本気のパンチの威力が知りたいって」
「それはあったんだけど、俺はあのときには酔ってたんだよ。酔ってたから平素の力も瞬発力も判断力も本能も激減してたんだ。そうだ、キース、ジャッジしろ」
「やめろ、馬鹿野郎」
 男同士でだったら乾さんも、馬鹿野郎って言うんだな。微笑ましく見ていると、本橋さんが言った。
「おまえらは喧嘩はしないのか」
「口争いだったらありますよ。殴り合いもなくはないな」
「すると、ミズキちゃんは慣れてるだろ。男同士の荒々しい諍いってのを見て、怖いって泣いたりはしないだろ」
「こいつはそんなしおらしいタマではありません」
 キースが断言し、乾さんは言った。
「男ばっかと仕事してるミズキちゃんは平気だろうけど、俺はお断りだぜ」
「キース、こいつを押さえてくれ」
「いやです」
 フォレストシンガーズの喧嘩の話が、実戦の話しになるわけ? どうしてこうなるのか知らないけど、やりたかったら勝手にやればいい。三人ともに言っている通りに、男たちの争いだの蹴飛ばし合いだのぐらいだったらあたしはへっちゃらだ。
 美江子さんもあたしに似た立場で、そんなのはへっちゃらなのだろうか。山荘で生まれてはじめて、誰かに叩かれたのは美江子さんのせいで、美江子さんに悪いいたずらをしたのはあたしなのに、しばらくは彼女を恨んでいた。
 あれからしばらくは悠介さんも恨んでたっけ。女の子の顔を叩くなんて……お兄ちゃんだって許さない……ミズキの綺麗な顔に傷でも残ったらどうしてくれるのよっ。夜の間は部屋にこもって鏡を見て呪詛の言葉を吐いていた。
 実際には傷がつくほどの強さでもなく、いつしか恨みが薄れていって、悠介さんだったら許してあげる、になっていった。でも、美江子さんは許さない。美江子さんも乾さんも大嫌いだ。
 考えてみれば許す許さないって、許してもらうのはミズキだろ、であるのだが、小娘ってのはそんなものなのだ。自己愛と自己憐憫と自己弁護ばっかりにこりかたまっていたのだから、あんなガキこそが度し難いのである。
 簡単に人を嫌いになったり、怒ったり泣いたり恨んだりしていたあのころ。今となってはなつかしい。美江子さんはあたしが嫌いかなぁ。大人なんだから、いつまでも嫌ったりしてないよね。またまた勝手なことを考えて、ひとりでうふふと笑う。
 思い出し笑いなんかしているうちにも、男たちはごちゃごちゃ話している。やろうぜ、って本橋さん、いやだ、と乾さん、俺は関係ないのに巻き込まないで下さい、とキース。美江子さんもこんな男たちのお守りは大変だろうなぁ。苦労は察してあげるわよ。
「ねえ、そんなことよりもね、乾さん」
「ん?」
「あれははっきりさせたいの、させたくないの?」
「させたくないよ」
 あれってなんだ? と本橋さんにつつかれ、乾さんは言った。
「世の中には知らないほうがいいって事実もあるだろ。両親にだって秘密ってものがあって、息子には探られたくないことがあるはずじゃないか」
「あるだろうけど、ミズキちゃんがなんでおまえの親の秘密に関知してるんだ」
「たまたま聞きかじって、心配してくれてるんだよな」
「そうだけど、うん、わかった。キース、帰ろうよ」
「帰るのか」
「ここにいると暴力に巻き込まれるよ」
「そうだな。帰ろうか」
 無愛想な学者気質と、傍若無人なロッカー気質が同居した性格のくせに、キースは礼儀正しくもできるようだ。丁寧に乾さんと本橋さんに辞去の挨拶をしたキースとふたり、スタジオから出ていった。
「痛かった?」
「まだ痛いけど、あのくらいは当然の制裁かな」
「そだよね。あたしだって悠介さんにお仕置きされたんだもん」
 だけど、あれは悪いのはあたしだ。あのクスリをくれたときに、キースは言った。
「おまえはガキだから、男に色っぽく迫るってのができないんだろ。いくら美少女だって、色気がなかったらそそられないんだよ。これを飲むと色気が出てくるはずなんだから、好きな男とふたりきりになったら飲めよ。効果はあるはずだぜ」
 ミズキが飲めと言ってくれたのに、いたずらに使ったあたしが悪い。なのに、キースは言い訳はしなかった。そんなふうに使われるとは思ってもみなかった、とも言わずに潔く本橋さんに詫びて、潔く殴られて、いででで、と唸っていた。
 渾身のパンチでもなさそうだったのに、あれしきでノックアウトとは情けなくもあるけれど、軟弱化学者兼ロッカーなのだからこんなものか。
「おなかすいたね。なにか食べてから、キースのマンションに行こうよ」
「うまいものを作ってあげる、とは言わないのか」
「甘えるな」
「へいへい。行こうぜ」
 ほんのちょっっぴり優しい気持ちになるなんて、あたしは根はロッカーでもないのかなぁ。根っこのところは可愛い女だから、ロッカーとして格好をつけようと努力しているのか。かもしれないけど、だとしても仕方がないし。
 本橋さんは多香子を知っているのだろうか。乾さんはあの話を本橋さんにするのだろうか。それはあたしには無関係だから乾さんにまかせよう。


「We'll Still be hangin' on
ひとりにはなれないから
 We'll Still be hangin' on
 そばにおいで
 もっと愛さずにはいられない
 We'll Still be hangin' on」

 ベッドでキースが口ずさんでいるのは、女ばかりのハードロックバンドの歌。
「あたしに言ってるの?」
「いや、まあ、このまんまでもいいかなぁ」
「そうだよ。このまんまでいいの」
「おまえがいいんだったらいいよな」
 肌が合う、性格もきっと合っている。趣味も合っているし、外見も好みに合っている。キースのほうもあたしの外見や中身が好みに合っているはず。
 悠介さんがいなかったら、あたしはひとりぼっちだから。キースでもいいからそばにいてほしいから。普通の男はこんな仲になったらあたしを束縛したがって、結婚しようって言い出すだろうから。変人のキースがいい。キースは結婚なんかしたくないって主義の仲間だ。
 兄と妹、悠介さんとあたしは近い境遇で育った擬似兄妹。あんな男を好きにならなかったらよかったのに、と言ってみても、好きになってしまったものはどうしようもなくて、長く彼に心を呪縛されていた。
 今でもあたしは悠介さんが好き。だけど、本当の妹だったらややこしい心境にならなくていいのにね、と思う。昔は実は逆に考えていた。妹だったら恋人にはなれないんだから、実の兄妹じゃなくてよかった。
 あんたはどうなの? あんたは乾さんを好き? 兄さんだったらいいと思う? ちがったほうがいいと思う? いつかあんたに会えたら尋ねてみたい。あたしは多香子に会ったこともないのに、ミルキーに聞かされて、自分の気持ちを見つめ直した。
「多香子に会ってみたいな。乾さんって金沢出身だって言ってたっけ。キース、今度の休暇には金沢に行こうか。こら、寝るな」
「んん? 金沢か。いいな」
 多香子って誰だよ? とは問い返さずに、キースはあたしをぎゅっと抱いてキスして、眠りの中に戻っていく。キースの顎が赤く腫れぽったくなっていて、つまんで痛がらせてやろうかと思ったのを考え直してあたしもキスしてあげた。
 あたしには関係ないことなのに、ミルキーのおかげでさまざまに考えた。今夜はキースのいいところも知った。あたしって単純なのかな。潔い男って好き。もとから嫌いじゃないから寝たんだけど……だけど、このまんまでいいよね。このまんま続けていけたら最高だよね。
 ミルキーのおかげというよりも、ガキではなくなったのだから、きちんと考え直すのが当然の時期にきていたのだろう。そう思えるようになったのはキースの存在ゆえ?
 理屈をふりかざさなくても、あたしはキースが好きなんだろうな。だから、このまんまでいいよね。あんたがあたしを好きでいる限り。あたしがあんたを好きでいる限りは。


END
 

 
 


 
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