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小説283(吾亦紅)

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フォレストシンガーズストーリィ283

「吾亦紅」


1

 写真スタジオに活けられていた花かごの中に、暗赤色の地味な花を見つけた。
「これ、なんていう花?」
「ああ、ワレモコウだよ」
 吾木香、吾亦紅とも書く。英語ではGarden Burnet、乾さんはすらすらと教えてくれて、手帳に書いてくれた。ワレモコウ、我も恋う、吾もこうありたい、そんなフレーズとも通じるね、それから、花言葉はこんなの。
 私も手帳にワレモコウの花言葉を書き写した。あのときの乾さんの声も、微笑みも、花言葉も手帳を見なくても思い出せる。大好きだったひと、乾さん。彼が教えてくれたワレモコウの花言葉は、私の乾さんへの想いと一致している。
 
 もの思い、愛して慕う。
 感謝、変化。
 移ろいゆく日々。

「千鶴はこんな地味な花が気に入ったのか? ワレモコウだったら野原に自生してるんじゃないかな。とはいえ、東京から近いところでワレモコウが見られるかな。百草園にだったらあるかな。金沢の親のうちの庭にもあるよ」
 そう言ってから、乾さんはにっこりした。ただし、季節はずれだ。ワレモコウは夏から秋にかけての花だから、季節はすぎたね。乾さんがそう言ったのは、冬のある日。
「乾さんが生まれて育った家って、どんなおうち?」
「華道家の祖母が家刀自として君臨してたんだよ」
「いえとじ?」
「辞書を引きなさい」
 言葉の意味なんかわからなくても、乾さんの声を聞いているだけで幸せだった。あの日は邪魔者のいない静かなレストランに連れていってもらって、ごはんを食べるのもお留守にして乾さんに見とれ、乾さんの声を音楽のように聞いていた。
「俺は乾とわ子と隆之助のひとり息子で、母はその母、俺から見ればばあちゃんの跡を継いで華道家として働いていた。父は和菓子匠でもあり、和菓子商でもあった」
「わがししょうとわがししょうって別々? うん、辞書を引くから」
「そうだね。そんな夫婦の間に生まれた隆也坊やは、ばあさんに育てられたんだよ。おまえにもすこしは話しただろ。古臭い思想を持つ祖母に育てられたから、俺の思想も古いんだ。いたずらっ子やわがままっ子は、口で叱られても聞かないだとか、何度も同じおいたをするだとか、そういうときには尻のひとつくらいは叩いて叱ったほうがいい。こんな主義も古いだろ」
「古いのかなぁ」
「千鶴はお父さんに尻を叩かれて叱られたことはある?」
「ない」
「今どきの親はそうさ」
「千鶴にお仕置きをしたひとは、乾さんだけだよ」
「あんなものはお仕置きってほどでもないけど、軽くとはいえ、叩いたもんな」
 ほら、食え、と言ってから、乾さんは続きを話してくれた。
「俺もそうやって祖母に育てられたんだよ。純和風の家で、純和風のばばあに古くてきびしい躾を叩き込まれた。ほんのガキのころから、口答えをしてひっぱたかれたり、蔵に入れられたり、子供はそんなことは知らなくていいんです、って一喝されたり、なんて口だろ、この口は、って口元をひねり上げられたりさ」
「こわぁ」
「怖いばばあだったよ」
 だけど、そんなばあちゃんが好きだったよ、とも乾さんは言っていた。
「祖母が本を読んでくれたり、道徳的な説教をしたり、ばあさんらしい食いものを与えてくれたりしたから、俺はガキのころからおじんっぽかったのかな。小学校の一、二年のころだったら祖母を信奉してたけど、そのうちには反抗的になって、日ごと夜毎、祖母と孫息子の舌合戦」
「それで乾さんは口達者なんでしょ」
「そのようだな。目を閉じると、祖母が生きていたころの家のたたずまいが浮かんでくるよ。祖母に口答えをして灰皿を投げつけて、ひっぱたかれてから掃除をさせられて、一夜を蔵で明かしたんだ」
「朝まで? 泣かなかったの?」
「泣くかよ」
 意地っ張りの小学生の隆也くんは、怖いおぱあちゃんにお仕置きされても泣かないで、一生懸命我慢していた。怖かっただろうにね。千鶴お姉ちゃんがそこにいたら、一緒に蔵に入ってあげるのにね。そんな想像をしようとしても、うまくできない。私は隆也くんのお姉ちゃんではなくて、隆也さんがお兄さんのほうがいい。もっと言えば……。
「千鶴の思い出話も聞いてくれる?」
「聞きたいな」 
「母は実は、私が小学生のころぐらいまではよそで生きてたんだって」
 他人にはめったにしない話しをはじめた。父が私を育ててくれたとはいうものの、おざなり育児だった。幼いころの私の記憶はこんなものだ。


 パソコンに向かっていた父が、私を手招きした。
「よかったな、千鶴は。こんな親に育てられなくて」
「どんな親?」
「読んでみな」
 横から覗き込んだパソコンには、「子供なんて大嫌い」という名称のサイトが表示されている。父が示した書き込みは、こんなふうだった。
「私は近頃、わが子が邪魔で仕方ない。この子のせいで私は仕事のキャリアもなくし、主婦という名の奴隷階級に甘んじなくてはならなくなったんだ。時々うさ晴らしに苛めてるんだけど、心なんかまるで痛まないよ。ここのサイトには子供を虐待している人のカキコもあって、みんな反省したり後悔したりしてるみたいだけど、なんで? いいじゃない。それで親の気が晴れるんだったら。私は苛めててもいらいらするばっかり。いっそ殺してしまいたいと思ってるんだよね。誰かいませんか。子供を殺す方法を知ってる人。もちろん完全犯罪じゃないと駄目だよ。私が殺したと絶対にばれないように、子供を殺せる方法があったらぜひ教えて」
 レスが数件。
「冗談? それにしても悪い冗談すぎますよ」
「まさか本気じゃないよね。冗談にしても度がすぎてる。管理人さん、こんな危険なカキコは削除すべきです」
「いい方法知ってるけど、ヤバイから書けない」
「殺すってのはあんまりだよ。私も子供を苛めてたんだけど、とにかく邪魔でしようがなかったんだよね。なんとかならないかと思ってたら、となりの部屋の女が児童相談所に通報して、そこから人が来たの。私が子供を虐待してるって言われて、子供を児童相談所の人間が連れてった。せいせいしたー。おかげで私は自由になれた。あなたも殺すなんてこと言わないで、そうしてみたら? 児童相談所に引き取ってもらえばいいんだよ」
 そうだよな、僕も実はそう考えたことがあるんだよ、と父が言った。
「なんつう親なんだろうな。僕は千鶴を殺そうだなんて、夢にも考えたことないぞ。ひとりじゃどうにも手におえないから、いろいろと考えたけどさ」
 こういうことを正直に、子供に言う親だって相当なもんだと思うけど、父はとにかくバカ正直なのだ。私がまだ赤ん坊だったころ、母が父に向かって言ったのだそうだ。
「私さぁ、子供嫌いだったんだよね。やっぱりそうなのよね」
「じゃ、千鶴も嫌いなのか」
 さすがに父は、あらぁ、自分の子は別よ、との答えを期待していたのだと言う。だが、母はこともなげに答えた。
「うん」
 その答えを深く考えもせず、突っ込んで話し合おうともせず、父はそのままうやむやにした。その数日後、父が仕事から帰宅してみると、赤ん坊の泣き声が家の中に響いていた。父はぎくっとして逃げ出したくなったのだが、恐る恐る部屋に入ってみた。
「おなかをすかせた千鶴がぎゃあぎゃあ泣わめいてた。おしめはぐちゃぐちゃ、着ていた服はよれよれ。いつからほったらかされてたんだか知らないけど、ママの姿はなかった。千鶴が手になにやら紙を握りしめてたんだけど、その紙もぐっちゃぐちゃでなにを書いてあるのか読めなかった。千鶴がしゃぶったんだろうな。たぶんママの置手紙だったんだろうけど、よだれで紙がとけかけてたし、だいぶ食べちまってもいたみたいだ」
 そうだ、妻は子供が嫌いだと言っていた。我が子の千鶴も例外ではないと言っていたではないか。つまり、妻は子を捨てて出奔してしまったのだ。
 父はそうと理解した。とにもかくにも慣れない手つきでおしめを換え、服を着替えさせ、ミルクをこしらえて飲ませ、てんやわんやのひとときのあとに私が眠ってしまうと、父は床にぺたんとすわり込んで途方にくれた。
「ママに育児はまかせっぱなしだったから、どうしていいのかわからなかったんだよ。それでも僕は千鶴を殺そうとは思わなかったよ」
 普通の神経の父親ならば当然だろう。
「僕らはふたりとも、両親とは行き来がなかったんだ。もともと親に反対された結婚だったからね。両親は田舎にいたし、今さら泣きついたりしたら、それ見たことかと嘲笑われる。それだけは避けたかった。僕には弟がいたけど、あいつはまだ若くて頼るってのもな……それで、翌日は風邪を引いたと言って仕事を休み、千鶴をこれからどうするか考えた。まずひとつの方法を思いついたんだ」
 父は警察に電話をかけた。
「妻が子供を捨てて家出しました。僕ひとりでは育てていけません。引き取って施設に入れてもらえないでしょうか」
 呆れた口調で、警官は言ったのだそうだ。
「奥さんは昨日家出したばかりなのでしょう? 二、三日待てば帰ってこられるかもしれない。先に家出人の失踪届を出すべきです」
「失踪届を出せば探してもらえるんですか」
「奥さんは成人です。成人の家出は個人の自由であって、犯罪と関わりでもない限りは警察は手を出せないのですよ。失踪届というものは、そのように犯罪と……まあ、たとえば身元不明の遺体が発見された場合などにですね、いや、縁起でもないことを言って申し訳ないが、そのようなときの参考にするためと言いますか」
 警察は頼りにならないと決め、父はもうひとつの方法に取りかかった。なんと、結婚相談所である。
「はあ、子供さんの面倒を見てもらいたいために結婚したい?」
 結婚相談所の職員も呆れ声で応じた。
「あなたねぇ、そんな動機で結婚したいなんて、相手の女性に失礼だと思わないんですか。うちとしてはそんな人に女性を紹介するわけには参りません」
「そこをなんとかごまかして……」
「なにを言ってるんですか。ただでさえ男性は結婚難なんですよ。まして子持ちだなんて、再婚してくれる女性なんかめったにいません。第一、あなたの奥さまは昨日家出なさったばかりでしょう。離婚は成立してないんですよね、もちろん」
「そりゃそうですが」
「犯罪ですよ、重婚は」
「しかし、妻は事実いなくなって、僕は困り果ててるんです。子供の面倒を見てくれる人が必要なんです」
 重婚は犯罪だといわれても、警察の言う犯罪とはまた別だろうと、父はぼんやり考えていた。
「この時期では保育園に入園させるのは無理かもしれませんが、当たってみることをお勧めします。保育園が無理でしたら、ベビーシッターを雇うなりなんなりして、あなたご自身が子供さんを育てなさい。あなたがそんなだから、奥さまは家出なさったんですよ。私があなたの奥さまだったとしても家出しますわね。いや、こんな男に子供をまかせるなんて、私にだったらできないわ。まったくもう、近頃の夫婦は男も女も……」
 嘆き続ける中年のおばさんの声をさえぎるように、父は電話を切った。
「仕方ないよな。八方ふさがりってやつだ。しようがない。僕は保育園に片っ端から電話をかけた。幸い無認可の保育所に空きがあって、千鶴を預かってもらえることになった」
 はじめっからそっちを当たれ。警察だの結婚相談所だのを先にするところは、父は決して普通の神経の父親ではない。
「しかし、保育所の料金の高いことったら。時間延長なんかしたらますます高いんだ。おかげで僕はろくに残業もできなくなって、出世も完全にできなくなった。貯金もまるでない。千鶴のおかげですべてを棒に振ったのは、子供を殺したいと書いてる母親と同じだよ。だけど、僕は……」
「千鶴を殺そうとは思わなかった、ね。はいはい、ありがとう。おかげさまで千鶴はこんなに大きくなりましたよ」
 母が私を捨てたいきさつとそれからのてんまつを、父からはじめて聞かされたのは、私が小学生になったばかりのころだった。その後も何度も何度も繰り返しては恩に着せる。母は私がもっと小さいころに死んだのだと思っていたから、びっくりではあったのだが、聞きたくもない話だった。
 赤ん坊ではなくなったころに、ようやく認可保育所に移ることができ、料金もいくぶん軽減されたのだそうだが、それでも保育料は高かった。ゼロ歳からの約六年、私のために莫大なお金が消えてなくなってしまったのだそうだ。
「やっと千鶴も小学生か。これで保育料から開放されるよ」
「学童保育っていうのがあるんだって。保育所の友達はそこに行くって言ってたよ。千鶴は学童保育には行かないの?」
「とんでもない。もうお金がないんだよ。小学生にもなったら留守番できるだろ。学校から帰ったら掃除、洗濯、ごはんの用意だ。僕は千鶴のせいで出世コースからは完璧脱落しちまったんだぞ。これからはちょっとは恩返ししろ」
 あーあ。私は諦めたのだった。
 二年生になった夏休み直前のある日、短縮授業を終えてうちに帰ると、部屋の中でごそごそ音がする。私は一瞬期待した。顔も覚えていない母が帰ってきたのではないかと。私は部屋の中に声をかけた。
「ママ?」
 脱兎のごとく部屋から飛び出してきたのは、見知らぬ若い男だった。今のはいったい誰? 私が呆然としていると、となりの部屋のお兄ちゃんがドアを開けて顔を見せた。
「千鶴ちゃん、今帰ってきたの?」
「そうだけど」
「となりで物音がしてたから、千鶴ちゃんはとうに帰ってるんだと思ってたよ」
 我が家はマンションというよりも、アパートと名づけたほうが正確な壁の薄い集合住宅だった。私はたった今飛び出していった若い男のことを、お兄ちゃんに話した。
「泥棒じゃないのか、そいつ」
「え、ほんと?」
「なにか盗まれてないか」
 お兄ちゃんとともに部屋に入ってみると、部屋は荒らされ、箪笥の奥に隠してあった非常用の現金五万円がなくなっていた。
「パパに電話して、すぐに帰ってきてもらわなきゃ。俺が電話してあげるよ」
 浪人中のお兄ちゃんが部屋にいてくれて助かった。お兄ちゃんが会社に電話すると、しばらくして父が帰ってきて、お兄ちゃんに言ったのだった。
「千鶴はいるのか」
「いますよ、もちろん」
「なんだ、さらっていってくれればよかったのに」
「はあ?」
「いやね、千鶴がいなくなってたらよかったのになって。冗談ですよ」
 本気だったにちがいないと私は睨んでいる。
 翌年の冬には私たちの部屋から小火が出た。夜中にこげ臭いにおいを感じてふと目覚めると、ストーブに父のワイシャツがひっかかり、燃えかけているではないか。
「パパ、大変、火事だよっ!」
 なにも気づかず寝ている父をたたき起こすと、父は目を見開いた。
「千鶴、ワイシャツをなんとかしろ。このままじゃひどい火事になる。火を消すんだぞ。パパは外で消防車を呼ぶから」
「う、うん」
 そそくさと父は走り出し、私はほうきの柄を使ってワイシャツをストーブからはたき落とした。燃えはじめだったシャツに水をかけていると、またしても部屋に飛び込んできたのはとなりのお兄ちゃんだった。
「なにやってんだよ。そんなもんほっといて逃げなきゃ」
「大丈夫だよ。まだたいして燃えてないもん。アパート焼けちゃったら困るじゃない。ちゃんと消してから外に出る」
「そんなものはいいんだよ。早く逃げろ」
 手を引いて連れ出してくれたお兄ちゃんに、父は言った。
「消防車を呼ぶほどじゃなかったみたいだな。千鶴は無事か」
 ちらっと私を見て、父はたしかにつぶやいた。なーんだ、と。
「積極的に殺そうって気はなくても、死んだらいいとか、いなくなったらいいとか思ったくせに。しょっちゅう思ってたくせに」
「思ってないよ」
 嘘をつけ。この非常識親父。
「千鶴のせいで僕の人生は滅茶苦茶にされたんだけど、それでも僕は千鶴を殺そうだなんて思わなかった。それは僕の誇りなんだ。うん、あれは千鶴が十歳のころだったか」
 その話も何度も聞いたのだけど、したいのならあと何度でもすればいい。
「会社にパートでつとめることになった女性が入ってきたんだ。僕よりいくつか年上でバツイチだったし、全然美人でもなければ、太目のおばさんとしか言えない女だった。あまりに冴えない女だったから、亭主に捨てられたんだろうな。仕事ぶりもとろとろしてて、たいした女じゃなかったけど、僕のアシスタント的な仕事をさせてるうちに、なんとなく。うん、あれは同情が恋に変わるってやつだったのかな」
 どっちが?
「冴えない女がこのままどんどん年を取って、ますます冴えないばばあになっていく。僕は手を差し伸べてやろうと思ったんだよ」
 あらま、あんたが同情したといいたいわけね。むこうはあんたをどう思ってたんだか。
「ブスは三日で慣れるというし」
 父はその女性といつしか恋仲になったらしい。帰宅した父は私に言ったのだ。
「千鶴、弟か妹ができるんだぞ」
「ええ?」
「お母さんもできるんだ」
「ママが帰ってくるの?」
 哀れな捨てられっ子は、十年も音沙汰のない母がいまだに恋しかった。
「ちがうよ。新しいお母さんだ。喜べ。嬉しいだろ」
「ふーーん」
 まるっきりぴんと来ない。だが、父は喜んでいた。そんなら私も嬉しがってやらないといけないのかと思っていたけれど、それっきり新しい母も弟か妹かも姿を見せない。
「新しいママはどうなったの?」
「ああ、やめた」
「やめたの?」
「ひどい女だよ。子供は堕ろすと言う。仕事もやめると言ってどこかに行ってしまった」
 つまり父はまたもや捨てられたわけだが、そのころの私はまだ子供で、父がまくしたてる内容が理解できなかった。今になって思い返してみると、父は会社のパート女性と寝て彼女を妊娠させ、この機会に再婚しようともくろんだらしいのだ。
「産んでいいのね。結婚してくれるのね」
「ああ」
「よかった」
「じゃぁ、千鶴に会ってもらわなくっちゃね」
「千鶴って?」
「僕の子供。十歳になるんだ」
「なんですって! あなた、子持ちだったの?」
 びっくりしたことに、彼女は私の存在を知らなかった。父も彼女も職場では仲間はずれっぽい扱いを受けていたし、当然彼女がなにもかも知っていて父とつきあっていると信じていた職場の人たちは、彼女になにも忠告してやらなかったのだ。
「あなたもバツイチだったの? どうして言ってくれなかったのよ」
「いや、なんとなく」
 子持ちだったとしても、彼女はそれでもいいと考えたらしい。だが、もうひとつ最大のネックがあった。
「いつ離婚したの?」
「妻が千鶴を置いて出ていったのは十年近く前だね。あれ、離婚ってもう成立してるよな」
「手続きしてないの?」
「手続き?」
「奥さんが行方不明になって七年たてば、離婚の手続きができるのよ。あなたはそんなことも知らないの?」
「そうだったのか。手続きなんかしてないなぁ。離婚したいとも思わなかった。妻が帰ってきたら喜んで迎えるつもりだったし」
 彼女はしばし絶句してから言った。
「じゃあ、もしも、私と再婚してから奥さんが帰ってきたら、あなたはどうするつもりなの」
「妻のほうが美人だし、うん、やっぱり妻とやり直すよ。だから、きみとは籍を入れるのはやめておこう。いいだろ、それで」
「……考えさせて」
 考えた彼女は、あなたとは別れます、子供は堕ろします、会社もやめます、と言って去っていった。
「ひどいよなぁ。せっかく子供を産んでもいいとまで言ってるのに。僕が再婚できなかったのも千鶴のせいだよ」
 なんでそれが私のせいなんだ。あんたのいい加減さのせいだろうが。去っていった彼女の行動だって当然じゃないか、と思うが、もはや私は父にそんな意見をする気も失せてしまった。父がこんな男になったのは、もともとの素質もあるだろうけど、私が甘やかしすぎたゆえもあるのかもしれない。
「正式に結婚しなくても、彼女は子供をふたりも持てたわけだし、千鶴の世話もしてもらえたわけだし、なにも形式にとらわれなくても」
「ねえ、パパ」
「なに?」
「もしもこれから先、ママが帰ってきたらどうするの?」
「それはもちろん、お帰りと言って迎えるよ」
 だが、母はそのころにはどこかで死んでいた。父は会社を退職してトラベルライターに転職し、そのころから私は叔父夫婦に預けられることが多くなり、そのおかげですこしはまともな暮らしができるようになった。
「そうだったのか。千鶴も苦労したんだな」
「乾さんよりも苦労した?」
「俺は苦労なんかしてないよ。いっぷう変わったガキのころだったとしても、祖母は俺を慈しんで大切に育ててくれたんだから」
「金沢って……」
「ん?」
「いいの」
 音楽のように聞いてはいても、乾さんの言葉は覚えている。乾さんが教えてくれたことも、してはいけないと言ったことも、叱られたことも褒められたことも、ひとつ残らず覚えていた。
 無邪気に甘えていたころから日々が移ろって、無邪気には言えなくなっていた。乾さんのふるさとへ連れていって、なんて。

 
2

 単発の仕事はあっても忙しくはなくて、叔父のもと妻、エッセイストの麦ちゃんのアシスタントをアルバイトでやっていたりもしたころ、女優だとは名乗れなかったあのころは、暇さえあれば乾さんを想っていた。
 想いの大半はフィクションで、パソコンに保存したたくさんの写真、香川さんが撮ってくれた何本ものフィルム、みずきさんが書いてくれた小説。ベースになるそんなものはちょっぴりえっちだったから、私の妄想も卑猥だった。
 フィクションと現実を混同して、不健康な妄想にふける。暇がいっぱいあったから、私の日々は退廃的でもあった。
 ベッドに横たわって精神的なマスターベーション。夢と現実のはざまを行きつ戻りつしていると、私が誰なのかもわからなくなってくる。私は高い塔の上のラブンツェル? 悪い魔女に幽閉されているお姫さま。
「……あ」
 窓が開いて、誰かが部屋に忍び込んでくる。しーっ、と低い声で私を制した男のひとは、私を肩にかつぎあげた。
「あ……」
「黙ってろ」
 低く命令されて口を閉じた私をかついで、そのひとは塔から降りていく。いばらの蔓を伝って地面に降り立ったそのひとは、私をかついで風のように走る。運んでいかれたのはどこ? 私はソファに下ろされて、服を脱ぐそのひとを見つめていた。
 背の高い細身の身体。たくましいほうでもないけれど、裸になれば腕や肩や胸の筋肉は発達した大人の男性の身体。力持ちだからこそ、あなたはぽっちゃりした千鶴を軽々とかついで走れるんだよね。口には出さずに言っていたら、そのひとは私の服に手をかけた。
「……駄目」
「黙れ」
「黙るのはいや。なにをするの」
「おまえを抱く前に……綺麗にしてやるんだよ」
「抱く? 誰の許可を得て……」
「俺は俺のしたいようにするんだ。おとなしくしてろ。いや、おとなしくはしてなくてもいいかな。おまえごときは大暴れしたってへっちゃらだ。暴れてろ」
「い……や。いやだったらっ!!」
 抵抗しようとしても甲斐もなく裸にされて、裸身を再びかつぎ上げられる。いやいやいやーっ、と脚をばたつかせてみても、笑いながらのあのひとにバスルームへ運び込まれて……羞恥に目が眩む。めくるめく想いってこれ?
 恥ずかしすぎて気が遠くなっていくと、あのひとのてのひらや指の刺激で我に返ってしまう。裸で裸の腕に抱かれ、敏感なところを撫でられたりつつかれたり、てのひらで包まれたり。
「裸にしてもたまらなく可愛いな」
「……言わないで」
「羞恥に震えてるおまえは可愛いよ。どこもここも芸術品みたいな曲線で作られたおまえのボディの……特にここが」
 バスルームの床にあぐらをかいたあのひとの、膝の上にうつぶせにされる。私のおなかの下は堅い腿。なんともいえない感触に頬が熱く燃えてきて、あ、あ、あうっ、なんて淫らな喘ぎ声が漏れる。だって、あなたの手が私の……長い指がふたつの丘の真ん中を……その指先が私の……やめて。
「……や……いや」
「なめらかな触れ心地もいいな。見ても愛でても撫でても最高だよ」
 思う存分に私のお尻を愛でてから、あのひとが私を抱えて立ち上がる。思い通りにされすぎている悔しさもあって、肩に歯を立てた。
「そういうおいたをする子は……ここは可愛がってやるにも最適だけど、懲らしめてやるにも最適なんだぞ。千鶴、尻をぶたれたいのか。ごめんなさいは?」
「だって……きゃうんっ!!」
「めっ、悪い子だ」
「悪いのはあなたでしょ」
「そうだ。俺は悪い奴だよ。悪い奴が好きなんだろ。言ってみろ」
「言ってあげない……きゃ、痛ぁい」
「拷問にも最適だな。散々に尻を叩かれたら、ごめんなさい、好き、って言えるのか」
「いやいや。好き。好き……ああん、ごめんなさい」
「まったく、可愛い奴だ」
 ラブンツェルの千鶴は魔女の塔からさらわれて、あなたに幽閉されてしまうの。心も身体もあなたに支配されて、あなたの思うがままに扱われる。悪い子になったら懲らしめを与えられて、あなたの女として仕込まれる。
 これってマゾの妄想かしら。それでもいいじゃない。あなたが好き、あなたが好き。あなたに会えない今はいらないから、本当に私をさらいにきて。私をどこかに閉じ込めて、あなたの言うことだけを聞いて生きる女に仕込んで。


そんなこと、ありっこないものね。意識が現実に戻ってくると恥ずかしくなって、頭を振る。乾さんには現実でも軽くだったらお尻をぶたれたし、みずきさんの小説では駄々っ子奥さんの千鶴が、旦那さまの隆也さんにきびしく叱られると、お尻をぶたれていた。
 あれは私がみずきさんに、そんな話をしたからだけど、みずきさんも私の裸身の描写をするのが楽しかったんだろうか。男のひとはみんな、千鶴の尻は可愛いな、キュートだよ、なんて言った。
 人によってはそんなふうに言われると胸が悪くなるのに、乾さんに言われると頬がぽーっとなって、胸がどきどきして、さわってもいいよ、なんて言いたくなって、そうは言えなくてわがままを言ってみては、お尻をぺちん、めっ、って叱られて、ええんって泣いて、ごめんなさいって。
 本当は愛撫されたかった。あなたの腕に抱かれ、あなたに裸にされ、あなたの手とまなざしで全身を愛でられたかった。そして、あなたに貫かれたかった。あなたとひとつになりたかった。
 なのに、本当の意味では愛してもらえなかった。妹のように可愛がってはもらえても、叱ってもらえても、気にかけてもらえても、あなたの女にはしてもらえなかった。フィクションの世界でだけ、千鶴は隆也さんの恋人だった。
 それだけでいいの、片想いでいいの、そう思えるほどに私はしおらしくない。シャイでもない。だからこそ、乾さんのそばにい続けることはできなかった。
「俺には好きな女性がいるんだよ」
 静かに告げられた日、私の幼い恋は終わった。
 悪い子、可愛い千鶴、わがまま娘、いたずらっ子、ちっちゃな妹。ひょいと抱き上げて思い通りにして、駄々をこねると叱って泣かせて、言いつけを聞かせる女の子。
 千鶴は乾さんにとってはそれだけの存在で、子供だからこそお尻をぺちんと叩くくらいはへっちゃらだったのね。でも、そのひとは大人の女性。女の子ではなくて「女性」。乾さんはそのひとをあなたと呼ぶの? 叱ったりするのではなくて、議論をするんだよね。
 同じ目線で見つめ合って話をして、叱ったり叩いたりなんて絶対にしない。それでもそのひとは、乾さんに甘えて泣いたりはするんだろうか。よしよし、いい子だね、と言ったりするの? その声音も千鶴に向けるときとはちがっているのだろう。
 それからそれから、その先は決定的にちがう。その女性は演技ではなく乾さんとベッドで抱き合い、愛し合う。千鶴だったら「抱かれ」「愛され」となるところが、大人なのだから、彼女は受身ばかりではないのでしょう。
 嫉妬はなくもなかったけれど、顔も名前も知らないその女性には恨みもなんにも抱かなかった。遠すぎて……ただ遠すぎて、うらやみもできず。
 近づいていけなくなって、乾さんに叱ってもらえなくなって、あのころの私は無茶をしていた。好きでもなければ嫌いでもない男性に、私の処女をあげると言ってはぐらかされたり、本橋さんの奥さんや金子さんの彼女にからんでみたり。
 金子さんや乾さんの悪口を言って、ふたりが互いに嫌い合っていると吹聴して、誰にも信じてもらえないままに、当人たちに軽蔑されたり。
 あげくは哲司の奇妙な優しさに甘えて、処女を捨てた。乾さんとは程遠い哲司の子供っぽさ、ゲイで
性格はゆがみまくっていて、醒めていてひねくれていて、最愛のひとがいるくせに浮気ばっかりしている、私を馬鹿だと言う以上に馬鹿な奴。
 哲司からすれば私とのセックスも浮気だったのだろうか。私にとっては重荷を捨てただけなのだから、後悔なんかしていない。この先本当に好きな男性があらわれたとして、私が処女だったら彼も気が重いだろうから、これでよかったんだ。
 どこかしらは乾さんへのあてつけだったけど、すこしだけ軽くなった気分。哲司と会ってもふたりともに、そんなことはなかった顔をしている。
 ゆっくりゆっくり時がすぎて、すこしずつすこしずつ、乾さんや金子さんともお話はできるようになっている。浅はかな女だと私に言った金子さんも、おまえはほんとに馬鹿だね、という目で見た乾さんも、こだわったりはしないおおらかな心を持っているから。
 だけど、あのころには戻れない。戻れなくてもいいの。私だっていつまでも子供ではいない。乾さんに叱られてべそをかいて、その胸に抱かれて泣くのがいちばんの幸せだなんて、純情だった小娘の皮は脱いだのだから。
 でもね、戻りたいな。時が流れなかったらよかったのに。幽閉されていた塔から乾さんにさらっていかれて、別の場所に閉じ込められ、彼の思い通りの女に仕立てられて彼のためだけに生き、それに心から満足できる。あのラブンツェルの妄想は甘美だった。
 現実的に考えたら、現代の女がそんなもので満足できるわけがない。そうと知った上で、それでもやっぱり、あの妄想は私の願望でもあった。


3

ラジオドラマ「水晶の月」が放送されていたころは、私は小学生だったか。フォレストシンガーズなんてシンガーズがいるとも知らず、父と喧嘩半分で暮らしていたころだ。
 みずき霧笛さんは「水晶の月」のシナリオが認められてプロになった。なのだからフォレストシンガーズとは縁が深くて、フォレストシンガーズのみなさんをモデルにした小説をたくさん書いて本を出している。
 私は読書は好きではないので、私のために小説を書いてくれたみずきさんの本さえも読んでいなかった。でも、ここには乾さんが出てくるの? どんな乾さん? 気になって本を開いた。みずき霧笛さんの短編小説集をぱらぱらめくってみて、開いた箇所を読んだ。


「くわえ煙草で片手にはウィスキーのグラスを持ち、譜面を見ている稲田さん。横顔を見つめていると猛烈に甘えたくなってくる。譜面の隅にいたずら描きをしてみると、言われた。
「こら、由貴也、ガキみたいないたずらをするんじゃない」
 ただいまの稲田さんの頭の中には、詞の世界が広がっているのだろう。俺の甘えたい気分は受け入れてもらえないようだ。
 今年の春に大学生になってひとり暮らしになり、ひとりってなんて素晴らしいんだろ、とは思っていたのだが、寂しさもひとかけらくらいはあった。友達もまだ少なくて、お喋りのできる相手がいない。昼休みにひとりでキャンパスを歩いていると、どこからか男の歌声が聞こえてきた。
 その声の持ち主は稲田竜生。売れないシンガーである稲田さんは、俺の大学の卒業生で二十八歳。頼まれて音楽科の臨時講師をつとめていると話してくれた。
 持ち前の人なつっこさを発揮した俺は、稲田さんと親しくしてもらえるようになって、マンションへも招いてもらえるようになった。俺が女の子だったら稲田さんに恋をするのになぁ、とも思い、女の子だったらこうもたやすく部屋には通してもらえないだろうから、男のほうがいいとも思う。
 俺には妹はいるが、兄はいない。稲田さんは説教好き傾向はあるものの、気持ちのおおらかな大人で、こんな兄貴がいたらな、とも思う。知り合って以来すっかり、俺は稲田さんを兄貴視するようになって、時として甘えたくなるのだった。
 甘える場合は女の子のほうがいいだろう。譜面にいたずら描きをしたって、女の子だったらこうびしっとは言われない。稲田さんが俺を無視して詞を書いているので、想像してみた。
「ユキ、おいたをするんじゃないよ。おとなしくしてなさい」
「だってね、ユキ、稲田さんにかまってほしいんだもん。抱っこして」
「あとでね」
「あとではいやなの。今。ねえねえ、お兄ちゃまぁ、抱っこぉ」
「お兄ちゃまに甘えたいのか。いいよ、おいで」
 膝に抱かれてこちょこちょっといたずらをして、めっ、なんて叱られて泣き真似して、目一杯甘えられたらいいだろうな、なんて想像するのは、俺は変態なのだろうか。
 別に稲田さんに恋をしているわけではないけれど、このひとは俺みたいな甘ったれ気質の甘えたい心を刺激する男なのだ。なぜそうなのかと言えば、度量が大きくて優しくてきびしいひとだから。心から、俺はこんな兄貴がほしかった。
 彼が講師をしている大学の後輩の、十八歳の女の子のユキだとしたら、恋愛関係にでもならない限りは、稲田さんは俺、というか、あたしをこうまでは可愛がってはくれないはず。だから俺は男でよかったのだろうけど、男のまんまだったらもっと幼かったらいいのにな、とも思ってしまう。
 十八にもなると俺にも男のプライドってやつがあって、年上の男にべたっと甘えかかったりはできない。しかし、俺が十八歳の男であるのは事実なのだから、適度な甘え方ってのも……うーん、むずかしいのだった。
「稲田さん、灰皿がいっぱいですよ。ほら、灰がこぼれてる」
「悪い。捨ててきて」
「はい」
 キッチンで灰皿を洗って持っていくと、稲田さんは言った。
「ありがとう。どうした、由貴也? 悩みでもあるのか」
「悩みってほどではないけど、俺って人に嫌われやすいのかな。面と向かって言われたんですよ。おまえは嫌いだって」
「誰に? 女の子にか」
「男です。同じ経済学部の先輩に言われたんだ」
 やたらによく喋って妙に愛想がよくて、人なつっこすぎて気持ちが悪い。先輩に言われた言葉を繰り返しつつ、稲田さんの顔色を見ていた。
「よく喋るのも愛想がいいのも人なつっこいのも、人間としては美点だろ。おまえにそう言った先輩ってのを、おまえは好きなのか」
「好きではありません。俺はあまり人を嫌いにならないけど、嫌いな奴だっていますよ」
「おまえにだって嫌いな奴がいるんだから、人間はすべての人間を好きにはなれない生き物なんだな。俺を嫌いな奴は嫌ってればいいさ、の精神でいればいいよ。おまえは気は弱くはないだろ。嫌われたってどうってことはないさ」
 高校生までだったら、先生は建前論ばかり口にした。誰とだって仲良くしないといけない、みんな友達なんだから、だった。稲田さんも一時は大学の先生だったわけだが、俺の先生ではないせいか、本音で語ってくれるのが嬉しかった。
「経済学部の教授の手伝いをしてる先輩なんですよね。正式な助手ではないみたいだけど、教授に親しくしてもらってるからっていばってるんだ。俺は一年生だから、先輩にはあまり言い返せないでしょ。下級生を見下げてるんですよ」
 大人に告げ口をしている子供の気分。こうして甘えるのもいいものだ。
「そいつ、何年?」
「四年生」
「おまえはサークルには入ってないんだったよな。歌が好きだって言ってただろ。俺は学生時代には合唱部にいたんだよ。おまえのその声は合唱部では重宝しそうだし、入部したらどうだ?」
「俺のこの声が? ガキっぽい黄色い声が?」
「それがいいんだよ」
 稲田さんは俺の目をまっすぐに見つめた。
「おまえはテナーだろ。男の声ってテナー、バリトン、バスに分かれるのは知ってるよな。テナーとバリトンは多いんだけど、おまえほどの高い声の男はそんなにはいないんじゃないかな。歌は楽しいし、合唱部には先輩だっているんだから、学部の先輩に理不尽な扱いを受けたら相談すればいいんだよ。俺は卒業してるんだし、臨時講師の仕事も終わったから、おまえに手を貸してはやれないんだもんな」
「意地悪な先輩はいません?」
「いるかもしれないけど、美人の女性の先輩もいるぞ」
「そうだよね。女のひともいるんだ。入部しようかな」
「俺のころには男子部はなかなか野蛮だったけど、今はどうだろうな」
 野蛮というのは気になったのだが、一度、部室を訪ねてみようとは思っていた。
「作詞は煮え詰まってきたから、明日にするよ。学校の話を聞かせてくれ」
 ほんのちょっぴりのウィスキーをコーラで割った飲みものを俺のために作ってくれて、自分はウィスキーのオンザロックを飲んでいる稲田さんと、経済学部の話をした。
 真面目に勉強しないと留年だよ、を切り札にする教授やら、おまえは嫌いだから教えてやらないよ、の態度の先輩やら、経済学部には根性まがりが多いのだ。稲田さんの学生時代には教授の助手に若い美人のハーフのお姉さんがいたとの話しを聞いて、いいなぁ、とうらやんだりもした。
「由貴也、由貴也? これっぽっちで酔ったのか。帰らなくていいのか」
 酒には慣れていないのだから、薄いコークハイでも酔ってしまったらしい。意識が遠ざかっていったり、ふーっと戻ってきたりする。稲田さんに揺すぶられたときには、俺はテーブルに突っ伏して居眠りしていた。
「まだ電車はあるだろ。帰るか」
「稲田さんも飲んだから、車の運転はできませんよね」
「送っていってやらなくても大丈夫だろ。男なんだから」
「男と女だとそんなにちがう?」
 酔っているからこそ言えたのか。稲田さんは首をかしげて俺を見返した。
「稲田さんは男の俺にも優しいけど、俺が女の子だったらもっと優しい? こんなふうにしたらどうする?」
 テーブルの端に楽譜が置いてある。引き寄せてびりびりっと破ると、稲田さんは苦笑いを浮かべて言った。
「コピーはあるからいいけど、なんの真似だ」
「だって……俺が女の子のユキだとしたら、こんなおいたをしたらどうするの?」
「こんな場合は男だって女だって同じだよ。男のおまえにするのと同じだ」
「男の俺にはどうするの?」
「さてと、どうするか。うん、そうだな。由貴也、立て」
「立てないよ。酔ったもん」
「立てないほど酔うはずがないだろ。立て」
 言い方が荒っぽくなったので、俺は立ち上がって稲田さんについていった。連れていかれたのはバスルーム。なにをするの? と口をとがらせて見つめていると、稲田さんは言った。
「上半身裸になれ。服が濡れるぞ」
「女の子にでもそんなことを言うの?」
「おまえは男だろ。脱げ」
 仕方なくシャツを脱ぐと、お湯が入ったまんまだったバスタブに顔を突っ込まれた。ぎゅうっと頭を押さえられて溺れそうになって抵抗すると、稲田さんはようやく手を離してくれて、大声で笑った。
「酔いが覚めただろ。いたずらの罰じゃなくて、目を覚まさせたんだよ。由貴也、顔を拭いて服を着て帰れ」
「わかりました。でもさ、女の子だったとしたらどうするの?」
「おまえが女の子だったら? あんないたずらをした悪い子にはどうするかって? やってみようか。ユキ、おいで」
「……なんだか怖いからいりません」
 じりっと後ずさりすると、稲田さんはちょっとばかり意地悪な笑みで言った。
「まあ、男と女だと扱い方は変えるけど、言わなくてはならない言葉は同じだぞ。由貴也、ごめんなさいは?」
「はい、ごめんなさい、もうしません」
「よし」
 こう見えてけっこう荒っぽくて、けっこういばってるんだよな。そうは思うけれど、それでも俺は稲田さんが好き。恋になったりしたらどうしよう? そうも思ってしまう。そんな俺に、稲田さんは大きなタオルを差し出してくれて、片手で俺の髪をくしゃくしゃにした。


「ねえ、竜生さん、なにしてるの? トレーニング? 腕立て伏せ?」
 腕立て伏せをしている稲田さんを見ていると、いたずらがしたくなってきた。
「こらっ」
 背中にすわってから抱きついたら、跳ね飛ばされたりして? 
「好きだよ。好きだよ」
 心で好きだと言って、そんな想いを受け止めてはもらえずに、しつこくすると本気で叱られそうで、叱られたくて、甘えたくて、かまってもらいたくて、なのにそうは言えなくて、小さな子供のように稲田さんを見つめる俺。立ち上がってダンベルを両手に持って、体操している稲田さんの背中に、俺は抱きついた。
「危ないだろ。おまえの頭の上にダンベルを落としたらどうするんだ」
「それ、何キロ?」
「調整できるダンベルだから、三キロにしてあるんだ。おまえもやってみるか」
「俺には重すぎじゃない? 稲田さんは力があるんだね」
「このくらいは当然だろ。男だぜ、俺は」
 あなたも男、俺も男、あああ、悲しいな、と泣きそうになっていると、稲田さんは巨大なボールを持ってきた。
「バランスボールっていうんだよ。おまえは力がなさそうだけど、こっちだったらいいだろ。やってみな」
「どうやるの?」
 ボールにすわってみようとしたら、どすっと落ちる。稲田さんが支えてくれる。腕が俺の全身に触れる。腰を持ち上げられてボールに乗せられたりもする。よろけたふりして抱きつくと、力強く受け止めてくれる。駄目だ、このままでは由貴也は……もう駄目。
「こんなのできないよ。ダンベルもボールも嫌いだ」
 バランスボールを蹴飛ばして、稲田さんの手からダンベルを取り上げて、俺は窓を目がけて投げつけようとして思いとどまる。窓ガラスが砕けて散ったら、本気の本気で叱られて叩かれるだろうか。叩かれたりしたら、俺の想いも砕けて散って、好きなひとに丸ごとぶつかっていってしまいそう。大声を上げて泣いて、好きだよっ、って叫んでしまいそうだ。

「報われない恋だね
 愛しても愛してもあなたは振り向いてくれない
 俺を弟みたいに、生徒みたいに
 可愛がって叱ってはくれるけど
 愛してるよ、なんて言ってくれるはずもない

 報われない恋って
 どこにだってあるんだよね
 恋しても片想い 珍しくもないよね
 だけど切ないよ
 だけどもしもあなたが俺に愛してると言ってくれたなら

 そこで俺の想いは止まる
 だからどうしたらいいの? 
 それでどうしたらいいの?
 どうしたらいいのかなんてわからないから
 報われない恋でいい

 だから俺は歌うよ
 あなたに捧げる恋唄を」

 かわいそうな由貴也。どうしておまえは年上の男になんか恋したの?」


いなだりゅうせい、稲田竜生……乾隆也? 由貴也は幸生? 竜生はシンガー。合唱部なんてフレーズも出てくるし、これは乾さんと三沢さんがモデルなのだろうか。
 他の短編も最初のほうだけ読んでみると、フォレストシンガーズのみなさんが実名で出てくるわけではない。書店で中身を確認もせず、みずき霧笛の最新短編集らしいのを買っただけだから気づかなかった。これはフォレストシンガーズ小説ではないらしい。
 他の小説は? こんな感じ。


「そおっと背伸びをしてそおっと覗いてみると、背の高い美青年がおなかの出たおじさんに言っている姿が見えた。
「所長のおっしゃることはまったき正論ですよ。反論の余地はありません。しかしね」
 そこで美青年の目がすっと細まり、低い声で言った。
「正論だけでは世の中渡っていけねえんだよ」
「……きみは誰に向かって……」
「あなたです。失礼しました、所長」
 ここは私がアルバイトをしているデザイン事務所。おなかの出たおじさんはこの事務所の所長さんで、背の高い美青年はデザイナーのひとりだろう。私は今日からバイトをはじめたばかりで、バイトとはいっても派遣会社からここに派遣されて掃除をしているだけだから、従業員たちの名前と顔は一致しない。
 デザイン事務所は時間が不規則であるようで、出勤退勤の時刻もみんながまちまちだ。私は所長さんには紹介してもらっていたので、掃除をしてもいいかとのお伺いを立てると、適当にやっていいよ、との返答だった。
 だから掃除をしていたら、事務所に入ってきた男性が所長さんに近づいていき、議論のようにも聞こえる会話をはじめたのだ。邪魔にならないようにしていたものの、気になったので聞き耳を立てて、さりげなく所長さんの席に近づいて、パーティションごしに覗いた。
 どうしてだか知らないけど、ううん、どうしてだかは知っている。胸がきゅんっとしてしまったのは、あの背の高い美青年に惹かれたから。あんなにかっこいい男のひとが、アルバイト掃除人なんかに興味を持ってくれるはずもないけれど、彼と話してみたかった。
「真面目にやれよな」
 掃除はひとりでしていたのではない。同じアルバイト学生の歩とふたりでだった。私がぼけっとしていたので、歩につつかれて小声で言い返した。
「あんたこそ、真面目にやれよな」
「僕は真面目にやってるよ」
 歩と私は同い年で、高校三年生だ。私は十七歳の女の子としてはだいぶ背が低いので、私よりはやや高い歩も男の子としては低い。アルバイト高校生ふたりに仕事をまかせるのもどうかと思うが、歩は去年からこのバイトをしていてベテランのつもりでいて、私にはいばりたがる。
「このモップ、重いんだよ。私に掃除機をやらせてよ」
「僕も重いのはやだよ」
「歩は男でしょ」
「バイトの時給は同じなんだから、男も女もないだろうがよ」
「そういうことだから、歩はもてないんだよね。歩には彼女はいないんだろ」
「由果にだっていないんだろうが」
「由果はもてないからじゃなくて、告白してきた男はかたっぱしからふっちゃったからだもん」
 掃除なんかはそっちのけで歩と口喧嘩していると、頭の上に大きな手が乗っかった。見上げるとさっきの美青年。私の心臓が轟きはじめ、歩は不満ありげに彼を睨んでいた。
「きみらは掃除のバイトなんだろ。口論なんかしてないで仕事をしろよ。きみたちが仕事をすませて帰らないと、所長も帰れないんだから」
「帰ってもいいよ」
 歩が言い、彼も言った。
「バイトの高校生を残して帰るわけにはいかないな。そこにはさまざまな理由があるんだけど、とにかく、きみたちがさっさと仕事して帰ればいいんだよ」
「あんたに命令される筋合いはないし……」
「俺も、おまえみたいなガキに口答えされる筋合いはないんだ。さっさとしろ」
 口答えしていたのは歩だけだったので、彼のその言葉も歩ひとりに向いていた。歩はぐっとなった様子で黙り込み、彼は私にはにっこりしてくれて、デスクに戻っていった。
「オフィスの掃除してても文句をつける奴っているんだけど、僕はあんたらに雇われてるんじゃないっての。こら、由果、おまえも働けよ」
「働くよ」
 目が合うと舌の出し合いっこなどもしていたものの、掃除をすませると、さっきの彼が言ってくれた。
「お疲れ。気をつけて帰りなさい。歩っていうのか? きみが由果ちゃんを送っていくんだろ」
「なんで僕がこんな奴を……」
「まだそんな時間でもないか。ああ、だけど、俺も帰るよ。所長、お先です」
「ああ、三人ともご苦労さん」
 所長さんも言ったので、私は頭を下げた。歩はぶすっとしていたので、彼に頭を押さえられて挨拶させられていた。
「一緒に帰ろうか。お邪魔かな?」
 低い声、高い身長、端正な顔立ち。いくつぐらいなんだろうか。私は彼の顔がまともに見られなくて目をそらし、歩が言った。
「あんたはここで働いてるの?」
「そうだよ。俺はきみの上司でもなんでもないんだけど、年長者なんだからその口のききようはなんとかしろよ。あんたではない。結城さんだ。結城暁彦。きみらは高校生だろ。ひと回りは年上だな」
 すると、三十歳くらい? 私の口はまともに動かなくて、三人で歩きながらも、歩だけが結城さんに返事していた。
「由果と僕は高校は別々だけど、年は同じで高三だよ。僕のほうが早くからこのバイトをしてるんだ。だから先輩なのに、由果はちっとも僕に敬意を払わないんだよ。ちびのくせに生意気なんだから」
「あんただってちびじゃん」
「おまえほどのちびじゃねーよ」
「あんたは男だろ」
「勝手なときにだけ男だ女だって言うんだよ、こいつ」
 歩が結城さんに告げ口をしている。結城さんは微笑んで、私に言った。
「小柄な女の子は可愛いけど、小柄な男ってのはコンプレックスであるものなんだよ。歩はまだまだこれからだって背は伸びるだろうけど、現時点では小さいね。だからさ、由果ちゃん、そうちびちび言ってやるな」
「そうだよ。結城さん、もっと言ってやって」
 小柄な女の子は可愛い? 軽い気持ちで言ったのだろうけど、私の胸にはその言葉が刻まれた。結城さんは結婚指輪はしていない。恋人はいるのかもしれないけど、それでもいいから、もっと彼に近づきたかった」

 これはまったく、フォレストシンガーズはなんの関係もない。由果がユキではなさそうだ。他の小説も関係なさそうなのばかりで、調べもせずに買ってしまったのだから、しようがないか。
 竜生と由貴也の物語はボーイズラヴしていて、あのおじさんがこんなのを書くのか、私もこの世界って嫌いじゃないし、竜生と由貴也なんだし、との興味で読み進んでいった。タイトルは「片想い」。

 
4

「おまえなんか連れていってやらないよ、と言うと、変な想像をされそうだ。俺は稲田さんに恋してる変態なんだ、なんて認めたくなくて、誰にもそうは思われたくなくて、見栄を張った。
「由貴ちゃんは男の子だから、気軽に稲田さんのマンションに遊びにいけるんだよね。あたしはそんなおねだりってできないんだもの。由貴ちゃんが連れてきてくれて嬉しい」
「菜穂ちゃんは稲田さんに恋してるの?」
「恋ってほどでもないけど……」
 ぽぽっと頬を染めた菜穂子は俺と同じ経済学部の一年生だ。彼女も稲田さんが講師に来ていたころに憧れて、シャイだから近づいてもいけなかったと言う。俺が稲田さんに可愛がってもらっているのを知って、俺にだったら近づいてきたわけだ。
 そんならついてきてもいいよ、と言ってやったら、菜穂ちゃんは大喜びでついてきた。邪魔邪魔邪魔。っていうか、稲田さんが菜穂ちゃんを好きになったらどうしよう。っていうか、稲田さんに女の子の恋人がいたとしたって、俺は稲田さんのカノジョにはなれないのだから同じじゃないか。俺は男なのだから。
 二律背反ってこれだっけ? ちがうんだったっけ、と悩みつつ、菜穂ちゃんと稲田さんのマンションを訪ねた。稲田さんは俺たちを歓待してくれて、歌ってくれる。作詞作曲の途中で完成していない曲も披露してくれて、菜穂ちゃんは今にも気絶しそうに幸せそうな顔をしていた。
「稲田さんはギターも上手なのね」
「上手ではないけど、作曲するためには楽器が必要なんだよ」
「誰でもギターで作曲するんですか」
「ピアノって奴もいるし、パソコンソフトを使ってる人もいる。楽譜が読めなくて書けなくても、浮かんだメロディを口にして書き取ってもらうって人もいるんだよ」
「楽譜が読めなくても作曲できるんですね」
「できなくはないな」
 作曲の話をしているふたりをそこに残して、俺はキッチンに行った。
「あたしにもできるかな」
「やってみる?」
「ええとねぇ……」
 十八歳と二十八歳でも、菜穂ちゃんと稲田さんはお似合いだ。男と女だからなのか。恋人同士は男と女が自然なのだから、当たり前だ。なのに俺は切なくて哀しくて、ふたりを見ていたくなかった。稲田さんが菜穂ちゃんに向ける優しい声を聞いていたくなかった。
 キッチンで耳をふさいでじっとしている。そのまま長い時間じっとしてたけれど、誰も俺の様子を見にもきてくれない。ふっと思いついたいたずらを実行したくなった。
「……もしもし」
 小声でケータイに向かって喋った。稲田さんのマンションの電話番号を告げる。以前にもふたりでピザを頼んで食べたから、住所は登録してあるようで、ご注文ですか? と訊かれた。
「はい、お願いします」
「では、ご注文をどうぞ」
「パーティやってるんですよ。だからね、ピザを二十枚、おまかせでいろんな種類のを配達して下さい。なるべく早くね……え? あ」
「フライドポテトとサラダも二十人前ずつね」
「……あ、はい、よろしく」
 むこうでは俺の注文を復唱している。横から喋っているのは菜穂ちゃんで、電話を切ってから俺は彼女を見つめた。
「稲田さんは自分のケータイに電話がかかってきて、ちょっと待ってねってあたしに言ってお喋りしてるよ。彼女からかもしれないね」
「それで菜穂ちゃんは……」
「最初は優しかったんだけど、そのうちにだんだんとさ……稲田さんっていばってるかも」
「いばってるところはあるかもしれないけど、菜穂ちゃんだって大学の後輩だもんね」
「そうだけど……」
 不満そうな顔は、無理でも言って叱られたのかもしれない。だから俺のいたずらに加担したのか。キッチンと稲田さんの居間はけっこう距離があって、小声で喋っていたのもあって彼には聞かれなかったはずだ。
「稲田さん、稲田さーん」
 なのに、菜穂ちゃんが居間に走りこんでいって言った。
「由貴ちゃんったら、いたずらしてるんですよ。ピザを二十枚とサラダとポテトって、電話で注文してるのを聞いちゃった」
「……なんのために?」
「なんのためだかは知らないけど、稲田さんがあたしとばっかり仲良くして、由貴ちゃんはほったらかされてたからかな。子供ですよね」
「いつ?」
「ついさっき」
 ケータイでの会話は終わっているようで、稲田さんは俺に尋ねた。
「前におまえと一緒に食った、「ピンキーのピザ」か」
 首で返事をすると、稲田さんが「ピンキーのピザ」に電話をかけた。すみません、まちがいです、一枚でいいんですよ、ポテトもサラダも一人前ずつ、と言っている稲田さんの声を聞きながら、菜穂ちゃんは憎らしい顔をして俺にだけ見えるようにべーっとやった。
「なんとか言い逃れたけどね。由貴也、なんのためにやったんだ?」
「……稲田さんを困らせたかったから」
「菜穂ちゃんも俺に言いつけるんじゃなくて、聞いてたんだったら止めればいいんだろ」
「そっか、気がつかなかった」
 女の子なんか大嫌いだ。菜穂ちゃんは大嫌いだ。菜穂ちゃんだっていたずらに加担したくせに、と言いつけたら、俺だったらきつく叱られるんだろう。叱られて叩かれたら泣き出して、稲田さんの胸に抱きつきたくなる。だから、菜穂ちゃんも……なんて言わない。
「俺、帰ります」
「帰ればいいんだよーだ」
「菜穂ちゃん、きみは意地悪だね」
「意地悪なんかじゃないもん」
「そうかな。由貴也、ここにおいで」
 優しくなくもなく、きびしくなくもない稲田さんの声に、俺の足が止まった。
「子供みたいなおいたをする子にはお仕置きしてやるよ。ここに来て尻を出せ」
「お尻、ぶつの?」
 問い返したのは菜穂ちゃんで、俺はぶるぶるかぶりを振った。
「菜穂ちゃんもおいたをしたんだろ。だけど、きみはぶったりはしないから安心しなさい」
「菜穂はなんにもしてないけど、したとしてもぶたないの?」
「きみは女の子だし、俺には無関係なひとだからさ。由貴也はここに来い」
「やだっ」
 それってそれって……由貴也は無関係じゃないからって意味? だけど、十八にもなって先輩に尻をひっぱたかれるなんて耐えられない。子供扱いのお仕置きじゃなくて、叩くんだったらほっぺたをばしっとやってよ。
 でも、そうされたら泣いてしまう。泣きたい気もするから、俺はなんだかいたたまれない気分。どうすればいいのかわからなくて、稲田さんに近づくことも、逃げることもできなかった」

 やだ、みずきさんったらワンパターン。
 ここでおしまいになっている「片想い」を読み終えて、ほっと息を吐く。みずきさんには千鶴が乾さんに叱られると、めっ、って叱られてお尻を軽く叩かれると話した。それが千鶴にはきびしくて甘いお仕置きに思えるとも言った。
 千鶴と隆也さんの新婚さんストーリィでだったら、その話を参考にするのもわかるけど、こっちでもこうって、気に入ったの? お尻をぶって叱るのは、性的な香りもすれば子供扱いでもある、いたずらっ子やわがまま娘にはちょうどいいお仕置きだから?
 マゾっ気のある子にはよけいにちょうどいいお仕置きかも、なんて思うと頬が熱くなってきて、夢想してしまう。乾さんに、おまえは俺とは無関係な子じゃないから、って言われるんだったら、乾さんの女になれるんだったらそんなお仕置きをされても……
 ううん、そんなのは終わったこと。私の中でだけはじまって恋焦がれ、ひとりよがりに好きで好きでたまらなかったあれも、「片想い」でしかなかった。
 モデルがいるのでもいないのでもいい、かわいそうな由貴也くんの「片想い」も読んで感情移入もして、だからって私とは関係ないのかもしれないけど、小説を読むのもいいものかな、って思わせてもらった。
「でも、いつまでもこうしていたらいけないよね」
 かわいそうな由貴也くん……けど、私はこんなふうになりたくない。片想いに縛られ続けていたくない。
「自分から行動?」
 乾さんと親しくしてもらえなくなってから、どれくらいたつの? 吾亦紅の季節にはなっているよね。そうだ、吾亦紅を見にいこう。
「このごろだらだらしてるから、身体のラインがゆるんできてるみたい。千鶴は若いっていったって、自慢のヒップラインが垂れてきたらやだしね。バストだって女優としての千鶴の売りだもんね。エステにも行こうかな」
 ううん、エステじゃなくてジムにしよう。吾亦紅だって誰かに連れていってもらうのではなくて、自分で調べてひとりで見にいこう。本当に大人になるってそういうこと。
 失恋して哲司とベッドに入って、こぼれる涙は大人のしるし……などと歌っていたけれど、後ろ向きの大人のしるしなんていらない。自らが自らのために行動することこそが大人のしるし。ね、乾さん? ね、みずきさん?
 そうやって誰かに話しかけて、誰かに教えてもらうのは当分はしようがないにしても、千鶴は大人になるの。われもこうなりたい、目標は存在感のある女優。そうなれたあかつきには、乾さんも私を見直してくれるはずだよね。

END
 



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~ Comment ~

拍手コメントの返事です

Nさん

いつもありがとうございます。
なんだかこれはまとまりが悪くて、すみません。

でも、千鶴に想い入れて下さっていたんですものね。
読んでもらえて嬉しかったです。
このあともまだ千鶴はけっこう出てきますので、よろしくね。
管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

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