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小説277(スクラップブック)

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フォレストシンガーズストーリィ277

「スクラップブック」


1

 グリーンとブルーに染め分けたあの髪型は、パンクヘアというのだろうか。長い髪をぎざぎざにカットしてある。素顔がわからないほどきついメイクをして、おへその見える丈のキャミソールにレースのジャケット、超ミニスカート、荒い目の網タイツにかかとの高いブーツ。けたたましいほどのファッションの女の子が、スタジオのドアを開ける章くんを突き飛ばすような勢いで、先に入ってきた。
「鈴子、ついてくんなと言っただろ」
「あたしは来たかったの」
「来たいからって来るな。帰れ」
「やだよぉだ」
 平素にも増して甲高い声で、章くんは鈴子と呼んだ女の子ともめている。鈴子……スズちゃん、聞き覚えのある名前だった。章くんはしょっちゅう、現在の彼女について話すので、みんなも知っている。スズちゃんとは章くんの彼女だ。しかし、外見の話は章くんはしなかった。あまりのけたたましさに全員引き気味になっていたのだが、幸生くんが愛想よく言った。
「スズちゃん? お噂はかねがね伺ってますよ。ようこそ、FSのスタジオへ。章、彼女が来てくれたってのに、そんなにつめたくしなくてもいいだろ」
「仕事場だぞ、ここは」
「章って古いこと言うんだね。男の仕事場に女はついてくんなって? 時代錯誤だよね、スズちゃん?」
「そういう意味でもないんだけど……」
 もごもご言っている章くんにも幸生くんにも一瞥もくれず、スズちゃんはスタジオの中を探検して歩いていた。
「鈴子、そんなら挨拶ぐらいしろよ。紹介するから」
 あとでねー、と返事が聞こえ、章くんは肩を落とした。
「彼女はロック畑のひと?」
 訊いた乾くんに、章くんが答えた。
「ロックフリークですよ。本人はロッカーじゃないんだけど、どっちかってえとアマチュアロックバンドの追っかけが好きで、昔は俺たちの「ジギー」のファンだった。ふとしたはずみで再会して、ふとしたはずみで押しかけてこられて、ふとしたはずみでああなってこうなって……」
「押しかけ女房か」
「女房じゃねえよ。幸生、バカ言うな」
「似たようなもんじゃん。彼女も暴力的なんだったよな。気をつけよう」
「そうだ、気をつけろ」
 そういえば章くんは、俺のつきあう女は暴力的なのが多くて、とぼやいていた。章くんは暴力的ではないのに、ロッカーにはそういった人種が多いのだろうか。ファンの女の子までがそうなってくるのだろうか。FSのファンの女性は常識的な格好やふるまいをする方が大半だし、もともと私もロッカーなんてものには慣れていないので、スズちゃんのようなタイプとはどう接していいのか戸惑っていた。
「ファッションが刺激的だなぁ。へそ出しルックか。美江子さんもあんな服、着てみたら?」
「やあよ。幸生くんが着ればいいじゃない」
「俺が? そうか、一度着てみようかな」
 やめろ、と本橋くんとシゲくんが口をそろえ、乾くんは言った。
「章はへそ出しファッションしてたのか?」
「男はへそ出しルックなんて言いませんけど、腹が見えるような短いTシャツなんかは着ましたよ。ここんところでちょん切ったタンクトップみたいの着て、革のパンツを穿くんだ」
「んで、髪の毛つんつん立てて、カラフルに染めて、鼻ピアスにへそピアス?」
「俺はピアスは耳だけだよ」
「そこまで根性ないもんな」
「根性の問題かよ」
「そうだろうが」
 スタジオの中を探検中のスズちゃんが相手にしてくれないからか、章くんと幸生くんはロッカーファッション談義に花を咲かせていて、本橋くんが言った。
「紹介はあとでいいから、練習しよう。彼女もおまえの歌の練習風景を見たくてついてきたんじゃないのか、章?」
「なにがしたくてついてきたのか知らないけど、リーダー、すんません。お邪魔でしょうけど……」
「ついてきちまったもんはしようがないさ」
 怒るわけにもいかないし、といった様子で本橋くんが言い、五人はコーラスの練習をはじめた。デビューしてから一年ほどが経過したころだった。章くんは二十三歳で、スズちゃんはふたつ年下だと聞いた覚えがある。近いうちにファーストアルバムを出せる予定になっていて、そのための練習に熱が入っていた時期だった。
 乾隆也作詞、本橋真次郎作曲のオリジナル曲が、そのころのFSのレパートリーの大半を占めていて、そのときに練習していたのも、乾くんと本橋くんの手による「僕に囁いて」。美しいコーラスに聞き惚れていると、いつの間にかそばにいたスズちゃんがぼそっと言った。
「だせっ」
「……ださい?」
「ださーい」
「あなたがどんな感想を持とうと自由だけど、この歌を聴いてださいと言うなんてのは、あなたの感覚はおかしいんです」
「おかしくないよ。ださいもん」
「ロックファンからするとそうなの? 音楽にもいろいろあるからね」
「あんた、誰?」
「私はFSのマネージャーです」
「ああ、あの美江子さんか」
「あの、ってなに? 章くんは私をなんだと言ってるの?」
「女のくせに先輩面していばってるって」
「……」
 そんなふうに章くんが考えているのは、言葉のはしばしにあらわれるので知らなくはなかった。にしても腹が立つ。どう言い返してやろうかと頭をめぐらせているうちに、歌っている章くんの表情がゆがんでいった。
「章、気をよそにそらすな」
 歌がこわれてしまったものだから、乾くんがとちった乾くんを叱り、章くんはうなだれて言った。
「鈴子、おまえがよけいなことを言うからだよ。俺は美江子さんをそんなふうになんか言っていだろ」
「言ってたよ」
「言ってない」
「言ったもん」
 水掛け論はやめようね、と乾くんがさえぎった。
「その話もあとにしよう。今は練習中なんだから、鈴子さんも黙って聴いててくれないかな」
「あんたは誰? 乾さんだよね」
「そうですよ。章が俺をなんと評しているのかも、あとから言って。聞くのが怖い気もするけど……」
「乾さんのことはなんて言ってたっけ。顔はまずいのに自分をかっこいいと思ってる、笑うしかない奴、だったかな」
「鈴子!!」
 相当なハイトーンで章くんが叫び、スズちゃんはしらっと言い返した。
「そう言ったじゃん、章。んでリーダーは……リーダーってあんた? いちばん背の高いのってあんただよね」
「俺だけど……」
「いちばん背が高いからってものすげえいばってる、って言ってたよ」
「やめろー。言ってなーい!!」
「言われてても不思議はないけど、章、あとにしような。これ以上聞くと俺たちはまともに歌えなくなる。鈴子さん、お願いだからしばらく黙ってて下さい」
 乾くんを無視して、スズちゃんはなおも言った。
「本庄さんってのがあんたでしょ? もっさりしたおじさん」
「……おじさん……」
「幸生ってのが残るひとりだよね。口しかない奴」
 ぶはっ、と幸生くんは吹き出し、シゲくんはうつむいた。
「それってほんとに章の言? スズちゃんがたった今、自ら考えて言ってるんだったらそれはそれですごいね。俺は口しかなくはないんだけど、口だけ目立つ奴ってのは事実だな。章、どうすんの?」
「鈴子……」
 ドスを効かせるというのは章くんの声では無理があるのだが、それでも精一杯凄んでみせているような声で、章くんは言った。
「静かにしないとほっぽり出すぞ」
「やってみなよ」
「……黙ってろって。頼むから」
「黙ってたらつまんないじゃない」
「……おまえがあんまりうるさいと、本橋さんが切れるぞ。俺にはできないかもしれないけど、とっつかまえられて猿ぐつわを噛まされるぞ。だから、鈴子……」
 ふーんだ、とうそぶくスズちゃんを見て、幸生くんが発言した。
「章、本橋さんを悪者にしちゃいけないよ。ねぇ、リーダー?」
「章がやれって言うんだったら、やってもいいけどな。な、乾?」
「女の子にそういうことはしたくないけど、静かにしてもらわないと練習できないよな。俺たちを混乱させようとたくらんでるみたいだから。鈴子さん、それはなんの魂胆? まあ、その話もあとにしよう。鈴子さん、静かにしてて下さい。シゲ、おまえもなにか言えよ」
「俺はどうせおじさんですよ」
 ほらー、シゲさんがひがんじゃったよ、と幸生くんが言い、章くんは髪をかきむしった。
「おとなしくしてられないんだったら出ていけ。俺は先輩たちをそんなふうになんか言ってない」
「近いことは言わなかった?」
「言ったかもしれないけど……幸生については当たってるけど、先輩たちはちがう。ああ、くそくそ、鈴子……おまえのせいで俺は歌えなくなっちまうじゃないかぁ」
「そんなださい歌、歌わなくていいよ」
 FSに章くんが参加したばかりのころの彼女だった、スーという名の女の子は、FSに敵意を抱いていたらしい。スズちゃんも同様なのだろうか。魂胆とは、章くんが言ったのだとする彼らの悪口を口にして章くんを孤立させ、仲間割れでもさせようと?
「そういうの、子供の浅知恵だよね」
 言ってみたら、一斉に注目された。
「スズちゃんは彼らの結束を知らないんだもんね。そんなつまんないことで、FSの絆は途切れないのよ。ね、幸生くん?」
「その通り、ってさ、美江子さんもけっこう恥ずかしいことを言いますね」
「言ってて恥ずかしいのはたしかだけど、本当なんだもん。スズちゃん、男性にはできないかもしれないけど、私にはできるよ。黙らせてあげようか。気絶させてあげようか」
 ほんのちょっとたじろいだスズちゃんに、私はにこやかに言った。
「本橋くんって喧嘩が強いのよ。でね、いつか教わったの。私は女だし、力はそんなにないから、暴漢に襲われたらどうしたらいいかって。いくつかあるんだけど、それは相手が男の場合ね。女だったら……応用編だな。やってみようかな」
「やだよ。おとなしくしてる」
「そうよねぇ。私もやりたいわけじゃないから、スズちゃんがいい子にしてるんだったらしないわよ」
「……わかったよ」
 ほー、美江子さん、さすが、と幸生くんは呟き、がっくりしている章くんの肩を叩いた。シゲくんもがっくり気分でいるみたいだけど、本橋くんと乾くんはなにやら囁きかわし、とにかく練習再開だ、とリーダーが宣言した。
 歌が聴こえてはいたはずだが、スズちゃんは私から離れた場所でぶつぶつひとりごとを言っていた。章くんはスズちゃんが気がかりでたまらないらしく、練習に身が入っていない。ついに本橋くんが、休憩しよう、と言い、散歩でもしようか、と乾くんも言って、全員で外に出た。
 やたらにヒールの高いブーツの分を除いたら、スズちゃんは私よりも背が低いだろう。小柄な章くんや幸生くんは、自分よりも背の低い女の子が趣味だ。男というのはたいていがそうだから、別段不思議でもない。本橋くんは女の身長なんかどうでもいいよ、と言うのだが、自分が長身であるからだろう。乾くんとシゲくんもどちらかといえば小柄なタイプが好みのようだが、そのあたりはよく知らない。
 スタジオの外には広い公園があって、気分転換に散歩することもたびたびある。秋が深まっていて、スズちゃんのレースのジャケットが寒々しく見えた。
「もみじって楓ですよね」
 幸生くんが問いかけ、乾くんが応じた。
「紅葉する葉は楓と決まったものではないけど、あれは楓だよ。メイプル」
「メイプルって楓なんだな。章のつくったあの歌は……そしたら楓に恋してる?」
「メイプルって名前の女の子だよ」
「そんな名前の彼女がいたのか? いつの彼女?」
「幸生、もめさせるようなことを言うな」
 乾くんが言い、幸生くんが舌を出し、章くんはぶすっとしていて、スズちゃんは知らん顔。章くん作詞作曲のソフトロックナンバー、「メイプル・マイラヴ」を幸生くんが口ずさんでいると、シゲくんとふたりで先を歩いていた本橋くんが振り向いた。
「あそこの陰にな」
 声をひそめて、誰にともなく本橋くんは言った。
「隠れてる奴がいる。こっちを窺ってる。いやな雰囲気だぞ。誰かの知り合いか」
 そろって本橋くんの指の方向を見て、そろってかぶりを振ったのだが、章くんとスズちゃんが顔を見合わせ、スズちゃんが言った。
「やっぱつけてきてたんだ。だから言ったじゃん、つけられてる気がするって。章はそんなの気のせいだって言ったけど、いるじゃないよぉ、どうすんの?」
「……孝か。おまえが撃退しろよ」
「章、なんとかしてよ」
「やだよ」
 わけを言え、と険しい表情になった本橋くんが章くんに迫ると、乾くんが口をはさんだ。
「さしづめ……孝ってのはスズちゃんのモトカレってところ? つきまとわれてる?」
「スズちゃんをつけ狙って、こんなところまでついてきた? 章、大変じゃん。彼女の危機だ。どうにかしてやれよ」
「無責任に言うんじゃねえよ、幸生。あいつはおまえのモトカレなのか、鈴子?」
「モトカレってほどじゃないけど、つきあってたことはあるよ」
「それをモトカレって呼ぶんじゃないの? なにをするつもりなんだろ。だけど、スズちゃん、よかったかもね。ここには喧嘩に強い強い本橋くんがいるんだから、大船に乗ったつもりでいていいよ。ね、本橋くん?」
「山田、おまえも無責任になに言ってんだよ。スズちゃんは章の彼女なんだぞ。俺たちは関知しない」
「えーっ、リーダー……そんな……」
 焦りはじめた章くんに、乾くんも言った。
「酔っ払いにからまれただとか、不良に因縁つけられただとか、わけのわからない奴が相手だったら、おまえのかわりにリーダーが闘ってくれるさ。しかし、おまえの彼女の問題なんだろ? そんなところにしゃしゃり出るのはまちがってる。鈴子さんにはおまえという男がついてるんだから、たとえリーダーといえども、おまえの前に立つのはおまえを侮辱してることになるんだよ」
「侮辱だなんて感じませんよ」
「わかんない理屈だね。そういうときって後輩をかばうのが先輩じゃないの? 前にはそうしたんでしょ? 殴られそうになった章くんだとか幸生くんだとか私だとかを、あなたたちはかばったじゃない。あれは侮辱じゃないわけ?」
「ミエちゃんは女性なんだから、殴られそうになったら男がかばうのは当然だね。しかし、シゲといい俺といい、そのときにはすこし悩んだんだよ。な、シゲ?」
 あ……と章くんが声を発した。
「あんとき、シゲさん、言いましたよね。あんな真似をして、おまえを侮辱したのかな、って。とんでもない、って俺は言ったけど、本橋さんや乾さんやシゲさんの感覚ではそうなるのか」
「じゃあ、乾さんも俺をかばってくれたときに?」
「思ったよ。幸生だって男なんだから……と思いはしたけど、状況が状況だったからそうも言ってられなかった。幸生は侮辱されたとは感じなかったか」
「ありがとうございましたー、って感じました」
「そんならいいんだけど、今回はそうは行かない。章、談判してこい」
 なにをごちゃごちゃ言ってんの? と乾くんを見つめるスズちゃんに、本橋くんが言った。
「てめえの彼女につきまとってる奴を撃退もできないで、男だなんて言えるか。こんなときこそ、男は男としてふるまうべきなんだ。きみはそうは思わないか?」
「うーん、でも、章だからねぇ……」
「章、彼女にこんなことを言われてもいいのか」
「だけど……リーダー……」
 行けよ、章、と幸生くんが章くんの背中を押し、シゲくんも言った。
「暴力じゃなくてもいいはずだろ。おまえは乾さんや幸生ほどじゃないにしても、弁は立つじゃないか。口で撃退できるだろ」
「幸生……」
「アドバイスしてほしい? じゃあね……」
 章くんの頭を引き寄せ、幸生くんがふたこと、みこと、耳打ちした。そんなの……ええ? 無理だよぉ、と力なく反論している章くんの脚を、幸生くんが蹴った。
「行け。どうしてもいやだって言うんだったら俺が行くけど、そしたらスズちゃんは俺になびいちゃうかもしれないよ」
「……それでもいいけど……」
「にゃにお? そうか、章、おまえはそこまでだらしない奴だったのか。おまえは気が弱くてひがみっぽくて、ねぼすけで身体も弱くて、だらしなーい男だと知ってはいたけど、そこまでだったんだな。見損なってたとは言わない。そうだろうとは思ってた。けど、そこまでだったなんて……俺は哀しいよ。スズちゃん、こんな奴とつきあってるとろくなことはないからね。いっそ孝って奴とよりを戻す? 昔の彼女に執着してつきまとうなんてのは気持ち悪いけど、逆に考えればそれほど愛してるってわけでもあるんだよ。章みたいな腰抜けチキンよりはましかもしれないよ」
「あんなの……でも、こっちもこんなの?」
「そう、章はこんなの」
 この野郎、言わせておけば、と章くんは燃えたらしい。幸生くんを突き飛ばして肩を怒らせ、孝と呼ばれた男のほうに歩いていった。
「成功したかな。ね、乾さん?」
「毎度毎度のおまえの戦法か。章も意外に単純だな。本橋、ほんとにほっとくのか?」
「章がぼっこぼこにされかねなかったりしたら、考え直すよ」
「だろうと思った」
 だろうと私も思っていたのだけど、男たちはうなずき合い、章くんと孝とやらを注視していた。スズちゃんは両手を握りしめて、私に身を寄せてきた。
 いくらかの距離を置いて、私たちは見つめていた。そうしている間に章くんと孝くんは、激論を戦わせていた。暴力は用いなかったが、双方が激していた。章くんの声は言うまでもなく高く、孝くんのほうは声が低いようで、章くんの声のみが途切れ途切れに届いていた。
「……わかったんだったら行っちまえ。二度と鈴子につきまとうな!!」
 勝ち鬨とでも名づければいいのか、章くんの高らかな声が聞こえ、お、おおお、章、やったじゃん、こりゃあ明日は雪がふるな、と幸生くんがとぼけた調子で言い、シゲくんと本橋くんが握手した。乾くんがスズちゃんをちらっと見、私は気づいた。
「よかったね、章くん、おめでとう、って言ってあげなきゃいけないのかもしれないけど、あなたたちはよってたかって、大切な大切なことを忘れてる。大切なことと言うのか、世の中の不条理っていうのかしらね」
 大切なこと? 不条理? と繰り返しているのは乾くんと幸生くんで、本橋くんとシゲくんはきょとんとしていた。
「男って大変だなぁ、って、私は改めてつくづく思ったわ」
「……そりゃそうだ、男が男として生きるのは、なかなか大変なもので……」
「本橋くんの言ってることはピントはずれなの。そっちじゃないの」
「だったらなんだ?」
「だってね、男ってのは女と一生つきあっていかないといけないでしょ? 男心と女心はどこまで行っても平行線。永遠にまじわらない」
「……なんとなくわかってきたような気も……」
「なんとなくでもわかってるのは乾くんだけだよ」
 だろうね、と乾くんは呟き、私たちのところに戻ってきた章くんも、息を荒げた状態できょとんとした。
「女って生まれつき気まぐれなものなのかもしれない。認めざるを得ないのかもしれない。章くんはなけなしの勇気を振り絞って、スズちゃんのために大奮闘したんだよね。本橋くんとシゲくんにしたら、そうして孝くんを退けた章くんを、拍手喝采で迎えてあげたいんでしょ? その一事はそれでいいのかもしれないけど、スズちゃんの気持ちは……?」
「えーと、つまり……」
 ちらちらっとスズちゃんを見た幸生くんが言った。
「そういうこと? 章が大奮闘したってのに、スズちゃんの心がずれはじめてる?」
「幸生くんにもわかるんだね。褒めてあげたいところだけど、それって女の直感に近い感覚だから、男としては嬉しくないんじゃないの?」
「……つまり、乾さん、そういうわけ?」
「そういうわけみたいだよ」
 ね、でしょ? と三人はうなずき合ったのだが、あとの男三人は、ひたすらに怪訝そうにしていた。
「で、ミエちゃん、俺にはなんとなくしかわからないんだけど、鈴子さんの気持ちはどの方向にずれてるんだろ」
「視線をたどればわからない?」
「視線ねぇ……」
 不気味なほどになにも言わないスズちゃんの視線を、乾くんと幸生くんがたどっていった。視線の先にいた本橋くんが、苛立った口調で言った。
「さっきからおまえらは、なにを意味不明なことばかりほざいてるんだ。どういう意味なんだよ、その会話は。はっきり言え」
「……はっきり言ったら章が気の毒ですよ。ねぇ、乾さん?」
「だよなぁ。なんのために無我夢中で口舌をふるったんだ、ってなもんだ。腕力沙汰にならなかったのだけが不幸中の幸いだけど、章、ミエちゃんも言っただろ。女性という存在と一生つきあっていかなくてはならない、男と生まれた身の運命だと思って耐えろ。落ち込むなよ」
「……幸生も乾さんもなに言ってんですか? 鈴子の視線……?」
 三番目に気づいたのは、やはり章くんだった。
「ね? そうなっちゃったみたいよ」
「……そうかぁ」
「あのぉ、俺にはなにがなんだかさっぱりわからないんですが……」
「シゲくんには無理。そっちの男にはもっと無理。スズちゃん、もはや心はここにはないの?」
「だってね……」
 ようやくスズちゃんが口を開いた。
「章が孝に向かっていったのは、章がそうしたかったからじゃないじゃん? あたしも自分で不思議なんだけど、こういうタイプって好みじゃなかったはずなんだけど、なんでかなぁ。ぽわんとなっちゃったの。本橋さん、彼女はいるの?」
「は? 俺?」
 ことここに至っても、当人は真相に思い当たっていなくて、シゲくんが目を見開いた。
「ずれはじめてるって……章から……本橋さんに?」
「なんだとぉ?」
 銃で撃たれかけたかのごとく、本橋くんはたじろいだ。
「なんでそうなるんだっ。俺にはますます意味不明だぞっ」
「なんでなんだかはあたしにもわかんないんだけど、そんな気分なんだよね。章、ごめんね」
「……そうかよ。いいよ、好きにしろ。俺はこんなのは慣れてるよっ。リーダー、そんなら鈴子をよろしく」
「待て、章もスズちゃんもちょっと待て。俺は……山田、なんとかしろ」
「私は関係ないじゃない。分析してみたらこうなるんじゃないかな。スズちゃんはロッカー趣味で、本橋くんみたいな男っぽいっていうか、えらそうにしてる男は好みじゃなかったんだよね。でも、章くんを叱咤激励して孝くんに立ち向かわせてくれた。その男気に惚れたとでもいうの? そういうのにぽわーんとなる女もいるんだよね。本橋くんの本質に恋してくれたんだから、おふたりはうまく行くんじゃない? ねぇ、乾くん?」
「うん、そうだろうな。本橋、あとはまかせるよ。俺たちは邪魔だから立ち去ろう」
「そうね。本橋くん、健闘を祈るわ」
「……待て、待てと言ってるだろ」
 あんなに慌てまくる本橋くんは見ものだね、と囁きかわし、私たちはその場から歩き出した。シゲくんは、いいのかなぁ、という顔をしていて、章くんは愕然としていたが、乾くんと幸生くんはくっくっと笑っていた。
 気まぐれお嬢さんに翻弄されて、どうやって逃げてきたのか知らないけど、本橋くんはそれからだいぶたってから、ひとりでスタジオに帰ってきた。そして、むっつり顔の章くんに言った。
「彼女とは俺はつきあう気はない。それだけだ」
「……だろうと思ってはいましたよ。リーダーの趣味じゃないもんね。だけど、俺んところに戻る気もないんでしょ、あいつは。いいんだいいんだ、俺はどうせ……鈴子にしたって押しかけ彼女なんだから、どっかに行っちまったほうがせいせいしますよ。いいんだいいんだ、俺なんかどうせ……」
「章ぁ、そういうことは生きてりゃいくらでもあるよ」
「うるせえんだよ、おまえは。聞いたふうな口を叩くな。アホバカ幸生」
「俺を罵って気がまぎれるんだったら、いくらでも聞いてあげるからね」
「うるせえと言ってるだろ。俺はなあ……あんな女に未練はないんだよっ」
「よし、章、よく言った。それでこそ男だ」
「じゃかましい。死ね!!」
 はあ、なんでこうなるかね、と本橋くんまでが落ち込み、章くんも落ち込んで、他の四人としてはふたりが立ち直るのを待つしかなかった。気の毒なのが半分、おかしいのが半分で、私はどうしても笑ってしまったのだけど。
 

2
 
 新婚旅行なんだからふたりきりの旅行は当たり前だけど、本橋くんとふたりで旅行するのは初も初。なにやら居心地がよくない。新婚カップルらしい甘いムードってどうやって作ればいいんだろう。
「……無理だね。私たちには」
「なにが?」
 問い返す本橋くんの声も常のごとくにぶっきらぼうで、私たちはこれでいいんだよね、と思うことにした。本橋くんと私は昔から、会話といえば仲間の話、そうでなかったら喧嘩してたんだから。
「いつかねぇ……」
 海の見えるホテルのスゥイートルームの大きなベッドに、本橋くんが長々と伸びている。となりに寝そべったら、彼は無言で私を抱き寄せた。十八歳のころから何度か見ている裸の胸が、大人らしく広く厚くなって、頬を乗せるととくとくと心臓がリズムを刻んでいた。
「十二人、ううん、もっと多いかな。みんなで花火を見にいきたいね」
「金沢にか?」
「金沢でもいいかな。乾くんの奥さまは和服の似合う美女で、って想像だったらできるんだけど、幸生くんと章くんの奥さまになる女性はどんなひとなんだろ。想像できない」
「……幸生と章か。俺には恭子さん以外は像を結ばないぞ」
「恭子さんは現実にいるんだもの。本橋くんって理系のせい? そういう想像ができないんだよね。宇宙の果てに思いを馳せるんだったらできるんでしょ?」
「そりゃあまあな」
「今度はスペーストラベルの歌詞を書いたら?」
 そんな話をしたせいか、その夜、夢を見た。夢の世界は未来図だった。
 シゲくんと恭子さんがいる。シゲくんの肩には長男の広大くんがすわっていて、五歳ほどに成長していた。恭子さんの腕の中には赤ちゃん。恭子さんとシゲくんの次男であるらしい。乾くんのかたわらには、あれ? どこかで見た覚えのある女性だ。幸生くんと章くんには……奥さまらしき女性はいない。夢の世界でも彼らのパートナーとなると想像が形にならないのであるようだ。
「広大、こっち来いよ」
 本橋くんに呼ばれた広大くんは、やーだよ、と答えてパパにしがみついた。私は乾くんのそばで微笑んでいる女性を見つめて手を打った。
「美里さん!!」
「お久し振りです、美江子さん」
「そうだったのかぁ。美里さんと、だったんだ」
 誰だっけ? と本橋くんが首をかしげ、乾くんはしらんぷりをしている。美里さんは言った。
「乾さんと……ええと、隆也さんとはじめて会ったのは、私が二十八のときでした。カメラマンの田所先生の助手として、FSのスタジオにお邪魔してたんですよ。本橋さんは覚えてらっしゃいません?」
「ああ、あの美里さんか。乾、おまえ、いつの間に……」
「いつの間にかこうなりました。近いうちに結婚するよ」
 うわわっ、そりゃめでたい、と幸生くんが言った。広大くんが五歳くらいになっているのだから、四、五年先の近未来であろうに、幸生くんも章くんもまるで変わっていない。美里さんはぽっと頬を染めて言った。
「私、あのころは別のひとに恋をしていたんです。隆也さんはそうと知りながら私に……」
「美里、おまえさ……」
「あらまぁ、乾くんが女性をおまえと呼ぶだなんて、はじめて聞いたよ」
「美里は特別なひとだからね」
「……ごちそうさま、って言うんだっけ。こういうときは」
「なんとでもおっしゃって下さい。美里、ミエちゃんに話したいのか。だったら男は消えよう。恭子さんもいっしょに消えてもらえますか。広大、おいで」
「はーい」
 なんだよ、俺にはあかんべしておいて、乾にだったら抱っこしてもらうのか、と本橋くんが広大くんのほっぺをつつき、おじちゃんは怖いもん、と広大くんが口答えしている。そうだよな、本橋のおじちゃんは怖いもんな、とシゲくんが息子の頭を撫で、美里さんと私以外の八人の姿が見えなくなった。
「話してもいいですか」
「聞かせて」
 言葉ではなくその情景が見えてきた。美里さんの心象風景? 私の中にじかに美里さんの想いが伝わってくるみたいだった。
「でも……私はあのころ、乾さんに……あんなふうに……覚えてるんでしょ?」
「過去とは訣別したんだろ。人間、三十数年も生きてりゃなにかとあるよ。俺にも過去はある。恋も何度かしてすべて破れた。あなたに現在進行形の恋がないんだったら、俺と恋をしよう、永遠に」
「……永遠に?」
「この先の未来を俺と歩こう」
「……乾さん」
 強く抱きしめられて、私……この「私」は美里さん。私は乾さんの胸に頬をうずめた。涙がぽろぽろこぼれているのを、乾さんのてのひらがぬぐってくれて、乾さんのくちびるが私のくちびるをふさいだ。
「結婚して下さい」
「……乾さん、こんな私で……?」
「こんな私、じゃない。あなたと結婚したいんだ」
「……はい」
「嬉しいよ。じゃあね、乾さんなんて呼ぶのはなしだよ。隆也と呼んで」
「隆也さん?」
「呼び捨てでいいんだけど、あなたはどこか古風なところのあるひとだから、呼び捨てにはしにくい? 隆也さんでもいいけどね。他人行儀はいやだよ」
「隆也さん、じゃあね」
「ん?」
「私のことも、あなた、なんて呼ばないで。できたら、おまえ、がいいな」
「おまえ? 俺は女性に向かっておまえだなんて……いや、ニ、三度はあったかな」
 ふたりして歩き出しながら、隆也さんは私に腕を差し出した。ためらいがちに腕に腕をからめたら、肩を抱き寄せられた。
「あるの?」
「なくはないな。怒ったときとか」
「隆也さんが怒ったとき……私にもあったね。きみは馬鹿だ、きみなんか大嫌いだ、って言われた」
「本心じゃなかったけど、俺だってたまには怒るよ。まあ、昔の話は忘れよう。おまえかぁ……あなたが、もとい、おまえがそう呼んでほしいと言うんだったらそうするよ。うちの連中にはいつも言ってるんだから、慣れてるんだけどね」
 景色がもやもやっと変化していき、今度のシーンは乾くんの部屋であるらしかった。ここからの「私」も美里さんになる。隆也さんは部屋に入ると、ベッドに腰かけて言った。
「風呂は沸いてるよ。入っておいで」
「お風呂?」
「俺もいっしょに入っていい?」
「いや」
「そのうちには入ってくれる? 美里は純情可憐なんだなぁ。赤くなっちゃって……嘘だよ。早急にいっしょに入らなくても、これから幾度でも機会はあるもんな。そのうちいきなり、おまえが風呂に入ってるのを襲いにいくかもしれない。覚悟してろ」
「……純情可憐って……私、そんな年じゃないのに……からかわないで。そんな隆也さん、嫌いだから」
「愛する女は男から見れば可愛いんだよ。可愛くなかったら恋もしない。いいからさっさと風呂に入っておいで」
「……だって、恥ずかしい」
「恥じらってるおまえもいい眺めだな。いいよ、そんなら。ずっと恥ずかしがってるといい。俺はここでそんなおまえをずっと見つめてるから」
「……意地悪言うんだったら帰る」
「帰さないよ」
 逃げ出すふりをしてみたら、つかまえられて抱き上げられた。
「……隆也さん、力があるんだね」
「当たり前だろ。俺は男だよ。こんなにちっちゃくて可愛いおまえのひとりぐらい、抱き上げられなくてどうする。脱がせてやろうか。脱がせたら風呂に入る間がなくなっちまうぞ」
「……やだってば、離して」
「いやだよ」
「もうっ、隆也さんったら」
「……うるさい、黙れ」
 びびびんっとしびれて、私は隆也さんを見返した。
「早く風呂に入ってこい。おや、どうした? 泣くの? 泣いてもいいよ。泣いてるおまえもさぞかし可愛いだろうな。美里、おまえのなにもかもが好きだよ。十数える間に風呂場に行かなかったら、さらってって裸にして俺もいっしょに入る。どっちがいい? 一……ニ……」
「隆也さんがそんなに意地悪だなんて知らなかった」
「三……四……」
「入るから降ろして」
「よし、いい子だ」
 フロアに降ろされてバスルームへと小走りに向かいながら、どきつく胸を持て余していた。そそくさとお風呂を使ってきっちりともとの服を着て部屋に戻ると、隆也さんは呆れ顔で私を見て、自分もお風呂に入りにいった。私はそのまますわっていて、ぼーっとなっていたらしい。気づいたときには裸の隆也さんに抱き上げられていた。
「……あ」
「お待たせ。身体が冷えてしまったね。あたためてあげようね」
「……隆也さん……」
「愛してるよ」
 その次のシーンは、ベッドで語らうふたりだった。
「私ねぇ、変なのかな」
「ちっとも変じゃなかったよ」
「……そういう意味じゃなくて、Mっケがあるのかなぁ、って」
「エム? はあ、そうなの?」
「ちがうのよ、乱暴にされたいとかじゃなくて……もう、いやだったら」
「おまえが言ったんじゃないか。どうエム?」
「さっきね、隆也さんが言ったでしょ。うるさい、黙れ、って。あれにしびれちゃったの」
「少々荒い言葉に反応するのか。いいこと聞いた」
「もうっ、意地悪」
「俺はおまえに意地悪と言われるとしびれるよ。もっと言って。もっと意地悪してやろうか」
「……嫌い」
「嫌いになられるのは悲しいな。ほんとに嫌い?」
 かぶりを振ると、いっそう強く抱きしめられた。
「本音を言ってごらん。嫌いじゃないんだろ。俺をどう思ってる?」
「……」
「美里、言え」
「……愛してる」
「俺もだよ」
 ぽかっと現実に引き戻れて、私……ここからの「私」は美江子。私は大きく吐息をついた。
「刺激的な心象風景だったなぁ。乾くんってそういうタイプなのね。漠然とは知ってるつもりでいたけど、愛する女性とふたりきりになるとそうなるのか。けっこう悪い奴っぽいね」
「悪い奴なんかじゃありません」
「……ごめんなさい。うちの誰かさんとは大違い。美里さんもよくもまあ、そこまで見せてくれたもんだわ」
「私が見せたわけでもなくて……」
「まあいいじゃない。プロポーズの台詞も乾くんらしかったなぁ。本橋くんなんかはね……私の話をしてたんじゃなかったね」
「本橋さんはなんて?」
「本橋美江子になっちまえ」
「そうなんですか」
 私が男にあんなふうに言われたら、足がもぞもぞしてきそう。気持ちわるーい、とかなんとか言い返してしまいそうだから、私には本橋くんのプロポーズのほうが似合っていたのだろう。
「田所先生のところを辞職して、私、金沢に行ったんです。金沢在住の女性カメラマンのアシスタントにしてもらって、そこで今でも働いてます。私が金沢を選んだのは……」
「うん、そうなんだね」
「隆也さんとはじめて会ったときに、別の恋なんかしてなかったらよかった」
「乾くんにはそう言った?」
「言いました。過去は忘れよう、って。私が変なことを言ったから、隆也さんは時々私に荒っぽいふるまいをするんですけど、普段はとっても優しいんですよ」
「わかるよ。彼が愛する女性にはどんなに優しくするか、知らなかったけどわかる。荒っぽくされるのも好きなんでしょ?」
「美江子さんまで……意地悪」
「美里さんに捧げる歌、なんてのも作ってもらった?」
「はい」
 どんな歌? 聴かせて、と言ってみたら、美里さんは赤くなってうつむいた。夢だからなのか、乾くんの綺麗な声が耳元に聴こえてくる。聴こえてはくるけれど判然としない。愛してると言ってごらん、言わないとわからないよ……とかすかに聞こえる。もどかしくて顔をしかめていたら、美里さんが不安げに私を見た。
「あとで隆也さんに歌って、ってお願いしてみようかな。でも、恥ずかしいし……」
「乾くんは恥ずかしがらないよ、きっと。彼は羞恥心欠如タイプだからね。よくもまあ、恥ずかしげもなくいけしゃあしゃあと……私が知ってるって聞いたら恥ずかしがるかしら。ううん、きっと平気だね。美里さん、怒ってる?」
「怒ってませんけど、美江子さんはずいぶん隆也さんを悪くおっしゃるんですね」
「悪くは言ってないの。昔からこうだから」
 そうですかぁ、と美里さんは口をとがらせた。ほっそりしていて私よりやや背が低い。体型は乾くんのお母さまを若くしたような、かな。ああ見えて乾くんにもマザコン傾向があるんだろうか。古風なところもお母さまに似た女性を選んだのは、無意識のたまものなのだろうか。
「あなたってほんとに可愛いひとなんだね。乾くんの理想にぴったりだったんだ。結婚するんでしょ? おめでとう。私もこれで肩の荷がひとつ降りるかな。あとは年少のふたりだね。幸生くんと章くんは……」
 ここはどこなんだか不明だけど、遠くに幸生くんと章くん、広大くんとがおっかけっこしているのが見えた。シゲくんと恭子さんがはらはらと息子を見守っている。本橋くんは乾くんを冷やかしている様子で、乾くんもなにやら言い返していた。
「それでね……」
 なにを言おうとしているのかわからないままに、言葉を次ごうとしたら眼が覚めた。
「……誰だっけ? 今のひと、誰だっけ?」
「今のひとって?」
「夢に出てきたのよ、乾くんのフィアンセ。知ってるひとだったのにな。目覚めた途端に砕け散っちゃったよぉ。夢のかけらが霧散してちりぢりばらばら。思い出せない」
「……夢だろうが」
「だって、えーと……誰だったかな」
「おまえは朝っぱらからうるさいんだよ。黙れ」
 黙れ、って台詞も出てきたような気がする。乾くんに、黙れ、と言われたら私も驚くだろうけど、びびんっ、なんて来ないで怒るかもしれない。本橋くんはいつでも黙れ、程度は普通に言うからなんともないけど……黙れ、びびん、がキーワード? 思い出そうと努力してみてもどうにもならずに、本橋くんに抱きすくめられて、ちりぢりばらばらの夢のかけらが分解して原子になって、朝の大気の中にまぎれ込んでしまった。


3

 男ばかりで話している際には、私がいたら言えない内容の会話だったりもするわけで、時々盗み聞きしたくなる。これも盗み聞きの収穫だった。
「そりゃあさ、ミエちゃんは女の子なんだから」
 この声は乾くん。私の話題? そうなると自然、聞き耳を立てたくなった。
「おまえだって、あんなの女じゃねえよ、って言ってるのは本音じゃないだろ」
「生物学的には山田は女なんだろうけどな」
 応じているのは本橋くん。この話題となるとなぜだか、乾くんより本橋くんのほうが素直ではなくなる。本質的な性格はどちらがよりまがっているのだろうか。ふたりが別々の方向にまがっているとも考えられる。
「中身は半分男じゃないのか」
「またまた……ミエちゃんには男っぽい部分はあるけど、そこも彼女の美点じゃないか。おまえはいわゆる、べたべためそめそ女々した女が好みなのか。ちがうだろ」
「女々した女ってどんなのだ? べたべためそめそか。なにかっちゃあすぐに泣く、うるさくてしつこくて男に執着するような女か。うるさいのは山田もだけど、あいつはあっさりしてるよな。そういうのが男っぽいっていえばそうなのか。俺は女々しい女は好きじゃないよ。しかし、山田は気が強すぎやしないか? 気が強いというより気が荒い。生意気で口達者で頭が切れる。男を男とも思ってない」
「舌鋒鋭い女は、歯ごたえがあって面白いじゃないか。頭が切れるのも気が強いのも、逆よりはいいな。だからこそミエちゃんとは、友達づきあいをしてこられたんだ」
「うん、まあ、そうだな」
 他の三人はいないらしく、乾くんと本橋くんだけが話していた。
「だけど、ミエちゃんには女の子らしくて可愛いところもあるよ。認めるだろ? 男だの女だのというと差別だって怒られるかもしれないけど、ミエちゃんは俺たちの友達でもあり、仲間でもあり、それでもやはり女の子だ。女友達ってやつだな。男のおまえたちと接する場合とは、ミエちゃんに接するのはちがってくる。そんなの当たり前だろ。おまえにしたって男でも女でも態度はさして変えない主義なんだろうけど、俺たちに対するのとミエちゃんに対するのは微妙にちがうじゃないか。彼女が女だと意識してるからだよ。男から見たら女は可愛い。基本的に可愛いんだ」
「……可愛くない女もいるぞ」
「可愛くないのもいるけど、まあ、それは置いといて。可愛いとばかり言ったら、ミエちゃんは怒るかもしれないな。そういうところは厄介なお方ではあるけど、恋人でもないんだし、子供でもないんだから、可愛い、可愛い、ばかりじゃ失礼だよな」
「そうなのかな」
「俺には彼女はいないからよけいなのかな。彼女ができたらそちらのほうがより以上に大切になってしまうのかもしれない。いや、彼女とミエちゃんは別次元の存在だよ。女でもあり大切な仲間でもあるミエちゃんは、俺たちの……女神かな」
 女神? と問い返して、本橋くんはぷっと吹き出した。
「女神ってのは本性は荒いんだな。戦いの女神だったりして……」
「ミューズじゃないのか」
「音楽の女神か。で、おまえはなにが言いたいんだよ?」
「彼女はいなくても、心から守ってあげたいと感じる女性が身近にいるのは、男として幸せだなぁ、ってさ」
「……よくわからないが?」
「わからないか? 男にはあるだろ。自分よりもか弱き者を守りたい、保護本能。女性だとは限らないけど、男は誰かを守って生命を賭けたい生きものなんだよ。そんなひとのいない男は不幸だ、って言いたいんだ」
「そういうのがいなくて、なんのために男に生まれたんだ、ってか」
「そうそう、わかってるじゃないか」
 抽象的なのか具体的なのか判明しづらい話題だけど、根本的にはふたりの意見は一致を見たらしい。
 女とは限らないにしても、弱き者を守りたい本能を持つのが男、か。女をか弱き存在だと決めつけるのは気に食わなくもないけれど、肉体的には男よりも弱い。少なくとも腕力や筋力は弱い。暴力沙汰の喧嘩で男に勝てる女は稀だろう。だからこそこの世にはレイプというものもあって、加害者は男、被害者は女とほぼ決まっている。ドメスティックバイオレンスにしても、たいていは加害者が男、被害者が女だ。
 いいかっこ言っちゃってさ、と言い返したい気分もあるにはあるのだが、私のいない場所で言っているだけに、真実味がこもっていると感じられた。
「ミエちゃんじゃなくても、肉体的暴力に直面している女を守りたいのが男だろ。精神的には女のほうが強いのかもしれないけど、この腕の力だけは男が強い。一般的にはそうだよ。だからさ、俺なんかはおまえよりは弱いんだけど、誰かのためにもっともっと強くなれたらなぁ、って思うわけだ」
「ふーむ。それはわかるよ」
「わかるよな」
「だったらやろうか」
「なにを? やめろ。こら、わっと!!」
 ついに辛抱できなくなって部屋を覗いたら、本橋くんのこぶしが宙で乾くんの手に受け止められていた。
「なにすんだよっ、おまえはいきなり。そんな話をしてるんじゃないだろ」
「してるじゃねえか。おまえは俺より弱い。だから強くなりたい。そんなら鍛えてやろうって話になるのが俺の理屈だ。俺のパンチを受け止められるんだから、おまえも言うほど弱くはないんだろうけど、力は俺より弱いだろうが」
「変な三段論法は……う、うっ」
「はねのけてみろ」
「……やめろって」
「やめない」
 止めに入ると、立ち聞きしてたんだな、となるのは決まっている。本気で喧嘩をしているのではなく、トレーニングの一種だろうから放っておいていい、んだろうか。
 片手で本橋くんのこぶしを受け止めている乾くんに、本橋くんが力を加えていっている。乾くんは左手も出して防戦している。両手で本橋くんのこぶしを押し返そうと懸命になっている。その隙をついて、本橋くんが乾くんの胸を押した。乾くんは椅子からころげ落ち、てめえ、卑怯者、と低音で言った。
「卑怯者だぁ? そういうのを負け犬の遠吠スズてんだよ。悔しかったらかかってこい」
「言葉に暴力で応戦するとは、おまえは卑怯者だよ」
「だから、鍛えてやるって言ってんだろ。鍛錬はいやか。喧嘩にしようか。俺はどっちでもいいぞ。おまえと本気の殴り合いは一度やってみたかったんだ。乾、来い」
「……大馬鹿野郎」
「おまえはいつだって口ばっかりだもんな。そんなことで弱い者を守れるか。強くなりたいんだろ。俺を倒してから大口叩け。俺ごときにかかってもこられないんじゃ、強くなんかなれっこないぞ。俺は格闘家でも喧嘩の達人でもないんだから」
「喧嘩は達人の域に達してるよ」
「まだ口ばっかりか。情けねえ野郎だな」
 挑発されているのはわかっているようで、乾くんは床に倒れて本橋くんを睨み上げていた。
「俺の隙を窺ってんのか。無駄だ。俺は隙は作らない」
「豪語したな。だんだん腹が立ってきたぞ」
「おう、いい傾向だ。かかってこいよ、筋肉もろくについてない、都会派の細身の乾隆也くん」
「……くそぉ」
 さも楽しげに本橋くんは乾くんを手招きし、乾くんが立ち上がろうとした。これはまずいかも。止めないと喧嘩に突入してしまいそうだ。喧嘩になる原因なんかないのに、男って困ったもんだね、というか、困ったものは本橋くんだよね、と私はひとりごとを言い、ドアを開けた。
「やめてよっ!!」
「本橋さん、乾さん、なにやってんですかっ!!」
 同時に裏手のドアも開き、シゲくんが走りこんできた。
「やめて下さい。やめなさい!!」
 シゲくんが来た以上は、喧嘩阻止はシゲくんにまかせておいたほうがよさそうだ。私は駆け寄るのをやめて見つめていた。
「いい大人がなにをするんですか。みっともない。喧嘩は俺が許しませんよ」
「なんだよ、シゲ、えらそうだな。先におまえとやろうか」
「どうぞ」
「……断固たる態度を取るんだよな、おまえはこういうときは。いいから引っ込んでろ」
「いやです」
「誰に向かって口をきいてんだ、え? シゲ?」
「本橋さんです。リーダーです」
 恫喝口調は故意にであろうが、シゲくんは毅然とした態度を崩さず、みじんも臆せず本橋くんと対峙していた。乾くんはどさっと椅子にすわり直し、煙草に火をつけた。常習ではないのだそうだが、乾くんと幸生くんは時たま喫煙する。乾くんの喫煙ポーズは絵になっていた。
「あちゃちゃあ、章、大変だっ」
「シゲさんとリーダーが? なんでなんで?」
「シゲさんがリーダーに立ち向かってるの? なにが発端? おーい、シゲさん、怒ってるんですか? 返事してくれないよ、章。シゲさんが怒るとはよほどのことだよな。リーダーったらなに言ったの? ははーん、もしかして、原因は乾さん? 乾さんとリーダーの喧嘩がはじまりそうだったのをシゲさんが止めようとしてるんだ。ほっとけだか引っ込んでろだか言われて、そんなら俺を殴り倒してからにして下さい、ってシゲさんが言って、今しもそうなりかけてる? リーダー、シゲさんを殴り倒してまで乾さんと喧嘩したい理由はなに? 章ぁ、どっちも返事してくれないぞ」
 本橋くんとシゲくんは一発触発状態にも見える。なんだってこうなるのよぉ、と私は頭を抱えるしかなかったのだが、乾くんは無言で、幸生くんの声ばかりが響いていた。
「リーダーと乾さんの殴り合いもまずないけど、シゲさんとリーダーってのも見ものだよね。シリアスすぎるのは困るけど、ストレス解消程度だったらいいじゃん? 章、見物してよう」
「いいのかぁ。乾さん、止めないんですか」
「知るかよ。勝手にやってろ」
「はあ、乾さんも怒ってる?」
「美江子さん、見てたんですか。止めないんですか」
「私が止めて止まるんだったら止めるよ。幸生くんも章くんもなに言ってんのよ。発端はね、男の保護本能がどうとか、男と生まれてきたんだから強くなりたいだとか、女を守りたいだとか、そういう男のロマンってやつ? それにすぎないのに、なにがどうなってシゲくんと本橋くんがこうなってるのか、私には理解できないのっ」
「……どこから聞いてた、ミエちゃん?」
 立ち聞きがモロバレ。乾くんがくわえ煙草で尋ね、全部だよっ、と私は答えた。
「美江子さんが立ち聞きしてたのか。お行儀悪いなぁ、美江子さん」
「幸生くんはうるさいのよ。立ち聞きなんて問題外でしょ。シゲくんと本橋くんをどうすんの?」
「動き出さないね。ストップモーションがかかってんのかな。近づいても危険はないかなぁ」
「幸生、やめとけ。跳ね飛ばされるぞ」
「ですね、乾さん。章、おまえがつついてみろよ」
「いやだ」
 つと、本橋くんがシゲくんに歩み寄った。きゃっ、と幸生くんが小さく悲鳴を上げ、章くんは両手を握り締め、乾くんは身を乗り出した。私はとなりにいた幸生くんの腕をつかみ、緊張して見つめていた。
「おまえは俺を殴れるのか?」
「できません」
「鍛錬でもか」
「俺がパンチを繰り出して、本橋さんが止めるんだったらできますよ。しかし、そうすると約束してくれても、止めてはくれないかもしれない。だとしたらできません。俺は先輩に暴力はふるえません」
「どんなわけがあってもか」
「本橋さんが犯罪行為に走ろうとしているんだったら、殴り倒すかもしれませんけどね」
「俺が応戦したらどうする?」
「俺が勝ちます」
「……言ってくれるじゃないか。いっぺん俺を殴ってみろよ」
「お断りします」
 口をひんまげて、そうなんだってよ、と誰にともなく言った本橋くんは、やめたやめた、と結論づけた。
「シゲにはかなわねえよ。乾、こいつは実はおまえより口では上だぜ」
「そうかもな」
「冗談じゃない。俺が乾さんより上なわけないでしょう」
「いいや。おまえは身体ごとぶつかってきかねないから、乾より上だ。乾は口ばっかりだが、おまえは実践が伴ってる。そんな顔してそんな声して、何度俺の妨害をしたら気がすむんだよ。今日こそ念願がかないそうだったのに」
「なんの念願? 本橋くん、いい加減にしなさいよ」
「うるせえんだよ、おまえも。おまえは人のことが言えるのか」
 お鉢が私に回ってきた。
「立ち聞きだと? 章か幸生がやったんだったら張り倒してるところだぞ」
「聞かれて都合の悪いことを話してたからだよね」
「そうじゃない。立ち聞きなんてのはまっとうな大人のふるまいじゃないからだ」
「会話を殴り合いに発展させようとする、本橋くんのふるまいはまっとうな大人なの?」
「……ああ言えばこう言いやがって。幸生といい乾といいおまえといい……シゲまでが……」
 俺もですかぁ、とシゲくんはのほほんと言い、乾くんも言った。
「シゲ、万が一本橋がミエちゃんに手を上げようとしたら、おまえが横合いから本橋を殴り倒すよな」
「乾さんの命令とあれば、そういうときならやらせていただきます」
「……もういいよ。くそ、気が抜けた。まったくおまえはよぉ、シゲ、おまえだ。おまえを縛り上げて身動き取れなくしてからにしよう。でないと俺はなにもできない」
「なにをするんですか。美江子さんを殴る?」
「そっちはやらねえよ」
 今回もシゲさんのおかげで、事件は未然に防がれましたね、と幸生くんが言ったのを見ると、たびたびだかたまにだか、こういうことは起きているらしい。だから私が立ち聞きしたくなるんでしょ、と言ったらいいわけそのものになりそうなので、私は別件を口にした。
「立ち聞きしたのは認めるよ。お行儀悪かったよね。でね、その内容なんだけど……乾くんもやっぱり、俺は男なんだから、って主義があるんだね」
「あるよ。男だからね、俺は」
「開き直るの? でも、乾くんも男なのは事実だものね。私は男男主義は好きじゃないけど、俺は男なんだから強くなりたい、っていうのは悪くないかな。あまりにも荒唐無稽な男性誇示主義っていうのか、男に固執しすぎる主義は大嫌いだけど、乾くんが言ってたことは……なんと言ったら正確なんだろ。考えておくわ」
「どうした風の吹き回し?」
「言い回しが古いね。そうだなぁ、俺は男なんだから、男として強くなりたい、弱い者は守りたい、って気持ちは必要なのかもしれない。本橋くんの男主義は気に入らないんだけど、私は今まで幾度となく……あなたたちのおかげでことなきを得たって経験をしてる。これからもよろしくね」
 ふと沈黙が降り、ややあって幸生くんが言った。
「話が半分ぐらいしか見えてないんですけど、乾さん、そんな話がなぜ殴り合いに?」
「だからさ、本橋の奇怪な思考回路のせいだよ」
「リーダーの思考回路も奇怪なんですか。乾さんだけじゃなくて? うきゃあ、章、俺たちの難敵がふえた」
「おまえもだもんな。シゲさん、俺たち、苦労しますね」
「だよなぁ。俺にはついていけないよ」
「なに言ってんだ。俺にはおまえがいちばんの難敵だよ、シゲ」
 そうですか、なんで俺? と呟いたシゲくんには、本当に意味不明であるらしい。シゲはそこがいいんだよ、と乾くんが言い、そうそう、と幸生くんも章くんもうなずいたのだが、シゲくんひとりは腑に落ちない表情をしていた。


 格闘技ファンの男が世には大勢いるのは、格闘技は喧嘩の代償行為であるから、だろうか。スポーツの試合にしても戦争の代償行為だという説がある。女にも格闘技ファンはいるし、近頃はガールズファイトなどというものまで隆盛になりつつあるようだが、私は格闘技などしたくもない。
「だってね、一方的に誰かを殴るんだったらまだいいけど、ボクシングなんかだったらこっちも殴られるじゃない。痛いのはいやだもん。本橋くんはなんで喧嘩なんか好きなの?」
「一方的に殴るんだったらいいのか。おまえらしいな。俺は別に喧嘩なんか好きじゃないぞ」
「好きなくせに。乾くんとバトルやりたいんでしょ?」
「乾とだったらやりたい。あいつの実力はいかばかりか知りたいんだ。なのにいつでもシゲに止められる。今度はシゲもおまえもいないところで挑んでみるよ」
「やめなさいったら」
「いつかは必ずやる」
 決意は固いようなので、いつかはやるつもりだろう。乾くんはやりたがっていないのに、本橋くんってなんでこうなわけ? 私だって正直言えば、弱い男より強い男のほうが好きだけど、意味もなく喧嘩するなんて愚の骨頂ではなかろうか。とはいえ、私のいない場所で喧嘩をされたら、止めるなんて不可能だし。
「シゲくん、頼むからね。本橋くんが乾くんに喧嘩をしかけたら、これからも絶対に止めてね」
「わかりました」
「幸生くんや章くんには無理なんでしょ?」
「ふたりがかりでだったらなんとかなるかな。もしものときはふたりがかりで取りつけって言っておきます」
「幸生くんや章くんは面白がって止めてくれないんじゃない?」
「そうなんですよ。あいつらは見たがってるから」
「シゲくんは喧嘩嫌いだよね。格闘技は?」
「ボクシングは好きですよ。あれはプロの技能ですから、喧嘩じゃないから」
 そんな話をしたのは何年前だったか。あれからも本橋くんは乾くんと殴り合いはしていないようで、やれないんだよ、どうしても、と嘆いていた。
 ここにも格闘技好きの男がいる。裕也くんである。彼は格闘家だといっても疑われないであろう体格をしていて、シゲくんとだと十センチ以上背が高い。シゲくんも筋肉質なのだが、裕也くんはさらに筋骨隆々タイプだ。今どき珍しい野獣派、本橋くん以上の荒技好きなのではなかろうか。
 猛禽類に似たまなざしが時おりかすめる、といったところが本橋くんにはあるのだが、乾くんも眼光がきらりと光るおりがある。平素は穏やかな顔つきと口調の乾くんが、そんなときには厳然とした大人の男に見えて、へぇぇ、乾くんってかっこいいね、と感じたこともあった。私に対して怒っているのではないからこその感想なのだが、怒りを向けられている相手は怯えるだろう。乾さんって怒ると怖いよ、と章くんや幸生くんが言う所以だ。
 もともと野生的な裕也くんは、怒るとどうなるのだろう? あばれたりしたらいろんなものが崩壊するのではないかと思っていたら、乾くんが教えてくれた。
「ダイモスのスタジオにはサンドバッグがぶら下げてあるんだよ。腹が立ったらそいつに当たるんだってさ。本橋、うちのスタジオにもサンドバッグを用意しようか」
「いらねえよ」
「サンドバッグなんかより、俺とバトルやらない?」
 ああ、中畑裕也、あんたもなのね、と私は言いたかった。
「本橋さんとだといい勝負ができそうだもんな。やろうぜ」
「おまえと遊びのバトルをやってなんになるんだ。乾とのほうがいいよ」
「乾さんとか? 乾さんじゃ本橋さんの敵になんねえだろ。泣くんじゃねえの? 木村さんや三沢さんよりは手ごたえもあるだろうけど、本橋さんのパンチ一発で撃沈だろ」
「おまえにはそう見えるのか。おまえはでかい図体して、頭は空っぽなんだな」
「おー、やる気になってきたか」
「なってねえよ」
「俺はなってきたぞ。俺にそういうことを言うとだな……」
「頭が空っぽの男は、腕力しか武器がないんだもんな」
 どういうつもりなの、本橋くんは? と小声で言うと、乾くんが笑いを含んだ声で応じた。
「あれは俺の名誉のために言ってくれてるんだよ。裕也が飛びかかってきたとしても、本橋になら勝ち目もあるからだろ。自信過剰といえなくもないかな。けど、俺も本橋と裕也のバトルは見たいんだよな」
「乾くんまでそうなわけ?」
「他人がやってる分には、バトルは楽しい見ものだよ。幸生や章の心境はわからなくもない。ミエちゃんはいやかな。亭主の殴り合いは見たくない?」
「本橋くんがまちがいなく勝つんだったらいいけど、負ける恐れもあるんでしょ?」
「裕也とだったら互角だろうな。だからこそ見たくない?」
「見たくない」
 そうかぁ、と言った乾くんは、残念そうにも見えた。本日はチカさんはいないのだが、チカさんがいたらどう言うだろう。やれやれっ、とけしかけそうな、幸生くんや章くんに似た精神構造を持つ、少年っぽい女性にも思えるのだが。
「やめてやめて、ってリーダーに泣いてすがってみれば? 俺はそんなふうにする美江子さんをこそ見たい」
「いやだよっだ。幸生くんがやれば?」
「俺がやるんですか? 俺が泣いてすがったら突き飛ばされますよ。中畑にやってみようか」
「やってみて」
 んんん、と腕組みをした幸生くんは、やっぱやめとこ、とうなだれた。
「大怪我したくないしぃ。な、章、か弱い男はつらいね」
「いちいち俺に振るなっての」
「美江子さんはいちいち俺に振るんだよ」
「幸生くんがよけいなことばかり言うからでしょ。よし、こうしよう」
 美江子さん、なにすんの? と幸生くん。ミエちゃん、早まらないで、と乾くん。美江子さん、行かないほうが……と章くん。本橋くんの前に立ちふさがろうと決めて、私が睨み合っているふたりに近づこうとする前にシゲくんが出ていったのは、数年前のあの日を連想させた。
「中畑、俺と相撲を取ろうか」 
 が、シゲくんの台詞は数年前とはちがっていて、裕也くんはほげっと問い返した。
「本庄さんと相撲?」
「俺は相撲は自信があるんだ。俺は脚が短くて重心の低い日本人体型だから、相撲は強いんだよ。おまえには負けるかもしれないけど、ためしてみたいな」
「リーダーを守ろうとしてんのか」
「そんな無礼な真似はしないよ。本橋さんを守ろうとしたりしたら、俺が殴られかねない」
「あんたも本橋さんに殴られたことがあんの?」
「……ないな。リーダー、ありませんよね?」
「こつんとやったことぐらいならあるぞ」
「あんなのは殴ったとは言わないでしょう。中畑、俺は相撲だったら本橋さんにも一度も負けてないんだ。やらないか?」
「相撲……なぁ」
 気が乗らないな、といったふうに、裕也くんはかぶりを振った。
「そんなのつまんねえよ。レスリングとかは?」
「レスリングの素養は俺にはない」
「本庄さんって人の気を抜けさせるのが上手だな」
 とどのつまりはこうしてうやむやになってしまって、シゲくんってたしかに、喧嘩の仲裁役としてはうってつけの人材なんだな、と私は思った。シゲはたいしたもんだよ、と乾くんはくすくす笑い、おー、シゲさん、さすが、と幸生くんと章くんは声をそろえ、本橋くんも苦笑していた。そして当の本人は、今回も合点のいかない表情でいたのだった。


END

 



 
  
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~ Comment ~

拍手コメントへのお返事です

隆也と美里のあのシーンは、美江子の夢ですから。
ってーのか、後の伏線になるのかなぁ、どうなのかなぁ、段階でしてね。

千鶴に関しては「失恋の唄」に一応、彼女の想いと行動を書いています。
ただ、しつこい性格をしていますので、それでもまだうじうじしてますけどねv-39

今後とも千鶴を見守ってやって下さいね。
たぶんあなただけが、千鶴の味方……かな?

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上のコメントのお返事です

これは単なる私の趣味なんですけど、なるべく「結婚はしない幸せ」というのを追求したいのです。

結婚ももちろんハッピィエンドだろうけど、千鶴の場合(他にも何人か)は、そうではなくて将来はハッピィってのを目指したい。
長~い目で見守ってやって下さいね。

千鶴に感情移入して下さって、ありがとうございます。
管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

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