番外編

番外編81(異・水晶の月6)《特殊編3・美月さん》

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特殊バージョン番外編part3

注意・BLの類似品ふうですので、そのたぐいがお嫌いな方は避けて下さいね。
   それから、ここに出てくる「ポチ」は、美月さんのキャラクターをお借りしました。
   もとのポチはこちらにいます。ワン!

   http://niji-noshima.cocolog-nifty.com/sora/2009/06/post-3e1a.html


番外編81

「異・水晶の月6」


1

 秋になるとただでさえ寂しいのに、乾さんの卒業が近づいてくるとなると寂しい、寂しい、寂しい。寂しくて泣きそうになっていると、幸生は同室の章に頬をぐいっとひねられた。
「なにすんだよっ!!」
「そっちか」
「なんなんだよっ!!」
 別の頬もひねろうとする章の手を叩き落とし、窓から外に飛び出す。鷺の森大学男子学生寮の居室は二階に並んでいるのだから、当然、一階分をジャンプしたのだった。
「……うっ……」
 これしきはいつだってやっている。幸生に限らずみんなみんなやっている。怖いとか言ってやらないのは國友くらいで、先輩たちだって二階から庭に飛び降りるごときは普通だと思っているはずだ。
 なのに、飛び方が悪かったのか着地が下手だったのか。庭に飛び降りた幸生の足首に激痛が走った。うずくまってしまった幸生を見下ろして、章も飛び降りてくる。章のほうはどこも痛くもない様子で、幸生の顔を覗き込んだ。
「なんなんだよ。おおげさだな。どうもしてないんだろ」
「ねじったってのか、ひねったってのか、おまえに顔はひねられるし、足首はひねられるし……捻挫したのかもしれないよ」
「ああやって飛び降りただけで? 嘘だろ。俺を悪者にしようとして言ってるんだろ」
「だといいんだけどね……」
「おい、幸生?」
 脂汗を流している幸生の表情を見て、章もただごとではないと察した。しかし、先輩たちを呼ぶと叱られるのは章だ。一年生だった去年は殴られたり走らされたりで寮生の最下級生として先輩にびっしびっしときびしく教育され、音を上げそうになっては耐えた自分を褒めてやりたいというか、馬鹿じゃねえのか、なんで耐えてるんだよ、というのか。
 二年生になった今年も変わらず、三年生も四年生も二年生にはきびしい。一年生も三人、いるにはいるが、叱り甲斐のない奴らだからだろうか。
 酒巻國友はおとなしい。鈴木強二は先輩たちには従順にしている。逆に尾崎尚吾は相当にやんちゃで、たびたび真次郎や英彦に殴られてはいるが、いっこうにこたえない。一年生がそんな奴らばっかりだから、期待したほどには章への先輩の干渉が減らないのでは?
 苦悶に顔がゆがんでいる幸生を見下ろして、章は考えた。逃げようか。逃げたところでここに帰ってくるしかないのだから、自首したほうが罪が軽くなるのか。幸生も痛いのであろうが、章だって悩むと胸が痛かった。
「どうした?」
 二階から声がかかり、すとっと飛び降りてきたのは、副寮長の乾隆也だった。
「いえね、幸生が二階から飛び降りて、足首を捻挫したとか言ってて……」
「そんならおまえが大きな声を出して誰かを呼べよ。医者はまだやってるだろ。幸生、おぶされ」
「乾さーん、おんぶしてってくれるの?」
「歩けたとしても負担をかけないほうがいいだろうから、おぶっていくよ」
「ユキ、おいで、って呼んで」
「つまらないことを言ってるんじゃないんだよ」
「そう呼んでくれないと行かないもん」
 いやそうな表情をおもてに浮かべて、隆也は言った。
「ユキ、おいで」
「きゃーー、嬉しい」
「おまえは怪我人だろ。おとなしくしてろ」
 どうしてそんなことになったんだ、とは隆也は訊かなかった。誰かが二階から庭に飛び降りるのは日常的なのだから、幸生が捻挫をしたことだけが問題だったのだろう。
「あいつが泣きそうな顔をしてて、虫歯が痛いのかと思ったから顔をひねってやったんだよな。俺がなんでそんなことをしたのかは、幸生は知らないだろうけど」
 隆也の背中で甘えて、幸生が告げ口をしているのではないだろうか。
「章が俺の顔を思い切りひねり上げたんですよ。逃げなくちゃ怪我をさせられそうだから焦って窓から飛び降りたんです。章が悪いんだよ。叱ってやって」
「わかった。帰ったら俺が章を泣きそうになるほど叱ってやるよ」
「ぶつ?」
「多少は殴らないといけないだろうな」
「うーんとぶってやってね」
「俺にまかせておけ」
「だから隆也さんって、ス・キ」
 変態幸生がそう言って、隆也の肩に頬をすりすりしている様子が目に浮かぶ。
 そりゃあ、俺は悪くないとは言わないけど、幸生が悪いんだ。あんなので焦りすぎて下手な飛び方をするからだよ。あんなんで怪我をするとは、幸生の運動神経が鈍すぎるんだ。俺は悪くない。
 自己弁護をしてみても、隆也だけではなく、三年生四年生の四人に叱りつけられるのかと思うと怯えてしまう。殴られるのかなぁ、だろうなぁ、と想像して、章は自分の頬を先にさすった。にしても、幸生はなんだって、寂しそうな顔をしていたんだろうか。あいつも悪さでもしたのか?
一方、幸生は隆也におぶわれて幸せを感じていた。
 どうして足首を捻挫したのかなんてどうでもいい。誰かがなにかをしようとして、その行為から逃れるためだったような気がするが、原因はいい。結果がこうなったからいいのだ。
「捻挫ですな。無理はしないように」
 すらりとしているわりには広い背中をした隆也に背負われる幸せを噛みしめて、連れられていった医者ではなんの意外性もない診断を下された。
「無理したらいけないんだって」
「そうらしいな。処方箋を書いてもらったから、薬を買って帰ろう。幸生、おぶされ」
「ユキ、おいでって……」
「他人が何人も聞いてるんだぞ」
「そうでしたね」
 誰が聞いてても平気さ、と言うほどには、幸生は羞恥心を捨て切ってはいない。言葉よりも実際の行動のほうが嬉しいのだから、帰路も隆也に背負われて、薬局に寄ってから帰るのは幸せだ。薬の購入も隆也がやってくれて、すべてを彼にゆだねている感覚はえもいわれぬ快感だった。
「乾さんって頼りになりますよね」
「これぐらい、当然だろ」
「俺だからじゃないの? 他の奴でもこうする?」
「そりゃそうだよ」
「乾さんだったら、道端で怪我して泣いてる子供だとか、足をくじいて困ってるおばあさんだとかでも、おんぶしてお医者さんに連れていきそうだね」
「それだって当然だろ」
 こともなげに当然だと言う隆也は、こんな性質だからこそ好きだと幸生は思う。けれども、おまえ以外の奴だったらほっとくよ、と言ってほしい気もしていた。
「だけど、ほんとは可愛い女の子がいいんでしょ」
「可愛い女の子が歩けなくなって立ち往生しているのを、お嬢さん、どうぞ、っておぶって医者に連れていくのか。それだったら楽しいかもしれないな。ここに触れる感触だって、セクシーだろうしさ」
「やん、えっち」
「おまえだったらセクシーじゃないから、えっちじゃねえだろ」
 やっぱりそうなんだよね、乾さんは俺よりも女の子がいいんだ、そんなのだって当然なのに、寂しくてまたしても泣きたくなってきた。
「乾さん、寒い」
「夕方になると冷えてきたもんな。背中が寒いか? もうすこし我慢しろ」
「身体の前のほうは乾さんに密着してるけど、うしろは風が当たるんだもん。乾さんは俺をおぶってるとあったかいでしょ。ずるいよ。寒いよぉ」
「じゃあ、待ってろよ」
 立ち止まった隆也が買ってくれたものは、たい焼きだった。
「俺にだけ? 乾さんは?」
「俺は甘いものは嫌いだよ。知ってるだろ」
「そうだったね。熱々……背中はこんなんじゃあったかくならないけど、乾さんの……」
 心が伝わってくるようであったかい。ひと口かじり取ったたい焼きを、幸生は隆也の口元に持っていった。
「食べて」
「いいよ。おまえが食え」
「食べてよ。乾さんったら、俺のたい焼きが食えないのかよ」
「俺が買ったんだろ。こら、幸生、誰に向かって口をきいてるんだ」
 笑みを含んだ叱責に、幸生のハートがとろっととろけそうになる。なのにわざとさからってみせたのは、捻挫のせいだ。
「俺、怪我人だもん。足首が痛いから丁寧語を喋る余裕はないんだもんね。隆也さん、食えってば」
「……先輩に向かってそんな口をきく奴は、治ったら……」
「お仕置きはやですよ」
「ごめんなさいは?」
「やだもん、ごめんなさいなんて言わないもーん」
 しようのない奴だな、と呟いて、隆也もたい焼きを一口、かじってくれた。このまんま寮につかなかったらいいのにな。いつまでだってこうして背負われていたいな。
 俺は怪我人なんだもの。そのせいで気が弱くなって、乾さんに甘えたくてたまらない。今日はいつもの妄想じゃないんだ。女の子のユキになりたいんじゃなくて、男の幸生が先輩に甘えたいんだ。そうなのだから、俺は変態じゃないよね。怪我のせいだよ、と幸生は自分に弁解していた。


 足首に包帯を巻いた幸生が隆也に背負われて帰ってきたときには、食堂では夕食が終わったところだった。どうしたどうした、幸生、どうしたんだよ、三沢さん、大丈夫ですか? と寮生たちはてんでに言い、幸生と隆也を取り囲む。隆也は幸生を椅子の上に降ろした。
「二階の窓からいつもみたいに飛び降りて、足をねじったんだよ。医者に連れていったら捻挫だった。重傷でもないけど、無理はしないようにとの診察だったな」
「明日は学校だろ。どうする?」
 寮長の本橋真次郎が言い、三年生の小笠原英彦も言った。
「誰かが送っていったほうがいいのかな」
「俺が背負っていってやってもいいよ」
 三年生の本庄繁之が言い、一年生の尾崎尚吾も言った。
「俺も三沢さんだったらおぶうのは平気ですよ」
「僕にはおんぶは無理かもしれないけど、付き添いだったらしますよ」
 一年生の酒巻國友も言い、同じく一年生の鈴木強二も言った。
「荷物を持って肩を貸して、だったら俺もやりますよ。三沢、なんだか顔色がよくないよな」
 寮では後輩ではあるものの、強二は留年しているので幸生や章とは同い年だ。幸生はみんなにうなずきつつも、なんとなく浮かない顔でいる。ただひとり、二年生の木村章だけは無言だった。
「歩いてはいけないってほどでもないし、明日になればすこしは楽になるだろ。左足首に負担をかけないようにしてゆっくり歩けばいいよ」
 隆也が言うと、幸生は頬をぷっとふくらませた。
「……幸生と同じ学部の同じ学年の奴、誰かいないのか」
「幸生はもてるんじゃないのか。女の子で世話してくれそうな子、心当たりないのかよ」
「みんな、幸生の授業とは時間がぴったり合わないもんな」
「明日の朝は講義は何時からですか、三沢さん?」
 皆が言うのに、幸生はふくれっ面で言い返した。
「いいもん。俺、明日はさぼるから。乾さん、今夜だけは部屋までおんぶしていって」
「いいけど、メシは?」
「食欲ないんだ」
「食ったほうがいいんだよ。足首なんだから、食事療法だとかはする必要もないんだぞ」
「食べたくないもん」
「うん、ま、そんならあとで……」
 言いながら、隆也は幸生を軽々と抱き上げて部屋に運んでいった。
 気になるので、國友はこっそりあとに続く。三沢さんが元気なく見えるのは、怪我のせい? 怪我なんかしたら三沢さんだったら、まるで武勇伝みたいに喋りまくるだろうに、どうしてああやっておとなしいんだろ。
「乾さんってつめたいよね」
 小声で言っているのが聞こえてきた。
「これ以上、どうしろって言うんだよ」
「つめたいもん」
「幸生、泣いてるのか?」
「ちがうよっ」
「別にたいしたこともない怪我で、いつもとちがいすぎるだろ。駄々をこねてるように聞こえるんだけど、俺の気のせいかな?」
 隆也も國友と同じに、幸生は変だと感じているらしい。穏やかな声で、どうしたんだよ、と問いかけながら、足でドアを開けて幸生と章の部屋に幸生を運び込んだ。ふたりからはやや遅れてあとに続いていた國友は、ドアに耳をつけた。
「細かいことは言いたくないけど、俺はおまえの先輩だろ。普段はそんな口はきかないじゃないか」
「細かいことを言いたくないんだったら、言わなかったらいいんだよ」
「反抗的だな。怪我をしてるからって殴らないと思ってるんだろ。あんまり駄々をこねてると、治ったら全部まとめてお仕置きだぞ」
 ジョークまじりのような隆也の声と、幸生の泣きべそ声が聞こえていた。
「明日からも俺が面倒見てやるよ、って乾さんに言ってほしかったな」
「そうも行かないよ。俺にだって受けるべき授業はあるんだ」
「甘えるなって?」
「……おまえ、ちょっと気が高ぶってるのか。寝ろ」
「だから隆也さんってつめたいんだよ」
 やーれやれ、と隆也の呆れ声、くすっと笑う声も聞こえて、國友はドアの前から身を遠ざけた。間一髪、隆也にはばれていないと思っていたのだが、しっかりばれていた。
「クニ」
「はいっ。お行儀が悪くてすみませんっ!!」
「幸生の部屋に入るなよ」
「そ、そうですか」
「あいつ、誰にも会いたくない気分だろうからさ」
 乾さんがそう言うのなら、きっとそうなのだろうと國友も納得した。
「乾さんもごはんはまだですよね」
「そうだったな。今夜のメニューは?」
「キャベツとハムと卵の炒めものと、カレイの塩焼きと味噌汁です」
「俺の分、残ってるか」
「残ってますよ」
 どうでもいいような話をしつつ、食堂に戻る。他の六人も食堂に残っていて、英彦と繁之、真次郎と強二と尚吾の二組に分かれてひそひそ話をしている。章ひとりが離れた席にぽつんとすわっていた。
「乾……幸生は?」
 真次郎が問いかけ、隆也が応じた。
「大丈夫だろ。捻挫なんてめったにないことだから、興奮してるのかもしれないよ。あとで握りメシでも作って持っていってやるよ」
「僕らはみんな食事はすみましたから、僕が作ります」
「ありがとう、クニ、頼むよ」
 大食漢が数人いるのだから、寮の食事には大量の米飯が届く。今夜は幸生が食べなかった分は残っているので、國友が漬物を刻んで具にしておにぎりをこしらえていると、尚吾がぼそっと言った。
「クニはマメだな」
「いい婿さんになるよ。ところで、章?」
 唐突に隆也に声をかけられた章が、びくっと反応する。全員が章を注視し、章はへどもどと立ち上がった。
「なんでもありません。幸生の様子を見てきます」
「もうすこしひとりにしてやれよ。おまえもなんだか変だな。幸生が窓から飛び降りたってのは、おまえがなにかしたのか?」
「なんにもしてませんよ。乾さんは俺のせいにするんですか」
「そんならいいけど、幸生もおまえも……別の種類の変なそぶりだからさ」
「乾さん、今夜は三沢さんの部屋で寝てあげたらどうですか」
 言っておいてから、あれ? 僕、なにを言ったの? ときょとんとしている國友に、章が言った。
「そうすっと、俺はおまえと同室で寝るのか。それでもいいけど……どういう意味でそうするんだよ」
「三沢さんは乾さんに……あれ? 変ですよね」
「おまえまでが変なのか。変な夜だな、今夜は」
 軽く言って、隆也は食事を口に運ぶ。他の五名は首をかしげていて、隆也は思案顔、章は鬱々顔、國友は、僕はいったいなにを言ったんだろ、と悩んでいた。
 

2

 学校に行く気にならなくて、幸生は近くの公園でさぼっている。寮にいると先輩に見つけられて叱られそうだから、登校するふりをして足をひきずってここまで来た。
 歩けないわけではないけれど、右足をかばうと左足の負担が大きくなって、疲れが激しくなる。幸生は公園のベンチにすわり、ちいさな子供を遊ばせている若いママたちを、綺麗な脚だな、綺麗な胸だな、などと観賞させてもらっていた。
むこうのベンチには長々と横たわって昼寝をしている営業マンらしき男もいる。木々を見つめてノートになにか書いている、吟行をしているらしきひともいる。彼の近くを駆け回っている子犬もいた。
「俺は猫のほうが好きだけど、犬も可愛いな」
 ころころと駆け回る茶色の子犬を目を細めて見ていると、初老の男性が近づいてきた。
「学生さんですか」
「あ、はい。さぼってます」
「足が?」
「そうなんですよ。捻挫しちゃって」
 誰にでも愛想がいいのは幸生の特色である。名も知らぬ男性とも世間話をしつつ、おじいちゃんよりはおばあちゃんのほうが楽しいのにな、と考えていると、男性が突然、立ち上がった。
「ポチっ、危ないっ!!」
 なんとベーシックな名前だ、ポチというのか。幸生もポチを見た。幼児も大勢いる公園で、あろうことか、大人の男がサッカーボールを蹴ったのだ。さきほどは昼寝をしていた営業マンが目覚めて、誰かが忘れていったのか、子供が遊んでいたのかのボールを蹴ったのだろう。
 サッカーボールがポチを目がけてぐんぐん近づいてくる。周囲にいた子供たちも悲鳴をあげ、ポチは固まってしまっている。幸生は足の痛みも忘れてポチに駆け寄ろうとし、男性も幸生のうしろから走ってきた。
 足の痛い幸生と、足の遅い男性がポチに近づいたときには、サッカーボールが子犬の頭部を直撃していた。老人よりは一歩早く、幸生がポチを抱き上げた。
「ポチ、大丈夫か?」
 くぅん、と弱々しい声でポチが返事をし、男性は言った。
「小さい子供さんたちに当たらなくて、まだよかったかな。あなたは足は大丈夫ですか」
「あ、痛いけど……」
「悪化したんじゃないんですか。犬のために、ありがとうございます」
「いえ、大丈夫ですよ」
 忘れていた痛みが蘇ってくる。ボールを蹴った男は、相手は犬なんだからどうってこともないだろ、と言いたげにこちらを一瞥して公園から出ていき、子供たちもなにごともなかったように遊びに戻る。男性は幸生の腕からポチを抱き取った。
「念のために獣医に連れていきますけど、脳までどうかなったりはしてないでしょ。ありがとうございました」
「いえ、俺も間に合いませんでしたから」
 名乗り合いもせず、男性はポチを抱いて行ってしまった。
 猫のほうが犬よりも好きだとはいうものの、犬だって気になる。翌日も学校に行く気にはならなかったので公園に行くと、ポチを連れた男性に会った。
「獣医さんのお診立てでは、別になんでもないようですよ。ポチは元気になりました」
「そっか、よかったな」
 抱き上げると、ポチはきゅんきゅん嬉しそうな声を出して幸生の顔を嘗め回した。
 それからは公園に行くのが日課になったのは、隆也が内定の決まった企業の研修会だとかで、寮を留守にしているせいもある。章も気まずいのか、幸生とは話をしたくないそぶりだし、章はよく外泊もしている。國友あたりが気遣ってくれるのはむしろわずらわしくて、寮にもいたくなかったからだ。
 あの男性ともポチとも毎日会って、宮田さんだと名前も知った。宮田さんは六十歳をすこしすぎた年頃か、本来ならばまだ頑健である年頃なのだろうが、最近は少々体調がよくなくて、病院通いをしているのだと話してくれた。
「それで歩くのも遅くなって、走るのも苦手になって、ポチを助けてもやれなかったんですよ」
 そう言っていた宮田さんとポチが、今日は公園にはいない。はじめて会ってから一週間ほどがすぎて、幸生の足は徐々に回復に向かっているから、ポチとかけっこでもしてみようかと思っていたのに。
「宮田さんちに行ってみようかな」
 家も教わっていたので、幸生はゆっくり歩いていった。足の痛みもかなり軽減していた。
「おや、三沢さん」
「どうかしたんですか、宮田さん。お加減がよくないんですか」
 庭先にいた宮田さんに話しかけると、彼は咳をしてから言った。
「風邪気味でしてね、気候も涼しくなってきたから、外へは出ないほうがいいと医者に言われてるんですよ。ポチを散歩に連れていってもやれなくて……ごめんな、ポチ」
「風邪気味だったら無理はしないほうがいいですよね。よかったら俺が、ポチを散歩に連れていきますよ」
「いや、そんなお願いは……悪いでしょ」
「悪くないです。ポチとリハビリするのは楽しいし」
 ワンッ!! と吠えたポチの声が、幸生には「行きたいっ!!」と聞こえた。
「だったら……悪いですな」
 しきりに恐縮する宮田さんのお許しを得て、幸生はポチのリードを引いて歩き出した。
(うーれしいな、うれしいな)
「嬉しいか、そうか。え? 空耳?」
 小学生ぐらいの男の子の声が聞こえた気がして、幸生は立ち止まった。
「誰もいないよな。空耳だな」
(ねえ、三沢さん、僕、目覚めちゃったよ)
「はあ? 誰だっ、喋ってるのはっ!!」
(僕だよ。ポチだってば)
「ポチが喋るわけねえだろっ」
(今は聞いてる人がいないからいいけど、大きな声を出さないで)
「……公園に行こう」
(僕はテレパシーが使えるんだから、三沢さんが考えたら読むよ。質問して。答えるから)
 幼いけれど聡明そうな少年の声が、本当に幸生の頭の中に聞こえる。見下ろしたポチは幸生の顔をまっすぐに見つめ、にっこりしたように見えた。
 公園の植え込みの中で、ふたりっきりというかひとりと一匹というかになるまでに、ポチは幸生の質問に答えてくれた。ポチは生後三ヶ月ほどになるようなのだが、自分では正確な月齢は知らない。ついこの間までは、普通の子犬だった。
(つまり、目覚めたってのは、おまえは超能力犬だってわけだな)
(僕の一族は魔法使いなんだよ。サッカーボールが頭にぶつかって、魔法使いだってことを思い出したんだ)
 うっかり声を出しそうになるのを我慢して、幸生もテレパシーで喋っていた。
(ほんとだったら魔法使いっていうよりも、化け物ってか魔獣ってか……ほんとなんだよな。俺の頭がおかしくなったんじゃなくて、会話してるんだもんな)
(僕が魔物に見える?)
 茶色い小さな犬、まん丸な黒い瞳と黒い鼻。無邪気な子犬にしか見えなかった。
(僕を目覚めさせてくれたのは三沢さんだから、お礼にひとつ、願いをかなえてあげるよ)
(宮田さんの願いをかなえてあげれば? 病気を治して元気にしてあげろよ)
(宮田のおじいちゃんには内緒。だって、飼い主だもん。それにね、病気を治すって術は使えないんだ)
(俺の足も治せない?)
(うん、ごめんね)
 本気にして、嘘だよ、と言われたらがっかりするであろうが、嘘でもいいから考えてみた。
 無邪気な子犬に金がほしいとは言いたくない。学業成績が優秀になったからってなんになる? 将来は一流企業に就職したい? 現実的にすぎる。車がほしいのうまいものが食いたいのって、そんなのは自分で稼げるようになったら実現できる。
 世界一周旅行、乾さんを連れていってあげたいな。それとも、美人の恋人……そうだ!! 幸生の頭にひらめきが生まれた。
(俺を女の子に変身させて)
(それだったらできるよ)
(できるの?)
(僕は魔法使いだもの)
 非現実的な願いごとのほうが、魔法使いには似合いなのだろう。ポチは言った。
(ユキちゃんになって乾さんと会いたいんだよね。乾さんのいるところに行かせてあげる。僕もついていくけど、いいよね)
(……うん)
 言ってはいないことまで読まれている。ポチが魔法使い犬だとは、信じざるを得なかった。


 一週間ぶっ続けの研修でしごかれて、やっとのことで休日になった。
 信州の山の中に、原製薬の社員研修所が建っている。来春には入社する予定の男子ばかりが集められて、精神的にも頭脳的にも肉体的にもしぼられてへとへとになって、痩せた気がする。寮では國友とのふたり部屋で、プライバシーは少ないとはいえ、隆也のほうが先輩だから大きな顔をしていられた。
 研修所の宿泊施設では狭い部屋に五人一室。女性の姿はひとりもない一週間で、男ってものにも疲れ果てた。
「乾くん、遊びにいかない?」
 誘ってくれた同室の連中には断って、隆也はひとり、街に出た。とにかくひとりになりたかった。
 秋の信州は空気がひんやりしていて気持ちがいい。この近辺ではいちばん大きな街に出て駅前でりんごと缶コーヒーを買い、美しい景色の見える場所に行った。
「こんにちは」
 ベンチでコーヒーを飲んでいた隆也は、ふわりと風を感じた。
「ああ、こんにちは」
「あたし、ユキっていうの」
「俺の後輩に近い名前ですね。そのせいなのかな」
 なんだかなつかしい気がする。なつかしい香りも感じる。
 小柄でほっそりした美少女は、外見も隆也の好みに合っている。隆也のとなりにすわったユキは、はにかんだ笑顔で隆也を見つめた。
「りんご、食べる?」
「うん、ありがとう。ポチも半分、食べる?」
 彼女ばかり見つめていて気がつかなかったのだが、ユキは茶色の子犬を連れていた。
「犬ってりんごを食うの?」
「犬はなんでも食べるんだよ。猫は肉食、犬は雑食」
「そうなんだね。きみは学生?」
「近くの大学の二年生」
「俺は東京の大学の四年生」
 土曜日だから学校は休みで遊びにきた、と言うユキに、隆也は自分の話しもした。
 そうしていると次第にうちとけてくる。ユキは隆也に寄り添い、りんごをかじり、ポチも隆也の膝によじ登ってきた。
「ポチったらずるい。ユキがそこにすわりたいな」
「俺の膝に? きみを俺が抱っこして、ポチをきみが抱っこしたらいいんだよ。おいで」
「うん」
「あ? ほんとにやる?」
 ジョークのつもりだったのに、ユキはポチを抱き上げて隆也の膝にすわった。
「いや、まあ、人がいないわけでもないから恥ずかしくなくもないってか……」
「ユキはいい気持ちだよ。隆也さんは気持ち悪い?」
「きみのお尻の感触はいい気持ちだよ」
「やーん、えっち!!」
 赤くなって隆也の頭をこつこつ叩くユキと一緒に、ポチもくんくん鼻を鳴らしていた。
「昼どきだよね。メシ、つきあってくれる?」
「うん、ユキも隆也さんとごはんが食べたい。でもね、ユキ、ちょっとだけ足が痛いの」
「そういえば足首に包帯してるね。どうしたの?」
「捻挫」
 そんなところまで幸生と同じだな、と思いながら、隆也はベンチから降りてかがんでユキに背中を向けた。
「どうぞ」
「おんぶ? 恥ずかしくない?」
「人前できみを膝にすわらせてたんだから、恥ずかしさは薄れたよ。ユキ、おいで」
 嬉しそうにユキが隆也におぶさる。隆也はユキを揺すり上げた。
「きみのお尻はさわりごこちがいいんだよな。ああ、ごめん、なんでだろ。きみにははじめて会った気もしなくて、失礼なことを言ってるね」
「ううん、ユキも隆也さんにだったら、お尻をさわられてもいい気持ち」
「こうしていい?」
「きゃん、えっち」
 えっち、などと言われるのも快くて、隆也は笑いながら歩き出す。リードをつけていなくても都会ほどにうるさくもないのか、ポチがまだ子犬だからか。道行く人たちもポチを微笑ましげに見て通り過ぎていく。ポチは隆也の前になりうしろになりして走っていた。
「ポチ、ちゃんとついてこいよ。おまえもユキにおんぶしてもらうか」
「ポチは走るほうが好きなんだって」
「犬ってそうかもしれないな。さて、きみはなにが食べたい?」
「隆也さん、ユキもおまえって呼んで」
「……おまえがそのほうがいいのなら」
「きゃっ、嬉しい」
 はじめて会った女の子を呼び捨てにしたり、おまえと呼んだりするなんて、常の隆也ならば考えられない。こんなになれなれしくふるまうのも躊躇してしまうはずなのに、しごく自然にこうなった。
「ピザが食べたいな」
「ピザだとイタリアンだね。そういう店ってあるかな? ユキのほうが知ってるだろ」
「知らない。探して」
 探し歩いてようやく見つけた店に入ると、ユキはメニューを開いてから放り出した。
「ユキはシーフードのピザが食べたいのに、ここにはないの」
「信州の山の中なんだから、シーフードはないんだよ。きのこのピザってうまそうじゃないか」
「やだ、出ようよ」
「ええ? しようがないな」
 水を運んできたウェイトレスにいやな顔をされ、ごめんなさい、すみません、と言いつつ店から出ると、ユキは言った。
「もっとおんぶ」
「ああ、してやるけどさ、シーフードピザを出す店なんて他にはなさそうじゃないか」
「そしたらね、グラタン」
「ファミレスってのがないんだよな。あそこだったらグラタン、やってるか」
 さきほども探していたのだから、洋食レストランがあったのは知っていた。ポチはこうして歩き回るのが嬉しいようで、疲れも見せずにはしゃいでいる。隆也はユキを背負って和風洋食レストランとでも呼ぶような店に入った。
「シーフードグラタンがない」
「おまえはシーフードにこだわるね。普通のマカロニグラタンでいいだろ」
「ユキはマカロニは嫌いなの」
「マカロニ嫌いがグラタンを食いたいって言うな」
「ドリアもないんだもん。よそに行こうよ」
 疲れ知らずのポチとはちがって、いくら小柄な女の子でも、ユキをおぶって歩き続けているとくたびれてしまう。またしても店の人に詫びて外に出ると、隆也は言った。
「次はすこしぐらい不満だって食えよ。俺も腹が減ったんだ。どこに入る?」
「怒った声で言ったらやだ」
「わかったよ。わがまま娘、なにを食べるんだ?」
「……えとね、天ぷらそば」
「だいぶ方向転換したな」
 わがまま娘に怒ったりしたら、男の値打ちが下がると隆也は考えている。空腹と疲労は人を怒りっぽくさせるものではあるが、こんなちっちゃいのをおぶって歩いて疲れたと言うのも男が下がる気がして、強がって歩いていった。
「ユキ、海老の天ぷらって嫌い」
「……天ぷらったら海老だろ。俺が食うからそれを頼めよ」
「山菜天ぷらそばがいい」
「山菜ってのは春のものだろうが。いいよ、もう。ユキ、来い」
 堪忍袋の緒が切れかけていたので、隆也は荒々しく言って背中を向けた。ユキがべそをかいていやいやしているのを強引に背負い、歩き出す。またまた店の人に睨まれて詫びて外に出ていくと、ポチが不安そうにユキを見上げてついてきた。
「隆也さんの意地悪ぅ」
「なんで俺が意地悪なんだよ。おまえがわがままなんだろ」
「ユキはユキのわがままをみんな聞いてくれる人が好きなんだもの」
「聞いてやってるだろうが。だけど、もう店には入らない。あそこに弁当屋があるから、弁当を買って食おう」
「お弁当なんてみみっちい。やだぁ」
「俺はそう決めたんだ。つべこべ言うな」
「つべこべ言うんだもん。ユキはフランス料理が食べたいよぉ」
「こんな田舎にそんな店はない。俺には金もないよ」
「ケチ。貧乏。意地悪」
「いい加減にしろよ」
 声をぐっと低めて言うと、ユキがしくしく泣き出した。
「勝手に泣いてろ、この駄々っ子。なあ、ポチ、おまえだって早くメシを食いたいよな。おまえには握り飯を買ってやろうか。おまえはよくもこんなわがままな飼い主と一緒にいるもんだな。おまえにも気まぐれで優しくしたり、邪険にしたりするんじないのか」
「隆也さん、隆也さん……」
「なぁ、ポチ、俺の手はここにあるだろ。こんなわがまま娘にはお仕置きとして、この手をばちんと……女の子だもんな。そうはしたらいけないのかな」
「隆也さん……やだよ」
 泣き声で言っているユキは無視して、隆也はポチに話しかけた。
「このわがまま娘は相当に甘やかして育てられたんじゃないのかな。俺が兄貴だったとしたら、尻をひっぱたく程度だったらお仕置きをしてやるんだけどな……」
「そんなことを言う隆也さんは嫌いだもんっ。ポチも黙っててっ!!」
「ポチはなんにも言ってないだろ」
「隆也さんは嫌いっ!! 降ろしてよっ。帰るから」
「黙れ」
 ああんああん、ああんあんあん、と声を上げて、ユキが泣き出す。泣く合間には、いいんだもん、いいんだもん、と言っている。ポチがユキを見上げて、なにやら話しかけているようにも見えた。
 そこからは無言になって、隆也は弁当屋でユキの好みも聞かずに弁当を二種類と、おにぎりをふたつ買った。ユキと出会ったベンチに戻り、ユキをそこに降ろし、自分もすわって弁当を差し出す。ユキは涙に濡れた目をして言った。
「こんなの嫌い」
「そうか。そんなら食うな」
「隆也さんの意地悪。ユキは帰るっ!!」
「帰るんだったら送っていくから、待ってろ」
「やだっ。帰るのっ!! 離してよ。離してくれないとレイプされるーっ!! って叫ぶよ」
「まったくおまえは、赤ん坊みたいな駄々をこねるかと思ったら……」
 片腕でつかまえていたユキの腕を離すと、ユキはベンチから降りて怨みっぽい目で隆也を見つめた。
「隆也さんは優しいと思ってたのに、叱るから嫌い」
「叱られないとおまえのわがままは治らないだろ。今の俺はおまえの兄貴気分なんだよ。食え」
「いらない」
「ユキ……」
「きゃっ」
 逃げようとしたユキの腕をつかんで引き戻し、隆也は彼女のか細い身体を抱え込んだ。
「いい加減にしなさい。はい、ごめんなさいと言って食え」
「やだっ!!」
「そうか。そしたらこうだな」
「きゃああっ、やだっ」
 手を振り上げると、ユキが首をすくめて叫んだ。
「ごめんなさい。食べるから、ぶったらやだっ!!」
「よーし。最初からそう言え。めっだぞ」
 しくしくやっているユキを抱え上げて膝に乗せ、ごはんと塩鮭を口に運んでやる。ユキは泣きじゃくりながらも食べ、ポチも安心したようにお握りを食べていた。
「秋の日は暮れるのが早いな。ユキ、泣きやんだか」
「隆也さんって女の子にもきびしいね。寮でもきびしい先輩なの?」
「涙は止まったようだな。きびしくなんかないつもりだけど、後輩にだって説教はするよ。おまえが幸生だったら、あれだけ駄々をこねたら張り飛ばしてるさ」
「女の子だから差別した?」
「それはあるかな。ユキ、駅の洗面所で顔を洗って、送っていくよ」
「帰らないといけないの?」
 昼食を食べるまでにやたらに手間取ったので、あたりは暗くなりかけていた。
「俺は明日も研修なんだよ。十日間の研修を終えたら東京に帰る。つかの間の休日におまえに会えて楽しかった。ありがとう」
「わがまま娘でも?」
「結局は叱られたらいい子になったんだから、可愛いよ、ユキは。うちはどこ?」
「送ってくれるよりもね……」
 目を閉じて、ユキは小声で言った。
「ホテルに……」
「女の子がはしたない。めっだよ」
「隆也さんはユキをそこまでは好きじゃないってこと? 抱いてくれないの?」
「その手の駄々っ子は可愛くないな。それ以上言うとほんとに尻をひっぱたくよ」
「……はい、ごめんなさい」
「うん、じゃあ、顔を洗いにいこうか」
「ユキ、トイレに行ってくる」
 何度も何度も振り返りながら、ポチを連れたユキが不自由そうに歩いていく。女性用のトイレまではついていけないので隆也が待っていると、数分後にポチだけが戻ってきた。
「……うん? 手紙?」
 ポチがくわえていた手紙には、こう綴られていた。
「ユキは隆也さんが好きだから、思い切って言ってみたの。でも、駄目だよね。わがまま言っていっぱい甘えて、女の子として叱られて、お尻をぶつよなんて言われるのも嬉しかった。でも、ユキを叱る隆也さんは怖いんだ。怖い隆也さんも好きだけどね。
 はじめて会った女の子を遊びで抱いたりはしない隆也さんも好き。隆也さんってそんなひとだよね。
 あんなにわがままばっかり言ったのは、叱られたかったからだよ。ユキは隆也さんとはそうしているのが一番なの。ありがとう、さよなら」
 手紙を読み終えて顔を上げると、走り去っていくポチの小さな姿が見えた。ポチはじきに薄暮に溶け込んでしまって、魔法にでもかけられたような心持ちで、隆也はぽかんとたたずんでいた。
 

3

「そうだよ、気がついてたんだろ」
 公園で喋っている甲高い少年じみた声は、幸生だ。英彦は足を止めた。
「そうなんだ。ポチは字は読めないんだっけ? 習ってなかったら読めなくて当然だよな。手紙には書いたんだよ。俺は女の子として……やだ、読んでないんだったら言ってやらない。いやだいやだ、言わない」
 誰と喋ってるんだ? 英彦が首を伸ばして覗いてみると、幸生の足元には子犬がいた。幸生という奴は猫とでも小鳥とでも喋るのだから、犬とだって会話をするのだろう。
「楽しかったなぁ。ポチも楽しかった?」
 今日も学校をさぼったのか。乾さんがいないからってさぼってばかりいたら、帰ってきたらどやされるぞ、心で幸生に話しかけつつ、英彦は寮のほうへと歩き出した。
「時間はどうなってるの? 声に出してる? いいんだよ。他人には理解できないだろうし、俺は喋ってるほうがいいんだ」
 続いて公園を通りがかったのは、繁之だった。繁之も英彦と同じく、聞き覚えのある声に足を止める。幸生が繁之にはまったく意味不明のひとりごとを言っていた。
「俺たちの認識とむこうの人の認識とはちがうんだね。時間軸がちがうってやつ? むこうでは時間はたったけど……そうなんだ。そうだよな。こっちは時間、たってないもんな」
 映画の話かな。犬に向かって喋るような内容かよ、繁之は呆れつつ、その場を立ち去った。
「時間がかかりすぎたら宮田のおじさんが心配するもんな。俺、犬泥棒か犬誘拐犯になっちまうもんな。ご都合主義……いやいや、嘘だよ」
 泥棒? 誘拐犯? 三人目に足を止めたのは強二だった。
「あの背中、あったかくて広くていい気持ちだったな。俺のここ……女の子になるとケツがふっくら丸くなるんだね。彼ってけっこうえっち。いやーん」
 なんなんだ、三沢さんは真昼間の公園で、いやーん? 恥ずかしいから他人のふりをしようと、幸生に気取られないうちに強二は逃げた。
「バストもあったんだよね。女の子だもんね。ヌード、見てみたかったかも。いやんいやん、そりゃあね、俺はハートは男なんだから、女の子のヌードは見たいよ。あ、ごめん。声が高くなった?」
 ぬけぬけとなんたることを言っているのだ、國友もそこを通りがかり、幸生の声にぎょっとした。
「低く喋ろうとしても俺の声は高いけど、小声で喋るね。あのまんまで駄々をこね続けてたら、ケツ、ぶたれたのかな。あのひとだったらやるかもな。そしたら感じたのかな? 感じるとかじゃなくってお仕置きだろって……そりゃそうだけど、女の子のケツだし……」
 小声のつもりでもしっかり聞こえてますよ、と言ってやってもよかったのだが、國友も逃げるほうを選んだ。
「ちょっとだけぶたれてみたかったかな。俺は変態じゃないけど、あのひとにだけはね……想像したら悶えちゃい……嘘だよ。嘘だって。怪我人の女の子をぶったりするひとじゃないけどさ、お尻をぶたれて叱られて、わあわあ泣いてみたかったなぁ……嘘だよ」
 ここを通って寮に帰るのだから、次々に通りがかるのも不思議ではない。それにしても時間だけは偶然にも同じころ、尚吾も幸生の声を聞いて立ち止まった。
「恥ずかしいよね。だからさ、あんなところじゃなくて、ホテルに連れていかれてふたりっきりになったら……でもさ、そうはしないひとだとは知ってたよ。あのひとがそんなことをしたら……嫌いにはならないけどね」
 子犬がきょとんと幸生を見上げていて、幸生の頬はぽっと上気している。尚吾にはそんな幸生が不気味に見えて、逃げようとしたらむこうから真次郎がやってきた。
「本橋さん、寮長、今日は早いんですね」
「学園祭の準備だとかで追い出されたんだよ」
「俺もですよ」
 つまり、みんなが寮に帰ろうとしていたのはそういうわけだった。真次郎は尚吾の視線をたどっていき、幸生を見つけた。
「やっぱり好きだな。俺って変態? 男なのに……女の子には……貴重な経験……泣いてないよ」
「おまえ、誰と喋ってるんだ」
 公園を囲む生垣の上にぬーっと顔を出した真次郎を見て、幸生が悲鳴を上げそうになる。尚吾は幸生の口に指を当てた。
「三沢さん、けたたましい声を出さないで下さいよ」
「犬か。どこの犬だ?」
「近所の知り合いの家の犬です」
「無断で連れてきたんじゃないだろうな。ちがう? そんならいいけど、返してこい。おまえはこのごろさぼってばかりいるだろ。乾がいないからって寮の規律がゆるんだりしたら、俺が乾に怒られるよ。帰って説教してやるから、ついてこい」
「……本橋さん、知ってたんですか」
「当たり前だろ」
「本橋さんだと説教だけじゃなくて……俺、怪我人ですから、勘弁してぇ」
「ほとんど治ってるだろうが」
 俺は知ーらないっ、と言いたそうに、尚吾は子犬を抱き上げて高く差し上げて笑っている。真次郎は幸生の耳を引っ張った。
「いでーっ!! 怪我人にご無体なっ!!」
「耳と捻挫は関係ねえだろ。犬を返しにいって、寮に戻るぞ。こいつ、なんて名前だ?」
 真次郎の耳に、ポチでーす、との声が聞こえた。
「幸生、変な声を出すな。ポチか。行こうぜ」
「可愛いな、おまえ。ほら、走れっ!!」
 叫んだ尚吾が駆け出し、ポチも彼を追っていく。幸生は真次郎に従ったものの、ぶつくさ文句を言っていた。
「なんだって? かついでいってやろうか」
「歩けますよ。おんぶか抱っこだったら……嬉しいけど……かつがれたくないし。ユキちゃんはおん……いえ、男です」
「当然すぎることを言うな」
 全治しかけているとはいっても、幸生が怪我人なのは事実である。説教はいいけれど今は殴ってはいけない。乾だったらどうする? 乾隆也だったら言いそうな説教の文句を頭の中で予習しながら、真次郎は幸生にさりげなく肩を貸してやった。


告げ口というものは幸生はしないようで、どうして捻挫などする羽目になったのかは誰にも言っていないようだ。それゆえに自分が卑怯者になったような気もして、章はくよくよしていた。それゆえに、最近は幸生とは口をききたくなかった。
 ここ数日は外泊届けを出して、男友達やら女友達の家に寝泊りしていたのだが、泊めてくれる友人も尽きたので寮に帰ると、隆也に会った。
「乾さん、お疲れです」
「お疲れじゃないけどさ、章、そういう場合は、お疲れさま、だろ」
「はい、お疲れさま」
 早速説教かよ、とそっぽを向いた章に、隆也は言った。
「お疲れでもないんだけど、研修期間の一日だけの休日に、不思議な経験をしたんだ。俺は今日は自主休講。おまえもさぼりなんだろ。昼メシ、食いにいこうか」
「はい」
 おごってくれるならとついていくと、駅前の洋食レストランに連れていかれた。
「シーフードグラタン、ここにだったらあるんだ」
「シーフードグラタンがどうかしたんですか」
「いいや、いいんだけどさ。章、おまえ、なにか言いたそうだったよな」
「やっぱ見抜かれてますか」
 自分のくよくよ気分を払いのけるためにも、白状することにした。
「おまえが幸生をつねったから、逃げようとして窓から下手に飛び降りて、それであいつが捻挫をした? 不運だったな。おまえが悪いんでもないだろ」
「あいつがドジなんですよね」
「その言い方はよくないな」
「……乾さんは……そっちも話があるんでしょ。おごってもらうかわりに聞いてあげますよ」
 この言い方も怒られるのかと章が肩をすくめたら、隆也は穏やかに話しはじめた。
 研修がおこなわれていた信州で、休日に出会ったわがまま娘。足を捻挫していた彼女を隆也は背負って歩き、駄々ばかりこねる彼女を叱ってばかりいたと。
「乾さん、いつも通りじゃん、俺だったら小柄な女の子だってそうやって背負っては長時間は歩けないし、駄々っ子だったらこっちが切れそうだし、自慢ですか、それは」
「自慢ではないんだけど……なんだか不思議な空気の子だったから……」
「不思議ちゃんとかってやつ? そういうのはぶってるんでしょ。足を捻挫していた小柄な美少女って、幸生の女の子版みたいですね」
「ああ、そうか。それでか……だけど、そんなのありっこないよな」
「なにが?」
「ありっこないけど、不思議感の正体は見えたよ。そうだったんだ」
 なにがそうだったのか、章にはわかりづらい。けれど、くよくよ気分はかなり和らいだので、章としてはそれだけは気持ちよくなっていた。

END




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~ Comment ~

おはようございます。

こちらも一気に読ませてもらいましたよ。

面白かったです。
最後も・・・ちょっとだけ含みみたいなのがあって、でも読者はわかってるから面白かった。
ポチのイメージが可愛くて、茶色い柴犬で。
嬉しい限りでした。ありがとう!!

美月さん、ありがとうございます

ポチ、可愛いですよねぇ。
すっかり気に入ってしまったので、また登場してもらいたいと思っています。

こんな素敵なキャラを貸していただいて、読んでいただいてありがとうございました。

なんだか変なストーリィにしてしまったのに、寛大にお許しいただいてほっとしました。
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