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小説22(数え切れない雨)

 ←小説21(遠い恋のリフレイン) →番外編6(you've gotta friends)前編
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フォレストシンガーズストーリィ・22

 「数え切れない雨」

1 

 どうも章は俺に含むところがあると思えるのだが、そのわりにはたびたび俺の部屋にやってくる。今夜も来ている章に、元気を出すには歌がいちばん、歌おうか、と誘ったら、章は歌のタイトルを口にした。
「数え切れない雨」
「誰の歌?」
「乾さん、知らないんですか? 憂歌団って関西のブルースバンドですよ。乾さんはブルースも好きでしょ? この歌はこう、なんていうのかな、しわがれた声の男が、それでいて甘さのある声で歌う。うちにはいないタイプの声だな。俺、ハスキーヴォイスって憧れる。乾さんは低い声で歌うと、ほんのちょっとだけハスキーになるでしょ。その声で歌って下さいよ」
「知らない歌は歌えないよ」
「教えてあげますから」
 ギターを取り上げた章が、かろやかでいながら哀愁を帯びた前奏をつまびきはじめた。もっと元気の出る歌にしよう、と言いたかったのだが、章が高い高い声で歌い出すのを聴いていると引き込まれていった。
かつてはロックヴォーカリストでもあり、ギタリストにも憧れていたらしき章の爪は長い。今日はなんと黒のネイルエナメルがほどこされていて、俺の目は章の爪に吸い寄せられていた。小柄な章は手も小さい。横に女性の手を並べてみたら、章の手は骨ばった男のものなのであろうが、俺の手を並べると男と女に……見えなくもないか。
「乾さん、なにやってんですか」
「近頃は男が爪を塗るのか」
「遊びですよ」
「ロッカーってのは男でもやるのか、ネイルアートってやつを?」
「やる奴もいますよ。俺もやったことあります」
 この男にしては細い指、男にしては華奢な爪に華やかなネイルアートか。似合わなくもないだろう。
「乾さん、聴いてないでしょ? 俺の爪なんかどうでもいいじゃん」
「どんな感じだったのかなぁ、って思ってさ。女性の色とりどりの爪は見慣れてるけど、男のネイルははじめて見た気がするよ。だいたいからしておまえ、ネイルカラーを持ってんのか?」
「ええと……女がね」
 彼女が章の爪を塗った、それなら納得できる。章はついこの間、スーちゃんという名の彼女にふられたばかりであるはずなのだが、早くも次の彼女ができたのだろうか。詳しく話さないところを見ると、恋人とまでは呼べない相手なのかもしれない。
 俺が大学を卒業してから二年近くが経過した。大学四年も終わりかけていたころに、同年の本橋、ひとつ年下のシゲとヒデ、ふたつ年下の幸生、そして俺の五人で結成したフォレストシンガーズも、アマチュアのままで三年目を迎えている。ヒデは脱退してしまい、かわりに章が加わって、先日コンテストに挑戦したのだが、あえなく敗退してしまった。
 したがって俺は暗い。そんなことでどよよんとしていてどうする、とおのれを叱咤しようとしても、このまんまじゃ俺たちは……と思ってしまうのだ。章にしても気分はダウンモードで、そのせいでこんな歌を歌ってるのか。数え切れない雨が俺のハートを叩いてく、と高い声で歌う章のブルースを聴きながら、目は章の爪に吸い寄せられて、俺は思い出していた。
 現在、好きなひとはいる。それとこれとは別の話として、昔の恋を思い出す。現在二十三歳の俺の、十代から二十代はじめにかけての三度の恋を。
 大学三年のころにつきあっていた彼女は、俺にとっては東京でできたふたり目の恋人だった。一年生のころにつきあっていた香奈とはとっくに別れていて、俺は歌に生きるんだ、って強がっていた俺の前にあらわれたマイサンシャイン、純子。歌もいいけど恋もやっぱり必要だよな、なんて、ゲンキンにも考え直して。
 純子は俺とは別の大学の女声合唱サークルにいた。合同イベントで知り合っていつしか互いに惹かれ合い、三度目の恋が訪れた。一度目は高校時代のまゆり、二度目は香奈。ファーストキスはまゆりと、ファーストメイクラヴは香奈とで、三度目の純子とはほんのすこし、恋に慣れたつきあいができているつもりだった。
 胸のときめきが新鮮でハッピィだったある日、純子と鎌倉に遊びにいった。由比ガ浜のホテルに宿泊した翌朝、俺はきつい香りに目を覚ました。
「……朝からマニキュアやってんの? 純子ちゃん、おはよう」
「おはよう、隆也くん。おなかすいちゃったなぁ。朝ごはん食べにいこうよ」
「朝でも食欲満々なんだ。俺は純子ちゃんを食べたいけどな」
「あとでね。早く行こうよ」
「顔を洗って着替えをしてからでないと、俺は朝メシは食えないんだよ。待ってて」
「待てないぃ。早く食べたーい」
「なにを駄々こねてるの? なんでそう早く早くって……」
 そんなに腹減った? と言いつつ、俺は自分の手を見た。きつい香りは俺の指から発している。爪を見た瞬間、寝ぼけ気味だった目がぎんぎんっとなった。
「なんだよ、これは。爪が真っ赤だ……」
「ばれちゃったか。そのまんまレストランに行ったらよかったのに」
「こんな爪して行けないよ。落としてくれ」
「やーだよ」
「リムーバーっていうんだよな。持ってるんだろ。出して」
「それがね、ネイルカラーはいくつも持ってきたんだけど、リムーバーは忘れちゃったの」
「だったら買ってくるよ。コンビニに売ってるだろ」
「そのまんまでいいじゃない」
「いやだ」
 買ってくると言っても、コンビニにだってこんな爪をして行きたくない、と思い当たって、俺は純子に懇願した。
「頼むよ。買ってきて」
「いやだったらいやだ」
「きみは俺の爪を真っ赤に染めて楽しいのか。きみは真っ赤な爪をした男が好きなのか」
「真っ赤な爪した隆也くんは好きだよ。真っ黄色の髪をしてても、真っ青な目をしてても好き。ねえねえ、ついでだからメイクもしてあげようか」
「……勘弁して。頼むから落として。リムーバーを買ってきて下さい。腹が減ってるんだろ? 俺がこんな爪をしてたら、いつまでたっても朝食には行けないよ」
「だーからー、そのまんま行けばいいのよ」
「いやだ」
「意地っ張り」
「どっちがだよ」
 思わず荒い声を出したら、純子はふくれっ面になった。
「起きたらやめようと思ってたのに、隆也くんは全部の爪を塗るまで目を覚まさなかったんだもん。さっさと起きない罰だよ。そのまんまで朝食に行こうってば」
「子供みたいないたずらして、子供みたいに駄々こねて、きみはいくつなんだよ?」
 言ってしまってから後悔した。純子は俺よりひとつ年上だ。ひとつくらいどうってことはないはずなのだが、どうやら純子は気にしている様子で、年齢の話をすると怒る。慌てて取り繕おうしたのだが、時すでに遅かった。
「そんなことを言うんだったら、一生その爪をしてるといい。落としてあげないから」
「爪が伸びたら自然に剥がれていくんだろ」
「それまで真っ赤な爪をしてたらいいんだよぉだ」
「ああ、そんならそうするよ。メシ食いにいこう」
「え? 隆也くん?」
 顔を洗って服を着替えて、行こう、と促すと、純子は迷っているようだったが、しまいにはうなずいた。
 海の見えるホテルのレストランで、朝食バイキングだった。爪から強い香りがして、食いものにまで香りが移る。トーストもミルクティも匂いがきつくてまずくて、俺は閉口した。自分の真っ赤な爪を見ると食欲が減退してげんなりしている俺に、純子は言った。
「隆也くんって神経質だった? 爪なんか気にしなくていいじゃない」
「気になるよ。きみは爪を染めるのが大好きみたいだけど、よくもこの匂いを漂わせてものが食えるね」
「匂いなんかしないよ」
「するよ」
「……もうっ、ごちゃごちゃ言うと私まで食べられなくなるじゃないよっ」
「誰がやったんだよ、誰が」
「……すっごくしつこくて、すっごくこだわるタイプだったんだね。幻滅」
「あのね、これはすんだことじゃないんだ。俺の爪には真っ赤なネイルが塗られてる。色も匂いも口に持ってくると感じる。いっかな消えるものではない。こだわるよ」
 ぷいっと立ち上がった純子は、うるさーい、と小声で言って、テーブルフラワーを投げつけた。
「純子ちゃん、そういうことをしないの。花がかわいそうだよ。それにね、バイキングってのは取ってきた分は責任持って食べなくちゃ」
「まったくもう、隆也くんは私のママなの? 食欲なくなった」
 俺がきみのママだったら、きみは俺の横暴な夫みたいだよ、と言う暇を与えてくれず、純子は席を立っていってしまった。俺は彼女が残していった分まで食べて、ホテルの外に出た。朝の由比ガ浜には人影は少なく、純子の姿がぽつんと遠くに見えたのだが、彼女に歩み寄る男の姿も見えた。
 海に小石を投げている純子のとなりに立った男が、石はこうやって投げるんだよ、と指導している。俺もそこへ近づいていくと、男が振り向いた。
「おはようございます」
「あんたは?」
「そのひとの連れです」
「ふーん……んんと……ねえ、きみ、彼はおかま?」
 絶句した俺を横目で見て、純子は澄まして言った。
「おかまなんて失礼じゃない? ニューハーフとでも言ってあげてよ」
「やっぱりそっち方面のひとか。だよね、でないとねぇ……ああ、びっくりした。そんならきみの彼じゃないんだ?」
「ニューハーフとつきあう趣味はないし」
「そうだよね」
 おまえはそれでも男か、だとか、女みたいな奴だな、だとかは本橋に言われる。俺の発想や口達者な部分をさして言われているのは理解していたが、ニューハーフだと言われたのははじめてだ。でないとねぇ……? でないと、なんだ? 爪か。この爪のせいで誤解されているらしい。
「そんなら彼はなに?」
「大勢であのホテルに泊まってるのよ。そのうちのひとり」
「ああ、そうなのか」
「連れっていってもなんでもないからね」
 爪を真紅に彩っている男は一般的ではない。ネイルカラーは女のすることで、そんなふうにしている男はニューハーフにちがいないと、ありがちな反応ではある。これは純子がいたずらしたんだ、と見知らぬ男に言う必要もないだろうけれど、誤解されたままでは気分がよくない。おまけに純子は俺を無視して、そいつの指導に従って石を投げては、楽しそうにしているではないか。
 どうやって誤解を解こうか、と考えながら、俺も小石を拾った。俺は中、高校生のころには群れるのが嫌いで、孤高の少年を気取りたがるふしがあった。放課後にはよくひとりで犀川のほとりで本を読み、読書に倦むと川に石ころを投げたり、川辺でとんぼ返りをしたりして遊んでいた。
 であるからして、水面に石を投げるのは大得意だ。手首にスナップを効かせて海に投げると、ホップステップジャンプのジャンプで、六段階ばかり跳ねて小石が遠くまで飛んでいった。続いて遠投もやってみたら、男が驚いたように言った。
「肩、強いね。細いのに……野球やってる?」
「やってませんよ」
「だろうね。ニューハーフの野球選手ってのはどうも……」
「俺はニューハーフじゃないよ」
 なにもそういう方々を貶める気はないが、おまえはそうなのか、と言われると穏やかではいられない。男は、え? と俺を見返した。
「彼女の冗談ですよ」
「……はあ、そうなの? どちらを信用したらいいのかな。だって、きみのその爪……」
「これはちょっとした手違いです」
「手違いで爪がそんなに? わけわかんないな。まあ、僕としてはどっちでもいいんだけどね……彼女、なんて名前?」
 彼の関心は純子ばかりか。純子は名乗り、彼も名乗った。
「僕は楠本っていうんだけど、きみたちが泊まってるホテルのラウンジで、昨夜は仕事をしてたんだ」
「なんの仕事?」
「ジャズバンドをやってるんだよ。おーい、ここだここだ」
 背後から男たちの声が聞こえてきた。楠本のバンド仲間なのだろう。楠本は彼らに手を振り、やがてやってきた彼らに純子を紹介した。彼らもそれぞれに名乗り、そのうちのひとりが言った。
「純子ちゃん、気持ちの悪い奴がそこに……誰? 男のくせにマニキュアなんかしてるよ」
「私、ネイルアーティストの卵なの。男性にもネイルアートを広めようって活動をしてまして、彼はそのモデルさん」
「あれぇ? さっきと話がちがわない?」
「ごめんね、楠本さん。私、ちょっと彼と喧嘩してたものだから、嘘言ったの。彼はニューハーフなんかじゃないのよ。私の恋人でもないけどね。おなかがすいてきちゃった。みなさんは朝ごはんは? まだなの? だったらあのホテルじゃなくて……あっちにあるお店に食べにいかない?」
 男たちは賛成してぞろぞろと行ってしまった。ついていくのも癪にさわるので、俺はその場に残った。
 誤解は解けたようだけど、純子はまだ怒っているのか。怒りたいのは俺のほうなのに。そもそもの発端は純子が作ったのに。なんだってこうなるんだろ。すこしは恋に慣れた? 全然慣れてなんかいないじゃないか。女心はいつになっても謎だらけで、どうしたらいいのかさっぱりわからない。
 女の子ってのは時として突拍子もないことをするものだとは、まゆりのときにも香奈のときにも経験していたから知っているつもりだった。しかし、前触れもなく理解不能の行動を取って、勝手に怒るんだから始末に負えない。大人の男はこんなときにはどうふるまうんだろう。俺は大人じゃないんだから、華々しくやり合ってもいいんだろうか。本橋を筆頭とする男友達が相手だったら、言葉で完膚なきまでにやっつけるのも可能だけど、女ってのは泣く恐れがあるし。
 などなどと考えつつ、俺はひとりで海に石を投げていた。彼女と遠出のデートをしたってのに、彼女はよその男たちと朝食に出かけてしまい、俺はこんなところで寂しく石を投げている。食欲がなくなったと言ったくせに、俺に残りを押しつけていったくせに、おまえはまったく自分勝手な女だよ。
 面と向かって「おまえ」とは、女性に対しては俺はまず言わない。本橋は同年齢以下なら女の子にでも平気で「おまえ」呼ばわりするが、俺にはできない。純子にもおまえと呼びかけたことはないが、ひとりごとでなら言える。おまえなんか勝手にしろっ!! と心で叫んで、砂浜に寝そべった。
「……んん?」
 指を優しい手に包まれている感触。ネイルカラーの香りとは別種のきつい香り……シンナー? 揮発性の香りに我に返った。いつしかうとうとしていたらしく、目を開けたら純子の顔があった。
「リムーバーを買ってきたよ」
「ああ、落としてくれてるんだね」
「そんなに怒るとは思わなかったな」
「怒ってはいないけど……それよりもっと、あいつらと行っちまったほうに腹が立った」
「なに言ってんの。私のほうこそよ」
「きみがなぜ怒る?」
「わかってないんだね、隆也くんは」
 一本一本、俺の爪を丁寧にぬぐいながら、純子はため息をついた。
「私があのひとたちと行っちゃうのを、隆也くんは止めもしてくれなかったでしょ? ああいうときこそ怒らなくちゃ。俺の彼女になにをする、って。言えないの?」
「……現状では奴らはすでにここにはいない。いないんだからなんとでも言える。そんな状況では言いたくないよ」
「隆也くんってほんとに理屈っぽいね。いたとしたらどうするの? 純子ちゃん、もう一度僕らと遊ばない? って彼らが誘いにきたらどうするの?」
「きみはどうしてほしいの? きみがしてほしいようにするよ」
「ネイルカラーを落としてもらってる隆也くんが、男みたいなことを言っても似合わないよ」
「ネイルカラーを落としてもらってたら男じゃないのか」
「男だけどね」
 ふふっと笑って、純子は俺の頭を膝に乗せた。
「綺麗になったよ」
「うん、ありがとう」
「ありがとうって変だな。隆也くんがされたくないことをしたのは私でしょ? なのに隆也くんは、きみのしてほしいようにするって。隆也くんは優しいつもりかもしれないけど、優しさは優柔不断の裏返しだったりもするんだよ」
「……そんならどうしろって言うんだ」
「あ、素敵。隆也くんのその、押し殺した低い声ってセクシーだね」
「……からかってるだろ。俺をあんまり馬鹿にすると……」
「どうするの? してして」
 飛び起きて押し倒してやろうかと思ったのだが、押し倒すのはやめて抱きすくめた。
「ネイルアーティストの卵だって言ったでしょ? 卵にもなってないけど、私、ほんとにネイルアーティストになりたいの。大学を卒業したらそういう専門学校に入り直して、本気でネイルアーティストになるつもり。男性向けのネイルサロンってどうかな」
「女性向けにしたほうがいいよ。ネイルアートをやりたがる男はめったにいないだろうし、そもそも似合わないよ」
「そうかなぁ」
 キスでいさかいは砕けて散って、純子の肩を抱いて歩く道々、俺たちは将来の話をした。純子はネイルアーティストに、俺はシンガーになるんだと。なりたい、ではなく、必ずなるんだと。
 ひとつ年上の彼女は、当然、俺よりも一年前に大学を卒業した。他校ではあったけれど、彼女が卒業してしまってからは距離ができていって、自然に別れてしまったのだった。章の黒く塗った爪から連想した過去の恋と、章の歌う「数え切れない雨」につながって思い出した歌。俺の好きな往年のフォークデュオであるふきのとうにも、似たタイトルの歌がある。「激しい雨」だ。

「ふたりでならもっと飛べる
 そんな夢を見たけれど

 どこにでもいる男とありふれた女の
 別れは決まっていつも
 涙で綴るエピローグ

 出会いは期待と不安
 別れは偽善弁解
 最後のページはいつも
 涙で綴るエピローグ」

 口ずさんでいたら、章が口をとがらせた。
「ちがう歌を歌わなくても……」
「うん、俺の……結局恋の終わりはいつもこうなんだよな」
 偽善弁解だの涙で綴るだのはなかったけれど、どこにでもいる男とありふれた女は、出会って別れた。まゆりとの恋は幼すぎてそこまでも行かなかったのだが、香奈とも純子とも、すこしだけちがってすこしだけ同じの出会いと別れだった。
「だからって達観はしないんだ。おまえも俺も若いんだもんな。まだまだこれからだよ」
「歌のプロになるってほう? 恋ですか」
「すべてひっくるめて」
「……ふーん、乾さんの恋愛話、聞かせて下さいよ」
「おまえは? 言いたいんだろ」
「またそうやって俺に振ってごまかす」
 ぼやいたものの、章は言った。
「俺には今んところは恋愛話はないんです」
「黒のネイルは?」
「コンビニで買って自分で塗ったんですよ。黒だったら女みたいじゃないでしょ?」
「女性も黒のネイル、やってるぞ」
「そうか。そんならやめといたほうがいいかな。あ、しまった、リムーバーがない」
「……やっぱり?」
 自分で塗ったのが真実か否かは知らないが、大笑いしてから、ふと思いついて言った。
「しかし、本橋やシゲだったらきっと、リムーバーが必要だってことも思い当たらないだろうな。もしも寝てる間に彼女が爪にいたずらしてマニキュアを塗ったりしたら、必死になって手を洗って、落ちない落ちないってさ……」
「たわしでゴシゴシこすったりしてね……やりそうだな。ふーん、乾さんは知ってるんだ。ふーん、経験ありそう」
「ないよ。俺はロッカーじゃないんだから。章、「数え切れない雨」、もう一度歌って」
「またごまかそうとしてる」
 またまたぼやいてから、章は歌い出した。

「どしゃぶりの雨のハイウェイに
 ひとりで車を止めてみた
 昨日まで探し続けてた夢ならかけらもない
 
 数え切れない雨が俺のハートを叩いてく
 心を使い果たすまで
 数え切れない雨が俺のハートを叩いてく
 こんな寂しさをどこに捨てようか」

 ブルースバンドとフォークデュオの歌は、歌詞にもメロディにもずいぶんと差がある。俺たちにふさわしいのは「激しい雨」だろうか。年頃からいっても、「数え切れない雨」は大人すぎる。夢ならかけらもなく、なんてことはない。ふたりでなら飛べる、ではなく、五人でならきっと飛べると信じよう。
「章、やっぱりもっと明るい歌にしよう」
「明るい歌ってどんなのですか?」
「そうだな……愛の賛歌……ええと……結婚しようよ」
「愛も結婚もいやだ」
「じゃあ……」
 なにを言ってもいやだいやだと応じられて、「数え切れない雨」の歌詞を変えて歌った。

「どしゃぶりの雨のハイウェイに
 あなたと車を止めてみた
 今日だって探し続けてる夢ならこんなにある

 数え切れない雨が俺のハートを叩いてく
 心を伝い濡らす雨
 数え切れない雨が俺のハートを叩いてく
 あなたの優しさがあれば夢は続く」

 まるっきりブルースじゃないじゃん、と章は三たびぼやいたのだが、これでいいんだよ、と俺はうなずいた。俺には明日がある、と歌をしめくくったら、明日がないと生きていけないしね、と章も納得顔になったものの、自棄くそみたいにギターをかき鳴らして別の歌を歌い出した。
「ふたりを夕闇が包むこの窓辺に……」
 愛も結婚もいやだと言ったくせに、「君といつまでも」ではないか。憂歌団はこれも歌ってるんですよ、なのだそうだ。
「台詞もやるか?」
「幸せだなぁ、っての? 幸生を呼んできてやらせましょうか」
「あいつだったら芝居っ気たっぷりにやるんだろうな。幸生を呼ぶのはやめとこう、またにしよう」
「そうですね。乾さん、やって下さい」
「……恥ずかしい」
「だったら台詞も替え歌で」
 しゃれた台詞が浮かんだとしたら、本番まで取っておくよ、と答えたら、それもそうだな、けど……本番なんかあるんだろか、と章は吐息をつく。あるに決まってるだろ、決まってると信じなくてどうする。俺も信じるからおまえも信じろ、と俺は章の肩を叩いた。我ながら空元気っぽかったのだが、空元気が本物の元気になるんだよ、といつか本橋も言っていたではないか。そういうものなのだ、きっと。


2

 きゃあきゃあきゃいきゃい大騒ぎの声は、幸生と本橋とふたりの女の子だ。本橋はきゃあきゃあとは言わないが、二十二歳になってもボーイソプラノが消えていない幸生の甘く高い声に、ふたりの女の子の可愛らしくも甲高い声がコーラスしていて、大喧騒のひとときが起きていた。
 「激しい雨」や「数え切れない雨」を章と歌っていたあの日から時がすぎ、オフィス・ヤマザキの社長に認められて、我々フォレストシンガーズはメジャーデビューを果たした。今日は俺たちのプロとしての本格的初ステージだ。デビュー間もない俺たちは、オフィス・ヤマザキのミュージシャンたちが一堂に会するライヴに出演する。ステージ経験は初ではないのだが、本格的なものは初体験といっていいだろう。
 武者震いが起きそうなのをなだめつつ、俺はホールの周囲を歩き回っていた。本橋と幸生はなにをしているのだろう。誰と騒いでいるのだろうかと見てみると、可愛らしい小柄な女の子ふたりと楽しそうに話している。小柄な幸生よりも頭半分ほどちっちゃな女の子たち。よく見れば幸生に似ている。妹たちだな、と思い当たって近づいていった。
「おー、乾さん登場。雅美、輝美、行儀よくしろよ」
「俺には行儀よくしなくていいのか。悪いけど俺は頭がくらくらしてきたから行くよ。あとは乾、頼んだぜ」
「リーダー、また風邪じゃないんですか」
「そうそう風邪を引いてたまるか」
 じゃあな、と歩み去っていく本橋に、雅美ちゃんと輝美ちゃんはきゃあきゃあと手を振っていて、幸生が言った。
「鎮まれっての。紹介するよ。雅美、輝美、乾さん」
「きゃあ、こんにちはー、雅美です」
「きゃんっ、こんにちはっ、輝美でーす」
 きゃあ、きゃん、この子たちは本物の女の子だが、幸生がしょっちゅうやっているきゃあきゃんは妹たちの影響か。俺は胸に片手を当ててお辞儀をした。
「はじめまして。乾隆也です。いつもきみたちのお兄さんのお世話をさせていただいております」
「なんなのさー、乾さんのその挨拶は。きみたちのお兄さんにお世話になっております、でしょ」
「俺はおまえにお世話をしていただいた覚えはない」
 実際はお世話もしてもらっているのだが、雅美ちゃんと輝美ちゃんはきゃぴきゃぴと、当たり前じゃーん、お兄ちゃんは乾さんの後輩なんだからぁ、と真っ黄っ黄の声で言い合った。幸生が高校生のころまでは、この三兄妹のご両親は、この喧騒の真っ只中で生活していたのか。さぞかし頭が黄色く染まりっぱなしだっただろう。
「可愛いねぇ。幸生の妹さんたちだとは思えないよ」
「乾さん、そうじゃなくて、幸生はこいつらの兄貴だとは思えないほどかっこいいって……」
「うるさいね。お兄ちゃんは。本橋さんもそう言ってくれたよ。あたしたちってそんなに可愛い?」
「可愛いよ。輝美ちゃん。雅美ちゃんも可愛いね。ボーイフレンドって古いか。彼はいるの?」
 雅美が二十一歳の銀行員、輝美は十九歳の短大生だと聞いている。小さいので高校生といっても通用しそうだが、花も恥らうお年頃の乙女なのだ。ふたりとも目鼻立ちもちまちましていて、顔も手も小さい。保護本能をそそられそうな女の子たちだった。
「そりゃあね、彼のひとりやふたり。えっへん、雅美ちゃんはもてるんだから」
「あたしは女子校だけど、他校の男の子と合コンやったりしたら、輝美ちゃんとつきあいたーい、って言うのが次から次へとあらわれて、断るのが大変なんだよ」
「嘘つけ。見栄を張ってんじゃねえよ」
「……あまりにも似ている。おまえらは一卵性三つ子か」
 似てません、と三つの声がそろい、輝美が言った。
「あたしは雅美ちゃんみたく脚が太くないしぃ。見て見て、この美脚」
「あたしはちっちゃいけどプロポーション抜群だもんね。この間はモデルクラブのスカウトに声をかけられたんだから」
「子供服の?」
「輝美……あんたねぇ、あんたはスカウトされたことがあるのか」
「あるよ。あたしなんか本橋さんに言われたもん。幸生より輝美ちゃんがフォレストシンガーズに入らない? だって。そのほうが売れるよ、って。乾さんもそのほうがいい?」
 こいつらはほっときましょうね、と幸生が言い、俺は吹き出した。まさにそっくり三兄妹だ。きょうだいってこんなにも似るものだろうか。ひたすら笑っている間にも姉妹はスカウトがどうのこうのと話しを展開させ、話題が拡散していく。しまいには輝美が言った。
「ハリウッドからもスカウトが来たんだよ。美人学生がたくさんいるって、うちの短大はアメリカにも鳴り響いてるんだって。その中でもいちばんの美人の三沢輝美さん、ぜひ映画のヒロインにって。きゃあ、あたし、どうしましょ」
「子役だよね」
「雅美ちゃん、仕返し? 子役だっていいじゃない。あたし、ハリウッドに行こうかな。将来は銀幕のスターと結婚するんだ。そうなったらお兄ちゃんに車を買ってあげる。雅美ちゃんにはエキストラの男のひとを紹介してあげるよ」
「輝美ちゃーん、大風呂敷広げてると現実と妄想の区別がつかなくなってくるよ。頭がおかしくなってくるからやめようね」
「お兄ちゃんに言われたくないよーだ。あんたは生まれつき頭がおかしいくせに」
「おまえに言われたくねえんだよっ」
 そろそろ止めるべきだろう。俺は笑いをおさめて言った。
「きみたちがどれほど似た頭の構造をしているのかは、ただいまの一幕で充分すぎるほど理解したよ。輝美ちゃんは特に幸生以上かもね。その口にいっそうの磨きをかけなさい。いつか四人で大討論大会をしましょう」
「まだ輝美も乾さんにはかなわないもんね」
「そうなのぉ?」
 不服そうに俺を見上げて、輝美が言った。
「かなわないって言えば、お兄ちゃんは本橋さんの力には死んでもかなわないだろうけど、シゲさんだったらかなうの?」
「シゲは力は本橋よりもあるんじゃないかな」
「乾さんは?」
「俺もシゲと本橋にはかなわないよ。口では勝てるからいいんだ。幸生もだよな」
「そうそう。現代人は力ではない。口だ。その一点のみは雅美も輝美も合格だよ」
 でもさぁ、力持ちの男ってかっこいいよ、と雅美も言い、幸生も言った。
「乾さんにもしてほしいわけ? だーから、俺がしてやるって言ってんじゃん」
「お兄ちゃんにはしていらないの。病気がうつるからいらない。さっきも言ったじゃん」
「うつしてやろうか。ってさ、うつるのはこっちだよ」
 なにをしてほしいって? と問いかけると、輝美が言った。
「本橋さんに抱っこしてみてほしいって言ったのね。そしたら本橋さんったら、両腕であたしと雅美ちゃんをいっぺんに抱き上げたの。ほんとにハリウッドのヒロインになって、男優さんに抱っこされたみたいだった。顔を見なかったら本橋さんって、たくましくてかっこいいよね。背はハリウッドスターほどじゃないだろうけど、あの強い腕、ぽわわーんだよ」
「あたしもあたしも。乾さんは本橋さんほど強そうな腕はしてないね。無理?」
 挑戦されていると見た。ふたり一度には無理だろうが、幸生も面白そうに俺を見ているので、では、失礼、とことわってまずは輝美を高く抱き上げた。
「きゃーん。できるじゃん」
「できるよ。軽いねぇ。雅美ちゃんは背中にどうぞ」
 冗談のつもりだったのだが背中に飛びつかれてよろめきそうになり、足を踏ん張ってもちこたえていはいたのだが、背中で飛び跳ねられて倒れそうになった。
「ギブアップ。ふたりいっぺんには無理でした。ぎっくり腰になるよ。俺は本橋ほどの力持ちじゃないんだよ。幸生、おまえもこんな経験あるのか」
「ガキのころだったらね。ころばされてふたりがかりで背中で足踏みされて、背中を幾度も複雑骨折させられましたよ。だから俺は背が伸びなかったんだ」
「その上成長途上で章と出会って苦労させられて……」
「そうですよね。おまけに乾さんには言葉で蹂躙されるし、リーダーは俺の頭をぼかすかやって縮めるし、シゲさんは察しが悪いから頭が悩ましくなってますます縮むし……うわわーん、俺、将来は消えてなくなるよっ」
「引き伸ばしてやろうか」
「どうやって?」
「雅美ちゃん、輝美ちゃん、手伝って」
 地面に飛び降りた妹たちも、どうやるの? と乗ってきた。
「そっちから頭を持って。俺が脚を持つから力まかせに引っ張って幸生の背を伸ばしてやろう」
「おーっとっとぉ。やめてやめて。身体がちぎれるよ」
 オーバーな悲鳴を上げる幸生を見て、妹たちがけらけら笑う。乾さんっておもしろーい、とふたりで言い合っている。きみたちに言われたくないんだけどね、と苦笑いしてから言った。
「じゃあね、仕事の時間が近いから」
「おとなしく聴いてろよ」
 兄貴にはそろって舌を出し、乾さんはがんばってね、と俺を激励してくれた雅美と輝美と別れ、幸生とふたりで歩き出した。
「お疲れさまでした、乾さん」
「おまえは慣れてるんだよな。そうだ、ヒデの弟と妹には会ったか」
「会ってません。乾さんは会ったの?」
「一度会ったよ」
 大学四年の夏休み、ひとつ年下のヒデは三年生だった。俺は男子合唱部の副キャプテンだったので、用事があって学校に顔を出していた。そこにヒデが弟妹を連れてきたのだ。ヒデの妹は雅美や輝美ほど声が高くはなかったが、愛らしい声の可憐な高校生だった。弟はにきび面の中学生で、三つずつ年が離れていると言っていた。
「すると、妹さんも弟さんも受験生なんだね」
 弟も妹も挨拶はしたものの無口だったが、土佐弁が恥ずかしいがかや、とヒデは笑い、弟妹のかわりに話してくれた。
「妹は大阪の大学を受験する予定です。弟は地元の高校受験。親は金がかかって大変ちや。なあ?」
 だからね、乾さん、俺はひとかどの者になりたいんです、とヒデは呟いた。あのころはまだ、本橋と俺とともにプロになろうとはヒデには明確に話してはいなかったが、それらしき前振りはしていた。ひとかどのプロのシンガーになろうと、それからほどなく誓い合った五人の中にはヒデもいたのに。
 ヒデの弟妹とはそれだけの顔合わせだったのだが、あれから三年、妹は大学生、弟は高校生になっているのだろうか。ヒデはなにをしているのだろう。俺たちはプロになったけれど、そうなれる前にヒデは消えてしまった。いつだってヒデを思い出すとセンチになる。

「足枷をひきずる感傷にとどめをさす激しい雨……
おまえの愛はもういらない
好きな道を歩いていけばいい
 肩を抱く季節に振り向くものか
 流してしまえ、この激しい雨に」

 「激しい雨」のワンフレーズを思い起こしながら、雨でも降れば、俺の感傷も流してしまえるのか、とも思っていた。


 春のコンテストでは敢闘賞だった。失敗もしたのだから当然だろう。次回はがんばろう、明日があるさ、と俺はおのれに言い聞かせていた。が、そんな粗忽なシンガーズに目をかけてくれていた人物がいたのだ。
 メジャーデビューできるという話が飛び込んできてみんなして舞い上がって、オフィス・ヤマザキの社長との面談も無事にすませた夜、本橋が倒れた。鬼の霍乱だと幸生は言い、驚天動地のできごとが起きたせいだと章は言ったが、本橋の日頃の無理が一気に噴出したのだろう。彼とて人の子、病気にも稀には罹る。
 前夜から熱が出ていて病院に行った本橋の様子を見に、翌朝になって俺は彼のアパートを訪ねた。ドアをノックしても返答はなく、合鍵はもらっていたので中に足を踏み入れて悲鳴を上げそうになった。斜めに敷かれた布団に横たわり、本橋は目を閉じていた。上掛けもかけずにトランクス一枚で倒れていたのだった。
「……生きてるよな? 寝てるんだな。夏だし気温は高いから風邪も引かないってのか……本物の風邪か。本橋、本橋、シンちゃん……意識不明か。おい、起きろ」
 ひとりごとを言い、無理に起こしてはいけないと考え直し、昨日、本橋が出向いた医院の電話番号を調べて電話した。往診を頼み、シゲにも電話をした。シゲが幸生と章とミエちゃんにも連絡してくれて、全員が本橋の部屋に集合したころには、医者は帰っていた。
「若くて頑丈そうな男性ですし、体力もあるでしょう。疲れが溜まってたんじゃありませんか。入院はしなくてもいいでしょう。様子を見ましょうか。なにかあれば電話を下さい」
 医者はそう言っていたが、本橋は昏々と眠っていた。そんなに疲れてたのか。体力を過信して無理しすぎたのか。リーダーだからって張り切りすぎて、体力の限界を見過ごして走り続けていた。
「昨日から熱はあったんでしょ? 幸生くんは知ってたんでしょ? シゲくんも章くんもいたんだから、スーツを買いにいったり社長との面接に行ったりしないで、早くお医者にかかって安静にしていればよかったのに」
 眠る本橋の額にかかる髪をそっと払って、ミエちゃんが言った。
「プロになれるんだから……だからって……だからって身体はなにより大切なのに……」
「美江子さん、リーダーは常人じゃないんだから大丈夫ですよ。寝てたら元気になりますよ」
「幸生くんになんでそう言えるの?」
「医者もそう言ってたし……でしょ、乾さん?」
「そう聞いたよ。ミエちゃん、落ち着いて」
「落ち着いてるよ。病人の枕元でヒステリックになってどうすんのよ。わかってるっての。章くん」
 は、はいっ、と章が飛び上がった。
「氷。ビニール袋に詰めてきて。幸生くんはタオルを堅く絞ってきて。本橋くんの熱を下げなくちゃ。解熱剤よりもおばあちゃんの知恵が効く場合もあるんだから。乾くんとシゲくんは本橋くんを着替えさせて。汗を拭いてからね」
 ひとまずパジャマは着せていたのだが、本橋は寝汗をかいている。シゲとふたりで着替えさせて、額にタオルと氷を乗せた。夕刻には本橋の熱は下がっていて、ミエちゃんがお粥を作ってくれた。
「シゲくん、抱き起こしてあげて」
「食えるのかな」
「食べさせるの。食べないと駄目なの」
「はい」
「章くん、ぼさっと見てないで胸元にタオルを当てて」
「は、はっ、はいっ!」
 目が据わっているミエちゃんを見てびびっていたのは章がいちばん、シゲが二番だっただろう。シゲは常々めったなことでは先輩にさからわないのだが、反抗的なもとロッカーもあの日は従順だった。
「……本橋くん、食べなさい。ね、おいしいよ。食べないと元気が出ないよ。あーんして。いっぱい食べようね」
 不謹慎ではあるのだが、いささか本橋がうらやましくなった。ミエちゃんったら、俺にはこんなに優しい声を出してくれたことはないじゃないか。まるでばあちゃんだ。幼少のころに俺が病気になったら、いつもはきびしいばあちゃんが優しくなった。俺が思い出すのは、仕事が忙しい母ではなくばあちゃんだった。
 まだプライドもなかったガキのころの俺は、優しくされて甘えられるのが嬉しかった。小言ばあさんに叱られてばかりだったある日、優しくされたくて仮病を使って見抜かれて、卑怯者、と一喝されて往復ビンタを食らわされて、土蔵に監禁されたこともある。
「なに、だらなことやっとるがや」
 だらとは、馬鹿、阿呆である。金沢弁はあまり遣わなかったばあちゃんだが、怒ると口から飛び出した。そのあたりはヒデに似ていた。俺も遣おうと思えば遣えるのだが、ばあちゃん仕込みの金沢弁は年寄りじみていて、同郷人にも笑われる。東京人には理解不能だろう。
 いまだに俺はばあちゃんに甘えたいのか。だら、と叱られたいのか。それこそだらそのものだ。ばあちゃんじゃなくて、優しい女の子に甘えたいなぁ、なんて、本橋の世話を焼くミエちゃんを見てうらやんでいた。
 頑健な体力と若さと回復力で、本橋は数日後には蘇った。そして俺たちは、プロとしての道を歩きはじめた。去っていったヒデは切り捨てるしかない。かわりに章がいる。扱いにくい反抗的少年だけど、年は幸生と同じでも、章は幸生とは別種のガキっぽさにあふれているけれど、今では章は俺たちの大切な仲間だ。
 ヒデとは親友だったシゲはむしろ言わないのだが、幸生や本橋は時に口にのぼせる。ヒデはどうしてるんだろう、どこでなにをしてるんだろう、幸せにやっているんだろうか、俺たちがデビューしたのを知ってるんだろうか。シゲも無言でヒデを思っているにちがいない。
 関西、中国、四国地方へ仕事で赴き、最終の高知は桂浜でも、ヒデのために、のつもりで歌った。「この街はなれて」。それぞれに自身の街を離れてきた俺たちが歌った。俺が十七歳の年に逝ってしまったばあちゃんのいる天国にも、あの歌は聞こえていただろうか。
「あんたみたいなごうつくばばあは、死んだら地獄行きだよ」
 かっこつけ少年だった俺は、故郷にいたころから金沢弁は使わないようにこころがけていた。それでもなまってはいたのだが、そんなふうに祖母に毒づいた覚えもある。
「口の減らないくそばばあ」
「……隆也、こっちにおいで」
「やだよ。つかまえてみな」
「あんたの足にはかなわないよ」
「かなうのは口だけだろ。ざまあみろ」
 中学生になっていたころだったか。俺も反抗期だった。祖母も俺には手を上げなくなっていた。ガキのころには頻繁にひっぱたかれたり、蔵に放り込まれたりしていたが、今から思えばすべては俺が悪かった。そのときにも逃げ出したものの、反省して祖母の前に出頭したのだった。
「ごめんなさい。ばあちゃんは死んだら天国に行くんだよね」
「今さら言っても遅いよ。隆也、お詫びしたいんだったら歌って」
「なにを歌う?」
「あんたの声も大人になってきたねぇ。声変わり? なんだか寂しいね。ご当地ソングを歌ってもらおうか」
「金沢の夜?」
 演歌だ。これもばあちゃんに教わった。

「紅殻格子に積もった雪を
 噛めば涙の味がする
 これでいいのね、眸できけば
 うなずくあなたに、嗚呼
 雪が降ります 金沢の夜」

 いいねぇ、隆也の歌は絶品だよ。あんた、演歌歌手になりなさい、と祖母は言った。毒舌家のくせにお世辞も上手で、幸生が妹たちと張り合って口を鍛えたのならば、俺はばあちゃんに口を鍛えられたのだ。
 母は俺を、隆也さん、あなた、と呼んだ。父は、隆也くん、きみ、だった。他人行儀なお母さまとお父さまには、俺も距離を置いて接していた。祖母だけが俺を親身になって愛してくれた。俺が不良にならなかったのは祖母のおかげだ。今となっては父母の気持ちも大変さも慮れるようになっているが、子供のころには両親は嫌いだった。
 高校三年生のみぎりに祖母がみまかり、俺は東京に出た。親不孝な息子に、両親は仕送りもしてくれた。期限つきではあったけれど、歌手になりたいと言ったのも許してくれた。両親に感謝できるようになったのも、祖母の教えのたまものだったと思っている。俺の基礎をつくってくれたのは祖母だ。乾隆也はばあちゃんっ子だ。胸を張ってそう言おう。
 そんな祖母はもうこの世にはいない。地獄に行っていたとしても、鬼たちをあの口でやっつけて君臨しているだろう。ヒデも近くにはいない。いなくなってしまった者は時おり偲んでいればいい。祖母とヒデは同じにはならないけれど、今では彼女も彼も、俺にとっては過去のひとなのだから。

 
3

 プライベートで六人そろって遊びにいくなんて、俺たちの間には一度もなかった。男同士でそんなのは気持ち悪いだろ、などと言う奴がいたせいだろうか。ミエちゃんも含めて本橋と三人でドライブをしたり、俺が本橋のバイクのうしろに乗っかってツーリングをしたり、だったらあるけれど、他の奴らとは食事だの酒だのばかりだ。
 男同士でそんなのは気持ち悪いだろ、と言った張本人の本橋が、よっ、と手を上げて近づいてきた。やや遅れて幸生と章が小突き合いながら、それからさらにやや遅れて、シゲもやってきた。本橋とシゲのファッションにはコメントするべき言葉もないが、俺は幸生と章を交互に見て言った。
「幸生が真紅で章は純白、正月らしく紅白のコートなんだな。派手だね」
「俺は章といっしょに歩きたくないですよ。乾さんの言う通り、紅白の垂れ幕が歩いてるみたいじゃん」
「おまえが真っ赤なコートなんか着てくるからだろ」
「おまえだって、真っ白なコートなんか男が着るか、普通」
「正月なんだからいいんだよ」
「俺も正月だから真っ赤なの」
 おまえは頭の中まで真っ赤っ赤、と章が言い、おまえの頭の中はサイケデリックカラー、と幸生が言い返し、サイケ? 古ぅ、と章が言い返し、やめろ、こんなところで、と本橋が止めている。毎度の騒ぎにシゲと顔を見合わせて笑っていると、ミエちゃんもやってきた。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
 平成XX年一月三日、年が明けてフォレストシンガーズはデビュー二年目の新春を迎えた。明日は休みだから、決意を新たにするためにもみんなで初詣に行こうよ、とミエちゃんが言い出して、はじめて六人そろっての初詣となったのだ。おまえたちはデートがあるんじゃないのか? とあとからこっそり訊いたら、幸生は答えた。
「デートなんかよりも、俺たちの前途に幸福がいーっぱいありますように、って神さまにお祈りしにいくほうが重要事ですよ。章は?」
「俺と悦子は三が日の間にデートするほどの仲じゃありませんからね。悦子が誤解したら困るから、デートはもっと先にします。本庄さんは?」
「俺にはデートなんかないよ。あるわけないだろ。本橋さんは?」
「俺にもない」
 そう言うおまえは? と言いたそうに、本橋が俺を見つめた。
「デートもいいけど、新米シンガーズとして、神社に詣でて祈るって敬虔な心持ちになるのはもっといい。日本人にとっては初詣は特別な行事だもんな。しかし、ミエちゃんにもデートはないんだろうか」
「ないんじゃねえのか」
 デート相手は本橋にはいるはずだが、別れ話になりかけているのかもしれない。シゲにはいないらしい。章にはただの友達だと言い張るえっちゃんがいるが、幸生は謎。ミエちゃんも謎。あとは俺か? ほのかな恋心を感じている女性が俺にもいるのだが、進展はしていない。この次に会ったらきっと……と考えている段階のままだった。
 神社の最寄の駅に到着したのは俺が一番で、ミエちゃんも来て六人が集合した。女性らしい型のコートの肩先でカールした長い髪がふわふわと揺れて、今日の彼女はソフトムードだ。
「女性は支度に時間がかかるよね。今日はメイクにもリキが入ってる?」
 きみが美人なのは知ってるけど、そうやってきっちり化粧をすると一段と綺麗なんだな。俺はそう考えていたのだが、本橋がうしろで小声で言っている。時間をかけて化粧したっておまえじゃあ……と聞こえたので、俺は本橋の腹に肘打ちを叩き込んで黙らせてから言った。
「ミエちゃんのサーモンピンクのコートは素敵だね。今日はジーンズじゃなくてワンピース?」
「お正月だものね。着物が着たかったんだけど、無理だったし」
「残念だな。ミエちゃんの晴れ着姿が見たかったよ」
 黙らせたつもりだったのにめげずに、本橋は言った。
「おまえが着物なんか着てきたら、帯が苦しくてメシが食えないってうるせえだろ。歩くのだってとろくなるんだろ。それで充分だ。行くぞ」
 まじまじと全員を見比べていた幸生が言った。
「今日の美江子さんはフェミニンでとっても可愛いですよ。乾さんとデートってのがいちばん似合うかな。そしたら俺たちはなんだ、章?」
「まだ全然売れてもいないんだから、六人で歩いてても誰も気にもしないよな。リーダーと本庄さん、幸生と俺が別々に初詣に来た、彼女もいないかわいそうな男ふたり組。そのへんが妥当なんじゃねえの」
「言えてる。そっちのふたりとこっちのふたりは雰囲気がちがいすぎる」
 女性が一生懸命おしゃれをしてるんだから、シゲも章もなんとか言えよ、と思っていたのだが、褒め言葉を口にしたのは幸生だけだ。本橋は憎まれ口しかきかないし、まったくもう、おまえたちはそれだから……とは言うのも無駄だろう。しようがないので苦く笑って俺は言った。
「正月だってのに本橋もシゲも……ま、いいか。それでこそおまえたちだ。シゲは服なんかより食い気だもんな」
「そうですよ。今日は昼に豪華な天丼が食えるってんで、朝メシはヌキで来たんですから」
「予約しておいたよ。シゲくん、食いっぱぐれはないから安心していいからね」
 正月ともなると有名な天婦羅屋は、予約をしておかないと入れないはずだ。さすが敏腕マネージャー、用意周到だね、なんて言ったら、皮肉? と切り返されそうなので言わずにおいて、俺たちは歩き出した。
「ゆっくり歩け。ミエちゃんが遅れてる」
 いつしかミエちゃんがだいぶ離れてしまったので言ったのだが、本橋はこともなげに応じた。
「ガキじゃあるまいし、そんなに気を使わなくてもいいんだよ。あんまりそういうことを言うと、山田がかえって怒るぞ」
「あり得るな。私が女だからって気を使いすぎるのは嫌いよ、ってつんとされそうだ」
「お、乾さん、美江子さんの口真似がお上手」
 しばしなにやら考えてから、幸生も俺の真似をした。
「本橋くんみたいにデリカシーがなさすぎるのも困るけど、乾くんほどってのも頭に来るのよね。ほどほどがいいのよ。あなたたちってば両極端なんだから。幸生くん程度がいちばんいいの」
「あっそ。その通りかもしれないな。おまえは勝手に言ってろ。俺は見てくるよ」
 言い置いてあと戻りしてみると、ミエちゃんがどこかの中年男と睨み合っているのが見えた。声も聞こえてきた。
「足元に注意して下さいね。見えてないんですか。子供だって大勢歩いてるのに」
「子供? いないじゃないか」
「お父さんが慌てて抱き上げて歩いていきました。もうちょっとでころぶところだったんですよ。こんなにちっちゃな女の子」
 腰のあたりを示してみせるミエちゃんに、男は吐き捨てた。
「そんな赤ん坊をひとりで歩かせる親が悪いんだ。知るかよ。それよりあんた、俺を突き飛ばしておいてなんだ、その態度は」
「あなたがよくないんです。突き飛ばすってほどでもなかったけど、あのまんまだったら女の子がころんで怪我をしてますよ」
「てめえみたいな小娘に……う?」
 う……とは俺が顔を出したせいか。俺はミエちゃんの背後から男に言った。
「小娘にでもわかることが、いい大人のあなたにはわからないんですか」
 乾くんは引っ込んでてよ、とミエちゃんに言われそうな気もしていたのだが、男はあきらかに怯んでいて、ミエちゃんは無言で男を睨んでいる。俺は重ねて言った。
「あなたがころばせそうになった女の子はいなくなったから、あやまってもらう必要もなさそうですけどね。注意して歩いて下さいね。俺の連れになにか? 文句があるんでしたら俺がお相手しますよ」
「……うるせえんだよ」
 ぶつぶつ言いながらも男は歩み去っていき、俺はミエちゃんを促した。
「行きましょうか」
「……行くけどね、ほんとにもう男って……私にはあんなで乾くんにはあんなで……腹が立つ」
「酔っ払いは処置なしだよ。気にしないに限る」
 ふたりで歩き出すと、ミエちゃんはくすくす笑いながら問いかけた。
「休みは今日一日なのに、彼女に会わなくていいの?」
「彼女はいないから」
「嘘ぉ」
「ミエちゃんこそ、彼とデートしなくていいの?」
「彼なんかいないわ。今日のところは乾くんと臨時カップルになろうか」
「俺でよろしければ」
 俺が差し出した腕に、ミエちゃんが腕をからめてくる。こうしていると本物のカップルに見えるんだろうか。長年のつきあいの俺たちは、かつても将来も友達同士でしかないのに。そのほうが平和なんだから、それはそれでいいんだけど。
「乾くんこそ、私なんかでよろしいのかしら。このコートってよく見たらそんなに上等でもないよね」
「安物だよ。上質のコートを買うほどの金はない」
 青二才が上等のコートなんか着たって似合わないけど、十年後くらいにはかっこいい大人の男になりたい、とは思う。ミエちゃんはすでに大人の女になりつつあるが、俺たちはいまだにガキ。そこは女と男の差なのだろうか。同年齢では女性が先に成長していくのであるらしい。
「だよね。それなりに仕事はこなしてたけど、収入ははなはだ少なかった。新米シンガーはそんなものかな」
「そんなもんでしょ。ミエちゃんには俺たちの収入を熟知されてて、彼女になってもらったらやりにくそうだな。先月はこれだけ稼いだってのに、あのお金はなにに使ったの? って怒られたりして……」
「すべて生活費で消えました、ってね」
 しばらく歩くと、道端に幸生がいるのが見えた。先に来て待っていてくれたらしい。なにをぼけっと突っ立ってるんだ? と見やると、幸生は肩をすくめた。
「リーダーとシゲさんが腹減ったって言い出して、たこ焼き買いにいきましたよ」
「おなかをすかせておかないと、お昼がおいしくないのにね」
「彼らはたこ焼きごときで腹いっぱいにはならないから大丈夫です。ほぉ、やっぱり、お似合いのカップルだなぁ。俺には見えなかったんだけど……」
 さきほどの一幕か、幸生が問いかける前に、たこ焼きをほおばりながらやってきた本橋が言った。
「乾、なにかもめてなかったか?」
 やはり気にかけてはいたようだ。立ち止まって見ていたのだろうか。本橋がもっとも背が高いので、いくらかは見えたのであるらしい。俺は首を横に振って答えた。
「なんてことはないよ。ミエちゃんが義憤に駆られて酔っ払いに注意しただけだ」
「……山田、危険な真似はすんなよ。義憤だかなんだか知らないが、正月早々他人ともめるなよ」
「よく知りもしないでよけいなことを言わないで。だいたいあんたはえらそうなのよ」
「……美江子さん、本橋さんとまでもめないで下さいね」
 言ったシゲに、ほっといてよ、と言い返して、ミエちゃんは俺の腕から腕を引き抜いて、先に立って歩き出した。こら、本橋、なんとか言え、と睨むと、本橋はミエちゃんの背中に言った。
「おーい、山田、おまえも食わないか?」
「いらない」
「ほらぁ、美江子さんが機嫌を損ねちゃったじゃん。リーダーが悪いんですよ」 
 幸生が言い、章も言った。
「義憤って、なにをしてたのか俺にも見えなかったけど、美江子さんってそういうひとでしょ。ね、乾さん?」
「そうだよ。本橋がえらそうに咎めるような問題じゃない。ミエちゃんにあやまってこい」
「……わかったよ」
 素直に詫びるのかと思ったら、本橋はミエちゃんに、つまようじに突き刺したたこ焼きを差し出した。
「食えよ」
「……本橋くんがあやまるってこうするの? いらないって言ってるでしょ。私のおなかの容量は本橋くんやシゲくんほどはないの。そんなの食べたらお昼が入らなくなるよ」
「嘘つけ。これしきで」
「東京で売ってるたこ焼きはおいしくないからいらないの」
「それが本音か。そんなら俺が食う」
 ぽいっと口に放り込もうとしたたこ焼きがすべり落ちたのは見えた。美江子さんのコートに落っこちたんじゃないの? と幸生が言ったのが当たっていたようで、本橋は焦った声を出してようやく詫びた。
「わっ、ごめん!! うわわ、汚れた……」
「なにしてくれんのよっ。馬鹿」
「ごめんな、山田、許せ」
「やっちゃったものは仕方ない。たこ焼きごときで怒ったら、山田美江子の名がすたる」
「そうかぁ? うん、そうだな、ごめんな」
「いいよ」
 さすがにミエちゃんは潔いよな、と呟くと、章はバツ悪げな表情になり、シゲが言った。
「そうそう、東京のたこ焼きはまずいですよ。俺は三重県の出でしょ。ガキのころに親に都会へ連れていかれるとなると、名古屋にも大阪にも行きました。俺は大阪のほうが好きだったな。大阪のほうが食いものがうまい。なんたってたこ焼きは大阪だ。今度大阪に行ったら、たこ焼きを食いにいきましょう」
「シゲ……大阪はたこ焼きだけか」
「え? 乾さん、大阪には……いいですよ、それは」
 デビューが本決まりになって間もなくの日に、シゲは幼馴染の瀬戸内泉水さんと再会している。その場には俺もいて、泉水ちゃんが来春から大阪で働くと言っていたのを聞いた。三人で俺の部屋で酒を飲んだあの日は泉水ちゃんが酔って寝てしまって、シゲが彼女を俺のアパートから彼女の住まいまで送り届けたのだが、それからなにがあったのかは話してくれなかった。
 言いたくないなら言わなくてもいいけど、幼馴染とはいえ、男と女は純粋な友達でいられるんだろうか、と俺は考えた。いられるんだよな、ミエちゃんと本橋と俺のように……そんなふうな友情はあるはずだ。
「シゲさん、なんだか意味深?」
 おかしな笑いを浮かべて幸生がシゲをつつき、なんでもないよ、大阪にはたこ焼きしかないんだ、とシゲが怒り顔で応じている。と、本橋がミエちゃんの腕を引き寄せた。酔っ払いらしき老人がよろよろとミエちゃんに近づき、三人してなにか言い合っている様子だったのだが、声までは聞こえない。シゲが言った。
「あっちにもこっちにも酔っ払いがいますね。けど、大丈夫ですよね」
「本橋がついてるんだから……とは言うものの心配だな。本橋こそが心配だよ。急ごう。ちょっと失礼」
 周囲をびっしり取り巻く人々の間をすり抜けて近づいていくと、老人の声が聞こえてきた。
「いやいや、なにもしないよ。綺麗な奥さんだね。いいねぇ。ん? 夫婦にしちゃ若いか。恋人同士かな。いいねぇ、わしにもこんな年頃はあったんだが……お嬢さん、ちょっとだけさわっちゃいけないかね?」
「いやです」
「……そうだろうね」
 老人が歩み去っていくと、幸生が言った。
「リーダーと美江子さんもカップルに見えるんだね。美江子さん、今度は俺と歩きましょ」
「いいよ」
 本院までの道のりは長い。込み合っているので歩みが遅くなってなおさら長い。幸生の要望に応じて、本橋と幸生が入れ替わった。幸生は本橋やシゲとはちがって、女性に対する照れは少ない。平然とミエちゃんに腕を差し出した。
「腕をどうぞ」
「……幸生くんには彼女はいないの?」
「いませんよぉだ」
 いそうな気がするのだけど、幸生も言いたくないなら言わなくていい。ミエちゃんと幸生も恋人同士のように腕と腕をからませて歩き出し、本橋がぼそっと言った。
「……姉と弟にしか見えないな」
 ぎゃはは、と章が笑ったのは聞こえていないようなそぶりで、前を行くふたりはひそひそ話している。こちらはこちらで男四人で話しながら、ふたりのあとからついていった。
「本橋もいくらなんでも、お爺さんには乱暴はしないんだな。俺はおまえがなにをするかと気がかりで追ってきたんだよ」
「爺さんったって矍鑠としてるってのか、あの年になってもスケベ心はあるんだな。ちょっとさわるぐらいだったらさわらせてやればいいのに」
 そりゃないでしょ、と章が言い、いくらお爺さんにだって、女のひとはさわられるのはいやですよ、とシゲも言い、そうかぁ、と本橋は首をかしげている。だったらなにか、と俺は尋ねた。
「おまえはお婆さんに、ちょっとさわらせて、と頼まれたらさわらせるのか」
「場所にもよるが、さわられるぐらいがなんだって言うんだ」
 実に下らない会話を繰り広げていると、幸生が振り向いて言った。
「章、美江子さんがおまえとも歩いてくれるって。よかったな、チェンジ」
「あ、そんならまあ……美江子さん、よろしく」
 いそいそと前に出た章は、ミエちゃんに内緒話しをしかけ、幸生が戻ってきたので途端に賑やかになった当方には、前のふたりの会話が届かなくなった。
「美江子さんはいい香りがしたのに、こっちに戻ってきたらたこ焼きの匂いがする。えらいちがいだよ」
「そんなに女と歩きたいんだったら、そこにもここにも歩いてる女の子をナンパしてくりゃいいだろ」
「こら、本橋、そそのかすな」
「うーむ、それもいいかも。でも、神さまのご面前で不謹慎だからやめておきますよ」
 けろりと幸生は言い、章の小声の歌が聞こえてきた。

「Which do you choose?
 He or I? I or He?

 きみを腕に抱けるのは
 あいつ? それとも俺?

 I love you
 It is quite unnecessary
 Only you the wanted one
 You are mine

 愛してる
 何度でも言うよ 愛してる
 きみを My Girl と呼べるのは俺だよね
 囁いて、その声で
 
 好きよ、あなたが好き
 そう言って俺に
 言ってよ、俺に」

 この歌と考え合わせると、章は函館での話をしているらしい。まったく章ときたら、なんでもかんでも誰にでも彼にでも喋りたがるんだもんな、と幸生は嘆き、シゲが言った。
「章といい幸生といい、なんだってそうすぐに出会った女の子に恋をするんだろうな。俺には不思議だよ」
「すぐにじゃないし、誰でもいいってわけでもないんだけど、そういう年頃だからでしょ。恋って唐突に天からふってくる、神さまのプレゼントなんですよ。ねぇ、乾さん?」
「うん、そういう詞もいいな。幸生、書けよ」
 ふいに章が振り向いて言った。 
「じゃ、今度は本庄さんね」
 え? 俺? と目をぱちくりさせたものの、シゲもいそいそと章と交替した。基本的に手厳しい台詞の多いひとではあるのだが、なにしろミエちゃんは美人だ。堅物シゲだって、こんなに綺麗な女性と並んで歩いていて嬉しくないわけがない。シゲとミエちゃんの会話はどんなだろう? と耳を澄ませると、ミエちゃんの声が聞こえてきた。
「章くんは暴言、乾くんは詭弁、幸生くんは冗談暴走、本橋くんは腕力主義でしょ。シゲくんは苦労するよね」
「苦労ですか。俺なんかはなんでもかんでも本橋さんと乾さんに丸投げで、苦労なんぞなんにもしてませんよ。俺には歌以外の能はないんですから、この声と歌で貢献します。他にはなにもできません」
「謙遜しすぎ。シゲくんのように穏やかなひともいないとどうしようもないのよ」
「穏やかですかね、俺は」
「そうじゃないの? 本橋くんは穏やかなんて薬にしたくもない性質だし、乾くんは一見温和だけど、かっと燃えるとたぎってくるし、章くんはかなりの激情型だし、幸生くんは止まらない口を持ってる。ヒデくんもけっこうかっかするタイプだったじゃないの。だからこそ、結婚となるとわき目も振らずに突っ走ったんだよ」
 どこからこういう流れになったのかは知らないが、俺は詭弁タイプか……当たっていなくもないので言い返せない。他の三人にしても的を得ていると思える。そりゃあまあ、こうして深く関わっているんだから、俺たちの気質はミエちゃんにはすっかりお見通しになっているのだろう。
 ねえ、大阪になにかあるの? と尋ねたミエちゃんに、またしてもシゲは答えた。
「たこ焼きでしょ」
 たこ焼きたこ焼きって、大阪のひとが聞いたら気を悪くするよ、と幸生が呟く。本橋は幸生に質問した。
「大阪にはたこ焼きしかない、ってシゲは言ってたけど、そうなんじゃないのか。他になにかあるのか?」
「お笑いがありますよ。俺は大阪に行ったらお笑いライヴを聴きにいって、ギャグのネタを蓄積してこようと楽しみにしてるんです」
 そんなものをそれ以上ふやさなくていい、と俺たちが異口同音に言うと、幸生はそ知らぬ顔をした。そうして歩いていくと、ようやく神社の本院が見えてきた。凄まじい人出である。日本人とは本当に初詣が好きな人種だ……って、俺もその一員なんだから、呆れている場合ではない。本橋はシゲに歩み寄った。
「シゲ、肩車してやるから思い切り小銭を投げろ」
「狙いがそれて人の頭に当たる恐れがあるって、シゲくんは言ってたのよ」
「いや、俺もね、美江子さんに遠投能力を尋ねたのは、そうしたらいいかなと思ったわけで……だけど、悪くしたら人の頭に危害を加えるからやめたほうがいいですね」
 まさか、ミエちゃんを肩車できないだろ、と俺は言い、幸生も言った。
「シゲさん、俺を肩車して。狙い過たず投げてみせます」
「ほんとか?」
「やってやろうじゃん」
 身をかがめたシゲの肩に乗った幸生は、子供みたいにはしゃいでいる。俺はミエちゃんのコートの肩に目をやった。正月早々粗忽な奴に新調のコートを汚されて気の毒なのだが、当人が気にしてもいないのだからいいだろう。男がこまかいことを気にしないの、と言われそうでもあるし。
「おー、背が高くなっていい気分だ」
「やれそうか。おし、じゃあ、章、おまえは俺が肩車してやるから、幸生と競争で投げろ。どこまで飛ばせるか勝負だ」
「勝ったらなにか報酬が?」
「負けたほうが晩メシをおごる」
 そんなの報酬じゃなくて罰じゃん、と幸生が言い、俺は言った。
「ミエちゃん、俺たちはなるだけ前に出て賽銭を投げよう。それとも、あなたは俺が肩車しましょうか?」
「前に行くほうがよさそうだね」
 うなずいたミエちゃんとともにその場を離れつつ振り向いたら、本橋の肩の章と、シゲの肩の幸生が、せえのっ!! と叫んでコインを投げた。幸生が投げたコインは鮮やかに賽銭箱におさまり、章が投げたほうはとんでもない方向へと飛んでいき、幸生が得意げに叫んだ。
「俺の勝ちっ!! 章、参ったか」
「くそぉっ、もういっぺんやりましょう」
 あんなふうにお賽銭を投げたら、神さまの霊験なんてのは授けてもらえないのではなかろうか。おまえたちはそんなことまで勝負ごとにするのか、と怒られそうに思える。ほんっとに子供だねぇ、とミエちゃんは呟き、俺は言った。
「実は俺もやりたい。ミエちゃん、肩車してくれる?」
「力持ちだったらやってあげたいけどね。無理だわ」
「そうだね。ミエちゃんを虐待してるように見えかねない。俺たちは正当な手段でやりましょうか。行くよ」
「こんなにすごい人垣をかきわけるの?」
「やってやれないことはない。これしき突破できないようでは……」
「世の荒波を漕ぎ分けて、成功するなんて到底おぼつかないぞ、でしょ?」
「そうだよ。行こう」
 せめて俺たちはまっとうにお賽銭をあげて、まっとうにお祈りしますからね、あいつらの無作法な言動は大目に見てやって下さいね、と俺は、神さまに心でお願いしていた。

 
4

 あれからこちらのふたりと、他の四人はしばしはぐれてしまっていた。はぐれていた間になにをしていたのかといえば、本橋とシゲと幸生と章は走っていたのだそうだ。そういえば去年の京都でも、ひょんななりゆきから俺ひとりが別行動になり、あとの四人は走っていたのだそうだ。新年早々走るってのも、これからも走り続けるのが使命であるはずの我々にはふさわしいのだろう。
「乾さん、俺、歌を書いたんですよ。聴いてくれます?」
 初詣をすませて帰る道すがら、幸生が言ったので、ふたりで俺のアパートに帰った。幸生はバッグから譜面を取り出し、俺はギターを持ち出した。

「賑やかなキャンパスで
 あの日、僕はあなたに出会った 
 夏が近づいていたね
 あなたの横顔に夢がきらめき
 あなたの髪を夏風がなぶってすぎた

 いつまでもいつまでも
 ずっとそばにいられると信じてた
 どこまでもどこまでも
 ずっと歩いていけると信じてた

 夕暮れどきの公園で
 あの日、僕はあなたにさよならを告げた
 夏が近づいていたね
 あなたの横顔に夕陽が影を落とし
 あなたの背中が泣いていた

 いつまでもいつまでも
 僕を忘れないでいてくれる?
 どこまでもどこまでも
 あの日見た夢を
 あの日語った夢を
 捨てずに歩いていてくれる?
 
 今でも僕は信じているよ
 あなたはあのころのあなたのままでいてくれると」

 きらめく夢のような、きらめく夏風のような幸生の歌声。キャンパスで出会って公園で別れた「あなた」か。幸生は大学に入学して恋をしたアイちゃんと、死に分れたるという経験をしている。その経験を形を変えて歌にしたのだろうか。軽快でいて哀しみも漂うメロディだった。
「……詞も曲も幼稚かなぁ。乾さん、どうですか?」
「学生時代の思い出だろ。振り返るにはいささか……」
 学生時代はすぐそこに、たしかにある。ちょうど幸生の声のようにきらめいて、今はまだ振り返るほどに、立ち止まってなつかしむほどに遠い過去でもない、振り返らずに歩いていけ、走っていけ、と励ましてくれている。振り向くには早すぎる、なつかしむには早すぎる。おまえたちには未来のほうが大切だと。
 けれどそこにはまぎれもなく、二度と会えないひともいる。アイちゃんもそうだ。俺にとっては時おり挨拶をかわした程度の二年年下の後輩でしかなかったアイちゃんだが、幸生にとっては忘れ得ぬひとなのだろうから。
 アイちゃんではなくて別の女の子か? と笑って尋ねるには、幸生には重すぎる過去なのかとも思う。軽佻浮薄だの軽薄短小だのと章に言われている幸生にもそんな想い出が……と考えかけて、思い当たった。二度と会えないひと? そうなのかもしれない。キャンパスで出会って公園で別れたひとが、幸生にはいる。女ではなく男がいる。

「俺とふたりで歌ったあの歌を
 おまえは今でも覚えているか

 顔と顔を寄せ合って
 ふたりで歌ったね
 夏空におまえと俺の声が
 高く高く上っていった

 恋をなくして落ち込んでた奴も
 まったく女なんてのはって嘆いてた奴も
 今でも俺の近くにいるよ

 おまえもどこかで歌っているか
 あのときのあの歌を
 おまえも忘れずにいてくれるか 
 あのときの俺たちを」

 あのときには幸生はまだ入学していなかった。本橋とシゲと、そしてあいつと、四人で俺の部屋で歌った。その「あいつ」なのだろうか。幸生が歌詞に登場させた「あなた」とは。即興で作った歌が終わるまで、幸生は黙って耳をかたむけていた。
「乾さんってほんと……参りました」
「なにに参ったって?」
「知ってるくせに」
 なんとなくね、と幸生は言った。
「なんとなくなんとなくだけど、乾さんはわりかしつめたいのかなって思ってたんですよ。高知に行ったときだってヒデさんのために歌ってたし、それ以外のときだって噂はしてたけど、乾さんってクールが身上ってところがあるから……だけど、ちがうんですよね」
「クールぶってかっこつけてる乾さん、だろ?」
「そういうところはおおいにありますが、でも、ちがうんだ。わかったからいいんだ。だから乾さんって……だから隆也さんって好き好き」
「ふたりきりのときまでやるな」
「この前は言ったじゃん。人前でやるなって」
「そんなことを言ったか?」
「言いました」
「言った、言ってない、ってのは水掛け論という。やめよう」
 はい、参りました、と再び言って、幸生は無邪気な笑みを見せた。
「さーてと、女の子とお話ししにいきません?」
「新年早々やはりナンパしたいのか」
「ナンパじゃなくてお話」
「結句は同じだ」
「乾さんったらまたむずかしい言葉を使っちゃって」
「むずかしくないだろ」
 真面目な顔してセンチな歌を歌っていて、次の瞬間にはこれだ。まあ、それがおまえだな、と言っておくしかないだろう、こんな場合は。
「行きません?」
「行かない」
「いいよねぇ、乾さんはもてるんだから」
「もてるんじゃないよ。もてるってのはな……俺みたいのじゃないんだ」
「だったらどんなの?」
「一概には言えない。さまざまなバリエーションがある」
「乾さんのもてっぷりもその一バリエーションですよ」
「ちがう」
「ちがわない……これも水掛け論ね。出かけないんだったら歌いましょうよ。歌わないと俺は燃焼できないんだから。不完全燃焼のままで俺を放置すると、ふらふらと外に出てって晴れ着姿の女の子に手当たり次第に声をかけて、僕ちゃんと恋をしましょうよぉ、って言いまくりますよ」
「脅かすな。よし、歌おう」
 ギターを抱え直してふたりして歌った。手当たり次第に女の子に声をかけるよりも、歌っているほうがよほどいい。
「おまえさ、女の子に声をかけるときって、僕ちゃんって言うのか?」
 ふっと気がついて問いかけると、幸生は首をかしげた。
「言うときもありますよ。俺は僕ちゃん、リーダーは俺さま? 俺さまとつきあえ、とかって女の子に言うのかな。リーダーはほんとにナンパしたことはないんですか」
「本橋が俺の見てないところでなにをしてるのかまでは知らないよ。しかし、俺さまとは言わないだろ。本橋って俺さまタイプかな」
「そうも見えなくもないけどね。乾さんはリーダーを本橋って呼び捨てにしたり、シンちゃんって呼んだり真次郎って呼んだり、リーダーって呼んだりするでしょ。その区別はいかに? リーダーって呼ぶときの状況はわかるんだけど、シンちゃんと本橋の区別はどこですか」
「幸生とユキちゃんの区別と同じあたりだな」
「……わかんねえ」
「おまえのその区別も俺にはわかんねえよ」
 じっくり観察します? ころころと替わってあげましょうか? と幸生は、じっとりした目で俺を見た。
「……いらない。やめろ」
「本当はいやなの? 無理してつきあってくれてるんですか」
「無理はしてないよ。それはそうと、近頃は華やかな晴れ着姿の女の子が少なくなったな。寂しいよな」
「うんうん、美江子さんの振袖姿を見たかったですよね。振袖って何歳まで着ていいんですか」
「独身女性はいくつでも着ていいはずだよ」
 あっちに脱線したりこっちに脱線したり、話題が女性の和服へとそれていった。
「乾さんって金沢なんだから、雅な古都でしょ? 綺麗な着物の女性もよく見るんですか」
「正月に女性が和服を着なくなったのは、東京でも大阪でも京都でも金沢でも横須賀でもなんじゃないかな。うちのばあちゃんやおふくろは着てたよ」
 高校生までは俺もやらされていた。古式ゆかしい金沢の正月行事を、お年玉をもらえるから辛抱してつとめていた。祖母や母や親戚の女性たちの晴れ着姿も少年にはどうでもよくて、シンプルな金沢の雑煮は、少年にはつまらなかった。
「新潟の雑煮は具沢山なのに、うちのは貧しい雑煮でね……近い土地なのになんだってこう金沢は……なんて不満だったよ。だけど、なつかしいな。横須賀の雑煮はどんなだ?」
「東京と変わりないんじゃないかな。乾さんはお雑煮食った?」
「食ってないよ」
「僕ちゃんはインスタントで食いました」
「ほお、えらい」
 今度は雑煮の話題になり、幸生が言った。
「ヒデさんが言ってましたよ。四国はあんころ餅の雑煮なんだって。小豆汁の雑煮もあるんだって。それじゃ汁粉じゃん」
「ヒデは高知だろ。あんこ餅は香川県だよ。ヒデのお母さんは香川出身なのかもしれないな」
「そうなのか。日本って狭いようで広いんですね」
 月並みな結論に落ち着いて、雑煮が食いたーい、と幸生が言った。
「加賀のお雑煮をごちそうして下さいよ」
「なんとか作ってみようか。かつお節のパックだったらあるだろ」
「そんなのあるの? 乾さんは料理もしなくはないんですよね」
「たまには」
 コンビニに餅を買いにいき、うろ覚えのばあちゃんのレシピに沿った雑煮を作ることにした。
「……乾さん、なんで睨むの?」
「マックじゃないか。京都ではマクドだったな」
「発音がちがいます」
「マクドか」
「お、乾さんうまい。そうそう」
「発音はどっちでもいいんだよ。マクドでもコンビニでもおまえは……」
 新年おめでとうございまーす、と幸生は、コンビニのアルバイト店員の女の子に愛想よく挨拶して、放っておくと、新しい年に僕ちゃんと恋をしません? と言いかねなかった。俺の行きつけの店で働いているのだから顔を合わせる機会もちょくちょくある彼女は、小柄で華奢で愛らしい女の子なのだから。
「タイプだったんだろ、彼女は」
「乾さんも?」
「俺のことは言ってない」
 やあやあ、今年もよろしく、と俺も横から口を入れ、幸生の腕をつかまえてコンビニから引っ張り出した。幸生が妙な真似をすれば、俺があの店に行けなくなってしまうではないか。
「雑煮を食って酒を飲んで歌って、完全燃焼しろ。完璧に燃え尽きて寝ろ」
「隆也さんの胸で?」
「……おまえは病気か」
「なんの病気?」
「いいよ。もう」
「きゃいきゃーい、勝った勝った」
「はいはい、負けましたよ」
 ついでにビールも買ってきて、適当にこしらえた俺のふるさとの雑煮を肴に飲んだ。肴は雑煮のみならず、仲間たちの噂話。大学時代のあのときに……などという話にもなる。ヒデさんは元気かなぁ、妻子に囲まれて幸せなのかな、と幸生が呟き、俺は言った。
「おまえの声でブルースってのは無理があるかな……章に教わった歌があるんだよ。どうだ、これ?」
 出だしを口ずさんでみせると、おー、「数え切れない雨」と幸生はうなずき、すぐさまついてきた。少年っぽい高い声の持ち主だが、幸生はどんな歌でも消化して彼なりの歌にしてしまう。人の言葉を横取りしたり横槍を入れたり、先走って別の話しにしてしまったりは毎度だが、歌となると幸生は別人になる傾向があるのだ。
「消化不良のおかしな熟語も得意だけど、歌だったら見事に我がものにするんだな、おまえは」
「俺さまは歌うために生まれてきたんだもーん」
 その通りだな、と笑って、俺はギター伴奏に徹した。章の歌とはちがう、幸生なりのブルースはいっぷう変わった趣を持って心に響く。歌ったり喋ったり飲んだり食ったりで、幸生とふたりの正月三が日最後の夜は、まずまず穏やかにすぎていった。


 雨の数なんて数え切れなくて当たり前だろ、とひとりで吐き捨てた。数え切れない雨が、俺のハートを叩いていく。俺のどこがもてるんだ。俺はもててなんかいない。
 だって、そうじゃないか。もてる男ってのはだな、女の子に告白して綺麗さっぱりふられたりはしないんだよ。
 ひそかに名づけた「万葉集の君」という女性がいた。たびたび行く古書店でたまさか会う名も知らないひと。同時に見つけた万葉集関連の書物に同時に手を伸ばし、俺が譲ったあの日以来、彼女が心に住みついた。色白で清楚で、古風な面立ちの小柄な女性だった。通り一遍の挨拶はしていたけれど、踏み込めないままに日がすぎた。
 先日、ついに一大決心をして、俺は彼女を誘った。しごく平凡な台詞、よろしかったらお茶でも飲みませんか、と。彼女は驚いたように俺を見つめ、ごめんなさい、急いでますから、と言って歩み去った。それからは古書店でも出会わなくなった。つまりは避けられたのだろう。
 アマチュアのころにアルバイトをしていた「月影」という店で知り合った尚子さんへの想いを完全に吹っ切るために、俺にはそんな動機があったのだろうか。あったとしてもなかったとしても、「万葉集の君」にふられたのは事実だ。真実もてる男ならば、恋心を抱いた女性にあんなふうにつれなくあしわれたりはしない。
 学生時代から幾度か恋をして、告白してうなずいてくれたひともいる。つきあったひともいる。尚子さんのように投げやりに、寝ようよ、なんて言葉を投げかけてきたひともいる。そのすべての女性に俺はふられた。ふられて終わった恋の経験しか持たない俺に、乾さんはもてるから、などと言わないでほしい。
 こちらが好きになれない女性にもてたって、なんの意味があるんだよ。究極の恋は相思相愛だろ。相思相愛になれなかったひとはすっぱり諦めよう。いいのさ、ふられるなんて慣れてるよ。
 レンタカーじゃさまにならないけれど、マイカーは持っていないのだから仕方ない。「数え切れない雨」のフレーズをなぞって、土砂降りの雨のハイウェイにひとりで車を駐めてみた。ここがどこなのかは敢えて知らないままに、ぼんやりしていた。こんなに激しい雨の中に降りてひどい風邪でも引き込んだら、リーダーの次は乾さんかよ、と後輩たちを嘆かせる羽目になりそうだから、車の中から外を見ていた。
 雨が激しすぎてろくろくなにも見えない。事故ったら風邪どころではない騒ぎになるのは必至であるから、車をスタートさせて目についたドライブインにつけた。
 自動販売機で缶コーヒーを買って窓辺にすわり、煙草に火をつけて外を見ていた。雨は激しさを増していく。嵐の体を呈してくる。こんな状態で運転したら危険だろうか。今日の俺はついていない。厄日なのかもしれない。こんな日にはさっさと帰って酒でも喰らって寝ればよかったと後悔していたら、近くでこほっと咳が聞こえた。
「ああ、失礼しました」
 ここは喫煙席だけど、迷惑になるんだったらやめよう、と煙草をもみ消すと、咳をしたひとの視線を感じた。
「すみません。煙草はお嫌いですか。おことわりもしないで吸って失礼しました」
「……その声、隆也くん? 乾さん……」
「んん? 香奈ちゃん……吉崎さん」
 ふいに想い出がよみがえる。吉崎香奈。隆也くん、香奈、と呼び合った仲だったひとだ。
 大学生になってはじめてつきあった女の子が香奈だった。彼女を題材にして幼い詞を書いた。短い交際はやがて破局を迎え、大学を卒業してからは顔を合わせる機会すらなくなって、いつの間にやら忘却の彼方へと去っていた。卒業後の香奈がどんな職業についたのかも知らずにいたのだが、こんなところで再会するとは。
「そこに行っていい?」
「もちろんよ。なつかしいね」
「ほんとに……覚えててくれたんだ」
「乾さんこそ。乾さんなんて呼んだことなかったね。乾くんでいい?」
「俺は今でも乾隆也だよ」
「そりゃそうだよね。男のひとは苗字が変わるなんてあまりないんだもの。私も吉崎香奈のまんまだけど、香奈ちゃんって呼んで。乾くんは最初のうちは吉崎さんで、それから香奈ちゃんになって、それから香奈になって……だけど、おまえとは呼ばなかったね。男の子とつきあってると、彼ってじきにおまえって呼ぶんだから、って怒ってる女の子もいたけど、乾くんはそうは呼ばなかった」
 おまえと呼んだ女性はいないけど、呼んでほしいんだったらそう呼んでもいいよ、と思っていると、香奈は言った。
「乾くんはなにをしてるの?」
「きみに話す機会はなかったね。シンガーになったんだよ」
 彼女も合唱部にいたのだから、本橋を知っている。シゲやヒデや幸生の記憶はあまりないようだし、章はまったく覚えていないらしいが、ミエちゃんとも親しくしていたらしい。フォレストシンガーズの話しをすると、香奈は熱心に聞いてくれた。
「そうなんだ。フォレストシンガーズはプロになったのね。夢がかなったんだね、乾くん」
「現段階では夢がかないつつあるってところだよ。香奈ちゃんは今はなにをしてるの?」
「翻訳家の卵」
「じゃあ、きみも夢をかなえつつあるんだ」
「そうよ。夢が完全にかなうようにがんばろうね」
 英語に堪能な香奈は語学部にいて、イギリス文学を専攻していた。ただいまは出身校とは別の大学院でイギリス文学を研究するかたわら、翻訳の仕事もしているのだと話してくれた。
「ここではなにをしてるの? ひとり?」
「仕事をしてたんだけど行き詰っちゃって、ドライブに来たの。そしたらものすごい雨になってきたじゃない。ここで雨宿り」
「俺もだよ。俺は仕事は終えて息抜きドライブ。レンタカーなんだけどね。車を買う金はない。稼いでないから」
「私も貧乏だよ。車は友達のお古を安く譲ってもらった軽自動車。隆也くんって煙草……」
「ああ、昔から吸ってるよ。高校のころから吸ってる。きみの前では吸わなかったっけ」
「見たことないなぁ。高校のころから? 案外不良だったんだ」
「喫煙ごときで不良とは言わないでしょ」
「言うよぉ」
 もともと人前ではほとんど吸わない。今夜は自棄酒ならぬ自棄煙草にすぎなかったのだが、気が向かなかったら吸わないので、シゲでさえも昔は知らなくて、乾さんって煙草を吸うんですか? と驚いていた。本橋は前から知っている。幸生は彼も吸うので知っている。今では章も知っている。ミエちゃんもよくよく知っている。香奈は知らなかったのか。
 言葉遣いも呼び名も学生時代に戻っていき、近況報告などしているうちに雨が小降りになってきた。いっそもっともっと、天の底が抜けるほどに降ればいいのに、とも考えたけれど、香奈のためには激しすぎる雨は気の毒だ。俺も香奈とめぐり会えたのだから、今日はついていないと気持ちを滅入らせるのはおしまいにしよう。
「きみも車なんだったら送っていけないね」
「隆也くんも車なんだから、私が送っていってもあげられないんだね。別々に帰ろう」
「残念だけどね」
「そう? ね? また会える?」
「嬉しいよ。会いたい」
「……私も嬉しい。これ、ケータイの番号ね」
 ケータイを買ってよかった、とつくづく思った瞬間だった。電話番号の交換をして、またね、と言い合って、バイバイ、と歩み去る香奈のほっそりした背中を見送っていた。
 恋人はいないの? なんて尋ねなかったけど、いないからこそ俺に電話番号を教えてくれたのだろう。都合のよすぎる解釈だろうか。単に昔の友達として、教えてくれただけなのだろうか。いや、香奈と俺は昔の友達ではない、昔は愛し合い、抱き合った仲だった。
 今はそれらは遠い過去だけど、もう一度一歩ずつ積み重ねていけるかもしれない。何日か前にふられて雨にも降られて黄昏てたってのに、俺ってゲンキンな奴なのかもしれないとは思うけど、ゲンキンだっていいじゃないか。終わった恋が再び燃え上がることだって、この世にはよくあるのだから。
 外に出ると数え切れない雨は上がり、夜空にゲンキンな星がまたたいている。誰にも迷惑にならない戸外で煙草に火をつけ、あなたの優しさがあれば夢は続くと、章と歌った替え歌を口ずさんだ。ひとりよがりの恋も終わったけど、明日からもしかしたら……そう思ってもいいんだよね、香奈? 星のまたたきが、香奈のウインクに見えた。

END


 



 
 

  

 


 
 


 
 
 



 
 
 

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~ Comment ~

どうも章は俺に含むところがあると思えるのだが、そのわりにはたびたび俺の部屋にやってくる。

↑冒頭のこれに、妙に「おお…!」と思いました。
なんだろう、その反発しながらも惹かれるみたいな感じ。
乾くんは、fateにとってはグループの中でも一般的な意味合いでも‘アイドル’的存在なんて、なんとなく「ええ~? 誰かのものになって欲しくないなぁ」という我儘を感じているせいか、ちょっと、ううむ…のターンでした(^^;
芸能人に感じる憧れ的なものかなぁ、本人には放っとけ! って感じの。

数えきれない雨、良いですねぇ!
激しい雨に打たれる歌はけっこうありますが、雨って不思議と切なさと同時にものすごく沸き起こる情熱を感じます。その方向性は置いといて。まぁ、つまり、どちらでもある、という。
自然現象って、そういえば、心のありように例えられますから、なんだかんだ言ってもヒトって自然から逃れて文明だけでは生きていけないんだよね。
きっと、身体の中に自然を飼っていることを知っているから。

乾くん、香奈さんと再会したのか~
ということと、乾くんの性格を形作った原型をやっと理解しました。
ご両親とのちょっと距離のあった関係。そして、厳しくも温かく、人間的なおばあちゃんの存在。
乾くんが激情に駆られて突っ走らない冷めた面はご両親との淡々とした関係が、そして仲間への愛情深い言動はおばあちゃんに育てられたものか、と。本当にしみじみいたしました。

これも、どんどん進んでいきますね。
また次回を楽しみに(^^)

fateさん、ありがとうございます

乾くんが誰かのものになってほしくない、とおっしゃるのは、恋愛的な意味でですか?
もしそうであれば、著者にとっては嬉しいお言葉です。

私の書いている物語の中でだけの、乾隆也の結末というのが三種類ほどあるのですよ。
フォレストシンガーズストーリィの「おしまい」としてアップするにはどれにしようか? と悩んでいるのですね。

読んで下さる方が悲しんで下さるんだったらこれ?
なんてのもあるのですが、まだおしまいにはしたくないのでアップはしません。
もしかしたら結末ストーリィはどれも使わないかもしれない気もしています。

雨っていいですよね。
「レインソング」というアンソロジーアルバムも好きです。
憂歌団も好きです。

香奈って女は私には書きにくくもあるのですが、これからもちょこちょこ出てきますので。
大勢のキャラをひっくるめて、これからもご愛顧のほど、よろしくお願いします。

NoTitle

猫嫌いは近くにいないようないるような…家族に…父が…。
とかいいつつ、父の実家では猫を飼っていました。
でもペットという形ではなくネズミ取り用として、でした。
嫌いというか、興味がない感じですかね。
あとフンをするから嫌、という感じかな?
嫌いという人には会ったことがないです(怖いっていう人にも

犬好き?猫好き?となるとみんな犬好きですが…切ない…。
理由は、言うことを聞かないから、なつかないから、頭が悪いから等々。
いやいや、猫はそんなに馬鹿でもないし、ちゃんとなつくし、呼べば寄ってくるし、
賢い猫は玄関にご主人を迎えに行きます!
猫はちゃんとわかってます!!!

おっと、猫話でついつい力が入ってしまいました。

乾くんの、お前と呼ばないところがいいです!!
確かにいつのまにかお前と呼ばれている気がする…
そういうところに気をつけるところがステキです!!

先ほどキャラ投票してきました!
しかし!投票した後に気付いたのですが、コメントも何もせず投票したので、
私が投票したとわからないのでは?!と・・・・・・・・
大丈夫でしょうか?


ハルさんへ

コメントありがとうございます。
猫嫌いさんが周囲にいないとは、いい環境だと思いますよ。
動物に興味ないってひともいますよね。
過剰に動物が好きで、人間嫌いってひともいますし。

私は犬も好きですが、犬はちょっと怖くて、犬好きさんには見抜かれます。
追いかけられたりしたトラウマのせいでしょうね。
猫は犬とは性格がちがうから、本当は頭だって悪くないのに、アホのふりをする、そのほうが得だから、と思ってますが(^^

ハルさんは「おまえ」と呼ばれるのはお嫌いですか? 私も好きではないのですが、そう呼ばれるのが嬉しいって女性もいますよね。
嬉しい気持もわからなくもないってことで、大人になった乾くんは、時には女性を「おまえ」と呼ぶようになります。

投票、ありがとうございます。
たぶんハルさんが投票されたとはわからないですけど、自己申告していただきましたので、私だけがわかっているから嬉しいです。

NoTitle

宮本武蔵は賽銭はあまりにしなかったと言いますがね。「都合のときだけ賽銭を与えても、神はなにもしてくれない。こういうことは毎日している人の結果の産物である。」と思っていたようです。まあ、お参りとかは気持ちの問題も最近は多いですけど。あるいは儀礼的か。。。

LandMさんへ

いつもありがとうございます。
LandMさんのお住まいは中国地方でしたっけ? もしもそうでしたら、台風や大雨の被害はありませんでしたか? 今年は気候が極端で、なにが起きるかわからなくていやですよね。

さて、苦しいときの神頼みは効果ないってことですね(^^;)
私も都合のいいときだけ神社にお詣りして、よろしくお願いします、なんてやって、お賽銭を……耳が痛いです。
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