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小説257(一番星の五分の一)

 ←キャラへの質問バトン(ミズキです) →番外編76(熱い愛もオッケイ!)《特殊編1・三田畳さん》
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フォレストシンガーズストーリィ257

「一番星の五分の一」

1

 平均すれば週に一度ほど、俺はあのかっこつけ野郎が大嫌いになる。年中嫌いではないし、一から百まで嫌いなわけでもないのだが、ことあるごとに乾隆也の言葉の刃に傷つけられて、俺のもろい精神はずたぼろになるのだ。
 アマチュアシンガーズではあるが、フォレストシンガーズという名の男五人のヴォーカルグループに加わって間もない俺は二十一歳。今年の夏に一年だけいた大学の合唱部で友達だった、三沢幸生に引きずり込まれた。
 プロを目指して結成されたフォレストシンガーズのメンバーは、リーダー、本橋真次郎、リーダーと同年の乾隆也。このふたりは二十三歳。本庄繁之が二十二歳。三沢幸生が俺と同い年で二十一歳、奇しくも全員が三月生まれなので、同じ月に一斉に年齢を加える。
 今年の夏に俺がフォレストシンガーズに加わったのは、メンバーがひとり欠けたからだ。そのもとのメンバー、小笠原英彦も本庄さんと同じ二十二歳で、その年で結婚するからとグループから抜けた。変に俺に気を使っているらしくて、詳しい話は誰もしてくれないのだが、俺も小笠原さんは学生時代から知っている。
 一年で中退した俺も、一年生の年には合唱部にいた。その一年の間に、幸生と友達になり、本庄さんや小笠原さんにはメシをおごってもらったりもした。本橋さんと乾さんは当時から合唱部のスターだったので、俺はあまり近づきはしなかったのだが、幸生は彼らに憧れていた。
 そして俺は大学を中退し、ロックバンドのヴォーカリストとなり、メジャーデビューの夢破れてたそがれていたころに、幸生と再会して小笠原英彦の代理メンバーとなったのだった。
 簡単に言えばそんなわけで、俺もアマチュアヴォーカルグループの一員となり、バイトと歌の練習に明け暮れている。
 たったふたつ年上だからって、身体も大きいからって、リーダーと乾隆也は俺を蹂躙する。リーダーには殴られる。乾さんには叱りつけられる。俺は小さくて細くて力もないのだから、でかい年上の男には苛められっぱなしで、反抗もろくろくできないのが悔しい。
 本橋さんのアパート近くの公園で練習するのは夜だ。幸生は現役大学生だが、みんながバイトで食っているので、歌っていればいい恵まれた境遇ではない。俺だって居酒屋のバイトで稼いでいて、それだってひいこらなのに、遅刻すると殴られる、叱られる。俺は叱られるのも殴られるのも大嫌いだ。後輩だからってなんでこう軽く扱われるんだろ。
 一度ひどく遅刻して、本橋さんにぼっかーんと殴り飛ばされ、乾さんには震え上がるほどに叱り飛ばされたものだから、俺は遅刻厳禁をおのれに課している。アマチュアなんだからちょっとぐらいの遅刻は許してくれたっていいだろ、と言いたいのだが、言うとパンチと言葉の暴力が降り注ぐのだから、言えないのだ。
「みんな、遅いじゃん。俺がトップですよ」
 今夜も俺が先に来て、寒い公園で待っていると、本庄さんが二番目にやってきた。
「着膨れてるな、章。寒いのか。走ろうか」
「やだよ。走ったら息が上がって、歌えなくなっちまう」
 ダウンコートの下はロッカーTシャツなのだから、着膨れているのではない。本庄さんは俺のコートの中を覗き、ピアスをちらっと見て言った。
「おまえにはロッカーファッションって似合うんだよな」
「……そんなのどうだっていいけど、本音を言って下さいよ。本庄さんは乾さんを嫌いになったりしないんですか」
「なんで乾さんを嫌いになるんだ?」
「あの鋭すぎる舌です」
「叱られるからか。おまえが悪いからだろ」
 ひとことで切り捨ててくれる。本庄さんは人のいい男ではあるが、時としてものすっごくきつい。暴力も鋭い舌も切れる頭脳もないくせして、俺を苛める先輩のひとりだ。俺は本庄さんは嫌いではないけれど、本橋さんも乾さんも本庄さんみたいな性格だったらいいのにな、とは思うけれど、結局は彼は先輩サイドの人間なのだ。
「俺だって乾さんには叱られるよ。弱気になったり自分を卑下したりすると、馬鹿野郎って怒鳴られて活が入るんだ。乾さんは温厚なんだけど、俺の性格を知ってるから、湿っぽくなぐさめたりはしない。俺がいじけてたらびしっときびしくやって、勇気を与えてくれるんだよ」
「本庄さんも乾さんに叱られた?」
「何度だって叱られてるよ」
「……先輩だからって、なんでそういばってていいの」
「いばってるんじゃないだろ。いばるってのは……俺にはうまく言えないけど、いばってるんじゃないよ。わからないのか」
「いばってます」
 かなり早く来すぎたようで、他の三人はやってこない。俺の本音は本橋さんにも乾さんにも言えないので、本庄さんにだけ話すのはちょうどよかった。
「乾さんは言うでしょ。女は絶対に殴ったらいけないって。俺だったらいいのかよ」
「おまえは男だろ」
「男だけど……か弱いんですよ」
「か弱いなんて自慢するな」
「自慢じゃねえよっ!!」
 背は高くもないけれど、俺よりは十センチは高くて筋肉質で力持ちの本庄さんには、か弱い男の悲哀なんてわかるはずもない。弱いって自慢なんかしたいはずがないのに。
「章、走ろう。うだうだしてるよりはそのほうがいいだろ」
「俺は走るのはお断りです」
「じゃ、俺はちょっと……」
 ランニングおたくでもあるらしき本庄さんは、ひとりで走っていってしまった。そこにあらわれたのは本橋さんで、遠ざかっていく本庄さんの背中を見やって言った。
「シゲにも叱られてたのか」
「叱られてませんよ」
「おまえの声は高いから、一部は聞こえてたよ。乾となにかあったか」
「いっつもあるでしょうが」
「……馬鹿野郎、おまえが悪いんだ」
 こともなげに言って、俺の額を力を込めて押す。本橋さんにそうされるとそれだけでたたらを踏んで、いつもの台詞を言われた。
「情けねえな。だらしねえな。踏ん張れ」
「本橋さんは力が強すぎるんです。加減して下さいよね」
「してるよ」
「加減されてても俺はよろめくんだ。くそっ……俺なんか……」
「あのな、章」
 妙にしみじみと、本橋さんは言った。
「おまえの歌は最高だよ。作曲にも底知れぬ才能の片鱗が窺えるって、乾は言ってた。身体は小さくて強くはないのかもしれないけど、おまえの言う、俺なんかってのはさ……俺なんか、で終わる男じゃない。おまえは……ってな、俺にはうまく言えないな。乾はそのようなことは言わなかったか」
「一度か二度かは言ってましたけど、つらく当たられてるほうが多いんだから」
「おまえは乾につらく当たられてるつもりでいるのか。あれはあいつの教育だって……」
「俺はガキじゃないんだから、教育なんてしていらないんですよっ!!」
「その態度だからだろ。俺の教育はこうだって知ってるよな。章、来い」
「いやですっ!!」
 ジョークまじりなのかもしれないが、でかい男がにやっとして手招きすると、怖くて脚が震えそうになる。本橋さんはそんな格好で言った。
「二十一だよな。おまえがもっとガキだったら、毎日毎日張り飛ばしてやってもいいんだけど、そこまでしなくても言えばわかるって乾が言うからだぜ。俺はおまえの言葉に腹が立つんだから、止める他の三人がいなかったら、おまえの面はたびたび腫れてるよ」
「そういう脅しはやめて下さい」
「ま、脅し半分だけどさ。乾に感謝しろよ」
「しません」
 ほっと息を吐いた本橋さんに、俺は言った。
「本橋さんは変な意味じゃなくて、乾さんが好きなんですか」
「ああ」
 誰があんな奴、と言うのかと思っていたら、素直に肯定してる。ああと言っておいてから、本橋さんは怖い顔で言った。
「乾だったら言うだろうな。章には限りなく飛翔していける可能性がある。無限の可能性を秘めた若い章を、先輩として教育して高みに登りつめさせる手助けをしてるんだ。おまえはそれだけの男だ。だからだよ」
「……妙におだてるけど、その根拠は?」
「ねえよ。だからだな、おまえみたいな奴はもっとしょっちゅうぶん殴ったほうがいいだろ。その面を腫れ上がらせてやるから来いよ」
「いやですったら」
「馬鹿野郎、しっかりしろ」
「……」
 こうして直接的に俺を脅迫する本橋さんにも、殴られたりすると悔しくて恨めしくてたまらない。気安く頭をぼかぼかやったり、時にはパンチも飛ばす暴力的リーダーが、が、俺は乾さんほどには嫌いにはならない。
 情熱過剰のうざい男ではあるのだが、乾さんよりは俺とは相性がいいのだろうか。この本橋さんが乾さんを好きだというのも、俺には理解しがたいのだった。
「やめて下さいったら!!」
 近寄ってきた本橋さんが、俺の頭を小突き回す。けっこう痛いので逃げ惑っていたら、乾さんが音もなく本橋さんの背後に忍び寄って、その腕をねじり上げた。
「どうした、章、なにをしたんだ? リーダーにお詫びしろよ」
「俺はなんにもしてませんっ。リーダーが苛めるんですよ」
「苛められてるって根性は困ったもんだよな」
「苛められてたんですよっ」
 そこに幸生もやってきて、乾さんと同じことを言った。
「またなんか悪いことをしたんでしょ。章ちゃん、ごめんなさいはした?」
「俺はなんにもしてねぇっての」
「したに決まってるじゃん。ね、シゲさん?」
 公園を一回りして駆け戻ってきた、本庄さんも言った。
「本橋さんや乾さんに叱られたり、殴られたりするのは章が悪いんだ」
「そうそう。章が悪い」
 幸生が言い、本橋さんはとぼけ面、乾さんは笑っている。今夜は俺はみんなが嫌いだ。こんな奴らがお互いに嫌い合ってはいなくて、たいそう仲がいいのが不思議だった。


 ひとりになると考える。アマチュアロックバンド時代の仲間だったスーと、恋人になって捨てられて、泣いていた俺を遠くから見ていてくれた乾さん。乾さんの煙草の煙が、彼が俺を黙って見てくれていたのだと教えてくれた。
 スーに捨てられてフォレストシンガーズをもやめたくなっていた俺に、おかしな詩を書いてくれて、たぶらかして部屋から連れ出してくれた幸生。
 じきにごちんとやるけれど、親身になってくれるリーダー。貧血を起こした俺を背負ってくれた本庄さん。知ってるよ、知ってるんだ。みんながいてくれるから、俺はスーに捨てられても元気を出せたんだって。
 なにもかも知ってはいても、いまだに俺は特に乾さんを、週に一度は嫌いになる。二十二歳になった春、今日は練習場所に乾さんと俺が先に来て、話していた。
「この間、女と寝たんですよ」
「寝ただけか。恋じゃなくて?」
「恋はたやすく見つからないって、乾さんの持論でしょ。恋はたやすくは見つからないけど、寝るだけだったらたやすいもんな」
「おまえだったらそうだろうな」
 顔だけはよくて、それだけで女にもてる木村章、乾さんはそう言いたいのだろう。
「そいつは俺に惚れちまったらしくてね、まとわりつかれそうだから捨てたんですよ」
「ふーん」
「恋なんかしなくても、女とは寝るだけのほうがいいよね。章が好き、なんて言われて、章はあたしよりもフォレストシンガーズが大切なの? なんて訊かれたら面倒だし、ベッドに入って楽しくやって、そうやってバイバイするのが一番ですよね」
「おまえの思想がそうであって、彼女もそれでいいんだったらいいんだろうな」
「含みがありそうな口調ですね。本音は?」
「そんなふうにしか女と関われない男は、殴る値打ちもないってのかな。殴られるほうがいいってことも、あるんだって知ってるだろ」
 またすかしてやがる。格好つけてやがる。この言葉で、今日も俺は乾隆也が大嫌いになった。
「あんたは一度もそんなことはしてないのかよ」
「したくないな」
「したくなくても、乾さんはもてるんでしょ。女に誘惑されて引きずられたりってあるんだろうが」
「俺のばあちゃんの時代って、いいことはいい、悪いことは悪いと、善悪の判断がつけやすかったんだよな。うちのばあちゃんだったら、そんなの当然でしょ。いいことはいいんだよ、悪いことはしてはいけないんだよ、って言いそうだ。なにが正しくてなにがまちがってるのか、こんな曖昧な時代の若い者は……」
「なんでそう回りくどい言い方をするんですか」
「すぱっと割り切れないのが男と女の仲って意味かもな」
 つまり、あんたもやったって意味か。乾さんはてめえの女についてはちっとも話してくれない。ものごとをなんでも回りくどく考えるのが得意なのだから、こいつの女も面倒な奴なのだろうか。
 言葉に詰まってしまった俺の肩を叩いて、乾さんがベンチから立ち上がる。むこうから本橋さんと本庄さんと幸生が連れ立ってやってくる。俺だって恋がしたいよ。スーに捧げていたような純情を取り戻したい。だけど、愛せる女はあらわれないのだから。


「乾って奴は、自分のことではあまり怒らないだろ。てめえには関係ねえってことで怒るんだよな。幸生やおまえが、俺の怒りよりも乾の怒りのほうが恐ろしいって言うのは、俺にもわかる気がするよ。俺の怒りは単純だからだろ」
 本橋さんの言う通りだ。
 てめえには関係なくはないことで乾さんが怒るのは、ファンに対する俺の態度である。ロックバンドにはグルーピーって奴がいて、常識のない女どもに悩まされた経験も多い俺の中には、ファンにはそばに寄ってきてほしくない、というのがある。
 ファンなんてわずらわしい、その気分が消えない俺は、ファンの女の子に邪険な態度を取っては乾さんに怒られる。そんなときにはほぼ決まって殴られる。きついパンチではないのだが、俺のほっぺたを張り飛ばす乾さんの平手打ちも鋭くて、これは明らかに俺が悪いのだと自覚しているだけに、いっそう響くのだった。
 アマチュアにも仕事があって、俺の顔に引き寄せられる女たちに取り囲まれて、閉口してひとりを突き飛ばした。なぜか俺がそういうことをすると近くにいる乾さんに見られて、俺は首をすくめた。乾さんはファンの女の子たちに丁重に詫びてから、俺をものかげに引っ張っていった。
「何度も同じことを言わせるな」
 ひとことの叱責と同時にほっぺたをぴしゃりとやられて、乾さんは立ち去った。俺がものかげに残って壁を蹴飛ばしていると、幸生がやってきた。
「おまえがファンの方々に対する態度を改めればいいんだろ」
 どこかで見ていたのか、幸生までが俺に説教する。口をきくと涙が出てきそうで、黙っている俺の頭を、幸生が抱き寄せた。
「やめろっ。頭が腐るだろっ」
「いっぺん腐って落ちて、新しい頭をはやしたほうがいいよ」
「腐って落ちたら生えないんだよっ!!」
 俺がファンにあんな態度を取って、目撃されてひどく叱りつけられたのは乾さんにだけだが、リーダーだって本庄さんだって見ていたら怒るだろう。ファンは大切な大切なもの。それだって知っているのに……俺は馬鹿だ。
 馬鹿だと自覚はあっても、習慣は変えられない。ファンはうるさいのだから。そこまで言うと幸生までもが怒りそうで、こいつだったら怒っても怖くはないとはいうものの、言ってはいけないとの自覚もあるので、幸生と取っ組み合ってストレスを発散した。
 とうに二十歳はすぎたってのに、先輩たちに叱られてばっかりで、教育しなくてはいけないと思われてるなんて、俺はまったくガキなのだろう。
 ガキだとの自覚もあっても、直さないではどうしようもないと知っている。知ってはいてもなかなか直らないから、殴られたほうがいいのかもな。などと思ってしまう。そんな俺の救いは、こうして取っ組み合える幸生だけなのかもしれない。
「おまえは乾さんを嫌いになったことってないのか」
「僕ちゃんは隆也さんが大好き。だーい好きだよ」
 尋ねるだけまちがっていた。幸生には質問する必要もない。こいつとは取っ組み合いをしていればいいのだ。それにしたって、どうしてこうどいつもこいつも、あのかっこつけ野郎を好きだなんて言うんだろ。今の気分の俺には信じられなかった。


2

 ガキのころの俺は注射が恐ろしかった。
 幼稚園だか保健所だかで予防接種となると怖くて怖くて、大声を上げて泣いた。優しい女の医者だったらば、母や幼稚園の先生と一緒にガキの俺をなだめすかしてくれて、泣かなかったらこれをあげるよ、と言ってキャンディを見せたりもした。
 キャンディにつられて泣くのを我慢して、えらいえらい、と褒めてもらったら嬉しかったものだが、中にはおっかない医者もいる。人相の悪い、今から思えばあんたは医者じゃなくて、サラ金の取り立て屋が似合ってるよ、と言いたくなる男の医者。あいつは最悪だった。
 小学校一年生ぐらいだったか。風邪を引いて母に連れられていった医者だったか。俺は小さいころには身体が弱かったので、医者には頻繁に連れていかれたのだ。その男の医者は注射が怖くて泣いている俺を見て、母に言った。
「小学生にもなって男の子がこれでは、情けないだろ。あんたの教育が悪いんだ。もっとしっかり育てなさい」
「はい、すみません」
 恐縮していた母の顔も覚えている。俺はそいつにがっちり腕をつかまえられて注射された。腕に刺さる針も恐ろしかったが、医者の顔がさらに恐ろしくて、俺はぎゃあぎゃあ泣いていた。
 泣きすぎてひきつけを起こしそうになったものだから、母が父に連絡した。父は会社の車で母と俺を迎えにきてくれたのだが、家まで連れて帰られる途中で、母が父になにがあったのかを報告し、父にはごつんとやられた。
「そのぐらいで泣くな。黙れ、章」
 一喝されていっそう泣いて、母は俺を抱きかかえてなだめるのに大童。父はあの医者と変わらぬ怖い顔をして、母にまで当たっていた。
 十歳をすぎるころからは注射ごときでは泣かなくなったのだが、嫌いなのは変わらず、大人になっても医者嫌いなのは、注射に対する恐怖感が拭えていないからなのかもしれない。そして俺が十二歳の年に、弟の龍が誕生した。
 こいつは気の強い奴で、幼児のころから注射なんてへの河童であったらしい。龍を予防接種に連れていった母が、仕事がすんで帰ってきた父に言っていたのが記憶にある。あれは龍が四つか五つで、俺は高校生のころだったか。
「龍は章とちがって、注射に連れていってもけろっとしてるから助かるわ。ね、龍、注射なんか怖くないよね」
「痛いけどさ、僕は泣かないよ」
「そうだよね。龍はえらいよね」
「それに較べて章は……」
 親父が俺をじろっと見、龍は言った。
「兄ちゃんは注射で泣いたの? 今でも泣くの?」
「泣かねえよっ」
「ちっちゃいとき? 僕は注射でなんか泣いたことはないもんね」
「当たり前だ」
 言ったのは父で、龍はつまらないことでいばっていた。
 十二歳も年下の弟なんてものは、邪魔者でしかなかった。母に子守を頼まれると逃げて、父にどやされた。暴力親父にもたびたび殴られて、ガキのころには泣いたのだが、龍が生まれてからは兄貴のプライドも感じるようになったのか、泣くよりも反抗の構えが激しくなっていったのだった。
 心配性で口うるさい母と、暴力に訴える父に育てられたのだから、俺はもっと強くなってもよかったのに。母がマイナス志向すぎたからか。反抗にも筋が通っていないと先輩に言われるのは、親父に体当たり反抗しかしなかったからか。
 中学生になってロック少年になり、高校生になるとロックバンドを組み、ロックってのは反逆の音楽だろ、だなんて、田舎のガキらしいポーズを取るようになった。
「兄ちゃん、歌が上手だね」
 俺が高校生、龍は三つか四つぐらいになると、ギター抱えて歌っている俺を、弟は尊敬の目で見るようになった。
「俺は将来はロックスターになるんだよ」
「スターってなに?」
「こうやってロックを歌って、有名になって金を稼げるようになるんだ。おまえはなにか買ってほしいものってあるのか」
「なんでも買ってくれるの?」
「いいよ」
 ほとんどかまってはやらなかったのだが、龍とはそんな話もした。龍は長々と考え込み、それから言った。
「南の国の果物」
「そんなのほしいのか」
「高いから駄目だって、お母さんが買ってくれなかったんだよ。食べたいな」
「マンゴーとかドリアンとかってやつ? 本場に連れていってやるよ。南国の島で腹いっぱいになるまで、トロピカルフルーツを食わせてやるから」
「とろぴかる……」
 弟なんかではなくて、美人の彼女と南国の島へ遊びにいきたい。今の俺はそう思う。お土産に果物を買ってきてやるからさ、それぐらい金が稼げるようになるまで、稚内で待ってろよ、龍。おまえは東京なんかに出てくんなよ。
 二十二歳になった俺の弟の龍は、十歳になっているはずだ。大学を中退して親父に勘当されたから、小学校一年生の龍としか会っていない。気持ちが沈んでいるときにしか思い出さない龍を思い出して、俺は幸生に話した。
「南国の果物が食いたいって、龍は言ってたんだ。あれから買ってもらったかな。マンゴーとかってそんなに高いのか」
「けっこう高いかな」
「おまえって女と旅行したことはある?」
「章はあるのか」
 旅行ってほどのことはしたことがない。俺がまともに長くつきあったのはスーだけで、あの時期は金銭的にもどん底だったのだから、スーをどこへも連れていってやれなかった。
「プロになれて経済的な余裕ができたら、南国の島へ彼女と行くんだ。そしたら龍にお土産を買ってきてやるって、約束したんだよ」
「マンゴーとか? あのさ、章、外国からは動植物は持って帰れないんだよ」
「へ? そうなのか」
「そうだよ。果物は現地で食べなくちゃ」
「……ふーむ。すると……」
 いもしない彼女との旅行ではなく、龍を連れていってやるほうに考えるべきか。おまえが中学生になるころには、先に龍を連れていってやろうかな。弟との旅行なんか想像しても楽しくもないはずが、プロにもなれていない状態では、そんな現実逃避でもしているしかないのだった。


 女には暴力をふるってはいけないだとか、女には優しくしないといけないだとか、綺麗ごとばっかり言いたがる乾さんに、俺は言った。
「俺は聖人君子じゃないんだから、女にだって感情をぶつけますよ」
「だからガキだって言うんだけど……俺もガキではあるけどさ」
「乾さんはガキじゃないつもりでしょ。俺のはるか高みから見下ろして、いっつもいばってるじゃん。俺はあんたみたいな……」
 口ごもると、乾さんが言った。
「俺だって聖人君子なんかじゃないよ。生の人間の男だよ」
「あんたは先輩面ばっかじゃなくて、聖人君子面をしてるじゃねえかよ」
「そう見えるか」
 そこにあらわれた本橋さんは、どこから聞いていたのかは知らないが、俺を怒鳴りつけた。
「章、先輩に向かってその口のききよう、その態度、なんなんだ!!」
「……」
 先輩に向かって、先輩に向かって、先輩ってそんなにえらいのか。俺の不満はそこにもあった。乾さんは本橋さんを止めて、俺に言った。
「今は先輩と後輩として話してるんじゃないよ。対等の立場で議論してるんだよな」
 幸生と本庄さんもいて、俺たちを見ていた。幸生は言っていた。
「章が乾さんと対等の立場になんかなれるわけないじゃん」
「そうなのか? そんなにちがうのか」
 本庄さんが問いかけ、幸生は言った。
「ちがいますったらちがいます。天使と悪魔ほどに、猫と狼ほどにちがう。俺は狼よりも猫のほうが好きだから、猫と虎ってところかな。猫と虎だったらどっちも好き。だけどさ、章、猫は虎に挑んでも勝ち目ないよ」
「乾さんは虎なのか。虎ほど強くもないだろ」
「虎と闘ったら乾さんだって負けるだろうな。野獣には口は通用しないもんね」
 こうやって険悪な雰囲気を丸くしようと、幸生はいつも話しを別方向に導こうとする。本橋さんは怒っていたようだが、気が抜けたらしくて、虎とライオンが戦ったらいずれが勝つ? だなんて話しにそれていった。
 そんなだったりあんなだったりして、俺は先輩に怒られてばっかりで、いつもいつでも幸生が丸め込んでくれた。幸生だって時には怒るのだが、あいつの怒りはどこまでシリアスなのか読めなくて、俺も気が抜けそうになる。
「乾さんに向かってそんなふうに言うなんて、ユキちゃんが許さない。かかってきなさいよ」
 この口調で言われると、飛びかかってもいけないではないか。
「おまえ、怒ってんのか? ふざけてるんだろ」
 本橋さんが言って幸生の頭をつつき、乾さんは言った。
「ユキ、俺のために怒ってくれてるんだね。女の子なのに章にそうやって腕ずくでまで怒ってくれて、ありがとう。おいで、ユキ」
「きゃああ。隆也さんっ」
 ふと気づくとやっていた、乾さんと幸生の芝居開始。学生時代にもやっていたのだろうか。これだけは、俺はそのころを見たいとも知りたいとも思わない。幸生は黄色い女声を上げて乾さんに飛びつき、乾さんはすいっと身をそらす。
 勢い余ってずでーんところんだ幸生を、本庄さんが助け起こしてやる。本橋さんはあーあ、やれやれ、と言いたげで、俺は幸生を蹴飛ばす真似をする。幸生は本庄さんの腕にすがってわざとらしい喘ぎ声を出していた。
「抱き起こしてくれるのも隆也さんがいいのにな。隆也さん、ユキをあなたの胸で泣かせて」
「明日な」
「明日だったら涙は止まってるのっ」
 もはや笑うしかない。幸生がはじめて乾さんは半分だけ乗って、この芝居で俺の気持ちをほぐしてくれているのだと、いつしか俺も気づくようになっていった。


 夜中の公園でふたりだけになったときに、乾さんが言いかけた。
「章……おまえって俺を……」
「なんですか」
「いや……男同士で言うようなことでもないか。いいよ」
 男同士で言うようなことではないのだったら、男の乾さんには言われたくない。言われたら薄気味が悪い気がして、じゃあ、さよなら、と言って帰ったのだが、気になっていたから幸生に尋ねた。
「男同士では言うべきではない言葉? 章、俺さ、最近になって気づいたんだよ」
「おまえが気づいたってのはなんだか知らないけど、それを質問してるんじゃねえだろ」
「……苦しいんだよね。苦しめてるんだよね」
「なんの話し?」
「ううん、いいんだ」
 質問に答えてもくれていない。幸生が気づいたのがなんなのかも言っていない。なのに幸生はそれきり口を閉ざした。
 だからなんなのか、乾さんが言いたかったことも、幸生が言いたかったことも宙ぶらりんのまんまで、俺は長く長く長く、乾さんを好きになったり嫌いになったり、このかっこつけ野郎と思ったり、妙に優しくてあったかいんだよな、と思ったり、極端まで揺れては揺れ戻しを繰り返し続けていた。
 ちょっとだけつきあった女の子に、乾さんのみならずフォレストシンガーズのみんなの悪口を言い散らした。幸生には先輩たちの不平不満をぶちまけてきた。本橋さんやシゲさんにも、乾さんなんか嫌いだ、とはっきり言ったりした。
 面と向かってはめったに言えなかったけれど、時がたつにつれて、乾さん相手にだって多少は言うようになった。そんなふうにして、あれから何年たったのだろうか。
 フォレストシンガーズがプロとしてデビューし、どうしてもどうしても売れない時代を経て、すこしずつすこしずつ売れて俺の気持ちも楽になっていった。ロックにこだわりたがるてめえとの折り合いもつけられるようになった。
 シゲさんが結婚してお父さんになり、本橋さんと美江子さんが結婚し、俺は女の子にふられ続けて、三十歳をすぎた。
 ちっとは売れて有名になって、稼ぎも増えて広い部屋に住めるようになった今日このごろは、別件の厄介ごとが増えてきてはいるのだが、それでも俺は楽になった。ある面は気持ちが軽くなって、ふっとあの夜、アマチュア時代の乾さんと幸生が言った台詞を思い出した。
「覚えてるか、幸生」
 あの夜とその翌日の、乾さんと幸生の台詞を口に上せる。なぜだかひどく鮮やかに俺は覚えていた。
「ああ……あれ。おまえも苦しかったんだろうけどさ……」
「乾さんとの俺の身勝手な確執ってやつで? 苦しかったのは俺だけじゃなくて……」
 がんっと脳天を殴られた気分になった。
「……そうだったのか?」
「遅いよ。今ごろになって気づくなんてさ。章はシゲさんやリーダーほどに鈍感じゃないだろ」
「おまえは十年前から気づいてたのか」
「ぼんやりとはね。だからさ」
 あのとき、乾さんが言いたかったのは?
「おまえは俺が嫌いだろ」
 だったのか、嫌いか? と訊きたかったのか。
 言わなくても乾さんは気づいていた。あの乾さんなんだから、説教しすぎて、叱りつけすぎて、章は俺を嫌ってる、と早い段階で気がついていた。それからだって俺は乾さんを憎々しげに見ていたし、時には口にも出したから、気づかないわけがない。
 幸生は俺の気持ちにも乾さんの気持ちにも気づいていた。俺が乾さんに傷つけられて苦しかったのは知っていて、乾さんだって……と言いたかったのか。
「そんなおまえがさ、クソ生意気にも乾さんの気持ちを知って……知ってたんだろ? だからああやって……」
「その気持ちってのは?」
 その質問にも幸生は答えてくれなかった。
 乾さんの気持ち? 美江子さんに対する気持ちか? 幸生も知っているのだろうか。本橋さんと美江子さんが結婚すると決まって、あのころに、俺は乾さんから打ち明けられた。俺も美江子さんに……なんて、ちょっとだけ思ったけれど、乾さんの気持ちは静かに深かったのか。
 だから俺は、幸生に言わせればクソ生意気にも、あの乾さんの気持ちを斟酌して、同情に近い気分を抱いた。幸生はきっとそれを言っているのだろうが、確認なんかしなくてもいい。
「乾さん」
 スタジオで言ってみた。
「トロピカルフルーツの食えるところに連れていってあげますよ」
「俺をおまえが連れていってくれるのか。フルーツパーラーにか」
「本場に行きましょうよ。今度の休暇に」
「おまえと俺が? 龍を連れていってやれよ」
「やだよ。あんなの」
「女と行け」
「乾さんと行きたいんだよ」
「俺は行きたくないよ」
 なんなんだ、あれは? と本橋さんが幸生に問いかけ、幸生がにやついているのが見える。幸生はなんだって覚えているのだから、稚内時代の俺と龍との約束と結びつけているのかもしれない。
「俺とふたりでは行きたくないか。そんなら、みんなで南の島でのバカンスってどうですか」
「おまえが金を出して連れていってくれるのか」
「いくらかかるのかな。うん、大盤振る舞いするから、行きましょう」
「罪ほろぼし?」
 にたにたっと幸生が問い、シゲさんは首をひねっている。本橋さんも怪訝そうにしていたが、乾さんは言った。
「幸生は学生のころには後輩に握り飯かなんかおごってやって、大盤振る舞いだって言ってたよな」
「ですよね。それが今やみんなを引き連れて、南の島で豪遊するってんだから、豪華版の大盤振る舞いだね。章、俺はついていくよ」
「章の金じゃなくて、みんなで割り勘で行こうぜ」
 本橋さんが言って、俺の言葉は今日も宙に浮く。
 罪ほろぼしなんかじゃないけど、みんなで純粋にプライベートな南の島での休日。いいんじゃないかな。十五周年記念ライヴは南の島でやろうか。目を閉じると、南国の海辺でのフォレストシンガーズライヴが浮かんできた。
 一年目から何年かのデビュー記念日には、記念行事をやるほど売れてはいなかった。いやな奴にいやがらせを言われた記念日もある。本橋さんの部屋で仲間うちだけでパーティをやった日もある。気分が滅入っていただけの日もあった。
 売れてしまえば過去はいい想い出になるのだと、こうなってようやく俺も知った。あのころの俺にも教えてやりたい。十五周年ライヴのステージではなんの歌を歌おうか。

「若かったあのころ
 なにも怖くなかった
 ただ、あなたのきびしさが怖かった」

 だったりして? もと歌は「あなたの優しさ」だが、俺は乾さんのきびしさが怖かった。なにも怖くないわけでもなかったけど、乾さんに叱られるのが一番怖かった。怖くて……それでいて、だったのも、今となればちゃんとちゃんと知っている。
 だからって、乾さんにごめんなさいだとかありがとうだとか言わなくても、乾さんだって知っている。乾さんにはなんだって見抜かれて見透かされて、そうして見守ってもらった。叱咤されて激励されて、たまにはひっぱたかれて、俺をここまで連れてきてくれた。
 口に出しては言わないのも若かったころとは変わってないけど、乾さんにも本橋さんにもシゲさんにも、美江子さんにも社長にも、その他いっぱいいっぱいのひとに、愛を込めて歌おう。俺の不器用な愛を、みんなに捧げたい。
 レゲエがいいかな。南国の島で歌うに似合いのレゲエソングを書こうか。幸生に作詞を頼んだら、俺の気持ちを読んで感謝の歌にしそうだから、そんなのはいらない。どこかにひねくれ章は残っているのだから、俺は俺らしい歌を書くんだ。
 さりげなく忍び込ませた感謝の気持ちを、俺のロッカー魂に乗せて歌おう。ソロはもちろん木村章。ギターの練習もしよう。
 十五周年のころには尻すぼまりになって売れないシンガーに逆戻りしていないように、これからだって上昇していけるように。若かったころに空を見上げて誓ったように、ロッカーではないにしても、俺は俺の、フォレストシンガーズ全員の一番星の五分の一をこの手につかもう。

END





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