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小説21(遠い恋のリフレイン)

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マネージャ
フォレストシンガーズストーリィ・21

 「遠い恋のリフレイン」

1

 六人そろって初詣だなんて、初のできごと。十八の年に知り合った本橋くんや乾くんとは今年の春になると七年のつきあいになるけれど、彼らとも来たことはない。
 駆け出しシンガーズのフォレストシンガーズと、今年中には正式に彼らのマネージャーになると決まってはいるものの、現在は他のミュージシャンについて修行をしたりもしている駆け出しマネージャーの私には、暮れからお正月にかけては初体験のできごとが目白押しだった。年末年始に帰省するなんて思いもよらない日々で、私も東京の街をほうぼう駆け回ってお正月を迎えた。
 せっかくの初詣なんだから、せっかく六人そろっているんだから、振袖を着たかったな、とは思う。けれど、振袖は栃木の親元に置いてあるのだし、届けてもらってもひとりでは着られない。美容院に着付けの予約を入れる時間があろうわけもなく、昨夜だって仕事をしていたんだから、呑気に晴れ着なんか着ていられない。休みは今日だけだ。
 平成XX年一月三日。フォレストシンガーズ二年目の新春を迎えて、混雑した神社の境内を歩きながら、私は前後して歩いている彼らを見ていた。
 紺のダウンコートにジーンズの本橋くん、ダークブラウンのダッフルコートにジーンズのシゲくんは、コートの中には普段着のセーターを着ている。幸生くんは真っ赤なコートにしゃれたチェックのマフラーを巻いて、マフラーに合わせたチェックのパンツを穿いている。章くんは白のコートに黒い革パンツ、ブーツ、ロッカーだった昔をひきずっている。
 年下のふたりはお正月らしいおしゃれをしているけれど、本橋くんとシゲくんは常となんにも変わらない。そこが彼ららしいともいえるのだが、乾くんはダンディだった。
 二十四歳なんてのは大人の男性ではなくて、まだまだ「男の子」だ。同い年の私から見てもそうだし、世間一般的にも大人とは見てもらえないだろう。乾くんは中身は大人びているけれど、ほっそりした肢体も顔立ちも若々しい。夏でも冬でも清々しく涼やかな雰囲気をまとっている。
 身にまとっているのはグレイのコート。コートの下はシルバーグレイのスーツ。コートの胸元から紫系のプリントのスカーフが覗いていて、人目を引く。ネクタイではなくてスカーフなのが、乾くんの美学なのだろうか。神社近くの駅で待ち合わせて会ったときにも、乾くんが言ってくれた。
「ミエちゃんのサーモンピンクのコートは素敵だね。今日はジーンズじゃなくてワンピース?」
「お正月だものね。着物が着たかったんだけど、無理だったし」
「残念だな。ミエちゃんの晴れ着姿が見たかったよ」
 横から口出しした本橋くんは、いつものごとく憎まれ口をきいた。
「おまえが着物なんか着てきたら、帯が苦しくてメシが食えないってうるせえだろ。歩くのだってとろくなるんだろ。それで充分だ。行くぞ」
 まじまじと全員を見比べていた幸生くんは言った。
「今日の美江子さんはフェミニンでとっても可愛いですよ。乾さんとデートってのがいちばん似合うかな。そしたら俺たちはなんだ、章?」
「まだ全然売れてもいないんだから、六人で歩いてても誰も気にもしないよな。リーダーと本庄さん、幸生と俺が別々に初詣に来た、彼女もいないかわいそうな男ふたり組。そのへんが妥当なんじゃねえの」
「言えてる。そっちのふたりとこっちのふたりは雰囲気がちがいすぎる」
 だよな、と乾くんも苦笑した。
「正月だってのに本橋もシゲも……ま、いいか。それでこそおまえたちだ。シゲは服なんかより食い気だもんな」
「そうですよ。今日は昼に豪華な天丼が食えるってんで、朝メシはヌキで来たんですから」
「予約しておいたよ。シゲくん、食いっぱぐれはないから安心していいからね」
 誰も帰省はしていない。みんなが独り暮らしなので、おせち料理もお餅もないお正月になっている。暇があっても彼らがそんな準備をするはずもないだろうし、暇なんかなかった。だから今日は、私がお昼ごはんをごちそうしてあげるからね、と約束していた。去年の収入は私がいちばん多かったはずなのだから。
 お昼前の神社は、老若男女であふれ返っていた。一杯機嫌で真っ赤な顔をしたおじさんたちもそぞろ歩いていて、下品な胴間声を張り上げていたりする。人ごみの中を千鳥足で歩いていた中年男性が、よちよち歩きの女の子に突き当たりそうになって、私は思わず彼の肩を突いた。
「……なんだよぉ」
「足元に注意して下さいね。見えてないんですか。子供だって大勢歩いてるのに」
「子供? いないじゃないか」
「お父さんが慌てて抱き上げて歩いていきました。もうちょっとでころぶところだったんですよ。こんなにちっちゃな女の子」
 腰のあたりを示してみせると、男は吐き捨てた。
「そんな赤ん坊をひとりで歩かせる親が悪いんだ。知るかよ。それよりあんた、俺を突き飛ばしておいてなんだ、その態度は」
「あなたがよくないんです。突き飛ばすってほどでもなかったけど、あのまんまだったら女の子がころんで怪我をしてますよ」
「てめえみたいな小娘に……う?」
「小娘にでもわかることが、いい大人のあなたにはわからないんですか」
 私には高圧的だった男が、乾くんの顔を見て怯んだ。
「あなたがころばせそうになった女の子はいなくなったから、あやまってもらう必要もなさそうですけどね。注意して歩いて下さいね。俺の連れになにか? 文句があるんでしたら俺がお相手しますよ」
「……うるせえんだよ」
 ぶつぶつ言いながらも男は歩み去っていき、乾くんが言った。
「行きましょうか」
「……行くけどね、ほんとにもう男って……私にはあんなで乾くんにはあんなで……腹が立つ」
「酔っ払いは処置なしだよ。気にしないに限る」
 いつの間にか他の四人は人ごみにまぎれてしまっている。乾くんとふたりで歩いていると、幸生くんの言った通り、カップルに見えるのかと思うと笑えてきた。
「休みは今日一日なのに、彼女に会わなくていいの?」
「彼女はいないから」
「嘘ぉ」
「ミエちゃんこそ、彼とデートしなくていいの?」
「彼なんかいないわ。今日のところは乾くんと臨時カップルになろうか」
「俺でよろしければ」
 彼が差し出した腕に腕をからめると、ますます笑ってしまった。
「乾くんこそ、私なんかでよろしいのかしら。このコートってよく見たらそんなに上等でもないよね」
「安物だよ。上質のコートを買うほどの金はない」
 なのに高価な品に見えるのが、乾くんの着こなしのよさなのだろう。彼は他の四人とは天性のセンスに差がありすぎる。なにによってこうなったんだろう、と私はよく悩むのだった。
 スレンダーだから、背丈は実際以上に高く見える。金沢生まれの田舎者だと自称しているけれど、彼には都会的な香りがある。理性の香りもあって、鋭さと優しさを兼ね備えた雰囲気を持っている。本橋くんやシゲくんとの差はそこだろうか。かっこいい青年そのものなのだけど、自惚れさせると始末に負えなくなるから言わないで、と幸生くんに釘をさされている。よって私は、乾くんはかっこいいんじゃなくてかっこつけなのよ、と常々言っていた。
 本橋くんだってかっこつけたら決まるのに、男が服装になんかかまってられるか、って言う。シゲくんは純朴朴訥だけど、ステージ衣装姿はなかなかかっこいい。幸生くんや章くんには彼ら独自の美学にもとづいたおしゃれ哲学があるようだけど、乾くんほどかっこよくないのは、子供っぽいからだろう。
「だよね。それなりに仕事はこなしてたけど、収入ははなはだ少なかった。新米シンガーはそんなものかな」
「そんなもんでしょ。ミエちゃんには俺たちの収入を熟知されてて、彼女になってもらったらやりにくそうだな。先月はこれだけ稼いだってのに、あのお金はなにに使ったの? って怒られたりして……」
「すべて生活費で消えました、ってね」
 しばらく歩くと、道端に幸生くんがいるのが見えた。先に来て待っていてくれたらしい。あとの三人は? と見ると、幸生くんは肩をすくめた。
「リーダーとシゲさんが腹減ったって言い出して、たこ焼き買いにいきましたよ」
「おなかをすかせておかないと、お昼がおいしくないのにね」
「彼らはたこ焼きごときで腹いっぱいにはならないから大丈夫です。ほぉ、やっぱり、お似合いのカップルだなぁ。俺には見えなかったんだけど……」
 なにを言おうとしたのかと思ったら、たこ焼きをほおばりながらやってきた本橋くんが言った。
「乾、なにかもめてなかったか?」
 背の高い本橋くんにだけ見えていたらしいのだが、乾くんはかぶりを振った。本橋くんは、乾くんとからめたままの私の腕を見ていた。
「なんてことはないよ。ミエちゃんが義憤に駆られて酔っ払いに注意しただけだ」
「……山田、危険な真似はすんなよ。義憤だかなんだか知らないが、正月早々他人ともめるなよ」
「よく知りもしないでよけいなことを言わないで。だいたいあんたはえらそうなのよ」
「……美江子さん、本橋さんとまでもめないで下さいね」
 言ったシゲくんに、ほっといてよ、と言い返して、私は乾くんの腕から腕を引き抜いて、先に立って歩き出した。
「おーい、山田、おまえも食わないか?」
「いらない」
「ほらぁ、美江子さんが機嫌を損ねちゃったじゃん。リーダーが悪いんですよ」 
 幸生くんが言い、章くんも言った。
「義憤って、なにをしてたのか俺にも見えなかったけど、美江子さんってそういうひとでしょ。ね、乾さん?」
「そうだよ。本橋がえらそうに咎めるような問題じゃない。ミエちゃんにあやまってこい」
「……わかったよ」
 早足で追いついてきた本橋くんが、つまようじに突き刺したたこ焼きを差し出した。
「食えよ」
「……本橋くんがあやまるってこうするの? いらないって言ってるでしょ。私のおなかの容量は本橋くんやシゲくんほどはないの。そんなの食べたらお昼が入らなくなるよ」
「嘘つけ。これしきで」
「東京で売ってるたこ焼きはおいしくないからいらないの」
「それが本音か。そんなら俺が食う」
 ぽいっと口に放り込もうとしたたこ焼きがすべって、私のコートの肩に落っこちた。
「わっ、ごめん!! うわわ、汚れた……」
「なにしてくれんのよっ。馬鹿」
「ごめんな、山田、許せ」
「やっちゃったものは仕方ない。たこ焼きごときで怒ったら、山田美江子の名がすたる」
「そうかぁ? うん、そうだな、ごめんな」
「いいよ」
 うしろから歩いてくる四人が笑っている。シゲくんが言った。
「そうそう、東京のたこ焼きはまずいですよ。俺は三重県の出でしょ。ガキのころに親に都会へ連れていかれるとなると、名古屋にも大阪にも行きました。俺は大阪のほうが好きだったな。大阪のほうが食いものがうまい。なんたってたこ焼きは大阪だ。今度大阪に行ったら、たこ焼きを食いにいきましょう」
「シゲ……大阪はたこ焼きだけか」
「え? 乾さん、大阪には……いいですよ、それは」
 大阪になにかあるの? と本橋くんを見ると、さあ、俺は知らないけど……と首をかしげてから言った。
「シゲはまさに食い気の男だな」
「そうだね。本橋くんはなにの男?」
「俺も食い気が一番だ」
「それもあるけど……もう、また酔っ払いがいる」
「山田、こっち来い」
 すこしばかり離れて歩いていた私の腕を、本橋くんが引き寄せた。よろよろっと歩いてきた酔っ払いの老人が私に近寄ってきて、手を伸ばそうとした。
「……本橋くん、相手はおじいさんなんだから、乱暴したら駄目だよ」
「乱暴はしないよ。おじいさん、なにをしようってんですかね。その手をどう動かすかによって、俺にも考えがあるんですが」
「いやいや、なにもしないよ。綺麗な奥さんだね。いいねぇ。ん? 夫婦にしちゃ若いか。恋人同士かな。いいねぇ、わしにもこんな年頃はあったんだが……お嬢さん、ちょっとだけさわっちゃいけないかね?」
「いやです」
「……そうだろうね」
 勝手に誤解して、老人も歩み去っていき、うしろにいた幸生くんが言った。
「リーダーと美江子さんもカップルに見えるんだね。美江子さん、今度は俺と歩きましょ」
「いいよ」
 本院までの道のりは長い。込み合っているので歩みが遅くなってなおさら長い。幸生くんのご要望に応じて、本橋くんと幸生くんが入れ替わった。
「腕をどうぞ」
「……幸生くんには彼女はいないの?」
「いませんよぉだ」
 ほっそりした腕。乾くんの腕も細めではあるけど、幸生くんよりはがっしりしていた。私は幸生くんの腕と腕をからめて、見上げなくても話せる位置にある彼の顔を見つめた。
「今日の美江子さんは背が高い。ブーツのヒールのせいだね。背が伸びて俺を追い越したのかと思ってぎくっとしちゃいましたよ。それ以上伸びないでね」
「もう伸びないよ」
「美江子さんは彼氏は?」
「いない」
「ほんとかなぁ」
 ちらりと肩ごしにうしろを見て、幸生くんは言った。
「シゲさんも章も、美江子さんといっしょに歩きたいとは言わないだろうな。したくても言わないんだから」
「したくないんじゃないの?」
「したいでしょ。男同士で歩いててなにが楽しいんだよ。美江子さんみたいな美人がいっしょにいても、男は五人もいて独り占めできない。シゲさんは照れちゃうだろうけど、章はやりたいに決まってるんだ。美江子さん、章と替わっていいですか」
「いいけど……」
 またしばらくすると、幸生くんと章くんが入れ替わった。
「この間、函館でね……」
「ああ、歌のショーだったね」
「聞いてないでしょ? 幸生と俺はおんなじ女の子を好きになっちゃって……」
「あらら、喧嘩したの?」
「見事ふたりともふられましたから、喧嘩ってほどではなかったんですよ」
 腕をどうぞ、とは言わない章くんは、苦笑いして続けた。
「乾さんがこんな歌を作ってくれました」
 タイトルは「She's my girl」、幸生と俺の掛け合いソングなんですよ、と前置きして、章くんは小声で歌った。

「Which do you choose?
 He or I? I or He?

 きみを腕に抱けるのは
 あいつ? それとも俺?

 I love you
 It is quite unnecessary
 Only you the wanted one
 You are mine

 愛してる
 何度でも言うよ 愛してる
 きみを My Girl と呼べるのは俺だよね
 囁いて、その声で
 
 好きよ、あなたが好き
 そう言って俺に
 言ってよ、俺に」 

 高い高いキーの歌。幸生くんと章くんのデュエットを本格的に聴いてみたい歌だった。
「……だけど、章くんにはえっちゃんっていう彼女がいるんじゃなかった?」
「悦子はただの友達ですってば」
「章くんはそう思ってても、えっちゃんは気を悪くしそうだね。私がいるのに章くんは別の女の子に恋したなんて」
「そんなの知らないよ」
 すねたように言ってから、じゃ、今度は本庄さんね、と章くんは言った。本庄繁之くんの呼び名はもっぱら「シゲ」なのだが、章くんはシゲさんとは呼ばない。章くんにはどこかしら遠慮があるのだろう。幸生くんに対しては遠慮会釈もないけれど、先輩たちには距離を置いている。私については「女のくせに」と思っている。俺は男らしくない、と言う章くんは、変なところだけが男らしいのであるらしい。
 悪しき意味での「男」らしい章くんは困ったものだし、「男」以外のなにものでもない本橋くんも時には困りものだし、乾くんは性格がまがってて扱いづらい。幸生くんは得体の知れないぬらりひょんみたいで、私はこれからも苦労しそうだけど、シゲくんはどう考えているんだろう。照れた顔をして私の横に並んだシゲくんに言ってみた。
「章くんは暴言、乾くんは詭弁、幸生くんは冗談暴走、本橋くんは腕力主義でしょ。シゲくんは苦労するよね」
「苦労ですか。俺なんかはなんでもかんでも本橋さんと乾さんに丸投げで、苦労なんぞなんにもしてませんよ。俺には歌以外の能はないんですから、この声と歌で貢献します。他にはなにもできません」
「謙遜しすぎ。シゲくんのように穏やかなひともいないとどうしようもないのよ」
「穏やかですかね、俺は」
「そうじゃないの? 本橋くんは穏やかなんて薬にしたくもない性質だし、乾くんは一見温和だけど、かっと燃えるとたぎってくるし、章くんはかなりの激情型だし、幸生くんは止まらない口を持ってる。ヒデくんもけっこうかっかするタイプだったじゃないの。だからこそ、結婚となるとわき目も振らずに突っ走ったんだよ」
 一途に純に結婚にまっしぐら、も悪いことではないけれど、回りの迷惑かえりみず、のヒデくんも困ったものではあったと思う。ヒデくんはどこかで、フォレストシンガーズの消息を耳にしているのだろうか。今となっては彼には遠い追憶でしかないのだろうか。永遠に同じではいられないのが人間関係? そしたら私たちの未来は? と考えかけて頭を振った。
「ヒデくんについてはね……シゲくんがいちばんよく知ってるんだよね」
「知りませんよ。ヒデは……いえ、いいんです。まあ、俺は他のみんなと較べたら普通だから」
「普通はいけないことじゃないよ。他の四人が変わりすぎてるの。シゲくんはそれでいいんだからね。私も前にはごたごた言ったけど、シゲくんといると私も穏やかな気持ちになってくるのよ」
「褒めてもらってるのかな」
「もちろん。ねえ、大阪になにかあるの?」
「たこ焼きでしょ」
 がっくりした。
「とぼけてるんだか天然なんだか……」
「天然です。俺は天然ボケです」
「……自分で言わないでよ」
 しかしまあ、シゲくんにはそんなところがたしかにあるなぁ、と笑っていたら、ようやく神社の本院が見えてきた。見渡す限りの人、人、人、あそこに入っていけるんだろうか、と呆然としていると、シゲくんが言った。
「お賽銭を投げるんでしょ? 美江子さんの遠投能力はいかがなものですか」
「ソフトボール投げっていう体力テストがあったよね。私は十数メートルだった。そりゃぁ、遠投能力は少年野球経験者のシゲくんがトップでしょ。近づけないんだったらここから投げる?」
「人の頭に当たりますよ」
「そうだよね。どうしよう」
 諦めるのも癪だしなぁ、と思っていると、本橋くんがそばに来て言った。
「シゲ、肩車してやるから思い切り小銭を投げろ」
「狙いがそれて人の頭に当たる恐れがあるって、シゲくんは言ってたのよ」
「いや、俺もね、美江子さんに遠投能力を尋ねたのは、そうしたらいいかなと思ったわけで……だけど、悪くしたら人の頭に危害を加えるからやめたほうがいいですね」
 まさか、ミエちゃんを肩車できないだろ、と乾くんは言い、幸生くんも言った。
「シゲさん、俺を肩車して。狙い過たず投げてみせます」
「ほんとか?」
「やってやろうじゃん」
 張り切っちゃって、まったく子供なんだから、と見ていると、幸生くんは本当にシゲくんの肩に乗っかった。
「おー、背が高くなっていい気分だ」
「やれそうか。おし、じゃあ、章、おまえは俺が肩車してやるから、幸生と競争で投げろ。どこまで飛ばせるか勝負だ」
「勝ったらなにか報酬が?」
「負けたほうが晩メシをおごる」
 そんなの報酬じゃなくて罰じゃん、と幸生くんが言い、乾くんは言った。
「ミエちゃん、俺たちはなるだけ前に出て賽銭を投げよう。それとも、あなたは俺が肩車しましょうか?」
 やってみたい気もするけど、スカートだしね、無理だね、とうなずいて、私は乾くんとともにその場を離れた。振り向いてみたら、本橋くんの肩の章くんと、シゲくんの肩の幸生くんが、せえのっ!! と叫んでお金を投げた。幸生くんが投げたお金は、人々の頭をはるかに超えて賽銭箱の中央まで飛び、章くんが投げたほうは、あさっての方向に飛んでいって見えなくなった。
「俺の勝ちっ!! 章、参ったか」
「くそぉっ、もういっぺんやりましょう」
 ほんっとに子供だねぇ、と呟いたら、乾くんはくすくす笑った。
「実は俺もやりたい。ミエちゃん、肩車してくれる?」
「力持ちだったらやってあげたいけどね。無理だわ」
「そうだね。ミエちゃんを虐待してるように見えかねない。俺たちは正当な手段でやりましょうか。行くよ」
「こんなにすごい人垣をかきわけるの?」
「やってやれないことはない。これしき突破できないようでは……」
「世の荒波を漕ぎ分けて、成功するなんて到底おぼつかないぞ、でしょ?」
「そうだよ。行こう」
 新年早々なんやかんやとあって、私たちらしいお正月の一日になりそうだった。


2

 初詣からの帰り道、歌を書いたから見てほしいと幸生くんが乾くんに頼み、ふたりは乾くんのアパートに行くと言った。
「じゃあ、ミエちゃんは気をつけて」
「美江子さん、お疲れさまでした。もひとつおまけにごちそうさまでした。お先でーす」
 ばいばーい、と乾くんと幸生くんを見送り、明日は仕事だから早めに帰って寝たほうがいいんじゃない? と私が言う前に、本橋くんは残った四人を見回して言った。
「おまえたちは俺んちに来るか?」
「本橋くんちに行くとまた飲もうって話しになるんじゃないの? あんまり飲んだらよくないよ」
「そんならおまえは帰れよ」
「帰るよ。シゲくんと章くんはどうするの?」
「……俺も帰ります。走りすぎて疲れました」
「だったら章、おまえが山田を送っていけ。シゲは俺んちに来い。決定、行くぞ、シゲ」
「は、はあ……章、大丈夫か?」
「……大丈夫に決まってるでしょ」
 少々気を悪くした様子で章くんは言い、シゲくんはためらいがちに、本橋くんについていってしまった。私は本橋くんの背中にあっかんべをしてから、章くんと歩き出した。
「……まったくもう、リーダーだっていうのに、本橋くんもいつまでも子供なんだから。なに、章くん? なにを笑ってるの?」
「いえね、美江子さんのそのあっかんべーってのは大人なんだろうかと……」
「だって、腹が立つんだもの。腹が立つからあっかんべ、ってのはね、腹が立つからぼかっ、ってやるよりは大人なのよ」
「なるほどね。俺も本庄さんに大丈夫かなんて訊かれてむかついたから、あっかんべってやればよかった」
「やればよかったのに」
 つきあいの長い本橋くんや乾くんには時として腹が立つけど、気心が知れているから喧嘩もしやすい。シゲくんは私にはいつだって遠慮がちだし、幸生くんはぬらりひょん体質でつかみどころがないとはいえ、他人とは争わないのがポリシーででもあるのか、章くん以外のひととは喧嘩なんかしない。みんな先輩だからなのかもしれない。
 シゲくんはちょっとばかりやりにくいところがあるけど、彼のぬぼーっとした性格のせいなのだろうか。私は本橋くんや乾くんや幸生くんみたいに、打てば響くタイプのほうがつきあいやすい。章くんは決してぬぼっとはしていないのだが、ふたりきりで夜道を歩いていると、なんとなく気詰まりになってくる。仲間たちの中ではもっともつきあいの短い章くんとは、なにを話せばいいんだろう、と考えていると、章くんがぼそりと言った。
「俺なんかが送っても美江子さんは安心できませんよね。幸生だったら俺と似たようなもんかもしれないけど、あいつは俺よりも度胸だけはあるし、他のひとだったほうがいいんでしょ?」
「そんなことないよ。章くんも男だから」
「皮肉ですか」
「皮肉じゃないって。たとえば、章くんがナンパをするとする」
「俺は幸生じゃないんだから、無闇やたらにナンパなんかしません」
「無闇にじゃなかったらするんだね?」
 ええー……たまには……ええー……高校のころなんかは……とむにゃむにゃ言っている章くんに、私は言った。
「そういう場合、女の子ばかりで歩いてるひとに声をかけるでしょ? 男性といっしょに歩いてる女性をナンパしようとはしないよね?」
「そりゃそうですが……」
「ナンパじゃなくてもそうなんじゃない? 私も今、男性の章くんと歩いてるんだから。わかる? 章くんは変な男性が私に声をかけようとする予防になるのよ。誰があんたなんかに声をかけるんだよ、って思ってる?」
「思ってませんよ。美江子さんは……あっそ、要するに俺は虫よけスプレーか」
「おー、章くん、うまいこと言うじゃん」
「……くんがついてなかったら幸生の台詞そのまんま」
「そうだよー。真似したんだもん」
 ちぇ、どうせどうせ、とひがんではいるようだけど、章くんが話の糸口を作ってくれたので、駅までの道のりで話題ができた。
「ナンパ経験あるの?」
「美江子さんは? されたことはあるでしょ?」
「なくもないね」
「ひっかかったことは?」
「ありません。質問してるのは私だよ。ひっかけたことあるの?」
「ありません」
「ほんとかな? 幸生くんはあるんだよね」
「あるんじゃないかな。ナンパはパチンコ玉の数ほどやったそうだし、だからつまり……やめよう。本人のいないところで言うな、って怒られる」
「乾くんに?」
 情けない顔でうなずく章くんを見て、仲間たちについて考えた。乾くんは、相手が女となると物腰がやわらかになる。女を対等の人間だと見てないせいだ、なんて決めつけると、そんなことはない、と真顔で否定するけれど、そういうところはあると私は思っている。
 だからすなわち、なのかどうか、乾くんの手きびしい台詞は、特に本橋くんと章くんに向けられる場合が多い。シゲくんは私をも含めて先輩にはへりくだるし、幸生くんは男ばかりだとどうなるのかよく知らないけど、章くんとはまったくタイプがちがっていて、乾くんの峻烈なる舌鋒にも対処できるというのか、うまくかわせるというのか、たぶんそうだろうと思う。
 本橋くんは乾くんとは同年齢で、本橋くんサイドに立ってみれば、乾くんとも対等にやり合える。口では乾くんがはるかに上だけど、乾くんも後輩たちの手前、リーダーをとことん口でやっつけるということはしないように見える。もちろん、乾くんと本橋くんがふたりでいるときのことは私の観察外だけど。
 私のいない場所では、シゲくんも幸生くんも乾くんとどう接しているのか、見えないのだから知らないのだが、私の観察はおよそは当たっているのではないだろうか。彼らの中で乾くんの口に恐れを抱いている最たる人物は章くんだ。
 憶測をまじえていえば、章くんは乾くんに叱りつけられて、こっそりだかおおっぴらにだか、泣いてるんじゃないの? だった。たった今の情けない顔を見ても、何度となくびしびし叱られて、口答えをしてもかなわなくて、しまいにはすねてふてくされて……なんじゃないのかな、と私は思う。私が男だったら、男であってこの性格と口の持ち主だったら、乾くんは私にどう出るんだろう?
「だけど、乾くんは暴力はふるわないよね」
「女のひとにはふるわないでしょ」
「男のひとには? 章くん、殴られたことあるの? 本橋くんが幸生くんや章くんをぽかっとやるのは知ってるよ。あれはたいしたことじゃないんだよね?」
「全然たいしたことではありませんが、時々はたいしたこともなくもなく……」
「歯切れが悪いな。本橋くんやシゲくんや乾くんに、本気で殴られたことはあるの?」
「言いたくない」
「言いたくないって……あるの?」
 興が乗れば乾くんにも幸生くんにも負けないほどによく喋る章くん。本橋くんは「うちのお喋り男三人」と評している。が、今夜は急に口が重くなって、返事をしてくれなくなった。
「彼らは先輩だからこそ、章くんはそんなふうに言われると気に入らないのかもしれないけど、立場が上だからこそ、暴力っていう力で押さえつけるのってよくないよね。これも章くんは言われたくないのかもしれないけど、章くんは小柄じゃないの。力では先輩たちには勝てない。女と同じ……うーん、言いにくい。怒ってもいいから言うね。乾くんの持論は聞かされてるから知ってるよ。女は圧倒的に肉体的に力が弱い。男の暴力に対抗するすべは持たない。だから男は女に暴力をふるってはいけない。正論だよね? まちがってはいないよね」
 章くん、無言でこっくり。
「じゃあ、章くんにはいいわけ? 章くんだって肉体的には圧倒的に先輩たちより弱いじゃないの。立場的にも下になる。後輩なんだからね。本橋くんが黙れ、だとか言ってぼかっとやるのだって私は感心しないんだけど、あれはまあ、冗談半分?」
「そんなもんでしょ」
「やっと口きいてくれた。本橋くんのあれには、章くんは腹は立たないの?」
「むかっとしたことはあるけど、慣れました」
「シゲくんは?」
「本庄さんもたまあにね、冗談で幸生を投げ飛ばしたりはしますよ」
「投げ飛ばす?」
「遊び半分ですよ」
 やっぱり男同士だったら、あのシゲくんでさえやっているのであるらしい。ああ、もう、男って……と私は暗澹とした気分になり、むしろ章くんがとりなすような口調になった。
「俺はそういうのは別になんとも思わないし、幸生なんかは楽しんでますからね。ほら、ガキが大人に荒っぽく扱われて、ただし手加減はしてもらって、きゃあ、もっとやって、って感じ」
「もっとやって……?」
「そういうの、ありませんでした? 美江子さんだって子供のころに、お父さんにプロレスごっこしかけて、ふわーっと投げられてきゃあっ、ての……」
「そう言われればわかる気もする。その程度なんだね」
「幸生も俺もガキじゃないから、もうちょい荒っぽいですけどね。近い程度ですよ。俺も高校のころには友達とロックバンドやってて、小突き合ったり蹴飛ばし合ったりしてたし、この野郎、言わせておけば……って取っ組み合いになったり、今も幸生とやってるでしょ? あまり大げさに考えなくても……」
「まあね、荒々しい遊びは男の子同士だと……うーん、わけがわからなくなってきた。そしたらそれはまあいいとしてよ。シリアスな暴力は?」
「乾さんのは口の暴力です」
「うーむ。ますますわけがわからなくなってきた」
 ふたりしてしばし考えながら歩いていくと、章くんが言った。
「俺はたしかに、悔しいけどちびで力が弱いですよ。虫よけスプレー男だもんね」
「章くんが自分で言ったんだよ」
「自覚があるからですよ。けど、美江子さんと暴力沙汰の喧嘩をしたら勝つだろうな。そういうことなんだろうな」
「ひとり合点してるんだ。そうかもしれない。だからいいの? 乾くんには私のほうが言葉の暴力をふるってる場合も間々あるのかもしれませんが、そうよ、私も自覚はあるの。それはそれとして、乾くんは私以外の女にだったら、言葉の暴力をふるうの?」
「知りませんよ。俺が知るわけないでしょ」
 それは知らないのが当然なのかもしれないが、乾くんと章くんの間には、なにかがあったにちがいない。
「章くん、乾くんが嫌い?」
「ストレートな質問ですね。正直、嫌いになったことはありますよ。こんな奴といっしょにやってけねえよ、ってね、幾度も幾度も思った。なのに乾さんときたら……」
「なのに?」
「ありすぎて言えません。うまく言えません。幸生はずーっと乾さんに心酔してるでしょ。本庄さんは幸生とはちがった意味で、本橋さんもまたちがった意味で、乾さんには一目置いてる。俺にはまだわからない。だけど……美江子さんだけだな、きっと」
「なにが?」
「それもごっちゃごっちゃで、考えを整理できないから言えません」
 だけどね、と章くんは呟いた。
「嫌いになることはあるけど、俺だって先輩たちを……幸生もいるし……先輩たちを……って括ってしまえないんだよな。リーダーはリーダーで、乾さんは乾さんで、本庄さんは本庄さんで……俺なんかを……」
「章くん?」
「要するに、俺が馬鹿だからです」
「はっきりしてるのかあやふやなのか、よりいっそうわからなくなってきた。あのね、章くん、キミもシゲくんをシゲさんって呼べば? 呼び名って仲間意識には大切な要素かもしれないよ」
「……そうかなぁ。わかんねえ」
「私もよくわかんねえ」
 あのね、美江子さん、と私の口真似をしたのか、章くんが言った。
「女の子がわかんねえなんて言うと……とっと、乾さんだったらそう言いそうな気がしたんだけど、俺には続きが言えないからやめます」
「言いかけて途中でやめるってずるい」
「乾さんだったらどう言うか、想像してみて下さい」
 暴力の話もあやふやなままだし、私の頭の中も混乱してきたころには駅に到着して、ひとりになって頭の中をまとめてみようかと思っていたら、携帯電話が着信音を響かせた。
「……はい? え? えええ? は、はい、ただちに行きます」
 電話を切って走り出そうとして思いとどまって、章くん、ごめん、ここで別れよう、と言ってから駆け出すと、章くんもついてきた。
「章くんには関係のない仕事の話なの。私の大失敗なの。事務所に行くから」
「俺、帰っても暇だし……ついていったらいけないんですか」
「章くんが来てくれても意味ないんだってば」
「邪魔にならないんだったらついていきますよ」
 心配してくれているのかもしれない。章くんと押し問答している時間が惜しくて、私は地下鉄への階段を駆け下りた。


 現在の私は、フォレストシンガーズの専属マネージャーではない。修行中の身の上であるからして、フォレストシンガーズの仕事もしているものの、社長の方針によってベテランマネージャー氏の補佐役として他のミュージシャンについたりもする。修行のひとつとして、所属事務所の看板でもある杉内ニーナさんの付き人的仕事を担当していた。
 主としてニーナさんの担当をしているのは、ベテランマネージャーの原西さんだ。原西さんはフォレストシンガーズのマネージャーもしてくれている。原西さんのサブとしてニーナさんの仕事のマネージメントをしていて、時間調節をまちがえた。
 ふたつの仕事がかち合ってしまったのは、私の完全なるミス。いいわけのしようもなくて、社長に呼び出された事務所でひたすらに恐縮していた。事務所には社長と原西さんとニーナさん、関係ないのについてきてくれた章くんもいて、章くんまでがうなだれていた。
「木村、派手なコートだな。山田さんは可愛いコートだね。ま、それはどうでもいいんだけど、きみらはデートしてたのか?」
「原西さん、それもどうでもいいでしょ?」
「そうですね、ニーナさん。スケジュールの調整はしたよ。そういうわけで、ニーナさんの代役にはフォレストシンガーズが出演することになった。木村はなにをしにきたのか知らないけど、頼んだよ」
 はい、と章くんは首肯し、ニーナさんは私を、新米は困ったもんね、と言いたそうに見ている。社長は苦虫を噛み潰したような顔をして、今後ともしっかりやれよ、と誰とにもなく言って部屋から出ていった。
「すみませんでした、原西さん、ニーナさん、私の大失態で……」
「失敗ってのは誰にでもあるものだけど、今回は正月早々大変だったよ。ニーナさんにもご迷惑をかけました」
「原西さんはなにも……私が……」
「山田さん、泣いてる場合じゃないのよ」
「泣いてません」
 仲間たちといたときには休日で、ただ楽しくて、そのときにも、章くんとふたりになってからも、したり顔でえらそうなことばっかり言ってた私が……休日も終わろうとしている時間になって発覚したミスを知って泣きたくなっている。泣きたくはなったけど、泣いたらいけない。失敗して泣くなんて、社会人失格だ。顔を上げてニーナさんを見つめると、横合いから原西さんが手を伸ばし、私の腰のあたりを軽く叩いた。
「元気出せよ、新人マネージャーさん」
「はい。わかってますけど、それってセクハラですよ」
「セクハラじゃないだろ。なんだ、その態度は?」
「……すみません。だけど、ミスはミス、セクハラはセクハラです。さわらないで下さい」
「きついねぇ、きみは」
 ヘヴィスモーカーのニーナさんは煙草に火をつけ、原西さんは私を怖い顔で見る。私も原西さんを見返し、章くんはそんな三人を見て目を丸くしていた。
「そういうことを言える立場か? 俺がなにをしたのかは言いたくないけど、ニーナさんだって正月早々大変だったんだよ。社長もあちこちに電話をかけたり頭を下げたり、必死になって動いてくれた。すみませんですむ問題か」
「すみませんではすまないのでしたら、私はなにをすればいいんですか」
「泣いたら可愛げもあるのに、そんなきっつい顔をして、女は得だね。ねぇ、ニーナさん?」
「そうかもね」
 困惑顔のきわみになって、章くんは黙って三人を見比べている。ニーナさんは澄まして新しい煙草に火をつけ、原西さんは言った。
「ちょいとさわったらセクハラだって言われるのか。俺はきみを励ましてやろうと思ってだな……なぁ、木村?」
 言いつつ、原西さんは章くんの胸に手を当てた。
「山田さんに俺がこんなふうにしたらどうなる? 訴えられるか?」
「……原西さん、なにがおっしゃりたいんですか? これから私がマネージャーの仕事をしていく上での心構えですか。ちょっとさわられたくらいでセクハラだなんて言ってたらやっていけないって? このくらい耐えろって? 章くんはついてきてくれただけなのに、なにをなさるんですか」
「いやぁ、こいつに当り散らして発散しようかと……男にだったらいいんだろ? 女ってのはまったく……」
 先だって、フォレストシンガーズが大阪に仕事で出向いた際には、原西さんが同行してくれた。原西さんにお世話になった彼らは、話せるおじさんだよ、と異口同音に言っていた。私にとっては原西さんは先生のような存在だったのだが、今日は憤懣のはけ口でも求めているのか、妙な態度を取っている。
 原西さんの平素のふるまいはよく知らないけど、こんなひとだったのだろうか。こころなしか青くなっている章くんの胸を突いたり腰を叩いたり、脚を蹴ったりして、軽くではあるのだけど、章くんはへどもどしている。ニーナさんは特別にはなにも言わず、煙草ばかり吸っていた。
「マネージャーとしての心構えか。そんなのはそのときどきで柔軟に対応するしかないんだよ。男も女もないんだよ。それでも、山田さんが女だからって斟酌してくれる相手はいるだろうな。おまえがマネージャーだったらそうはいかないぞ。な、木村?」
「はあ、そうでしょうね」
「おまえは歯ごたえのない奴だよな。これでもか」
「原西さん、やめて下さい」
 強めに胸を押されて、章くんがたたらを踏んだ。
「山田さんはそうやって大きな態度を取れる立場か? ニーナさん、俺は腹が立ってきた。殴ってもいいですかね」
「山田さんを? どうする、山田さん?」
「……セクハラなんかよりは、殴られるほうがましです。どうぞ」
「やめて下さいよっ!」
 意外というと失礼だけど、章くんがきっとして言った。
「俺、原西さんを見損なってましたよ。原西さんって腹が立ったからって後輩を殴るんですか。俺はだいたいの事情しか知らないけど、仕事のミスで後輩を殴る先輩なんて、今どきそんな野蛮なのは信じられないな。うちのリーダーだってやりませんよ。俺は今までに何度も何度もミスしてるけど、そんなときに限ってリーダーったら、殴ったりはしないんだよな。いっそぼかっとやられたほうがすっきりするってときには、外に出て反省してこい、だなんて言ったりするんです」
「章くんの言い分はわかる気もする。私も今はうだうだ言われるよりは、殴られたほうがいいのよ。原西さん、やって下さい」
「駄目ですよ、美江子さん」
「章くんが駄目って言ったって、決めるのは原西さんじゃないの」
「そんなら俺がかわりに……」
「なに言ってるの。章くんは関係ないでしょ」
「ありますよ」
 顔を見合わせていたニーナさんと原西さんが笑い出し、原西さんは言った。
「若いねぇ。山田さんは意地っ張り、木村はなーんにもわかっちゃいない。長くやってりゃおいおいわかってくるだろ。今夜はこのへんにしておきますか、ニーナさん?」
「そうね。私は仕事の算段をつけてもらったんだから、異論はないわよ。原西さん、お疲れ」
「ニーナさんこそ」
 しようのない奴らだな、とでも言いたいのか、どんなふうにしようがないのか私には謎だったのだが、原西さんはそんな表情で章くんと私を見て出ていき、今度は私が章くんと顔を見合わせた。
「あのお、今の、なんだったんですか、ニーナさん?」
「さあねぇ。私はシンガーであってマネージャーじゃないから……」
「わかってらっしゃるんでしょ?」
 ニーナさんに迫っている私に、章くんも加勢してくれた。
「普通、原西さんが美江子さんを殴るなんて言い出したら、ニーナさんが止めるんじゃないんですか? この場で原西さんを止められるのはニーナさんしかいないんですから」
「木村くんがいるじゃない? 止めたじゃないの」
「止めようとはしたけど、止められてませんよ。原西さんがひとりで……」
「そうね、変なひとね、彼って」
 うふふと笑って、ニーナさんは言った。
「この業界は一般OLさんの世界とはちがうわよ。山田さんも覚悟を決めておかなくちゃ。セクハラなんてものに対するマニュアルはないんだし、柔軟に対応するしかないっていうのは原西さんの言う通りよ。すぎたことはもういいの。山田さん、明日からしっかりね。木村くん、私の代理出演、よろしく」
「俺たちでいいんですか。俺たちがニーナさんの代役だなんて、先方は納得してくれてるんですか」
「そこまではあなたたちは考えなくていいの。社長がちゃんとしたんだから」
 結局なんの答えにもなっていない返答をしてくれたのみで、ニーナさんも帰っていった。私としては、本当にすみませんでした、と重ねて言うしかなかったのだった。ふたりきりになると、章くんは言った。
「魑魅魍魎がうようよしてる世界なんですよねぇ。先輩たちもだし、俺、やっていけるんだろうか」
「私も……なんて、弱気になっててどうするのよっ。やるしかないっ!!」
「ですねぇ。ニーナさんはそうだろうと思ってたけど、原西さんも魑魅魍魎の一匹か。わけわかんね」
「同感」
 ニーナさんと原西さんは四十代、同年輩だ。ソロシンガーとしてデビューした時期もほぼ同じで、ニーナさんは売れ、原西さんは売れずにマネージャーに転向したと聞いている。ざっと二十年近く、ふたりはこの世界に身を置いている。私たち若輩者がちらりと垣間見たにすぎない業界の裏も表も知り尽くしているのだろう。そこは社長も同様だ。
 すぎたことはもういいの、明日からしっかりね、とのニーナさんの言葉を胸に刻んでおくしかない。長くやってりゃおいおいわかってくる、との原西さんの言葉も。
「本橋くんに連絡しなくちゃ。私のミスで……ごめんね」
「仕事がふえるんだから喜ばしいですよ。美江子さん、弱気は禁物でしょ。美江子さんらしくない顔をしないで」
「私らしい顔ってこんなの?」
「……おいおーい、怖いよぉ」
「おい、とはなに?」
「はいはーい」
「……章くん、今夜はありがとう」
「なにが?」
 なにかにつけてよ、と答えたら、なんだろ? と章くんは解せない顔をして首をかしげ、私は、私らしいとみんなが感じるのであるはずのきびしい表情を作って、さ、明日からがんばろうね、今年もしっかりやろうね、と言ったのだった。
  
 
3

 聞いたふうな口なのは承知の上ですが、と前置きをして、乾くんが言った。
「失敗を乗り越えるという経験は、人間を大きくするんだよ」
「乾くんだったらそう言いそうな気がしてた。ありがとう」
「いいえ、こちらこそありがとう」
「そのありがとうの意味は?」
「お礼を言ってもらったから、こちらからもお礼を言ったんだよ」
 あいかわらず乾くんって、わかるようなわからないような台詞が多いね、と肩をすくめていると、幸生くんも言った。
「ニーナさんの代理ってだけあって、大きな仕事ですよね。楽しみだなぁ」
「こんなでかい仕事をさせてもらえるのは、怪我の功名っていうんだよな」
 本橋くんも言い、シゲくんも言った。
「ああ、本橋さんちで昔話をしてた夜の、美江子さんの電話はこれですか。俺は心配になってたんですけど、いいように受け取ればよかったんじゃありませんか、本橋さん?」
「そうさ、章もけっこう活躍したんだろ」
「俺は別に……」
 謙遜するな、と本橋くんにどんっと背中を叩かれて、章くんはよろめきながらも笑っていた。
 大手電機メーカーが春の新製品発表に先駆けて、大規模な会場でキャンペーンを張る。オーディオ部門のブースでは歌も披露される。メーカーの関係者が大勢訪れるキャンペーンで歌う仕事を、フォレストシンガーズが担当するはこびとなったのだ。もともとは杉内ニーナさんに入っていた仕事が、私の大失敗のせいで彼らに回ってきた。
 根回しは社長がつけてくれているのだが、ニーナさんの代理が新人シンガーズだとは、社長もさすがに不安になったのだろう。会場の隅で真剣に、フォレストシンガーズに注目していた。私も社長のかたわらで、彼らの歌を聴いた。
「無名とはいえ、堂々たる歌いぶりだよ。私の見込んだ奴らだけのことはあるな」
「はい。社長、たっぷり自画自賛して下さい。あ、私がいけなかったんですよね。おまえはそんな口を叩ける立場か、ですね。すみませんでした」
「もういいさ。すぎたことだ」
 お説教をされなかったのは、ニーナさんと原西さんにまかせてあったからなのだろうか。またもや失敗でもしようものなら、今回の分もまとめて襲いかかってきそうな気がするが、そうなったらそうなったときだ。というか、失敗しなかったらいいんだよね、美江子、しっかりしなさいよ、と自らに言い聞かせていると、社長の右側に背の高い男性が立った。
「オフィス・ヤマザキの山崎さんでいらっしゃいますよね。私はこういう者です」
 胸の中で大騒ぎしてるのは誰? 章くんと幸生くんのハイテンションのお喋り以上に、心臓が……心臓が……これこそ超弩級の大騒ぎ。この声を忘れるはずがない。身体が強張ってしまって、顔をそちらに向けられないでいる私の耳に、社長の声が聞こえてきた。
「オーディオ部門の……星さんでいらっしゃいますか。ええと……」
 差し出された名刺を押しいただいて、社長も名刺を出している。私もポシェットから名刺を出そうとしていたのだが、手が震えてうまくいかない。私が困惑しているうちに、男たちは会話をしていた。
「岡崎さんのスタッフの方でいらっしゃるんですな」
「はい。私はまだまだ新米ですから、岡崎の下でさまざまな経験を積んでおります」
「たしかにお若いですな。おいくつですか」
「二十八です。入社してから七年目になります」
「七年目で主任さんとは、出世がお早い」
「いや、まったくそんなことは……」
 こら、きみも挨拶せんか、と社長が小声で私を促している。私もようやく名刺を取り出した。
「山田と申します。今回はフォレストシンガーズのマネージャーです」
「よろしくお願いします」
 名刺交換をするときに、わずかに指先が触れ合った。静電気ではなく、電気ショックを受けたみたいなしびれが走った。
「どうした、山田? 顔色が……立ちっぱなしで疲れたのか」
「いいえ、社長……いえ……そうではないのですが……」
「声も変だな。貧血か? 倒れたりしたら大変だ。ちょっとどこかで休ませてもらいなさい」
「いえ、なんとも……」
「なんともなくはなさそうですよ。山田さん、こちらにどうぞ」
 そうさせてもらいなさい、と社長は言い、すみませんな、と頭を下げている。社長はついてくるようになかったので、とりあえずすこしだけ安心して、私はメーカーの主任さんに導かれるままになった。
「ここで休んで下さい」
 連れていかれた部屋は控え室ででもあるのか。ソファがあった。なつかしいなつかしい声が、他人行儀に話しかけている。私はまだ彼を正視できずにいた。
「顔が真っ青ですよ。医者に行きますか」
「……私は貧血症ではありませんから」
「あなたが貧血を起こしたなんて、私にもまったく覚えはありませんけどね、マネージャーさんは激務なんでしょう? 学生時代には血の気が多くて困ったものだった山田さんも、血の気が減って貧血を起こすようになったとも考えられなくもないかな」
「血の気は減ってません」
「だったらどうしてそんなに元気がないんですか」
 ソファにかけてうつむいているしかない私の頭の上を、いたずらっ気のひそんだなつかしすぎる声が通りすぎていく。私はどうしたらいいんだろう。こんなときにどうしたらいいのかなんて、社会人になっても学んでこなかった。ただただ困惑していると、鍵のかかる音が聞こえてきた。
「俺は思ってたよ。きみのことだから元気一杯に、星さん、久し振りーっ、って叫んで、にこにこしてくれるんじゃないかって。仕事中にそうはできない? ふたりきりになっても言ってくれない? 俺を忘れた? 首の返事? ちっちゃなお嬢ちゃんに戻ってしまったか」
「私……あのころだってちっちゃなお嬢ちゃんなんかじゃありませんでしたよ」
「その調子だ。何年たつのかな」
 詰らせてもくれず、泣かせてもくれず、一方的にさよならを告げて彼が去っていったのは、私の十九歳の誕生日が近い日だった。現在の私は二十五歳になっているのだから、六年? 六年の日々は長過ぎるようでもあり、一瞬のようでもあった。
「元気そうでもないけど、元気にしてたんだろ。フォレストシンガーズは知ってるよ。俺は卒業してからは、大学には足を向けなかった。一度もキャンパスにも足を踏み入れなかったけど、時には同窓生に会う機会もあって、合唱部の後輩連中の噂は聞いたよ。フォレストシンガーズの名前は金子から聞いたんだったかな」
 金子さん、彼もまた合唱部の先輩だ。私たちよりふたつ年上で、彼が四年生の年には男子部キャプテンだった。私は手の中の名刺を見つめていた。俺の彼女になれよ、と星さんが言った、私が一年生だったころに、星さんが話してくれた。
「俺の出身は新潟だよ。ちなみに学部は工学部音響工学科。俺はとにかく音楽が好きだから、電機メーカーのオーディオ部門で働きたいんだ」
 すでに内定はもらってる、オーディオの仕事は先になるだろうけど、と話してくれた星さんは、大学四年生だった。彼は着々とその望みをかなえていっているのだと、名刺を見ていたら理解できた。
「今回出演してくれるシンガーさんは、フォレストシンガーズの先輩に当たる女性だとは知ってたんだ。それがなにやら手違いがあって、フォレストシンガーズが来るって言うじゃないか。驚いたよ。本橋や乾に会えるんだな、とばかりに楽しみにもしてた。本庄、三沢、木村ってのは俺が卒業してから入学してきた奴らだろ。むろん俺は彼らと面識はないけど、名前は知ってたよ。ただ、フォレストシンガーズのマネージャーさんの名前までは知らなかった」
「私の失敗なんですよ」
「なにが?」
「星さんも責任者ではないから、そこまではごぞんじなかったんですね」
 かくかくしかじかで、と正直に打ち明けると、星さんは昔のままの笑い声を響かせた。
「偶然に感謝したいな。しかし、そう思ってるのは俺だけか。きみにはいい迷惑かな」
「……ええと……」
「首の返事もしてくれないのか。なにも今さら口説こうってんじゃないけど、本橋や乾なんかどうでもよくなってきた。迷惑? いやなのか? 久々で酒でもってのもいやなのか? ひたすら困ってる? 俺なんか大嫌いか? 最低野郎だもんな。美江子、なんとか言えよ」
 美江子と呼ばれて、私の気持ちに火がついた。
「……過去は過去です。星さんとなにがあったのかは忘れました。呼び捨てにしないで下さい」
「失礼、山田さん。その顔だよ、その顔。元気が出たな。それでなくちゃ山田美江子じゃないぜ。社長さんがご心配なさってるだろ。元気が出たんだったら行けよ。俺は本橋と乾に会ってくるよ」
「あの……星さん?」
「なに? 口説かれたい?」
 気持ちについた火がめらめらっとなって、怒りがたぎりつつあった。
「星さんって悪擦れしたんじゃありません? 昔から口は達者で、金子さんや乾くんの系譜の方でしたよね。日本人の男性って、そういうときには照れてしまうひとが多いのに、合唱部には二年置きに、歯の浮くような台詞を口にするタイプの男があらわれるんじゃないかって……そうだ、ほんとだ。星さん、金子さん、乾くん、幸生くん、ほぼ二年置きだ」
「金子は一年下だけど、ほぼ二年置きだな。そういうときって?」
「知りません」
「怒ると元気になるんだよな、きみは。貧血症状も消えただろ。仕事に戻れよ」
「部外者に命令されなくても戻ります」
 うん、その調子だ、と笑った星さんが部屋から出ていき、私はようやく気づいた。あれは星さんの計略? 短いつきあいだったけれど、私は彼には気性を丸ごとぶつけていた。だから知られている。怒りっぽくて、怒ると元気になる美江子。美江子はめそめそしたりしんみりしたりしてるより、怒って元気になるのが似合いだよ、って。
 あれからだって幾度か恋をして、後にできた彼とだったら、私のほうが優位にいたような気がする。仕事相手の男性たちにだって、ひけを取ってきたつもりはない。社長や原西さんにしても、山田にはかなわないな、の態度だったりする場合も間々ある。私の世間知らずゆえなのかもしれないけど、フォレストシンガーズには強気のリーダーと、強気のマネージャーがいてこそ、だなどと、乾くんは言う。
 たかが新米マネージャーで、フォレストシンガーズ専属にすらもなっていない私が、そうやって肩肘を張っても、世の大人たちから見ればお笑い沙汰なのかもしれない。仕事の面ではそうなのかもしれないけれど、少なくとも恋人関係だったら、私は男になにかを教えてもらいたいとか、あとからついていきたいとか、そんなふうには絶対に考えなかった。友達関係でも同じだろ、と本橋くんや乾くんは言うだろう。
 だけど、はじめてのひとにはいまだに……十八歳のミエちゃんになってしまうところがあって……あーあ、まだ星さんにはかなわかないんだな、って、切なくほろずっぱい感情がよみがえってきて……だけど、今さらじゃないの、そうだ、過去は過去だ、ときっぱりひとりごとを言って、私も部屋から出ていった。


 一年下のシゲくんも、二年下の幸生くんも章くんも、星さんとは合唱部での関わりは皆無だ。本橋くんと乾くんはむろん知っている。私が星さんと恋をしていたのも知っている。フォレストシンガーズの仕事が終わり、社長は先に帰宅し、私が彼らと合流すると、本橋くんが教えてくれた。
「こんな奇遇ってあるんだな。星さんに話しかけられたときはびっくりしたよ」
「世慣れてくるのも当たり前だろうな。入社七年だったら新米でもないし、立派なビジネスマンの貫禄で、それでいて白々しくも言ってくれちゃいましたよ」
 乾くんが言うには、星さんは歌い終えた彼らを待ち構えていて、声をかけてきたのだそうだ。
「なんとも素晴らしいお歌でした。私がコマーシャル部門の責任者だったとしたら、ぜひあなた方に新製品のキャンペーンソングを依頼したいんですけど、私は別部門でして、残念ですよ」
「んん? ええ?」
 思いがけない人の登場に、本橋くんは目をぱちくりさせ、乾くんが叫んだ。
「星さんっ!」
「星さん……星さんですよね。いや、あんまりびっくりして……失礼しました」
「お忘れだったんじゃありませんか、本橋さん?」
「忘れるはずがないでしょうが。シゲ、幸生、章、大先輩だ。星さんだ」
 大慌てで本橋くんが言い、うしろで顔を見合わせていた三人のうちの幸生くんが発言した。
「合唱部の大先輩の星さんでいらっしゃいますか。お会いしたかったんですよ。感動だなぁ。あ、三沢幸生でございます」
「三沢さんは私をごぞんじないでしょう? お会いしたかったとは?」
「ひとことでは申せませんが、憧れの大先輩ですもん。星さんはルックス的には金子さんよりは劣るとか言ったのは……」
「こらっ、幸生、よけいなことを……」
 ますます慌てた本橋くんが幸生くんを止め、シゲくんも言った。
「お初にお目にかかります。本庄繁之です。星さんのお名前は聞き及んでおります」
「木村章です。俺は金子さんって方もあまり知らないんですけど、ルックスが……」
「章までよけいなことを言うな」
「本橋、いいじゃないか。聞きたいな。あとで時間はあるか?」
「あります。大有りです。星さんがやっと昔に戻って下さってほっとしましたよ。その口調で話されたらどうしようかと……俺までよけいなことを言ってますね」
 この店で待っててくれ、と本橋くんにメモを渡し、じゃあ、あとでな、と星さんは立ち去ったのだそうだ。
「山田も行くだろ」
「……うん」
 行かないと言うと、乾くんがよけいな心配をしそうだ。それでなくても乾くんはちらちらと私を気にしている。
「行くよ。私もずいぶん久し振りだもん。近くの店?」
 行こう、と先に立って歩き出すと、章くんが幸生くんに問いかけた。
「金子さんってあの星さんよりルックスいいのか?」
「って、リーダーが言ってた記憶があるんだけど、金子さんは歌の道を突き進んでる。星さんはビジネスマン。そうなると金子さんのほうが華美だよね。湿気でカビカビカビの黴じゃないよ」
「シャレはいいんだよ」
「そう? だからつまり、金子さんは華やかで、星さんは金子さんと比較すれば地味だよね。服装もまっとうなダークスーツじゃん。金子さんはたまに会っても派手な格好をしてて、それがまたとなく似合う。そういう意味では金子さんのほうが目立つんだろうけど、身長も体格も顔立ちも、タイプこそちがえ、星さんは金子さんに負けてないよ。かっこいいよなぁ。あー、ひがみ根性がぁ……章、止めて」
「止められないよ。しかし、まったくだな。相当かっこいいじゃん、あのひと」
「だよね。うらやましいなぁ。俺もせめて身長だけでも……」
 常のごとくに低身長の悲哀を口にしていた幸生くんは、気を取り直したように言った。
「星さんはキャプテンではなかったんですよね。高倉さんがキャプテンだった当時の、徳永さんのポジション?」
「徳永はプロシンガー志望だったけど、星さんはそうじゃなかったんだろ。俺たちが入学したころにはすでに、今の会社に内定してるって聞いたよ。だから、徳永のポジションではないな。本橋も俺も高倉さんには多大の上にも多大なる恩義をこうむったけど、星さんにも金子さんにも俺は……」
「そうなんですか、乾さん? 金子さんの噂はよく聞きますし、俺も金子さんはわりに知ってますけど、星さんの話ってのはあまり聞いた覚えがありませんよ」
 シゲくんが言い、幸生くんも言った。
「星さんも金子さんも優しい先輩だったんでしょ、乾さん? 本橋さんタイプではないんですよね」
「本橋は優しくなかったか? 先輩の優しさって一概には言えないよな。ああ、優しい先輩だったよ。星さんにも金子さんにも、俺は優しい優しい鉄拳をいただいた」
 え、嘘、と思わず私も言うと、乾くんは自分の顎をぽかっとやった。続いてほっぺたをぱちん。前者は星さん、後者は金子さんの優しい鉄拳だったのだそうだ。
「星さんのパンチは相当に強烈だったな。金子さんの平手打ちは撫でられたようなものだけど、痛かったよ。星さんに殴られたのは、俺の愚かきわまりない舌禍が原因だから、胸のうちまでが痛かった。加えて、ありがたかった。金子さんにはどうして殴られたんだったかな。俺が情けないぼやきをやったからだったか。なににしろ、そうやって叱ってもらってひっぱたいてもらって、だからこそもあって、俺は金子さんも星さんも尊敬してる。高倉さんには殴られたことはないけど、俺のもっとも大切な先輩は、このお三方だ」
「ふむふむ、章も胸が痛いだろ」
 ふんっ、と鼻を鳴らす章くんを小突いてから、幸生くんはさらに言った。
「俺もね……俺はいいか。だけど、乾さんの気持ちはよくわかりますよ」
「なんだよ、意味深だな」
 言った本橋くんにも、幸生くんは小突く真似をしてみせ、シゲくんも言った。
「俺もいつだったか……殴られてはいないんですけどね、ね、乾さん?」
「俺がおまえを殴ったら、逆に吹っ飛ばされるよ」
「まさか……」
「ふーん、なんだか俺の知らないことも……ま、そりゃそうだな。山田、なにか文句あるんだろ?」
 この仕事が入るきっかけとなった私の大失敗が判明する前に、章くんとかわしたやりとりを思い出す。暴力についての話をしていた。あの会話はその後のどさくさで忘れていたけれど、男と女では暴力に対する感覚がちがうんだ、とだけは理解できた。
「乾くん、煙草を吸ってるのを見つけられて、金子さんに叩かれたんじゃないの?」
「煙草じゃないよ。俺は先輩に喫煙現場を押さえられるほどへまじゃない」
「私も聞いたことならあるな。徳永くんも乾くんも煙草を吸うのを知ってる、今度見つけたらふたり並べて張り倒すって、そう言ってたのは金子さん。言ってるだけかと思ってたんだけど、金子さんもそういうことをする先輩だったんだね」
「やっぱりあれは金子さんか」
 口で勝負が身上の乾くんも、学生時代には先輩に殴られたのか。私には初耳だったけれど、ありがたかった、と言っているのだから、今さらケチをつけてもはじまらない。
「乾くん、叩かれて泣いたの?」
「泣いたらどうなると思う?」
「知らないよ、私は」
「この際ついでに言わせてもらいますけど、殴られて当然のシチュエイションで男が男に、まして先輩に殴られて泣いたら、本橋、おまえが殴った先輩だったとしたらどうする?」
「俺か? ……うーん、馬鹿野郎、これしきで男が泣くな、泣いてる暇があったらかかってこい」
「それだよ、それ。俺は泣かなかったけど、星さんには言われたな。腹が立つんだったらかかってこい」
「かかっていったの?」
「ちょっとね。結果は惨敗」
 乾さんが惨敗? と幸生くんが問い返し、勝てるはずないだろ、と乾くんは応じている。本橋くんはこの話しを知っていたようで、にやにやしている。シゲくんは、そりゃあね、先輩ですからね、ともごもご言っている。かかってこいかぁ、と章くんが呟き、私は思い出していた。
 二十二歳だった星さんは、私には大人に見えていたけれど、子供っぽい部分もあった。本橋や乾の話しをするな、と怒ったのは、妬いていたのだろう。私が喧嘩を吹っかけたり、ちっちゃな原因でもめたりして、ふたりともに怒ってよく喧嘩をした。あのころの私は、その前にもその後にもないくらい、何度も泣いた。
 たまには泣いてもいいよ、と余裕であしらったり、泣くな、いい子だから、となだめてくれたり、無言で抱きしめたりして、星さんは私を広い胸に受け止めてくれた。すこしは怒ったりもしたけれど、本気で怒ったりしなかった。いつだって星さんの胸と腕とてのひらとくちびるが、私の心をほぐして仲直りさせてくれた。
 私には優しかった星さん。金子さんだって私には優しくしてくれた。男子部のキャプテンはよほどでもなければ女子部には干渉しなかったのだから、私は男子部の先輩に叱られたことなどはない。
 そんな星さんが、乾くんにはかかってこい? 金子さんが乾くんを叩いたのはたいしたことではなかったようだが、星さん対乾くんはシリアスだったのだろう。乾くんもちょっとかかっていった? どんなシーンだったのかと想像しようとしても、具体的には思い浮かべられない。
「乾や徳永は弱々しく見える? って訊いたのも金子さんだったな。乾くんって弱くないんだよね。弱く……って言われたら腹が立つ?」
「本橋やシゲよりは弱いよ」
「章や俺よりは強いっつうか……なあ、章?」
「言いたくねえよ、俺は」
 男も女もないじゃないの、とは仕事の話しであって、やはりあるのだろうか。男には男の、女には女の世界があって、どこかはまじわり、どこかはまじわらない。
「本橋くんの知らないこともあるんだろうけど、私にはもっと知らないことがいっぱいあるんだよね。章くんは……っと、章くんって変に男っぽいところがあるから、私には理解しがたくて……幸生くん、幸生くんだけは私に近い世界で生きてるんだよね」
「一部分はね」
 そう言ったのは乾くんで、幸生くんは言った。
「そうですよ。俺は微塵も男っぽくないんです。半分は女の子のユキちゃんだもーん」
「そうもあからさまに言われると、疑いたくなっちゃうわ」
「俺は全部が女の子だって?」
「さかさま」
「全部が男? そんなことありませんよぉ。たしかめてみます?」
「どうやって? 言わなくていい。どうせ、いっしょにお風呂に入って、だとか言うに決まってるんだから」
「美江子さん、俺といっしょにお風呂に入りたいの? そんなら善は急げ……きゃわわー、善じゃありません。わかりました。参りました。リーダー、ぶたないでーっ」
 虚脱のポーズになった本橋くんとシゲくんを見て、あとの三人が笑っている。私もいっしょに笑ってはいたけれど、星さんとの待ち合わせの店に近づくにつれて、心臓が苦しくなってきているような、そんな気もしていた。

 
4

 この七人が一堂に会するのは初のできごとだけど、乾くんや本橋くんはもとより、全員が楽しげに笑いさざめいている。私も談笑の輪に加わってはいたものの、過去が心を噛む。とうに思い切ったはずのはじめてのひとが目の前にいると、心安らかではいられない。私の心はこんなに弱いのだと、自嘲の念も起きていた。
「合唱部のOB会ですね。OGの方もいらっしゃるし、ミエちゃんの失敗さまさま……っと、またしても失言でした。星さん、言っていいですか」
 なにをだ? と見返す星さんを、乾くんはまっすぐに見据えた。
「俺は合唱部の先輩方みなさんに殴られてもいいような、どうしようもない大学生でしたよ」
「酔ってるのか、おまえ」
「いささか酔ってますね。そんな俺を……言い出すと言いたいことが渦巻いて、なにもかもをぶちまけてしまいそうだからやめておきます。駄目だな、俺はまるで修行が足りない。ああやって星さんに叱られたにも関わらず、あのころに較べたら大人になったはずなのにも関わらず、この口は……」
「ほぼ二年置き」
 先に私は星さんと会っていたのを隠して、数年ぶりの邂逅だったふりをした。先に会っていてよかったのだろう。彼らもいるところでいきなり再会したら、どうなってしまったかと考えると恐ろしい。星さんはさきほどの私の台詞を口にし、きみが言えよ、と私に視線で催促していた。
「そうよ。二年置きだね。幸生くん、わかる?」
「二年置き? 星さんと本橋さん、乾さん、美江子さんは三年差ですよね。本橋さんたちの二年差は章と俺。そういう意味?」
「近づいてはきてるよ。私たちの二年上は金子さん。主役は星さんと金子さんと乾くんと幸生くん」
「……星さんと金子さんは一年差。ほぼ? 口?」
「さすがユキちゃん。ほぼ正解」
 合唱部の口達者男子、ほぼ二年置きと、私もさきほどの台詞を繰り返すと、本橋くんが言った。
「徳永も口はたいしたもんだったけど、乾よりはやや落ちるんだな。金子さんはまちがいなく理論武装の口先男……ではなく、口も実力もきわめつけのキャプテンでしたよ。しかし、星さんもですか」
「俺はそうじゃないよ。俺を省いたらきっちり二年置きだ」
「俺の二年下にもいるのかな」
「おまえは認めてるんだな、三沢?」
「乾さんには負けますし、金子さんにも負けますよね。先輩にだったら負けてもいいんですけど、後輩に負けたくないな。二年置きの法則があてはまってるのかどうか、調べてみようっと」
 つまんねえ、と章くんが言い、シゲくんは言った。
「星さんも……ほら、ね、本橋さん、さっきの……」
「ああ、さっきの台詞な。金子さんと星さんは一年置きの法則か。ヒデもなかなかだっただろ」
「ヒデは金子さんや乾さんほどじゃありませんよ。幸生と似たところはありましたが……んんと……まあ……いや、あのね」
 あいつは俺とつるんでたから、口達者に思えるんでしょう、とシゲくんは苦笑いし、章くんを見やって話題を変えた。
「よく喋るといえばヒデじゃなくて実松でしょ。章は実松も覚えてないのか」
「実松さん? 大阪弁の?」
「覚えてるんだな。あいつはあの大阪弁で人の記憶に残るんだ。いや、すみません。星さんは実松なんて知りませんよね」
 実松くんならば私も知っているけれど、星さんは実松くんもヒデくんも知らない。
 当初のフォレストシンガーズメンバーだった小笠原英彦、通称ヒデくんは、シゲくんとは親友だった。私は彼がみんなの前で、脱退します、と宣言した場にはいなかったのだが、話は聞いている。ヒデくんはシゲくんにも相談せずに、結婚するからフォレストシンガーズはやめると、突如として言い出したのだそうだ。
 強固な仲間意識で結びついていると、私も彼らをそう見ていた。本橋くんと乾くんは親友で、ヒデくんとシゲくんも親友。幸生くんは四人の先輩の間で、時には可愛がられ、時には叱り飛ばされ、時にはこき使われ、時にはその持ち前のキャラクターで雰囲気を和ませる。そんな役割だった。
 なのにヒデくんは脱退してしまい、今では行方すらも知れない。ヒデくんをもっとも心にかけているのはシゲくんであろうに、あとから入った章くんを慮っているのか、ヒデくんの噂をするのは避けたがる。そんなときのシゲくんを見ていると、彼の心の痛みが伝わってくるようで、ヒデくんに会えたら思い切り詰ってやりたいと思う。
 のほほんとしているのが持ち味のシゲくんに、ヒデくんは深い傷を残していった。失恋なんかよりずっと深い痛手。ヒデくんの罪は、私を捨てた星さんの比ではない。けれど、私もヒデくんに会いたいよ。みんなきっとそう思ってる。ヒデくんはどこでどうしているの? ヒデくんの話題が出て、自らやめて言葉を切ったシゲくんの様子を見たら、あなたの心はどんなふうに動くの?
 あなたのかわりに入った章くんは、幸生くんの親友。シゲくんは自らを「サンドイッチシゲ」だと言ってるよ。年上ふたりと年下ふたりに挟まれた、サンドイッチの具なんだって。そう言って笑うたびに、シゲくんはあなたを思い出してるんだ、きっと。私も思う。あなたもここにいてくれたらいいのにな。 
 ヒデくんを知らない星さんも、彼の名前くらいは知っているのだろうか。ヒデって? とも訊かず、新製品のオーディオの話しをはじめていた。
 幸生くんが言っていた通り、星さんは金子さんほどの華やかなルックスはしていない。ぱっと見たところでは、金子さんや徳永くんのほうが人目を引くのはまちがいないだろう。けれども、私も最初は星さんの外見に惹かれた。背が高くて男っぽく凛々しく端整な顔立ちで、声が低くて、あのころはそうと意識はしていなかったけれど、私の好みにぴったりの外見だったのだから。だった、ではない、過去形ではない、今でも星さんはかっこいい。あのころ以上にかっこよくなった。
 さっきは私をからかってだか、怒らせて元気を出させようとしたのだか、口説いてほしい? なんて言ってたけど、恋人はいるの? 結婚指輪ははめていないね。結婚はしてないとしても、彼女がいないはずはないよね。星さんは乾くん以上にもてたんでしょう? 就職してすぐに、新しい彼女ができたんじゃないの? そんなの、もはや私には無関係だというのに、どうしても気になる。星さんの仕事の話しはほとんど耳をすり抜けていって、私はヒデくんに思いをそらせたりしつつ、星さんの姿ばかりを見ていた。そうしていたら、ふっと口をついた。
「口達者な男ってもてるのかなぁ。無口な男が好きって女もいるけど、星さんも金子さんも乾くんももてるんだよね。幸生くんももてるの?」
「思い切りもてます」
「本人が言うのは信用できないけど、そんなにももてるってどんな気分?」
「もてる女性の気分は?」
「私はもてないから知りません。男性の心理を訊いてるのよ。今度会ったら金子さんにも聞いてみようかな、金子さんだったらなんて応えると思う、乾くん?」
「さあねぇ。金子さんには幻惑されっぱなしだったから、なんとも推測のしようがないよ。ねえ、星さん、星さんは男子部キャプテンとしての金子さんは知らないでしょう。あれで金子さんも、三年生だったころはソロで歌ったりもしていたものの、四年生のうしろに引っ込んでたんですよね」
「金子にはスター性はあっただろ」
「ありましたけど、四年生になってキャプテンになったら、俄然脚光を浴びたというのか。もともと目立つタイプだったのが光り輝き出したんですよ。金子さんは炯眼だし、後輩たちをじっくり観察して頭の中のメモにあれこれ記録していたんですね。あの華かやなルックスに隠された金子さんの真の顔ってどんななんだろう。頭脳明晰、容姿端麗、理論武装、判断的確、舌鋒辛辣っていうのかな。その程度しか読めてなくても、俺は心から思います。あれだけの男はそうそうはいない」
 そしてね、と乾くんは星さんを見つめた。
「……星さんには言いたいことが多すぎて、金子さんと対峙したとき以上に口ごもってしまいますよ。困ったな」
「困らなくてもいいだろうが」
「そのしらーっとした顔が……」
「からみたいのか」
「からみたいですね」
 昔の話なんだったらもういいじゃないの、と私は言いたいのだが、言えない。乾くんがなにを考えて、星さんにからみたいのかが察せられるだけに言えない、私のためにだったらやめて、とも言えない。そんな私を本橋くんがちらっと見、なにも知らないはずの幸生くんが言った。
「乾さん、なんだかとっても……ええと……」
 幸生くんの視線が私の顔に漂ってきた。時として妙に鋭いのが幸生くんなので、なにか感づいているのかもしれない。私はなにげないそぶりで彼の視線をはずした。
「ちょっと失礼」
 はずしついでに席もはずして立っていくと、窓から見える星空が誘惑していた。出ておいで、と星に呼ばれている。ああ、星だからか、とやるせなさ満開になって、外に出ていった。ぼーっと空を見上げて何分かがすぎると、背中に声が聞こえた。
「今さらなんだけどさ」
 本日何度目かにどっきんとした。こうやって星さんがうしろに立っていて、美江子、やっとふたりきりになれたな、と顔をかたむけてきたのは何年前? くちびるがくちびるを包み、大きなてのひらが乳房を包んだ。あの夜もこうして星が降っていた。
「きみは乾にどこまで話したんだ?」
「今さらですから忘れました」
「あいつの態度が奇妙なのは、そのせいだろ」
「なんのことだかさっぱりわかりません。それより、星さん?」
 今夜は肩を抱いたりはしない星さんに、私は言った。
「乾くんを殴ったんですってね」
「そうだったかな。昔の話は忘れたよ」
「子供っぽい仕返し。乾くんから聞きましたよ。なんのせいで?」
「忘れたって言ってんだろ」
「乾くんが一年生で、星さんが四年生のときですよね。もしかしたらむしゃくしゃを乾くんに当たったとか?」
「だとしたら?」
「……どっちでもいいけどね、今さら」
 今さら、今さら、と口では言っていても、心は裏腹。だとしたら嬉しい、という気持ちがちょっぴりはある。私があんなに思い詰めていたのに、星さんは平然としていたのだとしたら悔しい。そんな気持ちもあった。けれど、星さんはまともに返事をしてくれない。
「辛いカレーごときで弱音を吐くな、ってのだったらあったような……」
「カレーの話は私も聞いたけど、そのときにも殴った?」
「忘れたよ。しかし、あれにもなんの意図があるんだろうな。乾はいやに金子を誉めそやすじゃないか」
「乾くんの意図なんか、私には読めません。星さんから見た金子さんはどんなひとだったんですか」
「スマートに世渡りしていく、金持ちの坊ちゃん。俺は金子になんぞたいした関心は持ってなかったから、その程度にしか見てなかったよ」
「金子さんったらね……」
 あれは二年生の夏。星さんが心から去ってくれなくて、思い出すたびに切なくて、合宿でのある日、金子さんに八つ当たりした。そもそもは金子さんが、キスしようか、などと言ったのが発端だった。
「金子さんって声が星さんと似てるんですよね。いかにも男性的な太くて低くて甘い声。その金子さんの声で、キスしない? って言われて……なにか言いました?」
「なにも言ってない」
 あの野郎、と低く唸ったのが聞こえていたけれど、聞かなかったつもりで続けた。
「金子さんは合宿の浜辺であちこちでキスしてたみたいで、キスなんて遊びじゃないか、って感じだったんですよ。それならいいかな、って……」
「キスしたのか」
「してもしなくても、今さらどっちでもいいでしょ」
 本当はしなかった。星さんがいたら、私にキスしようなんて言う金子さんを殴り倒してくれるのに……そんなふうに金子さんに食ってかかった記憶がある。そこからヒステリックになって無茶苦茶を言った私に、金子さんは辛抱強くつきあってくれた。俺が悪いんだから、と言っていた。
「悪いのは金子さんじゃなくて星さんなのに、そのせいで私が荒れてたのに、金子さんは私を……ただの後輩の私を……うまく言えないけど、金子さんにもかなりいい加減なところがあって、乾くんが褒めちぎるほどだとは私も思いませんけど……星さんよりは……やだ、なに言ってんだろ、私」
「その状況がよくわからないけど……」
「わかったって意味ないでしょ。あの場に星さんがいたとしても……そのときにはもう……」
 あなたは私の彼ではなかった。心でそう付け加えて、私は口を閉ざした。
「きみから見ても、金子はたいした奴だったのか」
「……まずまずはね」
「まずまずか。俺は……なんて、今さらだな」
「そう。なにもかもが今さらです」
「うん、だからさ、俺はそんなきみが好きだったんだよ」
「……ずるいんだから。それだって今さらです。私になにを言わせたいの? あのときに言えなかったこと……ううん、言わない。なにもかも、なにもかもが今さらですもの。フォレストシンガーズは今さらじゃなくてこれからですから、私は彼らを大成させるためにすべてを尽くすんです」
「そうだな」
 好きだった、か。私も好きだった。そう、「だった」。「だった」なのだから。
「星さんと再会できてよかったな。意味なんか聞かないで下さいね」
 心のどこかに残っていた恋の燃え殻に水をかけて、決着をつけられたから。私は星さんが好きだったけど「今でも好き」ではないのだとわかったから。うん、そうだな、とうなずいている星さんを好きだった昔の私に、美江子の恋はまちがってなかったよ、と言ってあげられるから。星さんは今でもとってもいい男だから。今さら、私の昔の恋人面をしないから。さらりと、好きだった、と言ってくれたから。
「星さん、今でも歌は歌ってるんですか」
「歌は好きだよ。きみは?」
「私はマネージャー業にどっぷりで、聴くほうに徹してます。もとから上手じゃありませんでしたからね。星さんは私のために歌ってくれたことはなかったよね。今さらですけど、歌って」
「今さら?」
 今夜のキーワードは、「今さら」。今さらだけどな、と呟いた星さんが歌ってくれた。

「誰かの胸にすがりたくて
 ひとりアクセルを吹かした夜
 交差点でついたため息ひとつ
 終わりを知らない悲しみが
 あいつの記憶を呼び起こす」

 別れた彼女を思って歌う歌? 私と別れたばかりのころには、星さんもこんな心境でいたんだろうか。そうだとしたら嬉しい。今さらだとしても嬉しい。

「DON'T CRY MY LOVE
こんなに女々しいちっぽけな男さ
 DON'T CRY MY LOVE
 届かぬ想いが胸しめつける
 TONIGHT」

 いい声だね。まだまだ歌もとっても上手。あのころに星さんが私にこの歌を歌ってくれていたら、私は泣いていたかもしれない。もう泣いたりはしないけど、私の胸もしめつけられそうになって、敢えて言った。
「身勝手な歌詞だね。悪いのは……」
「俺なのに」
「先に言わないで。聴いたことはあるけど、タイトルはなんていうんですか」
「遠い恋のリフレイン」
「星さんの声に合ってますね。職場のカラオケ大会で歌ったら、女の子にきゃあきゃあ騒がれますよ」
「これ以上もてると身が保たないよ」
「しょってるー、って言うんですよ、それ」
「言えてるな」
 ほんのちょっとだけど、言ってほしい。美江子、ごめんな、って言って、キスしてほしい。でも、そんなことは言ってほしくない。キスなんかされたくない。私と別れた直後には、星さんはこの歌のような心境でいたのだと、私もしょってるのかもしれないけど、そう考えていたい。どっちが私の本音なのかわからないでいるうちに、星さんはきびすを返した。
「ヒデって? 訊いてはいけないのかな」
 背中を向けたままで、星さんはためらいがちに言った。
「シゲくんはほげーっとして見えますけど、実はデリケートなんです。彼が進んで話さなかったら聞かないであげて」
「本庄の……そうか」
 それっきりなにも言わず、星さんは歩いていった。あの背中に抱きついて、星さんなんか大嫌い、って言ったのは何年前? 俺は好きだよ、って、振り向いて抱きしめてくれた。あなたの胸の中で少女を脱いで……って歌もあったね。私はそれから先も少女のしっぽをくっつけていたけれど、星さんとの経験で少女の皮を一枚だけ、脱いだのだろう。
「今の私は乙女だし……」
「んん?」
「二十五歳ですもの。乙女ですよ」
「あのころからきみは……あのころの話はやめような」
「あのころの私は子供だったんでしょ。あのころの話もしてもいいですよ」
 そうか、と半分振り向いて、星さんは笑顔を見せた。私も笑えた。
「すこし聞こえてましたよ」
 前後してもとの席に戻ると、乾くんが言った。
「聞こえてたのは歌ですけどね。言いましたっけ。俺がプロのシンガーになりたいと思った最初のきっかけは、星さんと高倉さんと渡嘉敷さんの低音トリオの歌だったんですよ。俺には先輩方のような大人の男の魅力あふれる声は出せないけど、歌で輝ける男になりたいって」
「へえ、そうだったのか。俺の歌も人さまの役に立ったんだな」
「そうつながるんですか」
「そうだろ。おまえが歌手にならなかったとしたら、世の中の人々の耳の悦楽がひとつ減るんだから」
「星さんもお世辞が上手になられましたね」
「そしたらおまえのもお世辞か」
「とんでもない」
「乾、なにやら吹っ切れた顔をしてるな」
 そうですか、ととぼけているけど、私もそう思っていた。乾くんは私の心を読み取って、私が言えなかったことを星さんに言いたくて、なのに言えなくて、今夜はいつもとはちがったふうに口が動いていたのだろう。乾くんも私と同じに、星さんの歌を聴いて昔に思いを馳せて、ああ、そうだったのか、って……? 
「あのね……あの……」
 幸生くんは幸生くんで、星さんの歌と過去を結び付けようとしているかに見える。章くんも同様なのだろうか。シゲくんもなにか感じているにちがいない。だから私は言った。
「私は男子部の先輩には別にお世話になってないし、友達のほうが大切だから、生意気にも星さんに怒っておいてあげたよ。乾くんを殴ったなんて許せない、ってね」
「あれは俺が悪いんだから」
「理由はどうあれ、暴力はいけません。それで星さんがお詫びにって、素敵な喉を聴かせて下さったの」
「美江子さんの怒りはそれほどに怖いって結論ですね」
「幸生くん、それはどういう意味?」
「そういう意味ですよ」
「そういう意味ってどういう意味?」
「こういう意味」
 こらぁ、そのへんでやめとけ、と本橋くんが言い、幸生くんはきゃっきゃっと笑っている。おそらく幸生くんは悟っているのだろうけど、過去なんだもの。今さらなんだもの。悟られたってかまわないと考えておこう。
 私の中でも聞こえていた「遠い恋のリフレイン」と、たぶんこれで訣別できる。今度会ったときには元気いっぱいに、星さん、お久し振りーっ、と叫んで駆け寄っていける。昔好きだったひと、そんな思いは消えないだろうけど、これからはちがった関係で会える。なつかしい合唱部の先輩としての星さんとまた会えたらいいな。胸苦しさも引き潮になっていって、リフレインが遠ざかっていく。
 だけど私、星さんが大好きだったよ。星さんを好きになってよかった。もしかしたら、心の底からそう思うのははじめてなのかもしれないから、もう一度だけ言おう。私は星さんと恋をして幸せだった。星さんが大好きだった。星さんと再会できて、本当に本当によかった。

END




 



 
 


 
 

 
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~ Comment ~

誰の恋かなぁ、と思ってましたが、

語りが美江子さんなんだから、星さんのことに決まってましたねぇ(^^;
これは、しんみり、しっとりしてとても柔らかいターンでした。
それから…

「魑魅魍魎がうようよしてる世界なんですよねぇ。先輩たちもだし、俺、やっていけるんだろうか」
「私も……なんて、弱気になっててどうするのよっ。やるしかないっ!!」

↑これ、良いですね。まさにその通り!
出来ることを精一杯尽くしましょう!
なんとなく元気が出ます。

そして、章くん、なんだか見直しました。
彼はどこか別の空間を彷徨いがちになるけど、でも、仲間は仲間として本当に大切に思っているんだな、と嬉しかった! とfateが言うのも変だけどさ。
だけど、章くんが出てくるといつも考えてしまう。
あかねさん、って章くんに似てるのか???
と。
ううむ、やはりfateのイメージでは、同性であるせいか、美江子さんのような方って印象だから。
だから、美江子さんと章くんの絡みって意味もなくドキドキしてしまった(^^;
意味分かんね~

ここは、いずれにしてもすごく好きなターンでした。
フレーバーとしての恋もあり、仕事もあり、章くんと美江子さんの絡みもあり。
いやぁ、おいしかったです!!!

fateさん、ありがとうございます

コメントをつけていただいて読み返して、気がつくことってありますよね。

たとえば、美江子と章には共通点があるのです。
過去の恋にとらわれていること。
このしつこさは私にはないものなのですが(すんでしまったことはしようがないから忘れる、がポリシーですけどね、そうも行かないときもありますが)、他はこのふたり、私に似てる部分があると思います。

似てるのは章の性格と美江子の主義というか、考えかたというか。

他の主要キャラはなんたって男ですから、無責任に書いてるわけですけど、美江子だと想い入れが激しくなったり。

章はフォレストシンガーズストーリィのはじまりのはじまりでしたから、同じ男でも他のキャラとは気分がちがって、愛憎こもごもだったりするのです。

おいしかった、と言っていただいて本当に嬉しいです。
fateさんが食中りなさらないように、根性据えて書かないといけませんね。

NoTitle

そういえば、ウチの大学の部も2年置きの法則でしたね。
沢山入った年のつぎはほとんどこないという・・・。
5人入った年があれば、次の年は1人という。
そんな法則がありましたね。
どこにでもあるのですかね。。。

LandMさんへ

いつもありがとうございます。

二年おきの法則、LandMさんの学校のサークルですか? 
学校っていろんな伝説や会談なんかもありますよね。
たいていの日本人は少なくとも小学校には通ったはずですから、「学校」を語るといーっぱい話が出てきますよねぇ。
いろんな「学校の法則」なんかも知りたいです。


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