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小説256(縁--えにし)

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フォレストシンガーズストーリィ256

「縁(えにし)」

1

畳にひっくり返って苦悶にも似た表情を浮かべ、ぶつぶつ言っていたシゲは眠ってしまったのか。夢の中でリリヤと恋を語ってでもいるのか。まっこと、アホやきに。
 男子合唱部キャプテン、金子将一の妹のリリヤに恋をして、告白したのか、言い出しもできなかったのか、シゲは失恋したのはまちがいない。数時間前にそんなシゲと俺を乾さんがアパートに誘ってくれて、本橋さんもやってきて、四人でビールを飲んだ。
 おまえの失恋のおかげで本橋さんや乾さんと個人的な話ができて、デュエットもソロも聴かせてもらった。俺たちが知らなかった去年から、合唱部では有名だった本橋さんと乾さんの歌を堪能させてもらったんだから、失恋だって悪いばかりでもなかったよな。
 だけど、なんだか俺も苦しいよ。高嶺の花に恋をしたおまえがアホなんやけんど、俺までが切ない気持ちになってしまう。手の届くところにある女の子に恋をしたらよかったのに。そしたら、恋がかなったかもしれないのに。
 それでは一生、おまえには彼女なんかできないぞ。田舎者で口が重くて、見た目も格好のよくないおまえが面食いだなんて、身の程を知れ。
 シゲが寝てしまったからなのか、本橋さんも乾さんも黙っている。俺はシゲを見つめて頭の中で彼を罵っている。叩き起こしてぶん殴ってやりたいとまで思う。立っていってシゲに夏の上掛けをかけてやっている乾さんに、俺は言った。
「俺はリリヤなんか好きでもないけど、本橋さんや乾さんみたいな都会的でかっこいい男がつきあってくれって言ったら、彼女はうなずくんでしょうね。あの兄貴がいるんだから、あいつから見たらシゲなんかはイモでしょ。そんなの最初からわかってたのに。アホにも程がありますよ。でも、それでも、俺はリリヤに言ってやりたい」
「リリヤちゃんにはよけいなことは言うな」
 乾さんが言い、本橋さんは天井を見上げて言った。
「蜘蛛がいるぞ。でっかい奴だ。女郎蜘蛛じゃねえのか」
「女郎蜘蛛って毒クモじゃないのか。そんなのが都会にいるわけないだろ」
「なんで女郎蜘蛛って言うんだ? おまえだったら知ってるか」
「女郎じゃなくて、もとは上臈蜘蛛だったらしいよ」
 ふたりして俺の気をそらせようとしているらしい。俺が口を入れる間を与えてくれずに、乾さんは言った。
「女の子ってなんでああ虫が嫌いなんだろうな」
「蜘蛛なんか見たら大騒ぎだよな」
「蝉でも悲鳴を上げる子がいたよ」
 故郷の土佐には東京よりも虫が多かったから、蜘蛛だってよくいた。俺の妹は兄と弟に囲まれて育って、ガキのころから虫取りにもついてきていたので虫はへっちゃらだったが、学校には虫嫌い女だっていた。乾さんも言っていた。
「林間学校のときだったな。中学生の夏だよ。俺たちは石川県の田舎でやってたんだけど、虫の多い土地で、夜に窓を開けてると電灯に虫が集まってくるんだ。女子の部屋で悲鳴が巻き起こってるから友達と見にいったら、女の子のうちの数名はきゃあきゃあ言ってて、勇敢な子たちが虫を追い払おうとしていた。乾くん、手伝ってって言われて、俺も手を貸してたんだ。そしたら先生が入ってきて、男子は女子の部屋に入ったら駄目、って怒られて追い出されたよ」
「実は下心があったんだろ」
「中学生だぜ」
「中学生だったらあるだろ」
 そこからふたりの声が低くなる。耳を澄ませると女の名前がちらほら聞こえる。本橋さんの彼女の名前である、乃里子という声も聞こえる。乾さんにも彼女がいるのだろうか。リリヤの話がしたかったのに気分をそらされてしまって、俺はふたりの会話に聞き耳を立てていた。
「乃里子は淡路島だからさ、虫には慣れてたんじゃないかな。蝉ぐらいだったら怖がらないよ」
「……彼女は気が強くて、虫なんかを怖がるなんて……って態度だったよ」
「あいつは……うん、怖がったな」
 乃里子ではない別の彼女か、本橋さんは言った。
「去年の夏合宿で、あいつは海にいる虫を怖がってたよ。虫を怖がる女ってのも可愛いだろ。山田なんかはちーっとも怖がらないけどさ」
「ミエちゃんには弟がふたりもいるんだから、虫なんかに怯えてたらどうしようもないだろ」
 そうか、山田さんも俺の妹の美咲と似た育ちなんだ、とも考えてから、俺はテーブルを叩いた。
「話をそらさないで下さい!」
「ああ、ごめんな。なんの話しだっけ?」
 乾さんが問い返し、俺は言った。
「このまんまじゃシゲは一生、童貞ですよね」
「そんなことはないさ」
「あるとしたら風俗かな」
「だからさ、あの蜘蛛を……」
 本橋さんはまだ気持ちが蜘蛛に向いているらしい。俺も見てみると、天井に大きな蜘蛛が這っている。叩き落してやろうとしたら、乾さんが言った。
「蜘蛛は害虫じゃないよ。ほっとけよ」
「そうですよね。蜘蛛なんかどうでもええんやけんど、シゲですよ。こいつは……」
「ヒデ、おまえの気持ちはわかるよ。だけど、こんなときにはなんにも言わないほうがいいんじゃないか。まして、リリヤちゃんにはなんにも言うな」
「乾さんに俺の気持ちがわかるはずないでしょ」
「うん? ああ、ごめん」
 なんだってあんたがあやまるんだ、と怒りたくなって、俺は言った。
「シゲはビールごときで酔っ払って、いぎたなく寝てしまいやがって、酔い潰れて寝てるイノシシ男なんか見たら、百年の恋もいっぺんで醒めるでしょ。それでなくてもこんな見た目の悪い奴……身の程を知れ。アホシゲ」
「小笠原……」
「乾さんなんかは……いや、いいんです。俺だって……田舎者だのデリカシーのない野蛮人だのって、女の子には言われますよ。だから、シゲの気持ちはわからなくもないけど……乾さんにはわかるはずがない。俺はビールなんかじゃ物足りないんです、他の酒はないんですか」
「おまえ、まだ十八だろ。俺たちだって十九だぜ。ビールぐらいにしておけよ」
 本橋さんが言い、乾さんも言った。
「うちにはビールしかないけど、もっと飲むか」
「ビールなんかいらんきに。俺は土佐の生まれなんだから、小学生のころから日本酒を飲んでます。酒に関しては土佐は治外法権で、ガキだって飲んでもいいんですよ」
「無茶を言ってくれるね」
 無茶を言っている自覚はあったのだが、乾さんは怒らない。俺はシゲの隣に寝そべった。
「おまえは一生、童貞か……かわいそうにな、シゲ」
 ナンパでもしにいこうか、シゲの寝顔を見てそう思っているうちに、俺も眠くなってきた。
「ビールじゃ物足りないって言ったくせに、小笠原も酔ったみたいだな」
 本橋さんが言い、乾さんも言った。
「今夜はふたりとも、泊まっていけばいいよ。おまえもここで寝るだろ」
「うん、そうしよう。ま、男ってのはこうやってさ……」
「……失恋を噛みしめて、男は大人になっていくんだよな。小笠原に荒っぽく励まされて、本庄はそれもいいんだろうけど、リリヤには……」
「なあ、乾」
 いくぶん声を低めて、本橋さんが言う。身体は動かなくなっていたが、俺には聞こえていた。
「童貞ってチェリーボーイっつうんだろ。本庄がチェリーか。さくらんぼをくわえたイノシシの猪突猛進を想像しちまうよ」
「ウリボウかもな」
「……おまえはどうなんだ?」
「おまえこそ」
「まさか四人とも……」
 そんなはずはないがかや、とは思うのだが、本橋さんと乾さんは未経験なのか。俺は童貞なんかじゃない。高校時代に経験済みだ。
 ええ? 俺だけが経験アリ? シゲはそうだろうけど、本橋さんや乾さんはそうではないだろう。でも、もしもそうだとしたら、俺だけが勝ってる? 下らないけど嬉しくて、確認してみたかったのだが、口も身体も動かなかった。


 好きなプロ野球チームが同じだったから、そのためにシゲとは初対面で会話がはずみ、友達になった。そのわずかあとには、実松とも親しくなった。
「小笠原英彦っつうんやろ。土佐弁やな」
「わかる?」
「俺も西やから……」
「その言葉は京都か大阪か神戸か」
「よその地方の人間は、大阪弁と神戸弁と京都弁の区別がついてないんやろ」
「……おまえは下品やきに、大阪」
「大阪は下品とちゃうわい」
 最初の会話はそんなふうで、彼は言った。
「俺は西の首都、大阪出身の実松でっせ。どうぞよろしゅうに」
「うん、よろしゅうにな。実松、なんていうの?」
「名前は言いたくない」
「なんでやねん」
 はじめっから俺には大阪弁がうつって、実松と話していると変な言葉遣いになっていった。俺は東京の大学生になったのだから、土佐弁は忘れて標準語で話そうと決意していたけれど、たやすく方言が抜けるものではない。
 三重県出身のシゲは意識が強かったせいか、なまりはそのまんまでありながらけっこう標準語で話していたものだが、実松は標準語を話そうという気もないようで、大阪弁ばりばりだったのだ。
「言えよ。俺の名前は知ってるくせに」
「笑うなよ」
「笑うような名前か?」
「弾」
「ダン?」
「大砲の弾、弾丸のダン」
 思わずぎゃーははと笑ってしまって、頭をはたかれた。俺もはたき返して、あれから親しくなったのだった。
 一年生の夏、はじめての夏休み、はじめての合唱部の合宿の夜、実松とふたりして夕方の浜辺を歩いていた。そちこちにカップルがいるってのに、俺はこんなじゃがいも男と散歩。楽しくもなんともない、のではあるが、実松とのお喋りはテンポも合って楽しくなくもなかった。
「キャプテンが……」
「あ? なんかやってはるな」
「なんかって? なんかなんか……おー?」
「ヒデ、見たら失礼やろ」
「おまえだって見てるぜよ」
 てなことを言って、逃げるべきか進むべきか、とためらったのは、キャプテン金子さんが女性と寄り添っていいムードになって、キス寸前といった雰囲気になっていたからだった。見つかると怒られそうだが、見たい。
 実松にしても俺を止めようとはしたものの、見たかったのだろう。ふたりして隠れて覗き見していると、金子さんとキスをした女性が離れていった。あのひとは女子部の先輩か、俺は女子部の先輩の名前は覚えていなかったのだが、綺麗なひとだった。
「金子さん、なにかしてました?」
 そこに別の女性が近づいていった。
「俺はなんにもしてないけど、潮風が気持ちいいね。八幡さんも散歩?」
「すわってもいいですか」
「いいよ」
 長身の美人は八幡さんというのか。彼女も合唱部の女性だとは知っている。すらーっとしたモデルみたいな女性で、華やかさでは金子さんと似合いの一対だった。
「好きなひとはいるんだけど……」
「ああ、そうなの」
「だけど、彼には彼女がいるんですよね。あんなちびでブスで太った女、どこがいいんだろ」
「小さくてぽっちゃりした可愛い子か。いいね」
「金子さんにはいないの?」
「俺は恋はしない主義なんだよ」
 かっこいいな、俺も一度は言ってみたい。俺は恋はしない主義か。言いたくても言えないし、金子さんほどの男だからこそさまになる台詞なのかとも思っていた。
「恋はしなくてもキスはするんですよね」
「キスだってしないよ」
「してたくせに」
「この年になってもキスすらしたことがないんだよ、俺は」
「嘘を言ったって知ってるんですよ。見てたんだから」
「なにを見たのか知らないけど、あなたの目がどうかしてたんでしょ」
 俺たちだって見ていたのだが、見てました、とは言えなくて、実松とふたりで黙って立っていた。
「金子さんとだったら……」
「きみには好きな男がいるんでしょ。キスってのは好きな男とするものだよ」
「金子さんは彼女が好き?」
「きみはさっきから意味不明な言葉ばかりを発するね。俺はキスなんかしたこともない。じゃあ、戻るよ」
「……ああ、そっか」
 ちろっと金子さんを睨んでから、八幡さんは呟いた。
「そんなの、いいのに」
「では、失礼」
 そんなの、いいのに、とは俺にも意味不明の台詞だったのだが、金子さんは問い返しもせずに立ち去り、実松が歩き出したので俺も続いた。
 戻ると言っていた金子さんは、合宿所とは逆方向に歩いている。八幡さんはその場にすわっている。実松が黙っているので俺も黙って、金子さんを尾行する形になった。金子さんはいくらか歩いてから、またまた別の女性に近寄っていった。
 これまた合唱部の女性だとは知っているのだが、名前を知らないひとだ。俺は現時点では女子部のメンバーとなると一年生の子しか名前を覚えていない。金子さんは彼女と並んで浜辺に腰を降ろし、しばらく話してから優しく抱きしめてキスをした。
「……なんなんだろ、あれ」
「うん、ヒデ、行こうや」
 素早く実松と言い交わしてから、俺たちもそこから立ち去った。合宿所へと歩いていく途中で、実松は言った。
「金子さんて、ところ嫌わず相手かまわずキスするんやないんやな」
「キスもしたことないって、よく言ってくれちゃうよ」
「まあ、それはそうやけど、なんで八幡さんとはせんかったんやろ。ごっつう美人やのにな」
「趣味じゃないのかな。俺が行って、八幡さん、キスしよ、って言ったらどうなる?」
「しばき倒されるぞ」
 ありそうなのでやめておいたのだが、その一幕は俺には謎めいていた。
 そいつなのだ。シゲが恋した金子リリヤの兄は。シゲからはリリヤに恋をした顛末をいくらかは聞いたが、金子将一もからんでいるらしい。自分は気に入った女の子とキスするくせに、妹の恋は邪魔するのか。
 リリヤにも将一にも、なんでシゲだったら駄目なんだ、と問い質したい。あいつのルックスがああだから? 田舎の男だからか。
 どうやってシゲがリリヤにふられたのか、詳しくは知らない。シゲも言いたくないだろうから、俺も質問はしない。シゲではリリヤには合わないだろうと思えるのだから、突っ込んだらシゲは悲しくなって、俺は腹が立つだけだ。
 夏休みも終わって、秋の学園祭の準備がはじまる。合唱部も出し物がある。俺がいる心理学部のゼミでも模擬店をやると言う。俺はカツオの叩き模擬店を出そうと提案したのだが、そんなもん、駄目、のひとことで退けられた。
 ゼミの模擬店はありふれた甘党の店だ。女の子が多い学部なので、甘いもの好きも多いのだろう。俺は甘辛両党ではあるが、食うんだったらいいにしても、店はやりたくない。合唱部の歌のほうに力を注いでいた。
 とはいえ、模擬店にも顔を出して、ちょっとだけ手伝ってからあんみつを食った。そこにやってきたのが八幡さんだった。
「ドラ焼き……混んでるね」
「合唱部の八幡さんでしょ。俺は男子部の一年の小笠原です」
「あ……そ? そういえばいたかな」
「俺のゼミがやってる模擬店だから、ドラ焼きだったら買ってきましょうか」
「うん」
 友達がドラ焼き担当だったので、そいつに頼んでひとつだけ先に売ってもらった。八幡さんに差し出すと、ありがとうとも言わず、お金は? とも言わずにひと口かじって言った。
「おいしくなーい」
「材料をケチってますからね」
「こんなのいらないわ。あなたにあげる」
「そうですか。あんみつにします? これ、食います?」
「あんたの食べかけなんて汚い。いらないよ」
 機嫌がよくないのかもしれないが、行儀の悪い女だ。あれだからこそ、気に入った女の子だったらキスする金子さんも彼女を避けたのだろうか。合宿での夕刻の一幕が半分は理解できた。


2

 新入部員の歓迎会が、合唱部行きつけの居酒屋で開催されている。俺たちは二年生になり、今年もたくさんの一年生が入部してきた。
 本年度のキャプテンの渡辺さんが早くから注目しているという噂もあるのが、三沢幸生と木村章。ともに背が低くて子供みたいな体格をしていて、声が高い。俺のようなハスキー系のハイトーンは合唱には向かないという説もあるのだが、木村と三沢のハイトーンは合唱向きだから、キャプテンが注目しているのか。
 三沢幸生の自己紹介を聞いていると、近くの席にいた宮村美子が話しかけてきた。愛称はミコ、八幡さんだったらちびでデブだと言うだろうけど、可愛い子だ。
「彼はどこの出身か知ってる?」
「ミコちゃんも出身地あてするのか?」
「私にはできないよ。小笠原くんも知ってるんでしょ?」
「スカボーイだそうだよ。なーに気取ってやがんだって感じだな」
 横須賀出身、三沢幸生、とは男子部の自己紹介で聞いていた。
「なに? ミコちゃん、まさかあいつに惚れた? やめとき」
「惚れてないよ。珍しい声をしてるから……」
「だろ? あれだけ高い声って男には珍しいんだけど、もうひとり出てきたぞ。あいつも声は三沢以上に高い。体格も似てるよな」
 木村章でーす、と続いて自己紹介している奴を見て、シゲが言った。
「軽そうな奴らだな。今年も新入部員は多いけど、三沢ときたら……俺はあの声を聞いてるとぐったりしそうだ」
「ほりゃあほうじゃきに。男の声なんか聞いててもつまらんがかや」
「ヒデ、土佐弁」
「いちいちやかましいな、おまえは」
 実松も口をはさんだ。
「なあなあ、ヒデ、おまえ……」
「なんや? おまえと喋ってると大阪弁が……アホっ!! 聞こえるやろがっ!!」
 このアホは、ミコちゃんは巨乳やろ、おまえの趣味やろ、と言ったのだ。ミコちゃんはむっとした顔になって立っていき、俺は言った。
「ほら、ミコちゃんが気を悪くしたじゃないか」
「追いかけてってあやまって……そやけど俺は……て言うてこいや、ヒデ」
「別にそんなんじゃないし」
「そうかぁ?」
 知られてるみたいだけど、好きってほどでもないしな、と思っていると、徳永さんがミコちゃんに話しかけているのが見えた。
「帰るのか」
「……ええと、はい」
 ミコちゃんはうなずき、徳永さんは立ち上がった。
「俺も帰るよ。いっしょに帰ろう」
「今日は喜多さんは……」
 ふたりが店から出ていく。実松が巨乳だなんて言うから、ミコちゃんは怒って帰ってしまったじゃないか。送っていくんだったら俺が……とも言えなくて、徳永さんとミコちゃんの後姿を見ていた。
 実松とシゲが食いものの話しをしている。大阪のたこ焼きがどうのこうのと言っている。シゲは去年の失恋は忘れたのか。リリヤには触れないようにしているうちに、聞こえてきたのは、リリヤ電撃妊娠の報だった。
 リリヤは合唱部を退部してしまって、結婚したらしい。兄の将一さんも否定はせずに卒業していった。シゲにはショックだったのか。もはや関係ないのか。食ってまぎらわせられるんだったら、おまえはある意味、幸せ者だな。
 そんで俺は……ミコちゃんは気になるけど、恋ってほどではない。気になる女の子とはいっても、好きとはまた別ものなのかもしれない。俺は恋はしたいし、彼女もほしいけど、ミコちゃんはその相手なのだろうか。
「好きになったら告白しろよ」
 シゲにはいつもそう言っている俺が、行動を起こせない。本気で恋をしたら告白するけど、そこまででもないし、どうもミコちゃんは徳永さんを好きみたいだし、なのだった。
 学部にも合唱部にも気になる女の子はいる。そのうちの誰かに恋をしているのかと問われたら、さあ、どうかな、なのだから、行動が起こせない。時にはナンパもするけれど、成功したとしても、そうやって知り合った女の子とは深い仲にはならない。性交だけが一度、二度程度だ。
 だから俺にも彼女はできないままに、今年の夏合宿も終了した。去年は平和だった合宿が、副キャプテン溝部のせいで相当にごたついたのだが、終わってしまえばひとまずは落着していた。
 秋になったある日、ひとりで下校しようとしていたら、木村章に会った。三沢とは合宿で親しくなったのだが、三沢から紹介はされていたものの、木村は合宿にも来ていなかったので、三沢ほどには親しくない。けれど、知り合いではあるので、彼のほうから俺に声をかけてきた。
「小笠原さん、さぼりですか」
「おー、おまえもか」
「俺は今日はライヴハウスに行くんだ」
「ロックだろ」
「ロックですよ。小笠原さんはロックは?」
 嫌いでもないけど、好きでもない。俺の気になる女の子たち以上に淡い関心しか持てないのだが、ライヴハウスだったら行ってみたかった。
「一緒に行きます?」
「行こうかな」
 連れられていったのは「ロフォフォラ」という小さな店だった。
「ロフォフォラってどういう意味だか知ってます?」
「サボテンじゃないのか。聞いたことはあるぞ」
「土佐にはありました?」
「ないだろうけど、麻薬みたいなサボテンだよな」
「小笠原さんって物知りですね」
「聞きかじりだよ」
 中に入ると、大音響ロックが響いていた。
「うわ、すげえ音」
「ロックってこんな音ですよ。これはコピーバンドだな。今やってた歌は知ってる」
「演奏が終わった曲? 最後しか聴けなかったよ」
「あとで歌ってみてあげますよ」
 ロックのライヴハウスは立ち見というか、立ち聴きなのか。土佐にもライヴハウスはあったけれど、入るのは初だ。木村は慣れているようで、飲み物を買ってくれたので金を渡した。
「おごってくれるんですか。ごちそうさまです」
「このぐらいだったらおごってやるけど、おまえみたいな礼儀知らずに見える奴だって、おごってやったら礼は言うんだよな」
「俺って礼儀知らずに見えますか。でも、礼は言いますよ。言わない女でもいました?」
「それはいいんだけどさ、ドラ焼きだし」
「ドラ焼き?」
「いいから、聴こう」
 派手なファッションのロックバンドが、木村に言わせるとコピーばっかであるらしい曲を演奏している。飲み物はビールベースのカクテルだろう。木村も俺も未成年だが、こういった店は客の年齢になど頓着しないのか。
 俺には初耳の歌をいくつも聴いていると、耳が痛くなってきた。木村もつまらなそうになってきて、次のバンド、その次のバンドと続いていくと、辟易のていで言った。
「下手くそしか出てこねえよ。今夜は失敗だな。出ましょうか」
「下手なんだな。俺の耳が狂ってるのかと思ってたけど、安心したよ」
「こんな演奏を聴いてると、本当に耳が狂いますよ」
 新しいバンドがステージに登場したのを潮に、ふたりで店から出ていった。
「さっきの歌、レッドウォリアーズの「ルシアンヒルの上で」っていうんです。センチな歌詞だけど、俺は好きなんですよ」
「歌ってくれよ」
 ア・カペラロックは珍しいかもしれない。木村は素晴らしく高い声で歌った。

「Good bye 俺たちの小さな傷跡と
 かなうはずのない夢に乾杯さ
 ルシアンヒルの上で置き去りにされた
 Sweet little memory

 いけない遊びばかりで
 はしゃいでいたスクールディズ
 Oh baby まるで昨日の出来事みたいさ」

 ふええ、うまいな、さっきのバンドとはダンチぜよ、と俺は感じ、木村を見た。木村は歌をやめて、俺を挑戦的に見返した。
「かなうはずのない夢だなんて……そんなこと、ないもんな」
「んん? おまえの夢は?」
「絶対、必ず、かなえてみせるんだ」
 ロック好き少年の夢はロックバンドか。木村は続きを歌い出し、おまえだったらきっとなれるよ、と俺は思っていた。
「いい歌じゃん」
 歌い終えた木村に言うと、にたっと笑った。
「幸生が言うんですよ。田舎者がじゃんなんて言うなって」
「俺も田舎者やけんど、三沢の真似をしたんだ」
「じゃんって横須賀言葉じゃないでしょ。あいつがじゃんって言うなって言うから、連発してやるんだ。俺は稚内にいたころから使ってましたよ」
「俺は土佐では言わなかったよ。西では言わないんじゃないかな。えい歌やきに、気に入った」
「俺のアパートに楽譜がありますよ。コピーしてプレゼントしましょうか。小笠原さんの声だったらロックも歌えそうだな。ロックバンドやりません? 俺とツインヴォーカル」
「うーん……」
「いやか。小笠原さんは合唱部が好きなんですよね」
 徳永さんに勧誘されてなんとなく入部した合唱部は、嫌いではなかった。溝部がいなかったらさらにいいのだが、あいつは来年には卒業するのだから、待てばいなくなる。
「俺には体育会で封建的って合わないんですけどね」
「今年のキャプテンは封建的じゃないだろ。穏やかな人格の持ち主だよ」
「渡辺さんはいいんだけどね……」
 去年のキャプテン、金子さんだって、副キャプテンの皆実さんだって、いわゆるいい男ではあった。シゲが関わるリリヤの一件に関してだけは、俺は金子さんに遺恨がなくもないのだが、シゲが忘れた顔をしているのだから、俺も忘れよう。それを除けば、金子さんはいいキャプテンだった。
「キャプテンには権威があるから、俺も去年は金子さんに叱られたり、罰を食らったりもしたよ」
「それでも金子さんを尊敬してました?」
「うん、まあまあかな」
「……俺はそういうのがいやなんだけど、先のことは先になってから考えますよ。俺んち、行きます? お茶でも、って誘う気はないけど、楽譜をあげますよ」
「俺もおまえの部屋に上がりこむ気にはなれんよ」
 木村のアパートについていって、近くのコンビニでコピーした「ルシアンヒルの上で」の楽譜をもらって別れた。木村の歌として俺の印象に刻まれたこの歌を覚えよう。


 高校時代には卓球部にいた俺は、真面目に活動もしていなかったので、後輩とはさして深くつきあいもしなかった。大学合唱部は先輩がいばっている分、後輩の面倒見がいいのも特徴のひとつだ。冬のある日には、三沢に夕食をおごってやった。
「章はこのごろ、さぼってばっかりなんですよ。いっぺん叱ってやって下さいよ」
「おまえが叱ってやれよ」
「俺の声では叱っても重みがないんですよ」
 食事を終えて外に出て、俺にはまだ彼女ができなくて、後輩とデートか、などと侘しく感じながらも三沢と歩いていると、彼がペットショップの店先で足を止めた。
「ここに可愛い女の子でもいるのか」
「そうじゃなくて……小笠原さん、見て」
「猫?」
 寒いのに外に出したケージの中に、猫がいる。檻から鼻面を突き出してみゅうみゅう鳴いている。三沢は猫の鼻を撫でてから言った。
「育ちすぎてるんですよね。生後七ヶ月ほど経ってるんじゃないかな」
 ケージに貼った紙にはディスカウントとの赤文字が躍っている。育ちすぎた猫の値下げか。
「ここを通りがかるたびに、早くいいひとに買ってもらえよって言ってたんだけど、高いでしょ。ルシアンブルーっていうんですよね。血統書つきの立派な猫だけど、子猫だったら売れるにしても、ここまででかくなるとなつきにくくなるし、売れ残ったら処分されちゃうよ」
「おまえが買ってやれよ」
「高すぎます」
 ディスカウントされていても五万以上だ。学生には手は出せない。
「買えたとしても、俺のアパートはペット禁止ですよ。小笠原さんだったら力はあるでしょ。ケージをこわして逃がしてやりません?」
「犯罪だろうが」
「処分されるくらいだったら、野良猫になったほうがいいよ。公園にでも連れていってやったら、ここまで大きくなってたらひとりで生きていけますよ」
 なんて悲痛な顔をするんだろ。三沢は猫好きだとは聞いていたが、ここまで好きなのか。
「逃がしてやったとしても、ぬくぬく育って狩りもできないのかな。俺が教えてやるよ」
「おまえは狩りができるのか」
「ゴミ箱漁りだったら教えてやれますよ。今だったら店員さんも見てないよ。こわして」
「アホか」
 とは言うものの、そうしてやったら猫は……できるはずもないのに、俺もケージをこわしたくなっていた。
 ルシアンブルー……ルシアンヒルのある場所で生まれたのか、おまえは? 歌と猫は無関係なのかもしれないが、処分ってのは殺処分か。売れないままに大人になってしまったら、おまえは殺されるのか。三沢の悲痛な気分が伝染してきた。
 俺は特別に動物は好きでもないが、ブルーグレイの毛並みの猫が、自分の運命を察知しているかのごとく、哀れな瞳で見つめるのを見ていると悲しくなってくる。ペットショップの猫や犬は金持ちに買われていって、安穏に暮らすのかと思っていたけれど、そうでもない奴もいるのか。
「やってやりたいけど、見つかったら警察だ。三沢、諦めろ」
「そうですね。見ないでおこうっと」
「それがいいよ」
 どうしてやることもできずに、俺たちはペットショップの前を離れた。ここは大学から近い繁華街にあるのだから、近くを通りかかる場合もある。それまではペットショップになんか興味はなかったのに、三沢に教えられてからは俺も店先を覗いてみるようになった。
「あ……いないな」
 師走の街にクリスマスソングが聴こえるころ、猫のケージがなくなっていた。売れたのか、と俺は単純に考えて、三沢に報告した。
「売れたんだったらいいけど……いいえ、いいほうに考えましょう」
「そうだよ。悪いほうに考えず、人生はプラス志向で行かなくちゃ」
「ルーシーちゃん、幸せになってね」
「ルーシーってあの猫の名前か」
「女の子でしたよ。ルシアンのルーシーちゃん」
 三沢が女好きなのも知っていたが、猫でも女がいいとは、すごいとしか言いようがない。俺は猫がオスかメスかなんて気にも留めていなかった。
 そうだ、いいほうに考えよう。ルーシーは金持ちの飼い猫になって幸せになる。春になれば溝部は卒業して、本橋さんがキャプテンになるに決まっている。乾さんが副キャプテンなのも、ほぼ確定的だ。徳永さんというひとがいる以上、合唱部に平和は訪れないかもしれないが、それも楽しいではないか。
 ルシアンヒルとルシアンブルー、ふたつのルシアンが、俺の気持ちを波立たせた。ブルーは幸せになったのだから、俺だって将来はヒルのほうの境遇ではなく、いいほうへころぶさ、と思っていると、三沢がぽけっとした顔になって言った。
「なんか変だと思ってたんだけど、ルシアンじゃないよ」
「ええ?」
「あの猫はロシアンブルーだった。似たようなものだからいっか。ローシーよりもルーシーのほうが可愛いしね」
「そうか……」
 ま、どっちでもいい。メスでもオスでもローシーでもルーシーでもいい。あの猫は大富豪のペットになって、俺たちよりもうまいものを食って、ぶくぶく太っていくのだ。狩りをする必要もないんだから、それでもいいのだろう。


3

 とうとう女につかまっちまったか、ってな気分もあるのだが、彼女ができたのを嬉しいと考えよう。茨城県出身の合唱部の子である柳本恵と俺は、三年生になってからつきあうようになっていた。
「おまえはロックは好きか?」
 ひとり暮らし同士なので、ふたりきりになる場所はどちらかの部屋だ。今夜は恵の部屋にいた。
「おまえも知ってるだろ。木村章が大学を中退したのは、ロックバンドをやりたいからだって。このバンド、木村に教わったんだよ」
 レンタルショップで借りてきたレッドウォリアーズのアルバムを、恵のラジカセにセットした。俺は「ルシアンヒルの上で」しか知らなかったのだが、恵はレッドウォリアーズなんて知らないようで、興味もないようで、白けた顔をしている。が、ひとつの歌を聴いて笑い出した。
「こんなにいやなもの?」
「いやだよ。当たり前だろ」
 その歌とは「Mr.WOMAN」。こんな歌詞だ。
 暗い酒場で知り合ったいい女をベッドにひきずり込み、彼女の股間に手を伸ばした男が絶叫する。な、なななな、なんだ、これはーっ?! 俺と同じものが……あってはならないものが……である。
 ルシアンヒルを歌っている奴らがこんな歌も……ロックって品のよくない音楽なんだもんな、こんなの普通なのかな、と俺は思っていたのだが、女と聴いているとどんな顔をしてどこを見ていればいいのかわからなくて、すわり心地がよくなかった。
「こんなにも強烈な反応を示すの?」
「そりゃそうだろ」
 他の歌には興味なさげだった恵は、この歌には楽しそうな顔になった。
「ヒデにも経験あるの?」
「あるわけないちや」
 あったとしたら、俺だったらどうするだろうか。想像したくもない。
 この世の中にはいろんな奴がいる。心は女なのだと言う男もいるのだそうで、それはそれでそう生まれてしまったのだから仕方ないけど、だますのはいかんちや。しかし、あたし、ほんとは男なのよ、とは言えないか、と考えていると、恵が言った。
「ヒデは最悪の顔と体型の女か、ものすごーい美少年の男か、いずれかとベッドインしなかったら殺す、って言われたらどうする?」
「いずれも断る」
「断ったら殺されるんだよ」
「殺せるもんだったら殺してみろ」
「答えにはなってないけど、すると、私だったらいいんだよね」
「おまえぐらいやったらえいけんど……って、土佐弁が出てるな。うん、おまえは最悪じゃないもんな。俺はあんまり細いのは趣味じゃないから」
 最良でもないのかもしれないが、恵は嫌いではないのだからいい。燃え盛る恋の炎はないにしても、俺は体質として女に無我夢中にはならないのかもしれない、とも考えられる。最良でもないと言うと恵が怒るだろうから黙っていた。
「私だったら最悪男よりは、美女とベッドインするほうがいいな」
「レズっ気あるのか?」
「そんなものはないけど、女だったらたいていはそうなんじゃない? 他の女の子にも聞いてみたら? たぶんそうだよ」
「聞けるかよ」
 うるさいなぁ、と言って、恵はラジカセを止めた。そこからはふたりっきりだといつもする行為に突入していく。恋には燃えなくても抱き合うことには燃える。身体が自然に反応して、たぎり立つ。ほとばしる。男として生きている実感を覚える。
「男だ女だばっかり言うな」
 乾さんはそう言う。山田さんも言う。男だから男なのだと言ってはいけないのかと、俺は疑問に感じる。男性的ではない男の乾さんと、女性的ではない部分もある女の山田さんだからこそなのか。彼と彼女は俺よりも大人で、思考が深いから深く考えてものを言うのか。
 むずかしくなんか考えなくてもいい。俺は恵と抱き合いたくて、恵も俺と抱き合って幸せそうなのだから、将来のことも考えずに、ひとときこうしていられればそれでいい。
 Mr.WOMANなんてのもあるけど、普通はセックスは男と女がするものだ。俺には女性経験はいくつかあれど、幾度も抱き合った相手は恵だけ。恵の過去もどうだっていい。今は俺たちはこうしてつながって、こうしてむさぼり合っているのだから、それだけでよかった。


 知っていたのだ、俺は。八幡早苗がどんな女なのか、すこしだけは知っていた。シゲにはそぐわない女だとも知っていた。リリヤはあのころは純真な少女だったけれど、そんなリリヤに精神的には翻弄されたシゲが、今度は八幡さんに肉体的に翻弄されたのか。
 そんな女とシゲははじめて寝たのか。シゲと八幡さんがそうなっていたとは知らず、知っていたとしてもよけいな口出しはできなかっただろうから、どの道こうなったのか。
 三年生の終わりごろに本橋さんと乾さんに誘われて、本庄繁之と小笠原英彦と二年生の三沢幸生は、フォレストシンガーズのメンバーになった。
 近い将来には必ずプロになると誓い合った五名のヴォーカルグループは、本橋さんと乾さんが卒業してからもアマチュアのままではあるが、小さな仕事ももらえるようになって、夢をかなえるために歩いている。
 四年生になったシゲと俺は就職は決めず、親に怒られたりもしたものの、決意を覆す気はない。そんなころにシゲの恋。シゲにとっては恋であって、八幡さんにとってはあてつけだった。
 噂はあったようで、乾さんや美江子さんは知っていたのかもしれない。八幡さんは学生時代から本橋さんが好きだった。なのに本橋さんは八幡さんを好きではなくて、彼女のほうから告白されたのも断った。八幡さんが金子さんに言っていた「好きなひと」は本橋さんだったのか。
 金子さんもそうと知っていたのかもしれないが、あんな女の告白を断った本橋さんは賢明だ。だのにだのに、シゲのアホは……
「でも、シゲは童貞ではなくなりましたね。その意味ではめでたいか」
 真相が明るみに出た数日後、常の練習場所の公園には俺が一番に来ていて、続いてあらわれた乾さんに言った。
「あんなおっさんみたいな男が、いつまでも未経験ってのはね。乾さんは経験したんでしょ」
「その意味でめでたい。そういう考え方もあるんだな」
「乾さんはいつでした?」
「好きで好きで愛しくて愛しくて、そんな女の子と数年前にしたよ」
 誰なのかは知らない。幸生は恋の話しをちらほらとはするが、本橋さんも乾さんも、後輩たちにはそんな話は一切してくれないのだから。
「女の子を抱くって、そういうもんだろ」
「そうでもない奴もいますよ。俺なんかはそうでもないな」
「そうなのか」
「あのときもこのときも、俺はシゲにはなんにも言いませんよ。しかし、あのアホは……なんでそんなんばっかりなんやろ。純情すぎて……」
「そうなんだろうな」
 合唱部の三アホ男の実松とシゲとヒデ。中ではシゲはアホとはいってもましだと思っていたのだが、別の意味でのアホだった。
「秋の日のヴィオロンのため息の身にしみて
 ひたぶるにうら哀し」
 乾さんは詩を口ずさんでいる。なんであんたが哀しいんだよ、と言いたくもなったのだが、俺も哀しかった。
 八幡さんの気持ちがしっかりとわかった日には、雨の中を五人で銭湯まで走っていった。びしょびしょになって五人で風呂に飛び込んで、幸生はシゲに湯をかけて笑っていた。シゲが幸生の頭を押さえて湯に沈めようとして、乾さんに叱られていた。
「他のお客さんの迷惑だろ。こら、おまえらはガキか」
「ま、やらせてやれよ」
 本橋さんは言ったのだが、乾さんは許してくれなかった。
「貸切じゃないんだぜ。他人に迷惑にならないようにやれよ」
「お、他のお客さんがいなくなった。俺もやってもいいでしょ」
「誰かが入ってくるまでだったらいいかもな。風呂の湯がなくならないように、控えめに騒げ」
 乾さんに言われて、年少の三人で風呂の中で遊んでいた。シゲは元気に笑っていたけれど、心の中は荒れ狂っていたのか。そやきにあいつはアホなんやきに。
 それから日がすぎて、シゲはもとに戻っているように見える。けれど、完璧に忘れられるものでもないようで、時として沈み込んでいる。ぶっ飛ばして怒鳴りつけてやってもどうなるものでもないかと思っていたのだが、次第にもと通りになってきていた。
 本橋さんと乾さんは卒業してフリーターになっているのだが、以下の三人は現役大学生だ。合唱部も続けている。シゲと俺の根回しの結果、キャプテンを押しつけた実松は、就職も決まって心置きなく合唱部運営に全力を注いでいて、その実松と部室で話した。
「あのシゲにも、つらいことがあったんだよ」
「シゲのつらいことて? 金がのうてメシが食えんのか」
「おまえはシゲのつらいことったらメシか。んん、まあ、近いかもな。そんでな、シゲは元気がなくなってて、なんとかしてやらなくちゃ、ったって、俺にはどうにもしてやれんし……」
「金、貸したったらええやんけ」
「俺にも金なんかないわい」
「俺も金はないけど、学食で昼メシやったらおごったるで」
「俺におごって」
「シゲの話しやろが」
 メシの話しにしておこうと、俺は言った。
「メシが食えないからって、そうやっていじけててどうするんだ、しっかりしろ、ってな。シゲは乾さんにどやされたらしいんだ。乾さんって人は一見は柔和だけど、怒ると怖いんだぞ。俺は乾さんとだったら喧嘩したって勝つから、怒られても怖くもないけど、幸生だってシゲだって……ああ、そうなんだな。うちのリーダーは本橋さんだけど、乾さんがいてこそ……」
「本橋さんておまえに似たところがあるもんな。乾さんと三沢がおってこそのフォレストシンガーズか。そこんところはわかるけど、メシが食えんとそんなに……? そんな話しとちゃうやろ」
「そんな話しだよ」
 じゃがいもみたいな顔をしているくせに、俺の話しの裏を読もうとしている。実松はガラになく真剣な顔をして言った。
「シゲの失恋か」
「シゲは恋なんかしないんだ。似合わないだろ」
「あいつ、恋はいっぺんもしてないんか」
「おまえもだろ」
「おまえもやろ」
 先輩たちの恋の話も知らなければ、実松の恋の話も知らない。俺にだってあるのだから、彼にもあるのかもしれないが、案外、そんな部分は知らないのだった。
 シゲはそうやって乾さんにどやしつけられてしゃっきりしたらしい。幸生は幸生で、なにやら悪いことをして乾さんに殴られたらしい。俺も本橋さんや乾さんに拳骨でこつんだのごちっだのはやられるのだが、決まった女がいると悪さはしなくなるもので、それだけはいいことなのだろう。
 ちっぽけな争いごとはある。本橋さんと俺が睨み合ったり、幸生が乾さんに叱られていたり、シゲと俺がジョークまじりで取っ組み合ったり、俺が幸生を放り投げたり、シゲだって時には幸生を叱りつけている。
 フォレストシンガーズの活動は、公園での歌の練習と、たまーに飛び込んでくるノーギャラの仕事。それしかないけれど、いずれはきっと、と五人ともに信じて、季節が過ぎ去っていった。


結成一周年の記念日は、美江子さんが言い出してパーティをすると決まった。女性はそういうものが好きなのだろうが、美江子さんの部屋に男が五人で行くのもね、と乾さんが言って、乾さんのアパートでパーティだ。
 パーティをするほどでもない気もするが、料理は美江子さんがしてくれると言う。美江子さんが作ってくれるご馳走を楽しみに、俺は乾さんのアパートへと向かっていた。
 先に美江子さんが乾さんのアパートで料理をしているのか。乾さんも手伝っているのだろうと思っていたのだが、乾さんのアパート近くの公園に入ると、幸生と乾さんの姿が見えた。幸生が泣いているように見えて、俺は木陰に隠れた。
「ミエちゃんは猫嫌いだよ。それにさ、子猫をうちに連れて帰ったって、同居なんかできないだろ。俺んちだっておまえんちだって、本橋だってシゲだってヒデだって、ぼろアパートに住んでるんだからペットは無理だ。置いていけよ」
「死んじゃいますよ。寒いのに」
「寒いよな。だけど、連れて帰ってもまた捨てにこなくてはいけなくなるだろ。いっそう悲しいだろ。この樹に張り紙でもしていくか」
「子猫をもらって下さいって? 誰も見てもくれないよ」
 また猫か。幸生は子猫らしい白いかたまりを抱いていて、乾さんは困り顔をしていた。
「俺んちに連れていこうかな。おふくろが引き取ってくれるかな」
「レンタカーって、今から間に合うのかな」
「電車でだって行けますけど、おしっこでもされたら困るな」
「だろ。生き物ってのはね……おまえが横須賀まで往復してたら、パーティには欠席になっちまうぞ。ミエちゃんががっかりするよ」
「乾さんは猫よりもパーティが大事?」
「そうは言わないけどさ。誰か引き取ってくれる人がいたらいいんだけど……」
「いませんよ。雑種の猫なんだから」
 どうするべきかとふたりして話し合っても、結論は出ない。ここは心を鬼にするしかないではないか。そんなもんは捨てていけ、と言おうとしていたら、幸生が激しい調子で言った。
「乾さんなんていいかっこばっかり言ってるけど、こんなちっちゃいの一匹をどうすることもできないんでしょ。格好つけてたってそうなんじゃないか」
「そうだな」
「だったら、先輩だからっていばってばっかり……」
「あ、ヒデ?」
 歩み寄って幸生の横っ面を張り飛ばすと、乾さんは驚いた顔になって俺の手をつかんだ。
「短気だな。殴らなくてもいいだろ」
「先輩に向かってなんなんだ、おまえのその言い草は」
 横を向いて歯を食いしばった幸生の目から、涙がこぼれそうになっている。乾さんは言った。
「ちょっと待ってろ。なんとか……うん、なんとかするよ」
 言い残して乾さんは走っていき、俺は幸生を見下ろした。
「猫っていうと、おまえは普段の幸生じゃなくなるんだな」
「ヒデさーん、泣いていい?」
「泣くな。アホ」
「泣いたらもっとぶたれそうだから、泣かないけどさ、痛いなぁ。ヒデさんにマジでぶたれたのってはじめてかも。マジじゃなかったら前にもぶたれたけど、ヒデさんのお叱りのほっぺたぱちんもあったかいね。寒くてほっぺが冷たくなってたのが、ぽかぽかしてきたよ」
「ひりひりだろ」
 力は入れていなかったのだが、幸生の頬はやや赤くなっていた。
「乾さんはどこへ行ったんだ?」
 どこなのかは幸生にもわからないらしくて、待つしかなかった。本橋さんやシゲも乾さんのアパートに到着しているであろう時刻になって、乾さんが誰かを連れて戻ってきた。
「獣医さんの知り合いがいるんだよ。ボランティアで捨て猫保護もしてらっしゃる。そちらのナースさん」
 美人だった。彼女は幸生の腕から猫を抱き取り、優しい声で言った。
「乾さんは以前に、怪我をした子犬をうちの病院に連れてきてくれたんですよ。その子は迷い犬だったんだけど、うちで引き取って、里親さんを探したんです。幸いにももらってくれる方がいらっしゃいました。そのときにも乾さんには寄付をしていただいたの。あんまりお金持ちでもないそうですのにね」
「いえ、それはいいんですけど、こいつもお願いできますか」
「子猫だったら、引き取り手はあると思います。うちの先生は顔も広いし、なんとかなるでしょ。可愛い子だね。里親さんが見つからなかったら、私がもらっちゃおうかな。乾さんもこの子を抱っこしてあげて」
「はい。俺ですか」
 乾さんが抱いた猫を、ナースさんが再び抱いた。
「間接抱っこだったりして。乾さん、三沢さんに小笠原さん、お引き受けしました。乾さんが抱いた猫だったら、私がほしいなぁ。乾さん、今夜も寄付をありがとうございました」
「いえ、ほんの些少で」
「じゃあね。三沢さん、ご心配なく。泣かないでね」
 明朗闊達に言って、彼女は猫を抱いて歩いていった。
「泣きませんけどね……あのひとも乾さんに……くそくそ、このこの」
 幸生が乾さんを肘でつつき、それから頭を下げた。
「ごめんなさい。俺は考えもなく……ヒデさんにぶたれて心を入れ替えました。前言は撤回します。乾さんはさすがの先輩」
「たまたまだよ。なんとかなってよかったな」
「ヒデさん、ありがとう」
「俺は別になんちゃあしてないし……」
 そっかあ、今のナースさんも乾さんを好きなんだ。あいかわらずもててるな。それにさ、こんなちっちゃい出来事にしても、乾さんは行動力あるよな。なんて考えつつ、三人で乾さんのアパートに急ぐ。当然、本橋さんもシゲさんも美江子さんも顔をそろえていた。
「遅い」
 本橋さんが言い、乾さんと俺の頭をごつんとやる。幸生もごつんとやられそうになったのだが、美江子さんが止めた。
「幸生くん、涙目じゃない? なにかあった?」
「なんにもありません。遅刻してすみませんでした。僕ちゃんは美江子さんがごつってやって」
「こう?」
 美江子さんは軽くソフトに幸生の頭を叩き、幸生は嬉しそうに笑っていた。
 言いたくもないのだろうから、俺も猫の一件は話さない。乾さんも口にはしない。美江子さんの心づくしの料理や酒の並んだテーブルを囲んですわり、ワインで乾杯した。
 乾さんがかっこつけだってのは当たっているのだろうが、俺だって幸生に格好をつけた言動をしたのかもしれない。だから、俺も口にしたくない。ひっぱたいておいて礼を言われるとは恥ずかしいのだが、幸生はそんな奴なのだろう。
 俺に似ていて気が短くて、後輩とだって本気の喧嘩をしそうなリーダー。俺とは別の意味でアホなシゲ。格好つけでもかっこいい乾さんと、可愛いといえば可愛い後輩の幸生。それから、気は強いけど優しい美江子さん。
 大学の合唱部で知り合って、こうして仲間になった俺とは縁の深い先輩や同輩や後輩。生まれたときから俺たちには「えにし」があったのか。
 酒を飲んで美江子さんのご馳走を食べて、歌を歌って賑やかにやりつつも、俺は不可思議な気持ちになる。乾さんの言う「運命」が、俺たちの間をつないでいるのか。恵もそうなのだろうか。あいつとの間にも運命は、縁はあるのだろうか。
 恵とは先がどうなるかわからないにせよ、もやもやっと俺の将来が見えてくる。私生活には妻と子がいて、成功したフォレストシンガーズのメンバーとして、テレビに出たりライヴもやったりしている俺。桂浜で野外ライヴをやっている俺たちの姿も見える。
「ヒデっ、かっこいい!!」
「コウ、あれ、まっこと兄ちゃん?」
「うん、見違えるみたいにかっこえいよな」
 高校時代の女の子のクラスメイトや、弟や妹が、ステージで歌う俺を見て言っている。自己中心的にも俺ばっかりが見える。俺の知り合いばかりが見える。幸せな妄想だ。そのころにはシゲだって……うん、おまえにもあんなんじゃない恋もやってくるさ。
「小笠原くーん、こっち向いて」
「ヒデーっ、素敵っ!!」
「兄ちゃーん!!」
 土佐のライヴ会場にいる友達や弟妹の顔と声のバックには、太平洋の荒波が砕けていた。


END



 
 
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