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小説252(Once upon a time)

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フォレストシンガーズストーリィ252

「Once upon a time」


1

 初夏の午後、男子合唱部室には、先輩たちがいる。三年生の金子将一さんと四年生の星丈人さんが話しているのに、俺は耳を集中させていた。
「そりゃそうだろ、俺たちは男なんだからさ」
 星さんが言い、金子さんも言った。
「星さんだったらそういう思想ですよね」
「おまえはちがうのか?」
「いや、そりゃあね、そういうことがあったら俺だって、男としてはそうしたいけど、なにしろ彼女がおりませんので」
「彼女がおりません……嘘だろって言ったって、本当です、としか言わないよな」
「本当です」
 二十歳の金子さん、二十二歳の星さん。聞き耳を立てている一年生の俺は十八歳。大人の会話だなぁ、でもあり、へええ、そうなのか? でもあった。
 男は彼女をリードして引っ張っていく、それが男たるものの使命である、みたいなことを星さんは言っていて、金子さんも肯定している。俺にだって高校時代にも彼女はいたし、現在も彼女と呼んでもいい女の子はいるけれど、リードとなると……
 金沢の高校時代の彼女だったまゆりには、俺のほうがリードされていたのではなかったか。今の彼女の香奈も、頭のいい気性のしっかりした女の子であるだけに、俺がリードするなんて心もとない。まゆりは過去だからいいとしても、香奈は俺にリードしてほしいのか。してほしくない、と言いそうな気もした。
 しかし、星さんの彼女といえばあのミエちゃんだ。山田美江子は俺の友達でもあるので、気性は次第に読めてきている。あのミエちゃんは星さんにリードされていて幸せなのか。星さんの気性からしても、男がリードする、は当然の思想だと思えるが、当のミエちゃんはどう考えているのだろうか。
 先輩たちの会話には十八歳のガキは首を突っ込みにくい。女の子のミエちゃんにはっきり訊くのはやりにくい。まちがった思想ではないはずだが、男がリード……一概にそう言い切っていいものか。
「星さんの彼女は、星さんという男に恋をしている。彼女は女性として、そんな星さんに頼って甘えてもいるんですよね。甘えと言うと言葉がよくないのかもしれませんが、恋人として、男としての星さんに……なんと言い換えればいいのか……」
 俺がしたかった質問を金子さんがしてくれて、星さんが応じた。
「言葉なんかなんだっていいけど、あいつは俺に恋してるさ。あいつは素直じゃないから、さからったりもするけど、結果的には俺についてきてるんだよ」
「やや時代錯誤って気も……」
「時代錯誤か。金子」
「はい」
「男と女ってのはさ、こういう仲だと時代にマッチしてる、これが正しい、これが誤りだ、ってなもんじゃないだろ」
「彼も彼女もそれがいいのならば、はたから口出しする問題ではないと」
「わかってるじゃないか」
「頭ではわかってますけどね」
 どうも俺にはよくわからない。ガキだからなのか。星さんと金子さんは見つめ合っていて、互いの気持ちを読み取ろうとしているのか。言葉にはしていない部分までを?
 ふたりともに背が高い。俺も低くはないのだが、星さんも金子さんもさらに高い。少年じみた体格の俺とはちがって、筋肉もついた大人の男に近い体格をしている。秀麗で彫りの深い、翳りもある星さんの美貌、華麗で甘さもある金子さんの美貌。男の俺でも見とれそうな彼らの貌は、男らしく整っている。
 男だから、男として、と彼らが口にしているから、俺も男としては……と考えてしまう。俺と同学年の親友である本橋真次郎も、ガキ度では俺以下のくせして、やたら、男男と言いたがる奴だ。去年亡くなった俺の祖母も、よく口にした。
「隆也は男の子なんだから、女の子には優しくしないといけないんだよ。女の子は身体も小さくて心も傷つきやすいんだから、男の子が守って大切にしてあげないといけないの。男は強くなくちゃいけないの。そして、優しくなくちゃいけないの」
「俺よりでかい女の子っているけど? ばあちゃんは小さいけど、心は弱くないだろ。傷ついたことなんかないだろ」
「ばあちゃんは長く生きてるからね」
「妖怪みたいに長く生きてるんだもんな」
「妖怪って今度言ったら、口をひねり上げるからね」
 幼少時から祖母とかわしたそんな会話を思い出しているうちにも、星さんと金子さんの話は続けられていた。
「デートでどこへ連れてくかなんてのは、細かすぎるんだよ。大切なのはいざってときだな」
「たとえば?」
「いざってときがそうそうあったら困るけど、心構えは必要だな。おい、乾」
 聞き耳を立てていたのに気づかれていたのも当然で、星さんが俺の名を呼んだ。
「おまえの意見は?」
「俺には意見を述べるほどの経験も実績もありません」
「彼女はいるんだろ。恋愛経験豊富みたいに言ってたじゃないか」
 カレーショップで昼メシをおごってもらったときに、高校時代には彼女がいたと星さんに言った。ガキの恋なんて……と蔑まれていたようにも感じたが、覚えているのだろう。
「星さんほどではありませんから。いえ、星さんと金子さんのお話はためになりますから、聞いててもいいんだったらここにいさせて下さい」
「俺の話しはためになんかならないぜ。星さんと会話したらどうだ?」
「いやいや、金子の話は俺にはためになるよ」
「なりませんよ。俺のは机上の論理にすぎません」
 クラブ活動もしていなかったので、高校生までの俺は先輩というものとはほとんど触れ合ってこなかった。友達は少なかったけれど、同級生とだったら議論もして、たいていは勝ったつもりでいた。が、大学生の先輩には俺の考えや語彙ではとうてい太刀打ちできない。
 議論すると考えるだけでも、俺ではとてもとても、となる。祖母だったら言うだろうか。あんたなんかひよっこだって、口が達者だってその程度だよ。先輩に負けるのはいい薬だよ。
「よくわかりました。ばあちゃん、降参」
「ばあちゃん?」
 星さんの眉がぴくっとし、金子さんは笑って言った。
「乾のおばあさまか」
「はい。祖母は去年、故人となりましたが、俺は祖母に育てられたようなものです。父も母もいるのですが……いえ、それはいいんです。失礼します」
 こうして生まれた家や親の話をしたくないと考えるところからして、俺は傲慢な田舎者なのだ。東京では誰ひとりとして知る人もいない、金沢の家がなんであろうとも、さらりと口にすればいいものを。
 金沢でだけは有名で、金持ちでもある両親の話しはしたくない。先輩たちの会話に割り込んでもいけず、議論したって負けるに決まってると考える。祖母の言う通り、傲慢な鼻は早く折られたほうがいい。
 先輩たちに会釈して部室から出ていきながら、清々しい心持ちにもなる。あんたは傲慢だから、友達もいないんだ、と祖母に決めつけられたのも思い出した。
「あんたは頭は悪くないんだろうけど、そんなのを井の中のカワズって言うんだよ」
「そうだね。東京に来て以来、先輩たちの話しを聞くたびに、痛感するよ。口でも俺が勝てない相手が五万といるって、合唱部に入ってよかったんだろ。星さんや金子さんを代表として、男子部には身も心も強い先輩が何人もいるんだ。女子部にもいるけどね」
「広い世間を見て武者修行かい。とわ子にも言われただろ」
「金沢を出るときに? 立派な男になれなかったら帰ってこなくていいってか。あのひとはばあちゃんの娘だもんな。時代錯誤の男女差別主義だろ」
「誰かが言ってたね」
「時代錯誤? そんな語彙はもとからあるよ」
 上京してからはひとりの時間も増えて、そんなときには祖母と会話をしている。祖母との会話は俺の精神と精神の会話でもあるのだが、寂しがり屋のあらわれでもあるのか。
 ひとりが好きで群れるのは嫌いで、孤高の少年を気取りたがっていた俺が、高校を卒業して単身で東京に出てきて、本当にひとりになった。そうなると祖母と架空の会話をして、自分自身を見つめ直すためにもなっているのだろうが、結局のところ、俺はひとりでは生きられない。
 子供のころには距離のあった両親から離れて、誰も知らない東京でひとり暮らし。嬉しくてたまらなくて、ひとりぼっちは寂しくなんかないと思っていたけれど、心の中に祖母がいて、ついてきてくれた。
 人はひとりでは生きられないなんて、そんな当たり前の事実に気づくのは、十八歳では遅すぎる。遅すぎはしても手遅れではないはずだ。
「香奈ちゃんがいるよ」
「……これからは出てくんなよ、ばあちゃん」
「私は出てきたくなんかないよ。あんたが呼ぶんだろ」
「呼んだ覚えはないよ。ばあちゃんは引っ込め」
 ガキのころのまんまに祖母に憎まれ口を叩いて、遠くに立っている香奈に手を振った。
 まゆりに似たところもなくはない、小柄でほっそりした可愛い女の子だ。純情可憐とばかりは言い切れなくて、そんなところも好きな香奈。俺は香奈をリードするのではなく、ふたりして手を取り合って歩きたい。
「香奈ちゃん、メシ食って帰ろうよ」
「バイトの賃金が入ったから、おごってあげる」
「おごってもらうのはいやだと言っただろ」
「乾くんがおごってくれたことはあるでしょ。私だっておごられっぱなしはいやなの」
「彼女とデートして彼女に払ってもらうってのは……」
「男のプライド? 私はそういうのは嫌い」
「そうだね。うん、ごちそうさま」
 やっぱり俺も、男だから、思想に縛られている。いささかしょぼんとすると、香奈は俺に一万円札を手渡した。
「これで払ってね」
「俺に支払いさせてくれるって……男のプライドを考慮して?」
「私にもプライドはあるんだから、わからなくもないかな。男だ女だじゃないけど、プライドは人間としては大切だよ」
「そうだね。ありがとう」
「おつりは返してね」
「もちろんです。ありがとう、香奈ちゃん」
「何度もお礼を言わなくていいの。行こう、乾くん」
 手をつないで歩き出す。先輩たちの大人の会話を聞くのもためになるけれど、香奈とふたりっきりの時間はためになんかならなくてもいい。いや、これはこれで、別の意味でためになる。はじまったばかりの香奈との恋は、俺の将来にどんな影響を与えるのだろうか。


無条件で尊敬する先輩の第一は、キャプテンの高倉さんだ。彼以外にも、無条件とまでは言えなくても尊敬している先輩が数人いる。副キャプテンの渡嘉敷さん、星さん、三年生の金子さん、皆実さん、その他にも。
 尊敬ではなく敬愛を感じる同年の本橋やミエちゃん。学部にも友人はいるものの、合唱部にも友人ができて、ひとりが好きだなんて思っていた乾隆也はどこの隆也だ? となっていた。
 恋にはならない女友達もいる。恋人もいる。ファーストキッスはまゆりとだったのだが、先日、香奈とはじめての体験をした。香奈は俺とひとつになりたくて、そうは言い出せなくてじれったかったのか。そうは言えないのは女の子のプライドだったのか。
 ヒステリックになって俺の部屋で食器を割った香奈を抱き上げて、怪我をしないようにと運んでいたら、俺の首にしがみついた香奈が言った。
「乾くんは私を好きじゃないの?」
「好きだよ。好きだ好きだ好きだっ!!」
「だったらどうして……」
 どうしてベッドには入らないの? だったのか。すべては言わなくても、香奈の瞳が語っていた。そして、俺は香奈とベッドで抱き合った。
「女の子を抱っこしてベッドに運ぶって、はじめてじゃないでしょ?」
「ばあちゃんだったらおぶったりしたけど、ベッドに運んだのは香奈がはじめてだよ」
「ほんと? 私も男の子に抱き上げられるのははじめてだったな。乾くんって……隆也くんって、細い腕に見えて力はあるんだね」
「香奈ちゃん程度だったら抱っこして運べるよ。おまえなんか女にも負けるだろ、って本橋は言うんだけど、女の子と喧嘩なんかしないんだから、香奈ちゃんを抱いて運べたら、力は十分だよな」
「喧嘩は私とだったらするじゃない」
「あれは別の喧嘩だろ」
 ベッドでの甘い睦言。もちろん俺には初体験だ。
 きみを抱きたい、と考えて、実行はできなかったまゆり、さよなら。俺には彼女ができたよ。彼女を抱いたよ。女の子の身体って素敵だな。細くてもやわらかくて、ふっくらまろやかなふくらみが、あそこにもここにもあって、裸になると俺の目を射る。
 すべすべの綺麗な肌、さらさらの髪、愛らしい笑顔。無言で抱き合っていたはじめてのひとときが、俺にはなによりも貴重な時間だった。
「誰か思い出してる?」
「思い出すひとなんかいないよ。香奈は?」
「隆也くんだけ」
「うん、俺も香奈だけだ。愛してるよ」
 うふっと笑って、俺の肩に頬を寄せる香奈。裸と裸で抱き合って、ぎこちない愛の行為をかわすのは、こんなにも素敵なものだったんだね。


 狭い小さなアパートの小さなバスルームで、香奈が服を着ている。ベッドに入る前にはかわるがわるシャワーを浴びて、香奈は服を着て戻ってくる。次第にベッドに入ることにも慣れてきて、軽口をきいてみた。
「香奈がシャワーを浴びて出てくるときにも服を着ているのは、俺に脱がせてほしいから?」
「隆也くん……嫌い」
「ああっと、ごめんっ!!」
 そのきつい目も好きだ。俺は香奈の瞳の輝きも好きだ。あれもこれも、香奈のすべてが好きだ。
「女の子の……香奈の服を脱がせるって……気持ちいいな」
「隆也くんは口数が多すぎるんだから、黙っててよ」
「はい、黙って脱がせます」
 一度は言ってみたい。一緒に風呂に入らない? 一緒にシャワーを浴びない? きみを抱いてバスルームに運び込んでいい? だけど、こんなに狭いバスルームでは、ふたりで入るといっぱいになってしまうかな。
 つまらない憧れすぎて口にもできないけれど、香奈と一緒に入浴したい、が俺の夢のひとつではある。金があったら、暇があったら、香奈も俺も独り暮らしだから親の目を盗まなくても、旅行にいけるのに。
 いや、大学一年生の分際で彼女と旅行なんて生意気すぎる。将来がなんにも見えていない俺たちは、結婚なんて考えられないのだから、彼女を抱くのも早すぎると考えていた。なのにこうして抱き合って、そこまでで十分だろ、隆也?
 今日はベッドのあとで、香奈はバスルームで服を着ている。覗きにいきたい。恋人同士でもしてはいけないのか。
 怒られるであろうとは承知の上で、俺は抜き足差し足忍び足でバスルームに行った。下着だけをつけた香奈が鏡に向かっている。脱がせるときに見たおそろいの下着の上下は、白地に小花柄だ。バストもヒップも豊かではなく、小ぶりなのも清純さのあらわれだと思える。
 小さな肩や細い腕、きゅっとくびれたウェスト、すんなり伸びた綺麗な脚。香奈の全身が俺の目を眩ませる。一緒に風呂に入ろうよ、と言いたくて言えなくて、俺は香奈に見とれていた。
「……隆也くん」
「あ、気づいてた?」
「こんなところを見ないで。出ていって」
「ごめん」
「……あやまるんだったら最初からしなかったらいいんでしょ。ピーピングタカ」
「……ごめんごめん。だけどさ、香奈の下着姿も魅力的だよ。香奈……」
 もう一度、のつもりで近づいて抱き寄せようとしたら、足を踏まれた。
「おじさんでもないのに、このごろの隆也くんって好色だよね」
「ごめん……でも、おじさんよりは若い男のほうが好色なんだよ。なんたってここがさ……」
「ここってどこよ? やめなさいっ」
「はい、ごめんね」
 すごすごと退散していく俺の背中に、あやまってばかりの隆也くんは嫌い、の言葉が投げかけられる。
 あやまらなかったらよけいに怒るくせに、あやまってばかりでも怒る。香奈は怒りっぽいのであるようで、俺をも怒らせたいのであるらしい。少女期から脱しようとしている女性の生理現象なのか。理性的なひとが時としてヒステリックにもなる。
 大好きな香奈に向かって怒るなんて、俺にはできない。そんな俺が不満? 俺はきみには不満なんてなんにもないけど、女の子ってむずかしいな気分はある。今も覗きなんかやったから、香奈は怒っているのだろう。低気圧が近づいてきているのか。
「どうかした?」
「どうもしないの」
 服を着て部屋に戻ってきた香奈は、むっつりと言ってバッグを手にした。
「香奈、ごめんね」
「あやまってばかりは嫌いだって言ったでしょ」
「じゃあ、どう答えたらいいんだろ」
「私の機嫌を取りたがる隆也くんも嫌い。今日は隆也くんが嫌い」
「さっきは好きだって言ってくれたじゃないか」
「嫌いになったのよ」
 こうなると途方に暮れるしかない俺に、香奈は言った。
「さよなら」
「帰るって意味? 別れるって意味じゃないよね」
「さあね。帰ってよく考えてみるから」
「別れたいほどに俺が嫌い? 覗きなんかやったから? あやまったら怒るだろ。そしたらどうしたらいいんだよ」
「自分で考えなさいよね」
「メシ食ってから帰れば?」
「今日は晩ごはんは食べないの。隆也くんちのヘルスメーターも嫌い。三キロも増えてるってなんなのよ」
 はっと気づいて言った。
「うちのヘルスメーターは狂ってるってか、俺は体重が少なすぎるから、三キロアップの表示に設定してあるんだよ。乗ってみて太ったって思って、それで機嫌が悪くなったの? なーんだ」
「女の子には重大問題なんだからねっ」
「俺のせいではないような……」
「変な設定をする隆也くんのせいだよ」
「うん、そうかも、ごめんね。香奈は太ったっていいだろうけど、太ってないよ。むしろバストやヒップにはもうすこし肉を……」
「そういうことを言う隆也くんも嫌い」
 ああ、失言だった。
「今日の隆也くんは嫌いだからね。ごはんなんかつきあわない。帰る」
「香奈……」
「嫌い嫌い嫌いっ!!」
「いつまでも嫌い? 送ってもいかせてくれないの?」
「送ってなんかいらないけど、明日には嫌いじゃなくなるかもよ」
 アパートから出ていった香奈の、その言葉だけが救いだった。


2

 ふられてへこたれてはいたけれど、俺には合唱部も学業もアルバイトもある。優先順位はこの通りなので、二年生になれたのは僥倖だったのかもしれない。春うららのある日、彼もまた彼女にふられた本橋と、学食で話していた。
「そりゃあさ、俺にだってなくはないよ。俺は男なんだから、って、おまえほどは口にしなくても考えてるよ。だけど、男だ男だって考えすぎるとしんどいだろ。そんなふうには考えずにいられたら、楽なんじゃないのかな」
 男である前に人間なのだから、人間として、の思想も楽とばかりは言えないか。自分で言っていて俺はそうも考えていたのだが、本橋は言った。
「俺は男だからって考えはしんどいのか? 俺は女だからって考えたら……」
「おまえは女じゃないだろ。おまえの姿でハートは女だったら、それこそ大変に大変に生きづらいだろうとは想像に難くないけどね」
「俺はハートも男だ。だからだ」
 改めて言ってくれなくても、彼はいい意味でも悪い意味でも男でしかない。その男本橋は言った。
「だから、俺は男だと思ってもしんどくなんかねえんだよ。俺はそう考えてるほうが楽なんだ」
「男だからって肩肘張って、つっぱってるのは疲れるって説もあるだろ」
「俺は疲れないよ。男に生まれてきてよかったなぁ、だよ」
「女に生まれたことはないし、前世が女だったとしても、その記憶はないんだから、較べるのも不可能だね」
「おまえはいつでも話を煩雑にしたがるけど、較べなくてもいいんだよ。男が男に生まれてきてよかったと思ってるんだから、他人に口出しされる必要はなーい」
「はい、本橋くん、お説ごもっともで」
 単純な奴はいいなぁ、と思ってしまうのも、俺の傲慢さか。たかだか十九年しか生きていない男が、俺は複雑だって? ちゃんちゃらおかしいんだよ、であろう。
「男だ女だって性差が少なくて、こだわりも少なくなったら生きやすくなる人間もいるんだけど、俺たちは単純に男だから」
「単純に男だったらいいじゃないか。そういう奴もそりゃあいるんだろうけど、俺はそんなんじゃないんだから、そういう奴はそういう奴で……ってのはよくないのか、乾?」
「むずかしすぎるよ」
「おまえにむずかしすぎるんだったら、俺にはさらにむずかしいから考えるのはやめよう」
「そうだよな。このたぐいの話しをはじめると結論も出ないし、徹夜になっても終わらないよ。で、本橋くん、彼女はできましたか」
 話題を変えると、本橋は咳払いした。
「先だっての飲み会での、出身地あての対象の彼女? ノリちゃんとの進展は?」
「進展ってか……いや、まだそこまででも……」
「そこまでたどりつこうと努力中だな。がんばれよ」
「おまえはどうなんだよ」
「俺を取り巻く現実の世界は春爛漫だけど、心の中は木枯らしびゅうびゅうだな」
「しけた面してないで、おまえも彼女を見つけろ」
 てめえは恋がはじまりそうだからって、大上段から見下ろして激励してくれる。いい友達を持って俺は幸せだ。いや、皮肉ではなく。
 複雑な考えは脇に追いやって言えば、本橋にしても俺にしても、ごく平凡に男なのだから女に恋をする。他のなにもかもには男も女も無関係だとしても、普通の恋は男と女。恋にだけは男女差があって当然で、だからこそ互いに恋をする。
 恋に関しては平凡に、普通に男であってよかった。たった十九の青二才にもややこしい人生の懊悩があるのだから、むずかしすぎる恋に落ちていきたくない。俺はただ、普通の女の子と新しい恋がしたいのだった。

「どこにでもいる男と
 ありふれた女の……」

 そんな歌のフレーズが浮かぶ。どこにでもいる男として、ありふれた女と恋がしたい。ありふれた中に光るなにかのある女性だったら、さらにいい。
 香奈とつきあってまゆりを忘れた俺の中には、香奈の面影が残っている。新しい彼女ができさえすれば、折りに触れては思い出して俺を苦しめる、過去の彼女を払拭できる。そうはいっても恋なんて、そうたやすく舞い降りてくるものでもない。
 CDショップでアルバイトしている俺の勤務先に、今日も数人のお客がいる。クラシックコーナーには長身の社会人らしき女性がいて、彼女の近くには彼女と同じくらいの背丈の男性もいた。アルバムを物色している女性のそばに近づいていった男性が、彼女に話しかけていた。
「それだったら指揮者次第でずいぶんと演奏がちがってますよ。僕はこっちのほうが好きだな。あ、それ、駄目。その指揮者は曲の解釈が変です。それも駄目。こっちがいいんですよ。悪いことは言いません。だまされたと思って僕のおススメを選びなさいよ。それそれ、それですって」
 クラシックには俺は詳しくないが、素人だって指揮者次第で演奏がちがうのは知っている。女性は
男性の言葉を聞いているのかいないのか、知らん顔でアルバムを選んでいて、彼はなおも言っていた。この指揮者は……このオーケストラは……したり顔で講釈をたれている彼を、女性は見ようともしなかった。
「こっちにしなさいって。それはよくないって」
 知らん顔の女性は、レジにいる俺のもとにアルバムを持ってきた。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」。むろんこの曲は知っているが、俺の知識にはないオーケストラが演奏しているアルバムだった。
「いらっしゃいませ」
 アルバムを包装してレジを打っていると、男もやってきた。
「なんでそんな素人みたいな楽団のアルバムを買うの? こっちのほうがずーっといいって。僕がプレゼントするから、こっちも聴いてみて」
 相当にしつこい奴だ。クラシックおたくか。俺が女性の顔を見ても彼女はなにも言わず、男がなおも言った。
「プレゼントってのはでしゃばってるから、貸しますよ。聴いてみてよ。おい、早くしろよ」
 早くしろ、は俺に言っている。女性はアルバム代金を支払って、ひたすら無言で店から出ていってしまった。男は苛々と俺の手元を見ている。俺は彼がレジに置いたアルバムを見る。ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団、「くるみ割り人形」。この楽団だったら俺も知っていた。
「ちょっとちょっと、待って。おい、早くしろって」
 前半は店から出ていった女性に、後半は俺に言っているのだろう。彼は彼女に危害を加えようとしているのではないのだが、お節介を焼きたくなってきた。
「指揮者、ウラディミール・アシュケナージ。アシュケナージってピアニストでもあるんですよね。僕でさえも知ってる高名な方なのですから、さぞ名盤なんでしょうけど、彼女には彼女の趣味や主義があるんでしょ? あなたの趣味や主義を押しつける必要はないでしょうに」
「おまえにゃ関係ないだろ」
「関係はありませんが、迷惑がっておられましたよ。つきまとうのはやめたほうがいいでしょうね」
「つきまとうとはなんなんだ。俺はクラシック初心者の女に、こっちのほうがいいって教えてやろうとしてるんだよ」
「大きなお世話と言うんですよ」
「変な演奏を聴くと、耳が狂っちまうんだぞ」
「彼女が初心者だと、なぜにあなたにおわかりになるんですか」
「あんなアルバムを買うからだ」
 指揮、冬口冬馬、世田谷マチルダオーケストラ、だった。冬が重なる指揮者の名前と、いっぷう変わったオーケストラの名前とで俺も覚えていたその名を、彼は口にした。
「あんなの、素人の楽団だろ」
「アルバムを出してるんですから、素人ではないのでは?」
「素人楽団だってアルバムは出せるだろ」
 クラシックの世界はまったくといっていいほど知らないが、ポピュラー界にはインディズがある。自主制作アルバムもある。クラシック界にもあるのだろうか。俺がのろのろとレジと包装をしていたのは、先刻の女性に彼が追いついていけないようにだった。
 苛々していた彼にアルバムを渡し、料金も支払ってもらう。店内のお客や店員たちがちらちらとこちらに視線を向けているのも知っていたが、彼は気づいてもいないようで、俺の手からアルバムをひったくって外に走り出ていった。
 あれでよかったかな、と考えつつ、仕事をしていると、ややあって彼が店内に戻ってきて、俺を睨みつけた。
「おまえのせいで、彼女はいなくなっちまったじゃないか」
「すると、アルバムは無駄になりましたか。特に理由もない返品はお断りしているのですが?」
「返すとは言わないけど……なんなんだよ、てめえ。あの女のなにかか」
「僕は店のアルバイトです。今後とも当店をごひいきになさって下さいね」
 にっこりしてやると、彼は舌打ちして店から出ていった。


その日もあの男がいた。社会人の年頃であろうに、いい年をして、彼は今日も女の子に話しかけている。あれが彼のナンパの手口なのだろうか。大学生くらいの女性に先日と同じようなことを言って、今日は相手の女性はけんもほろろであった。
「あなたねぇ……」
 俺はそっと彼に寄っていき、小声で言った。
「女性に声をかけて迷惑そうにされるのが趣味なんですか。店としても迷惑ですので、出ていっていただけませんか」
「またおまえかよ」
「俺はこの店のバイトですから。バイトとはいえ従業員ですから、お引き取り願います」
「俺は客だぞ」
「お買い上げいただくのはありがたいのですが、そういった手段に店を使わないで下さい」
「……うるせえ奴だな」
 彼は今日もクラシックのアルバムを買い、店から出ていった。彼の買い物はカラヤン指揮、ベルリンフィルの「悲壮」。ベートーベン。かなりのクラシックおたくでありながら、大変にベーシックな作品が好みであるらしい。
 ああして名演、名盤といわれるアルバムを買って、女性に言うのか。これが一番、他のは聴く価値がないとでも?
「乾くん、きみの言ってることはまあ、いいんだけどね……」
 男が出ていくと、店長に言われた。
「お客さんなんだから……」
「はい。そうなんですけど、彼が店内をうろちょろすると、女性のお客さまにいやがられて、結果的にお客さまが減りませんか」
「だから、いいんだけどね」
「穏便に言ったつもりですけど、すみませんでした」
「きみがあやまらなくてもいいんだけどね」
 客商売はこういうものだろう。俺は店長に素直に詫びておいた。
 が、その男は懲りないようで、アルバイトがなんと言おうと気にも留めていないのもあるようで、時々店にやってきては、クラシックコーナーに女性がいると声をかける。クラシックに興味のある若い女性だったらなんだっていいようで、当たるを幸いの感じだった。
 なので俺も懲りずに彼に話しかけ、露骨にいやな顔をされていた。そんなことが何度かあったある日、バイトを終えて外に出ると、品のいい紳士に声をかけられた。
「乾くんっていうんだね。先日はどうも」
「はい……あの、僕はあなたを……」
「僕はきみを知ってるよ。雅子ちゃんから聞いたんだ。先刻もきみがバイトしているCDショップにいたんだけど、気づかなかったでしょうね。なんにも買わなかったから」
「気づきませんでした。申し訳ありません」
「いいんですよ」
 すこし歩こうか、と言われて、彼と肩を並べて歩き出した。
「僕は冬口と申します」
「冬口さんですか。お名前は冬馬さん?」
「僕を知ってる?」
「いえ、ぞんじませんが、世田谷マチルダオーケストラの、でいらっしゃいますか」
「そうです」
 少壮気鋭の指揮者といったところなのか。三十歳程度に見える上品な男性だ。紳士と呼ぶには年齢不足なのかもしれないが、俺には貴公子然として見えた。
「さっきもいたでしょ。女の子に声をかけてる男が」
「いましたね」
「彼が雅子ちゃんによけいなふるまいをしているところに、邪魔してくれたのがきみ。雅子ちゃんから聞いたんだよ。あいつが雅子ちゃんを追えないように、さりげなく気遣ってくれたと彼女は言っていた。どんな青年なのかと僕も気になって見にきたんだ。何度か来たんだよ。雅子ちゃんと一緒にも来たけど、特になんにも買わなかったから、気づいてなかったんだね」
「気づきませんでした」
「あっちの彼には気づいてたね」
 冬口氏のアルバムを買ったあの女性が、雅子さんというのであろう。あっちの彼はクラシック薀蓄ナンパ男だ。彼の名前は知らない。
「彼は目立つふるまいをしてましたから。アルバイト学生としては不遜な行為でしたね」
「そうでもないでしょ。きみがあいつを撃退するシーンも二度ほど見て、雅子ちゃんが……」
「あの、雅子さんとはどういったご関係ですか」
 この質問も不遜なのかもしれないが、冬口氏はさらりと答えてくれた。
「雅子ちゃんは僕が指揮しているマチルダオーケストラでヴァイオリンを弾いてるんだ」
「すると、初心者ではありませんよね」
「子供のころからヴァイオリンをやってるんだから、クラシックには造詣が深いよ。僕も負けるんじゃないかな」
「するとつまり、マチルダオーケストラのアルバムにも加わっておられるんですね」
「そう。くるみ割り人形のアルバムだったら、そろえられる限りは持ってるんじゃないかな」
 彼女も加わっているアルバムだからこそ、雅子さんはマチルダのCDを買った。そこに下らない口をはさんだあの男は、とんだ道化者だったわけだ。
「きみはクラシックは?」
「僕は大学で合唱部に入ってまして、ポピュラー音楽好きです。クラシックはまったく知りません。合唱部ではクラシック系の合唱曲も歌いますが、その程度です」
「歌うんだね。うちは歌曲なんてのはやらないけど……きみの歌を聴きたいな」
「学生の合唱部ですよ。お聴かせするほどのものではありません」
「聴いてみたいんだ。どう?」
「どうとは?」
「歌声喫茶なんてものが、今でもあるんだよ。知らない?」
 その昔、歌声喫茶というものがあって、若者が集っていたと話には聞いている。そんなものはすたれてしまったとも聞いていたが、まだあるのか。気持ちは動いた。
「流行らないんだけど、僕の知り合いがやってるんだ。今夜はうちの楽団員も何人かは来てるんじゃないかな。行かない?」
「よろしかったら」
 歌声喫茶とやらへ案内してもらう途中で、冬口氏は自身の話をしてくれた。
「ようやくはじめて、指揮者として参加したアルバムが出せた。僕は三十四歳で、過去にも好きな女性がいたんだけど、夢ばかり追いかけて夢ばかり食べてる男となんて結婚できない、ってふられたりしてね」
 上品な横顔に翳が差した。
「結婚したのもごく最近ですよ。きみの大学ってどこ?」
 大学の名前を口にすると、冬口氏は言った。
「真鍋草太さんの同窓生だね」
「真鍋先生をごぞんじですか」
「知ってるってほどでもないな。あちらさまは高名な作曲家だ。きみは知ってるの?」
「お名前は存知あげておりますが」
 去年の暮れに母校を訪ねてきた真鍋氏の案内係をつとめたと、ミエちゃんが言っていた。だが、俺は真鍋さんとは会っていない。真鍋さんは今年の入学式にも参列なさっていたようだが、俺は会っていない。そんな話もしながら、歌声喫茶「マチルダ」に到着した。
「この店の名前なんですか。マチルダオーケストラって?」
「僕たちとは関わりが深いんでね。さ、どうぞ」
 レトロな内装、静かな雰囲気の店内には、数人の男女がいた。雅子さんもいて、俺に微笑みかけてくれた。冬口氏は彼らに俺を紹介してくれてから、マイクを持ってきた。
「乾くん、歌って」
「歌うんですか……フォークソングでもいいですか」
「なんだっていいよ。カラオケと似たようなものだ」
 昨年の合唱部主催コンサートで、本橋とデュエットした歌、ふきのとうの「白い冬」をソロで歌った。歌い終えるとみんなで拍手してくれて、雅子さんが言った。
「素敵ね。上手ね。乾さん、年上は嫌い?」
「……は?」
「あなただったら彼女もいるんだろうな。いるんでしょ?」
「いませんが……」
「私とだったらどう? 私は二十五だから、大学二年生の乾さんとは年の釣り合いが取れないかしら。どう?」
「いえ、そんな……急に言われましても……」
「つきあってみない?」
「いえ……まさか……」
 黙って雅子さんと俺を見比べていた、冬口氏が言った。
「雅子ちゃんは先日の一件で、乾くんにぽっとなってたみたいだよ。だからだろ。だから僕に探りを入れさせて、できればここに連れてきてほしいって……」
「内情暴露はやめて下さいね、冬口さん」
 雅子さんも言い、みんなして俺を見つめる。
 そんな、心の準備もできていないのに、いきなり言い出されても困るしかない。六つも年上なのは無関係だとしても、たった十九のガキがクラシック演奏家の大人の女性とだなんて……荷が勝ちすぎるとでも言えばいいのか。
「俺には彼女はいないんですけど、雅子さんには子供すぎるでしょ。俺は俺に似合いの、子供っぽさもある女性と恋がしたいんです。彼女とふたりして成長していきたいんです」
「はっきり言うのね。年食った女はいやって意味?」
「そういう意味ではありません。あなたは大人すぎてまぶしすぎて、俺ではあなたの恋人には役者不足だって意味ですよ」
 横から冬口氏が言った。
「ふられちゃったね。雅子ちゃん、無理強いはいけないよ」
「知ってる……乾くんだってね……そりゃあ、子供なのは仕方ないかもしれないけど、私はあなたを成長させてあげられないのかな」
「あなたに成長させてもらうだけではなく、俺も彼女を成長させたい、なんてね、生意気言ってすみません」
「だから私はあなたが……ってほど知らないけど、これから知りたかったのに……ううん、いいわ。乾くん、もう一曲歌って」
 クラシックの道の方々の前で、素人の歌を歌うのは面映い。けれど、歌の方面では去年一年で俺も成長したはずだ。だから歌った。何曲も歌った。
「……そういった歌のほうこそ、僕にはよくはわかってないんだけど、歌唱力も表現力もずば抜けてるよね。乾くん、きみにも夢はあるんだろ」
 言った冬口氏に大きくうなずくと、雅子さんが言ってくれた。
「私にも夢はあるよ。乾くん、がんばってね」
「はい、ありがとうございます」
 女性のほうからこう言ってもらっても、応えられない場合もある。であるから、恋なんてものはたやすくはないのだろう。


3

 互いに成長できる恋がしたい。などと言ったのは、俺の癖のかっこつけでもあった。
 三年生になってやってきた新しい恋の相手は、他校の女声合唱部に所属している純子。外見的には細身で小柄で、まゆりとも香奈とも似てはいるけれど、純子のおかげで過去ふたりの彼女は遠く遠くなっていった。
「隆也くん、そろそろいいよね」
「そろそろって?」
「ホテルに行こっ」
「あ、うん」
 まゆりとはそこまでは行かず、キスだけだった。香奈は俺とベッドに入りたいと言いたそうで、言えなかったようだから俺が察して抱いた。けれど、純子はこうなのか。外見的には似ていても、中身はいたってちがっている。
 年齢もあるのだろうか。まゆりはあのころは十七歳で、香奈は十八歳だった。純子は俺よりもひとつ年上の大学四年生。二十歳になると女性は男の精神的成熟度を飛び越えて、男を引っ張っていくようになるのか。
 気性の強い頭のいい、積極的な女性は好きだ。ベッドに誘うのは男だろ、だなんて、本橋みたいなことは俺は言わない。純子と手をつないで、ホテルに入っていった。
「細いね」
 先にシャワーを浴びてバスタオルを巻いて出てきた純子は、俺がバスルームから出るのを待っていてくれて、くすっと笑って言った。
「隆也くんは何人目?」
「礼儀として、そういうことを恋人の前で口にするものじゃないでしょ。純子ちゃんも言わないで」
「言いたいけどなぁ……慣れてない男ってつまんないかなぁ……慣れてる?」
「慣れてないよ。純子ちゃん、慎みのない女性は女性としては……」
「なーに言ってんのよ」
 言いかけたら遮られて、二の腕をぎゅっとつねられた。
「痛いんだよ」
「そりゃあ痛いよね。痛いようにつねったんだもん。隆也くんったら腕も細いの」
「細いけど、これぐらいだったらできるよ」
 抱き上げると、純子はくすくす笑った。
「これぐらいできて当たり前じゃないの。私は軽いでしょ」
「うん、軽いよ。純子ちゃん、愛してます」
「もっと言って。もっともっと、愛してるって言って」
 優しくベッドに下ろして、優しく抱きしめる。純子にしても俺にしても初体験ではないけれど、それもこの年になれば当然なのだろう。
 バスタオルを自らはずした純子の身体は、誰かと較べれば豊満さもある。大人の女性……きみにふさわしい大人の男に、俺はなれるだろうか。きみのあとを追っかけて走っていくだけの、年下の男でばかりはいたくない。
 とは思っていたのだが、サディスティック傾向のある純子は、俺を苛めるのが好きなのだ。つねるのは毎度で、口でもねちねちいたぶる。陰湿ではないのでいいのだが、俺は彼女と裸で抱き合っていると、幾度もいびられた。
「案外、慣れてないね。三人か四人ぐらいとしかセックスしてないの?」
 実際はふたり目だが、まあ、そんなものかな、と幼稚な虚勢を張った。
「二十歳にもなって、だらしないね。もてなくはないでしょ」
「もてませんよ。俺はもてたくなんかないんだ。純子ちゃんだけがいいんだよ」
「私はもてたいな。隆也くんは私の彼として認めてあげてるけど、他の男にもちやほやされたい。私は美人でしょ」
「勝気な美人だね」
 ベッドで抱き合ったまま、そんな会話をかわす。高校時代から喫煙習慣のあった俺は、だが、彼女の前では煙草は吸わない。純子にも煙草は嫌われるので吸わないようにしているのに、純子は俺のジャケットのポケットから煙草を取り出してくわえた。
「きみの喫煙ポーズはセクシーだね」
「やめろって言わないの?」
「きみは大人なんだから、俺には止める権利はないよ」
「前の彼は私がいたずらで煙草を吸うと、女は煙草なんか吸うな、って怒ったよ」
「俺はきみの前の彼氏ではない。だから、やめろ」
「んん?」
「前の彼氏の話をするな」
 きゃああ、妬いてるっ、と笑ってから、純子は煙草を消して俺の頭を抱きしめた。
「怒ってる隆也くんってセクシー。怒ってよ。どうやったら怒るの? 前の彼氏の話し? その前もその前も、全部してあげようか」
「このサディスト」
「あらあら、ここんところが……こうなるってことは隆也くんも快感で……そうなんだね」
「俺はきみといると、哀れなマゾになっちまうよ」
「マゾだって哀れじゃないじゃない。私はサドなんでしょ」
「痛いよ。つねるな」
「気持ちいいんじゃないの?」
 ふたりっきりの個室でだったら、苛められてもいい。俺は苛められても嬉しくはないし、噛まれたりつねられたりすると痛いのだが、愛するひとのためなら耐えられる。ただ、耐えていた。
「根性焼きってやったことある?」
「そういう趣味はありません」
「隆也くんは高校のときは不良だったんじゃないの? 煙草を吸ってたんでしょ」
「不良ってほどではありません。純子ちゃん、煙草は危ないよ。相当な高温になるんだからね、やめようね。はいはい、消そうね」
 火をつけて俺の目の前で振り回したりする純子の手から、煙草を奪い取る。無邪気ないたずらっ子でもあり、意地悪なひとでもある純子に振り回されているのだから、俺にはマゾっ気がなくもないのかと、このころ、はじめて気がついていた。
 恋は成長するためにするものなのか。ただ「愛してる」からでいいじゃないか。恋に理屈なんかいらない。愛し合っていればいい。彼女のどこが好きだとか、こうだから恋してるとか、そんなものはいらない。俺は純子が好きだ。


 三年生になると合唱部でも上級生となり、責任ある立場にもなりつつある。今年の男子部キャプテンと副キャプテンは……などというのもあって、本橋や俺の双肩にも重荷がかかってくる。そうなることによって成長していけるのだから、二十歳の男の日々はすべて成長だ。
 男子部キャプテンの渡辺さんにはいささか頼られ、副キャプテンの溝部さんには純子の可愛いいびりとは別種のいびりを向けられ、の合唱部生活を送っている俺が部室の外にいると、女子合唱部の同年の八幡早苗が声をかけてきた。
「本橋くんはまだあのちびデブと別れないんだよね」
「ちびデブって誰?」
「女子部にはちびデブは何人もいるけど、本橋くんとつきあってるちびデブはひとりだけでしょ。他にも本橋くんはちびデブとつきあってるの?」
 なんと悪意のある言い方だろうか。俺は彼女が口に出す「ちびデブ」を「小柄でぽっちゃり」に置き換えて受け答えすることにした。
「本橋の彼女はひとりっきりだけど、早苗ちゃんには関係なくないかな」
「関係はないけどね」
 去年から本橋が交際している女の子は、一年年下の下川乃里子。早苗が本橋を好きだとは俺は知っているので、関係なくないのだとも知っている。しかし、知らないふりで言った。
「早苗ちゃんは溝部さんと仲がいいんじゃないの? つきあってるんじゃないのかな」
「つきあうわけないじゃない、あんな馬鹿」
「……そうなんだ」
「乾くんにも彼女はいるの?」
 いると言ったほうがいいのか、いないと言ったほうがいいのか。合唱部の女の子とつきあうとじきに噂が広まるのだが、純子は他校の学生なだけに、俺には彼女がいると知らない者も多い。早苗はいやな笑みを浮かべて俺を見た。
「私は乾くんにはなーんの興味もないからね。残念だった?」
「残念だよ」
「身長は合格ラインなんだよね。私は背が高いから、私以上の身長でないと絶対に駄目なの」
「きみと俺だと、身長差はわずかでしょ」
「わずかでもいいから、私よりは背が高くないといやなのよ。ちびデブ女だったら、私よりも二十センチは高くないと、だなんて言うけど、私はそこまでは望めないもんね」
 たしかに、早苗よりも二十センチ高いとなると大男の部類だろう。
「ま、百八十くらいでいいのよ。バランスの取れた長身がいいよね」
「俺は百八十はないよ」
「なくてもいいんだってば。身長も外見も、乾くんは悪くはないの。歌も上手だし、馬鹿ってわけでもなさそうだよね」
「お褒めに預かって恐縮です」
「だけど、興味ないったらないわ。なにしろ乾くんは田舎出身だしね」
「そうですね」
 田舎出身の男はターゲットにしない。であるから、東京っ子の本橋がいいとなるのか。
 本橋の背丈は俺よりもやや高く、男性的な体格をしている。顔立ちも野性的で、全体に俺のような植物派ではない。たいていの女性は乾隆也よりも本橋真次郎を選びそうな気がするのだが、純子がいれば俺はそれでいい。
 金沢出身の俺は卒業後には金沢に帰ると、早苗は考えているのか。他の地方出身者もそうするものだと? そうなれば彼女はついていきたくなくて、東京から出ていかない東京の男がいいのか。結婚したら、とまで考えているのかどうかは知らないが、就職したら転勤だってあるだろうに。
 彼女が言わない部分までを頭の中でめぐらせていると、早苗はほーっと大きく息を吐いてから言った。
「それに、私は男らしい男が好きだから」
「……男らしい男ってどんなの? 女性の考える男らしさってのを聞かせてほしいな」
「強くてたくましくておおらかで、心が広くて頼れて、収入もあって、程度じゃない?」
「かなり一般的だな。それってさ、女性だとしても美点じゃないのかな」
「女はどうでもいいのよ。私が好きになるのは男なんだから。乾くんは男らしくないでしょ」
「まあ、そうでしょうね」
 男のくせしやがって、とは本橋にも言われる。純子は露骨には言わないが、だらしないの、だとか、たまには怒らないとなめられるよ、だのとは言うので、同じようなものなのか。先輩たちにも言われた。おまえは男だろ。
 我が家の祖母も母も言ったけれど、若い世代も男、男と口にする。女のくせに、女だてらに、は禁句に近くなっても、男のくせには生きているのが不思議といえば不思議だ。
「一年生のときだったかな。香奈ちゃんも言ってたよ」
 二年も前の話を持ち出して、早苗は意地悪な口調になった。
「乾くんって男らしくないのよね。だったな。だから乾くんは香奈にふられたんでしょ」
「そうかもしれないけど、香奈ちゃんは男だの女だのって差別するのは好きじゃなかったよ」
「そんなの建前なんじゃないのかな。女はみんな、男らしい男が好きなのよ」
「少なくともひとりは、男らしさにこだわる男なんて、って言う女性を知ってるよ」
「誰? ああ、山田美江子。ちびじゃないけどデブだよね」
 あのぐらいでデブだと言われるのならば、あなたの思うスレンダーな体型とはどんなものだ、と聞き返したい。私よ、と応じるのだろうか。あなただって胸は……ああ、胸は別か。言わなくてよかった。
「変な顔してどうしたの、乾くん?」
「俺は生まれつき変な顔ですから」
「変ってほどのひどい顔じゃないから、安心してもいいよ。でね、美江子だって本音では、男らしくてかっこいい男が好きなのよ。美江子の彼氏って星さんだったんだから、それからしても明白じゃないの。美江子のほうは女らしくないから、星さんに捨てられちゃったんだよね」
「そのあたりの事情は、他人がとやかく言うものではないよ」
「お説教口調はやめて」
「そうだね。ごめん」
 では、あなたは女らしいのか。女らしいとは意地が悪いって意味か。早苗と話していると、俺の想いが適切な言葉にならない。このままでいると喧嘩をしてしまいそうで、俺はベンチから立ち上がった。
「美江子にも今は彼氏はいないのかな。乾くんも本橋くんも、美江子とつきあってた時期はないの? あなたたちって変な関係だよね」
「友達づきあいは、大学入学以来してるよ」
「私は男の子と仲良くなったら、じきにつきあってくれって言われる。彼女になってって言われるから、友達づきあいってできないのよね」
「俺はあなたの友達じゃないの?」
「だから、乾くんには興味ないって言ってるでしょ」
「失礼しました。では」
 男友達はいらないのであろうが、ほしいのだとしても、彼女のあの態度ではできないだろう。男とは恋をする対象、または、興味のない存在。彼女の主義ではそうなのだろう。
「あーあ、美人の宿命かな。ちびデブのブス女には彼氏がいるのに、私は好きになった相手が悪かったんだよね」
 早苗はさらになにやら言っていたが、返事はせずに足を速めた。
 特に関わりもしなかったら、俺は八幡早苗が嫌いではない。彼女が女子部の後輩にいやがらせを言ったりするとの噂はあるものの、男子部とは関係ない。女子部の問題は女子部で解決すべきことがらなのだから。
 香奈にしてもミエちゃんにしても、他人の悪口は言わない。どこかしらは女らしくないのかもしれないけれど、恋人としての香奈は好きだった。友達としてのミエちゃんはずっとずっと好きだ。友達として、ミエちゃんとは一生仲良くしていたい。
 それにしても、あの調子ではノリちゃんが、早苗に意地悪をされているのではないか。ノリちゃんも気弱な女の子ではないが、気がかりになってきた。とはいえ、ノリちゃんは俺の彼女ではないのだから、会う機会を待つしかない。
「乾さん、こんにちは」
 そのノリちゃんと昼時に学食で会った。小柄でぽっちゃりのノリちゃんは、いつに変わらぬ笑顔で俺に頭を下げてくれた。
「今日は本橋とは一緒じゃないんだよ。部室でも会わなかったな。学校に来てないのかな」
「いいんですよ。本橋さんがいなくてもいいの。乾さんはおひとりですか」
「うん。学食でエスコートってのもなんだな。一緒に食おう」
「エスコートだって。本橋さんだったら言わないな」
 小柄でぽっちゃりを悪意のこもった言い方に変えて、その上に、女性に向かってはいかなる場合にも言ってはいけない、最大最強の禁句までをつけて、早苗が言ったあの三つの単語は、ノリちゃんを示していたのか。ノリちゃんは特別の美人ではないけれど、キュートな女の子なのに。
 あんなふうに言うとは、早苗はノリちゃんを恨み骨髄気分で見ているのか。ずばっと訊くわけにもいかないので、食事をしながら、遠まわしに尋ねてみた。
「女子部は今年も和気藹々してる?」
「だいたいはそうですね。キャプテンが上手にまとめてくれてますし、楽しくやってますよ」
「ノリちゃんも二年生になって、後輩もできたんだよね。頼りにされてるんだろ」
「私は頼りにはならないけど、一年生には強い女の子がいましてね」
 声を低めにして、ノリちゃんは言った。
「女子部の先輩に、太った子にはダイエットしろって言うひとがいるんです。あなたのためを思って忠告してあげてるのよ、って言われるし、親切心もあるんだろうから、無下にさからえないでしょ。その子も先輩にダイエットしろって言われて、困ってたみたい。そしたら横からミャーコちゃんが言ったの。下川さんは食物専攻でしょ。ダイエットのアドバイスだったらできますよね。私にも食物について教えて下さい、みんなで栄養についての講習会をしましょう。講師は下川さんね、って」
「ほお」
 ミャーコちゃんと言われても誰だかわからないのだが、その先輩とは早苗であろう。
「そんな本格的な話しじゃなくて、って、先輩がもがもが言ってる間に、ミャーコちゃんたちは逃げていってしまいました。でね、私も先輩に言ったの。私こそダイエットしなくちゃいけませんよね、って」
「すると?」
「あなただったらダイエットなんかしても無駄よ。いつまでも太ってなさい、だって。ひどぉ」
「本橋はきみの体型も好きなんだよね」
「太目も可愛いよってたまぁに言ってくれますよ。太るから食べないって言ったら、おまえはぽちゃっとしたところが可愛いんだから、食えよ、ほら、これも食え、ってね。きゃ、やだ」
 はい、ごちそうさま、でしかないが、誘導しなくても早苗の話をしてくれた。これだったら大丈夫だろう。
 女子部の先輩に意地悪を言われても、愛する男の言葉のほうが勝つ。俺もそういった意味でだったら、可愛い後輩の味方になってやれる。ノリちゃんは親友の恋人なのだから、後輩の中でも特別だ。そこで言った。
「うん。ノリちゃんはダイエットなんかしなくていいよ。これも食う?」
「そんなには食べられません。乾さんったら、私をこれ以上太らせたいんですか」
「いやいや、ごめん」
 愛する男の言葉ではなく、愛する男の友達の言葉は効果が薄いのであるらしかった。


4

 卒業したらネイルアーティストになると言っていた純子は、専門学校に入学したのだろうか。純子は俺よりも一年先に大学を卒業して、音沙汰は途絶え、ふたりの仲も自然消滅してしまった。他校だっただけに共通の友人もいなくて、純子の消息を知ることはできない。
「乾くんも彼女と別れちゃったんだね」
 三歳年下の合唱部の後輩である酒巻とつきあっていた山田美江子も、彼とは別れたのだそうだ。秋が来て侘しい風が吹く。俺たちの青春の終わりを告げる風か。
「寂しそうな顔をしてるね。新しい恋を見つけたらいいじゃない」
「恋はたやすくはないだろ」
「そりゃそうだね」
 大学に入って俺は二度の恋をした。ミエちゃんは俺の知っている限りでは三度の恋をして別れている。三度では恋多き女性と呼ぶのかどうかは知らないが、一年生のときよりも憂いが加わった分、ミエちゃんは大人の女性らしくいっそう美しくなった。
 二十一歳の男なんてのはまるで子供だけれど、女性は大人へと脱皮しかけている。三年前に出会ったころよりも痩せたミエちゃんは、まばゆいほどの美人になった。
「乾くんの最初の彼女は知ってるよ。香奈は小柄で清純そうな美人だよね」
「香奈ちゃんは今でも合唱部にいるんだよね。ミエちゃんも彼女とは親しいんだろ」
「合唱部にはやな女もいるんだよ。私のこともそう思ってる女の子はいるのかもしれないけど、女子部のみんなとは仲良くしてるから」
「やな女か……」
 それが誰なのかは尋ねずに、俺は言った。
「ミエちゃんはやな女じゃないだろ」
「そうじゃないと思いたいけど、誰が私をやな奴だと思ってるのかなんて、みんな本心は見せないんだからわからないじゃない」
「そうかもしれないね。俺もやな奴なのかな」
「時々ね、乾くんってやな奴だって思うよ」
「時々だったらいいよ。俺は一瞬たりとも、ミエちゃんがやな奴だって思ったことはないけどね」
「ありがとう。だから乾くんって好きよ」
「俺もミエちゃんは好きだよ」
 愛してるではなく好き。互いにそう思っている異性同士もいいものではないか。
「乾くんの好きなタイプってどんなの? 香奈みたいなタイプ? 去年の彼女もそんなふうだったの? 純子さんだっけ。私は会わせてもらってないけど、美人だったんでしょ」
「女性はすべて美しいんだよ」
「そうでもないけど、乾くんは女に幻想を抱いてるよね」
「多少はあるかもね」
 今日は本橋の姿は見えない。出会ったころから女の子がひとりと男がふたりで親しくしていて、山田さんは乾くんか本橋くんとつきあってるの? とよく訊かれていたらしい。香奈にしても俺に、山田さんとはなんでもないの? と尋ねたがった。
 本当の本当に友達だ。本橋にしたって他の女の子とつきあっていて、ノリちゃんとは別れてしまったようだが、四年生になって新しい彼女ができている。彼も三人目の彼女だから、四年間で三人、少なくはないだろう。
 部室の近くで会ったミエちゃんと連れ立って、キャンパスを歩きながら話している。ここを歩くのはあと半年。青春の終わりというフレーズが胸をよぎる。
「外見的にものすっごいブスっているでしょ」
「ミエちゃんまでがそんな言葉を……やめなさい」
「事実は事実でしょ。私はそこまでのブスではないと思ってるけど、いるんだもの。ものすっごいブ男だっているよね」
「俺はそこまで醜い男女に出会ったことはないよ。内面だろ、重要なのは」
「きれいごと言っちゃって。乾くんだったらどうするの? ものすっごいブスの女に告白されたら、受け入れるの? 本橋くんは言ってたよ。ものすごいブス女はきっと中身もよくないはずだ。そんな顔に生まれついて、ブスだブスだって言われて育ったら、性格もゆがんでくるよ、だって」
「きみは本橋がそう言ったのが気に入らなくて、俺にも当たってるのかね?」
「深読みしすぎ」
 しかし、そうなのかもしれない。
 女性は男ほどには恋人の外見を気にしないようで、性格がよかったら顔が変でもまあいいわ、であるのだろう。性格以外にも中身ってものはあるのだから、他に好条件があれば顔は見ない、の女性もよくいる。
 けれど、ちびデブハゲはお断り、と女性だって言うではないか。俺は顔はごく平凡だが、ちびでもデブでもハゲでもない。父は豊かな毛髪を維持しているから、将来的に禿げる心配も少ないはずだ。男性ホルモンが多い体質ではないので、年齢を加えても髪が薄くならないはず。
 まったく美貌でもないけれど、そのいずれでもなくてよかったとは思っている。相当な美貌の持ち主でありながら、ちびででぶで禿頭の男であるよりは、今のままでいい。
「どうなの? 返事をしてもらってないよ」
「ミエちゃんはどうなんだよ。ルックス的に最悪な男に告白されたらどうするの?」
「私は乾くんに質問してるんだよ。ものすっごいブス女に好かれたらどうするの?」
「彼女の外見がどうだとしても、俺はそのひとを愛せなかったら彼女になってはもらわないよ」
「上手に逃げたね。私もだよ」
 性格のゆがみ具合というものにも多寡はあるのであって、ミエちゃんも俺も少々はゆがんでいるかもしれない。でも、ミエちゃん程度にゆがんでいるのは好ましい。ミエちゃんも俺を時々はやな奴だと感じるにせよ、大嫌いではないから友達づきあいしてくれている。
 外見的にもミエちゃんは俺のゾーンからはずれてはいない。俺はどちらかといえば小柄な女性が好きなのだろうが、ミエちゃんだって背が高すぎるわけではないし、この強い性格は大好きだ。だのに、恋にはならないのは人の心の不思議さってやつなのだろうか。
「美容院に行こうかな」
 長い髪をポニーテールにしているミエちゃんは、財布の中身でも心配しているような顔をして言った。
「枝毛ができてきたの」
「見せて」
 ポニーテールの先っぽを見ると、髪がところどころ二股、三股になっている。枝毛ができるほどに髪を伸ばした経験はないのだが、俺も髪が長めなので、ミエちゃんは俺の髪も検分していた。
「枝毛って複雑怪奇な枝分かれをするんだね」
「そうなのよ。枝毛切りしてると時間がすぐにたっちゃうんだ」
「俺も髪を切ろうかな」
「……その髪型だと、就職試験でひっかかったりして?」
「ミエちゃんは就職は?」
「私はイベント会社に内定寸前まで行ってるんだ。私、なんとなくは知ってるんだよ。本橋くんと乾くんは将来どうしたいのか。完全に決めてはいないのかもしれないけど、私もあなたたちに協力したいの。これって他力本願?」
 はっきり告げてはいないけれど、ミエちゃんは鋭敏なのだから、本橋と俺の気持ちに気づいているのだろう。真顔で言った。
「私は合唱部でもマネージメントの仕事をしてたでしょ。歌は上手でもないし、見た目も普通すぎるから、私は歌手になりたいとは思わない。あなたたちがプロになったら、マネージメントで手助けしたいの。でもね、あなたたちがそうなったら、っていうのは他力本願なのかな。自分の道は自分で切り開けって言う?」
「あなたが手助けしてくれたら、心強いよ。他力本願じゃないでしょ」
「大学を卒業して、社会に出ていく。もうなんにも頼れない。私は自立した仕事のできる大人になりたい。恋だってしたいけど、自分ってものを確立してからだよね。これからは恋どころじゃないわ。私がイベント会社を選んだのは、マネージメントについてしっかり学びたいから。本橋くんと乾くんがどうするつもりなのか、気持ちが固まったら話してね」
「うん」
「デュオ?」
「話すのは本橋とふたりで……」
「そうだね。じゃあね」
 恋の方面だけではなくて、ミエちゃんは大人になりつつあるんだな。俺はそんな心持ちで、歩いていくミエちゃんを見ていた。
 ルックスがしごく凡庸な本橋と俺では、デュオとしてはインパクトに欠ける。デュオではなくグループを結成したい。いつのころからか本橋とは話し合っている。男子部の小笠原と本庄と、三沢。他にも二、三の候補が絞り切れない状況だった。
 勝手にこっちが決めたところで、彼らに断られては計画が頓挫してしまう。慎重にやるべきか。当たって砕けるべきか。
 青春の終わりを告げる秋の風、だなんて虚しがっている場合ではない。ミエちゃんはまちがいなく協力してくれる心積もりでいるのだから、俺たちも決意を固めなくては。母には夏休みに話して了解してもらい、本橋も親に告げて決裂して家出してひとり暮らしをはじめている。
 ヴォーカルグループの最終決定はメンバーを決めることだ。断られたらどうしよう、ではなく、直接当たらなくては。


 現実問題としては卒論もある。俺は文学部古典文学専攻なので、最大の関心事である「歌」を卒論にはできない。卒業できなくては後の進路もなにもあったものではないのだから、卒論にも頭を悩ませていた。
「乾さんは卒論ってなにを書くんですか」
 二年生の三沢幸生に訊かれて、俺は言った。
「万葉集の相聞歌がテーマなんだ。歌は歌でも古典の恋の歌だよ」
「相聞歌っていうんですか」
「万葉の時代に男女が出会うと、ラヴレター代わりに歌を贈り合う。たとえば、「いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 我が念へるごと 」ってのがあってさ、額田王が弓削皇子に送った恋の歌だよ」
「額田王って女性でしたっけ」
「そうだよ」
「ふーん、むずかしそう」
 経済学部の卒論のほうが、俺からしたらむずかしそうだと思う。三沢は二年後にはどんな卒論を書くのか。古典文学のほうが現代の歌にいささかでも近い万葉集の歌をテーマにできて、俺には楽だった。
「万葉集の講義をしてくれてる講師の先生も女性でさ、額田王についても教わった。有名な女性のわりには真実は語られていなくて、虚構や伝説ばかりのひとなんだってさ」
「大昔すぎる女性はいいんですけど、講師の先生は美人?」
 三沢と親しくなったのは今年になってからだが、彼は大変な女好きだ。いつ会っても女の子の話をしたがる。あまつさえ、女の子になり切って芝居までをする。こいつも性格はゆがんでいると見えるが、ゆがみ具合の楽しい奴なのだ。
「老人に近いお年頃だけど、上品で綺麗な方だよ。もの静かな話し方をなさるんだ。紹介してやろうか」
「おばあさんだったらいいです」
「おまえは世の中の女性はみんな好きなんじゃないのか」
「万葉集の話しじゃなくて、昔の歌を教えてくれるおばあさんだったら好きですよ。乾さんはおばあさん先生と仲良くしてね」
 逃げられたので俺は書きかけの卒論を携えて、指導してくれる先生を訪ねた。華族階級出身だそうで、有馬教授は亡き祖母とはちがったふうに威厳のある、それでいて品のいい老婦人である。
「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く……額田王を取り上げるのはいいですね。彼女の歌には暗号が隠されてるって説もあるんですよ。乾くん、暗号解読もしてみます?」
「いえ、そこまでは」
 むろん万葉集の権威でもあるのだが、有馬教授は推理小説もお好きなのだそうだ。卒論のアドバイスをしてもらってからは、ミステリ話になった。
「私も推理小説を書いてみてるんですよ」
「万葉の時代の推理小説ですか。額田王が探偵になるのもいいですね」
「それもいいけど、私が書いてるのは大学生を主人公にした推理小説ですよ」
「教授は大学生にもお詳しいんですから、よろしいですね。完成したら読ませていただけますか」
「出版するから買って下さいな」
「承知しました」
 教授は私室のデスクから、原稿を取り出した。原稿用紙に几帳面な万年筆の文字がしたためられている。達筆は祖母の文字を彷彿とさせた。
「読んでもよろしいんですか」
「試作ですから、どうぞ。若い男性の感想も聞きたいわ」
「僕もミステリは好きですが、感想と申しましても参考にもならないかと……」
「乾くんは読解力はあるでしょ。いつだったか、万葉集の歌に隠された真実の彼の気持ちを読み取って講釈してくれたのは、私も感心しましたよ」
「いえ、お恥ずかしい」
 こう言われると恥じ入るしかないのだが、原稿の冒頭数ページを読ませていただいた。
 大学卒業間際の四年生の男子学生が殺される。彼を殺した犯人を究明するために乗り出す大学の仲間たちといった、まあ、ありがちな展開だ。それはいいのだが、殺された男子学生の名前は犬山孝彦。乾隆也に酷似した名前だった。
「あの……」
「名前は気にしないでね」
 しかもしかも、孝彦は合唱部のメンバーで、孝彦を殺した犯人捜査に乗り出す仲間たちの先頭に立つのが、本山真一という名の男子学生だ。これは本橋真次郎なのではないか。
 個人的に教授と話していると、俺は合唱部の話題も口にした。本橋やミエちゃんの名前も出していた。案の定、山村美和子という名の女子学生が登場してきて、性格までが本橋やミエちゃんに似ているのには頭を抱えたくなった。
「モデル料を支払わなくちゃならないかしら。出版してベストセラーにでもなったら、印税でごちそうしますわよ」
「期待しないで待って……いいえ、期待して待ってます」
「乾くん……」
「はいっ。ご健筆を、出版されることもお祈り申し上げております」
「死ぬまでに出版されたらいいけどね」
 涼しい笑顔で言ってくれる。小説の中で殺されてもいいとはいうものの、ちょっとだけ腐りたくなった。
「では、僕は恋愛小説を書いてもいいですか。孝彦が殺される前に、年上の教授の有田先生に恋をするんですよ」
「あら、楽しみね。卒論が完成したら書いてちょうだい。乾くん、約束よ」
「は……卒論が先でした」
 この方と祖母の舌戦を聞いてみたかったと思う。俺は原稿を有馬教授に恭しくお返しして、部屋から出ていった。
「あのひと、独身?」
 祖母の声が聞こえてきた。
「ご結婚なさってて、お孫さんもいらっしゃるらしいよ」
「ああいう女をかっこいい女性って言うんじゃないのかい」
「ばあちゃんはああいうひとが好き?」
「好きだね。私も別の生まれ方をしていたら、頭がいいんだから大学教授にだってなれたかもしれないのに」
「毒舌で学生に嫌われる教授だな」
「学生なんてものは甘やかしたらいけないんだから、毒舌を浴びせる必要があるだろ。あんただってたかが卒論で教授に頼って……」
「そしたらばあちゃん、書いてくれよ」
「いつまでばあちゃんに頼ってるの。だら」
 久々で聞いた、金沢弁の「馬鹿」だった。ひとりで東京に出てきて以来、幾度も繰り返した祖母との架空会話。高校生のころに学生服の背中に背負って歩いた、足が弱ってきていたばあちゃんを思い出す。今も俺の背中に祖母が背後霊になってくっついているかのようだ。
「その顔で歌手だなんて言って、私に言わせりゃあんたの歌なんて未熟でしかないのに、本当にそんなものになれるのかね」
「なせばなる、なさねばならぬなにごとも」
「ならぬは人のなさぬなりけり」
「知ってるよ。「為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは、人の為さぬなりけり」。覚えてるだろ」
 漢字の説明などはしなくても、祖母の教えなのだから、俺の背後霊はしっかり理解している。いつまでだってどこまでだって、俺はあんたを背負っていくよ、ばあちゃん。
「しかし、俺はばあちゃんの教えを胸に刻みすぎてるから、正論を言いたがる面白みのない奴だとか、優しすぎてつまらない男だとか言われるんだ。あんたのせいだって自覚してるのかよ」
「あんたの心栄えが悪いんだろうがね。どこが優しすぎるんだか」
「そうだよな。優しさの質が大切。説教だってさ……ばあちゃんが教えてくれなかったことも、大人になりつつある段階で学んで、俺も今後とも成長していくんだ。ばあちゃん、ついてこいよ」
「ついてこい? えらそうになにを言ってるんだか」
「はい、ついていらして下さい」
 はじまったばかりの大人への道を歩き続けて、俺はどこにたどりつくのか。春になれば大学を卒業して、振り向けば青春が見える。そうなってからも俺の背中には、口うるさいばばあがくっついているのだろうか。たぶん永遠にいなくならないのだろう。それもいいさ。ばあちゃん、愛してるよ、なんて、一度も言ったことはないけれど、俺はあんたが大好きだよ。


END



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