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小説249(春夏秋冬・two・前編)

 ←番外編76(そして、恋唄) →小説249(春夏秋冬・two・後編)
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フォレストシンガーズストーリィ249

「春夏秋冬・two」前編


睦月・洋介

 正月なのに故郷には帰らせてもらえず、養成所近くの神社に行くと言って、教官が俺たちを連れ出した。
「初詣か?」
「そうなんじゃないの? 寒いのにさ……神社なんか行くより寝てたいけど、行くしかねえだろ」
「そうだな。よぉ、ヨシのくにってどこだっけ?」
「埼玉だよ。ポンは?」
「青森」
「青森か。今ごろは寒いんだろな」
「雪だらけだよ」
 錦織義信、俺と同い年だと聞いている。養成所の寮ではデビューしたらそう呼び合うのだからと、みんながニックネームをつけられた。ヨシは名前のもじりの単純な奴で、俺は麻田洋介だからヨウとつけられそうになったのだが、言ったのだった。
「ガキのころからのあだながあるんだ。麻田の麻は麻雀の「麻」だから、ポン」
「おまえらみたいな若いのでも、そんなニックネームをつけるのか。ポンだったらわかりやすいし呼びやすいからいいけど、ポン、目上の人間にはもうちょっと丁寧に喋れよ」
 教官はそう言った。教官って目上か? なんで?
 目上でも目下でもいいけど、俺は自分で言ってニックネームをポンにしてもらった。ヨシとふたりで故郷の話をしながら歩いていると、もうひとりの奴が一緒に歩き出した。
 高校を中退してアイドルになれと言ったのは母親だ。俺は母親の言う通りにして青森から出てきて、アイドル養成スクールに入学した。ヨシも俺も十七歳、ヨシもきっと同じようにスクールに入学したのだろうが、詳しくは知らない。
 スクールには小学生もいるのだが、彼らは寮には入っていない。かっちゃんは何歳だろ? ヨシは十七歳にすれば小柄で、俺は背は高いほうだが、かっちゃんの身長はヨシくらいある。寮に入っているのだから小学生ではないのだろうが、顔はガキっぽい。
「かっちゃんっていくつ?」
「十三歳」
「中学生?」
「そうだよぉ」
 ガキっぽくもバカっぽく、かっちゃんがヨシに返事していた。
「おまえ、なんて名前?」
「かっちゃん」
「本名は?」
「勝俣和己。よろしくね」
 たぶんかっちゃんは寮では最年少だ。わりになんでも知っているヨシが教えてくれた。
「ロロやさあやも中学生じゃないかな。親の許可があったら中学生以上は寮に入れるんだよ。ポンや俺はもうけっこういい年なのかも」
「いい年じゃないだろ。まだ十七だよ」
「ポンくんとヨシくんは十七歳? 大人なんだね」
 そりゃあおまえに較べれば、と俺はかっちゃんに言い返した。
 もとヤンキーの両親から生まれた俺の家は、当然、貧乏だった。東京には中学校の修学旅行で来ただけで、自由行動はさせてもらえなかったので、あのときは俺は思っていた。
 すげぇなぁ、人だらけだなぁ、あ、あそこ、行きたい、行けないよな、抜け出したら先生に殴られるよな、殴られてもいいからあの店に入りたい。逃亡したい。あの可愛い女の子に声をかけたい。そんなふうにばかり思ってはいたけれど、勇気がなくてできなかった。
 上京して寮で暮らしはじめると、教官が言った。
「おまえたちはいずれはアイドルになるんだから、迂闊な行動は慎めよ」
 なのだから、門限があったり規則があったりする生活をしている。
 休みに遊びに行くぐらいは許されるので、東京の有名な店に入ったり、買い物したり食事をしたりはできる。女の子とつきあうのは許されていないし、運転免許もデビューして二十歳になるまでは厳禁、だなんて命令されていた。
「うちはきびしいからこそ、親御さんも安心して預けてくれるんだよ」
 教官はそう言うけれど、全員がデビューできるわけでもあるまいに。
「アイドルって楽しそうだと思ってたけど、窮屈だよな」
 週末の繁華街ほどに人通りの多い神社への道を歩きながら俺が言うと、ヨシが答えた。
「なってみてから言えよ。俺は絶対にアイドルとしてデビューするんだ」
「ぼくもアイドルになりたーい」
「そりゃあ俺も……」
 なりたいよ。そっか、なってから文句を言おう、俺はヨシとかっちゃんにうなずいた。
「んで、ここでなにをするの?」
 かっちゃんだけではなく、連れてこられたみんなの疑問に、教官が返事をした。
「ここで踊るんだよ。歌って踊る。ポン、歌え」
 どうしてだか神社前に広いスペースがあって、そこには人がいない。ここで俺が歌ってみんなが踊るのか。俺は寮生の中では歌がいちばんうまいと言われているのだから当然だろう。ヨシはダンスがうまいけれど、歌わないほうがいい。ヨシが歌うとリズムまでが狂いそうで、ダンスがぐっだぐっだになりそうだ。
「マイケル・ジャクソンの歌、適当に歌え」
「適当でいいの?」
「いいよ」
「こんなところに空いてる場所があるってのは……」
「事前に頼んであったんだよ」
 では、「beat it」。歌詞は無茶苦茶だけどメロディは完璧に歌う。俺が歌いはじめると、仲間たちが踊り出す。初詣に来ている人々が立ち止まる。熱心に見てくれる人もいれば、せせら笑ってる奴もいる。歌っている俺の横に立って、教官が鋭い目で踊っている奴らを見ていた。
「ヨシは音痴だけどダンスはいいな。かっちゃん……ロロ……さあや……」
「俺は?」
「おまえは黙って歌え」
「黙っては歌えないよ」
「喋らずに歌え」
 もしかしてもしかして、ヨシとかっちゃんとロロとさあやと……歌えと言われた俺が次にデビューする? デビューさせてもらえるんだったら、恥ずかしいなんて思っていてはいけない。これはそのためのオーディションみたいなものなのかもしれないのだから。
 これだけ大勢の人の前で照れずに歌って踊って、受けなくてはならない。アイドルになるためだったらそれくらい、やってやるさ。今年は俺、デビューできるのかも? 想像するとわくわくしてきた。


如月・章

 卒園式、卒業式、幼稚園から高校まで、俺もそんな式には出席した。中学、高校のときには女の子が、学生服のボタンをほしいと言った。何人もの女の子に言われたので、制服の上着を脱いで放り投げて、勝手に取ったらいいだろ、と言い放って逃げ出した。
 あのころの俺はもてたのだ。ものごころついたときから、俺は女の子にもてていたのだ。今でももてなくはないけど、もてる相手がちがってきた。
 こっちが学校に通っていれば、章くんが好き、と言う女の子も学生だった。こっちがロッカーなのだから、今ではアキラが好きだと言う女は、ロック好き、ロッカー好きのけばけば派手派手女ばっかり。そんな女のひとりとデートしていたら、どこかの大学の門の前に出た。
 「卒業制作作品展」と大書した看板が立っている。ここは俺が……本当だったら来年には卒業するはずだった大学だ。本当だったら、って、なに言ってんだよ。一年で中退しておいて、本当だったら、もないもんだ。俺に夢がなくて、だらだらした大学生を続けていられる意気地なしだったら、と言い替えよう。
 二十歳の二月、俺が一年だけ通っていた大学で開催されているのは、芸術学部の卒業作品展だ。俺の連れのリラと名乗る女が言った。
「あたしもちょっとだけ、芸大に行ってたんだよ。なんの作品展かな」
「絵みたいだな。見るか」
「関係ない奴も入っていいの?」
「ご自由に観覧して下さい、って書いてあるぜ。見てほしいんじゃねえの」
「そしたら入ろうよ」
 芸術学部なんてのは工学部の俺には縁がなくて、こっちのほうには来たことがない。俺が中退した大学は馬鹿でかくて、学部もいっぱいいっぱいあったから、俺は工学部の教室と合唱部の部室しか知らなかった。
 勉強はさぼってばかりいて、合唱部もよくさぼっていたけれど、キャンパスはなつかしく感じる。二月の寒い時期なのに、大学のキャンパスってのはぬくもりすらも感じた。
 学生だった俺にメシをおごってくれたりした、小笠原さんや本庄さんは卒業するんだな。それ以上の年頃の先輩たちはとうに卒業して、大部分はサラリーマンになったのだろう。あんなに歌が上手だった本橋さんや乾さんだって、ネクタイ締めた営業マンにでもなったのか?
 アパートは学生時代のまんまなのに、俺が中退してからは学部の友達も、合唱部仲間も、女の子も、誰ひとりとして訪ねてもきてくれない。訪ねてきたら追い返すだろうに、彼らは俺とは世界がちがってしまったのに、思い出すとちょっと腹立たしい。
 いちばん仲のよかった幸生は、まだ学生やってるんだろ? おまえには俺みたいに、大学をやめる勇気はないんだろ? 学生最後の告白をして、無視されちまったミャーコちゃんも、ふたりともに芸術学部ではなかったけど、広いキャンパスのどこかを歩いているのかな。
 横でぺちゃくちゃ喋っているリラは、あたしも芸術家なんだよ、なんて言っている。言いたい奴には言わせておいて、ふたりして作品展の会場に入っていった。
「小学生みたいな絵だね」
「おい、リラ、でかい声で言うな」
「言ってもいいじゃん、下手なんだもの」
「俺には絵なんかわからないけど、下手でもないんじゃないのか」
「わかってないんだったら黙ってれば? あたしにはわかるんだよ。目の汚れ、芸術的な心の穢れになるような絵だもん。特にこれ」
 アブストラクトなのだろうか。暗い色使いの暗い絵としか俺にはわからない。なにを表現したいのかもわからない絵に、リラが指を突きつけた。
「この絵って見てて不愉快じゃない?」
「いや、俺にはわからないから……」
「あたしはこの絵は大嫌い。破ってやりたいよ」
「下手だって言うんだったら、きみだったらもっといい絵が描けるの?」
 暗い声の暗い感じの痩せた男が、リラに話しかけた。
「この絵を見て不快感を感じるというのは、僕はそのつもりで描いたんだから、きみの感性はまちがってはいないってことだね。だけど、人の絵を下手だの破ってやりたいだのって、それはなくない?」
「本当だもん」
「きみも絵を描くの?」
「あたしは風景画を描くの。抽象画は認めない」
「きみの絵、見せてよ」
「……いいよ、ついておいでよ」
 おい、リラ、おまえが絵を描くなんて見栄じゃないのか、大丈夫か? なんでこうなるんだ? 俺にそう言う間も与えず、リラと男は火花を飛ばし合いながら会場から出ていってしまった。
「あの女の子、あなたの彼女じゃないの?」
 会場はがらんとしていて、学生らしき女が俺に声をかけた。
「ほっといていいの? 彼、けっこう気が荒いよ」
「リラに乱暴したりするかな」
「しないって保証はしにくいかな。あなたの彼女なんだったら、助けにいったほうがいいかもよ」
「彼女ってほどでもないから、助けるってのは……」
「彼女じゃなくても友達でしょ?」
「グルーピーだよ」
「ああ、あんたってロックでもやってるの? ロックやってる男なんてのはね……格好ばっかりで気も弱そう」
 なんだと、てめえ、と怒ると、俺が彼女に乱暴してしまいそうだ。俺は捨て台詞を吐いて抽象画の部屋から出ていった。
「芸術家だとか言って、絵を描く奴だって変人ってか、変態ばっかだろ」
 もしもあの男が乱暴しそうになったからといっても、リラを助けてやる義理はない。しかし、ほったらかしにするのも胸が痛い。あの暗そうな男は強そうにも思えなかったから、外で喧嘩でもしているのならば、リラの手を引っ張って走って逃げようか。
 そのくらいはやってやらなくちゃな、と思って探していると、木陰にリラとあの男の姿が見えた。ふたりは議論しているらしい。議論が高じて手の出る喧嘩になるってのもよくある話だ。俺はどうしたらいいのだろうか。
「んん?」
 ところが、リラが男に身を寄せていき、背伸びしてくちびるをついばむようなキスをしたのだ。男が腕を伸ばして、リラに応じる。ふたりが抱き合う。見ているのも馬鹿馬鹿しくなってきて、俺はふたりに背を向けた。
「勝手にしてくれ」
 芸術家気取りの女なんて好きではないのだから、リラがあいつとつきあうんだったらそれでもいい。笑うしかなかった。
 

弥生・リリヤ

 この春にはやっと、長女のユリカが幼稚園に入園する。名門大学付属幼稚園なんかではなくて、近所の評判のいい幼稚園に決まり、幼稚園生活体験をさせるために連れていった。
「お母さま方はお引き取りいただいて、時間になるまではご自宅で待機して下さいね」
 園長先生に言われて、お母さまたちは園から出ていく。心配そうにしているひとも、何人かで連れ立ってお茶を飲みにいこうと言っているひとたちもいる。私には親しいひとはいないので、帰ろうとしていたら、たったひとりいたお父さまと目が合った。
「山下と申します。ほら、あいつ、うちの坊主ですよ。おたくのお嬢ちゃんと早速、仲良くしてもらってるようですね」
 見ると、砂場でユリカが男の子と遊んでいた。
「そうみたいですね。あの子の母親が私だって、ごぞんじだったんですか」
「ユリカちゃんは今度入園する女の子たちの中では一番の美少女で、そしたらさぞかしお母さまも美人なんだろうと思って、探してたんですよ。思った通りでした」
「こんな太ったおばさんですよ」
「太ってませんよ、ちっとも」
 それはお世辞にすぎる。三人目のサリナを出産して間もない私は、少女のころの面影もないほどに太った。夫もお世辞を言うけれど、太っていないとは言えないらしくて、リリヤはふくよかな美人だよ、と言うのだから。
「山下さんって営業マンでしょ」
「そうです。製薬会社の営業マンです。よろしかったらお茶でもいかがですか」
「あの、今日は奥さまは?」
「妻はいません。離婚したんで、レオは僕がひとりで育ててるんですよ」
「ああ、そうなんですか」
 二時間もしたら体験入園の子供たちを迎えにいかなくてはならないのだから、自宅に帰るよりも近くでお茶を飲むほうがいい。私は山下さんとふたり、幼稚園から私鉄の駅のほうへと歩いて、カフェに入った。
「二十歳で出産なさったんですか。道理で黒木さんはお若いですね」
「山下さんはおいくつですか」
「三十です」
 すると、六歳年上。背はそんなに高くはないけれど、すらっとして若々しい。うちは私が太ったのと比例して夫も太っていったので、山下さんと年齢は近いにしても、完全におじさんになっている。私はおばさんの年齢ではないにしても、太っておばさん体型になったのだから、あの夫はお似合いなのだろうけど。
「レオはひとりっ子なんですけど、ユリカちゃんには妹さんがふたり? 三人の子育ては大変でしょうね」
「山下さんも大変でしょ? 保育園じゃなくて幼稚園なんですか」
「送り迎えは近くに住んでる姉がしてくれますんで。姉が言うんですよ。できたら保育園よりも幼稚園のほうが、将来の学力のためにはいい、なんてね。そうなんですか?」
「そうなのかしら」
 子供の話やら、山下さんの姉の話、私の兄の話やらをしているうちに、時間はじきにたった。
「黒木さん、また会っていただけますか。今度はゆっくり」
「ゆっくりと言っても、ひとりでいられる時間はないんですけど……でも、機会があれば」
「デートの約束、して下さいよ」
「えと……そうね。では、母に……」
 近頃の私は母である部分が大半で、それ以外でいられる余裕なんてなかった。二十四歳の若さで母でしかない人生は、自分で選んだものなのだから不満ではないけれど、女の子に戻ってみたかったのかもしれない。
 三人の子供はいるけれど、夫は協力的だし、親が近くに住んでいるので預かってくれる。孫煩悩でべったべったに甘い私の両親は、三人まとめて預けてもいやな顔もしない。母に甘えることにして、子供たちを預けて山下さんとデートした。
 痩せて見えると店員さんが言ったので買ったワンピースを着て、土曜日のランチデート。他愛なくも胸がときめく。山下さんは営業マンらしく上手に褒めてくれた。
「春らしい綺麗な色で、あなたにとってもお似合いですよ。だけど、今日はすこし寒いでしょ。どうぞ、これを」
 そう言って、マフラーを貸してくれた。待ち合わせたカフェから出て、寄り添って歩き出す。
 十九歳で結婚した私は、夫と知り合うまでは男の子とはまともにつきあったこともなかった。小学生のころから男の子には何度も告白されたけれど、兄が邪魔をするのもあり、私が面倒に思ったのもあって、男女交際はしたことがない。
 大学一年生のときに教授の紹介で会った夫になぜか惹かれ、私のほうから積極的にアプローチした形になって子供ができて結婚した。なのだから、デートしたのも初期のころだけ。私には青春が少なかったから、こうして久々で男のひととデートしているとときめいてしまう。
 食事をしてお喋りをして、大きな公園を散歩して、ベンチにすわってまたお喋りをする。健康的で健全なデートなのに、ちょっぴり後ろ暗いのは、私には夫がいるからだ。
「もう帰らなくちゃね」
「そうですよね。ああ、あなたといると楽しいな。リリヤさん、今度は夜に会ってくれませんか」
「夜は無理ですよ」
「一度くらいいいでしょう? 僕はできるものなら、あなたを……」
「そんなのは……冗談はやめましょうね」
 なんだかドラマの登場人物になったみたい。山下さんは私をからかっているのかもしれないけど、私の胸はとくとくときめく。安っぽいドラマで安っぽい不倫にはまる安っぽい主婦。私が陥ろうとしているシチュエーションはそうだと知っていても、シリアスに見つめられるとときめいてしまう。
「こんなのは一度きりにしましょうね。私も楽しかった」
「……僕はあなたと何度でも会いたいですよ。一度きりだなんて言わないで」
 抱きしめようとしたのか、伸びてきた腕をかわして、私は後ずさった。
「冗談はやめましょ。じゃあね」
「リリヤさん……」
 名残惜しそうな、切なそうな目。ほだされてしまいそう。
 実家に寄って母と一緒に夕食の買い物に行き、父が見ていてくれた子供たちを引き取って家に帰る。罪ほろぼしでもあるかのように、子供たちにまとわりつかれながら手の込んだ夕食を作る。土曜日でも仕事をしていた夫が帰ってくると、食卓を囲む。
 三女のサリナはベビーベッド、長女のユリカと次女のマリンと、夫と私はビーフシチューとパスタとサラダと野菜のフリッターの夕食。おー、ごちそうだね、と夫は喜んでいて、私の胸はちくちくっと痛む。
 買い物をしていても、子供たちの相手をしていても、夫と話していても、食事をしていてもどこかしら上の空だったのは、私の心に山下さんがいたから?
「そんなの、駄目よっ!!」
「リリヤ、どうした?」
「ママ、どうしたのぉ?」
「やーん、ママがおこるぅ」
「マリン、ママは怒ってるんじゃないのよ」
 マリンを抱きしめて、こんなんじゃいけない、私はママとして生きなくては、と決意した。
 幼稚園は四月にならないと正式には通わないので、山下さんとは会わずにいられる。自宅に電話をしてくるような分別のないひとではないけれど、私がしたくなる。携帯電話のアドレスと電話番号は交換したから、彼がメールでもくれないかと期待してしまう。くれないんだったら私がしようかと思う。
 電話もメールもしてこないのは、ちょっとした遊びだったから? ママ友とかいうのと同じで、そんなふうなおつきあいのつもり? だったら、抱きしめようとはしないでしょ? 山下さんが私に腕を伸ばしたように思えたのは、幻想だったのかしら。
 それとも、電話したいのに我慢してる? 山下さんは私に惹かれた? 私の軽薄な不倫願望? 私は彼が好き? ううん、私は夫と娘たちが好き。なのに、心が揺れていた。
「パパ、明日は休みでしょ? 子供たちをお願いね」
「いいけどさ、どこに行くの?」
「お兄ちゃんち」
「ああ、行ってらっしゃい」
 次の土曜日、私は兄の将一のマンションを訪ねた。
 私が大学生になったころ、兄が大学を卒業したら兄妹デュオとしてデビューしようと兄が決めた。兄は関係各所にデモテープを送ったりもしていて、ほぼ本決まりになっていたらしい。そのために私には、酒を飲むな、男と深いつきあいをするな、夜遊びをするな、とうるさく言っていた。
 だけど私は恋をして、妊娠して結婚して、歌は捨てた。兄のデビューの目論みも宙ぶらりんになって、何年も苦労していたらしい。その兄は昨年、プロのシンガーになった。
 大学を卒業してからは、祖父の援助もあってひとり暮らしになった兄とは、もう二度と一緒に暮らしたりはしないのだろう。両親の仕事が忙しくて、幼いころにはいつだって兄にくっついて歩いていた私にとっては、それでも兄はその陰に入ると安らぐ、大きな樹木だった。
「土曜日なのにマンションにいるの? 暇なの?」
「俺はまだ新米で、仕事もそんなにはないんだよ」
「デートは?」
「デートってなんだ?」
「デートってなんだか忘れるくらい、長くしてないのね。かわいそうにね。お兄ちゃんってどうしてもてないんだろ」
「もてなくてもいいよ。俺の歌を好きだと言って下さるファンの方のほうが大切だ」
「いい心がけだね。ねぇ、ビール飲みたい」
「昼間からか」
 太るぞ、と言いながらも、兄はビールとおつまみのナッツを出してきてくれた。
「ナッツもすっごく太るんだよ。生野菜のスティックでも作ってあげようか」
「生野菜なんてうちにはないよ。文句があるんだったら食うな」
「食べるよ」
 子供のころにもこうやって、口喧嘩をしていた。兄が用意してくれたおやつに不平を言って、文句があるんだったら食うな、食うよ、女が食うとはなんだ、なんて……。
「私はデートしたんだよ」
「徹平さんとか?」
「徹平さんとだったら普通だけど……お兄ちゃん、こんなのっていけないよね?」
「こんなのとは?」
 まとまりもなく、私は話した。兄は真面目に聞いてくれてから、私を抱きしめた。
「馬鹿」
「馬鹿とはなによ」
「徹平さんにはおまえがそんなふうに考えてるとは、言えないだろ?」
「言えるわけないじゃないの」
「それはいけないことだからだろ」
「だって……」
「だってじゃないよ。端的に言えばそれは浮気じゃないか。おまえが夫も娘たちも捨てて、家庭を壊してもいいつもりじゃないんだったら、浮ついた気持ちを持つな」
「お兄ちゃんって意外に常識的だよね。つまんないお説教」
「家庭って常識的なものだろ」
 知ってはいるけど、兄の言葉は正しいとわかってはいるけど、反抗したかった。
「お兄ちゃんは歌手になって刺激的な生活をしてるんだろうけど、私は三児の母がすべてなんだよ。浮ついたデートをして、あなたは美人だって言われて、ふわふわっと浮き立つのっていけないの?」
「それだけですむんだったらいいのかもしれないけど、徹平さんはいい気持ちではないだろうな。おまえは徹平さんが浮気をしても平気か?」
「いや。駄目。許さない」
「そこから考えれば、徹平さんだって同じだとわかるだろ。リリヤは美人だ。おまえは可愛い。ふくよかな母も綺麗だよ」
「お兄ちゃんに言われても嬉しくないもん」
 こうして抱かれていると、小さいころに戻っていくみたい。兄は私を抱き上げてソファにすわり、膝に乗せて揺すってくれた。
「重いでしょ?」
「重いのもトレーニングになっていいよ」
「ひどい言い方……ねぇ、駄々、こねていい?」
「いいよ」
「無茶苦茶言っていい?」
「俺にだったらいいさ。発散してから帰るといいよ。あんまり聞き分けがなかったら押さえつけてお仕置きをしてやるから、それまでは言え」
「……リリヤは力も強くなったから、お兄ちゃんになんか押さえつけられないもん」
 我慢強くなったよね、お兄ちゃん、苦労したから? 大人になったから? そんなふうにも考えながら、いっぱいいっぱい駄々をこねた。こうして兄の膝で甘えていたあのころに、だんだんだんだん戻っていく。
「妹にはそうやって優しくても、よその女には冷たいんじゃないの? だからもてないんだよ」
「そうかもしれないな」
「私はもてたのに、お兄ちゃんが邪魔ばっかりするから、経験不足で結婚したんだからね」
「ほお、そうだったのか」
「男の子に告白されたって言ったら、ませてるだのまだ早いだの、俺のところに連れてこいだのって言ったじゃないの。断りにいったこともあったでしょ」
「あったような気がするよ」
 片腕で兄の肩につかまって、片手でぼかぼかっと腕を叩いた。
「だから……あのころの細い美少女のリリヤだったら、お兄ちゃんほどにかっこいいひとだってつかまえられただろうに、経験が不足してたからあんなのに目が眩んだんだよ。あいつのせいで太っちゃって、あいつも太っちゃって、金子将一さんってリリヤさんの弟さん? なんて言われるんだから。太ったのは徹平のせいで、三人も子供を産まされておばさんになって、そうなったのはお兄ちゃんのせいだよ。だからもう一度夢を……お兄ちゃんの馬鹿っ!!」
「俺のせいにするのはいいけど、徹平さんをそんなふうに言うものじゃないよ。愛してるんだろ」
「愛してないよ。あんな奴、大嫌い」
「リリヤ、それ以上言うとお仕置きだぞ」
「やってみれば?」
「やってやろうか」
「きゃっ!!」
 腰をつかんで持ち上げられて、怖い顔で見つめられて涙が出てきた。
「おや? よしよし、ちっちゃなリリヤ」
 子供のころには聞いた覚えのない優しい声を出して、兄が私を抱き直してくれる。えーんえーんと声を上げて泣き出した私の耳は、大切な言葉だけをキャッチした。
「徹平さんは言ってたよ。リリヤは僕にはすぎた妻だ。三人も可愛い娘を産んでくれて、立派に主婦や母をしてくれている。僕はリリヤを愛してます、ってさ」
「ほんと?」
「本当だよ。黙って泣け」
 心の迷いだったのだろうか。春が近づくと変になる人間が増えるというから、私もそうなりかけていたのか。兄になだめられて叱られて、夫が言ったという言葉を聞かされて、泣いて、小さなころに戻っていって、再び、母であり妻であり主婦であるリリヤに戻れた。
「もしも彼が変な誘いでもかけてきたら、お兄ちゃんが撃退してくれる?」
「ああ、してやるよ」
 美少女だったころには、兄が幾度も私を守ってくれた。結婚していてさえもこれなのだから、夫が嘆きそうな気もするけれど、こればっかりは夫には言えないのだから、兄に頼るしかないのだった。


卯月・繁之

 あべこべだったら小学校のときにあったなぁ、ってのを思い出す。三重県の小学校の二年生のときだったか。運動会の前の徒競走の練習で、先生が言ったのだった。
「本庄くんは去年は最初はかけっこはトップだったのに、途中でこけてべったこになってしまったのよね。あれはフォームが悪いからだって、言ってた子がいるのよ。先生もそうだと思うな。六年生の菜穂子ちゃんが本庄くんのフォームを見てあげたいって言ってるの。見てもらいなさい」
 四つ年上の菜穂子ちゃんは、背の高い美少女だった。綺麗なひとやなぁ、とは思ったが、俺は春の目覚めの季節にはなっていなかったので、彼女を女の子だとは意識せずに、かけっこの先生だとだけ意識していた。
「あたしは大きくなったら陸上競技の選手になりたい。あんたはフォームがおかしいから途中で失速したりするんよ。去年の運動会で見て、一年生のくせになんて早い……って思って注目してたら、こけたやろ。あたしが教えてあげるから、ね」
「うん」
「教えてあげたらきっと本庄くんはすごい選手になるから、あたしと一緒にオリンピックの短距離に出よう」
「オリンピック?」
 子供心に、そんなだいそれた……とは思ったのだが、走るのは好きだったから、菜穂子ちゃんの指導のもと、一生懸命やった。
 おかげで二年生の運動会の徒競走ではトップになり、その後、小学校でも中学校でも高校でも、運動会でシンプルに走る競技ではトップだった。
 単純に走るだけだったらいいのだが、女の子と二人三脚をするとのぼせてしまって足がもつれる。借り物競争だのパン食い競争だのもしかり。複雑になると足がこんがらがって頭もこんがらがって駄目になる。
 少年野球の選手としては、普通に走れば早い。が、盗塁となるとピッチャーのモーションを盗むだのという技能も必要なので、そっち方面は苦手だった。
 六年生だった菜穂子ちゃんが卒業するまでだから、ほんの半年ほど。その間だけでも教えてもらってよかったと思う。彼女のおかげで俺は、歌とは別の長所を伸ばしてもらえた。彼女が手取り足取りフォームを教えてくれたときには、俺は二年生の小童だ。それでもほんのすこし、姉ではない年上の女の子の手が身体に触れるのを意識していたのかもしれない。
「本庄くん」
 彼女が卒業してからは一度も会わなかった菜穂子ちゃんと、中学生になってから近所で再会した。彼女はすらーっと背の高い、愁いありげな美女に成長していた。というのは大学四年生の俺の追憶であって、当時はそこまでは考えていなかったのだが。
「大きくなったね。あたしと変わらん背丈になった」
「……あ、ああ、菜穂子ちゃんは大学? オリンピックに出られそう?」
「高校までは走ってたけど、アキレス腱がね……今はもう走ってない。本庄くんは中学でも走ってる? 少年野球の試合は見にいったことあるよ。出てなかったね」
「俺、補欠やから……」
「ああ、そっか。しっかりしいや」
「いや、あの、俺、小学校までで少年野球はやめて、今は合唱部」
「へええ。そうか。本庄くんっておっさんみたいな声に……いやいや、渋い声やね。歌もええなぁ。あたしもやろうかな」
 それだけの会話をして、菜穂子ちゃんと別れた。あれからは一度も会っていない。
 小学生のころと中学生のころの、近所に住んでいたお姉さんとの触れ合いを思い出したのは、合唱部の一年生の女の子に頼まれたからだった。
「本庄さんって足が速いんですってね」
「俺が走ってるとこ、見た?」
「実松さんや小笠原さんと、グラウンドを駆け足してるのは見ました」
「あれは罰ランニングだよ」
「罰? 四年生なのにランニングの罰があるんですか」
 倉石さんという名の女子部の一年生に、俺は話した。
「俺たちが合唱部に入部した年のキャプテンは、金子さんっていってさ、副キャプテンは皆実さんっていったんだ。倉石さんも噂は聞いてるんじゃないかな」
「はい。おふたりともとーってもかっこよかったって聞きました。
「格好もよかったけどきびしかったよ。皆実さんは目に余る奴は殴ったらしい。俺は殴られなかったけど、もうひとつの罰は与えられたんだ」
「それがランニング?」
 皆実さんが決めたとの説もある、男子合唱部名物罰ランニング。合唱部以外の学生は、歌うサークルがなんで? と不思議そうにするのだが、倉石さんはかつての男子部の野蛮さも聞いているのか、笑って先を促したそうにしていた。
「そうだよ。男の学生ってのは馬鹿な相談をしたりするだろ。さぼりもやるし、ガキみたいないたずらをしたりもする。きびしく叱られるべきときには、副キャプテンに殴られたりもする。説教もされた。その果ては、走ってこい、なんだよ」
「馬鹿な相談やいたずらって?」
「いやいや、いいんだけどね」
 どこやらの女子大の寮に潜入するには……女の子のスカートの中を鏡でこうやって覗いて……ナンパした女の子に酒を飲ませて……そのような阿呆な相談は、実松とヒデが中心になってやっていた。実行はせず、相談することを面白がっていたのだが、俺はたいていは止めていた。
 そんなところに先輩が入ってくると、人によっては叱り飛ばされる。本橋さんあたりだと相談に加わってくれたりもして、最後にひとこと、やるなよ、こうやって相談してるのと、やるのとは次元がちがうんだぞ、特にヒデ、わかってるか、と言い、下級生たちはてへへっと笑って、やりません、と約束するのだった。
「特にヒデ? 俺はそんなに信用されてないんですか」
 本橋さんに食ってかかろうとするヒデの腕を、実松とふたりして引っ張ってグラウンドに走り出た思い出もある。
 下級生たちを叱りつけるのは皆実さんや乾さんで、馬鹿野郎、走ってこい、と一喝される。徳永さんあたりだと侮蔑のまなざしを向けられる。実はいちばんおっかねぇのは徳永さん? なんて風評もあったものだ。
「そうやって俺たちは四年生になった。四年生になると俺たちに罰を与える先輩はいなくなるだろ。だから、自分たちで与えるんだ」
「四年生同士で?」
「ちがうよ。四年生は自己判断」
「すると、一週間ほど前にはどうして走ってたんですか」
 一週間前ならば、ヒデが一年生の男子を投げ飛ばしたときだ。綾羅木という一年生はなにをしたのか、言ったのか、ヒデは彼を叱ったのだと思うのだが、やりすぎた、反省するために走ってくる、と言い出し、早足で行ってしまった。
「綾羅木もいたときだね」
「そういえばいましたね」
 あのときには綾羅木は泣きそうな顔をして、僕が悪いんです、僕も走ります、と言い、実松と俺と、四年生の有志数人がヒデのあとから走っていった。俺はヒデを追い抜き、シゲはやっぱり足が速いなぁ、とヒデがうしろで言っていた。
 ヒデが綾羅木を投げ飛ばした原因は知らないが、結果はあれでよかったのだ。女の子には話しづらいエピソードなので、俺は言った。
「前にみんなしてさぼった分だよ。綾羅木はついてきてただけ」
「そうなんですね。それはいいんですけど」
 そこで倉石さんは本題に入った。
「学部は本庄さんと同じ、史学部なんです。私とは高校が同じの友達で、相沢マヤカっていいます」
「マヤカ?」
 まやかしみたいな名前……とは言ってはいけない。
「そのマヤカさんがどうか?」
「マヤカは陸上部に勧誘されて、先輩にすっごくかっこいい人がいるからって、ふらふらーっと入部しちゃったそうなんです」
「陸上部のかっこいい奴ったら、赤木かな」
「そうです。本庄さんとは知り合いですか」
「赤木は有名だから知ってるけど、彼は俺を知らないだろ」
 歌手や作曲家や演劇人といった方面の才能が集まると、我が大学の評判はそうなっている。中でも合唱部は校外にも有名だが、スポーツ方面はそれほどでもない。それでも、野球部や陸上部には時にはスターがあらわれる。
 赤木は近来久々のスポーツ方面の人気者だそうだが、俺は直接話したこともない。俺も足は早いけど、彼とは次元がちがうんだろうと思って、グラウンドを走っている姿に見とれていただけだ。
「そうなんですね。いえ、マヤカも赤木さんに紹介して、なんて言う気はないんですよ」
「あ、そう」
 そんなほうには頭はひとかけらも回らなかったが、言われても困るので、紹介してくれと言われなくてよかった。
「そうではなくて、マヤカは陸上経験なんてゼロなんです。なのに先輩のかっこよさに惹かれて入部を決めた。もしも赤木さんにマヤカの走っている無残な姿を見られたらどうしようって、彼女、悩みまくってるんです。それでね、相談されてて思いついたの。合唱部にはスポーツのできる人は少ないかもしれないけど、本庄さんはフォームもよくて、走るのも早くて、お願いしてみたらどうかなぁ」
「なにをお願いするの?」
「マヤカの指導です」
「……それは……」
 俺は素人だよ。そんなことはできないよ。辞退すべきだったのに、俺でよかったら、と言ってしまった。見栄っ張りの馬鹿馬鹿、馬鹿、ではあったのだが、引き受けてしまったのだから逃げてはいけない。素人以前のマヤカさんにだったら、教えられるだろうと腹を括った。
「走ってみて」
「ええと……」
 白いTシャツに赤いジャージーのマヤカさんは、陸上部の先輩に教わるのは気が引けるってほどの、中学生レベルだそうだ。近くで見ている倉石さんの言葉通り、なかなかひどいものだった。
「ああん、しんどーい」
 五十メートルを走って、地面にぺたっとすわってしまう。背が高くてすんなりしていて、綺麗な子ではあるのだが筋肉がまったくついていない。典型的お嬢さん走りだった。
「あのね、走るときに踵がさ……」
 体育ずわりをして神妙に、マヤカさんは聞いている。彼女のフォームは、走るときに踵が尻の下のほうを蹴飛ばすのだ。尻が……などと言うとセクハラだと怒られそうで、気を使う。なんと言えばいいのかわからなくて、実践してみせた。
「こんな感じでしょ。あんな走り方だとそりゃあ、スピードも出ないよ」
「……あたし、そんな走り方してます? そんなにみっともない?」
「みっともなくはないけどね……」
「こんなんじゃ、赤木さんには注目してもらえない?」
「赤木くんがどう思うかは、俺は知らないけどね……」
 やっぱ素人には素人を教えるなんて、無理だ。早くも音を上げたくなった。
 四月の午後の大学グラウンド。自主トレをやっている運動部の連中もいる。見事に鮮やかなフォームで走り抜けていく、かもしかのような女子大生の長い脚。俺はすんなりしすぎの筋肉ゼロの女の子よりも、ああいう脚が好きだな。
 筋肉ありすぎの女はちょっといやだけど、ぽちゃっとした子もいいな。あの子はなんの競技をやってるんだろ。スポーツをやっているにしては下半身が太いのも可愛い。ぽっちゃりした脚もいいな。マヤカさんの脚なんて、走りすぎたら折れそうで魅力を感じない。
 いや、しかし、俺はそうやって好みを言える立場ではない。片想い経験だったらあるものの、大学四年生にもなって男女交際をしたこともない、世にも哀れなもてない男なのだから。
 マヤカさんが俺とつきあいたいって言ってるんでもあるまいに、好みじゃないなんて、考えるだけでも失礼だろ。俺はおのれを叱って、マヤカさんには言った。
「俺の走りは素人だけど、きみだって素人なんだから手本にしてみて。うしろからゆっくり走ってきて。まずは踵がここに当たらないようにね」
「脚を蹴り上げすぎるなって意味ね」
「ああ、そうだね」
 はじめからそう言えばよかった。しかし、男が相手だったら、ケツだの胸だのと言ってもいいだろうに、女性だと身体の各部の名称を口にするにも冷や汗ものだ。こんなていたらくでは女の子とつきあえないぞ。しっかりしろ、シゲ。
 気をよそにそらせつつも、俺はいい汗をかいた。マヤカさんのフォームも次第に矯正されていって、数時間で見られる程度にはなった。
「ああ、疲れた。本庄さん……汗だくだく。おんぶして」
「え? いいけど……恥ずかしくない?」
「おんぶしてお風呂のあるところに連れていって」
「学校の外に銭湯があるよ。あそこでいい?」
「銭湯は混浴じゃないでしょ」
「……」
「一緒にお風呂に入りたいの」
「……あの……」
 頬がかっかっと熱くなっていく。マヤカさんの顔を正視できない。マヤカさんはベンチにすわり、気持ちのいい夕風に髪をなびかせて、無邪気に微笑んで立っている俺を見上げていた。
「おんぶして連れていって」
「……あの、どこに?」
「本庄さんの行きたいところによ」
「……あのあの……」
「マヤカ」
 その声に振り向くと、背が高くて顔のいい男が立っていた。
「おまえ、なに言ってんだよ。こいつは誰だ」
「学部の先輩の本庄さん。ミツヤにも言ったでしょ。あたしは陸上部に入るって」
「陸上部に入りたいけど、あまりにも無残な走り方しかできない。先輩に教えてもらうって言ってたよな。その先輩がこいつか」
「そうだよ。陸上部の先輩になんか頼めないもん」
「おまえの走りじゃあそうだろうさ。走りを教わるのはいいけど、それで、おまえ、こいつになんて言ってたんだ」
「聞こえた? やぁだ」
 ミツヤとは姓だか名だか知らないが、彼に向かってマヤカさんはけらけら笑ってみせた。ミツヤはマヤカさんの真正面に立って、腕組みをして怖い顔で見下ろした。
「おんぶだったら俺がしてやるよ。おぶされ」
「いやだ。恥ずかしい」
「こいつにはしてほしかったんだろ」
「ジョークに決まってるでしょ」
 なんだ、そうか。ではないかと思っていたが、わずかな期待が……シゲの馬鹿。
「疲れ果てて歩けないのか」
「だいじょぶだよ。ミツヤ、優しいね」
「ホテルにだって俺とだろ」
「うん。おなかもすいちゃった。立たせて」
「甘えんぼのマヤカ」
 怒っているように見えたミツヤは、声音も態度もころっと変えて、マヤカさんに手を差し出した。その手にすがって彼女が立ち上がる。そして腕を組んで、俺にはひとことの挨拶もなしでカップルは行ってしまった。
 鈍感だとその名も高き俺にだって、あれが恋人同士だとはわかる。兄妹だったら異常だ。すると、マヤカさんが赤木に憧れたってのは? かっこいい男に対するそんな気持ちは、アイドルに夢中になる心理と同じなのか。
「女って……わかんねえな」
 関東弁っぽく言って、俺は夕空を見上げる。倉石さんはとうに帰ったようだ。もしも彼女がここにいたとしても、今のはなに? と訊くわけにもいかない。俺の苦手な推理と空想で、こうだったのだろうと考えておくしかなさそうだった。
 
 
皐月・準


 ドーナツショップでアルバイトしているモモちゃんと、その近くの激安なんでも量販店でバイトしている僕とが知り合って、モモちゃんが言ってくれた。
「クリちゃん、つきあおうよ」
 嬉しくて嬉しくて、あれから僕の心はふーわふーわ。ギターを弾いてモモちゃんに捧げる歌を作って歌ってみたりもしていた。
 恋をしていれば幸せだけど、うちに帰るのは気が重い。モモちゃんも僕も東京生まれの東京育ちで、親の家で暮らしていて、ともにひとりっ子で、ともに高卒フリーター。共通点はいっぱいあるのだが、モモちゃんは親に疎まれたりはしていない。
「高校を卒業して大学にも専門学校にも行かずに、就職もしないって、そういうのをニートって言うんじゃないのっ」
 僕の母はそう言って、僕が高校を卒業したころからは息子を疎ましく思っているようなのだ。
「ニートってバイトもしない奴のことだよ。僕はアルバイトはしてるんだし、遊び暮らしてるんでもないんだし、夢があるからそのために、正式に就職しないって話したじゃないか」
「そんな夢は母さんは認めません。父さんだって認めてないわよ。あんたみたいなまずい顔で小さな男の子が、歌手になんかなれるはずがないでしょ。声だって女みたいだし、性格も女みたいなんだから。お父さんに似たのよね」
 その夢とは、歌手になりたいってものだ。モモちゃんも歌手になりたいと思っているとは偶然だったのだが、それならばデュオを組んで歌おうと話し合った。アルバイトも店員ではなくて、歌える仕事だったらいいのに、って、モモちゃんと話していると夢がどんどん広がっていく。
 今日も仕事が終わるとモモちゃんとデート。お金はないから割り勘で、ふたりで食事をする。モモちゃんは割り勘でも怒ったりしないで、楽しそうにお喋りしてくれる。僕はモモちゃんの可愛い声のお喋りを聞いているだけでも幸せだ。
「もうじき母の日だよね。クリちゃんはお母さんにプレゼント、するの?」
「モモちゃんはするの?」
「あたしはママを旅行に連れていってあげるの。お金はないから、日帰りバスツアーだけどね」
「モモちゃんのママって、フリーターでいても怒らないの?
「怒りはしないよ。今どきは高卒だとまともな仕事に就けないのかしらね。桃恵も短大に行けばよかったのに、って言うけど、モモちゃんは勉強は嫌いだもん」
 母の話をするとマザコンだと思われそうで、しにくかったのだが、モモちゃんが言い出したのだから話した。
「ああ、そうなんだ。男の子のほうが深刻かもね」
「それはあるんだろうね。僕は昔から、母から見るとじれったい子だったんだよ」
「わかる気もする。モモちゃんだってクリちゃんみたいな息子がいたら、しっかりしろって怒りたくなるもんね」
 仲良し母娘であるらしき、モモちゃんとママがうらやましい。モモちゃんは彼女のママの話をいっぱいしてくれた。
「うちのママもクリちゃんを見たら、男の子がこんなんで大丈夫? って言いそうだけど、モモちゃんはそんなクリちゃんが好きなんだもん。モモちゃんのほうが強いんだから大丈夫だよね」
「うん、ありがとう、モモちゃん」
 僕よりも身体の小さいモモちゃんだけど、精神的にはとっても強い。こんな奥さんだったら僕がついていきたいなぁ、と思うのだけど、結婚はまだ早すぎるだろう。
「そのうち、クリちゃんにうちのママを紹介するね」
「僕の母さんにも会いたい?」
「嫌われるんだったら会いたくないよ」
 どうなんだろう。きちんと働いてもいないくせに、恋人なんて作ってる場合? って怒られそうにも思う。母の日のプレゼントをして懐柔するにしても、母と娘なら旅行にいけるだろうけど、息子と母の旅行は変だ。断られるに決まっている。
「そしたらさ、両親に旅行をプレゼントしたら?」
「父と母が行くの? うちの両親はわりと仲がいいから、ふたりでだったら行くだろうけど、お金がないよ」
「クリちゃんがお母さんに見直してもらえるんだったら、ちょっとぐらい貨してあげるよ」
 心は動いたけれど、借金はしたくない。僕は言った。
「残業とか深夜勤務とかをして、母の日までにお金を貯めるよ。デートが少なくなるかもしれないけど、怒らない?」
「許してあげる」
 許してもらったので、それからはがんばって働いて貯金した。モモちゃんがアドバイスしてくれて、母の好きな高原への一泊旅行、両親のふたり分を支払うのはつらかったのだが、父の日も兼用なのだったらちょうどいいのだった。
「ただいま、あのね、お母さん、お父さん、母の日と父の日のプレゼント」
 母の日の朝、深夜勤務を終えてうちに帰って、旅行の目録を差し出した。母はびっくり顔になり、中身を検めてから言った。
「こんなものはいらないから、お金を貯めておきなさい」
「……母さん、そう言わずにさ、準、ありがとう」
 父が横から言ってくれ、母もため息をひとつついてから言った。
「そうね。ありがとう。準もけっこうしっかりしてきたのかな。準?」
「はい」
 泣き出したりしないように努力して見返すと、母は笑顔で言った。
「準、彼女ができたんじゃないの?」
「へええ。おまえ、彼女につきあってほしいって言ったのか」
「……彼女が言ってくれたんだ」
 そうだろうねぇ、と母が笑い、父は肩を落とした。
「プロポーズは準がしろよ」
「ちょっとお父さん、結婚なんて早すぎるわよ」
「そうかな。先に歌手になるんだったな」
「そんなの、なれるわけないでしょう」
 そうかもしれないけど、なれないと決めたらなににもなれはしない。僕は近くモモちゃんとふたりで歌手になって、モモちゃんと結婚する。プロポーズは僕がしよう。できないと決めたらなんにもできないのだから。
「準、ありがとう」
 両親が言ってくれ、僕はべそをかいて言った。
「僕こそ……ありがとう」
 産んでくれて、育ててくれてありがとう。スポーツ選手などがインタビューで親に向かってそう言っている。僕も心からそう言えるように、モモちゃんとふたりして言えるように、がんばろう。そう言う場所は音楽の新人賞受賞の舞台? そうだったらいいなぁ。


水無月・幸生

 ガキのころには親には一方的に叱られて、泣いたりもした。泣くと妹に笑われるから歯を食いしばって我慢して、外へ飛び出したりもした。俺は根本的に素直なよい子だから、両親にはあまり反抗しなくて、叩かれたって俺がごめんなさいをした。
 しかし、中学生になると反抗心も芽吹くようになり、高校生にもなれば親に叱られる一方なのは我慢できなくなって、今日は親父と喧嘩して、学校には行ったものの家に帰る気をなくした。
 高校二年生、十六歳。電車に乗ってから考える。この年では家出して自活するなんて不可能だ。十六歳なのだから働けるけど、俺は大学にだって行きたい。だけど、今日は親父の虫の居所がよくなかったにしたって、あんなんで殴られたら我慢できない。
「幸生、新聞は?」
「今朝は雨だっただろ。新聞屋がちゃんと郵便受けに入れなかったみたいで、半分濡れてたんだよ。濡れた新聞なんて読めないから捨てたよ」
「勝手なことをするな。俺は朝刊に楽しみにしてた記事があったんだぞ」
 ちょっと、お父さん、と母が金切り声を上げているのにもかまわず、親父は俺の頭を二発も殴った。俺も反射的に殴り返しそうになり、尊属殺人だなんて言葉が浮かんだので思いとどまった。殴られたからって殺しはしないが、親父を殴ると尊属暴力か。そうはしなかったのだから、幸生くん、えらい。
 十六歳にもなると、たいていは息子は親父よりも背が高い。が、俺は親父よりも小さくて体重も少ない。親父と取っ組み合ったら負けそう。くそくそくそ、せめて親父よりは背が高くなりたいなぁ。神さまはどうして、俺の望みをかなえてくれないの?
 初詣でお祈りしてるのに、背も伸ばしてくれないし、本気で恋する女の子もいないし、声は高いまんまだし、俺って一生このまま?
 不遜にも神さまを呪いつつ、降り立った駅は湘南の海岸近く。ここは親父の弟であるおじちゃんが、奥さんと息子の雄心と三人で暮らす家の最寄り駅だ。家出をしても行く場所もなくて、俺はここに来てしまった。
 おじちゃんが結婚したのは俺が小学生のときで、中学生になったころには湘南の海辺の家を借りていた。なのだから、中学生のときにも高校生になってからも、妹たちと一緒だったりひとりでだったりして、おじちゃんの家に泊めてもらって海で泳いだ。中学生になってからは、ナンパもした。
 中学生のときに海で初ナンパに成功した、女の子と約束したっけな。なんだったっけ? 思い出せないので棚上げにしておいて、おじちゃんの家のほうへと歩いていった。
「あれぇ? 雄心?」
 ちっこい男の子が歩いている。俺のいとこにあたる三沢雄心は、俺よりも十三歳年下だから三つだ。彼が赤ん坊のときには子守をしてやったのだが、近頃は会ってもかまわないようにしている。こんなガキでは話も通じないだろうし、遊んでやってもつまらないし、なんたって男だし。
 が、泣きべそ顔で歩いている三歳児を放置はできないだろう。おじちゃんの家に行くのはやめて、海辺のほうへ雄心を連れていった。
「どうしたんだよ。ママに叱られた?」
「パパ」
「パパに叱られたのか? なんで?」
「雄心はよわむしだって」
 訥々とした幼児の話をまとめてみると、つまりはこうだ。
 近所にはわりあい大勢の幼児がいて、三歳から六歳くらいまでの子供たちが一緒になって遊んでいるとは、俺もおばちゃんから聞いていた。最年長は六歳の女の子で、彼女がボス。ガキ大将というところだ。
 その女の子に雄心が苛められ、泣いて帰った。すると、雄心のパパが怒った。女の子に苛められて泣くとはなんたることだ。おまえはそれでも男かっ!!
 ったってね、おじちゃん。雄心は三つだよ。こいつを苛めた女の子は六つで、身体もでかいんでしょ? その怒りは理不尽だよ。と俺は思うのだが、オヤジの思想とはそういうものなのかもしれない。俺も幼稚園のころに妹の友達に砂場でつっころばされて、砂まみれにされて泣いて帰って、うちの親父に怒られた。
 そんなふうに言うのは男の子が少年の年頃になってからにしてほしい。幼児だったら男よりも女のほうが強いよ。そのくせ、妹を殴ったりすると、女の子に暴力をふるうな、って親父に殴られる。男って不幸だなぁ。
 三歳児には男は不幸だなんて感慨は無縁であろうが、幼児には幼児なりのプライドがある。相手が六歳の女の子では俺が仕返ししてやるわけにもいかないので、雄心をなぐさめた。
「それはしようがないよね。でさ、パパに言われたのか、出ていけって?」
「ちがうよ。ぼくがいえでしたの」
「家出ってさ……三歳児は家出はしちゃいけないよ。十六歳児だって家出なんかすると途方に暮れるんだから」
 意味がわかっていないらしく、雄心はきょとんとしていた。
「俺がおじちゃんに口答えしてやるよ。帰ろう」
「やだもん」
「……おまえは悪くはないと思うけど、おじちゃんのご機嫌取り……そうだ、雄心、知ってるか?」
「え?」
「父の日だよ。六月第三日曜日は父の日。三歳だったらまだパパにプレゼントしたりもしたことはないんだろ。プレゼントってわかる?」
「サンタさん!!」
「そうだよ。去年のクリスマスにはプレゼントもらったんだろ」
「ん?」
 要所要所がぼやけるものの、話は通じているのだと信じることにした。
「パパは怒ってるんだろうから、プレゼントでご機嫌取りをするんだよ。ママは心配してるのかな。おまえが家出したって、パパやママは知ってるんだろか。でも、俺がついてるんだからちょっとぐらいは平気だよな。さて、プレゼントはなににしようか」
 買ったものってのは三歳児にはふさわしくない。雄心は金は持っていないだろうし、俺だって余分な金はない。手作りのなにかだ。押し花ってのは女の子みたいだし、貝殻で絵でも描こうか。
「俺も作ろうっと。ほら、こうするんだよ」
 今朝はそうやって親父に朝刊のことで殴られて、ぐっとこらえて殴り返すのはやめて学校に行った。学校帰りなので通学鞄を持っている。糊やノートも持っている。ノートの一ページを破って、小さくて綺麗な貝殻をコラージュした。
「にいちゃん、こう?」
「そうそう。雄心、上手じゃん」
 ちっちゃな鼻の頭に汗をかいて、雄心は一心に貝殻を並べている。俺は三歳児に負けじと、十六歳のセンスで高度な貼り絵を作る。そうしていると雨が降ってきた。
「六月って梅雨だもんな。雨に濡れたらコラージュが台無しになるよ。雄心、帰ろう」
「うん」
 小雨の中を雄心の手をつないで歩き出す。三歳児のコラージュなんてものは、完成したのかしていないのか不明段階でも、完璧な完成品でも同じようなものだろう。雄心はパパに怒られたのも忘れているのか、俺を見上げて言った。
「にいちゃん、おなかすいた」
「うちに帰ったらおやつがあるだろ」
 俺の高校からこの海辺はわりに近い。今日は学校の終業時間が早めだったので、時刻はおやつどきだ。海辺と雄心の家も近いのに、ちびっこがぐずりはじめた。
「やだぁ。だっこぉ」
「俺は鞄を持ってるんだから、抱っこなんてできないんだよ。歩け」
「やだやだやだぁ」
 すわり込んでしまった雄心を、ひっぱたいてやろうかと思いながら見下ろす。怒鳴ったりひっぱたいたりすると本気で泣くんだろうなぁ。世の中のお母さんというものは、よくもこんなガキに切れずにいるものだ。偉大なる母に感謝、であった。
「眠いんじゃないの? ねぐずっていうのよ。それ」
 優しそうなおばあさんが足を止めた。
「お兄さん? おんぶしてあげれば?」
「……重そう」
「重いでしょうけど、しようがないわよ。がんばってね。お父さんじゃない、わよねえ」
 なんとなく疑わしそうな目で見られて、誘拐犯だとでも思われては大変なので、俺は雄心に背中を向けた。
「ほら、雄心、おぶされ」
「うん」
 名前を知ってるんだから、誘拐犯じゃありませんよ、そんな気持ちで小柄なおばあさんを見下ろす。眠くて力が抜けているらしき雄心は重いけれど、相手がおばあさまであろうとも、女性の前ではいい格好をしたいのが三沢幸生だ。重くない顔をしてみせた。
「鞄、持ってあげましょうか」
「お気遣いはありがたいのですが、僕はこいつの兄としての使命をまっとうします。奥さんも気をつけてお帰り下さいね」
「あらあら、ありがとう。おうちはどこ? 傘を持ってないんでしょう。そっちだったら方向が同じだから、お送りしますよ」
 お言葉に甘えることにして連れ立って歩き出す。雄心は眠ってしまっているようで、ずっしりと重い。石のお地蔵さんをおんぶしているみたいだが、弱音を吐きたくないのでがんばって歩いた。
「こちらね。三沢さん、ごめん下さい」
 おばあさんがおじちゃんの家のチャイムを押し、おじちゃんが玄関に出てきた。
「雄心……幸生、おまえ……」
「では、失礼します」
「あ、ああ、送って下さったんですか。ありがとうございます」
 背中の雄心をおじちゃんが抱き取る。俺は重荷を下ろし、おばあさんに頭を下げる。おばあさんはにこやかに会釈して帰っていき、俺はおじちゃんに言った。
「雄心からの父の日のプレゼントだよ。おじちゃんも理不尽なことを言ったんでしょ。兄弟なだけにうちの父さんと似てるよね。あんたらふたりとも、息子になにを言ったかよく思い出して反省しろよな」
「俺は……んん、まあ、聞いたのか、雄心に?」
「およそはわかったよ」
「おまえは口だけ先に生まれてきたような奴だから、三歳のちびの台詞でもわかるんだな」
「褒めてくれてありがとう」
「褒めてはいないけど、うん、まあ、俺もちょっと無茶を言ったかな。おーい、母さん」
 中から覗いていたおばちゃんが玄関に出てきて、雄心作の未完成貝殻コラージュを広げた。
「幸生くんが雄心に教えてくれたの? なかなか上手にできてるじゃない」
「ほんとだな。ありがとう、幸生。いや、しかし、俺は雨が降ってるってのに雄心が帰ってこないから、さらわれでもしたのかと気が気じゃなかったんだよ。そこへおまえが雄心をおぶって帰ってきただろ。あのおばあさんが一緒じゃなかったとしたら、おまえを殴ってるところだったぞ」
「まったく、暴力兄に暴力弟なんだから」
 すると、おばあさんが俺の守り神になってくれたんだ。
「おじちゃんは雄心のプレゼントに感激した? 俺も似たのを作ったんだけど、父の日のプレゼントはこれでいいかな」
「三つの子だったらこれでいいよ。俺は嬉しいよ。けど、高校生のおまえがこれか?」
「やっぱ駄目? だけど、俺、金ないんだ」
「……調子に乗るなよ。お母さん、財布を開けるな」
 おばちゃんがほだされてくれそうだったのに、おじちゃんに止められてしまった。雄心はおじちゃんに抱っこされて、幸せそうに眠っている。
 三歳児はいいなぁ。寝て起きたら父親の理不尽な怒りなんか忘れてるんだろうし、ママには思う存分に甘えて、おやつをもらうんだろう。こんなアブストラクト貝殻コラージュだって、父親は心から喜んでいる。
 大人になるってつらいよね。特に男はつらいのか。女もつらいのかな。ま、俺は父の日までに金のかからないプレゼントを考えよう。母の日には妹たちと三人で金を出し合って、カーネーションとガラスの花瓶を贈った。俺は兄として、歌もプレゼントした。
 父の日にも妹たちに協力させるって手もあるのだから、いいアイディアを出さなくては。そういう意味ではひとりっ子じゃなくてよかったかもな。


後編に続く








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