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小説248(失恋の歌)

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フォレストシンガーズストーリィ248

「失恋の歌」


1

 こんなふうに大人になんかなりたくなかったのに。乾さんが教えてくれた歌を、そっと口ずさんでみた。

「街は夕暮れ
 つめたい風に
 コートの衿立て歩く私

回りの人は幸せそうに
 微笑み浮かべ歩いてる

 あの日の私はこうじゃなかった
 いつも
 子供のようにはしゃいでた

 舗道に落ちる枯葉のように
 二度ともとには戻れない」

 誰かに訴えてみても相談してみても、離れていった心は戻らない。離れていったのではなく、最初から私がつかんではいなかった乾さんの心は、私のものには永遠にならない。
「そしたらね、乾さん、永遠に独身でいて。千鶴は乾さんのお嫁さんになりたいわけでもなかったけど、乾さんがよその女のひとと結婚するのはいやなの。誰のものにもならないで。千鶴はみずきさんが書いてくれた小説の中でだけ、乾さんの奥さんでいる。それでいいんだ」
 あの小説の中では奥さんなのに、幼すぎて、実物の千鶴よりもわがままでいたずらっ子だから、旦那さまの隆也さんに叱られてばかりいる。時にはお尻をぶたれてきびしくきびしく叱られてわんわん泣く、可愛い千鶴。
 現実では旦那さまにあんなにきびしく躾けられるのっていやだけど、フィクションだったら甘い気持ちになれる。みずきさんはひたすら優しくて穏やかなパパであり夫であるらしいのに、奥さまをきびしく躾けたい願望でもあるのだろうか。
 みずきさんはどうでもいいけど、現実では絶対に、私は乾さんの奥さんにはなれない。だって、言われたんだもの。
「何度でも言うよ。俺はおまえをひとりの女性としては見ない。恋愛感情はない」
 最初から知っていたのかもしれないのに、知りたくなかった。はっきりとは知りたくなかった。
 乾さんを忘れるためには、別の男のひとと恋をしようかな。千鶴は処女だと言っても誰も信じてくれないけど、本当なのだから、こんな重たいものは捨ててしまおうか。乾さんがもらってくれないんだったら、誰にあげたって同じだ。
 金子さんももらってくれないんだろうな。金子さんには沢田愛理さんという彼女がいる。彼女は金子さんがプロポーズしても断ってぱかりだそうで、なんて傲慢な恋人なんだろ。そんな女は捨ててしまえばいいのに。
「おまえには大人の女の気持ちはまだわからないんだな」
 そう言って笑った金子さんに、私は言い返した。
「愛理さんって写真でだったら見たけど、私よりも太ってるし美人でもないし、ローカルアナなんでしょ。そんな女が金子さんにプロポーズされるだけでも最高に幸せなはずなのに……」
「おまえも俗な台詞を口にするんだな。やめろ」
「だってだって……」
「俺の愛理をそんなふうに言うな」
 本当に怖い顔だった。あれだったら乾さんみたいに、いい加減にしないとお尻をぶつよ、って叱られるほうがいいわ。ぶたれる以上にいやな叱責があるのだと、教えてくれたのは金子さん。
 ぶたれるほうが優しいような、つらい叱られ方をして、金子さんにも嫌われてしまったのかもしれない。そしたら誰にしようかな。哲司だったら慣れてるだろうから、上手に私を処女ではなくならせてくれるのだろうか。男っぽくない哲司のほうが怖くないかもしれないから、「フライドバタフライ」で会ったときに言ってみた。
「僕がおまえを抱くの? 抱いてくれるんだったらいいけどさ」
「抱くと抱かれるってどうちがうの?」
「僕は受身なんだよ」
「……それってどう……」
「そんなこともわかってない女となんか寝たくない。これ以上言うと乾さんにもケイさんにも張り飛ばされそうだから、このぐらいにしておいてやるよ」
 最後に哲司の捨て台詞、バーカ、だった。
 フライドバタフライにいると、知っているひとに頻繁に会う。その次に会ったKCイッコウさんにも言ってみた。
「俺とベッドに? いいんだけどさ、本気? もっとよーく考えて、よく考えても寝たいんだったら電話しておいで」
 ていよく断られたのかもしれない。
「おー、千鶴か。よしよし、来い。来い来い来い」
 大城ジュンさんに会ったときには、言おうかどうしようかと迷って、結局はやめた。彼の台詞はこうではないかと想像できたからだ。
「俺はおまえだったらいつでも抱いてやるよ」
 別の店で会った徳永渉さんもそう言ったのだが、私がいやだ。徳永さんみたいなひとは怖いんだもの。ベッドでも優しくなさそうだし。
「自棄になるなよ、俺は嬉しいけどな」
 カメラマンの野木さんには。ほのめかしたら悟られてそう言われた。
「千鶴ちゃんは本気で乾さんに……俺がなぐさめてあげたいけど、俺にも彼女はいるんだよ。俺なんかじゃ乾さんのかわりにはなれないしね」
 香川さんは私が言う前にそう言った。
「千鶴ちゃん、抱いてあげようか」
 ジョークのようにそう言った木村さんは、三沢さんに思い切り頭をはたかれていた。
 本橋さんには言ったら怒鳴られそう。本庄さんには言いたくない。本橋さんにも本庄さんにも奥さまがいるのだし、乾さんに近いひとすぎて、つらすぎる。女のひとだったらなんと言うのかと、本橋さんの奥さまでもあり、フォレストシンガーズのマネージャーでもある美江子さんに言ってみた。
「千鶴さんって乾くんをそんなに……で、処女が重いから捨てたい……うーん、気持ちはわからなくもないんだよ。処女なんて後生大事に取っておくものでもないって主義もあるにはあるけど……本当に好きなひととはじめて抱き合うんじゃなかったら、後悔しないかな」
 頭ごなしではないお説教が身にしみて、泣くのをこらえるのが精一杯だった。
 本庄さんの奥さまの恭子さんだって、美江子さんに近い主義だろう。義理もと叔母、麦ちゃんだって同じだろう。父や叔父には相談する気にもならない。
 男性に言うと叱られるか逃げられるか、悪くすれば襲われる。女性に言えば困らせる。乾さん以外に、私が本当に抱かれたいと願う男は? 二番目は金子さんだけど、他にはいやしない。恋する相手なんて二度とあらわれない気がする。
 いっそ瑛斗くんを襲ってやろうかしら、なんて思っていても実行に移せるわけもない。クリちゃんなんか私が断固お断り。田野倉さんはゲイだし、桜田さんだったら喜んでベッドに引っ張り込まれそうだし、ああん、誰も彼もが駄目。
 ならば別の手段を考えるしかない。誰かに処女を捧げる以外に、乾さんを完全に忘れる方法は? 悩みに悩んでたったひとつ、思いついた。


 叔父はケーブルテレビ局のディレクターだから、彼には放送業界の知り合いが多い。テレビやラジオの世界に生息している人々の間にまぎれ込んで、ノンアルコールカクテルを飲みながら、ぼんやりと考えているのは乾さんのこと。
 愛してはもらえないとはっきり気づかされてからのほうが、私は乾さんのことばかり考えている。ここにいる佐田千鶴は十九歳だなんて、知ってるひとはほとんどいないのだから、アルコールの入ったカクテルを飲んでも咎められないだろうに。
「おまえは女優として名を挙げたいんだろ。昨今は未成年者の酒はスキャンダルになるんだから、他人がおまえに注目している場所では飲むんじゃないよ。プライベートな場所だったらすこしはいいから、俺がいれば上手に飲ませてやるよ」
 そんなにお酒は好きでもないけど、乾さんに叱られるのが嬉しくて、飲みたいな、って言ってみたり、乾さんが持っているグラスに口をつけてみたり、私のジュースに乾さんのワインを混ぜてもらって、ぽっと酔っていい気持ちになるのはとっても嬉しかった。
 パーティ会場にはお酒を配っているウェイターがいる。頼めばくれるだろうけれど、ひとりでなんか飲みたくない。思い切りお酒を飲んで酔っ払っても、乾さんのいない場所でだったら楽しくない。酔ってからめる乾さんがいないんだったら、なんにも楽しくない。
「あの……佐田千鶴さん?」
 ひとりでぼんやりしていたら、話しかけてきた女性がいた。
「私は沢田愛理っていうんですけど、ごぞんじないかしら」
「金子さんの?」
 名前は知っている。金子さんや乾さんの口からは聞いたから、金子さんの恋人、沢田愛理さんには会ってみたかった。
 三十代半ばくらいだと聞いている愛理さんは、身体つきも雰囲気も豊かでふんわりした、お母さんのようなひと。私には母はいないから、叔父のもと妻の麦ちゃんを母がわりにしているけれど、愛理さんのほうがお母さんみたい。
 お母さんだなどと言うと怒らせてしまいそうだから言えないけど、愛理さんの豊かな胸に頬を埋めたくなってきた。
「知ってます。千鶴は今夜はひとりぼっちなんです。叔父と一緒に来たんですけど、叔父はいつの間にかいなくなっちゃったの。愛理さん、千鶴をかまって」
「私も特には親しいひともいないから、お話ししましょうか」
 お皿に料理を盛って、愛理さんは本物のカクテル、私はジュースみたいなカクテル。壁際に置かれた椅子にすわってお話しした。
「私は犬山の出身で、東京の大学に入って金子さんと知り合ったの」
「乾さんとは?」
「乾くんは私よりもひとつ年下だから、私が二年生のときに入学してきたのよ」
 あの乾さんを「くん」付けで呼ぶ女性。美江子さんもそう呼んでいた。うらやましいわけではないけれど、大人なんだなぁ、という目で見てしまう。
 私は行ったことのない、大学。乾さんからも大学の話は聞いたけれど、女性の視点で語られると趣がちがって興味深い。愛理さんはさすがにアナウンサーで話術も巧みなのに、私の気持ちは勝手にさまよって漂っていく。
 普通すぎるから、十五年早く生まれて大学生になって、乾さんの後輩になりたかったなんて思わない。私は十六歳年下の千鶴として、乾さんに愛されたいの。それが不可能だったら嫌われたい。乾さんを忘れるために、嫌われるために、思いついたたったひとつの方法。
「金子さんは四年生の年には男子部のキャプテンで、そのころは本橋くんや乾くんは二年生だったのね。私は女子部にいたんだから、男子部の事情はたいして知らないんだけど、みんなキャプテンの金子さんを尊敬していたのよ」
「私は乾さんに聞きました」
「なあに?」
「キャプテンっていばってて、本当は嫌いだったって。嫌いだけどはっきりは言えないから、キャプテンを尊敬してるみたいな顔をしてたんだって。そんなのって虚像っていうのかな。本心は出せないから苛々して、だけど、それから十五年もたっても本心は見せられない。実は俺は金子さんといると気分が悪くなるんだ、それほど嫌いなんだ、って言ってましたよ」
 ぽけっとした顔で私を見つめてから、愛理さんは言った。
「なんのつもり?」
「なんのつもりって、本当のことを言っただけだもん」
「言わせてもらえば、千鶴さんって乾くんと知り合ってから一年もたってないでしょ。私は金子さんとも乾くんとも、十九のころからの知り合いなの。ちょうどあなたの年頃に、同世代の学生として知り合って、長く交流が続いてるのよ。そんな私にそういうことを言っても無駄だからね」
 言われてみればその通りみたい。私はうつむいて黙り込み、愛理さんは言った。
「金子さんも乾くんもかなり屈折した性格の持ち主だから、そういうのってほんとに無駄よ。彼らが単純な性格じゃないのは千鶴さんだって知ってるでしょ? 私にだったらそんなふうに言っても信じないけど、信じるひとも……いないかな。いなくもないかな。ねえ、どうしてそんなことを言うの?」
「なんでもありません」
 困った子ね、愛理さんも私をそんな目で見る。金子さんや乾さんのそんな視線は私の胸をきゅんきゅんさせてくれるけど、女性だったら子供扱いの目以外のなんでもない。金子さんの恋人だからって、乾さんに愛してもらえない私を見下げるの?
 それ以上はなんにも言わずに、私は椅子から立ち上がった。私がこんなふうに言うと、信じるひともいなくもない? そしたら言い触らそう。乾さんは人を嫌うと、その人のそばには寄りたくもなくなるらしいのだから、千鶴なんて俺のそばに近寄るな、と思われるほどに嫌われてみせよう。そのほうがはるかに、私の精神衛生にはいいのだもの。
 そのつもりで、何人もの人に言ってみた。
「おまえにだけ話すんだよ、他言無用だよって言って、乾さんが話してくれたの。乾さんは金子さんが学生時代から大嫌いだったんだって。ほんとだよ」
 そのたぐいのことを、乾さんをよくは知らない人に言い触らす。
「乾って奴は人当たりはいいけど、腹の中は真っ黒なんだよ、腹黒いってのはあいつのことを言うんだ。金子さんがそう言ってた。金子さんと乾さんって、仲良しみたいに見えてものすごく嫌い合ってるの。それでいてお互いに、彼は俺を好いてるって思ってるの。大人の男性って単純なんだよね」
 こっちは金子さんをよく知らない人に言ってみる。けれど、誰も信じてくれなかった。
「……金子さんも乾さんも、名前だけしか知らない人に言ったほうがいいのかな」
 考え直して、フォレストシンガーズのファンサイトに書き込みしてみた。そのうちには自棄になって、知り合いに言ったりもした。
「金子さんと乾さんを仲違いさせたいの。いい方法はない?」
「なんのために?」
 嫌われるために、とは言えない。私はミルキーウェイほどに、乾さんに嫌われたいから。徹底的に嫌われて、私の姿を見たら乾さんが道端に唾を吐き、背中を向けて歩み去ってしまうほどになりたいから。でないと乾さんを諦められないから。
 けれど、誰も協力してくれない。知り合いと会うたびに言ってみては、呆れられたり馬鹿にされたりしていたころに、三沢さんに会った。
「千鶴ちゃんが妙なふるまいをしてるのは、俺にも聞こえてきてるんだ。なんのためにそんなことをしてるのかは、俺は知ってるつもりだよ。じきに噂が広まるね。それできみの目論みは成功するんじゃない? 悲しい成功だね」
「……いいんだもん」
「千鶴ちゃんがいんだったら……切なすぎるけどね」
 彼には女性的なところがあるからか、女の子の心が読めるの? フォレストシンガーズの中では乾さんの次に親しくなった三沢さんは、寂しそうに切なそうに言い、私は返す言葉を見つけられずにいた。
「……千鶴ちゃん」
 噂は広まっていったのだろうか。私があちこちで金子さんと乾さんの確執作り話を吹聴したり、あのふたりの仲を裂きたいの、と言ったりしていたころに、「フライドバタフライ」で愛理さんに会った。
「なんのために……って、そんなこと……」
 隅っこの席にいた私の前に立って、愛理さんがため息をつく。私はあなたは嫌い。うらやましすぎるから大嫌い。なにか言うと泣いてしまいそうで黙っていると、金子さんが愛理さんのうしろに立った。
「おまえはそんなに浅はかな女だったのか。愛理、行こう」
「……あの……」
「いいから放っておけよ」
 泣かないように一生懸命我慢して、愛理さんと金子さんが行ってしまうのを見ていた。素敵な大人のカップルのうしろ姿を目で追っていると、乾さんの姿が目に入った。
 しようのない子だね、おまえは馬鹿だね、そう思ってる? 乾さんは私を見てはいるけれど、心は見えない。私のそばに来て。私の手をつかんで外に連れ出して。
 「馬鹿な真似をするんじゃない」
 あんなにも嫌われたいと思っていたのは、本心の裏返しだと知っていた。
 きつく叱られて、叩かれてもいい。叩かれたら泣きながら乾さんの胸に飛び込んでいける。情熱的なキスをされて、抱き上げられてさらわれていきたい。ベッドで抱かれて、おまえはそんなにも俺を求めていたのか……って。
 そんなにうまく行くわけないじゃない。乾さんは私にはなんにも言ってもくれずに、愛理さんと金子さんのあとから店を出ていく。嫌われちゃった。これでよかったはずなのに。


2

 なにをやってんだよ、おまえは、って、この声が乾さんだったらいいのにな。だけど、乾さんじゃないのは知っている。幼さの残る低い声。低いけれど細い声。哲司だ。
「こんなところでなにやってんの? 世話の焼ける奴だな」
 ぐいっと抱き起こされて、強引に腕を引っ張られて歩き出した。
「自棄酒を飲んだら悪酔いしちゃって、気持ち悪くなったから酔いを醒ましてたの」
「酔ってるのか。ま、いいんじゃねえの」
 お酒の匂いなんかしないのだから、哲司は私が嘘をついていると気づいているはずだ。彼の心にも女性的なところがあって、彼も乾さんに恋していたせいなのか、私に近い部分がある。
 近いとはいっても、バイセクシャルの男の子の気持ちなんてわからない。哲司は私の気持ちをちょっとだけ知っていて、私は彼の気持ちをちっとも知らないようなもの。哲司には同棲している恋人がいて、乾さんには浮気心? その気持ちの真意もわからない。
 このごろは俳優としての仕事が暇で、叔父のもと妻、エッセイストの麦ミミ子のアシスタントのようなアルバイトをしていた。麦ちゃんにこき使われて、バイトが終わって外に出て、ごはんでも食べて帰ろうかな、と思って歩いていたら、乾さんに会った。
 ひとりで歩いていると乾さんは足が速い。私に気づいて撒いたわけでもないのだろうけど、じきに彼の姿を見失ってしまい、なのに諦め切れなくて繁華街を歩き回り、疲れ果ててしゃがんでいた。まるで私の恋の結末と同じ。
「メシ、食ってないんだろ。ラーメンでもどう?」
「お酒を飲んでたって言ったでしょ」
「自棄酒ってのはなんにも食わずに飲むものだろ。僕も腹が減ったよ。今夜はケイさんはいないんだから、ラーメン食って帰ろうぜ」
「ラーメンじゃなくて、向日葵に行こうよ」
「それでもいいよ」
 いつだって憎まれ口ばかりの哲司が、今夜は優しい。私の肩を抱いてタクシーを止めてくれた。
「お客さんたち、お似合いですね。美男美女だな」
 運転手さんに言われて、哲司はにこやかに応じた。
「でしょ? 口説いたらやっとうなずいてくれたから、今夜は楽しみなんだ」
「お、それはそれは」
 馬鹿言ってるんじゃないよ、と言う気にもなれなくて、私も笑っておいた。
「なにを食う? ハンバーグとか? 女は野菜が好きだよな。ここ、フライドチキンもうまいんだよね。えーと、それから……」
 「向日葵」に入ると、哲司は勝手にいくつもの料理とウィスキーの水割りを注文した。
「もっと飲めよ。おまえは酒には弱いだろ。酔い潰れちまえばいいんだよ」
「哲司ったらわざとらしくはしゃいでる。哲司にも聞こえてたんでしょ」
「おまえが金子さんと乾さんを仲違いさせようと画策してるって? まったく、バーカ」
「馬鹿馬鹿言わないでよっ」
「馬鹿じゃん。とにかく食えよ」
「食べるよ」
 運ばれてきた料理を下品に食べて、下品にお酒を飲んで、下品に喋った。乾さんの前では品のいい女性を演じたかったけれど、上手にできなくて、お行儀が悪いって叱られたっけ。今、ここに乾さんがいたら、なんて食い方をするんだよ、って叱るでしょ? 
 叱りにきて。私をここから連れ出して。
 ううん、駄目。来ないで。来るはずもないひとの名前を呼んで、来ないでと言ってみる。哲司は私を適当にあしらいながら、食べたり飲んだりしていた。
「千鶴はまったく馬鹿だな」
「馬鹿だもん。馬鹿でもいいんだもん。ああん、哲司が飲めだの食えだのって言うから、気持ちが悪くなってきたよ」
「いいじゃん。悪酔いすればいいんだ」
 さっきのは嘘だったととうにお見通しのようで、本当に自棄酒を飲ませて悪酔いさせようとたくらんでいたのであるらしい。なにもかもがどうでもいい気分で、私は哲司のたくらみに乗っかった。
 下品に食べ散らかしたテーブルはそのままに、哲司がマスターにお金を払っている。私はテーブルに突っ伏して、気持ち悪いよぉ、と呻いている。他にはお客はひとりもいなくて、哲司とマスターの会話が遠ざかったり近づいたりしていた。
「おぶってやろうか。って、僕には無理だから、なんだったらタクシーを拾うまではマスターがおぶってくれるってよ」
「そんなのいいの。気持ち悪いから、酔い覚ましにちょっと歩く」
「だそうだから、大丈夫ですよ、ありがとう」
 なんとか立ち上がると、哲司がマスターのほっぺにキスしているのが見えた。
「吐き気がするんだろ。そのほうが他のことなんか考えられなくていいんだよ」
 だけど、おんぶだったら乾さんになら……店の中で哲司に散々に言われたとおり、千鶴は馬鹿。胸がむかむかしているのに、乾さんだけは消えてくれない。
「向日葵って乾さんの行きつけの店でもあるんだよね。来なかったね」
「馬鹿な期待をしてたのか。来ないほうがいいだろ。バーカ」
「馬鹿って聞き飽きたよっ!!」
 叩いてやろうとしたら身をかわされて、地面に手を突いた。はずみで胃の中のものが逆流してくる。哲司は私の背中をさすってくれた。
「ばっちいよ。飛び散るから……離れてて」
「平気だよ。僕もおまえが戻してるものと同じようなものなんだから」
 わけのわからないことを言っている哲司の言葉を半分だけ聞きながらも、戻しているうちに記憶が途切れてしまい、気づいたときにはどこかのベッドに寝ていた。
「哲司?」
「僕はバイだけど、男のほうが好きだから。女をレイプする気はないからね。安心しろ」
「……そんな心配はしてないけど……私、どうしたの?」
「思い切り吐いてるうちに気を失ったみたいだよ。向日葵のマスターが見にきてくれて、彼がおまえを抱っこしてくれて、もう一度店に運んでタオルで綺麗にぬぐって、おまえが静かに寝たところで、マスターがタクシーを呼んでくれたんだ。おまえは寝ちまってたから、タクシーで連れてきた。ここはケイさんのマンションだよ」
 今夜は哲司の彼氏は留守だと言っていた。細かい部分も信じておくしかない。
「タクシーの運転手も親切なおじさんで、おまえを背負って運んでくれたんだよ。おまえみたいなデブ、僕にはおんぶできないもんね。お礼に運転手にもキスしてやった」
「哲司のキスでお礼になるの?」
「なるさ。僕はこれだけの美青年なんだもん」
 おばさんへのお礼にだったらなりそうだけど、おじさんには……嘘だとしてもかまわないから、笑っておいた。
「私も哲司にお礼、してあげようか」
「どんなお礼? キス? キスしたらその気になるよ。僕はゲイじゃなくてバイだから」
「なってもいいよ」
「自棄セックス? そういうのもいいかもね」
 愛してなんかいないけど、哲司は嫌いじゃない。今夜の哲司は私に馬鹿馬鹿言うものの、とっても優しい。愛するひとなんて当分は出現しそうにないのだから、こんなものは早く捨ててしまうに限る。形のないものなのだから、捨ててしまうとも言えないのかもしれなくて。
「戻したらすっきりしただろ。風呂に入ってこいよ。それとも、一緒に入る?」
「気持ち悪くないの?」
「僕が? おまえの裸が気持ち悪い? 女の綺麗な裸は好きだよ。だから言ってんじゃん。僕はバイだって」
「……私、吐いたりもしたんだよね。バスルーム、貸して」
「そうそう。女の子はベッドの前には綺麗にしなくちゃね」
 もちろん哲司はついてはこなくて、ひとりゆっくりお風呂に入った。
 後悔はしない? 好きでもない男の子と初体験って、してもいいの、千鶴? 今だったらがつがつはしていない哲司は、いやだったらいいよって引き下がってくれるよ。私の処女は乾さんにあげるつもりじゃなかったの?
 乾さんはもらってはくれないんだから、そしたら、後生大事になんかするのはやめよう。捨てて身軽になろう。そうしたら新しいなにかが見えるかもしれない。
 そう考えるのも大仰すぎるのかもしれない。これはそれだけのもの。だけど、それを捨てれば大人になるとも言えるのだから、今夜は千鶴の失恋記念日、そして大人になる記念日。相手が哲司だなんて、シャレになって面白いかもね。
「哲司はシャワーは?」
「千鶴が寝てる間に浴びたよ。おまえ、やっぱ胸もケツもでかいね」
 裸で寝室に戻ると、哲司が近寄ってきて私を見下ろした。前も後もまじまじと見て、さわってみたりもしている。子供が新しいおもちゃをもらったみたいだ。
「うん、さわり心地いいよ」
「私も気持ち悪くはないよ。私が哲司を抱くって……どうすればいいの?」
「結局は同じだよ」
 それから先は無言になって、私はある面だけ、大人になった。

 
「ひとり入る喫茶店
 いつものテーブル空いている

 苦いコーヒー、まるで私に
 生きるつらさを教えてる

 あの日の私はこうじゃなかった
 いつも子供のようにはしゃいでた

 慰めてほしくない
 悔やんでいない
 こぼれる涙は大人のしるし」

 田野倉ケイさんのマンションから出て、通りすがりの古びた喫茶店に入る。ここはいつものカフェではなくて、「喫茶店」の呼び名がふさわしい。コーヒーを注文して壁にもたれてすわると、今朝も私の頭の中には、乾さんが教えてくれた古い歌が聞こえてきた。涙も出てきた。
 こんな大人のしるしなんて、いらない。だけど……だけど……きっと……きっと、なんなのかもわからないままに、私は苦いコーヒーに口をつけた。

「一度は拒否したくせに、哲司って気まぐれなのかな。哲司って慣れてるだけあって上手だよね。ああいうのって慰めにはなるものだよね。哲司にも女の子に優しくってできるんだ。重たいものを捨てたよ。そんなふうに捨てるなんてって、乾さんだったら軽蔑する? いいの。軽蔑されて嫌われるほうがいいの」

 コーヒーを飲みながらケータイでメールを打って、そして削除した。メールを発信しないのは、完全には嫌われたくないから? 細い細い希望の糸をつないでおきたいから。たぶん、そうだった。


END








 
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~ Comment ~

NoTitle

切ないですね(TдT)好きな人に好きになってもらえないのは……。
なるほどこういう経緯だったんですね。千鶴ちゃんと哲司くんは仲良しの友達のような、兄弟のようなそんな感じに見えてきました。可愛らしい二人です(^^)

千鶴ちゃん可愛いのに色んな人に抱いてと頼んだりとか危なすぎる!でも回りの大人たちがちゃんとしてて(?)良かったですε-(´∀`*)ホッ
悪い噂を言い回るとか、気持ちが届かないとそういうことしてしまうんですね…。ダメならきっぱり割り切ってもう会わないようにするとか他に目を向けるとか、あーでも、それもなかなか難しいか…。

失恋したら友達と自棄酒やらカラオケで騒ぐこと私もあります(笑)お酒飲めないんですけどね(^_^;)そういう時は飲んで後で後悔します(笑)
千鶴ちゃんこれから乾さんとの恋を糧に演技の幅広げていい女優さんになってほしいです!そしてまた素敵な人に出会って今度こそ両思いになってほしいなぁ。あ、でも報われない恋の方が女優さんとしてはいいような気もしてきました。(どっちだ

前回のコメントの件、私には奔放な恋愛は向いてないと思うので心配無用です( ´∀`)bグッ!ご心配おかけしましたm(__)m小説の中だけで楽しみたいと思います(*´ェ`*)

たおるさんへ

すみません、次から次へと出してきまして。
でも、千鶴に興味を持って下さってとてもとても嬉しいです。ありがとうございます。

http://quianred.blog99.fc2.com/blog-entry-606.html

ここで一応、千鶴はよみがえって歩き始めたって感じです。
千鶴はしつこくて諦めが悪いんですよね。考えてみたら女優としては、執念深いほうがいいのかもしれません。

私はわりと諦めが早いほうでして、そのほうが潔くていいと自己肯定していたりもしますので、断じてあきらめてはいけない!! とかいう主義はよくわかりません。
隆也と千鶴の十年後はどうなるのかなぁ、と書きかけては完結させられずにいます。

奔放な恋愛って向き不向きがありますよね。私は女性の被害者意識が大嫌いなのですが、現実問題としてはそういうこともあるわけで。

昔、友人と、そのことで議論になったのも思い出しました。
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