共作

共作7-1(温度はお好みで・ゆらゆらハート)

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共作7-1

「温度はお好みで・ゆらゆらハート」

1

 会社勤めのひとたちは長い夏休みは取れないから、美穂と達也と香と広樹は東京に帰っていった。節子とかいう女も帰ったのか、姿を見なくなった。
「僕は帰らなくてもいいんだけど、ママが寂しがってるから帰るよ。久美、航平に叱られてばかりいないように、いい子にしてなよね」
「いい子にするのはおまえだろうが」
 苦笑いしている航平と久美子に手を振って、大輔は車に乗り込んだ。
「航平くん、世話になったね。ありがとう」
「いえいえ。お気をつけて」
 今日は大輔の父親が、息子を迎えにきた。早めの夕食を四人で摂る間は、航平と大輔の父が主に話していて、大輔はおとなしくしていた。久美子は変な想像をしていた。
 ここでいつもみたいに駄々をこねたりしたら、あとから先生にひどく叱られるかな。人前で行儀の悪い!! って? ではなくて、大輔くんのパパの前でお仕置き? それはやっぱり恥ずかしすぎる。お行儀よくしていよう。
 海から吹いてくる夜風が航平の髪をそよがせる。大輔の父親の視線も面映かったし、大輔が車の中でこの数日の話を父親に聞かせるかと想像するのも恥ずかしい。あのおませ坊やは出来事をどう脚色しているのか、航平と久美子についてどう話しているのか。
 初日は航平とふたりきりだったとはいえ、慌しかったりもの珍しかったりして、さして意識はしていなかった。だが、これから数日間もふたりきりでいられる。そう思うと久美子の胸がどっきんどっきんしはじめた。
「さてと、久美、風呂に入れ」
「先生、先に入って」
「ああ、そうしようか」
 一緒に……とは言ってくれないんだ。お風呂に一緒に入るなんて、恥ずかしくて気絶するかもしれないから入りたくないけど、美穂ちゃんたちは……と久美子は思い出した。
「美穂、風呂に入るぞ、来いよ」
 冗談だか本気だかわからない顔をして達也が言い、美穂がやだやだと言い、達也がひとりでバスルームに行ったあとで、久美子は美穂にこそっと尋ねた。
「達也さんと一緒にお風呂に入ったことってあるの?」
「達也さんのマンションに行ったときとか、温泉に連れてってもらったときとか、何度かはあるよ」
「恥ずかしくない?」
「恥ずかしいのがいい気持ちってか……やーねっ、久美ちゃんったらっ」
 背中をばしっと叩かれて久美子がむせていると、香も言った。
「広樹の部屋も私の部屋もバスルームは狭いし、ホテルなんてめったに行かないし、行ったとしても安いところはお風呂が狭いし……」
「それで、香ちゃんも広樹さんとは一緒にお風呂に入らないんだね。航平さんの別荘のお風呂は広いよ。広樹さんと一緒に入る?」
「もうっ、美穂ちゃんったら、いやっ」
 美穂は香に背中を叩かれてむせ、聞こえていたのか、広樹は赤くなってこほこほ咳をしていた。
 羞恥心のありようにも個人差があるようで、美穂にだって恥ずかしい気持ちはあるのだろう。久美子から見ると、時として美穂は恥知らずではあるが、むこうもそう思っているのかもしれない。
「久美、おまえも入ってこい」
 腰にバスタオルを巻き、髪をタオルでがしゃがしゃと拭きながらの航平が、美穂や香との会話を思い出していた久美子の前に立っていた。熱っぽい空気が伝わってきて、久美子は小さくかぶりを振った。
「今夜はいいの。あ、やだっ!!」
 ものも言わずに久美子を抱き上げて、航平が歩き出す。いやだぁ、とあらがってみせると、甘い視線で睨まれる。はじめて抱かれた夜を思い出して、久美子の心と身体も甘く崩れはじめる。
 これがあるから、以前とはちがう。別荘に連れてきてもらった初日には、航平は久美子の身体の微妙な部分は見ていなかった。触れてもいなかった。あの日、こうして裸にされてバスタブに放り込まれて……風呂上がりには情熱的に抱かれた。
 今夜もあの日と同じように、ワンピースを脱がされる。キャミソールとショーツの姿にされて、片腕に腰を抱え上げられて、ショーツをするっと下ろされる。いやっ、と叫んでみてもかまってももらえずに、お尻をぱちんと叩かれた。
「こうされたかったんだろ」
「ぶたれたくないよ」
「ぶったってほどでもないけど、脱がされて風呂に放り込まれたかったんだろうが。手のかかる娘だ」
 足からショーツが抜かれて、もうひとつぶたれる。それから優しく撫でられる。他の男の手がこんなふうに触れたら犯罪だろうに、先生の手だけは……恋してるから、軽く叩かれるのも愛撫されるのも、とろけるほどにいい気持ち。
 床に下ろされてキャミソールも脱がされる。ブラもはずされる。航平が高みから久美子の裸身を見下ろしている。おまえは可愛いよ、と言いたいのだと久美子には思えた。
「風呂が嫌いってわけでもないんだろ。なんだって俺にやらせたいんだよな」
「……ちがうもん」
「服を脱がせるのは喜んでやってやるけど、忙しいときには無理だぞ。できる限りはしてやりたいけど、できないときに駄々をこねると……言わなくても知ってるよな」
「知ってるもん」
「さぁ、さっさと風呂に入って綺麗になって、俺の部屋に来い。久美子、返事は?」
「……」
 わざと返事をせずにいると、抱き寄せられてお尻をぺちんぺちんと叩かれる。膝が崩れそうになる。涙とそれ以外の感情で湿った声で、久美子は言った。
「はい……お風呂、入るから……」
「手のかかる奴だな。早く行け」
 くるりと身体を反転されて、またまたお尻を叩かれて急かされるように、バスルームへと追い立てられる。エロティックに叩かれるのも、手のかかる奴だ、の言葉も、愛撫の一種のように思えた。
 バスルームから出て航平の部屋に行く。ベッドに全裸で横たわっている航平に手招きされて、かぶりを振る。淡い闇の中で、航平が笑みの漂う声で言う。おまえはなんでも俺にさせたいんだな、こうか? 歩み寄ってきた航平が久美子のバスタオルを剥ぎ取り、抱え上げてベッドに放り投げる。
 はじめてのあの日はちょっぴり怖かったけど、先生、上手なんだよね。久美はもう快感ってのを覚えたみたい……なんて言ったら、はしたないって叱る? 笑う? もっとえっちな言葉を囁く? 頭をかすめたそんな想いも、航平に抱かれていると薄れていく。他のなんにも考えられなくなる。
 航平が果て、久美子は彼の胸に顔を寄せて、彼のくちびるを指先でなぞってみる。航平は久美子の指にキスする。そうされていると再び考える。ベッドで卑猥な会話をするとは、久美子にはまだ考えられない。どんな話が卑猥なのかもよくはわからない。あれかこれかと想像するだけでも恥ずかしかった。


シャープな頬のラインが別荘に来てほんのすこし、やわらかくなっただろうか。先生、太った? ベッドで先に目覚めて、航平の寝顔を見て久美子は思う。太ったっていいよねぇ。身体には贅肉はついてないし、ここではのんびりできるんだから。
 ややこわめの豊かな髪、秀でた広い額、高い鼻梁、ほんのすこしやわらかくなっても、鋭さを感じる頬、角ばり加減の顎やエラは意志の強さをあらわしていると、誰かが言っていた。
 優しい微笑も浮かべる、きびしい光も宿す、久美子の好きな切れ長の目は閉じられていて、引き締まった口元から寝息が漏れている。凛々しい太い眉がしかめられて眉間に皺が寄ったので、久美子はそこを指先で撫でた。
 触れただけで航平は身じろぎする。彼は目ざといタチであるようだから、用心しいしい身体に視線を移す。薄い上掛けをかけて眠る長身も、久美子の大好きな男の身体だ。
 好きな男のタイプというものは、漠然とならばあった。背が高くて顔がよくて優しくて、などと、中学生ぐらいのころから女友達と言い合っていた。医者だったりしたら最高じゃん、と言ってはけたたましく笑っていた理想の男性像に、航平はあてはまりすぎる。
 年はだいぶ上だけど、時々はきびしくて怖いけど、あたしは先生が大好き。あたしなんかが歯医者さんと? あたしは先生のメイド兼妾? 結婚なんかしてもらえるわけないよね。想いがそこに至ると悲しくなって、久美子はベッドから抜け出した。
 下着もつけずに航平のTシャツだけをまとう。足音を立てないようにして航平の寝室から出て、庭へと出ていく。朝露を置いた木の葉っぱに触れて、久美は先生が好き。先生も久美が好き? 男のひとは好きでもなくても女を抱けるっていうけど、嫌いだったら抱いてはくれないよね? と葉っぱに話しかけていた。
「お」
 ひと声だけだったが、男の声だった。久美子がきょろきょろすると、すり切れかけているような白いシャツと、作業ズボンをつけた若い男が庭に入ってきていた。彼は帽子をかぶり、大きなバッグを持っていた。
「こんなところにもホームレスがいるの? 勝手に入ってこないで下さいよ」
「ホームレスじゃないよ。あんたは西垣先生んちのお手伝いさんかな。話は聞いてますよ」
「あんたは誰?」
「植木屋」
 そういえば航平が言っていた。
「客は帰ったし、庭の樹どもが好き放題に枝や葉を繁らせまくってるな。なんとかしなくちゃ」
 つまり、航平が頼んだのだろう。久美子は聞いていなかったが、別荘の管理を決めるのは航平なのだから、文句を言える立場ではない。
「すげえ伸び方だな。二、三日はかかるだろうけど、早速取りかかっていいか」
「先生を起こしてきます。お名前は?」
「タカオ」
「タカオって苗字?」
「高尾貴男っていうんだよ」
「本当?」
「本当だよ。なんだっていいから貴男って呼んで。それはそうとさ……」
 貴男が近づいてくる。な、なんなんだろ、と首をかしげてから気がついた。
「わっ、きゃっ!! 駄目っ!!」
「可愛い悲鳴を上げるんだな。お手伝いと植木屋って似合いだろ。なあ、その下……」
「駄目ってばっ!!」
 Tシャツの裾をまくられそうになって、久美子は必死で押さえた。航平のTシャツはメンズの2Lなので久美子が着ると膝まで届いているのだが、襟ぐりも大きい。引っ張ると胸の谷間が見えて、貴男は嬉しそうに笑った。
「その下、なんにも着てなくない? きみはなんて名前?」
「久美子だ」
「ああ、久美ちゃん? うげ、先生、おはようございます」
 縁側から久美子の名前を教えたのは、航平だった。貴男はつかんでいた久美子の腕をはずし、大輔みたいな笑顔で航平に挨拶している。航平も貴男に挨拶を返してから言った。
「貴男は仕事をしろ。仕事先のハウスキーパーにスケベな真似なんかしてると、クビだぞ」
「なんにもしませんよ。仕事しまーす。ここは車が近くまで来られないから不自由なんだよな」
 ぼやきながらも貴男が仕事道具をバッグから出している。来いと言われて、久美子は航平のあとから縁側へ上がった。
「おまえはそういうきわどい格好で外に出る趣味があるのか」
「外には出てないし」
「庭だって誰が入ってくるかもわからないだろ。着替えてこい」
 お客がいたころにもきわどいメイドルックで外に出た前科があるので、強くさからえない。けれど、航平に叱られると口答えしたくなる。意味のある反論もできなくて、だってだって、と言っていると、航平の手がTシャツの裾に伸びてきた。
「貴男にも見せてやるか?」
「えっ、やだっ!!」
「なにを見せてくれるんですかぁ」
 のんぴりした貴男の声がする。彼は庭でもっとも高い樹木に登っていた。
「気を散らしてると落ちるぞ」
 貴男に声をかけてから、航平は久美子にも言った。
「俺のひいじいさんの代から、貴男のひいじいさんも植木屋でうちに出入りしてたんだ。貴男は俺よりは七つほど年下だけど、ガキのころには別荘に来ると泳ぎにいったりもしたよ。あいつも植木屋になって、貴男んちに代々仕事をしてもらってるんだ。貴男は背が高くてたくましくて、いい男になったよな。おまえの好みか?」
 先生のほうが好き、口の中で言うと、航平はくすっと笑った。
「当然だよな。おまえはきちんと服を着て、朝メシの支度をしろ。貴男は昼は弁当だろうから、お茶を淹れてやれ。植木屋さんにはおやつの時間もあるから、三時にはお茶とお菓子。貴男はおやつはなにがいい?」
「ケーキ」
「ケーキだそうだ。朝メシがすんだら買いものに行ってこい」
「先生はついてきてくれないの?」
「俺は社会復帰の準備をするよ」
 三日もすれば航平の休暇も明ける。そのための準備をするのか。メイドの久美子にとっては純粋な休暇ではなかったけれど、楽しかった日々はもうじき終わる。なのに、邪魔者があらわれた。
 たしかに貴男は格好はいいのだが、軽薄そうでドスケベそうで、失礼な奴だから嫌いだ。久美子の胸元や脚を見ていたいやらしい目つきを思い出すと、ぞっとする。航平に言いつけてやりたい。けれど、言いつけたとしたら?
「おまえがそんな格好をしてるからだろ」
 そう叱られるに決まっているし、それにそれに、あの目、いやらしいばかりでもなかったかな、と久美子はひそかに肩をすくめた。


2

 ふたりきりではなくなってしまってつまんなーい、が半分、残る半分は、若くて格好のいい貴男を意識してしまう。昼食をすませ、久美子が客のいなくなった二階の部屋を掃除していて、窓から見下ろすと、大きな鋏を使って庭木の剪定をしている貴男の姿が目に入る。
 美穂と達也が使っていた部屋のベッドサイドのテーブルの引き出しに、封筒が入っていた。宛名は「達也さま」、差出人は「美穂」。封はしてあっても、住所も姓も書いていない上に切手を貼ってもいないのだから、投函するつもりはなかったのだろうか。
 これは美穂が達也に宛てた手紙? 見てはいけないとは思ったのだが、好奇心には勝てずに開封してしまった。

「達也さん、おはよう。美穂は早くから目が覚めちゃったから、手紙を書いてるの。昨夜は素敵だったよぉ。うふっ。
 久美ちゃんってちょっと変態じゃない? あの子、もしかしたら達也さんが見てるってのに、縁側でパンツを下ろされたりするの、嬉しいんじゃないかなぁ。久美ちゃんは航平さんにお尻ぺんぺんをされたくて、わざといたずらしたりわがまま言ったりしてない?
 美穂はちがうからね。美穂は達也さんにぶたれるのは絶対にいやなんだからっ!!
 口で言っても聞いてくれないから手紙にしたの。美穂のお願い。絶対の絶対に他の人がいる前ではお仕置きはやめて。せめてスカートの上からにして。
 そのくらいは美穂のお願い、聞いてね? 航平さんや広樹さんや大輔に、裸のお尻を見られるのはやだからね。見せたいんだったら達也さんも変態だよっ」

 そのような内容の手紙を読んで、久美子は赤面した。
 あたしが変態? ええと……そうなんだろうか? ちがうよちがうよちがうよっ!! 先生に叱られたら怖いし、あんなの恥ずかしいし、叩かれるのは痛いし、泣いちゃうんだから、わざといたずらやわがままなんて、そんなはずがなーい。
 反論してみても、そんなところがちょっとはあるかなぁ、と思ってしまう。こんな手紙、破ってやろうかとも思ったのだが、久美子は鉛筆を取り上げて美穂の丸い文字の横に書いた。

「変態はあんたじゃん。
 美穂に言われたくないよっ」

 その横にさらに、バカバカ、だとか、大輔が描くのよりも下手な絵やらを描いていると、ドアが開いた。久美子は咄嗟に手紙の上に覆いかぶさり、その態度の不審さゆえに航平にはすぐさま気づかれた。
「そこになにがあるんだ? どけ」
 泣きそうになって身体をずらす。航平が手紙を読んでいる。読み終えたら叩かれるのだろうと身体を小さくしているしかない久美子に、航平は平静な声で言った。
「美穂がここに置いていったのか」
「……そうみたい。忘れものかな」
「封はしてあったんだろ?」
「ん」
「達也に渡すつもりが渡しそびれたか、忘れていったのか、渡さなくてもいいつもりだったのか、それは俺にだってわからないよ。しかし、差出人の名前として美穂の名前も書いてあるんだから、別の封筒にでも入れて美穂に郵送してやるのが当然だろ。人間としての道義ってやつだ。無断で開封して中身を読んで、いたずら書きまでするとはまともな人間じゃないんだぞ」
「だって……」
「だってじゃない。自分の部屋に入って反省してろ。いいと言うまで出てくるな」
「貴男くんのおやつは?」
「そんなものはどうにだってなる。行け」
「だってだって……」
「俺の言いつけが聞けないのか」
 返事は? はいは? とも言ってくれない。怒鳴られるほうがまだいいと思える静かでいてきびしい声の調子に身が竦んで、動けずにいる久美子を抱き上げてもくれずに、航平は低い声で言った。
「自分の部屋に行け」
「……はい」
 涙がぽろぼろっとこぼれる。航平は泣くなとも言わず、黙って久美子を見ている。人間としてしてはいけないことをしたあたしは、先生に見捨てられるんだろうか。気持ちがそればっかりで支配されてしまって、久美子は階段を降りて自室に入った。
 ここは和室で、畳の上にベッドが置いてある。航平にはじめて抱かれたベッド。あれから幾度か抱かれて、すでに愛するひとの腕の中での悦びを航平から教えられた。裸にされて裸の腕に抱きしめられる羞恥は、他のどんな羞恥ともちがう色合いなのだとも久美子は知った。
 なのに、もうおしまい? あたしが悪いんだけど、捨てられたくない。だけど、先生は怖かった。わがままを言って叱られるときは、あんなのは甘いんだとわかるくらいに、今日は怖かった。久美子がベッドにすわって膝を抱えていると、携帯電話の着メロが響いた。
 電話になんか出たくない、そうも思ったものの、習慣でケータイを取り上げる。かけてきている相手は美穂だった。
「……はい」
「ああ、久美ちゃん? この間はありがとう。元気してる? 航平さんには愛してもらってる? 私はお使いで会社の外に出たの。東京は暑いよぉ。久美ちゃん、どうかしたの?」
「あたしね、あたし、航平さんに捨てられた」
「ええ? なんでよ?」
「美穂ちゃんのせいだよ」
「私がなにかした?」
 正直に言うしかないので、手紙を勝手に開封したところから話した。
「……あれ、見たの? そんなら私が悪いんじゃなくて、久美ちゃんが悪いんじゃないよ」
「あんなものを忘れていくからだよ」
「うん、完全に忘れてた。口で言っても聞いてくれないから手紙にしたんだけど、どうせ聞いてくれないんだもんね。捨てればよかったね。それで航平さんに冷たく叱られたのか」
 うむむむと考え込んでから、美穂は言った。
「恥ずかしいけど、私は久美ちゃんにあの手紙を見られてもどうってことないよ」
「久美は変態だって書いてあっても?」
「そんなの書いてた? ジョークだってば」
「本気のくせに……」
「まあまあ、そこはいいからさ。よーし、美穂にまかせておきなさい」
「どうするのよ」
「いいからさ」
 そこで電話が切れてしまい、久美子は再びベッドで膝を抱える。黙りこくっていると、貴男が庭で働いている物音や鼻歌が聞こえる。鋏の音や小鳥の歌も聞こえる。
 先生に捨てられて仕事もクビになって、あたしは失業するの? アパートも出ていかなくてはならなくなって、田舎に帰るしかないの? 先生に嫌われちゃったとしたら、そうするしかないな。それとも、もうひとつの手段?
 捨てられるとしか考えられなくなっていた久美子は、その考えだけを頭の中でいじくり回していた。そうしていると航平が部屋に入ってきた。
「……久美だったらデリヘルとかそういう仕事、できるよね。メイドなんかよりそっちのほうが向いてるんだろうな。電車の切符……あんっ、な、な……やだっ」
 となりにどかっと腰を降ろした航平が、久美子の腕をつかんで引き寄せる。引き上げられて膝に腹ばいにさせられる。短めのスカートの裾をまくられ、当たり前のように下着も下げられて、お尻を続けさまに叩かれた。
「痛いっ!! 痛いったらっ!! やだっ!!」
「ごめんなさいだろ」
「……ごめんなさい」
「もうしません、は?」
「ごめんなさい、もうしませんっ!! 先生……ええん……久美は……」
「小娘なんてものはまったく」
 抱き直されて航平の顔を見上げる。先刻は冷ややかに怒っていた表情が、駄々っ子の久美子を叱るときの甘さも含んだものに変わっていた。
「デリヘルだなんてものを脅し文句に使うのはやめろ。そんなのは絶対に許さない。久美、返事しろ。この格好だったら素直にはいと言えないのか。もういっぺん尻を出すのか」
「やだ、えと、はい」
「あの手紙は捨てろって美穂は言ってたけど、スキャンしてブログにでもアップしてやろうか」
「……美穂ちゃんが電話してきたの?」
 久美子には返事をしろ、はいと言え、と命じるくせに、航平は返事をしてくれない。けれど、そうに決まっているはずだ。
 美穂は航平になんと言ったのだろう。美穂は手紙を読まれたとしても気にしてないし、あんなものは捨ててくれたっていいんだから、久美ちゃんを怒らないであげて。怒るんじゃなくて叱ってあげて。冷たく怒られるよりは、お尻をぶたれて叱られるほうがいいんだよ、とでも?
 女の子はね、大好きな男のひとにだったらそうやって叱られて、お仕置きされるほうが嬉しいの、美穂だったらそう言いそうに思える。久美ちゃんは変態だしね、と付け加えたとも考えられるので、航平に質問はしにくかった。
「んん?」
 無言の航平に抱きしめられて、久美子は幸せを感じている。捨てられなくてよかった、美穂ちゃん、ありがとう、変態だって書いてあったのも許してあげようかな、そう考えてぽわわーんとしていると、航平が眉を上げた。
 が、どうしたの? と久美子は問い返さなかった。航平もなにも言わなかったので、そんなのどうでもいい、気分になってしまう。久美子は一時間でも二時間でも、こうして航平の腕の中に抱かれていたかった。


 庭の掃除をしていると、昨夜は素敵だったよ、うふっ、との美穂の手紙の文字が頭に浮かぶ。美穂ちゃん、久美も昨夜は素敵だったよ、うふっ。美穂ちゃんのおかげだね。
 美穂の手紙は航平がどうにかしたのだろう。航平はブログなどはやっていないはずだし、アップするなんて言ったのはジョークだろうから、美穂に送り返すつもりか、美穂が捨てろと言ったのならばそうするのか。
「仲直りした?」
「美穂ちゃんが先生にメールか電話か、してくれたんだよね。あれからいつもの叱り方をされたの」
「お尻ぺんぺん? そのほうがよかった?」
「よくはないけど、ありがとう」
 メールでやりとりした美穂との会話も思い出しながら、朝の庭掃除をする。今日も早くから貴男がやってきて、高い樹木に登って仕事をしていた。
「本屋に行ってくるよ」
 車のキーを手にした航平が言った。
「近くの街には売ってない本だろうから、車で出かけてくるよ。久美は買ってきてほしいものでもあるか。貴男はケーキだろ」
「はーい。お願いします」
「久美にもケーキを買ってきてやるよ。おやつの時間までには帰るから、昼メシは貴男とふたりで食え。久美、行ってらっしゃいは?」
「久美はついていったらいけないの?」
「貴男の昼メシやお茶の世話をしてやれ」
「行きたいな。寂しいな」
 またそうやって聞き分けがないのか、縁側でお仕置きがされたいのか? 航平の目がそう言っているように思える。美穂の手紙がらみのあのきびしさとは種類の異なる、優しく甘い目だ。
 ああやって冷たい怒りを見せられたから、先生の優しい叱り方は素敵だと思ってしまう。貴男も見ている前で? そうされてもいいもんっ、と反抗したら、航平はやるだろう。久美ってほんと、変態、と美穂が呆れ笑いしている幻が見えてきて、久美子は頭を振った。
「そしたら先生も行ったらやだ。本なんてインターネットで注文するとか、東京に帰ってから買いにいくとか……」
「ただちに読みたいんだ。仕事に役立つ本でもあるんだよ。おまえは留守番してろ。もうすぐ東京に帰るんだから、別荘の片付けもあるだろ」
「久美にばっかり仕事をさせるの?」
「俺だってやってるさ。それに……」
「久美はメイドだもんね。いいもんいいもんいいもん」
「久美」
 腕が伸びてくる。つかまえられそうになって逃げ出すと、航平は微苦笑を感じられる声で命じた。
「はい、行ってらっしゃい、留守番してます、言え」
「はい、行ってらっしゃい、お留守番してるから」
「おまえは幼稚園児か。挨拶から躾けないといけないのか? いい子にしてろ」
「いい子になんかしてないもん」
「そっか。貴男、久美子が悪さをしたら報告してくれよ」
 黙って聞いていた貴男が、OKサインをしてみせる。航平は久美子の頭を撫でた。
「おまえはティラミスが好きだったな」
「暑いからアイスがいい」
「よしよし。買ってきてやるけど、いい子にしてなかったら食わせてやらないぞ。ちょっと出かけるってのにつべこべと……久美!!」
 低く荒い声音で名前を呼ばれて、久美子はびくんとした。
「いい子にしてろ。はいは?」
「はい。行ってらっしゃい。先生……」
「馬鹿」
 東京にいれば航平と顔を合わせる機会はそんなにはない。航平がクリニックに出勤しているときに、久美子は彼のマンションでメイドの仕事をする。航平が帰宅すれば久美子は自宅に帰る。それもあって、別荘に来るまでは航平は久美子をベッドに誘わなかったのだろう。
「帰りたくないな」
 駄々をこねて頭を押さえつけられて、お尻を叩かれて悲鳴を上げたりもした。あのころは服の上からだったから、恥ずかしさも痛みも強くはなかったけれど、荒々しい叱り方をする先生は好き、と感じて、ごめんなさい、と呟いてべそをかいた。
 メイドと雇い主だったのだから、その程度の触れ合いしかなかった。なのに久美子はどんどん航平を好きになっていく。航平もそう思っていてくれたのだろう。
「久美、俺の女になるか」
「……それって?」
「うん」
 それだけを言ってから、別荘に連れていってやると航平が言ってくれた。
「アイス、買ってきてやるよ」
 坂を下りていく航平を、庭の戸から見送る。航平が一度だけ振り向いて、まぶしそうに笑って手を振る。先生の奥さんになって、航平さんって呼んで、毎朝彼を見送りたい。強い欲求が起きた。
「優しいんだなぁ、西垣先生って」
 庭に戻っていくと、樹から降りてきていた貴男が言った。
「ちょい休憩、つめたいお茶を飲ませて」
 氷を入れたウーロン茶のグラスをふたつ運んでいって、久美子も縁側にすわった。
「先生、そんなに優しくないよ。きびしいでしょ」
「叱られてたのは見たけど、あんなの優しいじゃないか。久美ちゃんって先生のお手伝いさんってだけじゃないんだな」
「……貴男くんに言う必要ないし」
「だけどさ、先生は歯医者だろ。久美ちゃんは歯科技工士の専門学校中退だって? 釣り合いが取れないね」
 そんなの知ってる、言わないで、と止めたかったのに、貴男は続けた。
「歯科医なんてのはスッチーじゃないのか、なんとかアテンダントだとかさ、女子アナとか女医とか、そういう社会的なステイタスのある同士で結婚するんだろ」
「そうとは決まってないよ」
「普通はそうだろうが。植木屋と結婚する大学出の女がいないのと同じで、専門学校中退の女と結婚する医者はいないんだよ」
 そうなのだろうとは思う。あたしは別に結婚までは望んでいない、とも言えなくて、久美子もお茶を飲んだ。
「俺は高卒だよ。久美ちゃんは専門学校までは行ったんだから、学歴は俺よりも上だね」
「同じでしょ」
「そんなら、高卒でもいいか」
「あたしは貴男くんとつきあう気はないよ」
「俺のほうが現実的なのにさ。俺が嫌いでもないでしょ?」
「あ……」
 顔が近づいてくる。押しのけようとしても強引に寄ってくる。ひっぱたいてやろうしてもかわされて、抱きしめられた。
「駄目。先生に叱られる」
「先生はいないじゃん。俺と浮気しない? 浮気でなくてもいいんだけど、久美ちゃんは先生に恋してるみたいだから、俺の彼女にはなってくれないだろ」
「浮気も恋もしないよ」
「俺が言ったらどうなるかなぁ」
 いたずらな顔をして、腕はゆるめずに貴男は言った。
「先生が留守だからってのをいいことに、久美ちゃんが俺に迫ってきたから抱いた。久美って浮気女だよな、って俺が言ったら、俺はあいつに殴られるかな」
「そんな嘘、先生は信じないもん」
「嘘じゃなかったとしたら? 俺も殴られるだろうけど、久美ちゃんも叩かれるんだよな。あの可愛いケツをさ……俺にも見せて」
「ええ? 見てたの?」
「俺はあのとき、高い樹の上にいたんだ。久美ちゃんが掃除してたのも知ってて、覗き見してたんだよ。きみはなにかを夢中で読んで、そこになにか書いてた。そこへ先生が入ってきただろ」
 外に貴男がいたのは久美子も知っていたが、見られているとは思ってもいなかった。
「そんで先生がきみに、自分の部屋に行ってろって言った。きみは自分の部屋に入って泣いてた。それも見えたよ」
 どこの部屋にも庭に面した窓があるのだから、身軽な植木屋さんにはどこからだって覗き見できる。
「三十分もしてから、先生がきみの部屋に入っていった。きみは先生の膝でケツを叩かれてた。きみがなにか悪さをして叱られてたんだろ。可愛いケツだなぁ、って、俺は見とれてた。理由なんかどうでもいいし、叩くったってあのぐらいだったらいいんだろうし、それはいいよ。可愛いケツを見せてもらって、俺は嬉しかったんだしさ」
「……えっち」
「だからさ、俺が先生に言いつけたら、俺も殴られる。きみもケツを叩かれる。だろ?」
「言わなかったらいいんでしょ。嘘なんだから」
「本当のことにしようよ。俺が全部殴られてあげるから、本当のことにしよう。俺と駆け落ちしよう」
「私はもうじき先生と東京に帰るの」
「知ってるよ。帰したくないから言ってるんだ」
 遊び心なのか、あるいは本気? 貴男は久美子を抱く腕に力を込め、久美子の身体からは力が抜けていく。
 彼の言葉は核心をついている。久美子は航平が大好きだけど、所詮はメイドであり妾のようなものだ。結婚はできないに決まっているのだから、続けていても不毛なはず。それでもいいと割り切るつもりでいたけれど、現実を考えると虚しい。
「久美ちゃんだって若いんだから、結婚とまで考えなくてもいいじゃん? 私だって達也さんにプロポーズされてないし、してくれそうにないよ」
 美穂はそう言うけれど、彼女はきちんと正社員として働いているのだから、アルバイトメイドの久美子とはちがう。そんな現実も考え合わせると、植木屋の妻になって海辺の町で暮らすのも、田舎育ちの久美子には合っているのかと思えてきた。
「あたしと結婚したいの?」
「それでもいいよ。まずは寝よう」
 そっちか……がっくりしそうになったものの、それも大切なのだろうと考え直す。けれど、久美子は言った。
「そんなの急に決められないの。考えさせて」
「俺んち、あそこだよ。俺が忍んでくるわけにもいかないから、久美ちゃんが来いよ」
 指差したのはここからも遠くに見える海辺の集落だった。
「あたしだって抜け出させないよ」
「今は?」
「駄目」
「そしたらさ、東京に帰ったあとでデートしよう。そのほうが外出しやすいんだろ」
 クリニックの休日は久美子も休日だ。それが寂しかったりもしたものだが、こうなると好都合……好都合だと考えてしまう自分に嫌悪感を抱きそうになって、それでも久美子はうなずいた。
 恋って先がどうなるかはわからないもの。貴男はあたしが先生に抱かれたと知っていて、それでもいいから結婚してもいいとまで言ってくれている。歯科医の先生との将来よりは、植木屋の妻のほうがあたしには現実的だ。
 でもでも、あたしはまだ十九歳。結婚は将来の話として、先生も好き。先生にも抱かれたい。ためしに質問してみた。
「両方って駄目?」
「先生と俺の二股か? それはあつかましいだろ」
「二、三年したら貴男くんと結婚するとしても、メイドとしてバイトは続けていくのも駄目?」
「この別荘にだったら通えるけど、東京は遠いぞ」
 ならば、別荘に滞在する航平や大輔の一家や、航平の両親や親戚や、夏季限定別荘メイドというのもできる。そのためには円満に航平と別れなくてはいけない。
「メイドはいいけど、きみが航平に抱かれるのはいやだよ。彼女はやめてメイドだけにしろ。航平に色目を使ったりしたら……」
「ケツひっぱたくって?」
「先に言うなよ。久美はそうされるの、好きか?」
「好きじゃないよ」
 大人の先生にだったら叱られるのも素敵だと思ったけど、貴男が相手だと久美子のほうがいばってしまいそうだ。
 先生は若いころの楽しい夢で、貴男が現実。そんな生き方もいいかもしれないな。おばさんになって思い出して、十九のころのあたしは……だなんて、むふむふっとなるのも楽しいかもしれない。よーく考えてみよう。
 簡単に結論は出せないだろうけど、あっちもこっちも上手にコントロールしなくてはならない、これからは忙しくなりそうだ。なんとかなるでしょ、と久美子は決めた。美穂には相談できないのだから、ひとりで上手に上手に上手にね。
 できるものならば両方がいいなぁ。東京に帰って週末に貴男とデートして、週日は先生にも抱かれる。そして、二十五歳までには貴男と結婚する。ボロが出ないように努力するのは大変かもしれないけど、どうにかなるでしょ。


3

 深いブルーの照明の中に、小粋なオブジェやしゃれた飾りが点在している。達也が美穂に話してくれた。
「ヘミングウェイの「老人と海」って小説の中に出てくるスペイン語で、「ラ・マル」ってのは海の女性名詞ってのかな。オーナーはヘミングウェイのファンなんだろうな」
「……達也さんって教養あるんだね」
「常識だぜ」
「美穂は知らないもん」
 シティホテルの近くにあるレストランと、そのホテルの予約は達也がしてくれていた。
 誕生日だからといっても、達也はデートもしてくれないのかと思っていた。夏休みには美穂の頼みをかなえてくれたのだから、あれだけで許してあげるしかないか、デートできないんだったら、小夜先輩か香ちゃんと食事にでもいこうかな、と思っていたら、達也が電話をかけてきた。
「明日は仕事を早くすませるから、いつものカフェで待ってろ。遅刻しないように行くよ。おまえも残業はないんだろ」
「美穂のバースディデート? ドレスを持っていって職場のロッカーに入れておく。約束、守ってくれるんだよね」
「守れない約束は俺はしないよ」
「ほんとかなぁ? でも、信じるから」
「美穂、仕事中にはデートのことばっかり考えてないで、やるべき仕事はきちんとしろよ」
「……ええとね……」
「こら、はいは?」
「はーい」
 昨夜のやりとりを思い出していたから、仕事はきちんとやっていなかったかもしれないが、美穂にとっては仕事よりも恋。二十歳の女の子としては当然だと美穂は思っている。
 本日の仕事が終わると、美穂ちゃん、デート? いいないいな、などと同僚に冷やかされるのも嬉しくて、美穂は朝から用意してきたドレスに着替えて会社を飛び出した。そして、達也とふたりで「ラ・マル」で向き合っている。シャンパンを飲み、達也がオーナーに頼んでくれた、美穂のための特製ディナーでの夕食。夢のようなひとときだった。
 プレゼントは? と尋ねたくてむずむずする。デートとなるといつだって達也がお金を出してくれ、時にはプレゼントもしてくれるのだから、美穂も今夜はお礼のプレゼントを用意している。達也が出してくれたら自分も出すつもりでいるのに、なにも言ってくれない。ホテルに行ってからかな、と考えておくことにした。
「親にはなんて言ってきたんだ?」
「小夜先輩のマンションにお泊り」
「おまえは会社へ仕事しにいってるんじゃないのか、友達と遊ぶために会社にいってるのか、ってお父さんに言われなかったか」
「お父さんなんて思い出させないで。美穂は達也さんだけ見ていたいの」
「……うん。じゃあさ、行くか」
「行く」
 レストランからホテルはすぐ近くなので、達也の腕に腕をからめて歩く。夜の街を歩く恋人たちの中で、美穂が一番の幸せな女だと思えた。
「ちょっと……待ってよぉ」
 が、ホテルの部屋に入ってからも、達也はプレゼントを口にしない。それよりも美穂を抱き寄せようとするので、腕から逃れた。達也はなにも持っていないようだったので、ビジネスバッグに入っているのかと、美穂は探ってみた。
「……包みは入ってないね」
「プレゼントか? デートとディナーとホテルじゃ物足りないのか。ってーか、忙しくてさ、プレゼントの品物までは考えられなかったよ」
 ならば、プレゼントはないんだ、ごめんな、とでも言ってくれればいいものを、達也は決して美穂にはごめんとは言わない。遅刻をしても、忙しくてデートはできないと言うときにも、ごめんをつけ加えてくれない。
 バースディじゃなくてもいつも買ってやってるだろ、って言いたいの? 今夜はホテルとディナーだけ? それでもいいけど……これだけなんて……美穂は心のこもったプレゼントがほしかったのに……涙が出そうになってきて、美穂は紙バッグから達也へのプレゼントを取り出した。
「だったら、美穂もあげないっ!!」
 航平にも相談してみたら、ふざけた返事しかもらえなかったので、美穂が考えに考えて、男性用品の店を探し回って買ったものだ。達也は収入が多いので、デートの際に美穂に金を払わせたりは一切しない。そんなの当然だと美穂は思ってはいるものの、恩返しもしたかった。
 夏のボーナスの額は微々たるものだった。それでも美穂は散財して、達也のために高価なプレゼントを買った。ブランドもののシステム手帳。美穂は包みを開けて手帳を出して、ページを引き裂いた。
「こら、ヒステリーを起こすな。せっかく買ったんだろ。もったいないだろ。今夜はホテルに泊まって、明日の朝に帰るときになにか買ってやるよ。美穂、機嫌を直せ」
 今夜の達也はやけに優しい。美穂の手から手帳を取り上げて、静かに言った。
「紙の部分は予備を売ってるだろ。おまえが破ったところは補填して使うよ。かっこいい手帳だな。美穂、ありがとう」
「あげないって言ったでしょ」
 取り返そうともみ合っても、達也のほうがはるかに背が高いのだから、頭上に差し上げられてしまうと美穂では届かなくなる。達也は手帳をビジネスバッグにしまい込み、美穂を抱きしめた。
「誕生日だってのにヒステリーを起こすな。風呂に入ろうか。このホテルのバスルームはゴージャスだぜ」
「いやだ」
「すねてるんじゃないよ。美穂、いい子いい子。いい子だいい子だ」
 赤ん坊でもあやすような口調で言って、達也は美穂のドレスに手をかけた。美穂がもがいてみても意にも介さず、さっさと裸にしてしまう。美穂は達也の腕の中でじたばたして、不平を言い続けていた。すると、達也の口調が変わった。
「いい加減にしろ。このわがまま娘!! ひっぱたかれたいのか。これか?!」
 ぎゅっと首を縮めて、美穂は言った。
「……達也さんってそのほうが似合うの。猫撫で声で美穂はいい子だなんて言ってるよりも、そうやって叱るほうが似合ってるよ」
「叱られたくて駄々をこねてたんだな」
「駄々じゃなくて、正当な言い分って言わない?」
「言わねえんだよ。こうやって裸にしたんだもんな。叩かれたいんだったらちょうどいいよな」
「叩かれたいんじゃないもん」
「叱られたいだけか。ムシがいいってんだよ。俺が叱るったらちっとはぴしゃってのもついてくるって、おまえはよく知ってるだろ。風呂場に先に行ってろ」
「美穂が脱がしてあげようか」
「奉仕してくれるのか」
 いつだって達也は美穂を脱がせたがるけれど、美穂が裸にされてぽわっとなっている間に、自分で服を脱いでしまう。達也を脱がせるのははじめてかもしれない。美穂は達也のネクタイをほどき、シャツのボタンをひとつずつはずしていった。
「これって奉仕っていうの?」
「言うのか言わないのか知らないけど、じれったいんだよ。おまえは先に風呂に入ってろ。はいと返事して言う通りにしないと、かつぎ上げてひっぱたくぞ」
「……べーっだ」
 笑い声が聞こえる中を、美穂はバスルームへと走っていった。ドアを開けると、達也が言った通りに広くて豪華にしつらえられている。達也さんったら、こんなバスルームにも他の女と入ったのかな、美穂の頭を疑惑がかすめはしたものの、間もなくやってきた達也に抱きすくめられて想いが散らばっていった。
 広いバスタブに達也に抱かれて身を沈める。達也の乳首をいじってみる。肩に歯を立ててみる。堅い腕をつねってみる。達也の手も美穂の身体をいじっている。やがて立ち上がった達也は、大きな両手で美穂のお尻を包んで持ち上げた。
「きゃあ」
「しっかりしがみついてろ」
 首にしがみついた美穂を抱えて、達也がバスタブから出ていく。達也は美穂を膝にすわらせて、石鹸をつけた手で美穂の全身を愛撫するように洗ってくれた。
「くすぐったいよ」
 きゃっきゃと騒ぎながらも、美穂は達也にすべてをゆだねる。赤ちゃん扱いされているような、恋人扱いされているような気分の中で、美穂は達也の身体にちょこちょこっといたずらをしていた。
「でもね、やっぱりプレゼントがほしいな。今夜、ほしかったな。達也さんとプレゼント交換するのを楽しみにしてたのに……達也さんが選んでくれて、美穂のためにって買ってくれたものがほしかったよ。達也さん、なんとか言ってよ。きゃっ!!」
 バスルームからベッドへと運ばれていく途中でも、美穂は不平を言っていた。大股で歩いていった達也はベッドに美穂を放り投げ、身体を反転させて高い音を立ててお尻を叩いた。
「しつこいんだ、黙れ」
「……ぶった」
「ぶたれたかったんだろ。叱られて泣きたかったんだろ。おまえを抱く前に泣かせてやったら、感じやすくなるんだもんな」
「ちがうもん。だけど……ええん、達也さん……」
「泣きたいのか、抱かれたいのか」
「達也さんのしたいようにして」
「俺がしたいようにったら……」
 全身の骨がきしみそうに強い力で抱きしめられて、美穂は思う。達也さんはこうでなくっちゃ。文句を言ったり駄々をこねたりしたら、ひっぱたくぞって怖い顔をして、本当にひっぱたいたりもする達也さんが好き。美穂が悪い子になったらきびしく叱ってくれる達也さんが好き。
 そんな達也さんは、きびしくもあるけど優しくて、だから美穂に躾をしてくれる。わがままで聞き分けのない美穂は、達也さんに躾けられてちょっとはいい子になれてる?
 ベッドでのひとときが終わってからも、美穂は達也の腕の中で考えていた。これからもずっとずっと、美穂は達也さんにわがまま娘だって叱られていたい。叱られて愛されていたい。


「美穂ちゃんにもMの傾向はあるのかもしれないね。Mっ気ゼロの女性だったら、彼氏に叱られて叩かれるなんて、そんな関係はあり得ないって言うんだと思うよ。そういう意味でだけ、そんな達也さんが大好きって、達也さんにそう扱われてるのが好きっていうところだけは、美穂ちゃんはM寄りの女の子なのね、だけど……」
 ある日、小夜に言われた。
「Mの女性は彼氏にわがままは言わないんじゃないかな」
「小夜先輩は言わないの?」
「私の話しじゃなくて、一般論よ」
 じきに一般論にすりかえてしまう小夜を、口をとがらせて見つめると、小夜は微笑んで言った。
「だから、美穂ちゃんはMなんじゃなくて、達也さんが好きなわけよ。それでいいでしょ」
「それでいいんだけどね……」
「セイちゃんは達也さんってMなんじゃないかと言ってたけど、むずかしいよね。そんなの、どれがMでどれがSかなんて、一概には言えない気がするわ」
「そんなにむずかしく考えなくてもよくない?」
「うん。美穂ちゃんはかしこいね。ものごとはシンプルに考えたほうがいいんだよね」
 馬鹿にされているような気もするのだが、シンプルがいいとは美穂にもうなずけた。
 であるから、SかMかなんてどうでもいいのである。小夜と誠二にしたって、香と広樹にしたって他人事なのだから、美穂は達也だけが大切だ。他人が否定しようと肯定しようと、美穂は達也が大好きなのだから、それでいい。
夏休みには恥ずかしい経験も楽しい経験もした。親には短大のときの友達グループで海に行くと話し、両親ともに疑いもしないのが申し訳ない気分でもあったのだが、それはいい。友達がひとり増えたのが美穂には嬉しかった。
 最初は反感を持たれたようにも見えた久美子とは、あの節子とかいうでっかい女の出現で共闘意識のようなものが芽生えたのか、完全に友達になれた。縁側に並んだ彼氏の膝に乗っけられて、叱られてお尻を叩かれていたひとときを思い出すと、美穂は叫び出したくなるのだが、あれでいっそう、仲間意識も芽生えたのか。
 本人は否定するものの、久美子は変だと美穂は思う。かっこいい男にだったら裸を見られてもいいというか、見られたいというか? だが、美穂だって他人には変態だと言われるのかもしれないし、達也も同様だ。達也はまちがいなく、ものすごーくえっちだ。
 まあ、男はえっちで普通なのかもしれないし、気心の知れた相手にしか言わないのだろうからいいけれど、美穂は達也の言動にはひやひやさせられた。
「達也さんって躾だって言うけど、ほんとは美穂の……えっちえっちっ」
「えっちでケツを出せてるんじゃないぞ。このわがまま娘が。こうやって叩かれないと言いつけを聞かないからだろ」
 そう言われてぴしゃんと叩かれたりもするが、達也は久美子にも香にも言っていた。
「久美、なにやってるんだ。そんなおいたをしてると、西垣先生に叱られるんだろ」
 航平の別荘に滞在していた昼下がり、庭に出ていった達也の声が聞こえた。
「そんなものをさわると危ないだろ。航平はどこに行ったんだ」
「電池を買ってくるって……」
「そしたら留守か。俺がお仕置きしてやろうか」
「やっ、やっ……やだっ」
 窓から見ていた美穂が、達也さん、駄目っ!! と叫ぼうとした瞬間、庭に航平が入ってきた。
「そら、久美、先生になにをしたのか白状して、お仕置きしてもらえ」
「また悪さをしてたのか? 久美、こっちに来い」
 いやだいやだと言っている久美子を、達也が抱え上げた。
「悪い子は尻をぶたれないといけないんだろ。俺が先にやってやろうか、え、久美?」
「やだってば」
「航平にうーんと叱られて、うーんと叩いてもらえ」
 久美子は達也の腕から航平に抱き取られて、家の中へと運ばれていった。
 ああして女の子を脅かす趣味もあるし、実は本当にやりたいのではないかと美穂は思う。美穂だけじゃ物足りないの? 浮気者は達也さんじゃないの、と思って、そのあとはすねていた。部屋に戻ってきた達也もなにも言ってくれないままにベッドに寝そべり、美穂はだんまり作戦に出た。
 なのに達也は反応も見せずに昼寝をしてしまって、顔にペンでいたずら描きをしてやろうとして、抱きすくめられてそれから……というようなこともあった。
「広樹はきみを叱ったりはしないのか。なら、俺がやってやろうか」
 香にも達也はそう言っていた。女の子を苛めるのが好きなのだから、達也もけっこう変態だ。美穂には躾のためにやっているのだとしても、他の女の子のスカートをまくりたいのだとしたら、見たいからに決まっている。
「人前で美穂のお尻を出させないで。他の女の子にそうするなんて絶対にやめてっ!!」
 何度言っても知らん顔をする達也に焦れて、大っ嫌いっ!! と叫んだりもした。この夏休みの数日間も喧嘩ばかりしていたというよりも、叱られてばかりいたけれど、楽しかった。
 広樹と香は別々の車で来たので、二台の車が先に東京に向かって出発し、美穂も達也の車に乗って帰った。残っていた大輔も父親が迎えにきて帰っていったそうで、航平と久美子が別荘にいた。そんな久美子に電話をかけて、美穂が達也に宛てた手紙を開封して読んで、航平を怒らせたと聞いたのは、美穂の休暇も開けて出勤するようになった日だった。
「美穂にまかせておきなさい」
 泣いていた久美子にそう言ってやって、美穂は航平にも電話をかけた。
「そんなの気にしなくていいんだから。美穂は手紙を読まれたって平気だし、あんなの捨てちゃってくれていいんだよ。航平お兄ちゃま、美穂がいいって言ってるんだからいいでしょ。久美ちゃんを許してあげて」
「おまえはよくても道徳として……」
「縁側で女の子のパンツを脱がせるのだって、道徳としてよくなくない?」
「そうかもしれないな。おまえには負けるよ」
 あの夜には久美子は、許してもらったと言っていた。
 あれから日がすぎて、季節がうつろっていこうとしている。達也は多忙でデートは飛び飛びだし、遅刻ばっかりして美穂を怒らせ、怒った美穂に強圧的に出て黙らせる。ケツをひっぱたかれたいのか、と、はいは? ごめんなさいは? はラヴシーンの前触れみたいな台詞?
 悪いのは達也さんなのに、どうして美穂がごめんなさいをしなくちゃいけないのよ、とふくれながらも、ごめんなさい、もうしません、いい子にします、と言わされる。抱き寄せられて泣いて、キスされてベッドに連れていかれる。
 そんなひとときは美穂も幸せなのだから、ちょっとくらい変態だっていいもんね。達也さんはジョークがすぎるってだけで、本当に浮気はしないもんね。
 今夜は達也はデートできないと言う。職場の先輩や同僚もつきあってくれなかったので、美穂はひとりで仕事帰りにショッピングに来た。達也と買い物にくると早くしろしろと言われるので、ひとりもいいと思い込もうとしていた。
 このワンピースは達也さんが可愛いって言ってくれるかな。あのブーツだとヒールが高くて、達也さんに近い身長になれそう。ファーのバッグ、今度はあれを達也さんにおねだりしよう。
 ひとりもいいとは思っていても、服も靴もバッグも達也を思い出させる。美穂はこんなにも達也さんが好き。そんな自分がけなげで愛しくも思える。ワンピースを買ってから食事をしようと、レストランを覗いて歩いていた美穂は、どきっとして足を止めた。
 レストランの隅っこの席にいたのは、久美子だった。連れは背の高い端正な顔をした若い男で、隣り合ってすわっていた。友達だったら向かい合わせですわるだろうから、親密な関係だと思える。美穂はスパイ気分になって、こっそりと店に入っていった。
「いらっしゃいませ」
 ふたりのいる席から離れた席にすわる。久美子の連れは美穂の知らない男なので、彼からならば見える席にした。近づいてきたウェイターに小声で、コーヒーを、と告げた。
「かしこまりました。ねぇ、お客さん、ひとり?」
「しっ」
「ええ? しっ!! って、行っちまえって意味? 俺、早番だからもうじき仕事は終わるんだ。待っててくれるんだったら一緒にごはん、食べようよ。ひとりだったら寂しいでしょ」
「うるさいんだよ」
 ウェイターのくせに客をナンパなんかして、むこうにばれるじゃないのよっ!! 美穂がイラついていると、太ったおばさんが近づいてきた。
「たいへん失礼しました。お客さま、申し訳ございません。ヨウくん、来なさい」
「……わかったよ。うるせえばばあだな」
「いいから来なさい」
 上司なのか、おばさんに命令されたウェイターはふてくされた顔をして彼女について下がっていき、美穂はようやく意識を久美子と連れとに集中できた。
「……こんなところで、駄目」
「いいだろ。な?」
「……ホテルに……今夜だったら……」
「それまでお預け?」
 ホテルに、と久美子はたしかに言った。
 久美子は航平の彼女になったのではなかったのか。美穂から見れば航平はお兄ちゃまでもあり、達也が遊んでくれないときにかまってくれる優しい男でもあったのに、久美子に盗られてしまって悔しい気持ちがあった。
 でも、航平さんには理想のタイプかもしれない。可愛くてMっぽくってちょっと変態の彼女ができたのならば、喜んであげなくちゃ、と考えようとしていたのだ。
 なのになのに、久美子は浮気しようとしている? ふたりのテーブルに乗り込んでいって、久美子を罵倒してやろうか。なんだったらひっぱたいてやろうか。ふたりともの顔をひっぱたいてやったら、すっきりするかもしれない。
 が、かすかには思う。航平さんが久美子に捨てられたとしたら、美穂のお兄ちゃまとして戻ってきてくれる。達也さんとふたりがかりで美穂を叱ったりかまったりしてくれる。達也さんと航平さんも仲良くなったのだから、冬休みにはまたあの別荘で、今度は三人だけで……大輔はいるとしても、女の子は私だけ。
 そんな想像もしてしまって、どっちがいいのか判断できなくなる。久美子とその連れは美穂には気づかない様子で、顔を寄せていちゃついてから、立ち上がって店から出ていこうとした。美穂はメニューを広げて顔を隠す。
 ふたりともにまったく美穂には気づかぬ様子で、支払いをすませて店の外に出ていく。男が久美子の肩を抱き、久美子は彼の肩にもたれる。その仕草はまぎれもなく恋人同士で、美穂の目の前はちかちかしていた。
 なのに行動が起こせない。航平お兄ちゃま、かわいそうに……航平への同情はむしろ甘い味がして、美穂を戸惑わせていたせいもあった。

END





 
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