リクエスト小説

RIKA「潮騒part3」

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「潮騒part3」


1・樹

 
 猛流兄貴と愛華さんの間には冷ややかな空気が漂い、佐竹さんはふたりを気にしていた。
「樹と星斗は若いんだから、食欲を満たすことだけ考えていればいいよ。僕が年の功でなんとかとりなしてみせるから」
 じいちゃんがそう言ったので、俺は星斗とふたり、材料を焼いてひたすら食っていた。
 バーベキューがはじまったばかりのころには、星斗も俺もまだちょっとしか食っていなくて空腹だった。佐竹さんが言った通り、星斗も腹が減って気が立っていたのか、満腹するにつれて顔つきが穏やかになってきていた。
「俺も悪かったよ。樹、ごめんな」
「ちびを軽蔑するなよ」
「そんなつもりはなかったんだけど……」
「俺は悪くないからあやまらないけど、将一さんにひっぱたかれたのは効いただろ」
「たいしたことねえよ」
 強がってはいるけれど、星斗の頬には手形がばちっとついていた。
 優しい姉さんだったら弟を叩いたりはしないのか。俺なんかはほんのガキのころから兄貴にはひっぱたかれどおしで、八つも年上なのだから喧嘩をしてもかなうわけもなく、悔しかった記憶ばかりだ。
「お兄ちゃんに叩かれた? なにをしたの? それは樹がいけないからでしょ。お兄ちゃんにあやまってきなさい」
「猛流が怒った? それでおまえを叩いたって? 当たり前だ。父さんも……」
「うきゃーっ!! もうやだよ」
 両親に告げ口してみても、おまえが悪い、兄さんが正しい、と言われる。下手をすると、親父のげんこつのおまけがくっついてきた。
 八つの年の差があるだけに、俺がものごころつくころには猛流は中学生だった。猛流は俺を苛めたり、憂さ晴らしに殴ったりするのではなくて、もうひとりの親父のように俺を教育していたのか。十五にもなればわかるようにはなったが、それでも悔しいものは悔しい。
 こっちが大学生になったら、猛流と対等に渡り合えるようになるのかと楽しみにしていたのに、どうも俺は兄貴ほどに身体は大きくならないようで、いっそう悔しい。神さまってなんてイジワルなんだろ。俺の背丈を伸ばしてよぉ。
 とはいっても俺はまだ高校一年生。猛流だって高校の三年間でかなり背が伸びたと言っていたから、俺にも望みはある。すこしでも兄貴に近い大きくて強い男になりたい。
 一方、星斗は姉の愛華さんとは九つちがいか。うちの兄弟以上に年の差のある姉弟で、愛華さんは言っていた。小さいころにはじゃれてるみたいな喧嘩をしていた……それって色っぽくはないのかもしれないが、兄貴との喧嘩とはずいぶんちがうのだろうな。
 幼児の星斗が癇癪でも起こして、中学生の愛華お姉ちゃんに殴りかかる。お姉ちゃんは適当にかわして、上手に言いくるめてお菓子でも与えて、弟を懐柔してしまう。そんな喧嘩だったのか。うちとは本当にちがう。
 小さい俺が癇癪を起こして兄貴に殴りかかったりしたら、持ち上げられて放り投げられた。投げる先はソファだの布団の上だのだったにしても、ガキのころにはそんな想い出もある。両親はそんな息子たちを見てのんびり笑っていた。
 あれは八つも年上の兄貴が、小さい弟に無茶はしないと両親も信じていたからだろう。最近は兄貴にびしーっと殴られたりもするようになったけど、小学生くらいまでの俺だったら強く殴られはしなかった。
 それでもそれでも、兄貴に投げられたり殴られたりしたのを思い出すと悔しい。姉と弟はもっとゆったりしてるのかな。兄と妹は甘いみたいだけど、将一、リカってのは特別だろうし、俺には兄と弟しかうまく想像できないのだった。
 いろんな組み合わせのある「きょうだい」というものについて考えながらも、満腹してから星斗とふたりでバーベキューセットのそばを離れた。
「火は熾したままにしておくよ。もうすこしは片付けずにおくから、おまえたちは散歩でもしてこい」
 佐竹さんがそう言ったから、海の見えるほうへと走っていった。
 結局、リカも将一さんも庭には戻ってこなかった。あのふたり、なにをやってるんだろ。リカは泣いてるのかな。将一さんはリカをなだめるのに苦労してるのかな。猛流と愛華さんはまだ怒ってるのかな。俺は食べるほうに専念していたものの、他の人についても気にはしていた。
「顔、冷やす?」
 海の見えるあたりに来て尋ねると、星斗がむすっと応じた。
「おまえはうるせえな。こんなの、痛くもないって言ってるだろ」
「……星斗は大人の男に殴られたことはあるのか?」
「父さんにだったらなくもないよ」
「姉さんには?」
「頭をこつんだったらあるかな」
 それは殴られたとは言わないのである。
「むかつくんだけど……将一さんって……うう、むかつく」
 むかつくんだけどかっこいい? そうは言わない星斗が、実はそう言いたいのではないかと考えてしまう。俺も同感だ。
「でもさ、俺が悪いんだろな。でもでも、むかつくよっ!!」
「わかるよ。俺も自分が悪いとは思っていても、兄貴に殴られるとむかつくもん」
「猛流さんっておまえを殴るの?」
「一日に一度は殴られるよ」
 頭をごちん、の殴られるとはいわないものも含めれば、毎日、二、三度は殴られている。
 寝起きの洗面所。
「樹、水をはね散らかすな」
 シャワーを浴びて出てきた猛流。
「風呂場が髪の毛だらけだ。使ったあとはざっとでも掃除しろ」
 朝食の席で。
「野菜も食え」
 休日の昼間。
「おまえの部屋はゴミ箱みたいだな。掃除しろ。片付けろ」
 夜、家に帰ってきた猛流。
「メシは食ったのか? 俺も食うから後片付けしろよ。こら、返事しろ」
 この言葉にはもれなく拳骨がついてくる。そんな話をしていると、星斗はぎゃはぎゃは笑っていた。
「姉ちゃんは説教だったらするけど、いちいち殴ったりはしないな」
「一緒に住んでるのか」
「俺の親の家は東京にあるんだよ。姉ちゃんは夏の間はここのブティックをまかされてて、他のシーズンには鎌倉の店で店長をやってるんだ。「ヴィオロン」はチェーン店なんだよ」
 愛華さんは普段は鎌倉のマンションでひとり暮らし、星斗は親の家から高校に通っているのだそうだ。一緒に住んでいないのならば、たまに会う弟には姉は優しいだろう。
 うちの兄貴が大学生だった四年間は、俺も兄貴とは一緒に住んでいなかった。その時期にも兄貴は優しくなくて、帰省してきたら怒られた。夏休みにはぎりぎりまで宿題をやらなくて、兄貴に泣きついて手伝ってもらって、こづかれながら徹夜で仕上げたこともある。
 時には俺が兄貴のマンションに遊びにいって、誰かの忘れものらしきプレスレットを発見し、からかったら無言でごちん、だった記憶もあった。
「今は姉ちゃんは会社が借りてくれてるマンションで仮住まい。俺は安い民宿に泊まってるんだ。言ってなかったかな」
「はじめて聞いたよ。星斗も今はひとり暮らしか。いつまでいるの?」
「長く泊まると金がかかるから、適当に帰るよ。樹は?」
「明後日には帰らなくちゃ。兄貴は仕事だし、俺はバイトだし」
「姉ちゃんのこっちでの仕事は、八月いっぱいだな」
 八月が終われば夏休みも終わる。じきに夏は去っていく。
「宿題、あるんだろ」
「うちの高校は夏休みはリフレッシュするもんだって主義で、宿題はないんだよ」
「うえっ!! いいなぁ」
 星斗の高校に転校したくなってきた。
「俺にはあるんだよ。いっぱいあるんだ。手伝って」
「兄ちゃんに手伝ってもらえよ」
「やだよ。また殴られる」
「宿題は自分でやれよ」
 えらそうに言って、星斗も俺の頭を殴った。俺も星斗の脛を蹴飛ばしてやり、ふたりして笑う。リカは宿題はやったのかな。将一兄さんは優しいから、手伝ってくれるんだろうか。


2・リカ

「うんうん、そうだよ。佐竹さんの別荘に来てるんだ。その話、しただろ?」
 隣の部屋に入っていったお兄ちゃまが、携帯電話で話している声が聞こえる。
 たっぷり甘えてうんと泣いて、お兄ちゃまのほっぺたを撫でてあげたり、あたしの頭をお兄ちゃまに撫でてもらったりして落ち着いて、あたしはぼんやりしていた。
「仕事の話を二、三、しなくちゃいけないんだ」
 そう言って隣室に行ったお兄ちゃまの、あの会話は仕事の話? あたしは聞き耳を立てた。
「……それはちょっと困るな。妹と、お客さまもいらしてるんだよ。佐竹さんまでが急にあらわれたから、びっくりした。そうなんだよ」
 親しげな調子で話して、お兄ちゃまは朗らかに笑っている。リカの心にむくむくと嵐の前触れ雲。
「来られたら困るよ。来るな。ああ、来るな。泣くな」
 急に口調が変わって、リカを叱るときよりもきびしい調子になった。
 私も別荘に遊びにいっていい? どこかの女のひとにおねだりされて、お兄ちゃまは来るなと断った。来るなと言われた女のひとが泣き出した。その女のひとって誰? お兄ちゃまの彼女? お兄ちゃま、彼女がいるの?
「彼女なんていないよ」
 質問はしてみたことがあって、そのたびにお兄ちゃまは否定した。嘘ぉ、お兄ちゃまはもてるくせに、なんて言いながらも、あたしはお兄ちゃまの言葉を信じていた。
 だけど、三十五歳、独身、あれだけ背が高くて顔もよくて、最高にかっこよくて、おまけに実力のある作曲家。収入も多い。好条件目白押しのお兄ちゃまに彼女がいないほうが変なのでは? 疑いはじめると、黒い雲がむくむくと巨大化していく。
 疑心暗鬼の黒雲を抱えて、隣室とのドアに耳をつけた。お兄ちゃまの通話相手が別の人に代わったようで、音楽の話をしていた。
「リカ、メシ食わないの?」
 庭に出ていくと、樹と星斗がこちらに歩いてきていた。すこしおなかがすいた気分だったけど、お兄ちゃまの電話を聞いて食欲が失せてしまっている。そんなあたしに星斗が言った。
「さっきはごめんな。将一さんは?」
「電話してる。いいんだけどね……」
 ごめんと言ってくれたなら、星斗は許してあげてもいい。だけど、愛華さんは許してあげない。愛華さんはあやまる気もないようで、知らん顔でお水を飲んでいた。
「リカ、宿題やったか」
 問いかけた樹を引っ張っていって、お兄ちゃまの電話の内容を話した。
「そんな話をしてたんだよ」
「そりゃあ、将一さんにだって彼女は……」
「いるのかもしれないけど……」
「その会話は決定的よね」
 いつの間についてきて盗み聞きをしていたのか、うしろで愛華さんが言った。
「将一さんって若い女の子が好きなのかしらね。私だと大人すぎるのかもしれない」
「どうして若い女の子なの?」
「その会話から推理したのよ。女の子が別荘に行きたいって言って、来るなと言われて泣き出したんでしょ。わがままが通らないからってすぐに泣くのは、子供の証拠。リカちゃんみたいな女の子なんじゃないの? 私くらいの年齢になっていたら、よほど幼い性格でもなかったら簡単には泣かないもの。あなたを困らせるんだったら行かないから、帰ってきたらデートしようね、ってところよ」
 なんだか愛華さんの推理が正しいような気がしてきた。
「猛流さんも将一さんもロリコンなんだよね。大人の女性は怖いっていう、情けない男なんじゃないの? リカちゃんみたいなガキだったら、ちょっと叱ったら泣いて言うことを聞く。大人の女はそうはいかないから、上手につきあえないのよ。子供っぽい妹にばっかりえらそうにして、押さえつけていばってる男っていやだな」
「お兄ちゃまはいばってないし、押さえつけてないし、ロリコンじゃないしっ!!」
「お兄ちゃまがロリコンだって言われるのがいやだったら、開放してあげれば?」
「どういう意味よ」
「わからないんだったらまさに子供ね」
 余裕綽々であしらわれて、ものすごく腹が立ってくる。樹は横でうろたえていて、愛華さんはつんっと鼻をとがらせていた。
「高校生にもなってるんだから、ものの道理って多少はわかるでしょ。あなたは将一さんにここまで育ててもらって、彼のあれだけのルックスと、野放図に甘やかされてるってところに目をくらまされて、邪念を起こしてるのよね。将一さんには迷惑なんだって知らないの?」
「迷惑?」
「当然でしょ」
「……ちがうもんっ!!」
 これだから子供? そうなのかもしれない、とは考えたくなくて、愛華さんに近づいた。ひっぱたいたりしたら怖いリカちゃんになってしまうから、思い直して愛華さんの高い鼻を思い切りつまんでねじってやった。
「痛ぁいっ!!」
「愛華さんの鼻って高すぎるから、ちょっと低くしてあげようと思ったの」
「なにすんのよっ!!」
 リカは子供じゃないもん。こうして冷静に言えるもん。そう思って、愛華さんと睨み合う。おい、リカ、おいーっ、と樹は言っていて、足音がいくつか、乱れて近づいてきた。
「リカ、お客さまになんて真似をするんだ。愛華さんの鼻が……」
「その鼻って整形? シリコンが入ってるんだったら崩れるんだったりして……」
「リカ、いい加減にしないと叩くよ」
「……」
 炎でも噴出しそうな愛華さんの目から目をそらし、お兄ちゃまを見上げる。お兄ちゃまも怖い顔。いやいやっ、叩いたらやだっ!! って叫んで抱きついて、泣きたい。泣きたくてたまらない。
 でも、我慢するの。リカは子供じゃないんだから、泣いたりはしない。お兄ちゃまが顎をしゃくる。おいで、って意味でしょ? ついていっても、抱き上げられたとしても、お兄ちゃまにくっついたら泣いてしまう。大声を上げて泣いてしまうから、あたしは言った。
「リカ、宿題してくるから」
「リカ、愛華さんにお詫びをしないのか」
「しない。リカは悪くないもん」
「ひどく反抗的だな。じゃあ、そんな子は部屋に入ってなさい。部屋で宿題をして、俺が許すまでは出てこなくていい。リカ、返事は?」
「ふんっだ」
 本当は心のどこかで思っていた。返事もしない悪い子だ、って叱られて、抱き上げられて無理やりに部屋に連れていかれて、みっちり叱られて、ぶたれたっていい。うんとうんと叱られて泣いて、素直になって抱きしめられたかった。なのにお兄ちゃまはそうはしてくれず、あたしは部屋に走りこんで中から鍵をかけた。
 宿題はお兄ちゃまのおうちに帰ってからすませる予定だったから、別荘には持ってきていない。
 手先の器用なお兄ちゃまはお料理も上手なのだから、小学校の宿題の雑巾縫いだの工作だのもやってくれた。本当はひとりでやらないといけないんだから、半分だけ、と約束して、かっきり半分、リカの下手くそさに合わせて縫ったり作ったりしてくれた。
「海外の夏休みには宿題なんてないらしいんだから、日本の学校もこんなに宿題を出したら休みじゃなくなっちまうよな。だから、さっさとすませてしまおう」
 小学校のときにはそう言って、宿題はふたりして手分けして早く終わらせた。中学生のリカは反抗期だったので、宿題はいい加減にしかやらなくて、お兄ちゃまには手伝ってとも言わなくなっていた。
「リカ、宿題は?」
 尋ねられても、ふんっだ、って返事したっけ。
 高校の宿題はそれぞれの教科の復習としてのプリントがほとんどで、すこしずつはやっていたし、仕上げはおうちに帰ってからでも間に合う。いよいよピンチになったらお兄ちゃまに手伝ってもらうもんね、と考えていたのだけど。
 こうなったら宿題なんかどうでもいい。もしかしたら、リカは高校は中退するかもしれないんだから、宿題どころじゃないでしょ。
「愛華さんの言ったこと、本当なのかもしれないね」
 お兄ちゃまには彼女はいる。三十五歳にもなっているのだから、結婚したいのに、彼女だって結婚したいに決まっているのに、お邪魔なリカがいるからプロポーズもできない。リカはお兄ちゃまの奥さまになるひとにとってはコジュートなのだし、イジワルするに決まってるし、喧嘩だってするだろうし。
 邪魔なリカがいるからと、お兄ちゃまは彼女にプロポーズもしていない。海辺でのバカンスにだって、彼女と来るのが筋だろうに、リカを連れていったから彼女は怒っている。だから、行きたいと言って電話で泣いていた。
 結婚するつもりでいるんだったら、二十歳ぐらいの子供っぽいひとなのかな。彼女もわがままを言ってお兄ちゃまに叱られて、抱っこされて泣くの? 想像したくないっ!!
 泣いている彼女を抱きしめている金子将一の図なんてものは想像したくなくても、よくない想像はどんどんふくらんでいく。まるで発酵しているパン種みたい。黒い雲がパンの形になって、リカの心がはち切れそう。
 遠縁ではあるそうだけど、血のつながりはほんのちょっぴりの将一とリカ。お兄ちゃまはリカのおばあちゃまと、ママとパパに恩があるからと、五歳のリカを引き取って育ててくれた。
 幼児のころには夜泣きをして、駄々ばっかりこねるリカを、夜中に起きてトイレに連れていってくれたり、ごはんを作ってくれたり、ランドセルを二度も買ってくれたりした。小学生のときにはお兄ちゃまの好きでもないクッキーばっかり食べさせた。
 そりゃあ迷惑だったよね、お兄ちゃま。
 リカは優しいお兄ちゃまに愛されて、可愛がってもらっているからって図に乗って、無理ばっかり言った。すこしは叱られもしたけど、お兄ちゃまはリカのわがままはなんでもかなえてくれた。なんでも買ってくれて、おしゃれもさせてくれた。
「これがほしい? うん、リカに似合うだろうな」
 一緒にショッピングに行って、気に入ったお洋服を買ってもらって、着替えたら、可愛いよ、って褒めてもらって、そのお洋服を着ての帰り道、素敵なレストランに連れていってもらった。
 お祝いごとなんかなくても、おもちゃだってお洋服だって学用品だって買ってくれた。誕生日や入学祝いには、高価なプレゼントをしてくれた。リカはそんなのは当たり前だと思ってなかった? お兄ちゃまがリカのおねだりを聞いてくれるのも、わがままを聞いてくれるのも当然。
 このまんま、大人にならずにずっとこのまま、お兄ちゃまに甘えていたかった。けれど、そんなのは不可能だ。
 いくらかっこいいお兄ちゃまだって、四十歳にもなったらお嫁の来手がなくなるかも。髪の毛が少なくなってくるとか、おなかが出てくるとか、そういうことだって中年になったらあるかもしれない。そうなる前に彼女と結婚して。
 十年間も育ててくれたんだから、おばあちゃまとパパとママへのご恩返しはすんでるよ。ありがとう、お兄ちゃま、さよなら。


3・ミシェル

 来るなと言われたけれど、行きたいとなったら我慢できない。佐竹ジョーイさんとは知らない仲でもないんだし、一度だけ連れてきてもらったから別荘だって知ってるし。
 行ったら将一さんに叱られるだろうけど、まさか帰れとも言われないはず。仕事がすむと軽自動車に乗って、佐竹ジョーイ氏の別荘を目指す。仕事といってもアルバイトで、テレビ局の雑用係。今日は早番だったので、夜には別荘にたどりつけるだろう。
 作曲家の金子将一さんとは、アルバイトをはじめたばかりのころにスタジオで知り合った。背が高くて端麗な容貌をしていて、かっこいいなぁ、と思ったら、なつきたくて我慢できなくなった。
「ミシェルっていうのか。ハーフ?」
「そうなの。日英ハーフでロンドン帰りだから、日本語に不自由なんだよね、ボク」
「女の子はボクとは自称しないものだけど、日本語に不自由だったら仕方ないかな」
 そのときについたちっちゃな嘘はすぐさまばれて、それから将一さんはボクに対してはちょっとだけ荒っぽくなった。
「荒々しいのも似合うよね、将一さん、好きよ。きゃっ、やーん、人前で女の子にぃ」
「誰が女の子だ、誰が」
 そんなワイルドな将一さんも好きよ、と言っては、いつもいなされている。
 最初は邪険にされていたものの、なつくと将一さんも可愛がってくれるようになって、食事に連れていってくれたりもする。彼には妹がいるとも聞いていた。
「妹は高校一年生になって、夏休みにはバイトしたいって言うんだよ。学校で禁止してないんだったらさせてもいいんだろうけど、校則違反してまでバイトってのはね。それで俺も禁じたら、そしたら主婦をやるとか言い出したんだ。それもかわいそうだからどこかに連れていってやろうかと思ってたら、佐竹さんが別荘を貸して下さるとのことで、行ってくるよ」
「いいないいな。ボクも連れてって」
「駄目だ」
 一言のもとに退けられ、すねてみても相手にしてもらえなかった。
 ピアノを弾いて作曲をしたり、パソコンに向かってエッセイを書いたり、が作曲家の将一さんの主な仕事だ。そういう仕事は在宅でもできるので、彼は夏休みというわけでもないらしいが、近頃はボクの働くテレビ局にはやってこない。
 寂しくて電話をしても出てくれなくて、ようやく今日になって電話をくれた。
 妹のリカ、十五歳、リカの友達の樹、十五歳、樹の兄の猛流、二十三歳。さらに親しくなった星斗、十六歳、星斗の姉の愛華、二十五歳。そこに加わった唯一の老人は若い子が好きで、ボクにでも親しく接してくれるのだから、楽しんでいるだろう。
 おじいさんは別としても、ボクだって十八歳でそのお客さんたちとは年齢が近い。将一さんが怒ったら、佐竹さんがとりなしてくれると信じて車を走らせた。
 海辺の別荘地にたどりついたのは夜。敷地内に駐車場があるのだが、門を開けてもらわないと入れられない。一旦車を降りて別荘に歩み寄ろうとしたら、門が開いた。
「……どなた?」
 背の高いかっこいい男だった。
「佐竹さんの別荘でしょ? ボクは佐竹さんにも将一さんにも可愛がってもらってる、ミシェルっていうんだ。日米ハーフのテレビ局アルバイト」
「ああ。テレビの関係の知り合いなんですね。俺は忍野猛流。ごぞんじですか」
「将一さんから聞いてるよ。あなたの目はボクをじろじろ見てるけど、聞きたいんでしょ? ボクは女の子なんだけど、ロンドン暮らしが長くて日本語が上手に喋れなくて、ボクっていうの。女の子がボクっていうと、倒錯してて可愛い、なんて言われるんだよね」
「女性なんですね。失礼しました」
 初対面の人にはいつだって、あなたは女? 男? と問いたげな視線を向けられる。ボクは小柄だけど骨っぽい体型で、ユニセックスな服装をしているからか。あまり親しくないひとの中には、ボクの性別をまちがえている人もいるようだ。
「将一さんか佐竹さんがお招きしたんでしょうから、どうぞ」
「猛流さんはどこに行くの?」
「……実は……ミシェルさんにはわかってしまうだろうから話しますけど、リカちゃんが家出したんですよ」
「リカって将一さんの妹でしょ?」
「そうです。昼間にもめごとがありまして」
 猛流さんが話してくれた。
 昼間はジョーイ、猛流と樹の兄弟、愛華と星斗の姉妹、将一とリカの兄妹。総勢七人でバーベキューパーティをやっていた。リカと樹と猛流が喧嘩になったり、リカと愛華が口論になったりして、最後にリカが愛華の鼻をつまんでぎゅぎゅっとねじったのだそうだ。
「俺はそのシーンはよくは見てなかったんだけど、将一さんがリカちゃんをかなりきつく叱ったんですよ。それでリカちゃんは部屋で宿題をすると言った。将一さんは、そんならおまえは部屋から出てくるな、みたいに言って、リカちゃんは部屋に閉じこもってしまったんです」
 リカが将一さんに叱られると気になって仕方ないらしいのだから、猛流さんはリカを好きなのか。なのだから、部屋にこもってしまったリカを猛流さんは気にしまくっていた。
「樹はことの顛末を見てたんだろ」
 愛華と星斗が帰っていくと、むろん彼らもリカを気にしまくっている、ジョーイさんと樹と三人で、将一さんに聞こえよがしに言い合った。
「あれは愛華さんもよくないと思うな」
「すると、リカちゃんがあんなにきびしく叱られて、お仕置きまでされる必要はないだろ」
「お仕置きったって、リカが勝手に部屋に入ったんじゃねえの?」
「佐竹さんはどう思いますか?」
「そうだなぁ。愛華さんのあの気のきつさは魅力的だし、リカちゃんの可憐な風情も可愛いし、僕は目移りしっぱなしだよ。樹も星斗も別の意味で可愛いね」
「そんな話はしてません」
「そうだったな。うん、リカちゃんはかわいそうだ。将一も許してやれよ」
 聞こえないふりをしていた将一さんは、バーベキューの後片付けをはじめ、他の三人も手伝いながらも、リカの話題ばっかりを繰り返していた。
「将一さんももちろん気になっていたんだろうから、リカちゃんの部屋を何度もノックしてたんですよ。返事がなくて……」
 夕方になってから、将一さんはリカの部屋のドアに声をかけた。
「冷房は入れてるんだろうけど、水分補給はしたほうがいいよ。サイダーかジュースでも飲むか」
 返事なしだったので諦めて、夕食どきになってから再び声をかけた。リカの部屋の窓にはカーテンがかかっていて、外からは覗けない状態になっていたのは、リカがそれほどにすねているからだと、男たちは思っていたらしい。
「宿題ははかどっただろ。メシだよ。リカ、出ておいで」
 ところが、まだ返事はない。鍵がかかっているのでドアは外からは開けられず、樹が庭に回って窓からリカの部屋に潜入した。
「窓にも鍵はかかってたんですけど、開けるコツがあるらしくて、佐竹さんが開けてくれたんですよ」
 それはたぶん、ジョーイさんがここに連れてきた女の子がすねて部屋に閉じこもってしまったときに、窓をこじ開けて潜入するためにじいちゃんが取得したコツだろう。
「樹がリカちゃんの部屋に入り、大声を上げたんです」
 どこにもいないぞーっ!! だったのだそうだ。
「それから大騒動になって、庭も家の中も探してもリカちゃんはいない。外に出たのか、いつだ、ってわけで、手分けして探しにいこうとしてたんです。樹と将一さんは先に出て、俺は佐竹さんとふたりで待機してたんですけど、いてもたってもいられない。佐竹さんには残っていてもらって、俺は遠くを探しにいくつもりでした」
「電車に乗ったかもね」
「駅には将一さんが行ってますから、駅員にも尋ねてるでしょう。樹は繁華街のほうに行ってます。俺は海辺に行こうか。このあたりって探すところはそんなにはないんですよね」
「ボクは一度だけ、遊びにきたことはあるんだけどね」
 誰かの車に乗ってきて、この家で若い子を集めたパーティに出席した。飲んで食べて朝になったら誰かの車で帰ったので、周辺は知らない。十五歳の女の子がひとりで行くところ……お金を持っていれば東京にだって帰れるし、他の土地にだって行けるはずだ。
「なにを思って家出だなんて……ケータイは置いていってるんですよ」
「ボクはジョーイさんと留守番してるから、猛流さんは行ってらっしゃい」
「お願いします」
「車、使う?」
「まずは走っていってきますよ」
 走り出そうとした猛流さんの背中に訊いてみた。
「リカって将一さんとはずいぶん年が離れてるんでしょ。ほんとの兄妹?」
「いえ。それもわかるだろうから言いますけど、血のつながりはごく淡い遠縁だそうで、将一さんがリカちゃんを五歳のときから育ててるんだと聞きました」
「血のつながりがあるんだったら結婚できないよね」
「結婚できないほど血は濃くないはずですよ」
「ふーむ。にしたって、ボクにも望みはあるんだ」
「……いや、それはないでしょ?」
「あるもん」
 振り向きはしないで、猛流さんは走っていってしまった。


4・リカ

 池の水面に写っているのは、あたしの世界で一番好きなひと。彼が片腕で抱いているのは小さな女の子だった。
 白のTシャツにグレイのハーフパンツを穿いた将一お兄ちゃまは、赤いギンガムチェックのワンピースを着た女の子を抱いて、ほら、睡蓮が咲いてるよ、と話している。いいなぁ、あの子、あんなに優しく話してもらって、抱っこしてもらって……そう考えているあたしは誰?
「お兄ちゃま、降ろして」
 おしゃまな口調で言った女の子を、お兄ちゃまは地面に降ろした。
「そっちに行ったら駄目だよ」
「……あのお花、取って」
「池の真ん中に咲いてるんだから、取れないよ。ボートでも出さないと摘めないって、おまえにだってわかるだろ」
「ボート、出して」
「急には無理だよ」
「やだやだぁ」
 ほっぺをぷーっとふくらませた女の子が、池のほうへと走り出した。お兄ちゃまは三歩で追いついて女の子を抱え上げ、優しく言った。
「めっだよ、リカ。落ちたらどうするの? そっちに行ったらいけないって言ったでしょ」
「だーってだって……」
「よしよし、いい子だ。おいで」
 抱かれて運ばれていく。いい気持ち……え? いい気持ち? この子、あたし? お兄ちゃまに片腕で抱え上げられて、よーしよし、なんて言われてるのはあたし?
「駄々はこねるし危険な真似はするし、悪い子だな。五歳にもなってたら、してはいけないことはわかるだろ。ごめんなさいは、リカ?」
 リカ……あたし? 微笑を浮かべたお兄ちゃまに、ごめんなさいでしょ? と言われて、リカは言った。
「やだもん」
「……まったくしようのない子だ」
 苦笑いして、お兄ちゃまはリカを抱いてコテージの中へ入っていった。
「意地を張ってるだけだろ。気持ちではごめんなさいをしてるんだよな。よし、弁当を作ろう」
「お兄ちゃまが作ってくれるの?」
「俺しか作る人間はいないよ」
「リカもお手伝いするの」
「ああ、頼んだよ」
 抱かれたまんまでキッチンへと運ばれていく。お兄ちゃまは腕まくりをした。
「ほうれん草の入った卵焼きと、ウィンナとセロリと握り飯でいいよな」
「リカ、セロリは嫌い」
「俺が食うんだよ」
「鳥のから揚げも食べたいな」
「鳥は買ってないぞ」
「やーん、食べたい」
「ないものはないんだ。駄々をこねると……」
「そんな顔をするお兄ちゃまは嫌い」
 お話をしたり、包丁を握る手に手を添えてもらってほうれん草を切ったり、卵を割ろうとして失敗してそれだけで泣いて、よしよしってなだめてもらったり。
 昨夜は将一お兄ちゃまのベッドで寝たの。夜になるとママが恋しくなって泣いていたら、抱き上げられてお庭に連れていかれて、子守唄を歌ってもらった。リカは気持ちよく夢の世界に行って、朝になったらベッドで目覚めた。
 お兄ちゃまはもう起きていて、リカ、朝ごはんだよ、顔を洗っておいで、って呼んでくれた。保育園の夏休み、お兄ちゃまに連れてきてもらった山のコテージだった。
「すこし歩くと湖があるんだよ。おまえの足でも一時間も歩けば到着するから、景色のいいところで弁当を食おうな」
 お弁当や諸々の入ったリュックを背負ったお兄ちゃまと手をつないで、ハイキングに出発。五歳のリカはじきに疲れて駄々をこねて、抱っこしてもらっていた。
「こうなるだろうとは思ったんだけど、おまえは小さいから、ま、なんとか歩けるだろ」
「パパが言ってたよ。将一くんは力があるんだよなって。お兄ちゃまは力持ちだよね」
「そのつもりだよ」
「うん。お兄ちゃま、がんばってね」
「はいはい、がんばりますよ」
 どこまでもどこまでも、お兄ちゃまに抱かれて連れられていきたい。一生、この腕の中にいたい。だけど、現実がリカを呼んでいた。
「……夢?」
 目覚めればあたしは十五歳のリカ。夢から覚めたくなかったのに。夢の中に監禁されたかった。お兄ちゃまとふたりきりで、五歳のまんまで、大きくならないリカと、年を取らない将一さんとあそこにいたかった。
 だけど、あれから十年もたっちゃったんだよね。リカは義務教育は終えたから、ひとりで生きていける年齢になった。食べもの屋さんの店員のお仕事が見つかるといいな。住み込みの仕事でがんばって、ひとりでやっていける自信がついてから、お兄ちゃまに連絡しよう。
 高校入学祝いに買ってもらった、旅行用の赤いバッグ。お兄ちゃまの普段着のシャツがかっこよかったから、おそろいのを勝手に買ってきたチェックのシャツ。おそろいだなんてお兄ちゃまがいやがりそうだから内緒にしたけど、お兄ちゃまが働いて稼いだお金で買った。
 ごつめのジーンズ、ごつめの靴。お兄ちゃまが買ってくれた腕時計。最後にお兄ちゃまがプレゼントしてくれたのだと思ってもいいはずの、水晶のネックレス。バッグの中身もみんなみんな、お兄ちゃまが買ってくれたもの。
 電車に乗ると駅員さんに覚えられて、お兄ちゃまが探ったとしたらばれてしまうかもしれない。どこに行ったのかを知られたら探し出されてしまう。
 だから徒歩で、東京とは反対の方角を目指した。どこかの小さな都市にたどりついたら、仕事を探そう。当座のお金は持ってるから、アパートだって借りられるでしょ。そう思ってせっせと歩いていたら疲れてしまって、道路沿いの大きな樹の陰で居眠りしてしまっていたみたい。
 バッグの中からペットボトルとカロリーメイトを取り出して、水分と栄養の補給をする。夜中になっていても暑いけど、足が痛いけど、リカ、がんばる。
「……お兄ちゃまがいたらおんぶしてくれるよね。リカは大きくなったから、抱っこして長く歩くのは無理かもしれないけど……ううん、これからはひとりで生きていくんだもん」
 お兄ちゃまはリカを探してる? 猛流さんや樹やジョーイじいちゃんも心配してくれてる? そう考えると帰りたくなる。帰ったらお兄ちゃまにひどく叱られて、きっとぶたれるだろうけど、それでもいいから帰りたい。帰ってお兄ちゃまに叱られて……駄目、リカ、甘えたら駄目。
 考えたら駄目、と自分に言い聞かせても、リカを叱るお兄ちゃまの怖い顔やら、そんなに叱らないで、とかばってくれる猛流さんの声やら、おまえは馬鹿か、と言う樹の表情やら、よかったよかった、と言ってくれるおじいちゃんの笑顔やらが浮かぶ。
 まだちょっとしか歩いてないのに、これからだってのに、弱気になっててどうするの。リカ、ガンパレ。自分を叱咤して歩き続けた。


5・星斗

 安い民宿はエアコンの設定温度をけちっていて、部屋は暑い。海辺だけあって外は風が快適なので、砂浜に出て涼んでいた。
「おーい、星斗」
 そこに走ってきたのが、樹と性別不明の人物。樹と同じくらいの背丈で細くて、おかしな服を着たそいつを、まずは樹が紹介してくれた。
「将一さんの知り合いなんだってさ。リカが言ってた将一さんの電話での話し相手は彼女だったみたいだよ。ミシェル」
 顔は綺麗だが、将一さんの彼女にしてはガキっぽい。将一さんは姉貴が言う通り、ロリコンなのか。それはそれとして、ミシェルは女なのであるらしい。
「よろしくね」
 色気もあるハスキーヴォイスで言ったミシェルと、樹が交互に話してくれた。
 姉貴と俺とが帰ったあとも、リカは部屋から出てこなかった。幾度か将一さんが呼びかけても反応がないので、強硬手段に訴えた。佐竹のじいちゃんは別荘の所有者なのだから、鍵のかかった窓でも開けられるのだそうで、そうやって樹がリカの部屋に入ったのだ。
 そこからは騒然となった。リカがいなくなっていた。ケータイは置きっぱなしで、バックがひとつと、細々したものが消えていると将一さんは言った。
「それからみんなでリカを探してるんだ。晩飯も食ってないから俺は腹が減って、コンビニで握り飯を買って食いながら捜索してたんだよ。それでもリカはどこにもいない」
「そこにボクが来たの。最初に猛流さんと会って、別荘に通してもらった。他のひとたちはリカを探してて、ボクはジョーイさんと留守番してたんだけど、ジョーイさんが言うんだ。おまえもリカを探してこいって。それで出てきたら、樹くんに会ったんだよ。ボクもおなか減った」
 女の子がボクと言うのも、ミシェルには似合っていて面白かった。
「うん、じゃあ、食えよ」
 こっちは夕食はすんでいたが、夜食のつもりで持っていたポテチを与えると、樹もミシェルも手を伸ばしてあっという間に完食した。
「将一さんは駅に行ったんだけど、なんの情報もないみたいだよ。佐竹のじいちゃんが連絡係をしてくれてるんだけど、目ぼしいネタはなんにもないんだ」
「リカちゃん、どこに行ったのかな」
「あんたのせいもあるんだぜ」
「どうしてボクのせい?」
 樹はすっと目をそらし、ミシェルは言った。
「そうなんだ。リカってばボクに妬いてるの? ボクは将一さんさえOKしてくれたら、彼と結婚したっていいんだよ。そしたらリカちゃんとだって仲良く暮らせるから、大丈夫」
「あんたはそう思ってても、リカはそうは思えないんだ。きっとそうだ。だから家出なんかしたんだよ。その上に愛華さんだって……」
「うちの姉ちゃんもひでえよな。うん、よし」
 こんなときには大人の知恵を借りたほうがいい。俺はケータイで姉貴を呼び出した。
「リカちゃんが家出した? 馬鹿な子だとは思ってたけど、ほんとに馬鹿だったのね。海辺にいるの? 私も行くから待ってて」
 仕事はすんでいるのだから、姉貴はマンションで暇していたのか。間もなく海辺にあらわれた。ミシェルを紹介し、事情を説明すると、姉貴は考え込んでから言った。
「どこに行ったのかも不明なのね。人騒がせな子だわ。うーん、放っておくわけにもいかないんだろうし……どうするべきか。警察に捜索願は出したの?」
「徹底的に探しても見つからなかったら、そうするしかないんだろうな」
 俺が言うと樹は青ざめ、ミシェルは言った。
「ニュースになっちゃうんだよね。将一さんもジョーイさんもまあまあの有名人だしさ。あ、そだ」
 全員でミシェルに注目した。
「リカって可愛い子なんでしょ。ジョーイさんってスケベじじいだから、リカちゃんを気に入ってたんだよね」
 当然、全員がうなずいた。
「そしたらジョーイさんが怪しいかもね。あのじいちゃんがリカをどこかに隠してるんじゃないかな。よし、ボクが拷問してあげよう」
「じいちゃんをどうやって拷問するんだ?」
 樹が尋ね、ミシェルが応じた。
「お膝に乗っかってくすぐってあげるんだよ。その攻撃にはジョーイさんは弱いんだ」
「……あなたは将一さんの彼女だって?」
 姉貴が尋ねると、ミシェルはにっこりこっくりした。
「……彼にはその趣味はないと思うけど……」
「将一さんにロリコン趣味があるって言ったの、姉ちゃんだろ」
「それはあるかもしれないけど、で、ミシェルって将一さんと結婚するって?」
「うんっ」
「無理だと思うけど……」
「ボク、十八だよ。結婚はできるよ」
「できなくはないのかなぁ。でもね……うーん……ま、そんなことはこの際は瑣末事だよね。リカちゃん……手のかかる子だな。将一さんも大変ね。おまけにこんなのまで……」
 こんなのとはミシェルなのだろうが、言われた本人はけろっとしていた。


6・樹

なにか思いついたら連絡してもらうことにして、愛華さんと星斗とは海辺で別れた。リカを思うと空腹がまぎらわせる、わけではなくて、ますます腹が減る。眩暈がして倒れそうになってきたので、ミシェルとふたりで一度、別荘に戻った。
「メシはできてたんだよな。ポテチなんか食ったらよけいに腹が減ってるのを思い出したよ。今夜は将一さんが作ってたんだから、まともな食いもの……」
 ダイニングキッチンには鍋があって、チキンのなんとか煮ができていた。冷蔵庫には冷製パスタとサラダも入っている。ミシェルが鍋を火にかけ、ふたりで夕食にした。
「樹はバーベキューも山ほど食ったんだろ。まったくよく食う奴だな」
 じいちゃんもキッチンに入ってきて、俺たちのむかい側にすわった。
「僕は食事なんかする気にならないよ」
「食べないと身体によくないよ」
「ミシェル、ありがとう。しかし、こんな状態では食べられない。おまえたちのその様子では、なんにもわからなかったんだろ。猛流も将一も情報ナシだ。僕は思うんだよ」
 頭を抱えて、じいちゃんは続けた。
「リカちゃん、ヒッチハイクしようなんて気になってないだろうな。そんな軽率な真似をしたら……うぎゃ……やめてくれぇ」
「ヒッチハイクしたって、無事って場合もあるよ。女のひとの車だったりしたら大丈夫でしょ」
「いいや、ミシェル。女だって剣呑だよ。その女が悪の組織の一員だったりしたら、リカちゃんは外国に売られてしまう」
「ジョーイさん、変なドラマの見すぎ」
「変なドラマではなくて、現実にあるんだぞ」
「ジョーイさんは裏社会も知ってるんだろうけど……よくないほうに考えるのはやめようよ」
「そうだな」
 冷たいパスタだから麺が伸びていてもうまい。チキンもサラダもうまい。将一さんは料理がうまい。俺は夢中で食いながら、じいちゃんとミシェルの会話を聞いていた。
「リカちゃんは可愛い女の子なんだから、電車に乗ったら駅員の印象に残るだろ。将一が言うには、若い娘が電車に乗ったという記憶のある駅員はいないんだそうだ。繁華街のほうにも海のほうにもいない。これはもう、誰かの車に乗ったとしか考えられないじゃないか」
「どこかに隠れてるってのは?」
「この地域のすべての物陰を探すのは至難の技だろうけど、そういうこともあるんだろうか。リカちゃん、そうなんだったら出てこいよ」
 白い髪がこの数時間で減ったように見える。じいちゃんが禿げたらおまえのせいだぞ、リカ。
「そうするとさ、ボクがここにいるのもよくないのかな」
「なぜ?」
「リカが妬くから」
「……うん、まあ、そうかもしれないけど……」
「海辺ってロマンティックだから、潮風の中で将一さんがボクにプロポーズしたくなったりして、そうされたらボクはOKするよ。そしたら、リカが帰ってきたとしてもまた家出、しない?」
「家出っていうよりも、将一はおまえにはプロポーズしないよ」
「するかもしれないじゃん。ジョーイさんって偏見を持ってるんだね」
「偏見といえば偏見かもしれないが……しない。絶対にしない」
「ジョーイさんは?」
「僕には妻が……」
 彼女もいるんじゃなかったか? スケベな浮気じいさんか。突っ込んでやろうかとも思ったのだが、メシを食うのに忙しいし、今はそれどころではないのでやめておいてやった。
「奥さんがいなかったとしたら、ジョーイさんもボクにプロポーズしたかもしれないでしょ」
「ミシェルは僕のタイプではない。若すぎる。樹とのほうが似合うだろ」
「そうだね。将一さんにふられたら、樹と結婚しようね」
 パスタが喉に詰まりそうになって、俺は焦って水を飲んだ。
「……うは。俺はまだ十五歳だっ。年上はいやだよ」
「年上だからって偏見。じいさんも若いのも偏見ばっか。だから男って嫌い」
「将一も男だぞ」
「男の将一さんは好き」
 夢見るような瞳をしているミシェルを見ていると、リカとは会わせたくないと思う。いや、会ったとして、つかみ合いの喧嘩になったとしても将一さんが止めてくれるだろうから、リカ、早く帰ってこい。リカを想いながら、ミシェルのほうは喋りながら、ふたりともしっかり食った。
「ミシェル、もう一回行こうか」
「そうだね」
「片付けはじいちゃんがしておいてやるよ」
 拷問するとか言っていたのはジョークだったようで、ミシェルはおかしなことは言い出さず、椅子から立ち上がった。
 こいつもいい奴だ。しかし、女の子が夜中に出歩いてもいいのかな。俺がボディガードすればいいのだろうけど、俺では暴漢撃退はつらいだろうし……将一さんとくっつけてはよくないのだったら、ミシェルは兄貴とペアになるのがベストだろうに。
 でも、ここにはミシェルと俺と、じいちゃんしかいないのだ。俺はじいちゃんとでも取っ組み合いしたら負けそうだけど、ミシェルを守ってやろう。そう決意して、外に出ていこうとしていた。
「樹、ミシェル、待て」
 渋いメロディはじいちゃんのケータイの着メロだった。
「……いたか、見つかった、樹!! ミシェルっ!!」
 吠えるように叫んでから、じいちゃんは椅子の背もたれにもたれかかった。ケータイが手から落ち、俺が拾い上げた。
「俺がリカを乗せて車で来た道路ですよ。佐竹さん?」
「将一さん、じいちゃんは気を失ったみたい。ミシェルが介抱してるよ」
「ミシェル……」
 長い沈黙のあとで、将一さんの声が聞こえてきた。
「樹だな。佐竹さんは大丈夫か? 脳卒中じゃないよな」
「嬉しくて気が遠くなっただけみたい。大丈夫だよ」
 よかったね、よかったね、と言い合って、じいちゃんとミシェルが抱き合っている。その声が聞こえたようで、将一さんは低く笑った。
「些事は後刻にしよう。俺たちが車で来た道路、あそこをリカは歩いていたらしいんだ。東京に帰ろうとしたのか、どこに行こうとしていたのかは聞き出してないらしいけど、歩いていたのはたしかで、海辺の町から二十キロほど離れた町で警察に保護されて、俺のケータイに電話があったんだ。俺は車を運転する気力がないから、タクシーに乗ってる。行ってくるよ」
「リカはそこまで歩いていったの?」
「そうかもしれない。詳しくはリカに会ってからだ。猛流にも伝えてくれ」
「ミシェルには?」
「来るなと言っただろ。俺の命令を聞かない奴は……そう言っておいてくれ」
「……了解」
「帰ってから詳しく報告するよ」
 ありがとう、樹、その声を残して電話が切れた。


7・リカ

「馬鹿」
 言われたのはそのひとことだけ。叱られもせず、叩かれもせず、リカはただぼーっとしていて、お兄ちゃまは片腕にあたしを抱いたままで、警察の人と話したり、調書を書いたりしているようだった。
 短いのか長いのかもわからない時間がすぎて、町の警察署から出ていく。お兄ちゃまはどこかに電話をかけたり、誰かとお話ししたりしていて、いろんなことを全部ひとりでやってくれた。そして気がつくと、あたしはお兄ちゃまに抱かれていた。
「ここ、どこ?」
「夜明け前なんだから、とりあえず休憩してから帰るんだよ。ここは警察が手配してくれたビジネスホテルだ。リカ、寝るか?」
「リカは寝てたから……」
「そのようだな」
 ただただ、歩いていた。足が痛くても疲れても、汗が流れてもおなかがすいても、気にしないようにとつとめて機械的に歩いていた。
 とうとう体力が保たなくなってきて、リカはEP切れだよぉ、と呟いたときに、道路をそれれば町があると気がついた。町とはいっても田舎のようで、暗い。外灯のあかりに照らされた公園を見つけて入っていって、ベンチにすわったら寝てしまったのだろう。
 おそらくは誰かがリカを見つけて、行き倒れの少女かと思って警察に通報した。あたしはぼんやりしたまんまで、お兄ちゃまのケータイ番号を口走ったのか。お兄ちゃまが迎えにきてくれた。それだけしか理解していなかった。
「歩き続けてたのか。それで、どこに行くつもりだった?」
「大きくはない都市」
「都市でなにをするつもりだった?」
「アパートを借りて仕事を見つけて……お兄ちゃま、なにを書いてるの?」
 手帳にお兄ちゃまが書いているのは横棒、「一」という字だった。
「いいから続けろ。なんのために?」
「リカは中学校は卒業してるんだから、ひとりで働いて生きていくの」
「どうして急に?」
「前から思ってたよ。リカは高校を卒業したら独立するつもりだった。だけど、あと三年たったらお兄ちゃまは本当のおじさんになっちゃって、結婚できなくなるかもしれないから」
 一の字が「正」の字になっていっていた。
「彼女はいるんでしょ?」
「俺に結婚させてやるために消えようとしたのか」
「お兄ちゃまに言ったら止められるもん。お兄ちゃまがリカを育ててくれたのは、おばあちゃまとパパとママへの恩返しだったんでしょ。十年も育ててもらったんだから、それでいいの。二十歳になったら遺産がもらえるそうだから、それ、ちょうだいね。ねえ、その正しいって字はなんなの?」
 教えてくれずに、お兄ちゃまはびしりっとした調子で言った。
「甘い」
「リカはだから、お兄ちゃまに甘えるのはもうよそうって……」
「そんな甘い考えで世の中を渡っていけるはずないだろ。言い出すと昼になってしまいそうだからひとことだけ。どうしてもそうしたいんだったら、周到に準備を整えてからにしろ。行き当たりばったりで家出して、十五歳の女の子が……男の子だって同じだよ。アパートを貸してくれる大家がどこにいるんだ。警察の世話になるのがオチだろ」
「……だって……」
「現に警察に厄介かけたんだろうが」
「リカはお兄ちゃまの厄介者で……」
「それ以上言うと、たった今実行するぞ」
 ぱたんと手帳を閉じて、お兄ちゃまは言った。
「よく考えてみなさい。俺は佐竹さんや猛流たちに改めて報告してくるから、ベッドに横になって考えて、考えているうちに眠ればいいよ。俺は一晩くらいの徹夜は平気だから、朝になったら帰ろう」
「お兄ちゃま、ここに……」
 いて、と言うのは甘えてること? 甘えてはいけないから我慢して、ベッドに寝そべった。お兄ちゃまが部屋から出ていく。もうひと部屋取っているんだろうか。十五歳になったリカは、男性とは同じ部屋では眠れない。
 行き当たりばったりはたしかだったから、そんな計画は成功するはずもなかったのだろう。失敗してよかった、そう思うのが甘えている証拠。だけど、だけど……泣き寝入りしてしまったらしくて、夢を見た。
 白い花婿衣装のお兄ちゃま。その腕に腕をからめた小柄な花嫁さんは誰? 顔が見えない。お兄ちゃまが結婚するまで……それまではリカをそばに置いて。お兄ちゃまの奥さんにイジワルなんかしないから、悪いコジュートにはならないから、その女性の義妹にして。
 そうだよね、お兄ちゃまが結婚したら、リカはお兄ちゃまのおうちから出て独立すればいい。あと何年の猶予があるんだろ。
「リカ、帰ろうか」
 ドアが開いて、お兄ちゃまが入ってきた。
「寝てたのか。家出計画は頓挫してありがたかったよ。シャワーを浴びて着替えなさい。着替えは持ってきてるんだろ」
 素直にはいと返事をして、お兄ちゃまの言う通りにして、タクシーに乗った。
「タクシーだったらそんなに時間はかからないから、朝食は別荘に帰ってからだな」
「うん。ねえ、お兄ちゃま、あの正しいって字は?」
 バックシートに並んで腰かけていたお兄ちゃまが、あたしの耳に口を寄せた。
「正の字が三つ。十五回だな」
「だから、なに?」
「東京の家に帰ってからにしよう。別荘だと邪魔者が多いから、止められるもんな」
「十五回……」
 もしかしたらお仕置き? 十五回叩かれるのだとしたら……?
「十五分の正座とか?」
「十五分ではなく、十五回だといっただろ」
「やーん。そんなことをしたらまた家出するからっ」
「やってみろ。今度家出なんかしたらとっつかまえてただちに……」
 運転手さんの耳を気にしたのか、お兄ちゃまはそこで言葉を切ってにやりとした。それからもう一度、リカの耳に口をつけた。まるでキスみたいだった。
「おまえがいないと俺は……」
 小さな小さな声で言ってくれて、胸がいっぱいになった。
「別荘にはミシェルって奴が来てるんだよ。そいつは俺になついてて、男のくせに結婚しようとまで言う。おまえにもなにを言うかわからないけど、適当にあしらっておけ。それよりも佐竹さんと猛流と樹には、なんて言うのかわかってるな」
「……心配かけてごめんなさい」
「よろしい」
 ミシェルなんてどうでもいい。あたしにはお兄ちゃまの言葉が大切。おまえがいないと俺は……その続き、ふたりっきりになったら言ってくれる? 
「運転手さん、窓を開けてもいいですか」
「開けましょうか」
「リカ、エアコンが寒いのか」
 そうじゃなくて、潮風を感じたいから。運転手さんが開けてくれた窓から空気を吸い込むと、潮の香りがする。ジョーイおじいちゃんの別荘が、海が近づいてきている。リカの心には、お兄ちゃまがくれた言葉が潮騒のように聞こえ続けていた。
 

11/8/26
ひとまずEND

 

 



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内緒の完結篇

乃梨香ちゃん

コメント、メッセージ、RTなど、毎度ありがとうでーす。
勉強中なのに悪いと思って、
お知らせもしなかったのだけど、
読んでもらって過分なお言葉、感謝してます。

もうこれはとことん「ベタ」で貫き通しました。
私のことだから番外編とか書きたくなるかもしれないし、
内緒の短編も書いてますので、
またアップしたら読んでやって下さいね。

よろしくお願いしま~すm(_ _)m

勉強の合間?(夫のに言わせると、どっちが、合間や・・・(^_^;))
に読ませていただきます~ヨロシクオネガイシマ(シ`o´)シュ!!
m(_ _)m… 

リラックスクス

リラックスタイムに私の小説、
読んでもらえると嬉しいです❤
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