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小説240(真っ赤な林檎にお願い)

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フォレストシンガーズストーリィ240

「真っ赤な林檎にお願い」


1

 ひとりぼっちでパーティに出席するなんて、寂しいし、俺では壁の花にもなれないから、ごちそうをいただいてさっさと帰ろう、そのつもりで出席した業界のパーティだった。このたぐいのパーティには本橋さんか乾さんが出席するのが常なのに、今夜は俺が暇だったので、社長に命じられたのだ。
「おや、本庄さん」
「こんばんは。ご活躍ですよね」
「フォレストシンガーズは売れましたよね。私も嬉しいわ」
 意外にも俺の周囲を人々が取り囲む。彼らは俺を持ち上げてくれ、みんなしてお世辞を言ったり、フォレストシンガーズも大物になりましたなぁ、と言ったりして、俺はどんな顔をすればいいのか、なんと反応すればいいのかと困っていた。
「僕は心から信じていたんですよ、フォレストシンガーズはいずれはスターになると」
 そう言った男……誰だったかな? 見た顔だな、とは思ったのだが、どなたでしたっけ? とは訊きづらくて、俺は、はあ、どうも、と呟いた。
「僕の予想通りだったね。でしょ、本庄さん?」
「いえ、我々はスターってほどでもありませんから」
「謙遜はしなくていいんですよ。で、本庄さん……」
 希代の鈍感男、シゲさん、幸生に言わせるとそうなる俺とは正反対に、世の中には敏感な男も多いものだ。乾さんタイプの敏感人間なのか、彼は俺の顔色を読んで、こいつは僕を覚えていない、と察したのだろう。名刺をくれた。
「テレビSVの金山さん、でいらっしゃいますか」
「転職しましてね、以前はテレビKNにいたんです」
 いずれもケーブルテレビだ。俺たちは地上波放送には昔も今もほとんど出演しないが、ケーブルテレビの歌番組にならば出してもらった。その縁でお世話になったのか。彼の役職はチーフプロデューサー。けっこうえらいさんだった。
「七、八年前でしたかねぇ。うちの番組にフォレストシンガーズに出てもらいまして……」
「そのせつはどうもありがとうございました」
「無名のヴォーカルグループだったあなた方を、僕は全力で応援しようと決めた。それほどに素晴らしい歌を歌う人たちだと見込んだからですよ。そうはいっても当時の僕もしがないサラリーマンテレビマンだったのですから、無力でした。無力な僕が心血を注いで、フォレストシンガーズのために尽くしたんです。自分の手柄を詳しくは言いませんけどね」
「はい」
 陰になり日向になりして、俺たちのバックアップをしてくれた人も大勢いる。金山さんの名前も、なにをしてくれたのかも思い出せなくても、頭の下がる思いのままに頭を下げた。
「僕が努力したおかげもあって、当時のあなた方のシングル曲が、僕の地元のFMラジオのヒットチャートではベスト10に入ったんですよ」
「そ、そうなんですか」
「限られた地域でしたから、ご本人たちは知らなかったのかな。そうなんです」
「ありがとうございます」
 過去の快挙ではあるが、感激した。テレビとラジオが密接につながっているってこともあるのだろう。社長も知らなかったはずだから、報告してあげよう。いまだベスト10にチャートインするほどのヒット曲のない俺たちとしては、もっと早く教えてほしかったほどだった。
「僕の局にノブ・日高さんが来られたときには、あなたたちの話もしました。日高さんに目をかけてもらったら、あなたたちのためになると思ってね。日高さんとはお知り合いですか」
「共演させてもらったことはあります」
「最近でしょ?」
「昔からありました」
「ああ、そうですか」
 すこし口を閉じてから、金山さんは言った。
「もとダーティエンジェルスのメインヴォーカリストで、最近はソロで活躍しておられる、ヤスシさんは知ってますよね」
「はい」
「そのヤスシさんにも、フォレストシンガーズのお願いをしましたよ」
「そこまでして下さったんですね、ありがとうございます」
「今でこそフォレストシンガーズは、ヤスシさんなんかよりも格上でしょうけどね」
「とんでもありません。僕はロクさんと……」
 先だって、もとダーティエンジェルスのベースヴォーカリストのロクさんに誘われて、ベースマンばかりのグループに加えてもらった。マニアックだと言われたので、さほどに宣伝はしなかったから、金山さんは知らないのだろうか。
 その話をしようとしていたら、金山さんが声を低めた。なにを言っているのか聞こえなくて顔を寄せると、耳元で言われた。
「僕はサイドビジネスもやってましてね、大きな声では言えないんですけど、音楽的なビジネスです。本庄さん、協力していただけませんか」
「はあ、どのような?」
「ものは相談ですが……あのね……」
 なおさら声を低める金山さんが、俺の腕を引っ張る。じりじりっと移動して、俺たちは会場の隅っこにいる。そこからどこかに連れていかれそうになっていたら、女性が近づいてきた。
「金山さん、あなたがどうしてここにいるの?」
「あ、は、いえ、昔のよしみで」
「別にいてもかまわないんだけど、本庄さんになにを言ってたの? 変な壺なんかは売らないでね」
「そんな商売はやってません。別のビジネスです」
「なんのビジネス? 詐欺まがいじゃないでしょうね」
「ちがいますよ。朝倉さんはきついんだから」
 変な壺だの詐欺まがいだの、なんの話だろ。俺が首をかしげているうちに、金山さんはどこかに逃げていってしまった。
「彼の名刺、見せていただけます?」
「あ、はい」
「彼があなたに名刺を渡して、得々と自慢話をしてるのは、ちらりと見えたし聞こえたの。彼は以前は私にも、昔のよしみじゃないですかって、霊感商法みたいなグッズを売ろうとしたのよ。あれからもこういうパーティになると、その場にいるんだな。こんなの、昔の名刺ですよ」
「昔の、ですか」
「あんまり言いたくはないけど、彼は不祥事を起こしてテレビ業界は懲戒免職になりました。私は以前は彼の上司だったんだから、よーく知ってます。本庄さん、私が誰だか知ってくれてる?」
「えと……すみません」
「それほどつきあいはありませんものね」
 こういう者です、と彼女がくれた名刺には、テレビSV、チーフプロデューサー、朝倉保子、とある。金山さんと肩書きが同じだった。
「昔の名刺を改竄したのかしら。彼はチーフじゃなくてただのプロデューサーだったわ。サイドビジネスではなくて、あなたをだまそうとしていた仕事のほうが、彼の現在のビジネスなのよ。なんて誘われたの?」
「途中で朝倉さんが助けて下さいましたから、なんの話かまでは聞いてません」
「よかったね」
「はい、助かりました」
 長身の中年美人である朝倉さんは、俺に妖艶な笑みを投げかけて離れていき、別の男が話しかけてきた。
「あそこまで言わなくてもいいのに」
「は?」
「懲戒免職じゃないよ。金山さんは自主退職だ。なにやらビジネスをやってるらしいけど、霊感商法じゃないだろ。朝倉さんと金山さんは以前にもめてたらしいんだ。ややこしいね」
「そうなんですか」
「だけど、金山さんは昔は言ってたな。フォレストシンガーズ? あんな奴ら、顔はまずいしださいし、売れるわけねえだろ、って。俺はこの耳で聞いたよ」
「あの、俺はなにを信じればいいんですか」
「自己判断でしょ。本庄さんってお人よしらしいから」
 彼が誰なのかも俺の記憶にはなかったのだが、もう名刺はいらない。テレビ業界は一般企業とはちがうのだとしても、ややこしい世界だ。俺はそんな世界に首を突っ込みたくない。そのあたりでこそこそっと会場から出ていった。
 水溜りにでもはまった気分だったので、会場から出て歩いていた。それから一時間ばかりが経過している。食事は金山さんと話す前だったのだから、ちゃんと食ったのだ。消化不良を起こして腹痛……いやいや、歩いたせいで腹が減ってきた。
「ああ、ここは」
 「向日葵」と看板が出ている。俺も二、三度は連れてきてもらったことのある、お茶も食事も酒もなんでも来いの店だ。乾さんも本橋さんもよく来ているそうで、俺たちの母校の合唱部の先輩たちも、ひいきにしていると聞いていた。
「あれぇ? ねえねえねえ……」
 店に入っていくと、奥まったテーブル席から視線を降り注がれた。女性がふたり、男性が三人いる。男性は全員が大きくて、女性もふたりともに背が高く、ひとりは細身、ひとりは太め。みんな大きいなぁ、とすわっていてもわかった。
 そのうちの太った女性が、隣の男性をつついている。五人でこしょこしょ内緒話をしている。俺は彼らとは離れた席にすわり、チキンカツとライスをオーダーした。
「あのあのあの、失礼ですが」
 すらりっとした長身で、整った顔をした男性が声をかけてきた。他には客はいなくて、むこうのテーブルから注目されているのを感じる。
「はい」
「フォレストシンガーズの本庄さんでいらっしゃいますか」
「あ、はい」
 売れなかったころには、街でファンの方に話しかけられるってどんなだろ、と想像していた。現在では俺以外のメンバーには時としてそんなことがあって、内緒だけど、わずらわしいときもあるよな、などと聞く。俺にも皆無ではないものの、照れてしまってもごもご返事した。
「そうですけど、あの……」
「プライベートなお時間の邪魔をするつもりはないんですけど、俺たち、本庄さんの先輩に当たるんですよ。合唱部の……」
「ええ?」
「俺は斎藤一志、むこうにいる奴らも全部、合唱部出身です。本庄さんよりは七つ年上に当たるんだから、あなたは知らないでしょうけどね」
 ○○大学でしょ、と彼は言う。俺は立ち上がった。
「あなただとか本庄さんだとかおっしゃらないで下さい。シゲ、おまえと呼んで下さい。斎藤さんって……高倉さんからお聞きしたことがありますよ。高倉さんが一年生のときのキャプテンだった斎藤さんですか」
「高倉はレコード会社のプロデューサーなんですよね。俺はあいつの記憶にあるんですか」
 フォレストシンガーズの産みの親とも言われる高倉さん。本橋さんや乾さんから見ても神に近い方を呼び捨てにする、高倉さんの先輩の斎藤さん……無条件で尊敬したくなった。
「ご迷惑ではなかったら、俺たちの席にいらっしゃいませんか」
「はい、行かせていただきますから、敬語は遣わないで下さい」
 平身低頭してしまうのは、合唱部時代に叩き込まれた先輩、後輩のけじめゆえだ。一年年上なだけの本橋さんや乾さんにだって、俺はいつもへりくだっている。それだけ本橋さんと乾さんを敬っているからであって、先輩甲斐のない俺は、幸生や章には軽く見られているのだが。 
 合唱部の教育に加えて、俺の性格のなせるわざもあるのだろう。七つも年上の先輩となると、ははーっ、ってなものだ。斎藤さんに伴われて彼らに同席させてもらうと、太った女性が言った。
「小宮山加世です。本庄さんに会えたなんて嬉しい。あとでサインして下さいね」
「斎藤アリスです。私にもサイン、してね」
 は、はいっ、と俺はかしこまって返事をし、男性たちも言った。
「小宮山速人です。本庄さんって強そうだな。あとで相撲、取らない?」
「俺ともやろうよ。荻野義男です」
「斎藤一志です。じゃあ、本庄くんに乾杯」
「あ、ありがとうございます」
 パーティ会場では正直、食ったものが消化不良を起こしそうだった。にも関わらず消化不良ではなく消化して空腹になったのは俺らしいのだが、腹が減ってこの店に入ってきてよかった。
 つまり、斎藤さんとアリスさん、小宮さんと加世さんは夫婦なのだ。四十路になっている彼らは何年か前に結婚して、子供もいると話してくれる。俺の子供の質問もされて、子育て話になっていると、荻野さんが言った。
「俺は独身だからさ、そういう話はつまんねえんだよ。本庄さん、可愛い子を紹介して」
「荻野くん、さもしいおねだりはやめなさい」
「加世はうるせえんだよ。切実なんだからな」
「本庄、可愛い子を紹介しろ、って言って下さい」
「いやぁ、そうは言いにくいよ」
 頭をかいて荻野さんは笑っている。斎藤さん夫婦は長身の美男美女カップル。斎藤さんはアクション俳優のようで、アリスさんはファッションモデルのようだ。こんな美男美女が、俺たちが入部する何年も前には男子部と女子部のキャプテンだったのか。
 小宮山さんは力士型体型。がっしりどっしりしていて、相撲を取ったら俺が負けるだろう。加世さんは夫に似た体格、と面と向かっては言えないが、男子部と女子部に相撲取り体型のひとがいたとは、それはそれですごい。
 荻野さんは格闘技かラグビーの選手のようだ。俺たちの時代にも長身男子も長身女子もいたが、ここまでたくましい人たちはいただろうか。皆実さんなんかはたくましいとはいっても、小宮山さんや荻野さんと較べればひょろっとして見えただろう。
「可愛い女性は心がけておきます。ええと、高倉さんと同じ学年の先輩でしたら、斎藤さんたちはごぞんじなんですね」
「星とか渡嘉敷とか、そのあたりはきみは知らないだろ」
 お願いしたおかげで言葉遣いを砕いてくれた、斎藤さんの気持ちもありがたかった。
「本橋さんや乾さんに、話は聞いてますよ。我々は先輩方とはお会いしてませんよね」
「美江子さんに会ったんですよ」
 アリスさんが言った。
「一志と私のなれそめは、フォレストシンガーズのデビューシングルだって話もしたの」
「そうなんですか。感激ですっ」
「……本庄くんって可愛いね」
 うふっと笑って加世さんが言う。あなたも可愛いですよ、と幸生や乾さんだったら言うのだろうが、俺には言えない。男を可愛いと言わないでほしいとはなおさら言えなくて、照れ笑いでごまかした。
「本庄くんは食事はまだだったの?」
 こっちに運んでもらったチキンカツとライスをぺろりと平らげると、加世さんに聞かれた。
「まだ足りないみたいな顔してる。私たちもこの体格だから、よく食べるんだよね。もっと頼もうよ。アリスだって痩せの大食いだもんね。本庄くんはなにを食べたい?」
「ここのチキン、うまいですね。空揚げが食いたい。いいですか」
「うんうん、空揚げ、おいしいよぉ」
「俺は大盛りチャーハン」
「一志ったら、これからチャーハン?」
「アリスの作ったメシはまずいのか。斎藤、気の毒にな」
「うちはメシの支度は俺もやらされてるんだよ。俺の作ったメシがまずいんだよ」
「一志、やらされてるとはなに?」
「うわわ、ごめん」
 四十路になっていても、学生時代の仲間たちが集まるとこうして大騒ぎなのだ。微笑ましく見ていると、加世さんが俺のグラスにワインを注いでくれた。
「ありがとうございます」
「斎藤くんはオーディオメーカーの技術者で、アリスは母校の文学部准教授。荻野くんは出版社の営業マンで、うちの旦那と私は保育所に勤めてるの。年に何度かはこうやって飲んで食べてお喋りするのよ。同期会っていうのか。他の人が加わってたりもするんだ」
「小宮山さんは保父さん……いや、近頃は保育士って言うんですよね」
「うん。私たちは自営業みたいなものよ。雇われてるんだけど、夫婦そろって同じ職場で働いてるんだから」
「うちの息子たちも、小宮山さんの保育所にお願いしたいな」
「ぜひそうしてよ」
 やや遠いので実現しないかもしれないが、そうなったらいいなぁと思う。つまり、こっちの夫婦は俺の両親のように、四六時中顔を合わせて働いているのだ。うちの両親はわりに寡黙だが、小宮山さんたちは賑やかな保育士さんカップルなのだろう。
 大きな男女の保育士さんにまとわりつく、可愛い子供たちを想像すると頬がゆるむ。うちの広大と壮介も、彼らに預けたい。帰ったら恭子に相談してみよう。
「うちの妻はもとテニス選手で、子育てのために引退したようなものなんですけど、子供たちがもうすこし大きくなったら、ラジオに出演してもらえませんか、なんて話も来てるんですよ」
「奥さんが働くのは賛成?」
「妻がそうしたいのならば、俺は反対はしません」
「そりゃそうよね。うん、お待ちしてますから、ぜひうちの保育所に息子さんたちを入れてあげて。三人目も四人目も五人目もどうぞ」
「俺は七人ほしいんですけど、そんなに産むのはいやだと言われます」
「それもそうよね」
 豪快に笑う加世さんと話していると、荻野さんが言った。
「小宮山、加世が浮気しようとしてるぞ」
「加世ちゃん、俺を捨てないで」
「さあて、どうしようかな。あんたたち、酔ったでしょ。ねえねえ、アリス?」
 加世さんがアリスさんと顔を寄せ合ってなにやら相談し、アリスさんが立ち上がった。
「この近くに公園があるの、知ってるよね。美江子さんに聞いたわ。昔のフォレストシンガーズって、どこかの公園で練習してたんでしょ。本庄さん、公園で歌って聴かせて」
「俺でよろしければ……」
「フォレストシンガーズのアルバムでは、本庄さんのソロってほとんどないのよね」
「本庄さんはベースマンだもんね」
 アルバムについても知っていてくれるようで、俺は今夜は感激しっぱなしだった。
「……あの、支払いは……」
「おまえのほうが稼いでるからって、生意気言ってんじゃねえぞ。先輩にまかせておけ」
 敢えてであろう、荒々しく言う斎藤さんに深く頭を下げた。
 公園で歌を歌う。俺だってがんばれば高い声も出るから、フォレストシンガーズのレパートリーの、俺以外の誰かがソロを取っている歌を俺の声で歌う。公園で歌って迷惑がられたり、無視されたりした苦い追憶も蘇る。
 昔の思い出には苦いものもあるけれど、公園にはいい思い出もいっぱいいっぱいある。恭子と手をつないで歩き、キスをしたとか。本橋さんと砂場でキックボクシングごっこをしたとか。俺がだっさい歌を作って、みんなに失笑されたのも、今となっては笑い話だ。
「先輩方も合唱部でしょ。全員で歌いましょうよ」
 フォレストシンガーズの歌を何曲か歌い、盛大な拍手をもらってお辞儀をすると、小宮山さんが言った。
「キャプテン、なにを歌おうか」
「男はバリトンとバスばっかだけど、女がいるんだよな。いいハーモニーができそうだ。荻野が近い将来にはこの歌を参考にするように、「満開の薔薇」はどうだ?」
「イヤミな野郎だな」
 荻野さんは舌打ちをし、女性たちはくすくす笑い、斎藤さんは言った。
「リードは本庄だ。歌え」
「はいっ」
 大先輩に命令してもらえるって、心地よいなぁ。俺はやはり誰かに指導されて、ついていくのが似合うのだ。本橋さんが担当しているリードヴォーカルは俺、低めの男性たちの声がハーモニーをつけてくれ、女性たちのソプラノとメゾソプラノが天に昇っていく。
 男性たちもさすがだし、加世さんの声もアリスさんの声も美しい。女声の加わった「満開の薔薇」もいいものだ。しかも、先輩方は歌詞もメロディも完璧に覚えている。誰かの結婚式で歌ってくれたりしたのだろうか。
 うちの仲間たちにも、今夜のひとときの報告をしなくちゃ。そう考えて思い出した。
 金山さんが言った。特定の地域でのベスト10入りってのは嘘だったのだろうか。社長に報告してはいけないのだろうか。そんな悩みがひとつ生じたものの、今夜の後半は最高に楽しかった。


2

 五人で整列して、一斉に頭を下げた。
「お久し振りです。真鍋先生……先生ってお呼びしたらいけないんですよね。三沢幸生です。先生の、じゃなくて、真鍋さんのご健勝、心よりお慶び申し上げます」
「変な挨拶……いえ、あの、木村章です」
「本庄繁之です。お会いできまして嬉しいです」
「四度目ですよね、お会いしますのは。乾隆也です。お元気そうでなによりです」
「本橋真次郎です。真鍋……先生……」
 いやいやいや、と鷹揚に言って、真鍋氏は微笑んで我々を見回した。
「あなたたちのお名前は覚えてますよ。初に五人そろってお会いしましたのは、ラジオ局でしたよね。あのときに僕のお願いを聞いて下さって、合唱部の同窓会で「森の静寂と喧騒」を五人で歌ってくれた。真鍋さんがフォレストシンガーズを呼んでくれたって、後輩たちが大喜びしてくれましたよ。ありがとう」
 旧聞に属する出来事ではあるが、クラシック畑の作曲家である真鍋さんとは、会う機会は少ないのだから、どうしてもこの話題が出る。
 大学の入学式当日、式に出席するために三重から上京していた父は式が終わると帰ってしまい、俺はひとりで「ペニーレイン」で食事をしていた。そこに顔を出したのが、大学の合唱部の大先輩、真鍋草太氏だったのだ。
 店は込み合っていて、真鍋さんは俺と合席になった。故郷の話や合唱部の話をした真鍋さんは、音楽家だとは名乗ったが、どういった仕事をしているのかは話してくれなかった。
 食い意地の張っている俺が、節約のために頼んだのはカレーライスで、真鍋さんがごちそうしてくれたピザにはポークとビーフとチキンが乗っかっていて、非常に美味だったのも覚えている。カレーでは足りない顔をしていた俺だったらしいのだが、ピザも食ったら満腹した。
 満腹してアパートに帰り、これだったら夕食はいらないかな、と思っていたにも関わらず、夜中に空腹になってインスタントラーメンを食った。ひとつでは足りなくてふたつ作った。
「真鍋さんにピザをおごってもらった? 真鍋さんって入学式に参列してたんだよな」
「俺は知らなかったよ」
「俺は知ってたよ。女の子たちが言ってた。真鍋さんってかっこいいおじさんだね、あんなおじさんにだったら抱かれたい、ってさ。おまえがなにを赤うなっとんじゃ。シゲは純情ちやな」
 ヒデとはそんな話をした。合唱部でも真鍋さんの話はちらほらと聞こえてきていたが、俺は誰とも彼について深くは話さなかった。フォレストシンガーズがメジャーデビューしてからも、本橋さんにも乾さんにも美江子さんにも、真鍋さんの話を聞いた記憶はなかった。
 ジャンルがちがいすぎるからか、真鍋さんの話題は我々の間ではまず出ない。なのだから、俺が二度目に彼と会ったときに、いくつかの符号がぴたっと合ってびっくりした。
「フォレストシンガーズの方々ですよね」
 ラジオ局に真鍋草太氏が来ていると聞き、挨拶に行くと、彼が微笑んで言った。
「本庄さん、僕を覚えてくれてますか」
「……もちろんですけど、真鍋先生も僕を……」
「覚えてますよ。あなたの食いっぷりは素晴らしかった」
「あの、シゲさんと先生はお知り合いなんですか」
 彼にしては遠慮がちに幸生が質問し、真鍋さんがそのときのエピソードを話す。ヒデには話したけれど、他のみんなには言わなかったのは、食いものの話が恥ずかしかったからか。真鍋さんがピザのくだりを話すと、案の定、章が大笑いした。
「あのころって金がなくて、シゲさんは今以上によく食ったんだろうから、いっつも腹をすかせてたんですよね。十八のシゲさんがカレー一杯で足りるはずありませんから」
「今でも足りませんか」
 正直にはいと答えると、真鍋さんもみんなと一緒に笑っていた。そこに美江子さんもやってきた。
「おや? あなたがフォレストシンガーズのマネージャー? 山田さんでしょ」
「……いやだ。もしかして覚えてらっしゃいます?」
「覚えてますよ。そうか。僕はフォレストシンガーズとは大変な縁があるのですね」
「山田ともなにか?」
 本橋さんが尋ね、美江子さんが言った。
「なんだか恥ずかしくて言ってなかったけど、そうなのよ。一年生のときにね」
 来年の入学式に参列するための打ち合わせをしようと、真鍋さんは母校を訪れた。出身サークルの合唱部室の見学をしたいと言った真鍋さんは、合唱部の女子学生に案内を頼んだ。俺が入学する前の出来事なのに、俺の記憶をも刺激した。
「それでね、キャンパスも案内して下さいって言われて、一緒に歩いてたの。そしたら先生が……」
「先生ではなく僕が、こうしたんですよ。山田さん、実践していいですか」
「はい、どうぞ」
 真鍋さんの指が美江子さんの頬をちょん。それで俺も思い出した。
「美江子さんは真鍋さんにそうされて、セクハラだって怒ったんでしょ」
「シゲくんが知ってるってなぜ?」
「ペニーレインで聞きました」
「……そうなの? セクハラってほどでもなかったけど、あのころの私は十八歳の美少女だったんだから。こら、幸生くん、章くん、笑わないの」
 はーい、と幸生、章は舌を出し、真鍋さんが続けた。
「セクハラですよね。僕も反省しまして、山田さんを追って部室に戻っていきました。行くと男子学生がいて、こういうことをしたと述べまして、叱られました」
「真鍋さんを叱ったって、生意気な奴ですね。俺たちの先輩でしょ。誰? 星さんか高倉さんかな」
 乾さんが尋ね、美江子さんが答えた。
「金子さんだよ」
 あー、なるほど。全員そろってうなずき、真鍋さんと美江子さんはなつかしそうな顔をしていた。
 あれからも真鍋さんとは、二度、三度くらいは会っている。真鍋さんの言う合唱部同窓会では、フォレストシンガーズのパフォーマンスをやらせてもらった。あのときの主役は真鍋さんで、彼の講演が会のメインイベントだった。
 今日は高校生合唱大会。高校の合唱部はクラシック系の合唱曲や、ポピュラー系の歌をアレンジして歌う。このたぐいの行事はクラシックとポピュラーが融合しているもので、真鍋さんとフォレストシンガーズがゲストに呼ばれていた。
 挨拶をすませてから、真鍋さんと我々とで校庭に出ていった。本日の会場は大きな高校の体育館だ。金持ち私立校であるようで、立派な設備のある校舎だった。
「あ、フォレストシンガーズっ!!」
 若い女の子の声が聞こえ、高校生たちが走ってくる。章と乾さんは主に女の子に、幸生と本橋さんは主に男の子に取り囲まれる。美江子さんはマネージャーの仕事をしているので校庭には出てきていず、真鍋さんと俺は取り残された。
「フォレストシンガーズは立派になりましたね。人気も相当なものでしょう」
「ベスト10にチャートインするほどのヒット曲はありませんが、ライヴもソールドアウトになるようになりました。全国ツアーもできるようになりました。僕らは恵まれてます」
「奥さんも息子さんたちもいらっしゃるんですものね。僕にも孫ができましたよ」
「おめでとうございます」
「女の子ですよ。本庄さんちの息子さんと婚約ってのはいかがですか」
「いや、恐れ多い」
 祖父と父の会話をしつつ、女の子にもててる乾さんや章はいいなぁ、と考えてしまう。本橋さんと幸生を囲んでいる高校生たちの中にも女の子はいる。いいんだいいんだ、俺は真鍋さんと話していれば楽しいんだから。
 そう思っていたのに、三人の女の子がやってきて、真鍋先生っ、サインして下さいっ!! と可愛い声で叫ぶ。真鍋さんは嬉しそうに彼女たちと向き合った。
「そりゃそうか。俺は……おじさんにも負ける。それもそうだよな」
 心でぼやきながら、俺は突っ立っているしかない。誰も俺にサインがほしいとは言ってくれない。
 真鍋さんは六十歳になっているのか。いわゆるロマンスグレイのかっこいいおじさまだ。はじめて会った日にも俺は思って、ヒデにも言った。
「あんなかっこいいおじさんには、俺はなれないだろうな」
「なにを言うとるがかや。俺は一年もしたら、真鍋草太なんかよりも百倍かっこいい、都会の男になる。俺のほうが若いんやきに」
「若いったって、土佐弁の男はかっこようないわ」
「おまえも三重県言葉が出てるぞ」
 ヒデは今ではまあまあかっこいいが、俺はいつまでたってもかっこよくない。真鍋さんのほうが見るからにかっこいいのだから、高校生の女の子だって抱かれたいと……。いやいや、真鍋さん、いけませんよ。紳士の真鍋さんはそこまではしませんよね。
 当然だよな、とうなずき、俺は心で真鍋さんに詫びた。おじいさまでもある真鍋さんなのに、変なことを考えてすみません。


3

 何回そんなことがあった? と問われても、答えられないほどに何回も何回もだ。本橋さんか俺、または、両方。うちの他の三人も美江子さんも、時によってはヒデまでが知っているのに、知らないでいたことがいくつもあった。
「乾さんは千鶴さんとは……」
 本人ではなく、幸生に尋ねようとしたら、幸生は言った。
「切ないよ」
「なぜ? おまえが、ではなくて、ユキが乾さんを好きなのに、千鶴さんに奪われて切ない……」
 などとは言うなよ、と言いかけようとしたのに、遮られてしまった。
「シゲさんも察しがよくなったっつのうか、察した方向はあさってだかしあさってだか、一昨日だか一ヶ月前だか……」
「おい、意味がわからないよ」
「切ないのよ、ユキちゃんは切ないのよ」
 幸生の返答は百パーセント意味不明。では、章は?
「知りませんよ。乾さんなんてのは女にもてもてで、俺が惚れてもいない女にもてても意味もない、なんて言う奴で、昔はシゲさんだって怒ってたでしょ」
「そんなこともあったけど……」
「乾さんのかっこつけ部分は嫌いだ。もてても意味ない、なんて言うところもかっこつけ野郎なんだから、俺は乾隆也は嫌いだ、嫌いだ嫌いだ」
「ひがみじゃなくて?」
「ひがみも入ってるよ。悪い?」
 この返答も五十パーセントがた意味不明。本橋さんは?
「人気女優が親友の妻、なんてのはいいだろうな。シゲと俺はその恩恵には預かれないかもしれないけど、乾の女房が幸生や章やヒデにも女優を紹介してくれて、俺の周囲には美人女優がいっぱい。華やぐな。いいよな」
「それはその……」
「他人が横から急かしても、どうしようもないのかね」
「でしょうね」
 本橋さんの言いたいことはわかったが、実現する可能性は何パーセントなのか。千鶴さんはまちがいなく乾さんに恋をしていると恭子も言っていたのだから、まちがいはないにせよ、乾さんのほうはどうなのだろう。
 女心なんて結婚していてもなんにもわかっていない俺は、恋に関しては男心もわからない。乾さんみたいなもてもてかっこつけ……いや、たしかにそんなところはあるのだから、かっこつけではないとは俺にだって言えないわけで。
 言い訳しつつも考える。乾さんみたいな男の気持ちは、俺みたいな男にはわからない。ヒデにも電話で質問してみた。
「千鶴ちゃんは乾さんが好きなんだろうけど、年の差ってのは問題なくはないんだろうな」
「わりと常識的な判断だな。おまえは恋の話って苦手じゃなかったのか」
「苦手だよ。そういうのは当事者同士で解決するしかないんだから、おまえがよけいなお節介は焼くな。乾さんはそんなお節介は嫌うだろ」
「そうだよな。そんで、おまえは?」
「俺がなんだって? 俺は恋なんかしてないぞ」
「恋の話を……あれ? そうなのか」
 言ってないのに恋という言葉を口にするとは? 追求しようとしたらヒデは怒った声を出して電話を切ってしまった。
「こんな感じだったんだけど、ヒデ、変じゃないか?」
「ふーん、へぇぇ。そりゃそうだね。ヒデさんだったらね……」
「なんなんだよ」
「おめでたいほうに進むといいね」
「……?」
 恭子の反応も、ほぼ百パーセント意味不明だった。
 俺は仕事も家庭も、人生百パーセントが順風満帆に近いから、他人が気になるのだろう。俺の最大の気がかりといえば、もうじき開始するソロライヴツアーだ。フォレストシンガーズ各自のソロライヴは、木村章が皮切りで、章の港町ライヴ。函館、横浜、神戸、長崎。この四箇所は滞りなく終了した。
 章のライヴが終わってから間もなく、俺のライヴのためのリハーサルがはじまる。章だったら人気もあって、メジャーな港町でのライヴは評判もよかったけれど、弘前、仙台、萩、熊本、俺の城下町ライヴははたして、お客さまが来て下さるのだろうか。
「チケットは売れてるらしいんだから、お客さまの入りも順調なはずだよ」
「チケットは買って下さったけど、当日になってキャンセルとか……」
「そういう方も二、三人はいらっしゃるだろうけどさ」
「半数ぐらいがそうだったらどうしましょ」
「……馬鹿野郎」
 乾さんに叱られて首をすくめて、負のスパイラルにおのれを落とすのはやめようと決めた。悪く考えると連想ゲームが続いて、俺は果てもなく暗くなるのだから。
「シゲさん……ここでリハーサルだって聞いて……」
 初日の弘前には、数多い想い出がある。リハーサルのために貸してもらっていたホールから出て、弘前城を見にいこうと歩いていたら、うしろから声がかかった。
「どこかに行くんですか」
「俺は城が好きなんですよ。でも、千鶴さんが城になんか興味はなくて、俺に話しでもあるんでしたら、どこでもかまいませんよ」
「私もお城が見たいな」
 可愛らしい濃いピンクのコートを着た千鶴さんと、タクシーに乗った。俺は多少は寒いのも平気だが、若い女性には東北の戸外を歩くのは毒になるかもしれない。先に話を聞こうと、弘前城を望む静かな喫茶店に入った。
「乾さんには内緒なんですけど……」
「はい」
 千鶴さんがテーブルに載せたのは、本にはなっていない物語だった。



「ドアが開いて、乾さんが入ってきた。
「千鶴」
 静かに名前を呼ばれただけで、千鶴さんがべそをかく。俺はうろたえたくなる。乾さんは静かに、それでいて威厳もこもった声で言った。
「そうやって駄々をこねてる子はお仕置きだよ」
「いやっ!!」
 たちまち涙をこぼして、千鶴さんは俺にかばってほしそうな目を向けた。
「千鶴、シゲにごめんなさいをするのか、お仕置きか、どっちにするんだ?」
「どっちもいやっ!!」
「どっちもいや、は通らないんだ。いつも言ってるだろ!」
「……乾さん」
「おまえは黙ってろ」
「……はい」
 ごめん、千鶴さん、俺は乾さんには口では絶対に勝てないよ、そんな気分で千鶴さんを見つめる。彼女は今にも声を上げて泣き出しそうな顔をして、それでも言った。
「かばってくれないシゲさんは嫌い。そんなところにいてもなんの役にも立たないんだったら帰ってよっ!!」
「千鶴、おいで」
 乾さんの声にきびしい響きが加わり、俺は一生懸命になって言った。
「乾さん、乾さん、そんな……許してあげて下さい」
「俺の躾に口出しするな」
 そう言われてしまうと、俺としてはうなだれるしかない。千鶴さんはなおも、シゲさんなんか嫌い、帰ってよ、と言い続けていて、乾さんは言った。
「俺に向かって駄々をこねるのは、多少はいいさ。俺の友達にまでなんだ、その態度は。来なさい。来ないんだったらこっちから行くぞ」
「いやいやいやっ!!」
 反抗はしているものの、この鈍感な俺にでも読み取れる甘えの色が、千鶴さんのまなざしに宿っている。乾さんはずいっと千鶴さんに歩み寄り、抱き上げて隣室へと運んでいった。
「いやいやいやっ、いやっ!!」
「まったくおまえは……」
「いやっ!! いやぁ……」
 いても立ってもいられない、とは今の俺の心境だ。隣の部屋からはひそやかな物音と、乾さんの低い声と、千鶴さんの泣き声が聞こえる。聞くのは無作法だとは思うのだが、聞こえてくるものはどうしようもなくて、耳をふさぐわけにもいかなくて。
「俺の友達にまであんな態度を取ったんだから、許さないよ。このわがまま娘」
「いやだったらぁ」
「悪い子はどうするって言った?」
「お仕置きなんていやだもん」
「そしたら? 叱られたらなんと言うんだった?」
 毅然とした乾さんの声にも、甘さは忍び込んでいる。千鶴さんは涙声で応えた。
「だってだって……あんっ!!」
 衣擦れのような音がして、乾さんのきびしい声も聞こえた。
「だってじゃない。口答えは許さないと言っただろ。叱られてるときにだってだの意地悪だのと言ったら、こうだぞ」
「いやっ!!」
「ごめんなさいは?」
「……ごめんなさい。旦那さま……ごめんなさい、もうしませぇんっ!!」
「こんなときには旦那さまって言うんだな」
 ふふっと乾さんの笑い声、うええん、と千鶴さんの泣き声。俺はうろうろと部屋の中を歩き回っていた。
「シゲにもちゃんとごめんなさいを言うんだな? 二度とああやって駄々はこねないな? いい子にできるんだね? よし」
 こくっ、こくっとがんぜない幼女のようにうなずく、千鶴さんの顔が見える気がする。やっと説教はおしまいか、お仕置きというほどのことはしなかったのだろうが、俺までがほっとした。
「旦那さま、抱っこ、千鶴は泣きたい……泣きたいの」
「よし、おいで」
 すすり泣きの声と、よしよし、とあやす乾さんの声、いい子にするんだぞ、と乾さんが言っている声も聞こえ、十分ほどしてから乾さんが千鶴さんを抱いて、部屋に入ってきた。千鶴さんは絨毯の上に降ろされ、涙声で俺に言った。
「シゲさん、ごめんなさい」
「……うん、あの、はい」
「シゲは体罰を与えるって躾は反対か? たとえ尻であろうとも、男は女を叩いてはいけない、が持論だったよな」
「子供だったらね……いえ、乾さんの躾に反対なんかしませんよ。千鶴さんはちょっと特別……すみません」
「特別幼いんだろ」
 ぷっとふくれて、千鶴さんはソファにかけている乾さんの膝に頬を寄せてすわった。
「えーと、今は叩いたりは?」
「今は叩かれてないけど、あんまり悪い子だったら……ね、旦那さま?」
「当然だろ」
「……はい。ね、シゲさん」
 泣いたあとでも可愛い顔をした千鶴さんが、俺を見上げて小首をかしげた。
「シゲさんちの坊やたちは、おいたをしてパパやママにお仕置きされたりはしないの?」
「広大はママに尻を叩かれてますよ。駄々をこねて叱られて、叩かれて泣いてます。俺は叩いたことはないんだけど、ママはわりにきびしいんですよ」
 大好きなひとに叱られてお仕置きされるって、広大と千鶴さんの心には、そのときには似た部分もあるのか。保育園に通う幼児と、十九歳の女性は同じにはならないだろうが、どことはなく似通った気持ちはあるのだろうか。
 あんなときにはママに叱られて泣いている広大を、俺があやしてやる。パパって得だよね、と恭子には言われる。息子だったらそうもできるが、千鶴さんをあやしてあげるのは乾さんの役目。全部ひとりでやるなんて、乾さんは偉大だ。
「おまえはどこかしら、広大と同じ精神年齢なんだよ」
 乾さんに言われてぷーっとなっている千鶴さんの頬は、広大に似てなめらかだ。だが、その瞳の色がちがう。こんなにも乾さんを愛しているんだなぁ、と誰にだって感じ取れる色が浮かんでいた。
「千鶴がおまえの若い奥さんだったらどうする?」
「あり得ませんから」
 こんなに若くて可愛いひとが、俺を好きになるわけがない、俺はそういう意味で言ったのだが、乾さんは意地悪な言い方をした。
「シゲはおまえはタイプじゃないってよ。わがままで泣き虫で甘ったれの千鶴は、おまえが迫ってもシゲは嫁にしてくれないらしいぞ」
「いいもん。千鶴だってシゲさんはタイプじゃないもん。千鶴は隆也さんがいいの。隆也さんのほうが背が高くて細くて、お髭だってシゲさんみたいに濃くないし、顔もいいし……」
「千鶴、そういうことを言ってると、ほんとに叩かれるぞ」
「いやぁ」
 もう一度あの物音を聞かされるのは、俺だっていやだ。千鶴さんは乾さんに叱られて、涙のたまった目をして言った。
「シゲさん、ごめんなさい」
「本当のことだから、いいよ」
「本当のことだからよくないんだよね、隆也さん?」
「おまえのその口は、無邪気な毒を吐くんだよな。黙れ」
「じゃあね、黙らせて」
「シゲが帰ってからな」
「どうやって黙らせるの? キス?」
「キスで口をふさいでお仕置きをしたら、無言で泣くのか? そうしてるおまえも可愛いだろうな。一度、そうしてやるよ」
「やんやん」
 これはもう、俺は帰ったほうがよさそうだ。あとはどうぞおふたりで、ごゆっくり」

 これって? 主人公は俺? 本庄繁之の視点による、新婚さんの乾夫婦の日常のひとこまなのか。一部抜粋であるシーンを読み終えて、俺は千鶴さんを見つめた。
 コメントを求められているのではないだろうから、俺はなんにも言わなくてもいいのか。俺は乾さんが千鶴さんを叩こうとしたりしたら、断固止めます!! とフィクション作品について言うのは、野暮ってものか。
 これはフィクション。広大がママに叱られるように、いや、母と息子ではなく夫婦、夫婦とはいっても恭子と俺のようでもない夫婦……なのだから、乾さんに叱られている千鶴さんは、乾さんの新妻か。物語のすべては、千鶴さんの願望に基づいて書かれたのか。そんなことを千鶴さんに質問していいものか……頭がもやもや。書いたひとは誰なんだろう。
「恥ずかしいですか。シゲさん、ほっぺが赤くなってる」
「いや、あの、そうでもないけど……」
「内緒なんですけど、みずきさんに小説を書いてもらったんです。千鶴が主人公で、私は、千鶴は、っていう文章の小説になったんですけど、こんなバージョンもあったの。みずきさんがためしに書いてくれた原稿をいくつも読んでて、シゲさんが出てくる分もあって、それを読んでたらね……シゲさんに……こんなのって、知られたら乾さんに叱られますよね」
 どうなのだろう。幸生が女になって乾さんと恋をする小説をみずきさんが書いたときには、乾さんは怒らなかったが、今回は事情がちがう。これを読んだら乾さんは怒るのか、迷惑がるのか。
「みずきさんって……俺の家庭生活も知ってるんですよね」
「こんな話、したんでしょ」
「広大の話はしますよ。みずきさんちにも双生児の赤ちゃんがいるんだから、会うと子供の話になりますね」
 恋の話よりも家庭や子供の話のほうがいいとは、俺は完全に親父だ。私生活のシゲは親父でしかないのだから、こんな話のほうが気が楽だった。
「乾さんは千鶴を……」
「千鶴さん……」
「ありふれた言い方なんでしょうけど、六年早く生まれたかった。私、二十五歳だったらよかったのに。二十五歳以上だったらよかったのに」
 なぜに二十五歳なのかは知らない。千鶴さんの感覚では、二十五歳以上が大人だという意味なのか。タイムマシン……広大、大人になった広大……つながらない単語が頭にぽつ、ぽつっと浮かび、こんな歌も浮かんだ。

「タイムマシンがまだ出来ないなら
 夕べの事など早く忘れて いいじゃないか
 悲しみ抱えた町に風が吹いて キラキラとひらひらと
 花びらは次の場所

 あぁ 雲一つもない空の眩しさ
 さぁ 私ここからどこへ行こうかな どこまでも?
 太陽はいつも誰にでも微笑んで ギラギラとメラメラと
 私たちを焦がすよ

 黒いカバンに隠し持ってる
 真っ赤な林檎に 火をつけてしまおうぜ!

 いつまでもどこまでも あの時もこれからも
 誰でもきっと隠してる 真っ赤な林檎
 タイムマシンは無いけれど この先きっと無いけれど

 いつか君に話せたらいいのにな 真っ赤な林檎にお願い

 さぁ タイムマシンはもう出来ないから
 あなたも私と指切りしましょう いつまでも
 太陽はいつも誰にでも微笑んで ギラギラとメラメラと
 私たちを焦がした

 長い時間の向こう側を 真っ赤に塗ろうぜ
 遠回りしようぜ 気をつけていこうぜ!

 いつまでもどこまでも あの時もこれからも
 誰でもきっと隠してる 真っ赤な林檎
 タイムマシンは無いけれど この先きっと無いけれど
 いつか君に話せたらいいのにな 真っ赤な林檎にお願い
 その時までは おあずけ アハハン 」

 喫茶店には他にお客がいないのもあって、小声でフルコーラス、歌い終えた。噛みしめればシュールな歌詞だ。俺には半分意味不明。
 俺にはなんにも言ってあげられない。「タイムマシンにお願い」という歌もあるけれど、こっちの歌の文句にもある通りに、タイムマシンなんてできないのだから、この先もきっとないのだから、お願いはできない。
 タイムマシンがあるのならば、十年前の乾さんのところへ千鶴さんを連れていってあげたい。二十五歳の乾さんならば、十九歳の千鶴さんの彼氏になってもなんにもおかしくない。大人好みの千鶴さんにだって、そのころの乾さんはふさわしい。乾さんは大学生のころから大人だったのだから。
 でも、タイムマシンなんかないのだ。弘前にだったら真っ赤な林檎はあるだろうから、見つけたら千鶴さんにプレゼントしようか。昨夜のことだけではなく、乾さんへの恋を忘れる。そんな林檎はタイムマシンと同等にあり得ぬものではあるけれど、もしもあったとしたら、千鶴さんはその林檎をほしがるのだろうか。


END




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~ Comment ~

ほんとにいつもありがとう

乃梨香ちゃん

このシリーズを読んで下さっている、
ほんのちょっぴりの読者さま。

女性は乾くん、
男性はシゲくんに興味あると、言って下さるみたいです。

私としましては、
現実的に結婚相手と見たら、
シゲくんが一番かなぁと、そんなつもりで書いてます。
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