novel

小説238(エレジー)

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酒瓶

フォレストシンガーズストーリィ238

「エレジー」


1

 彼女と俺は大学一年生の年には同じ学校にいたのだが、俺が中退してしまったのだから、学生時代にはただの一度も会ったことはない。
 幸生と同じ経済学部で、ゼミで一緒だったそうなのだが、幸生にしても彼女と知り合ったのは大学三年生の年だったのだそうで、そのころだったら俺はアマチュアロッカーしていた。幸生からは後年になっても彼女の話を話を聞いた記憶はなかった。
 そんな彼女にはじめて会ったのは、どこかのライヴの楽屋だったはず。俺が楽屋に入っていくと、幸生が彼女たちを紹介してくれた。
「漫画家の蜜魅さんと、声優のワオンちゃん。ワオンちゃんは俺の学生時代の友達なんだ」
 そろって小柄で可愛らしくて、俺の好みだった。ワオンちゃんは俺と同い年、蜜魅さんはかなり若いのだとも聞いた。
 漫画家なのだから蜜魅はペンネーム。古久保ワオンも芸名で、本名は古久保和音という。「かずね」と読むのだと幸生が教えてくれたが、蜜魅さんの本名はいまだ謎だ。そんなに変わった名前なのか。吉木帆笑に匹敵する、葉似以とか? ハニーチャーム……葉似以茶亜夢だったりして?
 その後にも仕事の関係で、蜜魅さんとは何度か会ったのだが、本名を明かしてくれない。ハニーチャームではないとだけは言ってくれたので、関係もないのに俺はほっとした。
 蜜魅さん作の「美貌のしらべ」という漫画は、グラブダブドリブが主役になっている。そのキャラのひとり、高校生のマヨのいとこが三沢ユキって名前で、そのユキとは三沢幸生の女性型で……と、蜜魅さんとみずきさんはコラボしているらしいのだ。
 そんな仕事もあって、蜜魅さんとは多少は親しくなった。蜜魅さんは美江子さんとも仲良くなって、食事に行ったりもしているらしい。
「でね、蜜魅さんはヒデくんとね……うふふ。え? 彼女の本名? ヒデくんだったら知ってるんじゃないの? 私は知らないよ」
 美江子さんもとぼけた台詞を言っていたが、どうやらヒデさんと蜜魅さんは……うふふ、なのだそうで、あっちもこっちも春でいいね、と俺は言いたい。
 うふふな仲になった蜜魅さんとヒデさんはうらやましくて、しかし、それでもう蜜魅さんには手は出せない。好みだからってちょっかいを出すと、ヒデさんにぶん殴られる。学生時代にはそう深くつきあってはいなかったし、彼が脱退してからフォレストシンガーズに入った俺は、ヒデさんの気性をよくは知らなかったのだが、ことによると彼はうちのリーダー以上に荒いのだ。
 酒巻國友が画策したのだとかで、ヒデさんは親友だったシゲさんに再会した。それからシゲさんが説得を重ね、ヒデさんを我々のもとに連れてきた。あれ以来、ヒデさんとは何度も会った。
 詳しくは話してもらっていないものの、ヒデさんが一度結婚し、子供もいるにも関わらず離婚したのは知っている。離婚してさすらい人になっていた時期のヒデさんには、俺だけが会っている。そんな縁もある上に、ヒデさんがいなくなったからこそフォレストシンガーズに入れてもらって、俺のほうこそホームレスにならずにすんだって因縁もある。
 縁や因縁があるのもあるが、俺は気性の強い男には反発を覚えつつも慕うというか、頼りにしたがる性格なのだろう。昔から乾さんには「このかっこつけ野郎、大嫌いだっ!!」と「乾さん、なんとかしてよぉ」をこもごもにぶつけてきた。
 乾さんとヒデさんはルックスはわりに似ている。ともに背が高めで細身で、女に好まれそうな体格だ。俺もこんなふうに背が高くなりたかったなぁ、と愚痴は置いておいて。
 嫌いなくせに頼りにして、相談を持ちかけたり打ち明け話をしたり、弱気な発言をしたりして、乾さんには世話もしてもらい、叱られもして鍛えられ、教育されてきた。俺はガキじゃねえんだから、たったふたつ年上の先輩に教育されたくねえよ、とは、今も思わなくもないのだが、事実だろう。
 ひねくれすぎたりいじけすぎたり、弱気になりすぎたりして怒鳴りつけられたり、ファンに対する言動が目に余ると叱られて、軽くはあっても殴られたりもした。とはいっても、乾さんはリーダーほどには気軽には殴らない。リーダーにしても無闇やたらに殴るのではないのだと、いつのころからか俺は気づいていたのだが。
「こんなんじゃ、俺は兄貴として龍に顔向けできませんよ。龍に説教もできませんよ。俺が説教したって、龍は聞いてもいないんだけど」
 過日、俺は神戸の寂れたホテルで、ヒデさんにこぼしていた。
 なぜそんなところにいたのかといえば、その前日は神戸での単独ライヴだったからだ。フォレストシンガーズ個別ソロライヴは、各自がライヴの土地に趣向を凝らす。俺は港町ライヴ企画を立て、函館、横浜、神戸、長崎、の四箇所をピックアップした。
 港町の代表的な場所を選んで、堺だの小樽だの境港だののファンからブーイングをもらったのだが、ソロライヴなのだから四箇所で精一杯だ。
 個別ライヴは木村章がトップで、続いて本庄繁之になる。ちなみにシゲさんは城下町ライヴで、弘前、仙台、萩、熊本を選び、俺の行かない土地に行ってくれる予定だが、名古屋や大阪のファンには不評だそうだ。
 三番目は三沢幸生。大きな河川。千曲川、多摩川、加茂川、四万十川。四番目は乾隆也。坂のある町、小樽、熱海、金沢、尾道。ラストはリーダー、本橋真次郎、山のある町、八甲田山、富士山、剣岳、阿蘇山。川や山はそれらを美しく望めるホールで、なのだそうで、あいつが行ったところにあいつも、とはならないように調整もした。
 そんなわけで神戸にひとりで来ていた俺は、ライヴを無事に終えた開放感と充実感から、打ち上げで飲みすぎた。用心はしていたつもりが、目覚めたときには見知らぬベッドで寝ていたのだった。
「ここは……どこだ? 俺はひとりか?」
 ひとりではあった。女の姿や気配はなかったのだから、それだけは安心したのだが、安心できない事態になった。俺は素っ裸で、服も財布もケータイもなんにもなかったのだ。
 こんなときには乾さんに頼りたくなるけれど、乾さんは東京だ。電話をして頼めばなんとかしてくれるだろうが、素っ裸で震えている時間を短縮したい。チェックアウト時間までにはなんとかしたくて、神戸に住んでいるヒデさんに電話をかけた。
「……ってーわけでね、ここはどうも、安ホテルみたいですよ。住所は……」
 ホテルの備品を見て言うと、ヒデさんは言った。
「アホか、おまえは。まあしゃあない。行ったるから待っとけ」
 小一時間は待っただろうか。ノックの音がして、シーツを腰に巻いてドアを開けると、挨拶もなくぶっ飛ばされていた。
「いてーっ!! なんなんですかっ、いきなりっ!!」
「叫ぶな。ん? おまえ、ライヴは終わったんだよな」
「昨夜はヒデさん、来てくれてなかったの?」
「仕事が抜けられんかったから行ってないよ。差し入れは届いたやろ。ライヴは昨日だけか。今日はオフか」
「そうです」
「ほんなら、顔なんか腫れようとこわれようとへっちゃらやろ。ボケ、もっと殴ったろか」
「いいえ。けっこうです」
 ライヴは一日だけか、との確認が遅い。殴られる前だったら、今夜も仕事ですっ!! と叫んで勘弁してもらえたのかもしれないのに。
「おまえもプロのシンガーやろ。そんなだらしのないことをしててどうするんじゃ。ほら、早く着ろ。金は貸してやるから、なにがどうなったにしても今さらどうにもならんのやから、カードの盗難届けだとか、銀行のカードをストップするとか、そういう大事なほうを考えろ」
 新品の下着、Tシャツとジーンズを買ってきてくれていて、適当に選んだにしてはしゃれていた。俺がそれらを身につけている間に、ヒデさんは部屋の中を調べていた。
「盗難届け、出すか。昨夜はどうやってここに来たのか、まったく覚えてないのか? 女やろ」
「だと思うんだけど、なにひとつ覚えてませんよ。なんの記憶もないのに盗難届けってのもなんだし、みっともねえし。貴重品はマネージャーに預けてたから、盗まれたものは小銭入れと、ポケットに入れてた札が二、三枚と、服と靴とケータイと……そんなものかな」
「ケータイをストップしておけよ。悪用されるぞ」
「はい。そういうところはちゃんとやります」
「美江子さんに尋ねて、他にすることないか教えてもらうか」
「ヒデさん、お願い。リーダーと美江子さんにはご内聞に」
「ふーん、なんで?」
「意地悪言わないで下さいよっ」
 アホ、ボケ、と言われて、そのあとも頭や顔を張られたが、ヒデさんにはまことにまことにお世話になった。それにしたって、乾さんだったら先に説教だろうに、リーダーだったらあんなときにはむしろ殴らないだろうに、ヒデさんは単純にして乱暴なのだと改めて知ったのだった。
 説教もされたし殴られもして、ヒデさんが働く電気屋の車で送ってもらい、新幹線のチケットも金を貸してもらって買えた。ケータイがないので連絡しようがなかったマネージャーの吉木くんにも、ヒデさんが連絡を取ってくれた。
 単独仕事となると美江子さんは担当をはずれるので、同行していなくてよかった。知られなくてよかった。ヒデさんは意地悪は言ったけれど、密告したりするような男ではないから、仲間たちはあの一件は知らないはずだ。
 被害は些少。心の傷だけが大きかったという事件だったのだが、ヒデさんに心の傷だなどと言ったら、ええ年の男がなにを寝ぼけたこと言うとんじゃ、アホ!! であろうから、へこへこと礼を言うだけにとどめた。吉木くんにも適当にごまかしておいた。
「いやぁ、心配しましたよ。木村さん、いつの間にかいなくなってるんですもの。大人なんだし、神戸には何度も来てるんだから、どこか別の場所に泊まったんだろうと思っておいたんですけどね。木村さんが誰と出ていったのかも知りませんでしたけど、女性ですか。関西に彼女がいるんですか」 
 東京に帰ってからそんなふうに尋ねた吉木くんには、アホ、と切り返しておいた。
 先輩ってものは俺の世話もしてくれれば、叱ったり殴ったりもする。ありがたくもおっかない存在で、ヒデさんのおかげでそういう男がひとり、増えたのであった。
 俺だって好みだからって女と見たら手を出すわけでもないからいいのだが、蜜魅さんは惜しいなぁ、と思っている。知ってはいたのだが、ヒデさんとはそういう男なのだと痛感する出来事だった。蜜魅さんに手を出したらどれほど殴られるか。恐ろしくてとてもじゃないができない。
「でね、木村さん、聞いてます?」
「あ、ああ、聞いてるよ」
 知らない相手でもないのだからもあって、ワオンちゃんが事務所を通して依頼してきた。人気のあるアニメはそのアルバムが出るのも通例で、「美貌のしらべ」も声優さんたちが歌うオムニバスアルバムがリリースされると決まった。
 その相談のために、今夜は食事をしている。ワオンちゃんとふたりっきりだ。
 昔、俺たちもそういったたぐいのアルバムにコーラスで参加したことがある。フォレストシンガーズがハーモニーをつけてくれると、声優たちの歌が一段と輝くと言ってもらったこともあった。
 声優はわりあい歌もうまいものだが、ワオンちゃんはどうなのだろうか。彼女は「美貌のしらべ」では一方の主役に近い高校生少女、マヨを演じているのだから、そのアルバムには参加しないわけがない。今回の俺への依頼はコーラスではなく、ワオンちゃんが歌う歌の作曲だった。
「先に曲を書いてもらって、詞はアニメソングを多く書いてる作詞家さんにお願いする予定なの。木村さん、引き受けてもらえる?」
 きんきんっとしたアニメ声は幸生にも似ていて、俺にも似ている。俺は言った。
「編曲次第で曲は変わるけど、ワオンちゃんの歌唱力って知りたいな。CDを出した経験はあるの?」
「あるけど、あれって売れなかったし、廃盤になったみたいよ」
「きみんちにはあるんだろ」
「あんまり自分では聴きたくないから、どこかにしまってあるんだよね」
「きみんちに連れてけとは言わないよ。そしたら、カラオケに行こうか」
「それで私の歌を聴くの? きゃあ、やだな」
 きゃあなんて言っていると、俺と同い年にはとうてい見えない。小柄なのもあれば、高校生少女の声を演じられる可愛い声質もあって、俺よりも十近くも年下に見えてしまう。ワオンちゃんって好みなんだよなぁ。
 以前は蜜魅さんとワオンちゃんが同じように見えて、どっちもいいなと思っていたものだが、蜜魅さんをヒデさんがさらっていってしまうと、残ったワオンちゃんしか見えなくなってしまう。ワオンちゃんには男はいるのか。幸生とどうこうとかはないのか?
「カラオケは大勢で行ったほうが楽しいから、また今度ね」
「じゃ、俺が依頼を受けるかもまた今度」
「売れてきたら態度が大きいんだね」
「……おまえも態度、でかいな」
「私は木村さんの彼女でもないんだし、おまえなんて呼ばないで。三沢くんは私のこと、そんなふうに見下ろしたりしないよ」
「俺は幸生ではない」
「そんな感じの台詞、乾さんも言ったな」
 せせら笑うような、挑戦的な目で見つめられた。
「俺は他の誰でもない、乾隆也だ、ってね、乾さんが毅然として言うのはかっこいいけど、木村さんだと子供っぽいのよね。私と同い年だなんて信じられない」
「俺にもきみが俺と同い年だとは信じにくいよ」
「私は見た目は子供っぽいけど、中身はそうでもないのよ」
 こいつ、乾さんが好き? おまえの中身が知りたい。そのふたつの感情は、恋なのか。何度ふられてもまた性懲りもなく、俺は恋をするのか。そしてまたふられるのか。


数年前から放送されているラジオ番組「FSのトワイライトビートボックス」。夕方の時間帯のこの番組の今宵の担当は俺ひとりだ。
 近頃は我々も忙しくなって、単独仕事も増えて、五人が顔を合わせることも時期によっては少なくなった。それでも俺たちのベースはライヴとアルバムとラジオだ。五人いるという強みのひとつが、レギュラー番組に誰かひとりは時間の算段をして出演できることなのかもしれない。
「こんばんは、フォレストシンガーズの木村章です」
 幸生はよく、こんにちばんは、だとかって挨拶をする。夕刻だからこんにちはとこんばんはを混ぜこぜにしているらしいが、面倒くさい。こんばんは、でいいではないか。
「黄昏どきのひととき、リスナーのみなさまは僕とともに楽しんで下さいね」
 短気で反抗的な章は引っ込めて、ひとりで仕事をするのならば大人の章を全面に押し出そう。本橋さんがとびきり格好をつけているときの二枚目声を模倣してみようとしても、俺の高い声では真似られない。真似られなくても精一杯落ち着いた声を出した。
「今日はリスナーの方と電話でお喋りするという企画の日です。誰に当たるかは内緒だったんだけど、今日は俺ですよぉ」
 喜んでくれればいいのだが、中には失敬なファンもいて、乾さんのほうがよかったのにぃ、とか言う。そんなファンだと切れてしまいそうだったのだが、マヤと名乗った若い女の子は、えらく大喜びしてくれた。
「嬉しい。木村さんだったんだ」
「あ、はい、俺です。そんなに嬉しい?」
「当選したとしても誰とお喋りできるかわからないから、あたし、神社に絵馬をふたつもかけてきたんだ」
 「FSのトワイライトビートボックス」の、FSの誰かとお喋りできる企画に当選しますように、その相手は木村章さんでありますように、なのだそうだ。
 短大生だと応募葉書には書いてあったし、声や話口調かしてもおよそは当たっていると思える。お喋りするだけなのだからおばさんでもおばあさんでもいいようなものの、やはり俺は若い女の子がいい。マヤは声も可愛くて、ルックスも可愛いのだと勝手に想像していた。
「それはありがとう」
「うん。今日はマヤの人生最高の日だよ」
「そんなに喜んでもらえると、俺も嬉しいよ」
 彼女の口調は友達ふうだから、俺もため口になった。
「あたしねぇ、昔から、うーんと昔から、木村さんの大ファンだったの」
「うーんと昔だったら俺は生まれてないよ。マヤちゃんはもっと生まれてないでしょ」
「大ファンっていうよりも、あたしは木村さんを愛してるの。章、あたしと結婚してくれないんだったら、他の女とも結婚しないで」
「……あ、ああっと、そんな約束はできないけどね」
「約束してよっ!!」
 口約束だけだったら簡単だが、もしも俺がどこかの誰かと結婚したら、嘘つきっ!! と逆上したマヤが……ありそうなので約束しにくい。
「木村さんって彼女はいるの? いないでしょ?」
「そんなプライベートな質問はしないでね」
「あたしが彼女になってあげる。結婚してあげる」
「あ、ああ、うう」
 どうしようか。狂信的なのではないかと思うと、おっかなくなってきた。
「木村さん、言って。マヤ、愛してるよ、結婚してくれって言って」
「いやぁ、あのね」
「マヤはね、ついこの間、失恋したのよ」
 口調がしんみりしてきた。
「半年ぐらい前だったかな。つきあってた男にふられたの。あたしが太ったからって、太った女は趣味じゃねえって、つめたく捨てられたんだ」
「それは悲しいね」
「寂しくて悲しくて、毎日ひとりで食べ歩きをしてたの。ケーキバイキングに行って、いっぱい食べた帰り道で、はじめてフォレストシンガーズの歌を聴いたのよ」
 半年前にか? 昔からファンだったという前言と大いに矛盾するではないか。
「それから木村さんのファンになって、自分の生活を見直したの。こんなに食べるから醜く太るんだなって、ダイエットしたからだいぶ痩せてきたよ」
「よかったね」
「だけど、木村さんがあたしをまたふったら、リバウンドしちゃうからね」
「……ああっとね、腹八分目は医者いらずって言うから、暴飲暴食はいけないよ」
「あたしが一番好きなのは木村章で、その次はケーキなんだもの。ケーキってどうしてあんなにおいしいの」
「ケーキと一緒にしないでくれる?」
 ケーキなんて俺は嫌いだぞ。あんなもののどこがうまい? 言ってはいけない台詞なのだろうか。
「だからね、木村さん、それでね、木村さん……」
 人の話を聞かずに自分のことばかり喋りたがる。そんなだからふられるんじゃないのか? 太ったからふられたって、俺は太った女も勝手に喋りまくる女も嫌いだぞ、とは言いたくて言えなくて、もはや俺も、マヤの話は半分も聞いていなかった。
 次第にずれまくりの会話になっていって、それでも喋りまくったマヤは満足したのかもしれない。最後に念を押された。
「あたし以外の女と結婚しないでね。約束ね」
「あー、はいはい。残念ですが時間切れです。マヤちゃん、これからもフォレストシンガーズを応援して下さいね。ありがとうございましたーっ!!」
 やっとやっと電話が切れる。俺はくたびれ果てて、曲が流れている間はテーブルにうつぶせて喘いでいた。


2

 十周年記念ライヴアルバムの特典DVD「Show must go on」に、小笠原英彦役で出演した舞台役者、戸蔵一世。彼は劇団ぽぽろの役者で、三十歳を出たぱかりの年齢だ。
 劇団ぽぽろには台湾人のゆうゆさんというメンバーがいて、中国語の歌を歌うために乾さんが彼に師事したのが、交友のはじまりだった。それから俺がぽぽろの舞台音楽を書いたり、幸生が端役で舞台に出たりもした。
 売れっ子の俳優がいる劇団でもなかったぽぽろから、メジャーになったのがkcイッコウくんだ。イッコウはぽぽろに所属はしているのだが、テレビドラマや映画にも出演するようになって、ぽぽろの看板役者は張れなくなった。
 一世はイッコウの二代目なのか。そのためにイッコウ、イッセイ、と響きの似た名前をつけたらしい。酒場で会ったイッセイとそんな話をしていると、彼の連れの女のうちの、若いほうが言った。
「章さんって独身?」
「そうだけど、俺たちは仕事の話をしてるんだよ。シズク、おまえは静かにしてろよ」
「だーって、つまんないんだもん」
 イッセイの連れはひとりはおばさんで、劇団ぽぽろの芝居でお母さん役を主にやっている女優だ。俺はぽぽろにはわりあいよく出入りするので、彼女とも顔見知りではある。
 もうひとりがシズク。メイクアップアーティスト専門学校生で、勉強がてらにぽぽろでアルバイトをしていると言っていた。二十歳すぎくらいだろうか。俺よりは十ほど年下で、十センチ近くは背が低くて、細身で可愛くて、モロ好みのタイプだった。
「そりゃそうだよな。シズクにはつまんない話しだっただろ。ごめんな。うん、俺は独身だよ。デートしよっか」
「車の免許は持ってる?」
「持ってるよ。車だって持ってるよ。ドライヴに行く?」
「あたしは免許は持ってないの。車ももちろん持ってないんだけど、お姉ちゃんの旦那、あたしから見ると義理の兄だよね。彼がサンルーフの外車を持ってるのよ。その車に乗りたいの。借りてくるから、章さん、運転してくれる?」
「俺はいいけど……」
 外車なんて事故ったら大変だ。俺が運転していたら保険も効かないのに、と不安が胸をよぎる。だが、シズクがいいと言うのだし、俺だってサンルーフの外車を運転してみたい。イッセイもおばさんも無責任にも、大丈夫だよと言う。
 臆していると好みのタイプの女の子に、小心者だと嘲笑われそうだ。初デートでかっこよく運転している姿を見せて、章さんの彼女になりたいわ、と言わせてみせる。外車好みなのだったら、俺も彼女のために高い車を買ったっていい。先走ってそんなことまで考えつつ、シズクと次の休日にドライヴの約束をした。
 当日は上天気。教えられたマンションの近くまでは俺の車で行き、駐車場に車を入れて、シズクの姉一家が暮らすマンションの駐車場へと歩いていく。シズクの義兄は眼科医なのだそうで、ただいまはドイツに出張中。車は空いているから、カレシとデートするんだったら使っていいよ、と言ってもらっていると言っていた。
「これだよ」
「ボルボか」
 教えられた駐車場にはシズクが先に来ていて、車のキーを手渡してくれた。
「しゅっぱーつ」
「おう、行くぜ」
 ボルボが走り出す。逗子まで行こうと、俺は幸生の故郷方面へと車を向けた。
「俺の車は国産車なんだよ。幸生は小さいかっこいい車に乗ってるけど、本橋さんも乾さんもシゲさんも、あんまり車には凝らないんだよな。この間なんか、電気屋の営業車に乗せられちまったよ」
「電気屋の車? なんで?」
「友達の車」
 詳しく話すと、俺のドジな失敗談に行き着いてしまう。あれは女がらみであろうから、口説きたい相手の前でする話ではないのだった。
 ウィークディなのでそうは渋滞もしていない、高速を降りる。鎌倉をすぎてあっちへ進めば幸生の故郷、横須賀。こっちへ進めば目的地の逗子だ。幸生はガキのころから、このあたりの道を車で走っていたのか。都会っ子なんだなぁと改めて思った。
「俺は稚内出身なんだ。親父は車を持ってなかったんだけど、会社の車でドライブに行ったことはあるな。行けども行けどもグレイのオホーツク海ばっかだったよ。シズクはどこの出身?」
「東京」
「そっか。都会の子だな」
「北海道には行ったことはないな。いつか連れていって」
「連れていってやるけど、北海道未体験か? 金持ちの子なんだろ」
「子供のころから親と旅行に行くっていったら、海外だったもんね」
 スケールのちがう金持ちの子か。そんなのは今どきは普通なのか。俺はフォレストシンガーズとしてデビューして、仕事で韓国に行ったのが海外初体験だった。ガキだった弟の龍を、南国の島に連れていってやると約束したのは実現していない。
 もっとも、龍は大学生なのだから、兄貴と海外旅行なんかしたくないと言うだろう。俺だってあんな奴と行きたくない。できるものならば、シズクと行きたい。
 十五周年記念日には南の島でライヴをやって、俺はレゲエを書いて歌うんだ。そんな話をしていると、シズクは退屈になってきたのか。サンルーフを開けた。おまけにカーオーディオにフォレストシンガーズのアルバムをセットし、大音響で流しはじめた。
「音がでかすぎるよ」
「アピールして走ってるんだよ。この車にはフォレストシンガーズの木村章が乗ってまーすっ!!」
「声もでかい」
「よその車には聞こえないよ」
 さもあろうが、俺としてはいたたまれない。カーオーディオからは俺のハイトーンヴォーカルが聞こえ、助手席の女が木村章の名を連呼する。フォレストシンガーズはもはやそこまでPRしてもらわなくてもいいのに。
 サンルーフを開けているので、回りの車には聞こえているだろう。時折、なんなんだ、あいつら? という視線を感じる。売れていないころだったとしたら、彼女がこうしてくれたら俺は嬉しかっただろうか。いいや、嬉しくない。俺は自己顕示欲のかたまりではない。
 やめろ、と言って俺はオーディオを止める。いやだ、と言ってシズクが再びオンにする。そうしているうちにはムードが悪くなってくる。逗子のマリーナに車がたどりついたときには、シズクの機嫌は最悪になっていた。
「フォレストシンガーズの木村章が……」
「車から降りてまで、でかい声で名前を呼ぶな」
「なによっ。それほどの有名人でもないくせに、かっこつけてんじゃないよ」
 かっこをつけるのは乾さんのトレードマークだが、俺も女に、かっこつけるんじゃない、と言われるようになったらしい。
「かっこはつけてねえよ。静かにしろって」
「章さんのためを思って、音楽だって名前だって……」
「いらねえんだよっ!! おまえはうるさいんだよ」
「そう。そんなふうに言うんだね。そんなら、キーを返してよ」
 立ち止まって俺を睨み上げるシズクに、俺は言った。
「おまえは免許を持ってないんだろ。どうやって帰るんだよ」
「車の運転をしてくれる男をナンパするからいいの。あんたは勝手に帰れば?」
「そんなら返すよ」
 金さえあれぱ俺はなんとでもなる。シズクだってあの車ならば、運転してくれる男をナンパするのはできない相談ではないだろう。シズク本人も若くて可愛い女の子なのだから。
「勝手にすりゃいいだろ」
 捨て台詞を投げてキーも投げて、別れて歩き出してみたものの、心配でなくもない。
 海の見えるレストランでランチして、ボートに乗ったり散歩したりして、つきあってほしいと言う。夕暮れのマリーナでロマンティックにキスでもして、ほうぼうにあるホテルにチェックインなんてのもいいなぁ。
 そんな想像をしていたのに、喧嘩別れだ。今日は俺が悪いのではないはずだが、恋がはじまるかと思ったら、七割程度の確率でこうなってしまう。あとの二割は徐々に悪化して彼女にふられる。あとの一割は俺がいやになる。
 であるからこそ、俺は女と長続きしたためしがない。若干は長持ちしたスーにだってふられて、あとにも先にもまともな恋人がいない。シズクとはこんな運命だったと諦めるしかないとしても、ひとりで帰らせて大丈夫だろうか。
 海辺でケータイを取り出す。乾さん、どうしたらいいですか? 電話して尋ねたくなる。俺はいつまで先輩に頼っているんだろ。乾さんだったらどう言うか、わかり切っているじゃないか。
「女の子と車を置き去りにするなんて、していいはずがないだろ。その場合はおまえには非がないのだとしても、彼女をなだめて彼女の姉さんのマンションまで連れて帰れ。そこまではするのがおまえの義務だ」
 そう言われるのが聞こえてくるようだ。この気分では他の女の子をナンパする気にもなれず、メシを食う気にもなれず、ひとりで電車かタクシーで帰る気にもなれず、シズクを探しにいった。
「……そうなるのかよ。しかし、いいのかなぁ」
 車のそばにはシズクがいた。彼女のそばには軽薄そうなおしゃれをした若い男がふたりいる。ふたりだから安心なのか、ふたりもいたらシズクが危ないのか。
「かっこいい車だね。ほんとにいいの?」
「誰が運転してきたの?」
「フォレストシンガーズの木村章って知ってる?」
「知らね」
「俺は知ってるよ。ちっこくて高い声を出す奴だろ」
「そうそう、そいつ」
 ひとりは俺を知っている。それがほんのちょっと嬉しかった。
「木村章とドライヴに来たんだけど、喧嘩しちゃったの。この車はあたしのだから捨ててやったんだ。だけど、あたし、免許を持ってこなかったんだよね。あんたたちだって電車で来たんでしょ。ランチはおごってあげるから、一緒にごはんを食べて、この車で帰ろうよ」
「それもいいかもな」
「どうする?」
 若い男がふたりで逗子だなんて、ウィークディが休みの職種だとしても、目的はナンパだったのかもしれない。男がふたりで女がひとりでは、当初の目的は達成できない。だが、車はかっこいい。若い男は車が好きなのだから、車に負けたのか、もしくは、うろんなたくらみでも抱いたのか、やや太目の男のほうがうなずいた。
「じゃあ、そうしよう。ランチは割り勘でいいから」
「うん、シズクちゃん、行こうぜ」
「うんうん、あたし、おなかすいちゃった」
 シズクを真ん中にして、三人が行ってしまう。こうなれば俺は電車で帰るしかないのか。この上タクシー代を使うのは馬鹿らしいので、バスと電車で帰ることにした。サングラスをかけて仏頂面でひとりで歩いていれば、誰も俺をシンガーだとは思わないはず。シズクも言った通り、俺はそれほどの有名人でもない。
 なにをしに逗子まで来たんだか。でも、かっこいい車を運転できただけでもよかったかもな。自分で自分をなぐさめつつ、バスに乗ってからシズクにメールした。
「もてててよかったね。でも、気をつけろよ。俺は帰るけど、気が向いたらまた電話かメールでもして。今日は俺も悪かったかな。またね」
 ところが、早くも着信拒否されていて、メールは虚しく電波の彼方に消えていった。その夜はいやな夢を見た。
 クモの巣にひっかかった、木村章がシズクに送った白い封筒。あの夢は届かなかったメールが形を変えたのだろう。ふられて連絡も取れなくなったと確定しているってのに、未練が残る。シズクとはじめて会った酒場に行くと、イッセイとイッコウがいた。
「おっす、木村さん、元気だった?」
 名前は似ている。ルックスも似てはいる。
 乾さんと映画で共演したといえばいえるkcイッコウは、いまやメジャーな俳優だ。背が高くて甘いマスクをしていて、俺から見ると背の高さと脚の長さが憎らしい。顔はうらやましくもないけど、イヤミのない顔立ちなだけに、あの大城ジュンよりは好感が持てる。親しいからというのもあるのだろう。
 マイナーな舞台俳優であるイッセイは、うちの芝居DVDに出たからといって有名になるわけでもなく、それはそれなりに楽しくやっているらしい。ヒデさんを演じただけあって背は高めで、渋さと爽やかさのあるいい男でもある。
 大学二年と二十代後半ごろと、俺はそのころのヒデさんを知ってはいるが、ルックスの印象なんてさしてなかった。三十代になって再会したころには、ヒデさんは太めになっていたのにうらぶれても見えた。
 神戸に住んでいるヒデさんと年に何度かは会うようになって、若き日のFSを描いた芝居にもヒデさんが登場するとなって、その役を戸蔵一世が演じるとなって、俺は再認識した。ルックスだけ見れば、昔からヒデさんがうちではナンバーワンなんだ。
「フォレストシンガーズって顔は全然だよね。木村章だけはまあまあだけど」
 そんな評判もあったものだが、俺が入る前には木村章のかわりに、小笠原英彦が、と言われていたのかもしれない。ヒデさんは俺とはちがって脚も長いし背も高いし、決断力もあるし男っぽいし、彼がいたほうがFSは売れてたんじゃ?
「またひがむぅ。章ちゃんの馬鹿ぁん!!」
 気持ちの悪い幸生の声が聞こえてきそうなので言わないが、そんなひがみもなくはなかった。
「この間、木村さんはさ……」
「ああ、そうなんだ。俺はシズクって知らないけど、可愛い子?」
「小柄な可愛い子だよ。金持ちの娘だから、バイトったって金のためって感じでもなくて、おっとりしてるよ」
「それで、うまく行ったの、木村さん?」
 イッコウとイッセイがシズクについて話してから、俺に質問を向けた。
「あいつはおっとりなんかしてねえよ。ヒデさんは見誤ってるんだ」
「俺はヒデさんじゃないよ」
「木村さん、恋わずらい? イッセイがヒデさんに見える?」
「いや、やっぱイッセイのほうがかっこいいよな」
「ふられたからって、俺に乗り換えるのはやめてよね」
 イッセイが言って、ふたりしてげらげら笑う。それからイッセイは真顔になった。
「なにかあったの? シズクを呼び出そうか。俺が呼び出したら出てくるはずだから、仲直りする?」
「シズクは仕事には来てるのか」
「このごろはうちの舞台はないから、俺もシズクには会ってないよ。仕事がなくてちょいと生活費に貧窮してきちまった。イッコウさん、いいバイトない?」
「桜田さんに連れていってもらったバーで、バーテンを募集してたよ」
「桜田忠弘とつきあってるんだ。俺も早くそういう有名人の名前を、友達だって口に出したいな」
「フォレストシンガーズのみなさんがいるじゃん」
「そうだったね」
 ま、俺たちじゃ物足りないよな、と笑っておいて、俺は席を立った。
「木村さん、帰るの?」
「シズクのこと、俺が役に立てるんだったら言ってね」
「ありがとう」
 口先だけだとしても、イッセイの情けが身にしみる。とはいえ、俺にだってプライドがあるのだから、勝手に馬鹿げた真似をして勝手に怒って、勝手にケータイを着信拒否にしてしまう女となんか仲直りしたくない。
 仲直りしたくない、会えなくてもいい、そしたら未練がましくイッセイにも会いにこなくていいのに。あの店に行けばシズクもいるのかと、淡い期待を抱いた俺も馬鹿だった。
 店から出て背中を丸めて歩き出す。イッセイやイッコウがいた店は役者の客が多いから、俺は俺の業界の人種の多い店に行こうか。「フライドバタフライ」に行くと、乾さんと千鶴がいたりして? あのふたりはあれからどうなったんだろ?
「もてるってのも楽でもないけど、もてないって虚しいよな。俺はもててるのかもててないのか、どっちだ?」
 つきあう入り口までは行かなくもなくて、告白しようかと思える段階に来たら台をはずされる。そんなのばっかりだ。音楽業界人の集う店に行くのも乗らなくて、タクシーを止めて繁華街からは離れた場所にある店の名を告げた。
「……あら?」
「え? どうして……」
 どうしてきみが? と言いそうになって言葉を飲み込む。彼女は俺の同窓生なのだった。学生時代にはここに通っていたのかもしれない。
「どうぞ」
「あ、ああ」
 時々、うちのメンバーたちの会話に出てくる店名だ。「ペニーレイン」。いつ行ってもビートルズの曲が流れていて、太めで美人の中年のママさんがいて、コーヒーも食事も酒もいける店。大学からはやや距離があるものの、徒歩で行けるので学生たちが通い詰めていた。
「俺は一年生のときに、渡辺キャプテンに連れていってもらったよ。それからも何度かは行ったな」
 幸生は言い、シゲさんも言った。
「大学の入学式のあとで、作曲家の真鍋草太先生にはじめてお会いしたのがあの店だよ。ピザをごちそうしてもらったんだ。俺もそれからも何度も行った」
「幸生とふたりででも行ったな。俺も学生時代にも何度も行ったよ」
 本橋さんが言い、乾さんも言っていた。
「あの店の窓際の席にすわって、詞を書いてたんだ。聞こえてくるのはビートルズオンリーだから、ビートルズタッチの歌詞になっちまうんだよな」
「俺は合唱部に入る前に、あの店に入ったんですよ。当時はビートルズもろくに知らなくてね」
 ヒデさんも言っていた。
「ペニーレインってどんな雨ですか? ペニーってのはどこかの国の貨幣単位だったか。金の雨がふってくるんかな、ってママさんに訊いて笑われたよ。雨じゃなくてレーンです。通りの名前よって教えてもらったんでした」
「俺は美江子と、リバプールのペニーレインをこの目で見たぜ」
 リーダーが言い、章、いつか一緒に行こうか、と幸生に言われて、おまえなんかと行きたくねーよ、べーだ、と言い合って、ヒデさんに呆れられた。
「おまえらはいつまでたってもガキみたいに」
 俺は本橋さんにつかまり、幸生はヒデさんにつかまってごっつんとやられ、そのたんびに俺は思う。フォレストシンガーズが六人になったみたいだ。
 「ペニーレイン」とは俺が中退した大学の卒業生にはなつかしい店なのだから、彼女がここにいるのは不可解ではない。ワオンちゃんと向かい合って窓際の席にすわり、特に会話もせずにコーヒーを飲んで窓の外を見ていた。
 ここに来たことはあったっけ。記憶にはないけれど、あるのかもしれない。俺も渡辺キャプテンには目をかけてもらっていたが、食事に行こうと誘われても逃げていたから、ペニーレインには連れてきてもらっていないはずだ。
 最近はうちのメンバーたちも行っていないのか。俺たちの母校の学生たちが常連なだけに、この店にフォレストシンガーズが五人そろっていたら、若い奴らが集まってきて騒ぎが起きるかもしれない。幸生だったら喜びそうだ。
 今夜はママさんではなく、ウェイターがコーヒーを運んできてくれた。ワオンちゃんもコーヒーを飲んでいる。黙っていると気まずいのでなにか話そうとしていたら、彼女は俺が話しかけるのを拒否するかのように、文庫本を取り出した。
 カバーのかかった本を読み、片手に煙草をはさんで俺を見ようともしない。腹が立つのでむしろ話しかけたくなった。
「なにを読んでるの?」
「シェイクスピア」
「シェイクスピアって戯曲だろ。俺は戯曲って苦手だな。小説もエッセイも苦手だよ。本を読むのが苦手なんだ」
 あっそ、別にいいんじゃない? とでも言いたげに、ワオンちゃんは煙を口から吐いた。
「きみって煙草を吸うんだね。いいんだけどさ……」
「いいんだったらいいじゃないの」
「俺には関係ないからいいんだけど、乾さんだったら言うよ。女性は将来妊娠出産するんだから、煙草はやめたほうがいいって……」
「あ、お願いします」
 片手を軽く上げてウェイターを呼び、ワオンちゃんは彼に水割りを注文した。
「俺がここにいると迷惑?」
「私には関係ないからいいんだけどね」
「お節介はやめとくけど、煙草を吸う女はもてないぜ」
「もてなくってもいいし、今さら妊娠出産ってのもしないだろうから、いいのよ」
「今さらでもないだろ。なんだか……」
 慣れた吸い方はしていない。俺もロッカー時代には吸っていたからわかるのだ。自棄酒、自棄煙草なのかと思って言ってみた。
「きみもふられた?」
「どうしてそうなるの?」
「自棄っぽい煙草の吸い方をしてるからさ。酒も煙草も量をやらないんだったらいいんだろうけど、自棄は身体によくないだろ」
「女が自棄になるとしたら、恋しかないと思ってるのね。木村さんって女を馬鹿にしてるよね」
「そうでもないけど……」
 若いころには美江子さんにこう言われて詰られた。いまだにそんなところはあるのだろうか。ワオンちゃんは美江子さんに似た、理屈っぽくて男女差別にうるさい女なのだろうか。
「乾さんにだってあるよ。女だから、男だからって主義はさ。あいつは女性差別なんてしないって言ってるけど、なくはないんだよ」
「男性には多かれ少なかれ、あるのかもね」
「そういうことでワオンちゃんは自棄っぽいの?」
「木村さんには関係ないでしょ」
「ああ、そうだな」
 声優の世界なんて俺は知らないのだが、関係ないのは事実だ。ワオンちゃんは読書に戻ってしまい、水割りを飲み、煙草を吸い、取り付くしまもない態度になってしまった。
「……帰るよ」
 返事もしてくれないので、俺は伝票をつかんだ。
「それは置いていって」
「細かいのがないんだよ。これぐらいだったらおごるから。飲むのはそれだけにしておけって」
「大きなお世話です。木村さんのコーヒー代だったら、私がおごるから」
「……じゃあ、今度会ったら返すよ」
 あんたとなんか二度と会いたくないよ、と言われるのかと思っていたら、ワオンちゃんは首をかしげて考えてからうなずいた。
「今度会ったらね」
「うん、おやすみ」
 いやなことだか悲しいことだか、自棄になることだかがあったのはまちがいないのだろう。俺はワオンちゃんの役には立ってやれない。彼女はそんな話を俺にする気もなさそうだ。でも、今度があるみたいには言ってくれた。それだけは俺に元気をくれた。
 もてもてのもてもてで、口説いたって振り向いてくれない女なんて、彼女になってくれる脈のない女なんて、どうでもいいと思っていた、若き日の木村章。そいつはもういないのだ。
 三十歳を超えた木村章は、ある面はガキのまんま。ある面は中年になりつつある。女にふられて、その直後には冷淡な女につれなくあしらわれて、そんな女に未練を感じたり、この次に会ったら……と胸をときめかせたりしている。意外にも今の俺のほうが純情なのかも。
「なんだかなぁ……」
 哀しいのかなぁ、と考えながら振り向くと、「ペニーレイン」の店が見える。ハードロック趣味の俺はビートルズよりもローリングストーンズが好きだけど、それにしたって、店内にいた間は流れる曲を意識もしていなかった。
 そのかわりでもあるかのごとく、歩いている俺の脳裏には曲が浮かんでいる。「中年になりかけ男のエレジー」……いやいや、中年は省こう。「アキラのエレジー」なんてどうだろ。タイトルはどうあれ、三十余年も生きていると、人間ってのは哀しいものなのだ。


END



 

 
 
 



 
 
 
 
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