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小説237(目には目を)

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ぷれぜんと

フォレストシンガーズストーリィ237

「目には目を」


1・國友

 
 日本に心残りはある。解決していない問題も残っているような気がする。けれど、現代ではインターネットが地球をくまなく覆っているのだから、ニューヨークに帰っても大丈夫だろう。いつまでも日本にいたらずるずると腰を落ち着けてしまいそうで。
 これだから僕は好きな女性にもふられるんだ。潔くしろ、クニ、と自分に言い聞かせ、ニューヨークへ戻るための荷造りや手続きもすませ、明日はフライトという夜、日本での最後のネット遊びをしていて、発見したサイトが問題だった。

「みなさま、こんにちは。
 蒼天銀行頭取の義理の娘の早苗でございます。
 姫女神(ひめか)とは私のひとり娘でございまして、このたび、K学園幼稚舎に入園させていただきました。
 愛しいひとり娘とわたくし、主人や家族との素敵な日常生活をブログに綴って参ります」 

 別段、ひめかちゃんだって珍しくないよね。今どきの子供なんて、ものすごい名前のオンパレードだ。沖縄にいる僕たちの大学の先輩の娘さんたちは、焔夜、暁華、エンヤ、アキカだもんね。姫女神との三人娘だったらすごいな。
 そんなふうに思いながらも、早苗さんの書いている文章を読んでいったのは、なにかが僕の神経に触れたからだろう。
 なにかといってもなんなのかはわからなかったのだが、すわり直して熟読したい気分になっていた。三年以上前に開設されたこのブログは、当初は姫女神ちゃんのお受験話が満載だったのが、徐々に早苗さんの個人話にもなっていく。

「私が卒業した大学からは、名だたる音楽家が何人も何人も出ているのですよ。
 名前を言えばみなさまだって、へーっと思われるような、クラシックの作曲家からパンクロッカーまで。パンクと言われれば自転車? 自動車? そうではありません。音楽の一種です。
 学生時代には私は音楽家の男性にも口説かれましたわ。パンクスのSさん、あなたって、実は私に恋をしてたのでしょ?」

 この記事で、パンクスのSさんって柴垣さん? そしたら、この早苗さんって? 自分の顔色が変わっていくのに気がついた。チキンスキンの柴垣さんが八幡早苗さんに恋してた? 嘘だろ。いや、それだけだったらよかったのだが。

「この話は友達の経験談なのですよ。彼女の学生時代の経験です。
 過去の話なんだからいいのよ、って彼女は言うけど、彼女にとっての癒せぬ傷跡だわ。涙ながらに話す彼女の話を聞いて、私の主人が言ったのよ。そういう奴は許せない、きみのブログで発表して、社会的制裁を加えてやれよって。
 社会的制裁なんて、無力な女には加えられないわ。書くだけでも発散できるからいいの。彼女のために書きます。
 あれは十年ほど前、彼女は大学生でした。
 大学では彼女は音楽のサークルに入っていたの。彼女は当時から美人だったし、華やかで目立っていたわ。背が高くてスタイルがよくて、性格もいいんだけど、東京生まれの東京育ちでお金持ちの娘だといえば、女の子たちには妬まれるのよね。
 男性の先輩はこうなのよ。
「小百合(仮名)さん、俺とつきあってくれ」
「私は男性とおつきあいするのは、結婚を前提としてだと決めています。先輩は私と結婚したいのですか」
「学生のときから結婚を前提ってのは……」
「では、お断りします、すみません」
 何度も何度もそんなことがあるの。そりゃあ、小百合がもてるのは当たり前だし、交際を申し込まれるのも当たり前。結婚できる相手でなくてはおつきあいはしたくないというのは、正しいことでしょう? なのに、噂が悪いほうへと流れていくのよね。
 小百合は美人だからってお高くとまって、よほどの玉の輿でも狙ってるのか、誰に交際を申し込まれても断るのよ、って言われるんです。
 そんなことばっかりで、小百合は孤立していきました。だけど、彼女は高潔でまっすぐで輝くばかりの美しい性格を持っていたから、歪んだりひねくれたりはしなかったわ。大好きな音楽に身を捧げて、彼女の本質をわかってくれる、真実の魂の友達とだけつきあっていました。
 そんな小百合が大学を卒業する間際に、同い年の男性に言われたのです。
「小百合さん、俺とつきあって」
「あなたは私と結婚するつもりなの?」
「もちろんだよ。俺は今はまだアマチュアだけど、将来はプロの歌手になる。必ずなってみせる。きみが俺のそばにいてくれたら、努力する目標にもなる。小百合さんを幸せにするためにも、俺は歌手になるから。力を貸してくれ。小百合さん、愛してるよ」
 誠意を持って告白してくれたのだから、小百合はうなずきました。
 もちろん小百合にとってははじめてのひと。彼は有名になったから、匿名にしますね。橋本さん、橋本啓次郎、本名とは似てるのかしら。どうかしらね。
 名前なんてどうでもいいんだけど、彼は別段ルックスがいいわけでもなかったのよ。背は高いけど、優しいってこともなくて、最初は小百合とつきあえるからって舞い上がっていたみたいだけど、次第に尊大になっていったの。
「きみのために俺は努力してるんだ。就職もしないで歌を歌うことに生命を賭してるんだよ。わかってくれるだろ。だから、ホテル代だって食事代だって、俺が成功したら返すよ。全部借金ってことにしてくれ。ごめんな、小百合さん」
「ううん。いいのよ。私も働いてるんだから、あなたのためにお金を出して援助してあげられるのは嬉しいわ。気にしないで」
「そう言ってくれるからきみが好きだよ。プレゼントも期待してるから」
「ほしいものがあるの?」
「××のショーウィンドーに飾ってあった、スタジャンがほしいな。俺に似合いそうだろ」
「あれ、前に、いいなって言ってたね。けっこう高いんじゃない?」
「そんなところでケチるなよ。きみと結婚するころには俺は流行歌手になって、ミンクのコートだってダイヤの指輪だって、外車だってマンションだってばんばん買ってやるんだから。な、小百合、いいだろ。買って」
「そうね。あなたには衣装だって大切だものね」
 ふたりで男性用ブティックに行き、彼のお目当てのものを買ってあげると、外に出た啓次郎は小百合を優しく抱いて、ありがとう、と囁いた。
 女だってそうやって男性にプレゼントするのは、嬉しいものなのよ。彼は感謝してくれて、それを着てオーディションに出かけていったりもする。小百合は寛容でふところの深い女性だったから、母のような心で啓次郎を見守っていたのね。
「あ、これ、いいな。小百合さん、買ってよ」
「……高いね」
「高くもないじゃないか。ケチるのか」
「うん、買って……あげる」
「ありがとう」
 だけど、度重なるとうんざりしてくる。食事代やホテル代を払わせるのも、洋服や靴を買わせるのも、当然だという態度になってきたの。
「小百合さんは大企業勤務のキャリアウーマンなんだから、収入もいいんだろ。これしき、買ったって平気だろうが」
「ボーナスが出たら買ってあげるわ」
「買ってあげるって言い方、気に入らないんだけどな」
「ああ、ごめんなさい」
「まあいいよ。そしたら、今日は俺んちですき焼きでもしようか。うまい肉が食べたいな」
 すき焼きの材料も、すべて小百合のお金で買うの。そんなことばっかりで、小百合は次第に気が重くなってきました。
「……啓次郎さん、約束のプレゼント」
「ああ、ボーナスが出たのか。じゃあ、今夜は食事も豪華版なんだろ」
「悪いけどね、これっきりにしない?」
「別れようって? なぜ? 俺はきみに嫌われるようなことをした? おごってもらうからか? きみも嬉しいって言ってたじゃないか」
「一度、二度だったらいいけど、このごろはいつもいつもじゃないの」
「俺は金がないんだよ。心苦しいのを耐えて、将来のための投資を……」
「知ってるつもりだったけど、我慢できなくなってきたの」
 十二月の街角で、彼は小百合を見つめ、橋の欄干に登ったんだそうよ。
「きみが俺を捨てるつもりだったら、俺はここから飛び降りるぞ」
「やめてやめてっ!!」
 そうやってなし崩しにされてしまって、二度、三度と別れ話が駄目になって、このまんまでは私が駄目になると小百合は思った。啓次郎は一年たってもいっこうにプロの歌手としてデビューできるようにもなく、彼のために使うお金が嵩んでいくばかり。
 そんなときに、小百合は職場の取引先の男性に交際を申し込まれたの。小百合はためらったわ。ためらったけど、高潔な人柄ゆえに正直に打ち明けたのです。
「あなたにつきまとってる最低な男がいるとは、薄々は知っています。僕にまかせてくれますか」
「それは……?」
「僕が話をつけますよ。いざとなったら手を貸してくれる者もいる。そういう奴って毅然と対決すれば弱いんだ。きちんと解決したら、小百合さん、僕と結婚してくれますね」
「こんな私でいいんですか」
「そんなあなたがいいんです。僕はあなたを遠くから見ていた。これだけの女性はあなた以外にはいない。女神のようなひとだ。その男は僕にまかせてくれますね」
 後に夫となるひとがそう言ってくれて、小百合は彼にすべてをまかせたの。それでうまく行けばハッピィエンドだったのでしょうけど、そうは行かなかったのね。残業で遅くなったある夜に、小百合は公園で待ち伏せしていた男に、ナイフで切りつけられたのよ。
 ナイフが小百合の真っ白な美しい手を切りつけ、小百合は気を失った。気がつくと、婚約者になった彼の腕の中にいた。手には真っ白な包帯が巻かれていました。
「あいつですか」
「だと思うけど、証拠はないから……」
「目撃はしなかったんですか」
「逃げていく背中は見ました。背の高いあの背中はまちがいなく……でも……」
「証拠としては弱いのかもしれませんね。とにかく、僕の家に行きましょう。あなたをひとりぼっちにはしておけません」
 そのあと、婚約者がどうしたのかは、小百合ははっきりとは知りません。ただ、啓次郎がとあるコーラスグループの一員となってデビューしたのをテレビで見て、婚約者に問いかけると、こんな答えが返ってきたのです。
「二度と、絶対にきみにはつきまとわないようにって、裏取引があったんだよ。あいつはヤクザな世界でデビューはできたんだから、約束は守るだろ。芸能界なんて汚いもので、きみは関知しなくていいんだ。きみは僕が守ってあげるから」
 そして小百合は彼と結婚し、子供も生まれて幸せになりました。手の甲に残る傷跡は消えないけど、それだけだったら許せなくもないらしいのよ。小百合は寛容な女性だから。でもね。
「その彼がテレビで言ってたの。録画してあるから見て」
 おりに触れては話を聞いてあげていた私の家に来て、小百合がデッキにDVDをセットしました。主人と私はそれを見ました。なんとかいうチンピラコーラスクループが、五人でトークしています。啓次郎が言ってました。
「いや、大学生のときにね、啓次郎さんが好きって告白はされたことがあるんですよ。背の高い美人だったけど、俺には美人すぎるかなって、断ったんです」
「ああ、彼女、つきあってたんじゃないの?」
 別のメンバーが尋ね、啓次郎は言った。
「かなりつきまとわれたけど、断ったよ。彼女は今では金持ちの奥さんになってるから、俺なんかとつきあわなくてよかったんでしょ」
 テレビ画面で笑っている啓次郎を見て、小百合は呟いた。
「こんなふうに言われるなんて、悔しいのよ。こんな奴、二度と見たくないのに、最近になってなぜか売れてきたみたいで、見えてしまうんだから」
「そうねぇ。気持ちはわかるけどね……」
「じゃあさ、早苗、きみのブログに書いてあげれば?」
 主人が言ったのがきっかけで、このブログを書いたのです。出てくる人間みんな匿名ですけど、下劣な男っているものですよね。芸能人が全部こうだとは、思いたくはないけれど」


 学生時代の追憶が蘇ってくる。宝井早苗、結婚前には八幡早苗さんだった彼女は、僕の大学の先輩だ。僕は八幡さんにちくちくと苛められたことはあるのだが、その後に再会したときにはまったく忘れ果てられていた。
 あれは僕が大学二年か三年か、卒業した八幡早苗さんに学校近くの喫茶店で会った。八幡さんは僕の知らない女性と話していて、その女性は八幡さんの学生時代の友達だったはず。八幡さんはそのひとにも、ブログに書いてあるような話をしていた。
 八幡さんの友達の名前は忘れたけれど、編み物の上手なふっくらした、純朴なひとだったような……そのひとが八幡さんの言葉を信じかけ、喫茶店のママさんが、そんなのは嘘よ、と言い、僕も最後にひとこと、嘘です、信じないで下さい、と言い残して店から逃げ出したような。
 記憶がかなり曖昧になってはいるが、そんなことがあったはずだ。あのころの僕は小さくて気が弱くて、長身で強そうな八幡さんの前ではびびっていた。
「ブログにまで書くなんて……しかも、今になってって、なぜ? 売れてきたから?」
 口にしたくはなかったので、心の中で呟く。フォレストシンガーズの本橋真次郎さんと八幡早苗さんの間に、こんなことはなかったはずだ。ないはずだ。なのになぜ、八幡さんはこんな文章を書くのか。「癒せぬ傷跡」のあとにはもうひとつ、記事があった。

「「癒せぬ傷跡」を読んだ方からは、大きな反響をいただきました。
 私としましては友達のためになり、みなさまにこんなことがあったと知っていただければ、それで満足です。あいつはそんなひどい奴だったのか、そしたらファンをやめる、というメッセージもいただきましたけど、それはご自由に。
 信じないとおっしゃる方もいます。ラジオのアナウンサーさんなどは、私が葉書を送っても無視するんですよ。せっかくいいネタを提供してあげたのにね。
「早苗、あの話、もっと詳しく書けば?」
 小百合は言ってました。
「私はもっと書いてくれてもいいのよ」
「あのくらいでいいんじゃないの?」
「張本人の啓次郎は気づいてないみたいだから……」
「悔しい?」
「ううん。いいわ」
「そうでしょ。あなたは高潔な人柄を持つ女神のような女性だと、旦那さまにだって言われてるんじゃないの。私ほどの社会的地位を持つ人物のブログには信憑性もあるんだから、本人の知らないところで告発はできてるんだから、何度も書くのはやめましょうよ」
「早苗がそう言うのならね。そうよね。あなたも高潔な女性だわ」
「そりゃあ、私たちは親友同士なんですものね」
「いい意味での似た者同士よね」
 ここで橋本啓次郎と小百合のお話は終わりにします」

 だそうなのだが、自作自演。早苗と小百合が同一人物なのは僕にはわかる。どうしてこんなふうに?
早苗さんはどんなつもり? 胸がぎゅーっと痛くなってきて、我慢できなくなってきた。
 明日は飛行機に乗るのだが、今夜はまだ宵の口だ。早寝するつもりだったのをやめておけば、最後に先輩に会いにいける。激しく迷ったものの、三沢さんに会いにいこうと決めた。三沢さんは言ってくれていたから。
「おまえがニューヨークへ戻る前の夜は、俺は仕事は早く終わるんだよ。早く帰って寝て、フライトの日には車で迎えにいって、成田まで送ってやるよ。車の中でしっぽりずっぽりざんばりと、別れを惜しもうぜ」
 後半はご遠慮申し上げたいのだが、辞退すると怒られるので、ありがたく申し出を受けた。が、車の中ではパソコンを見るわけにもいかない。今夜のうちに三沢さんと話したかった。


 彼がここに引っ越してきてから、幾度も幾度もお邪魔させてもらった先輩の部屋。三沢さんとは学生のころから親しくしてもらっていた。三沢さんのほうがひとつ年上なので、彼が卒業してからはすこしだけ縁が遠くなっていて、三沢さんがフォレストシンガーズの一員としてデビューし、僕がラジオのADとなってから、徐々に仲良しが復活していった。
 仕事で失敗して死にたいと言って、金子さんにひどく叱られてひっぱたかれて、三沢さんになぐさめてもらいたくて、この部屋を訪れて泣いた夜。
 悪魔に魅入られて女の子と寝て、その子に財布を盗まれて、お金がなくなってここへ助けを求めにきたこともある。あの夜には乾さんが来ていて、事情を打ち明けて乾さんに頬を叩かれて泣いた。両方の夜に、三沢さんは僕を励ましたり笑わせたりしてくれた。
 ニューヨークに留学するときに、僕の東京のアパートは引き払ったから、三沢さんの部屋はもうひとつの故郷のようだ。どんなにかお世話になった先輩の三沢さんに、早苗さんのブログの話をしたかった。してはいけないのかどうか、判断しにくかったけれど。
「うん、知ってるよ」
「知ってるんですか?」
「そうなんだ」
 今夜は三沢さんの部屋で、ふたりしてパソコンに向き合っている。三沢さんは以前に「姫女神日記」を読んでいたのだそうで、話してくれた。
「学生時代の八幡さんについては、おまえも知ってるだろ。本橋さんと彼女の事情は知らないんだよな。時効……なのかなぁ。シゲさんには悪いんだけど、そこから話さないと……」
「シゲさん?」
「話すと長いよ。徹夜になるかもよ」
「いいんです。話して下さい」
 本橋さんと乾さんが大学を卒業し、シゲさんとヒデさんは四年生、三沢さんは三年生だった夏の日、アマチュアフォレストシンガーズが練習をしていた本橋さんのアパート近くの公園に、八幡早苗さんが練習の見学にやってきた。
 八幡さんは女子合唱部のメンバーで、美江子さんとは知り合いだったのだから、彼女から聞いたといって、フォレストシンガーズがプロを目指して励んでいるとも知っていた。
「本庄くんと偶然にも会ったの。それで連れてきてもらったの」
 そう言った早苗さんの言葉を、三沢さんは疑った。
「偶然っていうよりもね、シゲさんと早苗さんってつきあってるんじゃないかと、俺は思ったよ。早苗さんは普通にふるまってたけど、シゲさんのほうがぽわわん目線で早苗さんを見てるんだもんな。シゲさんって恋愛経験の少ない純な男だったじゃん。そういう奴って恋をすると態度に如実にあらわれるんだよ。乾さんもヒデさんももちろん、本橋さんも気づいてたかもしれないな。シゲさんひとりは、ばれてないと思い込んでいた」
 シゲさんにも彼女ができたんだ、こんな美人なんだから、よかったね。三沢さんは最初は単純にそう考え、シゲさんを祝福してあげていた。
「ところが、ある夜に早苗さんがひとりで公園にやってきて、本橋さんをブランコのそばだか砂場だかに引っ張っていったんだ。聞いてはいけないのかとも思ったけど、早苗さんは俺たちにも聞かせたかったのかもしれない。ふたりが話しはじめたころにはシゲさんはまだ来てなくて、乾さんとヒデさんと俺の三人で聞いてたよ」
 かいつまんでいえば、早苗さんは本橋さんが好きで、学生時代に告白したものの、断られてしまった。美人で誇り高き八幡早苗さんは逆上し、復讐のチャンスを窺っていた。その網にひっかかったのが、哀れな純情青年、本庄のシゲさんだった。
「本橋さんへの面当てに、早苗さんはシゲさんをホテルに誘ったんだよ」
「……そんな……」
「世の中のどこかにだってなくもない話しだろ。早苗さんが本橋さんにそんな話をしていたら、途中からシゲさんも来た。ヒデさんと俺は、シゲさんには聞かせたくないと思ったんだけど……」
 乾さんは言ったのだそうだ。シゲに現実を直視させろ。
 そのきびしさは乾さんらしい。シゲさんは仲間たちとともに八幡さんの真相告白を聞き、八幡さんは本橋さんに言われていた。
「俺はおまえは嫌いではなかったけど、今夜、大嫌いになった。帰れ」
 私もあんたなんか大嫌い、フォレストシンガーズなんてデビューできないで消えていけばいいんだ、捨て台詞を残して去っていった早苗さんを、本橋さんはそっと送っていった。そういうところも本橋さんらしい。
「でね、シゲさんは言ったよ。詐欺に遭って金をだまし取られるよりはいい。俺のハートは頑丈なんだから、こんなんじゃこわれないって。酒巻、おまえが泣くな」
「でも……」
 涙が出てくる。三沢さんは僕に大きなタオルを貸してくれた。
「時効ってほどに昔の話だよ。そんなつらい経験をしたシゲさんには、今では恭子さんと広大と壮介がいるんだから、笑い話になってるさ。でも、美江子さんや章や恭子さんは知らないんだ。言うな。絶対に言うなよ」
「はいっ」
 よい返事をしてから、タオルで鼻をかんだ。
「そのあとはシゲさんは、気丈にふるまってたよ。でも、時々は泣きたくなってたのかな。ヒデさんが言うには、乾さんにがつんとどやされて、しゃきっとしたんだって。殴られたわけではないんだろうけど、ああいうときの乾さんってきびしいもんな。そこがまたかっこよくて、ユキちゃんは惚れちゃうのよぉ」
「三沢さん、ユキちゃんにならないで下さいね」
「はい」
 こっちもよい返事をしてから、三沢さんは続けた。
「それだけのことだったら、若き日の悲しいエピソードなんだよ。でもさ、早苗さんは……話をねじまげて自分を偽ってただけなのか、自分でもそう思ってたのか。何人かのひとから話を聞いたんだよ」
 実は僕も聞いたのだが、その話はあとにして、三沢さんのほうを聞いた。
「俺と同じ学部の三浦って奴の奥さんは、おまえと同い年のつぐみちゃんだよ」
「つぐみちゃん……ああ、なんとなく覚えがありますよ。合唱部にいた、小柄でぽっちゃりした可愛い女性ですよね」
「そうそう。彼らの縁は俺が取り持って、ずっとつきあって結婚したんだ。そのつぐみちゃんから何度か聞いた。八幡さんが本橋さんにつきあってくれって言われて……っていう、ブログに書いてあったのと似た話は、俺はつぐみちゃんの口からはじめて聞いたんだ」
 つぐみちゃんは八幡さんと近い職種の企業につとめていて、たまたま会ってランチを一緒に摂り、そんな話を聞かされた。半信半疑だった彼女は彼氏の三浦さんに打ち明け、三浦さんが三沢さんに連絡を取ったというわけだった。
「すこし前に三浦とつぐみの家庭に招かれて、八幡さんを思い出して、ブログを探してみたんだ。あのころは本橋さんのことなんか書いてなくて、ブログについても忘れちまってたら、ヒデさんからメールが来てさ」
 ヒデさんまでが知っているとは、僕としてもちょっとびっくりだった。
「明らかな誹謗中傷だろ。でも、本橋真次郎だのフォレストシンガーズだのと書いてるわけでもない。ヒデさんは蜜魅さんに話して、蜜魅さんとも相談したって言ってたけど、削除だの閉鎖だのさせるほどじゃないって結論だったみたいだな」
 蜜魅さんとは、フォレストシンガーズやグラブダブドリブの漫画を描いている女性だ。僕は聞いていないが、ヒデさんと親密なのか。もしかして恋人同士? ヒデさんももてるんだな。いいなぁ、背が高いと、などと気持ちをそらしそうになったのを引き戻した。
「最新記事に出てくるラジオのアナウンサーって、沢田愛理さんじゃないんですか? 愛理さんなんだとしたら、金子さんも知ってるんじゃないんでしょうか」
「知っていそうだけど、金子さんだって重大問題じゃないと思ったからこそ、特になんにも言ってないんだろ。本橋さんには言ったのかな……いや、言ってないはずだよ」
「そうなのでしょうね。他に知ってるひとは?」
「そういえば喜多さんがさ……」
 ただいまは母校の中国語会話講師になっていると、金子さんから聞いた喜多晴海さんだ。喜多さんも本橋さんたちと同い年で、女子合唱部のメンバー。学生時代には情報通だといわれていた。
「ちらっと八幡さんの話をしてたって……雄心が言ってたな。雄心は八幡さんを知らないけど、あいつの言ってた話の内容からすると、八幡早苗さんなのかなって……」
 雄心とは、三沢さんのいとこである。三沢雄心くんも僕らの大学に入学し、合唱部にも入り、喜多さんとも知り合っているのだそうだ。
「だけど、あんまり話を広げたくないよ。特に美江子さんと恭子さんには知られたくないな」
「そうですよね」
 ふたりして腕組みをして、どうするべきか、どうもしなくてもいいのか、と悩んでいると、起動してある三沢さんのパソコンがメール着信を知らせた。
「哲司だよ……酒巻、見てみろ」
 偶然ってのはあるものなんだなぁ、と感嘆しきりの声を出す三沢さんの横から、哲司くんのメールを読んだ。

「ねえ、宝井早苗のブログって知ってる?
 「姫女神日記」っていって、てめえのガキの名前らしいんだ。
 「姫はじめ」ってなんだっけ、って思って検索してたらヒットしたから、姫さまの女神ってなんなんだろ、って思って読んだんだよね。
 そしたらさ、橋本啓次郎って名前が出てくるんだよ。これって本橋さんじゃないの? 三沢さんも読んでみて。ひでえ内容なんだよ。この女、いかれてるんだろ」
 
 ぷんぷんマークがついている。姫はじめって……そんなものを調べるのは哲司くんらしいというか、知らないとは意外と言うか。
「俺らの知り合いではパソコンに堪能なのは、ロスアンジェルスにいるエミー、神戸にいるヒデさんの友達の新之助、それからおまえ、その次にはこいつだよ」
「僕はニューヨークに戻るんですから、東京にいるのは彼だけですね」
「その通り」
「では、哲司くんに対策を練ってもらいましょうか」
「あいつは暇なんだし、知られちまったんだったら巻き込んだほうがいいかもな」
 僕が学生時代に聞いた、早苗さんとその友達との会話はあとで話そう。パソコンに向かって、三沢さんが長い長いメールを打ちはじめた。


2・哲司

 おまえはパソコンに強いだとか詳しいだとか、三沢さんのメールにはそう書いてあったが、それは関係ないじゃないか。要は僕が暇人だから、宝井早苗って女に仕返ししろって意味だろ。やってやろうじゃん。
 三沢さんにしても酒巻さんにしても、「姫女神日記」を隅々までは読んでいないらしい。僕は僕の任務のために、細かい部分までを読んだ。早苗ブログを全読破するのは、相当な辛抱を要する仕事であった。
 パソコンなんか使うよりも直接攻撃のほうが手っ取り早い。ケイさんが仕事の打ち合わせで関西に行き、今日からは留守になるという日に、僕は下調べをして繁華街へと出かけていった。
 ここは宝井早苗のお気に入りの街。彼女は自分で「私のような社会的地位のある人間」と書いていて、それはあんたの義父やダンナがそうなんだろ、と言いたくなったのだが、社会的地位はともかく、夫の金を自由に使える立場ではある。
 姫女神ってガキも小学生になり、家政婦なんかもいるようで、いわゆる有閑夫人になっている早苗は、英会話のお稽古だのテニスのレッスンだの、アロマテラピーだのの習い事をしている。上流階級の主婦たちのコーラスサークルでは講師までやっているらしい。
 早苗が本橋さんや三沢さんや酒巻さんの卒業した大学では、合唱部にいたのは本当だそうだ。とはいえ、ちょい音痴だったような……歌はあまり印象に残ってないような……と三沢さんがメールに書いていたのだから、講師にしたのは主催者のおべっかなのかもしれない。
 宝井早苗、という名前ではたいしてなにもひっかからなかったが、彼女のブログに出てくるキーワードで検索したら、出没場所が掌握できた。そのたぐいを調べるためにはパソコンを駆使して、準備万端整えて行動開始。
 オープンカフェの店先で抹茶ラテを飲んでいると、車が止まった。中から降りてきたのが宝井早苗だ。ブログには写真もあったからまちがいない。派手な服を着て派手な化粧をして、サングラスをかけている。香水のかおりをふりまく、僕よりも背の高い女。
 先入観がありすぎて、こんな女は嫌いだとしか思えないが、心と裏腹の行動を取れるのが僕だ。早苗は派手だから目立っているが、中背よりもやや小柄程度の僕は街では目立たない。さりげなーく早苗を尾行していると、知り合いの高校生に会った。
「……ホシオ」
 本名は知らないが、僕がベッドの手ほどきをしてやった奴だ。愛称はホシオ。哲司さん、もう一度、ね? とせがまれてもはねつけているので、彼は僕に恋焦がれているらしい。こいつは使える奴なので、甘い声を出して頼みごとをした。
「あの女、ちょっと脅してくれない? 報酬はキス」
「……キスだけだったらいやだよ。ベッドも」
「ま、それでもいいよ。そこに僕が出ていくから、適当にさからって、適当に逃げろ」
 ベタな展開の打ち合わせをすませ、ホシオと別れる。早苗がひとりでほっつき歩いているのが幸いだ。ホシオは中身はなよなよなのだが、一見強面だから、女を脅すには適役だろう。
 なおも早苗をつけていくと、ホテルのティルームに入っていった。早苗が近づいていくテーブルには男がいる。彼もサングラスをかけていて、ふたりはふたことみこと、会話をかわしている。ベタすぎるけど、もしかしたら面白いかもな、と思って、ふたりのシーンを盗撮しておいた。
「私の主人ったらやきもち妬きなんですのよ。それだけ私を愛してるってことですよね」
 そんなべたべたのろけを早苗のブログで読んだから、ことによったら写真を使えるかもしれない。
 密会の相談でもかわしたのか、男が先にティルームを出ていく。早苗はアイスティを半分残して化粧室に立ち、化粧を直してから外に出ていった。ホシオも早苗をつけている。人通りの少なくなったあたりで合図すると、ホシオが早苗のとなりに並んだ。
「ねえ、おばさん、僕を買わない?」
「……はあ?」
「綺麗なおばさん、いい香り。安くしておくよ、なんて言わなくてもいいよね。おばさんみたいな女のひとって、なんだって高いほうが好きでしょ。僕は見た目はわりとごついけど、おばさんの好みに合わせて……」
「おばさんじゃありません」
「おばさんじゃん。ああ、でも、おばさんって言われるのがいやな年頃なんだね。そしたらお姉さん。綺麗なお姉さん、僕をおもちゃにして」
 脅すのではなくその作戦に出たか。早苗は目を白黒させたり、怒り出しそうなのをこらえている顔になったり、ホシオを振り払おうとしたり、早足で歩こうとしたりしている。
 早く歩こうとしてもヒールの高い靴ではうまくいかず、ころびそうになる。ホシオが彼女の肘をささえて、耳元で甘ったるい台詞を囁いているのだろう。そうだとしたら僕が教えてやった台詞だ。僕はふたりのうしろに歩み寄った。
「いやだなんて言わないで。逃げないで。逃げたら叫ぶよ。このおばさんが僕を買いたいって言ったのに、やっぱりやーめた、って逃げたんだよ、って言ったらどうなると思う? それにさ、おばさん、浮気しようとしてたんじゃないの? あのときにも僕はいたんだから、写真は撮ったよ。おばさんって結婚してるんだよね。ダンナさんに見せてもいい?」
「浮気なんか……」
「してないんだとしてもさ、ダンナさんは疑うんじゃない?」
「……お金がほしいの?」
「そうじゃなくて、あなたがほしいの。ってか、あなたに抱かれたいんだ。綺麗でいい香りのする背の高いおばさん。気が強そうなのに、意外と弱そうでもあるおばさん、スキだよ」
「……そんな……私はそんな……」
 変則的ではあるが、綺麗な顔の若い男の子にナンパされてる気分? 思いがけなくホシオはけっこう言う。高校になんかろくに行っていなくて、暇人なのは僕と同じだから面白がっているのだろう。
 作戦変更、それでいこう。僕はホシオにケータイでメールを打った。あのおばさんと僕のきわどいシーンを撮れよ。あとできみにもしてあげるからさ。ホシオのパンツのポケットで、ケータイが着メロを響かせている。ホシオはケータイを片手で取り出し、片手で開き、もう片方の手で早苗を抱き寄せていた。
「……ねえ、どうする? ここで服を脱ぐ?」
 言いながら、ケータイを見ている。早苗は怒っているのか困っているのか、硬直したようにホシオに抱かれていた。
「こんなの、あなただったら慣れてるでしょ。困らなくてもいいじゃないか。可愛いひとでもあるんだね。僕ひとりじゃ物足りない? ああ、ちょうどいいところに来た」
 最初の計画ではホシオに早苗を脅かさせ、僕が助けに入って恩を売り、本題に切り込んで脅してやるつもりだった。が、こっちのほうが面白そうだ。僕が一歩踏み出すと、ホシオが言った。
「そこの知らないお兄さん、一緒に遊ぼ」
「なにやってんの、知らない坊や? へええ、綺麗なひとだね」
「でしょ。三人でホテルに行かない?」
「ここででもいいけど、3pか。刺激的だね」
「おばさん、脱ぐ? 無理にやったらいけないから自主的に脱いで」
「手伝ってあげるよ」
 ふたりして小声で卑猥な台詞を口にする。早苗はいやがっているような、もじもじしているような風情で身体をよじっている。もてているつもりでいるのだろうか。
 どっちかっていえば僕はMだし、ホシオもそうなのかと思っていたが、美人で性格の悪い金持ちの奥さんをいびっていると、嗜虐的な快感が起きる。むろん彼女は脱いだりはしなかったが、抱きしめて胸元に顔を突っ込んでも拒まなかった。
 ホシオが写真を撮っているのは、僕にはわかる。モロに露骨ではないように、僕は早苗さんの服の中に手を入れ、いかがわしく触れ、手を動かし、いろんなポーズでキスをした。
 乾さんは演技で千鶴とこうやっていたのか。乾さんは気持ちよかったのかもしれないけど、僕は気持ち悪い。女のひとが嫌いってわけでもないのに、早苗は嫌いだから、抱いていてもさわっていてもキスしていても気持ち悪い。でも、我慢はできる。
 演技で乾さんに抱かれていた千鶴は、気持ちがよくて乾さんに恋しちまったんだろ? 馬鹿な奴。早苗さんも気持ちいいの? 女は全部が馬鹿だと言うつもりはないけど、千鶴は可愛い馬鹿。早苗は気持ちの悪い馬鹿だ。
「乾さんが好き。だけど、乾さんは千鶴に恋はしてくれていない。可愛いと思ってくれているのは恋とは別でしょ?」
 千鶴なんてどうでもいいのに、そう言っていた言葉が聞こえてくる。
 男であって男そのものではない僕には、乾さんの気持ちはわからない。千鶴の気持ちも、こんなときの早苗さんの気持ちもわからない。彼女の服の奥深くまで手を侵入させて、乳首をつまんでみる。あ、と淫らな声が漏れて、早苗さんが崩れそうになった。
「あなたってえっちだね」
「……や……め……」
「そのあとに続く言葉は、ないで、でしょ? ホテルに行く?」
 人通りゼロってわけでもないのに、都会の人々は他人には無関心。かかわりたくなさそうに避けていく。僕の故郷の島でだったら、女性が若い男ふたりに囲まれていたら、農業やってるじいちゃんが助けにいくだろうな、なんて思うと笑えてきた。
 すーっとホシオが離れていく気配。早苗さんは僕にすがりついてようやくって感じで立っている。こんなものでいいだろうか。
「あいつ、この写真を撮ったはずだよ。さっきの浮気の打ち合わせはなんとでも弁解できるだろうけど、これは無理だね。あなたのダンナがやきもち妬きだってのは、ブログで読んだよ。あなたのダンナの親父ってのがなにものなのかも、僕は知ってるよ」
「ブログって……」
「宝井早苗さん、愛してる」
 気絶しそうな顔をして僕を見つめる早苗さんの、形のいいくちびるにもう一度キスをした。ホシオはきっとこのシーンもばっちりケータイにおさめただろう。早苗さんを突き飛ばすようにして身体から身体を遠ざけ、ホシオにメールした。
「その写真は削除しろ。保存しておくとやばいよ。早苗さんのダンナってさ……うふふ」
 あとは知らない。ホシオの性格は底までは知らないのだから、単純な奴だったとしたら僕の言いつけを聞くだろう。聞かなかったとしても、僕には関係ないもんね。


 まずはニューヨークに帰っていった酒巻さんに報告した。
「…………」
「チャットで……ってなに?」
「絶句してるんだよ」
「なんで?」
「誰がそんなことをしろって言ったーっ!!!」
 うわ、酒巻さんが怒ってる。三沢さんが言っていたのを思い出した。
「酒巻って怒らない奴なんだよ。シゲさんも簡単には怒らないけど、酒巻とシゲさんはちがったふうに春風駘蕩……意味不明だったら辞書を引け、って言う乾さんもあまり怒らない。乾さんは怒るんじゃなくて叱るほうで、彼に叱ってもらえる人間は幸せだと思わなくちゃいけないんだ。俺? 俺は腹が立ちにくいようにできてるんだな」
 だそうであるにも関わらず、酒巻さんは怒っている。チャットの台詞は、う、む、ぐ、そんな……などと続いていた。
「それで、あとはどうしたの?」
「ホシオがどうしたのかは知らないな。あいつは僕にメールしてきてるけど、そこんところには触れてない。近いうちにご褒美をあげにいって、言い聞かせておくよ」
「なんて?」
「強請ったりするな、って言えばいいの? 早苗ってあんなので懲りたのかな」
「……僕にはわからないけど、それだけで十分だろ。そんな報復手段だなんて、僕には信じられないよ。なんたることをするんだろ」
「酒巻さんって常識人なのね」
 わざとおねえ言葉を使ってやると、酒巻さんが反撃してきた。
「常識人でもいいんだよ。それって十分に強請りだろうが」
「金ちょうだいとかって言ってないよ」
「性的暴行を加えたんだろ」
「性的だけだよ。暴行じゃないもん」
「その話、田野倉さんにはした?」
「してないよ。ケイさんもどっか常識人だったりするから、全身ぶっ叩かれそうだもん」
「わかってるんだね」
「言いつけるつもり? 酒巻さんと三沢さんだろ。僕にあの女に仕返ししろって言ったのは」
 ことの起こりは彼らの学生時代。とすると、僕は瀬戸内海の小島の小学一年生くらいか。僕が性に目覚めてもいなかったころに、八幡早苗が本橋真次郎にふられ、シゲさんを使って陰湿な復讐をした。そんなものに使われるシゲさんもシゲさんだけど、純な男っているものなんだね。
 復讐したのは早苗のほうなのに、彼女は金持ちの男と結婚して幸せなはずなのに、フォレストシンガーズなんて売れずに消えればいい、との望みがかなわなかったせいか、何年もの間に早苗の中では、本橋真次郎への恨みが積もり積もっていったのか。
 そもそもは本橋さんが早苗をふったからだ。ふられた男を恨んでいるうちに、実は彼は私が好きだったのよ、になり、彼と私がつきあっていたら、になり、あいつとつきあったら金をせびられていやになったかも、になる。
 誰でもそんな暗い想像はしなくもないかもしれない。だから、あんな奴とつきあわなくてよかったんだ、から、実際にあったことだと思い込む。
 早苗がそれを実際にあったのだと思っていたとしたら、なかったと立証するのはむずかしいかもしれない。三沢さんや酒巻さんは、本橋さんや美江子さんにはブログについては知られたくないらしいのだから、僕みたいな部外者に言ったのだ。
「テツシ、おまえはパソコンには強いだろ。早苗さんのあのブログは酒巻とヒデさんと俺は知ってるんだけど、当事者は知らない。知らせたくない。特に美江子さんと恭子さんには知られたくないんだよ。秘密裏に、どうにかできないか?」
 そのあとに長々と、本橋、早苗、シゲの真の顛末が綴られていた。本橋さんがそんなことをするとは思ってもいなかった僕の気持ちを、三沢さんが裏付けしてくれた。だが、考えてみたら、復讐しろとは三沢さんはメールには書いてなかった。
 けれど、僕にはああしかできなかった。早苗は懲りはしなかったのかもしれないが、ちょっとは震えただろう。僕の脅しはいやらしくも効果的だったと思いたい。早苗のブログにはコメントはできない形になっていたし、メッセージを送る気には関係者たちもなれなかったらしいのだから、ああしかできないではないか。
 ネットの世界にはちょいといかれた奴は大勢いる。僕もその部類かもしれなくて、別人になってえっちな書き込みだとか、しなくもない。僕はえっち方面が得意なのだから、復讐だってああしかできないのだ。そう思っていると、いや、こうかも、と考えついた。
 本当は早苗は幸せではなく、各種欲求不満なのかもしれない。性的な部分は僕が満たしてあげたのだから、人助けをしたのかもしれない。
「陰湿な報復には陰湿な報復でお返しだよ」
「目には目を?」
 そんな言い方もあったな。僕はチャットで、うん、と応えた。
「ちょっと待って……ああ、テツシくん。なくなってるよ」
「姫はじめのブログ?」
「ひめか」
 どっちでも同じじゃん、と思いつつ、別画面を開いて「姫女神日記」を検索する。そうも素早く削除するとは思えなかったので、確認もしなかったブログは消えてなくなっていた。
「ということは、有効だったんだよ」
「そうなのかなぁ。釈然としないけど……」
「そしたらもういいじゃん」
「いいけど、三沢さんにはなんて報告しようか」
「僕がしておいてあげるよ」
「どう言うの? きみのことだから……」
 変な想像をしているに決まっている酒巻さんとともに、僕も変な想像をする。想像がまとまったら三沢さんに報告しよう。ヒデさんにも報告してあげようか。
「あ、そだ。ヒデさんの彼女って知ってる?」
「いや、あの……」
 知ってるくせに、僕が知らなかったら困るから口ごもっているのか、僕が先に言ってあげた。
「漫画家なんだろ。ゲイの漫画も描くひと。彼女は個人ブログはやってないみたいだけど、ゲイ漫画やゲイ小説の出版社のブログにイラストを描いたりしてるよ。公式サイトもあるみたいだね。彼女ってグラブダブドリブ漫画でデビューしたんだよね。酒巻さんはグラブダブドリブの誰かと会ったことはあるの?」
「ないよ」
 なぜか、「ないよ」の文字が嘘っぽく見える。僕は男らしくないせいか直感が鋭いのだ。にしても、ないと言っているのだから追求はしないでおこう。
「僕はロックにはあまり興味ないんだけど、グラブダブドリブの中根悠介ってすっげえギタリストだろ。会いたいな、紹介してよ」
「田野倉さんにしてもらったら?」
「ケイさんは会ったことはあるらしいけど、僕に紹介するほどは親しくないんだよ。酒巻さんが紹介して」
「無理だよ」
 紹介して、無理、のフレーズがいくつも並んだあとで、酒巻さんが発言した。
「ヒデさん、再婚するのかな」
「結婚ってのはめでたいの?」
「そりゃそうでしょ」
「酒巻さんもしたいの?」
「したいよ」
「男と結婚したら?」
「馬鹿野郎」
「あらら、酒巻さんも馬鹿野郎なんて言うんだ」
「口では言ったことはないけどね」
 チャットでだったらいばれる弱虫か。そうでもなさそうなので、言わないでおいてやった。
「僕は蜜魅さんってほとんど知らないんだけどね」
「蜜魅って名前だけは知ってるんだね」
「……あ、まあね」
 やはり酒巻さんはヒデさんの彼女を知っている。僕は名前は出さなかったのに、漢字もきちんと合っていた。
 蜜魅さんとは僕も会ったことはないけれど、漫画家なんて変人だと相場が決まってる。ヒデさんは三沢さんや乾さんや金子さんと比較すれば普通の男だから、漫画家になんかついていけるのだろうか。変人の夫は意外に普通の男のほうがいいのかもしれないが。
 ケイさんの前に保護者だった僕の遠縁の女性、春子さんは顔を合わせるたびに言う。近頃はこうも言うようになった。
「東京には変わった女性も多いでしょ。偽装結婚なんてのもいいかもしれないわよ。哲司の両親はあんたを真人間にしたいんだし、息子が結婚してこそ親の義務を果たしたと考えるタイプの人間なんだから、なんだっていいから結婚したら?」
「ケイさんと?」
「ケイさんとじゃなくて、女とよ」
「女と結婚なんかしたくないっ」
「そしたらケイさんでも……そうね、できなくはないみたいよ」
 春子さんが教えてくれたところによると、性転換して女性になれば、日本ででも僕も男と結婚できるらしい。だけど、僕は女にはなりたくない。男のまんまでケイさんと結婚できるんだったら考えてもいいけど、むこうがいやがりそうだし。結婚したって意味ないし。
「ケイさんと結婚したって、親父もおふくろも喜ばないよ」
「それもそうだ。だけど、結婚したらいいこともあるのよ」
 子供も持てるし、遺産ももらえる。春子さんはそんな話もしていた。
 結婚してからケイさんが死んだら、彼の著作権が僕のものになるのか。それだったら興味なくもないが、このまんまでいるほうがいいな。
 僕の望みはいつまでもケイさんとこのままでいること。大人になりたくない。ガキのテツシでいたい。そんな望みはかなわないと知っていて、悪あがきをする。僕は終生、ワルあがきばっかりのワルのテツシでいい。
 ヒデさんや酒巻さんは結婚したいんだったら、可愛い女と家庭を築いて幸せになれよ。僕は僕の道を行くんだから。ケイさんと一緒に……なのかどうかは不明だけど。
「酒巻さんは彼女にふられたんでしょ?」
「思い出させないで。でも」
「次の彼女を早く見つけてね」
 早苗さんのブログの件は終了したと決めて、ここからは恋の話。ゲイの恋の話は酒巻さんは聞きたくないのかもしれないけど、遮らずに聞いてくれる。
 あんなやな女には「目には目を」の復讐をしてもいいんだ。酒巻さんみたいな優しい男には、逆のいいことがあるよ。男は美人が好きで、可愛けりゃなんだっていいと言われてるけど、女も同じだよね。その意味で酒巻さんは不幸だけど、いつかは酒巻さんのいい性格だけを見てくれる女があらわれるはずだ。
 「目には目を」の反対語ってなんだろ。なんて考えつつ、僕はケイさんの話をする。チャットだと合間には別件も考えていられるのだから、酒巻さんは捨てられた彼女についても考えていたのだろうか。

END





 

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茜さん、GOODな結末(* ̄◇ ̄*)ラ(* ̄・ ̄*)ブ(* ̄〓 ̄*)チュッ♪満足で~す(^^)vありがとうございますm(_ _)m

ホッとしました

こんな下品なの、いやっ。
って怒られるかと不安だったのですが、
よかったよかった。

それにしても偶然って多いですよね。
小説の場合は仕方ないのかな。

茜さん、ほんと偶然ってすごいよ~!

今日、会社で、早苗さんとそっくりな人種の話を聞いちゃった|||||/( ̄ロ ̄;)\||||||| NOッ!!

でも、現実なんだよ!!茜さんはすごい!!

今度聞かせてね

まー、それこそ偶然でしょうけど、
ありそうな話なのかも。

聞かせてもらうのを楽しみにしています。
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