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小説235(Say yes)

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フォレストシンガーズストーリィ235

「Say yes」

1

 生まれつき口は軽いのであろうが、言うべきではないことは言わないという分別はある。それも幸生が大人になったあかしだろう。言うべきではなくはないから言ったようで、酔った幸生がふっと言ったのだ。
「ヒデさんは他人のブログなんかも読むんでしょ」
「暇なときに有名人のブログを呼んだり、ネットをさまよってて惹かれた知らないひとのブログを読んだりはしてるよ」
「宝井早苗さんのは?」
「宝井?」
「姫女神日記」
 知らないんだったらいいんだよ、あのブログ、最近は更新してるのかなぁ、幸生は独言めいて言っていて、印象に残った。宝井早苗なんて女性の名前は記憶にもない。ブログタイトルも知らないけれど、家に帰ってパソコンに向かって検索してみると出てきた。

「みなさま、こんにちは。
 蒼天銀行頭取の義理の娘の早苗でございます。
 姫女神(ひめか)とは私のひとり娘でございまして、このたび、K学園幼稚舎に入園させていただきました。
 愛しいひとり娘とわたくし、主人や家族との素敵な日常生活をブログに綴って参ります」 

 冒頭の挨拶文の日付は、三年以上前だ。ブログを開始したばかりのころは更新頻度が多かったのが、徐々に放置されるようになっていて、ここ一年ほどはぽつりぽつりとしか更新されていない。娘の幼稚園のお受験ブログのようなので、読む必要もないかと思って閉じようとした。
 閉じようとした手が止まったのは、最新ブログタイトルだった。「癒せぬ傷跡」とある。覗き趣味ではあろうが、読みたくなってクリックしてみた。

「この話は友達の経験談なのですよ。彼女の学生時代の経験です。
 過去の話なんだからいいのよ、って彼女は言うけど、彼女にとっての癒せぬ傷跡だわ。涙ながらに話す彼女の話を聞いて、私の主人が言ったのよ。そういう奴は許せない、きみのブログで発表して、社会的制裁を加えてやれよって。
 社会的制裁なんて、無力な女には加えられないわ。書くだけでも発散できるからいいの。彼女のために書きます。
 あれは十年ほど前、彼女は大学生でした。
 大学では彼女は音楽のサークルに入っていたの。彼女は当時から美人だったし、華やかで目立っていたわ。背が高くてスタイルがよくて、性格もいいんだけど、東京生まれの東京育ちでお金持ちの娘だといえば、女の子たちには妬まれるのよね。
 男性の先輩はこうなのよ。
「小百合(仮名)さん、俺とつきあってくれ」
「私は男性とおつきあいするのは、結婚を前提としてだと決めています。先輩は私と結婚したいのですか」
「学生のときから結婚を前提ってのは……」
「では、お断りします、すみません」
 何度も何度もそんなことがあるの。そりゃあ、小百合がもてるのは当たり前だし、交際を申し込まれるのも当たり前。結婚できる相手でなくてはおつきあいはしたくないというのは、正しいことでしょう? なのに、噂が悪いほうへと流れていくのよね。
 小百合は美人だからってお高くとまって、よほどの玉の輿でも狙ってるのか、誰に交際を申し込まれても断るのよ、って言われるんです。
 そんなことばっかりで、小百合は孤立していきました。だけど、彼女は高潔でまっすぐで輝くばかりの美しい性格を持っていたから、歪んだりひねくれたりはしなかったわ。大好きな音楽に身を捧げて、彼女の本質をわかってくれる、真実の魂の友達とだけつきあっていました。
 そんな小百合が大学を卒業する間際に、同い年の男性に言われたのです。
「小百合さん、俺とつきあって」
「あなたは私と結婚するつもりなの?」
「もちろんだよ。俺は今はまだアマチュアだけど、将来はプロの歌手になる。必ずなってみせる。きみが俺のそばにいてくれたら、努力する目標にもなる。小百合さんを幸せにするためにも、俺は歌手になるから。力を貸してくれ。小百合さん、愛してるよ」
 誠意を持って告白してくれたのだから、小百合はうなずきました。
 もちろん小百合にとってははじめてのひと。彼は有名になったから、匿名にしますね。橋本さん、橋本啓次郎、本名とは似てるのかしら。どうかしらね。
 名前なんてどうでもいいんだけど、彼は別段ルックスがいいわけでもなかったのよ。背は高いけど、優しいってこともなくて、最初は小百合とつきあえるからって舞い上がっていたみたいだけど、次第に尊大になっていったの。
「きみのために俺は努力してるんだ。就職もしないで歌を歌うことに生命を賭してるんだよ。わかってくれるだろ。だから、ホテル代だって食事代だって、俺が成功したら返すよ。全部借金ってことにしてくれ。ごめんな、小百合さん」
「ううん。いいのよ。私も働いてるんだから、あなたのためにお金を出して援助してあげられるのは嬉しいわ。気にしないで」
「そう言ってくれるからきみが好きだよ。プレゼントも期待してるから」
「ほしいものがあるの?」
「××のショーウィンドーに飾ってあった、スタジャンがほしいな。俺に似合いそうだろ」
「あれ、前に、いいなって言ってたね。けっこう高いんじゃない?」
「そんなところでケチるなよ。きみと結婚するころには俺は流行歌手になって、ミンクのコートだってダイヤの指輪だって、外車だってマンションだってばんばん買ってやるんだから。な、小百合、いいだろ。買って」
「そうね。あなたには衣装だって大切だものね」
 ふたりで男性用ブティックに行き、彼のお目当てのものを買ってあげると、外に出た啓次郎は小百合を優しく抱いて、ありがとう、と囁いた。
 女だってそうやって男性にプレゼントするのは、嬉しいものなのよ。彼は感謝してくれて、それを着てオーディションに出かけていったりもする。小百合は寛容でふところの深い女性だったから、母のような心で啓次郎を見守っていたのね。
「あ、これ、いいな。小百合さん、買ってよ」
「……高いね」
「高くもないじゃないか。ケチるのか」
「うん、買って……あげる」
「ありがとう」
 だけど、度重なるとうんざりしてくる。食事代やホテル代を払わせるのも、洋服や靴を買わせるのも、当然だという態度になってきたの。
「小百合さんは大企業勤務のキャリアウーマンなんだから、収入もいいんだろ。これしき、買ったって平気だろうが」
「ボーナスが出たら買ってあげるわ」
「買ってあげるって言い方、気に入らないんだけどな」
「ああ、ごめんなさい」
「まあいいよ。そしたら、今日は俺んちですき焼きでもしようか。うまい肉が食べたいな」
 すき焼きの材料も、すべて小百合のお金で買うの。そんなことばっかりで、小百合は次第に気が重くなってきました。
「……啓次郎さん、約束のプレゼント」
「ああ、ボーナスが出たのか。じゃあ、今夜は食事も豪華版なんだろ」
「悪いけどね、これっきりにしない?」
「別れようって? なぜ? 俺はきみに嫌われるようなことをした? おごってもらうからか? きみも嬉しいって言ってたじゃないか」
「一度、二度だったらいいけど、このごろはいつもいつもじゃないの」
「俺は金がないんだよ。心苦しいのを耐えて、将来のための投資を……」
「知ってるつもりだったけど、我慢できなくなってきたの」
 十二月の街角で、彼は小百合を見つめ、橋の欄干に登ったんだそうよ。
「きみが俺を捨てるつもりだったら、俺はここから飛び降りるぞ」
「やめてやめてっ!!」
 そうやってなし崩しにされてしまって、二度、三度と別れ話が駄目になって、このまんまでは私が駄目になると小百合は思った。啓次郎は一年たってもいっこうにプロの歌手としてデビューできるようにもなく、彼のために使うお金が嵩んでいくばかり。
 そんなときに、小百合は職場の取引先の男性に交際を申し込まれたの。小百合はためらったわ。ためらったけど、高潔な人柄ゆえに正直に打ち明けたのです。
「あなたにつきまとってる最低な男がいるとは、薄々は知っています。僕にまかせてくれますか」
「それは……?」
「僕が話をつけますよ。いざとなったら手を貸してくれる者もいる。そういう奴って毅然と対決すれば弱いんだ。きちんと解決したら、小百合さん、僕と結婚してくれますね」
「こんな私でいいんですか」
「そんなあなたがいいんです。僕はあなたを遠くから見ていた。これだけの女性はあなた以外にはいない。女神のようなひとだ。その男は僕にまかせてくれますね」
 後に夫となるひとがそう言ってくれて、小百合は彼にすべてをまかせたの。それでうまく行けばハッピィエンドだったのでしょうけど、そうは行かなかったのね。残業で遅くなったある夜に、小百合は公園で待ち伏せしていた男に、ナイフで切りつけられたのよ。
 ナイフが小百合の真っ白な美しい手を切りつけ、小百合は気を失った。気がつくと、婚約者になった彼の腕の中にいた。手には真っ白な包帯が巻かれていました。
「あいつですか」
「だと思うけど、証拠はないから……」
「目撃はしなかったんですか」
「逃げていく背中は見ました。背の高いあの背中はまちがいなく……でも……」
「証拠としては弱いのかもしれませんね。とにかく、僕の家に行きましょう。あなたをひとりぼっちにはしておけません」
 そのあと、婚約者がどうしたのかは、小百合ははっきりとは知りません。ただ、啓次郎がとあるコーラスグループの一員となってデビューしたのをテレビで見て、婚約者に問いかけると、こんな答えが返ってきたのです。
「二度と、絶対にきみにはつきまとわないようにって、裏取引があったんだよ。あいつはヤクザな世界でデビューはできたんだから、約束は守るだろ。芸能界なんて汚いもので、きみは関知しなくていいんだ。きみは僕が守ってあげるから」
 そして小百合は彼と結婚し、子供も生まれて幸せになりました。手の甲に残る傷跡は消えないけど、それだけだったら許せなくもないらしいのよ。小百合は寛容な女性だから。でもね。
「その彼がテレビで言ってたの。録画してあるから見て」
 おりに触れては話を聞いてあげていた私の家に来て、小百合がデッキにDVDをセットしました。主人と私はそれを見ました。なんとかいうチンピラコーラスクループが、五人でトークしています。啓次郎が言ってました。
「いや、大学生のときにね、啓次郎さんが好きって告白はされたことがあるんですよ。背の高い美人だったけど、俺には美人すぎるかなって、断ったんです」
「ああ、彼女、つきあってたんじゃないの?」
 別のメンバーが尋ね、啓次郎は言った。
「かなりつきまとわれたけど、断ったよ。彼女は今では金持ちの奥さんになってるから、俺なんかとつきあわなくてよかったんでしょ」
 テレビ画面で笑っている啓次郎を見て、小百合は呟いた。
「こんなふうに言われるなんて、悔しいのよ。こんな奴、二度と見たくないのに、最近になってなぜか売れてきたみたいで、見えてしまうんだから」
「そうねぇ。気持ちはわかるけどね……」
「じゃあさ、早苗、きみのブログに書いてあげれば?」
 主人が言ったのがきっかけで、このブログを書いたのです。出てくる人間みんな匿名ですけど、下劣な男っているものですよね。芸能人が全部こうだとは、思いたくはないけれど」

 三文ドラマというか、チープなシナリオというか。読むのに努力を要した文章を読了して、俺は腕を組んだ。
「小百合ってうちのおふくろと同じ名前、いや、それは偶然だろうけど、これは……橋本啓次郎……早苗? 早苗って結婚前はなんて名前だ? 八幡か?」
 友達の話だと前振りするのは、こういった場合の常套手段だ。宝井早苗が八幡早苗であり、橋本啓次郎が本橋真次郎であれば……幸生が宝井早苗の名前を出したのもうなずける。幸生はこのブログを読んだのか。最新記事を読んだのだろうか。
 そうだとすればよくもこんな中傷だらけの記事を書くものだ。俺は知ってるんだぞ、と抗議メールでも送りつけてやりたいところだが、本橋さんなんて名前はどこにも書いてないじゃないの、と言われたらそれまでだ。
 事実を知っている者はいい。章以外のフォレストシンガーズのメンバーは、早苗とシゲと本橋さんがからまったあの事件を知っているのだから、このブログを読んでしまっても、嘘ぱっかりだと笑い飛ばせる。
 章は読んだとしたら、幸生が言い聞かせて誤解を解くだろう。章がひとりで疑心暗鬼に駆られ……ではなかったらなんとかなる。問題は美江子さん? 美江子さんはあの事件を知らないはずなので、気になるのだが。
 他にも、中途半端に彼らの学生時代だの、デビュー後のフォレストシンガーズを知っているひとが読んだとしたら?
 宝井早苗の旧姓は八幡だと、俺は決めた。娘に姫女神なんて名前をつけるのも、早苗らしい。蒼天銀行頭取の嫁という立場上、自分のこととしては書けなかったのであろうが、今さらなんだってこんな悪意をぶつけてくるのだろうか。
 フォレストシンガーズがかなり売れてきたからか。あの一件は早苗の中では、どう形を変えて記憶になっているのか。本気でこうだと思い込んでいる可能性もありそうで、悪寒と吐き気がしてきそうだった。
「幸生、姫女神日記の最新記事、読んだのか」
 知らせる必要があるのかどうか、判断がつかないままに、幸生にメールを送った。幸生からの返信は翌日、届いた。

「俺があれを読んだのは一年くらい前だったかな。あのときには早苗さんは、お嬢ちゃまの自慢話とご主人ののろけ話ばっかり書いてましたよ。
 だから忘れるつもりだったんだけど、ふっと思い出してこの間、ヒデさんに話したんだよね。ヒデさんも読んだら、早苗さんは変わってないなって笑うと思ったんだけど、ひでえ内容じゃん。当局に通報して削除してもらおうか。ブログを閉鎖させたほうがいいかな」
 
 これで八幡早苗だと確信は持てたのだが、削除、閉鎖、そこまでするべきなのかどうかは、俺には判断できなかった。


2

 取材のために京都に行っていたという蜜魅さんが電話をかけてきて、俺の仕事も終わったあとで神戸で落ち合った。
「京都から神戸ってけっこう遠いのに、来てくれてありがとう」
「ヒデさんに会いたかったから。はい、お土産」
 音楽家は俺の周囲には大勢いる。もの書きもいるし、電気屋も学生もいる。わりあいにさまざまな職種の人間の知り合いがいるほうだろうが、漫画家は彼女だけだ。
 親しくなるにつれて、蜜魅さんの仕事も知るようになった。ロック漫画、グラブダブドリブが主役のロックと高校生たちの漫画が、彼女の出世作といってもいいだろう。雑誌の連載も好評で単行本にもなり、アニメにもなり、アニメのおかげで俺は蜜魅の名前を知った。が、本名を教えてくれない。
 その程度の仲なのだから親しいとも言い切れなくて、だけど、こうしているのはデートではないのかと思う。女が仕事のついでとはいえ、嫌いな男に会いにきてくれるはずがないとも思う。
 彼女の真意は俺にはわからなくて、ただの友達だと思われているのかもしれないが、それはともかく、彼女の仕事には俺が苦手で苦手でたまらないジャンルも含まれる。いわゆるボーイズラブ漫画、そんな名前は俺は蜜魅さんに聞いて初に知ったのだが、ネットにもあるのだから、見たくもないのに見えるのだ。
「そのジャンルだけは俺は読みたくないよ」
「そお? 男性はそうかもしれないね」
「嫌いだって聞いても気は悪くしない?」
「私がヒデさんの書く曲調は嫌いだって言ったら、気を悪くする?」
「人間性が嫌いだって言われるよりはいいかな」
 嫌いなものは嫌いなんだから、しようがないと蜜魅さんは言ってくれた。
 女ってものはただでさえ不可解なのに、蜜魅さんは八つも年下だ。しかも漫画家という不可解職業。ただ、口がおごっているのでもなく、おしゃれな店でなくてはいやだというようなこだわりもなく、基本的にはいたって庶民的な性格をしているようなので、デートもファミレスでもよくて気楽だった。
「あ、甘納豆が湿っとう」
「なに、それ、シャレ?」
 もらった土産を開けてみると、濡れ甘納豆だった。
「ヒデさんは甘いのは嫌いじゃないんでしょ」
「甘いものは好きだけど、湿った甘納豆はあんまり……納豆はからっと乾いてるもんやろ」
「納豆って言われると、朝ごはんの友を思い出すわ」
 彼女は美江子さんと同じ栃木県出身だ。高知では甘くない納豆は食べないの? と言っていたが、食べなくはない。だが、俺は湿った納豆は嫌いなので、乾いた甘納豆が好きなのだった。
「そうだったの。嫌いだったのか」
「いや、嫌いではないよ。食うから。ありがとう」
「無理しなくていいのよ。京都の有名店のものだけど、嫌いだったら駄目だもんね。じゃあ、こっちをあげる。濡れ甘納豆は私が食べて、私が食べようと思って買ったこっち」
「蜜魅さんは甘党じゃないだろ」
「このくらいだったら食べるからいいの」
 美江子さんも甘党ではないそうだが、蜜魅さんは甘いもの嫌いのはずだ。彼女のほうこそ無理をしているのかと思ったが、出してくれた別の包みを開けた。
「七味煎餅……おかき。これは辛そう」
「からいのは嫌い?」
「いや、好きだよ」
 香辛料は苦手なのだが、好き嫌いばかり言うと男らしくないと思われて嫌われそうだ。濡れた納豆よりは辛いおかきのほうがいいので、受け取っておいた。
「取材はどうだった? なんの取材をしてきたの?」
「幕末ものの短編を描けって依頼があって、新選組や坂本龍馬のゆかりの地を歩いてきたの。ヒデさんって龍馬は得意よね」
「龍馬には飽きとるし、歴史は得意でもないけど、幕末だけは別ちや」
 東京人のユリの前では気取った標準語を使っていた。蜜魅さんも東の女性だが、あまり気取るとボロが出るので、ある程度は関西弁や土佐弁もまじえる。龍馬の話し言葉は古い時代だから現代土佐弁とはちがうのだろうが、漫画に使うのだったら教えてあげられそうだ。
 京都が好きだったユリを思い出しながら、歴史好きのシゲも思い出しながら、蜜魅さんの京都取材の話やら、幕末の志士やらの話をする。そんな話もとぎれたころに言ってみた。
「蜜魅さんは本橋さんとはかなり親しい?」
「それほどでもないな」
「そっか。あのね、こんな話ってしてもいいのかどうかわからないけど……」
 先日読んだ、「姫女神日記」についておおまかな話をした。
「まったくの事実無根やきに」
「そうなの? それはひどいね。本橋さんは読んでないんでしょ」
「たぶん幸生だけしか読んでないはずだよ。その女性は有名人でもないから、興味を持って探さないとヒットしないだろうから」
「私も読んでもいい?」
「俺にはどうすることもできないかもしれないけど、読んでみてほしいな。俺は彼女の書いてる本橋さんと彼女の事情を知ってる。まったくの事実無根だってのは保証するから」
「うん、わかった」
 その話は彼女がブログを読んでから改めてすることにして、気になっていた質問をした。
「本名は言いたくない?」
 うーん、どうしようかな、という顔をして、蜜魅さんは手帳を開いた。そこにはこんな名前が書かれてあった。小山田三津葉。
「おやまだ、みつは? いい名前だね」
「語感は悪くないんだけど、漢字にすると長ったらしいでしょ」
「小笠原と小山田は似てるし、俺としては親しみを持つけど、漢字で六文字は長いか。女性だから特にかな。小笠原英彦だって、ガキのころには書くのが面倒だったよ」
「でしょ」
 小笠原三津葉でも、長ったらしいのは同じであろう。
「全部書いても短い名前、東光葉なんかだったらよかったのになぁ、ってペンネームを考えて、名前だけみたいな蜜魅に決めたの。みっちゃんって呼ばれてたから、頭に「みつ」ってつく名前には愛着があったのよね」
「うん、みつみって響きもいいよ」
「これからはみっちゃんって呼んで」
「うん」
 みっちゃん、俺んちに来ない? 言いたくてうずうずする。電話してくれたのが昨日だったとしたら、部屋を整理整頓しておいたのに。
「出ようか。みっちゃん、ファミレスぐらいはおごらせて」
「駄目。割り勘にしましょ」
「そりゃあね、蜜魅さんは俺よりも稼いでるもんな」
「……そういうことを言うひとは嫌いよ」
「あ、ごめん」
 仕事を持っていて収入もある女性には、恋人同士でもおごってはいけないのか。最近触れ合った女といえば、泉水とユリ。泉水は俺にはまずおごらせてくれないが、ユリとはベッドの関係もあったせいか、旅行に行ったりしたら俺に旅館や食事の代金を出させ、お礼よ、と言ってプレゼントをしてくれた。
 ユリがくれたネクタイや靴は捨てるべきなのか。彼女のセンスは俺の好みに合っていて、捨てるには惜しいと思ってしまうのはみみっちいのか。俺はみみっちいからふられてばかりなのか。
 その上にひがみっぽい台詞を言ってしまった。蜜魅さんはテーブルに今夜の食事代の半分を乗せて、先にファミレスから出ていってしまう。俺は車で来てはいるけれど、ヒノデ電器の営業車だ。こんな車に乗ってホテルにも行けやしない。
 散らかった部屋でも俺の部屋だ。フォレストシンガーズの面々ならば招いて、章なんぞは、俺の部屋よりは片付いてるよ、と言っていた。誘いたい。蜜魅さんと身体も恋人になりたい。心はつながりつつあるはずだが、抱き合わないと恋人になった気になれないのは、俺が俗物だからか。
 俗物だっていいけど、蜜魅さんは怒ってしまったのか。俺がひがみっぽくもみみっちいからかと思うと、誘い文句も口にできなかった。
「新神戸駅まで送ろうか」
 駐車場の俺の車のそばで、蜜魅さんは待っていた。
「新幹線の最終はまだあるだろうけど、ヒデさん、怒ったの?」
「蜜魅さんこそ……」
「みっちゃん」
「ああ、みっちゃんだったね。好きだよ」
 車に身体を隠して抱きしめた。蜜魅さんはあらがいはせず、私も、と呟く。勢いを得てキスをして、ふたりして車に乗り込んで、もう一度ディープなキスをした。
「ふう……」
 まあ、しかし、キスはキスだけだった。このままホテルに……とでもみっちゃんが言ってくれるのかと思ったのだが、彼女はこう言った。
「ヒデさんを怒らせたのかと思ったけど、そうじゃなくてよかった。じゃあ、駅まで送ってね」
「帰るの?」
「うん」
 この次はあるのだろうか。これはいわゆる遠距離恋愛になるのだろうか。遠距離だったらユリとだってできるのではないのか。いや、ユリは忘れるとしても、俺は恋をしたら結婚して家庭を持って、子供を作りたいという俗な夢を持っているのに、みっちゃんとだとかなわないのか。
「三津葉って読んでくれてもいいのよ。私を三津葉って呼ぶ男性は他にはいないから」
「……お父さんは?」
「父もみっちゃんって呼ぶの」
 野暮な質問をした俺に微笑みかけて、車から降りる前にもう一度キスしてくれた。
「おやすみ、三津葉」
「素敵な夢を見てね、ヒデさん」
 ヒデさん、三津葉と呼ぶようになったのだから、キスもしたのだから、恋人にはなれたのだろう。せいてはことを仕損じる。俺は車に残り、ホームへのエレベータに乗る三津葉を見送っていた。
 家に帰ってパソコンを起動する。ブログは毎日更新しているのでもないが、パソコンと向き合うのは習慣になってしまっていて、俺はネット依存症になりかけているのかとも思う。そんなんは普通やと新之助は言うし、三津葉だって、それしき大丈夫だと言ってくれたのだが。
「ヒデさん、好きよ」
 先にメールボックスを開くと、三津葉からの短いメールが届いていた。新幹線の車内からケータイで送ってくれたのだろう。それでハートが薔薇いろに染まった。
 遠距離なのはまちがいなくて、境遇がちがいすぎて結婚もできないかもしれない。三津葉のような仕事をしている女は、独身主義なのかもしれない。そうだとしてもかまわないじゃないか。俺も三津葉が好きなのだから、彼女が好きだと言ってくれるのが飛び上がるほどに嬉しかった。


 東京に帰った蜜魅さん、改め、三津葉がメールをくれた。そこには好きだとは書いていなくて、こう綴ってあった。
「取材のため、もう一度京都に行きます。
 桜庭しおんさんについては話したよね? 彼女も幕末ものの小説を書くのだそうで、私と一緒に行くって言ってるの。紹介したいからデートしようよ。
 ただし、彼女は私の本名を知りません。言わないでね」
 そのような文面のメールを読み、会いたい、来てくれ、と返信した。
 自由業者ではないのだから、俺はそうは好き勝手に仕事を休んだり早退したりできない。ヒノデ電器のオヤジさんは融通の効く性格をしているし、俺がユリにふられたのは知っていて、新しい彼女を作れと言うのだから、三津葉という彼女ができたと言えば、早退だったらさせてくれるだろう。
 店はそんなに忙しくもないのだから、ヒデの彼女も大事やな、と言ってくれるではあろうが、それゆえにいっそう言いたくない。
 仕事で関西に来る機会の増えた三津葉に甘えて、こっちは出迎える立場になる。その日には桜庭しおんさんが同行するというのだから、ふたりしてホテルに泊まるのか。もしかしたらもしかして、との期待もあったので、前の日には部屋中の大掃除をした。
 世界で一番、俺の苦手なジャンル、ボーイズラヴ小説を書く桜庭しおんという名の作家については、多少は三津葉から聞いていた。男は知らなくても当然のジャンルなのだそうで、俺だって三津葉と知り合わなかったとしたら、そんなものがあるとも知らずにすごしてきた……いや、ネットもあるし、みずきさんというもの書きの知り合いもいるのだから、知らずにはいられなかっただろうが。
 知ってはいても深くは知りたくない、ボーイズラヴ小説家の桜庭しおんは、三津葉から聞いていた以上の美人だった。
「うっす」
「あ、ああ、はじめまして」
 背丈はシゲくらいか。俺よりはやや低い。スニーカーを履いているのだから、これで素なのだろう。男みたいなジャンパーを着てズボンを穿いて、低い声でうっすと言った桜庭さんを、三津葉は微笑んで見上げていた。
「俺はフォレストシンガーズなんてのにはなんの興味もないんだけどさ」
 彼女は俺と自称するとも聞いてはいたのだが、実際に耳にするといささかぎょっとする。しかし、桜庭さんは俺の顔色は意にも介さずに続けた。
「蜜魅がえらいファンだって言うし、こいつの漫画がアニメになったころに、フォレストシンガーズがどうとかこうとかって話を聞いたし、気にしてたらけっこう世間でも名前を聞くし、意識はするようになったよ。蜜魅から聞いて、あんたのブログも読んだよ」
「あ、ああ、どうも」
「桜庭さんはグラブダブドリブのファンで、中根悠介命なのよね。ヒデさんはグラブダブドリブには会ったんでしょ」
「会ったのか。なんの話をしたんだ?」
「なんの話ってほどでも……桜庭さんは会ったことはないんですか」
「あるさ」
 あるさ、としか言わないのは、話すのがもったいないのか、話すほどのことはないのか、ぶすっとしている桜庭さんに、三津葉が言った。
「グラブダブドリブも中根悠介もどうでもいいから」
「どうでもよくなんかねえんだよ。だけど、その話じゃなかったよな」
「桜庭さんの彼氏ってねぇ……」
「その話はもっとどうでもいいんだよっ」
 これだけの美人が荒い口をきくと、奇妙な色気を感じなくもない。
 が、俺はこんなに背が高くて細くて、胸が小さくて男っぽい女は趣味ではない。背が高めの女は嫌いではなかったが、もと妻と泉水という長身女に……いや、そんな未練がましい感情ではない。三津葉は小柄だから、小柄な女のほうが好ましいというだけだ。
「んでさ、蜜魅から話を聞いて、フォレストシンガーズの奴らについても知ったわけだ。本橋ってのがどんな奴なのかも、蜜魅からは聞いてるよ」
「桜庭さんにも、「姫女神日記」を読んでもらったの。いけなくはなかったよね?」
「もちろんいいよ。あれは嘘ばっかりだとわかってくれてるんだろ」
「……あんな女、ぶっ殺せ」
 おい、と三津葉と俺は同時に言い、桜庭さんは煙草に火をつけた。
 待ち合わせたのは三津葉が気に入ったという神戸のカフェで、喫煙席にしてね、と三津葉が言っていたのはこういうわけだった。桜庭さんは相当なヘビースモーカーであるらしい。俺の彼女でもないのだし、美人が男っぽく喫煙するのは、見ている分にはいい眺めだった。
 それにしてもぶっ殺せとは、俺だってこんな言い方はしない。
 女は概して複雑でややこしくて、男は女の機嫌取りに汲々としなくてはならない。俺の認識ではそうだったのだが、桜庭しおんはこの外見や言葉遣いに比例して単純明快なのか。中身も男らしいのか。ならば、俺とは男友達みたいになれるのか。
 桜庭さんを女性としては見ない。そんなふうに見ると三津葉に対して不貞であろうから、そのほうがいい。女性として見ないのであれば、いい奴だと言ってもいいような、そう言うと三津葉がなんと応じるのかと気がかりなような。
「橋本啓次郎、チンピラコーラスグループのメンバー、そういうキーワードはあるから、フォレストシンガーズの本橋真次郎さんかな? って思うひとはいるかもしれないね。でも、個人名を出してるわけでもないんだし、本橋さん自身にだって糾弾はできない程度の内容じゃない?」
「知らない奴はいいんだろうさ。三沢だのここにいるヒデだの、そういった知り合いが怒るような内容なんじゃないか」
「そうよね。まったくの他人ごとなのに、桜庭さんだって怒ってくれてるんだものね。だけど、殺すってのは穏やかじゃないよ」
「俺が小説に書いてやろうか。早苗って名前の女を出して……そいつはドMなんだよ。他人の前で男に裸にされていたぶられるのが趣味で、早苗の男もそういうのを面白がっていたんだけど、だんだん嫌気が差してきて、早苗を捨てるんだ。それで女嫌いになっちまった早苗の男は、ゲイに走るんだよ。おお、いいかも」
「勝手に書けば? 早苗なんてどこにでもある名前だから、いいんじゃないの?」
「おまえは姫女神って女を漫画に出して、いたぶれば?」
「私はそういうのは書きたくない」
 小説家にはこんな報復手段があるのか。怖っ。これでは桜庭さんはいい奴だとは言えない気もしてきた。
「警察はそういうのって取り締まらないでしょ。要さんに頼むってのも……」
「要は関係ねえけど、あいつだったらなんとかこう、脅迫はできるってか……やっちゃいけないよな。警察をクビになっちまうもんな」
「桜庭さんには警察官の知り合いがいるんですか」
 質問すると、三津葉が答えた。
「桜庭さんの彼氏の名前は、沢崎要っていうの。警官なのよね」
「沢崎?」
「ヒデさんの推理はきっと当たってるよ」
「あの沢崎司の?」
「そう、弟。そんな話は沢崎さんに聞いた?」
「いや、俺は沢崎司とは、パーティの会場で会って金子さんに紹介してもらっただけだから、会話もたいしてしてないよ」
 あのグラブダブドリブのベーシスト、沢崎司の弟が警官で、桜庭しおんの彼氏だとは初耳だった。
「司さんは弟さんたちに勘当されてるらしいのよ。木村さんがお父さんに勘当されたってのも大時代的だけど、頑固な父親だったら言うかもしれない台詞だよね。でも、司さんは弟さんたちになの」
 沢崎司には弟がふたりいる。刑事だった父親が殉死した際に、三兄弟は将来は警察官になろうと誓い合ったのだそうだ。誓いを守って弟たちは警察に奉職したのだが、兄はロッカーになった。よって、裏切り者と見なされて兄は弟たちに勘当された。
 三津葉がそんな話をしてくれ、桜庭さんは煙草をふかして不機嫌顔で聞いている。三津葉もグラブダブドリブは好きなようで、桜庭さんから聞いた情報も加わって、エピソードが次々に出てくる。しまいに桜庭さんが遮った。
「要の話ばっかすんなよ。俺は不愉快なんだよっ!! それより、ヒデ、土佐の志士の逸話ってのはないのか? マイナーなのがいいよ」
「小説に使うんですか」
「もちろんだろ。土佐の志士の誰かと誰かが恋仲だったって話、ねえの?」
「あったとしても俺は詳しくはないから知らないけど、幕末ものって流行ってるんですか。みつ……」
 おっと危ない。みつは、と言うところだった。俺は言い直した。
「蜜魅さんは幕末漫画、桜庭さんは幕末小説ですか」
「そうなのよ。桜庭さんのは幕末青春男同士ラヴストーリィ。ボーイズラヴの世界には時代ものってのも一派としてあるんだよね」
「新選組の誰かと誰かってのは、よくあるぜ。フォレストシンガーズにはないのか?」
「ファンサイトにだったらあるよね」
 頼む、その話だけはやめてくれ、と俺が小声で言うと、三津葉が意地悪口調で言った。
「ヒデさんもwebでだったら見ちゃったそうで、閉口してるんだよね」
「見たのか。はまったりして?」
「ヒデさんは硬派だから、そういうのにははまらないの」
「おまえが洗脳しろよ」
「洗脳だったら桜庭さんがすれば?」
「そうだなぁ……」
 ふたりして俺をじっとり見つめる。じっとり冷や汗をかきそうになる。三津葉と恋人同士になると、彼女の世界の住人たちがついてくるのか。ボーイズラヴだけは除外したいと言っても、どこかで接しているのだろうから避けられないのか。
 章の親父さんに近いほどに俺は頑固なのだから、そうたやすく洗脳されるつもりはない。けれど、三津葉とつきあうのは覚悟がいるのであるようだ。
 

3

友達なんてまったくいなかった時期もあったのに、ひとりと知り合うとその人間が別の誰かを連れてくる。沢崎司が俺と同じくらいの年齢なのだから、ふたりいる弟の下のほう、沢崎要は俺の弟くらいの年頃か。
 幕末もの小説を書くと言って、桜庭しおんは京都には詳しいほうである三津葉に同行してきた。あれから本決まりになった小説は、坂本龍馬と中岡慎太郎のラヴストーリィなのだそうだ。俺の郷里の英雄たちが堕落していく……と言ってはいけないのかもしれないが、気の毒に。
「そんなことは絶対になかったとは、言い切れないんじゃないの?」
「ない。ないないないない。ないきにっ!!」
「どうして? 龍馬も慎太郎も結婚してたから? そんなのは証拠にならないじゃないの」
「あのふたりには友情だの確執だのはあったかもしれないけど、恋情はない。ないったらないっ!!」
「いいのよ。小説なんだから」
 あっさりと三津葉に切り捨てられて、俺はうなだれるしかなかった。
 京都は歴史の遺産の宝庫だ。幕末といえば京都が舞台になる場合が多いのだから、小説家も漫画家も取材にくる。そして、神戸もまた坂本龍馬ゆかりの地だ。勝海舟の進言で創設されたとされる海軍操練所の碑が、神戸にある。
 龍馬なんて子供のころに聞きすぎて飽きたとはいうものの、俺にとっては親戚のおっちゃんに近い人物なのかもしれない。親戚のおっちゃんが下手な土佐弁を喋ると苛々するので、ドラマや映画は土佐弁の上手な役者が龍馬を演じていれば見る。
 小説や漫画でまでは龍馬ものを見たりはしないが、海軍操練所の碑は仕事のついでに見にいったことがある。そこを見るためもあって神戸に来た桜場さんが、恋人の沢崎要を俺に引き合わせてくれたのだった。
 警察官らしく長身で筋肉質で、あの沢崎司の弟らしく精悍な面立ちのいい男だ。俺にはロッカーよりも警官のほうが見ていて好ましく映る。警官に会うとおどおどしなくてはならないような、後ろ暗い人間ではなくてよかった。要は俺の弟の鋼にも似たタイプだった。
「ヒデさんは司とも会われたんだそうですね」
「会ったってほどでもないけど、紹介はしてもらったよ」
「あいつはあいかわらずなんでしょうね」
「あいかわらずかどうか、俺は以前の沢崎さんを知らないからね」
「あのまんまですよ。やさぐれロッカー」
 煙草の煙とともに言葉を吐き出す要に、しおんさんが言った。
「グラブダブドリブの悪口を言われると、俺は頭に来るんだぞ」
「悠介さんの悪口は言わねえよ」
「司の悪口も言うな。司は悠介の友達なんだからさ」
「聞きたくないんだったら耳をふさいでろ」
「おまえが言わなかったらいいんだろ。煙草ばっかばかばか吸ってさ。公務員だろ、おまえは」
「おまえだって煙草は吸いまくるんだから、そんな奴に言われたくねえんだよ」
 恋人同士ならば男は女にこう話しても不自然ではない。しかし、俺の感覚が古いのか、しおんさんの口のききようは、ちょっとなんとかしろよ、と思ってしまう。双方がこれだと恋人たちの甘い口論にはとうてい聞こえない。
 彼女にも本名はあるのだろうが、三津葉は知らないのだそうだし、そういえば俺はみずき霧笛さんの本名も知らない。もの書き同士はペンネームで呼び合うものなのだろうが、要も彼女をしおんと呼んでいる。
 低めとはいえ、しおんさんの声は女性のものではあるが、俺、おまえ、てめえ、馬鹿野郎、ぶっ殺す、死ね、そんな言葉を連発するしおんさんに、なぜ要は注意しないのか。放っておくつもりが口出ししていた。
「あんたは女だろって言われたくないのかもしれないけど……」
「言われたくないって知ってるんだったら言うな、馬鹿野郎」
「しおん、ヒデさんは年上だぜ。馬鹿野郎ってのは俺にだったらいいけど、ヒデさんに向かって言うなよ。おまえは俺の兄貴もヒデさんも呼び捨てにして……そんなだから女だろって言われるんだよ」
「兄貴? 司はおまえの兄貴じゃないんだろ」
「生物的には兄貴だよ。いや、おまえが司を呼び捨てにするのはいいんだけど、ヒデさんにはもうちょっと礼儀正しく喋れよ」
「いやだね」
 注意しないのではなく、彼女が言っても聞かないのであるらしい。学生時代にシゲが俺に注意ばかりしたがって、小言ばかり浴びせたがって、それをまるで俺が聞いていなかった。聞いていても気に留めていなかった。あの関係に近いのだろうか。
 言葉遣いからしても男同士のようで、それでいて、ふたりっきりになったらいちゃついたりもするのかもしれない。しおんさんは美人なのだから、もうすこし女を漂わせれば、要にとっては可愛い彼女なのかもしれない。
 第三者には見せない彼女としての顔も、要には見せるのかもしれない。それこそ俺には無関係なのだから、口出しはやめておこう。けれど、しおんさんは感情的な性格であるらしく、要と口論していて席を立っていってしまった。
「放っておいていいのか」
「いいんですよ。あいつ、方向音痴だから、ひとりではどこへも行けませんから」
「方向音痴だったらよけいに、どこかに行ってしまって迷子にならないか」
「どこへも行きませんって。あれでも女なんだから、化粧直しにでも立っただけでしょ」
 方向音痴だから前には三津葉と来て、今回は彼氏と来たのか。
「あれでけっこう女っぽいところもあるんだね」
「女っぽいにもさまざまあるんでしょうけど、女っぽい欠点はありますよ」
「そこが可愛い?」
「いや、あの……」
 ごほんと咳をする要は、こういう奴をこそ硬派だと名づけるのではなかろうか。俺はナンパ好きだから三津葉の言うような硬派ではない。あっちはどうなのかと質問してみた。
「しおんの書く小説や、蜜魅さんの描くある種の漫画ですか。ヒデさんのおっしゃりたいことはわかってますよ。うーん、まあ、漫画や小説はフィクションですからね。俺の身近にはああいう男はいませんから、しおんの小説なんか読まなかったらいいんだし」
「ネットは?」
「そういうのもあるみたいですけど、見ません。ヒデさんだって、身近にはゲイなんていないでしょ」
「いないと思うよ」
 実はいる。要もシゲと同じで、そのたぐいは信じられない、信じたくない、そういった人種は俺に近寄るな、俺には見えない場所で好きにやってろ、であろう。俺もその主義だったのだが、身近に変な奴があらわれて、すこしだけ認識を改めた。
 フィクションのゲイなんてものは見ないふりをしていればいい。現実に男の好きな男も、俺に言い寄ってこないのだったらいい。哲司って奴が本気ではなさそうに俺を好きだと言っていたが、あいつには男の恋人がいるのだそうだから、その人が永遠に哲司を「俺のものだ」と言っていてくれるように願いたい。
 現実のそんな話などはする必要もないから、身近にはいないと言っておいて、フィクションでもいやだよな、などと苦笑いで話していた。
「しかし、しおんさんは遅くないか? 彼女は化粧は濃くないだろ」
「化粧は好きでもないって言ってましたけど、女は他にも長いでしょ」
「なにやってるんだろうな」
「怒ってるから戻りたくなくて、すねてるのかもしれませんね」
「見にいってやらないのか」
「いいんです」
 意地っ張りらしいのも、硬派の男の特徴なのかもしれない。要は俺にもシゲにも鋼にも似ている。彼とはまちがいなく友達になれそうだった。
「この店だって、前にしおんが蜜魅さんと一緒にヒデさんと会った店なんでしょ。なのにあいつは場所をうろ覚えで、海軍操練所の碑ってのも調べてきたって言ってたくせにちゃんと覚えてなくて、俺が苦労したんですよ。方向音痴の癖って知ってます?」
「なんだろ」
「犬を連れたおじいさんが立ってた角を曲がって、だとか、ベランダに傘の干してあった家のむこうに見えたマンションだとかって、時間がたてばなくなってしまうなにかを目印にするんだそうです」
「なるほど」
 そんな話をしていても、しおんさんは戻ってこない。意地っ張り要も心配になってきたようで、ちょっと失礼、と言って立っていった。
 泉水は彼女というよりも友達のままで、プロポーズして断られたから一度も恋人同士にはなっていない。ユリは近くに住んでいたから、ケータイはなくてもどうにかなった。が、遠距離の恋人ができて、携帯電話を買った。
 ケータイは営業用ならば持っていたのだが、東京に住む三津葉とたやすく連絡が取れるように、私用のものを買った。操作を覚えるのに時間がかかったのもあって、三津葉には知らせていない。要を待つ間にケータイでメールを打った。
「しおんさんと要さんに会ってるんだ。これ、ケータイからのメール。私用のケータイを買ったんだよ。メールが届いたら急がないけど、返事して」
 パソコンのキーボードのほうが打ちやすい。ケータイの文字盤はやりにくい。やたらに時間がかかって短い文章を打ち終えたときにも、要もしおんさんも戻ってきていなかった。
「しおんさんと要が喧嘩をはじめて、ふたりとも消えちまったよぉ。あ、心配しないで。探してくるから」
 もう一度メールを打って、俺も席を立った。要は手にはなにも持っていなかったし、しおんさんはバッグは持っていったから、店から出ていってしまったのだろうか。とりあえず支払いをして、俺も外に出た。
「どこだって? ええ? 猫のいる塀? 猫なんて一瞬の後には消えるだろうが。不動の目印を言え。信号? そんなものはどこにでもあるだろうが」
 苛立った声は要だ。不安的中。方向音痴の彼女が迷子になったのか。ケータイで話している要に近づいていった。
「ああ、ヒデさん、すみません。ちょっと待って下さいね」
「待ってるよ」
「ヒデさんにまで心配かけてるんだぞ。そこはどこだ? 目印は? 花屋? アイビーフラワーショップ? それって……」
「そこに見えてるそれか?」
 交差点のむこうにアイビーフラワーショップがたしかにある。まだ店を開けている。そのむこうには曲がり角があるから、あの中の路地にでも迷い込んだのだろうか。要はケータイに向かって言った。
「動くな。待ってろ。場所はわかったよ。うるせえ。つべこべ言うな」
 まったく、あの馬鹿が、吐き捨てた要が走り出し、俺も追っていった。
 しおんさんがいなくなってから三十分ほど経過しているのだから、タクシーにでも乗れば遠くにも行ける。だが、徒歩で店の周りをうろついていて迷子になったのならば、あんなに近くにいても納得はできる。
「要くん、要、しおんさんに乱暴するなよ」
 怒っているようだから、短気そうな要が彼女を殴ったりしないかと心配になってくる。しおんさんは背が高くても細くて、要は大きくていかにも屈強そうだ。背中に声をかけても返事は聞こえなかったが、俺は要を追っかけて走った。
 さすが警察官。体力もあれば足も速い。俺を置き去りにして走っていった要を追って、俺も花屋の角を曲がった。
「やだよ、離せ」
「こんなところでおまえをひとりにしたら、でかい女の迷子だって警察の厄介になるだろ。俺が恥ずかしいんだよ」
「警察官としてはそんなのってみっともないからか」
「そうだよ。こら、逃げるな」
「やだってばっ!! 離せっ!!」
 人通りはないものの、ここは往来だ。要ではなくしおんさんが暴力をふるおうとしている。女が男を殴ったとして、目撃者がいたら通報されるのか。そうなると警官の要の面目が潰れるのか。俺が止めるべきか。
 しかし、止める間もなく要はしおんさんのこぶしから身をかわし、ぎゅーっと抱きしめた。苦しい、離せ、ともがきながら言っているしおんさんの声は、まぎれもなく彼氏に甘える女の子のものだった。
「ああ、ヒデさん、すみません。お騒がせしました」
「見つかってよかったな。どうする、メシ、一緒に食うか?」
「しおんは泣いてるようにはないから、メシは食えるかな。しおん、腹は減ってないのか? んん? なんだって?」
 背伸びをしたしおんさんが、要の耳元で囁いた。
「……まったく、わがままなんだから……ヒデさん、すみません」
「俺は邪魔だってか? 俺だって邪魔者にはなりたくないから、先に帰るよ」
「ああ、帰れ。あんたなんか……ああん、なにすんだよっ」
「黙れ、馬鹿野郎」
 こっちも彼女に馬鹿野郎と言う荒々しい男は、そのくせ優しくしおんさんを抱きしめ、俺には深く頭を下げた。
「じゃあな」
 もがこうとしているしおんさんと、優しく強く彼女を抱いている要に手を上げて歩き出す。やや遠ざかったあたりでしおんさんの声が聞こえた。
「龍馬って高知だろ。俺、高知って行ったことがないんだよね。蜜魅を連れていったことはある?」
 立ち止まってかぶりを振ると、要も言った。
「高知に行ってみたいな、俺も。ヒデさん、ダブルデートしましょうよ」
「ダブルデートって、古っ……」
「うるせえんだよ、おまえは。ヒデさんにあやまらないのか」
「ヒデになんかなんにもしてないもん」
「あれでしてないつもりかよ。そしたら俺には?」
「うるせえんだよ、馬鹿野郎」
「てめえ、この野郎」
 声でどっちが喋っているのかはわかるが、まったく男同士みたいだ。それでも声の響きには甘いものがあって、こんなカップルもいてもいいのかと思う。
 恋人同士なんてものは、当事者同士が幸せならばそれでいい。本物の男同士のカップルも、男同士みたいな男女のカップルも、いっぷう奇異であってもそれはそれでいい。哲司としおんさんが俺にそう教えてくれた。
「じゃあ、しおんさん、蜜魅さんと相談しておいて」
「うん。そうするよ。ヒデ、バイバーイ」
「おまえはそれでも大人か。いい年したでかい女が……」
「でかい女って言うな。でかい男のくせに」
「男はでかくてもいいだろうが」
「女はいけないって言うのかよ」
 まだ口論しているカップルに向かって、バイバイ、と俺も言った。こうして喧嘩をしていても、ふたりきりでどこかでメシを食って、ホテルに帰ったら抱き合うのだろうから、それで仲直りできる。恋人同士はそういうものなのだろう。
「喧嘩終了。俺は邪魔者だそうだから帰るよ」
 三津葉に短いメールを打った。
 この前に三津葉がしおんさんと一緒に神戸に来たときには、俺の期待は達成できなかった。俺は三津葉と喧嘩はしていないのだが、抱き合って濃く深く睦まじくなりたい。この次には要としおんさんと三津葉と俺と、四人で高知に行けるだろうか。

「余計な物など無いよね
 すべてが君と僕との愛の構えさ
 少しくらいの嘘やワガママも
 まるで僕をためすような恋人のフレイズになる
 
 このままふたりで 夢をそろえて
 何げなく暮らさないか
 愛には愛で感じ合おうよ
 硝子ケースに並ばないように
 何度も言うよ 残さず言うよ
 君があふれてる

 言葉は心を越えない
 とても伝えたがるけど 心に勝てない
 君に逢いたくて 逢えなくて寂しい夜
 星の屋根に守られて 恋人の切なさ知った
 このままふたりで 朝を迎えて
 いつまでも暮らさないか

 愛には愛で感じ合おうよ
 恋の手触り消えないように
 何度も言うよ 君は確かに
 僕を愛してる

 迷わずに SAY YES 迷わずに」


 ひとりで歩きながら、歌を口ずさむ。君はたしかに僕を愛してる……そんな手ごたえをつかみたい。三津葉にプロポーズしたい。
 女を好きになると結婚したくなって、早急にプロポーズしたくなって、それで俺は失敗するのか。三津葉は東京、俺は神戸。仕事の差もありすぎるし、彼女が好きだと言ってくれても、それすなわち結婚したいって意味ではないのだろうに。
 それでもいい。この次に会ったときには正式に言おう。俺は三津葉を抱きたい。できるものならば、おまえと呼びたい。この歌を三津葉に捧げたい。
「愛してるよ、三津葉、俺の彼女になって」
「私はもうヒデさんの彼女だよ。うん、ベッドに行こうね」
 三津葉がそう言ってくれると楽しい想像をしながら、きっと言おうと決意する。この次には必ず。必ず言おう。

END










 
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だいぶ前にコメントいただいていましたのに、お返事が遅れてしまいました。
Nさん、いつもありがとうございます。
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