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温度はお好みで・番外編1-2・幸せのひとひら2

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「温度はお好みで・番外編1-2」


「幸せのひとひら2」


1

 気づいたのか気づいていないのか、あのときにも顔を真正面から見られたのではなくて、彼は意識もしていなかったのか。見られたとしても覚えていないのか。どうあれ、山寺達也はおもてにはまったく、あのときの覗き女? といった色は浮かべなかった。
「はじめまして、井口聡子です」
「美穂の会社の経理の先輩なの。社内預金とかでもお世話になってるんだよ」
 二時間ばかり前、珍しく聡子が定時に退勤しようとしていると、美穂が声をかけてきた。
「井口さんもデートですか」
「私にはデートなんてないけど、たまには早く帰ってレンタルショップにでも行こうかなって」
「暇なんですか。じゃあ、私につきあって下さいよ」
「美穂ちゃんはデートじゃないの?」
 ひょんなきっかけで親しくなった石倉美穂は、現在では聡子の職場の唯一の友人といってもいい。十五歳も年下の新入社員の美穂とは、聡子の仕事柄関わりもあって、時には無駄話もする仲になっていた。
 聡子が職場の後輩と親しげにふるまい、美穂ちゃんなどと呼んでいるのを聞かれると、周囲の人間たちは一様にぎょっとする。あのおっかねえおばちゃんが美穂と仲がいいとは、どうして? と、口にはしないまでも、みんながそう思っていると聡子は感じる。
 であるので、普段は一緒にお昼を食べたりもしないのだが、立ち話程度ならする。美穂の彼氏も知っている聡子は、彼氏が忙しくてデートしてくれないから、私は代理かと思っていたのだが、美穂は自分勝手な台詞を言ってのけた。
「デートの約束はしてるんですけど、どうせ彼は遅刻するんだもん。小夜先輩は馬鹿馬鹿しくてつきあってられないって言うし。井口さんもいやですか」
「私は暇つぶしのお相手なのね」
「きゃああ、失礼ですよね。いやだったらいいんですよ」
 私だって馬鹿馬鹿しいからつきあってられないわ、と言ってやるべきだったのに、聡子の心が揺れたのは、美穂の彼氏に会えるからだった。
 あんな男は私には似合わない。一方的にちょっぴり憧れて、一方的に吹っ切った想いが、聡子の中にかすかに残っている。外見に恋をするなんて軽率で軽薄で、私はそんな馬鹿女ではないと決め込んでいた聡子が、自分には軽薄さもあったのだと知って、なぜだか嬉しかったからか。
 自己分析はできていないのだが、達也にも紹介すると美穂が言ったので、のこのこカフェについていった。二十歳の小娘ののろけ話しを聞いてやって一時間ばかり経過したころに、達也がカフェにあらわれた。
「美穂がお世話になってます。山寺です」
 幾度かは聞いた声で言って、達也は爽やかな笑顔を見せた。
「美穂、おまえ、社内預金なんかしてるのか」
 挨拶をすませると、達也は言った。
「井口さんは大先輩だろ。迷惑かけてるんじゃないのか」
「迷惑はかけてるかな。社内預金は利率がいいからちゃんとしてるけど、この間も貯金を下ろせるぎりぎり時間に井口さんにお願いして、慌てさせちゃったんだよね」
「仕事ですから。では、私は失礼して……」
 席を立った聡子に、達也が言った。
「美穂がおかけしている迷惑のお詫びとお礼のしるしと言ってはなんですが、食事をご一緒しませんか」
「邪魔者にはなりたくありませんから、失礼します」
「邪魔だったら誘いませんよ。な、美穂?」
「はっきり言ったら邪魔かも……」
 美穂が言い、達也は怖い顔になった。
「俺が遅刻するのは目に見えてるからって、その間のお喋りにつきあってもらったんだろ。そのために来てもらったんだろ。そのお詫びだってするのが礼儀だ。おまえは勝手すぎるんだよ。いやだったらおまえは帰れ」
「達也さんは美穂とデートしにきたんでしょ。井口さんのほうがいいの?」
「そうは言ってないだろ。まったくこのわがまま娘が……ああ、俺は飲み物はいりません。出ますから。美穂、来い」
 近寄ってきたウェイトレスに断りを言って、達也は美穂の腕をつかんで立たせた。怒るとかなり怖そう、とは聡子も思っていたので、すこしばかりびくつきながらもふたりについていく。達也はレジで支払いをしてから、聡子には穏やかに言った。
「俺が美穂に躾をしてるってのは、井口さんはごぞんじですか」
「はい。多少は聞いてます」
「では、しばしお待ちを。悪さをしたガキはその場でただちに叱るのが躾の鉄則ですからね。頭の悪い美穂はじきに、自分がした悪いことを忘れるんだ。申し訳ありませんが、井口さんはお待ち下さいね」
「帰ります。私は帰ります」
 重ねて言って、本当に帰ろうとしたのだが、べそかき顔の美穂にも引き止められた。
「井口さん、行かないで。帰らないで。ふたりっきりにされたら、美穂は達也さんに叩かれるんだもん」
「そうだな。どこかにおまえのケツを出させる場所は……」
「やだやだやだぁっ!!」
 先ほどだっていつだって、美穂の話題の大部分は達也が占めている。叱られる、叩かれる、とは美穂はたびたび言っていた。知ってはいても居心地がよくなくて、帰りたいのに帰れないのは、いったいなんのせいなのか。
 達也は美穂の腕を引っ張って歩いていて、美穂は小声でやだやだと言いながらついていっている。そのふたりのあとからついていく聡子は、何者に見えるのだろう。相当間抜けなポジションではないのかと考えつつも、聡子もふたりについていっていた。
 公園に入っていった達也は、ベンチにすわって美穂を膝に抱き上げた。小さな美穂が大柄な達也の膝に抱かれている姿は、父と娘のようにも、甘い恋人たちのようにも見える。生でこんなシーンを見るのは初だし、当然自分も経験はないので、聡子はテレビドラマでも見ている気分になりかかっていた。
「叩かれたいのか……だからああやって井口さんに……んん? なんだって?」
 やや距離を置いて立っているので、美穂の声は聞こえなくて、達也の声だけが切れ切れに聡子の耳に届いていた。
「だったら叩いてやるよ。膝にうつぶせにして……当たり前だろ……でないと痛くないだろ。こたえないだろ……嘘つけ、わがまま娘が」
 美穂は達也の胸に顔をくっつけている。達也は美穂を叱ったあげくに、低音で怒鳴った。
「ごめんなさいだろ、この駄々っ子のガキが!! はい、ごめんなさいと言わないと、この場でケツを出させて……言え。美穂、はいは、ごめんなさいは?」
 はい、ごめんなさい、と美穂の声。続いて泣き声。公園には人影がないからいいようなものの、聡子はいたたまれなくて、そこでとうとう逃げ出した。


 若い娘は自己中心的だ。聡子だって若いころはそうだったのかもしれないが、美穂を見ていると痛感も痛感も痛感する。翌日の昼休みに総務部のオフィスにやってきた美穂は、聡子をビルの外に連れ出して言った。
「井口さんが帰っちゃうから、あれから達也さんにホテルに連れていかれて、思い切り叱られたんですよ。今日は晩メシはヌキだ、なんて言うの」
「食べさせてもらえなかったの?」
「ルームサービスでカレーライスを食べたけど、いつもはもっと豪華な夕食なのにな。それでね、いっぱいいっぱい叱られて、ごめんなさいって言ってるのに、裸にされてお尻ぺんぺんもされました。けっこう痛いようにぶたれたの」
「はあ……」
 そのシーンを想像して赤面している聡子に、美穂は言った。
「おまえは井口さんを連れてきて、井口さんに失礼な真似をして、それで俺に叱られたかったんだろ、叱ってほしいんだったらこうしてやるよ、ってね。お尻ぺんぺん……」
「そういうつもりだったの?」
「そんなつもりはなかったけど、あったのかなぁ。井口さんに詫びておけ、きちんと詫びなかったらこの次のデートでケツ叩き十発だぞ、百叩きでもいいぞ、なんて言うんだもん。ごめんなさい。井口さん、達也さんに聞かれたら、ちゃんとごめんなさいしたって言って下さいね」
「はいはい」
 可愛いといえば可愛いのだが、二十歳にもなってこうだとは……達也も苦労しているのだろうと思える。恋人同士が躾のぺんぺんのとなると、聡子には理解できないのだが、幼稚園児の躾だと思えばなるほどであった。
「達也さんって怖いでしょ。あんなきびしい彼氏の躾についていってるって、美穂はえらい? 井口さん、返事して」
「はいはい」
「ああん、井口さんにも見放されちゃった。小夜先輩もあんまり聞いてくれないし、達也さんと次に会えるのはいつだかわからないし、美穂はひとりぼっち。かわいそう。しくしく」
 第一印象は馬鹿娘であり、長く話してみて、心栄えの可愛い娘だと評価を変えた。少々親しくなってくると、両方の要素を兼ね備えた娘だと思える。美穂もひとりっ子だそうで、同じくひとりっ子の聡子の気持ちは、姉心なのだろうか。
「あのね、美穂ちゃん」
 ぶるっと頭を振って、聡子は言った。
「あなたのお姉さん役は川端小夜さんにお願いしてね」
「小夜先輩はお姉さんで、井口さんはお母さん。嬉しいな」
「あのね……」
 お母さんとはなお悪い。怒りそうになったのをこらえて、聡子は言うべき言葉を言った。
「昨日のカフェの料金は、達也さんが払ってくれたのよね。いいのかしら」
「いいですよ。あんなお金は達也さんにしたらはした金でしょ。高給取りですから」
「では、達也さんに伝えてね。ごちそうさまでした」
「どう致しまして」
 やってられないわ、ではあったのだが、美穂はどうしても憎めない。母心に近づいてきているかのような自身の気持ちに、聡子は苦笑いしているしかないのだが、母だとしたら……母は娘が男とホテルに行ったと聞いたら怒るのではあるまいか。
 聡子の母ならばいまや喜ぶとも考えられるが、二十歳の娘の母は怒るはず。そうすると、聡子は美穂の母の気持ちにはなっていない。当然である。十五歳しか年齢はちがわないのだから。


 アルコールは愚であると聡子は思っているが、飲めば飲める。本日は経理課の飲み会で、女子は会費は少なくてもいいと課長が言ったのもあって、やむなく聡子も加わった。お酒よりは栄養補給が大切なので、栄養のありそうなものを食べていた。
 経理課の女子の中では最年長。他の女子は二十代だ。女性たちはファッションやアイドルの話し、男性たちは仕事の愚痴話をしているが、聡子は会話には参加しない。隅っこの席でひとり黙っていた聡子に、話しかけてきた男がいた。
「僕は社内の人間じゃなくて、課長に誘われて飛び入りなんですけど、そのせいでみなさんの会話に加われないんですよ。あなたもお喋りしてませんね。話してもいいですか」
「よろしいですよ。井口聡子と申します」
「僕はこういう者です」
 名刺には東光商事、総務部総務課主任、岡本義巳とある。「おかもとよしみ」とルビも振ってある。東光商事ならば聡子も知っている。彼は課長が懇意にしている、取引先の商社マンなのだろう。聡子も岡本に名刺を渡した。
「僕は三十四なんですけど、聡子さんはちょっと年下かな。三十くらい?」
「私は岡本さんのひとつ年上です」
「そうなんですか。若く見えますね」
「お世辞はけっこうですから」
「……えーと……聡子さんの肩書きは?」
「私は専門学校しか出ていませんので、出世はできません。永遠の平です」
「そんなことは……」
 困り顔になった岡本に、課長が言った。
「井口さんもそう木で鼻をくくったみたいな返事ばかりしないで、酒の席なんだから楽しくやれよ。井口さんにはどうも女としての魅力が欠如……」
 課長、セクハラ、と女子社員のひとりが言い、みんなして笑い声を立てる。聡子が無視していると、岡本が言った。
「魅力が欠如なんてことはないですよ。井口さんには内面から輝くなにかがある。課長はごぞんじでしょ」
「仕事のできるひとではあるよ。だからこそだな、世間的にはまだ若い三十五歳で、マンションを買おうって考えてるんだから。俺もその年頃にマンションを買ったけど、俺は結婚してて子供もいたよ。井口さんは独身で……しかし、そうやってマンション買って犬でも飼ったら、女は一生独身ですごす決意をしたようなものだと……」
「課長、言葉がすぎますよ」
 岡本が言い、課長は、いやいや、ごめんごめん、などと言っている。
 社内住宅ローンの相談をしたので、課長は聡子がマンションを買うつもりでいるのを知っている。口止めしたわけではないのだが、こんなところで言わなくてもいいのに、関係もない人に言わなくてもいいのに、聡子がちろりと睨むと、課長は視線をそらした。
「できすぎる女は女として……」
「誰か、この酔っ払い、外へ連れ出してくれませんか」
 辟易した様子で岡本が言い、課長の腕を引っ張った。
「上司だと言っても、部下の女性社員にそのような発言をしてはいけないでしょう。課長、外に出て頭を冷やしなさい」
「俺は酔ってないよ」
「酔っ払いは酔ってないって言うんですよ」
 太った課長の太い腕をつかんで、岡本は彼を外に連れ出していった。社外の人間だからこそできる態度であろうが、聡子は岡本をほんのすこし、悪くないな、と思うようになった。
 最初は意識もしていなかった岡本の外見を、こうなると気にしてしまう。背は高いほうで細いほうで、さほど冴えたルックスはしていないが、達也と較べるからいけないのだろう。外見も決して悪くはなく、顔立ちも十人並み以上ではあった。
 席に戻ってきた岡本は、聡子のとなりにすわってなにかと話しかけてくる。商社マンとはいっても総務部なのならば派手な仕事はしていないのだろうが、彼と話しているとけっこう楽しくなっていった。
「聡子さんの趣味は?」
「貯金かしら」
 ぶっ、と吹き出して豪快に笑う仕草も、聡子さんとなれなれしく呼びかける声も、決して嫌いではない。嫌いではないけれど、よその会社の今夜だけの会話相手だ。
「岡本さんの趣味は?」
「釣りです」
「釣り? 私は短気だから、釣りなんて向きません」
「意外に短気なひとは釣りに向くって言うんですよ。いかがですか、今度いっしょに?」
「釣りなんかしたくありません」
 だから、それが木で鼻をくくったような返事だろ、と課長に言われているような気がしたが、私は私だからこれでいいんです、と聡子は内心で言い返していた。


2

 名刺交換はしたけれど、二度と会うこともないだろうと思っていた。なのだから、岡本から会社に電話がかかってきたときには、聡子としては、誰だっけ? だったのだ。
「ああ? 東光商事の岡本さん? ですよね。飲み会で会った?」
「そうですよ。聡子さん、デートしましょう」
「デート?」
 会社でなにを言ってるのよっ、ふざけないでっ、だったので、聡子は焦って言った。
「ケータイにかけ直して下さい」
「実はあなたのケータイナンバーが知りたくて、会社に電話したんですよ。昼休みだったらいいですか」
「とにかく、かけ直して下さい」
 幸いにも近くには経理課員の姿がなくて、誰にも聞かれていなかったのでほっとした。岡本にケータイの電話番号を教え、彼も言おうとしているのを遮って通話を切った。
 仕事中は雑念は追い払うのが聡子の主義なので、強いて岡本の電話は思い出さないようにして午前中の仕事を終えた。昼休みになって弁当を手に公園に行くと、ケータイを見つめてしまう。からかっただけ? デート? もしもかけてきたとしても、裏があるんじゃないの?
「はい」
 が、実際に電話はかかってきた。
「すみません。ご迷惑でしたか」
「……なんのご用ですか」
「だから、デートしませんかって。聡子さんには彼氏はいるんですか」
「いるわけないでしょ」
「いるわけなくはないでしょ。俺の釣り仲間に、海鮮酒場をやってるオヤジがいるんですよ。そこには釣りの同士が集ってて、自ら釣り上げた魚を持ち込むと料理もしてくれるんです。釣りの楽しさで話しがはずむんだ。聡子さんも仲間入りしませんか」
「岡本さんってそんなに釣り仲間を増やしたいの?」
「聡子さんなら仲間になってもらいたいな」
 なんで私なのよ、と言いたかった。断ったほうがいいとも思ったのだが、新鮮な魚なんて東京暮らしで節約している聡子はめったに食べられない。おいしいものを食べにいくんだ、と気持ちを切り替えた。
「来てくれるんですね。ありがとう」
「……えーと、割り勘ですよね」
「そんな話はその日になってからでしょ」
 野暮だな、と言われているようで、ちょっとばかり恥ずかしさも覚えつつ、岡本と待ち合わせの約束をした。
 連れていかれたのは大衆的な酒場で、高くはないだろうと聡子も思う。おごるなどと言われても固辞するつもりだったから、高い店は困る。岡本とふたりして入っていった酒場には、釣り好き男女が集まっていた。
「釣りの話しって、私はやっぱり楽しくないんですけど」
「やったら楽しくなるよ。聡子さん、俺と一緒に釣りにいこう」
 ちょっとデートに応じたら、僕だったのが俺になり、ため口をきく。しかし、それも聡子には不快ではなかった。
 仕事帰りのスーツ姿の岡本と、同じく仕事帰りのパンツスーツ姿の聡子では、デートのカップルには見えないだろう。岡本にしても釣りの話しばかりして、釣り仲間がほしいだけだろうと思える。それでもいいから、友達になれたらいいな、程度の段階までは来ていたのに。
「こんばんは」
 カウンター席にすわっていた聡子と岡本の隣、岡本の側に、ひとりの男が腰かけた。
「ああ、そうだ。こいつ、不動産業をやってるんですよ。彼女の話はおまえにもしただろ」
「マンションを買いたいって言ってる女性がこのひとか。紹介してくれよ」
「うん、そうしようか」
 彼も名刺を出す。岡本の大学時代からの友人であるのだそうで、波多野という名の髪の薄い男が出現して、聡子の気持ちはみるみるしぼんでいった。
 そういうわけなのか。釣りだとか仲間だとかではなく、不動産屋の友人に紹介したくて、あわよくば聡子が波多野の会社からマンションを買ってくれるかと期待して、だから、岡本は聡子をここに連れてきた。友人の営業成績に貢献してあげるためか。
「いい物件はありますよ。近いうちに案内させてもらってもいいですか」
 波多野が言い、岡本も言った。
「不景気でマンションってのはなかなか売れないんでしょ。聡子さん、話を聞くだけでも聞いてやって」
「話は聞きますけどね」
 ビジネスライクに徹するのならば、それはそれでいい。友達になれるんだったら、好きでもない釣りもやってみてもいいかと考えた私が馬鹿だった。やはり裏はあった。こと男に関しては、私は馬鹿ばかり見ている。それが私の宿命なのか、だった。
 けれども、波多野が取り出したマンションのパンフレットの中には、心が動くものもあった。聡子はパンフレットを数枚受け取り、立ち上がった。
「おいくらでしょうか。私の分は払います」
「俺たちが払いますから、そんなことは井口さんは気にせずに……それよりも、もう帰るんですか。俺が先に帰りますよ。岡本、俺、邪魔しちまったか?」
「んんと……聡子さん?」
「私は釣りにはやはり興味は持てません。マンションは検討させていただきますので、波多野さんの社に連絡しますね。おいくら?」
 カウンターのむこうの店の主人らしい中年男性が、戸惑いの色を浮かべて波多野と岡本を見る。聡子は再び言った。
「ここまでの代金の三分の一はおいくらですか」
「は、はい」
 主人が示した金額を小銭まできっちり、カウンターに乗せた。


彼氏の話がしたくてたまらない美穂とはちがうのだから、聡子はあんな話は誰にもしたくない。詐欺に遭ったわけでもないのに気分が滅入っていて、誰とも話しもしたくなかった。
「貯金が趣味で、私には気分転換できる趣味ってないのよね。恋愛映画なんか観たらよけいにへこみそう。そうだよ、私には恋なんていらないのっ」
 恋などという発想をするのは、聡子は岡本を好きになりかけていたのか。滅相もない。あんな男を好きになるはずがない。本日は残業をする気にもならなくて、急ぎの仕事はないので定時に職場を出ると、会社の前に達也が立っていた。
「あ、井口さん、先日はどうもすみませんでした」
「先日ったってだいぶ前ですけど、美穂ちゃんは私にも詫びましたよ。美穂ちゃんをお迎え?」
「そうでもないんですけど、俺も仕事が早くすんだもので……メールしたらお使いでどこかに出かけるって返事が来てたんですけど、美穂はまだ帰ってないんですよね」
「私は美穂ちゃんとは部署が別なので、知りません」
「そうですか。あのカフェで待ってようか。たまには俺が待ってやろう。井口さん、お茶でもどうですか」
 この世にはナンパをされた経験のない女が、私以外にもいるのだろうか、と聡子は時に考える。会社のパートのおばさんでさえも、昨日はナンパされちゃったよ、と話していたのに、聡子にはその経験は皆無だ。
 課長の言う通りに、女性的魅力が欠如しているからなのだろう。達也が口にした、お茶でもどう? はナンパの常套句。気持ちがへこんでいたのもあって、聡子はうなずいた。かっこいい男にナンパされてふらふらついていく、軽はずみな女気分になってみたかった。
「井口さん、元気ないんじゃありませんか。甘いものはお好きですか」
「嫌いじゃないですよ」
 あなたも嫌いじゃないわよ、と言ってやったら、達也は真っ青になるのではないか。イジワルな想像をしていると、達也はカフェのテーブルについてから言った。
「甘いのって元気が出るんでしょ。俺は甘党じゃなくて酒党ですけど、井口さんはケーキでもどうですか」
「美穂ちゃんもケーキは好きなんでしょ」
「好きみたいですね」
 そうか、私だったらここで達也とふたりきりでいても、美穂は嫉妬しない。だから誘ったのだと聡子は思う。今日も聡子は達也の暇つぶしの相手だ。
「チョコレートシフォンケーキとアイスココア」
「チョコレートとココア? はい、どうぞ」
 げんなりした顔はしたものの、達也がウェイトレスに注文してくれた。
「普段はお金を切り詰めてますから、ケーキなんて食べないんですよ。チョコレートだらけがおいしい。こういうのって滅入った気持の薬になるんですよね」
「どうして滅入ってるんですか。よかったら話して下さい」
 いつか考えた通りで、達也は聡子にはえらそうなもの言いはしない。年上の相手で、美穂の先輩だから気を使っているのか。別段心配してくれているのではないだろうが、優しい声が聡子を弱気にして、話していた。
「金を切り詰めてるっていうのも、マンションを買うためか。俺も賃貸じゃなくて分譲マンションを考えようかな。ってかね、俺は……いや、俺はいいんですよ。その岡本って男……なんと言うのかな。井口さんの話しだけで判断するのはまちがってるかもしれないけど、あなたをデートに誘ったのは、それも彼の真実の気持ちだと思いますよ」
「友達の営業成績アップのためでしょ」
「そっちはもののついででしょ」
 軽く言ってくれるけど、岡本の気持ちが達也に読めるはずはない。けれど、ならば、聡子にも岡本の気持ちの底は読めないのだと気づいた。
「初デートにそんなものをくっつけるとは、岡本って奴は間が抜けてるけど、営業活動だったら他のやりようがあるでしょ。波多野ってのはたまたま来たんじゃないかな。自動的にくっついてしまったのであって、そうするつもりであなたを店に連れていったんではありませんよ」
「どうしてあなたにそう言えるの?」
「男の勘かな」
 馬鹿じゃないの、と言いそうになって、からくも自制した。所詮、達也には他人ごとだ。美穂に知られるとうるさそうなので、聡子は言った。
「美穂ちゃんにはこの話し、しないで下さいね」
「あなたがそうおっしゃるのでしたら、しませんよ」
「では、私は……ごちそうさまでした、でいいんですか」
「気にしないで下さい。美穂がご迷惑をおかけしてるんですから」
 所詮、そのお侘びとお礼。私に近づいてくる男には、そんなのしかいないんだな。とは思うけれど、誰かに話をすることによる効用はあるらしい。ひとりであれこれ考えても滅入るだけだった一件が、達也に話して別の面がちらっと見えた。ものごとにはさまざまな側面があると、聡子に気づかせてくれた。


 しかし、あれから岡本は電話もしてこない。聡子も岡本とも波多野とも連絡は取らず、ごく尋常に日常生活を送っていた。
「この間はどうもです」
 ある日の昼休みに、公園でランチを食べている聡子のところに、美穂が近寄ってきた。
「あの日には井口さんは先に帰ってしまったって、達也さんから聞きました。達也さんがお世話になりまして……」
「いいえ、どう致しまして」
「ふたりして井口さんにはお世話になってるんですよね」
「達也さんはなにか言ってた?」
「いろいろ言ってたけど、井口さんがどうとかは言ってませんでしたよ。なんの話をしたんですか。私の悪口?」
「そうね」
 ちぇーっ、と口の中で言ってから、美穂は聡子のとなりにすわってコンビニ弁当を開いた。
「いつもは小夜先輩とお昼を食べることが多いんですけど、先輩は出張なんです。出張ってかっこいいですよね」
「かっこいいかしら」
「かっこいいですよ。仕事で大阪に行くなんて、憧れちゃうな」
「経理は出張ってほとんどないけど、私は憧れないわ」
「そう?」
 美穂はよく、聡子を不思議そうな目で見る。美穂のような女から見れば、聡子のような女の存在自体が不思議なのか。お互いさまではあった。
「あれから井口さんとはあんまりお話しなかったから、今日はお話したいなって。いいでしょ」
「勝手にすわって食べてるじゃないの」
「そうですよね。ね、ね、マンションはどうなったの?」
「検討中」
 心動く物件はいくつもある。波多野が持っていたマンションにもあったけれど、決め手に欠ける。こうして検討している間が、もっとも楽しい時間なのかもしれない。実際に買ってしまえば、ローンや引っ越しやその他諸々の雑事で、頭痛がするかもしれないのだから。
「別に急がないから、ゆっくり考えるの」
「考えてる間に素敵な彼氏ができて、結婚ってなるかもしれませんものね」
「結婚なんて考えてないから。第一、相手がいないでしょ」
「いたらするんでしょ?」
「……たぶんしない」
「井口さんって独身主義? 経理のお姉さんがちらっと噂してたけど、経理の飲み会で男のひとと話してたって聞きましたよ。そのひとはどうなの?」
「彼は取引先の男性にすぎません」
 暇な新入社員はよその部署の社員とまで無駄なお喋りをしているのか。美穂は早耳であるらしかった。
「経理のお姉さんはちらちらと井口さんとそのひとを観察してたんだって。いい雰囲気に見えたけどなぁ、でも、まさかね、なんて言ってましたよ」
「どうせまさかですよ」
「独身主義じゃないんでしょ?」
「独身主義です」
「どうして?」
 確固たる独身主義ではないが、そのつもりでいたほうがいいと思っている。二十歳で彼氏のいる美穂のようなノーテンキ娘に話しても理解できるはずもないので、適当にあしらっていても美穂はしつこかった。
「独身主義なんて信じられないよぉ。美穂はいつかは達也さんと……」
「あのね、経理のお姉さんって誰?」
 話を変えようとして聡子が詰問すると、美穂はとぼけてみせた。
「誰だか言ったら、井口さんはそのひとに怒るでしょ。言いません」
「怒ったりしないわよ。怒るって徒労でしょ」
「今は怒ってるくせに」
「怒ってませーん」
「ほら、声が怒ってる。ねえねえ、井口さん、その男のひととなにかあったんじゃないんですか」
「達也さんが言ったの?」
 この台詞は藪蛇だったようで、美穂の目が輝いた。
「達也さんに話したの? 私も聞きたいな。聞かせて」
「なんにもないんだから言えないの」
「嘘、嘘、嘘嘘嘘っ」
「本当だったら本当よっ。しつこいねっ!!」
「きゃああ、井口さんが怒るぅ。井口さんってば、怒ったら達也さんより怖いんですよね」
「な……そんな……そんなことは……」
「ぶたないでね」
 ふざけた口調にかっとして、聡子は言い返した。
「あなたって人には悪気はないんでしょうけど、頭が悪いわけでもないんでしょうけど……」
「美穂は頭は悪いですよ。そんなに頭が悪いくせに、よく仕事やってられるよな、って達也さんにも言われるの」
「あなたは頭が悪いんじゃないのよ。考えなしって言うのっ!! 深く考えもしないで頭に浮かんだ言葉をうかうかと口にして、相手を傷つけるの。悪気がないだけになお悪いの。石倉さん、私はあなたが嫌い」
「あーん……嫌わないで」
「嫌いよ。失礼します」
 ぴしゃっと言って立ち上がると、美穂が泣き真似をはじめた。
「あら……嘘泣きでしょ? 泣いてるの? 泣かないで。あなたが泣くと……困ってしまって……石倉さん? 美穂ちゃん?」
「いいんです。美穂が美穂が……達也さんには悪い子だって言われるし、井口さんには嫌いだって言われるし、美穂だって繊細な若い女の子なんだから、美穂のほうがよっぽど傷ついたの。ほっといて下さいっ!!」
「美穂ちゃん……」
 美穂はケータイ電話を取り出して、聡子にはできない早業でメールを打った。その合間には涙をぬぐったり、鼻を鳴らしたりして忙しい。美穂がメール発信して間もなく、彼女のケータイが着メロを響かせた。
「達也さんも昼休みかな」
「達也さんにメールしたの?」
 返事はせずに、美穂はメールの文面を読み上げた。
「おまえが悪いんだろ。井口さんにあやまっとけ。あやまらないと……このあとは達也さんの口癖。口癖だけじゃなくてほんとにやるから怖いんだけど……美穂ばっかりが悪いんじゃないもん。どうして井口さんがこんなに怒るのか、達也さんだったら知ってるんだろか」
 ぶつぶつ言いながら、美穂は幾度となくメール発信をし、そのたびに返信があったようで、しばらくしてからまた読み上げた。
「昼休みで暇なんだったら、美穂とデートしようよ、とも打ったんだけど、そんな暇はねえんだよ、だって。メールしてる暇だったらあるくせに。それでね、井口さんにもストレスってのはあるんだろうから、おまえと喧嘩してちょっとは発散できたんじゃないかな、ってさ。怒ってる井口さんって可愛いだろうな、俺も見たいな、とも書いてありました」
「可愛い?」
「怒り顔の井口さんは可愛くなくもなかったですよ」
 言葉に詰まって美穂を見返す。まったくまったくこたえない娘だ。
 達也が美穂に取る態度は、恋人同士だと思うと信じがたいのだが、達也本人は一般常識を備えたまっとうな社会人、大人の男だと聡子にも映る。美穂のような悪ガキ娘が、心底恋をしている大人の男に躾けられるのは正しいのかとさえ思えてきた。
「……見てるひとがいる。もしかしてもしかして……そこの方、井口さん、可愛いでしょ?」
「は?」
 美穂が指差す場所に立っているのは、岡本義巳だ。思わず絶句して岡本を見やると、彼は困惑顔で聡子に頭を下げた。ずっと見られていた? こんな小娘と喧嘩をしている、大人気なく浅はかな姿を? 声も出せなくなって突っ立っている聡子に、美穂は言った。
「もしかしてもしかして、かな? 私は消えますから、井口さん、報告して下さいね」
 なんにも言えないでいる聡子と岡本を残して、美穂は小走りで行ってしまった。


3

 黙って立っている聡子のそばに、岡本も立っている。オフィス街の公園には、そこここのベンチにかけて食事をしたり談笑したりしている会社員の姿も見える。彼らにも美穂との喧嘩を見られていたのかと思うと、聡子は恥じ入りたくなっていた。
「……直接会いたくて……でも、迷惑でしたね。聡子さん、怒ってる?」
「怒ってません」
「怒るのは徒労だってね」
 そのあたりから聞かれていたのか。むっつりした聡子に、岡本は言った。
「怒ってる聡子さんはたしかに、可愛く見えたよ。あなたの人間味がね……時々は怒ってもいいんじゃないのかな」
「怒ると無駄におなかが減るでしょ」
「言えてるな。聡子さんが……いや、俺もあれから考えて……ごめんなさい」
「岡本さん?」
 それだけ言って頭を下げて、岡本は行ってしまった。
 彼も昼休みに会社を抜け出して、聡子に会いにきたのか。そうではなくて、仕事で出かけた途中で立ち寄ったのか。岡本が言わなかったので聡子は知らないが、いずれにしても会いにきたのならば、もっと話をしてくれれば。
「あやまるってなぜ?」
 デートに誘ってその気があるようなそぶりを見せて、実は営業活動だったから? 俺はそんな気はないんだよ、だからあやまった? あれはデートなんかじゃなかったと?
「そんなこと、わかってる。来なくていいのに……」
 聡子もひとりごちて、きびすを返した。
 食欲がなくなってしまったので、ランチを食べるのもやめて社に戻っていった。もったいないから夕食にしよう。腐らないかな、とも考えながら、ロッカーにランチをしまい込む。女子社員のロッカーが並んでいる部屋にいると、美穂が覗いていたのだが、聡子は彼女を無視して出ていった。


 午後の就業時間に聡子が来客に出した湯飲みを洗っていると、美穂が給湯室にやってきた。
「井口さんもお茶汲みとかするんですか」
「一般職だからね、しますよ」
「ねえねえ、さっきは……」
「仕事中です」
 つめたく言うと、美穂は身を寄せてきて小声で囁いた。
「井口さんから見ても、達也さんってかっこいい?」
「仕事中にそんな話は不謹慎でしょ」
「かっこいいかどうかだけ、聞かせて。今はお湯飲みを洗ってるんだから、口は暇でしょ」
 どうも聡子は美穂といると彼女のペースに巻き込まれてしまう。これだから小馬鹿にされているのではないかと思うのだが、つられて答えた。
「まあね、かっこいいよね」
「やっぱそうですよね。井口さんは達也さんとも何度か話してて、性格だとかもちょっとは知ってる。達也さんって怖そうではありません?」
「怖そうでもあるかな」
「怖そうなのにかっこいい。井口さんもMっ気があるのかな」
「エ、エム?」
「そうでしょ」
 そんな言葉を会社で口にして、けろっと笑っている美穂が珍獣に見える。聡子は最後にひとこと言い残して、給湯室から出ていった。
「あなたには慎みがなさすぎるのよ。そんな言葉を会社で口にしないで」
「……本当のことだから怒るんですか」
 返す言葉もない、とは聡子のそのときの心境だった。
 もちろん、仕事中はそんな不謹慎な言葉は脳裏にも上せないのだが、仕事が終わると考えてしまう。聡子だって世間知らずの純情無垢な小娘ではないのだから、SだのMだのという言葉は知っている。だいたいは意味も知っている。
 二十歳のお嬢さんが軽々しく口にするということは、昨今の流行語なのかとも思う。そうだとしても、聡子にはまったくもまったく無縁の言葉だ。美穂があんなふうに尋ねたということは、あのカップルは?
「いや、やめて。やめなさい、聡子」
 知らずひとりごとを言っていたようで、課長に聞きとがめられた。
「なにを? 井口さん、どうした?」
「どうもしません」
 はーっ、はーっ、とため息をつくと、課長が言った。
「井口さんも疲れが溜まりやすい年齢になったんだね。ひとりで肩肘張って自分でマンションを買うだなんて言ってないで、ちょっとは男に頼ってもいいんじゃないのかね。あんたもちょっとは可愛い女にならないと」
「可愛い女ってのは石倉美穂さんみたいな女ですか」
「石倉くん? あの子は可愛いね。いや、井口さんでは石倉くんみたいのは……いやいや」
 無理だろ、と言いたかったのであろうが言わず、うんうん、石倉くんは可愛いなぁ、とでれでれしている。セクハラですよっ、と指摘するのも面倒なので、聡子は口の中で言っていた。
 あの子はそりゃあ可愛いけど、私はあんなおバカになりたくないの。ううん、でもでも、あんなふうな外見に生まれていたら、私の人生はどう変わっていたんだろ。達也さんみたいな彼氏ができて? ううん、私はもうすこし紳士的な男性が好きだから、達也さんみたいな男ではなくて……ええ? 誰? お……おか……あんなひと、関係ないでしょ。
「井口さん、本当に変だね」
「変なのは課長です」
「……あ、そうかね」
 そこでようやく課長は黙ってくれたのだが、退勤しようとしていたら美穂に会った。あるいは待ち伏せしていたのかもしれない美穂は、ねえねえ、あの男性は、ねえねえ、と尋ねたがる。聡子が無視して早足で歩いても、いやがられているとも思わないのか、平然とついてきた。
「もう一歩、進展するといいんですよね」
「なんのこと?」
「わかってるくせに。岡本さんっておっしゃるんでしょ。彼も井口さんも純情っていうのか……」
 はるかに年下のあんたに言われたくない、ではあったが、恋愛方面に関していえば、美穂は聡子よりもはるかに熟練しているであろう。
「一歩を踏み出すのは男のひとのほうからにしてほしいんだけど、井口さんもそんな態度だから、岡本さんはやりにくいんでしょうね。ねぇ、こんなのってどう?」
「こんなのって?」
「達也さんに協力してもらって、井口さんと達也さんがいい雰囲気になってるところを、岡本さんに見せるんです。キスしてたりしてもいいな。そこへ私がうまく岡本さんを連れてくるの」
「そうするとどうなるの?」
「岡本さんが井口さんを好きなんだったら、達也さんに怒ってみせて、井口さんには告白して……ってなるでしょ」
 そううまく行くものか、と聡子は思う。岡本が怒るなり呆れるなりして、聡子を見捨てて帰ってしまうのがオチではないか。そうなったら惨めな気持ちになるのは聡子だけ……惨めって……惨めでもないけれど……聡子は自分に言い訳していた。
「下らないことはやめてよね」
「下らなくないでしょうに」
「第一、あなたは達也さんが私にキスしてもいいの?」
「……んんと、私もいやだけど、達也さんもいやがるかな」
「そうでしょうねっ」
「きゃーーん、怒らないで」
 正直は美徳。おのれの心に嘘をつかないのも美徳。なのかもしれないが、こんなときにまで正直に言うのが正しいと思っている、馬鹿娘にはうんざりだ。
「あなたは達也さんとデートじゃないの?」
「そうなんですけど、どうせ達也さんは遅刻してくるんだもの。ねえ、井口さん、そんなに怒らないで。チョコレート、食べる? そこにすわりましょうよ」
 職場近くの公園に入り込んでいた。美穂がバッグから出したのはベルギーの生チョコレート。こんな高いものは節約をこころがけている聡子はまず買わない。食欲に負けて美穂と並んでベンチに腰を降ろした。
「達也さんのプレゼント?」
「この間、一緒にデパートに行ったら生チョコフェアをやってたんです。それで買ってもらったの。おいしいでしょ。甘いのを食べると怒ってるのは落ち着くんですよ」
「そうね。あなたもそのときは怒ってたの?」
「ええと、そうだったかな」
 感情をすべておもてに出すのも、若い女の子は美徳だと思っているのかもしれない。怒っている美穂にチョコレートを買ってなだめてやるとは、達也もいばっているばかりでもないのか。達也があきらかに悪くて美穂が怒っていたのかもしれないにせよ、まったく、美穂は子供みたいだ。
「こんばんはぁ」
 むこうのほうから近づいてきている男は、聡子たちの職場の営業部員、根室だった。ひょろりと背の高いにやけたタイプの男だが、イケメンだと言う女性もいて職場でも人気がある。彼は美穂と聡子の間に割り込んできた。
「お、うまそう」
 いい? とも訊かずに、根室が美穂の持っている箱からチョコレートをつまんで食べる。美穂は根室の肩をばんっと叩いた。
「あげるって言ってないのに」
「こんなものの一個や二個、けちるなよ。うまいじゃん。もう一個……」
「駄目っ!! あげないっ」
 あのあのあの、あのね、と聡子が止めようとしても、ふたりはじゃれているような感じで争っている。美穂が箱を遠ざけ、根室が取り返そうとし、箱が美穂の手から地面に落ちる。美穂はベンチから立っていった。
「チョコレートがぁ……根室さんがいけないんだよ」
「ああ、ごめんごめん。チョコレートに土がついちゃった? お詫びのしるしにおごるよ。俺と食事に行かない?」
 根室もベンチから立ち上がり、美穂のそばに膝をついた。
「美穂ちゃん……俺は前からきみがさ……」
「駄目よ」
 ま、まままま、まったく、近頃の若いひとはーっ?! おばあさんのように怒りたくなる。美穂には達也という彼氏がいるではないか。なのになのになのに、根室に肩を抱かれて振り払いもせず、美穂は頬を染めている。根室が美穂の顔に顔を寄せていく。聡子はベンチで固まっていた。
「駄目だってば」
「いいじゃん」
「私には彼氏はいるの」
「彼氏なんかいたって、キスしてからメシを食いにいくぐらい、どうってことないだろ」
「それだけですむの?」
「すむかどうかはきみ次第だろ。俺はそれだけじゃなくてもいいよ」
「私の彼が怒るよ」
「美穂ちゃんの彼ってどんな奴?」
 中腰になった美穂と根室がいちゃいちゃと話しをしている。美穂はキスをはぐらかそうとしているのか。そのたぐいのテクニックも聡子よりも美穂が上だろう。なんといっても経験がものを言う分野だ。聡子はキスの経験もないのだから、キスされそうになった経験もないのだから、はぐらかすテクニックもあるはずがない。
 美人って変なテクニックを身につけるものなのだなぁ。妙に感心して聡子が美穂と根室を見ていると、荒々しい足音が聞こえてきた。
「ねえ、美穂ちゃんの彼氏ってどんな奴なんだよ? 俺よりもいい男?」
「俺だよ」
「は? へ?」
「てめえ、俺の女になにをしようとしてやがったんだ」
 夕刻のビジネス街の公園で喧嘩なんかになったら大変だ。聡子は腰を浮かし、達也と根室を見つめる。根室は狼狽していて、達也はヤクザ者みたいに凄んでいる。達也のほうが身体が大きく、年も上だ。迫力も段違いで、根室は逃げ腰になっていた。
「美穂ちゃん……どうするのよ」
 が、美穂はなんだか嬉しそうな顔をしている。達也に身を寄せていって囁いた。
「このひと、うちの会社の営業のひとなんだけど、美穂が好きなんだって。美穂ってもてるでしょ。おまえみたいなガキが、って達也さんは言うけど、これでもてるって証明されたんじゃない?」
「前にもナンパされたとかって喜んでたけど、やたらに男に声をかけられる女は尻軽そうだからだよ」
「美穂のお尻、軽いの?」
「俺が目を離すときわどい遊びをやってるんだから、そういうことをすると軽い尻を痛い目に遭わされるんだって、よーく教えてやるよ。美穂、ついてこい」
「やだよ」
「約束の時間はすぎてるだろうが」
「いつだって遅刻するのは達也さんじゃないのよ」
 そろそろっと後退していた根室は、適当なあたりでびゅーっとダッシュして逃げていった。
「達也さんってやっぱ怖そうなんだね。不戦勝だ」
「あんなへなへなした男に俺が負けるわけねえだろ。いいからついてこい。美穂、返事は?」
「怒ってる?」
「俺がどう怒ってるのかは、ホテルで教えてやるよ」
「……ごめんなさい、もうしませんって言っても?」
「今夜はしたんだろうが。その分は……三発ほどかな」
「やーん、ひとつにして」
「素直に言え。ごめんなさい、もうしません、達也さんについていきます」
 美穂がその言葉を繰り返すと、達也は言った。
「よーし、ついてこい」
「お尻ぺんぺんしない?」
「それは別だ」
「……あんあん、やんやーん」
「うるせえんだよ、おまえは」
 もうっ、臆面もなく……聡子としては吐息をつくしかない。美穂は達也の腕に腕をからめ、達也が振り向いて言った。
「いつもすみません。ご迷惑をおかけしてます。美穂は俺がみっちり叱っておきますので、許してやって下さいね」
「みっちりはやだってば」
「うるせえんだよ。井口さんにもごめんなさい、しろ」
「……参考になりませんでした?」
「え?」
 ぽかんとしている聡子に、美穂も頭を下げ、カップルは腕を組んで行ってしまった。
 参考? なんの参考? ベンチに取り残された聡子は首をひねる。根室があらわれる前は、美穂とどんな話をしていたのだったか……聡子が別の男とキスしているところを岡本に見せて、岡本に嫉妬させる? その参考にならなかったかと質問したのか。
 悪知恵というか浅知恵というか、美穂はそういう方面は堪能なのだ。美穂は達也とデートすると言っていたから、達也がこのあたりを通りかかると知っていて、わざと危険な方向にストーリィを進めたのか。
 あなたたちだったらああなるだろうけど、岡本さんと私はね……でも、どうなるかな。私がここで別の男とキスしていたら、岡本さんがそれを見ていたら、彼は怒るのだろうか。嫉妬するのだろうか。想像してみるのは楽しかった。
「……根室さん、ズボンが汚れてますよ」
 遠くから根室が聡子を見ている。先刻は地面に膝をついていたから、そう注意してやると、彼はズボンの膝を払っていた。
「根室さんが美穂ちゃんにキスを迫ったなんて、会社で言い触らしたらどうなるかしら。言わないから、私に協力してくれない? 岡本さんに見せるためのキスの芝居よ。芝居だから、しなくてもいいの。そのあたりは美穂ちゃんが手伝ってうまくやってくれるわ。どう、乗らない?」
 むろん口にはしないが、以前の聡子だったらそんな脅迫は、妄想するだけでも罪悪感に打ちのめされそうになったはずだ。なのに、根室にそう言ってみる想像は楽しい。言ってみたいけどなぁ、などと考えて笑っている聡子の気持ちをどう曲解したのか、根室は怖そうな顔になって逃げていった。

END








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NoTitle

う~ん、岡本さんの真意が解からず・・・続きが、読みたいです(^^)v

こんなんまで……アセアセ

乃梨香ちゃん

毎度ありがとうございます。
最新作を読んで下さってるようだから、このカテゴリも見て下さったのですね。
ちょっと恥ずかしいけど……茜さんってえっち、とか思われてるだろうから、開き直ることにします。

岡本さんね。そうですよね。
作者にも彼の真意はわからない。
なんて言っていてはいけないので、こっちの続きも書きます。

時に、「潮騒」が四回ツイートされているのですが、乃梨香ちゃんのお友達がして下さったんでしょうかね。
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