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小説229(君の瞳に乾杯)

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酒瓶

フォレストシンガーズストーリィ229

「君の瞳に乾杯」

1・英彦

 たったひとり、彼女さえいなかったら、気楽なムードになっていただろう。ここに女性がひとり混ざっているだけで、おおいにやりにくいのだが、彼女がお宝フィルムを持ってきてくれたのだから、ありがとう、帰っていいよ、とは言えなかったのだ。
 ここは幸生のマンション、招集をかけたのも幸生で、男が六人そろっていて、女の子もひとりいる。
 部屋の主の三沢幸生、フィルムの一方の主役、乾隆也。あとは野次馬の、本橋真次郎、木村章、酒巻國友、小笠原英彦。シゲが招かれていないのは、フィルムがポルノティックだとされているからか。今夜はシゲのみが仕事なのだそうだが。
 ひとりだけいる女性は、佐田千鶴。ようやく明るみに出た、乾さんと謎の女優のポスターのそのひとだ。若くて色気のある美人だった。
 十九歳の女性にすれば小柄なほうだろう。章に言わせるとちょいデブなのだそうだが、デブではない。やや丸顔だが、首や腕や脚はほっそりしている。肩や手も小さくて可愛くて、女としてしかるべき場所には好もしい肉がついている体格なのだ。
 神戸で俺が見た「タブーNO.3」のポスターでは、彼女は後姿だった。その写真を俺はまざまざと覚えている。
 大胆なスリットのドレスから、彼女は脚を大部分見せていた。その脚が乾さんの脚とからまり合い、乾さんの片手は彼女の腰を抱き、片手は軽く尻に添えられていた。あのポスターは蜜魅さんと一緒に見たのであって、彼女が言ったものだった。
「乾さんってえっち」
 同感だったが、今は蜜魅さんはいない。よかったよかった、と言いたい。こんな場には女にはいてほしくないのが俺の本音だ。
 女のバストが大好きな俺としては、女優の尻は色っぽいけど、胸はどんなかなと感じていた。その実物が近くにいる。今夜は彼女は厚手ニットのワンピースを着ていて、身体のラインはあらわではないのだが、バストもたわわに実っていた。
 若くてぴちぴちでむちむちのギャルってやつか。女の色香と呼ぶには幼さもあるが、それゆえにいっそうそそる。ヒデ、こら、押さえろ。彼女は乾さんにとっては可愛い妹みたいなものなのだから、不埒な目を向けると張り倒されるぞ、なのだった。
 千鶴は乾さんに寄り添い、上目遣いで乾さんを見つめては、甘い声でなにか話しかけている。細くて高いソプラノの声は聞き取りにくくて、乾さんも低い声で受け答えしているので、会話の内容は聞こえない。乾さんが微笑んで、めっ、と甘く千鶴を睨むのを盗み見ていると、俺のどこかがむずがゆくなってきた。
 幸生はビデオカメラを操作している。ここに千鶴が持ってきた映像が入っているのだそうで、エロスの香りが漂うとは聞いているので、俺もわくわくしていた。
 あとふたり、章と酒巻はとなり同士にすわっている。酒巻はもじもじしていて、章はちらちらと千鶴を見ている。本橋さんは幸生のそばで、興味深げにビデオカメラを見ている。正式にはビデオカメラではないのかもしれないが、そのようなものだ。
「さあて、映写開始」
 高い声で幸生が合図し、薄型大型テレビに映像が映し出された。
 薄暗い部屋のドアが外から開いて、男が入ってくる。ドアを脚で開けた男が立ち止まり、抱えていた女を抱き直してくちびるを重ねる。男の腕ごしに、女の腕がだらりと伸びているのが見える。脚がぶらぶらしているのも見える。
 だらりとしていた女の腕が硬直して、男の腕をつかんだ。男の腕に女の爪が立てられていく。女は手と脚で演技している。あ、あ、と女の声が漏れ、男は無言でキスシーンが続いていく。
 キスが終わり、男の腕が女の身体をまさぐっている。こんなになって……おまえって……ははっ、可愛いね……そんなに俺が好きか? 抱いてって言えよ……言わないと……男の声が低く聞こえ、女の喘ぎ声がかぶさる。あ、あ、あ……見ている俺の全身がかゆくなってきた。
 薄紅いろの布がふわりと飛んだのは、女のドレスか。小さな布地も飛んでいき、男のシャツとズボンも飛んでいく。室内の空間を布地が飛びかい、女の身体もふわっと弧を描いて飛んで、ベッドに落ちた。男が女の裸身を隠すようにして抱きすくめる。
 ちらっちらっとは女の身体が見える。男の背中や脚も見えるが、あからさまな箇所は巧みにぼやけさせられていて見えない。完全に裸を見せるポルノとはちがって、そこがまた控えめにも色っぽい。ちらっと目をやると、実物の千鶴は乾さんにもたれていた。
「……恥ずかしい」
「女優って自分は客とともに映画を観たりはしないもんだよな」
「そうなんだろうけど、どう? 千鶴の演技はどう?」
「すこし堅いってか、俺が相手だからかな。相手役者が不足だよな」
「ううん、乾さん、素敵。慣れてるでしょ」
「……いて……つねるとこうだぞ」
「きゃ」
 嬉しそうな小声の悲鳴が起こり、乾さんは千鶴になにをしたんだ、と半分気もそぞろになる。この映像の男は乾さんで、女は千鶴なのだった。
 テレビ画面では灯りが消えて暗くなっている。男の声が小さく聞こえる。ここは? ここか? おまえ、感じやすいんだな……可愛い尻だな……なんて可憐な蕾……ここを……こうは? 途切れ途切れに男が言い、女が応じる声はすべて、喘ぎだ。
 ぱっ、ぱっと灯りが点滅する。女を組みしだく男の腕と身体と脚。男に抱かれている女の表情のクローズアップ。苦悶にも似た悦楽の顔……見ている俺は息を飲むしかない。千鶴は当たり前だろうけど、乾さん、すげえ。
 「タブーNO.3」のポスターには、主役の男女のものと、乾さんと千鶴を使ったレアポスターとがある。レアのほうが話題になってしまい、評判が評判を呼び、写真を撮った監督が写真集を出したいと考えるようになったのだそうだ。
 写真集は乾さんの多忙と、そんなものは俺の仕事ではない、の考えによって保留されているのだが、俺たちの大学の後輩の香川という男が言い出したのだそうだ。俺は幸生から聞いた。
「あのポスターは俺も見たよ。乾さんってのは天性の男の色気を持ってるんだな。千鶴ちゃんもそう思うだろ? 俺は千鶴ちゃんだけに注目してたけど、こうなったら乾さんを使って色っぽいフィルムを撮りたいんだよ。表には出さないから、ほんの短いものにするから、時間もそんなにはかけないから、俺が乾さんを口説く。千鶴ちゃんも協力してくれ」
 もちろんその相手役はきみだ、と聞かされた千鶴は熱意をこめてうなずき、香川は幸生と酒巻をも巻き込んで、乾さん口説き落とし作戦に出た。その結果、乾さんは香川の熱意にほだされたというわけで、このフィルムが完成したのだった。
 関係者以外は見られない、門外不出のフィルムは、乾さんの手元にはないのだが、千鶴は持っている。千鶴に見せてと頼み込んだのは幸生だった。
「乾さんと千鶴ちゃんの裸のポルノポスターってのは、本当はないんですよね。酒巻にはそう言って期待させたし、ヒデさんだってあると思ってたんでしょ。期待を裏切ったのは俺の嘘のせいってか、乾さんだって嘘をついたんだけど、まあ、それはすぎたことだとして……ポスターじゃなくて映像があるんですよ。千鶴ちゃんが持ってきてくれるって。ヒデさんも来ません?」
 細かい部分はわからないなりに、ポルノっぽい映像だと聞かされた俺は、のこのこ神戸から出てきたのだった。
 たいして濃密な映像ではなく、たしかにごく短かったが、テレビの中にいる女の実物がそばにいるってのは、刺激的というかなんというか。ロマンティックなシーンにはむずかゆくなり、千鶴の存在を意識するとむずむずもした。
 女優の卵だという千鶴はこれしき当然なのだろうが、乾さんも達者だ。これでは本当に、乾さんはいずれは銀幕のスターにもなるのか。俺の手の届かない先輩に……しみじみしてしまった。
「乾さん、すごっ」
 映像が終わってからも全員がしばし呆然としていて、沈黙を破ったのは章だった。
「いつの間にこんなに芸達者になったんですか。な、幸生?」
「俺も負けるってか、俺にはこういう役はできないよね。リーダー、どうですか?」
「俺だったら……こんな役は恥ずかしくてできねえよ。俺がこんな役をやって、それをみんなが見てるなんて、部屋の床に穴を掘って隠れたくなるぞ。乾のこの恥知らずぶりだけでも感服するよ。いや、千鶴ちゃん、ごめん」
 うふふっと千鶴は笑い、酒巻を見つめた。
「酒巻さんの感想は?」
「いえ……あの……ヒデさんは?」
「シゲにも見せてやりたいっつーか、見せないほうがいいですかね、乾さん?」
「シゲはこれを見てどう出るか、反応が知りたいな。軽蔑されたりはしないかな」
「軽蔑なんかしたら、おまえはアホかって、俺がぶん殴ってやりますから」
 俺が言うと、あちこちでみんながうなずいた。芸術性云々はどうでもいいけれど、乾さんはすげぇ、の気分は高まっていくばかり。
 一芸に秀でた人間というものは、他の芸も秀でている場合があるらしい。乾さんにはさらに隠された才能があるはずだ。歌もうまいし喋りもうまい、頭もいい。多芸多才のエンターティナーの鑑、乾隆也。エロな演技までができるとは、俺は改めて乾先輩に最敬礼したくなった。


2・千鶴

 完成したフィルムには私の身体の、ビキニの水着で隠す部分、乾さんが水着で隠す部分は映り込まないとは聞いていた。しかし、スタッフには見られる。乾さんにだって見られる。覚悟は決めていたけれどつらくて、泣きそうになった。
「千鶴、仕事なんだろ。言うまでもないだろ。絶対に泣かずにやり通すって言ったろ。あの決意は嘘だったのか」
「そうじゃないけど……だって……」
「泣くな」
 ポスター撮影のときには、大丈夫? 触れてもいい? あとで抱っこして泣かせてあげるよ、と言ってくれた乾さんが、今回はきびしかった。泣くとびしっと叱られて、涙を止めて撮影に臨んだ。
「この鎖骨の……」
「あ」
「この可愛い可愛い乳房が……」
「あ」
「臍もいい形をしてるんだね」
「……あん」
「ここは……」
「う……」
「腕が……脚が……おまえの可愛い可愛い裸身の中でもとびきりなのは、この尻かな」
「え……っち」
「えっちだよ、俺は」
 台本にはない台詞を言ったりもして、乾さんは私の気持ちをほぐしてくれたのか。泣きそうになると耳元で言われたけれど、私を見つめる瞳はいつも優しくてぬくもりがあった。
「泣くな、泣いたらこのカットが台無しだろ」
「……でも……」
「泣き止め」
 一生懸命にこみ上げてくる涙を止めて、何度も何度もリハーサルを重ねた。乾さんは多忙なのだから、何度もとはいっても最小だったのだそうだが、何度も何度も乾さんにドレスや下着を脱がされ、何度も何度も素肌に触れられて、私は……ホントニ……乾さんの……カノジョ……愛されてるの? こうやってベッドで抱かれるの?
 そんな錯覚に陥りそうになっては、監督の声に現実に引き戻される。撮り直し。またぁ? ってべそをかいては、乾さんにまた叱られた。
「乾さんが叱ってくれるから、監督演出としての俺が千鶴ちゃんに言うべき言葉がなくなりますよ」
「おっと、俺は僭越だったかな」
 乾さんと香川さんは大学の先輩後輩。香川さんは先輩としての乾さんには礼儀正しく、乾さんも監督としての香川さんには礼儀正しかった。
「いえいえ。千鶴ちゃんは乾さんの言うことしか聞かないんだから、これからもよろしくお願いします。乾さんは執事として千鶴ちゃんを躾けたんでしょ。今後も共演者として躾担当でやって下さいね」
「役者としては俺ごときは……役者としてとも口にできないね。だけど、年長者としてだったらやらせてもらいますよ。千鶴、ついてこいよ」
「はい」
 監督の香川さんは、乾さんと私を見比べて言った。
「その千鶴ちゃんの目……撮りたい。その目をもう一度やって」
「この目?」
「そうそう」
 仕事ではなかったらただただ甘くて優しいひとだった。叱られていたのだって、冗談みたいなものだったのだと知った。仕事となると乾さんはきびしくて、泣くともっと叱られる。泣いてもいいよ、と言ってくれるのは、一日の仕事が終わってからだった。
「お疲れ。千鶴、おいで」
 撮影が終了すると、毎日抱っこしてくれる。そんなときには私は小さい女の子になって、乾さんの胸で甘えてわがままを言う。そんなときには乾さんは甘いお兄さまに戻って、よしよし、いい子いい子、とあやしてくれる。
 共演者としても、お兄さまのような大人の男性としても、私はいっそう乾さんに惹かれていく。これは本物の恋……だけど、乾さんは私を恋愛の対象としては見てくれない。
 どうしたらいいの? 妹として、共演者としてだけで満足するしかない? 十六歳の年の差が恨めしくて、時には無茶な駄々をこねて、乾さんを困らせた。困らせてみても乾さんはさして動揺もせず、私を子供扱いして笑ってる。悔しいくせに甘くて、嬉しいようで切なくて。
「いい加減にしなさい」
 あまりに駄々をこねると、そう言われてお尻をぱちんと叩かれる。それ以上のわがままは許さないよ、の合図だと知っているから、私はべそをかいて乾さんに抱きつくのだった。
「ごめんなさい」
「よーし。じゃ、メシ食って帰ろうか。千鶴は今夜はなにを食いたい?」
「太りそうだから……ごはん、食べるのやめようかな」
「食わないと仕事はできないだろ。すこしは太ったっていいさ」
「私のこと、デブって言うひとが何人かいるんだよ」
「そういう奴は目が歪んでるんだ。千鶴は胸だの尻だのはふっくらしてて、腕も脚も細いじゃないか。最高のプロポーションだよ」
「女として理想的だって、金子さんも言ってくれたの」
「金子さんはさすがによくわかってるね」
 大好きなひとの一番目は乾さんで、二番目は金子さん。金子さんには会うこともないけど、好きなひとたちがそう言ってくれるんだから、デブと言うひとなんか気にしないでおこう。
「乾さんって女の子をぶったりするひとだったんだね」
「ん? ま、あのくらいだったら」
 ぶたれたってほどでもないのに、からみたくて言ってみたりもする。乾さんは取り合ってもくれずに笑っている。ごはんを食べて車で送ってもらって、私のマンションの前で降ろされて、キスして、って言ってみたら、おでこにしてくれた。
 ぱちんと軽くにしたって、お尻をぶったり、きびしく扱ったり、おでこにしかキスしてくれなかったり、千鶴は乾さんの妹みたいなもの。それで満足しておこうと決めていても、いつもちょっぴり切なかった。
 乾さんに服を脱がされて、乾さんに抱きしめられて、乾さんの手が私の全身を愛撫する。乾さんの脚が私の脚をからめ取る。叩いてやろうとした手を引き寄せられて、指を口に含まれる。抱き上げられてベッドに降ろされる。フィルムの中では、私は乾さんの女なのに。
 三沢さんの提案で、彼のマンションでの上映会。私までが出席するのは面映かったけれど、乾さんにも会えるのだから、やってきた。香川さんの短いフィルムは完成して、乾さんは音楽の仕事に戻っているから、会う機会が少なくなって寂しかった。
 ソファでくっついてすわって、乾さんの体温を感じる。息遣いも感じる。乾さんの手ってえっちっぽい、と囁くと、ははっ、と小さく笑っていた。
 見ているのはとっても恥ずかしかったけれど、乾さんに密着していられるのが幸せな時間がすぎる。ぽーっとしてしまっている私を置き去りに、男のひとたちが話している。三沢さんと酒巻さんはお酒の支度をすると言ってキッチンに行き、乾さんは私に言った。
「遅くなるから、送っていくよ、千鶴」
「私は帰らないといけないの?」
「当然だろ。俺は仲間たちと会ってるんだから、酒を飲みたい。そしたら車の運転ができなくなるんだから、飲む前に送っていくんだよ。みんなに挨拶しなさい」
「……いや」
「千鶴、言うことを聞きなさい」
 そんなのずるいよ、と呟いてみたら、酒巻さんが言ってくれた。
「僕はお酒は飲まなくてもいいですから、あとで僕が車の運転をしますよ」
「そこまで千鶴を甘やかさなくてもいいんだよ。躾のためには甘やかしすぎるのはよくないだろ」
「乾さんって、彼女と芝居をしているうちに、ほんとに躾をしてる気分になってきてるんですか」
「千鶴はしっかりもしてるけど、まるっきり子供って部分もあるからね」
「……千鶴ちゃんは乾さんにこんなふうにされてて、うらやましがってる女もいるんだよ」
 木村さんが言い、三沢さんも言った。
「千鶴ちゃんはわかってるんだろ。乾さんのこのきびしい優しさ。僕ちゃんだってうらやましいよ」
「おまえは引っ込め」
 本橋さんが言い、三沢さんが言い返した。
「そのおまえとはユキですか」
「ユキは出てくるな」
 ユキ? ああ、三沢幸生の別人格か。私がそう思っていると、ヒデさんも言った。
「千鶴ちゃんは乾さんに送っていってもらいたいんだろ。聞き分けよくしないと、乾さんに言われるぞ。そんな子は送っていってもやらない、ヒデ、おまえが送っていけ、かもな」
「……千鶴は乾さんがいいの」
「だからだよ。はいって言って、みんなにご挨拶しなさいね。おやすみ、千鶴ちゃん」
 子供をあやすみたいに言っている三沢さんも、今夜は大人に見える。本橋さんも言った。
「映像の中の千鶴ちゃんと実物って、えらいギャップがあるんだよな」
「千鶴、帰るよ」
 はいと言えばいいのに、帰りたくなくていやいやをすると、乾さんにひょいっと抱き上げられた。
「いやーん」
「いい加減にしなさい。そら、その格好でもいいから、みんなにおやすみなさいは?」
「……言わない」
「そうか。そのつもりだったらいいよ」
 おいおい、おい、乾、乾さーん、そんな、あの……誰が誰だかわからない声の中を、乾さんは私を抱いて悠然と歩いていく。マンションの外に出ると、笑っているのが半分の声で言った。
「いい加減にするのか、しないのか?」
「乾さんなんか嫌い……きゃ……ああん、はい、帰ります」
「はじめからそう言え。わがまま娘の千鶴。まあ、たまにはわがままも可愛いけど、叱られたらいい子にしないといけないんだろ」
「……はい」
 腕から降ろされると、私はドアに向かって言った。
「おやすみなさい、みなさん」
 はいはーい、と聞こえた声は三沢さん、他の四人も安心したように、おやすみ、おやすみなさい、と返事をしてくれた。
 
 
3・隆也

 ブラックフレームスのトミーがDJをつとめている、大阪はFMなにわの早朝番組に、フォレストシンガーズがデビュー間もない時期に呼んでもらった。番組自体も誕生間もなかったようで、トミーの印象には俺たちが強く残ったのだそうだ。
 その後も幾度か出してもらったりして、トミーとは親しくしていたのだが、最近はあまり会うこともなかった。
「あの「アーリィモーニングティ」が東京に進出するんだって。FMなにわと東京のFM局がネットして番組を東京でも流すって形みたいね。そのお祝いみたいな意味での公開録音が行われます。乾くんをゲストにとのご指名よ」
 マネージャーのミエちゃんから言われ、喜んで行かせてもらった。
 ビルの一室にある録音の設備も整った部屋で、トミーとトークする。お客さまのリクエストにお応えして、トミーのギター伴奏で俺がソロで歌う。小規模な集まりだったのもあって楽しくやらせてもらったその日、俺の胸に長い間ひっかかっていた、トミーへのわだかまりが溶けた。
 事前に俺は知っていた。公開録音に集まってくれたのは、FM局で呼びかけて応募してきた方々だ。俺もその局では仕事をしていたので、抽選で選ばれた人の名簿を見せてもらっていて、「尚子」の名を見つけた。
 尚子という名の女性が日本中に彼女ひとりってわけではないだろうが、竜彦という名の男の連れとして記されている彼女は、あの尚子にまちがいないと思えたのだ。
 番組の主役はトミー、ゲストが乾隆也。そのふたりを客席から見てくれるのであろう女性は尚子。安手のドラマみたいだけれど、そんなことだって人生にはあるのだろう。そうと知った俺は、ソロで歌うための曲を書いた。遠い遠い日に尚子さんが描いてくれたイラストに寄せて。
 当日、尚子は客席にいた。若い男の連れが竜彦だろう。ふたりともに普通の勤め人に見えるが、彼女は今も絵を描いているのか。尚子とトミーは同年くらいだったはずだから、竜彦は尚子よりも年下に見えた。
 俺の歌った歌が波紋を呼び、録音現場に来てくれていた泉沢達巳氏が妙な真似をしたのもあって、トミーを怒らせた。怒らせたというか興奮されたというか、大阪弁でまくし立てたトミーは、おまえを殴らせろとまで言ったのだが、これで俺の気持ちの中にあった、氷のかたまりが溶けていったのだった。
「そんな話を詳しくなんか聞きたくないけど、そうだったんだな」
「そうだったって……トミーさんもそうじゃないかと思っていた?」
「思ってたよ。どうしてだかとか、そんなんはどうでもいいけど、そうだったんだな」
「そうだったんですね」
 彼も俺も、そうだったのだとうなずき合った。
 フォレストシンガーズがプロとしてデビューする前に、酒場で知り合って好きになった尚子。彼女はかつてはトミーの恋人で、トミーは俺の前に「月影」でギターを弾くアルバイトをしていた。
 トミーと尚子の仲がいつからで、どれほどのものだったのかは知らないが、トミーはブラックフレームスのギタリストとしてデビューして、売れて、尚子を捨てた。捨てたのがいずれだったのかも知らないが、少なくとも俺はそう思い込んでいた。
「あたしと寝たいんでしょ? いいよ、寝ようよ」
 あの日、尚子がなんと言ったのか、正確には覚えていない。が、そんなふうに誘われてためらったものの、若かった俺は尚子を抱いた。ひと夜の夢。フォレストシンガーズメジャーデビュー前夜の夢だった。
 はなむけのセックスだったのか。二度と会うこともなかった尚子は、俺に絵をくれた。フォレストシンガーズの五人がまだ見ぬどこかへ向かって、走り出そうとしている絵だった。俺はその絵を歌にしたのだった。
 あの絵はどこかにしまってあるのか。学生時代から住んでいたアパートからマンションへと引っ越す際に、どこかにまぎれ込んでしまったのかもしれないが、俺の胸の中では鮮やかにきらめいている。二十四歳だった俺と、俺の仲間たち。
 彼女はトミーと俺が、あるときまぎれもなく愛した女。そうだろうと思ってはいたけれど、そうしてそれが事実だと知った。トミーも俺もそうだと知った。
 泉沢さんが持っていたスケッチブックは、彼が彼女にもらったのか。スケッチブックは泉沢さんが持って帰っていってしまったのだが、彼は彼女と知り合いだったのか。まあ、そんなことはどうでもいい。尚子とは本当に二度と会うこともないだろうけれど、竜彦って奴と結婚するんだろうか。
 竜彦と尚子は姓がちがっていたから、今はまだ結婚していないのだろうが、いずれはするのかもしれない。幸せになってほしい。
 幾度も幾度も、好きだった女性の結婚の報を聞いた。そのたびに心で言った。口に出して言ったりもした。そんな言葉をまた言おう。心の中で言おう。今回は胸の痛みはほんのわずかで、笑みのほうが多かった。
「尚子さん、幸せになって下さい」
 おそらくはトミーも、同じ言葉を上せていたのだろう。おまえを殴らせろ、と俺に言ったことなど、忘れた顔をして目を閉じていた。

 
 そんな出来事もすこし過去になり、だんだんと遠ざかっていき、俺は日々の暮らしの中で生きている。幸せな多忙の中にいる。
 説教したい願望だの、女の子を叱って快感だの、そんなものはないのだが、千鶴をあんなふうに扱って、千鶴が俺を慕ってくれるのは心地よい。
 最近になって知り合った心の弟と妹。哲司の頭をごつんとやったりするのは、やんちゃな弟へのお仕置きだ。千鶴の尻を軽く叩いたりするのは、金子さんの模倣だろうか。おまえは尻を叩かれて叱られる程度の子供なんだよ、と。
 むろんきつく叩いたりはしないが、千鶴にはあれがかなり効果的だと思えるからもある。俺は女には手を上げない、との主義はあるが、あれしきは手を上げるうちには入らない。
 男の哲司にはもちろん、女の千鶴にだって恋心は微塵もない。ただ、千鶴は可愛い。心の妹は他にもいるが、彼女が無心に俺を慕ってくれると感じ取れるからこそ、こんなにもこんなにも可愛い。演技でならばエロティックな触れ合いもあったものの、それが恋にはなるはずもなかった。
 若かったころならぱ千鶴に恋をしたのかもしれないが、俺はもはや若くはない。俺が若かったら、と仮定するのは無意味だ。千鶴は俺に恋してる? そんなのは若い娘の気の迷いだ。千鶴に限っては、演技のこやしってのもあるだろう。
 それにしても俺は乗せられやすい。俺はこんな性格だったのだろうか。「タブーNO.3」の監督やら写真関係者やらに乗せられ、果ては千鶴や香川にも乗せられ、あのような映像に出演してしまった。祖母があれを見たら卒倒するか。ものさしでひっぱたかれそうにも思える。
「ばあちゃんがいなくてよかったよ」
 千鶴を自宅まで送り届け、ひとりごとを言って苦く笑って、幸生のマンションに戻ってきた。部屋に入ると、五人の男たちは酒盛りをしていた。
「だからさ……うわ」
 入ってきたのが俺だとは自明の理であろうに、幸生が自らの手で自らの口を押さえ、ヒデが言った。
「乾さんがいないと話題が落ちていく一方で……」
「おまえだろうが、ヒデ、下ネタヒデだろ」
「本橋さん、その言い方はないでしょ」
「酒巻は照れてばっかでさ。おまえ、下ネタは嫌いか?」
 章が問い、酒巻がうつむいてもごもご応じる。俺がいないのをいいことに、千鶴の身体の品定めでもやっていたのだろうか。
 痩せた女が好きな章は、千鶴を太めだと言う。哲司も千鶴をデブだと言った。若い女性同士だと、千鶴は太っていると言われたりもするらしい。男の趣味によっては千鶴は合わないのかもしれないが、絶対に駄目、と言う奴は少ないはずだ。
 どちらかといえば俺もほっそりタイプが好きだったけど、千鶴のプロポーションは素敵だ。虚心坦懐に観賞するには最適な女体である。巨乳に顔を埋めて窒息させられたいなどと、昔から言っていたヒデも、千鶴を見て目を細めていた。
 誰ひとりとしてモロにどうこうは言わなかったが、好色な目は全員が千鶴に向けていた。千鶴は慣れているのか、女優の卵としてはあんな男の目つきは勲章なのか。それとも、やはりいやだったのか。俺にくっつきたがって、帰りがけには駄々をこねていたのは、こいつらの目つきのせいだったのかもしれない。
 そうだとしても、男が千鶴をあんな目で見るのは仕方がない。視線からかばってやるには限度があるのだから、できるときには甘やかしてやりたい。
 千鶴の保護者のようにも思われている俺が戻ってきたからか、下ネタはやめてしまって世間話になっている他の五人を見やりつつ、焼酎オンザロックなど飲りつつ、俺は考える。千鶴は可愛くて、哲司だって可愛いといえば可愛いのに、最近知り合った若者の中では、大嫌いな女ができてしまった。
 なぜに俺は彼女がこんなに嫌いなのか。三十五歳にもなって、ひと回りも年下の女の子を嫌うなんて、人間ができていない証拠だ。俺が嫌うから彼女にも嫌われる。できるものならば嫌われるのではなくて、無視してもらいたい。
 歌手なんてものは人に嫌われるほうがいいと言う。乾隆也? あんな奴、大嫌い、と言われるほうが、無関心よりは上だという。しかし、俺はミルキーウェイには無関心でいられたい。
 前世からの因縁でもあったのかと思うほどに、関われば関わるほどに俺はミルキーに嫌悪感を募らせる。この女は好きになれない、と思った相手は今までにだっていたが、ここまで嫌いな女はいなかったはずなのに。
 自己嫌悪といえば、千鶴とミルキーを車に乗せて送っていったときもそうだった。ミルキーをことさらにつめたく扱い、千鶴とは兄と妹のように会話していた。俺はこんなに底意地が悪い奴だったのか、自覚はあっても、そうとしかふるまえなかった。
 好悪の感情はどうしようもないのだから、ミルキーには関わってきてほしくない。二度と俺に近寄るな、近寄ると殺虫剤を噴霧するぞ、とまで言いたくなるのだから、俺はちっぽけな男だ。
「乾さん、ごろにゃーん」
 すこし酔ったか、幸生が俺の肩に頭をもたせかけてきた。
「無口ですね。疲れた?」
「疲れはしないけど、幸生、鏡を見てみろ。おまえが映ってるよ。その姿は絵にならないだろ」
「ですよねぇ。千鶴ちゃんがこうしてる姿だったら絵になるけど、俺は中年男だもんね」
 作為的であろうため息をついて、幸生が俺から身体を遠ざける。章も言った。
「中年じゃねえよ。俺はおまえと同い年なんだから、おまえが中年だって言ったら俺もそうだって話になるだろうが。俺たちはまだ若い!! な、酒巻?」
「僕は若いですよ。独身ですしね」
「……酒巻、彼女ができたんだっけ?」
 幸生が問い、ヒデも言った。
「ニューヨークに彼女がいるみたいなこと、言ってたよな」
「そうだったのか。だったら、早く戻りたいんじゃないのか。一時帰国なんだろ」
 本橋も尋ね、俺も言った。
「日本人女性だったかな。紹介はしてくれないのか」
「酒巻、どうしたの?」
 うつむいた酒巻の肩が震えている。素早く察したらしく、幸生が酒巻に駆け寄った。
「みなさん、質問はやめてやって下さいね。おーおーよしよし、酒巻くん、わかったからね。言わなくていいよ」
「三沢さん……僕……」
「バッカヤロー」
 小声で吐き捨てたのは本橋で、ヒデが彼をきっと睨んだ。
「本橋さんが馬鹿野郎って言うのは、ふられたごときで泣くな、でしょ。あんたはいいよな。美江子さんにプロポーズしてうなずいてもらったんでしょ」
「そうだけど、なんなんだよ、ヒデ、おまえもふられたのか」
「……本橋さん、ベランダにでも出ませんか」
「やろうってのか。上等じゃねえかよ。おまえとはいっぺんやってみたかったんだ」
 うわ、ちょっと、やめましょうよ、と章が青くなって言っている。本橋とヒデが睨み合い、幸生は酒巻をなだめている。俺は言った。
「やめろ。馬鹿野郎。いくつだ、おまえたちは。ヒデ、本橋、やめろ。章、水をぷっかけろ」
「ヒデ、邪魔者のいないところでやろうな」
「いいですよ。本橋さんだって結婚したらしたで、ストレスもあるんでしょ。解消するにはバトルってのもいい方法ですよね」
「そうだよ。俺たちは乾みたいにはもてないし」
「あんないい役ができる演技力も、本橋さんにはありませんよね」
「あるわけねえだろ」
 本橋とヒデがじろじろっと俺を見、章も言った。
「まったくね。俺から見たら乾さんのあのエロなあのすべてが、女にはセクシーだって言われるんだ。千鶴ちゃんだって乾さんに参ってるんでしょ。俺も……くそ、背が高くなりたい」
「今さら背は無理だけどさ、章もこっちに来いよ。ちびの三人で低身長の悲哀の傷をなめあおうぜ」
 幸生が言い、章はけっ、と切り捨て、酒巻が言った。
「ほんとに……僕は乾さんの……あのせいでよけいに……本橋さんやヒデさんは贅沢です。僕がいちばん小さいんですから」
「うん……身体が小さいと……うんうん」
 章がぶつぶつっとぼそぼそっとなにか言って、全員が俺を凝視する。なんだってこんな恨みがましい目で見つめられないといけないのだろうか。俺がなにをしたと言うんだ。いや、彼らからすればなにかしたのか。それは俺の責任なのか。
「いや、まあね、二枚目ってのは……」
 このあと、なんと続ければいいのか。二枚目気取りってのは俺には荷が重い、が最適な台詞だろうけれど、そうと言う前にクッションが飛んできた。クッションを投げたのは酒巻だ。それを避けると他のものも飛んでくる。
 栓抜きやらコースターやら氷やらダスターやら、当たっても痛手にはならないだろうが、みんなして俺にものを投げている。わらわらばらばらと小物が飛んできて攻撃されて、言いたいことが言えなくなった。


4・達巳

 スタジオミュージシャンの職業柄、俺はフォレストシンガーズの面々ともともに仕事をした。ブラックフレームスはデビュー前から知っている。フォレストシンガーズの木村章も、アマチュア時代から知っていた。
「……ジャンピングジャックフラッシュの泉沢達巳? あ、呼び捨てにしてすみません。ああ……ああっ、知ってますよっ!!」
 フォレストシンガーズの木村章としての彼とは初対面だった日に、章はそう叫んでおいて俺に深く頭を下げたものだった。
 トミーと乾に因縁があるのならば、俺と章にもある。俺は章が告白したという、彼の学生時代の女とも、一時は章と愛し合っていたと聞く女とも言葉をかわした。前者のミャーコちゃんは露骨ではなく、後者のスーは露骨に口説いた。そしてふられた。
 ジャンビングジャックフラッシュなんてものは、俺の過去だ。ジギーも章にとっては過去だ。過去と過去、人と人とはどこかでからまり合う。ロック界だの音楽界だのの狭い世界には、過去に知り合いだった奴は何人もいる。
「章、二日酔いか」
 本日も章とはスタジオで顔を合わせた。女性ロックシンガーとの仕事で、俺はレコーディングのためのギターを弾く。章は彼女の新曲の作曲者なので、レコーディングに立ち会うためにやってきていた。
「おはようっす、泉沢さん。二日酔いってほどでもないけど、昨夜はけっこう遅くまで飲んで喋ってたもんで、寝不足なんですよ。幸生の部屋で上映会をやってましてね」
「ポルノか」
「ポルノったら近いかな。あ、そだ。あれって門外不出なんだった。よその人に喋ったらいけないんだった。忘れて下さいね」
「聞いたら忘れられないよ。そんなにすげえポルノなのか」
「すごくはないんです」
「俺にも見せろよ」
「いいえ。すごくはないんですけど、出演者が問題なんですよ」
 するとつまり?
「乾隆也だろ」
「え……」
 なんでわかる、とでも言いたげに、章は俺の顔を凝視した。
 ジギー時代の彼は何度かライヴハウスで見たり、そこらへんを歩いているのと遭遇したりしたものだが、彼のほうは俺を意識していなかったのだろう。再会しても名乗るまでは思い出しもしなかった。
 がりがりのひょろひょろで小さくて、ガキみたいで、肩をそびやかした顔の綺麗な奴。声の高い奴。やたらに女にもてて、いつだって取り巻き連中を引き連れている軽そうな奴。頭も軽そうだけど、歌はとびきり上手だ。俺の印象もその程度だった。
 こうしてともに仕事をするようになってみると、頭はそう軽くはないのだと知った。声は高く、顔つきも身体つきも年のわりには幼いが、ジギー時代よりは大人になった。
 むろんフォレストシンガーズの他の四名も、俺とは知人だといっていい。それほど親しくもないのだが、乾とは先だって、些細な一件があった。俺は傍観者的立場ではあったのだが、乾がポルノビデオに出演しているとあてずっぽうを言ったのは、あながちでたらめばかりでもなかったのだ。
 何人かいる俺の女の中に、女優のカリコ・キリコがいる。むこうはどう思っているのか知らないが、彼女にしたって男なんてのは明日への活力、癒しの素程度のものだろう。そのキリコの主演映画「タブーNO.3」の話は、キリコから聞いていた。
「乾隆也って知ってるよね」
「知ってるよ。あいつらのレコーディングでギターを弾いたこともあるからさ」
「達巳さんは音楽業界では顔が広いよね。でね、その乾隆也が、映画に出てるの。あたしは顔を合わせてもいないんだけど、歌を歌う役だって」
「ぴったりだな」
「そうなのよ。彼は歌は上手なんでしょ」
「相当なもんだよ、フォレストシンガーズは」
 キリコはフォレストシンガーズなどには関心なさげだったし、歌を歌うために出演する端役の乾にも興味はなさげだったが、その後、俄然興味を持ったらしいのだ。
「悔しいよ」
「どうした?」
「映画のポスター……主演の私と大城ジュンのポスターを差し置いて、乾隆也のが評判になってるんだって」
「どんなポスター?」
「私は見たくもないから見てないけど、エロっぽいみたい」
「エロっぽいのか。俺は見たいな。おまえだったら手に入るんだろ。もらってこいよ」
 どスケベとか言ってはいたが、キリコがもらってきてくれたポスターは、たしかに色っぽかった。
 顔の見えない女を乾隆也が抱擁している。女は背中を向けていて、乾は女の髪に顎を埋めている。カメラ目線の乾の瞳が妖しく光っている。俺の興味は女のほうに向いていたが、女性ならば乾隆也をセクシーだと言うだろう。
「この手、乾の手は……片手が映ってないだろ。どこにあるんだろ」
「知らない」
「この女、誰だ?」
「知らないって言ってるでしょ。顔も映らない格の女優なんて、私が知るはずないのよ。悔しいよぉ」
「そうかそうか、悔しいか、よしよし」
 こんなときのためにも男がいるのだろうから、口先だけでキリコをなだめてやった。
 顔が見えないにも関わらず、後姿で演技している女優は色気があって、乾隆也がかもし出すムードとあいまって、押さえてもあふれるセクシーさというか、そんなポスターを俺は見たのだ。だからこそ、木村章の言動から推理したのだった。
「……言いません。言えません」
「乾隆也のボルノビデオか。相手の女優はあのポスターの子か。彼女は誰なんだ?」
「知りませんってば」
 この顔は知っている。フォレストシンガーズのメンバーならば知っていて当然だろう。
「彼女は若いんだろ。顔は見えなくても身体つきで若いってわかるよ。いくつだ」
「十九……あわあわっ、そのくらいかな」
 あわあわっ、でモロバレだ。顔と態度に出やすいわかりやすい奴である。
「俺もポスターは見ましたよ。俺からすると彼女はちょい太めだけど、若い身体をしてますよね。だから、十九くらいかなって」
 二十歳くらいだと思ったというならわかるが、十九とは具体的すぎる。章は言い訳めいて言った。
「泉沢さんから見ると、あの子は太すぎません?」
「俺は細い女が好きだよ。背は高くても低くてもいいけど、デブより細いのがいいな。ったって、おっぱいは大きいほうがいいだろ」
「全然ないのは女じゃないみたいだけど、俺は胸のでかすぎる女もいやだな」
「そうなのか」
 キリコは細くて背が高い。胸はまあまあ豊かだが、豊胸手術を施しているのではなかろうかと思わなくもなく。女優なんて整形も身体改造も普通だろうから、それはそれでいいのであるが。
「あいつ、ケツもでかいし……」
「でかいってほどでもないだろ。横には広がってなくて厚みがある。あれだったら俺はけっこう好みだな。スーもミャーコちゃんも細かったっけ」
「へ? 泉沢さん、今、なんて?」
「俺、なんか言ったか?」
「泉沢さんがスーを知ってるのは当然かもしれないけど、ミャーコちゃん?」
「誰だ、それ? おまえはスーの亭主を知ってるか」
「……ドンちゃんとかいう……鈍そうなでかい奴……泉沢さんも知ってるんですか」
「知らないよ」
「嘘つけっ!! あ、えと、すみません」
 聞くところによると、フォレストシンガーズは先輩が後輩を教育してきたのだそうだ。年下の章と幸生は、年長の本橋と乾にきびしく仕込まれてきた。よって、俺ほど年上の男にこんな口をきいてはいけない、との躾が行き届いている。
 そんなの気にすんな、と言っては、先輩たちの教育方針を損ないそうで、俺も鷹揚にうなずいておいた。ミュージシャンが教育方針って、グループに上下関係があるなんて、ロッカーとしては笑いたくなる。もとロッカーの章がよくぞついていったものだ。
「とぼけられるとむかつくんだよな。ポスターの女優って誰だ?」
「……内緒ですよ。佐田千鶴っていって……卵だそうですけど、大学の後輩に映画を作ってる奴がいましてね」
 佐田千鶴なんて俺は知らないが、キリコだったら名前を告げれば知っているのだろうか。木村は言いにくそうに話してくれた。
「そいつの頼みで、門外不出にするからって、千鶴と乾さんの短いフィルムを撮ったんですよ。仲間うちだけで昨日、幸生の部屋で見たんです。内緒ですからね」
「俺にも見せろ」
「うう……勘弁して下さいよ」
「ドンって奴の話、聞きたくないのか」
「卑怯者っ!! うわ、すみません」
 先輩の教育が行き届いているようで、荒い口をきくたびに詫びている。可愛い奴だ。俺もドンなんて奴はさして知らないのだが、面白いので交換条件を出して脅迫手段にした。章は身をもみしだいたあげくに、内緒内緒と百回くらい念を押した。
「でも、幸生になんと……あれは千鶴ちゃんが持って帰ったのか……どうしたんだろ」
「内緒にしとくからさ、ふたりっきりで見ような」
「……なんとか……してみせます」
 期待しないで待ってるよ、と言うしかないだろう、この状況では。


5・國友

 酔っていたとはいえ、僕は乾さんになにをした? クッションを投げつけた? なんたることを……朝になってから思い出して青ざめた。
 フィルムを見ている間は無言でいて、弱いくせに飲んでいた。失恋の哀しみが濃く残る心に、あのフィルムは不潔にも映った。僕だって大人の男なのに、フィクションだと知っているのに、乾さんも千鶴さんも演技しているのに、汚い気もしたのだった。
 見ている分には千鶴さんは綺麗だし、乾さんだって男性にしては清潔感もあって綺麗で、色っぽいともいえる。なのに汚いなんて、僕のひがみ心だったのだろう。
 どこをどう嫌いになったのか、思いやりとして、マナーとしてモラルとして、みな子さんは口にはしなかった。原因なんてどうだっていい。僕は捨てられた。彼女が僕を嫌いになった一因は、フィルムの中で乾さんが千鶴さんにしているようにはできなかったから?
 これはフィクションであり、実際のセックスは美しいばかりではないと、大人だったら知っている。僕は小柄で気弱な酒巻國友だと、みな子さんは最初から知っていた。
 みな子さんは千鶴さんに負けないほどに綺麗だったけれど、僕たちの夜はこんなふうではなかった。もっと普通に抱き合って、もっと普通に昇りつめていった。それが僕は幸せで、そんな夜をすごすのが嬉しくてたまらなかったのに。
 こんなふうには普通はできない。僕は普通の男、みな子さんは普通の女。それでよかったのに、僕は普通以下だったからみな子さんに捨てられたのか。
 頭の中がぐつぐつ煮えてきて、乾さんも千鶴さんも不潔だよ、と思ってしまったのは、八つ当たりの一種だったのかもしれない。視線をやれば本物の乾さんと千鶴さんがいる。恋人同士のように寄り添って、千鶴さんがくぐもった声でうふふと笑っていた。
「こら、ちがうだろ」
「だーって……」
 その程度の会話だったら聞こえた。
「やめなさい」
「……あん、乾さん……」
 暗いからってなにやってんだよ、あのふたりは、不潔!! まるでひと昔前の清純少女みたいに、僕はひとりで怒っていた。
 テレビに視線を移すと、ソフトフォーカスのかかった中で、男が女を抱きしめている。乾さんの長い脛が、千鶴さんの白い脛を押さえ込んでいる。華奢な千鶴さんの手が、大きくて骨ばった乾さんの手に握りしめられている。
 小さくてたおやかな女の手が、男に引き寄せられる。千鶴さんの手にキスをした乾さんが、低い声で囁く。乾さんの声は低くなると色っぽくなると、誰かが言っていた。
「……これだけで……感度がいいな。感じやすいんだな、おまえ」
「……あ」
 もうひとつの乾さんの手はどこに? ああ、もう、不潔。ああ、もう、僕、変。
 そうやって気を散らしつつも、短い上映会は終わった。乾さんが千鶴さんに帰りなさいと言い、千鶴さんはいやだと言ったから、あとで僕が車の運転をしますと申し出て、乾さんに千鶴さんも僕も叱られた。
 叱られてべそをかいた千鶴さんは、乾さんに抱っこされて外へ連れ出されてしまった。力のない男は女性を抱いて運べない。千鶴さんはグラマーだから、僕だったら抱き上げられるかどうかも怪しいところだ。みな子さんだったらできたかもしれないが、したことはない。
 たまさか男が女を抱いて歩いているのを見ると、僕は惨めな気持ちになる。僕もああしてみたい。だけど、僕にはできないのだから。
「酒巻さんだったら、男に抱っこされてるほうが似合ってるよ」
 大嫌いな哲司がそう言いそうで、むむむむのむっだった。
「そんなのできなくてもいいじゃないか。大人の女性だったら……でも、千鶴さんは乾さんに抱っこされるのは……嬉しいんだろうな」
 できなくてもいいのだろうけど、してみたい、僕はあのときにもそう思って、三沢さんの住まいから出ていく乾さんの背中を見ていた。
「おいおい、乾」
「乾さん、それは……」
「千鶴ちゃんを手荒に……」
「手荒じゃないだろうけどね……」
 本橋さんとヒデさんと木村さんと三沢さんは、そんなふうに言って千鶴ちゃんの心配をしていたけれど、僕は黙っていた。外に抱かれていった千鶴さんは、乾さんに言い聞かされていい子になったのだろう。おやすみなさい、と声が聞こえ、僕の先輩たちも安心した声で返事をしていた。
 そのまま乾さんは千鶴さんを送っていき、残された五人でお酒になった。千鶴さんのヌードの話やら、乾さんによる千鶴さんの取り扱い方やら、そんな話になって、三沢さんは言っていた。
「芝居の稽古部分も多いんだろうけど、プライベート部分ではほんとにそうなんだよね。俺たちだって乾さんに躾をされたところがあるじゃん。千鶴ちゃんは女の子なんだから、ちがった方法でいろいろと教えてるんだね。躾ってのは身を美しくするって書くだろ。叱るばかりではなくて、甘やかしたり褒めたりするのも躾なんだよね」
「きびしいところもあるみたいだけど、ああやって可愛がってもらってるんだから、千鶴ちゃんは嬉しいんだろ」
 へええ、そうなのか、とヒデさんと本橋さんは言っていた。木村さんは続けて言った。
「乾さんのああいうのって、相手によって反応がちがうだろ。幸生と俺もちがってたよな。躾けられたなんていわれると、俺はガキじゃねえぞ、なんだけど、ま、そんなところもあったんだな。俺たちはいいとして、女の子だよ。女ってのは心の底がわかりづらいけど、あいつなんかは……」
「あいつってあいつ?」
「幸生の言ってるあいつって誰だ?」
「章のあいつは?」
 あいつが誰だか僕は知らないけど、乾さんがうらやましい。うらやましいというとややちがうし、僕がああして千鶴さんに慕われたとしても、上手に接するなんてできないけど、もてまくっている乾さんはうらやましかった。
 もしも僕が乾さんみたいに背が高くてかっこよくて、女のひとにもてる男だったとしたら? 増長してプレイボーイになっていたかもしれないから、このまんまでいいのかも。
 そうも思っていて、僕は五人の飲み会では聞き役に回っていた。そのせいでよけいに飲みすぎたのだ。乾さんが戻ってきて、酒巻の彼女は? なんて話になって、僕の顔色が変わって泣きそうになったせいか、三沢さんに気取られた。
 そこからはわけがわからなくなって、乾さんがみんなにものを投げられていたのは覚えているが、そのあたりで僕はダウンしたはず。乾さんに投げつけられていた物体の中でもっとも大きかったのは、僕が投げたクッション?
「そうだよ」
 みんなは帰ってしまったようで、僕は三沢さんの部屋に泊めてもらっていたようで、目が覚めたのはソファの上だった。僕、昨夜は乾さんにクッションを? と恐々尋ねると、三沢さんがこともなげにうなずいたのだった。
「おまえは酔い潰れたみたいだから、本橋さんとヒデさんと章は言ったよ。ほっとけって。俺が毛布でもかけてやろうとしたら、乾さんがおまえを抱き上げて、ここまで運んできてソファに寝かせてくれたんだよ」
「……そうですか」
 誰かが言った通り、僕は男に抱き上げられてソファに運ばれた。嗚呼、無情ってこれか。
 おまえは女に生まれたらよかったんだ、とも誰かに言われた。バイになれば? と言った奴もいた。僕は女性にはなりたくないし、バイセクシャルなんてまっぴらだ。やりたいひとはやればいいけど、僕は男と恋なんかしたくない。
 それよりも、僕は子供に戻りたい。昔から幾度か考えたように、乾さんの弟に生まれたい。生まれ変わったら乾さんの息子になりたい、とも思う。
 息子ってのは現実感がなさすぎるから、時を巻き戻したい。僕は金沢で乾さんのご両親の次男として生まれるのだ。お兄さんの隆也さんは中学生くらいだといい。両親は忙しくてあまりかまってくれないかもしれないが、中学生の隆也兄さんが僕を鍛えてくれる。
 その上に、乾さんには最強のおばあさまがいる。そうなればさな子おばあさんは僕の祖母でもあるのだから、きびしい祖母と兄に躾を受けて、僕はきっと強い男になれる。
 隆也さんの弟なのだから、背丈だって高くなるかもしれない。精神力は強くなるに決まっている。隆也さんが中学生になって手が離れたから、おばあちゃんはかわりに僕をきぴしく育ててくれるだろう。おばあちゃんに蔵に入れられたり、お兄ちゃんに叩かれたりしても、僕は耐える。耐えて強くなる。
「そんなのって……」
 実の両親と祖父母にはうしろめたいのだが、悲しい現実から目を背けたくて、そんな想像をしてみていた。


「酒巻、頼むよ」
 電話をかけてきたのは木村さんだった。
「おまえだったらさ、そのくにゃっとした雰囲気で……なんとかなるだろ。千鶴ちゃんとだって親しいんだろ」
「親しくはありませんけど」
「泉沢達巳っていうギタリストに紹介してやるから」
「僕の仕事とは特に関わりはないひとでしょ」
「そう言わずに、頼むよ」
 いやだなぁ、という態度を取り続けていたら、最後には凄まれた。
「てめえ、俺がここまで頼んでるのに聞けないってのかっ」
「は、はい、なんとかします」
「それでこそ酒巻だ。頼んだぜ」
 先輩には勝てない。木村さんだって先輩なのだから、引き受けるしかなくなってしまった。こうなれば千鶴さんに頼るしかないか。いや、香川くんがいるではないか。香川くんのほうが頼みやすいので、彼の自宅に押しかけていった。
「よお、酒巻、なんか用か」
「仕事ははかどってる?」
 香川くんは佐田千鶴主演映画の脚本執筆の最終段階に入っているのだそうで、自宅のパソコンに向かって唸っている途中だったのだと言っていた。
「はかどってねえけど、休憩しようか。コーヒーを淹れるよ」
「うん、ありがとう」
「あれがさぁ」
 あれとは、例のフィルムだ。僕が言い出す前に香川くんが言ったのは、意外な事実だった。
「千鶴から聞いたんだけど、三沢さんちで見たんだって? 千鶴に渡したのはあれなんだけど、もう一本あるんだ。見たいか。やるよ」
「え? いいの?」
「これも門外不出だぞ。乾さんとはその約束で作らせてもらったんだし、特にこっちは、乾さんだって形になってるとも知らない。おまえと俺の仲だからやるんだよ。友達に見せるくらいだったらいいけど、メディアに発表したり、ネットの投稿サイトに流したりするなよ」
「するわけないでしょ」
「するわけないよな」
 したらどうなるかわかってるだろうな、と香川くんの目が僕を脅している。友達にだったら見せてもいい。ならば、木村さんには見せてもいい。泉沢さんは木村さんの友達と見なしてもいい。頼まなくてもいいものをもらった。
 いっぺんに気持ちが明るくなって、DVDを持って香川くんの自宅兼仕事場を辞去する。
 こっちはどんなフィルムなのだろうか。三沢さんの部屋で見たあのフィルム以上に貴重な、監督と僕だけしか持っていない映像なのだ。乾さんも千鶴さんも、こんなものがあるとも知らないのか。だったら、木村さんも泉沢さんも喜んでくれるだろう。僕は木村さんに電話で報告した。
「秘蔵フィルムが手に入ったんですよ。それでもいいでしょ」
「秘蔵フィルムだったらそのほうがいいかもな。俺んちに来いよ、泉沢さんも誘うから」
 中身を確認したいのを我慢して、僕も知らない状態で、DVDを携えて木村さんの部屋に行った。背が高くてハンサムな四十代のギタリスト、泉沢達巳さんも来ていて、紹介してもらうと、木村さんがテレビにDVDをセットした。


5・章

口笛、シャワーの音。スゥイングドアが腰のあたりを隠していて、上半身と脚は見える。シャワーを浴びているのだから、当然裸だ。忍びやかな足音。頭からシャワーを浴びている男が、声を発する。
「入ってこいよ。一緒にシャワーを浴びよう」
 女のふくら脛が映る。ためらいがちに小さく足踏みしている。
「おいで、千鶴。つかまえにいってやろうか」
 無言でぱたぱた駆けて逃げ出していく女の素足。男の小さな笑い声。

 木陰に男女がすわっている。男は本を読んでいて、女はかたわらで本を覗き込んでいる。ねえねえ、なにを読んでるの? 尋ねた女の頭を、男が抱き寄せた。
「おまえの解釈では、ここはどう読む?」
「えー? わかんない。むずかしいよ」
「考えてごらん」
「……そんなのどうでもいいの」
「どうでもよくはないだろ」
「いいの。そんな話はつまんない」
「どんな話がしたいんだ? こんな話?」
 女の耳に口を寄せて、男がなにか囁いている。くすぐったそうに身をよじる女の頬に、ぽーっと血の色がさしていく。

 和服姿の女が歩いている。大振袖というのだろうか。明治か大正の時代の若い娘のような着物だ。古風で豪華な着物を着た女のあとを歩く男も、明治時代の書生みたいな格好をしている。白いワイシャツの上にグレイの着物、着流し姿が決まっていた。
「……なんにも言ってくれないの?」
「言うと怒るだろ」
「怒ってるのは……」
「俺は怒ってないよ」
「千鶴みたいな小娘に怒るなんて、大人の男はそんなふうにはしないって?」
「おまえだって人の気持ちを忖度するわけだけど……」
「そんたくってなに?」
「辞書を引きなさい」
 小走りで駆け出そうとした女の腕をつかんで引き戻し、男が抱きすくめる。あらがおうとした女の力が抜けていき、崩れるようにして男の腕に身をまかせた女は、甘くすすり泣く。

 デスクで手帳を開いている男に歩み寄っていった女は、彼に背後から目隠しをする。うふふっと笑う女の声。男も笑い声で言った。
「俺は仕事をするんだから、おとなしく待ってなさいって言ったろ」
「それがお仕事?」
「スケジュールの検討だよ。もうすこしむこうに行ってろ」
「いや。つまんない。遊んで」
「またそんな駄々をこねて……しようのない子だね」
 身体ごと振り向いた男が、女を抱き上げる。女はムームーを着ていて、嬉しそうに男の首に手を回して抱きついている。男が庭に出ていくと、そこにはプールが広がっている。いやーん、なにすんのよっ、と女の声が尾を引き、プールに放り込まれた女が、ざぶっと顔を出して抗議の声を上げた。
「濡れちゃったじゃないのよっ!!」
「プールに入ったら濡れるだろ」
 男はTシャツとショートパンツを脱ぎ捨ててプールに飛び込む。けっこうサマになるポーズで飛び込む男の絵に続いて、プールでふたりがじゃれているシーンになった。
「そんなものを着ていると泳げないだろ。脱げよ」
「いや」
「脱がせてやるよ。裸で泳ぐのも気持ちいいんだぜ」
「乾さんも脱ぐの?」
「脱がせてくれる?」
「いやん、えっち」
 などとじゃれているシーンが続き、プールの水面に女の着ていたムームーが浮かぶ。水音、水しぶき、女の嬉しそうな悲鳴と嬌声、男の低い声、ふたりが泳いでいると思わせるシーンだ。
 先に男が出てくる。彼も裸か。男のほうはどうでもいいから、女を映せよと思っていると、男がプールから女を抱えて上げてやり、抱えて歩き出す。思わせぶりばっかしやがって、香川は女の全身にカメラを向けない。
 裸なのかどうなのか、じれったい気分で見ている俺の視界に、見慣れた男のうしろ姿が広がった。彼は水着をつけていたが、どっちだっていいんだよ、乾さんは。


 リハーサルシーンのコラージュなのか。いくつかのショットを撮ってみただけなのか。ここから完成したあのフィルムの脱がせるシーンだとか、ベッドシーンだとかへ続いていく段階なのか。
 なんだか俺にはよくわからないのだが、色っぽいといえばいえるシーンもあるにしろ、まったく物足りないDVDだ。酒巻が香川にもらってきて、友達にだったら見せていいそうで、でも、秘密ですからね、などと言ってもったいぶっていたものは、この程度だった。
「つまんねえな」
 ぼそっと吐いた泉沢さんの台詞に、俺も心から同感だ。酒巻は言った。
「つまらないですか。僕はこのくらいのほうがいいんですけど……見やすいですから」
「ポルノだと見にくいのか?」
 泉沢さんが尋ね、酒巻は赤くなる。こいつはポルノ嫌いか? そんな男がいるのか。
「乾の裸なんか見ても下らないし、千鶴ちゃんの身体ってのはしっかりと映ってないし、俺もやっぱポルノのほうが見たいよ」
「あっちにも千鶴ちゃんの身体は、はっきりとは映ってないんですよ」
「そのほうがいいですよ」
 中学校の風紀委員みたいに酒巻が言う。中学校の風紀委員男子というものは、表向きはこう言ったかもしれない。学校にエロ雑誌を持ってきた同級生男子にも、こんな顔をして注意したのかもしれない。しかし、彼がまっとうに成長していたら、その態度は建前ってやつだ。酒巻も同じなのだろう。
 でないと男ではない。酒巻は幸生や俺以上に身体が小さくてガキっぽくはあるものの、中身は普通に男であるはずだ。哲司みたいな奴では断じてないのだから。
「ポルノなんて不道徳で……いえ、いいんですけどね」
「おまえさ、尊敬する乾さんがポルノふうビデオみたいのに出演したから、そうやって機嫌を悪くしてるのか?」
 尋ねると、酒巻は目を丸くしてから考え込んだ。泉沢さんは俺に問いかけた。
「酒巻くんって乾を尊敬してるのか」
「そのようなんですよね」
 へええ、ほおお、とか言って、泉沢さんは面白そうに酒巻を見ている。泉沢さんは乾さん個人と仕事をしたこともあるはずで、俺の知らない乾さんの不道徳な一面を見たのだろうか。だとしたら俺は知りたいが、そんな話を聞くと酒巻が泣き出すかもしれない。
 酒巻は乾さんと金子さんを偶像視しているらしいとは、幸生が言っていた。金子さんは清濁併せ呑むタイプだと言っていたのは美江子さんで、俺は美江子さんの言が正しいと思うが、酒巻は生身の男を美しく見たがるらしい。
 となると、それは幸生とはまるっきり別方向の変態ではないか? 同じ男なのだから、男の薄汚い欲望だって知ってるだろうに……酒巻が聖人君子なのか? 清廉無垢な少年なのか? そんなはずはないだろうに。
 いまだに俺は乾隆也の全貌をつかんでいないし、金子将一となるとなおさらだが、彼らは普通の男だ。したがって、乾さんだって遊びの恋、ゲームのベッドインをするはずだと思う。証拠がないので確信は持てないが、根拠はある。彼は俺と同じ男だからだ。
 たとえ見た目にどれほどの差があろうとも、人間性や性格にも差があって、乾隆也のほうが木村章よりも格上の男なのだと俺も認めているにしても、男は男だ。くそっ、当然だろ、コンチクショーってなものである。
 大学の後輩である香川に頼み込まれて彼の情熱にほだされて、のポルノ出演だったと、俺は乾さん本人ではなく幸生から聞いている。幸生は代弁者気取りで乾さんのスポークスマンをやっているようなので、信憑性は五十パーセントくらいだが、そんなところなのだろう。
 そもそもポルノでもないあれしきのフィルムに出ているからといって、酒巻の中の乾隆也という偶像が蝕まれたのか? 軽蔑を感じているのか? 馬鹿か、おまえは、である。シゲさんはフィルムを見ていないのだが、あとから言っていた。
「複雑ですけどね……ヒデは乾さんの演技がすごいって言ってましたよ。俺も乾さんだったらそうだろうと思います。いつか見せて下さいね。ただし、女のひとのいないところでお願いします」
 女のいないところ、それは俺も同感だった。
 くちびるが分厚いのちょいデブだのと、俺は千鶴を評してきたものだが、慣れとは恐ろしい。俺にも彼女は魅力的に見えるようになってきた。十九の千鶴から見ると俺はオヤジで、手の届かない若い青い葡萄はすっぱい、そんな意味で千鶴の悪口を言っていたのか。
 俺以上にオヤジのはずの乾さんは千鶴に慕われて、俺のタイプじゃない女だとしてもうらやましい。俺は乾さんに対してはそうとしか思っていない。あんなポルノまがい……というと香川が怒りそうだが、ポルノのまがいものともいえる短編映画に出て、あれだけの演技ができるんだから、さすがだ。俺にはできないというか、俺にはあの役は似合わない。そこは幸生とも同感だった。
 なのにこの酒巻國友は、僕の尊敬する乾先輩があんなものに……というショックなのか? 尊敬なんかしてるからいけないんだろ。乾隆也の化けの皮が剥がれてよかったと思え。
 いまだどこかしら、かっこつけの乾隆也の馬鹿野郎、とわずかには思っている俺は、こんな酒巻を見ていると苛立つ。泉沢さんは煙草に火をつけて、黙って酒巻を見ている。酒巻はしつこく考え続けていた。
「そうではないんですけど……」
 いくばくかの時間が経過してから、酒巻が低い低い声で言った。
「木村さん、僕、乾さんにお詫びをしなくちゃならないんですよね」
「なんの詫びだよ? 不道徳だとか言ったからか?」
「そうじゃなくて……クッションを投げたから」
「クッション?」
 泉沢さんが問い返し、俺も一瞬、こいつはなにを言ってるんだ、だったのだが、思い出した。
 ポルノまがいフィルム上映会の日に、酒巻が女にふられたのどうのこうのとの話になり、あろうことか、酒巻が乾さんにクッションを投げたのだ。酒巻が乾さんにものを投げるなんて、前代未聞だろうから、残る四人は一様にぎょっとした。
 それを思い出すと、女にふられたってのも関わって、酒巻の想いは根が深いのかもしれない。
 あの夜は他の四人でしばし酒巻を凝視して固まったあとで、幸生が乾さんに栓抜きを投げ、乾さんは身をかわしてよけた。幸生の意図は読めたので、俺もコースターを投げた。ヒデさんと本橋さんまでがなにかを投げていたのは、あのふたりは実際に乾さんに嫉妬していたのかもしれない。
 そうやってみんなで乾さんにものを投げつけ、昔の彼女と俺の喧嘩みたいだなぁ、と俺はしみじみしたりもしていた。
 つまり、みんなでものを投げたことによって、酒巻の行為を目立たなくしたのだ。乾さんだってそんなものにはこだわっていないはずだが、俺はここでなんと発言したらいいのだろうか。酒巻がそのときの状況を説明し、泉沢さんが笑い飛ばした。
「そんなの、酔ったはずみだろ。忘れた顔をしてりゃいいんだよ」
「それでいいんですか?」
「いい、いいよ」
 さも下らなそうに言い捨てる泉沢さんを見て、酒巻がほっとしたようにうなずく。単純な答えでよかったのか。俺は考えすぎか。考えすぎって、誰かに似てきているみたいだ。
 

7・千鶴

 叔父のもと妻、私から見れば赤の他人。ではあるのだが、親しくしている女性の身内がいない私にとっては、彼女は今でも叔母のようなものだ。
 麦ミミ子とかいう変な名前はペンネームで、本名は麦子という。麦は好きだけど本名の姓が嫌いだそうで、麦ちゃんと呼んでほしがる彼女は、叔父と結婚していたころからエッセイストだった。学生結婚してから就職して、エッセイストになってから離婚した。
 五十歳にはなっていないはずだが、年齢不詳で通している。叔父と同い年だったら……と計算はできるけど、しないでおいて、私は叔母に言った。
「麦ちゃん、小説を書いて」
「私はエッセイストであって小説家ではないのよ」
「でも、書けるでしょ」
「書けるけど、忙しいの」
 大人は誰でも彼でも、忙しい忙しいと言う。忙しいのを自慢にしている。私だったら自慢なんかしないのにな、と言うと、あんたは暇人だからね、と言われる。暇なのは事実なので、さからわずに再び言った。
「三沢さんを女の子に変えた小説ってのがあるんだよ。私は小説は面倒だから読まないんだけど、私を主人公にして書いてよ。私を大人の女性にして、恋人を乾隆也さんにして。二十九歳の佐田千鶴と、三十五歳の乾隆也さんの恋愛小説、書いてよ」
「馬鹿らし」
 実に実に馬鹿らしそうな抑揚で言うので、私はむくれた。
「エンターティンメントでもなんでもいいから、小説でもなんでもいいから、本は読んだほうがいいよ。千鶴は女優なんだから、映画を観るのも大切だろうね。それだけではなく、音楽を聴いたり美術作品を見たり、演劇や能やバレエやといった舞台を見たり、若いうちに美しいものに触れるのは大切だろ。本もその一環だよ。美しくない内容の小説でもいいんだ」
「三沢さんが主役の……ユキちゃんの小説でも?」
「あれだっていいよ。読む?」
「活字を読むと頭が痛くなるの」
「漫画は?」
「漫画も字があるでしょ。千鶴は絵ばっかりがいい。ドラマや映画は好きだし、音楽だって好きだけど、字はやだ」
「おまえは根っから映像人間なんだな」
 最初は千鶴と呼び捨てにしても、おまえとは呼んでくれなかった乾さんも、いつしかそう呼んでくれている。お兄さま気分になってくれているのはいいけれど、その先の段階にはなれないのだろうか。
 年齢の差がありすぎるから、友達気分にはなれない。そしたら兄妹から恋人へと進みたいのに、そっちも年齢の差が壁になる。年齢の差は永遠に縮まらないのだから、乾さんと私は永遠に擬似兄妹? ならば小説の中で恋人同士になりたい。
 二十九歳の大人の美女、千鶴と、今のまんまの大人の男性、隆也のラヴストーリィだったら読みたいのに、叔母が書いてくれないのだったら、みずきさんに頼もうか。
「俺の部屋には本がたくさんあるから、なんでも貸してあげるよ」
「見ないとわからない」
「じゃあ、近いうちに誰かと一緒に俺んちに遊びにおいで」
「ひとりで行きたいな」
「駄目だ」
 叔母の部屋にも本はたくさんあるけれど、読みたいと思えるものはない。叔母は考え事をしているようなので、私は乾さんとの会話を思い出していた。
「どうして駄目なの? 襲いたくなるから?」
「襲いたくなんかならないけど、嫁入り前のお嬢さまは、男の部屋にひとりで遊びにいったりするものじゃないんだよ。恋人でも友達でもないんだから」
「そしたら恋人にして」
「俺はガキと恋をする趣味はないんだ」
 ほのめかしてみたことはあるけど、この間はとうとうはっきり言って、とうとうはっきり拒否されてしまった。
「千鶴はガキじゃ……」
「おいたがすぎたりわがままがすぎたりしたら、尻をぱちんと叩かれて叱られるだろ。あれはおまえがガキだからこそだよ。大人の女性にだったら軽くだって叩いたりはしない。女性の尻を叩くなんてことは俺は絶対にしない。おまえが相手だからだ」
「そんなのって……」
「いつまでも駄々をこねてると、今日もお仕置きだよ」
 叩かれたっていいもん、と反抗したら、叩かれていたのだろうか。子供としてお仕置きされるなんていやだ。乾さんに叱られるのは嬉しいけど、そんなのはいやだから、泣く泣く黙った。
「……ごめんなさい」
「よし、いい子だ」
 優しく頭を抱き寄せてくれて、泣かせてくれた。あれもみんな子供扱いの態度? 私を裸にしたくせに、素肌にだって触れたくせに、ベッドへ抱いていって襲ったくせに。
 それは全部演技だって、言われるに決まってる。私だって知ってるけど、演技の世界が本当になるのだったら、私はそっちへ行ってしまいたかった。先日は金子さんにも会って、千鶴は乾さんが好き、と言ってみたけど、金子さんの態度も乾さんと似ていた。
「十九歳と三十五歳では絶対にあり得ないとは言わないけど、乾がその気じゃないんだったら諦めるしかないだろ」
「金子さんは?」
「俺がなんだって? 俺には最愛の彼女がいるんだ。おまえは妹だって言っただろ」
「そうだけど……私は金子さんも好きだし……」
「本気でそう言ってるんだとしたら、乾に対する恋心も怪しいもんだな。千鶴はまだ恋に恋する乙女なんじゃないのか」
 乙女は当たってるけど、恋に恋してるんじゃないもの。
 一番好きなのは乾さんで、二番目が金子さんだと決めていた。乾さんとのほうが会う機会はずっとずっと多くて、演技では抱かれたり脱がされたりしたから、心が乾さんに傾きがちで、金子さんだって大好きだ。
 でも、恋とはたったひとりのひとを想うこと。だったら、私は浮気な恋に恋する乙女? 深く考えると頭がこんがらがってくる。叔母は私を無視してパソコンに向かってしまったので、紅茶を飲み終えて立ち上がった。
「帰るからね」
「……千鶴」
「はい?」
 気が変わって書いてくれるつもりになったのかと、振り返るとこう言われた。
「紅茶のカップを洗って帰ってよ」
「……はいはい」
 返事ははいひとつでいいの、と叔母に叱られたけど、叔母に叱られたってちっとも嬉しくない。乾さんにだったら優しく叱られるのは嬉しいんだから、やっぱりあれは恋でしょ。紅茶のカップを洗いながら、私は叔母に恋心を話した。
「幼いね。そりゃあまあ、千鶴は幼いんだから、そんなものかもしれないけど、恋ったって……遠すぎて私には思い出せないわ。そんな気持ちの恋をしたことがあっただろうか」
「甘えたいだけの恋は恋じゃないって、私も誰かに言ったんだけどね」
 そう言った相手はミルキーウェイ。あのときはお芝居モードになっていたので、自分でも真意をはかりかねる言葉を口にしていた。
「乾さんの態度もね……私はこの目で見てないからなんとも言いにくいけど、兄が妹を愛するような男の無償の愛? そんなのあるんだろうか」
「そうじゃないんだったら乾さんのはなに?」
「男心はわかりにくいのよ」
「乾さんにエッセイを書いてもらう?」
「俺の千鶴への本心、ってタイトルで? あのね、千鶴」
 麦ちゃんが言うには、文章にしようとも言葉にしようとも、それがその人間の本心すべての吐露とは限らない、なのであった。
 幼いといわれる私だって、自分の気持ちのすべてをわかってはいないのだから、複雑な大人の男性である乾さんは、さらに自分の本心がつかめないのか。彼が口にしている言葉も、すべてが本心ではない? では、私にも希望があるのだろうか。
 無償の愛ではないのだったら、下心? セックスしたいだけの下心はいやだ。乾さんはそんなひとではないと信じたい。でもでも……私の想いも複雑になるばかり。


8・繁之

 そんなものは見たくないと言ってくれると期待していたのに、恭子はにっこにっこと言った。
「見たい。見たーい」
 見たいと言われてしまえば、俺には止める権利はない。
 女性のいない場所で見たいとお願いしていたのに、女性がふたりもいる。そのうちのひとりは主演女優、ひとりは俺の妻だなんて、最悪の状況ではないのだろうか。
「千鶴がシゲにも見てもらいたいって言ってるよ。真面目なシゲさんの感想が聞きたいんだってさ。真面目な女性の感想も聞きたいそうだから、恭子さんも連れてきてくれないかな」
「恭子をですか……」
「おまえんちには小さい息子がいるんだし、恭子さんが見たくないんだったら千鶴には諦めるように言い聞かせるから、お願いしてみてくれよ」
「聞いてはみますけど……」
 それとさ、と乾さんは言った。
「千鶴は俺の住まいを見たいらしいんだよ。恭子さんも来てくれるとなったら、途中で千鶴を拾ってうちへ連れてきてやってくれ」
「それは承知しました」
 俺は乾さんと千鶴さんが一緒にいるところは、二度、三度しか見ていない。乾さんが千鶴さんを食事に連れてきてあげて、その店に俺もいたときぐらいしか同席はしていない。俺の見た限りでは、乾さんと千鶴さんは、年の離れた兄と妹だった。
 兄ふうなのだから、乾さんは千鶴さんに上からものを言う。説教したり叱ったりして、教師のようでもあった。千鶴さんのほうは、俺の貧困な観察力で見ても、乾さんに甘えて頼って慕って、大好きな隆也お兄ちゃんっ!! ってふうであった。
 きびしくしているようでいて、乾さんは実は千鶴さんを甘やかしている。彼女のお願いはかなえてやりたいのだろう。乾さんの住まいに行きたい、女性の感想が聞きたい。千鶴さんのあの声で、あの上目遣いでねだられたら、いやとは言えないのは俺にもわかる。
 女性はいないほうがいいのにな、との俺のお願いは聞いてくれないくせに、と内心でいささか恨みつつも、恭子が断ってくれたらと一縷の望みをかけて尋ね、望みは果たせなかった。
 こうなれば乾さんの頼みを遂行するまでだ。小さい息子がふたりいるのは、なにごとかがあればお願いしているベビーシッターさんがいるので問題ない。専業主婦なのにね、と恭子は申し訳ながるのだが、主婦のリフレッシュは子供と離れることだそうで、俺も恭子とデートできるのは嬉しいのだから、それも問題はないのだった。
 そのくらいの収入はあるようになっていてよかったな、と思いつつ、息子たちはシッターさんに託し、恭子を乗せて車を出して、千鶴さんをお迎えにいった。
「こんばんは、はじめまして」
 乾さんにだったら駄々をこねたりもするが、千鶴さんは恭子には行儀よく挨拶し、バックシートに乗ってきた。恭子も愛想よく挨拶し、女性同士でお喋りしているのを、俺は運転しながら聞いていた。
「恭子さんのシゲさんに対する恋って、どんなものだったんですか」
「どんなものって……ひとことでは言えませんよ」
「なにかにたとえたら?」
「母とか姉とか妹とか? そういうんじゃないような……」
「私は妹みたいにしか……こんなのって幼すぎるんでしょうか」
 ああ、乾さんに? 恭子は察しが早いので、小声で言ってうなずいて、しかし、明確な受け答えはしなかった。車内が湿っぽい空気に包まれてはいたが、俺にはとりなす芸当はできない。一生懸命運転して乾さんのマンションへとたどりついた。
「ここまでは来たことがあるんですけど……」
「ここって、駐車場?」
「ここまで来たときにも、叱られて送っていかれました。叱られてばっかりで、甘えてばっかりの恋は恋じゃないんでしょうか」
「千鶴さん、私にはそんなの、答えは出せませんよ」
「そうですね。すみません」
 ここで乾さんならば、女性同士の会話にも的確なひとことをはさむのかもしれない。俺には断じてできないので、車のキーを確認したり、エレベーターのボタンを押したりしてごまかしていた。
「いらっしゃい。恭子さん、無理なお願いをしてしまったんじゃないかな」
 玄関に出てきた乾さんに、恭子はいえいえと微笑んで手土産のワインを渡した。
「私も見たかったんですよ」
「そうですか。だったらよかった。シゲ、ありがとう。千鶴、お入り」
 この鈍感な俺にさえも、乾さんを見上げる千鶴さんの目に慕情があふれているのが感じ取れる。恭子だったらなおさらだろうし、乾さんも気づいてるに決まっているが、ふたりともに自然にふるまっている。
 どきまぎしているのは俺ばかりで、千鶴さんはぽわーっとしているようにも見える。恋する女の子ってこんなのか。俺だったらどう対処していいのかわからないだろうから、もてないシゲでよかったような、一度はこうしてもててみたいような。
 部屋に通されると、乾さんがカナッペのようなものを運んできてくれた。俺は土産に持ってきたワインの栓を抜き、四つのグラスに注ぐ。千鶴さんは未成年なので、ワインをソーダで割ったカクテルを乾さんが作ってあげていた。
「これだって酒なんだけど、内緒な」
「誰に内緒? 警察?」
「警察には言うなよ。おまえだってもう十九なんだから、軽いカクテルだったらいいさ。では」
 乾杯の合図をしてから、乾さんがテレビに例のフィルムをセットする。このフィルムに出演している当の男女が、こうしてかたわらにいるなんて、俺としてはそんな体験は初だ。息子たちや恭子が映っているホームビデオを見るのとは勝手がちがいすぎる。
 官能的といえば官能的で、美しくもある。声や指や背中や脚や表情で演技しているのか。露骨なポルノなどではない。千鶴さんの肢体も美しく、乾さんの演技は本職の俳優にも劣っていないと思える。恭子はどう思っているのかと顔を窺うと、うっとりした目をしていた。
「……どうでした?」
 短いフィルムが終わると、乾さんが冷静な声で尋ねた。千鶴さんは乾さんの肩にもたれていて、恭子の目元が潤んで見えた。
「表現力がないのは似たもの夫婦なんですけど、乾さん……素敵っ」
 感極まったような声を恭子が発し、千鶴さんが言った。
「いやーん。恭子さんにはシゲさんがいるでしょ」
「そういう意味ではないんですけど、すっごくセクシーで……ああん、素敵素敵」
「あのさ、恭子……」
 むろん恭子とて女性なのだから、男の色気がどうのこうのと言われている乾さんのセクシーさに悩殺されたとしても当然なのかもしれない。俺には乾さんの色気ってやつはわからないし、色気のある先輩なんて気持ち悪くて、それよりは男気が、侠気が大事だろ、と言いたくなるのだが。
 男気や侠気と色気は別ものか。千鶴さんだったら色っぽいけど、乾さんは……いやいや、しかし、乾さんはかっこよかった。恭子が嫌悪感を示すような内容ではなくてよかったとも思う。女がいると見ててつらい、などとヒデが言っていたのは、考えすぎなのではないだろうか。
 かっこよさだったら俺にもわかる。映画俳優としても歩き出している乾さんは、「タブーNO.3」ではどんな役者ぶりを見せてくれるのか。それもまた楽しみだった。
「あのシーンがね……ほら、千鶴さんのドレスが部屋の中を舞ってるところ……それから、ほら……」
 目を閉じてひとつひとつのシーンを思い出しているのか、恭子が言っている。乾さんと千鶴さんは恭子の意見に耳をかたむけている。夫の欲目ででもあろうか。恭子も鋭い意見を述べていると俺には感じられた。
「ありがとう、恭子さん。千鶴にはためになっただろ?」
「乾さんはためにならなくていいの?」
「俺は今後もこんな仕事をする気はないんだから、おまえのためになればいいんだよ」
 一瞬黙ってから、千鶴さんは言った。
「恭子さんの感想って素人だから、私の参考にはならないな」
「千鶴、生意気な口をきくんじゃない」
「あ、乾さん……そんな……」
 恭子が焦ったそぶりをし、乾さんはいささか険しい表情で千鶴さんを見つめる。俺も焦りたくなっていると、乾さんは言った。
「素人なんて言い方はよくないけど、恭子さんはその方面のプロではないよね。しかし、映画を観て下さる方は大半がプロじゃないんだよ。そういう方の意見も拝聴すべきだろ。おまえだってプロってほどでもないのに、その口のききようはなんだ。あやまりなさい」
「私も出すぎた口を……」
「恭子さんは悪くないよ。千鶴、ごめんなさいは?」
 きびしく言われて反抗的にそっぽを向く千鶴さんを見て、恭子は狼狽している。俺も狼狽しているしかなかったのだが、乾さんは言った。
「千鶴、どうした?」
「……うっうっ、えっ……う……ひっく」
「まったくしようのない子だ。おいで」
 滂沱と涙をしたたらせながら、千鶴さんが乾さんに抱きつく。千鶴さんはなにやら言っているが、俺には聞こえない。うんうん、よしよし、と乾さんは言っていて、千鶴さんを抱いて部屋の中を歩いていた。
 うちの坊主たちよりは千鶴さんはずっと大きいのだが、まるで広大が駄々をこねて恭子に叱られて、ごめんなさいを言って許してもらって、抱っこしてもらってあやされているようだ。失礼かもしれないけれど、乾さんが恭子、千鶴さんが広大にも見えた。
「……恭子さん……ごめ、ごめんな……さい」
「あ、ああ、あのね、泣き止んでからでいいっていうか。あやまってもらうほどでもないっていうか……シゲちゃん、どうしよう」
「いや、あのね」
 こんなときに俺に救いを求めないでほしい。恭子と俺がうろたえているのを見て、乾さんは穏やかになった声で静かに言った。
「顔を洗ってきなさい。さ、洗面所に行っておいで」
 こっくりして、千鶴さんが乾さんの腕から降りる。千鶴さんが部屋から出ていくと、乾さんは恭子に頭を下げた。
「恭子さんの感想は女優にはためになったはずだよ。俺の言い草が気に入らなくて、反抗的になったんだろ。あんなときにはきびしく叱ればいいんだ。千鶴は子供なんだから、叱るときには子供扱いすると決めてるんだよ」
「泣きたくなったのもあるんでしょうね。そのあとも?」
「フォローも子供扱いだな。俺はそのつもりだけど……」
「乾さん、大変ですね」
「恭子さんにはそう見えますか。まあ、そうなのかな」
「もてる男性って大変よね。ね、シゲちゃん?」
 俺は力強くうなずき、乾さんは困った顔をした。
「だけど、俺も千鶴は可愛いと思ってますよ。あんなに若い女の子を、こんなふうに……あんなわがまま娘を可愛いと思うのは、俺も中年になった証拠かな」
「中年に近づいてきたからこその、大人の男性のセクシーさってあるんじゃないかしら」
「恭子さんも口がうまいね。でも、俺はセクシーさっていうんだったら、歌に出したいよ」
「歌にだって出てますよ。歌だったらシゲちゃんだって、ね?」
 歌にだったら俺にもセクシーさがあるのか。その話は帰ってから詳しくしてもらおうと決意していると、千鶴さんが入ってきた。
 化粧が剥げてしまっていて、素顔はきわめてあどけないお嬢さんだ。体型は大人なのに……とつい、映像に出てきたセミヌードを思い出してしまう。いけない、おかしな目で見るな、と自分で自分を戒めていると、千鶴さんは恭子の手を取った。
「恭子さん、ごめんなさい」
「いえ、あの、はい」
「千鶴、こっちを向いてごらん」
 優しい声で乾さんが言い、新しく作った飲みものを千鶴さんに手渡す。恭子と俺にもワイングラスを渡してくれる。フィルムに熱中していてワインは忘れていたのだから、ほとんど飲んでもいなかった。
「これって映画の名文句だろ。訳し方に誤謬があるとも聞いたんだけど、有名なやつのアレンジをね」
 そんな前置きのあとで、乾さんは言った。
「素敵な女性たちに、きみの瞳に乾杯」
 それから、もうひとこと。
「素直になっていい子になった、おまえの澄んだ瞳に乾杯」
「……乾さん……」
 たちまち千鶴さんの目に涙があふれ出し、恭子までがぼわわんと乾さんを見ている。この名文句ってやつは俺も聞いたことがあるが、使い古しの紋切り型の、それでいて乾さんの口から出ると、女心がとろけてしまうのか。
 俳優の仕事を続ける気はないと乾さんは言うが、天性の色男、天性の役者って部分もあるのだから、そうと決めるのは早い。もうやらないなんてもったいない。
「乾杯」
 一応は俺も言っておいたが、もうひとつの「かんぱい」と心で言いたい。乾さんには完敗するよ。そんなのとっくに知ってるけど、改めて先輩への完敗に乾杯。

END







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~ Comment ~

こっちにも

乃梨香ちゃん

ここにもコメントをくれていたのですね。
いつもいつも感謝してます。

乾くんってもてすぎるからね。
どうなるのかなぁ。
書いてる私にも先がどうなるのかは……わかっているけど、言わずにおきましょう。

それにしても、読んで下さる方としてはどうなんでしょ?
乾隆也がもてるのは納得いきますか?
なんでこんな奴がっ、だったりしません?

NoTitle

今回はドキドキが止まりませんでした。
心の中で「ギャーッ!」と叫んでいました。
千鶴め……泣いてる場合か……、と思いましたが、
自分が千鶴の立場だったら、まぁ、泣きますよね、逃げますよね、契約違反でも。
女優を目指す途中、売れるまでグラビアや、きわどい映画に出ることが多いと聞くと、
大変な仕事だと思うし、「こいつキモいから嫌」なんて言えないですし。。。。

……でも、まぁ、それも分かったうえで、女優を目指すんですよね、スゴイです。


煙草は苦手です、というか、ダメですね。
隣ですわれると頭痛がしてきます。
その場で吸っていなくても、服や体に匂いが染みついてるので、
喫煙者の人とすれ違うと、「うっ」となってしまいます。
慣れなきゃいけないと分かってはいるのですが、難しいです。

千鶴になりたい!というのは乾くん絡みと言う、不純な動機ですが……、
SかMどちらかといわれれば、Mです。
Sっ気はまったくないのです。
かといって、責められるのが好きかと聞かれると、ノーなんですよね。

説教されるのは嫌いですが、相手のいう事が間違いなく筋が通っていれば黙って聞いています。
ただ少しでも間違っていたときには、キッパリと言い返します。

台風のとき「社員は休みor遅刻してもいいけど、派遣&バイトは定時でこい」みたいな会社で勤めている人たちの話を載せた記事を読みました。
派遣やバイトの人はクビになったり契約更新をしてもらえなくなるのでは?という不安から、
ホテルに泊まったりタクシーに乗ったりして出社した(もちろんお金は出ない)
そうですが、
私だったらその場でクビになっても、文句をいいますね。

何のための社員なのか、何かあったときの責任は誰がとるのか、
その分の金をもらっているんだろうと、突っ込みまくります。

このあたりは親の血ですね……似ました、完全に。


最近はおんぶしている人をほとんど見かけなくなりましたね。
私はおんぶ紐でいつも背中にぴったりと負ぶされていたそうです。
O脚ではないのですが、まぁ……下半身デブですよね、泣きたいほどに。
なのに上半身は細いのです。身長は普通です。
おなかもペタンこなのです(胸も
なのに、なのに!足がぁぁぁぁ!!!

足に合わせてズボンを買うと、ウエストがガバガバ、
ウエストに合わせると入らない……。

やっぱり猫にこの足を捧げたい。。
ちゅーちゅーされたい。。。

ハルさんへ

いつもありがとうございます。

まーほんとに、芸能人は大変ですね。
けれど、おいしい部分がたーくさんあるのでしょうから、だから、よほどじゃないとやめないんだなと思っています。
一度でも有名になった人はしがみつくし、また、なんとかして生きていけてるらしい人が多いようで。

特にお笑いのひと。
好きでやってるのかもしれませんが、偏見も入ってますが、私は女性芸人さんって見たくないんですよね。痛々しい。

女優さんの場合、いやーな男とラヴシーンをやらなくちゃいけないこともあるのは同情しますが、千鶴は結果的には彼に恋して、だけど、受け入れてもらえなくて、よかったのか悪かったのか。
隆也くんも罪だな、と思います。

私は煙草はまーったく平気で、吸っている人を見ると自分も吸いたくなるので困りものってほうですが。
完全禁煙して四年くらいだと思います。いまだ、夢の中では吸ってますが、現実には一本も吸ってません。
禁煙ってどこが大変なんだろ、って思ってます。

でも、最近は身近な人はみんな禁煙して、周囲には吸ってる人はいませんよ。
最近、むしろ煙草を吸ってる人を見ると、まだ吸ってんの? と勝手なことを考えてしまいます。

ハルさんは、言わなくてはならないことはしっかり言うけど、好きな相手にはMってタイプですか。
理想の女性なんじゃありません?

隆也は自分ではMのつもりで、事実、けっこうMっぽかったりもするのですが、千鶴みたいな身勝手Mには合わせてやれる。それでまた千鶴が誤解する。
ほんと、困ったものですよね。

あ、私ももはや、男よりも猫がいいです。

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