番外編

番外編5(Gracias a la vida)後編

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番外編5

「Gracias a la vida」後編

5

 がやがや話し声がする。覗いてみると新一年生たちが部室に集まっていて、ひときわ声高に喋っているのは、大阪弁の実松だった。
「たこ焼きは大阪に決まってるやんけ。東京のたこ焼きなんか食えたもんとちゃうで。たこの入ってないたこ焼きもあるやろ。あんなん、俺には信じられへん。俺は東京にもたこ焼き器を持ってきてるねん。これから来えへんか? 材料買うて帰ってたこ焼きパーティやろうや」
 賛成の声が沸き起こり、行こう行こうとなった一年生たちがドアに向かって歩いてくる。その中のひとり、小笠原が俺に目を留めた。
「あ、キャプテン……あの、今日の練習はすみましたから……」
「知ってるよ。東京のたこ焼きってそんなにまずいか」
「俺は高知の出身なんですけど、はっきり言ってまずいです」
「そうかな。じゃあ、本場のたこ焼き、俺にも食わせてくれよ、実松」
 そうも堅くならなくてもいいのに、実松はしゃちほこばって答えた。
「キャプテンがですか? 汚いとこですけどよろしかったらどうぞ」
「一年生の宴会に四年生がまざるとやりづらいか? みんな、いいよな? お、いいところに来た。徳永、おまえも行こう」
「え? どこにですか」
「いいからいいから。実松、よろしくな」
「はい、徳永先輩もどうぞ」
 おりよくそこにやってきた徳永をも引っ張り込んで、大学からは徒歩範囲にあるという実松のアパートに向かった。我が大学には地方出身者が大勢いる。東京近辺出身の者よりも多いくらいだろう。俺の友人にも地方から来た者はいるのだが、大阪出身者はいない。大阪には大学が沢山あるのだから、東京に来る必要はないのかもしれない。
「実松のアパートに? なにをしに行くんですか」
 気の乗らない様子で徳永が尋ね、俺は言った。
「たこ焼きパーティだってよ」
「たこ焼き? 下らねぇ」
「下らなくないだろ。先輩後輩の和づくり、だなんて堅く考えなくても、実松は自信満々でうまいたこ焼きを作ると言ってるんだ。小笠原も西国の出だそうで、そろって東京のたこ焼きはまずいと言う。金は俺が出すから、最高のたこ焼きを食わせてもらおうぜ」
「金子さんが全額負担ですか」
「四年生は俺ひとりなんだから、先輩の義務だよ」
「俺も出しますよ」
「いいよ。俺は自宅通学で小遣いには困ってないんだ。ここにいる奴らは全員がひとり暮らしだろ。おまえもだろ? おまえは埼玉出身だそうなのに、家から通わないのか」
 よく知ってますね、と言いつつ、徳永の表情が物語っている。よけいなお世話だ、ほっといてくれ、と読めた。
「もひとつよけいなお世話だろうけど、おまえのご両親の職業は?」
「ホームレスです。ですから俺には親の家はないんです。金子さんのご両親は?」
「輸入家具専門店経営。「金子ファニチャー」ってのが都内にいくつかあるだろ」
 知っているらしく、徳永はうなずいた。
「道理で兄も妹も……」
「道理で?」
「いい家のお坊ちゃま、お嬢さましてらっしゃいますね」
 金持ちの息子なんだ、とは昔からよく言われた。皆実までが言っていた。皆実にしても父親は大手不動産企業の社長なのだから、彼はさらっと口にする。イヤミたっぷりに言う奴もいるが、親がなにをしていようと俺の知ったことではない。金持ちの息子に生まれたのはたまたまだ。その恩恵を受けているのは承知の上で、俺の知ったことではないと言いたい。
 徳永の口ぶりには皮肉が感じ取れるのだが、去年一年で彼の性格はいくらかはつかめた。こいつは皮肉っぽい男なのだ。彼もおそらくは金持ちの息子だろうと思うが、言いたくないのなら言わなくていい。ホームレスだなどと突拍子もない台詞で相手をケムに巻こうするとは、まだまだガキである証拠だろう。
「乾もいい家の息子だろ。本橋もそうなんじゃないのか」
「知りません」
 あいかわらずこの三人はプライベートな会話はしないのであるらしい。ちらりと探りを入れてから、俺はリリヤについて考えた。今年、とうとうリリヤも我が大学に入学してきて、合唱部にも入ってきた。彼女の学部は理学部物理学科、勉強なんかどうでもいいのよ、私は将来はお兄ちゃんといっしょに歌手になるんだから、と言うリリヤに、俺は言った。
「だったら音楽科を受験したらどうなんだ」
「物理は私の大得意科目だから、勉強しなくても大丈夫なんだもん」
 ねじり鉢巻で受験に臨んだ理系学生が怒るぞ、と言いたい台詞だったのだが、事実、リリヤは物理をはじめとする理科系と歌にだけは、異能を発揮するといっていいほどに優れている。彼女が合格を決めて以来、兄妹デュオに専念し、特訓もし、デモテープを作ってほうぼうへ送りつけた。反響もなくはないので、手ごたえを感じている段階だった。
 今のところはリリヤは女子部の先輩たちにおまかせしている。女子部は「和を以って尊しとする」を旨としていて、男子部ほどの体育会系体質はない。むしろリリヤは金子将一の妹だということでちやほやされている傾向なきにしもあらず、リリヤがあることないこと言いふらしている可能性もなきにしもあらずなのだが、とりあえずしばらくは目をつぶっていようと決めていた。
 ただ今意識を向けるべきは、無表情で無言で俺のとなりを歩いている徳永渉だ。彼が入学して一年の余がすぎ、その間、本橋、乾ともども三人を観察していた。彼らの入学当時からの俺の印象はおおむね当たっていて、本橋はわかりやすい。一例を挙げれば、感情の起伏がかなり激しい。
本橋が一年生だったある日、ピアノを弾くと言う彼を我が家に連れてきた。連弾をやろうと俺が提案し、本橋も従いはしたのだが、途中で解釈の差云々で怒り出し、彼はピアノの蓋を荒々しく閉めた。蓋にはさまれて傷ついた俺の指を見つめ、青ざめて後悔していた本橋を思い出すと、笑いたくなる。可愛い奴なのだ。
「おまえは可愛いな」
 それから後、部室で本橋にそう言ったらたちまち、目が三角になった。
「あれれ? 怒ったのか?」
「いえ、怒ってはいませんが……」
「怒ってるじゃないか。だからおまえは可愛いって言うんだよ。抱きしめてやりたくなってくるよ」
「……金子さん、冗談はほどほどにして下さい」
「冗談は顔だけにしろってか?」
「どうせ俺の顔は……」
「おまえの顔じゃないよ。俺の顔だ」
「……金子さんの顔は……いいです」
「なんだよ。はっきり言えよ」
 心余って言葉足らずといったたぐいの男なのだと、ひそかに笑っているうちに、本橋は目礼して歩み去っていき、遠くで見ていたらしき高倉さんに怒られた。後輩をからかうな、と一喝されてまたまたこっそり笑っていると、乾にも言われた。
「金子さんはお人がよくありませんね。本橋って奴は「俺は男だ」というのがアイデンティティのひとつなんですから、可愛いはやめてやって下さい」
「俺は男だ? それしかアイデンティティがないのか」
「それしかないわけではないんでしょうけど、彼にとっては重大な主義なんですよ。それによって彼が馬鹿げた真似をしでかした場合は、どしどし叱ってやって下さい。しかし、そうではない場合は多少は尊重してやっていただけませんか」
「おまえは尊重してやってるのか」
「時と場合によりますが……いや、同い年の俺がからかったとしても、あいつは怒りをストレートに出しますよ。殴りかかってきたりもします。でも、先輩にはそうはできないじゃありませんか。八つ当たりされるのは俺なんですから」
「なるほど。わかったよ。いやいや、おまえもなかなか人はよくないな」
 八つ当たりされるのは俺なんですから、などと上手に身をかわしているように見せかけて、友人のプライドのためならば先輩にもストレートにものを言う。ストレートに言っているように見せかけて、レトリックを使っている。乾は決してストレートな男ではない。
 そして、徳永は乾の上を行くのではあるまいか。いずれにせよ彼らはまだ二十歳になるやならず、俺にしても彼らの二歳年長でしかないのだから、卵の殻をくっつけているとも言えるのだろう。老獪とまでは行かないが、幼いなりに乾と徳永は、ひねりのきいた性格であるようで、それだけにたいそう興味深い。
 一年生五人、小笠原、安斉、実松、毛利、野呂、二年生の徳永、四年生の俺、総勢七人の男子学生がスーパーマーケットでたこ焼きの材料を買いそろえ、実松の部屋で賑やかな宴となった。ビールはいいかなぁ、あかんかなぁ、とちろちろ俺を見る一年生たちに知らんぷりをしていたので、ビールも買い込んできている。高倉さんに知られたら怒られるかもしれないが、高倉さんはすでに卒業しているので、知られる心配もないのだった。
「おまえたちはノンアルコールビールだろ。徳永は成人に達したか。まだ? そんならおまえもそっちにしとけ。じゃ、とにかく乾杯。実松、たこ焼きを頼むぞ。おまえたちは腹が減ってるんだろ。徳永と俺はあとでいいから先に食えよ」
 たこ焼き器は家庭用なので、大きなものではない。実松は次から次へとたこ焼きを焼いているのだが、一年生たちが盛大に食べるので追いつかない。しばらくすると小笠原がストップをかけた。
「おんしたち、どればあ食う……うわっと、おまえら、どれほど食うんや……わわっ、今度は大阪弁が……先輩たちがいつまでたっても食えないだろうが」
「いいよ。気にしないで食いたいだけ食え。それより実松は焼いてるばかりで食えないじゃないか。替わろうか」
「いいえ。俺は今夜はたこ焼き屋のオヤジに徹します」
「ていうか、東京の奴なんかにまかせられるか、だろ?」
「それもあります。そやけど、材料がなくなってきたぞぉ。ほんまによう食うな。それほどうまいからやろ? うまいやろ? こら、安斉、うまいて言え」
「うまいうまい」
「ほんとにうまいよ」
「えーと、ほんとにいいんですか。なくなっちゃいますよ」
 ノンアルコールなどとはとんでもない、本物のビールに酔ってきたのか、たこ焼きと仲間たちの熱気に火照っているのか、顔を赤くした安斉が、徳永にともなく俺にともなく問いかけ、徳永はぼそっと言った。
「俺はいらない。見てるだけで腹いっぱいになってきたよ」
「徳永さんって……」
 他の一年生たちは気まずそうな表情になったのだが、小笠原は言った。
「うっとうしい男だって言われません?」
「おい、こら、小笠原……」
 慌てて止めようとした毛利の手をうるさそうに退けて、小笠原はなおも言った。
「かっこいいと言えばかっこいいいんだろうけど、都会人の気取りが鼻につくってのか……田舎者のひがみなんですけどね」
「気取ってると見えるのか」
 あくまで静かに、不気味にも感じられる口調で徳永は言い、小笠原はふらふらと身体を揺らして応じた。
「見えますよ。なんと言えばいいのか……都会人特有の鼻持ちならぬ感じかな。金子さん、その言い方でいいですか」
「俺も都会っ子なんだけど、わかる気はするよ。徳永、言い返さないのか」
「田舎者は都会人より劣るのか?」
「そんなことないよなぁ。な、安斉? おまえも田舎の出身だろ? なんとか言えよ。毛利は? 野呂は? 実松、おまえは?」
「俺も都会っ子や」
「ああ、そっか。大阪は都会といってもさしつかえないな。シゲも連れてきてやるんだった。あいつはたこ焼きが大好きなのに、今日は合唱部をさぼってたんだよな。あいつは田舎の子だけど、いても口では役に立たないか」
「小笠原」
 ごまかそうとでもしているのか、ここにはいない友達の名前を口にしている小笠原を、徳永はぎろりと見た。実松はたこ焼きをつついていた手を止め、安斉と毛利と野呂は身を寄せ合って俺を見ている。小笠原は酔っているからなのか、もともとこういう性格なのか、臆しもせずに徳永を睨み返した。
「ほんまのことを言うただけやきに……怒りました?」
「気取ってるってか……そう思いたいんだったら思ってろよ」
「そういうところが……暗いよなぁ、徳永さんって。徳永さん、坂本竜馬が詠んだ歌、知ってます?」
 意をつかれたのか、徳永は首をかしげて小笠原を見、小笠原は歌うように口ずさんだ。
「世の人はわれをなにともゆはばいへ、わがなすことはわれのみぞしる。徳永さんの座右の銘にして下さい。うわわー、こんな回ってる家、いらんわい、って、ほら、大阪の落語にあるよな? 実松、なんやった?」
「しょうむないこと言うてんと寝え。はい、徳永さん、残りものには福があるんでっせ」
 とん、と徳永の前に、たこ焼きの皿が置かれた。小笠原はころんと横たわって寝息を立てはじめ、俺は吹き出した。
「今年の一年にも見所のある奴が何人かいるな。徳永、楽しみだろ」
 返事は、ふんっ、だったが、徳永はたこ焼きを口に放り込んだ。
「……けっこううまい。東京や埼玉のよりはうまいですよ」
「そらそうやん。たこ焼きは大阪です」
「うん、認めてやるよ。金子さんも食いませんか?」
 ひとつ食べて、たしかにうまい、とうなずくと、実松は満悦至極の表情になった。無邪気にたこ焼きたこ焼きと言っているが、なかなかどうしてこいつもたいした奴だ。安斉と毛利と野呂は徳永の顔色を窺いつつ、キャプテン、どうにかして下さい、と言いたげに俺を見ていたが、小笠原と実松は怯んではいなかった。小笠原は酔ったはずみで本音を口にし、目覚めたら後悔するのかもしれないので、明日が見ものではあるのだが。
 小笠原の友人、シゲとは、彼と同年の本庄繁之だ。その名を聞いて思い出した。数日前に俺が合唱部の裏手で昼寝をしていたら、皆実と溝部の声が聞こえた。
「おまえさ、乾と本橋が目障りなんだろ。これにあいつらの名前を書いて、おまえの願いも書いて土に埋めるとご利益があるらしいぞ。そこに埋めるといいよ」
「お札ですか」
「苦しいときの神頼みっていうだろ。やってみろ」
 皆実は皆実で後輩をからかっていたらしい。皆実は溝部にお札を渡し、考え込んでいる溝部を残して立ち去った。そこにやってきたのが、溝部の腰巾着と目されている岡田だった。溝部は岡田に本橋と乾の悪口雑言を吐き散らし、先輩が教えてくれたんだからやる、と言った。
 そんなの意味ないだろ、と岡田は言い、それでもやると言い張る溝部のそばから立ち去った。それを見ていた女の子がいたのだ。一年生の下川乃理子。リリヤと仲がいいので、彼女はわりあいよく知っている。彼女は溝部と岡田の会話を聞き、樹の根元を掘りはじめた溝部を確認してから走り去り、本庄を連れて戻ってきた。本庄は下川に命令されて地面を掘り起こし、出てきたお札をふたりして眺めて悩んでいた。
 そこへまたしても通りかかったのが、二年生の山田美江子。山田さんは下川さんにお札を見せられ、さも馬鹿らしいといったふうに吐き捨てた。
「迷信っていうか、誰かに悪知恵をつけられたのかもね。悪知恵にしたって迷信にしたって、子供の遊び以下じゃないの? 神社でお札をもらってきて、追い出したい相手の近くに埋める? そんなとこかな。いい年した男のすることかしらね」
「ですよねぇ。心配しなくてもいいんですか」
「いいって。下川さん、なにをそんなに心配してるの? 本橋くんや乾くんは妖魔じゃないんだから、こんなもので退散しないよ。大丈夫」
「そうかな。あの、山田さんって……」
 女性ふたりの会話が内緒話になったのを潮に、俺もその場から離れた。
 やけに心配していたのは、下川さんは本橋が好きだからなのだろうか。噂によると山田さんは本橋とつきあっていると聞くのだが、後輩男女の交際にまでお節介を焼く必要もない。それにしても溝部ときたら、皆実のからかいを本気にするとは、馬鹿としか言いようがない。山田さんの言い分はまさしくその通りだ。
 三年生には溝部を筆頭としてろくなのがいないようだが、渡辺という法学部の秀才がいるので、来年は彼に託すしかないような気がする。二年生にはたいしたのが三人もいて、彼らに敵意を抱く溝部もいて大変だろうけど……と考えて、もうひとつ思い出した。卒業間際の高倉さんに言われたのだ。
「徳永はおまえに頼むよ。俺の言いたいことはわかるだろ」
「わかるとは思いますけど、なぜに俺なんですか」
「次期キャプテンはおまえだろ。皆実は合唱部の活動もちゃんとやってはいるけど、歌の方面に於いてはいまやおまえが上……上とはいわないのかもしれないけど、熱意の入れようがちがってきてるじゃないか。あとはすべておまえの双肩にかかってるんだ。金子、頼んだぞ」
 三年生の終わりごろのできごとから、最近のできごとなどなどを思い出して、リリヤと俺の将来にも思いを馳せ、徳永を見た。
「煙草は成人に達するまでやめとけよ。ポケットに入れてるんだろ」
「……なんで……」
「知ってるのかって? おまえのそぶりでわかったよ」
「煙草は喉によくないんだから、成人になってもよくないんじゃありませんか」
「そう言ったら禁煙するのか」
「しません」
「だったら言っても無駄だろ。成人に達した人間の行為は自己責任のもとにある。煙草でも酒でも女でも好きにやれ」
「女でも……金子さんは……」
「おまえらしくもなく歯切れが悪いな。後輩にお節介を焼かれるいわれはさらにない」
「ですね」
 珍しくも弱った顔をして、徳永は俺を見たあとで小笠原に視線を移した。呑気にいびきをかいている小笠原を見る徳永の目は、まったく彼らしくもなく、こいつには参ったな、と言いたげだった。


四年生の夏の合宿で、俺の心にざわめくなにかが生まれた。二年生のころから合宿の時期となると、海辺のフェアリーみたいな女の子たちの間を飛び交う蝶々めいた気持ちになって、彼女とも彼女ともキスをしたけれど、たったひとり、キスを拒んだ彼女に気持ちが大きくかたむいたのだった。
 キスしない? と誘ったら、すべての女性が俺の腕の中に舞い降りてきてくれた。キスしようよ、と誘ってくれたひともいる。恋のゲームとも呼べないほどの楽しいたわむれを拒んだひと、山田美江子。彼女の胸にはいまだ星さんがいたのだろう。俺の遊び心を断固拒絶して怒り狂う彼女は、真夏の太陽のもとで鮮烈に美しかった。
 相当に怒って俺に当り散らして駆けていった彼女は、遠く遠くまで走り去っていった。星さんが愛したひとだという目で見ていた彼女は、そのときから俺の見る目を変えたのだ。駆けていった彼女が足を止めたあたりには、本橋と乾がいた。遠すぎてなにを話しているのかは聞こえなかったが、三人ともに少年少女のように輝いていた。
「本橋と乾と山田さんがいただろ。おまえ、そっちのほうから来たんじゃないのか」
 ぶらぶらと歩み寄ってきた徳永に尋ねると、彼は気のないそぶりで応えた。
「煙草がどうとかって話してるのが、ちらりと聞こえましたよ」
「煙草か。星さんは彼女の前では吸わなかったのかな。おまえは星さんと山田さんの恋の結末も知ってるんだろ」
「なんとなくはね。金子さんは他人の恋愛沙汰に興味があるんですか」
「発情期の男女がくっついたり切れたりするのを恋と呼ぶ。恋とは所詮それなんだけど、そこにモザイクがかかったりして目をくらまされて、綺麗ではかない恋の物語となるんだな」
「それを横から見てるのは、単なる覗き趣味」
「そうとも言うな。そっか、俺は下賎なピーピングトムなんだ。俺は俺自身にまでモザイクをかけて目くらましをやってたんだな。単なる覗き魔だったんだ」
「なにをひとりで納得してるんですか」
「で、おまえは発情しないのか」
「発情だったらしますよ」
 だからなんなんだ、と言いたげに、すわりもせずに俺を見下ろしている。徳永が合唱部に入ってきてから一年余りがすぎて、本橋や乾ともども観察はしてきたのだが、なんともわかりづらい奴だとの感想は変わっていない。わかりやすい人間よりも面白いとの気持ちも変わってはいなかった。
「金子さんも発情はしてるんでしょ。昨夜もあのへんでなにやらこそこそしてるのを、ちらりと目撃しましたが」
「俺は発情じゃないんだよ。どうやら俺は恋愛体質じゃないんだな。恋愛には体質との関りもあるんだよ。俺は恋愛しにくい体質なんだけど、女性のくちびるってのもいろいろな味がして、抱きしめた感触もさまざまで、彼女の香りもそのときの反応もさまざまで、女ってなんて可愛いんだろ、ってさ、あれだけのほうが表面的な女の魅力を知れていいんだよ。深くつきあうと幻滅も起きるけど、こそこそなにやらしてるだけだったら、幻滅もしない」
「幻滅するのは、女を綺麗に考えすぎてるからじゃないんですか」
「女が男に対しても、もだよ。その前段階までしかしないのは、正しいやり方だと俺は信じてる」
「金子さんは金子さんの信じる、正しいやり方を貫いて下さい」
「おまえの考える正しいやり方も教えてくれよ」
「いい女だと思ったら、まだるっこしいことをしてないで、ベッドへと一直線」
「……十年早いんじゃないのか」
「所詮、発情なんでしょうが」
 二十歳になるやならずのガキが、虚勢にしてもこういう思想だとは、徳永は恋に関する部分でもひねくれているのはまちがいない。そう言うと、金子さんはどうなんですか、と切り返されるだろう。
「おまえのは単なる露悪趣味だな」
「露悪というよりも、卑俗なんですよ。俺は俗っぽいのは嫌いなつもりだったんですけど、自分が俗な人間だからこそ、俗を嫌う。人間なんてみんな俗なんだ」
「俗っぽいからこそ人間なんだよ。高尚も卑俗の一バリエーションにすぎない」
「むずかしすぎて理解できません」
 浜辺を歩くカップルがぼちぼち出現しはじめる時刻になっていて、手をつないで散歩している合唱部の男と女の姿も見える。彼も彼女も発情しているのか。それはそれでいいではないか。だなんて、俺だってやっと二十歳をすぎたばかりなのに、こんなふうに達観していていいものだろうか。俺は達観しているのか。達観していたら女の子とキスもしたくないんだろうか、などなどと考えていたら、ふっと口をついた。
「もうじき月がくっきりと見える。彼と彼女の思いは空へと飛び立って、月世界で無重力ラヴ、今のところはトワイライトラヴだよな」
「黄昏どきは逢魔が刻。あれなんか魔物じゃないかと……いや、魔物はもうちょっと……」
「互いに互いが美しき魔に見えている。だからこそ発情もするんだよ」
 徳永が言いたいのは、近くを通りすぎていったカップルだろう。太った男と痩せた女のカップルが誰と誰なのかは知っているが、名前を出しては失礼なのでやめておいた。
「あれも別名は恋だろ」
「恋と名づけるにふさわしいのは、やはりもうすこし見ばのいい男女のほうが……」
「外見で恋をするんじゃないよ。そういうことを言うのはまだまだガキなんだな」
「はあ、そうですか」
 なんだよ、おまえらの会話は、と背後で声がして、徳永と俺の頭をぼかっ、ぼかっとやって、走り去っていった奴がいた。
「皆実だな。徳永、ひと泳ぎしようか」
「そうですね。そうしましょう」
 立ったままだった徳永と、立ち上がった俺は、海で水しぶきを上げている皆実のほうへと走っていった。海とは若者たちが恋を語る場でもあり、泳ぐための場所でもあるのだから、しばしは健康的に身体を動かそう。
 そのようなこともあったのだが、合唱部の本分は歌である。ある日、徳永は皆実と俺が待ち望んでいたひとことを口にした。
「俺も歌わせて下さい。俺はデュエットではなく、ソロで歌いたいんです。本橋や乾とはちがった歌で勝負します」
 高倉さんの言葉は副キャプテンたる皆実にも伝えてあった。高倉さんは細かくは言わなかったけれど、彼の心情は俺には理解できていた。
「高倉さんは本橋と乾を自ら抜擢して、高倉さんの全面的なバックアップのもとで育てた。だけど、俺は異なる方針で行く。徳永の思いは高まっているはずだ。あいつは思慮深い性質だとも思えないけど、心の中で発酵させてるんだろ。彼が言い出せば俺は彼の力になるよ。俺はリリヤと俺のことにばかり頭をめぐらせていて、後輩にはたいしてなにもしなかったけど、最後に徳永をものにしてから卒業しよう。俺には高倉さんのような度量も能力もないけど、徳永にはそれだけの力量があると信じてる。皆実、おまえも手を貸してくれ」
 そう告げてあった皆実は、徳永が申し出てきたときに、俺に口添えをしてくれた。やっと言い出したな、と皆実は囁き、高倉さんの言葉を俺なりの言葉にして、徳永に話した。
 本橋と乾も呼び、五人で話していたら、女子部の沢田さんがやってきた。彼女は俺のファンクラブを作ると言った張本人でもある。沢田さんは五人の女子部での評判を忌憚なく話してくれ、話題が顔となるとこう言った。
「本橋くんや乾くんって顔にコンプレックスがあるの? まあねぇ、この中にまじってると、本橋くんと乾くんはね……けど、あなたたちにはその歌があるじゃない? 女子にも本橋、乾ペアのファンは多いのよ。プロの歌手だって、女は美人じゃないと売れないかもしれないけど、男性歌手はそうでもないじゃない。本橋くんと乾くんはその路線で勝負するといいのよ。それにね、顔ってのには好みもあって、私の個人的見解を述べさせてもらえるんだったら、私は乾くんがいちばんのタイプだわ。ね、乾くん?」
「……は、はあ、どうも」
「本橋は?」
 皆実がよけいな質問をし、沢田さんは本橋の顔を見つめた。
「私の好みじゃなくっても、金子さんと皆実さんと徳永くんは、女が放っておかないだろうから心配ないよね。そうそう、用があったんだった。金子さん、来て」
「女子部に? なぜ?」
「リリヤちゃんよ。ホームシックなんじゃないの? 寝る前にお兄ちゃんに会いたいんだって。お兄ちゃんにおやすみなさいを言わないと眠れない、って駄々をこねてるの。そしたら他の一年生の女の子たちも、金子さんにおやすみなさいって言いたいなぁ、だなんて言い出して、私が金子さんをお迎えにきたのよ。いらして下さる?」
「……リリヤか。ご迷惑をおかけしてるんだね」
「いいの。私が来てよかったわ。行きましょうか」
「なに、この手?」
「腕を組んでよ。一年生たちをうらやましがらせてやるの」
「きみは乾がタイプなんじゃ……」
「それとこれとは別件ですのよ。じゃあね、失礼」
 ファンクラブ会長さんのお気に召すまま、腕を組んで女子部の部屋に行くと、女の子たちが歓声で出迎えてくれ、リリヤは口をとがらせた。
「あー、お兄ちゃんったら、私にはいっつも言うくせに。男とつきあうなんて早い、おまえは歌が第一だろ、ってさ。なのになに、それ? 沢田さんと恋人同士なの?」
「まさか。金子さんは歌が恋人だってもっぱらの評判よ。リリヤちゃんもそうなんでしょ? リリヤちゃんももう大学生なんだから、いつまでも子供じみたわがまま言ってちゃ駄目。お兄ちゃんに叱られると怖いんでしょ? ぱちんってされるんでしょ?」
「沢田さん、リリヤがそう言ったの?」
「聞いたよ。お兄ちゃんはリリヤちゃんにはきびしくて、ちっちゃいころからよくぶたれたって」
「冗談じゃないよ。リリヤ、おまえはやっぱりそんなふうに言ってるのか。俺を暴力兄貴みたいに……」
「だって、ほんとだもん。そんなのどうでもいいから、沢田さん、いいでしょ?」
「今夜だけね」
 三年生の沢田さんは、一年生女子たちの部屋の班長となって、なにくれとなく面倒を見てやってくれているらしい。パジャマ姿が幼く見える一年生たちに、沢田さんは言った。
「金子さんが来て下さったんだから、子守唄を歌ってもらう? 私も聴きたいな。はい、じゃあ、順番におやすみなさいをして寝ましょうね。リリヤちゃんもそれでいい?」
「うん」
「リリヤ、先輩に向かってうんとはなんだ。返事ははいだろ」
「……ほらね、怖いんだから」
 子供のころにはリリヤを叩いたこともあるが、兄妹喧嘩なんてどこの家庭でもやっている。それをオーバーに言うものだから、他の一年生たちまでが俺を怖そうに見るのだ。いいわけしようかとも思ったのだが、いい機会かもしれない。大学生になったらきびしくやる、とリリヤに宣言していたのも有名無実になっていたので、俺はリリヤの頭をこつんとやった。
「痛ーい。ほらー、ぶったぁ!」
「うるさい。きちんと返事をしろ。リリヤ、先に沢田さんに挨拶だ」
「……はーい、沢田さん、おやすみなさい」
「きみたちもだよ」
 数人の一年生女子たちも声をそろえ、沢田さんは鷹揚に応じている。姉というよりも幼稚園の先生に見えて、きみも大変だね、と囁くと、沢田さんは一転して色っぽい口調で囁き返した。
「金子さんがいるから、子供っぽくふるまってるんじゃないの? この子たち、実はとっても……とっても、なんなのかは女同士の秘密よ。じゃ、金子さん、子守唄をよろしく」
 それはまあ、十八や十九の女の子が子供っぽいばかりではないのは、俺も知っている。リリヤも今後は恋愛にも……と考えかけ、恋もしたいだろうけど、俺とのデュエット、近い将来のメジャーデビューを最優先にしてくれよ、頼むよ、と心で言って、子守唄を歌った。女の子たちは目を閉じて、素敵な声だね、金子さんのファルセットって管楽器の響きに似てる、などと小声で言い合っている。
 彼女たちのひそやかな声もやがて静まっていき、俺はしんとなった部屋から忍び足で出ていった。今後、俺が力を注ぐべきは、リリヤと俺の歌、徳永の歌。本橋と乾にはもはや手を貸す余地もない。彼らとて未完成ではあるのだが、将来は大きく高く羽ばたけるであろうと信じるに足る未完成ぶりだ。彼らはどこまで昇りつめていくのか。徳永もリリヤも俺も、それぞれに昇りつめていけたら……
 徳永にはそんな想いをどうやって話そうか、リリヤのせいで中座した部屋に戻っていきながら、俺は空想していた。徳永と深く関わるのは骨が折れるだろうけれど、俺はそんな奴とこそつきあうのが楽しい。リリヤとて同じだ。実の妹と、血のつながりこそないものの、言うなれば弟分。おまえは弟みたいなものだから、と言ってみたら、徳永はどんな顔をするだろう。そんな空想もまた、楽しからずや、であった。

 
6

山田美江子&星丈人、豊島ゆかり&本橋真次郎、吉崎香奈&乾隆也。やがて三組のカップルが誕生したのだが、徳永渉には恋の匂いがない。喜多晴海という女友達がいるようではあるが、あれは恋仲ではないだろう。徳永という奴は容易には正体のつかめない男なので、彼は彼で女性ヌキで観察するしかない。皆実には呆れられたのだが、ちいさな世界での俄か人類学者気取りも充分に楽しいのだった。
 若者たちには恋が芽生え、芽生えた恋は花開いて散る。学生時代のカップルなどは永続しないのが通常だろう。俺が四年生になるまでの間に、三つの恋はことごとく開いて散った。むろん俺は詳しくは知らないのだが、気にかけていれば見えてくる。噂も聞こえてくる。
「本橋くんとゆかりちゃん、別れちゃったんだね」
「ゆかりちゃんは合唱部もやめちゃったよ。本橋くんと顔を合わせるのがつらいのかもしれないね」
 女子部での噂話。
「乾の奴、吉崎さんにふられたらしいな」
「あいつはたいした顔もしてないのに、やけにもてるじゃないか。じきにまた新しい女とくっつくんじゃねえの」
「なんでもてるんだろうな、乾って?」
「女の子には優しいからじゃないのか。男にはけっこうきついけど」
「裏表があるんだよな、乾って」
 男子部での噂話。
「美江子、昨夜は泣いてたんじゃないの? 目が赤かったよ」
「最近、元気ないよね。星さんと別れたのかな」
「星さんは四年生だから、このごろはほとんど部室にも来なくなったし、美江子はあんなに星さんを好きだったのにね」
「他人ごとでも、誰かと誰かが別れたって聞くとしゅんとしちゃうよね」
 そしてまた、女子部での噂話。
 恋が進んでいく先には、いつだって別れが待っている。そうして傷だらけになるのが怖くて、俺は恋はしないと口にするのか。金子さんには恋人はいないの? と誰かに尋ねられても、いないよ、と応えてきた。傷つくことを恐れていては、なんにもできやしないと知っているつもりだが、俺は臆病者なのだろうか。
 そうなのかもしれないけれど、恋なんてものはしたいと念じてするのではないだろう。恋とはふいにどこかから降ってくるものなのだとしたら、俺には降ってこないのだから、できなくてもどうしようもない。金子さんが好き、と言ってくれたひともいたけれど、俺もきみが好きだよ、とは言えなかった。
 そうすると俺は臆病なのではなく、女性に恋をされても受け止められない氷の心の持ち主なのか。だとしても、そうなのならばそれを受け入れるしかないではないか。皆実にしても決まった女性がいる。俺自身がそういう男なのだと一応は受け入れて、徳永に尋ねた。
「おまえのハートも冷たいのか」
「冷たいんでしょうね」
「それでいいのか」
「いいですよ」
 しらっとした顔でしらっと応じる徳永を見て、こいつのほうが俺よりもよほど肝がすわっているのであるらしい、と苦笑した。が、徳永が心底からそういった男であるのかどうかは、今後とも見ていたい。星さんと会う機会が間遠になった今は、もっとも興味のある男は徳永に変わっていた。


だってだってだってだって、だってっ!! がほとんどのリリヤの口答えに業を煮やして、こいつ、ほんとにいっぺんひっぱたいてやろうかと手を振り上げたら、リリヤが金切り声を上げてドアに向かって駆け出した。時を同じくして反対方向からドアが開き、リリヤはその男の胸に飛び込む形となった。
「……リリヤさん?」
「……本庄くん?」
 互いにたった今、抱擁し合っている相手が誰なのか確認したらしい。リリヤが抱きついている男は本庄繁之、合唱部一年生、リリヤと同い年である。本庄はリリヤに抱きつかれたまま、控え室の中を見回して言った。
「兄妹喧嘩ですか? リリヤさん、大げさだよ」
「大げさじゃないんだもん。本庄くん、助けて」
「助ける?」
「本庄、リリヤを離せ」
 当惑している様子の本庄に、俺は言った。
「喧嘩じゃない。こいつがなってないから小言を言ってたんだ。本庄、離せ」
「お小言なんかじゃないよ。お兄ちゃんったら、妹を叩こうとするんだよ。ひどいでしょ?」
「誰が悪いんだ」
「だーってぇ……」
 兄の俺にファンクラブがあるのは周知の事実となっている。妹のリリヤにもファンクラブを、となったのは自然ななりゆきだったのだろうか。合唱部随一の美少女とされているリリヤに惚れ込んだ男子学生たちが、金子リリヤファンクラブを結成したと聞いたのは、事実であったらしい。
 本日の合唱部主催コンサートでは、皆の了解を得てリリヤと俺はデュエットした。猛練習を重ねた末のステージだったのだから、リリヤも実力を遺憾なく発揮するだろうと信じていた。なのなのに、客席に押しかけてきた金子リリヤファンクラブの連中が騒ぎ、それでなくても上がっていたリリヤの緊張に拍車を駆けた。沢田さんを会長とする金子将一ファンクラブの女性たちは、断じて騒いだりはしないってのに、男どもは俺たちのステージを台無しにしてしまったのだ。
 しかし、彼らのせいだけではない。舞い上がってしまったリリヤも悪い。ルックスがよければすべてよしのアイドルシンガーでもあるまいに、おまえの意識も低すぎるんだ、となって、俺はリリヤに説教している真っ最中だったのだ。
 お兄ちゃんが叩く、とリリヤは言い募り、本庄もそれを信じてしまい、そこに乾隆也と山田美江子もあらわれて大騒動を演じた。やがてリリヤも反省の弁を述べ、その場はひとまずおさまったのだが、リリヤの心に嵐が? こんなきっかけで本庄との間に恋が生まれても不思議はない。
 ほうぼうに送っていたリリヤと俺の歌を収録したデモテープのひとつが認められ、俺が卒業したらメジャーデビューを、とほぼ本決まりになっている。誰も彼もが祝福の言葉をくれた。リリヤも喜んでいた。俺もむろん、前途を楽観していた。そんな時期だというのに、リリヤの心に恋が……恋の嵐が?
 皆実は正式に就職が決まり、卒業後は彼の希望通りの道に進むという。彼の恋も着々と進行しているらしい。皆実にも俺にも継ぐ気になれば跡取りになれる家業があるのだが、親は好きなようにすればいいと言ってくれる。俺の場合は兄と妹が同時にプロシンガーになるという保証があればこそ、なのだろう。だとすれば、リリヤの恋は阻止しなければなるまい。
 恋に免疫のない妹は、男を愛したらまっしぐらに突き進み、周りが見えなくなる恐れがおおいにある。歌手になんかなれなくてもいい、私は彼が大切なの、と言いかねない。であるからして阻止あるのみだ。妹の恋路を邪魔するのは気の毒なのだが、今のところは恋どころではないではないか。
 コンサートの日から数日後、リリヤと練習する約束をして、女子部室に行くと、ドアのあたりに本庄の背中が見えた。彼のうしろに突っ立って聞き耳を立てていると、リリヤの声が聞こえてきた。
「この間はありがとう。楽しかった」
「う、うん、俺も最高に楽しかった」
 この間とはなんだ? なにがあったんだ? これはいよいよ危ない。阻止すべきは今しかないと考えていると、本庄がくぐもった声で言った。
「リリヤさん、俺……」
 すまん、本庄、と心で詫びてから、俺は彼の背中に声をかけた。
「本庄、おまえ、なにをやってるんだ」
「……あ」
 本庄は硬直し、リリヤが世にも怖い顔で言った。
「なんでお兄ちゃんは邪魔するの? あたしに彼ができないのは、お兄ちゃんのせいなんだからね。十八にもなって、まだ一度も男の子とつきあったことがないんだよ。友達にはあり得ないって言われる。リリヤはけっこう可愛いのに、あんなお兄ちゃんがいるからじゃないの? 実はお兄ちゃんに恋してるんじゃないの? まで言われるんだから。それこそあり得ないよ。いい加減にあたしをほっといてくれない?」
「すると、おまえは本庄とつきあうのか」
「本庄くんが告白してくれるんだったら、そうしてもいいな」
 恋愛どころじゃないだろ、たとえ相手が誰であろうとも、おまえには恋をしている暇はないんだよ、と言いたかったのだが、そうは言わずに本庄を悪者にすることにした。
「やめとけよ、こんなの」
「……こんなのって失礼じゃない」
「こんなのだろ。俺から見るとおまえは小憎たらしい生意気な妹だけど、よその男から見たら可愛いんだろうな。顔も可愛いしスタイルもいいし、男の保護本能そそりそうな、こわれそうな細い肩ってのか……歌の文句によく出てくるタイプだよな。だからこそだ。本庄みたいな冴えない奴はやめとけ」
「本人がそばにいるんだよ。ひどすぎ」
「本人がそばにいるから言ってるんだ。こんな奴にリリヤは似合わない。乾のほうがよくないか?」
「そりゃあね、乾さんはかっこいいし、乾さんの彼女になれるほうが嬉しいかな。でも、乾さんには彼女はいるんじゃないの?」
 いや、乾でもよくないのだが、乾はもてるのだから、恋人がいるに決まっている。俺は身動きしない本庄に尋ねた。
「乾には彼女はいるのか」
「……知りません」
 暗い暗い声で本庄は応じ、リリヤは軽い調子で言った。
「お兄ちゃん、聞いてきてよ。乾さんは男子部にいるよ。さっき会ったの。乾さんに彼女がいないんだったら、あたし、立候補しちゃう。そんならいいんでしょ?」
「本庄よりはいい」
 リリヤの本心は読めないままに、俺は男子部に赴き、小笠原とともにいた乾に耳打ちした。
「乾、彼女はいるんだよな」
「ええ、まあ、いますよ」
「……よかった。頼む。俺が質問するからいると言ってくれ。本庄には悪いんだけど、わかるだろ? 今の俺たちにはそれどころじゃないんだ。利己的なのは承知の上だよ。頼む」
 素早く囁くと、乾は深くうなずき、俺はたった今、はじめて彼と話すかのごとく装って、女子部室にも聞こえるような声を出した。
「乾、おまえ、彼女はいるのか」
「……はあ、藪から棒ですね。どうしてですか」
「いないんだったら、可愛い子を紹介してやろうと思ってさ」
「ありがとうございます。だけど、つきあってる子はいますよ」
「そうか」
 ありがとう、乾、ごめんな、本庄。またしても心で言い、声に出してはこう言った。
「そんならいいよ。またな」
「……はい、では、また」
 乾は小笠原を連れて遠ざかっていき、俺は女子部に戻っていった。
「聞こえてただろ。いるんだそうだ。リリヤ、だからってかわりに本庄にしておく、なんて言うなよ。俺がそのうち、おまえに似合うかっこいい男を紹介してやる。乾なんかよりずーっといい男を見つけてやる。それまで待ってろ。本庄、さっさと出ていけ。今日はこれから、この部屋を借りてリリヤと練習するんだ。おまえは邪魔だ。出ていけ」
「わかりました」
 なーんだ、つまんないの、とリリヤは呟いていたが、本庄にはなにも言わなかった。肩を落とした本庄の姿も消えると、俺は言った。
「本庄はおまえに交際を申し込もうとしてたんだろ。なんと答えるつもりだったんだ?」
「ほんとにそうだったの? ふーん、大学生になって初の告白か。本庄くんっていいひとだよね。声はいいけど顔はたしかに冴えないし、かっこいいところもあるんだけど……いいよ、もういいよ」
「恋は歌手になって道が固まってからにしてくれ。ルックスのよすぎる男じゃなくて、本庄程度がいいんだよ。乾だったら……いや、あいつには彼女がいるんだから問題外だな。なににしたって、恋は現段階ではご法度だ」
「わかってるってば。しつこいんだから」
 結局、リリヤが心底本庄に恋をしていたのかどうか、俺には読めないままだった。俺のジコチュウってやつで、ただひたすらに本庄を落ち込ませてしまったのだろう。本庄に合わせる顔がない、との気持ちもあったのだが、心の目をつぶって考えないようにしていた。
 が、俺の危惧は別の形で的中した。卒業が近づいてきて合唱部に行く機会もぐっと減ってきて、リリヤとも他の後輩たちとも学校では会う機会が少なくなっていたある日、リリヤが見知らぬ男を我が家に伴ってきた。
「黒木哲平と申します。突然ですみません。リリヤさんと結婚させて下さい」
「な……!!」
 てめえ、突然も突然も突然すぎるじゃないかっ!! リリヤが今、どういう状況にいるか知ってて言ってんのかっ!! と怒鳴りそうになった俺を押しとどめ、父が凄みのある声を発した。
「突然そうなるというのは、なにかわけがあるのかね」
「すみません。赤ん坊が……」
「……お父さん、こいつ、ぶん殴っていいですか」
「待て、将一。お母さん、なにか言いたそうだね。お母さんの言い分は?」
「私はリリヤから聞いてましたよ。秋口だったかしらね。恋人ができたの、お兄ちゃんには秘密、って打ち明けてくれたわ。将一は歌手になるってので頭が一杯になってて、リリヤがそんなことを言い出したらいきり立つのは目に見えてるじゃないの。だからリリヤとの約束を守ってたのよ」
「お母さんまでそんな……そんな……子供ができた? そしたらいったい……」
「将一、あなたはしばらく黙ってなさい」
 決然と母は言い、言葉を継いだ。
「リリヤはまだ十九よね。お父さんの気持ちも将一の気持ちもわからなくはないし、私だって早すぎるとは思うのよ。でも、子供ができてるのは厳然たる事実です。哲平さんは責任を取って結婚するとおっしゃってる。子供ができてしまったのはリリヤにも責任があるのに、ちゃんとそう言ってくれてるの。なのに反対するの? 結婚しないでどうするの? 子供を中絶するの? それとも、リリヤに未婚の母になれって言うの? お父さんも将一も怒らずによく考えてみてよ。リリヤは結婚して子供を産んで、それでも大学は続けていくと言ってる。それがもっともいい解決策じゃないの?」
「リリヤと俺が兄妹としてデビューする件は?」
「リリヤは言うの。母性愛に目覚めたのね。子供を産む以上は母として生きたい。歌手になんかならなくてもいい。哲平さんのよき妻、生まれてくる子供のよき母として、大学生兼主婦になる道を選択したいって」
「リリヤ、お母さんの言う通りか」
「うん、お兄ちゃん、ごめんね」
 身体は哲平の背中に隠れ、精神的には母の陰に隠れ、リリヤも決然とうなずいた。
 恋に免疫のない妹は、男を愛したらまっしぐらに突き進み、周りが見えなくなる恐れがおおいにある。歌手になんかなれなくてもいい、私は彼が大切なの、と言いかねない。であるからして阻止あるのみだ。そう考えて、確固としているのか否かも定かではない本庄との恋路を妨害したのは、ほんの数ヶ月前だった。
 そこに子供までが加わったとは、もはや妨害もできないではないか。哲平がのらくら逃げ口上を述べたのなら殴ってもやれるが、彼は彼として責任を取る心積もりでいる。殴るのはお門違いだろう。
「わかったよ。お母さんを味方につけた上に、子供という最大の難敵をも我が身に宿したおまえには、俺はもうなにも言えない。お父さん、ギブアップだね」
「うーむ……」
「俺はソロデビューの道を探す。リリヤは考え直す気持ちはないんだろ」
「おなかの赤ちゃんが愛しくて、哲平さんも大好きで、歌手なんかどうでもよくなっちゃったんだもん」
「だそうだから、お父さん、諦めよう」
「……うーむ」
 ただただ父は唸っていて、俺は義弟となる男に尋ねた。
「いくつ?」
「二十六です」
「リリヤより七つも年上? ビジネスマンですか」
「はい、リリヤさんの大学の教授の先生と懇意にしていただいてまして、その関係でリリヤさんとも知り合いました。お兄さんとリリヤさんがプロ歌手になるって話は聞いてるんですけど、まことにもって申し訳なく……」
「哲平さん」
「はい」
「あんたにお兄さんと呼ばれたくない。俺よりも年上じゃないか。ああ、もう、勝手にしろ。お父さん、飲みにいきませんか」
「おう、行こう」
 こうなると知っていたら、本庄との恋を邪魔したりしなかったのに。本庄とリリヤの恋ならば微笑ましく見ていられただろうに、早まった。俺があんな真似をしたから天罰覿面だったのか。けれど、こうなってしまった以上はどうにもならない。俺の歌を認めてくれ人はいるのだから、きっと俺には別の道も開けると信じていよう。信じてはいたけれど、心に黒い積乱雲がむくむくもこもこ、そんな俺の心境もまた、まごうことなき事実なのだった。


「でな、哲平って野郎は三男なんだそうで、うちの店は彼が継いでくれるから、俺は歌手になるんだよ。なるったらなるんだよ。おふくろは最初からリリヤの味方だったけど、親父は苦り切ってた。そのくせ跡取りができたらいそいそしちまって、おまえは好きにしろ、だってよ。ああ、好きにするさ」
 大学から近い居酒屋で、皆実と徳永を前に、俺は怪気炎を上げていた。間もなく卒業式だ。リリヤが「できちゃった結婚」をする、との噂はあっという間に合唱部をかけめぐり、皆実も徳永も俺に問い質したい様子だったので、ふたりを誘ってこの店に来たのだった。
「けど、デビューさせてくれる予定のプロダクションからは断られたよ。リリヤとのデュエットでデビューするって決まってたんだから、話がちがうじゃないか、ってわけだな。前途を楽観してたのがみるみる暗転、真っ暗闇だ」
「金子さんらしくないな。悲観するには早いですよ」
 徳永は言い、皆実も言った。
「だからって歌手志望は覆さないんだろ」
「当然だ。徳永は卒業後はどうする?」
「俺も歌手を目指します。金子さんもこれからはライバルですね」
「……おまえはライバル心ってのが強すぎるんだ。それだから悶着が起きるんだよ。合唱部の平和はおまえ次第だぞ」
 俺の顔を見やって皆実が言い、俺も言った。
「なあ、徳永、ほどほどにな。あんまり燃えるなよ」
「燃えます」
 これでは合唱部も前途多難だろう。そんな合唱部の姿は、俺にはもはや見られない。いっそ就職浪人となって、合唱部に居座ってやろうかと自棄まじりに考えつつ言った。
「おまえはクールなふりしてるくせに、本橋と乾にはめらめら燃えるんだよな。仲良くしろよ、あいつらと」
「お断りします。俺はあいつらの敵としてこそ存在意義があるんですから。金子さんも皆実さんもそう言ってたじゃありませんか。あの言葉の意味がわかってきましたよ」
「そうは言ってない」
 閉口の体で皆実は言った。
「来年のキャプテンが誰になるのか知らないけど、新四年生にはたいしたのはいないんだ。そうすると本橋や乾やおまえが前に立つ必要も出てくるだろ。協調して合唱部を盛り立てていってくれよ」
「そうそう、皆実の言う通りだ。すこしはてめえの性格を宥めて、だな」
「宥められません。そもそも俺は本橋も乾も大嫌いなんですから。金子さん、来年のキャプテンは誰ですか」
 一応の目星はつけてある。俺も高倉さんに言われたように、合唱部には現キャプテンが次期キャプテンに申し送りをするという、暗黙の了解のような伝統があるのだ。彼しかいないだろうと以前から考えていた渡辺に、俺は言ったのだった。
「来年は頼むよ」
「……僕ですか? 僕じゃないでしょう?」
「そんなら誰だよ」
 他には人材がいないだろ、とは言えなくて、俺は真面目に続けた。
「おまえだよ、渡辺。おまえももちろん知ってるだろうけど、溝部って奴がいるよな。あいつには目を光らせておいてくれ。あとは本橋と乾にも頼ればいい。徳永もいるけど……徳永はほっとけ。徳永にはかまわなくていい。おまえの使命は溝部の手綱を操るって一事に限ってもいいんだから」
「溝部ですか。荷が重いな」
「なにを言ってるんだ。おまえは早まって行動を起こす奴じゃないだろ。キャプテンにはそんな奴がふさわしいんだ。実は溝部には……」
「はい?」
 詳しい事情は知らないのだが、一度、皆実が溝部を殴りつけたのだと聞いていた。
「あまりにも目に余る行為のゆえだったんだそうだ。皆実がはっきり言わないのは、溝部の名誉を慮ってだろう。その一件は心に留めておいてくれ。溝部はたいしたことはできないだろうとは思うけど、他人を巻き込んで妙な企てを起こす可能性があるだろ。おまえも知ってるんだろ」
「はい。そうですか、皆実さんが……そしたら、それに懲りてちょっとはおとなしくしててくれたら……甘いですかね。僕では溝部は……いえ、僕がキャプテンになるなんて考えられないけど、万が一そうなったとしたら誠心誠意つとめます。僕は本橋がいいと思うんですけどね」
「本橋は再来年だよ」
「それはまちがいないと思います」
 その会話については徳永には言わず、こうとだけ言った。
「溝部には留意しろよ」
「溝部ね。あんなの……」
「先輩を呼び捨てにするな。あんなのとはなんだ」
「皆実さんもそう思ってるくせに……ま、あんなのは適宜対処しますよ。そんなもんでいいんですよ」
 そうして俺たちは卒業し、俺は歌手への道を手探りで歩みはじめた。リリヤは女の子を出産し、両親は相好を崩して孫を溺愛している。ユリカと名づけられた姪は俺にとっても可愛い存在ではあるのだが、彼女の父親である哲平にはいまだ、どうしても遺恨を持ってしまう。
 ひとたびケチのついた歌手への道は道なき道だ。まがりくねって途切れて途絶えて、手元にはちっぽけな灯火すらない。前途で悪魔がぴょこぴょこ飛び跳ねて、あっかんべーをして逃げていく、そんな道にも見えていた。
「俺もこれからは金子さんを追いかけますよ」
 ようやく見つけた歌の仕事で細々と暮らすようになっていたころ、徳永も大学を卒業した。
「本橋と乾もプロシンガー志望です。そうだろうとは思ってたけど、決定したようですね。本橋と乾、本庄と小笠原、それにあとひとり、三沢っていう小笠原たちより一年下の合唱部の後輩も加わって、五人でフォレストシンガーズってヴォーカルグループを結成したと聞きました。あいつらはつるんで歩くんでしょう。十本の脚がこんがらがってひっくり返らないといいんですけどね」
「おまえはあいもかわらずひねくれてるな。グループもいいじゃないか。三沢か、そいつはあまり知らないけど、実力はあるんだろ」
「きわめつけのおかしな男ですよ。本橋がリーダーだそうで、その本橋は硬派でしょ。小笠原も本庄も硬派タイプですよね。乾は軟派とも硬派ともつかないけど、三沢は見るからに軟派そのものの男です。本橋と三沢がどこでどう気が合うのか、見てても謎でしたね」
「見てたんだな。観察してたのか。よく知ってるもんな」
「興味はありますから」
 かねての予想の通り、俺たちが卒業した年にはキャプテンは渡辺、副キャプテンが溝部となった、溝部がなにを画策して副キャプテンの座についたのか、俺には本橋と三沢の関係以上に謎だ。そしてその翌年は、本橋がキャプテン、乾が副キャプテン、それはまったき適任である。
 そしてまたその翌年は、キャプテンが実松、副キャプテンは安斉となった。実松はなかなかの奴だったから、彼らも適任といっていい。にしても、そこまで行くと俺の手はかけらも及ばなくなっていたのだが、たまさか合唱部OBとして大学を訪ね、本橋や乾とも話していたし、徳永からも聞いていたので情報は届いていた。
 二年下の徳永も卒業したのだから、徳永と同年の本橋も乾も卒業したのだ。彼らも歌手への道を進んでいく。徳永ではないけれど、ライバルが続々と増えていく。いささかの焦りを感じなくもない、今日このごろなのだった。
 

7

 一心不乱に恋をして、周囲が見えなくなってしまった妹と、歌を唯一無二として追い求め、恋もしなかった兄と、俺とリリヤの兄妹は、不器用者だったと結論づけるべきか。
「金子さん、好きなひとはいないの?」
 ファンクラブから男子部キャプテンの就任祝いよ、と、沢田さんが大きな花束を進呈してくれたのは、大学四年になってほどない日だった。照れくさい気分で受け取った俺に、彼女はさりげなく尋ねた。
「恋人はいないの?」
「いないよ」
「恋愛経験はないの?」
「ないな」
「……信じられない」
 恋はしたのかもしれないが、遠い日の残り火はとうに消えていた。
「気にかかるひとはいるんだよ」
「合唱部の女性?」
「そう。恋と名づけるには情熱に欠ける。なんとなくいいなと思っているにすぎない女性だ。彼女には恋人はいるだろう。いないほうがおかしい。それほど魅力的な女性だよ」
「金子さんにそんなふうに思われるだなんて、私、彼女がうらやましい」
 寂しげに微笑んだ沢田さんにしても、魅力的な女性だった。ああ、いいな、こんな女性と恋をしたらいいだろうな、と感じた女性とは、かつて何度か出会っている。合唱部の女性たちは各々が個別の美しさを持ち、個別の優しさと香りとカラーに彩られていた。ちょうどこの花束の花たちのように。
「おまえらって仲がいいよな。よすぎるんじゃないのか? 変な関係なんじゃないのか?」
 飲み会の会場で、本橋と乾が話しているのを見ていた溝部が言い、彼らの近くにいた本庄と小笠原にも言った。
「そっちにも仲のよすきる奴がいる。男同士でそうやっていちゃいちゃして、なにが楽しいんだか。なあ、徳永? 男って男とそんなにべったりするもんじゃないよな。おまえみたいな一匹狼のほうがかっこいいよ」
「俺には友達がいないだけですよ」
 冷淡な調子で徳永は言い返し、俺は皆実に目配せしてから言った。
「ここにもいるだろ、濃密な関係の男同士。な、皆実?」
「濃密? まあ、おまえとだったらそう言われてもいいよ」
「いちゃいちゃしようか」
「どうやって? こうか?」
 肩を抱き合って皆実と酒のグラスを合わせたら、溝部はぐっと言葉を詰まらせ、そんな俺たちを見ていた山田美江子が言った。
「溝部さんにだって友達はいるんでしょ? ああ、でも……そうなのかな。利害関係はゼロで、荒っぽく口喧嘩をしたり、時にはぽかっとやったりもして、おまえなんか勝手にしろ、って言い合って、そのくせ、どこかで互いを思いやってるの。だけど、そんなのをあからさまにはあらわさない。ほんとの友達ってそういうのかな」
「山田さんはなにが言いたいの? 俺には本当の友達はいないって?」
「溝部さんはどうなのか知りませんよ。私は溝部さんのお友達には関心ありません。金子さんと皆実さん、本橋くんと乾くん、小笠原くんと本庄くんだったら見てて面白いな。こんな言い方、適切なのかどうかも知りませんけど、男同士の友情にもさまざまあるんだなぁ、って」
「女になんかわかるもんか」
 むっとした顔で溝部は吐き捨て、山田さんは首をかしげた。
「そうかしら? 本橋くんもそう思ってる?」
「おまえの言い方って聞いてて恥ずかしいけど、女同士の友達だってそうだろ」
「そうあれるといいね」
 小笠原は言った。
「シゲ、おまえは俺を思いやってるのか?」
「やめろよ。恥ずかしい」
「恥ずかしい? 乾さんは?」
「口に出すには恥ずかしいよ」
「乾さんまでそう言うのか」
 なによなによ、みんなして私の言うことを恥ずかしいって、そしたらもう言わないもん、と山田さんはふくれてしまい、笑い声が起きた。溝部はこそこそとどこかに退散し、徳永も立っていった。
 女子部のメンバーとも交流は盛んだったので、それ以前にも山田さんを意識する機会はたびたびあった。ふたりきりで話すおりもあった。リリヤと俺が学生兄妹デュオとして仕事をしたときには、山田さんが学校側の窓口をつとめてくれた。彼女は言ったものだった。
「リリヤちゃん、今度はしっかりね。将一さんを困らせないようにしなくちゃね」
「困るのは私だったりして……お兄ちゃんもがんばってよ」
「はいはい、がんばるよ」
「将一さんはコンサートのときにはぴりぴりしてらしたけど、余裕のある顔つきになってらっしゃいますね。リリヤちゃんも落ち着けるよね。応援してますよ。はい、お守り」
 対外的な仕事としては、山田さんにとっても初だったのだろう。彼女はリリヤと俺に大願成就のお守りを手渡してくれた。
 彼女は四年生になっても女子部キャプテンとはならず、マネージメント役だったようだが、OBとして例年の主催コンサート会場を訪ねた際にも話をした。
「沢田さんは覚えてる? 俺と恋愛の話をしたでしょ」
 その沢田さんと再会を果たした。彼女はラジオ局のアナウンサーになっていて、彼女が勤務する局での仕事が入ったのだ。俺もまがりなりには歌の仕事をしているので、ラジオCMのバックに流れる歌を担当することになった。沢田さんと再会して、四方山話をしていたら、そんな話が出てきたのだった。
「金子さん、私の名前は知らないの? 昔から沢田さんとしか呼んでくれなかったよね」
「知ってるよ。愛と理科の理で、愛理さん。エリちゃんだよね」
「知ってるんだったらエリって呼んで」
「そう呼べとおっしゃるんでしたら、エリさん、覚えてる?」
「エリちゃん」
「はい。エリちゃん」
「……覚えてる。あれって誰なのかもなんとなくわかった。今でも好きなの?」
「俺は二十六にもなって、いまだ業界の片隅で逼塞してる。彼女はフォレストシンガーズのマネージャーとなってバリバリ仕事をしてるよ」
「ああ、やっぱりそうなのね。今でも好き?」
「だからさ、彼女と俺とは……」
「引け目に感じるってわけ? フォレストシンガーズだってたいして売れてないじゃないの。引け目なんか感じなくていい。好きなんだったら金子さんの彼女にしてしまえばいいのよ」
 あれは三年ばかり前になるのか。まだ大学に在籍していた山田美江子さんと合唱部のコンサートで会って、恋人はいるの? と尋ねたら、いますよ、と答えた。山田さんは本橋か乾とつきあっているのだと思い込んでいたのだが、彼女は否定していた。あれから歳月が流れたけれど、彼女には恋人はいるだろう。俺はいまだに恋どころではない境遇にいる。引け目を感じるというよりも、さて、自分の心をどう表現すればいいのか……
「リリヤちゃんはどうしてるの?」
 無言で考えていたら、沢田エリさんは話題を変えた。
「リリヤは合唱部は退部しただろ。主婦業と学生の両立だけでもてんやわんやだったからね。それでも学校は卒業して、今では主婦業に専念してるよ。二十歳でひとり目、二十二でふたり目、二十三歳の現在は三人目を妊娠中。かなり太ってきたみたいで嘆いてるよ。上も下も女の子、ユリカとマリン。リリヤも国籍不明の名前だけど、娘たちも母に倣った名前だね」
「リリヤちゃんに似てる?」
「幼かったリリヤに似てる。泣き虫で騒々しくて……」
「可愛くて?」
 最初の記憶の中にはリリヤがいる。俺が三歳のときに生まれた赤ん坊の妹が泣き出して、抱き上げてあやしてやろうとしたら重くて持ち上がらなくて、リリヤを抱えてひっくり返り、いっしょになって泣き出した。母が大慌てでリリヤを抱き上げ、父は俺を抱き上げて、父と母が子守唄を歌ってくれた。
 口がきけるようになったらリリヤはいつだって、お兄ちゃん、お兄ちゃん、と俺のあとをくっついてきた。わずらわしかったり愛しかったりした妹は、いまや三児の母になろうとしている。
「そんな顔して……だからなんだよね、溝部くんがああいうことを言ったのは……」
「俺、どんな顔してる? ん? 溝部?」
「金子さんは知らないんでしょ? 皆実さんが怒って、溝部くんをぼかーんってやったことの顛末は」
「詳しくは知らないよ。エリちゃんは知ってるの?」
「私は溝部くんと同い年だし、女子部では情報通だったのよ。溝部くんが顔を押さえて悔しそうな顔をして歩いてるのを見て声をかけたの」
 恋人はいるの? と山田さんに尋ねた日から、さらにさかのぼって二年ほど前か。新米大学生だったリリヤに恋は訪れていなかったころで、皆実も俺も四年生だったある日だ。溝部とエリちゃんは三年生だった。エリちゃんは溝部に声をかけ、あらあら、顔が腫れてるじゃないの、冷やしてあげる、どうしたの? 喧嘩でもしたの? と親切ごかしをやって聞き出したのだと、話してくれた。
「その場面を立ち聞きっていうか、覗き見していた一年生の男子たちからも聞いて、溝部くん本人からも聞いたからまちがいない。溝部くんはどうやら、リリヤちゃんと金子さんは近親なんとかじゃないのか、って言って、皆実さんにそれを聞かれて、皆実さんが本気で怒ったの」
「近親……なんとまあ……」
「そんなんじゃないよね」
 なんとまあ、途轍もない考えを抱くものだ。しばし絶句してから気を取り直して、俺は言った。
「過去の話だけど、そんなふうに見られてたのか。俺はリリヤと仲がよすぎた?」
「金子さんはリリヤちゃんを可愛がりすぎてたのね。だけど、どこかで頼ってもいたんでしょ。リリヤちゃんとの兄妹デュオでデビューするつもりが立ち消えになってしまって、そのショックを引きずってるんじゃないの?」
「頼ってたのかな。リリヤが結婚するって聞いてショックは受けたよ。親父と自棄酒を飲んで……しかし、とっくに立ち直ったはずなんだけどね。俺のソロには特徴がないんだろうか。リリヤとふたりでひとりで、俺はひとりっきりではなんにもできないんだろうか」
「そんなこと……」
 そんなこと、がもうひとつ聞こえる。ラジオ局近くのカフェでエリちゃんと話していた俺は、声の方向を見た。妖艶な女性が微笑んでいた。
「そんなことはないわよ。沢田さん、いつまでさぼってるの? さっさと仕事に戻りなさい」
「あ、そうでした。じゃあね、金子さん、またね」
 そそくさとエリちゃんは椅子から立っていき、かわりに彼女がそこにすわって名刺を取り出した。溝渕奈々子、三十代だろうか。たいそう化粧がうまいと見える。
「沢田さんの職場の先輩ですか」
「先輩といっても格がちがいます」
「そのようですね。プロデューサーさんですか。私はこういう者です」
 肩書きなんぞはない。所属プロダクションの名と、金子将一、とだけ刷り込んだシンプルな名刺を手渡すと、彼女は一瞥もせずに言った。
「知ってるわ。あなたの歌は生憎聴いたことがないけど、いい声をしてるじゃないの。うちの局でDJのオーディションがあるのよ。受けてみない?」
「DJですか。僕はシンガー志望でして……」
「二十六歳ですって? その年齢でデビューもしてないんでしょ? 遅すぎるんじゃないかしら」
「そうですか」
「うちの局だったら私の顔もきくのよ。金子さん、将一さん、将一くん、どう? ゆっくり話さない?」
「話して下さい」
「野暮な男だね。こんなところでじゃなくよ」
 凄艶なる色気とは、彼女が漂わせる雰囲気に名づけるものなのだろうか。流し目にぞぞっとした。
「あなたの局での権限をもってして、世にも出られない哀れな無名のシンガーにお情けをちょうだいできるって寸法ですか」
「なによ、その言い方は。セクハラオヤジになった気分だわ」
「正しくはパワーハラスメントですね。女性から男性にしかける場合もそう言うんじゃありませんか」
「失礼なひとね」
「すみません。だけど、俺が女であなたが男だったら、その言葉は俺の口から出すにふさわしいんですよね。あなたにしっぽを振ってついていく男は、これまでにもいたんでしょうね。あなたは美しい方だ。あなたを抱いて仕事がもらえる。そりゃあもう、たいていの男は大喜びでしょう」
 強い目で見つめ返されて、彼女以上の強いまなざしを作ろうと努力しつつ言った。
「それとも、あなたについていくとなにやら……SMの女王さまの風情もお持ちですから……おっと、これ以上無礼な口はききたくないな。やめましょう、こんな話は」
「……気に入ったんだけどなぁ。可愛がってあげたいわ」
「俺は女性に可愛がられる趣味はありません。失礼しますよ」
「将一くんったら……」
「女性のプライドを傷つけたくありませんから、失礼します」
「そういうきっぱりしたところも好きよ。私の誘いにほいほい乗ってくる男はこっちからお断り。そうね、色っぽい話は抜きにして進めようか」
「は?」
 立ち上がっていた俺は、すわりなさい、と命令されてすわり直した。
「からかったんですか」
「ううん、あわよくば、って思ってた。あなたの言葉を借りて言うのなら、あなたが私にしっぽをふってついてきて、ベッドではごろごろにゃんこになったとしたら、それはそれでやりようもあるのよ。でも、ここからはビジネスライクにやりましょう。あなたはそんな男じゃないとわかったから」
「あれっぽっちの会話で? ためしたってわけですね。しかし、単なる強がりだとは……」
「強がりでもいいのよ、金子さん」
「はい、溝渕さん」
「ナナちゃんって呼んで」
「溝渕さん、ビジネスの話をお願いします」
 つまんないの、と呟いてから、彼女は語調を変えた。
「あなたは所属プロダクションが悪いのかもしれない。あなたの歌を聴いたことがないなんて嘘よ。歌のデモテープは聴かせてもらった。あなたの声も歌も一級品じゃないの。それにその性格ね」
「やはりテストでしたか」
「それもあったけど、あなたの望みがかなったとしたら、改めて口説かせてもらおうかなぁ、なんてね。あなたって私の好みそのものなの。もてるでしょ?」
「もてません。溝渕さん、あなたのその態度があなたの真実の姿ならば、いつか怪我をしますよ」
「怪我をしたら包帯を巻いてちょうだいね」
 仕事の話の合間に、セクシーな流し目で俺を見ては口説こうとする。なんとも疲れる女性ではあったのだが、彼女は俺に得がたい情報をもたらしてくれた。溝渕奈々子氏との出会いをきっかけに、俺の人生が好転しはじめたと言っても、決して過言ではなかったのだった。


「Gracias a la vida
 que me ha dado tanto
 me dio dos luceros
 que cuando los abro
 perfecto distingo
 lo negro del blanco
 y en el alto cielo su fondo estrellado
 y en las multitudes
 el hombre que yo amo」

 日本語に訳せば、「ありがとう命」。原題は「Gracias a la vida」。二十七歳にして遅ればせながらもプロデビューを果たした俺は、三瓶南と皆実聖司、ダブルミナミの結婚式でこの歌を歌い、ゲストたちの拍手を浴びて席に戻った。席には徳永もいる。彼はいまだ無名の身なのであるが、いつまでもこのままでいるはずがない。神は努力する者を見捨てないと、今では俺も信じられるようになっていた。そこにたったひとつ、なにかが、誰かが加われば。
「溝渕さんってのは、結局のところは金子さんに惚れてるんでしょうに」
「俺の歌に惚れ込んでくれてるんだよ」
「あいかわらず口説かれてるんですか」
「あれは彼女の挨拶がわりだ」
「余裕の発言ですね。溝渕か……名前がよくないとか?」
「溝部を思い出すからか。そういえば溝渕さんとの初対面の前にはエリちゃんが溝部の話を……」
「エリちゃん? 何人女がいるんですか」
「人聞きの悪い。その言い方だと俺は……」
「なんですか」
「エリちゃんってのは沢田愛理だよ。覚えてないのか」
「……沢田さん? ああ、沢田さんね。しかし、沢田さんも女でしょ」
「女ったってなあ……」
 徳永とぼそぼそ喋っていた俺に、司会者の声がかかった。
「金子さん、素晴らしいお歌をありがとうございました。ただ、歌詞の意味がみなさまにはわかりづらいかと……」
「そうですね。すこし説明させていただきましょうか」
 ヴィオレータ・パラは生前、チリの全土を巡りインディオの歌を採集するかたわら、伝統に根ざしたたくさんの新しい歌を生み出した。そんな彼女が書いた詞だ。俺は訳詩のワンフレーズを朗読した。

「ありがとういのち おまえがくれた
 ふたつの瞳がひらくときは
 見分けられる 黒と白を
 遥か空の彼方、星までも
 人ごみのなか あの人も」
 
 私事で恐縮ですが、と前置きして、俺は話した。
「ご存知の方もいらっしゃると思うんですけど、私は大学卒業と同時にプロデビューする予定でいました。妹とデュオを組んでプロになるという、洋々たる前途が開けていると信じて疑いもせず、卒業するまでは合唱部キャプテンの使命を全うしようとつとめておりました。反逆こそわが命と思い定めていた男も約一名、えー、そのあたりにいるんですが、それはそれとしまして、新郎の聖司くんにも多大なる協力を賜りまして、後輩たちの尽力もありまして、合唱部を運営してきました」
 前置きが長過ぎる、と言っているのは皆実で、南さんに目で叱られている。苦い顔をしている徳永に笑いかけてから、俺は続けた。
「私の心には合唱部と、自身の将来以外にはなにもありませんでした。そんなある日、妹が寝耳に水の爆弾発言をやらかしてくれまして、私の前途への希望は水泡と化しました。正直に言いますと、私の想いはひとすじの灯りすらない闇に閉ざされた。妹を恨みもしました。けれども、そんな妹も三児の母となり、福々しくも貫禄十分の主婦として幸せに暮らしています。この場にもいらっしゃる、彼女を知っている方がごらんになったらぎょぎょっとするような母と……はい、聖司くん、前置きはこのへんにしておきますね。ありがとう、命。妹がこの世に生み出した三つの命。いずれは南さんも生み出してくれる、まだ見ぬ命。南さんは子供がほしいとおっしゃってましたよね。小さく幼い者たちへの感謝と、彼らが私たちにもたらしてくれる希望の光、未来への見果てぬ夢。それらを歌に込めてお届けしました。私自身の……徳永、俺、ひょっとして俺自身のことばっかり言ってないか」
「ひょっとしなくてもそうですよ」
 ぼそっと徳永が言い、笑い声が起き、俺は頭をかきかき言った。
「まことに失礼つかまつりました。新人シンガーは我がことで頭がいっぱいでして、と言っていてはいけませんね。徳永は立て。皆実はそこにいていいから、もう一度歌おう。もと合唱部の連中も何人かいるだろ。歌おう。我々がここに集っているのは、合唱部のお導きだ」
 そばに来た徳永が言った。
「新郎新婦の出会いは合唱部ではありませんよ」
「いいや、どこかでつながってるんだ。「ありがとう命」は知らない者のほうが多いだろうから、別の歌にしようか。結婚式の定番ソングってのは?」
「フォレストシンガーズの「満開の薔薇」はどうですか」
「徳永、おまえがその名を……」
「いけませんか。この歌は将来、結婚式の定番ソングになると僕は確信していますがね。みんなも知ってるでしょ? みんなってのは合唱部の連中ですよ。知ってますよね?」
 披露宴会場のそこここにいる合唱部出身者たちがうなずいている。フォレストシンガーズは誰ひとりとして出席していないのだが、我々と世代の近い合唱部出身シンガーとしては、彼らがただ今のところは出世頭といっていい。俺も「満開の薔薇」は知っているのでうなずくと、徳永が言った。
「俺の永遠のライバルたる本橋真次郎作詞、乾隆也作曲。ただ今は彼らも有名ではありません。が、次第に頭角をあらわすでしょう。けれど、近いうちには金子さんが彼らを抜きます。そしてそのわずか後には、俺が全員を抜きます」
「おい、結婚式でその台詞は……」
「いいえ。その心意気で行くんですよ。歌いましょう」
「ああ、歌おうか」
 皆実までが新郎席で立ち上がり、拍手喝采が沸き起こった。

「僕のこの恋心を大輪の薔薇にして
 その薔薇を花束にしてきみに捧げよう
 受け取ってくれますか
 僕のこの想いを
 受け取ってくれますか
 永久に続くこの愛を」

 先ごろ発表されたばかりのフォレストシンガーズの新曲は、本橋のリードヴォーカルだ。お兄ちゃんの声と本橋さんの声は似てるね、とリリヤが言っていたが、キーも俺の声にぴたりと合う。もと合唱部の仲間たちがハーモニーをつけてくれて、混声大合唱となった。
 むろん俺にだってフォレストシンガーズにはライバル心があるのだが、徳永はまったく、永遠に彼らをライバルとして意識し続けるのだろう。彼らは徳永にとっての活力源なのかもしれないのだから、それもまたよしとしよう。こんなところで自分たちの歌が歌われているとは知らないであろう、本橋や乾の顔を想像しながら、俺は考えていた。
 まだ見ぬ誰かと俺が結婚式を挙げる日が来たなら、本家本元フォレストシンガーズがこの歌を歌ってくれるだろうか。それまでには必ず、俺も徳永もおまえたちを追い抜かしている……すっかり徳永に感化を受けてるな、と苦笑して、おまえもがんばれよ、と徳永に視線で言った。徳永も歌いながら、言われるまでもないよ、と読み取れる傲岸な表情を浮かべていた。これでこそ徳永渉なのだろう。まぎれもなく彼は彼なのだから。

E N D


 
 



 
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