novel

小説225(ないものねだり)

 ←小説224(シアトリカル) →番外編69(てのひらいっぱい)
imagesCALBKRNR.jpg

フォレストシンガーズストーリィ225

「ないものねだり」


1・幸生

 あたかも地獄の底から届いてくるような、低い低い陰鬱な声。ダイモスの連中でもいるのかと思ってしまったのだが、ここにはダイモスは来ていない。では、誰の声だ?
「酒巻さんに嫌われたって、別に僕は平気だよ」
 テツシの声に続いて聞こえてきたのが、先刻の地獄の住人声だった。
「そうだろうね。僕に嫌われたってきみはまったく痛痒は感じない。そうなんだろうけど……そうか。言ってろよ。後悔させてやるから」
 怒ってる? 酒巻國友が怒ってる? 前代未聞奇想天外、天変地異の前触れだーっ!! は大仰にすぎるであろうけれど、酒巻がこんな声を出して怒るとは、俺の記憶にはたしかなかったはず。
 俺の身近にいる男の中では、俺を省けば、シゲさんと乾さんと酒巻が怒らない男、ベスト3だ。乾さんは静かに怒りがくすぶるタイプなので、俺が気づかないふうに怒っている場合もあるだろうが、シゲさんと酒巻は本当にめったに怒らない。
 思い出そうとしても、酒巻が低い声で怒り台詞を呟いているシーンは記憶にない。シゲさんのほうは仕事仲間だから、酒巻よりも俺の近くにいる。接している時間も長い。それゆえもあってシゲさんが怒っているシーンは記憶にあるが、酒巻のはない。
 彼とて人間なのだから、俺のいないところで怒っていたりはするのだろうが、こんなふうには怒らないのではなかろうか。台詞も酒巻らしくなければ、続く態度も酒巻らしくなさすぎた。
「おまえはまた年上の相手に向かって、なんだ、その口のききようは!」
 若いころに先輩にこうやって叱られたのを思い出す、耳の痛いお小言とともに、テツシをひっぱたいたのは田野倉さんだった。
「痛いってばっ。うわうわうわっ、やだよっ!!」
 暴力的な恋人なのだそうで、テツシは田野倉さんにはしょっちゅうひっぱたかれているらしい。平手で顔や頭をぺしぺしっ、程度の叩き方だから、ひどくはない。息子のような年頃の同性の恋人に対する愛のムチってやつか。テツシもぎゃあぎゃあ騒いでいるわりには、叩かれたってけろっとしているのだから、俺は口出しはしない。乾さんも苦笑いしている。
 乾さんと俺は知っているのだから止めないにしたって、酒巻は今夜が田野倉さんとテツシとは初対面だ。平素の酒巻だったら、近くで誰かが誰かに叩かれていたりしたら、泣きそうになって止めるくせに、止めないってのは、こんな奴は叩かれたらいいんだ、の気分でいるのだろうか。
「だってさ、だって……うわうわっ、やめて」
 はじめて会ってから長らく、乾さんはテツシのフルネームを知らなかったのだと言う。このたび、彼と田野倉さんの関係やらなんやらが明るみに出て、それに伴って名前も知れた。真行寺哲司。かっこいい名前である。彼が生まれたときには、よもやこんな男に成長するとは思わずに、親が立派な名前をつけたのだろうに。
 名前と、編曲家であるとだけは俺も知っていた田野倉ケイさん。彼にしても本名ではないのかもしれないが、名前はどうでもいい。田野倉さんやテツシが噛んでいたちょっとした事件、と乾さんの言う事件があって、乾さんはテツシと親密になったらしい。俺は詳細を知らないので、おいおい解明していくつもりでいる。
 ニューヨークに留学している酒巻は、日本へ里帰りしてきていた。故郷の山形に帰って両親やじいちゃんばあちゃんや姉さん一家と会ってから、アメリカに戻る前に東京にも立ち寄って、俺に会いたいと電話をしてきた。うんうん、愛い奴じゃ、であった。
「ういういういの愛い奴の酒巻くん。明日はあとの三人は仕事があるんだけど、乾さんと俺は会えるよ。「フライドバタフライ」って知ってる? その店で飲もうぜ」
 蝶々の揚げ物? 変な名前の酒場で待ち合わせ、仕事を終えた乾さんと俺が入っていくと、酒巻は先に来ていた。三人で俺たちのFSの仕事の話やら、酒巻のニューヨークの話やらを肴に飲んでいると、田野倉さんとテツシが店に入ってきたのだった。
 そういうわけで鉢合わせした三人を引き合わせ、乾さんと田野倉さんと三人で仕事の話をしている隙に、テツシとクニの喧嘩がはじまっていたのか。こっちはこっちで会話に熱中していて気づかなかったのだが、哲司と國友がいつしか口論していたのだろう。
 シニカルというのか白けているというのか、俺は彼とは親しくもないのでよくは知らないが、そうも見える哲司が生意気な口でもきいて、酒巻を怒らせたのか。それしきで怒る奴でもないのだが。哲司は田野倉さんにおまかせしておいて、俺は酒巻のグラスにウィスキーを注ぎ足してやった。
「まあまあ、酒巻さん。そう怒らないでさ」
「怒ってはいないんですけど……いえ、怒ってます」
 酒には弱いくせして、酒巻はウィスキーをぐいっと飲んだ。一息で干さないのは自制が働いているという意味だろうから、逆上してはいないようだ。
「あいつ、なに言ったの? 田野倉さん、そうやって叩くのはお仕置きなんでしょうけど、そのくらいにしておいてやって下さいよ」
 まだ哲司がぺちぺち叩かれているので、俺はついに口出しした。哲司はほっぺたをぷーっとふくらませて、俺にも言った。
「ケイさんなんてなんにも知らなかったくせに、うるさいんだよ。痛いんだよ。叩かないでよっ。やだってばっ。もうっ、僕は……くそーっ!!」
 こっちのほうが逆上したのか、つかまえている田野倉さんの手に噛みついた哲司は、店から走り出ていってしまった。
「いや、すみません。まったくあいつは、俺の躾が行き届きませんで……」
「たしかに躾がよくないっていうか。二十歳にもなった男に躾をするなんて至難の技と言いますか。田野倉さんも大変ですよね。で、酒巻、あいつはなにを言ったんだ?」
 乾さんに問われて、酒巻はぶすっと応じた。
「言いたくありません」
「哲司の言いそうな台詞って、ゲイ関連かな? 俺はわりと平気だけど、酒巻は言われたくないんじゃない? 酒巻さんってちっちゃいし、受身でしょ、だとか言われて……」
 殺気を感じたのは、田野倉さんに睨まれていたからだった。
「後輩が相手だと言っても、三沢さんだって酒巻さんに失礼でしょうに。乾さん、あなたの後輩への躾もよくありませんね」
「俺は幸生に躾をしようなんて思ってませんよ。なんでしたら田野倉さんが叱ってやって下さい」
「俺は殴りますよ」
「こいつはこたえませんから、どうぞ」
 いやんいやん、ユキちゃんは女の子なんだから、叩かれるなんていやっ、と芝居をしてみたら、どうなるだろうか。俺が本当に女の子だったとしたら、乾さんは田野倉さんを止めてくれるであろうに、男なんだから叩かれたっていいって? ひどいわ。
「……ごめんなさい。クニちゃん、言いすぎたよ。ごめんな、怒ってる?」
「三沢さんのはジョークだと知ってますから、怒りませんけどね」
 すると、哲司はジョークではなく、このたぐいのことを言ったのか。田野倉さんはほっと息を吐いてから言った。
「酒巻さん、すみません。哲司も三沢さんくらい素直だったらいいのにな。三沢さん、趣味を変えませんか。哲司なんか捨てるから、俺のものになって下さいよ」
「……乾さん、乾さぁん」
 駄目。このジョークだけは耐え難い。田野倉さんにしてもふざけているのだろうが、本物のゲイのおじさんに口説かれると信憑性がありすぎて、ジョークで切り返せなくなる。俺は乾さんに身を寄せていき、乾さんが言ってくれた。
「こいつのハートは俺のものです。田野倉さんにお譲りするわけにはいきません。諦めて下さい」
「……わかりました。諦めます」
 当然、乾さんだってジョークなのだが、真顔でこんなことが言えるなんて、俺はやっぱり死ぬまで乾さんにはかなわない。田野倉さんもマジな顔して乗って、そのうち乾さんの芝居の相方が田野倉さんに代わってしまったりしないだろうか。ちょっと不安。


 あんな奴は放っておけばいいと田野倉さんは言ったのだが、俺は気になる。気になるからひとりで先に「フライドバタフライ」を出て、哲司を探して歩いていた。
 夜の盛り場には各種の人種が歩いている。道端ではイラストや手作りアクセサリーを売っているひともいて、ストリートミュージシャンもいる。ギターを弾いて歌っている女の子に話しかけている、うしろ姿は哲司だった。
 背丈は俺よりはやや高く、ほっそりひょろりの少年体型は俺以上。三十代の俺が少年体型なのは情けないのだが、哲司だったら少年と変わりない年頃だから、自然だ。
 最初に乾さんと知り合い、章とも知り合ったという哲司が、田野倉さんと男同士のカップルであると知っているのは、乾さんと章と俺だけか。シゲさんや本橋さんはゲイを忌避したがるだろうから、知らないかもしれないので言わないようにしている。
 ヒデさんもからんでるのかな? ヒデさんもゲイは嫌いかな? とも思うのだが、そのあたりは俺は知らない。ヒデさんにも今のところは、俺はなんにも言っていない。章も特にはなにも言わず、乾さんとだけはちらっとは話している。田野倉さんと哲司のカップルにもっとも関わっているのは乾さんだし、俺も関わりが深くなってきている。
 俺の場合は田野倉さんと仕事のつきあいができたからであって、そうこうしているうちにこのカップルを街で見かけて、ともに飲んだりもするようになったのだ。そうなっても俺は哲司って奴をよくは知らないのだが。
「うん、いいよ」
 ストーリートミュージシャンの女の子と話していた哲司は、彼女の隣にすわって彼女のギターを弾きはじめた。哲司はギタリスト志望で、その望みはかなわないのだと聞いている。哲司のギターはけっこう上手だったが、プロレベルではないのだろう。
「素敵だね。哲司、今夜はあたしの部屋に行く?」
「いいんだったらついていくよ」
「聴いてくれる人もいないし、帰ろうか」
「そうしよっか」
 この節操のなさ、このいい加減ぶり、これは章や俺よりもひどい。
 若いころには章や俺だって女の子と遊んでいたけれど、男にだけはなびかなかった。哲司は女も男も好きだというのだから、章や俺の節操のなさの二乗ってところだ。
 離れた場所から見ている俺には気づかず、哲司と女の子は立ち上がって歩き出した。痩せすぎ感はあるものの、細くて中背の女の子は美人だ。これは田野倉さんに対する裏切り行為ではないのか。俺は阻止するべきなのか。
「こいつには男の恋人がいるんですよ。そんな奴がいいんですか、お嬢さん? 俺は男には興味ありませんから、俺のほうがいいんじゃないんですか」
 うっかりよけいな台詞もつけ加えてしまったが、そんな言葉を発する俺を想像する。事実ではあるが哲司を誹謗する台詞になるのか。言ってはいけないのか。にわかには決めあぐねて、距離を置いてふたりのあとから歩いていった。
「哲司って美少年だよね。いくつ?」
「きみはどのくらいの年の男が好き?」
「私はちょっと年下がいいな」
「じゃあ、ちょっと年下になってあげるよ。お姉ちゃんって呼ぼうか」
「ミサキって呼んで」
「ミサキも美少女だよね」
 同い年くらいに見えるカップルの秘めやかな小声の会話は、耳のいい俺には聞こえていた。
「美人だとはいっつも言われるよ。でも、男ってミサキの上辺ばっかり見て、中身を見てくれないの。美人は得だなんて嘘だよね。内面を見てもらえないんだから損だよ。男の子はそうでもないの?」
「僕には内面なんてないもん。きみにはあるの? どんな内面? どうやったら見えるの?」
「つきあったら見えるんじゃない? ミサキは優しくて性格だっていいんだよ」
「美人は生まれたときから可愛がられるから、意外に性格はいいって言うよね」
「そうだよね。ブスのほうがひねくれてるよね」
「ミサキの内面はすっごくいいんだろうな。見せて。全部見せて」
 うふふと笑って哲司に寄り添うミサキちゃんは、哲司の台詞の上辺しか聞いていないと思える。俺だって哲司の内面なんて知らないのだから、そうと言い切る自信はないが、額面通りの台詞ではないはず。こいつはどこかクールというか、シニカルというか。
 麻田洋介なんかはまずこんな複雑なことは言わないから、哲司は洋介よりは頭がいいのか。単にひねくれ者なのか。
 とはいっても、徳永さんのように筋金入りではない。乾さんのように鋭利な刃物並の皮肉でもない。そこは若さゆえか、あるいは、皮肉と感じさせない程度の皮肉さを漂わせられるのは、乾さんや徳永さんを凌駕する歪んだ性格なのか。
 無意識で言っているのか、意識的に皮肉っているのか、そこも俺には読み取れない。哲司が歪んでいるのではなく、乾さんに薫陶された俺がうがちすぎているとも考えられる。
 こいつはガキだと侮ってはいけないのかもしれない。なかなかに複雑な奴なのか、もしくは、俺の考えすぎか。そうと思わせるとは、これはこれで、おぬし、やるな、である。俺はそうやって悩んでいたので、歩き続けるカップルに延々とついていっていた。
 人通りの多い繁華街だから、彼らは俺には気づいていない。美人だよね、美少年だよね、と褒め合ったり、音楽の話をしたりしている。哲司の言葉はシニカルにも聞こえ、ミサキのほうは素直に美少年ぶりにぽっとしているとも受け取れる。
 たどりついたのは高そうなマンションだ。ここでミサキがひとり暮らし? 親と同居しているのだったら男は連れてこないだろうに、と俺が考えていると、哲司も同じ疑問を口にした。
「すげえマンションじゃん。ミサキって男に囲われてるんじゃないの?」
「ちがうよ。ママと一緒に暮らしてるの。ママは会社の社長だから金持ちなんだけど、いつだって留守なんだ。今夜もいないから平気」
「そのママって他人なんじゃないの? ミサキ、実はレズ?」
「ちがうったら」
「僕はバイだよ。それでもいい?」
 自分で言った哲司をまじまじ凝視してから、ミサキはうなずいた。
「ゲイだったらできないんだろうけど、バイなんて面白いよね。私は男が好きな普通の女だから、バイとはつきあったことないな。久しぶりに男をお持ち帰りしたんだもの。楽しませてね」
「僕は受けだから、楽しませるのはそっちだよ」
「それでもいいよ。行こう」
「うん」
 建物の中にまでついていくわけにはいかないので、俺はミサキが覗いていたメールボックスで、彼女の部屋の番号だけを記憶しておいた。
「さてと、どうしよ?」
 ふたりはエレベータで高層フロアへと上っていった。繁華街に近い高級マンションの二十階。夜景が綺麗なのだろう。
 肉食女子なんて言葉もあるのだそうで、今どきの女性にはあんなのもいるのだろう。ママと同居が嘘だか本当だかは知らないが、彼女が好きでやっているのだから、俺には口出しする権利も意図もない。哲司も好きでやっているのか、田野倉さんと喧嘩をしたからの自棄行為なのか、問題はそこなのだ。
「放っておくしかないのかな」
 田野倉さんのメルアドや電話番号は知っているが、知らせる必要があるのだろうか。乾さんに知らせるべきなのか。マンションの二十階付近を見上げつつ考える。
 知らせたら田野倉さんは哲司を迎えにくるのか。哲司をひっぱたいて車に乗せて連れて帰るのか。哲司がそうしてほしいのならば連絡してやるけど、どうも男同士のカップルとなると、俺の想像力がついていけない。
 哲司が女の子なのならば、別の男とこんな真似をしようとしているのならば、田野倉さんに連絡する。それで哲司が田野倉さんに叩かれたとしても、愛がこもっているのだったら俺は止めない。女の子のてっちゃんを叱りつけてひっぱたいて泣かせて、抱きしめている田野倉さんを切なく見つめて、俺は黙って立ち去る。
 呼び出したのが乾さんだったらどうするだろ。乾さんだっててっちゃんを叱って、田野倉さんのところへ連れて帰るのか。てっちゃんが女の子だとして、彼女が田野倉さんを愛しているのならば、それが当たり前だと俺は思う。
 だが、哲司は男。男同士のカップルはちがうのか? 男は生来浮気者だから、ゲイのカップルは浮気も普通だと聞くし……偏見なのか? 誰か教えて。
 てっちゃんが女の子だったら、田野倉さんと別れるつもりでもなければ、あてつけに別の男と寝たりはしないはず。そうとも限らないのかもしれないけど、俺の感覚ではそうだ。男同士なんてややこしいから、俺は知らないよーっ、とほっぽって帰るべきか。
 ついてきてしまったのでそうもできず、おのれの好奇心とお節介心を呪いつつ、まずは乾さんのケータイにメールを送った。
「哲司は女の子にお持ち帰りされて、彼女のマンションに入っていきました。あとは乾さんに一任します」
 マンションの名前と部屋番号、おおまかな住所、それらを乾さんに送信する。俺には判断できないんだから、乾さん、よろしくね。


2・哲司

 朝になってミサキのマンションを出たら、ケイさんの車が待っていた。クラクションを鳴らされて乗り込むと、ケイさんは僕のほっぺたをびしっとやってから、無言で車を出した。
「……それだけ?」
「それだけだよ。ケイさんは僕の浮気になんか慣れちゃったんだろうね」
 僕だってケイさんに叩かれるのなんか慣れたから、浮気ごっこは刺激的ではなくなってきた。ふーん、そうなのかぁ、と感心しているような、呆れているような三沢さんに、僕は尋ねた。
「もっと楽しい遊びはないのかな」
「ふたりの恋のスパイス的遊びか。なんでそんなことがしたいんだ?」
「変化がないからだよ。僕には仕事もないし、結婚するわけにもいかないし、刺激がないと飽きるでしょ。なんだってじきに慣れるんだからさ」
 どうしてケイさんが知っていたのかは知らないが、あの夜は三沢さんと乾さんと、酒巻さんという男が酒場にいた。僕が酒巻さんを怒らせて、ケイさんを怒らせて、酒場を飛び出したあとで、誰かがついてきていたのかもしれない。
 そんなのどうでもいいので、ケイさんの車でケイさんのマンションに帰って、それから三日後、あの夜の「フライドバタフライ」に行くと、三沢さんも来ていた。
「田野倉さんとは仲直りしたのか」
 尋ねられて、あの日はこうだったんだよ、と話したら、三沢さんはあまり驚きもしなかった。ついてきていてケイさんに教えたのは、三沢さんだったのかもしれない。僕は三沢幸生という男をよくは知らないのだが、それにしてもらしくもなく考え込んでから、彼は言った。
「男にはサガもあるし、女の子さえOKしてくれたら寝るってのは、俺にもわかるんだよ。だけどさ、女の子はそうはしないほうがいいと……これって古いの? 女は捧げ、男は奪う。今どきはそうでもないと頭では知ってるんだけど、感情が拒否するんだ」
「女は捧げ、男は奪う? どうしてそうなるの? 男女が寝るのはフィフティフィフティなんじゃないの?」
「リスクは女性のほうが高いから……かな」
「ハイリスクハイリターンとかってやつね。女のほうが快感が大きいんだって?」
「そうらしいけど……いや、俺ってやっぱ偏見があるんだよな。哲司は特殊な男だからって目で見てしまう。気分悪い?」
「僕のセックスの趣味は特殊だよ」
 あやまりたいような顔をしている三沢さんも、けっこう特殊なのではないだろうか。
 中には知っているひともいたけれど、ケイさんと僕が恋人同士だと公言するようになったのは最近だ。ケイさんは前から言ってもいいと言っていて、自分の親しい人たちには話していたのだが、僕はあまり言いたくなくて、恋人がいるんだよ、と言っても、どっちつかずの言い方をしていた。
 木村さんにも「僕の彼女」なんて言ったけど、後になって彼は僕の「彼女」はおじさんなんだと気づいたはずだ。乾さんにはしっかり知られて、三沢さんにも知られているから、そのほうが話がしやすいのはまちがいない。
 だからこのごろは、僕はゲイだよ、と言ってみたり、僕はバイだよと言ってみたりする。あからさまに変態扱いされたり、馬鹿にされたり、気持ち悪がられたりがたいていなのに、こうやって気遣いの目を向ける三沢さんは変な奴だ。
「むずかしいんだよなぁ。こういう問題ってむずかしいよ。俺は面白みもなく変わり者でもない、普通の女好きだからさ……」
「普通でいいじゃん」
「いいんだけどね」
「だけどさ、セックスってのは女が与え、男がもらうものじゃないでしょ。だいたいからして、セックスを深く重く考えすぎるのが変なんだよ」
「それも人の価値観次第だよな。俺はおまえに、そんなことはなーい、とは言えないんだ」
「三沢さんも遊んでたんでしょ?」
「女とだけは」
 ま、それが普通だろう。僕だって普通の、プロになりたくてなれないただのギタリスト志望青年だけど、男も好き、ってところだけが変なのだ。
「ところで、おまえさ、酒巻になにを言ってあんなに怒らせたんだ?」
「なんであんなに怒ったのか、僕にはわかんないよ」
「酒巻はもうすこし、日本にいるって言ってたよ。どこかのクラブでDJやって、ニューヨークの話をするとも言ってた。時間が決定したらおまえも行くか? 酒巻とも仲直りしろよ」
「酒巻さんなんか僕には関係ないんだけどさ……」
 どれほど浮気をしてみても、僕の一番好きなひとはケイさん。二番目は乾さんだとしても、乾さんとは浮気はできない。三沢さんとは彼が了解してくれても肉体的浮気はしたくないが、嫌いではないから言ってみた。
「行ってもいいよ。あのさ、三沢さん? ケイさんに口説かれてない?」
「……なんて答えればいいの?」
「口説かれたんだ。で、揺らいだ?」
「だからさ、俺は男には揺らがないんだ。そういう趣味はまったくないんだ。でも、と言うべきか、だから、と言うべきか。田野倉さんにおまえから言っておいて。その目を俺に向けるのはやめて。ジョークにしたってそれだけはやめて。快感ではなく悪寒で、背筋が慄然とするんだよ」
「悪寒がやがて快感に変わる」
「変わらねえよっ。オカンはオトンにも変わらないんだ」
「……は? 寒いシャレ」
 男に興味のない男は、その趣味だけは一生変わらないのか? そうと決まってはいないはずだが、三沢さんのケイさんに対する気持ちは本音だと思える。三沢さんにゲイのケがあるんだったら困るけど、皆無なのだったら、ケイさんをそそのかしてもっと口説かせよう。楽しい遊びができた。


3・幸生

 主演・大城ジュン。相手役はカリコ・キリコ。変わった名前ではあるが美人女優だ。女性雑誌の「抱かれたい男」アンケートナンバーワンの座を維持しているジュンは、俺の「嫌いな男」ナンバーワンの座も維持している。
 嫌いとはいっても外見の話で、すこしだけ触れ合ったら中身は悪くないとも思えたのだが、長身超美形超脚長、低い声でぼそっと喋るのがセクシーだわっ、なんて女性に言われている人気俳優は、やっぱり嫌いだ。
 その嫌いな奴とキリコさんが共演する映画、「タブーNO.3」にはいくつかのパターンのポスターがある。オーソドックスなのはジュンとキリコの写真を使っているのだが、その中に妙なものがまぎれ込んでいる。
「あったよ、あれ、見たよ」
「どこどこ?」
「……あっちのあの……」
「本当にあるんだね」
 地下鉄の駅に降りていくエスカレータ近くに貼ってあるポスターの前で、OLらしき二名のお嬢さんたちが立ち話ししている。彼女たちが見ているのは、ジュンとキリコのポスターだ。美男美女が見つめ合う写真である。
 映画会社は都市伝説にしたがっているのか、それほどのものでもないと思えるのは、別バージョンポスターの主役があの方だからなのだが、俺もまだ見ていない。
 お嬢さんたちは急いでいるようで、エスカレータを降りていく。彼女たちが話しているのを聞きかじって、ポスターの在り処を知った俺は、そこへと行ってみた。老朽化して寂れたビルのショーウィンドーに、俺でさえも初に見るポスターがあった。
「うわ、でも、かっこいいじゃん」
 斜めを向いて煙草をくわえた男は、女を胸に抱きしめている。女は後姿なので顔は見えないのだが、細い肩やきゅっとくびれたウェストや、ドレスごしのムチムチのヒップラインは見える。ヒールを省けば推定身長百五十数センチ。俺はポスターの主役の男の身長を知っているのだから、女のほうも推測できる。俺の好みの小柄な女だ。
 実物よりもはるかにかっこよくて美貌に見えるのは、カメラマンの腕がいいからに他ならない。これで乾さんのファンが増えるだろうか。見るひとによっては、誰、これ? かもしれないが。
「かっこよすぎるじゃん。ちょい役の乾さんが、なんでポスターになってるの? 聞いてはいたけど、なんでなんで? ずるいよ。こんないい役やってさ」
 劇団ぽぽろのメンバーであり、メジャー人気も出てきているKCイッコウくんが、脇役で映画に出演している。そのイッコウくんから聞いたと、映画製作サイドから乾さんに依頼があった。
「主役カップルがデートする店でギターの弾き語りをするミュージシャンの役を、俺に演じてほしいって、先方さんは言うんだよ。役者だったら幸生にやらせましょうかって言ったんだけど、俺のほうがはまる役だって言われたんだ。おまえがやりたいだろ」
 やりたいのはやまやまなれど、俺は鷹揚に応じた。
「そのミュージシャンは背が高いって設定なんでしょ」
「そうなのかな」
「どうぞ、やりたいんだったらおやり下さい」
「ワンシーンの出演だから、なんとかなるだろうな。うん、やるよ」
 フォレストシンガーズではトップに映画出演を果たした乾さんは、あとから言っていた。
「まあ、映画はなんとかなったんだけど、変な依頼もされたんだよ。話題づくりのためなんだろうけど、俺が女性を抱きしめてるポスターってのが……ほんの数枚、街に出回るそうだから、運がいいか悪いかだったらおまえたちも見るかもな。見たら忘れろ」
「相手は女優さん? 誰なんですか」
 つんつんつくつんつっついても、乾さんは教えてくれなかった。
 それがこれなのだ。見たら俺は忘れない。写メを撮ってフォレストシンガーズ公式サイトにアップするか。独断でそうはできないのだとしたら、ヒデさんに送って彼の個人ブログにアップしてもらおうか。どうするのかはあとで考えることにして、写真は撮った。
 乾さんの役柄は映画の本筋とは深い関わりはないが、映画は普通の男女の出会いと恋と禁忌にまつわる顛末を描いている。ポスターの乾さんに悪態をついてみたり、美女の顔を想像したりしてから、その場を離れて歩き出し、俺は思い出していた。
「女のひとと知り合うと、そんなに簡単に恋になるものか。つきあってくれって告白して、つきあって別れて、また別の女と知り合って恋をする。どうしてそんなふうにできるんだ?」
 昔、シゲさんはそう言っていた。俺はそんなにたやすく恋はしないけれど、いいなと思った女の子と寝るだけだったら簡単だったものだ。
 出会って知り合った女の子を好きになったとしたら、俺の仲間たちはどう行動するだろう。歩きながら考える。シゲさんと本橋さんは既婚となっているけれど、未婚だと仮定して、現在の俺たちが恋をしたならば?
「好きだよ。俺とつきあって」
 章はストレートにそう言い、OKしてもらったらつきあって、深みにはまる前に逃げる。俺の恋の結末はふられてばっかりだ、と章は言うのだが、あいつのほうから逃げて終わった恋も多いはず。
「愛してる。きみがいないと俺のハートは空虚なんだ。つきあって下さい」
 乾さんはそう告白して、たぶん結婚に進むだろう。本橋さんだって恋には勇敢だから、押して押して押しまくって彼女を振り向かせ、だが、そのうちにはこうなる。
「やっぱ俺は女よりも仕事だ。あいつとは別れるしかないな」
 そんな本橋さんは、美江子さんが我々のマネージャーだからこそ、結婚できたのかもしれない。それから俺は、告白して女の子とつきあうまでは章と同じで、そのあとは適当にやって、適当に別れる。そこが章との性格の差だ。
 彼女が寝てくれるのならば、そこまでは簡単だけど、その先は簡単ではない。俺は結婚なんて、したくないのか、できっこないのか。
「……俺は彼女を好きなのかな。これは恋なのか? どうなんだろ」
 シゲさんだとそうやって悩み続け、手遅れになる。シゲさんは何度かそうして、女の子とつきあう前にふられていたようなもので、だから恋愛経験が乏しいのである。
「哲司は……俺、こだわりすぎ? だって、哲司は女とも男ともだろ。年齢制限とかもあるのかもしれないけど、全人類が許容範囲ってわけ? すげっ。いや、でもさ、俺はそうはなりたくないわけで……こだわりすぎだ。哲司、消えろ」
 ぶつぶつ呟きつつ、俺は夜の街を歩いていた。今夜は久しぶりにナンパしようかな、なんて思っても、もはやそれはできない身の上で、そしたら俺も映画でナンパ男を演じたいなぁ、などとも思う。セックスマシーンみたいな色豪なんてのもいいかも。似合わないか?
「乾さん、見ましたよ。あのポスター」
 暇だからメールをすると、返信があった。
「彼女が着てるほうか、着てないほうか」
 えーっ!? ヌードバージョンがあるの? 焦って電話をすると、乾さんが出てくれた。
「そうさ。彼女が裸なのもあるんだよ」
「聞いてませんが……」
「言わなかったかな。こうやってさ、こうやって俺が彼女のあのあたりを抱いて、軽く持ち上げてるんだ」
「あのあたりってどこ? こうやってってどうやって?」
 電話なのだから乾さんの仕草は見えない。
「乾さんはどこにいるんですか。自宅? 乾さんだったらポスターも持ってるんでしょ。見せて」
「もらってないよ」
「もらったらいいでしょうが。彼女はほんとにヌード?」
「一糸まとわぬ裸身だったな。あの感触……彼女はややふっくらしたひとだろ。若くて弾力もあってむっちりしたあの……」
「乾さんっ。見たいよぉ。そのポスター、見たいよ。どうしてもらわなかったんですか」
「どうしてかっていえば……」
 こっちは鼻血が出そうなのに、乾さんはのほほんと笑っていた。
「俺がいるんだからさ、彼女を抱いてるのが俺なんだから興ざめだろ」
「それはそうかもしれない。乾さんの顔を細工して俺に変えるってのは……」
「それも虚しくないか。あのな、幸生」
「はい」
「おまえの見た着衣の彼女のポスターはあるんだよ。証拠はあっただろ。でも、ヌードの彼女のポスターはないんだ」
「どうして? 風紀上とか倫理上とかの問題で、街には出回ってないんですか。だけど、撮ったんだったら現物はあるんでしょ。見たいよ。乾さん、もらってきてよ。それにさ、そんな経験って……ううう、羨ましいよぉ。それでそれで、あの女性は誰? 女優さんなんでしょ。誰?」
 俺も映画に出たいよぉ、とまで言いそうになっていると、乾さんはすいと肩透かしを食らわせた。
「そんなものはこの世にはないんだ。俺の作り話だから」
「……乾さんっ!!」
 わーはははの声を残して、電話が切れた。


4・國友

 日本では忘れ去られているのではないかとの懸念もあったのだが、一時帰国している僕をラジオ業界の方々は忘れずにいてくれた。
 DJはラジオばかりではなく、クラブにもいる。今夜の僕はクラブでのDJをつとめ、ニューヨーク最新ヒットチャートを賑わせているホットな曲と、僕のお喋りとでお客さまたちに楽しんでいただく。三沢さんも来てくれているはずだ。
「酒巻、なにをそんなに怒ってたんだ?」
 編曲家の田野倉さんと、三沢さんと乾さんと、田野倉さんとは特別な関係であるらしき美少年の哲司くんとで話していたのは、最近の三沢さんと乾さんがお気に入りだという店、「フライドバタフライ」だった。
 大人げなくも少年の言葉に僕は立腹し、彼と口争いになって、哲司くんは田野倉さんに叱られて店から飛び出していった。三沢さんは哲司くんを探しにいったのか、先に帰ってしまい、田野倉さんも帰ってから乾さんに訊かれた。
「いえ、なんでもないんです」
 そう答えはしたものの、なんでもなくはなかった。
 三沢さんに話したとしたら、やっぱりやっぱりやっぱりと、百回くらい言われそう。彼はみな子さんと僕の恋がはじまったときに、僕の耳元で幻の声を聞かせたのだから。近いうちにふられるんじゃないの? と。
「あれからつきあってはもらったんですけど、ふられました」
 進め、酒巻、と僕をみな子さんのほうに突き飛ばしてくれた、金子さんには打ち明けた。三沢さんたちに会う前に会って話すと、金子さんは言った。
「俺もプロポーズを受けてもらえないよ。男はつらいよな。飲め」
「はい」
 それがあったからだ。みな子さんにふられていなかったとしたら、哲司のようなガキの台詞で怒ったりはしない。彼はこう言ったのだった。
「酒巻さんって小さいね。男に抱かれたほうが似合いそう。僕はバイセクシャルなんだけど、酒巻さんも仲間入りする? 女が好き?」
「女性は好きだよ」
「だけどさ、酒巻さんじゃ男としては……つまんねぇの、とかって言われたことない? あるでしょ?
僕は男と寝ても女と寝ても受けだから、つまんないなんて言われないよ。酒巻さんもそうしたら? なんとなく元気なさげに見えるのは、彼女にふられた? ニューヨークに留学してるんだったら、アメリカ人のごっつい女に? それだったら酒巻さんだったら……」
 とんがらし、つまようじ、みたいなことを哲司は言って、にやにやしていた。
 みな子さんは日本人の小柄な女性だが、もしや……そうとはっきり言われたのではないが、ベッドではつまらなそうだった。そのせいでふられた? 僕は……と頭がもやもやのぐだぐだになって、噴火してしまったのだ。
 そうだとしても哲司くんに腹を立てるのはまちがっている。今では僕は反省しているのだから、三沢さんに哲司くんの電話番号を教えてもらって、お詫びを言おう。そのつもりで昨日、三沢さんにメールすると、こんな返信が届いた。
「おまえは大城ジュンって知ってるだろ。あいつが主演の「タブーNO.3」って映画も知ってる? 乾さんが出演してるのも知ってる? 街に乾さんがメインとなったポスターが貼られてるのも知ってる?」
 映画を知ってはいるが、そんなポスターは僕は見ていない。三沢さんが発見したポスターを撮影した写真が添えられていたが、暗くて見づらかった。
「俺も見たぞ」
 昨日、三沢さんのメールを読んでから、ヒデさんに電話をしてそれらについて喋ると、ヒデさんまでが言った。
「前に神戸で見たよ。あれっきりそのレアポスターってのは見てないけど、東京のと関西のとはちがうのかもな。幸生が撮ったって写真と、俺の見たのは別もんや。おまえが幸生に送ってもらった写真よりも、俺が見たやつのほうが刺激的やったで」
「裸なんですか」
「裸……ああ、うん」
 ためらいの色が感じられたが、ヒデさんは肯定した。
「そうやそうや。裸やった。女はうしろを向いてて、乾さんの両手が女のケツを包んで隠してて、その手がうらやましい……ちがうって。俺はケツよりおっぱいがいいんだよ」
「……あのね、そういう問題では……」
「おまえはどっちが好きだ、女の尻と胸とでは?」
 どっちも嫌いだ、とは言えないので、どっちも好きだと言っておいたのだが、普通はどっちかだぞ、とヒデさんはこだわっていた。
 なんだって女性のバストやヒップの話になるわけ? そりゃあ僕だって好きだけど、そんな話題は赤面してしまう。やわらかな灯りの中で、二度か三度は見た、みな子さんの裸身を思い出して切なくなる。ヒデさんがしようもない話しをするから、ふられました、とは言えなくなった。
 僕がニューヨークにいたころに、ヒデさんからメールをもらった。「ふられた」と書いてあって、どうやらその相手は瀬戸内泉水さんであるらしいとは知っているのだが、詳しい事情は聞いていない。ふられた男同士で話したかったのだが、近いうちには僕が神戸に行って話してこよう。電話でする話でもないだろうからもあってやめておいた。
 三沢さんとヒデさんのメールや電話のせいで、僕は変な夢を見た。顔の見えない美女が裸で、乾さんの隣にすわっている。乾さんは服を着ていて、彼女の素肌に触れたりもする。抱き上げて膝にすわらせたりもする。そのポーズでキスしたり、囁き交わしたりも笑い合ったりもしていて、ふたりの会話も聞こえてきた。
「おまえは酒巻ともこうしたのか」
「してないわよ。だって、酒巻さんだったら私を抱き上げるなんてできないし、私が膝に乗っかったら潰れちゃうんじゃないの?」
「あいつもあれでも男だぜ。潰れはしないだろ」
「そうかしら。じゃ、やってみようかな。酒巻さんはどこにいるの? この格好で行ってくる」
「やめろ、馬鹿。おまえは俺のものだろ」
「いやよ。行くの」
「行かせないよ。こら、行くな」
「ああん、いやーん」
 膝から飛び降りて逃げていこうとする女性を追いかけて、とらえた乾さんが彼女を肩に掬い上げる。綺麗な脚が宙を蹴り、乾さんが脅し文句を発した。
「酒巻をダシにして俺を妬かせようとしてるのか。そんないたずらっ子は……」
「きゃああ。いやーん、ごめんなさい」
「おや? 泣いてるのか? 可愛いね。よしよし」
 乾さんの声が甘やかになり、そのまんまで歩いていって、彼女をベッドに放り投げる。身を起こそうとする彼女に向かってダイビングした乾さんは、力強く彼女を抱きしめる。彼女は乾さんの強い腕の中で、僕を見つめる。僕を見て口が動きそうになって、僕は悲鳴を上げて目覚めた。
「……あの乾さん、ワイルドだったな。映画ではあんな役をしてたんだろか。それでさ、あの女のひとは……なんでだよ。乾さんとみな子さんが……う、ううっ」
 泣くまいと歯を食いしばって、僕は耐えた。ふられるのがはじめてでもないのに、こんなにも痛手だったのか。僕は子供返りしているみたいだ。だからこそ思う。子供のクニは思ってしまう。
 変な夢を見させる話をした、三沢さんもヒデさんも嫌いだ。僕の傷口に塩をすり込むような、哲司も大嫌いだ。あんな奴は僕の怒りのかわりに、田野倉さんにもっとこっぴどく叩かれればいい。それから、八つ当たりかもしれないけど、乾さんも嫌いだ。夢の中でみな子さんを……あんまりだよ。
 三沢さんのメールには続きがある。こう綴られてあったのだ。
「これはまあ、どうってこともないんだけど、すげえのがあるんだってよ。ポルノだぜ。乾さんと相手役の女優がヌードでからんでんの。極秘で発表会やるから、おまえも見にこいよ。詳細はクラブでおまえがDJをやる日にね」
 ヒデさんの話からしても、本当なのかもしれない。一時的に大嫌いな三沢さんに言いたい。いらないよ、そんなの、見たくないよ……拒絶し通せるかどうか、こころもとない僕なのであった。

 
 仕事はもちろんきちんとやったけれど、僕の心には小さな黒い雲やら大きな雨雲やらがあって、打ち上げになんか出たくない。そうも行かないので会場に行き、ハイテンションのふりをして愛想をふりまいていたら疲れ果てて、打ち上げの行われている店の外に出て立っていた。
「あれ? 酒巻? どうしたんだよ。立たされ坊主みたいに」
「……どなたでしたっけ……あ、香川くん?」
「覚えててくれたか。小さいけど大人って感じの男がいる。学生のころからそうだったよな。酒巻かな、って思ったら、やっぱりそうだったな。フォレストシンガーズのみなさんから、おまえの話は聞いてたよ」
 ラジオのDJは表に顔も出ないから、酒巻國友を知っている人はそうはいない。香川くんが知ってくれているのは、僕と大学が同じであり、彼がフォレストシンガーズの先輩たちと仕事をしているからなのだった。
 はじめて会ったのは僕が大学二年生のときだったか。同い年の香川くんは自主映画製作サークルに所属していた。彼らのサークルの映画に協力してほしいと頼まれて、なのに、協力しようとするたびに企画がぽしゃって、僕は泣いたこともあった。
「売れないミュージシャンの日常を撮りたくて、フォレストシンガーズに依頼したんだよ。おまえも関わってもいいぜ」
 大学四年生の年には、香川くんはそう言っていたのだが、またもやぽしゃるのもいやだったし、その気になれなくて断った。香川くんは本橋さんにお願いしたようだが、本橋さんもまた出演を断ったのであるらしく、僕がそんな話を知っているとも知られていないはずだ。
「うちの大学に自主映画製作サークルってあるだろ。おまえは知ってる?」
 一時帰国して会った三沢さんが、質問した。
「俺たちは十年ほど前に知って、そのときの話は実現しなかったんだけどさ」
「自主映画製作サークルがあったのは知ってますよ」
「へー、そうなんだ。じゃあさ、あいつ、おまえと同い年だろ。香川厚樹って知ってるか」
「えーと、名前くらいは知ってますが……」
 曖昧に答えると、三沢さんは言った。
「香川は自映研のキャプテンだったんだよな。そんで卒業して、アニメ映画のほうに進んだらしいよ」
 そこまでは知らなかったのだが、いささか畑違いだとはいえ、香川くんは本当に映画が好きだったのだ。三沢さんによると、香川くんにまたまた依頼されて、フォレストシンガーズが主役のアニメ映画というのが完成しているのだそうだ。
「見たい? 送ってやるよ」
 三沢さんが送ってくれたアニメ映画はまだ観ていないのだが、そんなふうにして香川くんはフォレストシンガーズと関わっている。
「今日はおまえのクラブDJは聞いてなかったんだ。今、来たばっかりだからさ」
「忙しいんだね」
「なにかと多忙だね」
 忙しいのが嬉しい様子の香川くんは、フォレストシンガーズの人たちは? と尋ねた。
「僕は会ってないな。三沢さんは来てくれてたはずだけど、打ち上げには出てくれてないのかもしれないよ」
「そっか。礼も言いたかったし、会いたかったんだけどな。あれ? あそこに乾さんがいるじゃん」
「ほんとだ」
 視界を横切っていった長身の人影は、乾隆也そのひとだった。彼のうしろから女の子が歩いていく。女の子が泣いているようだったので、香川くんと僕は物陰に潜んで耳をそば立てた。
「だからね、ごめんなさいってば」
「泣かなくてもいいんだよ。おまえは悪い子になったって、ちょっと叱られたらすぐに素直にできるんだから、俺は怒ってなんかいないんだから、泣かなくていいよ」
「でも、叱られたら泣いちゃうの。乾さん、抱っこ」
「ああ、おいで」
 ごくごく自然に乾さんが腕を広げ、ごくごく自然に女の子がその腕の中に入り込む。乾さんったら、あんなに若い女の子とそんな仲に? 僕はごくっと唾を飲んだ。
「寒くないか?」
「寒くはないの。乾さんに抱かれていたらあったかいわ。千鶴は……千鶴はね、お嫁さんになるんだったら乾さんの……」
「俺たちはそういう関係じゃないだろ。言っても無駄なことを言うのはやめなさい」
「どこかのお金持ちのどら息子と結婚させるために、品のいいお嬢さまになれるように、乾さんが躾けてくれるって……千鶴は乾さんの好みに合うように躾けられたいのよ」
「上流家庭のいい奥さまになれるように、そのうちのお父さまやお母さまの受けもいいお嬢さまになるように、俺は心を尽くしてるつもりだよ」
「そんなのっていやなの。乾さん好みの女に躾けて」
「そういう女は俺も好きだよ」
「そう……そうだったら……」
「時にはちょっぴり悪い子にもなるけど、叱られたら素直にごめんなさいを言える、おまえは可愛い子だよ」
「だったら千鶴を……」
「そうは行かないんだから、そういう駄々をこねるのはやめなさい」
「……はい」
 忍び泣く声。乾さんは千鶴と呼んだ女の子を抱き寄せる。
 なんなんだろ、このふたりの会話は? 微妙に現実離れしてるっていうか? どうして乾さんが千鶴さんを躾けるわけ? 乾さんだったらぐっと年下の女の子を彼女にしたら、一般常識や行儀作法を躾けるかもしれないが、それともちがうような。
「……なんか変だな」
 香川くんも言った。
「……芝居の練習か」
「乾さんは映画に出演……その練習?」
 映画の撮影は終わったと聞いているが、俳優乾隆也にとっての第二弾か。乾さんの映画出演が大好評を博したりしたら、ない話ではない。
「そうなのかな」
「そうなんじゃないのか? それにしてもあの女……誰だ?」
「香川くんは映画の世界に詳しいでしょ。僕は知らないよ」
「俺も知らないんだけど、若くていい女だよな。調べてみよう」
「あれ? 帰っちゃうの?」
「あの女を調べたいんだよ」
 ケータイで千鶴さんの写真を撮って、香川くんは帰っていってしまった。アニメ畑の住人とはいえ、香川くんには実写映画関係の知り合いもいるのだろう。
 むこうの木陰では、乾さんに抱かれた千鶴さんが泣いたり訴えたり、駄々をこねたりしている。現実離れしすぎているので、僕にも芝居の練習だとしか思えないが、ふたりともやけに決まっている。千鶴さんは乾さんの次回映画の共演者なのだろうか。
 歌っていても演技していても、乾さんはかっこいい。僕にはとうてい望むべくもないのに、乾さんにはむこうから女性が寄ってくる。千鶴さんは共演者なのだとしても、次から次へ、次々次々、乾さんは女性にもてている。
 神は、世間は、なんと不公平なのであろうか。ふられたばかりの僕はそうとしか思えなくて、もはや打ち上げ会場に戻っていく気にもなれない。乾さんたちの前にも出ていけないので、帰ろうっと、と呟いて、樹の根元を蹴飛ばした。


 酒巻國友のために集まってくれた方々を残して帰るのは心苦しかったのだが、ハイテンションのふりをする元気もなくなって、スタッフにだけ告げてホテルに帰った。
 三沢さんが送ってくれたアニメDVDを取り出す。パッケージにはフォレストシンガーズ五人を可愛いキャラにした男たちと、可愛い女の子がいる。この女の子は誰だろう? 架空キャラだろうか。乾さんの恋人? アニメでも乾さんはもてるんだろうな。
 DVDをテレビにセットする。アメリカに留学するときに僕の東京での住まいは引き払ったので、ホテルの一室のテレビだ。三沢さんや金子さんは泊まりにこいと言ってくれるので、そのうちには行こうか。ひとりぼっちは寂しすぎるから。
 フォレストシンガーズの「beautiful woman」に乗せて、キャラクターが動いているオープニングアニメがはじまる。パッケージとはちがって本編のキャラはリアルだ。
 長身筋肉質で渋い二枚目ふうの本橋さん、細身長身の爽やかな美青年、乾さん、中背筋肉質のたくましい美青年、シゲさん。小柄で細身の美少年ふう、三沢さん。どこかのアイドルみたいな可愛い可愛い小さな少年、木村さん。
 美化しすぎのようにも思えるが、登場すれば誰が誰かはわかるのだから、特徴はとらえてあるのだろう。ここに僕がまじっていたとしたら……なんて考えないでおこう。香川くんが僕を使うとしたら……とも考えたくない。
 女の子は誰なのかと気になっていたら、正体が判明した。彼女はフォレストシンガーズのマネージャーだ。身長はシゲさんくらいあって、ハイヒールを履いた脚が素晴らしく長い。綺麗な綺麗な脚をした、千鶴さんくらいの年齢に見える彼女の名は、田山ルイ。
 リーダーの妻、有能な大人の女性、実在のマネージャーだとまずいのか? 美江子さんが拒否したのか。僕はアニメの内情をまったく知らないので謎なのだが、フォレストシンガーズサイドの検閲も受けて完成したのだろうから、問題はないはずだ。
 本物とはややちがうとはいえ、僕もたびたびお邪魔したフォレストシンガーズの練習用スタジオから、アニメがはじまる。実年齢よりも若い設定なのか、章と幸生が新人マネージャーのルイにいたずらをして、真次郎に叱られているシーンは微笑ましかった。
 章と幸生のいたずらに怒っていたルイは、本橋さん、あとはよろしくねっ、と言い捨ててぷんぷんしたままスタジオから出ていく。怒りのあまり早足になっていた彼女は、バナナの皮を踏んですっころぷ。ベタすぎて、僕は目を覆いたくなった。
「やったぁ!!」
「見えた」
「うん。ピンクのビキニ」
 二段構えのいたずらだったのか。大成功だと喜んでいる幸生の頭には、シゲさんのげんこつがごつん。章のほうには本橋さんのげんこつがごつん。乾さんはルイさんを抱き起こして詫びるのだった。
「ごめんなさい。こいつらには重々言い聞かせておきます。二度としないように、みっちり拳骨で叱っておきます。始末書を書かせてもいい。許して下さい。マネージャーをやめるなんて言わないで」
「仕事なんだから、辞めるなんて言いません。だけど、今度やったら……」
「どう」
「なるの?」
 幸生と章が同時に質問を発し、ルイはにやりと凄みのある笑みを浮かべて背中を向けた。
「強そうなマネージャーだな。これだったら山田美江子さんのまんまでも……年齢的なもの? ルイさんがこけてスカートの中が……あのシーン、美江子さんだったらみんなが怒るからかな。そうだよね。年齢的な制約じゃないよね? 美江子さん、失礼な考えを持ってすみません」
 ひとりごとで美江子さんにもあやまっておいて、続きを見た。
 コメディになっているので、ひとつひとつのエピソードは他愛なく楽しい。随所にルイさんのお色気シーンが挿入されているのだから、そりゃあ山田美江子さんにこの役をやらせるわけにはいかないだろう。アニメとはいえ、美江子さんも本橋さんも怒る。乾さんも怒る。シゲさんも怒る。
 もしかしたら三沢さんと木村さんは喜ぶかもしれないが、僕だって怒る。香川くんに抗議したくなる。だからマネージャーは山田美江子ではなく、田山ルイなのだろう。
 ある日、フォレストシンガーズにちょっとした危機が訪れ、彼らは力を合わせてそこから脱出する。ルイも彼らに多大なる協力をし、危機を乗り越えたあとで、乾さんがルイと会話をするのだ。あ、あ、僕の予想通りの展開。
「ありがとう。あなたのおかげで俺たちは……」
「私のおかげじゃないでしょ。乾さんの機転や行動力のおかげよ」
「俺はなんにもしてないよ」
「今までだってそうだったよね。ことあるごとに乾さんはそうで……なのに、俺はなんにもしてないって言うの。私はそういう男性が好き。私なんて子供っぽいと思われてるかもしれないけど、だからこそもあるのかな。乾さんのような大人で行動力があって、頭脳明晰度胸も満点の……」
「俺ではなくあなたのおかげだよ」
「ううん」
 見つめ合うふたり。ここでアニメの第一巻完結。続きは製作中なのか製作もしていないのか、僕は知らないのだが、見たいような見たくないような。
 アニメでもやっぱり乾さんはもてている。本橋さんとシゲさんには奥さんがいて、三沢さんと木村さんは性格設定が子供寄りであるようだから、この役は乾さん以外にはいないのだろう。フォレストシンガーズの先輩たちは、どんな気持ちでこのアニメを見ていたのだろうか。
「ま、こんなもんだろ」
「乾さんですよね、やっぱりね」
 本橋さんとシゲさんはそう言ってうなずくだろうが、木村さんと三沢さんは、きーっ、悔しいっ!! とあのハイトーンで叫んでいたのではないだろうか。
 ハイトーンの声は僕には出ないけど、出せるものだったら叫びたい。僕も乾さんみたいに生まれてきたかったよぉ。背が高くて、女性と向き合ってもなんら臆するところもなくて、もてもてで歌が上手で、年下の人にこぞって慕われる。
 中には乾隆也なんか大嫌い、と言うひともいるのだそうだが、乾さんの気持ちでは、俺を嫌う奴は嫌えばいいさ、であるらしい。僕にはそんな達観もないのだから、あんな性格に生まれたかった。
 とはいえ、どんな外見であれどんな性格であれ、人にはその人なりの悩みもあるのだろう。僕は乾隆也ではなく酒巻國友なのだから、誰かみたいになりたいなんて、言っても無駄なことは言わない。千鶴さんが乾さんに言い聞かされていたのを思い出す。
 そういえば、今夜は三沢さんには会わなかった。乾さんはこっちからは見たけれど、話しかけなかったから、三沢さんの言っていた、シークレットな映画のポスターの発表会については、話をしなかったのだ。
 ヌードの乾さんと女優さんがからみあう、ポルノっぽいポスター……僕だって男だから、妄想がたくましくなる。見たい……見たくない……花占いでもやって決めてもらおうか。

END





スポンサーサイト


  • 【小説224(シアトリカル)】へ
  • 【番外編69(てのひらいっぱい)】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

おはようございます。
教えていただいたので、そのまま読ませていただきました。

うーん今回も面白かったです。
乾さんの映画のことも気になるし、千鶴ちゃんとの会話も気になるし・・・。

もう少し先を読めば、千鶴ちゃんと乾さんの事ももっと出てくるのでしょうか。

アニメは目に浮かぶようで楽しかったです。
また読みに来ますね。

美月さん、ありがとうございます

この先しばらくは、映画と千鶴にまつわるストーリィになっております。

彼らの周辺でやきもきしたり、馬鹿じゃないの? と言いながらも気にしていたり、そんな人たちを書いたものです。

美月さんの「ライムの香り」のキャラたちと、千鶴は同じくらいの年ですね。
「ライムの香り」も楽しみにしてみますよ~
管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【小説224(シアトリカル)】へ
  • 【番外編69(てのひらいっぱい)】へ