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小説222(いつまでもいつまでも)

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フォレストシンガーズストーリィ222

「いつまでもいつまでも」


1・美江子

 みんな人の子なのだから、病気にだって罹る。とはいうものの、プロのシンガーズはそんなふうに構えていてはいけないのである。集団食中毒によるライヴ中止に伴っては、関係者各位に連絡をしまくる必要があって、社長も私もてんてこまいを余儀なくされた。
 これはマネージャーの職務のひとつなのだから、声が嗄れるほどに説明やお詫びをしまくって、ひとまず任務が終了すると、社長とふたり、事務所のデスクに突っ伏した。社長と私に協力してくれていた事務所のスタッフたちの中の、玲奈ちゃんが言った。
「飛行機のチケットが取れました。美江子さんは現地に行かれるんでしょ?」
「今からだったら間に合うよね? 行きます。社長、行ってきまーす」
「おう、山田、よろしくな」
 マネージャー以上にお疲れの社長に、はいっと返事をして事務所から飛び出した。
 ここからは電車やモノレールや飛行機だから、身体は暇で考え事もできる。病気かぁ、学生時代から頑丈だったとはいえ、本橋くんも乾くんも時には病気になったよね。シゲ、ヒデ、幸生、章とは学生のころはそんなに親しくはなかったので、私が彼らの病気に関わったことはないが、本橋くんや乾くんだったらある。
 その前に思い出したのは、大学一年生の初夏から冬まで恋人だった星さんだ。私はひとり暮らしだったので、星さんも私の身辺には気を使ってくれていた。
「美江子、熱っぽくないか? 風邪か」
 デートしていて道を歩いていて、私は星さんにもたれかかった。なんだか身体がだるくて、普段ほどには喋らなくなっていたせいで、星さんが私のおでこに手を当てたのだった。
「今夜は寒いもんな。帰るか」
「私は平気だけど……タクシーなんてもったいないよ」
「早く帰らなくちゃ。たまにはいいさ」
 タクシーを止めて私を先に乗せ、星さんも乗ってきて、私のアパートの場所を告げた。後部座席に並んですわって、星さんが私を抱きしめてくれる。身体のけだるさはあるけれど、こうしているといい気持ち。なのに、運転手が言ったのだった。
「その女の子、変な病気じゃないんだろうね」
「風邪じゃないかと思うんですけど、ああ、ここで止めて下さい。薬を買ってきますよ」
 ドラッグストアの前でタクシーに止まってもらって、星さんが降りていくと、中年男性の運転手は露骨に迷惑そうに言った。
「病原菌をふりまかないでね。咳をするなよ」
「……ごめんなさい。だって、咳が出る……」
 咳き込みながらもあやまると、運転手は窓を開けた。
「咳が風邪のばい菌を振りまくんでしょうが。マスクをしなさいよ」
「星さんが買ってきて……」
「彼はあんたの彼氏? 学生じゃないの? ふしだらな……」
 元気なときだったら食ってかかっていたかもしれないが、気力がなくて黙っている私に、運転手が浴びせかけた。
「あんたの親は知ってるのかね、娘がこんなふしだらな真似をしてるって。アパート暮らしってことはひとり暮らしだろ? 女の子をひとり暮らしなんかさせておくからこうなるんだよ。あんたが俺の娘だったら……いやだって言ったって連れて帰るよ。女の子は東京の大学になんか行かなくてもいいんだから、地元の短大にでも行ってさっさと嫁にいけばいいんだ。あんたのくにはどこ?」
「おじさんには関係ないでしょ」
 腹が立ってきたので反抗したときに、星さんが車に戻ってきた。
「お待たせしました。出して下さい。美江子、なにか怒ってたのか?」
「私にだったら言いたいことを言ってくれたけど、星さんが来ると言えないの? 女だからって……悔しいよ」
「おい、美江子……」
 聞いていなかった星さんは事情を知らず、運転手も知らん顔をして車を出したものの、私は悔しくて泣いていた。
 風邪気味で弱気になっていたところへ持ってきて、親まで持ち出してピントはずれのお説教をされて、女、女と言われて、悔しさと屈辱感で泣けてきて、どうした、どうした、美江子、どうした、と心配している星さんには、返事もせずに黙って泣いていた。
「運転手さんがなにか言ったんですか」
「いや、別に……」
「いいの、いいから」
 喧嘩なんかしないで、と顔を上げると、星さんは私をぎゅーっと抱きしめた。
「こうして泣いてろ。泣きたかったら泣いていいんだから、俺に抱きついてろ」
「臆面もなく……」
 言いかけた運転手の背中に、星さんが冷然と言葉を投げた。
「俺たちにはおかまいなく。彼女が寒いので窓を閉めて下さい」
「……」
 アパートにたどりつくと、大丈夫だから、と抵抗しても聞いてくれずに、星さんは私を抱えて歩き出した。部屋に入って私を畳に下ろし、布団を敷いて寝かせてくれた。熱さましシートやら風邪薬やらを買ってきてくれていて、スポーツドリンクを飲ませてくれた。
「腹は減ってないだろうけど、朝になったら食欲が出るかな。レトルトのお粥を買ってきたよ。これで熱は下がるだろうけど、ひとりで大丈夫かな」
「大丈夫じゃない。泊まっていって」
「いいのか」
「星さんがいやじゃなかったら泊まっていって」
「うん、じゃあ、俺も寝よう」
「うつるよ」
「俺がおまえの風邪をもらってやるよ」
 冷え込みが厳しくなってきた秋の夜、星さんは服を脱いで私の布団に入ってきて抱きしめてくれた。タクシーでなにを言われた? と尋ねられたけれど、そんなことはもうどうでもよくなって、私はちっちゃな女の子に戻って、大好きなひとの腕の中で甘えていた。
 大好きなひとの看病と愛と、若さがじきに私を回復させてくれて、翌朝は熱も下がってけろりとしていたから、医者には行かなかった。ふしだらだと言われても、親の顔が見たいと言われても、学生のくせにと言われても、私にとってはあのころは、世界でいちばん好きなひとは星さんだった。
 そんな星さんとは間もなく別れてしまって、二年生になったころには、乾くんが三日間、学校に出てこないときがあった。乾くんもひとり暮らしだったので、本橋くんとふたりして、乾くんの部屋を尋ねていった。
「おーい、乾、開けろ。死んでないかっ」
「本橋くん、縁起でもないことを言わないでよ」
 アパートのドアの前で、交互に呼びかけるとドアが開き、よれっのぼさっの無精ひげの、十九歳の青年が出てきた。
「おしゃれな乾くんのこんな姿……美江子、ショックかも」
「おまえがショックを受けたってどうってこともねえだろ。乾、どうしたんだよ」
「まあ、入れよ」
 力ない声に促されて中に入る。ほんとに死んじゃうんじゃないの? と不安になるほど、幽霊みたいな乾くんがお茶を淹れてくれようとするのを、本橋くんが遮った。
「お茶なんかいらねえんだよ。どうしたんだよ。話さないと殴るぞ」
「本橋くん、病人を殴るとはなんなのよ。あんたってそれでも文明人?」
「山田は黙ってろ。乾、話せよ」
「いや、あのさ……ミエちゃんは聞かないで。本橋、耳を貸せ」
 ふむふむふむと深刻な顔をして聞いていた本橋くんは、途中で笑い出して乾くんの頭を叩いた。
「本橋くんったら、病人を叩いたら駄目でしょっ」
「病人じゃないんだよ。怪我人ったらそうかもしれないけど、頭を殴ったってなんの影響もない場所を骨折してるんだよな」
「骨折ってほどでもないというか、もっとも軽微な骨折だろ。家庭の医学百科で調べたら、治療の必要もない、治療の方法もないってんで、医者にも行ってないんだよ。にしても歩きづらくて、二日ほどは寝ていた。だからメシもろくに食ってなくて、痩せただろ、俺。本橋、どこを骨折したか言うなよ」
 深刻な表情がにやにや笑いに変化している本橋くんを見て、私は乾くんに尋ねた。
「なにが原因?」
「アパートの階段から落ちたんだ」
「それで軽微な骨折、言いたくない場所。しっぽの名残り?」
「ミエちゃんには参るよ」
 参ったよぉ、と言いながら畳に伸びた乾くんは、いていていてっ、と叫んで身体を反転させた。
「肩甲骨は翼の名残、尾てい骨はしっぽの名残? そうなのね。乾くん、かわいそうに」
「かわいそうはかわいそうだけど、笑い事でもあるみたいだな。なんとか歩けるようにはなったから、銀行とスーパーに行こうと思ってたんだ。金を下ろして買い物しないとメシも食えないんだよ。ケツの痛みと空腹で目が回る……ああ、大げさでごめん」
「いいから、乾くんはすわってなさい。お金は貸してあげるし、買い物もしてきてあげるよ」
「ミエちゃんが女神さまに見えるよ。ありがとう」
「私にまかせなさい」
 こんなときこそ友達甲斐を発揮しなくてはならない。買い物にいこうと部屋を出る私の背中に、本橋くんの声が聞こえてきた。
「どんなふうになってるんだ? 見てやろうか」
「見られたくないよ」
「ズボンをずらしたらいいんじゃないか。俺もおまえのケツなんか見たくねえけど、蒙古班もたしかめてやろうか」
「蒙古班ってことは、ずらしたら下ろそうって魂胆だろ。いやだよっ」
 そんなものは私も見たくないからね、やるんだったら私の留守にやってね、と呟いて、買い物に行って戻ってきて料理して、三人で食べた。
 病人ではないのに絶食に近い状況で、飢餓状態だった乾くんはいつになくよく食べ、そのせいでおなかをこわしたそうで、後日になって本橋くんに笑われていた。この件はご内聞に、と乾くんに哀願されたので、本橋くんと乾くんと私だけの秘密だ。
 それ以外にも乾くんはたまにおなかをこわし、本橋くんも私も風邪を引いたりはしていた。本橋くんは大学四年生の夏までは親元にいたので、風邪を引けばお母さまに看病してもらっていたのだろう。彼がひとり暮らしになって、フォレストシンガーズのデビューが決まった日に、本橋くんが高熱を出して倒れた。
 あの日の私は怒ってばかりいた。星さんのように優しく看病はしてあげられなかった。
 今回だって夫である本橋真次郎や、他三名の大切な仲間たちが食中毒に罹り、スタッフたちも倒れたというのに、私は遠い場所にいて役に立たなかった。シゲくんだけが無事でいてくれて、不幸中の幸いだったのだろう。ひとりで後始末に奔走してくれたシゲくんに感謝しなくては。
「真次郎は大丈夫なんですか」
 飛行機が羽田を飛び立ってから、携帯電話をオンにすると、本橋巴さんからメールが届いていた。本橋くんの母、私の義母だ。
「他の方も大丈夫? ニュースで見ましたよ。食中毒ってどの程度だったのか、私にはわからなくて……あいつは食中毒で死ぬタマじゃない、ってお父さんは言うけど、気になってたまらないのでしょうね。美江子さんに聞けって言いたそうだったから」
「私はこれから病院に向かいます。真次郎さんは回復しつつあるそうですし、他のみんなも重篤な症状ではありませんから、ご心配なさらないで下さいね」
 もっとも症状が重かった章くんにしても、すでに元気になりかけていると言う。シゲくんからも玲奈ちゃんからもメールが届いて、私はひと安心していた。真次郎に会ったら怒る前に、大変だったね、とねぎらってあげよう。


2・龍

 腹は昔から弱かったのだと、母が兄については言っていた。
「医者は嫌いだし注射っていうと泣くし、そのくせすぐにおなかをこわすし、章は育てにくい子だったよ。次男のあんたのほうがずっと楽だったよ」
 なのだそうだから、俺のほうが兄貴よりは親孝行なのだ。一年で大学を中退してロックバンドに走った兄貴と較べて、俺は大学三年生になっても学生を続けているのだから、一浪したのは帳消しになったはず。
 そんな兄貴のいるフォレストシンガーズが、ライヴのために訪れていた四国の市で集団食中毒。なぜか中毒にならなかったシゲさんがメールで知らせてくれて、俺は一瞬、兄貴が死んだのかと思った。
「だって、あいつは腹がめっちゃ弱いんだもん。食中毒なんかになったら死ぬかもしれないだろ。死ぬほどじゃなかったらしいな。ま、よかったんじゃねえの」
 フォレストシンガーズの身内というと、本橋さんには奥さんの美江子さん、彼女はフォレストシンガーズのマネージャーでもあるから、報告はトップに行く。シゲさんは中毒していないそうだから、奥さんの恭子さんには自分で連絡する。
 乾さんや幸生さんの家族にまで連絡がなされたのかどうかは知らないが、俺にもシゲさんからメールが届き、幸生さんのいとこの雄心にも届いたのだそうだ。俺のアパートにやってきた雄心に、俺は言った。
「シゲさんのメールって要領がよくねえんだよ。俺はフォレストシンガーズの事務所に確認して、スタッフの誰かと話して、そうたいしたことはないって聞いたんだぜ」
「そうなのか。俺は龍だったら詳しく知ってるだろうと思って、来てみたんだよ」
 それほど売れてはいないけど、まったくの無名でもないフォレストシンガーズだから、食中毒のニュースは東京でも流れていた。母が心配するに決まっているので、先に電話をして、大丈夫だよ、と言っておいた。
「俺らには別にすることはねえよな。死んだんだったら葬式に出なくちゃいけないんだろうけど、そのうち退院して帰ってきたら、死ななくてよかったな、って言いにいこうぜ」
「龍の台詞ってブラックだな」
 じゃあ、まあ、学校に行こうか、と雄心とふたりして登校すると、合唱部室もその話題で持ちきりだった。
「ニュースによってはオーバーだったりするのもあるみたいだけど、ひどくはないんだって。一番ひどかったのがうちの兄貴で、シゲさんなんかはなんともないんだそうだよ。フォレストシンガーズの公式サイトにシゲさんがブログを書いたみたいだから、気になるひとは読んでね」
 合唱部のみんなにも報告しておいて、講義は受けずに学校から出ていく。雄心も勉強するつもりもないようで、俺についてきた。
「龍、就職はどうするんだ?」
「うわーお、就職の話しなんかするなっ!!」
「したくはないけどさ……」
 大学生活は一年半も残っているのに、なんだって三年生の秋から就職のことを考えなくてはならないんだろう。俺は一浪、学部は寄生虫、就職したい職種があるわけでもないし、こんな劣等学生を企業がほしがるわけはないじゃないか。
 現役入学で社会学部と、俺よりはよほど就職に有利な立場である雄心も、就活もろくにやってない様子だ。雄心はメディア学科だから、テレビか新聞か雑誌社志望なのだろうか。そういうのって学業成績優秀な学生でないと無理だろうから、雄心には無理な気もする。
 兄貴は俺の年頃には、ロックバンドをやっていたのか。いや、二十一歳ならばフォレストシンガーズに参加していたか。フォレストシンガーズのみんなは俺の年頃には、プロのシンガーズになろうと努力していた。俺はのんべんだらりとしているだけ。
 いつまでものんべんだらりってわけにはいかないのだろうけど、別になにもしたくないな。フォレストシンガーズの木村章の弟、というちっぽけなネームバリューにしがみついて、できるなにかはないだろうか。
 そうと言ってみたら、兄貴にも乾さんにも殴られるだろう。本橋さんもシゲさんも幸生さんも加わって、ぼっかんぼっかん殴られて、食中毒よりもひどい目に遭うかもしれない。だから言えないけど、楽して暮らせる方法は……ない?
「人生を甘く見るな」
 その昔、兄貴も叱られたのだというように、乾さんの峻烈な声に叱りつけられる想像もしつつ、雄心と歩いて繁華街のほうに来た。
「雄心、飲もうぜ」
「章さんや幸生さんが苦しがってるのに?」
「それとこれとは別だろ。俺らまで禁欲しなくてもいいじゃん」
「そうなのかな」
 ためらっている雄心と入っていったのは、女の子の客の多いこじゃれた飲み屋だ。俺は結局、好きだと思っているばかりで島田弓子さんには告白もできず、雄心にも彼女はできず、ナンパなんてのは流行らないにしても、あわよくば、と思ってはいた。
 その前に、雄心に相談してみよう。雄心の家はけっこう金持ちだし、俺も一大決心をしたら兄貴が金を貸してくれるかもしれない。甘いのは承知の上で、雄心に話した。
「考えてたんだけど、俺たちにはちっこい武器があるだろ。おまえはフォレストシンガーズの三沢幸生のいとこ、俺は木村章の弟だ。それを使って仕事をしようぜ」
「そんなので仕事ができるのか。芸能界か? 龍だったら歌は下手でも、バラエティだとかのタレントにだったらなれそうだよな」
「バラエティタレント?」
 ではなくて、俺は店でもやろうと言いたかった。音楽関係でも飲食関係でもファッション関係でもいいから、フォレストシンガーズを知っているひとにアピールするような店を、雄心とともに開いたらどうだろ、と相談したかったのだ。
 フォレストシンガーズの三沢と木村の身内の店。興味を持ってくれる人もいそうではないか。しかし、バラエティタレントのほうがいいかもしれない。そっちのほうが兄貴のコネが使える。オフィス・ヤマザキは俺を雇ってくれるかもしれない。
「おし、じゃあ、オフィス・ヤマザキに行こう」
「ええ? 龍、どうするつもりだよ?」
「俺はオフィス・ヤマザキに所属して、歌えてバラエティもやれるタレントになるんだ。オフィス・ヤマザキは音楽事務所だから、歌わないと駄目なんだろ」
「それ以前に、いきなり行ったって……」
「俺は木村章の弟だよ」
「ったってさ……俺はどうするんだよ」
「おまえは俺のマネージャーでいいじゃん。行こうぜ」
「んな馬鹿な……」
 大声で雄心と話していたせいか、ふふふんと鼻で笑って俺たちを見ている女がいた。小柄な美人……冷酷そうな女……どこかで見た顔だが思い出せずにいると、そいつが俺たちのテーブルに移ってきた。
「オフィス・ヤマザキって、そんなところにいきなり行ったって、いくら木村章の弟だって雇ってもらえないよ。それより、ホントに木村章の弟? 彼は三沢幸生のいとこ?」
 そうだよ、とふたりしてうなずくと、女は声をひそめた。
「静かにしてね。あたしはミルキーウェイ」
「……それが名前? 誰だっけ」
 言った雄心は鼻をその女に横殴りされ、俺は言った。
「思い出したよ。歌手の?」
「そうだよ。若いくせしてあたしを知らないとは、三沢雄心、あやまれ」
「はい、ごめんなさい」
 ぶすっとしつつも詫びた雄心と俺に、ミルキーウェイは言った。
「タレントになりたいんだったら、あたしがどうにかしてあげようか。龍ってなかなかイケメンじゃん。雄心はマネージャーでいいんだね。あたしだってシンガーなんだから、コネはあるんだよ」
「なんで俺たちに?」
「あたし、フォレストシンガーズの大ファンなの。だからだよ」
 どことなく変ではあるのだが、あたしの家に行こうよ、とミルキーウェイは言う。ミルキーって呼んでね、と色っぽく笑う。女の子に誘われて男がふたりでついていっても、害があるとも思えない。疑い深そうにしている雄心も、実は行きたそうだったので、ふたりしてミルキーに従った。


「できればあいつ、誘拐したいんだけどな」
 免許を持っていないくせに車は持っているミルキーの車は、俺が運転していた。ここまではマネージャーが運転してきたのだそうで、そんな話もしてから、ミルキーは言った。
「どこにいるかもわからないから、できないよね」
「誘拐って、誰を?」
 運転には慣れていない俺は、ドライバーに集中している。兄貴の車を運転させてもらったりはしたが、自分の車は持っていないのだから緊張していて、会話は雄心にまかせていた。
「あいつは一般人ってか、一般人みたいなものだから、あんたたちの知らない奴だよ。今日はあたしの部屋に泊まる? 明日になったらうちの事務所に連れていってあげるからね」
「泊まるの? 女性の部屋に俺たちが泊まっていいの?」
「いいよ。ふたりとも、家に電話しておけば?」
「龍はひとり暮らしだけど、俺は親元から通ってるんだ。そうするんだったら電話しておかなくちゃ」
「雄心の親元ってどこ?」
「横浜」
「あたしも横浜生まれだよ」
 龍はどこ? とは聞いてくれない。こうなると雄心とミルキーが仲良くなって、あんたは帰れと言われるのかと思っていたら、ミルキーは言った。
「ふたりとも可愛がってあげるよ。あんたらふたりとも、経験なくない? そんなはずもないか。龍はどうなの?」
「ないわけねえだろ」
「俺にだってあるよ」
 どうも雄心は見栄を張っている気がするが、俺の知らないところで経験しているのかもしれない。俺は風俗でなら経験がある。龍ってもてるでしょ、と言われるのだが、高校生まではまだしも、大学ではもてない。
 高校生までは回りも田舎の子ばかりだったから、木村龍はかっこよかったのだ。東京ではかっこよくないのだ。でも、ミルキーは龍はイケメンだと言ってくれた。風俗ではない初体験ができそうだけど、雄心も? ふたりともにって、それはいやだった。
「あのさ、俺はふたりともっていやだよ。どっちか選んでよ」
 同感であるらしく雄心も言い、ミルキーは応じた。
「あたしんちで話して決めたらいいじゃないの。あんたたちって兄貴やいとこと較べると、世間知らずの坊やだね。若いからかな」
「あんたはいくつ?」
「あんたたちよりもはるかに年上」
 そうは見えないが、歌手なんてのは若作りだから、実は三十代なのだろうか。それでも別にいやではないので、ミルキーの言うままに車を走らせていた。


3・恭子

 不謹慎ではあるのだが、食中毒の顛末の中で、私の夫だけはまるっきりなんともなかったと聞いて、ちょっとだけ笑いたくなった。
「だから、俺は食中毒の原因になった煮豆を食ってないからだよ。そう言ってるだろ。俺の胃腸が特別ってわけじゃないんだよ」
「わかってるんだけど、らしすぎる」
「みんなそろって……きみまでが……恭子……」
「うん、ごめんね。シゲちゃんはがんぱったんだよね。ご苦労さまでした」
「それほどでもないよ」
 ライヴは中止になり、シゲちゃん以外の四人と症状の出たスタッフたちは病院に運ばれ、美江子さんが飛行機で急行してきて、かわりにシゲちゃんは帰ってきた。今日中にはフォレストシンガーズのみなさんも帰ってくるという。
 明日にはシゲちゃんは事務所に行ってみなさんを迎えるのだそうだが、今日は暇だ。昼間は掃除や買い物をして、夕方からは家族で厄除け観音にお詣りして、中華料理を食べて帰ってきた。
 三歳になった広大はすっかりおねむで、パパに抱っこされて夢の中。春に生まれた壮介もベビーカーでねんね。子供たちが寝ると家の中が静かになる。低く音楽を流してふたりっきりでロマンティックな夜? 
だといいなぁ、と思っていたのだが、うちに帰って子供たちをベッドに入れると、シゲちゃんが私に携帯電話を見せた。
「龍からのメールなんだけどさ……」
「龍くん?」
 木村さんの弟の龍くんと、三沢さんのいとこの雄心くん、うちに招待したこともあって、二、三度は会っている。木村章さんが食中毒の症状がもっとも激しかったそうなので、その心配かと思ったら、変なメールだった。
「俺、誘拐されたみたい」
 大学三年生にもなった男の子が誘拐? 誘拐されたのにメールできるの? ひとことだけのメールを見て、シゲちゃんと話した。
「これだけなんだよね。誰に誘拐されたんだろ。犯人の隙を見てメールしてるのかな。どうしてシゲちゃんにメールしてくるの?」
「兄貴は帰ってきててもぐだーっと伸びてるだろうし、ご両親は稚内にいるだろ。そうなると……乾さんも幸生も本橋さんもまだ本調子ではないし、俺だけは元気だって龍は知ってるんだから、だからなんじゃないのかな」
「そうかもしれないね。だからどうしたらいいの? 身代金?」
「どうすりゃいいんだかわかんないよ。連絡を待つしかないだろ。龍はメールを見られるんだろうか。俺もメールしてみるよ」
 うちの息子たちが誘拐されたのならばパニックになるけれど、龍くんだと緊迫感がない。私は子供部屋を覗いて、当たり前に眠っている息子たちの寝顔を確認してきた。
「広大も壮介も平和に寝てるよ。シゲちゃん、メールした?」
「なんなんだよ、どうしたんだよ、ってメールしたよ」
 そうしていると着信音。
「テツシに会いたいそうなんだけど、シゲさん、なんとかならない?」
 再び、龍くんからのメールが届き、シゲちゃんは首をひねった。
「テツシ……? ああ、テツシ!!」
「誰?」
「四国で会ったよ。うちのみんなが入院してる病院に見舞いにきてくれた。俺は初対面だったんだけど、彼は乾さんと章とは知り合いだって言ってたな。ヒデも知ってるって。ヒデがからんでるのかな。乾さんは帰ってるだろうけど全快ではないし、ヒデもテツシも遠くにいる。テツシって瀬戸内海の島の出身で、里帰りしてるみたいに言ってたよ」
「わかるようなわからないような説明だけど、そのテツシに会いたいって言ってるのが誘拐犯?」
「なんなんだろ。なんでテツシ?」
 器用とはいえない手つきで、シゲちゃんがメールする。龍くんから返信が届く。何度かのやりとりのあとで、シゲちゃんは言った。
「わかりにくいんだけど、誘拐犯らしき人物がテツシに会いたくて、会いたいのに会えなくて、どうにかしたくて龍を誘拐したらしいんだ。ってことは、身代金じゃなくてテツシか。テツシは四国のあたりにいるはずだから、すぐには帰ってこられないんだけどな……」
 固定電話が鳴っている。私が出ると、かけてきたのはヒデさんだった。
「恭子さんも大変でしたね。フォレストシンガーズの他のみなさんは、退院して帰京されてるんですか。シゲは今ごろになって腹が痛いなんて言ってませんか」
「ええ。大丈夫ですけど……」
 どうもヒデさんもからんでいるようだとシゲちゃんは言っていたので、話してしまうことにした。
「龍が誘拐された?」
「そうなんですけど、変な誘拐なんですよね。ヒデさんも知ってるっていうテツシ……そのテツシに会いたいから、龍くんを誘拐したんですって。どういうことなんでしょうね」
「テツシに会いたい……テツシの恋人はテツシと一緒にテツシの故郷にいる。シゲはそう言ってたから、テツシの恋人ではない。すると、あの……しかし、あれが龍を誘拐なんかできるかな。しようと思ったらできるか」
 慎重に言葉を選んで話しているヒデさんには、犯人の目星がついているように思える。けれど、あれ、だとか言っているところを見ると、迂闊に口にしてはいけないのだろうか。シゲちゃんが息を呑んで聞いている気配を感じつつ、私もヒデさんの声を聞いていた。
「しかし、俺も神戸にいるんですから、すぐにはそっちには行けませんよ。こんなときには乾さんが頼りになるんだけど、食中毒が完全には癒えてないんでしょ。どうするかな」
 どうしたらいいのか、私にもわからない。シゲちゃんのケータイには、それからもメールが届いているようで、ヒデさんも考え込んでいた。
「はっきりしない文面のメールみたいなんですよ」
「龍からのメールがはっきりしない。それって龍がメールしてるんですか?」
「シゲちゃんのケータイに登録してある、龍という人のメールアドレスからのメールです。龍くんからだとは私も見ました」
「龍のケータイからメールしてるのはまちがいなくても、誘拐犯が電話を取り上げて、龍のふりしてメールしてるって可能性もありますよ」
「……ヒデさん、頭いい」
「いや。そんなミステリを読んだものでね」
 こっちが頭が悪いのかもしれないので、賞賛は適当にして言った。
「それで、どうしたら?」
「テツシのメールアドレスってのは、俺は知ってます。テツシがどこにいるのかは知らないけど、故郷にだってパソコンはあるんじゃないかな。パソコンで、できればチャットなんてのをやって、テツシと話してみます。待ってて下さいね」
「ヒデさん、かっこいい」
「普通でしょ?」
 まあ、そのくらいは普通なのかもしれない。シゲちゃんも私もメールだってチャットだってするけれど、ブログをやるほどでもない。恭子さんはフォレストシンガーズの一員の奥さんなんだから、夫繁之の日常なんかを書いてみたら? と言われるけれど、私は文章は苦手だ。パソコンも使えなくもないけれど、得意ってほどでもない。
 その点、ヒデさんはなかなかの人気ブロガーだそうで、今夜も乾さん並に頼りになってかっこいい男性に思えた。
「よろしくお願いします」
「できる限りは」
 ヒデさんとの電話を切り、ちょっとばかりぼーっとしているシゲちゃんに、通話内容を話した。
「ヒデが協力してくれるんだったら、なんとかなるかな。誘拐ったって、龍は子供じゃないんだから……そんなに心配しなくても……誰だ、龍を誘拐したのは? ヒデは知ってる感じだった? 誰だろ。俺にはわからないよ」
「シゲちゃんにはわからなくても普通なんだから、考えすぎると頭が痛くなるよ」
「そうだよな」
 リーダーの本橋さんが、海辺でのライヴにソロで出演したあと、シゲちゃんと聴きにいっていた私と美江子さんも含めて四人で、浜辺でおやつを食べてお話した。本橋さんが美江子さんを見るまなざし、美江子さんの様子。私の胸の中がほんのり薄桃いろになった。
 ああ、これは? そうだったのね。そうじゃないかと思っていたけど、そうだったんだ。
 本橋さんと美江子さんのあの雰囲気にも気づかない、鈍感夫。あのとき、私は私の夫が、希代の鈍感男なのだと痛感した。以前から知っていたけれど、ここまでだったとは。
「リーダーとシゲさんの鈍感ぶりって、どっちがよりひどいかとは言いがたいんだよね。種類によってはどっちかがひどく鈍感。その区別はどこにあるんだろ。恭子さん、本橋VS本庄、鈍感比べ、ってブログネタもいいんじゃない?」
 三沢さんが書いたら? と言い返した記憶もある。
 なのだから、本当に知らないのかもしれないし、知っているひとなのだとしても、鈍感シゲには見当がつかないだけなのかもしれない。私にはいずれとも判断がつかないのだから、ヒデさんが動いてくれるのを待っていよう。


 生まれてこの方、俺は腹をこわしたことがない、と本橋さんは言っていたような気がする。あれから何年かたつから、おなかはこわしただろうか。それとも、食中毒でおなかをこわしたのが初体験? 
 シゲちゃんは今回も無事だったのだし、結婚してからは一度も病気になっていないのだが、子供のころにだったら下痢の経験はあると言っていた。夏のある日に、冷蔵庫に入れてあったのだから大丈夫だろうと、昨日買ったマカロニサラダを食べたのが原因だったのだそうだ。
「あんただったら平気でしょ、食べていいよ、っておふくろが言ったから食ったんだけど、その夜はだいぶひどかったよ。だけど、一日で治った。それっきり腹をこわしたことはないはずだよ。恭子もだろ。広大だって赤ん坊の罹る定番病気にぐらいしかなったことはないよな」
「壮介もそうなのかな。私も、子供のころから病気なんてほとんどかかってないな」
 健康はありがたい。健康すぎてデリカシーが足りない、鈍感、ってのもあるのかもしれないが、妻孝行な夫と母親孝行な息子たちの丈夫さは頼もしい。
 よほどでもなければ広大は寝たら起きない。壮介も夜中の授乳は不要になったようで、熟睡してくれるからそっちもありがたい。けれど、今夜は龍くんが誘拐された? などという事件があったので、シゲちゃんも私も寝られやしない。ヒデさんからの連絡を待っていると、電話がかかってきた。
「ああ、ヒデ。パソコンか。うん。恭子、パソコンを起動して」
 電話に出たシゲちゃんの言うままに、パソコンを起動してチャットルームに入り込む。ヒデさんのブログに付随しているチャットルームには、「入室者、ヒデ、テツシ」と表示されていて、シゲちゃんと私もその中に入っていった。
 二台のパソコンを起動させて、まずはふたりの会話を読む。テツシというひとは私は知らないのだが、誘拐に関わっている「テツシ」なのだった。

テツシ「なんだかね、馬鹿じゃん。知らないよ、僕は」
ヒデ「知らないったって、おまえのせいなんだぞ。どうするんだよ。おまえはいつ東京に帰ってくるんだ?」
テツシ「帰ろうと思ったらいつでも帰れるよ。だけど、龍なんて僕は知らないし、関係ないし。大学生なんだろ」
ヒデ「うん。まあな。誘拐ったって深刻じゃないはずだよ」
テツシ「だろ。あんなちっこいのに誘拐されるって、龍も馬鹿じゃん」
ヒデ「そうは言うけど、変な手段だって考えられるだろ。龍は身体の大きい若い男だけど、酒に睡眠薬を盛られたとか、共犯者がいるとかさ」
テツシ「考えすぎじゃないの?」
ヒデ「なんにしたって、おまえがからんでるんだよ」
テツシ「知らないっての」

 チャットの会話を読んでみると、ヒデさんとテツシはそうやって言い争っていた。ふたりは不毛な争いを続けていて、自分のパソコンでチャットを読んでいたらしい、シゲちゃんが言った。
「テツシと連絡が取れたんだな。それだけはよかったよな」
「ヒデさんって手際がいいね。で、私たちはどうするの? 参加する?」
「恭子、入っていってくれよ」
 そこで私は、チャットルームで発言した。

恭子「はじめまして、テツシさん」
テツシ「誰? 無関係な人は入ってこないでほしいな。シャットアウトできないの、ヒデさん?」
ヒデ「無関係じゃないんだよ。部外者は入れないようにしてある。恭子さんはシゲの奥さんだ」
テツシ「そうなんだ。ふーん」
ヒデ「挨拶しろよ」
テツシ「だとしても僕には関係ないじゃん。恭子、なんの用事?」
ヒデ「こら、呼び捨てにするな」
テツシ「面と向かったら恭子さんって呼ぶよ。うるせえな。無駄話は時間の無駄だろ」
恭子「それで、どうするんですか」
テツシ「ヒデさん、どうすんの?」
隆也「俺が行ってくるよ」

 突然に出てきた「隆也」の名前に、私はびっくり。隆也って乾さん? ヒデさんもテツシも驚いたようで、文章が出てこなくなった。私の横でパソコンを眺めていたシゲちゃんも、隆也……隆也……乾さん? と呟いて絶句した。

隆也「事情はわかったよ。ヒデは俺がここに出てきた事情は知ってるだろ。シゲと恭子さんも見てるんだよな。この状況だと行動を起こしやすいのは俺がベストだ。俺は誘拐犯の住まいを知ってる。車で行ってくるよ」
ヒデ「乾さん、腹は?」
隆也「まったくなんともない」
恭子「本当に大丈夫なんですか。だって、げそって……」
隆也「げそっとはなってたけど、全快に近いよ。恭子さん、ご心配かけました。俺の復活初仕事は、龍の救出だな。章はまだ動くにはつらいだろうから、俺がどうにかする。警察ってほどではないだろうと思うんだけど、万が一があったら連絡するから、シゲは待機しててくれ」
恭子「シゲちゃんにかわって返事します。了解」
隆也「ヒデとテツシは遠方にいるんだから、健闘を祈っててくれよ」
ヒデ「了解。乾さんだったらなんとかなるでしょ」
テツシ「ええかっこしい」
 
 チャットルームから乾さんが退室し、ひとまずはチャットはおしまいになった。
 本橋さんは「げそ」、乾さんと幸生は「げそっ」、章は「げそげそーっ」だと言っていたのはシゲちゃんだった。乾さんは全快に近いとは言っていたけれど、本当に大丈夫なのだろうか。シゲちゃんも不安そうにしていたものの、犯人を知っているのだったら、乾さんに動いてもらうのがベストなはず。
 それにしたって、途中から加わってきた乾さんは誘拐事件のおおよそを把握しているようで、最初から関わっていたシゲちゃんはまだ半分も理解していない。これは敏感さの差か、もとから持っている情報量の差だったのだろうか。


4・雄心

 いざそうなると及び腰になってしまう。龍は経験があると言っていたが、普通に恋をした相手の女の子とではないようで、ぶるっている。ベッドからミルキーが呼んでいるのは、龍の名でもなく、雄心の名でもなかった。
「どっちでもいいからおいでよ。順番でもいいし、いっぺんにでもいいよ」
 投げやりな言い方だ。ミルキーは人生に倦んででもいるのだろうか。俺は龍に言った。
「俺は帰るよ。おまえ、行け」
「怖いのか。弱虫」
「怖くはないけど、こんなのはやなんだ」
「待て、雄心」
 早くしなよ、と言っているミルキーには近寄らず、俺は寝室のドアを開けて玄関に向かった。
 ミルキーのマンションに来てから何時間たったのか。軽く酒を飲んで冷凍のピザかなんか食って、明日は事務所に行こうね、龍だったらタレントになれるよ、などと言って、ミルキーはシャワーを浴びに立って戻ってきて、言った。
「さあて、寝ようよ。あんたたちもシャワーを浴びてくる?」
「シャワーはいいんだけど……」
「俺は浴びてくるよ」
 悠然としていたのはポーズだったのだろうが、龍が先にバスルームに消え、俺も続いてシャワーを浴びた。シャワーを浴びてしまうと、あとはベッド? ミルキーが俺たちを誘っている。あそこに行けば、俺は有名な歌手と初体験ができる。
 なのに、動けない。帰りたくなる。ジーンズと下着をつけ、手に持っていたシャツを羽織りながら玄関へと歩いていくと、龍が追いかけてきた。
「意気地なしだな、おまえは。ミルキーを俺のものにしちまうぞ」
「あいつとエッチしたって、あいつはおまえのものにも俺のものにもならないだろ。そんなのやだよ。俺は女の子と寝るんだったら、恋人になりたいんだから」
「甘いってのかロマンティックってのか、いいじゃん。そんなに堅く考えなくても」
「いやだ。俺は帰る」
「雄心、待てって」
 寝室は静まっていて、ミルキーが俺たちの会話を聞いているのかどうかはわからない。俺がドアを開けると、なんであんたがいるんだ?! って男が外に立っていて、叫びそうになった。
「い、いいい、乾さん……」
 龍が言い、乾さんは俺を押しのけて中に入って鍵をかけた。
「誘拐されたのでもなさそうだな。龍、ケータイはどうした?」
「俺のケータイ? 誘拐?」
「メールの送信履歴、見てみろ。残ってるんじゃないのか」
「んん?」
 怪訝そうにしながらケータイを開いた龍は、な、ななな、ななな、ななななな、と「な」ばかり口にして画面を見ていた。
「ヒデが言った通りだったな。取り上げられたというよりも、彼女がおまえの隙を見てメールしたんだろ。しかし、雄心までが一緒とは……こら、雄心、おうちに連絡はしたのか? 無断外泊するとママに叱られるんじゃないのか」
「連絡はしましたよ」
 親に電話するなんて、ガキだと笑われそうなので、内緒でメールはしておいた。乾さんは玄関先で言った。
「それもあって龍のケータイを使ったのか。彼女はベッド?」
「そうですけど、俺にはなにがなんやら……龍?」
「俺にもなんだかわからなかったけど、ミルキーは俺を誘拐したって、シゲさんに勝手にメールしてたみたいだよ。でさ、テツシに会いたいって。乾さん、テツシって誰?」
「彼女はテツシに恋したのか? そう単純でもないのかな」
 メールという証拠があるので、龍にはある程度はわかっているらしい。俺はテツシってのを知らないので、龍にケータイを見せられてもよくはわからなかった。あいつを誘拐してやりたい、とミルキーが呟いた奴だったのだろうか。
「龍、雄心、帰ろう」
 乾さんが言い、わからないままに俺はうなずく。龍もうなずいて靴を履こうとしていると、ミルキーが寝室から出てきた。薄手のガウンを着ている。シルクなのか、高級そうで女っぽいガウンを素肌にひっかけているようで、胸元や太腿がちらちら見えていた。
「やっぱガキだとつまんないね。乾さん、いらっしゃい。ベッドに来ない?」
「この間、お願いしましたよね。二度も言いたくはないから言わないけど、改めてお願いしますよ」
 体温の感じられない声とはこれか。乾さんの声……俺が馬鹿をやったとき以上に恐ろしい声? 冷たい声? 空気が凍りつきそうにも思えた。
「狂言のようなものではあるだろうけど、警察に通報したら引っ張られますよ」
「言ったらいいじゃないの」
「つまらないスキャンダルは、あなたのスター生命を縮めますよ」
 俺の表現力では言い表せないほどに、穏やかでいながら冷たい声で乾さんは言い、俺たちにはガキに言うように言った。
「おまえたちもおいたはいい加減にしろよ。あんまり悪さばっかりしてると、お母さんに言いつけて叱ってもらうからな。さ、帰ろう」
 この声とあの声の落差をミルキーに知らせるためか。ガキ扱いしているようでいて、俺たちに向けた乾さんの小言はとてもとてもあたたかだった。
「テツシは……」
 なにか言いかけているミルキーを無視して、乾さんは俺たちを促して部屋から出ていく。なにがどうなってここに来たんだ、と尋ねられて、乾さんの車に乗ってから、正直にふたりがかりで話した。
「誘拐じゃないんだ。狂言でもないんだな。ま、よかった。それにしても、龍」
「……はい」
「兄貴のコネに頼ろうとするおまえの了見が招いた、災禍だったといえるな」
「さいかってなに?」
「辞書を引け。馬鹿野郎」
 運転していなかったとしたら、龍は乾さんにほっぺたを張り飛ばされていたのだろうか。俺は巻き込まれたようなものだから叱られはしなかったけれど、不満そうにしている龍に言ってやりたい。
 誘拐なんかじゃなかったけど、あのままミルキーと寝たりしていたら、災禍ってやつがおまえの身の上に降りかかってくるぞ。乾さんに救い出してもらってよかったじゃないか。ミルキー災禍に較べたら、乾さんの説教のほうがよほどいいよ。
「他言無用だ。これだけですんだんだから、誰にも言うな。知ってるのはおまえたち三人と、残り数名だ。本橋も幸生も章もミエちゃんも知らない。知っている人々は口を閉ざすだろうから、おまえたちも言うな。こういうことは口にしないに限るんだ」
 乾さんが言い、俺はうなずき、龍は言った。
「すると、シゲさんは知ってるんだね? 他に知ってるひとって?」
「そこもおまえたちは知らなくていいんだよ」
「黙ってるからさ、乾さん、俺に仕事を世話して」
 言った龍をルームミラーで見て、乾さんは言った。
「どんな仕事が志望なんだ?」
「それなんだよな。なにがしたいのかわかんないんだよ。乾さん、そこからアドバイスして」
「雄心は?」
「俺は……外国に行きたいな。それくらいしか考えてません」
 数秒の間のあとで、乾さんは言った。
「龍」
「はい」
「甘えるな」
「やっぱそう?」
「雄心」
「はい」
「もっと具体的に考えろ」
 やっぱそう? と俺も言いたかったのだが、はい、と返事しておいた。具体的に答えたら、乾さんがアドバイスしてくれるのだろうか。俺は就職なんかしたくない。サラリーマンにはなりたくない。サラリーマンにはならなかった幸生さんや乾さんたちならば、俺の気持ちをわかってくれるのだろうか。
 だからって現段階では、ただ、外国に行きたいってだけ。
 誘拐されたなんてなんのこと? 気分だったので、ミルキーから逃れられたのだけを安心しつつ、俺は将来について考えていた。まずはどこの国に行って、どんなことを学びたいとか、そうしてどんな仕事をしたいのかとか、それを考えよう。そうすることこそが、具体的って意味なのだろうから。
「あ、乾さん、腹は?」
 今になって思い出したのは龍も同時だったようで、ふたりして尋ねると、乾さんは力強く、もう大丈夫だ、と言った。俺も早く言いたい、俺の将来はもう大丈夫だ、だなんて。


5・テツシ

 夜の海辺はすこし肌寒くなってきているけれど、ケイさんとふたりでいれば寒くない。僕はケイさんに寄り添って、互いの知っている話をしていた。
「桜田って奴は堅物なのかもしれない、って言ってる人もいるんだけど、誰とでも寝るって評判のミルキーなんだったら、俺も寝たいな、って思ってるんだぜ。どこが堅物だ」
「桜田忠弘ってそう言ってたの?」
「テツシ、おまえが桜田を呼び捨てにするな」
 もしかしたら僕って、口うるさい人が好きなんだろうか。ケイさんは相当にうるさい。暴力的でもあって、言うことを聞かないとすぐに僕をひっぱたく。たいして痛くはないからいいんだけど、叱られてばかりだから頭にきて、何度も家出した。
 家出をしては別の男や女に拾われて、そいつとごたついているとケイさんのところに帰りたくなる。はじめて乾さんと会ったのも、そんなふうにごたごたしていたときだった。
 あのときは乾さんを意識もしていなかったけど、二度目に会って、シンナーをやったと知られて乾さんにも叱られた。木村さんと口喧嘩して僕が彼をひっぱたいてしまい、乾さんに叩かれて、うわ、またこんな奴と遭遇してしまった、と思ったのだった。
 乾さんにもケイさんにも叱られて叩かれたあの日。僕ってこんな口うるさい奴ばっか好きになって、不幸だなぁ、と思っていたのだが、僕はそういう男が好きなのかもしれない。
 ゲイのケイさんとフツウすぎる乾さん、そこんところが決定的にちがうのだけど、どこかしら似ている。ヒデさんは乾さんともケイさんとも似ていなくて、説教よりは暴力のタイプだろうから、あいつは本気で好きにはならない。僕は乾さんとケイさんが好きさ。
 僕もゲイではあるのだろうけれど、女も嫌いではない。ケイさんと同棲するようになってからは、男とも女とも浮気をした。そのせいでケイさんに叩かれたことも数知れず。ケイさんは大人の顔をしていても嫉妬深くて、近頃気づいたところによると、僕はケイさんを妬かせたくて浮気をする節がなくもないのだった。
 そんな僕をペットだと言ったミルキーウェイは、僕に恋をしていたのか? 僕に会いたくて木村章の弟を誘拐した? ヒデさんに聞かされて、僕には信じられなかったものだけど、やはり僕に恋をしていたのではないようだ。そのあたりをケイさんに話した。
「ホント言って、ミルキーって乾さんが好きなんじゃないのかな。そうやって乾さんが龍と雄心を救出してきたんでしょ。ヒデさんにだいたいは聞いたけど、ミルキーはそれを望んでたんじゃないの?」
「ややこしい望みだな。ミルキーってのはややこしい女なんだな」
「かもしれないんだけど、僕にはミルキーの気持ちは読めないよ」
「おまえはミルキーは好きじゃないのか?」
「襲ってやりたいとは思ったけど、好きじゃないよ。ペットだったらケイさんの可愛い子猫ちゃんになるほうがいい」
「……」
「ねえ、好きって言ってよ」
「うるさい」
 頭を乱暴に押しのけられる。ケイさんは照れ屋さんだから、そこんところも乾さんとはまったく性格がちがっている。好きって言って、愛してるって言って、僕はケイさんが好きだよ、なんてしつこく言って、しまいに叩かれて泣き真似すると、頭を抱きしめてくれた。
「おまえがうるさいからだろ。痛かったのか」
「痛くて快感」
「おまえはマゾか」
「ちょっとはあるかもね。奴隷にしてくれる?」
「俺はそんなのはいやだよ」
「僕はケイさんのペットでも奴隷でもないんでしょ? そしたらなに?」
「おまえはテツシだろ」
 そっかー、僕はテツシ。ケイさんのテツシ。それでいいんだね。
 
「そよ風が僕にくれた
 可愛いこの恋を
 いつまでもいつまでも
 離したくないいつまでも
 
 花のようなきみの口元
 やさしく微笑んで
 僕を見つめてくれた
 忘れられないいつまでも」

 のーんびりしたメロディの歌を、ケイさんが口ずさんでいる。僕は途中で遮った。
「古い歌?」
「そうだよ。グループサウンズだ。「いつまでもいつまでも」ってタイトルだよ。三沢さんと会ったって言っただろ。彼は若いのにグループサウンズが好きで、俺もけっこう好きだから、気が合ったんだ。話も合ったよ。三沢さんがソロでGSカバーアルバムを出すんだったら、俺が編曲させてもらうってさ」
 言いながら、ケイさんは煙草をくわえて火をつけた。
「ケイさんだったらグループサウンズが流行ってたころって、中学生ぐらい?」
「馬鹿。俺だって生まれたばかりだよ」
「嘘だぁ」
「本当だ。馬鹿」
 馬鹿馬鹿もケイさんはよく言う。僕はまた腹を立てて言った。
「そよ風がケイさんにくれたのは、ばい菌テツシだったんだってさ。僕は人に厄介かける病原菌でしょ。海に飛び込もうかな」
「馬鹿言ってると煙草の火でお灸を据えるぞ」
「きゃーー、虐待」
 いつまでもいつまでも、僕は大人になりたくない。将来なんて考えたくない。いつまでもいつまでも、僕はケイさんのテツシでいたい。これからも浮気はしたとしても、ケイさんのもとに戻って、いつまでもいつまでも……。

END











  
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