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小説221(遠き山に日は落ちて)

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フォレストシンガーズストーリィ221

「遠き山に日は落ちて」


1・真次郎

 放送時間は三十分のテレビの歌番組。本日収録分には「桜田忠弘&フォレストシンガーズ・ジョイントライヴ」だなどという仰々しいサブタイトルがついている。そのタイトル通り、我々の共演者は桜田忠弘、楽屋も一緒だった。
「わりにお久しぶりです。えー、本橋です」
 我々のほうが後輩であるので、やってきた桜田さんに立ち上がって挨拶しようとすると、彼は寛容に微笑んで言った。
「おはよう。堅苦しい挨拶なんかいいんだよ。ほんとにわりと久しぶりだよね。本橋くんは結婚したんだろ。俺も早くいいひとを見つけたいな」
 集合していた俺の仲間たちともうなずき合って微笑み合って挨拶をかわし、いい? とことわってから、桜田さんは煙草に火をつけた。
 キャリアは二十年ほどになるそうで、年齢は四十三歳。立派な中年オヤジのはずが、彼はとうていオヤジには見えない。顔はいいし背は高いし声はいいし歌はうまいし、演技も上手だし人気はあるし、俺から見るとうらやましい要素がいっぱいいっぱいある。
 歌手としてデビューした桜田忠弘は、我々フォレストシンガーズ同様、デビューしてから数年はまったく芽が出なかった。我々は芽も葉も出ない時期が長く続いても歌一筋で、社長の方針上やむなくバラエティ番組に出たりしていた程度だったのだが、桜田さんはドラマにちょい役で出た。
 そのドラマで認められ、彼は俳優の仕事もするようになった。俳優として人気が出てから歌も売れるようになった。好循環ってのもあるものなのだ。
 循環もよかったのだろうが、彼は好男子だと俺は思う。人気スターなのにえらぶってもいない。俺たちは彼から見れば下っ端であろうに、友達のように接してくれる。こっちは彼を知っていて、彼からすれば初対面だったときから、態度は変わっていない。フォレストシンガーズも売れてきてよかったね、と笑って言ってくれた。
 そんな桜田忠弘が独身だとは、もてすぎて結婚しない男の典型なのだろうか。徳永渉みたいな癖のありすぎる二枚目でもないし、金子将一のように愛する女にプロポーズを断られているのでもなさそうなのだから、きっとそうなのだろう。
「かっこよすぎるから嫌い。恵まれすぎてて嫌い」
 うちの女房の美江子がそう言っていたことがあるが、あれはフォレストシンガーズと対比してのひがみであろう。いまだ桜田さんと我々には相当なる差があるが、ひがむほどでもなくなったので、美江子もそうは言わないはずだ。
 ひねくれている美江子以外の女は、桜田さんには好感を持つはずだ。一般受けする美男子だと俺は思う。男が見ても悪い印象がないのは、清潔感と真面目そうな印象のせいか。意外と堅物だったりして?
 俺は彼のプライベートは知らないので、むろん女性関係も知らないのだが。
 喫煙者の桜田、乾、幸生が開いた窓の外に向かって煙草の煙を吐き出しつつ、世間話をしている。俺たちも桜田忠弘と名前を並べてジョイントライヴができる境遇になったのだなぁ。テレビで短時間放映するだけとはいえ、フォレストシンガーズはたいしたもんだぜ、と言いたくなりそうだった。
 やがて番組の収録は滞りもなく終了し、軽く一杯と桜田さんに誘われて六人で彼の行きつけのバーに行った。桜田さんは俺たちに質問した。
「きみたちはどこの出身? 年下から教えてよ。木村くんは?」
「北海道は稚内市です。次は幸生、言え」
「幸生は神奈川県横須賀市出身でーす。はい、シゲさん、どうぞ」
「三重です」
 ふむふむと聞いていた桜田さんは言った。
「本橋くんは東京だってのは前にも聞いたよ。乾くんは?」
「石川県金沢市です」
「あ、金沢? 俺は富山なんだよ」
「そうなんですか。お隣さんですね」
 言われてみれば桜田忠弘は富山県出身と、どこかで聞いたことはある気がする。そこからは出身地話しになっていった。
「富山ってのは北陸の北の端。雪の多い田舎だよ。魚がうまいとかってのはあるけど、たいしたものもないところだろ。普通の人間は富山なんて用事がなかったら行かない場所じゃないか。その点、雅な金沢には憧れたってのか、富山人は金沢に強烈なコンプレックスがあるんだよ。乾くんが金沢出身だって聞いて、コンプレックスが頭をもたげそうになった。乾くんはいかにもだもんな」
「いかにもって、見た目は桜田さんのほうがかっこいいですよ」
 お世辞ではなく俺が言うと、乾も言った。
「今どきの若い者は知らないのかもしれませんし、俺もこの目では見たことはないけど、富山は薬売りで有名でしょ。あの閉鎖的な江戸時代にも、薬売りが全国を歩いて情報を手に入れていた。薩摩に頼まれて松前の昆布を輸入していたなんて話も、どこかで読みましたよ。富山ってかっこいいなぁって、金沢の少年は憧れたものです」
「……乾くんはおだてるのがうまいな」
 そう言って笑っている桜田さんは、まんざらでもない顔をしている。たしかに、乾の台詞のほうが富山県人を気持ちよくさせそうだった。
「稚内人だと札幌にコンプレックスが?」
 桜田さんに質問を振られて、章は言った。
「それはありますね。俺は富山どころじゃない雪深いド田舎で育ったんですよ。海外のロックバンドだって、札幌にだったら来るかもしれないのに、稚内になんか殺されたって来ないよなぁ、札幌で生まれたらよかったなぁ、って、中学生や高校生のころには考えてましたよ。幸生、横須賀は横浜にコンプレックスがあるのか」
「横浜が東京にコンプレックスを持ってて、だからこそ横浜は東京をライバル視するとは言うよね。スカボーイの俺には横浜にコンプレックスはないよ。地続きって感覚だもん。シゲさんは大阪? 名古屋? 三重ってどうなの?」
「俺のコンプレックスも東京が対象だったよ。名古屋はあまり東京をライバルだとは思ってなくて、大阪が横浜と同じく、東京をライバル視してるんだろ。東京と張り合える規模は大阪や横浜にしかないからかな。三重県がどこかの土地をライバルと見なすなんてあつかましいってか。俺は個人的には東京……ライバルとかコンプレックスじゃなくて、東京に行きたい、だったな」
 東京で生まれて育った俺には、よその土地へのコンプレックスはない。東京生まれなんてのは故郷がないのも同然だとも言われるが、俺の故郷は東京だ。しかし、こういった話題だと参加しにくいので黙って聞いていると、乾も言った。
「俺は東京にコンプレックスを持っていたというよりも、金沢みたいな狭い世界ではなくて、広い都会を見てみたかったんですよ。桜田さんはおいくつで東京に出てこられたんですか」
「高校を卒業してからだ。大学に行く気はなかったから、ライヴハウスでウェイターをやって、店で歌わせてももらって、スカウトされたんだよ。富山の人間にとっては金沢は憧れの地。東京は夢見る大都会だったなぁ」
 うんうん、とシゲも章も乾もうなずく。東京に対する地方人の感覚には、俺は実感を持てない。幸生にとっても距離が近すぎて俺と同様なのだろう。地方出身のほうがデリケートな感情を持てていいのかもしれないと、俺は思っていた。
「スカウトされたって歌手はけっこういるよね。俺、最近気に入ってる女の子がいてさ」
 むふふって調子で笑った桜田さんが言いかけたとき、俺たちのテーブルに近づいてきた男がいた。年齢は桜田さんと同じくらいか。年頃が近そうだとは桜田さんの年を知っているからこそ思うのであって、あとからあらわれた男は四十代らしく、オヤジと呼んでもさしつかえない風貌をしていた。
「乾さん、この間はどうも」
「あ、いや……」
 男が乾に頭を下げ、乾は戸惑ったような顔をしている。章も彼に会釈しているところを見ると、乾と章の知り合いか。桜田さんは言った。
「お、ケイちゃん。フォレストシンガーズとは仲良し?」
「仲良しじゃないよ。乾さんにはお世話になった。木村さんとも多少ね。まあ、その話はいいとして、本橋さんに本庄さんに三沢さん、はじめまして。編曲家の田野倉ケイと申します」
「お名前は存じております。はじめまして、本橋です」
 桜田さんとは親しいのであるらしき田野倉さんに、シゲと幸生も挨拶した。
「言えないような話でもあったのか」
「そうでもないけど、俺は邪魔だろ。退散するよ」
「退散しなくていいじゃないか。みんなで飲もうぜ」
 田野倉さんと桜田さんのやりとりのあとで、田野倉さんもテーブルに加わった。
 三十代と四十代の男が七人。俺はこの中で上から三番目の年齢なのだが、桜田さんがやたらに若く見えるので、他人には二番目の年長者だと思われそうだ。田野倉さんが最年長に見えるのはまちがいないだろうが、続いて俺とシゲが年長に見えるのではなかろうか。
 それから乾と桜田さんが同じくらいで、三十そこそこ。幸生と章は二十代に見える。乾はまだしも、四十をすぎて十も若く見えるとは、桜田さんは一種の化け物か。顔にも身体にも贅肉がなくて、たるみもなくて実に若々しい。メンズエステにでも通っているのだろうか。
 編曲家の田野倉さんと、ミュージシャン兼役者の桜田さんは、親しく話している。仕事の話しのようなのでそっとしておこうと、俺は乾に小声で尋ねた。
「田野倉さんって……どこかで見た名前だな。弥生さんのアルバムに参加してたっけ?」
「ああ。それで俺も知り合ったんだよ」
「そうだったのか。噂はしてたか」
「別に。友達になったわけでもないから」
「しかし、おまえに世話になったと……」
「世話なんかしてないさ」
 どうもなにか隠しているようにも思えるが、言いたくないのなら聞くまい。幸生は章をつついていて、シゲは首をかしげている。変な雰囲気が漂っている感がなくもなかったのだが、俺の気のせいだったのだろうか。
「桜田さん、さっき言いかけた女の子って?」
 このへんでお開きにしようかとなったあたりで、幸生が尋ねた。
「気になってる子? ミルキーウェイ……あれれ? どうした? 乾くんも木村くんも、ケイちゃんまでが変な顔して。ミルキーがどうかしたのか? 本橋くんも三沢くんも本庄くんも、なにかあったのかよ。なんなんだよ」
 ぐるっと全員を見回して、桜田さんが言う。フォレストシンガーズは全員でミルキーウェイと会っていて、章といざこざがあったようだと知っているのだから、変な顔になるのは当然だ。だが、田野倉さんはなぜだろう。
「桜田、ミルキーを好きになったのか」
 田野倉さんが尋ね、桜田さんは白々しくも言った。
「好きってのかなんてのか。あいつはさ……ってな評判だし、だったらいいかなぁって。口説いてみようかなぁって。したらいけないか」
「あんたがいいんだったらいいけど」
「なんなんだろ。みんなそろって変だよな。ミルキーってわけありか? 怖い集団がバックについてるとか? そんならやめとこうかな」
「桜田さんさえいいんだったらいいんですけどね」
 乾も言った。
「怖い集団がどうとかって、そこまでは俺は知りませんけど、どっちでもいいんだったらやめたほうがいいと……いえ、やめなくてもいいんですけど」
「乾くん、はっきり言えよ」
「田野倉さんにお聞き下さい。では、失礼します」
 なぜか乾は逃げていってしまい、章が小走りで乾のあとを追っていく。乾は俺の耳元で、ひとまず支払いはおまえに頼む、と言い置いていったので、不審感を募らせつつも言った。
「あの、えーと、ここの料金は……」
「そんなのどうでもいいんだよ。俺のなじみの店なんだから俺が払うよ。なんなんだよ、ミルキーがどうかしたのか」
「桜田、俺が話すから出よう」
「ああ。そうか」
 桜田さんと田野倉さんも出ていき、幸生が呟いた。
「なーんか意味深。僕ちゃん、気になるわぁ」
「自ら進んで言うつもりのないひとに、詮索するなよ」
 シゲは言い、幸生はうなずいていたものの、俺も気になる。気にはなるけれど積極的に探りを入れるほどの気分にもなれない。章がミルキーと深みにはまっているというのでもないのならば、俺は関知しない方針でいこう。


 クラシック育ちの俺には、近頃はポピュラーミュージックとクラシックがクロスオーバーする仕事がやってくる。ラジオでもライヴでも、若者にも聴きやすいクラシックの紹介番組やら、ピアノの弾き語りやらが企画されている。
 さほどにクラシックに造詣が深いわけでもないが、一通りは知っているので引き受けたら、テレビ局からも依頼があった。ケーブルテレビの音楽チャンネルで、ポピュラー界のミュージシャンがクラシックのピアノ曲を演奏するシーンを取り上げる。俺はその番組のMCをつとめ、生でピアノを弾く。 
 ピアノの腕は錆びていたので、美江子と結婚して新居に移るにあたっては、グランドピアノを購入した。弾き語りライヴが決定してからは、時間があればレッスンしている。俺の音楽の原点は母に習わされたピアノで、活発すぎるほどやんちゃだったガキのころから、ピアノは大好きだった。仕事として弾くとなると緊張するものの、やはり俺はピアノが好きだ。
 なのだから、ピアノに関わる仕事は嬉しい。俺みたいな半端な奴がピアノの仕事をしていいのかとも思うのだが、別ジャンルとはいえプロのシンガーなのだから、いいのだと思っておこう。
「では、よろしくお願いします」
 ケーブルテレビの仕事の打ち合わせがすむと、いつものごとくにディレクター氏に誘われて酒となった。彼は別局のケーブルテレビ関係者の話をし、そして言った。
「僕の友達でもある、報道チャンネルの佐田、彼もディレクターなんですけど、報道番組の企画で、目新しいキャスターを模索してるんだそうです。お笑いのひとだとか、俳優だとか作家だとかがキャスターをやってるでしょ」
「そうですね。俺んちにもケーブルテレビは入れてますから、時には見ますよ」
「おたくの乾さんなんか、いいと思うんですけどね」
「乾がなんなんですか」
 ディレクター氏の名は林、林さんは真顔で言った。
「フォレストシンガーズはそうはテレビには出ないから、僕は見る機会はそんなにないんですけど、先日、地上波で桜田忠弘と共演していたでしょう。あれを見させてもらって思ったんですよ。トークもあったし、その前にも他の番組で乾さんが話しているのを聞いたから、彼だったらいいのになぁと」
「乾がですね。なにがいいんですか」
「あなた方はクイズ番組には出演しないんですか」
「出たことはありませんね」
 出演依頼はあったそうで、事務所の社長に乾と俺が呼ばれて、質問された覚えはあった。
「きみたちにはテレビにはどしどし出ろと言ってきたけど、近頃はそうしなくてもわりと名前が売れてきたよな。でも、こういうのは楽しいんじゃないか。特に乾にはふさわしくないか」
「クイズで博識を披露するんですね。乾、どうだ?」
「社長のご命令とあれば出させていただきますが、俺たちの本分は歌です。ファンのみなさまへのサービスとして、芝居をやったりするのは楽しいんですよ。ファンの方々も喜んで下さって、我々もやり甲斐がある。クイズ番組だって同じだろ、と言われるかもしれませんが、同じではないでしょう。ライヴの一幕に芝居をやったり、CDアルバムの付録につける芝居だったら、見て下さるのはフォレストシンガーズの熱心なファンの方です。でも、テレビはそうではない。不特定多数の、フォレストシンガーズなんか知らないよ、って方も見る。だから、俺はもはやテレビにはあまり出たくないんですよ。歌番組ならば我々の本分に近いんですけど、クイズはやりたくありません」
「きみらなんか知らないって視聴者が、この乾隆也って奴はなんでも知っててすごいな、ってんでファンになってくれるかもしれないぞ」
「そういったことではなく、歌でファンになっていただきたいんです」
「うん、きみの言にも一理はあるな。本橋はどうだ?」
「俺がクイズ番組に? 恥はかきたくないから出させないで下さい」
 うちでクイズ番組に出演するとなると乾だろう。俺はもちろん、シゲだって幸生だって章だって、雑学知識が豊富だとは思えない。が、乾は拒否し、社長もあっさりうなずいた。そのときの話をすると、林さんは言った。
「クイズには出たくないのだとしても、キャスターはどうですか」
「俺たちの仕事とは畑がちがいすぎるでしょ」
「そうなんでしょうけど、乾さんにだったら似合いそうですよ。佐田にも話してみたら、それはいいな、本橋さんと会うんだったら頼んでみてくれと言われました。本橋さんはリーダーでしょ。乾さんに話してみてくれますか」
「話してはみますけど、断るだろうと思いますよ」
「そうですかねぇ。いや、実はね……」
 ビールから日本酒に換えて、ほろ酔い加減の林さんは言った。
「乾さんもいいけど、キャスターとしてはさらに適任。グラブダブドリブの中根悠介はどうでしょうね。本橋さんは中根さんをごぞんじですか」
「すこしは知ってますよ。あいつだったらそりゃあ、乾ごときよりもキャスターには適任でしょうね」
「でしょでしょ。しかし、グラブダブドリブってのはテレビ拒否の気難しい奴らだと聞いてます。僕らはコンタクトが取りにくいんです。本橋さん、グラブダブドリブに紹介して下さい」
「……乾ではなくて中根ですか。乾はどうだって言ったのは前振りですね」
「いえ……すみません」
 恐縮してもらわなくてもいい。俺もそのほうがいい。しかし、グラブダブドリブはまったく未知の仲ではないとはいえ、知り合いってほどでもない。俺もあいつらの前では腰が引ける。彼らはそれほどのスーパースターだ。
 桜田さんだのミルキーだの中根悠介だの、田野倉さんだの佐田さんだの林さんだの、交友関係が増えてくると煩雑になってきて、俺は頭が痛い。やはりここは乾を引っ張り出すしかなさそうだ。


2・幸生

 からまり合う人間関係と謎はひとつも氷解していないのだが、ほんのちょっぴりはもつれた糸が見えた。シゲさんと本橋さんはあの日には来ていなかったので知らないのだろうが、俺はあの日にも神戸のライヴホールの片隅で人々を見ていたのだ。
 章の昔なじみである、加西チカさん。ギタリストのチカさんとドラマーのドルフ・バスターを中心とする、「プシィキャッツ」が再結成されて神戸のホールでライヴを行う。章がそんな情報を持ってきて、俺にもライヴチケットをくれた。
 無料だったのでもらっておいて、行けたら行くよ、と答えたのは本橋さんもシゲさんも俺も同じ。乾さんだけは自費でチケットを買ってライヴにも最初から行くつもりだったようだが、俺は都合がついて行けることになり、シゲさんと本橋さんは来なかったのだった。
 「プシィキャッツ」とは、アマチュア時代の章の「ジギー」のライバルだったガールズバンドだ。プシィもジギーもとうの昔に解散しているのだが、プシィは再結成すると決まった。再結成のライヴってのも珍しい話ではない。
 その業界では有名なスタジオミュージシャンのチカさんと、ロック好きだったら誰でも知っているグラブダブドリブのドルフが在籍していたバンドの再結成なのだから、ライヴホールには玄人の顔が多かった。ソールドアウトはしていなかったものの、俺も見覚えのある顔があちこちにいた。
 ライヴが開始されてからホールに入っていった俺の席は、前のほうの右端のほう。ライヴの合間にスポットライトが客席を照らすと、俺はこっそり振り向いて客たちを見ていた。だから、知っている顔がいくつもあるのに気づいていた。
 乾さんと章とヒデさんがいる。ヒデさんのとなりにいる若い男は、噂にだったら聞いていたヒデさんの神戸での若い友達、高畠新之助であろう。けっこうかっこいい奴だから、もてるんだろうな。
 関西で人気のあるDJさんもいる。無名だったころの俺をいたぶったおっさんも、優しくしてくれたおばさんもいる。あれから十年がたっても、おじさんもおばさんも声は若いけれど顔は老けている。彼と彼女に言われた台詞も覚えていた。
「きみらは顔がそれやから、売れる可能性は低いわな。木村くんに言うといて。きみはソロになったらどうや。二十二歳くらいやったらアイドルにもなれるんとちゃうか。三沢くんは木村くんのかばん持ちでもやり」
 おっさんはこう言い、おばさんは言ってくれた。
「あの男は毒舌で売ってて、それがまた受けるから図に乗ってるんよ。気にせんときな。三沢さん、ごはん食べにいこうか。大阪名物はたこ焼きとお好み焼きだけとちゃうよ。お姉さんが新世界の味を教えたげるわ」
 お姉さんと自称していたが、顔は当時からおばさんだった。それでも若々しい美人の彼女に連れられて、大阪場末の美味を堪能させてもらった。あんたらは売れるよ、がんばりや、と言ってくれて、彼女は俺の頬にキスをしてくれた。
 だから、彼も彼女も大阪のDJだ。大阪在住だろうに、神戸まで来ている。大阪と神戸だったら遠くもないけれど、東京から来ているらしきミュージシャンや、音楽関係者もいた。これはドルフの威光か、チカの実力か。
 プシィキャッツの残り三名は、俺と同じような年頃の長身の美女だ。三十代の危うい大人の魅力をふりまいていて、ロックフリークでもない俺は、彼女たちの作り出す音よりも色香によろめきそうになっていた。
 よろよろよろめきの合間には、振り向いて客席を見る。ミルキーウェイがいた。彼女の視線が行き着く先には、中年男と若い男がいる。彼らは妖しい雰囲気を漂わせていて、男同士で恋人同士かと俺は推理していた。その中年のほうが田野倉さん。若い男は誰だか知らないが、田野倉さんもあそこにいたのはまちがいない。
 ライヴホールで短時間観察していたにすぎないのだから、俺の推理が正しいのかどうかはわからない。翌朝は早くから仕事が入っていたので、俺はライヴが終了するとただちにホールから飛び出して最終の新幹線に乗って東京に帰った。だから、章たちとはその日は話しもしなかった。
「ライヴには行ったんだけど、ゆっくりしてられなくて残念だったよ」
 東京に帰って顔を合わせたときに、章とはその程度話しただけだ。乾さんとも詳しくは話していないが、シゲさんと本橋さんは来なかったとは知っている。
 あのホールにはミルキーと田野倉さんがいて、章と乾さんもいた。ヒデさんやその他の人たちは無関係なのかもしれないが、誰と誰とがどうつながってどうからまり合うのか? 気にはなるのだが、あまり詮索すると先輩たちに叱られるので、口には出さずに考えていた。
 田野倉さんと桜田さんの会話、桜田さんがミルキーを気に入ったと言い、口説きたいと言った。あいつは……と言いかけて言葉を澱ませたのは、「あいつは誰とだって寝るって評判だからさ」だったのではあるまいか。
 ならば俺も一晩お相手を……ではなーい。その話ではないのだった。
 そんなつもりの桜田さんを止めた田野倉さんと乾さんは、神戸のライヴホールにいた。乾さんと田野倉さんは、ミルキーに関する情報を持っている。田野倉さんの隣にいた少年が何者なのかも、田野倉さんと乾さんは知っているはず。
 章は知っているのだろうか。ヒデさんは? ヒデさんはブログになにか書いていないだろうか。ヒントでも与えてもらえないかと、俺は自宅に帰ってから「HIDEブログ」にアクセスした。

「アニメ映画を見たり、おたくの兄ちゃんが集まるつどいやらにも行くようになったのは、おたくな若い友達が近くにいるせいなんだよ。
 ロック大好きな友達もいて、行ってきましたよ。このブログを読んでくれてるひとの中にも、行ったって人がいるんじゃないかな? プシィキャッツって知ってる? グラブダブドリブだったら知ってるでしょ。俺はグラブダブドリブとも会って紹介してもらったんだ。自慢。にゃはは。
 いや、それはいいんだけどね。プシィキャッツってグラブダブドリブと関係してるんだよ。そのプシィキャッツの再結成ライヴが神戸であって、俺はただでステージを見せてもらったんだ。
 俺はロックはそう好きでもないんだけど、学生のころにはじめて見たライヴハウスのロックライヴを思い出したね。あそこに連れていってくれた奴が、神戸のライヴのチケットをプレゼントしてくれたんだよ」

 これは章であろう。にゃはは、って、ヒデさん、俺の真似しないでよね、と突っ込んでから、俺は続きを読んだ。

「グラブダブドリブってのはテレビに出ないだろ。ラジオでだったら曲がかかるのかもしれないけど、俺はグラブダブドリブの演奏を聴いたことはない。ロックなんてよく知らないけど、それでもドルフのドラムは凄かったな。
 背の高い姉ちゃんたちもド迫力で、おー、すげぇ!! って気分でステージを見ていたよ。途中で歌った男のロックナンバーも、素人の俺にだってわかる凄さだった。あの歌もこの歌もどんなジャンルも歌いこなせる、あいつは相当に高度なヴォーカリストなんだね。
 いやいや、褒めすぎ? 歌だけだよ、あいつを褒めるのは。にゃはは。
 凄い、凄いとしか言えないけど、満喫させてもらいました。グラブダブドリブ全体のライヴってのも聴いてみたくなったな」

 この文章では、ヒデさんがなにか知っているのかどうかも不明だ。作為的にぼかしているのだろうか。だとしたら誰の目を警戒して? 名探偵気取りになってみても、推理力なんかない俺には事件の鍵は見つからないのだった。

「ヒデさん、グラブダブドリブと会って紹介してもらったの? いいなぁ。どんな人たちだった? どんな話をしたの?」
 
 サシャというハンドルネームからして、女性だ。ヒデさんのブログに時折コメントを書いているから、この名前は記憶にある。ヒデさんはコメントにはレスをつけない方針らしいので、サシャにも返事はしていない。
「俺は知ってるんだ。ヒデさんから聞いたもんね。ここにスノゥイがしゃしゃり出て、かわりにサシャさんにレスしたら……怒られるだろうなぁ。ぶたれるだろうなぁ」
 スノゥイというハンドルネームで、俺はたまにヒデさんのブログにコメントしている。当初はばれないだろうとたかを括っていたのだが、簡単にヒデさんにばれた。ヒデさんがシゲさんに話し、シゲさんがリーダーに話したのだそうで、うちの鈍感ペアにもばれてしまった。
 なのだから、仲間たちはスノゥイが三沢幸生だと知っている。龍や雄心までもが知っている。フォレストシンガーズの関係者や、ヒデさんの関係者は全員知っているのかもしれない。が、ファンのみなさまは気づいていないはずだ。
 ファンのみなさまといえば、フォレストシンガーズにもヒデさん個人にもいる。なにせ最近やったフォレストシンガーズ内「抱かれたい男」コンテストでは、ヒデさんが五位、俺が六位だったのだから。
「俺のファンって、そんなんアホとちゃうんか」
 照れた顔をしてヒデさんは言っていたが、きっと喜んでいるのだ。ブログのファンだというのみならず、その気になったら昔のヒデさんの写真を探すなり、神戸まで行って電気屋で働くヒデさんを盗撮するなりはできるのだから。
「なんのためにそんなんするねん? 俺には追っかけなんかいないよ」
 ヒデさんはそう言っていたが、いるかもしれない。昔のヒデさんは若くて腕白そうないい男で、今のヒデさんは渋さも加わったいい男なのだから、顔を知ったらよけいに女性は彼にいかれる。
 そんな自覚はまったくないヒデさんは、泉水さんにプロポーズしてふられたのもあって、俺なんかはかっこ悪い男なんや、と卑屈になっているようだが、俺から見たってヒデさんは外見もかっこいい。中身には少々ひずみがあるようだが、徳永さんや金子さんよりは普通だってば。乾さんと比べたって普通だってば。
 え? 俺? 俺はヒデさんほど歪んでないよ。俺なんかは波乱万丈とは正反対の人生を送ってきたから、のほほんのほほんと生きてきたんだから。
 脱線はこのくらいにして、であるから、ファンのみなさまは「スノウィ」が三沢幸生だとは気づいていないはず。そうなのならば、ちょっとコメントしてもいいだろうか。ヒデさんが気づいたら電話でもしてきて叱られるだろうが、それもいい。直接話ができる。電話でだったらぶたれる心配もないので、俺はコメントを書き込んだ。

「>サシャさん
 ヒデさんがどこかのホテルでグラブダブドリブのみんなと会ったときに、偶然、あたしもそこにいたの。だから見てたんだ。
 ヒデさんったら、グラブダブドリブの人たちがあんまり綺麗だからって怒って、土佐弁で喧嘩を売ってたのよ。ヒデさんは気性の荒いひとなんだよね。そんな男は嫌いだって女性もいるのかもしれないけど、あたしは好き。
 いやーん、ヒデさん、よけいなことを書くなって怒らないで。怒るんじゃなくて優しく叱って。うふふん(ハートが踊ってる絵文字)」

 グラブダブドリブとは濃い関係であるプロデューサーの真柴豪氏の音楽賞受賞パーティが神戸のホテルであり、うちの事務所の社長がヒデさんをそこに伴っていってほっぽり出してきた。その前にヒデさんが社長と会って、グラブダブドリブに興味があると言ったからだ。
 漫画家の蜜魅さんなどもからんで、ヒデさんは個人的にさまざまな人と会っている。ライターのみずき霧笛さんとも親しくなっている。うちの社長とまで密談をしたのだそうだ。そんな話は俺がヒデさんを龍と雄心に会わせた夜に、ヒデさん自身の口から聞いた。
 だから嘘は書いていないのだが、幸生、なに書いとるんじゃっ、このドアホ!! ぐらいは怒鳴られる覚悟でコメントして、パソコンをオフにして寝た。翌朝、出勤前にHIDEブログを見ると、スノゥイのコメントは跡形もなく消えていた。
 

 削除されたか。くそ、その手もあったか。でも、削除したのはヒデさんなのだろうから、俺のコメントは見たのだ。それでいいことにしておこう。
 いいんだいいんだとてめえをなだめつつ、俺は出勤した。今日の出勤先は寺島彩花のレコーディングスタジオ。新人歌手の彩花ちゃんとはひょんないきさつで仲良くなって、作詞を頼まれ、シングル曲のプロデュースも頼まれた。三沢幸生初のプロデュースCDだ。
「うわ。しかし……これはいくらなんでも……」
 嫌煙風がむごたらしく喫煙者に吹きつける風潮は、乾さんや俺には身を切る冷たさで迫ってくるのだが、この環境もよくない。寺島彩花のレコーディング関係者はほぼ全員が煙草を吸っている。老いも若きも男も女もぷかぷかすぱすぱやっていて、吸わないのは彩花ちゃんただひとりに見えた。
「歌手の喉には毒だね」
「ああ。三沢さん、おはようございます」
 新人シンガーなのはそう変わらなくても、ミルキーウェイとは態度におおいなる差のある彩花ちゃんは、丁寧な挨拶をしてから不敵に笑った。
「三沢さんも吸うんでしょ。どうぞ、遠慮なくやって下さい」
「空気が煙草の煙に支配されてるよ。ここで俺が吸おうと吸おうまいと、煙草濃度はたいして変わらないだろうけど、迷惑じゃないの?」
「只野さんが言うには、煙草で彩花ちゃんの咽喉が鍛えられて、力強い声が出るようになるよ、だそうです。きみも二十歳になったら吸えば? なんて言われました」
「只野さんも吸うんだね。素晴らしい詭弁だな」
 喫煙者の俺には煙草に文句を言う権利はないが、いくらなんでもこれはあんまりだわ、と内心でぼやきつつ、煙幕の中で仕事をスタートさせた。俺は煙草は吸わないなら吸わなくても平気だ。へヴィスモーカーではないのも、乾さんと共通している。
 煙草なんてどこ吹く風、というか、どこ吹く煙、みたいな顔をしてリハーサルに勤しんでいる彩花ちゃんは、見た目はたおやかな美少女ながら、かなりかなり芯が強そうで惚れてしまいそう。いや、未成年と恋をしたりしたら、俺はけだもの扱いされそうだし、十歳以上も年下の女の子に負けるのは悲しいから、悲しいけど断念するわ。
 そうやってひとり脱線もしつつ、仕事をしていると、またまた喫煙者がスタジオにひとり増えた。寺島彩花歌唱の新曲「マリンパラダイス」の作詞は三沢幸生、作曲はシンガーソングライターの真鍋みゆき。真鍋さんの姿は見えないのだが、編曲家が登場したのだった。
「田野倉さんが編曲なさったんですか。知りませんでした。申し訳ありません」
 くわえ煙草の田野倉さんに挨拶すると、彼は言った。
「僕も知りませんでしたよ。三沢さんの作詞だったんですね。僕は曲ができた段階で編曲をしてましたから。いや、先日はどうも」
「はい、どうも」
 なんだかバツが悪いような気分で、田野倉さんと会話をかわしてから仕事を再開する。そうしているとまたひとり、誰かがスタジオに入ってきた。
「なんなのぉっ、ここのもくもくの煙はっ!!」
 あのソプラノの金切り声は、ミルキーウェイ? 思った通りの女の姿が見えると、彩花ちゃんは言った。
「私のほうがちょびっとだけデビューは早かったんですけど、年も近いし、仲良しになったんですよ。ミルちゃんって知ってらっしゃいます? 田野倉さんも三沢さんも知ってるんですよね。なんか変な顔をしてません、三沢さん?」
「俺は生まれつき変な顔です。田野倉さんも変な顔をしてますね」
「俺は生まれつき……ああ、遅いか」
「遅いって? 逃げたかったんですか」
「どうして俺が逃げなきゃならん。こうなったらケツをまくるよ」
「やめてっ!! 田野倉さんがケツをまくったりしたら、女性たちが逃げ惑いますよ」
「三沢さん、あんたはわかってて言ってるな?」
「わかっててって? その言葉に別の意味があるんですか」
 真面目に応対しているようなのにとぼけた味の田野倉さんと漫才をしている俺を見て、変なのぉ、と言って彩花ちゃんがけらけら笑っている。ミルキーは彩花ちゃんに手を上げて微笑んでみせてから、田野倉さんに言った。
「おじさん、いいところで会ったじゃん。ちょっと外に出てくれる?」
「俺も田野倉さんの援護をしにいってもいいですか」
「あんたなんか関係ないじゃないの」
 ミルキーにはいやな顔をされたのだが、田野倉さんは言ってくれた。
「つきあって下さい、三沢さん。こうなったらあんたにも聞いてほしいんだ」
「はいはい。おつきあいします」
 そうしてスタジオの外に出てから、俺は煙草に火をつけた。今日ははじめての煙草だから、ニコチンが体内にしみ渡る。ミルキーは煙草嫌いらしいから、乾さんの二番煎じではあるものの、ちょっとばかり意地悪をしてやりたくなったのもあった。
「煙いから近寄らないで」
「はい、すみません」
 口では素直に謝っておいて、俺は田野倉さんとミルキーを観察していた。口火を切ったのはミルキーだった。
「返してくれない? あいつ、気に入ってたのに」
「本人が帰りたくないと言ってるんですよ」
「可愛がってあげてたのに。餌に不満でもあったのかな」
 この会話からすると、犬か猫か。ミルキーのもとからペットが逃げ出して、田野倉さんが保護したのか。猫だったらいいのにな、と関係ないのに俺の好みで考えている間も、おじさんと美女は、返せ、返さない、と言い合っていた。
「オス猫がいいなんて、おじさんって変態だよね」
「そりゃそうですよね。猫だってメスがいいに決まってるよ」
「三沢さんはそうなの?」
「そりゃそうでしょ。ミルキーさんはオス猫好み? 性別はちがえど、猫好きの仲間なんですよね」
「猫なんか嫌いだけど、運転だとか掃除だとかをするオスのペットは好きだよ。そういうのってなかなか手に入らなくて、やっと見つけたと思ったら、このおじさんがかっさらっていったの。週刊誌に売ってやろうかな」
「あなたのしていたことだって、週刊誌ネタにはなりますよ」
「あたしは別に平気だもん。ファンだってそんなんで離れてはいかないよ」
 このおじさんと美女はなんの話をしているのだ? 猫は週刊誌ネタにはならないだろうし、掃除や運転をするペット……そういうことか。
「神戸で……プシィのライヴで……田野倉さんの隣にいた美少年?」
「見てたんですか。三沢さんもいたんですか。そうですよ。あいつは俺の……なんて言うんだろうな。手のかかる可愛い奴です」
「ミルキーさんにはペット?」
「そうだよ」
 ふてくされているような、開き直っているような表情で、ミルキーがうなずく。やはり田野倉さんとあの少年は恋人同士だった。そこにミルキーはこんな形でからんでいたのだ。それを乾さんは知っているのだろう。
「変態なんだから、気持ち悪いんだから」
 ぶつぶつ言っているミルキーに、言ってやったらどうなるだろう。
 変態じゃないでしょ、気持ち悪くもないでしょ、乾さんと俺だってそんな関係だよ。男同士の恋だって恋だ、愛だ。人間をペットだなんて言うよりはよほどまっとうだよ。
 ペット呼ばわりも戯言になる場合があるのだろうが、ミルキーの言い草は薄汚く聞こえた。そんなものと較べたら、男同士の愛のほうが美しい。
 しかし、嘘はいけない。俺が乾さんに対して抱いてる感情は、崇高なる後輩愛であって、肉欲は伴っていない。俺の感情をミルキーに理解してもらうには時間がかかりそうで、そこまでの時間を費やす値打ちがあるとも思えない。
 ならば、これだけを言おう。実は俺は、俺が当事者にならないのだったら、と条件をつけたいのだが、そこは省いて言った。
「これは恋だ、俺は彼が好きだ、男同士だったらそうでしょ。乾さんの受け売りみたいなところはあるんだけど、恋には他の感覚なんかいらないんだよ。なんで俺は彼を好きなのか、彼はなんで俺を好きなのか、そんなふうには考えなくてもいいんだ。互いに互いを好き、恋してる。恋はそれだけでいいんだよ。その互いが男同士だとしても、恋なんだからさ。ミルキーさんだって恋はしたことがあるんでしょ。わかるでしょ」
「……三沢さんと乾さんもそうなの?」
「俺たちは生憎、女好きのありふれた男だから、田野倉さんたちの感情を肌身で理解するってのは不可能なのかもしれないよ。だけど、排除したくない。変態だなんて言わないでほしいんだ」
 変態ったら俺も、別種の変態傾向ありだからね、と心で呟くと、ミルキーは言った。
「全然わかんないけど、そしたらあいつは返してくれないんだね」
「返さないよ」
「勝手にしろってのよ」
 毒づいて、ミルキーはぱたぱたと走っていってしまった。感情のこもらない歌を歌う彼女は、毒づいていても無表情に近かった。
「乾さんと三沢さんは……」
「いえ、俺は中途半端ってか……」
「半端でもいいんですよ。なんというのか、乾さんと三沢さんにだってわかってはいないんだろうけど、わかろうと努めてくれている。わかるなんてのはあなたたちには無理なんだから、それだけでいいんです。三沢さん、俺はあなたも愛してますよ」
「うきゃっ!!」
 僕もあなたを愛してますっ、とは切り返せなかった。三沢幸生、一生の不覚。うろたえてあとずさりしている俺を見て、田野倉さんは微笑んだ。
「乾さんによろしくお伝え下さい。木村さんにもね。あなたは可愛いですね」
「……俺、これでも三十三なんですけど」
「俺よりも十は年下だ。あなたがゲイだったら抱いてあげるんだけどな」
「……うきゃきゃっ」
「ジョークですよ」
 うきゃっのうきゃきゃっとしか反応できずに、おのれの不覚さに歯噛みしたい気分の俺の頭に、田野倉さんは大きな手を乗せてから歩み去っていった。
 乾さんにああされたのだったら、ごろごろにゃーごとか言って手に頬をすり寄せるのだが、田野倉さんの危険な香りの前では不可能だった。乾さんとはツーカーの仲であり、遊んでいるのだという大前提があるからやれるのだ。
 田野倉さん、お願いだから俺に恋をしないで。俺だってあなたにはよろめかないけど、ゲイではない俺の気持ちってのは、所詮そこまでなのだから。


3・繁之

「このたびはみなさまにご心配とご迷惑をおかけしまして、まことにまことにすみませんでした。ただひとり無事だった本庄繁之が、フォレストシンガーズを代表しましてお詫び申し上げます。
「シゲくんはなんともなかったんだってね。さすがにおなかの丈夫なひとはちがうよねぇ」
 揶揄まじりの感嘆まじりにマネージャーに言われたのですが、ちがうのですよ。そうではないのです。僕は食べてないのです。
 ことの起こりは四国の市でのライヴ。三沢幸生の発案で、まだ足を踏み入れたことのない市をひとつずつ歩いてライヴをやり、日本中の市を制覇しようという企画が始動しました。その一環として、はじめて訪れるこの市にやってきたのです。
 立派なホールをお借りしてライヴのリハーサルをやり、お昼前になって弁当が届けられました。スタッフたちも我々もその弁当を食べ、それから三時間ほど後に、周囲が慌しくなってきたのです。
「どうかしましたか、リーダー? 顔が青いですよ」
「腹がさ……おまえ、なんともないのか、シゲ?」
「下痢ですか。俺はなんともありませんが……」
 胃腸は俺と同じくらいに丈夫なリーダーが下痢とは、他のひとたちは大丈夫か、と思っていたら、大丈夫ではありませんでした。
「腹が……こりゃただの腹下しじゃありませんよ。なんか変だよ。死ぬっ!!」
 もっとも胃腸がひ弱な章は、すでに顔がげっそりしています。いつも元気な幸生もげそっとしていますし、乾さんも虫の息みたいになって言いました。
「スタッフのみんなは? さっきからばたばたしてるのは、腹痛、下痢、嘔吐だったりする人が続出してるからだな。俺も……シゲ、なんでおまえだけは大丈夫なんだよ」
「シゲさんの腹は特別だからでしょ。ああ、痛い。ちょっと失礼」
 そう言って幸生は走っていってしまい、乾さんは言いました。
「こんなだったら今夜は歌えないぞ。いいや、マイクスタンドにかじりついてでも、俺は歌う。歌うけど……そのつもりだけど、俺もちょっと失礼」
 なんでみんなそろってこうなるわけ? 狼狽している俺をほっぽって、青い顔になった乾さんも本橋さんも走っていき、章は言いました。
「救急車かな。あ、俺は気絶しますよ」
「章、そこまでなのか? しっかりしろっ」
 そのころにはスタッフたちも大勢が、彼らと同じような症状になっていました。誰かが病院に電話をかけ、医者が駆けつけてくれて診断してくれたところによると、集団食中毒。
「これだけたくさんの人なんですから、バスにでも来てもらって大きな病院に運びますよ。生命に別条があるほどではないけど、ライヴ? そんなものができるはずがないでしょう。中止です」
 医者に断言されて、急遽ライヴは中止。症状の出ている人間は全員病院に搬送されると決まって、俺は呆然としていました。
「俺はなんで、なんともないんだろ。昼の弁当だよな。俺も食ったよ。どうして俺はなんともない? きみもなんともないんだよね」
 数は少ないものの、なんともないと言っているスタッフが残っています。その人たちと検討していると、無事だった者が食べていないおかずがあったと判明しました。そいつが食中毒の原因だろうと決めて、スタッフが病院に電話をしたのですが、本当にそうだったのかどうかは、専門家の調査を待っている段階です。
「本庄さんは甘いのは嫌いだから食べなかったんでしょ。私もああいうのって好きではないから残したんですけど、FSのみなさんも甘いのは嫌いじゃないんですか」
「残したら弁当を作ってくれたひとに悪いとでも思ったのかな。こんなときに煮豆なんか食わなくてもいいものを」
「煮豆に当たるとは思わないでしょうけど、植物性のものだから、そんなにひどいことにはならないと思いますよ」
「そうだったらいいけどね」
「本庄さん、元気出して下さいね」
「俺は身体は元気だけど、ハートがずたずただぁ」
 スタッフの女性と話しをしてから、俺は病院に向かいました。何十人もの食中毒の人間が運び込まれてきて大騒動だった病院はすこし落ち着き、うちの四名は大部屋のベッドに枕を並べて討ち死に……ではなくて、緊急入院しておりました。
「それほどひどくはないんだよ。えげつない腹痛やなんかもおさまってきてる。俺は腹が丈夫だからなんだろうな。章はこれだし、スタッフの中にも脱水症状が……だとか言ってる者もいたけど、それでもまあ一応は落ち着いた。シゲ、ごめんな」
「本橋さんが悪いわけではありませんが……」
 章は眠っていて、乾さんは言いました。
「力が出ないんだよ。脱水じゃなくて脱力だな。乾隆也……フォレストシンガーズ、痛恨の食中毒だよ。シゲ、公式サイトのブログに謝罪文を書いてくれ」
「ああ、そうですね」
「むろん正式発表もするし、社長とも話したし、地元ではニュースになってるみたいだけど、ファンの方には俺たちから直接詫びなくちゃ。俺に元気があったらやるんだけど、入院しててパソコンを打ったりしたら、お医者さんに怒られるもんな」
「シゲさん、お願いね。俺も……まだちょっと痛いよ。隆也さん、おなかを撫でて」
 幸生は冗談を言えるのですから、口ほどにはひどくないのでしょう。乾さんに無視されると、ナースの美人のお姉さんがね、などとも言っていました。
 というようなことがありまして、本日のライヴは中止になってしまったのです。まことにまことに申し訳ありません。本橋真次郎の不徳の致すところです、とはリーダーからの伝言です。他四名もリーダーに同じであります。
 本日のライヴは延期しますので、代替日に再びこの地にやって参ります。ご心配をおかけしたファンのみなさま、代替日には生き生き元気なフォレストシンガーズの歌を聴き、姿を見てやって下さい。僕らはもう大丈夫ですから」


 真夜中になってようやくブログを書き終え、俺は自分の肩をもんだ。
 こうなった以上は入院もせず、腹もこれっぽっちも痛くない俺が謝罪文を書くのが当然であろう。ライヴには同行していなかった美江子さんが駆けつけてきてくれて、病院に付き添ってくれている。美江子さんからのメールによると、彼らの症状は回復に向かっているのだそうだ。
 ひとまず一安心ではあるし、食中毒なのだから誰が悪いってこともないのだとは思うが、自己管理が甘い、と言われてもしようがないのか。本橋さんや乾さんは自分を責めていた。
 スターというほどでもないにしろ、知っているひとは知っているフォレストシンガーズと、そのライヴスタッフたちの集団食中毒なのだから、東京でもニュースになっていたようだ。弁当屋さんは営業停止だそうだから、気の毒な話しではある。
 妻の恭子にはメールで報告し、電話で話した。社長とも美江子さんとも、章の弟の龍や幸生のいとこの雄心やらとも、フォレストシンガーズの窓口には俺がなるしかなかったから、いろんな人とメールをしたり話したりして、あとは社長と美江子さんにおまかせした。
 今夜は俺はひとりで眠ろう。明日になったら病院にお見舞いにいって、今後の相談もしなくては。本庄繁之、おまえはこれから数日は、フォレストシンガーズの代表者だ。


 検査などもあるので、すぐに退院とはいかないらしい。俺は仲間たちを見舞ってから、病院の中庭のベンチにすわって考えていた。シゲは先に帰れと本橋さんに言われたのだが、そんな薄情な真似はしにくい。
 ライヴが行われる予定だった小さな市からは近い、比較的大きな市の大学病院だ。こういう病院が近くにあってよかった。みんな平癒に向かいつつあるし、一番激しかった章も回復しかけている。それだけはよかった。
「さーてと、俺はどうしようかな」
「フォレストシンガーズの本庄繁之さんでしょ」
 若い男の声に顔を上げた。
「あ、はい、そうです。ファンの方でいらっしゃいますか。ライヴに来て下さるつもりだったんですか。申し訳ありません。俺の不徳の致すところで……」
「ふとくがいたすの? なんなの、それ?」
「いえ、リーダーの受け売りですが」
 年のころなら二十歳前? 細くて子供っぽい少年だった。花かごを持った彼は、俺の隣にすわった。
「僕は乾さんのファンなんだけど、ライヴに行くつもりではなかったんだ。ただね、僕の故郷ってここからは近いんだよ。ケイさんを連れてきてあげて、ふたりでのんぴりしていたら、フォレストシンガーズ食中毒のニュースが聞こえてきたんだ。ケイさんはあんたたちと同じ業界の人だから、病院だのなんだのは調べられた。乾さんも木村さんも三沢さんも入院してるんだったら、見舞いにいってくるか、って言われたんだよ。本庄さんは入院してないの?」
 仲間たちの名前を出している彼は誰だ? 俺はまったく彼を知らない。ケイさんと言われても何者なのか、男なのか女なのかも不明だった。
「僕の話し、誰からも聞いてない? テツシだよ」
「さあ、知らないよ」
「そういう話ってしないんだね。僕が知ってるのは乾さんと木村さんとヒデさんだけど、ケイさんはフォレストシンガーズのみんなと会って話してるって。本庄さんも会ってるはずだよ」
「ケイさんってフルネームは? 男、女? ミュージシャン?」
 うふっと笑って答えずに、テツシは言った。
「弁当食って食中毒だったんでしょ? シゲさんは食べなかったの?」
「食ったよ」
「それでどうして入院してないの?」
「俺は煮豆は食わなかったからだよ。スタッフの中には弁当を食わなかった人もいて、煮豆を残した人もいて、そういう人は無事だった。スタッフたちはライヴ中止の後始末に回ってくれてるんだ。マネージャーも来てくれてるから、俺は帰ってもいいって言われてるんだけど、どうしようかな」
「どうするかはあなたが決めることでしょ。シゲさんって呼んでいい?」
「いいよ」
 ほんのすこーし、薄気味悪く感じるのはなぜだろうか。その原因は思い当たらないし、彼は俺を知っているのだとしても、俺にとっては初対面の相手を気持ち悪いとは、失礼だ。俺は俺を戒めていた。
「煮豆なんかで食中毒になるの?」
「なるらしいよ。悪質な菌がついてたんだろ」
「悪質なばい菌か。僕みたい」
「え?」
「いいんだけどね」
 テツシが黙ると、俺はどんな話をしていいかわからなくなる。さっきひっかかった名前を口にしてみた。
「きみはヒデを知ってるの? どこで会った?」
「神戸で。いいひとだよね。僕は乾さんもケイさんもヒデさんも好き。頼りになる大人の男って感じでさ」
「ケイさんって知らないけど、乾さんはそうなんだろうな。ヒデも、きみから見たら大人の男だろ」
「顔はヒデさんが一番だね。乾さんもケイさんもイケメンでもないけど、なんてのかなぁ。中身の素敵さが顔にあらわれてるんだよ。だけど、それって女から見てなのかな。ケイさんはいいんだけど、ヒデさんも乾さんも、中身も見た目もかっこいいにしたって、僕はああいう男は嫌いさ」
 好きだと言ったり嫌いだと言ったり、結局のところ、彼はなにが言いたいのだろうか。
「シゲさんも好きだよ。いい声だね」
「ああ、えーと、ありがとう」
「照れてる顔が可愛い」
「……え? お……おい?」
 俺に身を寄せてこようとしたのかもしれないが、途中でやめてテツシは立ち上がり、俺に花かごを押しつけた。
「お見舞い。乾さんに渡して」
「乾さんにだけ?」
「金を出したのはケイさんなんだけど、運んできたのは僕だもんね。好きなひとにだけしかあげない。木村さんって嫌いだしさ」
「……なにかあったの?」
「僕は木村さんをひっぱたいて、乾さんに叱られたって意味で叩かれて、そのあとでケイさんにも叩かれた。乾さんにぶたれたんだよ、って言いつけたら、おまえが悪いんだろ、ってがんがんがーんって、ケイさんに叱られたんだよ。あの日は僕は何発叩かれたか。木村さんを一発叩いただけじゃ割が合わないよ」
「……なんだかよく……わからないけど……」
「シゲさんにはわかんないだろうな。乾さんには花を渡して、半分は好きだよって言っておいて。木村さんには、この薔薇のトゲだけをあんたにあげるって言って」
「本橋さんと幸生には?」
「知らないひとはどうでもいいんだけど、あ、そだ」
 わけのわからないことばかり言うテツシは、またもや言った。
「三沢さんもあんまし好きくないな。だから、あっかんべーって言っておいて。本橋さんには……そうだな。あなたに会ったら好きになっちゃうかもしれないから、会わないほうがいいねって言って。じゃあね」
「……全然まったく……」
 わからーん、と叫びそうになった俺を残して、テツシは行ってしまった。
 俺とも会っているのであるらしいが、誰なのかわからないケイさんは、わからないのだからどうしようもない。
 FSの仲間たちには、彼らが退院したら聞けるだろう。そうするとヒデか。ヒデのパソコンにメールしておこう。今夜は暇だから、おまえに暇ができたら電話してこい。話しがあるんだよ、といばって命令してやろう。


 ほとんどわけがわかっていないので伝言はすべて省き、乾さんの枕元に花かごを置いた。
「テツシって少年からのお見舞いです」
「テツシが来てたのか……ふーむ。話は帰ってからにしような。この籠はナースセンターにプレゼントしてきてくれ」
 言われた通りにすると、ゴージャスな花にナースさんたちは歓声を上げてくれて、ありがとうございまーす、と言ってくれる。俺が買ったのではないのですが、もがもがと応じておいてから、改めて病院のみなさんにお礼を言って、東京に帰ることにした。
 ここに俺がいてもしようがないし、考えをまとめたいのもあったし、ヒデと話したいのもあって、夕方には自宅に帰りついた。
 夜になってヒデからかかってきた携帯電話を持って、俺はベランダに出た。恭子の耳を憚る必要はないはずだし、息子の広大と壮介は大人の会話を聞いても意味がわからないはずだが、聞かれたくないような気がしたのだった。
「恭子さんも広大も壮介も元気か」
「元気だよ。おまえはどうだ?」
「俺も元気、元気元気ぜよ」
 挨拶がわりの話しのあとで、食中毒の話をする。ヒデは知らなかった様子で、勢い込んで尋ねた。
「それで、もう大丈夫なのか?」
「ライヴは中止になったけど、体調はだいぶよくなったみたいだよ。章ももう平気みたいだから、明日には退院してくるって。俺はいても役に立たないだろうし、社長に報告するつもりもあって先に帰ってきたんだ。美江子さんが付き添ってくれてるから、あとはそれでいいだろ」
「おまえよりは美江子さんのほうが、そういうのはずーっと有能だろうな」
 当然の意見を述べるヒデに、テツシの名前を出した。
「みんなが入院してる病院に見舞いに来た? そういえば、テツシはあのへんの島の出身やて言うとったな」
「知ってるのか。誰なんだよ。テツシって」
「おまえは知らない?」
「ケイさんだって知らないよ」
「田野倉ケイさんを知らん?」
「田野倉?」
 その名前だったら知っている。桜田さんと飲んでいたときにあらわれた、桜田さんの友達でもある編曲家だ。俺が田野倉さんに会ったのは、そのときっきりだが、他の四人は知り合いなのか。田野倉さんの話しなんぞは誰も特にはしていなかったが。
「歌手と編曲家だったら知り合いでもおかしくはないだろ。俺は田野倉さんって人の名前はテツシから聞いただけだけど、幸生がブログに変なコメントをつけてたな。あれって意味深なのかな」
「おまえのブログに? あ、そうだ。俺たちの食中毒の話しは公式サイトのブログに書いたから、読んでくれよな」
「シゲが書いたんか。ああ、読ませてもらう」
「それでさ、ケイさんって……男だよな」
「男だよ」
 その意味するものは? 男であるテツシが男である田野倉さんを、男である乾さんやヒデを好きだという意味は? 男である本橋さんを、好きになってしまうと言った意味は? 俺の考えたくない意味なのだろうか。
「シゲだったら気持ち悪いって言うんだろ。俺にもその気分はちょっとあるけど、当事者同士がいいんだったらいいじゃないか。乾さんや幸生はそんな思想みたいだから、俺には関係ないんやったらえいかなぁ、と、俺もそう考えることにしたよ」
「そっか……」
 俺には関係ないんだったら、そうなのかもしれない。
「シゲはベテランのヴォーカルグループのおっちゃんに誘われて、ベースマンばかりのグループを結成するんだって? ライヴはやるのか」
「やるかもしれないんだけど、ベースマンばっかりの歌ってどんなふうになるんだろ」
「それはおまえのほうが詳しいやろが。俺もこの間はロックライヴを聴いて、ライヴってのはやっぱりいいもんだと思ったんだよ。ベースマンズのライヴ、神戸でやれよ」
「大阪あたりだったら来てくれるか?」
「大阪だったら行けるかな。京都は遠いからいやだぞ」
 ライヴをやるとは決定してもいないのに、ヒデがそう言ってくれると、ぜひやりたいと思ってしまう。やるとしたら東京と大阪の二公演ぐらいは可能だろうか。やれたらいいのにな。
「本橋さんたちによろしく言っておいてくれよな。お大事にって」
「ああ、ありがとう」
 ヒデとの電話を切って部屋に入っていくと、恭子が言った。
「大変だったんだよね。明日はみなさんは東京に帰ってくるんだったら、シゲちゃんはお出迎えにいくの?」
「明日はみんなは自宅に帰るだろうから、明後日、先に事務所にでも行って、そこで迎えるよ」
「じゃあ、明日は厄除け観音さまにお詣りにいこうよ」
 そういえば近所にわりに有名な厄除け観音がある。食中毒はすさまじいほどの厄だったのだから、降りかかってきてから厄払いしてもらっても無意味なのかもしれないが、これ以上の厄がやってこないように、という意味でなら有益だろう。
 みんながいないと俺は暇で、みんなは苦しんでいるのに俺だけのほーっとして、の後ろ暗い気分もある。俺はひとりではなんにもできないシゲ。せめてお詣りでもしようとうなずくと、恭子は言ってくれた。
「あのブログ、私も読んだよ。がんばって書いたじゃないの」
「うん、ありがとう」
 他の誰かは気がついていても、あるいは他の三人は気づいていても、俺は気づいていない場合がよくあった。気づいていない二名には本橋さんと俺が含まれるわけで、本橋さんは含まずに俺だけが気づいていないなにか、そんなこともよくあった。
 今回は俺だけがみそっかすにされて、食中毒はそれでもいいのだが、人間関係については、誰が知っていて誰が知らないのかもわからない。けれど、シゲはいつだってシゲなのだから、俺と関わってくるまでは、知らぬ顔を決め込んでいよう。
 そうと決めたら楽になったので、翌日は夕方から家を出て、厄除け観音まで歩いていった。しっかりした足取りで歩けるようになった広大の手を俺が引いて、壮介のベビーカーを恭子が押して、家族で歩く夕暮れどき。俺だけがこんなに幸せでいいのか? 章なんかはまだげそっとして、痩せてしまってるんじゃないのか。
「下痢では痩せないって、乾さんは言ってたけど、みんな痩せたんじゃないかな。でも、俺は腹が減ったよ。帰りに中華を食って帰ろうか」
「いいね。それもいいけど、シゲちゃん、歌って」
「坊主たちの子守唄じゃなくて、だよな」
 今ごろ寝させると夜中に起きるであろうから、子守唄ではない歌。空がオレンジいろに染まってくる時刻でもあって、俺はこんな歌を思い出した。

「遠き山に 日は落ちて
 星は空を ちりばめぬ
 今日のわざを
 なし終えて
 心軽く 安らえば
 風は涼し この夕べ
 いざや楽しき
 まどいせん
 まどいせん」

 まどいせん、ってなんだっけ? 窓か? 惑いせん、じゃないよな? そうではないだろうけど、俺は惑いはせんのだ。不惑にはまだ早い三十代半ば。俺は二児の父、一家のあるじだ。男同士で恋のなんのと言っている人々には、そんなこともあるんだよな、とうなずいておいて、俺は現実に生きる。
 これからだって仕事はいっぱいあるし、ライヴもいっぱいあるし、家庭は円満順調だし、恋だって恭子との間にはあるのだから、俺はこれでいい。歌詞の通りに風の涼しいこの夕べ、いざや楽しくて、惑いはせんのだ。


END





 
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