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小説220(It's only rock'n roll)

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フォレストシンガーズストーリィ220

「It's only rock'n roll」


1・章

「あのかっこつけ野郎がぁぁ、があがあがあがぁぁぁ」
 この気分は恐らく永遠に消えないだろうが、俺は現在では乾さんが嫌いではない。一年に一回ほどは嫌いだったりしなくもないが、一週間に一度は嫌いになっていたころと較べれば大進歩だろう。
「くそぉ、あのアマぁ!!」
 楽屋のゴミ箱を蹴飛ばしてわめくと、乾さんが言った。
「章?」
「はい」
「女性をアマなんて呼んだらいけないだろ」
「そうですね」
 とんちんかんな反応に力が抜けそうになって、俺は鏡の前にへたった。
 フォレストシンガーズデビュー十周年のいくつもの企画もほぼ終了して、俺たちは十一年目に突入している。俺が二十二歳の初秋にデビューしたのだから……指折り数えなくても俺は三十三歳。幸生も同じ年齢で、シゲさんが三十四歳、乾さんとリーダー、本橋さんは三十五歳になった。
 鏡に映っている俺はかなりおじさんに近くなっているが、言い換えれば大人の男らしくなったのだ。ちびはちびなりに、貫禄もなんにもないにしたって、年輪は重ねてきた。もはや俺は、先輩たちに教育しないといけないと言われていた、反抗期のガキではない。
 反抗期ってのは中学生前後の年頃か。俺はその前から親には反抗していたし、その年頃になって弟が生まれたので反抗期が腰砕けになって、延々延々続いていたのか。反抗期がいつはじまって、いつ終わったのかは記憶にない。
 いまだに怒りっぽくて文句が多くて、反抗期は完全には終わっていないような気がするが、俺の魂はロッカーなのだから、永久に反逆し続けるのさ。それでこそロッカーだろ。大人になったロッカーは反抗ではなく、反逆するんだぜ、なんてね。
 思い起こせば十五年前、俺は稚内から上京してきて東京の大学生になった。大学中退、ロックバンド結成、ロックバンド解散、フリーター暮らし、幾度もの失恋、アマチュアシンガー、そんな時代を経てプロのシンガーズとなったのは、他のメンバーも細部がちがっていてもそうは変わらない。
 とうのとうのとうに知っている。昔から知ってはいても認めたくなかった事実。俺は仲間たちのおかげでここまで歩いてこられた。改めて言う必要はない。湿っぽいのはいやだから、俺はいつまでだって、先輩たちに厄介をかける章でいよう。乾さんだってそのほうが嬉しくない?
 三十三歳というおのれの年齢を思い出すと、そんなことを言ってていいのか、章? と突っ込みたくなるのだが、いいのだいいのだ。幸生と俺はフォレストシンガーズの万年末っ子。それでいいのだ。
 他人と仕事をしたりすると、フォレストシンガーズのほうが居心地がいいと思ってしまう。個別の仕事は俺たちの糧になるのだから、したくないわけではないが、早くフォレストシンガーズに戻りたくなる。仲間たちとともにいる空気が、俺にはもっとも気持ちがいいのだ。
 数年前から我々にも個別の仕事がある。最近では本橋さんのピアノの弾き語りライヴ、シゲさんは大御所コーラスグループのベースマンに誘われて、低い声の男ばかりのグループでアルバムを出さないかと言われている。各々のソロライヴも予定しているし、俺もソロで幾度かジョイントライヴに出た。
 故郷に近い札幌でのジョイントライヴの際に、女性シンガーと知り合った。二十代前半の細身で小柄で可愛い彼女の名はミルキーウェイ。バンドではなくソロなのにミルキーウェイとは、それが彼女のステージネームなのだから、別にいいんだけど。
 歌は心を込めて歌うもの。歌唱力以上に表現力が大切だと俺は思っていたのだが、口先だけで歌うような、腹の底から声を出していないような、無表情で無感動な歌を歌うシンガーもいる。ミルキーはそのタイプの歌手だ。
 ぞろりとした黒のドレスを着て、ステージに突っ立って感情のこもっていない歌を歌う女。ミルキーほど可愛い顔をしているのでなければゾンビみたいに見えるところだが、彼女はそうしていると美しさが際立つ。ぽわっと見とれていて、俺は気づいた。
 恋? 俺、ミルキーに恋をした?
 錯覚の恋も恋とも呼べない一夜のベッドインも、恋だと俺は決めてもむこうは遊びだったつきあいも、こっちは遊びのつもりなのにむこうが本気になって逃げた恋のようなものも、俺は女とのつきあいをいくつものパターンで経験してきた。
 本当の恋なんてスーとだけさ、とも思っているのだが、スーはもはや手の届かない相手になった。スーは結婚してしまっている。テレビで偶然にも人妻となったスーを見て、俺は完全にあいつを吹っ切ったつもりでいた。
 なのだから、新しい恋がやってきたのだと、ミルキーの歌を聴きながら、姿を見ながら思っていた。恋なのだったら俺が告白しなくっちゃ。告白しようという考えは、俺を純情青年に立ち戻らせてくれた。胸はずませてミルキーに告げたのだった。
「きみに彼氏がいないんだったら、俺とつきあってくれない?」
「……」
 無言で俺を見返して、ミルキーはくすっと笑った。
「あんたみたいなのはお笑い沙汰だって? そんな気はない?」
 くすっと笑ったのは一瞬で、ミルキーは鉄仮面になっていた。
「ひとことくらいなんとか言えよ。いやだったら断ればいいんだからさ」
 口をきく気もないのか、ミルキーは俺にはなんにも言わずにその場から立ち去ってしまったのだ。
 好きだと言ってふられた経験だって幾度もあるけれど、鼻で笑われて無視されたのははじめてではないだろうか。追いかけてぶん殴ってやりたい。俺を馬鹿にしやがって。お高く止まってんじゃねえんだよ、このドブス。
 罵ってやりたかったのだが、むろんそうはできない。殴ったりしたら俺はそれこそ、見下げ果てた男になってしまう。ふられた女を罵った、殴った、なんて言ったら、うちのメンバー全員に軽蔑される。特に乾さんには、冷酷な台詞をぶつけられる。
 こんなときの歯止めもうちの仲間たちだ。やっぱ俺って、先輩たちに教育されたからこうなれたのかな、と思っておくことにして、ミルキーは諦めたつもりだった。
 しかし、思い出すと頭に来る。ミルキーを思い出したので、「あのアマっ!!」と叫んで、乾さんにとんちんかんなたしなめ方をされたのだが、誰のこと? と尋ねられていたらぶちまけて、乾さんに当たっていたかもしれない。俺ってほんと、ちっとも変わってねえんでやんの。
 本日は横浜のホールでのフォレストシンガーズ全員でのジョイントライヴ出演だ。ミルキーも出る。あんな奴にはもう二度と会いたくもなかったのだが、仕事なのだから逃げるわけにもいかない。今日はホールの楽屋には乾さんが一番に到着、俺が二番目で、あとの三人もすぐに来るだろう。ミルキーの話をしたいような、したくないような気分でいると、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
 乾さんが返事をすると、ミルキーが入ってきやがった。
「おはようございます。乾さんとははじめましてですね」
「ああ、ミルキーウェイさん? 章とは札幌で共演したんですよね」
「あたしを知ってくれてる?」
「お名前は存じていますよ。あなたの歌はヒットしてるんでしょ」
「スカウトされたんだ。あたしたち、ストリートライヴをやってて横浜の駅前で音楽事務所のひとに声をかけられたの」
 あくまでも俺は無視するつもりでいるらしきミルキーは、乾さんとは楽しげに話していた。
「ミルキーウェイってそのときのグループの名前なのね。男の子三人とやってたの。その子たちって不細工だったし、ちょっとね」
「ちょっとって?」
「なんだかいけないこともしてたみたい。あたしはそりゃあね、友達なんだから、その子たちがどうしてもあたしにヴォーカルやってほしいって言うから、一緒に歌ってたんだから、四人でデビューしたかったのよ。だけどね、ひとりが悪いことしてたし、あんな不細工な男はいないほうがいいって、きみだけがデビューしなさいって言われたの」
「なるほど」
 悪いことってのはヤクのたぐいか。それでそいつらは切り捨てられたのか。
「名前だけは残してあげたんだ。あたしひとりでもミルキーウェイになったの」
「ふむふむ」
「それでデビューしたの。あたしは歌もうまいけど、綺麗だ、雰囲気あるって言われて、絶対に売れるよって言われて、その通りだったよね。簡単じゃん」
「簡単な場合もあるんだね」
「乾さんたちは簡単じゃなかったの?」
「あなたは俺たちの過去は知らないの?」
「知らないよ」
 透き通った美しいソプラノは聴いていていい気持ちではあるのだが、俺は腹立たしい。ミルキーが乾さんとばかり話しているのもだが、こいつの話しの内容にもむかむかしてきていた。
「知らないんだったらいいんだけど、一曲売れたからって続くとも限らないのがこの世界だよ。この世界だけでもないのかな。創作の世界はみな同じなのかもしれないね」
「なんだかよくわからないけど、あたしはずっと売れるもん。簡単には売れないだとか、売れたって一発屋だとかって、あたしはそんなのはないんだから、これからスターになるんだよ。ううん、もうなってるよね」
「一曲ヒットしたからってスター? おお、素晴らしい」
 乾さんの口調には皮肉が満ちあふれているのだから、低脳女も気づいたのだろう。むっとした顔になった。
「あたしはスターだって、その心意気がすべてに反映して、スターとしての覚悟のもとで生きるのは大切だね。がんぱって下さい」
「乾さんってば、あたしに嫉妬してる?」
「嫉妬ですか」
「フォレストシンガーズって何年歌ってるの?」
「プロとなってからは十一年ですよ」
「そんなに長いの? じゃあさ、そしたらさ……」
「簡単には売れなかった俺たちだから、こんな世界は簡単だよって、甘い見通しのあなたに嫉妬してるのか。なるほどね」
「乾さんってややこしい言い方するんだね」
「そのようですな。あなたは俺たちの楽屋に挨拶に来てくれたんでしょ。挨拶は承りました。他の三人にも伝えておきますので」
「出ていけって?」
「そうは言ってませんが、あなたにもライヴの準備はあるでしょ」
「そりゃあるけど、フォレストシンガーズって先輩だから、挨拶に行けってマネージャーに言われたんだよ。先輩だからなんて関係ないけど、行かなくちゃいけないんだったら来てあげたのに、なんかこう乾さんって……」
 この女の上辺の魅力だけを見て、つきあってほしい、恋をした、なんて俺が馬鹿だった。よくわかった。乾さんは煙草に火をつけ、ミルキーは漂ってきた煙を手で払っていた。
「グループのうちの誰かがドラッグでもやったのかな。完成しているプロのグループだって、そういう場合は彼なり彼女なりをクビにするってのがあるね。あなたたちはアマチュアだったんだから、そんな奴は捨てた。不細工な男たちもまとめて捨てて、あなたがひとりでデビューして一曲はヒットした。よかったね」
「あたしはよかったけどね、煙草、やめてくれない?」
「ここは俺たちの楽屋です。禁煙ではありませんから」
「いやがらせ?」
「なあ、章、俺は意地悪なんだよな」
 うんうん、その通り、とうなずくと、ミルキーは言った。
「あたし、乾さんだったらよかったのにな。こんな小さい男は趣味じゃないけど、乾さんだったら嫌いじゃないよ。だから挨拶に来てよかったと思ってたのに、なんで意地悪されるの?」
「俺たちにもライヴの準備があるんだよ」
 そこに本橋さんとシゲさんと幸生がそろって入ってくる。幸生はうへっという顔になり、シゲさんは一歩引き、本橋さんが言った。
「どうした?」
「ミルキーウェイさん。挨拶に来てくれたんだよ。うちのメンバーたちだ。本橋、本庄、三沢。これでうちのメンバーは全員集合。どうぞ、彼らにも挨拶してやって」
 ミルキーは三人を眺め回したものの、乾さんに言った。
「あたし、乾さんとだったらつきあってもいいよ」
「おやおや、告白してくれるの? ありがとう。あなたはいくつ?」
「二十三」
「十二歳も年下か。ごめんなさい」
「なによ、それはっ!! なんなの、こいつの仕返しでもしてるの?」
「おい、あのさ……」
 言いかけた本橋さんも無視して、ミルキーは乾さんに詰め寄った。
「そうやって綺麗な女の子に意地悪したりするから、あんたたちって売れないんだ。こいつはねぇ……知ってるんでしょ」
「こいつって章か。聞き苦しい。年上の男をこいつなんて呼ばないで下さい」
「う……もうっ!!」
 ほとんど言っちまったようなものだ。乾さんは察しているのだろう。幸生とシゲさんと本橋さんはひとつに固まって黙ってミルキーを見ていて、乾さんはミルキーを見ていない。ミルキーは怒りが爆発しそうな顔をして、俺に近寄ってきた。
「陰険な仕返しだね」
「俺にははじめてまともに口をきいてくれたね。俺、まちがってたよ」
「なにが? ふられたからって……」
 歌手なんてのは勝気なのが普通であろうが、ミルキーも相当なものだ。彼女は俺をひっぱたこうとし、本橋さんが彼女を引き戻した。
「なんなんだか俺にはよくわからないけど、出ていってくれ」
「なんなのよっ」
「きみだって仕事だろ。興奮すると歌えなくなるぞ。出ていかないんだったら……」
「こうしましょうか」
 近寄ってきた乾さんが腕を伸ばす。本気でつかまえようとしていたのではないと思えるが、ミルキーはマジに受け取ったようで、飛びのいて逃げ出していった。
「なんなんだ、あれ?」
 ミルキーが楽屋から走り出ていくと、幸生が言った。
「乾さんが女の子にあんなふうに?」
「まあいい。おまえら、遅いだろ。準備しろ」
 乾さんに言われて、三人もライヴの準備にとりかかる。あとから幸生に突っ込まれそうではあるが、ここはひとまずおさまった。が、ミルキーの怒りはおさまっていなかったようで、彼女のステージで言っていた。
「さっきね、むかつくことがあったんだ。ええ? 言ったらいけないの? おじさんたちのグループがあたしに意地悪したんだけど、やきもちだよね。あたしのソロライヴででも話してあげるから、みんな、来てよね」
 そんな話も無表情でしてから、ミルキーが歌い出す。俺は幸生とふたりして、舞台の袖から彼女を見ていた。
「ああいう歌も昔からあるけど、怒ってるみたいなのにああやって感情がこもらないんだな」
「幸生、おまえ、突っ込みたいんだろ」
「さっきの一幕? だいたいはわかったからいいよ。彼女にふられたの? ああ、札幌でね。ご愁傷さまでした」
「あんな奴に惚れた俺が馬鹿でした」
「悟ったんだったらいいじゃん。けど、美人だな。歌は俺には上手だとは思えないけど、感情こめこめは暑苦しいと思うファンの方ってのもいるんだから、そういう方だとミルキーちゃんの歌に惹かれるんだね」
「俺は感情こめこめで歌うよ」
「俺たちの歌はそっちだもんな」
 結果としては乾さんがミルキーの心根を俺に教えてくれたのか。あんな奴に告白を受け入れてもらえなくてラッキーだったのだろうから、これでよかったのだろう。しかし、ミルキーは乾さんだったらいいと言っていた。
 おじさんのグループなんて他には出演していないのだから、フォレストシンガーズだとは客席の人々も察しているだろう。ミルキーのファンには敵意を持たれるかもしれない。
「フォローする?」
「ミルキーの台詞? ほっとけ」
 えらくきっぱりと幸生が言うので、それでいいことにしよう。だけど、乾さんってあいかわらずもてるよな。意地悪されても好きだなんて、俺もこれからは女に意地悪してもてようか。俺だったらむしろ意地が悪いと嫌われそうだけど。


 仕事が終わった帰り道のタクシーの中で、幸生が言った。
「章って案外、普通なんだよな」
「俺は普通だよ。普通だったらいけないのか」
「いけないんじゃない? 俺たちって普通の仕事ではないでしょ。普通の感覚の人間だと普通の詞や曲しか書けないんだから、それはよくないんじゃないのかな」
「おまえの言ってる普通ってのは、どの方面だ?」
 ものすごーくいやらしい笑みを浮かべるので、どの方面なのかはわかった。笑みだけではなく、言葉もこうだった。
「いやーん、章ちゃんったらやらしい」
「やらしいのはおまえだろ」
 ドライバーが聞いてるんだぞ、小声で喋れ、と囁くと、幸生はよく言う台詞を口にした。
「声が高いのは章ちゃんでしょ」
「おまえも高いじゃねえかよ」
 歌うとさまざまな声が出せる幸生は、俺よりは話し声が低くて太い。俺の声は大変に大変に特殊なのだが、幸生の声だって特殊だ。喋っているとガキっぽい甲高い声、歌うと大人びた男の声も出る。
 三十すぎた男が喋っているとガキみたいだというのが変なのだ。幸生は全身も心の全部も変なのだから、声も彼にふさわしいのだとも言える。俺は幸生と較べれば普通だ、ありとあらゆる要素が普通のはず。自信は持てないが。
「だからさ、変わった詞ってどうだろ。SMテイストとか」
「SMの詞?」
 でっかくて面白いスーパー銭湯ができているのだそうで、明日は休みだから行かないか、と幸生に誘われて、どうせ暇だからとOKしていた。明日はそこに行くのだから、今日は東京には帰らずにホテルに泊まる。相手が幸生じゃなくてミルキーだったらなぁ、と思ってしまうのだから、俺の未練がましさも潔くないところも、ちっとも変わっていないのだった。
銭湯だったら男湯と女湯に分かれているのだろうから、女と行く場所ではないだろう。幸生のほうが楽しいだろう。そう思っておくことにして、SMの詞ってのを想像してみた。
 ただでさえこんな会話をしていたのだから、ドライバーには変な奴らだと思われているにちがいない。幸生は変な奴なので否定はできないのだが、俺まで変な奴だと思われてはたまったもんじゃない。だから、声には出さずに考えた。
 あーん、ムチで打って、いい気持ちぃ。
 縛ってよ、苛めてよ、首を絞めてよ、いっそ殺して……とか?
 そんな趣味はまったくない俺には、イマジネーションも湧かない。SだのMだの程度は一般人だってやっている会話だろうし、「あなたのSM度チェック」なんてテストみたいなのがネットにあったりもする。俺はどっちでもない。ノーマルな性的嗜好を持つ人間なのだから、テストをやってみるつもりもなかった。
 こうしたら気持ちいいか? 
 もっと、って言ってみな。どうしてほしい? こうか?
 Mだと女言葉になり、Sだと男言葉になる詞を連想するとは、俺には偏見があるのだろうか。おまえはSかMか、なんて話が、俺たちの雑談でも出ていた。
「俺はMだと思うよ」
 乾さんが言っていたが、ぜーったいに嘘だ。俺を叱って楽しんでいたくせに、と思うのも偏見なのだろうか。楽しんでいたのではなく、彼だって傷ついていたんだと幸生は言ったが、そこにも一抹の嘘があるのでは?
「俺は普通だ」
 本橋さんはそう言ったが、彼はSだ。俺が断言してやる。
「そんなの考えてみたこともないよ。やめましょうよ、そんな話は」
 シゲさんはいやそうに言って、幸生がそんなシゲさんをいじっていた。
「やめましょうってのは、突っ込まれると俺は実は……って思ってしまうから? どっち?」
「おまえはどっちなんだよ」
「やめようって言ったくせに、俺のは知りたいの? 僕ちゃんはそりゃぁさ、軽い軽いけど、こうだもん。隆也さん、ユキちゃんを叱って」
「なにをしたんだ、おまえは。俺に叱られないといけないことって、なにをした? 拷問してやろうか。ユキ、おいで」
「隆也さんったら、女の子に拷問するの? きゃーん、どんな拷問かしら。わくわくどきどき」
 なのだそうだから、幸生はM。M芝居でなくても幸生はたやすくハートだけが女に変身する奴だから、その影響か、俺はMってのは女の特質なのだと思っているらしい。
 けれど、俺がつきあっていた女なんてサドばっかりだった。ああやって楽しかったのか否かは知らないが、俺の彼女だった女はみんながみんな、俺にものを投げつけたり噛んだりひっかいたり髪を引っ張ったり、殴ったり蹴ったりした。
 俺もやり返したけれど、あれはかっかとしていたからであって、女に暴力をふるって楽しむ趣味はない。暴力をふるわれて嬉しがる趣味もない。
「やっぱ俺はノーマルだ。そんな詞も書けないよ」
「黙ってそんなことを考えてたの? 章ちゃんも変態だよね」
「おまえが言い出したんだろ」
 すすっと身を寄せてきて、幸生が囁いた。
「今夜は同じ部屋の同じベッドで寝ようか。ユキちゃんは隆也さんとのほうがいいけど、章とだって我慢してあげるわよ。SMって深いらしいのよ。突き詰めてみない?」
「ドライバーが……」
「いいのよ。こういう職業の方は慣れてらっしゃるわ」
「あのね、運転手さん、ジョークですからね」
 ふっと笑った運転手の表情は、冷笑にも見えた。幸生と俺がその手のカップルだと思ってる? うわうわうわっ、俺はそれだけはいやだーっ。幸生を車から蹴り落としてやりたくなって、そうしてやったら快感なのかもしれないと思う。
 明日は風呂だろ。風呂って裸だろ。頼むからスーパー銭湯ではそんな台詞を口にするな。心で幸生にお願いしながらも、行くのはやめようかなぁ、となってもいた。


 風呂場でじゃれて遊んでいたガキではないのだから、三十すぎた男がふたりなのだから、静かに大人らしくふるまっている。今のところは幸生も真面目にやっている。
 スーパー銭湯にはいろんな風呂がある。ミストサウナや冷水浴やバブルジェットバス、感電しそうな電気風呂、頭から滝に打たれるような設備も、尋常な大きなバスタブもある。平日なので客も少なくて、あちこちでいろんな風呂をためしてから、岩盤浴の部屋に行った。
「ここは混浴?」
「裸では入らないからね」
 中年カップルと幸生と俺の四人だけで、岩盤の上にいる。瞑想ミュージックが流れ、アロマの香が漂う。若い美人でも入ってこないかなぁ、と煩悩も起こしつつ、気持ちよくてまどろんでいた。
 熟睡に近い状態になりつつも、頭にはぽかっぽかっと考えが浮かぶ。十周年をすぎたフォレストシンガーズの新しい企画……ライヴDVDにおまけとしてつけた芝居のDVDも、ファンの方には好評だった。乾さんは言っていた。
「できるものなら、小さい劇場でフォレストシンガーズの劇をやりたいな」
「それだったら、俺は本職の劇団の人たちにやってもらいたいよ」
 本橋さんはそう言い、幸生はこう言っていた。
「劇団にやってもらうんだったら、俺はゲストで出たいな」
「幸生だけは本人がやってもいいですよね。おまえ、ほんとに芝居がうまいよ」
 シゲさんは言い、幸生は胸を張っていた。
 だいたいからして器用な奴なのだから、たしかに幸生は芝居がうまい。俺だって下手ではないが、幸生よりは劣る。シンガーなんだから、芝居は下手でもいいのだが。
 ソロアルバムにはセルフカバーとして、フォレストシンガーズのレパートリーをロックにアレンジした曲をおさめたい。各々のソロアルバムで五枚組にした豪華版CD……売れないかなぁ。高くなるかなぁ。そんなことを考えていると、チカが言っていた言葉を思い出した。
「うちのメンバーたちはドルフがスーパースターバンドの一員になって、あたしがスタジオミュージシャンをやってて、セナはシンガーを続けてる。あとのふたりは直接音楽の仕事をしてるんでもないけど、あたしは連絡を取り合ってるんだ。再結成したいなんて話しが出てるんだよ」
「プシィキャッツか」
「うんうん」
 加西チカがギターを弾き、いまや「かの有名な」と言われるまでになったグラブダブドリブのドルフ・バスターがドラムを叩いていたバンド、「プシィキャッツ」は、コアなファンの間では一種伝説と化しているらしい。
 プシィキャッツと同時期にアマチュアロックバンドだった、俺たちの「ジギー」には、フォレストシンガーズの木村章がいたと、噂になっていないわけでもないらしいが、プシィキャッツほどではない。再結成なんて、俺はしたくない。
 俺はしたくないけど、プシィ再結成だったら応援してやるよ、とチカには言っておいた。飛び入りでギターを弾かせてもらおうか。チカに罵倒されて蹴られるか。
 ジギーをやっていたのは、俺がフォレストシンガーズに参加する前だから……十三年も前? こうして半分寝ていると、スライドショーのように光景がぱっ、ぱっと見えてくる。ジギーのヴォーカリストからフォレストシンガーズの五分の一のヴォーカリストになった木村章が、俺自身にもくっきりと見えていた。
歌にだけ自信があって、他のなににも自信はなかった十代の俺。声が高くて背が低くて、顔はいいとは言われるけれど、だから女の子にはもてるけど、そんなの嬉しくもないんだよ。俺はロッカーになりたい。ロックヴォーカルのスーパースターになりたい。
 そんな夢を見てかなうと信じ込んでいた十九の俺は、俺の心の中にちっちゃくちっちゃく生き残っている。十九のアキラが三十三の章を見たらなんと言うだろうか。
「俺はおまえになんかなりたくないんだよ」
 十九のアキラだったらそう言うかもしれない。
 ロックのスーパースターじゃないんだったら、ヴォーカルグループのシンガーになんかなりたくない、と駄々をこねるかもしれない。あのころの俺だったらそう言いそうな気もするが、だったら、おまえは田舎に帰って稚内のおっさんになるのか? と問い返したい。
 稚内のおっさんになるのもひとつの生き方だろう。音楽の道を志し、道半ばでぶん投げて平凡な生活を選択した奴らだって大勢いる。それはそれでいいのだろうけど、俺はそうはしたくなかった。ロックではなくても、歌手としてひとまずは成功した俺は、けれど、十三年前だったら今の俺の人生は選ばなかっただろう。
あれから幾組ものロックバンドと知り合った。大嫌いだった奴らのジャパンダックス。ライバル視してしまって意識してしまったダイモス。乾さんとトミーの間になにかあったのかな? のブラックフレームス。
 大嫌いなビジュアル系ではあるものの、人間的にはそれほど嫌いでもなかった燦劇。ミズキって美人のいるエターナルスノウ。輝けるスーパースターのグラブダブドリブ。
 モモクリだのラヴラヴボーイズだのはロックバンドではないのだから省くとしても、解散してしまったり休止してしまったり、疎遠になったりしているグループもあるとしても、俺の周囲にはいっぱいいっぱいロックバンドがある。
 その中のひとつに、俺の大嫌いなパンクス集団がある。「チキンスキン」といって、俺はまったく知らなかったのだが、大学の先輩である柴垣安武率いるバンドだ。柴垣さんだって俺は好きではなかったのだが、本橋さんとは気が合っていたようで、本橋さんから聞かされた。
「チキンスキンが解散するんだってよ」
 関係ないのに本橋さんは寂しそうな顔をしていて、俺もしんとした心持ちになった。
 フォレストシンガーズのロックライヴも、本格的なものはまだ実現していない。俺の知り合いのロッカーたちから厳選した実力派ぞろいの木村章のバンドなんてのもいいなぁ。岩盤浴の岩の上に寝そべって、アキラの夢は広がっていくのだった。
「あれもこれも、こうなってみたらこれもいいもんだよな。な、幸生」
 半分は寝ていたので知らなかったのだが、視線を向けてみると、幸生は岩盤浴の部屋にもう一組いたカップルの、主に女のほうと親しげに話していた。岩盤浴で疲れを取るだとか、考え事をするだとかではなくて、お喋りがリフレッシュになるのだから、幸生は幸生なのであった。


このところは我々は関東方面でのライヴだ。横浜でのジョイントライヴに続いては、埼玉で別のジョイントライヴ。そこにもミルキーが出演していた。
「あ、フォレストシンガーズの木村さんですか」
 横浜では俺たちの楽屋に挨拶にきて、乾さんに意地悪く応対されて懲りたのだろう。埼玉のホールの楽屋にはミルキーは来なかったのだが、知らない男に声をかけられた。
「俺、ミルキーのバックでギターを弾いてるんです。最近、ミルキーのバックバンドのオーディションがありまして、合格したんですよ」
「ああ。そうですか。よかったね」
「木村さんも昔はロックバンドをやっておられたんでしょ」
 ギタリスト志望の美少年といえば、誰かを思い出す。あいつはどうしてるんだろうな、ギタリストにはなれずにくすぶっているのか、とも思う。円井と名乗ったミルキーのバックバンドのギタリストも、そのあいつ、テツシとかいった奴みたいな綺麗な顔をしていた。
「円井くんってどっかで見たことがあるような……」
「覚えてくれてるんですか。アイドルバンドにいたんですよ」
「ああ。道理で見覚えがあるんだ」
 アイドルから俳優やバラエティタレントやミュージシャンに転身する場合もけっこうある。フォレストシンガーズのバックバンドのメンバーは流動的だが、時にはそのたぐいの男が加わっていたりもする。才能のある奴はつぶしがきくってわけだ。
「木村さんはギターは?」
「好きだよ。弾けるったら弾けるけど、俺は下手だからさ。でも、ごくごくたまにはステージで弾いたりもするんだ。俺は今ではヴォーカリストだから、ギターは下手でもご愛嬌なんだよな」
「弾いてみせて下さいよ」
「やだよ」
 やだやだと言いつつも弾いてみせて、おまえ、下手だって笑ってるだろ、なんて言って、いいえ、上手ですよ、と言いつつ笑っている円井の頭を小突いたりしていると、彼が言った。
「明日はフォレストシンガーズはどこにいるんですか」
「明日から数日間は東京で単独ライヴがあるんだ」
「じゃあ、東京ですよね」
「そうだよ」
 チケットは売り切れてるけど、聴きにきてくれるんだったらなんとかしようか、俺はそう言いたかったのだが、これで用事は終わりだとばかりに、円井は離れていってしまった。俺としてはもうすこしギターの話がしたかったので、残念だったのだが。


2・隆也

 うしろのほうの席で、時折子供の声がする。ステージにいる我々にとっても耳障りではあるのだが、聴いて下さっているファンの方々にはなおさらだろう。一曲を歌い終えると、俺は子供の声の方向に向かって呼びかけた。おりしも、その子がかなり騒ぎはじめていたからもあった。
「申し訳ありませんが、子供さんが静かになるまで、会場の外に出ていただけませんでしょうか」
 他のお客さまはかすかにどよめき、子供の母親であるらしき女性の抗議の声が聞こえた。
「今夜のライヴって、小学生以下は入場禁止なんだよね」
「すみません。大人のライヴってことに設定していますので」
「しようがないけどさ、だから、あたしはライヴにもなかなか来られないの。子供が七人もいて、自由なんかないんだよ。今夜は下の子たちは預かってもらったから、上の子たちだけを連れてきたのに、出てけって言うの?」
「申し訳ありません。すみません。なにやら奇声が……」
 立ち上がった女性の服をつかんで叫んでいる少年は、どう見たって小学生だ。そもそもルール違反ではないか。ルールを勝手に決めたのは当方だが、そうと納得した上でチケットを買って下さったはず。本橋も言ってくれた。
「すみません。ライヴが中断してしまいますので……」
「お願いします」
 五人そろって女性に頭を下げ、スタッフに目でお願いする。スタッフが女性に寄っていって、つきそうようにして外に出ていく。彼女には四人の子供が従っていた。
「みなさま、ご迷惑をおかけしました。ではでは、次の曲を……」
 幸生が言ってライヴ再開。それからおとなしくなった子供を連れた女性が会場に戻ってきたのかどうかは知らないが、俺の気分は下降気味になっていた。
 七人の子育てとはさぞかし修羅のような日々であろう。そんな暮らしの間にフォレストシンガーズのライヴを聴きにきて下さったとは、感謝してもしてもし切れない。しかし、ライヴで子供を騒がせていいという理屈にはならない。
 何人子供がいようとも、それで生活に苦しさがあるのだとしても、自己責任ではないか。そう思ってしまう自分がいて、それゆえに俺は下降気分だったのだろう。
ライヴが終了し、おもてのざわめきがおさまるとホールの裏口から外に出て、くわえ煙草で歩き出した。今夜は東京でのライヴ初日なので、打ち上げは行わない。ひとりで酒を飲んで帰ろうか。飲むといっそう滅入るか。ファンの方にあんなふうに言うなんて、俺の役割ではなかっただろうに。スタッフにお願いすればよかったのに。
「まあ、あれは近所迷惑なんだから、おまえが言ってよかったんだよ」
 本橋は言い、シゲも言った。
「すみません、乾さんにいやな役目を押し付けて」
「あれは乾さんの得意技だから」
 章も言い、幸生も言っていた。
「得意技ったらそうなんでしょうけど、気分のいいものでもありませんよね」
 仲間たちはわかってくれているのだが、どうにも気が滅入る。煙草を道路に放り投げて靴で踏みにじってから、これはいけないと思い直して拾って携帯用灰皿に捨てる。そうしていると、車が近づいてきた。
「……乾さん?」
 後部座席のドアが開き、俺の名を呼んだ女性は、ミルキーだった。
 札幌でのジョイントライヴに章が単独出演した際に、知り合って好きになってふられたのか。そのようなことをふたりともに言ってはいたが、それはともかく、俺は彼女には嫌われているのではないのか。俺を呼び止めるってことはなにかしら意図が?
「乗りません? テツシも乾さんとは知り合いだそうだし」
「テツシ?」
 姓は知らない。テツシとしか知らない青年は、車を運転している痩せた男にまぎれもなかった。
 数年前に俺が知り合ったテツシを、その後に章が高速道路で拾ったと言って俺のマンションに伴ってきた。俺は常のごとくにテツシにお節介を焼いて、章にはかっこつけだと言われた。そんな一件があっても、俺はテツシのフルネームも職業も知らない。
 テツシの恋人は編曲家の田野倉ケイ氏。田野倉氏にしてもたいした知り合いではないのだが、知らないひとでもない。テツシはミルキーなり彼女のプロダクションなりに雇われて、運転手にでもなったのか。ミルキーが乗って乗ってと言うので、俺は彼女の隣に乗らせてもらった。
「このあたりは繁華街からは離れてるから、適当に賑やかな場所に出たら降ろして下さい。お世話になります」
「乾さんってライヴがすんだら、いつもああやってひとりで歩いてるの? ファンに囲まれて騒がれるよ」
「ファンの方々がホールの近辺にいなくなってから出るように、こころがけてますよ」
 ファンに囲まれて騒がれる。五年前だったらそうされたいと願っていた。なのにそうなったらそうなったで、不自由になったと嘆くなんて。売れたのは、成功したのは喜ばしいくせに、だったら俺は何者になったんだ? の葛藤が胸のうちに生じてきていた。
 俺は乾隆也。売れないシンガーであろうとも、多少は名前を知られるようになろうとも、乾隆也は乾隆也だ。なのに……考えすぎの内省的のと言われても、俺の胸の中には常にそのような思いが去来して、時として気持ちが暗くなる。
 とはいっても、売れるのは絶対的に嬉しい。売れないころになど戻りたくない。だったらどうしたいんだ、おまえは? の自問には、答えはあろうはずもなくて。
「それはそうと、テツシはミルキーさんの事務所のスタッフにでもなったの?」
 横で可愛い声で喋っているミルキーの話の区切りを見て、俺は問いかけた。
「運転手とか付き人とかマネージャーとか?」
 無言で車を運転しているテツシは答えず、ミルキーはきゃらきゃら笑った。
「テツシはあたしのペットだよ」
「……ペット?」
「テツシってゲイなんだよね。だから安全だし、うちで飼ってるの。あたしが食べさせてやって服も買ってやって、車の運転をさせたりもしてるの。こいつだったらボディガードにはならないけど、運転したり掃除したりだったらできるんだから、猫よりは役に立つよ」
「そうですか」
 昔は男女がさかさまならば、このような関係は間々あったのだそうだ。人間を飼うとは……そういう言い方をしないでほしい、と言いたいのはやまやまなれど、互いに満足しているのならばいい。よくはないが、いいとしか俺には言えない。
 奴隷の幸福、家畜の幸福。テツシはそのような幸福を感じているのか。彼が進んでその境遇に身をゆだねているのならば、俺はなにも言うまい。田野倉さんとは別れたのか、捨てられたのか、とも尋ねずにおいた。
「でもさ、今夜は邪魔なんだよね。友達が大勢遊びにくるんだ。男だっているから、そのうちの誰かがあたしのベッドで寝るかもしれないじゃん。テツシはペットだって言ったって、そんなの嘘だろ、愛人だろ、って言いたがる奴もいるんだよ。だからさ、乾さん、今夜はテツシと遊んでやってくれない?」
 なんとてめえにばかり都合のいい考え方をする女だろうか。これはもはや、俺が意見したり説教したりする範疇は超えている。意見したって聴く耳を持たないだろう以前に、話をする気にもなれなくて、俺はうなずいた。
 あんたの意見なんか聴きたくないよ、であろうから、俺がミルキーを見捨てているのは、彼女にとってはラッキーなのだろう。その点、幸生や章はまっとうなのである。
 いや、この時代、まっとうの規範すらもが曖昧だ。俺の祖母だったらばミルキーになんと言っただろうか。信じられない……で絶句して卒倒しそうになるのか。あるいは、俺には想像もつかない言葉でミルキーを論破するのか。俺にはその語彙も、その気もない。
 法律上の罪にしたところで、文化や国によって規範はさまざまだ。まして法律上は罪ではない「悪いこと」は、男ならしてもよくて、女はいけないだとか、その逆だとか、ひとくくりにしてしまえるものではない。もはや、こういった境界線上の問題は人の好き嫌いでしかものが言えないのかもしれない。
 それに、テツシのためもある。彼がなにを考えているのかは知らないが、ミルキーの言葉を聞いていると嫌悪感ばかりが募るので、テツシに話しかけた。
「おまえはミルキーさんの言う通りにしたいのか」
「どうでもいいよ」
「どうでもいいんだったらあたしの言った通りにしなよ。じゃあね、あたしのマンションであたしを降ろして、車は貸してあげるから、乾さんとどこかに行けば? 乾さんはバイセクシャル?」
 返事をする気にもなれなくて黙ると、ミルキーは不快な笑みを浮かべた。
「そうなんだったらなるほどだよね。木村章は女好きみたいだけど、乾隆也は男が好き? 大丈夫だよ。週刊誌にちくったりしないから」
「そう願いたいものですな」
 ミルキーはなんのためにテツシに運転させて、我々がライヴをやっていたホールの近くを流していたのか。理由なんかどうでもいいので、尋ねる気にもなれなかった。


 怒る気も起きなくて、胸の中につめたい小さなかたまりを抱えた気分で、テツシとふたりして俺のマンションに帰ってきた。
「おまえ、成人か?」
「二十歳になったよ」
 というと、はじめて会ったころは未成年だったのか。今でも十七、八だと言われてもうなずけそうな細い身体をしていて、幸生や章よりはいくぶん上背があるものの、少年にも見えた。
「成人だったら飲むか」
「酒を飲むと車の運転ができないよ」
「今夜はうちに泊まっていけばいいよ」
「乾さん、ゲイに目覚めたの?」
「目覚めてない」
 それだけは明言すると、テツシは朗らかに笑った。
「他人にてめえの意見を押しつけるってのは、かなり嫌われる行動なんだよな。俺は若いころにはそんなふうにばかりしてて、最近でもやってなくはないんだけど、これだから……ってさ。う、胸が痛いんだよ」
「乾さん、なにが言いたいの?」
「いや、別に」
 お湯割り焼酎を飲みながら、俺は冷蔵庫に残っていた材料で野菜炒めとチャーハンを作り、冷凍のギョーザやシュウマイを電子レンジにかけた。
「俺も夕飯はまだだったんだ。おまえもだろ。食えよ」
「うん」
 テツシの事情を詮索しまいと決めたら、話題が乏しくなる。おまえはミルキーにペットだと呼ばれて幸せなのか。幸せではないけれど、そうしないと生活できないからやっているのか。田野倉さんとは別れたのか。ギタリストになりたかった夢は捨てたのか。ミルキーのそばにいれば、ミュージシャンへの道が拓ける可能性があるのか。
 質問したいことがらは数々あれど、どれも言葉にはしにくい。焼酎を飲み、煙草を吸い、粗末な料理を食って、時間だけが経過していった。
「酒にはあまり強くないのか。シャワーを浴びるか。寝るか」
「一緒に寝てはくれないよね」
「それだけは断る」
「寝るだけでも? くっついて寝るだけでも駄目? 抱いてなんて言わないよ。三沢さんや木村さんとひとつのベッドで寝たことってないの?」
 無名も無名も無名だったころ、スキー場のイベントで宿舎がなくて、大学生が集団で泊まっている部屋に相部屋にしてもらったことがある。あのときには布団すらもが足りなくて、俺たちには四組しか与えられなかった。
 ミエちゃんまでが同室だったので、彼女に一組の布団を譲ると、五名に三組となる。本橋はでかい。シゲはごつい。このふたりは一組ずつ必要だとして、となると、残るは一組だ。
「幸生と章が使えよ。俺はどうにかするから」
「乾さん、こうしましょう」
 シゲが提案してくれて、本橋とシゲの布団を並べて敷き、俺はその布団の間で寝た。ミエちゃんは恐縮していて、幸生と章は言い合っていた。
「俺、悪夢を見そうだよ。章と抱き合って寝るなんて、史上最悪の不幸」
「そう言いたいのは俺だよ。こらっ、幸生、くっつくなっ。抱き合うんじゃなくて、背中合わせで寝ろってんだよっ!!」
「寒いんだもーん」
 実は幸生は楽しんでいたようだが、他の五人はほとほと参った。 
 仕事ではないときにも、誰かの部屋で雑魚寝をしたりもした。本橋か俺の以前のアパートで飲んで喋って、気がつくとみんな眠っていて、幸生が俺のかたわらにくっついていたこともある。そういった経験ならば数々あるが、好んで幸生や章とひとつベッドで寝るわけがない。幸生もジョークでならば言っても、実際にはまっぴらごめんだろう。
「僕が女の子だったとしたら、抱いて寝てくれる?」
「女の子だったらうちには泊めないよ。おまえのハートは男なんだろ」
「そうなんだけど、乾さんって優しいから」
「俺は優しくなんかねえよ」
「優しくないときもあるけど、なんにも訊かないでくれるのは……うん、じゃあね、こうしようよ」
 テツシは寝室に入り、俺のベッドのそばにソファを引きずっていった。
「僕はここで寝るから、乾さん、子守唄を歌って」
「ああ、おやすみ」
 小声で歌うのは、シゲが広大のために書いた子守唄だ。小笠原英彦作詞、本庄繁之作曲。シゲはたまに作曲はするのだが、どうしても詞が書けないと言って、ヒデに頼んでいたのだった。

「いっぱいいっぱい遊んだね
 さあ、ベッドに入って
 これからはパパがきみのために
 おやすみ、広大って歌う時間

 明日はなにして遊ぼうか
 明日はなにを食べようか
 明日もお風呂に入ろうね

 おやすみ、広大
 素敵な素敵な夢を見て
 きみの夢にはパパやママも出てくるのかな」

 黙って聴いていたテツシは、闇の中で語りはじめた。
「何度オーディションを受けても、僕はギタリストになんかなれなかったんだ。歌手だったらソロって手もあるんだろうけど、ギターだったらそんなのよほどでもないとなれないでしょ。ミルキーのバックバンドのギタリストを募集してたから、受けてみて合格しなくて、だけど、言われたんだ。キミって綺麗な顔してるね。内緒であたしのペットにならない? ってさ。ケイさんは反対するだろうから、家出したんだよ。ケイさんの家にいたら、僕はケイさんの息子みたいに扱われてた。口やかましく叱られたりもしたし、滅茶苦茶叩かれたりもしたけど、好きだったんだよ。今は女のペットでしょ。僕は猫だそうだから、ミルキーは口うるさくはないんだけど……うん、だからさ、このほうが楽しいよ」
「……そうか」
 闇の中だからこそ、テツシの声にひそむ苦渋が聞き取れる。しかし、それが本当に苦渋なのか、なにに由来する苦渋なのかは、本人ではない俺にはしかとわかるはずもない。
 どこからどこまでが真実なのかも不明なテツシの話を、俺はただ聞いているしかできない。相槌程度で耳を傾けているうちに、テツシの声がくぐもったものになっていく。嗚咽も混じっていき、次第に言葉が途切れて、テツシは毛布の中にもぐっていってしまった。


 偏見は持たないとおのれに誓うということが、偏見を持っているしるしなのだろう。実体験はまったくないとはいえ、肌で想像できるだけに、普通の男はああいう世界を嫌がるのだ。しかし、テツシ個人に偏見は持ちたくない。
 朝になってもしょんぼりしているテツシに朝食を作ってやって、ふたりして食っている間も彼はおとなしかった。もとより饒舌なほうでもなさそうだから、悄然としているのでもないのかもしれない。よけいなことは尋ねないのが優しさだとテツシが言うのならば、彼が話したいことだけを聞いてやるつもりで、俺も黙ってトーストを食べていた。
「僕は瀬戸内海の島の出身で、東京へ行ってロックギタリストになりたかったんだよ。木村さんもそうなんだってね」
 食事を済ませるとテツシが皿を流しに運び、俺に背中を向けて皿洗いをしながら話しはじめた。
「木村さんは稚内だけど、田舎なのは似たようなもんだよね」
「そうなのかな」
「そうだよ。僕は頭が悪いし、大学になんか行く気もなかったから、就職するって田舎を飛び出してきて、東京でバイトしてたんだよ。よくある話でしょ」
「まあ、そうだね」
「ケイさんと知り合わなかったとしたら、僕はどうなってたんだろ。僕は今でもケイさんが好きなんだ。でも、ケイさんには迷惑だろうし、二十歳になったんだからいつまでも甘えてちゃいけないし、だから、家出したんだよ」
「帰りたくはない?」
 ぶるっと頭を振って、テツシは続けた。
「帰りたくないんじゃなくて、帰らないって決めたんだ。でも、僕は女に興味ないわけでもないから、ミルキーのペットにされてるのはちょっとつらいんだよね。あいつ、僕の前で平気で着替えをするんだもん。僕は猫じゃなーい」
 ぶはははっ、と笑っているくせに、背中が小刻みに震えていた。
「いっぺんあいつ、襲ってやろうかな」
「それだけはやめろよ」
「そうなんだろうな。だけど、このまんま僕をミルキーのところに置いておくと、頭にきてあいつに怪我をさせるかもしれないよ。殺してしまうかもしれないよ。それでもいい?」
「よくないに決まってるだろ」
 この気弱そうな青年を凶暴な気持ちにさせるとは、ミルキーは平素は彼の前でどんなふるまいをしているのだろう。聞きたくないので質問はせずにおいたのだが、要するにこれは脅迫だ。二度、三度とテツシとは関わってきたのだから、このたびも関わらざるを得ないのであるらしい。
「東京にはいたくないけど、田舎もやだな。僕の故郷に近い都会っていうと……」
「岡山とか広島とか」
「そんなところは田舎じゃん」
「神戸は?」
「神戸? いいね」
 神戸にはヒデがいる。ヒデにテツシの面倒を見させるわけにはいかないが、故郷に近い都会である神戸に住まわせて、テツシの気持ちの整理をさせる。そうして今後どうするか、結論を出すのがいいのではないかと思えた。
「神戸っていうと、俺はまだ訪ねたこともないんだけど、港でバーをやってる男性がいるらしいんだよ。友達から聞いてるんで、一度は俺もその髭のマスターに会ってみたい。彼はギターが達者なんだそうだ。その店でおまえを雇ってもらうってのは、こっちに都合がよすぎるかもしれないけど、仕事の紹介だったらしてもらえるかもしれないな」
「うん、乾さん、連れていって」
「乗りかかった船ってやつだな」
 二十歳になったのだったら、てめえの身の始末はてめえでつけろ、と突き放してもいいはずだ。なのに彼のこの危うげな様子は、幸生とも章ともちがった種類の保護本能をかきたてられる。俺にはゲイのケはこれっぽっちもなくてもこうなるのだから、そのケのある田野倉さんだったらいちころだったのか。テツシは魔性の少年なのか。
 だとしても、彼は男だ。俺はテツシに恋はしない。それだけは確信を持って言い切れる。幸生や章が大人になってきたから、年下の男にお節介を焼きたくなっただけだ。
「ケイさんには言わないでね」
「ケイさんに連絡したくなったら、おまえがすればいいんだよ。今日と明日は東京でフォレストシンガーズライヴ。それがすんだら休みになるから、神戸に行こう。ミルキーはどうする?」
「あいつは僕が二、三日いなくてもなんとも思わないよ。ペットなんだもの。だけど、乾さん、疑われるよ」
「……疑われるのは平気だよ」
 オーディションに応募してきたギタリスト志望の少年をペットにしている。その事実はスキャンダルだろう。ミルキーにも負い目があるのだから、俺をゲイだと疑っても言い触らしたりはしない。もしも言い触らしたら報復手段に訴えるのか。そこまではしたくないので、ミルキーが口を閉ざしていてくれるようにと願いたい。疑うのはかまわないから、吹聴はしないでくれ。
 これこそが偏見なのか? いや、偏見ではない。スキャンダルとは無縁でいたい。フォレストシンガーズのイメージはクリーンでいたい。政治家みたいな気持ちを持って、俺はテツシに言った。
「では、二日間、俺んちでメイドってのか……ハウスワイフ……ハウスマンか。やってくれよ。ギャラは出すから掃除しておいて。掃除だけでいいからハウスマンでもないけど、いやか」
「いいよ。乾さんにだったら……なんだか好きになりそう」
「……それだけはやめてくれ」
「冗談だよ」
 このたぐいの冗談には幸生で慣れているはずが、背筋がぞくっとなった。決して快感ではなく、悪寒に近い。やはり偏見はあると認めるしかないのだが、冗談だとテツシが言ってくれて、全身全霊で安堵した。


3・英彦

機嫌がいいのか悪いのか、「Drunken sea gull」のマスターは、今日もいずれともはかり知れない表情でいる。賑わっていなかったバーのマスターとしては、客が増えるのは嬉しいはずだが、このおっさんに限っては、そうとも言えないようで。
「あんたはなんのためにバーを経営してるんだ?」
 そう尋ねたら、俺が酒を飲みたいからや、飲んでたらええ商売やからや、と答えそうにも思えて、質問はしないでおいた。
「……あのね、あの……」
「はい?」
「小笠原くんだよね」
「は、はあ?」
 どこかで見た覚えのあるような顔の女が、泣きそうな表情になって俺を見ている。知り合いなのか、それとも、近頃たまにそうと名乗って俺を面食らわせる、「小笠原ヒデのファン」なのであろうか。俺が記憶の中を探っていると、彼女は言った。
「私のことなんか覚えてないかな。あのねあのね、もうじき夫が来るの。私が先に神戸に来てて、神戸で待ち合わせしてたのね。待ち合わせはどこにしようかってふたりで相談してて、私が言ったのよ。hideブログで見た「酔っ払いカモメ」って店は? 夫も賛成してくれたからここにしたの。だからね、もうじき夫が来るから話しは手早くすませたいんだけど、小笠原英彦さんですよね。hideブログの主でしょ。私は……」
「下川さんだろ」
 記憶の中から探り当てた若い女の子は、学生時代にもこうやって喋っていた。
「下川乃里子さんだろ。何年ぶりだろ。俺を覚えててくれた? ブログを読んでくれて思い出した?」
「覚えてはいたけど……やっぱり小笠原くんっ!!」
 三十代になっているのだから、いささかは老けたのはまぎれもない。けれど、俺の手を両手で握って泣きそうな顔をしているのは、俺の記憶のまんまの女性だった。
「今さらなんだけど……小笠原くんは知ってるんだものね。そのような話も、ブログに書いてたでしょ。夫が来るとちょっと……」
「実名は出してなかったけど、悪かった? 旦那の前では言わないから」
「うん。お願いね。悪くはないんだよ」
「この店の名前もブログに出したから、なんだか客が増えたみたいなんだよな。マスターは嬉しいというよりも、迷惑がってるのではないかと……おまえがよけいなことを書くから忙しなったやんけ、と内心では怒っているのではないかと……」
 言いつつ窺ってみると、マスターは聞こえてもいない顔でグラスを磨いていた。
 同じ大学の女子合唱部の、同い年の下川乃里子。彼女は一年生から二年生にかけては本橋さんとつきあっていて、別れたせいなのか合唱部は退部して、俺たちの前から姿を消してしまった。俺は卒業するまで合唱部にいて、卒業してからもフォレストシンガーズにいて、フォレストシンガーズをやめてからは合唱部出身の女と夫婦になっていた。
 なのだから、下川さんの噂は聞いたのかもしれない。聞いたのだとしても覚えていないのは、俺の中での彼女は「本橋さんの一時の彼女」でしかなかったからだろう。
「私は淡路島の出身で、淡路島で結婚して子供もいるの。子供は姑に預けて、今日は神戸へ仕事の資料探しを兼ねて夫とデートなのよ」
 下川ではなくなっているらしいから、乃里子さんと呼ぼう。そんな乃里子さんとこうして会えたのは、ブログのおかげなのか。
 熱心にコメントをつけてくれて、ヒデさんのファンです、と言ってくれる女性もいる。女性のふりをしているネカマって奴もいるのだそうだが、女性だと言っているひとは女性だと信じる。男性だと言って、普通にコメントをつけてくれるひとも、下劣低劣コメントを残していく奴もいる。
 嬉しいコメントには心で礼を言い、迷惑コメントは即刻削除し、俺は返事はしない方針でいる。コメントはまあ多いほうではあるが、俺は有名人ではないのだから、ブログのアクセス数もそれほどでもないだろう。
 それでも、ブログをやっているおかげであろう出来事はいくつかあった。匿名で幸生がコメントをつけてくれたり、こうして学生時代の友達と再会できたり。
 「Drunken sea gull」の店名をブログに書いたせいで、マスターは気に入らないのかもしれないが、俺としては乃里子さんに会えて嬉しかった。病院で栄養士をしている、家には子供がふたりいる、そう話してくれる乃里子さんは、淡路島に住んでいるのだから、神戸は近いのだ。
「子供たちが大きくなったら、フォレストシンガーズにはお母さんの彼氏がいたんだよ、って自慢してやろうかな、なんて思ってるんだけど、夫には言いたくないな」
「言ったらいいじゃないか。妬かせてやれよ」
「信じてもらえないかもね」
「俺が横から保証してやろうか。俺は知ってるんだから」
「やめてよね」
 言葉遣いも学生時代のままに戻って、カウンターに並んで乃里子さんと話す。彼女はこのあとは夫と食事だそうで、甘そうなカクテルを飲んでいた。
 この店のマスターについては俺は詳しくない。名前さえも知らないのだが、マスターはカクテルにはたいそう詳しい。俺は甘いものは好きでも酒の甘いのは好まなくて、甘くなくてもカクテルには興味も
ないので、カクテルを飲んでくれる女客は嬉しいはずだ。
 なのにやっぱりつまらなそうな顔をして、マスターはカウンターのむこうでギターを爪弾きはじめる。他にも客はいて、目配り、気配りはしているようだが、俺たちの会話だって聞いていたにちがいない。マスターが弾いている曲は、フォレストシンガーズのオリジナルだった。
「私はしばらくは、フォレストシンガーズは見ないようにして、そんなものはこの世にはないんだって顔をして暮らしてたの。何年か前に吹っ切れてからは、CDだって買ってるよ。公式サイトを見たり、小笠原くんのブログを見たりもしてるの。この曲、小笠原くんが作曲したんだよね」
「ああ、まあな」
 なにを考えてやっているのか知らないが、人の悪いおっさんである。
「小笠原くんのブログは評判になってるんだよね」
「そのようでもあるけど、ったってたかが素人のブログだし……」
「フォレストシンガーズが有名になったからでしょ」
「そうなんだよな」
 乃里子さんとそんな話をしていると、店のドアが開いた。乃里子さんはそちらに目をやり、俺には目配せで挨拶して離れていった。
 年頃は乃里子さんとも俺ともそう変わらない、普通の男だ。痩せ型で神経質そうにも見えるあいつが乃里子さんの夫か。姓は聞かなかったが、甘いムードもなんにもなく自然に語らっているふたりの感じからしてもそうなのだろう。
 夫婦を見ると、恵と瑞穂はどうしているのかと考えてしまう。俺のもと妻は学生時代には乃里子さんとも友達だったけれど、恵の近況なんかは乃里子さんは知らないだろう。知ってどうなるものでもなし、尋ねる必要もない。
 夫らしき男があらわれてからというものの、乃里子さんは俺には目もくれなくなった。紹介してくれるつもりはないらしい。あの男は嫉妬深いのか、単に面倒なのか、俺としてもどうでもいいので無視していて、マスターも知らん顔をしていた。
 夜の近い時刻のバーは、徐々に混みはじめている。マスターは嬉しくもなさそうな顔で客をさばいている。何組かの客が出ていったり入ってきたりしている。乃里子さんとその夫が席を立ち、入れ替わりに別の客が入ってきた。
「知り合い?」
 若い男の声に続いて、知っている声が聞こえてきた。
「知り合いのような気がしたんだけど、一瞬しか顔を見なかったんだ。凝視するのは失礼だし、彼女が視線をそらしてしまったから」
「男連れだったよね。乾さんのもとカノ?」
「そうじゃなくてさ……」
 一方は全然知らない声だが、彼が話しかけている相手は「乾さん」。声からしてもあの乾さんにまちがいはなかった。
「いいんだよ。見間違えたのかもしれない」
「なんだかわけがありそう?」
「なんにもないよ」
 ここで乾さんに気づかれて、ヒデと呼びかけられたとしたら? 不都合はないはずだが、もしや客の中に「小笠原ヒデのファン」だとかいう酔狂な人種がいたとしたら? 乃里子さんはブログの話もしていて、そのときには俺たちの会話に首を突っ込んでくる奴はいなかったが、客が入れ替わっている。
 自意識過剰であろうか。この世の中にはヒデファンなんてほとんどいないはずだが、この店はそういった人種と遭遇する可能性の高いスポットなのだ。俺がブログに書いたからこそであって、「ヒデ」の名に反応する奴もいないとは言い切れない。
 いつかはフォレストシンガーズの人気投票なんてものをやって、ヒデが五位になったと聞いた。六位になった幸生はおおいに腐っていたものだが、そういう変なファンはいるのだ。なんだって俺に投票する? 信じられないけど、嬉しくなくもなかったりして。
 こそーっと立ち上がって逃げ出そうとしていたら、乾さんと視線が合った。えへへへっと笑ってごまかして外に出てから、逃げるのは変かと思い直す。走ろうかとどまろうかと思案していると、乾さんと連れ立って店に入ってきた若い男が出てきた。
「ヒデさん? 小笠原のヒデさん?」
「そうやけんど、きみは?」
「乾さんが言ったんだ。ヒデさんには乾さんに会いたくない理由がありそうだけど、おまえだったらいいだろ、って。ヒデさんって人についても乾さんから聞いてるよ。僕はテツシ」
「テツシって俺は知らんけど、何者? 歌手か」
「……僕は乾さんの恋人」
 げーっ!! と叫びそうになってあやうく自制した。嘘だ嘘だ、嘘に決まっている。テツシの表情からしても嘘だ。乾さんと幸生は怪しげな芝居をやってはいるものの、普通に女好きの普通の男のはず。幸生にだったら起こり得ても、乾さんが男の恋人を持つとは起こり得ない。
 いや、幸生にだってないはずだ。テツシは俺をからかおうとしているのだ。ジャケットのポケットに両手を突っ込んで険しい表情を作って睨んでみせると、テツシは一歩後退した。
「僕は乾さんが好きなんだけど、乾さんは僕を恋人にはしてくれないんだよ。でも、神戸に連れてきてはくれた。ヒデさん、僕の話を聞いてくれる?」
 男が男に恋をして、恋人にはしてもらえずに片想い。乾さんは異性愛者なのだから、それだったら絶対にないとは言えない。なにかしらわけがあるのだろう。乾さんもテツシから俺にその話をさせたいのだろう。だからテツシと俺をふたりきりにしようとした。
「いいよ。あのバーじゃよくないんだったら、よそに行こうか」
 この近辺には他にもバーはある。一、二度は入ったことのある「帆影」という名のバーにテツシを連れていった。
「僕の故郷は瀬戸内海の島で、ギタリストになりたくて東京に出たんだよ」
 二十歳だそうなので、テツシにもハイボールをオーダーしてやって、飲みながら話した。
「だけど、ギタリストになんて簡単にはなれないよね。それでも、ミュージシャンの知り合いは何人もできた。僕は男にも女にも興味があるから、何度も何度も人を好きになったんだ」
 男も女も好きになるなんて、身体がいくつあっても足りない気がするが、バイセクシャルってやつなのだろう。俺には窺い知れない世界であるので、相槌だけで聞いていた。
「一時はうんと年上の男のひとと同棲してた。ケイさんっていう音楽関係の男だよ。そのころに乾さんと知り合って、ケイさんよりも乾さんのほうが好きかなって思うようになって、だけど、乾さんはゲイでもバイでもないから、僕を好きになんかなってくれないでしょ。ケイさんには嫌われかけてたから、乾さんのところに行きたいなって思ってたんだけど、乾さんは僕と同棲なんてしてくれないよね」
「だろうな」
「だからさ、僕は……女に走ったんだよ」
「女か」
 そのほうがいいような気もするが、実は男のほうが好きな彼氏というのは、女から見たらどういうものなのだろうか。俺にはそれも窺い知れない感情だった。
「その女は僕がゲイだって知ってる。だから僕のことはペットだって決め込んでて、僕は女には興味ないんだって思ってて、僕の前で平気で裸になったりするんだよ。男が来るから、テツシはよそで寝て、なんて言われたりもするの」
 それは恋人同士ではない。俺の頭の中は次第にどろっのぐちゃっとなりつつあった。
「あったま来るじゃん。乾さんにはそんな話しをして、あいつ、いっぺん襲ってやろうかなって言ったんだけど、やめろって言われたよ」
「そういう関係そのものをやめたらいいんだろ」
「ああ、そうとも言えるね」
 意外そうに俺を見てから、テツシは俺の手を取った。
「ヒデさんって怖そうにも見えるけど、いいひとなんだ。好きになっていい?」
「……」
「そんな不気味そうに見ないで。ねえねえ、僕をヒデさんの家に連れていって。僕は瀬戸内海出身だから、神戸だったら暮らしやすいと思うんだ。だから乾さんに神戸に連れてきてもらったんだもん。田舎はいやだし、東京ももういやだから、西の都会に来たかったんだ。バイトを探すから、当座はヒデさんの家に置いてよ。同棲しようよ」
「……その手を離さないと、俺はなにをするかわからんぞ」
「……怒った?」
 乾さんの知り合いではなかったとしたら、逆上していたかもしれない。どうにかこうにか怒りを鎮めていたものの、相当な剣幕だったのかもしれない。テツシは怯えた顔になって手を離した。
「乾さんはまだしも、そういうことを言われても怒ったりはしないんだろうな。幸生と乾さんはそういう意味では特殊なんだろうけど、俺は特殊の「と」の字もないほどに普通なんだ。それだけはやめてくれ。好きにならないでくれよ」
「好きだもん」
「この次に好きだと言ったら、俺は帰るぞ」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
 気持ちを落ち着かせようと、洗面所に行って顔を洗った。男が男に好きだと言ってもかまわないようなものだが、あのたぐいの「好き」を聞かされると脂汗がにじむ。時代錯誤の偏屈のと言われようとも、俺はあれだけは絶対にいやなのだ。
 ネットの世界にはそのたぐいの愛ってやつをテーマにしたサイトがあって、フォレストシンガーズのファンサイトだと軽い気持ちで覗いてみたら、幸生と乾さんの抱き合う絵がふいに出てきたりする。本橋さんと章のラヴストーリィもある。小笠原英彦までが登場したりもする。
 その手の世界にはシゲは登場しないようで、そういった事柄が似合わない奴だからであろうが、俺にはシゲがうらやましい。頼むから俺の友人たちでそうやって遊ばないでくれ。とりわけ俺は登場させないでくれ。
 男同士で云々している世界と比較すれば、みずきさんの小説はまともであった。幸生ではなく女のユキが乾さんの恋人だったのだから、あのほうがよほど受け入れやすいのだと俺も知ったのだった。
 顔を洗ってうがいをして席に戻ると、テツシが煙草を吸っていた。慣れていないのはミエミエのポーズで吸って咳き込んでいるので、背中をさすってやった。煙草なんて紙幣を灰にしているようなものだ。今どき流行りもしないのに、二十歳になったからって吸いはじめなくてもいいものを。
「……乾さんは煙草を吸うじゃないか。僕はすこしでも乾さんに近づきたくて……」
「そんなに好きなのか?」
「好きだよっ。ヒデさんも好きっ!!」
 あいつもこいつも好きだとは、ゲイだのバイだのって人種はまったく俺には理解できない。抱きつかれそうになって身をかわすと、テツシはストゥルから落っこちて泣きじゃくりはじめた。
「泣くな!!」
 小声で怒鳴るといっそう泣き出す。他に客はいなかったのだが、バーの従業員も俺を白い眼で見る。ゲイのカップルの痴話喧嘩だと思われているのかと想像すると悪寒がしそうになって、俺はカウンターに札を叩きつけた。
「俺は帰るから、おまえは好きにしろ」
「ヒデさん、捨てないでっ!!」
「おまえはなぁ……」
 二の句が継げなくなって、もうちょっとでテツシを殴りそうになった。殴らずにすんだのは、乾さんが店に入ってきたからだった。
「テツシがケータイで教えてくれたんだよ。ここにいるって。お騒がせしてすみません。ヒデ、どうする?」
「……なんなんですか、こいつは」
「なんなんだか、俺はたった今、ここに来たばかりだから知らないけど、おまえにもテツシがなにか言ったのか、したのか?」
「なにかしたと言うよりは言ったんですけど、俺には耐えがたい台詞の……」
「うん、よし、わかった。およそはわかったよ。テツシについては俺が責任持つし、タクシー代も払うから、ヒデ、頼む」
 俺のアパートに連れていけという意味であろう。バーでごたついているよりはましだろうし、乾さんもいるのだから、そうしようと俺は腹を括った。
 タクシーの中ではテツシはさめざめと泣いていて、運転手に妙な目つきで見られた。乾さんも俺も無言でいたのだが、これは乾さんが悪いんだ、と内心で言っていたので、俺としてもなんとか耐えられた。アパートに到着すると、俺はテツシが言ったことやしたことをかいつまんで乾さんに告げた。
「まあ、だいたいはその通りなんだけど、随所に嘘が散らばってるんじゃないのかな。まあ、些細な嘘だからいいとして、テツシ、ヒデには駄目だぞ。それは通用しないよ」
「そうみたいだね。そういう男って嫌いさ」
「おまえはヒデを好きになったんじゃないのか」
「乾さんだってヒデさんだって、男に好きだって言われたら不気味がるんでしょ。そんな奴は嫌いだ。だけど、いやがるからよけいに言いたくなるんだよ」
 そうだったのか。ああ、よかった、と俺は胸を撫で下ろし、乾さんはため息をついた。
「僕はやっぱりケイさんが好きなんだよぉ」
「泣いたってしようがないけど、そうなんだな。帰りたいんだろ」
「帰りたいけど、帰らないんだもんっ!!」
 バーではまだ控えめだったのか、テツシは盛大に泣き出し、乾さんと俺はキッチンへと避難した。狭いアパートなので部屋は一室しかない。テツシに泣かれていると話もできないのだった。
「俺たちの八周年記念ライヴにさ」
 小さくはない男がふたり、キッチンの椅子にかけていても狭いのだが、テツシの涙の空気が漂う中でコーヒーを飲みつつ話していた。
「ヒデは来てくれなかったけど、酒巻に誘われていたんだろ」
「はい。誘われてましたけど、行くって心境にはなれませんでしたよ」
「それはいいんだけど、あのツアーの神戸でのライヴに、本橋の昔の彼女が来てくれたんだよ。おまえも知ってるひとだ」
 日本の政令指定都市を回るライヴツアーだったとは、俺も酒巻から聞いていた。その後にもフォレストシンガーズ初の全国ツアーの話題は出るので、あれか、と思い当たった。本橋さんの昔の彼女、俺も知っているひと、「Drunken sea gull」で出会ったひとだ。
「俺は彼女が本橋と話してるのを見ただけで、なんにも知らないんだよ。どんな話をしていたのかも知らない。あれから本橋は結婚して、それから彼女はどうしたんだろうな」
「彼女のほうも結婚したって、風の便りで聞きましたよ」
「ああ、そうか」
 乾さんはもちろん気がついていたのだろう。乃里子さんはすこし老けてどしっとした働く主婦、母に見えていたのだから、幸せなのだろうと俺にも思えた。だから、それ以上は話す必要もない。
 こうして自分以外の誰かに気配りをするのが、乾さんの性格なのだ。だからこそテツシをも気にかけている。乃里子さんの話はもういい。それよりも、テツシの言っていたケイさんと、彼をペット扱いしているという女が気になった。
「ケイさんとそれから彼女か。テツシに聞いたんだったら話すけど、まったく、ああいう女ってのは世も末ってのかな……そうひとことで言い捨てていいものか」
「男をペットだなんて言って、それでいてペットではない男と遊んだりもするんでしょ。そういう女は世も末ですよ」
「男だったらいいのか?」
「男はまあ……」
 本能もあるわけで、と口の中でもごもご言っていると、乾さんはふいっと話題をそらした。
「誰にだって事情ってのはあるんだろうし、なににしたって一概には言えない世の中だろ」
「話題はそれてないんですか。だとしても、そういう女は最低です」
「ヒデだとそうかな。本橋に似た気質だもんな」
 おまえは単純明快でいいな、と言われているのかもしれない。そうだとしても嫌いなものは嫌いだ。ゲイも遊びで男と寝る女も嫌いだ。
「それで、テツシはどうするんですか」
「お節介のかっこつけのって章には言われるんだけど、テツシがいまだ愛している男に、連絡を取ってみようか。神戸でのホテルは確保してあるから、彼にそこへ行ってもらうとしようか。話し合いは当事者同士でするのがベストだろ。俺は明日には東京に帰るから、ケイさんに話すよ」
「ケイさんって男が、テツシは捨てると言ったら?」
「そうなったら……ヒデ、そうは考えさせないでくれよ」
「うまく行くように祈りましょうか」
 狭い部屋にふたりを泊めるわけにはいかないが、もしやテツシがケイさんとやらに捨てられたら、神戸で暮らす手助けはしてやろう。そうなったとしてテツシが俺に妙なことを言ったとしたら?
「ヒデ、なにを考えてるんだ?」
「いえ。乾さんの首尾を見てから言いますよ」
 テツシは本気で俺を好きになったのではないようだが、もしや変な気を起こしたとしても、俺には強い味方がいる。
 俺が働くヒノデ電気店のアルバイト、高畠新之助だ。彼は大学生で、思考が柔軟なのである。ネットやアニメのおたくでもあるので、現代風俗には精通している。テツシの取り扱いに困ったら新之助に頼ろう。
「ちょっと話はしましたよね。新之助って奴がいまして……」
 隣室のテツシが泣き止むまでの間は、乾さんに新之助や、もうひとりの友達、幸生に似た小学生の日野創始の話をしてすごすつもりだった。

 
4・章

 現メンバーの住まいの都合などもあるらしくて、プシィキャッツの再結成ライヴは神戸のホールで行われると言う。神戸といえばヒデさんがいて、乾さんもなにやらしている様子だ。
「プシィキャッツか。ヒデの若い友達もロック好きだそうだから、行きたがるかもしれないな。誘ってみようか」
 乾さんが言い、誘うんだったらご自由にと応じておくと、当日には俺がはじめて会う奴があらわれた。話には聞いた覚えがある、ヒデさんのパソコンの先生でもある新之助だ。背の高い爽やかなルックスをした奴で、俺の嫌いな外見の持ち主ではあったが、ヒデさんがお世話になっているのだから、チケットをプレゼントしてやった。
「ええんですか」
「いいんだよ。プシィキャッツの奴らは大きく出やがって、神戸の大きなコンサートホールでライヴだろ。そのわりには宣伝が行き届いてなかったみたいだから、チケットは残ってるって言ってたぜ。グラブダブドリブのドルフが出るってのにこのざまなんだから、けーっ、ざまあ見ろ」
「章、おまえ、ひがんでるだろ」
「ひがんでませんよーだ」
 ヒデさんにはそう言ったものの、ひがんでいるのかもしれない。開き直れるようになったのも大人になった証拠だと割り切っておこう。
 そういうわけなのでチケットはソールドアウトしていない。俺はプシィキャッツライヴの特別ゲストという形なので仕事であるが、乾さんはオフの遊びとして観客としてライヴに来てくれている。ヒデさんと新之助も同じく。
 乾さんはチケットを買ってくれたのだが、ヒデさんと新之助には俺がプレゼントした。うちの他の三人にもプレゼントしたので、スケジュールの都合がつけば顔を出すと言っていた。
 ライヴが開始するまでは、俺はステージの袖から客席を見ていた。チケットは残っているといっても、さすがにグラブダブドリブのドルフ・バスターの威力か。プロのミュージシャンの姿がライヴホールでは目につく。加西チカも実力は折り紙つきのスタジオミュージシャンなのだから、玄人受けも相当するのであろう。
 東京が本拠であるはずのシンガーやギタリストもいる。作曲家なんかもいる。関西のDJなどもいるのだろう。すべての人間が何者なのかは知らないが、素人ではなさそうな人種がほうぼうにすわっている。そんな中に、テツシの姿も見えた。
 すこし前に高速道路をよろよろ歩いていたのを保護したから、テツシには男の恋人がいると知ったのだ。ひょろろっとした外見も覚えている。テツシのかたわらには中年の長身の男がいる。あいつがケイさんという編曲家なのか。
 彼らの住まいも東京のはずだが、わざわざプシィキャッツを見にきたのか。ケイさんはチカかドルフと知り合いでもあるのだろうか。俺がそんなふうに思っていると、テツシに近づいていく女が見えた。
「……どこに行ってたの? 帰っておいでよ」
 あれはミルキーだ。俺はステージから降りて客席へと回った。
「テツシってこのひとと? やだ。気持ち悪い」
 不快そうに黙っている中年男と、そ知らぬふうを装っているテツシの近くの席に、乾さんとヒデさんと新之助もいた。ミルキーはぐるっと周りを見回して、乾さんに眼を留めた。
「乾さんも来てたの? ねえねえ、知ってた? テツシとこのおじさんったら……」
 ミルキーを遮って、乾さんはクールに言った。
「あなたにたったひとつだけ、お願いがあるんですよ」
「なに?」
「俺にももちろん、俺の関わる人々にかまわないでもらえませんか」
 おー、きつっ、乾さんらしい台詞だ。ミルキーと乾さんにはなにかあったのだろうか、と思っていると、ヒデさんが小声で言った。
「俺はあんたみたいな女は……」
「ヒデさん、やめとき」
 止めようとする新之助ににやりとしてみせてから、ヒデさんは言った。
「俺はこういう女は好かん」
「ヒデさん、なんかあったん?」
「別になんにもないよ」
 ヒデさんはとぼけているし、乾さんはそれっきり黙りこくってしまって、新之助ひとりがやきもきしているようだったが、ミルキーがらみでなにかあったのだろう。テツシもからんでいるのだろうか。悔しそうな顔をしているミルキーに、俺もなにか言ってやりたい。
 けれど、乾さんのひとことはかなりきつかったし、ヒデさんのほうは冷たさは少なめとはいえ、きびしかった。ここで俺がなにか言っても、焼け石に水か。逆効果か。ミルキー、かわいそうかもな、と思ってしまいそうになって、いいや、いい気味だと心で悪罵しておいた。


 そしてそして、ライヴがはじまる。言わせてもらえばこんなバンドにはもったいないドルフのドラムソロが、イントロとなって会場に轟き渡り、一気にヒートアップした。
 こんなバンドだなどと言うとチカに蹴られるだろう。チカだけではなく、マナもリリもセナも気の強い女だったから、アマチュアロッカー時代の俺はしばしばこいつらに苛められていた。セナとはスーに捨てられてからも……あのときの女は……などという想い出は忘れよう。
 過去は忘れて俺もロックキッズに戻ろう。リリのシンセとマナのベースとドルフのドラムとチカのギターと、セナのパワフルなヴォーカルに酔い痴れよう。そのうちにはセナがあの声で、アキラーっ!! おいでよーっ!! と叫ぶだろうから、そのときにだけアキラに戻ろう。

「If I could stick my pen in my heart
 I'd spill it all over the stage
 Would it satisfy ya'
 Would it slide on by ya'
 Or would you just think the boy's strange
 Ain't he strange

 If I could win you
 If I could sing you a love song so divine
 Would it be enough for your cheating heart
 If I broke down and cried
 If I cried if I cri-yi-yied

 I said I know it's only rock'n roll but I like it
 I said I know it's only rock'n roll but I like it
 But I like it
 I like it
 Yes I do
 Well I like it
 I like it
 I like it
 I said can't you see
 this old boy's getting lonely」

 なんだっていいんだ。理屈がどうあれ皮肉がどうあれ、俺はロックが好き。たかがロック、されどロックが好き。
 ヒートアップするホールの熱気に身をゆだねていると、あんな女だと知っていてさえも残るミルキーへの未練も忘れていられる。過去のあれこれも忘れていられる。乾さんやヒデさんの態度からすると、ミルキーって女はかなりとんでもないのかとも思えるが、それだってどうでもいい。
 テツシもケイさんも新之助もどうでもいい。ライヴが終わったあとのことは終わってから考えることにして、俺は一介のロックキッズだ。こんなバンドだなんて言ってごめんな。プシィキャッツは最高だよ。
 チカ、マナ、セナ、リリ、ドルフ、おまえら最高だよーっ!! 立ち上がって叫んだ俺に、ステージの女たちが声をかけてくれた。
「アキラーっ!! 上がっておいでよっ!!」
 待ってましたっ!! 聴いているのもいいけれど、そっちに加わるのはさらにいい。章、行けよ、お、章も歌うのか、との乾さんやヒデさんの声と、アキラ、アキラと呼ぶ女たちの声が渾然となって、俺の過去と現在も渾然となって、それがひどく快かった。

END



 
 





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~ Comment ~

NoTitle

乾さんにだったら告白しますとも!
12歳年上でもオッケーですとも!
むしろどうぞヨロシクです!!

と、心の中で叫んだことをご報告いたします。

最近、メンバー全員が実際にいるんじゃないか(特に乾くん)と、
思い始めています。
願望とは恐ろしいデス。。。

乾くんとテツシくんの布団の中の会話を読んで思い出したのですが、
私も以前、2組の布団に3人で寝たことがありました。
とはいっても親と、ですが……スミマセン、おもしろくなくて。
父は大の字になって寝るのでほとんどひとりで使うと考えると、
母とふたりでひとつの布団に寝る、となって、
私が父と母にはさまれるような川の字で眠りました。

父は自分の布団からはみ出すことはないので、
蹴られることはなかったのですが、
最初は端で寝ていた母も、もそもそと動きだし、
なかなか寝付けなかった私が避けるような形になり、
最後には並べた布団と布団の隙間にハマって、
父の大きないびきに耐えながら眠りました。

翌日、睡眠不足だったのは言うまでもありません。


先日、ショッピングモール内にあるペットショップで、
とてつもなくカワイイ猫がいました。
子猫、というには少し大きい猫だったのですが、
そわそわ体勢を変えながら寝ていたのです。
ニヤニヤしながら見ていると、急に起きて前足でタオルをモミモミ。

発狂寸前の私の目の前で、
今度はモミモミしながらそのタオルをちゅーちゅー吸い始めたのです。

もう、たまりません。
萌死にそうでした。

ハルさんへ

いつもありがとうございます。

お、おお、告白してやって下さいますか。
乾くんも喜びますよ。
いつかきっと、ハルさんの前にうちの隆也を連れていきます。

いてくれたらいいんですけどね、フォレストシンガーズ。
私も会いたいなーっ!!
会ったら取材攻めにして、もっともっともーっと書きたいです。
最近はネタ切れでして、昔のエピソードを焼直したりしています。

猫好きのハルさんには、こんなストーリィはいかがですか。

http://quianred.blog99.fc2.com/blog-entry-1241.html

コラボさせてもらった大海さんも猫好きでいらして、マコトのお話をいくつも書いておられます。
limeさんは猫耳少年マコトの絵を、他にも描いておられます。

仔猫のしぐさってほんと、可愛いですよね。
うちのメタボ猫もよその方が見ても可愛くないでしょうけど、私から見ると可愛いです。

うちに来たばかりの500グラムしかない仔猫だったころ、うちの猫は人間の指や手に吸いついてました。きっとまだ母乳が恋しかったのでしょうね。

あるとき、私にくっついていた猫が、私の右耳のうしろにあるほくろを発見しました。
このほくろはぷくっとしていて、ちょうど母猫のCHIKUBI(この単語を漢字で書くと、はねられる恐れがありますので)に似た大きさなのですよね。

そのほくろに吸い付いた猫にちゅうちゅうやられて、気持ち悪いやらくすぐったいやらだったのを思い出します。
すこし大きくなると忘れてしまったようですが、一時はほくろを隠してました。
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