番外編

番外編5(Gracias a la vida)前編

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番外編5

「Gracias a la vida」前編

1

 これは大変なサークルに入ってしまったのではなかろうか。合唱部などというものは、みんなで楽しく歌っていればそれでいいのだろうと考えていたのだが、認識が甘かった。入部した当時は右も左もわからないままに先輩の言いつけに従って動き、そうしているうちに見えてきたのだ。
「うちの合唱部ってものすごく封建的だよな。運動部並の体質を持ってないか?」
「今さらなに言ってんだよ」
 同年の皆実聖司に問いかけると、当たり前のことを言うな、と言わんばかりの顔をする。一年生たちもとうに気づいていたのか。知らぬは俺ばかりだったのか。俺は察しが悪いのか、と愕然とした。
 幼稚園時代から皆実とは友達だった。あのころは「せいちゃん」「しょうちゃん」と呼び合っていた。彼は「せいじ」俺は「しょういち」、聖司、将一だ。小学校も同じだったのだが、皆実は小学校三年生で転校し、中学は別々、高校で再び同級生になった。高校生ともなると、せいちゃん、しょうちゃんは面映くて、皆実、金子と姓で呼び合うようになったのだった。
「大学には行くんだろ。皆実はなにを学びたい?」
「福祉学をやりたいんだ。金子は?」
「俺は言語学に興味があるんだ。受ける大学も決めた」
「俺も決めたよ」
「どこ?」
「おまえは?」
 せーの、で口に出した大学は同じ。幼稚園の三年間、小学校の三年間、高校の三年間、そしておそらくは大学の四年間、皆実とは十三年間も同級生でいることになるのだろう。とはいえ、大学では学部は別々だ。
 皆実は高校時代にも合唱部にいて、大学でも合唱部に入るつもりでいると言った。だったら俺も合唱部にしようか。ゴルフ部やスキー部ってのも面白そうだけど、不真面目な遊び人が群れているのではないかと思える。合唱ならば真面目そうでいいではないかと、軽い気持ちで皆実にくっついて部室のドアを叩いた。
 それから約一ヶ月、熱血漢の先輩ぞろいの合唱部に驚いていたのも一段落して、これは大変かもしれない、と考えるようになっている俺に、皆実は言った。
「俺は合唱部の下調べはしたんだ。歌とは限らず、先輩たちの中からは数人のプロのミュージシャンが出ている。作曲家やプロデューサーになっている人もいる。それゆえに学校サイドも合唱部には熱の入れ方が半端じゃないし、部員もすこぶる熱心だと聞いてた。だから入部したんだよ。遊び半分のサークルなんて俺はまっぴらだ」
「……教えてくれたらよかったのに」
「いやなんだったら退部したらいいだろ」
「いやじゃないけど」
「はっきりしない奴だな。金子、俺は本気でやるぞ。おまえの決意が中途半端なんだったらやめろ」
「やめないよ」
 楽しくないわけではない。俺は高校時代には読書クラブなどという生ぬるい部に入っていたので、熱血サークルにはなじみがないだけだ。読書好きがひとひねりして言語学に興味が出て、言語学者になりたいと思うようになって、大学での学部を決めた。俺は現代文化学部言語文化学科、皆実は保健福祉学部人間福祉学科と、今後学んでいく道筋も決定した。
 それぞれに志望した学部に合格し、活動するサークルも選んだ。皆実と同じサークルにしようかな、と軽い気持ちで入部したものの、決定権は俺自身にあったのだから、今さらぼやいてもはじまらない。
「俺だって本気でやるさ。見てろよ」
「そう来なくちゃ」
 しかし、こうまで熱心に活動してるサークルでは、勉学がおろそかになるのではないだろうか。本末転倒っていうんじゃないのか? 先輩たちはまともに勉強してるのか、などなどと考えながら家に帰ると、妹のリリヤが待ち構えていた。
「お兄ちゃん、夏のお洋服を買いにいきたいの。いっしょに行こうよ」
「大学生は忙しいんだよ。おまえと遊んでいられないんだ」
「勉強なんかしてないくせに。そ、いっしょに行ってくれないんだ。いいもんいいもん。そんならデートに行くから」
「デート? おまえ、男とつきあってるのか。高校一年だろうが。早すぎる。おまえも勉強しろ」
「勉強なんかしてらんないよ。毎日毎日、男の子につきあってくれって言われるんだよ。よその学校の男の子にまで交際を申し込まれるし、断るのに忙しくて勉強してる暇がないの」
 兄の俺の目から見ても、リリヤは美少女だ。リリヤが初に男の同級生からつきあってくれと申し込まれたのは、彼女が十歳のみぎりだった。俺はそれを申し込んできた奴に確認したのでまちがいない。ガキが一人前につきあってくれだと? 本当にリリヤとつきあいたいんだったら俺を倒してからにしろ、とこっちも中学生のガキだった俺が言うと、そいつはぶるって逃げていった。
 それを境にリリヤに交際を申し込む男は引きも切らないのであるらしい。リリヤは口で言うほどには男に興味のないオクテ娘なので、今のところは安心していられるが、彼女が色気づいたらどうなるんだろう。暗澹としてくる。
「わかった。服を買いにいくのについてってやるよ」
「なにか買ってくれる?」
「安いのだったらな。そのかわり、リリヤ、おまえも一生懸命勉強して、うちの大学に入れ」
「合唱部にも? そしたらお兄ちゃんとデュエット? 素敵かもね」
「服を買って帰ってきたら、お兄ちゃんがピアノを弾いてやるよ。歌も教えてやる」
 母の意向で習わされたにすぎないので、俺はまったく熱心ではなかったのだが、リリヤも俺も幼少のころからピアノをやっている。一応は弾ける。正式な合唱経験はないけれど、音楽の素養はあるはずだ。リリヤのソプラノと俺のバリトン、リリヤか俺のピアノ伴奏で兄妹デュエットを披露すると、我が家を訪問してくる客たちもまんざらおべんちゃらでもなく喜んでくれた。両親は大喝采してくれた。
 なので、俺だって合唱部の一員としてやっていけるはずだ。事実、先輩も言ってくれる。金子はうまいな、深みがあって響きのいいなかなかの声質をしている、と。ただ、俺は合唱部の体質に戸惑っていただけなのだ。皆実、俺だってやるぞ、と決意しつつ、リリヤの買い物につきあってやるのも、それはそれで楽しいのだった。


 文系の学部でもあり、教養課程である一年生は勉学はまださほど大変ではない。けれど、合唱部の練習はきびしい。リリヤはなにかといえばお兄ちゃん、お兄ちゃんだ。それだけでも身体がもうひとつほしいのに、ある日、すこしばかり遅く部室に行くと、キャプテンの奈良林さんが言った。
「金子、おまえはピアノが上手なんだってな。これは弾けるか」
「ハープですか。ピアノとはまるっきり別ものですよ」
「ピアノは鍵盤楽器、ピアノについてはおまえに説明する必要もないな。ハープは弦鳴楽器。ハープは楽器用法としては弦楽器に属し、弓を使わずにもっぱらはじいて音を出すので、撥弦楽器に分類される。日本語では竪琴だな」
「はい、ですからピアノとは……」
 つべこべ言わずに弾いてみろ、と副キャプテンの田中さんも言い、面食らいっぱなしでハープの弦に指を走らせた。美しい音色が響き渡る。黄金の糸が奏でる幻想的なしらべに、合唱部のむくつけき男どももうっとりと聴き入っていた。
「金子、嘘をつくなよ」
 奈良林さんの声に手を止めると、二年生の高倉さんも言った。
「弾いたことないって? 先輩に嘘をつくのはよくないぞ」
「嘘ではありません。はじめてです」
「そんなはずないだろ。はじめての奴がそんな音を出せるもんか。アルペッジョ奏法ができてるじゃないか」
「アルペッジョじゃなくてトッポジージョなんじゃありませんか? 自己流ですよ」
「トッポジージョとは古いキャラを持ち出したもんだな。よし、ハープ奏者は金子だ。高倉さん、あとは頼みますよ」
「まかせておいて下さい」
 なんでこうなるのかさっぱりわからないでいるうちに、奈良林さんが決断を下し、みんなは出ていき、ふたりきりになると高倉さんが話してくれた。
「ハープはハープなんだけど、これはわりに小型で楽に弾けるタイプなんだそうだ。にしたって、誰に訊いてもハープなんてさわったこともないと言う。これはなんですか? と言った奴もいた。楽器の弾ける奴の大半はギターだ。誰かいないか、と相談していたら、金子はピアノがうまいと皆実が言ったんだよ」
「皆実ですか。ピアノよりギターのほうがハープには近いでしょうに」
「金子は楽器のセンスがいいとも、皆実が言ったんだよ。そしたらものはためしだ、金子が来たら弾かせようってキャプテンが言って、ぶっつけ本番で弾かせたらあれだろ。充分だよ」
「ハーブをなにに使うんですか」
「合唱の伴奏だ。他のなにに使うんだよ」
 夏休みには合宿があり、合宿で猛練習をして、夏休み終盤には合唱部のコンサートがある。今年のコンサートでは変わった楽器伴奏をしたらどうだ? との意見が、上級生たちの会議で出たのだという。田中さんが学内の交響楽団にいる友人に尋ねてみたところ、ハープを貸してくれた。交響楽団もコンサートは行うのだが、今回の曲にはハープは不要なのだそうだ。
「それならば、ハープ奏者も借りてきて下さいよ」
「ピアノ伴奏かア・カペラか。例年の合唱ではそうだったんだけど、今年は変わった趣向をお望みなんだよ。キャプテンは変わったことをしたがるんだ」
「俺はピアノだったら……」
「オーケストラでハープを弾いてる者に頼んでおくから、特訓してもらえ」
「その方に演奏をお願いできないんですか」
「すべて我が部でやるのがキャプテンの主義だよ」
 ろくろく返事にもなっていない対応の末に、高倉さんは言った。
「おまえは合唱とダブルの特訓だぞ。覚悟しておけ」
「……承知しました。あの、時に、高倉さん、前から気になってたんですけど、訊いてもいいですか」
「なにをだ? 俺の年か」
 さきほども奈良林さんは「高倉さん」と呼んだ。四年生が二年生に敬称をつけるとは、体育会体質の合唱部ではまずあり得ない。ひとつでも年下ならば目下として扱われ、先輩命令には絶対服従となる。それが証拠に、キャプテンも高倉さんも一年生の俺の意見には聞く耳も持たなかった。
 すると、高倉さんはキャプテンより年上か。先輩たちの会話を聞いていると、そうなのではないかと感じる節は多々あった。二年生が四年生より年上ということは……三浪以上? こうして間近で顔を見ると、高倉さんは大学二年にしては老けているので、俺の予測はまちがってはいないだろう。
「三浪だよ。ほら、野球部の大泉、知ってるだろ」
「野球部の文字通りの花形満ですね」
「おまえのたとえは古いけど、花形がスターという意味ならばその通りだ。その大泉と俺は同郷で同年。せめて大泉が学校にいる間に俺も合格したくて、苦節三年、ようやく大学に入れたんだよ」
 野球部主将の大泉さんは四年生。高倉さんは現役合格していれば五年生。そうすると大泉さんも一浪、あるいは留年している計算になる。高倉さんが来るのを待っていたのだろうか。
「さしつかえなければ、三浪の内訳を話していただけませんか」
 怒られそうな気もしたのだが、高倉さんはあっさり話してくれた。
「高校時代はそれほど成績も悪くなかったんだけど、一年目はひどい風邪を引き込んで試験が受けられなかった。二年目は腹をこわしてて、受験はしたもののまともに回答ができる状態ではなかった。三年目は山が大はずれ。いいわけなんだけどな」
「いいわけではありませんよ。不運だったんですね」
「去年は気力体力学力も充実してたから、一発合格を勝ち取った」
「おめでとうございます」
 めでたいかぁ? と俺を見返す高倉さんに、もうひとつ質問した。
「うちの大学以外は受験しなかったんですか」
「大泉と同じ大学に入ろうって誓い合って、広島から出てきたんだ。大泉は気にするなと言ったけど、約束は約束だろ」
「義理堅いんですね」
「田舎者は義理堅いんだよ」
「広島ですか。広島弁は出ませんね」
「出せば出せるけど……おまえはどこの出身だ?」
「地元です」
「東京っ子か。道理でな。うちの男子部には毎年歌は一級品の男が入部してくるけど、その分、面はどうも……ってのが多い。先輩たちを見てもわかるだろ」
「男の顔なんか見てませんから」
 なかなか言うじゃないか、と大声で笑って、高倉さんは俺の肩を叩いた。
「皆実も東京だろ。東京の男はちがうね。生まれてこの方東京の水に磨かれて育つんだから、おまえや皆実のような男に成長するんだろ。金子、俺はおまえの歌にも期待してるよ。ハープもだ」
「ハープは勘弁していただけませんか」
「勘弁はできない。二倍の努力をしろ」
 二年生の分際で僭越だから、あとはキャプテンに言ってもらうとするか、と言い残して、高倉さんは部室から出ていった。入れ替わりに皆実が入ってきたので、俺は言った。
「おまえだな。言わなくてもいいことを……」
「先輩たちが困ってらしたんだよ。おまえだったら弾けるんじゃないかと思ったら、見事なものだったぞ」
「やめろよ。恥ずかしい」
「恥ずかしくないよ。ハープって女性奏者が演奏するほうが似合うと思ってたけど、おまえだったらさまになるんだし、がんばれよな。歌はいっしょに特訓しよう」
「ハープはひとりでやれってか」
「教えてくれるひとがいるんだろ」
「オーケストラの先輩かよ。あっちも体育会体質か?」
「さあ。どうだろ」
 よその部の先輩にまで絶対服従か、と愚痴りたくなっていたら、先輩たちも部室に戻ってきた。こうなれば覚悟を決めてやるしかない。
 そこから先は怒涛の猛練習漬けとなった。コンサートで一年生全員が歌う合唱曲では、皆実はテナー、俺はバリトンパートに分かれて、先輩たちの指導を受けた。今年の四年生はかつてないほどに荒々しいのだと、二年、三年の先輩たちが噂していた通りで、気を抜いていると怒鳴られる。時には手も飛んでくる。暴力はいけません、と言うと、よけいに殴られる。
「俺たちが上級生になったら、下級生に暴力をふるうのはやめような」
「あんなの暴力ってほどじゃないよ。先輩にごつんとやられると活が入ってしゃっきりするじゃないか」
「……皆実、おまえもすっかり染まったな」
「よく考えてみろよ。失敗したからって殴ったりはしないだろ。たるんでるから殴られるんだ。それも軽くごつんだろ。俺は上級生になったら先輩たちを見習って、下級生たちの指導に当たる」
「気の毒だな、来年以降に入部してくる奴らが……」
 加えて、俺にはハープの練習もあった。どんな先輩が教えてくれるのだろうかと怖気をふるっていたら、あらわれたのはなんと女性だった。いや、なんと、ではない。ハープ奏者には女性が多いのだから。
 合唱部は男子、女子と分かれているので、平素は男の先輩とばかりつきあっている。体育会系とはまさしくであって、合唱部になぜにこんなにも荒くれ男がそろっているのかと首をかしげたくなるような男がひしめいている。穏やかな気質の先輩もいるにはいるのだが、穏やかなだけに彼らは前面には出てこないのだ。したがって後輩たちの印象では、荒っぽい先輩ぞろいだとなるのだろう。
 我が大学のオーケストラ部ハープ奏者でもあり、ハープ以外にも幾種類かの弦楽器を演奏するという女性の名は富士川あつみさん。ハープの弦をつまびくにはふさわしい、繊細な容貌のたおやかなひとだった。
「金子さん? 背が高いのね」
 声もハープの音色に似ている。ほっそりした身体をかろやかなワンピースに包んでいた。
「一年生よね。私は二年生。よろしく」
「先輩でいらっしゃるんですから、金子さんと呼ばれると……呼び捨てにして下さい」
「男のひとを呼び捨てになんかできないわ」
「将一と呼んでいただいてもいいのですけど……いえ、いいのではありません。将一と呼んでもらうと嬉しいです」
「将一さん? では、将一さん、はじめましょうか」
「はい。よろしくご指導のほどをお願い致します」
 手に手を添えて教えてくれるたびに、指に電撃が走った。耳元ではハープのしらべに重なって、雷鳴が聞こえる。白く細く長い指が俺の指に触れると、握り締めたくなる衝動と闘うのに骨が折れた。ハープの練習は夢見心地の中で進行していき、歌の練習となると気持ちを切り替えるのにも骨が折れた。
「金子、なんか変だな」
「変か……そうだろうな。恋患いだよ」
「誰に? 富士川さんか」
 力なくうなずいたら、皆実は言った。
「やめとけ」
「なんでだ? たったひとつの年の差は障害になるのか。ならないだろ」
「年の差じゃないんだよ。やめとけって」
 走り出した恋の暴走列車はどうにも止まらない。想いはひたすらに燃え盛り、幾度も幾度も告白しようとしては口ごもり、どうしたの? 将一さん? と尋ねる声に我に返り、恋心を持て余しているしかなかった。
「富士川さん、いいえ、あつみさん、俺の恋人になってもらえませんか」
 ある日ついに打ち明けたら、彼女は一瞬絶句し、それからあでやかにつややかに微笑んだ。
「ありがとう。嬉しいわ」
「では……?」
「将一さんにはもう私が教えなくても大丈夫ね。あなたには素質もあったのよ。私よりも腕前が上になった。今日で私のハープ教室の卒業免状をさしあげましょう。免許皆伝よ」
「あつみさん……そういう話ではなくて……」
「私も楽しかったわ。これからもがんばって下さいね」
 どうしてはぐらかすんだろう。いやならいやと言ってほしい。そう言わせてもくれず、あつみさんは直接の返答はしてくれずに、それっきり俺の前に姿すら見せなくなった。
 皆実はなにか知っているのだろうか。合唱部の先輩たちも知っているのだろうか。皆実には悟られたのだから、先輩たちの中にも気づいている人がいるかもしれない。皆実の意味ありげな台詞、詳しくは言わずにやめろと言った。なんらかの理由があるのか。富士川あつみさんとはどういった女性なのだろう。俺は彼女のプライバシーをひとつも知らないままだった。
 オーケストラ部には中学時代の同級生がいる。彼女をつかまえてさりげなく尋ねた。さりげなくのつもりだったのだが、彼女も女性の例に漏れず聡いようで、俺の気持ちを読んだかのように言った。
「富士川さんには噂があるんだよ。大学二年にしたらしっとり落ち着きすぎてるでしょ? 金子くんはそこに参っちゃったのかな。噂だから本当なんだかどうかはわからないけど、うーんと年上の彼がいるんだって。彼は結婚してるひとみたい。うちの先輩がね……これ以上言わせないでよ。私が悪者になっちゃう」
「噂じゃなくて真相? 先輩が決定的ななにかを目撃した? 年上の既婚者と恋人同士なんだったら、俺なんかはガキそのものだったんだろうな。富士川さんのあれは仮面? 実際は……いいよ。ふられたんだからきっぱり諦める。きみは悪くなんかない。ありがとう。じゃあさ、かわりに俺とつきあってくれない?」
「……金子くん!」
「冗談ではないんだよ」
「……ふざけるのもいい加減にして」
「どうして? 中学のときから俺はきみが……」
 なにをとち狂ってるんだ、と我ながら驚いていたのだが、口が止まらなかった。彼女の手を握ってなおも口説こうとしたら殴られて、走り去っていく彼女の背中を見送って虚ろな笑い声を立てた。
「皆実、知ってたのか」
「んん?」
「ふられたよ。おまえの情報網はどうなってるんだ? オーケストラに友達がいるのか。いいよ、言わなくていいよ。俺にもオーケストラに友達がいた。女の子だ。彼女からおおよそは聞いたよ。それで彼女に殴られた。おまえが言ったの、当たってたな。殴られるとすっきりするんだ」
「金子、なにを言ってるんだ」
「いいんだよ。ふられるのも人生修行じゃないか」
「金子、泣いてる?」
「俺はそんなにやわにできてない。なめるな」
「おいおい……俺はどうしたら……」
 支離滅裂になっていた俺も、歌と皆実の存在と、先輩たちの荒々しい励ましで立ち直っていった。先輩たちが俺の幼い恋と失恋を知っていたのか否か、それは不明だが、結果的には彼らの言動に救われたのだろう。
 かくして夏のコンサートでは、金子将一のトッポジージョ奏法と名づけられたハープ演奏による、一年生の男声合唱がおこなわれた。一年生の年が終わろうとしていたころ、富士川さんが大学を中退したとの噂が届いてきたけれど、その理由を知りたいとは考えないようにしてやりすごし、俺も一段階大人になったかな、と自己満足に浸っているふりをしていた。

 
2

 二年生の合宿初日の夜、浜辺で三年、四年の先輩たちが焚き火を囲んで、キャンプファイアをやっていた。男子も女子もいて、ビールを飲んだり歌ったり、語り合ったり笑ったり、焚き火に誰かがなにかを放り込んで小爆発を起こして大騒ぎしたりと、喧騒のひとときが起きていた。
「金子さん」
 その光景を見ていると、背後で女の子の声がした。振り向くと、一年生の沢田さんだった。
「あそこには一年生や二年生は参加したらいけないんですか」
「あのキャンプファイアではアルコールを摂取する。一、二年生にも成人に達している者もいるけど、二年生までは未成年とみなすって不文律があってね、よって、下級生は参加できないって掟があるんだよ」
「楽しそうだから私も行きたいなって思ってたんですけど、そんなわけがあったんですね。合唱部ってきびしいんだ」
「きびしい部分もあるけど、見ててごらんよ。ビールを飲んでる以外は、高校のキャンプファイアと変わりないんじゃないのかな。女の子をきゃあきゃあ言わせて喜んでる男とか、きゃあきゃあ言うのを喜んでる女の子とか……ほら、お決まりの花火だ」
「高校生はおおっぴらにお酒は飲めないけど、子供だから賑やかだし、あっちはお酒が入って別の意味で賑やか。ほんと、よく見ると高校生と変わりませんね」
「ああいうのも高校生でもやってるよね」
「ああいうの?」
 誰かと誰かが目配せをかわし合い、さりげなく場を離れていこうとしている。沢田さんの目が好奇心で輝いた。
「えーと、あれは……星さんと香取さん?」
「だね」
「お似合いですね。星さんってかっこいいし、香取さんは美人だし。えーと、星さんのほうがひとつ年下?」
「星さんは三年、香取さんは四年。男がひとつ下」
 一年生だった去年の俺の失恋相手は、ひとつ年上のオーケストラの女性だった。普通はたったひとつの年の差なんて障壁にもなりはしないはずだが、彼女はわけありだったのだろうか。それをはっきり知る間もなく砕けた恋は、もはや俺の中ではけりがついている。一度も彼女を抱きしめることもできずに終わった淡い恋だった。
「あっちは大人の恋なんだろうな」
「あっちは?」
「いいよ。沢田さん、どうしようっての?」
「ほんのちょっとだけ見にいったら駄目? ひとりで行くの、怖いんだもん。夜なんだもん」
「夜だね。だから駄目だよ」
「金子さん、ついてきて」
 そういう無作法な真似はいけません、とたしなめようとしたのだが、俺にも好奇心があった。俺は星さん自身にも興味がある。そうでなくても、ただいまの男子合唱部の中ではルックスナンバーワン、さぞかしもてるだろうと名高い星丈人と、美人が大勢いる女子部の中でも美しさでは一、二を争う香取澄恵の密会となると、ほんのすこしなら見てみたいという気分を押さえようがなかった。
「一瞬だけだよ。ふたりが甘い甘いムードになってたら、なにかが起きそうだったら退散しようね」
「なにかってなに?」
「夜の浜辺で男と女が……言わせるなよ。きみと俺がそんなシーンを覗き見してて、露見したらどうなると思う?」
「どうなるの?」
「そうなったらそのときのことだ。きみは顔を見られないようにして逃げなさい」
「金子さんは?」
「どうにか言い訳するから、その間にきみは逃げるんだよ」
「はーい。スリルがありますね。どきどきわくわく」
 どきどきわくわくもないもんだろ。これは覗き魔的行為なんだよ。見つけられたら俺が星さんにぶっ飛ばされるのはまちがいないんだよ。海に放り込まれるか、足腰立たなくなるまで殴られるか。内心ではぼやきつつ、ふたりして星さんと香取さんが消えた方向へと歩き出した。
「見つかったら、星さん、怒るかな」
「さあね」
「星さんって温厚なひとでしょ?」
「うーん……そうだろうね」
「怒ったら怖い?」
「先輩は怒るとみーんな怖いんだよ」
「女子部の先輩は怖くありませんよ」
「女子部は優雅なレディがそろってるけど、男子部はね……うちは男女を分けてるってのは……うん、正しい方針なんだ」
「なーに、金子さん? なにをもごもご言ってるの?」
「まあね、去年の四年生ほどじゃないだろうけど……あ、いるよ」
「いますね」
 キャンプファイアからは遠ざかったあたりに、寄り添う男女のうしろ姿が見えた。星さんは美丈夫と名づけるにふさわしい長身と凛々しい顔立ちの持ち主で、香取さんは星さんよりは低いものの、女性としてはかなり背が高い。見つめ合う横顔が見える。月明かりの中で俳優たちがドラマのロケをやっていると言っても、誰も疑わないであろうラヴシーンだった。耳を澄ませば、低く語らう声も聞こえてきた。
「ね、抜け出してどこかに行かない?」
「逃避行?」
「そこまでじゃないけど、ふたりっきりになりたいな」
「ふたりきりじゃないか」
「世界中の人はみんな邪魔なの。あなたとふたりっきりになりたいの」
「だったらいっそ、あの月は?」
「月世界で無重力ラヴ? いいね。行こうよ」
「俺の腕の中で無重力気分を味わわせてやるよ」
 そのあたりでぐっと声が低まったのだが、香取さんが背伸びして星さんの耳元で囁く声が、俺の耳には届いてきた。
「……だって、人がいる」
「今はいないって」
「いるんじゃないの? 気配を感じるんだもの。誰かが覗いてる」
「覗いてないって。気のせいだよ、澄恵……」
「ああん、駄目よ」
 ぐいっと香取さんを抱き寄せた星さんが、俺に視線を寄越した。咄嗟に沢田さんを背中に押しやり、押しやった途端に後悔した。こっちもカップルをよそおうべきだったのに、これではばれる。えー? どうしたの? と沢田さんが俺の背中で怪訝そうな声を出し、星さんは剣呑な目つきで俺を凝視している。距離はあるのだが、しっかりばれていた。
「はい、覚悟は決めました。行くよ」
「金子さん、どうしたの? なにがなんだか……」
「いいから黙って」
 小声で言いかわしてむこうのカップルに背を向け、沢田さんの手を取って駆け出した。
「香取さんが気づいてたじゃないか。聞こえなかった?」
 しばらく走ってから手を離し、問いかけると、沢田さんはきょとんとした。
「無重力ラヴだとか言ってたのは聞こえたけど、そのあとはすっごく小さな声になったから」
「逃げるチャンスを窺ってる間に、ああなってしまった。きみが誰なのかは気づいてないだろうし、気づいたとしても大丈夫だろうけどね」
「香取さん、なにを言ってたんですか」
「なんだっていいよ。さ、帰ろうね」
「そうですね。でも……無重力って……」
 頬をぽっと染めて、素敵だったなぁ、と呟いている沢田さんとふたり、合宿所への道を歩いていった。素敵なシーンだったのはたしかだろうけど、俺は星さんが帰ってきてからが怖い。しかし、覚悟は決めたんだから逃げも隠れもしない。自首すれば罪一等を減じる、となるのかどうか定かでもないけれど。
 ああやって香取さんを抱き寄せて、俺たちの目からかばって、それでいて俺を睨みつけて、さっさと消えろ、と言いたかったのだろう。あの星さんがそばにいれば、万が一暴漢があらわれても易々と退けるだろう。もしや沢田さんと俺が暴漢に襲われたとしたら、俺もああしよう。暴漢は後輩ではないだろうから、たやすく撃退できないだろうけど、あの目は見習わなくては。
 さきほどのラヴシーンを思い出しては、素敵、素敵、とぽわぽわしている沢田さんを女子部の部屋に送り届け、俺は男子部の部屋には戻らずに、星さんの帰りを外で待っていた。
 彼もまた香取さんを送り届けてきたのか、ややあって長身の人影が近づいてきた。向き合うと星さんと俺には背丈の差はほとんどないのだが、一年年上の先輩が大きく見える。星さんは俺を見ようともせず、立ち止まって煙草をくわえた。合宿所の外灯に照らされた星さんの顔が、煙たそうにしかめられた。
「澄恵は煙草が嫌いでさ」
 独言めいた声が聞こえてきた。
「そばで吸わなくても、吸ったあとだと怒るんだ。煙草の匂いがしみついてるって。煙草の匂いのする男は嫌いか、って訊いたら、大嫌い、って言われたよ。だから禁煙してたんだけどな」
「はい」
「喫煙再開」
「……それはつまり?」
「つまりそういうわけだ。今度は煙草の匂いのする男が好きだって女にしよう。禁煙はつらい」
「星さん、その台詞ってオヤジみたいですよ」
「そうかぁ。おまえは吸わないのか」
「俺は未成年ですよ。それより星さん、覚悟は決めましたから」
「なんの覚悟だよ。馬鹿野郎」
 すれちがいざま、俺の頭をこつんとやって、星さんは行ってしまった。
 それはつまり、今夜は別れ話だったのか。あれはラヴシーンではなく、恋人たちの別れのシーンだったのか。星さんと香取さんがいつからああなって、なにがどうなってそうなったのか、俺には知る由もない。先輩のプライベートな事情を詮索すると本気で殴られる恐れもあるのだが、星さんというひとは以前から気になっていた。
 去年の合宿の際にも、男子部恒例の遠泳が行われた。はるか昔からの伝統的行事だと聞いている遠泳は、合宿所のある浜から沖の小島へと泳いで渡るというものだ。体力的に不可能だと自覚している者は、申し出ればむろん免除してもらえる。たいていは多少の無理をしてでも泳ごうとするのだが、去年の一年生、すなわち俺と同年だった横内は、一年生の中ではたったひとりだけ、体調がよくないというので不参加を申し出た。
 先輩たちにも諸般の事情で遠泳には参加しない者がいて、彼らは救護班に回っていた。彼らは先にボートで小島に渡り、続々と泳ぎ着いてくる男子部のメンバーたちを迎えていた。大半のメンバーが島に到着して一息ついていると、怒号が聞こえてきた。
 けっこう疲れたよな、俺は全然疲れないよ、などなどと話していた一年生たちの中に加わっていた俺は、なにかが起きているらしい島の一画へと走っていった。するとそこには、真っ青な顔をしてへたっている横内と、四年生と睨み合っている星さんがいたのである。
「星、落ち着けよ」
 止めたのは星さんと同じ二年生の高倉さんで、星さんと睨み合っていた四年生を止めたのは、当時のキャプテン、奈良林さんだった。
「広田、おまえも二年生相手になにを興奮してるんだよ。横内、どうした? 三人ともこっちへ……高倉さんも来て」
 キャプテンがいきり立っている広田さんをなだめ、高倉さんは意外にクールな顔をしている星さんになにやら話しかけ、見物人にはなにかが起きたのかどうかもよくわからないままに、横内も別の先輩に連れられて去っていった。
 あっちでもひそひそ、こっちでもひそひそと、なにがあったのかについて取り沙汰していたのを鎮めたのは、当時の副キャプテン田中さんだった。奈良林と高倉さんにまかせておけばいいよ、解散しろ、と言われて、皆といっしょに俺も散っていった。そのときになにがあったのかは諸説紛々だったのだが、噂をまとめてみると真相はこうだったのであるらしい。 
 去年の四年生には乱暴な男が数人いて、荒っぽさがむしろ爽快だった先輩もいたのだが、タチのよくない者もいた。その代表は広田さんで、彼を見るたびに、ここは本当に合唱部か、俺はどこかのタコ部屋にでもまぎれこんできたのではないかと思ったものだった。
 遠泳には加わらないと言った横内を、おそらく広田さんがいびったのだろう。言葉のみならず、腕力も使ったのかもしれない。広田さんは大柄で、横内は小柄で体力に乏しく、肝っ玉も決して強くはない。広田さんが単独でやったのだとしても、四年生対一年生では勝負は明らか。その上、広田さんに雷同した輩もいた。
 先輩たちにいびられて青くなって震えているしかない横内を、星さんが目撃した。そして、星さんは広田さんを諌めようとした。広田さんとその一党が星さんにも矛先を向けた。あのときの怒号は広田さんの怒鳴り声だったのだろう。星さんが腕力を使ったのか使わなかったのか、当事者たちは誰もなにも言わなかったし、奈良林さんや高倉さんも話してくれなかったので詳細は不明だが、たぶんそのような顛末だったのだろう。
 憶測もまじえれば、二年生の星さんは数人の四年生と対峙していても、微塵も怯んではいなかった。たしか見物人の中には香取さんもいたはずだから、あるいは……とまで言えば、憶測がすぎるだろうか。
 星さんは温厚一方のひとではないと知っている。けれど、俺の無作法な行為には怒りはしなかった。俺を睨み据えた目は相当に怖かったけれど、後輩なんて殴り飛ばしても意味ないさ、だったのだろうか。理不尽な先輩にはあんなにも、だったのに、後輩なんぞ眼中にもないのだろうか。そうはいっても、ちらっとは香取さんとの仲を打ち明けてくれた。
 子供のころからの友人の皆実聖司が合唱部に入ると言うから、俺もそうしようかな、となんの気なしに入部した合唱部で、俺は歌に魂を奪われた。歌うということは、恋以上に心を騒がせると知った。その上に興味深い先輩と出会った。星さんが卒業するまでは、彼を見ていたかった。もっと彼を知りたかった。


 今年も遠泳は行われる。男子部のメンバーが浜辺に全員集合して、福田キャプテンの訓示を聞いていた。女子部は遠泳はしないのだが、希望者が見物にくるのも例年通りで、女性たちがひとかたまりになって笑いさざめいている。そこ、うるさい、と福田さんに言われた女子部の二年生、服部さんがあっかんべをして、女性たちがいっそう笑いさざめいた。
「いい度胸だな、服部さん。きみも俺らと泳ぐ?」
「いいんですか。泳ぎたい」
「いいんですか、って、あの島だよ。遠いよ」
「私、水泳は大得意だもん」
「泳ぎたいひとは女の子もOKだって、女子部のキャプテンに聞いてるんだろ。泳ぎたいんだったらどうぞ。ただし、途中でリタイアしても知らないよ」
「あのくらい全然へっちゃらですよ」
 ガッツポーズをしてみせる服部さんに、よーし、そう言った以上は泳ぎ切れよ、と福田さんも言い返し、男子たちにまざって服部さんも歩き出した。服部さんも背が高い。脚が長くて、ブルーの水着が似合っていた。
「うわー、僕、負けそう」
 となりを歩いている横内が呟いたので、俺は話しかけた。
「今年は体調がいいのか。無理すんなよ」
「無理はしてないよ。けどさ、服部さんって僕より背も高いし、水泳は得意だって言ってるんだから、きっと僕より早いんだろうね。女の子に負けたらみっともないよな」
「みっともなくはないさ」
「そうかな。金子は早いんだろ。そーんなに背も高いし、いい体格してるもんな。僕、もしかしてこの中でいちばんちび?」
「競泳じゃないんだから、完泳することに意義があるんだよ」
「もしも途中でへばったらどうなるの?」
「救護班がいるよ」
「……余裕の顔しちゃって。おまえはどうせ、俺がへばるわけがないって、自信満々なんだろ。やだね、そういう奴のそばにいるのはやめよう。それよか、やっぱ泳ぐのやめようかな」
「やめたいんだったらやめたらいいじゃないか」
「がんぱれって励ましてくれないのかよ」
 険しい表情で見上げる横内を見返すと、去年の一幕を再び思い出した。
「おまえはまったく悪くないのかと思ってたけど、原因の一端はおまえが作ったのかもな」
「なんの話だよ、金子?」
「いや、こっちの話だけどさ、俺ががんばれって励ましたら、勇気が出るのか。力が出るのか。だったら幾度でも言ってやるよ。横内、がんばれがんばれ、がんばれがんばれヨーコウチっ!!」
「僕を馬鹿にしてるな」
「がんばれがんばれ、がんばれよーっ、横内。足りた? もっと?」
 おまえなんか大嫌いだっ、と小さく叫び、俺の脛をがんっと蹴飛ばして、横内は小走りで先に行ってしまった。
「金子くん」
 聞こえていたようで、振り向いた服部さんにじろっと見られた。
「男の子って身長コンプレックスが激しいんだよね。金子くんだって知ってるんじゃないの? それとも、知らない? 金子くんは背が高いもんね」
「俺は横内の身長については、なんら言及していないよ」
「言及はしてなくても、僕ってちっちゃくて体力なくて、って自覚のある男の子なんだから、金子くんに見下ろされて揶揄されたらむっとするんだよ」
「揶揄もしてないつもりだったけど、からかったみたいにはなったね。ごめんって言ってくるべき?」
「あやまられたらよけいに腹が立つんじゃないの。男ってむずかしいよね。私なんか背が高すぎて、でけえ女、だとか言われるのは慣れてるけど、逆とはいえ、横内くんの気持ちはわかるんだ」
「服部さんはプロポーションよくてかっこいいよ」
「金子くんみたいに背の高いひととつきあってるんだったら、私の身長も欠点にはならないんだよね。長身カップル、かっこいい、って憧れの目で見てもらえるかもしれないのに」
「誰かさんと誰かさんのように……いやいや、それはいいんだった。服部さんの彼は背が高くないの?」
「私より低い。だからね、横内くんが金子くんに見下ろされてるのを見てると、彼の気持ちになっちゃって……私の彼のほうね。私は背が低くなりたい」
「うーん……そればっかりは……」
 自然に背が伸びていった俺は、かつて身長について悩んだことなど一度たりともない。長身の女の悩みはもとより、背の低い男の悩みもまったくわからない。
「服部さんは腕も脚も長いから、水泳には有利だよ」
「水泳には有利でも、彼とは……気にすると姿勢が悪くなっちゃうのよね」
「気にしなくていいよ」
「金子くんだからそう言えるんだよ」
「いや、しかしね……」
 つまらない悩みだと笑い飛ばすわけにもいかず、服部さんと身長の話を続けていたら、うしろから頭をごちっとやられた。皆実かと思ったら、俺を殴ったのは星さんだった。星さんは俺には、馬鹿野郎、さっさと行け、と言い、服部さんにはにっこりした。
「服部さん、俺とつきあわない? 俺とだったら身長のつりあいはちょうどいいよ」
「ええ? 星さんと? 彼がいないんだったらね……」
「服部さん、彼のいるあなたがそういうことを瞬時でも考えては……」
「金子、さっさと行け」
「いけませんよ、星さん。彼氏のいる女の子の気持ちを揺らめかせてはいけません」
 おまえには関係ないだろ、と邪険に言い捨て、星さんは服部さんに尋ねた。
「きみは煙草の匂いのする男はどう?」
「煙草ですか。好きじゃないな」
「そうか。そんならやめとこう」
「……なんですか、星さん? 煙草がどうかしたの?」
 早くしろ、早く、と俺の腕をがしっととらえ、星さんがずんずん歩いていく。なんなの、あれ? と首をかしげていた服部さんも追いついてきた。
「星さんも私をからかったの?」
「金子は服部さんをからかってたのか」
「からかってません」
「ほら、一年生たちは行っちまったぞ。次は二年生だ。金子、服部さんのフォローをしてやれよ」
「承知しました」
 話をはぐらかすのが非常に巧みだと見える星さんは、じゃあね、と服部さんにだけ微笑みかけて行ってしまい、服部さんは俺をぎろぎろっと見た。
「私をなめないで。フォローなんかしていらない」
「いや、でもね、先輩命令だから」
「なーに言ってんのよ。水泳だったら金子くんにも負けないからね。さ、ついてらっしゃい」
「はい」
 そう答えるしかなくて、海に飛び込んだ服部さんのあとを追って俺も飛び込んだ。豪語するだけあって服部さんの泳ぎはきわめて達者で、ぐんぐんスピードが出てくる。横内ではないが、女の子に負けてなるものか、となって、俺も必死で泳いだ。
「金子くん、待ってよ。足が変。助けて」
「え?」
 どうにか引き離したのもつかの間、弱々しい声に進むのをやめて戻ってみると、服部さんは立ち泳ぎをしていた。
「足が吊った? 大丈夫? つかまって」
「きゃはっ、嘘」
「……服部さん、人騒がせな嘘は……」
 言いかけている俺を置き去りに、服部さんがスピード全開で泳ぎ出す。俺もまたまた必死で追いかけ、距離を開けるとうしろでまたしても弱々しい声。嘘だろうと思っても引き返さざるを得なくなって、戻ってみるとまたまた、きゃはっ、嘘、が出る。何度かそんなことを繰り返し、島が近づいてくるころには俺がばてそうになっていた。
「金子くん、がんばれがんばれーっ」
「くそ、覚えてろ。島についたら……」
「島についたらなにするの? 楽しみだなぁっと。はーい。私の勝ちっ!!」
「くっそぉーっ!!」
 島には見物の女性たちや、先にボートで到着していた男子たちもいる。おーっ、服部さんが金子に勝った。すごいすごい、えらいえらい、と服部さんを大絶賛する声が起きている。そんな中を島に上陸した服部さんが、まだ海の中の俺に手を差し伸べた。
「ありがとう」
 その手を握り、引っ張って海に落としてやろうとした目論見は失敗に終わった。なぜか星さんも先に島に来ていて、俺が手を引っ張るよりも早く、服部さんの腰を両手で抱えてあべこべに引っ張ったのだ。はずみで俺は海の底深く沈んでいき、無我夢中で浮かび上がったときには、いくつもの顔が心配そうに海面を見ていた。
「金子くん、溺れてないよね?」
 服部さんも心配そうに言い、横内が服部さんのとなりで言った。
「なんだ、溺れたらよかったのに」
「横内くん、それはないでしょ」
「だってさ、僕、金子って嫌いだもん」
「気持ちはわかる。私も金子くんって憎らしいんだよね」
 嫌われる筋合いも憎らしいと言われる筋合いもない、と思ったのだが、とりあえず服部さんと横内は放っておいて、ふたりの近くにいた星さんに言った。
「星さんは俺たちよりあとまでむこうにいたんじゃありませんか。なんだって島にいるんですかっ!!」
「俺もボートに乗ったんだよ。島にもひとりくらいでかいのがいないと、なにかあったときに役に立たないって、キャプテンが言ったもんでさ。おまえが来たんだから俺はもういいだろ。往路は泳いで帰るよ」
 言いながら、星さんも海に飛び込んだ。
「おまえもついてこい」
「島にでかいのがいなくてもいいんですか」
「皆実がいるよ」
「二年生のでかいのが他にもいますね。しかし、俺は今来たばかりですよ」
「ふーん、あれしきで体力がなくなったのか。金子もたいしたことないんだな」
「行きます」
 今度は星さんを追いかけて泳がないとならなくなった。島からは服部さんと横内の声が、がんばれがんばれ、金子、と言っている。次第に島中にいる全員が、がんばれがんばれ、かーねっこっ!! と大合唱をはじめる。仕返しされているのか声援してくれているのか、ではあったのだが、おーっ、がんばるよーっ!! と叫び返して、体力の限界に挑戦するつもりで泳ぎ続けた。

 
3

 喉はなにより大切なのだから、歌う者は煙草などもっての他、なのは当然かもしれない。合唱部室は基本的には禁煙なので、星さんも部室では煙草は取り出さない。合唱部の飲み会の際にも、回りが吸わないので遠慮しているのか、煙草をくわえている星さんは見たことがなかった。
 だが、互いに行きつけの店であるようで、いつのころからかよく会うようになった居酒屋で顔を合わせると、星さんは煙草を吸う。喫煙しているということは、煙草が嫌いではない彼女ができたのか、香取さんとは別れ、彼女はいないままなのか、質問はせずに、勝手にあれこれ想像していた。
 その夜もふらりとひとりでその店に行くと、よお、金子、こっちだ、と星さんが俺を呼んだ。彼もまたひとりでいるようなので、俺は星さんの向かい側にすわった。
「おまえは将来は歌手になりたいんだったか」
「なりたいんじゃなくて、なるんです」
「俺は歌手になりたいなんて考えたこともないけど、音楽が好きで、学部もサークルも音楽関係を選んだんだ。就職も決まったよ。電機メーカーだ」
「おめでとうございます。星さんは音響工学部ですよね」
「うん、将来は音響関係の仕事がしたい。おまえもがんばれよ」
 そんな話をしたのは、間もなく俺が二年生、星さんが三年生を終えようとしていた夜だった。あの日は星さんは煙草を吸っていたのだが、あれから数ヶ月がたち、合唱部にも新入部員が入ってきた春の一夜、その店「向日葵」で星さんに会った。今夜の星さんは煙草を吸わずにいて、新入生の話題を持ち出した。
「あいつらも将来は歌手志望かな。おまえだったら歌手になれるだろうけど、あの三人もその気にさえなったらなれるんじゃないのか」
「三人ですか。徳永、本橋、乾ですね」
「高倉さんは本橋と乾に目をかけてるけど、徳永も相当なものだよ。来年の合唱部は……それは高倉さんが言うべきだな。三年生にはおまえと皆実がいて、一年生には徳永と乾と本橋がいる。合唱部もむこう四年間は安泰だろ」
「徳永と本橋と乾を手放さないようにしないといけませんね」
「やめるって言い出したらやめさせたらいいんだけどな。本橋と乾は高倉さんが手放さないよ。徳永はおまえにまかせようか」
「あいつらに関しては、俺もまだよくは知りませんけど、今後はじっくり観察します」
「今年は高倉さんと渡嘉敷がしっかりやっていくだろうから、俺が口出しする必要もないんだよな」
 本年度の男子部キャプテンは高倉さん、副キャプテンが渡嘉敷さんである。同学年であるにも関らず、星さんが高倉さんを敬称つきで呼ぶのは、彼が三浪していて、三つも年上だからだ。そのあたり、合唱部は律儀なのだ。
「星さん、ついに全面禁煙したんですか」
「おまえは他人の観察が得意だよな。俺の煙草まで観察してるのか」
「そういうわけでもないんですけど、ほら、去年でしたか。煙草と女性の相関関係ってのを聞かせてもらったものですから」
「相関関係か。おまえは彼女は?」
「いません」
「彼女じゃない女とキスしてたんだな」
「……キスは遊びですから」
 観察は星さんもしていたらしい。去年の合宿では何人かの女性とキスをした。にやにやしていた星さんは、日本酒のグラスを口元に近づけて言った。
「女ってのはおおむね、煙草は嫌いだろ」
「煙草を吸う女性もいますよ」
「俺は煙草を吸う女は嫌いだ」
「なんと勝手な……」
「女の趣味は勝手なものだよ」
「それはいいんですけど、そうするとつまり、彼女ができたんですね」
「うん、いや、この間さ」
 例によって話をそらして、星さんは別の話題を持ち出した。
「昼時に乾と会ったんで、メシをおごってやろうって、カレー屋へ連れてってやったんだよ。辛いのは苦手みたいで、辛さレベル2ってカレーで泣いてやがった」
「カレーと女性の話題がどこでどうつながるんでしょうか」
「でな、あいつは文学部だろ。おまえは知らないだろうけど、俺たちが一年生の年の女子部キャプテンだった先輩が、文学部の院生になってる。乾も彼女の世話になってるんだそうで、どうも彼女が、俺に口説かれたがってるらしいって話を、言いにくそうに言うんだよ」
「三年年上の先輩ですか。もてますね」
「おまえに言われたくねえんだよ」
「俺はもてませんから」
「言ってろ。まあ、その彼女ってのは美人だし、悪い話ではないんだけど、今の俺はそういう気になれないんだ」
 だから、つまり、と身を乗り出すと、星さんは思い出し笑いまじりに言った。
「こいつ、純情そうだな、って思ったから、あの女もあの女もって、有名人の女にもててもてて、って話をしてやったら、乾はすっかり信じ込んで目を丸くして、あげくの果てはこう言いやがった。女のひととつきあってどうこうなんて、他人に話すものではありませんよ、星さん、だとさ。ガキに説教されちまったよ」
「有名人の女性にまでもてたんですか」
「おまえは純情じゃないだろ」
「純情ですよ」
「……どの口が……この口か」
 いきなりスプーンを口に突っ込まれて、目を白黒させていたであろう俺を一瞥し、星さんは続けた。
「嘘だ、って言ったら、星さんだったらほんとにありそうだから、とかなんとか言ってたよ、乾は」
「ありそうですからね」
 スプーンを口から抜いて言うと、おまえだったらありそうだな、と逆襲された。
「嘘なんですか」
「嘘に決まってるだろ。おまえまで信じるな」
「信じたくなるんですよ、星さんだったら。それで?」
「乾と本橋と、彼女は仲がいい。それがどうも気にかかるってことは、つまりそうなんだろ」
「ああ、彼女ですか」
 彼女とは、今年の女子部新入生、山田美江子だ。ようやく話しがそこへ到達した。星さんは長身の女性が好みなのかと漠然と考えていたのだが、山田さんは背はそう高くない。中背でややふっくらした、利口そうでいて愛らしい女の子だ。俺は彼女についてもあまりよくは知らないが、さほど目立つタイプでもなかったはずだ。星さんは彼女のどこが気に入ったのだろう。
「じっくりやろうか。あの子もまだ子供だしな」
 どこが気に入ったんですか、とは訊けなくて、健闘を祈ります、と言っておいた。
「たいしたのが入ってきたんだな」
「そのようだな。高倉さんはいかがするおつもりか」
むろん、皆実との会話にも一年生たちの話題が上っていた。
「金子、おまえ、時々言い回しが古いぜ」
「わざとやってるんだよ。皆実、おまえは知らないとでも言うのか」
「知ってるけどな」
 男子部のみならず女子部でも話題になっているというその一年生の名は、本橋真次郎、乾隆也、徳永渉。俺たちが一年生当時のキャプテンの奈良林さんと、副キャプテンだった田中さんも実力派の歌い手だった。今年のキャプテンになった高倉さんと、副キャプテンの渡嘉敷さん、彼らと同年の星さんも歌唱力は群を抜いている。彼ら三人は低音トリオユニットを結成していて、一年生のころから三人で歌っている。
 昨年、大学近くに新ホールがオープンして、我が合唱部にもオープニングイベントの出演依頼があり、三年生だった星さん、高倉さん、渡嘉敷さんが出演すると決まった。俺はハープとフルートで彼らの伴奏をすることになって、ふたつの楽器の演奏はつらかったのだが、さまざまに勉強をさせてもらった。
去年の四年生にはさしたるきら星は見当たらなかったようで、今年の二年生も同様だ。現四年生では高倉、渡嘉敷、星。三年生では自分で言うのもなんだけど、金子、皆実が妍を競っていると評判になっている。俺は皆実にライバル意識は持っていないが、皆実がどうなのかは知らない。皆実の決意のほどからすれば、彼はプロの歌手を志望しているのだと考えられるが、それについて改まって話したことはなかった。
 四年生たちが互いに互いをどう意識しているのかも、俺が問題視することではない。一年生の彼らは互いをどんなふうに意識しているのだろう。俺にはそんな好奇心もあったのだが、高倉さんはキャプテンの権限を発動した。
「今年の夏のコンサートでは、本橋と乾にデュオで歌わせる。誰か異論は?」
 確信を抱いた表情でそう切り出されて、渡嘉敷さんや星さんも異をとなえはしなかった。
「なあ、乾、俺、やっぱり……」
 部室の裏手には芝生の広がる空き地がある。そこに本橋と乾がいて、ふたりはなにやら語らっていた、本橋が言い、乾は本橋をまっすぐに見返した。
「自信ないって? まだ言ってるのか。おまえはそういう奴だったのか。負け犬根性の本橋真次郎なんて見たくないぞ」
「そうは言ってねえだろうがよ。負け犬を連発すんな。その態度はどう考えても喧嘩を売ってるとしか思えない。やるのか」
「やらないよ」
「おまえは口ばっか達者なんだよな。かかってこられないのか」
「こられない」
「……それでも男か」
「人類には男と女しかいないだろ。俺は女じゃないんだから男だよ。半陰陽ってのでもないし、俺は男じゃないんだろうか、って疑った覚えもないから、戸籍通りの男なんだ。性同一性障害でもないし……」
「ややこしい話に持っていくな」
 これはある意味、入部当初の皆実と俺の関係に近いのか、と見ていると、ふたりは立ち上がって歩き出した。やると決めたらどこまでやるさ、それが男の生きる道、と乾が演歌を口ずさみ、うるせえんだよ、と本橋はぶつくさ言いながら、ふたりが遠ざかっていく。なかなか面白い奴らだとこっそり笑っていると、別の男がふたりあらわれた。
「あいつら、むかつくんだよな。目障りでしようがないよ。早いとこ排除できないかな」
 陰湿な口調で言っているのは、二年生の溝部だ。相手は二年生の岡田だった。
「うん、二年の僕らの頭を飛び越して、一年生の本橋と乾だろ」
「おまえも悔しいよな。徳永はなおさらじゃないのか。徳永を引き込めないかな」
「徳永ねぇ。あいつはなんだかこう、超然としてるっての?」
「そんなの表面だけだよ。腹の中は煮えてるに決まってるんだ。岡田、なにか考えろ」
「考えてみるけど……」
 その一件もあって溝部、岡田、本橋、乾、徳永の五名は俺の心に刻み込まれ、それからはなにげなく観察していた。
 岡田は溝部の追従者にすぎないようだから、気にする必要もない。溝部のような輩は行動を起こせないのが通常なのだから、放っておいても問題はない。このふたりは静観していればいいだろう。
 本橋は単純明快明朗快活、体育会系を継承していくに似合いの男だ。ひるがえって、乾、徳永は容易にはつかみ切れないのではなかろうか。十八歳男子としては屈折している。乾は新入生たちの中にとけこんで楽しげに談笑していたりもするが、徳永は超然というよりも屈折の角度が著しい。乾もわかりづらい奴だが、徳永は乾の上手を行くと見える。ひとまず俺はそんな印象を持ち、観察を続けていくつもりでいた。
 それからまた日がたち、時おりやるように合唱部室の裏手の芝生で昼寝をしていたら、女の子たちの声に眼が覚めた。女子部のメンバーたちが男の品定めをしているらしいので、耳をそばだててみた。
「私は金子さんがいいな」
「私は皆実さんがいい」
「本橋くんもかっこよくない?」
「本橋くんってかっこいい? 乾くんのほうがいいよ」
「本橋くんも乾くんもかっこよくない。徳永くんのほうが断然いいよ」
「溝部さんもけっこうかっこいいよ」
「私も本橋くんがいい」
「だけどさ、本橋くんも乾くんも徳永くんも子供じゃないの。私は星さんがいいな」
 ひとりだけ、金子さんがいいと言ってくれた。ありがとう、とこっそりお礼を言っていると、十人ばかりもいる一、二年生たちであるらしい女の子たちのうちの、誰かが言った。
「私も星さんがいちばんかっこいいと思うんだけど、星さんって……」
「そうみたいね」
「ええ? なんで? なんで山田さん? 山田さんって美人?」
「見ようによっては美人でなくもないかも」
「山田さんってわりかし太ってるし……」
「山田さんって本橋くんか乾くんとつきあってるんじゃないの?」
「そうなのかな。なのに星さんとも?」
「あつかましいね」
「だよね」
 男の品定めならよいけれど、女の子同士の悪口は聞きたくない。星さんはどうやら山田さんを射止めたようだが、あの星さんと恋人同士になると、女の子のやっかみの視線にさらされる危険性はおおいにあるのだ。去年の香取さんは四年生だったからよかったものの、山田さんは一年生。先輩女子に苛められないだろうかと不安になってきたのだが、女子部の問題に俺がくちばしを入れるわけにもいかない。山田さんも健闘を祈るよ、と内心で言うにとどめておいた。
 女子部との交流があると、山田さんを観察する機会も増えた。さして目立つタイプではない、と感じた第一印象はまちがってはいなかったのだが、よくよく見ると綺麗な子だ。冴え冴えとした茶色の瞳が魅力的で、気が強くてものごとをはっきり言う。才気煥発で口も達者なのだから、先輩に苛められてもめげたりもしないだろう。とりあえず一安心。俺が安心する必要もないのだが、ひそかに胸を撫で下ろしていた。
「若者って恋をするんだよな。男も女も、大学生の年頃は発情期ってやつか」
 学校から連れ立って帰る道で、皆実ともそんな話をした。
「発情期とは身も蓋もない言いようだな。おまえだって若者だろ。恋はしないのか」
「おまえはしてるのか?」
「……うん、まあな。おまえは?」
「へええ、皆実が恋をね」
「おまえはどうなんだよ」
「いいんだ、俺は」
「金子将一は恋はしないのか」
「しないよ」
 なぜ? 理由があるのか? とは問い返さない皆実に、理由なんかないけどね、と声には出さずに応えて、思いをめぐらせていた。高倉さんや渡嘉敷さんにも恋はあるのだろうか。卒業していった先輩たちにも、後輩たちにも恋はあるのだろうか。かつては俺も美しい女性に淡い恋心を抱いた記憶があるけれど、あれっきり熱い恋情のほとばしりを感じた覚えはない。
「女きょうだいのいる男って、女性に幻想を持たなくなるとも言うよな。恋とはつまるところは幻想、相手に幻惑されてこれは恋だ、俺は恋をしてるんだ、って……そういう部分はまぎれもなくあって、ふと我に返ると……」
「我に返るなよ、皆実。幻想ってのもいいもんじゃないか。俺には妹がいて、リリヤの生態を観察していると、女なんてのは……と考えたりもするよ」
「リリヤちゃんほどの美少女でも?」
「妹の顔の美醜は関係ないんだ。なんであれ、あいつは妹。妹以外のなにものでもない。妹は生物学的には女だけど、兄にとっては女ではない。だから、リリヤは別だ。俺には女性に対する幻想はあるよ。幻想は幻想として、生身の女性は好きだよ。女の子といると楽しい。おまえとこうして話してるのとはまったく別の愉楽、悦楽を与えてくれる。俺はそれだけでいいんだ。恋ではなく……そしたらなんなんだろうな。なんなのかはわかってないんだけど、いつかは恋もするかもしれない」
「発情期だの生態だのって、おまえはそういう言葉を使って先輩や女を観察してばっかりで、恋とまでは行かない。そうとも考えられるんじゃないのか」
「三年生ともなると合唱部にもすっかりなじんでゆとりもできてきただろ。今年は面白い後輩が三人ばかり入ってきたのもあるから、後輩や男の観察にも励むよ」
「人類学者じゃあるまいし」
 千差万別、百花繚乱の魅力にあふれる女子部のメンバーたちにも、それぞれに関心はあったのだが、人数が多すぎて個別に観察はできない。畢竟、興味ある男の恋人になった女性、その四組のカップルを観察することになった。
 

 一年前、二年生の春の日に、俺はひとりの女子学生を合唱部に勧誘した。彼女の名は沢田愛理。彼女が一年生、俺が二年生の合宿の夜に、ふたりで星さんと香取さんの密会を覗き見したのだった。その沢田さんに恋人ができたと言う。
「私が合唱部に入ったばかりのころに、いっしょに放送研究会の見学に行ったでしょ。あの当時のキャプテンの東郷さん。名前は政雄だからまあちゃんって呼んでるの」
「ふむふむ、まあちゃんね」
 別段文句をつけるいわれもないのだが、あの大きな男がまあちゃんとは。俺の顔が気に食わないだとか言って、沢田さんまでをも腕力で脅そうとした男と恋をするとは、恋とはまさしく異なものなのだろう。
 もしかして、きみは俺が好き? と沢田さんを見ていて感じたことはある。まるでちっちゃな駄々っ子のように、まるでリリヤのように、俺にいやがらせをした沢田さんは、幼い少年や少女のごとく、好きだという感情を逆にあらわしていたのだろうかと。
 部室の窓からいきなり花瓶の水をぶちまけて俺をびしょ濡れにしたり、すれちがいざまに脚を蹴飛ばしたり、荷物を抱えて突き当たってきたりして、あげくは金子さんが悪いと言い張って、ケーキをおごってくれたら許してあげる、などと言った。
 あれはただのいたずらだったのか。感情過多で泣き虫で愛らしい十八歳だった彼女も成長して、大人になって恋をした。鼻の頭にクリームをくっつけてべそをかいたり、笑ったりしていた彼女に恋人ができた。なのになぜ、彼女のふっくらした笑顔に翳がさしているのか。
「梅雨のころに街で偶然会ったの。それから電話がかかってくるようになって、合宿が終わってから会って、つきあってほしいって言われた。その夜のうちに私のアパートにお招きしたんだ。まあちゃんって大きくて力が強いから、抱きしめられると苦しいくらい」
「そう。じゃあ、もう沢田さんとケーキを食べにいったり、メシを食いにいったりしたらいけないんだね」
「いけなくないよ。まあちゃんは社会人だから、デートだってそんなにはできないんだから。彼はけっこう忙しいのよね。お酒の会社の営業マンなの。だから、金子さんとはデートじゃなくて、もともとデートなんかしたことないんだし、先輩としておごってもらうのは今まで通りでもいいんだよ。金子さんはお金持ちの息子なんだから、バイトしなくてもお金は持ってるんだものね」
「小遣いに不自由はしてないけど、決まった彼のいる沢田さんとは……」
「彼は彼。金子さんは金子さん」
「きみがそれでよくて、東郷さんもそれでもいいんだったら、メシくらいは今まで通りにおごらせてもらうよ。行く?」
「行きたいな」
 おなかがすいちゃった、と腕をからめてくる沢田さんと、そんなら行こうか、と歩き出した。歩きながら彼女は、東郷さんとのエピソードをいくつも話してくれる。彼はベッドで……とまで言いかけたので、俺は遮った。
「そのたぐいの話は、他人にはしないものだよ」
「したらいけないの?」
「女友達にだったらまだしも、俺にはしないでほしいな」
「どうして? うずうずしちゃう?」
「無邪気な顔してそういうことを言うなっての。彼が気を悪くするよ」
「彼はいないからいいの。いたっていいかな」
「妬かせたいの?」
「……とっくに……」
 とっくに? と問い返すと、沢田さんは言葉を濁した。
「ううん、いいの。彼の意向なんて関係ないし、彼とデートできないときには、私は好きにするんだから」
「それはいいんだけど、あまりにもプライベートな話はしないほうがいいよ。ふたりっきりで甘くかわす睦言は、ふたりっきりの宝ものなんだから」
「そんなのどうでもいいの」
「どうでもよくはないでしょ」
「どうでもいいの。こんなだったらつまらない。私は帰る」
 大人になったのかと思ったら、じきに感情的になるところは変わっていないと見える。沢田さんは俺の腕から腕を引き抜いた。
「送ってくれないの?」
「送っていくほどの時間でもないんじゃないかな」
「……だったらひとりで帰ろうっと。金子さんったら……」
「なに? 沢田さんももうすこし大人にならないと、東郷さんが苦労するよ」
 ほっといて、と捨て台詞を残して歩み去っていく沢田さんの背中が、どうしても寂しげに見える。なぜなんだろうか、と幾度首をひねってみても、俺にはまったくわからない。だから女ってのは……と俺もまた、捨て台詞を呟いてみた。
 

4


 うちに帰ると、受験生のリリヤが俺を待っていた。子供のころからなんであれ兄を踏襲したがる妹で、なんで私は男の子じゃないの? とまで言って俺を困らせた。幼稚園から高校までが俺と同じなのだが、三歳の年の差があるので、中学高校時代はすれ違いとなった。大学ではお兄ちゃんといっしょにいられるね、と楽しみにして、受験勉強に励んでいる。励んでいるのはいいのだが、勉強教えて、合唱部の話しをして、とうるさいったらない。
「今年の一年にはすごいのがいるんだ」
 家庭教師をしてやり、息抜きにピアノを弾いて歌い、さらに息抜きとして雑談をする。こうして妹とばかりつきあっているから、俺には彼女をつくる暇がないというのもあるのだろう。
「三人とも合唱経験はないそうなんだけど、生まれついての才能なのかもしれないな。高倉さんが夏のコンサートでデュオを組ませると決めたふたりが、本橋、乾。とりたてて反対意見は出なかったから、キャプテンの強権発動でもないんだけど」
「三人じゃないの?」
「徳永ってのがもうひとりいるんだけど、高倉さんは本橋と乾に特に目をかけてるんだよ」
「お兄ちゃんは一年のときにも二年のときにも、ソロだとかデュエットとかで歌ってないよね」
「歌ってないよ」
 実は今年は、おまえもソロで歌えと高倉さんから命じられている。そうと話すとリリヤが、だったら私も聴きにいきたいよー、と言うに決まっているので言わないでいると、むずかしい顔をしていたリリヤは尋ねた。
「そのひとたちのルックスはどんなの?」
「ルックスか。背は三人とも高い。本橋と徳永は俺よりやや低いから皆実程度かな。乾は彼らよりやや低い。男としても背は高いほうだろ」
「顔は?」
「顔は徳永が一番だよ。女子部での評判によると、徳永くんはビタースゥイートないい男、乾くんは涼しげな爽やかタイプ、本橋は……顔は……」
 強いて言えば、褒めるとするならば……男のルックス描写なんぞ思いつかないので、どうでもいいだろ、と言うと、リリヤは不満げに言い返した。
「どうでもよくないよ。徳永さんってお兄ちゃんよりも男前?」
「さあ、そんなふうに考えてみたことはないから……」
「せいちゃんよりも?」
「……皆実はおまえより三つ年上の成人だぞ。せいちゃんと呼ぶな」
 小学校のころには皆実もよくうちに遊びにきていた。それから彼は転校し、高校で同級生になってからは遊びにはこなくなったのだが、リリヤが会わせろと言うので会わせたことはある。せいちゃんって男前だよね、とリリヤは悦に入っていた。
「呼び名のほうがどうでもいいじゃん、どっちの顔がいいの?」
「知らないよ。自分で見比べてみろ」
 面倒になったのでそう言うと、リリヤは真に受けたようで、夏休み終盤の合唱部主催コンサートにのこのこやってきた。お兄ちゃーん、と大声で呼ばれて振り向くと、ピンクのワンピースのリリヤが手を振っていたのだった。
「学校には来るなと言ったのに……」
「学校じゃないからいいんじゃないのか? 妹? さすがに金子の妹だけあるね」
 ここはたしかに学校ではなくて小規模なホールなのだが、去年も一昨年もリリヤは呼ばなかった。大学関係者以外は立ち入り禁止だと嘘をついてシャットアウトした。今回は受付を担当している三年生たちの、男も女も、むろんその中でも男どもが、リリヤを見てざわめいている。こうなるのは必定だからいやだったのに。
「眼の覚めるような美形じゃない? タレントスカウトとかが来るでしょ」
「うわー、金子さん、紹介して下さいよ」
「金子の妹さんだって? 彼女の周囲に虹がかかってるみたいだ」
「美男美女兄妹なんだね。女が見てても気持ちいいほどの美少女じゃないの」
「金子さん、金子さん、なんでそんな怖い顔をしてるんですかっ」
 先輩、後輩たちまでが寄ってきて、紹介しろと俺をせっつく。俺はどうにかそこから抜け出して、リリヤの手を引いて走り出した。
「ちょっとお、お兄ちゃん、なんなのよぉ」
「おまえ、予備校はどうしたんだ。さぼったのか」
「予備校帰りだよ。来たらいけなかったの? お兄ちゃん、自分で見比べろって言ったじゃん。お兄ちゃんの顔は見飽きてるから別に見たくないけど、徳永さんと本橋さんと乾さんの顔を見にきたんだもん。高校生は来たらいけないって言ったの、嘘だったんだね。考えてみたら私も、合唱部にいるお兄ちゃんの妹なんだから関係者だもんね」
「そんなのは関係者とは呼ばないんだよ。徳永と本橋と乾か。来てしまったんだから見せてやろうか」
 結局こうなってしまい、三人を探して歩く羽目になった。一年生は雑用に追われるのが恒例だが、本橋と乾はデュエットの大役があるので、控え室でぼそぼそ話し合っていた。
「あ、金子さん、なにか御用でしょうか」
 立ち上がった乾に、リリヤは言った。
「乾さん? 金子将一の妹です。リリヤっていうの。来年はお兄ちゃんとおんなじ大学に入って、合唱部にも入るから待っててね。そっちが本橋さんでしょ? お兄ちゃん、当たってるよね」
「当たってるよ」
「顔でわかった。ふーん、そっか、そりゃあお兄ちゃんのほうが上だよ。徳永さんはどこ?」
「リリヤ、おまえは来年から彼らの後輩になるんだろ。もっとちゃんと挨拶しろ」
「挨拶なんかどうでもいいの。徳永さんに会わせて」
「徳永はホールの裏手にいましたよ」
 言った本橋に、リリヤは言った。
「本橋さんっていい声だね。乾さんも綺麗な声してるけど、私は本橋さんの声のほうが好きだな。お兄ちゃんと声はちょっと似てる。顔は断然……」
「裏にいるんだな。リリヤ、行こう」
「皆実さんとお兄ちゃんのデュエットのほうがずっと……ずるい。ちょっと、お兄ちゃん、なによなによっ。あーん、待ってよぉ、なによぉっ!」
 なんだ、ありゃ、といった顔をしているふたりの前からリリヤを否応なしに引きずっていき、彼らに声が届かないあたりで俺は言った。
「失敬千万とはおまえを指すんだ」
「なにが?」
「放っておいたらおまえはなにを……だから連れ出したんだろ。もうすこし考えてから口を開け。リリヤ、以前に皆実にも言われたことがあるんだけど、俺はおまえを甘やかしすぎてた。大学に入ったらそうはいかないからな。兄妹である前に合唱部の先輩後輩になるんだから、きびしくやる。そのつもりでいろ」
「合唱部って男女別なんでしょ? 先輩は女子部のお姉さんたちだもん」
「男子の先輩も先輩だよ。本橋だって乾だって先輩だ。ああいう無礼なふるまいは許さん」
「無礼じゃないもん。ああ、あれ? うん、あのひとだったら……でも、お兄ちゃんのほうが顔は上だね」
 大学一年生は未成年であるのが普通だ。徳永は現役で入学しているので、十八か十九だろう。にも関わらずホールの裏手の木陰で、一人前に煙たそうな顔もせず煙草を吹かしている。憂いありげな風情と煙草の煙がこもごも漂っている。叱りつけてやろうかと思ったのだが、リリヤを連れていくとまたなにを言うか、ここに置いていってもついてくるだろうから、徳永に近づくのはやめておいた。
「顔はお兄ちゃんのほうが上だけど、かっこいいね。大人っぽいね、あのひと」
「小さな声で話せ。おまえはまったく顔、顔って……」
「憂鬱そうな顔をしてない? 徳永さんはソロでは歌えないから?」
「彼はきわめてわかりづらいんだよ。これからじっくり観察する。汲めども尽きぬ泉が、あいつの心の奥底に滾々と湧き出ているんじゃないかと……」
「昏々って寝るんじゃないの?」
「懇々と諭すってのもある。リリヤ、おまえには懇々と説教をするほうが大切だな」
「なに言ってんのかさっぱりわからない」
 なにを言っても糠に釘、馬耳東風の妹は、うふっ、来年が楽しみ、とほくそ笑んでいた。


 燎原を渡る火のごとく、という形容がある。本橋と乾の歌の実力はコンサートによって立証され、まさしくその形容のまんまに合唱部内に広まっていった。歌も素晴らしかったのだが、彼らデュオのトークも素人離れしていた。
「水を得た魚のごとく、か」
 リリヤちゃんが来てたんだって? とにやにやする皆実に、俺は別の話を持ちかけた。
「今回のコンサートで開眼したんだろうな。高倉さんが見込んだのはまちがってなかったよ。高倉さんはプロデューサー志望なんだろ。その高倉さんの目には一点の曇りもなかった。あいつらの歌は見事だったよ。その上、あの軽妙なるMC。本橋がボケ役で乾がつっこみか。漫才じゃないけど、その息とテンポのよさも玄人はだしだった。客席が沸いていただろ」
「そうだったな。そのせいで度量の狭い奴らが陰でこそこそやってるんだ。知ってるか、金子?」
 都合よくも皆実は俺の話に乗ってくれ、リリヤは脇に追いやられた。
「何人かが息巻いてる。本橋も乾も生意気だってさ。本橋は一見、態度がでかいだろ」
「でかいからな、身体が」
「身長はおまえのほうが高いんだけど、本橋は強面タイプだからでかく見えるんだよ。二年の奴らの数人が言うには、高倉さんのひいきをいいことに肩で風切ってのし歩いてて、先輩を先輩とも思わない。新入生の分際でくそ生意気にすぎる」
「おまえもそう思ってんのか」
「大学の合唱部にすぎないとはいえ、ある面、実社会の縮図じゃないか。実力がすべてとまでは言わないけど、力のない者は淘汰されていくんだ。つまらないことを言ってる奴らは去ればいい。俺は本橋も乾も頼もしく思ってるよ。彼らを見ていると……」
 ほっと息を吐いて、皆実は続けた。
「俺もできるものならプロシンガーになりたいと夢見ていた。でも、かなわぬ夢だな。わかったんだよ。本橋や乾ほどだったらなれるかもしれない。徳永だって俺なんかよりは歌は格段にうまいのに、本橋や乾の前では顔色なくなるんだ」
「プロのシンガーにも歌が下手なのはいるじゃないか。クラシックの道に進むんじゃないんだから、おまえの実力を持ってすれば十二分に合格だよ」
「俺はそんなシンガーになりたかったんじゃないんだよ。そろそろ就職も考えなくちゃいけない時期なんだから。本腰を入れる。俺は福祉関連の企業に就職するよ」
「歌手は?」
「歌手なんてものは、神に選ばれし特定の者のみが目指す職業なんだよ」
「俺は歌手になるよ」
「ああ。お互いがんばろうな」
 言語学者になりたいと漠然と夢想していた俺の進路は、歌手になりたいと熱望していた皆実の進路とシンクロして、どこかで入り混じり、どこかでそれてしまったのだろうか。大学にも音楽科はあって、高倉さんはそこに籍を置いている。皆実の志望は大学入学時点では、福祉か音楽かと曖昧だったのかもしれない。自身の限界を知るには早すぎると思わなくもないが、彼は彼なのだから、横合いから俺がくちばしをはさむいわれはない。
 思えば俺は、皆実が入るんだったら俺も、と軽い気持ちで合唱部を選んだ。なのに、眦を決していた皆実は別の道を歩くと決め、俺のほうこそ歌手になりたいと願うようになった。本橋や乾は実力は俺よりも上なのだろうが、そのような存在が下級生にあらわれたからといって、俺が夢を捨てる必要はないはずだ。
 揺らぎはある。皆実にもあったに相違ない。最近は合唱部以外でのつきあいが間遠になっていたので、彼の決意を知るには時間がかかったのだが、誰もがおのれの進むべき道を模索して、決断する時期に来ているのだろう。
「それはそうと」
 この話はこれでおしまい、とでも言うように、皆実は話題を戻した。
「さっき言った二年生だけど、数名の中に約一名、忸怩たる想いが鬱屈してる奴がいるぞ」
「忸怩たるのは徳永だろうけど、あいつはいいだろ。あいつは正当な手段で本橋や乾に立ち向かう。約一名とは使い古しでもあるけど、うまい言い回しかもしれないな。誰を示してるのかはたぶん知ってるよ。み、のつく男だな」
「そう、溝部だ」
 はっきりと名前を出して、皆実はこぶしを握り締めた。
「ひとりではなんにもできないんだ。下らない企みに加担する仲間を募ってる。たいていはためらってるんだけど、溝部の腰巾着みたいになってる奴もいるようで、先だって俺が部室に入っていったら、ひそひそ話していた奴らがぱっと散った」
 皆実は首謀者の溝部を部室から引っ張り出し、ことと次第によっては殴ってもいいつもりで向き合った。
「鉄拳制裁も辞さないっておまえの主義は、俺たちが一年生だったころのお歴々、あのころの四年生の影響を受けてないか。皆実、おい、暴力はやめろよ」
「殴ってやろうかと思ってたけど、やめたよ。あんな奴、殴る値打ちもない」
「そう言われるよりは殴られるほうがいいか」
「おまえや俺だったらそう考えるんだろうけど、溝部はあからさまにほっとした顔をして、どうせ先輩たちは先に卒業するんだし、だとか言ってたよ。あいつらが四年になったらどうなるんだ、うちは」
「心配するにはまだ早い。来年は俺たちが四年生だ。立て直そう」
「今年の二年生はなぁ……」
 よくない種は取り除くのが手っ取り早いのかもしれないが、学生の集団がそのような手段を用いてはいけない。先輩たちも溝部の言動を知っているはずだが、たいしたことのできる奴ではないと考えているのだろう。皆実が溝部になにを言ったのかは知らないが、彼の強硬な態度に恐れ入って、溝部がおとなしくしているように祈っている程度でいいと俺は思う。
「そうだな。まだ先はあるさ。でな、金子」
「うん?」
「つきあってくれるとは言ってくれたんだけど、ひとつ些細な問題があって……」
「交際を承諾してもらったのか。おめでとう」
「やっとこぎつけたよ。俺はおまえみたいにもてないから」
「俺のどこがもてるんだ」
「もてるじゃないか。もてもてじゃないか。ファンクラブがあるんだろ」
「ファンクラブ……大げさきわまりない。それにだな、あれはもてるって言うんじゃないんだよ」
 もててるんだよ、と皆実はきっぱり言うが、合唱部二年生女子の沢田さんが、金子さんファン、集まれ、この指止まれ、って感じで結成された内輪の集いにすぎない。金子将一ファンクラブができたとの噂は俺も耳にしているが、噂とは針小棒大に伝わるのが常なのであろう。
「もててるとは思えないけど、まあ、ありがたいと言えばありがたいよ。おまえの彼女の話は?」
「彼女の名前は三瓶南という」
「みなみ?」
「そうだ。南ちゃんとは呼びづらくてサンちゃんと呼んでるんだけど、もしや結婚なんて話になったら、皆実南では気の毒だろ。俺が三瓶聖司になろうかな」
「妻の姓を名乗るのもいいんじゃないか? しかし、もうそんな話になってるのか?」
「まだだよ。もしもの話だ」
 詳しく聞こうか、飲みにいこうか、ということになって、ふたりして学校から外に出た。三瓶さんという名の好きな女の子ができた、とは聞いていたが、皆実が詳細を話さないのでよくは知らなかった。久々でふたりきりで居酒屋に腰を落ち着け、そこからは恋愛話となった。
「ボランティアで老人ホームを訪問したりもしてて、そのときに知り合ったんだよ。サンちゃんは福祉専門学校の学生だ。来年には卒業して老人ホームで働くって言ってる。俺も福祉方面に進んで彼女のサポートをしようかと考えるようになった。おまえも察してたように、俺は歌手になりたかったよ。でも、現実を直視するのも大切だろ。俺は堅実な道を歩む」
「そうして三瓶聖司になる、と?」
「それも先の話だよ」
「サンちゃんに会わせろよ」
「そのうちにな。うん、彼女も浮ついた女性ではないから、おまえと会わせたとしても心が揺らめいたりはしないだろうな。おまえは恋はしないのか」
「そんな暇はない」
「暇があるからするものじゃないよ」
「経験者は語る。おまえも忙しいもんな」
「金子……うーむ、言ってはいけないか」
「なにを? なにが言いたいのか知らないけど、少々聞き捨てならないな。俺のささやかなファンクラブの女性たちは浮ついてるのか?」
「いや、そうは言ってないけど……」
「浮ついた女性ではないから、俺と会わせても心が揺らめかない? どういう意味だ?」
「おまえには自覚がないのか」
 なんの自覚だ? と見つめると、皆実はため息まじりに言った。
「ファンクラブってのは歌が上手だからってだけでできるものじゃないんだぜ。高倉さんにも渡嘉敷さんにも、星さんにさえもなかった。星さんはけっこういい男だっただろ」
「そう言われればそうだったかな」
「おまえは男の顔はどうでもいいんだろうけど、女の子は顔のいい男にはぽーっとなるんだよ。サンちゃんは決してそんな女性ではないけど、すべからく女性というものは、顔立ちのいい男には熱を上げる。おまえはルックスの点ではそれだし、歌もうまいし、頭もいいし、親も金持ちだし……」
「なにが言いたいんだ。その要素を全部持ってるのはおまえじゃないか」
「へ? 俺が?」
「背も高いし顔もいいし頭もいいし歌もうまいし、親も金持ちだろ」
「俺がか?」
 突然、近くにいたサラリーマンらしき男がくだを巻きはじめた。
「なんだぁ、この兄ちゃんらは? 背も高いし顔もいいし親も金持ちで歌もうまい? それがどうした! 男は裸一貫、てめえの身上ひとつで世渡りするもんだ。親の金がどうした、顔がどうした、そんなもん……くそぉ……」
「あのぉ、よろしいでしょうか?」
 声をかけると、男は悪鬼の形相で俺を見返した。
「なんだよ。文句あるんだったら表に出ろ」
「いえ。心から同感です。な、皆実?」
「はい、俺も同感です」
 皆実は男の手を握り締めた。
「握手させて下さい」
「してるじゃねえかよ。気持ち悪いんだ。離せっ!!」
「……失礼しました。金子、この方のおっしゃることは正しいよな」
「ああ、一点の誤りもない。そうだ、その通り、どこのどなたかは存じませんが乾杯しましょう」
 おまえらはここが……と頭の横でくるくるパーとでもいいたげな仕草をしてみせる男の肩を、彼の連れらしき男が抱いて俺たちの顔を見た。
「そりゃまあ、こいつの気持ちも……いや、まあいいか。ありがとう、適当にあしらってくれて。こいつは酒癖が悪くてね。学生さん? いやあ、なかなかたいしたもんだ。ほら、行こう」
 片手拝みで彼はくだを巻いていた男を俺たちから遠ざけ、俺は皆実と顔を見合わせた。
「店の雰囲気が変になってないか? じろじろ見られてる。出ようか、皆実?」
「なにがなにやらわからないけど、たしかに変な雰囲気だな。出よう」
 そういうわけで恋愛話も、そこから軌道がずれつつあったのもあやふやとなり、皆実とふたりしてこそこそ店から逃げ出した。外に出ると、皆実は言った。
「合唱部もおろそかにはしないよ。あと一年半だな」
「ああ、早いな」
 おまえは完全主義なんだな、そういう奴の人生って大変かもしれないな、と思いながらも口には出さず、もう一軒行こうか、と言い合って、俺たちは夜の街を歩いていった。

後編に続く
 






 
 
 

 
 
 
 
 




 

 
 
 

 

 


 


 
 



 
 

 
 
 

 

 
 
 
 
 




 
 
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