番外編

番外編66(Body and mind)

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番外編66

「Body and mind」


1・繁之

 ぴぴぴ、ちちち、小鳥のさえずりが聞こえて自然に目が覚めた。
 カーテンごしに朝の陽射しが差し込んでくる。チェックのカーテンごしに、チェックの陽射しが……というフレーズがあったな、なんの歌だっけ? あれ? 俺んちのカーテン、チェックだったっけ? きっちりと目が覚めたのでベッドに起き上がり、部屋の中を上下左右と見回して、俺は目をぱちぱちさせた。
 ここはどこだ? 俺の家ではない。カーテンだけではなく部屋の調度が完全に変わっている。恭子が俺の留守に模様替えしたのだとしても、ここまではできない。模様替えではなく引っ越ししないと、ここまでは変わらない。
 昨夜は俺はどうしていたっけ? 夜遅くに帰ってきて恭子と一緒にベッドで眠った……はず。すこし酔っていたので確信は持てないが、そうだったはずだ。
「シャワーでも浴びてさっぱりしてこようか」
 ここは俺の家ではないのだが、だとしたらどこだ? 酔っ払って帰ってきてマンションの部屋をまちがえたのか。まちがえたのだとしても、その家の人が見知らぬ男を中に入れてくれるはずがないではないか。もっとも考えやすいのは、知人の家に泊めてもらった。
 そうなのならば見覚えのある部屋のはずだが、この部屋には見覚えはない。それでも、なにかしらの理由があって知らない部屋にいるのだろうから、シャワーを貸してもらって完璧に覚醒してから考えるつもりだった。
「……ええと、誰かいませんか」
 ベッドから降りて歩き出す。小声でひとりごとを言って、寝室らしき部屋を出て廊下を歩く。声が変になっているようだが、俺はどうしてしまったのだろうか。
「ここ?」
 バスルームだと見極めた部屋のドアを開けると、そこに女性がいた。俺は慌ててドアを閉めて、必死で謝った。
「すみませんっ!! 女性がいらっしゃるとは存じませんで、申し訳ありませんっ!! あれぇ? 俺の声、こんなに高かったか? 二日酔いになるほどには酔ってなかったはずだけど、思った以上に酔っててまだ残ってるんだろうか」
 酒には強いので二日酔い経験は少ないのだが、酔うと声が高くなるのか。必死で謝っていたりする場合はバスの俺の声も上ずるけれど、ここまでハイトーンではない。
 ここまでではないことばかりが起きて、俺はどうすればいいのか。寝室に戻ってとにもかくにも出ていこうか。あの女性は誰だ? 恭子の友達? いや、ここは俺の家ではないのだから、彼女の住まいなのか?
「どうしたの、なにを焦ってるの」
 ドアが開き、女性が姿を見せる。彼女は朝からシャワーを浴びていたのか、胸から下をバスタオルが覆っている。俺は目を閉じた。
「すみませんっ!!」
「どうしてあやまるの? なにか悪いことをしたの?」
「悪いことは……いえ、そんな姿の女性を見ているだけでも悪いことでしょうに……」
「なぜ? 恥ずかしいの? そんな性格なんかしてないくせに」
「俺はそんな性格ですよ」
「ねぇ、見て」
 見てと言われると目を開けてしまって、大慌てで両目を両手でふさいだ。彼女はバスタオルを取ってしまっていて、生まれたまんまの姿で嫣然と微笑んでいたのだった。
「うわっ!! 勘弁して下さいっ!! 着て下さい。服を着て下さいっ!!」
「なんなのよ。いつもとは別人みたいね。ジョーク?」
「ジョークではありません。服を着て下さいっ!!」
「着ればいいんでしょ。変なひと」
 ぼやきつつも彼女はバスルームに戻っていった。変なのはあんたじゃないか、見ず知らずの男の前で裸になるとは、どういう教育を受けてきたんだ、と言いたい。
 やや小柄でやや細身だが、バストは豊かだった。一瞬だったけどぱっちり見てしまったのだから、プロポーションのいい美人だとわかった。低く落ち着いた声からしても、俺と年齢は同じくらいか。彼女はまったく動転もしていない様子で、彼女のほうは俺を知っている? 
 いつもとは別人みたい、と彼女は言った。するとやはり、彼女は俺を知っている? 彼女が服を着て出てきたら、問い質してみよう。
「お待たせ。どうしたの、ねえ?」
「どうしたのかは俺が聞きたいんですけどね、あなたのお名前は? 俺とは顔見知りですか」
「怒るよ」
「怒らないで下さい」
「ミュージシャンだもんね。もしかして変なクスリでもやってる?」
「酒は残っているかもしれませんが、クスリはやってません」
「言葉使いまでちがうのよね。寝ぼけてるの? 一緒にシャワーを浴びる? 私はもう浴びたんだけど、もう一度でもいいよ」
「ひとりで浴びさせてもらってもかまいませんか」
「いいけどね」
 頭から冷水のシャワーを浴びたい。彼女が了解してくれたので、バスルームに入っていく。鏡に向かった俺の頭がフリーズした。
「へ……どうして乾さんがここにいるんですかっ!!」
 え? ちょっと待て、落ち着け、シゲ。ここには乾さんはいるけれど、俺はいない。鏡の中に乾さんがいて、俺を見つめているってのに、俺は鏡に写っていない。どういうことだ?
 自分がなにを着ているのかなんて意識もしていなかったのだが、鏡の中の乾さんは白いシャツを素肌にひっかけて、下半身はトランクスのみだ。細めで長めの脚がすらっと伸びてフロアに続き、その脚が小刻みに震えている。
 姿は乾隆也だが、表情がちがう。常々は穏やかでいながら目には鋭い光があって、知性の香り漂う乾さんが、馬鹿っぽい顔をしている。顔には心が反映するのだとしたら、姿は乾隆也で中身は本庄繁之? あり得へんやろっ!! おっと、関西弁になってしまった。
「この声……乾さん……」
 ハイトーンのこの声は、乾さんだ。俺の口からまぎれもなく乾さんの声が出ている。自分の頬をぴたぴたっと叩いてみると、鏡の中の乾さんも同じ仕草をしていた。
「俺、シゲが乾さんに……乾さんになっちまったのか」
 そうだとしたら嬉しいか? 乾さんは俺なんかよりも百倍もかっこよくて頭もよくて、背も高くて判断力も優れていて、行動力もあって、毅然とした男ではあるけれど、俺もこんな男に生まれていたらもてたのかなぁ、と感じたこともあるけれど。
「嬉しくないよ。シゲの身体はどこに消えたんだ? もとに戻してくれよぉ」
 鏡に向かって叫んでいる俺の喉から、乾さんの声がほとばしる。俺が叫んでいたせいか、バスルームのドアが開いた。
「どうしたの、隆也さん?」
「……いえ」
「あ、ちょっと待ってね。お客さんみたいよ」
 普段着であろうワンピースを着ているので、玄関に出ていってもかまわないのだろう。俺はどうしていいのかわからぬままに、ぼーっと立っていると、玄関での会話が聞こえてきた。
「どなたでしょうか」
「突然、すみません。こちらに乾さんはいますか」
 あの声、誰かに似ている。低くて渋いいい声だ。
「いますよ。ええと、あなたは……ああ、乾さんのお仲間の本庄さん?」
「そうです。すみませんが、上がらせていただけますか」
 へええ、俺が来たのか、なにっ?! 俺? シゲが来た? シゲはここにいるけど、見た目は乾隆也になっていて、なのにシゲが来たって、どういうことだ? どういうことだ、いったいどういう……その疑問ばかりが頭の中で渦巻く。
 ためらいがちであったが、女性が繁之を招きいれている。足音が聞こえてくる。俺が俺の前に立って言った。
「会えてよかったよ。変な感じだけど、うん、真里菜、真里菜さん、しばらく俺たちをふたりきりにして下さい」
「本庄さんって私の名前を……そうね。お友達なんだよね。小さいマンションだから部屋なんてふたつしかないけど、私は寝室にいるから居間を使って。コーヒーでも淹れましょうか。どうしたらいい、隆也さん?」
「あとでね」
 答えたのは繁之のほうで、怪訝そうに彼を見たものの、真里菜と呼ばれた女のひとは寝室に入っていった。
「シゲだろ」
「……乾さんっ」
 彼というか俺というか、ここにいる本庄繁之も常とは顔つきがちがう気がする。シゲの身体や顔は平素は俺自身なのだから客観的には見られないけれど、もっと顔がとぼけているのではないだろうか。なのに今は目が鋭い。
 これは俺が乾隆也になったのではなく、乾さんと俺の器の中身が入れ替わったのだ。そうとしか考えられない。安堵していいのかどうかわからぬものの、乾さんが来てくれたと思うと泣きたくなって、涙をこらえてうなずいた。
「部屋を貸してもらおうか。しかし、シゲ、ちゃんと服を着ろよ。毛脛を出してる間抜けな俺は見たくないぜ」
「は、すみません。ズボンは……」
 聞き耳でも立てていたのか、真里菜さんがズボンを廊下に放ってくれたので、礼を言って穿いた。シゲは……ではなくて、こっちが乾さんなのだから、外見はシゲでも中身は乾さんなのだから、乾さんと呼ぼう。
 その乾さんは普段着の白いTシャツにジーンズ、ブルーの薄いシャツを羽織っている。結婚してからはセンスがましになったと言われているが、客観的に見たらイモだ。イモでもいいからもとに戻りたい。俺はセンスのないシゲでいい。乾さんのズボンはしゃれたグレイのもので、申し訳ない気分ながらそれを穿いて、シャツのボタンも留めて、ふたりして居間に入った。
「ここは俺の彼女のマンションだよ。真里菜っていってさ、みんなには内緒にしてたんだけど、一ヶ月ほど前にそんな仲になった。昨夜は俺は真里菜の部屋に泊まったんだ。なのに目覚めてみたら、横に恭子さんが寝ていた。ショックで心臓が止まるかと思ったよ」
 気持ちはわかるが、乾さん……恭子になにか……そんな目で見つめたのか、乾さんはぶるぶるっと首を横に振った。
「俺が目覚めても恭子さんは目を覚まさなかったんだよ」
「昨日は試合だったから、疲れていたんでしょうね」
「そのようだから、俺は彼女の目を覚まさないように起きて、シャワーを浴びにいったよ。シゲのマンションだとはわかっていたから、おまえよりは状況判断しやすかったんだな」
 鏡を見て、これはシゲだが、中身は乾隆也だと考えたのは、俺と同じ。シャワーを浴びながら熟考して、乾さんは思い当たったのだそうだ。
「すると、乾隆也はどこへ消えた? 昨夜の俺の行動は……さまざまに考え合わせると、シゲが俺の身体の中にいる可能性が高い。そうだろうと決めて、出かけてきますって、恭子さんには書置きを残して家を出て、真里菜のマンションに来たんだよ。金は借りたよ」
「はい、どうぞ」
「書置きの筆跡を見た恭子さんが、シゲの字じゃないって気づくだろうから、滅茶苦茶な字にしてきた。酔ってたからひどい字になったって言っておくといいよ」
 そこまで考えられるのだから、乾さんは冷静だ。冷静な先輩がいてくれてよかった。来てくれてよかった。
「とはいってもな、どうやったらいいんだろ」
「思いつきませんか」
「思いつくわけがないだろ」
 当然といえば当然であった。


2・隆也

どうしたらいいのだろう? 中身が入れ替わってしまってもシゲと隆也であるふたりして、思案投げ首鳩首凝議。鳩首というほどの人数はいないのだが、この状況ではシゲの頭脳も俺の頭脳も鳩以下だ。よい考えがひねり出せる道理もなかった。
「……入っていい?」
 小さな声で、ドアのむこうで真里菜が尋ねる。真里菜を抱きしめたいけれど、今の俺はルックスはシゲだ。俺も小声でシゲに言った。
「ひとまずはおまえが隆也になってくれ。入っていいよ、って真里菜に言ってやって」
「はい。はい、どうぞ。入って下さい」
 ルックスは俺であっても、シゲは親しくもない女性に親しげな口はきけないタチなのだ。真里菜は不思議そうな顔をして部屋に入ってきた。
「立ち聞きなんて礼儀知らずなのは知ってるけど、気になってたまらなかったのよ。だけど、聞いてても意味がわからなかった。なんなの? どういうこと?」
「……どういうことなのかは俺たちにもわからないよ。わかるような状況ではないんだ。でも、きみが聞いたんだったらそのまんまだよ」
「本庄さん……ではなくて、隆也さん? 隆也さんの服を着てるそのひとも、なにか喋って」
「俺ですか。えーと、喋れと言われてもなんと言えばいいのか……乾さん、どうしましょうか」
「本庄さんの服を着ているひとも、いつも喋っているように私に向かって喋ってみて」
「真里菜、きみを巻き込んでごめん。どうしたらいいのかは全然わからないけど、持てる知恵のすべてを振り絞って考えるよ。すこしの間、ここを貸して」
「本庄さん、隆也さん、ふたりで会話をして」
 目を閉じて聞いている真里菜の前で、俺が先に発言した。
「どこへ行くとも書いてこなかったから、いつまでも帰らないと恭子さんが心配するよな。電話でもしておこうか。乾さんと会ってるって言って、飲んで帰るって言っておけば、今夜は最悪、おまえは俺んちに泊まったって言いわけが成立するだろ」
「明日は仕事ですよ」
「最悪も最悪の場合を想定しても、乾とシゲはここにいるんだ。中身が入れ替わっているまんまだって、特に仕事に支障はないだろ」
「歌うときにはバスパートをやってしまいそうですけどね」
「俺も隆也のパートを歌いそうだな。シゲにはその声で俺のパートを歌うのはたやすいだろうけど、俺はベースヴォーカルの経験はないよ。その練習でもしながら、今後の対策を練ろうか」
「俺にはなんにも思いつきませんよ。乾さん、なんとか……」
「弱音を吐くな。なせばなるんだ」
「俺だってそう思いたいけど、しかし……」
 真里菜が静かに言った。
「こうして目を閉じて聞いてると、声がまるでちがうのに、隆也さんが低い声で喋ってるのに、言ってることは隆也さんなんだよね。私は本庄さんをよくは知らないけど、本庄さんが隆也さんの後輩で、隆也さんを頼りにしてるってのはわかる気がする。本庄さんが隆也さんの声で……隆也さんが本庄さんの声で、これってなんなの? 怖くなってきちゃった。抱きしめてほしいのに……」
 静かだった声が震えを帯びて、叫び出さないように耐えている調子になってきた。
「どっちに抱きしめてもらえばいいの? そう思うと、抱いてとも言えないよ。隆也さん、なんとかしてよ。私、私……ルックスがそれで中身が隆也さんの本庄さんも、ルックスは隆也さんだけど中身が本庄さんのそっちの男性もいやだよ」
「信じてくれたんだね。きみをからかってるとは思ってないよね」
 ルックスはシゲ、中身は俺、の俺が言い、真里菜は泣き出しそうな顔で男たちを見比べた。
「言葉の調子だとか話の内容だとかで、そっちが隆也さんだと私にはわかるの。私たちはそんな関係でしょ。恭子さんって本庄さんの奥さん?」
「そうです」
「奥さんなんだったらもっとずっと、よくわかると思う。恭子さんは呼ばないほうがいいよね」
「今はまだ……」
 乾隆也のルックスのシゲが、沈痛な表情で言ってうつむく。摩訶不思議ごときの言葉では形容できないほどに、俺が俺の声で、シゲの言葉を口にするのは不思議だ。無限大の不思議だった。それからシゲを観察する。
 ぱっと見たら彼は乾隆也でしかない。俺たちとさして深い仲ではない人ならば、今のシゲと隆也をなんとも思わずに受け入れるのだろう。
 けれども、彼は俺なのだから、俺はシゲを深く深く知っているつもりなのだから、強烈なまでの違和感を覚える。内面からにじみ出てくるなにかなのか。彼は乾隆也ではない。本庄繁之だ。俺は体感として知っているのだから、そんなのは当然なのだが、見れば見るほどにそう感じた。
 恭子さんはもちろん、ミエちゃんや本橋や幸生や章も、シゲと乾が入れ替わっていると感じるかもしれない。長く話せばきっと気づく。少なくともミエちゃんと幸生は気づく。実験してみたくなくもないが、遊んでいる場合ではないだろう。
 もしや明日になってももとに戻らなかったとしたら、フォレストシンガーズの仲間たちにはこの姿で会うしかない。恭子さんについてはあとで考えよう。
 さほどに長く交際しているのでもなく、ベッドに入ったのはまだ二、三度の真里菜は、俺たちの会話を盗み聞きしたからであっても、見た目は隆也である彼が俺ではないと実感してくれた。かといって、シゲの外見をしている俺に抱きつくわけにもいかないらしく、戸惑っている。シゲも戸惑っていて、俺は髪をかきむしり、唸り声を上げた。
「隆也さん……本庄さんじゃなくて……ああ、もう、ややこしいよっ。こんなのいやだっ!!」
 とうとう金切り声を上げて、真里菜は床にぺたっとすわって両手で顔を覆った。嗚咽が漏れている。俺が目で促すと、シゲがおずおずと真里菜の背中に手を当てる。俺も近づいていって、隆也の身体と真里菜のすべてを両腕でいっぺんに抱きしめた。
「シゲの身体はたくましいから、細い俺と小さ目の真里菜だったらすっぽりと抱きしめられるんだな。真里菜、俺だよ、中身は隆也だよ。わかるんだろ」
「こうして抱きしめてもらっていると……だけど……」
「シゲは気持ち悪いか」
「気持ち悪いっていうよりも、変な感じですね。俺の顔が間近に迫ってくるんですから」
「変な感覚だよな。俺の気分では、真里菜を抱いてる俺をさらに抱擁してるって感覚だよ」
 しかし、貴重な体験ではあろう。
「ものすごくものすごく変だよね……私はどうしたらいいの?」
「真里菜、泣かないで。ああ、よしよし、いい子だ。泣かないで。ごめんね。ごめんよ、真里菜。愛してる。愛してるから」
「真里菜さん、泣かないで下さいね。もらい泣きしそうになりますよ」
「もらい泣きは私でしょうが……どうしたら……」
 すこし落ち着いていた真里菜は、深く深く考えていたのだろう。深く考えても結論は出せるはずもなくて、むしろ頭が変になりそうなはずだ。一度は止まっていた真里菜の涙があとからあとから頬を流れ、嗚咽が激しくなる。俺は腕に力をこめた。
「いやっ!!」
「ああ、シゲの腕だから力が強すぎるんだね。他人の力、ましてシゲの腕力なんだから、力の加減がわかりにくいんだ。苦しかった? シゲに抱きしめてもらったほうがいいかな。シゲ、真里菜を抱いてそのソファにすわって、あやしてやって」
「それは……いえ、あの」
 赤面している俺を見るのも、大変に貴重な経験だろう。
「真里菜、いやか?」
「いやよ、いやいやいやっ!!」
 パニックになってヒステリックになってきたのか、真里菜は身をもがいている。俺が腕をゆるめると、シゲも真里菜から身を遠ざける。真里菜は泣き顔をして、俺たちを交互に睨みつけた。
「こんなのはいやっ!!」
「真里菜、落ち着け」
「真里菜さん、気を静めて下さい」
 止めようとする俺と、なだめようとするシゲに真里菜が殴りかかってくる。シゲとふたりがかりで落ち着かせようとしていたら、三人がもみあう格好になった。
「あ……あれ?」
 貧血とはこんなふうなのか。俺は貧血症ではないのだから知らないが、吐き気、眩暈、頼りなくなる感覚、床が崩れる、膝が砕けるような、といった身体の変調を女性が話してくれたことはあった。貧血症状に近い症状だとしかいえない変調を覚えていたのは、数秒だったのか刹那の間だったのか。気がつくと、真里菜はきょっとんとしていて、シゲがソファに顔を伏せて泣いていた。
「え? あいつ、シゲだよな。すると……ちょっと待ってて」
 とるものもとりあえず、自分の姿を見たくて、鏡が見たくてバスルームに走り込む。
 一度目の入れ替わりは眠っているときに起きたからか、なんにも感じはしなかった。だが、今回は眩暈にも似た……貧血のような症状を感じたのだから、あるいはもしや……俺の推理は当たっていた。鏡に写っていたのは乾隆也だった。
「俺はもとに戻った……三人でもみあったのがよかったのか。ん? だけど……まさか」
 よくない予感を覚えつつ、居間に戻っていく。真里菜が困惑の上にも困惑した顔をして、泣いているシゲを見ていた。
「あのさ、もしかしたら……」
「こうやって泣いてる俺を見ているのは、気持ちが悪くてたまらないんですよ」
 低めの女性の声ではあるが、調子は真里菜では決してなかった。
「ってえことはですね、乾さんは乾さんなんでしょ」
「俺は戻ったみたいだよ」
「よかったですね。そうすると、俺は……」
「鏡で確認してくるか」
「いやですっ、いやだいやだっ!! 乾さんの姿をしてる俺だったら受け入れられるけど、俺は女に……うぎゃぁっ、いやだっ!!」
「落ち着け、シゲ、静まれ!!」
 頭を抱えて苦悶のきわみになっていても、真里菜は美しい。けれど、彼女の顔にも内面からにじみ出てくる色が見える。女性の顔にシゲの内面。気持ち悪くはないが、貴重すぎてしたくない経験だった。
 これまた俺はどうするべきなのだろう。俺はもとに戻ったからといって手放しでは喜べない。ヒステリーを起こしそうになっている真里菜、中身はシゲであるこの女性を抱きしめるのか。あまりしたくない。
 ヒステリーの特効薬は頬に平手打ちともいうが、真里菜の顔をひっぱたくなんてとんでもない。抱くも殴るもできない。八方塞りだ。
「……真里菜」
 しようがないので真里菜の身体は放っておいて、シゲに声をかけた。こちらはまだおのれがどうなったか気づいていないのだろう。涙に濡れた顔をちらっと上げてから、再び顔を伏せて言った。
「取り乱したりしてみっともないね……ねえ、隆也さん、気のせい? 私の泣いてる声が……嘘だよね。そんなはずはないよね。ちがうって言ってよ。隆也さん、抱いてよ」
「う、うん」
 美しい女性が女性の声で男っぽく喋るのは、それはそれで宝塚みたいで悪くはない。が、シゲがおねえ言葉で喋るのは……いやいや、これはシゲではないのだ。俺は思い切ってシゲの身体をぎゅーっと抱きしめた。
「この声……ええ? この……この肩や腕は……」
「うんうん、真里菜、落ち着くんだよ。ここまできみを巻き込んでしまったんだから、最後まで責任は取る。きみがもとに戻らなかったとしたら、結婚しよう」
「結婚なんかしたくないって言ったでしょ……ってか、ええ? なんなのよっ!!」
 俺の胸をつきのけて、真里菜は俺の顔を続けざまにひっぱたいた。真里菜にひっぱたかれたのではあるが、力はシゲだ。死ぬほど痛くて倒れそうになっていると、真里菜の声が聞こえた。
「真里菜さん、やめて下さい。あなたの想像通りになってるんですよ。あなたの身体は男の俺なんですよ。本気の力で乾さんを殴ったらどうなるか」
「あ、ああ。ごめんなさい。ええ? ええ? こんなのいやーっ!!」
 真相を悟ってもとうてい受け入れがたいようで、シゲの身体をした真里菜は手放しで泣き出した。これは真里菜なんだ、女なんだ、と自分に言い聞かせて、俺はシゲ、ではなく、真里菜をもう一度、強く抱きしめた。


3・繁之

 事態はさらに悪くなっているではないか。乾さんはいいとしても、女言葉で喋って泣いている俺と、女の身体になっている俺、どっちが俺だ? 女になっているのが本物の俺なのだった。
 乾さんとだったらフォレストシンガーズのメンバー同士で男同士なのだから、最悪、仕事だってどうにかなる。俺は乾さんの身体になるんだったら、煩雑事が解決できて、恭子との生活を維持していけるのだったら我慢できる。
 しかししかし、女にはなりたくないっ。真里菜さんはプロポーションのいい美人ではあるが、女として生きるなんて絶対に無理だ。第一、女になったら恭子と夫婦でいられない上に、同棲ならできたとしても抱けないではないか。つながれないではないか。ひとつになれないではないか。そんなのぜーったいにいやだっ!!
「幸生だったらよかったのにな。幸生が真里菜になって、シゲが幸生になって」
 泣きじゃっくりでひっくひっくしている気味の悪い男……いや、これは俺で中身は真里菜さんなのだと知っていても、俺は気味が悪いのだ。不気味で見ていられないのだ。乾さんはそうでもないらしくて、そいつを抱いている。
 いくぶんかは気持ちが落ち着いたのか、ごつい男になっている自分を正視したくないから考えないようにしているのか、真里菜さんは乾さんに抱かれて静かになっている。
 俺だって自分がどうなっているのか、鏡なんか見たくもない。腕や手が目に入ると叫び出したくなる。女の腕はこんなに細くて、手はこんなに小さくて、指はこんなに華奢なのか。真里菜さんは恭子よりも一割は細そうだ。
 それはまあいいとして、乾さんの言う、幸生? 幸生だったら女になったら嬉しいのか? あいつは芝居でならば女になるけれど、実際にはいやなのではないだろうか。俺は女になるよりは幸生になるほうがいいけれど、なりたくてもなれるものでもなし。
「真里菜は真里菜に戻って……言っててわけわかんねえよ」
 乾さんが言って、虚ろに笑ってみせた。
 どうすればいいのか、乾さんにわからないものが俺にわかるはずもない。俺も虚脱状態になっていると、乾さんが言った。
「煙草、吸っていいか。真里菜、ちょっと離していい?」
「いや、このまんまで吸って」
「きみを抱いたまま? きみがそれでいいんならね」
 こんなときでも乾さんは女のひとには優しくて、口調もソフトだ。乾さんは俺に言った。
「寝室に俺のジャケットがあるんだ。ジャケットごと持ってきて」
 言われた通りにすると、乾さんはジャケットのポケットから煙草を取り出し、口にくわえる。真里菜さんが離れたがらないので片手でそうしていた乾さんがくわえた煙草には、俺が火をつけてあげた。
「ありがとう。窓を開けて」
「はい」
 窓を開けて外の空気を吸い込む。この部屋はマンションの三階であるらしい。窓の外には樹木があって、小鳥がいる。猫もいた。
「あ、あああ……」
 しなやかな体躯の黒猫が、樹木の枝づたいに歩いてきて窓から中に飛び込んできた。
「おや、にゃんこのレディかな。シゲ、彼女は女性だろ」
「俺は幸生じゃないんですから、猫が女性なのか男性なのかなんてわかりませんよ。こら、出ていけ」
「いいじゃないか。綺麗な猫だ。真里菜、いい?」
「なあに?」
 彼女の心も虚ろだったのか。泣きくたびれたのか、ぼーっとなっていたような真里菜さんは、猫を見た。次の瞬間、悲鳴を上げた。
「きゃーーっ!! 私、猫は嫌いっ!! 怖いっ!!」
「猫が怖いのか。知らなかったよ。大丈夫だから。猫は人を襲ったり噛んだりしないよ。シゲ、悪いけどそいつ、外に出して」
「はい」
 出ていけと言っても聞く奴ではなさそうなので、とっつかまえて窓から放り出そうと腕を伸ばす。が、猫は上手に逃げてつかまってくれない。ジャンプ一発でダッシュボードの上に飛び上がり、俺の頭の上に飛び乗り、そしてまた次の瞬間、ええ?
「私が怖いだなんて、失礼なひとね」
 整理してみると、俺は先刻までは真里菜さんの中にいた。乾さんだけは心と身体が一致する姿でいて、真里菜さんとシゲとが入れ替わっていたのだ。したがって、俺が女性、真里菜さんはシゲの外見をして乾さんに抱かれていた。
 猫が俺の頭に飛び乗ったとき……くらっと世界が反転したような感覚があった。俺は俺の身体を見る。黒いなめらかなビロードのような……えええ?
「うわーおっ!!」
 なんなんだっ!! と叫ぼうとした声は、猫だった。
「ふみゃ? にゃお?」
 思考は可能なのに言葉が出てこない。シゲの身体は乾さんの腕の中で、胸に顔を埋めて、俺の低い声で言っている。猫をどこかにやって、怖いのよ。
「きみは……? 真里菜はここにいるんだろ。真里菜は俺に抱かれてるんだろ」
 尋ねる乾さんに、真里菜さんがこっくりする。あれは俺ではなく真里菜さんだ。すると?
「あなたはどこの女性? シゲはどこに行った? おい、シゲ?」
 真相に気づいたようだが、俺は声を出せない。乾さんは片手で猫の俺の毛並みをひと撫でした。
「猫には発声器官も人間のような声帯もないから、言葉は発せないんだな。知性はあるんだろ。シゲだな?」
 あるようなないような首で、うなずくしかなかった。
「目には人間の知能があるって、シゲがこの中にいるって、感じられるよ。信じないのなんのって言ったって、何度もこうなってるんだから信じるしかない。そうすると、あなたは誰?」
 喋っているのは乾さんのみだったのだが、そこで真里菜さんの姿をした何者かが口を開いた。
「私は猫よ」
「幸生だったりして?」
「幸生ってなんなのか知らないけど、猫のまんまでは喋れないから、真里菜さんの身体を借りたの」
「そういう芸当って、どの猫にでもできるの?」
「できるわよ」
「なるほど、寡聞にして存じませんでしたよ」
 皮肉っぽく言って、乾さんはうなずいた。
「一番目の入れ替わりからして、あなたの仕業?」
「そうじゃないの。窓からこの部屋の中を覗いてみたら、人間たちがおかしなことになってる。私はあなたたちを助けにきてあげたのよ」
「正義の味方のヒロイン猫か。今だけは幸生を呼んでやりたいよ。助けてくれるんだったら、どうか、よろしくお願いします」
「ひとつ、方法はあるのよ」
 たしかに中身が入れ替わると、声は同じでも調子がちがってくるものだ。猫とはいってもこの場合は特殊であるようだが、真里菜さんの実物とはちがった調子で、彼女は言った。
「真里菜と繁之が裸になって抱き合って、交接すればいいの」
「交接ってのはすなわち……それしか方法はないのか」
「ないね」
「真里菜はいやだろ。シゲの意見は聞かなくてもわかるってのか、俺だっていやだよ。その方法は却下したいな」
「そしたら、一生そのまんまでいたら?」
 意地悪な猫の台詞に、俺は気を失いそうになった。気を失って正気に戻ったら、身体ももとに戻っていればいいのに。
「一生そのまんまってのは、真里菜はシゲになっている。シゲは猫になっている。きみが真里菜になっている。このまんま?」
「そうよ。そしたら、隆也さん、私を抱いてくれる?」
「……性悪猫ってのはきみのことだね。俺はさ……」
 こちらも気絶寸前になっているのか、乾さんは腕の中のシゲを見た。
「真里菜、すわろう。抱いて運んであげたいけど、きみの身体は俺の腕に……いやいや、これからはこのまんまなんだったら、きみが抱いてって言ってくれたら……うん」
「私が抱いてあげようか。シゲさんの力だったら、隆也さんを抱き上げられそうね。やってみたいな」
「それは勘弁して下さい」
「どうして?」
「いいから、すわろう」
 意地悪のきわみみたいな目で真里菜さんが、乾さんとシゲを見つめている。少なくとも見た目はそう見える。真里菜さんの目の輝きは、魔性の猫……その形容がふさわしかった。
「隆也さん、隆也さん……」
「うん?」
 ふたりしてソファにすわると、シゲが乾さんの胸に顔を埋める。俺の低い声が、隆也さん、好きよ、と言っているのは、聞いていておっそろしくシュールだった。
「失礼、続けて」
「隆也さんは私になにが言いたいの?」
「きみの外見は真里菜だから、そんなおいたをするもんじゃないよ、ってね、膝に乗っけて叱ってやりたいんだ。だけど、本物はこっちだから、きみを膝にすわらせると真里菜が妬く。この姿勢で話し合おう。きみのおいたにはどんな魂胆があるんだ?」
「おいたじゃないもの」
「きみは若い猫じゃないの? 猫でもないんだろうけど、そしたらなんだろ。猫型エイリアン? こうやって地球人の身体を乗っ取って、地球侵略か」
「それもいいかもね」
 話を聞いていると呆然としてくる。俺は猫の身体にいるわけだが、猫内部に寄生しているからといっても、この身体が地球の猫なのか異星の猫なのかはわからない。幸生にだったらわかるのだろうか。というか、異星に猫がいるのか?
「隆也さんって……」
「俺がどうした?」
「そういう男、好きよ。私のものになって」
「きみの正体がなんなのかも知らないのに、なれるかよ」
「なんなのか言ったら、なってくれる?」
「俺はいっときにはひとりの女性としかつきあわないんだ」
「彼女の手前、いい格好をしてるでしょ」
「誰の前でだって俺はいい格好をしてるらしいよ」
 いい格好で冷静にふるまっているのではなく、鈍感だから事態を軽く見ているのでもない。乾さんはいざとなると度胸が据わる。知ってはいたけど改めて感服した。
「こうして」
 真里菜さんの姿の猫型……猫型なんなのかは知らない面妖な生き物が、乾さんの手を取る。乾さんが彼女を見つめ、彼女も乾さんを見つめる。手と手からなにかが流れ合っていたのか。ふたりはそのままじっとしていた。


4・隆也

 正直なところ、なにがなんだか、なにがどうなったのかわからない。今回の事故はわからないことだらけだったのだから、事故だったのだと考えておくしかないだろう。
「ごめんね、真里菜」
 正体不明の黒猫が窓から出ていき、もとに戻ったシゲは帰っていき、もとに戻った真里菜を抱きしめようとしたら、彼女はするっと避けた。
「そんな体質の男のひとに、私はついていけないのよ」
「ついていくって言うけど、俺はきみについてきてほしいんじゃなくて……」
「言葉はどうでもいいの。体質よ」
「体質じゃないんだけどね……」
 こんな経験は初だ。最初で最後にしてほしい。
「体質だってなんだって、私までが巻き込まれるなんてもう二度といやなんだからっ!!」
「そりゃあそうだね。俺だって二度としたくない経験だよ。二度とないはずだよ」
「どうして隆也さんにそう言えるの?」
 普通は人生で一度も経験しない事柄のはず、だからだが、二度と起きないとの保証はできかねるのだった。
「私が……シゲさんに……いやだ。あのごっつい手で自分の身体を抱きしめたりしたのよ。抱いてる腕にも筋肉やら力こぶやらがあって、ぞぞっとしちゃった。隆也さんを抱き上げてあげようか、なんて言ってみたけど、私は抱っこされるほうがいい」
「いくらだって抱っこしてあげるから、おいで」
「もういいの。いやなの」
 決意は堅いのだろうか。今回はこうしてふられるのか。
「隆也さんだって変だよ」
「俺も変になってたのは認めるよ」
「変、変、変。男になってる私をああして、いつもと同じに抱いてくれるなんて、そういう趣味があるからじゃないの?」
「そういう趣味……おい、飛躍するなよ」
「もういいの。すべてを含めて、私は隆也さんにはこれ以上ついていけないのよ。帰って」
「これでさよなら?」
「帰って」
 さよならとは言わず、真里菜も言ってはくれず、マンションから出ていく。身体はもとに戻っても、心はもとの俺には戻れない。真里菜も同じなのか。猫は知らないけど、シゲだってこうなったと知ったら責任を感じるのではないだろうか。
「シゲが悪いんじゃないよ。真里菜も悪くないし、俺だって悪くないし、強いて言えば、いたずらをしたあの猫か……あいつ、なんだったんだよ?」
 あの手この手でふられるなんて、神はどこまで俺に試練を与えるのか。神ではなく、別のなにものかの摂理が? それが猫の形であらわれたと? 人生とは過酷、苛烈であるのだ。ひとときの経験も、短い恋も、忘却するしかなさそうだ。人間にならば誰でもにそなわっているという忘却機能がありがたかった。

END



 


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~ Comment ~

すごいですね

こんばんは。この話は最初の入れ替わりだけでなく、次、また次と入れ替わっていって・・・予想が外れました。

すごいなあ。こんな話を書けるあかねさんがうらやましいです!!!でも、途中で思わず笑ってしまった箇所がありました。
ユーモアもありますね。

漫画だったらね

このストーリィって、
漫画とか映像とかのほうがいいですよね。
ややこしくってすみません。
って、自分で書いててもややこしくて、
まちがえそうになりました。
にゃは(苦笑)
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