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小説214(夢見るころをすぎて)

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裸

フォレストシンガーズストーリィ214

「夢見るころをすぎて」

1・さなえ

 本の間からはらっとこぼれたのは、一葉の写真だった。
「……やだ、これ」
 若い若い私がいる。白い上っ張りから太い脚を見せて、祖母が経営していた中華料理店で働いていたころの写真だ。
 こんな写真を撮ったことすらも忘れていたけれど、見ていると思い出す。高校を卒業して一年か二年、二十歳ぐらいだった私は中華料理屋の看板娘で、この翌年には、常連客の馨くんにプロポーズされて結婚したのだった。
 このころよりもむしろ痩せて、三人の子持ちにすれば若返ってすっきりしたような気もするが、もう三十歳をすぎて、おばさんになりかけているのは否めない。このころは若かったなぁ、太い脚までが可愛いね、と写真を見ていると、奥のほうに映っている男性に気がついた。
「……本庄さんじゃない?」
 この写真は店に来ていたお客のおじいさんが、古い一眼レフカメラで撮ってくれたものだ。おじいさんは写真マニアで、自分で現像までするひとだった。
「さなえちゃん、こっち向いて、チーズ」
 なんて言われて、やだぁ、とか言いつつ笑ってみせた私を撮った、店内での写真だった。
「さなえ、腹減ったぞ」
 言いつつ帰ってきたのは、現在では私の夫で、三児の父である馨だ。彼も高校を卒業して家業の材木店で働いていて、毎日毎日、うちの店にお昼を食べにきていた。
「俺が毎日行くのは、おまえが好きだからだ。俺の彼女になってくれぇ」
 そう言っていた馨もおじさんに近くなり、父親のあとから家に入ってきた娘と息子たちも、腹減った、メシメシメシ、と父親の口真似をしている。子供たちには手を洗いにいかせておいて、私は夫に写真を見せた。
「お、なつかしいな。このころのさなえ、デブだったんだよな。俺って太目が好きでさ……」
「じゃあ、今のさなえは好きじゃないの?」
「好きだよ。痩せて綺麗になった母ちゃんだって好きだよ」
「私も父ちゃんは好きだけど、そうじゃなくてね、それはいいとしてね、その写真の奥のほうに、ラーメンを食べてる男のひとがいるでしょ」
「……うん、いるな」
「そのひと、私の彼だったんだよ」
「なにぃぃ」
 唸っている馨を妬かせるのが面白くて、私は嘘をついた。
「私のもとカレ。そのひとって今では有名人なんだから、テレビにはあんまり出ないけど、CMソングだったら歌ってるでしょ」
 それは嘘ではない。チョコレートのCMのバックで、ショコラもとろけそうな熱い愛で、おまえをとろかせたい、と甘い甘いハーモニーを聴かせてくれるのが、私もほんのちょっとは昔の彼らと触れ合いのあった、フォレストシンガーズなのだった。
「ショコラってなに?」
「……ちょっと待て」
 娘に訊かれた夫はインターネットで調べ、チョコレートのフランス語だと教えてくれた。子供たちはまだ幼稚園と小学生なので、お父ちゃん、えらい、と感心していたから、私も調子を合わせておいた。
「あ、あのショコラのな……フォレストシンガーズだっけ? おまえ、ファンだって言ってたよな」
 そのときには言わずに、ただなつかしんでいただけだったのだが、写真が出てきたら言いたくなった。本庄繁之、私のもと彼、なんて嘘だけど。
「この写真のころはフォレストシンガーズはデビューしたばかりで、全然有名じゃなかったのよ」
 ルーペを持ち出して本庄さんの顔を確認し、ああ、ほんとだ、見たことのある顔だ、と言っている夫に、私は言った。
「本庄さんは売れてなくてもプロの歌手なんだから、地方での仕事も多かったみたいね。東京にいるときにはうちの店に来てくれて、ラーメンやら餃子やらを食べてくれたよ。よく食べるひとだったし、おいしそうに食べてくれるひとだった。おばあちゃんも本庄さんを気に入ってたみたい。それでね、あんたがあたしを好きだと言う前に、本庄さんに告白されたのよ」
 ここは嘘。私は本庄さんが好きだったけど、彼は私なんかなんとも思っていなかったはずだ。
 夫は写真を見ている。子供たちは腹減ったと騒いでいる。私は台所で思い出す。フォレストシンガーズという新人コーラスグループの、バス担当の声の低いひと。彼がそうだと知って、ラジオで彼らのお喋りを聴いて、歌も聴いて魅せられた。
 他のひとたちとは会ったこともなかったのもあり、本庄さんがもっともルックスが地味だったのもあり、店に来てくれるのもあって、私は彼に片想いするようになった。
 頑丈そうな身体つきやら、大食いのところやら、あの低い声やら、私はああいうタイプが大好き。馨くんも近いけど、声や歌は本庄さんのほうが上だ。フォレストシンガーズのCDがほしくて、何軒ものショップを回り、最後には取り寄せを頼んで手に入れた。
 けれど、有名ではなくても彼は芸能人。中華料理屋の娘なんかに釣り合う男性ではない。そう思って諦めて、本庄さんとはたまに言葉をかわすだけで満足していた。そんなころに馨くんに告白されて、私は現実の男を選んだのだ。
 歌手なんて、私から見たら夢の世界の男だ。私と同じ世界で生きている馨くんがいい。その選択は決してまちがってはいなかった。
「なあなあ、さなえ、続き、聞かせろよ」
 夕飯もすんで子供たちが二階の部屋に行ってしまうと、夫が言った。
「なんの続き?」
「こいつだよ」
 妬いているらしいので、私はうふっと笑ってフォレストシンガーズのアルバムをラジカセにセットした。今ではけっこう有名になって、チョコレートのCMソングを歌ったり、全国でライヴをやったりしているフォレストシンガーズ。
 私が結婚するすこし前に、本庄さんと三沢さんが店に来ていた。それから顔を見なくなったような記憶があるが、正確ではない。
 中華料理には飽きてしまったのか。忙しくなってきたからなのか。だんだん売れてきたら、街中の店には出入りできなくなったのか。いつしか本庄さんとは会わなくなって、私は結婚して主婦となり母となった。
 祖母が亡くなったので中華の店も閉じて、私は繁忙期や決算時期には夫の親の材木店を手伝うだけの専業主婦になっている。フォレストシンガーズのライヴに行く余裕はないし、三人の子育てに忙殺されてはいるけれど、忘れてはいない。
 子供たちが大きくなって、お金にちょっぴりゆとりができたら、フォレストシンガーズのライヴに行きたい。それまでは解散したり、消えてしまったりしないでね。
「おい、さなえ」
「んんとねぇ……」
 もっと妬かせてやりたいので、作り話をしたいのだが、私にはそんな才能はない。テレビドラマを参考にして話してみようか。


 秋にデビューしたフォレストシンガーズのメンバー、二十三歳の本庄繁之さんは、たびたび私の店にラーメンを食べにきてくれる。いらっしゃいませ、今日はなにになさいます? チャーシューメンひとつ、お願いします。
 はじめはそんな会話だけだったのが、彼の熱い視線に気がつくようになっていく。彼はある日、私に告白してくれた。
「つきあって下さい、さなえさん」
「……私なんかでいいんですか」
「あなたがいいんですよ」
 あの低い声で告白されて、うなずいたら抱きしめられて、頬にキスされた。
 けれど、彼は忙しくて、デートもままならない。寂しかった。会いたいと思っても会えない日々を我慢していると、冬になったころに誘ってくれた。
「さなえさん、今度の店の定休日、俺たちは熱海で仕事があるんだ。午後には終わるから落ち合って、散歩でもしない? きみは帰らないといけないだろうから、時間はそんなにはないだろうけど、フランス料理の夕食を予約しておくよ。夕食のあとで、遅くならないように送っていくから、一時に熱海の駅で待ち合わせよう」
 夢見心地のデートだった。
「できたらきみと一緒に泊まりたいんだけどね」
「そんなこと、結婚前にしてはいけないでしょ」
「そうだね。だから俺も我慢してるんだよ」
「でも……こうして歩いているところを写真にでも撮られたら困るでしょ」
「それはあるんだけどね」
 熱海の海岸を歩きながら、本庄さんはマフラーを私の首に巻いてくれた。
「風が強いよね。寒くない?」
「寒くはないわ。こうして歩いていて、写真を撮られたらやっぱり困る?」
「俺たちは売れてはいないけど、なにしろ芸能人なんだから、女性とつきあうんだったら注意しろよって、マネージャーなんかには言われてるんだ。さなえさんには俺がつきあってほしいって言ったのに、デートする時間もなくて心苦しく思ってる。めったに会えないのは寂しいから、結婚しようか」
「私みたいなのと?」
「私みたいなの、なんて言ったらいけないよ。俺はあなたが好きなんだから。あなたも俺が好き?」
「好きだから……おつきあいしてるのよ」
「じゃあね、今夜は帰らなくていいでしょ」
 心は動いたけれど、本当に芸能人とこの私が結婚できるの? 結婚できないのだったら、男のひとと泊まるなんてしてはならないことだわ。私はそう思って、かぶりを振った。
「そうか。やっぱりそれほど好いていてはくれないんだね」
「……あのね……」
「ごめんね。俺はきみを困らせてるんだ。帰る?」
 デートするはずだったのに、フランス料理だって楽しみにしていたのに、こう言われたら帰るしかない。本庄さんは私を駅まで送ってくれて、哀しそうな顔をして見送ってくれた。
「あれから考えたんだけど、きみの幸せを願って俺は身を引くよ。きみだったら俺なんかよりも堅実な立派な男の人が見つかるだろ。そのひとと幸せになってくれ」
「……はい」
 電話でそう言われて、別れた。ほんのひとときの、私の素敵な思い出。


 韓国ドラマにもこんなに古風なのはないだろうか。私のイマジネーションだとこんなものだな、と内心で舌を出しながらも語り終えると、夫は言った。
「それ、おかしいじゃないか」
「どこが?」
「俺がさなえにプロポーズしたのは、冬になる前だったぞ。あのときにおまえは本庄とつきあっていたのか。おまえってそんな女だったのか」
「あ、だから、その前の年の冬」
「ここに書いてあるぞ」
 フォレストシンガーズファーストアルバムに、彼らがデビューした年が記入されている。その年は馨くんにプロポーズされたのと同じ年だから、矛盾が出てくるのだった。
「どうなんだよ、さなえ」
「嘘だよ。こんなのあるわけないじゃない」
「……だろうな。夢みたいな物語だもんな」
「そうよ。私の夢」
「俺だったら駄目か」
 ううん、ううんっ、と何度も言って、私は夫に抱きついた。
「夢を見てぽわぽわっとしてる年でもあるまいし、私は本庄さんよりも馨くんのほうが好きだよ。第一、私の片想いだったんだもの。本庄さんだって四、五年前には結婚したの。あのときには……」
 公式サイトにその発表がアップされていて、ちょっとだけショックだった。
「恭子さんっていうプロのテニス選手なんだよね。そんなに美人でもないし、わりと太ってるし、私に似てなくもないかなぁ……」
「意外と、本庄もおまえを好きだったりして?」
「そんなわけないじゃない」
「ないだろうな」
「馨くんは私が好きでしょ」
「さなえもだろ」
 お互いにうなずき合って抱き合って、目を閉じる。夫になって父になった馨くんが、妻になって母になった私にキスする。なんにも言わなくても、ベッドインの合図だとわかった。
「だけど、さなえはフォレストシンガーズのファンなんだろ」
「うん」
「次の結婚記念日のあたりに、コンサートをやらないかな」
「やったとしたらどうするの?」
「ちびたちはうちのおふくろに預けて、聴きにいこう」
「馨くんはフォレストシンガーズに興味あったの?」
 結婚前の呼び名に戻って尋ねると、彼は片方の口角を上げてみせた。
「前の席だったらいいな。席から本庄繁之を睨んでやるんだ」
「そのためにコンサートに行くの? 不純」
「そうかぁ。でも、おまえは行きたいんだろ」
「行きたいよ。そりゃあね」
「だったら行こうよ」
 変な口実をつけてるけど、私が行きたいから、結婚記念日のプレゼントにしてくれるつもり? だから馨くん、好き、と私もキスしてあげた。


2・みずえ

 彼とは同い年で、合唱部では友達というほどでもなくても話しをした記憶もある。彼は忘れてしまっていたとしても、女子部のキャプテンだったと言えば思い出してくれるかもしれない。あれから、あんなことがあってからだって、五年以上もたっている。
 フォレストシンガーズのライヴが東京で連続三日間、行われると聞いた。そのうちの一日のチケットが手に入り、早めにホールに来てみた。本庄くんに会いにいきたい。会いにいってもかまわないのだろうか。
 どうして本庄くんに会いたいの? 本橋さんじゃないの? ううん、本橋さんには会いたくないの。同級生だった本庄くんがいいの。だけど、昔の知り合いだったからって会いにいっていいの? 会わせてもらえるんだろうか。
 ためらって迷って悩んだあげく、会わせてもらえなかったら諦めもつくだろうと、関係者以外立ち入り禁止のドアの外の、小さな窓口に問いかけてみた。
「本庄さんの同窓生の方でいらっしゃるんですね。お待ち下さいませ」
「会わせていただけるんですか」
「ライヴとなると時おり、そうして訪ねてくる方がいらっしゃるんですよ。そういう方にはお取次ぎするように言われておりますので」
 窓口の女性が言ってくれ、電話かインタフォンで話してくれた。数分間待っていると、本庄繁之が出てきてくれた。
「武田さん? うわー、なつかしいな。元気だった? お茶でも飲もうよ」
「……あのっ、突然来たりしてごめんなさい」
「こういうときって誰だって、突然なんだよ。俺も嬉しいんだから、気にしないで。時間はあるんでしょ? 行こうよ」
「は、はい」
 堅くなって彼のあとから歩いていく。プロのシンガーになっているのだから当たり前なのかもしれないが、卒業以来はじめて会う彼は、ずいぶんと世慣れてこなれた大人の男性になっていた。
 学生時代には真面目堅物で口が重いという印象を持っていた。私は合唱部の女子部キャプテンだったから、男子部キャプテンの実松くんとだったら、合同行事の打ち合わせなどもやってわりによく話したが、彼も言っていた。
「シゲは女のひとの前に出ると口が重たくなるんやな。頭の血のめぐりが遅いから、うまい言葉を見つけるのが遅いってのもあるんや。あいつはそれほど無口でもないで」
 だそうだったのだが、あのころの本庄繁之から脱皮して、スマートなシンガー本庄繁之に変身しているようにも見えた。
「ホールの関係者しか入れない喫茶室だよ。ここのコーヒーはうまいんだ。コーヒーでいい?」
「はい、それで」
「はいって返事しなくてもいいでしょ。砕けて喋って」
「うん、そうね」
 覚えていてくれたのだろうか。私は彼らを忘れてはいなかったけど、本庄くんも忘れずにいてくれたのだろうか。コーヒーが運ばれてきて、本庄くんがミルクや砂糖を入れてくれて、おおまかな近況報告などしているうちには、ほぐれていった。
「ずいぶんと遅ればせだけど、ご結婚おめでとう。子供さんもおふたりになられたんでしょ」
「ああ。公式サイトでは発表してるから、見てくれてるんだ」
「見てるよ」
「ありがとう」
「本橋さんもご結婚なさったのね。それにしたって遅ればせだけど、おめでとうって伝えてね」
「伝えておくけど、みんなにも会う? 楽屋へ来てくれたっていいんだよ」
「ううん、いいの」
 乾さんや木村さんや三沢さんにだったら会ってもいいけれど、本橋さんには会いたくない。会えば心が揺れる。彼は私を忘れてしまってはいないはずだから、会えば困らせるかもしれない。もしかしたら忘れられているのかもしれなくても、覚えていてくれると信じていたかった。
「武田さんは結婚は……」
「してないよ。彼氏もいないんだもの」
 彼がいたことだってあるけれど、もう五年以上も恋人はいない。本橋さんのせい、だなんて思いたくもないのに。
 今も働いている宇宙博物館で、一度、二度、本橋さんの姿を見かけた。学生時代の憧れの先輩だ。四年生の年には女子部のキャプテンだったのだから、私にも人望や歌の実力はあったのだろうが、口がうまかったり華やかだったり美人だったりはしない。
 好きな男のひとの前に出ると喋れなくなったから、好きだった本橋さんの近くにいると、胸がどきどきして顔が赤くなっているようで、普通にしてはいられなかった。
 それでも同じ理学部ゆえに、一年先輩の本橋さんには、むずかしい物理の課題を助けてもらったりもした。そんなときにも私の胸はときめきっぱなし。本橋さんの声が耳元に聞こえ、息すらをも身近に感じると気が遠くなりそうになって、受け答えもしどろもどろになっていた。
「こら、武田、聞いてんのかよ」
 勉強を教えてもらっているのにそんな態度なのだから、荒っぽく言われたこともあった。
「教えろって言ったのはおまえだろ。聞いてないんだったら知らないぞ」
「あ、すみません」
「聞けよ。でな、ここは……」
 こんな時間が永遠に続けばいいのに、と思っていた、純情な学生だった。
 それから本橋さんは卒業していき、私も一年後には卒業して宇宙科学館の職員となった。ひとりだけ彼氏ができたけれど、彼とも別れてしまったあとで、本橋さんを見かけるようになった。あれは私が三十歳になる直前。
 三度目くらいに見かけたときに声をかけて、ランチに誘ってもらった。あのときは私はお弁当を持っていっていたのに、同僚に食べてもらって本橋さんと出かけた。宇宙の話をするのが楽しくて、そのためだけだったのだろうけど、本橋さんが再び誘ってくれた。
 夜のデートに誘われて、仕事を抜け出してワンピースを買いに走ったとは、不真面目な社会人だが、本橋さんはその服を褒めてくれたのだから、私もとてもとても感激していた。
 デートをして話をした。私に学生時代に勉強を教えてくれたとは、本橋さんは覚えてもいなかったけれど、ふたりですごす時は最高に楽しくて、私はすこし酔った。お酒だけではなくて、本橋さんといられることに酔って、帰りたくなくて。
 帰りたくないな、の態度を示せば、大人の男のひとにだったらわかる。本橋さんも察してくれて、ホテルに入ってベッドにも入った。
「抱いてもらって嬉しかった。私には彼がいるんだから、気にしないでね」
 そんなふうに言って別れたのだったか。本橋さんは言葉少なになって、悪いことをしたのかな、と言いたげな表情をしていた。
 それから何年かたって、手紙を書いて本橋さんのアパートの郵便受けに直接入れてきた。返事なんて期待もしていなかった通りに、なんの音沙汰もないままに時が流れ、本橋さんが結婚したと風が教えてくれたのだ。
 お相手は私よりもひとつ年上の、女子部の先輩の山田美江子さん。フォレストシンガーズのマネージャーとなった山田さんは、学生時代から本橋さんとは友達だと言っていた。乾さんとも友達で、男のひとには人気のあった、てきぱきとした頭のいい美人だった。
「本橋さんは山田さんを選んだのね……おめでとう」
 そうとしか言いようはなくて、これでいいのだと思っていたのに、本庄くんに会いにきたなんて、彼に会えたらすこしは話したくなるなんて、私はこんなに馬鹿だったのか。
「あのね、武田さん?」
 長く黙っていたからか、本庄くんが当惑顔で私を見つめた。
「あのね、本庄さん、本橋さんには私が来てたって言わないで」
「……どうして?」
 馬鹿ったら馬鹿。こんなよけいな台詞を口にしたら、なにかあったのかと思われてしまう。くちびるを噛んでいると、本庄くんは首をかしげかしげ言った。
「乾さんにだったら言っていいのかな。きみがどうして、本橋さんには言わないでって言うのか、乾さんに話したらきっと推理してくれるんだろうけど……」
「そしたら乾さんにも言わないで」
「あのさ、あそこに乾さんがいるんだよ」
「ええ?」
 微笑んでこちらを見ている、すんなり背の高い男性は乾さんだ。乾さんは学生時代から勘が鋭いと言われていた。
「駄目、言ったら駄目」
「乾さんは武田さんを覚えてるんじゃないかな」
「本庄くんの高校時代の友達だとでも言っておいて」
「ああ。きみがそうしろと言うんだったらそうするよ」
「約束だよ」
「俺は口だけは堅いんだ。約束は守るよ」
 信じてるからね、と本庄くんをひと睨みして、乾さんには曖昧に会釈して、テーブルにお札を置いて席を立った。
「ごめんなさいね。私が来たってことすべてを忘れて」
「……なんだかわからないんだけど、金はいいから」
「迷惑かけた上におごってもらうわけにはいかないもの。じゃあ、失礼します」
 大きな声を出すと乾さんに聞こえるとでも思ったか、本庄くんは口の中で、武田さん……と呟いていた。私は頭を下げて小走りになった。
 最悪に馬鹿げたふるまいをしてしまった。行かなければよかったと後悔してもあとのまつりだ。帰ろうかとも思ったのだが、ライヴを聴きたい。フォレストシンガーズ全員の同窓生、同じ合唱部出身者として、純粋に彼らの歌に浸ろう。


 ステージで言ったのは、三沢さんだった。
「なにやら内緒話をしてましたよねー、先輩方? あのひと、みーちゃんじゃないのか、って乾さんがシゲさんに言い、みーちゃんってだーれ? ってシゲさんが言ったんですよ。リーダー、みーちゃんって誰?」
「みーちゃんってのはミチコとかミツエとか? 俺にはその名前に心当たりはありませんが」
 赤くなるなんて何年ぶりだろうか。三十代半ばになっても人は赤面するものなのである。ひとりで来ていてよかった。女友達の連れでもいたら、みーちゃんってみずえ? あんた? と言われているところだった。
 みーちゃんなんて名前はどこにでもあるからこそ、三沢さんが話題にしているのであろうが、そんな会話はあったのかもしれない。乾さんは本当に敏感で、本庄くんは約束を守ってくれている。三沢さんだって木村さんだって、学生時代には私と話したこともあるのだが、覚えてはいないのか。みーちゃんだけではわからないのか。
「リーダーだってこんな顔はしてるけど、過去には女性となんだかんだとね……そうして男は大人になるんだって、俺も昔はリーダーによく言われたものですよ。誰にも口外しませんから、みーちゃんの話を聞かせてね」
「幸生くん、ここで喋っておいて口外しないとは、きみの口は……」
「ああ、乾さん、俺の口は公害口ですね」
「自分で言うな。リーダーが照れ隠しに歌いたいそうですので、では、ソロでどうぞ」
「照れ隠しじゃねえんだよ。乾、おまえの口も公害口だろ」
「リーダー、二番煎じはつまんないですよ」
 木村さんが言い、本庄くんも言った。
「はい、では、リーダーのソロです。僕たちも聴かせていただきますので、みなさま、魅惑のロウダウンボイス……」
「シゲさん、ロウダウンはちがうって」
 三沢さんが言って本庄くんの袖を引き、四人がステージから消えていく。ロウダウンは卑劣とかいう意味だった。私も彼らのMCに笑わせてもらって、赤面はしばし忘れていたのだが、本橋さんの歌に涙腺がこわれそうになった。

「罪だってあったさ
 男ってそんなもんだろ

 おまえはいつだって言うんだ
 男は罪深い
 懺悔しろってさ

 そうだな、懺悔するよ
 それで許されるとは思っていないけど
 ただひたすらに言うよ
 ごめんな、ありがとう

 心に罪を背負い
 背中に思い出を背負い
 男は歩いていくのさ」

 なんて身勝手な歌、なんて身勝手な男。本橋さんは言うの? 男は身勝手なものさ、って。
 なのになのに、涙が出てくる。さきほどのMCに出てきたみーちゃんに捧げてくれてるの? そんなはずはなくても、そうだと思いたい。私のために、私にあやまってくれているのだと思って聴いていたい。許されるとは思っていない? だったら許してあげない。でも、私だって……あれはあなたひとりの罪ではないでしょう?
 格好つけないでよね。女だって楽しかったんだから、罪だといえば私にとっても罪で、それでいて楽しい思い出でもある。
 一度だけ私を抱いてくれたその広い胸には、肺活量も声量も人一倍の本橋さんが、抑え気味のトーンでマイナーコードで歌う。周囲のファンたちの心にも、罪や思い出がよみがえっているのだろうか。今夜であなたを忘れて、私も新しい恋をしようか。
 
END


 
 



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~ Comment ~

NoTitle

おはようございます!
なんかちょっとみずえさんのこと、胸がキュンとしました。

誰にもそういうことってあるのかな。
私も遠い昔を思い出しましたよ。

また来ます!!

ここにも「罪」が

美月さん

本当にいつもありがとうございます。
デジブは見られましたか?
あの中に「茜」という名前で公開しているのが、美月さんにも読んでいただいた「The Chronicle」です。
美月さんもお時間があれば、登録なさったらどうかなぁ、と思いまして。

これを書いたころには大輔くんも佳代さんも知らなかったけど、ここにも「罪」って言葉が出てきてますね。
大人同士の「罪」は甘くやるせない、かな。
管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

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