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小説200(The Chronicle)第六部

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フォレストシンガーズストーリィ200

「The Chronicle」

第六部(曙光)


1・幸生

「みなさん、聞いて下さい」
 改まった様子になってシゲさんが口を開いたとき、あれだな、と感じたのは、乾さんと俺だけだったはずだ。美江子さんは気づいていただろうが、本橋さんはなにひとつ察してもいなかったようで、章はいつかの出来事ばかりを気にしていた。
「おまえは彼女に告げ口はしなかったんだろうな」
「どの話?」
「してないんだよな。彼女は彼氏にも言わなかったのかな」
「言わないんじゃない?」
 幾度かは会った川上恭子さんは、陰湿な性格はしていない。スポーツウーマンらしく明朗快活で、笑顔と声の可愛いひとだ。章にとっても俺にとっても好みのタイプってわけではないのだから、章が恭子さんに馬鹿な台詞をほざいたのは、冗談であり軽いイジメだったのだろうとは俺にもわかる。
 そうだとしても章は「ふてぇ奴だ」となるのは事実だから、俺がしっかり叱っておいてやった。あれはその場限りの出来事であって、恭子さんもこだわってはいないだろう。
「俺、恭子さんと結婚します」
 知ってたよ、おめでとう、と言うと、シゲさんがびっくりしそうなので、俺はみんなに口裏を合わせて、おーっ、びっくりーっ、を装っておいた。
「俺がいつも言ったでしょ。シゲさんはもてなかったのかもしれないけど、もてない分、真実の恋がやってくるんだって。素敵な伴侶と結ばれることになったんだね」
 あとから言うと、シゲさんは照れまくっていた。
 ラジオ番組でペアになったのが縁で、この秋、二十七歳になったシゲさんは、三つ年下の恭子さんと結婚する。独身親不孝息子集団だったフォレストシンガーズから、もっとももてなかったはずのシゲさんがもっとも早く抜け出す。
 人生の不条理、人間世界の摩訶不思議、足の速いシゲさんならでは。息子が結婚するのは親にとってはめでたいのだろうから、シゲさんは親孝行もできるのだ。
 結婚よりも先に「真実の恋」がほしい俺は、婚約者なんてまだいらないけれど、いいな、シゲさん、って気分がちょっぴりはあった。けれど、よく考えてみれば、二十六歳、ようやく成人男子だと胸を張って言えるようになってきた俺には、結婚は早すぎる。
 シゲさんは悪く言えばおじさんっぽいのだが、よく言えば早くから成人男子であったのだから、早めの結婚はよいことだろう。もてない男は見つけた女をさっさとつかまえて、互いにただひとりのひとだと誓い合えばいい。
 もしも俺たちがいまだアマチュアだったとしたら? 現実問題として、デビューできていなかったら解散していたのかもしれないが、アマチュアのまんまだと仮定すれば、家庭を持つと決まったシゲさんも、ヒデさんのように言い出したかもしれない。
「俺は結婚します。いつまでもこうしてはいられないから、フォレストシンガーズは脱退させて下さい。すみません」
 そんなことを言われない境遇にはなっていてよかった。フォレストシンガーズは売れているとは言いがたいけれど、ラジオ番組のおかげで、すこしずつは人気が出てきていると実感できる。
 「FSの朝までミュージック」をきっかけとして、喜ばしいことはたくさんあった。シゲさんの結婚も、フォレストシンガーズが声優をやる「水晶の月」というラジオドラマも、ファンの方々と触れ合うための、ラジオ番組主催の集団デートも、章のファンだと言ってくれる絵の上手な男性との出会いも。
 友達が、知り合いが増えていくのも喜ばしい。こんな仕事をしていると嬉しいことはいっぱいあるけれど、人との出会いと交流は俺たちの財産だな、とつくづく思うのだ。
 シゲさんが結婚発表をしてくれた次の日に、フォレストシンガーズに女性雑誌の取材の仕事が入った。取材は幾度かされているが、小さなコラムにしか載ったことはない。今回は大きな記事になったらいいのになぁ、と期待に胸をふくらませて、五人で仕事場に出かけていった。
 まずは写真撮影。ひとりずつで写真を撮って、五人が集合している写真も撮ると聞いている。コスプレみたいな衣装を着るのだろうかと思っていたら、そろえられていたのは和服だった。これも楽しそうだ。
「いっぺん武士の格好をしたかったんだ。え? 武士じゃないの? 俺たちに似合いそうな和服を選んでくれたんでしょ? え? 別々に衣装を着るの? どっきりの趣向? けっこう茶目っけのある趣向ですね」
 みんながどんな衣装をつけるのか、俺たちが知らなくて見てからどっきり、なんてのも楽しい。なんのためにそうするのかは知らないが、女性雑誌の編集部は暇なのだろうか。音楽雑誌ではこういったお遊びはないだろうから、それもまた楽しいのだが。
「三沢さんはこれですよ」
 衣装担当の男性が、俺に着付けをしてくれる。完成した姿は、時代劇でならおなじみの岡っ引きの子分、下っ引きってやつだった。
「……ふーん、似合ってますね。親分、てえへんだ、てえへんだ、って叫べばいいの?」
「三沢さん、古いことを知ってますね」
「再放送で見ました」
 縞の着物を短く着て、尻はしょりってやつをして、股引を穿いて草履を履く。かつらもかぶって腰に十手を差し込んで、俺は着替えのための部屋から出ていった。
「……うむむ、想像と近い」
 紺の大きな前掛けをかけた章は、大店の丁稚か、小僧か。こんなのやだよぉ、って顔をしている。前掛けの中央には、丸に魚のマーク。稚内出身なのだから、海産物問屋の丁稚小僧なのだろうか。
 シゲさんは俺の親分の岡っ引きだろうか。貫禄十分ではあるのだが、恥ずかしそうな顔をしている。本橋さんはシゲさんの親分と俺が追っかけるヤクザの三下? 一本刀に三度傘で、ご丁寧に頬に傷メイクまでしていた。
 そして、乾さんは、折り目正しい紋付袴に二本差し。侍だろう。似合いすぎて面白くなーい、であった。
「お茶を飲んでいただきましょうか。お茶室で五人の集合写真を撮りましょう」
 個々の撮影が終わると、俺たちはお茶室の設定のセットに導かれた。小さな畳の部屋に正座をして、雅な茶道の世界に浸る。俺は乾さんに小声で尋ねた。
「お茶ってお作法があるんでしょ? どうやったらいいの?」
「俺は華道だったらすこしは知ってるけど、茶道は知らないよ。それらしくかっこつけたらいいんじゃないのか。写真撮影であって、芝居をするんじゃないんだから」
「プロモでお茶のお点前風景ってのもいいかもね。かっこつけは乾さんの得意技なんだから、完璧にやれますよね。俺たちは乾さんの真似をしますから」
「はいはい、俺はかっこつけでございますよ。こんな感じかな」
 伊万里だか瀬戸だか萩だか、それらの焼き物のまがいものだかのお茶碗だかお湯飲みだか、大きな和風コップを手にして、俺たちは乾さんの仕草の真似をした。
「けっこうなお手前でございました」
 乾さんが言い、本橋さんはうなずき、シゲさんは足をもぞもぞさせている。章は言った。
「……写真は撮れました? あのさぁ、なんでこの格好でお茶なの? あ、駄目だ」
 どすっとうしろに倒れた章は、両足をおっぴろげて大の字になってしまった。
「あられもなーい、はしたなーい」
 言いながら章の足を足でつついてやろうとしたのだが、足がしびれて自由に動けない。俺も章のとなりに大の字になり、本橋さんはあぐらをかこうとしてうまく行かなかったのか、足をさすって呻いている。シゲさんは護摩行でもやっているのかと思えるような苦しげな顔になり、そのあたりから俺は、他人を見やる余裕をなくしていった。
 しびれる。足がしびれる。必死になって長時間の正座をしていたものだから、足の感覚がなくなっている。その足を章に蹴飛ばされて、ぎゃおっと叫んだ俺の耳に、雑誌社の女性スタッフの声が聞こえてきた。
「乾さんはへっちゃらなんですか」
「正座には慣れてますから」
「そういったおうちで育ったの?」
「一種、そういった家でしたね。我が家は純和風で、椅子は一脚も使っていませんでした。食事どきには正座が当然。足を崩すと祖母にものさしでひっぱたかれましたから」
「怖いおばあさんなんですね」
「怖かったですよ。俺の脚には子供のころには、縦横に蚯蚓腫れが走ってました」
「きゃ、痛そう」
「今は痛くないですから」
 華道家との母と和菓子屋さんの主人の父の間に生まれ、金沢の旧家でおばあさまに育てられた乾隆也。それは知っているが、乾さんったら、オーバーに言ってない?
 正座もさせられたから慣れてるけど、男はあぐらでもいいんだよ、ばあちゃんにはひっぱたかれたけど、手でだったよ、と言っていたのではなかったか。ようやく他人に目を向けるゆとりが出てきたら、他の三人も乾さんをじろじろっと見ているのに気がついた。
 当の乾さんは澄ました涼しい顔で、乾さんが育った純和風家庭について、スタッフの女性に誇張して話している。若くて小柄でほっそりした可愛い女の子だ。和風家庭は現代では珍しいから、乾さんはああやって、そんな家を知らない女の子の関心を引こうとしているのか。
 やっぱり乾さんもナンパするの? それが乾さんの手口? 洋服を着ていてもかっこいい乾さんは、和服を着ていても同じくらいにかっこいい。下っ引きも岡っ引きも丁稚も股旅も、女の子にはもてそうにないけど、紋付袴だったら惚れ惚れされて……彼女に惚れられようとしてるだろっ。
 その上に、乾さんだけはしびれも切らさず、格好のみとはいえ作法もわきまえていて、ひっくり返ったり呻いたりしている行儀の悪い俺たちの前で、たったひとりでいいかっこ。
 ずるいよずるいよずるいよーっ、と叫びたくなって、俺は口をとがらせて乾さんを見ていた。おそらくは本橋さんもシゲさんも章も俺に同感だったのだろう。たとえ婚約しているシゲさんでも、もてる男を見ているのは憎らしいものなのだから。
「へええ、そうなんですねぇ、へええ、そうなんだ」
 女の子はしきりに感心して乾さんの話しに聞き入っている。乾さんの大げさ話が続く。そこに別のスタッフから声がかかった。
「しびれは直りましたか。では、インタビューに移りましょうか。着替えて下さいね」
「この衣装ではこれだけですか。せっかくだから劇をやりたいな」
 俺が言うと、スタッフが問い返した。
「どんな劇ですか」
「えーとね、乾さんは悪代官と手を組んで密貿易をたくらむ希代の大悪人侍。金持ちのぼんぼんで、放蕩三昧やってるんですよ。どこかの美貌の太夫にでもたぶらかされて、彼女を見受けするために金がいるんです。章は代官の手先になっている海産物問屋の丁稚なんですよね。本橋さんはその店の用心棒。そこに乗り込む岡っ引きがシゲさんで、その子分が俺。おー、いいじゃんいいじゃん」
「雑誌でそれをやって、なんの意味があるんだ、幸生?」
 本橋さんが言うと、シゲさんも言った。
「おまえがシナリオを書いて、テレビ局か劇団にでも売り込んでこいよ」
「幸生のシナリオなんて、買ってくれるところはありません。俺はこんな格好はしていたくないんだから、早く私服に戻りたいよ」
 章は言い、乾さんも言った。
「俺はおまえたちがしびれが切れて動けないだろうから、彼女にお喋りにつきあってもらってたんだよ。俺を希代の大悪党に仕立て上げたいってのは、仕返しか、ユキちゃん?」
「ユキちゃんだったら、お姫様の格好がしたーい」
 ひとりでもてていてずるい乾さんに、劇で仕返しをして銭を投げてやりたいと考えていた、俺の気持ちを読まれていた。ならば、別の仕返しをしよう。
「お姫様の衣装はないんですか」
「今日は男性の衣装しかそろえてませんから、お姫様はありませんね」
 がっかりしていると、章がこそっと尋ねた。
「お姫様の衣装で乾さんに仕返しって、どうやるんだ?」
「乾さんをお姫様の爺やにして、思い切りわがまま言って困らせてやるの」
「もう女モードに入ってるのか? そんなのは乾さんにはこたえないよ。それよりも、ほら、持病の癪が、とかってのあるじゃん」
「持病の癪が、って腹を押さえて呻いてるふりをして、近寄ってきた乾侍を短刀でひと突き? それとも、スリをやるとか?」
「劇だったらなにをやっても意味はないけどさ」
「それを言ったらおしまいでしょ」
 こそこそと章と相談していると、帯を引っ張られた。
「きゃああ、ご無体なっ!!」
「やかましい。仕事だろ」
 章の帯も俺の帯も引っ張って、本橋さんが歩き出す。これで章と俺が女の子の格好をしていたら、ヤクザの扮装のリーダーは人買いに見えるのではないか。二対一でも抵抗虚しく引きずられていきながら、今度は時代劇もやってみたいな、と呑気にも思っていた。


2・英彦

 テレビも見ない、ラジオも聴かない、音楽も聴かない、雑誌も見ない、人ともほとんど話さない。家出してから何年になるのかも忘れた。
「このひとたちは誰?」
「知らないけど……」
「俳優じゃないんだよね。歌手?」
「フォレストシンガーズっていうんだから、歌手だよね。知らないよね」
「知らないよ」
 どこにでもあるチェーン店のコーヒーショップの、店の外でコーヒーを飲んでいると、女の子たちの声が聞こえてきた。フォレストシンガーズ……思い出させるな。とは思ったのだが、女の子たちが立っていった戸外のテーブルの上には、女性雑誌が置き去りにされていた。
 さりげないふうに近寄っていき、雑誌を失敬する。俺がこうやっているとホームレスが古雑誌を売ろうとして拾ったように見えるだろうが、そうだとしてもかまわない。なにに見られようとかまわない。俺は雑誌を持って公園に入っていった。
 雑誌にフォレストシンガーズの写真が載っているのか。ベンチにすわって開いてみると、グラビアページに五人がいた。
 なぜだか五人ともに時代劇みたいな扮装をしている。本橋さんは股旅ルック、乾さんは侍ルック、
本橋さんと乾さんは刀を手にしていざ、斬り合い寸前か。シゲがお上から十手を預かる岡っ引きの親分で、幸生はその子分らしくて、こっちのふたりが背中合わせになっている。章は商店で働く町人ルックだ。
 なんの意図があっての扮装なのか。シンガーズってのはこんな格好をさせられるものなのか。しかし、似合ってはいるな、と苦笑して、雑誌をぺらぺらめくっていった。
 グラビアは一ページの大きな写真だったが、写真はそれだけで、中ほどあたりにインタビュー記事が載っている。字が小さくて読みづらいのもあり、記事も小さくて扱いも小さいとだけは理解して、内容を読むのはやめて、俺は雑誌をゴミ箱に放り込んだ。
「まだ売れてないか。まあ、そうなんだろうな」
 デビューは果たしたところで、人生そんなに甘くない。フォレストシンガーズがプロとなれただけでも奇跡に近くて、その上に売れるだなんて奇跡は起こらない。
 まず起こらないからこそ奇跡と呼ぶのだ。フォレストシンガーズはひとつ目の奇跡は起こしたのだから、二度目の奇跡なんて、柳の下には泥鰌は一匹しかいないのだから、起こりえないのだろう。このまま売れずに消えていくのだとしたら、俺の人生とそうは変わらないのではないだろうか。
「俺よりはよほど……」
 たいして変わりはしないさ、と考えようとした心の底から、別の考え方が顔を出す。いいや、同じだよ、同じ、と頭を振った。
 俺自身の記憶がごちゃごちゃになっているのだから、フォレストシンガーズがデビューしてから何年が経過したのかも定かではない。それにしてもだいぶ経つはずで、売れてはいないまでも、ああして街角でフォレストシンガーズの名を聞くようになった。
 あの女の子たちが変な格好をしていたフォレストシンガーズを記憶にとどめて、歌を聴いてみようかとなって、CDを買ってみようという気を起こす。そんなこともあるのだろうか。
 時代劇みたいな扮装をさせられていたフォレストシンガーズは変な奴らで、さっきの女の子たちにしてみても、馬鹿みたい、だったのかもしれないが、歌は最高なんだから。俺なんかはいないほうがいっそう、フォレストシンガーズの歌は最高なのだから。
 言えるものならば俺は、あの女の子たちに言いたかったのだろうか。フォレストシンガーズの歌を聴いてやって下さい、ファンになってやって下さいと?
 近づいていけば気持ち悪がられて、逃げられるに決まっているのだから、声なんかかけなくてよかった。フォレストシンガーズなんてものは、俺には遠い遠い、今ではなんの縁もない存在だ。俺には関係ないちや。
 呟いてベンチから立ち上がり、背中を丸めて歩き出す。雨が降ってきた。季節も意識しないで暮らしてきたのだが、梅雨か。ちょうどこんな季節に俺は……
 なんて奴なんだろ。なんて馬鹿なんだろ。いつまで俺は過去と訣別できずに、後悔と未練の中で生きているのだろう。紫陽花のひと群れが俺を見て笑っている。雨が好きな紫陽花が笑っている。花の名前なんて知らない俺が、紫陽花だけは忘れられないのもそのせいだ。
 篠つく雨に身体が濡れる。心もずぶ濡れになる。紫陽花に嘲笑されている俺は、このまんまで雨の中に消えていきたい。死にたくもなく生きていたくもないのだから、自然に跡形もなく消えていってしまえればいいのに。


3・章

 白いシャツに黒いズボンは中学校の制服だろうか。夏のセーラー服を着た少女も制服なのだろう。中学生の少年少女がデートしているのだろうと思える。
 中学生のころには俺も稚内で、ああやってデートしていた。なんにもないド田舎にもハンバーガーショップやゲーセンや公園や映画館程度はあったから、乏しい小遣いを工面してデート費用を捻出して、映画を見てハンバーガーを食って、公園でキスしていた。
 東京では季節を問わず外でのデートができるのだろうが、稚内では冬になるとできなくなる。うるせえ親父や心配性のおふくろには、彼女を紹介するなんて想いも寄らなくて、家に連れてくるわけにもいかなかった。
 田舎だからなのか、中学生や高校生の男女交際はおおっぴらにはできない空気があって、俺にしても学校の友達にしても、人目を盗んでデートしていたものだった。
 自分のことを思い出していた俺は、実に久しぶりに弟のことも思い出した。中学生カップルを見たからだろう。龍はちょうどあの年頃だ。龍も女の子とデートする中学生になったのだろうか。十二歳年下の龍は十四歳だ。
 大学一年生の夏休みに一度だけ、俺は稚内に帰省した。いやだったのだが、おふくろにせっつかれたからだった。
「アルバイトもやってるし、合唱部の合宿もあるし、金がないし……」
 電話で言ったら、おふくろは言った。
「飛行機代だったらあげるから、夏休みくらいは帰っておいで」
「金をくれるんだったら行くよ」
 金につられて帰省して、龍にも会った。龍はあのころは小学校一年生。家族そろってメシを食い、龍の学校の話しを聞いてやった。親父は嬉しそうな顔もしていなかったが、おふくろが喜んで、北海道のごちそうの定番、ジンギスカンを用意してくれていた。
 あれっきり、龍には会っていない。稚内にも帰っていない。大学を中退して親父に勘当を言い渡されたのだから、フリーターだった時期にも、親に頼るなんて真似は絶対にできなくなってしまっていたのだ。
 頑固親父には縁を切られ、俺もせいせいするよ、と言い返したものの、母は俺とは縁切りしたつもりはないようで、食いものを送ってきたり、手紙を出してきたりする。親父は知らないのだろう。知っていたら止めるだろう。
 母は手紙に龍についての愚痴を書いてくる。龍の手紙が同封されていたりもする。龍の文字がだんだん、まともに読めるレベルになってきて、こいつは俺よりも字はうまいじゃん、と思ったりするのだが、内容は他愛なさすぎてどうでもいい。
 なのだから、龍が元気に暮らしていて、ロックが好きらしいとは知っている。趣味は俺に似たのかな、と思うとくすぐったい。しかし、最近は写真も見ていないので、どんな中学生に成長したのかは知らないのだった。
 親父もおふくろも背は低くて、俺もちびなのだから、龍も小さいのだろうか。母よりは背が高くなったと手紙に書いてあったが、中学生男子があのおふくろよりも小さかったらかわいそうすぎる。それだけは安心した。
 夕方の公園で、見知らぬ中学生カップルがしっとり話している。樹にもたれた女の子の顔を見つめて、男の子が身を寄せていく。中学生がキスかよ、生意気だぞ、と言いたくなったのだが、俺だって中学生だったらやっていたのだから、見ないでおいてやろう。
 見ないでおこうと視線をそらし、歩き出したら、女の声が聞こえてきた。中学生ではなく大人の女の声だ。綺麗な声だったので振り向くと、カップルのそばに女がいた。
「あなたたち、中学生でしょ? 早く帰りなさい。日が暮れますよ」
 教師なのだろうか。女は説教口調で言い、カップルは焦った様子で手をつないで去っていった。
「先生ですかー」
 声をかけると、女が俺を見た。
「そうです。あの子たちは私が担任している生徒ではないんですけど、遅くまでこんなところにいてはよくないので帰らせました」
「送っていかなくていいの? 勝手に帰らせるとホテルに行ったりして」
「まさか」
「今どきの中学生って、先生が考えてる以上に早熟なんじゃないのかな」
「失礼ですけど、どなたですか」
「どなたってほどの者でもありませんが、先生は補導の仕事?」
「……どなただか存じませんが、あなたも日が暮れてから公園なんかでうろうろしていると、覗きかなんかとまちがわれますよ。案外そうだったりしてね」
「俺は成人なんだから、なにをやってようと自由だろ。俺はあんたの生徒じゃねえんだよ」
「知ってます。まあ、成人ではあるんでしょうね」
 中学生も生意気だったが、この女も生意気だ。俺よりは年下であろうに、俺がちびだからってなめてかかっているのか。てめえのほうが年上だと思っているのだろうか。
「教師気質かな。誰かみたいだね。誰かってのはあんたは知らない男なんだけど、他人にまで説教すんなよな」
「説教はしていません」
「俺にはそう聞こえるんだよ。あんたの背丈は俺と同じぐらいか。ちょっと太ってねえ? 仕事のストレスで自棄食いやってるんだろ。そのくらいだったら見られるけど、それ以上太るとでぶでぶになっちまって、もてなくなるぜ」
「大きなお世話です」
 太っていると言われると女が怒るのは承知で言ったのだ。案の定、女は目を怒らせた。
「いい大人がこんな時刻に公園で暇そうにしていたら、変質者だと疑われますよ。仕事はしてないんですか」
「してますよ。あんたこそ、大きなお世話だ」
「大人同士なんですから、大きなお世話はやめましょうね。では、失礼します」
「はいはい、失礼しました」
 やや太目は事実だが、背が高いってほどでもないし、顔も声も綺麗だった。だが、教師をナンパしてもついてはこないだろう。女は背を向けてから言った。
「仕事ったってなんの仕事だか。風俗のお兄さんかしらね。それだったら繁華街で軽そうな女の子に声をかけたら?」
「あんたみたいな重そうな女には、声はかけないほうがいいよね。納得」
「体重の話しじゃありませんっ」
 ついに怒り心頭の声になり、女は早足で行ってしまった。
 怒りたいのは俺だ。このあとで仕事があるから、一般サラリーマンとはちがった感じのスーツを着ている。サラリーマンには見えないのだろうが、風俗のお兄さんとはなんなんだ。俺は売れないとはいえ、シンガーだ。
 歩み去っていく太目の背中が見える。あの背中に向かってもっと罵詈をぶつけてやりたい。できるものならば石でもぶつけてやりたいのだが、そうはできない。
 なんだって俺がどこかの女教師と喧嘩しなくちゃいけないんだよ。あの女が教師じゃなくて、軽めの女だったとしたら、体格は好みではなくても電話番号でも聞いて、暇ができたらデートして、ベッドに……石をぶつけるよりもそのほうがさらによかったのに。
 今の喧嘩は俺が悪かったとは思えないが、乾さんだったら言うだろう。女性に向かって無礼な台詞をほざくからだ、口を慎め。
 あいつだって言ったじゃないか。女はいいのかよ。ここにはいない乾さんに口答えしたり、意味もない女との口喧嘩を思い出したりして気を滅入らせているなんて、限りなく虚しすぎる。この気分で仕事に行くと、舌禍を招く言葉を口にしてしまいそうだ。
「ほにゃーご」
 猫の声が聞こえたので、幸生かと思ったのだが、普通の猫だった。幸生だったら気が滅入っても猫の登場でほにゃらほにゃらになるのだろうが、俺は猫なんかじゃハッピィにはならない。さっきの女のかわりに、猫に石を投げてやった。
「ほぎゃっ!!」
 ひと声鳴いて、猫は逃げていく。黒い魔物が夕暮れの梢から梢へと跳んでいくのを見ながら、俺はストーリィを練った。この話しを化け猫譚にして、幸生に話してやろう。幸生だったら上手に対抗するだろうから、穴のない嘘話しを練り上げなくては。
 そんな想像で気分を鎮めるなんて、なぐさめてくれる彼女もいないなんて、俺の境遇ってなんて虚しいんだろ。虚しいことばっかりだ。
 
 
4・美江子

 母校近くのCDショップ前でフォレストシンガーズシークレットライヴ。在校生たちが聞きつけてやってきてくれて、満足行く出来栄えになった。
 ライヴが終わると私も含めて五人で大学に行った。五人とは、章くんが来なかったからだ。彼はやはりまだこだわりがあるのか。俺ひとりは中退してしまったから、学校になんか行きたくない、と。彼の気持ちは彼にしかわからないのだろうから、口出しはしないでおこう。
「今日はこれで仕事は終わりだろ。みんなで飲むか、学生のころにも行った店にするか。俺んちにするか」
 本橋くんが言うと、シゲくんが提案した。
「本橋さんや乾さんのアパートで飲むってのが多いんですけど、たまには俺の部屋に来ませんか。「水晶の月」にドラムを叩くシーンがあるでしょ。レンタルでドラムセットを借りられるって聞いて、借りてみたんですよ」
「シゲさんの部屋にドラムセットがあるの? 寝る場所がなくならない?」
 幸生くんが言い、寝るスペースくらいあるよ、とシゲくんが言い返し、五人でシゲくんの部屋に行った。
 昔から五人、または六人で集まるとなると、本橋くんか乾くんの部屋がたいていだったのは、シゲくんが言った通りだ。私も学生時代から本橋くんや乾くんの部屋にはしばしば遊びにいったのだが、ヒデくんやシゲくんや幸生くんの部屋には、学生時代には行ったことはない。章くんの部屋にもほとんど行っていない。
 その章くんはどこかに消えてしまったので、メールをしておいた。「シゲくんの部屋にみんないるからね」とメールしたので、気が向いたら来るだろう。
 はじめてではないけれど、訪ねるのは少ないシゲくんの部屋は、他の四人とも私とも大差のない狭いアパートだ。プロになっても誰ひとりとして引っ越しもしていないのは、珍しいのだろうか。お金がないんだから当たり前なのだろうか。
 部屋に入ると本橋くんと乾くんとシゲくんは、ドラムセットを真剣に見てここがこうの、これがどうのと言っている。幸生くんがキッチンに入っていったので、私も続いた。
「酒はシゲさんの部屋なんだから備蓄してありますよ。つまみになる食いものも買ってきたから、俺が袋から出して持っていきますよ。美江子さんも部屋にいて」
「私は楽器なんてさっぱりだから、ドラムもどうでもいいんだもん。手伝うよ」
「じゃあさぁ、お姉さま……給食お姉さまだなんて言わないから、ごろごろにゃーごにゃーご」
「おいしいものを作れって? なにが食べたいの、ユキちゃん?」
「この材料だとなにができます?」
 途中でスーパーマーケットに寄って買ってきたものは、すぐに食べられるでき合いのお惣菜のたぐいばかりだ。冷蔵庫を開けてみても、卵と牛乳とバターとチーズと、トマトジュースにスポーツドリンクにビールに食パン、調味料ぐらいしか入っていなかった。
「チーズオムレツだったらできるかな。だけど、シゲくんの明日の朝食用じゃないの?」
「シゲさんの朝食だったら、あとから俺がお使いに行ってコンビニで買ってきますよ。チーズオムレツ作って」
「オムレツサンドも作れるね。トマトジュースでブラッディメアリも作れるよ」
 ウォッカも買ったので、もどきだったら作れるだろう。私はオムレツを焼き、カクテルも作って、幸生くんがトレイを部屋へと運んでいった。
「はーい、先輩たち、血まみれ美江子」
 またあんなことを言ってる、と私が幸生くんの背中を睨んでいると、本橋くんが言った。
「山田が怪我でもしたのか? 包丁で指でも切ったのか。慌て者だな」
「そうなんですよ。この紙コップの中の液体は、美江子さんの血」
「濃くてどろどろでまずそうだな」
「美江子さんの血だったらおいしいよ。これを飲んで美貌の吸血鬼になっちゃおっと」
 勝手に言ってなさい、と考えつつキッチンから出ていくと、乾くんが言った。
「ミエちゃん、ドラムスティックっていい武器になるだろ。これで本橋を成敗していいよ。シゲと俺が本橋を押さえつけるから、どうぞやって下さい」
「いい考えだね」
「乾さん、物騒な発言はやめましょう。美江子さん、俺からあやまりますから、しないで下さいね」
「シゲくんがあやまらなくてもいいじゃないの」
 いつものごとく、飲んだり食べたりする前には賑やかなやりとりがあり、今夜は五人でブラッディ・メアリで乾杯した。
「乾さん、なんでこのカクテルは血まみれメアリさんなの? 女のひとの血?」
 幸生くんが尋ね、乾くんは言った。
「血塗られたメアリ。イギリス女王メアリ一世のニックネームだそうだよ。彼女はプロテスタントを迫害したから、忌まわしいニックネームをつけられたんだな。ジンがベースだと「ブラッディ・サム」。ウォッカベースだと女性の名前。どうしてなんだろうな。ブラックジョークかな」
「レッドジョークだろ」
「おー、リーダー、うまい」
「俺のシャレはうまくはないけど、この酒はうまい。だけど、弱くないか、これ? アルコールが足りないぜ」
 言った本橋くんは、カクテルにウオッカをどぼっと注ぎ足した。
「塩コショウやウスターソースやタバスコってのも合うらしいんだ」
 乾くんが言うと、シゲくんが立ち上がった。
「そういうんだったらありますよ。タバスコもあります。持ってきましょうか」
 シゲくんが持ってきたタバスコを、幸生くんが大量に本橋くんのグラスに振りまく。怒りながらも本橋くんがそれを飲み干す。ブラッディメアリなんかはまたたく間に五人の胃袋に吸収されていき、ビールやウオッカのオンザロックや、シゲくんが置いていた焼酎までが出てきて、いつに変わらぬ酒盛り大会になっていった。
 こうなると幸生くんが歌い出す。即興で歌っているのは、メアリさん、メアリさん、おちちが出てますよ。お乳? ではなく、お血血だった。
「それって象さん、象さん、お鼻が長いのね、の替え歌だね。おちちって……なんだか下品に聞こえるの。他のにして。上品な替え歌にして」
「美江子さん、美江子さん、お乳が大きくて、美江子さん、美江子さん、とってもグラマーね……きゃああっ、ごめんなさいっ!!」
 こらーっ、と乾くんの声と同時に、幸生くんの頭に空っぽの紙コップが命中した。空っぽなのに幸生くんは倒れてみせて泣き真似をしている。本橋くんは、これだから女がいるとよぉ、とか言っていて、幸生くんは泣き声で言った。
「酔っ払っちったよぉ。リーダーはアルコールが足りないって言ったけど、俺のにはウオッカをたくさん入れました? 酔いにまかせての無礼な替え歌、平にご容赦下さいませませ、美江子お姉さま。隆也お兄さま、叱ったらいやぁん」
「酔ってねえだろ。まったくおまえたちは失礼な奴ばっかりなんだから。シゲはいいとしても、本橋もだ。そこに頭を並べろ。これで……」
 ドラムスティックを手にした乾くんが言い、シゲくんがその手を止めた。
「乾さん、やめましょうね」
「女がいたら下ネタだとかができないのね。そしたら私は帰るわ」
「お姉さま、帰らないで」
 幸生くんが私にすがりつこうとし、シゲくんに突き飛ばされてわざとらしく吹っ飛んでいく。男は下品であるのは否めないのだが、それしきで本気で怒るほどに私は純情ではない。私もジョークで怒ってみせていただけだ。
「メアリさんのおちち……わーん、また言っちゃったよ。メリーさんのヒツジ、ヒツジ……ユキちゃんのお顔、お顔、お顔、ユキちゃんのお顔、可愛いね。美江子さん、これでいいですか」
「幸生くんのお顔は可愛いね。ひもがほどけてるからかな」
「はい、ほどけてます」
 替え歌を歌ったり、今日のライヴの反省会をしたり、フォレストシンガーズの歌を歌ったり、真面目な話しもおバカな話しも、歌もいっぱいの夜が更けていく。
 そうしていると私も酔ってくる。男はいいけど、私は帰らなくちゃね。ああ、でも、いい気持ちだな。歩きたくないな。おんぶして送って、なんて言ったら、シゲくんは真顔で言うんじゃないだろうか、どうぞ、美江子さん、おんぶしますよ、って。
 紙コップでウォッカコークを飲んで、おつまみも食べて、私も加わって五人で話す。章くんは来ないなぁ、などとも考えているうちには、四人とも寝てしまったのか。
 部屋の真ん中に本橋くんがうつぶせで伸びている。壁にもたれた幸生くんも目を閉じている。幸生くんのとなりには乾くんがいる。シゲくんもドラムセットのそばですわって寝ている様子だった。私はそおっと帰ろうか、その前に、寒くはないにしてもなにか掛けてあげなくちゃ。
 畳のほぼ全面を四人の男が占拠しているので、隙間がない。私は爪先立って押入れに行こうとしていたのだが、本橋くんが寝返りを打った拍子に彼の身体にけつまずいた。あわや転倒、だったのだが、乾くんの腕が伸びてきて、腰をがしっと支えてくれた。
「あ……やだ、さわらないで」
「ごめんなさい。咄嗟に腕が出たよ」
「支えてくれたんだよね。ああん、もう、歩けない」
 ほんのちょっとどきっとしたのを隠すために、私は本橋くんの脚を蹴った。本橋くんはごろごろころがって部屋の隅に行き、乾くんは立ち上がった。
「帰るの? 送っていくよ」
「乾くんは寝てたんじゃないの?」
「考え事をしてたんだ。寝てないよ。ここでミエちゃんが寝るわけにもいかないんだから、送っていこう」
「もっと早くそう言ってくれたらよかったのに」
「ごめん。楽しかったから忘れてたよ」
「帰るけどちょっと待っててね」
「ああ。こいつらが風邪を引かないように? 俺がやるよ」
 押入れから夏布団と毛布と冬布団を引っ張り出して、乾くんが三人にかけてあげている。私は言ってみた。
「シゲくんちの押入れには、女に見られたら困るものが入ってるの?」
「寝小便の跡のある布団とか?」
「そんなんじゃないよ」
「さあねぇ、どうでしょうね。うん、男のにおいはするな」
 いつだって男五人と仕事をしているのだから、私は男のにおいなんてあまり意識していない。乾くんに言われて気がついて、鼻を蠢かせた。
「そういえばするね。乾くんも男のにおいがするんだ」
「男だからさ。ミエちゃんは女性のにおいがするよ」
「お酒のにおいじゃないの?」
「それもする。さて、帰ろうか」
 ひとりで帰る、と言い張ってみたところで、乾くんに知られてしまったら帰らせてくれない。夜中になっているのだから、私もひとり歩きは心細くて、素直にうなずいた。
「まだ電車はあるよね。駅まででいいよ」
「ミエちゃんのアパートはたどりついた駅からも近くはないでしょ。アパートの前までは送ります」
「乾くん、知ってる?」
 なあに? と優しすぎる瞳が私を見つめ、私は言った。
「私だったらいいんだけど、それほど親しくもない女性だったら、男性には家の前までは送ってほしくないんだよ」
「家を知られてストーカーと化す馬鹿野郎がいるからか。俺も心しておきますよ」
「私のアパートはとうに知られてるから、いいんだよね」
「いいんだったらつべこべ言うな。行くよ」
「怒らなくてもいいじゃないのよ」
「怒ってませんよ。ただね……」
 足音を忍ばせてアパートから出ると、乾くんは言った。
「ただね……うん、いいよ」
「ただね、なんなの? 美江子みたいな気の荒い女をつけたり、痴漢をしたりしようと考える男は、この世にはひとりもいないって? 本橋くんみたいに言いたいんでしょ?」
「俺の名前は乾隆也、本橋真次郎じゃねえんだよ」
「知ってるよ」
 ちょっと前に、私は乾くんの彼女に会っている。モデルの菜月さん。乾くんは小柄な美人が好きなのかと思っていたが、菜月さんはモデルなのだから長身だ。尋ねてみたら、身長に恋はしないよ、と言うだろう。
 尋ねてみたいけれど、彼が言わないのに私が口にするわけにはいかない。私たちはお互いの恋にお節介を焼いていた学生ではない。みんな大人になっていって、シゲくんは結婚する。祝福すべき出来事なのに、ふっと泣きたくなった。
「乾くんったら、今夜は乱暴なんだから。私の腰をつかんだり、荒っぽくものを言ったりするの。今夜は本橋真次郎に似てるよ」
「俺が荒っぽいとミエちゃんはべそをかくのか」
「泣き真似だと思ってるんでしょ。私の名前は山田美江子、三沢幸生じゃねえんだよ」
「二番煎じだな。にしたってね、美江子さん、女性はそういう言葉遣いはやめなさい」
「ねえんだよ、って? ジョークでも駄目?」
「ジョークだったら可愛いけど、あなたの声だとけっこう迫力あるからさ」
「私は可愛くない女。山田美江子」
「その通り……いやいや、ジョークですから」
 なぜか今夜は切なくて、酔ってるせいだね、と考えておくことにして、乾くんを困らせてやろうと決めた。
「乾くんって彼女を抱いてベッドに運ぶの?」
「あなたは彼氏に抱かれてベッドに運ばれるの?」
「何度したの、何人の女を抱いてベッドに運んだの?」
「あなたは何人の男に抱き上げられたの?」
「乾くんは……背の高い女だと抱き上げるのはつらいよね」
「背の高い男は、あなた程度だと軽々だろうね」
「うーっ、悔しい!!」
 質問に質問を返すのも乾くんの得意技ではあるが、繰り返されると腹が立ってきた。ひっぱたいてやろうかと手を上げると、乾くんはしらっとした顔で言った。
「どうぞ」
「私、乾くんを叩いたことってあったかな」
「俺はあなたではなくても、女性は叩いたことはありませんよ」
「かっこつけ」
「まさしくその通り」
「やーめた。怒りも困りもしない奴を挑発しても、面白くないもん」
「美江子さん」
 なんなのよっ、と怒り声で問い返すと、乾くんは言った。
「俺にだったらいいけど、それほど親しくもない男にはそんな態度は取るんじゃないよ。好きな男にだったらそう出てもいいんだろうけど、恋をしたいのでもない男には、挑発的には出ないほうがいい。抱きすくめてきみのくちびるを奪いたくなる」
「くちびるなんて奪われたって、心は奪われないわよ」
「美江子さん、俺はマジで言ってるんだよ」
「私もマジよ。やーね、マジだなんて言って若ぶって……」
「二十八は若くないのか。はい、参りました」
「なんだか今夜の乾くんは、いばってるね」
「いばってませんよ。俺はあなたのしもべです」
「僕ちゃん、しもべ」
「僕としもべは同じ字か。幸生のよりも高度なシャレだね」
 ほんとに今夜の乾くんはすこぉし変。彼もシゲくんの結婚と、ブラッディメアリの酔いとで妙な気持ちになっているのだろうか。加えて、菜月さんとの恋の行方も? 訊いてみたいけれど訊けないから、お互いさまだね、今夜はふたりとも、変だね、と呟いて、顔を見合わせて笑った。


5・真次郎

 ペアでラジオの番組を担当した男女が、恋人になって結婚する。一種の職場恋愛か。よくある話なのかもしれないが、俺はびっくりした。
「シゲが結婚するのか……シゲが……このシゲが……」
「本橋さん、俺が結婚するって言うとそんなに変ですか。そんなにも驚くんですか。いや、そうかなぁ。俺だってね……」
 結婚するとシゲが宣言してから幾日かたった帰り道、ふたりで歩きながらシゲは言った。
「この俺が……このシゲが……結婚するなんて、結婚してくれる女性がいたなんて、不思議なんですよ。幸生がよく言う、摩訶不思議ってやつですよね」
「結婚してくれる女性がいた。その言い方は卑下しすぎてないか。俺は恭子をもらってやるんだ……う、山田は聞いてないよな」
「美江子さんも恭子も聞いてはいませんが、その言い方はよくないでしょうに」
「おまえは結婚してもらえるんじゃなくて、恭子さんを嫁にもらってやるんだろ」
「恭子と結婚してもらうんです」
 それでは結婚してからカカア天下になるのは必定ではないか、と言いたかったのだが、シゲが怒り顔をしているので言うのはやめた。
「まあ、口のききようには気をつけなくちゃいけないけど、どっちだって結婚するのは同じだ。シゲ、おまえ、どんなプロポーズをしたんだ?」
「プロポーズは特には……」
「気持ちと気持ちが通じたのか。結婚して下さい、とかって言わなかったのか?」
「婚約指輪を贈りたいとは言いました」
 常の低い声をなおさら低くして、うつむいたままでシゲは言っている。シゲらしいプロポーズの言葉だと言えるのだろうか。
 通常はプロポーズは男がするのが当たり前だろう。俺もいつかは結婚したいと思える女ができて、彼女にプロポーズするのか? 想像してみただけでも恥ずかしいので、シゲが恥じ入っている気持ちはよくよく理解できた。
 九年以上も前にシゲとはじめて出会って以来、彼の恋を知ったのは三度か。一度目は金子将一の妹のリリヤ。二度目は、あれで大嫌いになってしまった女。三度目は、沖縄離島の民宿の娘。他にもあるのかもしれないが、俺はシゲの恋は三度しか知らない。
「俺はもてませんから」
 いつだってそうしか言わないシゲではあるが、三度の恋は俺も知っている。
 他人には言われたくないであろうシゲの恋。つらかったんだよな、と肩を叩いてやりたい気もすれば、もういいだろ、おまえの中では過去の涙のひとこまだよな、とも言ってやりたい気もする。けれど、なんにも言わないのがベストだ。だから俺は、別のことを言った。
「結婚したからって、可愛い女房にかまけすぎて仕事をおろそかにするなよ」
「俺がそんな男だと思ってるんですか」
「そうは思ってないけどさ、今夜のおまえはちと怒りっぽいな。結婚前憂鬱症か?」
「そんな病気があるんですか」
「マリッジブルーっていうんだろ。日本語訳だよ」
「ああ、なるほど」
 熱しやすく冷めやすいのが俺の怒りならば、シゲの怒りは熱しにくく冷めやすいのか。あるいは、心底から怒らせると冷めないのか。俺の台詞ごときではシゲは心底からは怒らないだろうが、マリッジブルーってのは男にもあるものか? 経験がないので俺には実感できないのだが。
 シゲの恋愛経験は乏しいはずだ。であるからして、俺は昔から、シゲには恋愛についてではなく、女にアタックするには、といった話だったらしてきた。女ってものはな、とも言った。しかし、これからは言えなくなる。シゲは妻を持つのだから、女心に関しては俺よりも堪能になるはずだ。すでにそうなっているのだろうか?
「この次に俺に彼女ができたら、シゲにアドバイスを求めるから、そのときにはよろしくな」
「とんでもありません。俺にはアドバイスなんてできませんよ」
「恭子さんの女心だったらわかるんだろ」
「わかりません」
 やけに力強く断言したシゲは、話をそらそうとしているのか、月を指差した。
「透き通って見えますね。あれが水晶の月なんでしょうか」
「水晶の月って抽象的だよな。俺にはイメージが浮かばないよ」
 半透明に見える白っぽい月は、十六夜であろうか。月というものは日本のどこにいても同じ姿に見えるのだから、ヒデもどこかであの月を見ているのか。月を経由してヒデに聞こえないかと、俺は声には出さずに語りかけた。
 ヒデ、シゲも結婚するんだってよ。おまえも結婚したんだろ? おまえが結婚するからっていなくなってからだと、五年もたつんだよな。俺はおまえの女房を知らないけど、美人の妻と可愛い子供を持って、楽しく暮らしているのか?
 シゲはもてない、ってヒデも断言していたけれど、恭子さんにはもてたんだぜ。だから結婚するんだもんな。その月に向かっておまえがサインでも送ってくれたら、俺が読み取ってシゲに伝えてやるのに。
「本橋さん、なにをやってるんですか」
「俺がサインを送ってるんだよ」
「サインって書くサインじゃなくて?」
「こうやってテレパシーを送るんだ。おーい、お月さん、シゲは結婚するんだぜ。おめでとうって言ってやれよ」
「お月さんにおめでとうと言ってもらわなくてもいいです。通行人だっているんですから、本橋さん、大きな声を出さないで下さい」
「テレパシーは無言で送って通じるんだよな。恭子さんとおまえの気持ちのようにさ」
「……本橋さん、あのね……」
 からかっているつもりはないのだが、シゲにはそう伝わるのだろう。俺と同じ体質なのだから、シゲには明快に言わないときちんとは伝わらない。だが、明快に言うとシゲは困ってしまうであろうから、月に語りかけているのだということにしておいた。
「俺は引っ越すよ。マンションに移るんだ」
 夏には乾がそう言った。
 山田も含めて五人で乾の引っ越しの手伝いに行き、力仕事をしていても、俺は俺らしくもなく考えてしまう。シゲの結婚、乾の引っ越し。フォレストシンガーズのひとつの時代の終わりなのか。
 SF小説のタイトルに「幼年期の終わり」というものがあって、地球の幼年期のおしまいを現している。それになぞらえてみれば、さしずめ俺たちは「フォレストシンガーズ、青春期の終わり」となるのか。
 青い春を終わらせたくないと願っても、終わりは来る。なんにだって終わりは来る。寂しいと感じていては前には進めないのだから、過去は捨て去るべきだ。
 乾の古い部屋も過去のひとつ。ヤドカリが小さくなった殻を脱ぎ捨てて、大きな殻を捜して移っていくように、乾の成長の証明なのだ。俺もいずれはマンションで暮らそう。今すぐは面倒だからやらないけれど、いずれは引っ越ししよう。
 荷物は引っ越し業者にまかせ、俺たち六人はレンタカーに乗って乾の新居にたどりついた。学生時代から乾が暮らしていた部屋は、ひとつの時代の終わりとともに過去になった。
 新しい部屋の掃除やら片づけやらもすませ、宅配ピザやコンビニの食いものでの夕食もすませ、レンタカーで山田、章、幸生と住まいに送り届け、車の中でシゲとふたりになった。窓から仰いでみると、今夜は三日月が出ていた。
「次はおまえの引っ越しだろ。遠慮しないで言えよ。手伝いにいくから」
「本橋さんは頼りになりますよね。力があるとは知ってましたけど、俺とふたりがかりだったら、本当に引っ越しセンターのお兄さんはいらないんじゃありません?」
「恭子さんも力はありそうだし、乾も一応は戦力になるんだから、節約して俺たちだけでやろうか」
「恭子には力仕事はさせたくありません」
「そりゃあそうだな。可愛い女房の細腕に、重荷を託す奴なんて、男と名乗る資格はないさ、ってなもんだよな」
「なんですか、それは、演歌ですか」
「即興だよ」
 演歌の節回しで即興ソングを歌いつつ、車の運転をしつつ、俺は今夜も月に語りかけた。
 綺麗な月を見ていると、俺は俺らしくなくなっちまう。ひとつの時代の終わりってやつに、感傷的になってしまうんだ。ヒデ、おまえも遊びにいっていた乾の部屋は、空き部屋になっちまったよ。近く別の住人の部屋になるんだろうな。
 乾だけではなくて、シゲの一人暮らしの部屋もじきに空き部屋になる。俺も幸生もそのうちには引っ越して、マンションに移るだろう。
 そうなってしまったら、おまえがもしも俺たちの誰かを訪ねてきたくなったとしても、所在不明だ。郵便を送ってきても、住所不明でおまえのもとに舞い戻ってしまう。そうならないうちに、連絡してこいよ。ヒデ。
 助手席のシゲはなにを考えているのか、無言でいて、俺は今夜も月に向かって、ヒデに向かってテレパシーを発信しようとしていた。


6・繁之

 仲間うちで男ばっかりで、美江子さんもいない場だったりすると、いわゆる猥談というか下ネタというか、そういった話題は出ている。本橋さんも乾さんも幸生も章も経験豊富なんだなぁ、と思うのはそんなときで、話題がこう展開していく場合もある。
「そりゃわかるだろ」
 章が言い、幸生も言っていた。
「わかるよね。はじめてなんだかそうじゃないんだかは、女の子にだってわかるだろ」
「俺は今さら、はじめてだって言う女なんかやだね」
「責任が重くのしかかってきそうで?」
「そういう意味でもないけど、慣れてる女のほうが楽しいじゃん」
「……かもな」
 ふたりしてこそこそひそひそ、どうせシゲさんには参加できないでしょ、って態度で幸生と章は話し合っていた。
「昔は嫁に行く娘に枕絵を持たせたりって話もあったんだよな」
 乾さんも言い、本橋さんも言っていた。
「そうやって性教育か。そんな必要は今どきの女の子にはないだろ」
「無用でしょうな。うちのばあちゃんだったらさ……俺は高校生のときに、彼女と寝たよって言ったんだ。そしたら、高校生がそんな真似をするなんて、あんたを殺して私も死ぬよ、だとかって言い出しやがって参ったよ」
「大正生まれのおばあさんにしても、古過ぎないか」
「そうなんだよ。ばあちゃんの切り札なんだ。あんたを殺して私も死ぬ、隆也、そこに直りなさい、ってさ。江戸時代かよ」
「それでも孫息子はおばあちゃんの目を盗んで、悪さしてたってな」
「悪さはしてないよ」
 俺だってはじめてではない。枕絵は持たせてもらわなくても、どうしたらいいのかは知っていた。結婚式の前に恭子とベッドにも入った。恭子とは結婚するのだから、ああいうことをしてもどちらの両親も怒りはしないだろうが、その前の経験は……と思い出しそうになる。
 いや、昔は忘れるんだ。あんなふうにして関わって裏切られた女が初体験の相手だなんて、そんなことはすべて忘れよう。恭子にはむろん話さない。恭子にしてもはじめてではないのかもしれないが……だとしても当然だと受け止めよう。
 幸生や章は豊かな男性経験を持つ女のほうがいいように言っていたが、俺は……そんなことも考えるのはよそう。結婚したのだから、恭子と俺は夫婦になったのだから、過去はいい。未来を見据えて歩いていこう。
「ふつつか者ですが、旦那さま、よろしくお願いします」
 結婚式の夜に泊まったホテルで、恭子はソファに正座しておしとやかに頭を下げた。
「え? あの……いや、その……」
「いっぺんやってみたかったんだ。シゲちゃんはなんて答えるの?」
「いや、あの、こちらこそ。幸生が言ってたな。いつだったか……ふしだら者ですが……」
「私はふしだらじゃないよ」
「そりゃそうだよ。知ってるよ。ごめん」
「シゲちゃんはそういうひとだよね。そんなシゲちゃんが好き。愛してる」
「うん、ありがとう」
 恭子は好きだの愛してるだのと言ってくれるのに、俺は恥ずかしくてどうしても言えない。結婚式の前に恭子とはベッドに入ったけれど、特別な気持ち、敬虔とさえいえる気持ちになって、恭子を抱きしめた。
「嬉しいな。今日から私は本庄恭子になったんだよね」
「恭子は仕事を続けていくんだから、姓が変わると面倒だってのはないのか。仕事では川上で通すの? 仕事をしてる女性はそうするんだろ」
「私だってテニスプレイヤーとしては、名前を知ってるファンの方だっているけど、本庄恭子になって嬉しいんだもの。ほら、かの有名なユーミンだって、結婚して名前が変わったでしょ」
「あの方と恭子では一緒には……」
「いいの。私は本庄恭子になれて嬉しいの」
 ベッドで寄り添ってそんな話をする。そう言ってくれる恭子の言葉も感激だった。
「名前なんて記号みたいなものだって言うでしょ。夫婦別姓なんて私はいやだよ。私は本庄家の嫁にもなったんだろうけど、本庄繁之さんと結婚したんだから、シゲちゃんと同じ苗字になりたいの。川上でもいいけどね」
「いや……籍は入れたから……」
「本庄のほうが珍しい苗字だし、川上恭子よりも素敵かもね」
「うん、ありがとう」
 俺の胸に頬をくっつけて、恭子は甘い声音で言った。
「普通がいいのよ。シゲちゃんも私も職業はごく一般的でもないのかもしれないけど、私生活は普通がいいの。普通に愛し合う夫婦になろうね」
「うん」
「これからはずっと一緒」
「そうだね。ずっとずっと……」
 全身をじーんとしたしびれが襲う。快感の戦慄ってこれなのか。恭子のための歌を作詞作曲して、耳元で恭子に快感の旋律を捧げたくて、俺には才能がなくて、俺ばっかりが恭子に甘い快感をもらっている。ごめんな、こんな男で、と言いたくて、でも、恭子はこんな俺が好きだと言って結婚してくれた。
 結婚してもらったんじゃないだろ、嫁にもらってやったんだ、なんて本橋さんは言っていたけれど、そうではない。もらったんじゃない。結婚したんだ。してもらったのでもなくて、結婚した。俺は幸せだ。
 愛してるよ、とも言えなくて、綺麗だよ、ともなかなか言えないけど、三国一の花嫁は恭子だよ。今日からは俺の奥さん、恭子。愛してる。心の中では何度でも、愛してる、と叫んでいた。
 仕事のスケジュールの都合上、結婚式を終えてすぐとはいかなかったのだが、新婚旅行はバリ島に行った。健康的なスポーツウーマンの恭子の、赤い水着に悩殺されそうになったり、ショッピングに連れ回されたり、ふたりで四人前くらいも食事をしたり、泳いだり走ったり。
 ずっとずっとずーっと、旅行中はふたりでくっついていた。片時も離れないほどにくっついていた。俺はくっついていられるのが嬉しかったのだが、四日目に恭子が言った。
「私はひとり暮らしだったし、旅行に行ったって誰かと同室なんて、最近はなかったんだよね。ひとりになりたくなってきた」
「……俺が邪魔?」
「邪魔ではないけど、いっつもいっつもそばにいられると……定年退職後の夫を濡れ落ち葉なんて言う、奥さんの気持ちもわかるかもしれない」
「そしたら俺はどうすりゃいいんだよ」
「今日はひとりで買い物にいってくる。シゲちゃんは買い物にはついてくるだけなんだもの。素敵な服を見つけても、きみがほしかったら買えば? としか言わないし、お土産だってどうでもよさげだし」
「どうでもよくはないけど、俺は買い物は苦手だよ」
「だから、今日はひとりで行くの。ついてこないでね」
「恭子……」
 ついていくと言い張って嫌われたくないので、我慢することにした。
 恭子はタクシーを呼んでもらってひとりで街に出ていき、俺は浜辺に出ていく。フォレストシンガーズの他の四人は、女性と旅行をした経験があるはずだが、俺はまったくのはじめてだ。デートだってたいしてしたことがないんだから、旅行なんてあるわけもない。
 仕事では旅慣れているつもりだが、プライベートな旅行はほとんどしていない。海外も初なのだから、ひとりにされると戸惑ってしまう。
 でも、ここで弱音を吐いたら恭子に軽蔑される。成田離婚なんて言葉が頭に浮かんだので、うわうわうわ、いやだいやだー、と頭を振って、浜辺でひとりバカンスとしゃれ込む。木陰にシートを敷いて寝ころんで、誰にも話しかけられないように読書に勤しむ。
 英語なんて喋れない。現地語はさらに喋れない。見知らぬひととだったら日本語の会話も得意ではない。恭子が貸してくれたテニスの本を読んでいても、けれど、内容が頭に入ってこないのだった。
「ずっと一緒って言ったくせに……濡れ落ち葉とはなんだよ。つまらん。寝よう」
 目を閉じると三日間の思い出が脳裏を流れる。インドネシア料理だったか。うまかったな……バリのダンスを見物して、ダンサーに呼ばれて踊ったっけ。シゲちゃんは盆踊りみたいだね、なんて恭子が笑ってた。
 いっぱい買い物もしただろ。恭子が選んでくれたTシャツ、FSのみなさんにも、と言って、Tシャツをたくさん買った。美江子さんには化粧品だったか。土産物は恭子にまかせて、それでいいだろ、としか言わなかったから、機嫌を損ねさせてしまったか。
 似合うよ、シゲちゃん、って俺にプレゼントしてくれたネクタイ。俺は恭子にはなにも買ってやっていない。だから怒った? 夫婦なんだから、金は俺が払うからなんでも買えばいいと、口に出して言うべきなのか。言わなくても通じないのかな。
 楽しかったことも後悔も、交互に思い出す。俺は乾さんや幸生じゃないんだから、口下手なんだから、恭子が察してくれたらいいのに。
「俺がまちがってるのかな」
 呟くと返事が聞こえた。
「……ひとり旅じゃないんですか」
「は? あの……」
 半分は眠っていたようで気づかなかった。すらりと背の高い綺麗な女性が、俺の隣にいたのだ。長いドレスを着た東洋人は日本語で喋ったから、日本人なのだろう。
「私はひとり旅なんですよ。陽射しが強いから、ここでちょっと休憩させてもらっていいかしら」
「はい、どうぞ」
 いやだとは言えないが、恭子にこんなところを見られたら怒られないか……といささか慌て気分にもなっていた。
「女のひとり旅はわりとあるけど、あなたはちがうの?」
「新婚旅行です」
「あら……奥さんは?」
「買い物に行きました」
「おひとりで?」
「はい」
 怪訝そうに俺を見たものの、彼女は闊達に笑った。
「男性の中には買い物は苦手って方もいらっしゃいますよね。買い物好きの若い男性もいるんだろうけど、カップルで旅行だと男性のほうは彼女の買い物につきあって、おーい、早くしてくれよぉ、だったり、ベンチにすわってぼーっとしてたり、そんな方も多いですよね」
「そのようですね。俺も買い物は苦手です」
「だから放っていかれたの?」
「そのようですね」
 モデルでもあるかのようなプロポーションの美人。幸生だったら早速口説くのか。それとも、幸生から見れば背が高すぎるのか。二十七歳の俺よりはやや年上に見えた。
「新婚さんだったら寂しいわね」
「そうでもない……いえ、寂しいです」
「正直なひとだね」
 さもおかしそうにくっくっと笑う。笑うと目じりに皺が寄って、四十歳をすぎているのかとも思えてきた。
「私は新婚旅行はグァムだったな。私の夫もそうだった。私がショッピングに夢中になってると、俺は待ってるから早くしてくれよ、って、外で煙草を吸ってるんですよ」
 結婚しているのにひとり旅か。事情があるのかもしれないが、はじめて会ったひとには尋ねられなかった。
「最近の若い男性はそうでもないのかもしれないけど、買い物は女ばっかりか、いっそひとりのほうが楽しいんですよ。だから、待っててあげてね」
「はい」
「いいものあげる」
 俺の腹の上に彼女が乗せたのは、卵? あっためて孵せとでも言うのか? 俺が卵を見て固まっているうちに、彼女はどこかに行ってしまった。
「なんの卵だろ? なにが出てくるんだろ。恐竜の卵なわけないか」
 彼女もいなくなり、恭子も帰ってこないので、卵を見つめてぼけーっとしていると、頭の上にでっかい帽子が乗っかった。
「ただいまー。寂しかった?」
「うん。恭子、お帰り」
 水着に着替えている恭子は、卵を手にとって言った。
「ゆで卵。どうしたの、これ?」
「ゆで卵か。だったら孵らないな」
「かえる? シゲちゃんったら、親鳥気分になってたの。卵が孵って雛が生まれたら、シゲちゃんをお父さんだと思うんだよね」
「お父さんになるのもいいけど、俺は恭子といるのがいいよ」
「うん、ごめんね。お待たせ。恭子もひとりぼっちだと寂しかったよ」
 怒っているのではないようで、俺に寄り添ってきてくれる。俺も起き上がると、恭子は俺の肩に頭を乗せた。
「お土産。ずっとそれをかぶっててね」
 頭に乗せられた帽子を見てみると、てっぺんが花かごみたいになっている。俺にはこんなの似合わないだろ、と言いたかったのだが、バリ島でだったらかぶっていよう。
 お土産も買ってきてくれたし、ひとりでゆっくりショッピングして気が晴れたのか、恭子は機嫌がよくなっている。女性ってものは買い物がストレス解消になるとは本当なのだろう。結婚生活では俺が恭子のストレスにならないようにしなくちゃ。
「この卵、どうしたの?」
「えーと、そのへんに落ちてたから拾ったんだ。ゆで卵だったら食う?」
「拾い食いなんかしたらおなかをこわすじゃないの。ゆで卵じゃなくて、おいしいものを食べにいこうよ」
「俺も腹が減ったよ。行こう」
 恭子はゆで卵を捨ててしまったけれど、美人だったなぁ。気がかりが解消すると、さきほどの女性を思い出す。けれど、恭子には言わない。帰国したら幸生に、美人にナンパされたぞ、って嘘を言ってやろうか。幸生には看破されそうだから、言わないほうがいいのだろうか。
 見知らぬ女性に女心を教えてもらうなんて、これだから俺は……ではあるのだが、恭子の気持ちをすこしは読み取れる夫になろう。そうなれば、独身の仲間たちにも女心をアドバイスしてやれる。俺では永遠にそうはなれない気もするのだが、がんばろう。


7・隆也

 陽に灼けていっそうたくましくなったシゲが新婚旅行を終えて帰ってきて、恭子さんが選んでくれたという土産物をどさどさっとスタジオに持ってきた。
「楽しかったか」
「はい、まあね」
 本橋に問われたシゲは簡潔に答え、幸生が言った。
「喧嘩はしなかった?」
「しなかったよ」
「よかったですね、新婚旅行先で捨てられなくて」
 章も言い、シゲは章に花を満載した大きな麦藁帽子をかぶらせた。
「これはおまえにだったら似合うだろ。やるよ」
「バリ土産? これをかぶってステージに立とうかな」
「ジュリーがそんなのをかぶってたっけ。俺にちょうだい」
 幸生も言い、章と帽子を取り合ってガキみたいにはしゃいでいる。本橋は言った。
「その帽子じゃでかすぎて、帽子に押しつぶされてるみたいだぞ」
「だったらおまえがかぶる?」
 俺も言い、またリーダーは俺たちをちびちび言うーっ、と幸生が怒り声を出している。シゲが結婚して俺たちも一部は変わりゆくのだろうが、こんな光景はまったく昔のまんまだ。
「幸生」
 スタジオの裏手に出ていって、俺は幸生に言った。
「恋ってなに? 真実の恋ってなに? っておまえの質問だけどさ」
「答えが出たんですか」
「恋ってなんなんだろ、俺にとっての真実の恋ってなんなんだろ、そんなふうに答えを求めて生きていく。自分にも問いかけ、答えを得られぬままに果てる。人は誰しも……」
「そんな面倒なことは考えない人間もいるでしょ」
 いるのかもしれない。俺たちは歌を書くから、詞や曲で「恋」を描くから、考えるのかもしれない。直接的に恋はしても、あれこれ思い煩わない人間もいるのか。そのほうが一般的なのか。
 他人は知らないけれど、幸生はよく俺にそんな質問をした。俺はいつだって明確な答えなんか出せなかった。出せないままに考え続けてきた。恋多き男や女は、むしろそんなことは考えないのかもしれないけれど。
「恋とはなんであるか、と考えても考えても答えが出ぬままに生きる。人生が終わる瞬間にそばにいてくれるひとに、俺はきみを愛しているよ、って言えたら……愛していたよ、愛しているよ、とこしえにきみを……俺の生命が尽きるこの瞬間も、俺の肉体が滅びたあとも、きみを愛してる」
「それが恋?」
「だといいね」
「逆だったりしたら、彼女が先に逝くときに、きみの肉体が消滅してしまっても、俺はきみを愛してる、とこしえに……そう言える相手と結婚すると……結婚って究極、そのためにするのかな」
「結婚じゃなくてもいいけどね」
「そうですねぇ」
 答えが出たのではないけれど、幸生とうなずき合って煙草を取り出した。
 肉体が滅びるときを考えるのはまだ早いけど、シゲもそうできる相手を見つけた。俺にも見つかるのだろうか。そのために結婚する? 恋をして結婚する相手は、「きみは俺のたたひとりのひと。これからもとこしえに」と決めたひとなのだから、やはり特別ではあるのだろう。
 もてなくったっていい。何度も恋なんかしなくてもいい。シゲは恭子さんというベターハーフを見つけた。ただひとりのひとを見つけるために、それでも俺は恋がしたい。
「ヒデさんも……」
「うん、ヒデも……」
「会いたいな。乾さんも?」
「うん」
「恭子さんに会わせてあげたいな」
 結婚式のときにもみんなが思っていたのだろう。合唱部の友人たちの席では、実松や酒巻が話し合っていたのだろうか。ヒデにもシゲの結婚式を見せてやりたかった。ヒデも参列して、歌にも加わってほしかったと。
 ヒデがいなくなってから五年になるのか。普段はそうは口にしないけれど、俺たちの気持ちから彼は消えない。
「おまえも結婚して幸せにやってるのか。うちでは真ん中のふたりが先に結婚したんだよな」
 なれるかどうかわからないプロのシンガーではなく、たしかな愛情を選ぶと、家庭を選ぶとヒデは言った。シゲはこれから両方をつかみ取ろうと歩き続ける。俺には結婚なんて形もないけど、五人で歩き続けていくよ。
 だからヒデ、おまえもいつかは俺たちの前に出てこい。シゲが結婚したゆえなのか、シゲとは親友だった、今でも心は親友同士のはずのヒデがしきりに浮かぶ。シゲもヒデも他人なんだから、彼らの心が俺には見えるはずもないのに。
 ことあれば感傷的になってしまうから、ヒデなんて忘れたよ、って顔をしているけれど、俺の心にだってヒデはいる。ヒデもともにシゲを祝福したかった。

未完
第七部に続く












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~ Comment ~

今回もよかった♪

読み進むほどにどんどん面白く感じていきます。
シゲさん、恭子さんと結婚したんですね。
このあたりもなんかジーンときました。

みんながヒデさんを強く思っているのも・・・なんか感動だな。私は乾さんみたいなタイプが好きですが・・・シゲさんみたいな人と結婚したらきっと女性は幸せになれるんじゃないかな・・・と思いました。
一緒にいるとどんどん好きになっていける人なのではないかなと・・・。

親しみを持っていただければ

本当にとっても嬉しいです。
たくさん読んでいただけたら、身近に感じてもらえたりするのでしょうか。

シゲはプロの歌手としては奇異なタイプかも?
彼らも一応は芸能人なのですから、ある程度売れてきたらもてるだろうし、遊んだりもするでしょうしね。

そこを敢えて、シゲだけは真面目堅物、おしゃれじゃなくてださくてもてなくて、という男性にしてみたら、どんどんそっちに突き進みました。

私も普通の男性としては、シゲちゃんが一番いいなぁ、と思っているのですよ。面白みはないかもしれませんが。

美月さんもそう思って下さっているようなのも、とても嬉しいです。
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