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小説200(The Chronicle)第四部 

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フォレストシンガーズストーリィ200

「The Chronicle」

第四部(黎明)


1・繁之

 アマチュアシンガーズも楽ではなかったが、新米シンガーズも楽ではない。デビューしたからといって楽な立場になれるはずがないとは最初からわかっていたのだから、アマチュアよりは数層倍もいいのだから、めげていてはいけないのだ。
 ファーストシングルの「あなたがここにいるだけで」がリリースされた日が、フォレストシンガーズのデビュー日となる。俺が二十三歳の初秋に、我々はプロになった。

「やわらかな髪を揺らすあなたが
 僕の胸に頬を埋めて囁く
 顔を上げて目を閉じたあなたに
 そっと口づけ

 あなたがここにいるだけで
 僕は他のなんにもほしくない
 愛しているよ
 あなたが僕を愛してくれている以上に
 僕はあなたをこんなにも愛してる」

 激甘ラヴソングである。乾隆也作詞、本橋真次郎作曲。詞も曲も書けない俺は、先輩たちはさすがだなぁ、と感服するしかない。激甘ソングは俺には照れくさいのだが、歌なのだから、実際に言葉にして喋るのではないのだから、恥ずかしさは少ない。
 リードヴォーカルは本橋さんで、俺がベースヴォーカル、他の三人がハイトーンのハーモニーをつける。リーダーが本橋さんなのも、ハーモニーの形態も、アマチュア時代と変わってはいない。
 本日の仕事を終えてアパートに帰ると、俺には宝石のごとくに輝いて見える、デビューシングルCDをラジカセにセットした。俺たち五人の住まいも学生時代のまんまで、プロになれたという一点以外はなんにも変わってはいない。
 ラジカセから流れてくる俺たちの歌。リピートで繰り返しながら、俺はCDジャケットを眺めた。ヒデはこのジャケットを見てくれているのだろうか。
 プロになってCDジャケットの写真撮影となると、スタイリストさんが来てくれた。秋らしい枯葉いろのそろいのスーツで、めいめいのネクタイの色がちがっている。本橋さんは黒、乾さんはベージュ、俺は臙脂で、章はオレンジ系のチェック、幸生はピンク系の花柄。めいめいに似合う色や柄をスタイリストさんがセレクトしてくれた。
 片隅にピアノのある部屋の設定で、本橋さんと乾さんはピアノのそばに立っている。幸生と章が窓辺にもたれていて、俺は壁際に立っている。これが俺。こうして上手に写真に撮ってもらうと、俺もわりとかっこいいかも?
 いや、本橋さんと乾さんはかっこいいが、俺はかっこよくない。章も小さいなりにかっこいいが、幸生は女性が見たら、可愛いと感じるのだろう。
 ヒデと俺が二十歳だった年に結成されたフォレストシンガーズは、いろんないろんなことがあったアマチュア時代を経て、CDを出せるところまできた。メジャーレーベルから出したCDだ。ヒデはいなくなってしまったけれど、プロにはなれた。
プロも楽ではないとため息をつく理由はいくつもあって、デビューシングルリリースから一ヶ月すぎても、話題になるきざしもないのがそのひとつだ。他にもうっとうしい奴らがいたり、章が乾さんに叱られてばっかり……なんてのも、アマチュア時代から変わっていない。
 アマでもプロでも、俺たちは俺たちなのだから、基本的な部分は変わらないのだろう。俺がちっともかっこよくならないのも、何年たってもこのままなのだろうか。
「はい」
 鳴った電話に出ると、緊迫した声が聞こえてきた。
「シゲさん、来て」
「幸生か? どうした?」
「いいから来てよっ!!」
「どこにいるんだよっ」
 事情は行ってから聞くことにして、幸生が教えてくれた場所へと自転車で急行した。そこには幸生と章がいて、うっとうしい奴もいた。
「シブ?」
 うっとうしい奴らの代表格、ジャパンダックスのシブだ。我々と同じオフィス・ヤマザキの所属ロックバンドであり、同期でもあるシブの回りには、若い男女が数人いた。
 俺のアパートからだと自転車で行ける距離の公園で、シブと章が対峙している。幸生はやや離れた場所に立っていて、俺を見つけて走り寄ってきた。
「シゲさんちが近いから電話したんだけど、いてくれてよかったぁ」
「どうしたんだ? なにがあったんだ?」
「章と俺が飲んでたらさ……」
 幸生が言うには、シブがその店に入ってきたのだそうだ。シブは友達であるらしき男女を連れてきていて、幸生は章と離され、なんの魂胆だかシブの友達にちやほやされていた。その間に章のそばには女の子が寄っていき、もめごとが起きたのであるらしい。
「俺の女に手を出しやがって、ってさ、あいつが言うんだ」
 あいつとは、シブの隣に立っている男だ。その後には女の子がいる。彼女に章が手を出した?
「そうなのかもしれないよ。俺は章を見張ってたわけじゃないから、章が彼女になにをしたのかは知らない。でもさ、やりかねないし。こういう場合はどうしたらいいのかわからなくて、シゲさんに助けを求めたの。乾さんのほうがいいんだけどさ」
「乾さんのほうがいいのかもしれないけど、ここからは乾さんのアパートは遠いもんな。で、あいつ、章をどうしようって?」
「さっきからねちねちからまれてるみたいで、一触即発。シゲさんが間に合ってくれてよかったよ」
 シブはにたにたしている。身体の大きな「あいつ」であるらしき男が、章に迫っている。章はたじろいでいる。俺は章の隣に立った。
「本庄さん……」
 章は俺の背中に隠れ、俺は言った。
「俺は幸生に聞いただけしか知らないんだけど、章がきみの彼女に手を出したって? なんて名前、きみは?」
「俺の名前なんかどうでもいいだろ」
「名前を知らないと呼びかけられないんだ。呼びかける名前を教えて」
「コンタ」
「コンタくんか。説明してくれよ」
 変わらずシブはにたにたしていて、コンタが言った。
「俺たちはシブの友達で、みんなで飲みにいったんだよ。そしたら、木村と三沢がいた。あのふたりはシブの仕事の友達だって言うから、みんなで楽しくやってたんだよ。俺の彼女のマイがさ、木村のそばにいたのは知ってたから見てたんだ。そしたら、木村がマイにキスして……」
「章、キスしたのか?」
 背中で章が小声で言った。
「キスしようって言ったのはマイちゃんですよ」
「したんだな」
「したけど、キスなんて別に……俺が悪いんじゃないよ」
「マイちゃんも遊び心か。章だけが悪いんでもないような……だから、コンタくんはどうしたいの?章を殴りたい?」
「もっちろん」
 力強くコンタは応じ、章は俺のシャツの背中をつかんで震え声を出した。
「マイちゃんが……きみもなんとか言えよ」
「キスくらいでコンタも怒らなくてもいいと思うんだけど、殴りたいんだったら章を殴れば?」
 女の子の発想はこうなるのか。こうなると俺も、こうしか言えなくなってしまった。
「章を一発殴ったら気がすむのか? マイちゃんにはなんにもしない? 章にだってひどくはしないか?」
「一発でいいよ。俺はそれでいいって言ってんのに、木村がつべこべ言うから話がこじれたんだ。木村、出てこい」
「やだ」
 以前に章が公園で見知らぬ男に殴られそうになって、俺がかわりに蹴られてやったことがある。あれは男が誤解したのだが、乾さんにあとから言われた。
「シゲ、それって章に対して無礼だぞ」
 本橋さんも言った。
「そんなもんは自力でなんとかしろ」
 かわりになってくれて助かった、と章は言っていたのだが、誤解だった前回ならばともかく、今回は章はマイちゃんにキスしたのだ。かわりになってやってはいけない。一発ですむのだったら受けるべきだろう。
 彼女にキスされて怒る男の気持ちはわからなくもない。俺はまだ彼女というものを持ったことがないが、彼女ができて遊びで別の男とキスしたら、むかっとするだろう。だからといってそいつを殴ろうとは思わないが、すると、俺だったらどうする?
 ふたりともがごめんと言ってくれたら、ただのジョークだったと言って、それっきりだったのだとしたら、許してしまうだろう。かもしれないが、仮定の話しだ。俺だってそのときには怒るのはまちがいないだろうから、コンタの言い分はほぼ正当だと思えた。
「よし、章、殴られろ」
「……本庄さん、そりゃないよぉ。かばってくれないんですか」
「おまえが悪いんだろ」
「マイちゃんだって悪いよ」
「じゃあ、マイちゃんがコンタに殴られたらいいって言うのか?」
「恋人同士なんだったら、ふたりで解決しろよ」
「おまえが関わってるんだろうが」
「木村、出てこい」
 コンタが怒鳴っても、俺が言っても、章は出てこない。シブはにやついているばかりで、他の男女も黙ってなりゆきを見物していた。
「殴られるってそんなにいや?」
 マイちゃんが言った。
「じゃあさ、あたしでもいいよ。あたしも悪いのかもしれないね。あたしは章くんが綺麗な顔をしてるから、キスしてみたいな、って思ったんだけど、コンタがそんなに怒るとは思ってなかった。コンタ、あたしにする?」
「おまえを殴ってもな……」
 やろうとはしないコンタの態度は正当だと思える。幸生も言った。
「章、下手をすると女の子が殴られるよ。それでもおまえは逃げるの?」
「殴られるのはやだっ!!」
「ああ、そう。じゃあ、乾さんに言いつけよう。そうすると、おまえは乾さんに叱られるよね。殴られるかもしれないね。そっちのほうが怖くない?」
 俺の背中で考え込んでいたらしき章は、それでも言った。
「いやだ。殴られるなんていやだ。コンタにも乾さんにもいやだ」
「えい、くそっ!!」
 業を煮やしたか、コンタが叫んだ。
「もういいよっ!! マイ、行くぞっ!!」
「もういいの? コンちゃん、もうしないからね。ごめんね」
「うん、そんならいいよ。まったく、呆れ果てた弱虫野郎だな。俺は帰るから、勝手にしろ。クソ馬鹿野郎!!」
 章に罵声を浴びせ、マイちゃんの手を引いて、コンタは行ってしまった。他の男女も去っていき、シブのにたにた笑いの残像だけが残っていた。
「章、あれでよかった?」
 幸生が尋ね、章は俺の背中から出てきた。
「まあいいかな。幸生、乾さんに告げ口するなよ」
「したらどうなるかな。大事件ってほどでもないにしてもさ、シゲさんじゃなくて乾さんを呼んでたとしたら……乾さんだったらこうじゃない?」
「どう?」
 尋ねると、幸生は言った。
「見下げ果てた奴だな、章は。おまえは事実、マイちゃんに手を出したんだろ。手じゃなくて口だけど、キスしたんだろ。それでマイちゃんの彼氏が怒ったんだから、制裁は甘んじて受けろ。かわりに俺が……って、びったーんってビンタかもね」
「それだとコンタの気はすまないだろ」
「ああ、そっか。シゲさん、正解。だけど、言いつけたらそうなりそうだから、乾さんには言わずにおきます?」
「告げ口なんかしてやるな」
「シゲさんはそう言ってるよ。よかったね、章」
 乾さんがどう出るかは俺には推測しづらいが、そうなるかもしれない。乾さんに軽蔑されて叱りつけられて殴られるくらいだったら、俺はコンタに殴られるほうがよほどいい。
 一発ぐらい殴られるのがなんだっていうんだ、と俺は章に言いたいのだが、コンタが諦めてくれてよかったとも思う。が、まったくほんとにこいつは弱虫だな、とも思う。章は痩せた肩をそびやかして、月に向かって吠えていた。
「バッカヤロー!!」
 馬鹿野郎はおまえじゃん、と呟いた幸生の台詞に、俺も心から賛成した。


2・隆也

 同期で同じ事務所に所属しているのだから、ジャパンダックスとはたびたび顔を合わせる。今夜は事務所で本橋とふたりして社長に説教され、長時間に及ぶ小言から開放されて本橋と別れて歩いていると、シブが俺を追ってきた。
「去年の話しなんだけどね」
 こんばんは、でもなく、シブは言った。
「聞いた?」
「去年の出来事は水に流して、仲良くやろうよ」
「都合がいいね。おまえたちは水に流しても、俺たちには流せない出来事ってのがあるんだよ」
「逆じゃないのかな。俺たちがなにをしたって?」
「逆? 俺たちこそなんにもしてないじゃん」
 なんにもしていないとは、どの口が言っているのだろうか。ひとつずつ述べれば頭の中が活火山と化しそうな、ジャパンダックスの所業を覚えていないとでも言いたいのか。次第にむかついてきたので無言になって、公園に入っていくと、シブは言った。
「聞いてないんだろ。木村だよ」
「木村がなにかしたのか?」
「あいつ、俺の友達の女に手を出しやがって、彼女は妊娠したって言ってるんだぞ」
「本当なんだろうな」
 反射的に章の顔が浮かび、あいつはまた……と言いそうになったものの、事実だと確認しなくてはいけない。章に言うのはそれからだ。
「どういったいきさつで?」
「木村が飲んでる店へ、俺が友達カップルを連れて入っていったんだよ。木村って奴はある種の女には好かれる顔をしてるんだよな。俺よか顔は落ちるけど、頭の悪い女はあの顔が好きらしい」
「それで?」
「それでさ、その女が木村を好きになって、つきあうようになったらしい。つきあってできちゃって、俺の友達はふられたんだけど、ついこの間、彼女が泣きながら友達のマンションに来たんだよ。俺もそこにいて聞かされたんだ」
「木村の子供ができたと? 証拠は?」
「マイと木村はつきあってたんだから、それがなによりの証拠だろ」
 そこまでの彼女ができたとしたら、章は聞かなくても言うはずだ。妊娠とまでなると隠すかもしれないが、その前の話をまったく聞いていない。俺はシブを問い詰めた。
「マイさんってひとの話を、俺は章からひとことも聞いてないよ。もっと詳しく話してくれ」
「木村はこう言ってたらしいぜ。おまえみたいな女は誰とでも寝るんだろうから、俺の子供かどうかなんてわかるもんかってさ。だから、彼女は前の男に泣きついてきたんだよ」
「それが本当だとしたら、マイさんってひとに会うよ。連れていってくれ」
「なんでおまえがマイと会うんだよ」
「章が逃げていると言うのならば、俺がマイさんから詳しく話を聞く。そして章にも会わせて、ちゃんと話をつけさせる」
「おまえの言うことだったら木村は聞くのか?」
「聞かせてみせるよ」
 男の人生のひとつの大切な大切な岐路とでも言うのか。結婚するつもりもなく、子供ができては困る状態であれば、避妊は絶対的な義務だ。そこには失敗もあるのだから、まちがえて子供ができてしまったのだとしたら、それについて責任を負わなければならない。
 なりゆきまかせで女と寝た経験は俺にもあって、できなくてよかった、としか言いようはないのだが、もしも彼女が子供ができたと告げたら、俺にできる限りの責任は取るつもりでいる。現状では彼女が妊娠したら、哀願して堕胎してもらうしかないのだが。
 そこまで考えると、俺は絶対にそうはならないようにしよう、としか言えないが、章も責任は取らなくてはいけない。逃げてはいけない。
 さらに考えると、章が言ったという、誰の子供だかわかるもんか、もある。たとえそうだとしても、章も彼女と寝たのであれば、責任を取る必要はある。シブの台詞が事実なのならば、俺は章の首ったまをひっつかんで、彼女のもとへ連れていくつもりだった。
「おまえってやっぱ、かっこつけだよな」
「そうみたいだな。では、連れていってくれ。彼女の都合のつく日でいいよ」
 草むらをかきわけて、ごそごそっと出てきた男がいた。
「……ゴン? なんでおまえがここに?」
「シブよぉ、おまえさ、なんでそう言ってるわけ? 俺が聞いてた話とちがってるぜ」
「出てくんなよ、おまえは」
 太った男がふたりして、俺の眼前で口論している。注意深く聞いていれば、およそは理解できた。
「つまり、マイさんってひとに章が手を出したのは事実だね。手を出したったってキスしただけで、マイさんの彼氏が怒って、章を殴りたいと言った。章はぶるってしまって、シゲが来てその場をおさめたと。そんなところ、ゴン?」
「俺はそう聞いてたよ」
「おまえがよけいな口出しするから……」
 舌打ちをしたシブに、ゴンが言った。
「なんのためにそんな話をするんだ?」
「いいからさ、ちょっと耳を貸せよ」
 シブがゴンに耳打ちをし、ふむふむと聞いていたゴンは、にやっと笑った。
「お、そっか。じゃあ、このほうが手っ取り早いじゃん」
「あ……ゴン……そうだな。そのほうが早いよ」
 なんの話しなのかわからないでいるうちに、ゴンが俺の腰に組みつき、シブが俺に足払いをかけた。からくも持ちこたえ、俺は言った。
「ちょっと待て。なんなんだ、これは」
「仕返しだよっ。あのときは雪の中だったから俺たちは身動きできなかったけど、地面の上でだったらふたりがかりだったら、おまえには負けないもんな」
 ゴンが言い、シブも言った。
「本橋が言ったのもあってさ。なーにが、こんな奴、ちょろいちょろい」
 仕返しとは、雪の中でのケーブルテレビの仕事で、俺がゴンやシブを蹴ったりころばせたりしたのについてか。本橋が言ったことは知らないが、雪の中でのあれだったら理解できる。
 どうやらマイさんとやらの話は誹謗中傷だったようで、シブの手の込んだ嘘だったらしいが、なんにしても、このふたりは俺と喧嘩がしたいのであるらしい。本橋に言わせると、あんな奴らは手ごたえもなんにもなさそう、になるのだが、俺にはそうは思えない。
 喧嘩が好きで喧嘩巧者の本橋であれば、シブとゴンでは手ごたえがないのだろうが、俺では太った男ふたりだと難敵だと思える。逃げたいのだが、ふたりがかりで組みついてこられては跳ね飛ばしもできなくて、やむなく応戦した。
 ずいぶん昔に、幸生が言っていた。完璧本気のパンチ。そんなものは俺は人に向かってふるった記憶はないが、今夜ばかりは完璧本気を出さないとやられてしまう。半殺しとまでは行かないにせよ、油断しているとずたぼろにされそうなので、手加減もなしで暴れていた。
「うげっ、やめろっ!!」
 もはやどっちがゴンでどっちがシブかも見分けもつかなくなっていると、どちらかが叫んだ。
「シブ、本橋が言ってたの、ほんとじゃねえかよっ!!」
「嘘だと思ってたんだけどな……乾、やめよ。な?」
「きみたちが仕掛けてきたんだろ。俺だってやめたいよ。話をしていても隙は作らないつもりでいるけど、なんの真似なんだ、これは」
 幸いにも公園には他に人影はなく、三人して地面にへたると、ゴンが言った。
「俺だって知らねえよ。シブがやりたいって言うから手を貸しただけだ。シブ、なんなんだよっ」
「だからさ、乾を怒らせたかったんだよ。木村はマイにキスしただけだ。それ以外は嘘だから」
「その話は俺も聞いてたよ。仕返しだったら木村にやりゃあいいじゃん? 雪のときにはあいつもいただろ」
「木村では全然つまんねえだろ」
「かもな。あいつだと女と喧嘩する以下だもんな」
「ルッチやターコのほうが強いぜ」
「言えてる」
 言い合ってふたりしてげらげら笑う。ルッチ、ターコとはジャパンダックスのあとふたりのメンバーで女性なのだが、たしかに、章よりも背が高くて強そうに思えるのだった。
「いやさ、だからさ」
 シブが言った。
「木村がマイにキスしたって話は、乾は聞いてなかったんだろ?」
「聞いてないよ」
「その話をしてやろうとしてたら、話が広がっていったんだよ。おまえがどう出るか、ってのは、三沢が言ってたのが聞こえてて、興味があったのもあってさ」
「幸生もいたのか?」
「いたよ。最初は三沢と木村がいて、木村がマイにキスして、マイの彼氏のコンタってのが怒ってさ。そうやってごたついてたら、三沢が本庄を呼び出したんだ」
 今度は本当の話をしてくれてから、シブは言った。
「そのときにさ、コンタがもういいって言って、みんなで引き上げていく途中で、三沢が言ってたのが聞こえたわけ。乾さんが知ったらどうするかな、って。どうするのか俺も知りたくて、言ってるうちに話がよそへ向いちまったんだよ」
「おまえさ、木村にどうすんの?」
「どうもしないよ。俺が今さらお節介を焼いたって、すぎた話しだろ」
 実は信じかけていた。俺にも起こり得なくはないけれど、章にもありそうな話だと思った。章、ごめん、と言うのも筋違いであろうが、キスだけだったら、見過ごしにしていいはずだ、
「妊娠騒ぎだったらお節介を焼くのか」
 ゴンに訊かれてうなずくと、シブは言った。
「ま、わかったから、ゴン、行こうぜ」
「行こうか。乾ってもてるんだってな? 女はこういう男が……」
「そうなのか?」
 立ち上がったシブとゴンは、ひそひそ話しをしながら行ってしまった。
 なんなんだ、あれは。俺にはシブの意図は半分程度しか読めなかったが、要するに俺の腕力をたしかめたかったのか。本橋みたいな奴だ。本橋はなにを言ったのか。本当だったとはどういう意味なのか。
 わけのわからない今夜の顛末は、誰にも言わなくてもいいだろう。さほどのダメージは受けていないとはいえ、身体のほうぼうが痛い。だから喧嘩なんかしないのが一番なんだよ、と俺は呟いた。
「ま、しかしね、本橋くん。俺は喧嘩の経験がきわめて少ないんだから、これでおまえに実感として、喧嘩はしないほうがいい、と言ってやれるかな。そういう経験を与えてくれようとして、シブとゴンが挑んできてくれた?」
 そんなはずはねえだろ、と自分に突っ込んでみたが、社長のねちっこい説教の垢が落ちたようなのだけは、喧嘩にも効用があるのかもしれない。とすると、本橋も今ごろはどこかで誰かと喧嘩をしている? やめてくれよぉ、でもあった。

3・幸生


 あと二ヶ月ほどでフォレストシンガーズデビュー一周年を迎える今夏、社長が知り合いの海辺の別荘を借りてくれるとのことで、合宿をすると決まった。
 リーダーと乾さんが二十五歳、マネージャーの美江子さんも二十五歳。シゲさんは二十四歳、章と俺が二十三歳。大学のときには四年間参加した「合宿」というものに行くのは二年ぶりだし、遊びではないにしても、若者たちの楽しい数日間になるのだし、水着を買おう。海だもんね。
 ファッションに関しては、本橋さんとシゲさんはまったく関心がないのか、美江子さんに言わせるとこうなる。
「服装にはかまわないのが男らしさだと、少なくとも本橋くんは勘違いしてるんだよ。私は社長にまで、本橋と本庄にアドバイスしてやれって言われたの。私が言って聞くと思う?」
「聞かないかな。そっか、勘違い男なんだ」
 美江子さんはセンスがいい。乾さんも最高にいい。章はロッカーファッションなので変ではあるが、俺だってセンスはいいほうだとの自負がある。しかし、男の水着ってのはバリエーションに乏しくて、カタログを見ても店頭で見てもいいと思えるものがない。美江子さんに相談してみた。
「そうだね。男の水着って形と色のちがいくらいよね。幸生くん、ビキニにしたら?」
「ビキニ? ああ……いいかも」
 アドバイスに従って、通信販売で赤いビキニを買った。これだけではまずいかもしれないので、昔のトランクスも持っていこう。トランクスはエメラルドグリーン。ユキちゃんは派手好みなのだが、章ほどではない。
 中学生のころから使っている愛着のあるボストンバッグに、合宿支度を詰め込んでいると、バッグのポケットから白い丸い小石が出てきた。
「なんだっけ、これ?」
 なんだったのか思い出せないのだが、記念の品物のような気がするので、ポケットに戻した。
 海といえば無数の思い出がある。はじめてナンパに成功したのも海辺でだった。小石はそこにつながる記念の品なのかもしれない。
 着替えでふくらんだボストンバッグをぶらさげて、レンタカーのマイクロマイクロバスに乗って出発。マイクロがふたつつくほど小さいバスだ。合宿では歌の練習、作詞や作曲や歌づくりにまつわる諸々の話し合い、となる予定で休暇ではないのだが、自由時間だってある。
 学生時代の合宿よりもきびしいのかな、なんて考えながらも、集合場所でマイクロマイクロバスに乗り込んだ。運転手さんを雇う余裕はないので、運転はかわりばんこだ。
 みんな、学生時代に免許は取っている。章も大学を中退してから教習所に通って取得したのだそうだ。誰も自家用車は持っていないけれど、夢のひとつはかっこいい車を持つこと。美江子さんは車がほしいとは思っていないようだが、男はみんな、車がほしいんだ。
「章、水着を新調した? 低い身長じゃないよ」
 ただいまはリーダーが車を運転中。後部座席には機材が積んであるので、乗員は前のほうにすわっている。リーダーのすぐ後ろに美江子さんがいて、その後には乾さんとシゲさん。俺の隣には章がいるので話しかけた。
「水着は去年までのだよ」
「どんなの?」
「どんなのだっていいだろ」
「章もジギー時代には夏には泳ぎにいった? 夏のイベントの仕事とかあった?」
「なくもなかったよ」
「じゃあさ、仲間の女の子たちの水着姿……四人もいたんだろ。スーちゃんの……ま、いいか」
「変な気を回すなよ。ああ、水着を着たスーは……俺は寝る」
 気を回すなと言ったくせに、気を悪くしたらしい。
 四人の女の子が楽器を演奏して、章がアキラの名でヴォーカリストだった「ジギー」は、インディズのままで解散した。ジギーのベースのスーが章の恋人で、俺もスーちゃんには会わせてもらったことがある。
 寝ると起きない章はほっぽっておいて、俺はジギーについて考えていた。
 ロックは嫌いではないけれど、アマチュアバンドにはとりたてて興味はないので、俺はジギーの演奏を聴いたことはない。写真なら見せてもらったけれど、スー以外のメンバーは知らない。章は時おりぽつぽつとジギーの話をするものの、細かくは語らない。
 スーに捨てられてしまった章は、その後も女の子とはなんだかんだとやっているらしい。この顔なのだから章はもてるのだし、そのくせ、俺とはちがって純な部分もなくはないみたいだから、まあ、最悪の事態は起こさないだろう。
 危ないのは俺のほうかもな、とは思うのだが、これがこうしてああなって、ああしてこうしてこうなって……それから? ぎゃっ!! なんて想像をするとなんにもできないのだから、想像しないで楽しもう。若いんだもんね、俺たちは。
「幸生、妙におとなしいな」
 前の席にいる乾さんが振り向いた。
「章は寝ちまったか。シゲもおとなしいのは腹が減ってるのか?」
「乾さん、思い出させないで下さい。腹が減った。減りました」
「朝は早かったもんな。だから章は眠くなって、シゲは腹が減ったか。合宿所についたら昼メシを作るんだろ。買い物をしていかなくちゃな。本橋、スーパーがあったら止めてくれ」
 おう、とリーダーの返事が聞こえ、美江子さんが言った。
「そう言うだろうと思って、おやつを持ってきたよ。果物ではシゲくんのおなかの足しにはならないだろうけど、おせんべもあるからね」
 美江子さんが回してくれたアイスボックスの中には、カットフルーツが詰まっている。あられや煎餅も回ってきた。俺たちは全員、甘いものが嫌いだから、美江子さんも気を使ってくれたのだ。
「私は給食のおばさんじゃないんだよ」
 そうも言ったけど、美江子さんはアマチュア時代から練習していた公園に差し入れを持ってきてくれた。おにぎりやらスープやらおでんやらシチューやら卵焼きやら、美江子さんの料理はおいしくてあったかくて、いつだって俺たちをほっこりさせてくれた。
 シゲさんは大喜びででっかい草加煎餅をかじっている。食欲が一番のシゲさんは、ある意味、幸せ者だ。シゲさんにだってつらい恋はあったのだけど、うまいものを食えば吹き飛ばせる。それだけでもないのだろうけど、食って元気を出して走り出せるんだから、シゲさんは心身ともにタフにできているのだ。
 おやつを食べたり買い物したりしながらも、車が合宿所に到着した。小さな別荘を手分けして掃除して、昼メシを作って食って、午後からは海水浴。美江子さんは個室に引っ込み、男たちは一階の大きな部屋に集まった。
「あのさ、俺、章と使う個室で着替えてきます」
 水着に着替えているみんなを見回して言うと、本橋さんが怪訝な顔をした。
「ここで着替えたらいいだろ」
「だって、恥ずかしいもん」
「なんで恥ずかしいんだよ」
「また言うのか、幸生?」
 乾さんも言った。
「身体つきがどうこうって? そんなもの、気にしてたらキリがないだろ。何度も何度も一緒に風呂にも入ったんだから、おまえの身体つきなんて知ってるよ。ここで着替えろ」
「隆也さんったら、そんなにユキちゃんの着替え風景が見たいの?」
「見たくはないけど、わけでもあるのか? 蒙古斑はないよな?」
 学生時代から乾さんは蒙古斑と言っていたが、乾さんにはあるのか? 一旦は消えたのが復活したとか? 上半身裸になっている乾さんの背後に回って、ショートパンツに手をかけて引き下ろそうと試みたのだが、簡単に阻止された。
 くるっと振り向いた乾さんにつかまえられて、身体が宙に浮く。着替えを手伝ってやろうか、と言われて先輩三人がかりで裸にされたとしたら? 変な想像をしてしまって悲鳴を上げた。
「きゃああーんっ!! ご無体なっ!! 美江子さん、助けてっ!!」
 ぽいっと放り出されてシゲさんに受け止められると、乾さんは言った。
「見せてやろうか」
「乾さんの蒙古斑? 見たくありません」
「当たり前だろ。早く着替えろ」
「だってさぁ、俺の水着、これなんだもん。恥ずかしいんだもん」
 広げてみせた赤いビキニを見て、みんなそろって絶句した。
「……幸生、これも一種の女装だよな? なんでビキニ?」
 章が尋ね、俺は言った。
「だって、美江子さんがビキニにしろって言うんだもん」
「山田が? あいつもまたなにを思って、幸生にそんなことを言うんだよ。みんな、さっさと着替えろ。山田に訊くから」
「俺は?」
「おまえはそんなもんを着るな」
 リーダーに怒られて軽く蹴飛ばされて、脛を抱えて呻いているうちに、みんなの着替えが終了した。本橋さんに大声で呼ばれてやってきた美江子さんは、ブルーのパーカーを羽織っている。水着は見えないが、すんなりした脚が綺麗だった。
「私が幸生くんにこれを買えって言ったって? あのね、幸生くん」
「はい」
「ビキニにしたら? って言ったのも冗談みたいなものではあるけど、男の水泳パンツにもビキニはあるでしょ? 私が言ったのはそれなの」
「あるけどさ……」
 四人はトランクス型水泳パンツをつけている。本橋さんは長身筋肉質、シゲさんは中背筋肉質、乾さんは長身ほっそり型ではあるが、肩や胸や腕や脚の筋肉は貧弱ではない。あとのふたりと較べるから細く見えるだけだ。
 もうひとりは俺と同じような体格なので仲間ではあるが、それ以前に、俺にはビキニ問題があるのだった。
「俺のこの体格でビキニパンツなんて、恥ずかしくて着れませんよ」
「女の子のビキニだったら着られるの?」
「そっちはもっと恥ずかしいけど、露出が少ないかなって」
「……幸生くん、言っていい?」
「幸生の変態。でしょ? 言わなくても美江子さんの目が語ってますよ。章も言いたいんだろ?」
「ド変態」
 想像通りすぎて面白くもない台詞を章が発し、本橋さんも言った。
「変態ってのか……おまえの発想はいかれすぎてるんだ」
「ミエちゃんのアドバイスを故意に曲解したら、そうなるんだな。幸生、着たかったら着ろ」
「乾さん、やめて下さい。そんなものを見たら俺は発熱しますよ」
「シゲさん、快感で?」
 俺が言うと、馬鹿野郎!! とリーダーが怒る。シゲさんはお先に失礼、とばかりに逃げていってしまった。それでも荷物を忘れずに抱えていくところは、さすが、フォレストシンガーズの力仕事担当シゲさんだ。
「もう一枚、普通のトランクスも持ってるんですよ」
 エメラルドグリーンのトランクスを取り出すと、章が言った。
「派手だな」
「おまえだって赤と青のチェックだろ。派手じゃん」
 シゲさんは紺、本橋さんは黒のシンプルな無地、乾さんはブルーの地で腰にロゴの入ったトランクスだ。乾さんの水着のロゴは「Miss there shall we dance?」だった。水着でナンパするつもりであるらしい。
「俺たちは先に行くから、おまえは常識で判断して、どちらを着るのか決めてから着替えてこい。ビキニだったらそれでもいいよ」
 乾さんが言い、本橋さんも言った。
「ただし、ビキニを着るんだったら俺たちに近づくな」
「近づいてきたら蹴飛ばすぞ」
 章までが言い、美江子さんも肩をすくめて、俺は置き去りにされた。
「先輩たちったら、意地悪ぅ」
 畳に身を投げ出して泣き真似してみたのだが、こんなことをしていると時間が無駄になってしまう。ビキニは美江子さんにあげようと決めて、トランクスに着替えて外に出ていった。
 学校はまだ夏休みではないからか、ウィークディの浜辺には人影は少ない。遠くにうちの仲間たちの姿が見え、五人を見つめている少年と少女の姿も見えた。
「あのひと、かっこいいね」
 少年が言い、少女も言った。
「プロポーションいいよね。でも、あたしはあっちがいいな」
「あっちってどっち? 男は四人いるだろ」
「あの背の高いほう」
「背の高いのもふたりいるよ」
「細いほう」
「……ふーん」
 このふたりは恋人同士か。中学三年か高校一年くらいに見える。近くの少年少女なのか。親をだまくらかして学校をサボって旅行に来ているのだとすれば、この年で不埒だと説教してやりたいのだが、学生ではないのかもしれない。
 俺は砂浜にすわって、可愛いカップルを見るともなく見ていた。小柄な少年とさらに小柄な少女は、俺も十年ほど前だったら、女の子といるとこんな感じだったかな、となつかしく感じる。
 背が高くて細いほうなら乾さんだ。乾さんは若い女の子にも中年のおばさんにももてる。女性には優しいのだからもてて当然であろうが、話をしたのでもないようなこんな女の子にまでもてているとは、うらやましい。
 中学生や高校生にもててもね、と乾さんは言うであろうが、もてるだけだったら俺は中学生の女の子にだってもてたい。三沢さん、大好き、と言われるだけだったら、幼稚園児でも小学生でも、女の子にだったら嬉しい。
 十八歳以下とつきあうってのはやらないけど、高校生くらいだったらキスだけだったら……なんて、妄想がエスカレートしそうになっていると、少女が言った。
「あのひとたちってなんだろね」
「ひとりだけ、おじさんがいるよね」
 おじさんとは、シゲさんだろう。気の毒に。
「女のひともひとりだけいるんだよね。大学生?」
「にしたら、ちょっと大人っぽいかな。おじさんは先生?」
「ケイちゃんとふたりで遊んでるよりも、あたしもあっちに行きたいな」
「僕も行きたい。近づく方法ってない?」
 頭を寄せてふたりは相談している。一緒に遊ぼうか、と誘っていいものだろうか。
「ええっ?!」
 と、少女が叫んだ。
「ケイちゃんがかっこいいって言ったのは、あっち? あたしがかっこいいって言ったひとと同じひとなの?」
「そうだけど、いけない?」
「ケイちゃんってそんな趣味?」
「趣味とかなんとかじゃなくて、かっこいいって言っただけだろ」
「だって、それって変態じゃない?」
「変態じゃないよ。マミなんか嫌いだよぉだ」
「……だってだって……怒らなくてもいいじゃないのよ」
 ふんっ、となった様子の少年は足早に歩き出し、少女が追っていく。ほおほお、男の子も乾さんにひと目惚れしたのか。そっちは俺には全然うらやましくはないが、少年と少女が喧嘩をしないかとは気になっていた。


4・真次郎

 何度かは水着姿を見ているが、山田も大人になったのだろう。身体のラインが曲線を描き、胸のふくらみや腰のくびれやすらりと伸びた脚が眩しい。今日はビキニではなく水色のワンピースで、幸生のかわりにおまえが赤いビキニを着ろ、と言いたくなった。
「ビキニってのは若いうちしか着られないだろ。おまえのビキニも見たことはあるけど、もう着られないのか? 女の身体のふくらんでる部分ってのは、年を取るにつれて重力に伴って落下していくんだよな。垂れてたるんでしぼんで……なんだよっ!!」
 頭にごつんと来たのは乾の拳骨、脛に飛んできたのは山田のキックだった。
「同時だとよけられないだろ。いててっ……脛が折れた」
 拳骨は防いだのだが、キックは受けるしかなかった。
「幸生くんみたいに言わないで。私の脚力で折れるはずないでしょ。シゲくん、笑ってないでなんとか言って」
「笑ってませんよ。本橋さん、泳ぎましょう」
「駄目。あやまってから行きなさい」
 ものすげぇおっかない顔で睨む山田に、ごめんなーっ、と叫んでシゲとともに走って海に飛び込んだ。
「美江子さんはたるんでませんよ」
「ほお、シゲも見てるんだ。どこを見てた?」
「全体です」
「あの胸は寄せて上げて……うん、やめようか」
「やめましょう」
 女の水着姿を見ると、あれこれ言いたがるのが男だ。シゲだって山田を見てもやっとしてはいるのだろうが、言わないのが人間の理性であろう。俺も妙な気分は押し込めて、シゲと泳いでいた。
 スポーツはすべて苦手だと言っているが、泳げなくもない章も、乾がとりなしてくれて機嫌が治ったらしき山田も、乾も海に入ってきて五人で泳ぐ。幸生が来ないのはなにをしているのか。まさか赤いビキニで来たりしたら……
 なんだってあいつの発想はああなるのだろうか。幸生の奇態な頭脳構造を想像していると、女体への妄想は鎮めておける。五人で泳いでいると、十代の少女が近づいてきた。
「こんにちは」
「こんにちは、ひとり?」
 山田が尋ね、少女は言った。
「近所の男の子と泳ぎにきたんです。今日は学校は休みだから。私たちは近くに住んでて、私、マミっていいます」
「その男の子は? ああ、私は美江子っていうの。彼らも紹介するね」
 本橋くん、乾くん、シゲくんに章くん、と、山田が全員をマミに紹介し、俺たちも挨拶し、マミも頭を下げていた。
「もうひとりいるんだけど、まだ来ないのよ。彼らはフォレストシンガーズっていうヴォーカルグループで、私は彼らのマネージャー。合宿してるの」
「フォレストシンガーズ?」
「知らないでしょ? これから売れる予定なんだけど、まだ新人だからね。マミちゃんはいくつ?」
「十五歳の中学三年生」
「若いんだね。で、その男の子は?」
「ケイちゃんって言うんだけど、どこに行っちゃったんだろ。怒って帰ったのかな」
「喧嘩でもしたの?」
「喧嘩ってほどでもないけど……んんとんんと……」
 マミが俺たち四人を品定めでもしているかのように眺め回す。彼女の視線は乾に止まり、近づいていった。
「私、乾さんが好き」
「は? はっ、ありがとう」
「乾さんも歌手なんでしょ? 歌ってもらえませんか。歌ってくれたら、私はフォレストシンガーズのファンになります。CDも買うから」
「俺ひとりで? えーと、いいかな」
 勝手にしろよ、と俺はそっぽを向く。シゲも章もつんっとし、山田が言った。
「乾くんったら……ううん、いいのよ。マミちゃん、ファンになってね。乾くん、歌いなさい」
「はい。マネージャー命令に従います。マミちゃん、リクエストをちょうだいできますか」
「フレンズ」
「レベッカの歌だね」
 マミはうなずき、乾が歌いはじめた。

「口づけを かわした日は
 ママの顔さえも 見れなかった
 ポケットのコインあつめて
 ひとつづつ 夢をかぞえたね

 ほら あれは二人の かくれが ひみつのメモリー OH

 どこでこわれたの OH フレンズ
 うつむく日は 見つめあって
 指をつないだら OH フレンズ
 時がとまる気がした」

 友達が恋人に変わる歌か。マミとケイって奴もそうなりつつあるのだろうか。だからこんな歌をリクエストしたのか。
 遠くから幸生の声が聞こえる。待てよぉ、と言っているので振り向くと、少年が走ってきた。そのうしろから走ってきているのが幸生だ。この少年がケイか。ケイであるらしき少年はだだーっと走ってきて、乾に抱きついた。
「うおっと……なんなんだよっ」
 驚きの色を浮かべて、乾が両手を挙げる。マミが少年を突き飛ばした。
「ケイちゃん、なにすんのよっ!!」
「マミちゃんばっかりずるいよ。僕にも歌って。乾さんっ!!」
 突き飛ばされて砂浜に倒れたケイを、シゲが抱き起こす。ケイはわめき声で言った。
「僕も乾さんが好きっ!!」
「ケイの変態!!」
「変態じゃないよっ!! 僕はさ……僕は……」
「おいおい、泣くなよ」
 そう言ったシゲに、ケイはがばっと抱きついた。シゲはうろたえて目を大きく見開き、山田が言った。
「ケイくんは乾くんに恋をしたの?」
「そうじゃなくて……」
「マミちゃんは乾くんに恋したの?」
「そうじゃないけど……」
 幸生が前に進み出てきた。ビキニは着ていないので安心していると、さっき、このふたりの話を聞いてましてね、と前置きしてから、幸生は言った。
「つまりさ、ケイくんもマミちゃんも、乾さんに憧れたみたいなんですよね。俺にはケイくんの気持ちのほうがわかりやすいから先に言うと、かっこいいな、あんなお兄さんがほしいな、かな。酒巻や俺にもある感情だよ。それがひと目惚れみたいな作用をしたのかもしれないけど、恋じゃないよね、ケイ?」
「恋なんかしないよ。僕は……マミは?」
「恋だったらケイくんと……きゃ、やだ」
 複雑なる思春期の少年少女の感情か。酒巻や幸生みたいな気持ち、と言われれば俺にもわかる。後輩たちが乾を慕うように、ケイも乾に思慕を抱いたのか。男と男でも、ひと目見て好意を持つってのはあるのだろう。山田が言った。
「マミちゃんもそれに近いのかな。自分の気持ちは言い表すのがむずかしいだろうけど、そんなところだよ。乾くん、続きを歌って」
「俺たちも歌ったらいけないか?」
 俺が尋ねると、マミもケイもうなずいたので、乾のキーに合わせて五人で歌った。
 
「ねえ 君は覚えている 夕映えによくにあうあの曲
 だまりこむ 君がいつも 口づさんだね

 今 時は流れて セピアに染まるメロディー OH

 二度と戻れない OH フレンズ
 他人よりも 遠く見えて
 いつも走ってた OH フレンズ
 あの瞳がいとしい

 どこでこわれたの OH フレンズ
 うつむく日は 見つめあって
 指をつないだら OH フレンズ
 時がとまる気がした

 二度ともどれない OH フレンズ
 他人よりも 遠く見えて
 いつも走ってた OH フレンズ
 あの瞳がいとしい」

 いつかはケイとマミも? 歌いながらそんなことも考えていた。
 歌い終えると八人になって泳ぎ、夕暮れの時刻には少年と少女は帰っていった。家は近いと言っていたのだから、送っていかなくても大丈夫だろう。こっちの六人で遠ざかっていくふたりを見ていると、ケイとマミが寄り添って、指と指とがからまり合った。
 昔は俺にもあんなことがあったっけな。少年と少女を見ているとノスタルジックな気分になる。二十五歳をすぎた男の感慨としては、当然だったのだろうか。


5・章

 デビューしてから一年間、仕事はあった。大半が下らない仕事ではあったが、ロックが歌えないんだったらどんな仕事でも同じじゃないか、と思わなくもなく、それでいて、俺たちはシンガーズなんだから、歌える仕事だったらいいのにな、とも思い続けてきた。
 売れているグループだったとしたら、デビュー一周年はどうやって祝うんだろう。一周年記念特別ライヴでもやるのか。俺たちが成功していたとしたら、華やかな美人のゲストが花束を持ってステージに上がってきたりするのだろうか。
 単独ライヴすらやっていないフォレストシンガーズには、一周年記念日の今夜は仕事もない。昼間は仕事があったのだが、昨日、美江子さんが提案して、夜には本橋さんの部屋でパーティだ。
「おめでとう。来年はさらなる飛躍の年になりますように。来年って明日からだね」
 平素はパンツスーツが多い美江子さんは、今夜は女っぽいドレスを着ている。彼女を美人ゲストだと考えておこう。
「今日はサービス。みんなにお酌してあげるからね」
 残暑で汗をかきそうな夜だから、美江子さんが冷えたシャンパンを持ってきて、みんなのグラスに注いでくれた。
「はい、リーダー、乾杯でしょ」
 美江子さんに言われて、本橋さんが立ち上がった。
「来年はさらなる飛躍の年になりますように。乾杯」
「私の盗作じゃないの。みんなぁ、元気出してよ」
 一年間、売れないままにやってきた俺たちは、美江子さんが盛り上げてくれようとしても気勢も上がらない。俺もかんぱーい、と言うだけは言って、グラスの中身を飲み干した。
「ねえねえ、今夜はパーティだよ。どうかしたの? なんでそんなに元気ないの?」
 今夜は幸生までが活力不足なのは、昼間のあれのせいだ。売れなかった一年間の鬱屈のせいだけではなくて、あれも関係している。
 昼間の仕事では美江子さんは現場にはいなかったのだが、五人で東京近郊のスーパーマーケットでのショーに出演した。ウルトラマンか特撮ヒーローのショーだったとしたら、おたくのリーダーは楽しかったのかもしれないが、子供番組の女の子着ぐるみが主役のショーだった。
 子供向けのショーの添え物みたいな感じで俺たちが歌う。デビュー間もないころにもこのスーパーマーケットで、同じポポン&リーナのショーに出演したので、二度目も呼んでもらえた。
 それでも、歌えるだけまだいいとも考えられたのだが、主催者のスーパーマーケットの責任者である女が問題だった。去年の責任者も聞こえよがしに、売れない奴らはね、とか言っていたが、この女ほどではなかった。
「そんな歌、子供には受けないのよね」
 リハーサルを見ていた女が、部下であるらしき男に言っていた。
「だから言ったじゃないの。フォレストシンガーズだとかいう聞いたこともないグループじゃなくて、子供に人気のあるお笑いのグループだとか、アイドルグループだとかを呼べなかったの?」
「予算の都合がありまして」
「知ってるよ。ポポンちゃんとリーナちゃんの出演料だけで、予算は手詰まり。だから、司会はうちの社員がやるんでしょ。予算をちょっとしか出さないで、子供受けのするショーをやれっていう会社もまちがってるよね。だったらさ、こんな無名のグループを使わなくても、歌も社員が歌えばいいんじゃないの?」
「素人よりは彼らのほうがましかと……去年も出してやりましたし……」
 ポポンちゃんとリーナちゃんというのが、着ぐるみの名前だ。子供には我々よりもはるかに知名度が高い。中に入っているのは男なのだが、見た目は可愛い女の子だ。出してやりました、男のその台詞ひとつでも、俺はむかついていた。
「素人でも同じようなものじゃないの? 下手だよね。こんなんが売れるわけもないでしょ」
 侮蔑のまなざしで俺たちを見ている女の声を聞いていて、俺はついに切れた。
「あんたがリハーサルの邪魔をするから、まともに歌えないんだよ。俺たちが下手だって? そしたら、あんたのほうが歌はうまいのか。ここに来て歌えよ」
「あんたたちよりはうまいんじゃないのかな」
 他のなにをけなされるよりも、歌が下手だと言われると腹が立つ。ステージの下で嘲笑を浮かべている女に、俺はもうちょっとでマイクを投げつけるところだった。乾さんが止めなかったらやっていただろう。
「章、やめろ。気が散ったのは事実だけど、どうも本調子じゃないよな。今度はちゃんと歌いますから、聴いてて下さいね」
「それってあんたたちのオリジナル?」
 尋ねた女に、本橋さんが応じた。
「そうです。去年はデビューシングルの「あなたがここにいるだけで」を歌わせてもらいまして、今年は新曲の「もう一度僕の胸に」を歌います」
「去年もそのたぐいの歌を歌ったの? 受けなかったでしょ」
「子供さんたちには受けはよくなかったですね。お母さん方の中には、いい歌だね、と言って下さった方もいましたよ」
 本橋さんにしては穏やかに受け答えはしていたが、腹の中は煮えていたにちがいない。去年の資料ってのはないのかよ、知ってて言ってんのかよ、と俺が思っていると、女はなおも言った。
「で、それだけを歌ったの? 「あなたなんかいないほうがいい」って歌?」
「あなたがここにいるだけで、です。あともう一曲、子供さん向けにアニメソングを歌いましたよ。「可愛いって言ってよね」だったかな。ポポンちゃんとリーナちゃんのテーマソングですね」
「そっちは受けた?」
「子供さんたちは、アニメソングは喜んで下さいました」
「じゃ、決定。今年のステージも二曲でしょ。「可愛いって言ってよね」と、それから、子供に人気のある歌ってなに?」
 部下の男が言った。
「子供たちに流行している歌といえば「星のマーヤ」ですかね。子供たちに大人気のゲームソフトのCMソングに使われています」
「それ、歌ってね。決定」
 勝手に決定した女に、乾さんが言った。
「子供さん向けの歌がよろしいんでしたら、童謡でしたらいかがですか」
「童謡なんて、今どきの子供は好きじゃないよ。あんたってそんなことも知らないの? そんなだから売れないんだよ。あなたたちってデビューしてどのくらい?」
「一年になります」
「一年もたってもそれじゃ、やめたほうがいいんじゃない? やめて田舎に帰ったら?」
 乾さんの目がきらっと光り、本庄さんが乾さんの腕を押さえた。幸生も乾さんの背中でなにか言っていて、本橋さんはこぶしを握り締めていた。
「不満でもあるの? いやなんだったら帰っていいよ。あんたたちのかわりなんて、うちの社員にだってつとまるんだからね。あんたたちが帰るんだったら、彼と私がデュエットやるわ」
「いや、あの、主任……いやいや、きみたち、不満なんか言える立場じゃないだろ。主任の命令を聞けないのか」
 主任も部下も最低人間だ。たいした地位でもあるまいに、俺たちよりは立場が上だからって権限を振りかざす。腹立ちを通り越して俺は泣きたくなり、歯を食いしばっていた。
「わかりました。やろう。完璧にこなしてみせようぜ」
 本橋さんが言い、本庄さんと乾さんはうなずき、幸生が言った。
「俺たち、星のマーヤって知らないんですけど、楽譜はあります?」
「そんなものはあんたたちが用意すべきでしょ」
 てめえは男にでもふられて、ヒステリー状態なのか、と俺は言いたかった。言わなくてよかったと今になれば思うのだが、俺もヒステリー寸前になっていたのだ。
「俺は知ってるよ。楽譜に起こすから待ってろ」
 アニメには造詣の深いリーダーがいてよかった。女は、早くしなさいよ、ぐずぐずしないでよ、と言い通しで、男も女の尻馬に乗っていたが、俺たちは本橋さんが起こした楽譜を前に、パート分けだのコーラスアレンジだのに熱中して、一時的には横槍を締め出せた。
「リーダー、こんな歌にも詳しいんですね」
 幸生が言い、本庄さんも言った。
「本橋さんが知っててくれて、ほっとしましたよ」
「うん。たまたまな。俺はガキの歌なんか知らないんだけど、これは知ってたんだよ。甥っ子が好きだからだな。大きな声で言うな。でないとあの女、あんたたちの知らない歌にしようって言い出すぞ。あいつ、異常性格じゃねえのか」
 こそこそ言いながらも、相談をまとめて歌った。
「ふーん、こんな歌でいいの?」
「いえ、僕も知らないんですけど、本当にその歌? 子供たちはよく知ってるよ。まちがえると野次を飛ばされるよ」
 ステージの下の男女が言い、乾さんは言った。
「まちがえません。ご心配なく」
 急場しのぎと言えなくもなかったが、アニメソング二曲は完璧に歌えたはずだ。俺たちのレパートリーを歌えない仕事では、歌ったことにもなりはしなくて、俺は落ち込んでいた。そんな俺たちに、あの女が帰りがけに言ったのだった。
「まちがってはいなかったみたいだけど、下手だね。下手下手下手。フォレストシンガーズなんて、あなたはここにいなくていいわ、だよね」
「まことにその通りです」
 げらげら笑っている女と男に飛びかかって、首を絞めてやりたかった。けなされるのなんて慣れてはいるが、下手だと言われると許せない気分になる。俺たちの自信は、俺たちは歌だけは誰にも負けない、なのだから。
「下手だって言われたのは、俺が完璧には覚えていなかったせいかもしれませんね。急にだったから……はじめての歌だったから……そんなの言い訳ですけど、すみません。俺のせいです」
 男女が行ってしまうと、本庄さんが言って頭を下げた。乾さんは本庄さんの肩を叩いた。
「おまえはちゃんとこなせてたよ。だけどさ、下手下手言われると……くそっ、俺たちは下手じゃねえよ」
「下手じゃねえよ。だろ、幸生?」
 本橋さんが言い、幸生は言った。
「それだけが俺たちの命綱だもんね。下手だって言われると……なんなの、あのひと? ううう、呪ってやりたい」
 俺だけではなく、みんなして、下手だと言われたのがぐさぐさっと来たのだ。あんな女の台詞は気にしないでおこうと決めたものの、心に重くのしかかっていた。
「今夜は本橋んちでパーティだろ。ミエちゃんには言うな。心配かけたくないだろ。忘れて今夜は楽しくやろう」
 乾さんの台詞にみんなでうなずきはしたけれど、俺は言いたい。美江子さんの意見が聞きたくなってきた。俺は美江子さんをキッチンに連れていった。
「なんで元気がないのかと言うと……」
「なんなの?」
 首から名札だか身分証明だかをぶらさげていたので、名前は読み取れた。けれど、あの女の名前は口にもしたくないので、スーパーマーケットの主任として話すと、美江子さんの額に青筋が立っていった。
「なによっ、それはっ。私がそこにいたら……ううん、いなくてよかった」
「美江子さんがいたらどうしてました?」
「章くんだって本橋くんだって、必死で我慢してたんだよね。仕事なんだものね。あなたたちの我慢を私がぶちこわしにしそうだから、いなくてよかったの。章くん、怒りはわかるよ。とってもとってもよくわかる。売れてないって馬鹿にされるのはまだ仕方ないにしても、あなたたちが下手だなんて、その女は耳がいかれまくってるのよ。音痴なんだ」
「音痴だと耳もいかれてるんですか」
「そんな音痴もいるんだよ、きっと。他人の歌のよさが聞き取れないの。そうだよ、きっと。私は耳音痴じゃないからね。口直しに歌って。みんなで歌って。私がたしかな耳で聴いて、正直な感想を述べてあげる。歌ったら元気が出るよ」
「では、我々のオリジナルを歌います」
 部屋に戻って、俺は言った。
「歌いましょう。美江子さんが聴きたいんですって。リーダーも乾さんも本庄さんも、幸生も、スタンバイOK? 「あなたがここにいるだけで」から「もう一度僕の胸に」までの、フォレストシンガーズメドレーですよ。歌いますよぉ」
 あなたはここにいなくていい、あの女は俺たちの曲名をパロって、笑いものにしやがった。だが、美江子さんは俺たちが歌い終わると、陶酔の表情で言ってくれた。
「あなたたちがここにいるだけで、私の全身は甘い香りに包まれて、胸が感動でいっぱいになるの。もう一度、僕の胸においで、って、愛するひとに言ってもらう以上に、あなたたちの歌を聴いてると幸せだよ。フォレストシンガーズ、アンコール!!」
「ミエちゃん、ありがとう」
 キッチンで俺が話したのだと、たぶん気づいているのであろう乾さんが言い、幸生も言った。
「美江子さーん、僕の胸においで。歌以上のうっとり気分をあげるから。ああん、シゲさんったら、なにすんのよぉ」
 幸生の頭を押しのけて、本庄さんも言った。
「俺も元気が出ました。歌うって俺たちには妙薬ですよね、本橋さん?」
「うん。山田、おまえもけっこう上手に褒めるんだな。詩を書いてみるか」
「詩は書かないけど、私も口は達者だもんね。もっと歌ってよ」
「歌おうか。章にもありがとう」
 乾さんが言って、俺はごほごほっと咳をした。
 俺は時として、乾さんを大嫌いだと思う。美江子さんも嫌いになる。けれど、今夜は好きだ。みんな、俺の仲間なんだ。俺はみんなと歌っていたい。フォレストシンガーズの木村章として成功したい。誰にも侮蔑なんかされないような、売れているシンガーになりたい。
 今夜は昼間の最低女と較べるからそう思うのであって、明日になれば、乾さんなんて大嫌いだよ、あのかっこつけ野郎、となるかもしれない。美江子さんも大嫌いだ、女のくせしやがってよ、となるかもしれない。
 口に出してなんて絶対に言わないけど、今夜だけ、今夜だけは、俺はみんなが好きだよ。みんなも俺を好きだとは……思ってくれているのだろうか。


6・英彦

 人間とは忘れる動物であり、忘れることができるからこそ生きていける。どこかで聞きかじったフレーズが胸をよぎる。
 過去なんて忘れた。いつだったか、俺はどこかの大学生で、どこかで歌を歌っていた。そんな過去はすべて忘れて、俺は茨城県の一サラリーマンになった。妻も娘もいて、世界一の幸せ者だ。妻は美人で料理がうまく、娘は愛らしくて、寝顔を見れば一日の疲れが吹っ飛ぶ。
 平凡な幸せを噛みしめて、今日も俺は生きていく。世の中には失業して家族に捨てられて、ホームレスになる男だっているのだから、仕事も家庭もある俺が幸せではないと言ったら、お天道さまのバチが当たるってもんやきに。
「失礼ですけど、課長はおいくつなんですか」
 妻の恵の父親の会社「柳本水産」の総務課長待遇。二十四歳の男としては破格の出世だ。出勤した俺にお茶を出してくれた部下の女の子に、俺は言った。
「年は忘れましたよ」
「そうですか。すみません」
 愛想笑いを浮かべて、女の子は引っ込んでいく。かつての俺はお喋りで、落ち着きのない乱暴者だったはず。いつからこうやって、女の子に敬遠される課長なんてものになったのだろうか。
 誰だったか、俺に言っていた。おまえだけだよ、口で幸生と対等に張り合えるのは、と。そう言ったのは誰だったのか。幸生って誰だったのか。いつの間に俺は大学を卒業して、歌わなくなって、茨城県の住人になったのか。
 いつの間に俺は結婚して、子持ちになったのか。いつの間に柳本水産の総務課長になったのか。誰かの陰謀だったような気もするのだが、思い出さなくてもいいのだろう。俺は事実、そうなっているのだから。
 仕事もできると言われているのは、柳本水産の社長の娘婿だからだろうか。俺は小笠原英彦だから、柳本家の婿養子になったのではないはずだが、実質は同じだ。妻の父親が買ってくれたマンションに住み、妻の父親の会社で働いている。
 午前中の仕事をすませると、俺はひとりで社から出た。妻が持たせてくれた弁当をどこで食べようか。たまにはうまいものを食いたいけれど……恵は料理が上手なんだから、うまいだろ、弁当は。うん、そうだよな。
 昔、料理の得意な女の先輩がいたっけな。名前は忘れたけど、気性のしっかりした強いひとで、俺は彼女によく発破をかけられた。ヒデくんはひとこと多いんだから、と叱られたりもした。
 ヒデか。恵も昔は俺をそう呼んでいたが、子供が生まれてからはパパとしか呼ばなくなった。夫婦である前に、娘の父と母か。それが普通なのだろう。俺の生活はすべてが普通だ。普通すぎるからこそ幸せなのだろう。
 冬の戸外は寒いので、弁当を食う場所も見つからない。立ち止まると寒気がしみるから、俺はただただ歩き続けている。
 俺に性格の似た、短気で荒っぽい男の先輩もいた。彼の名前も忘れたけれど、いつかどこかでふたりして、どこかの男たちと乱闘したっけな。彼と俺が口喧嘩をして、躍起になって止めていた男もいた。あいつの名前も忘れた。
 説教好きな男の先輩もいた。彼の名前ももちろん忘れたけれど、彼と俺の性格はちっとも似ていなくて、こんな性格の男に生まれたら、どんな人生を送るんだろう、と不思議に感じていた。
 ひょうきんで可愛げもあって、そのくせ、性根はすわっていた後輩もいた。ヒデさん、ヒデさん、と俺を呼んでなついてくれた、小柄なあいつの名前はなんと言ったか。みんな、元気でいるのだろうか。
 俺が脱退してしまって、あの歌のグループはどうしたのだろう。解散してしまったかもしれない。別のメンバーを加えて、プロになるんだ、なんて馬鹿げた夢を追っかけて、疲れ果ててしまっているのかもしれない。
 どっちが嬉しいんだろうな、俺は。俺がいなくなったから、なんとかいうグループも消滅してしまったほうがいいのか。そのほうが俺としては、安らかな気持ちになれるのか。というよりも、俺には関係ないじゃん。
 関係ないじゃん、なんて言ってた奴、スカボーイだなんて言ってた奴も、大学は卒業してサラリーマンになったか? おまえにはサラリーマン稼業はつらいだろ? 下らない軽口を叩きすぎて、クビにならないようにしろよ。
 他のみんなもおそらくは、サラリーマンだかなんだかになっているのだろう。歌なんて捨ててしまったのだろう。それが普通の人生なのだから。
 まったく俺には関係ないってのに、寒いせいでつまらない思い出ばかりが浮かぶのだろう。メシも食わずに埒もない考えに耽っているうちに、昼休みがすぎていこうとしている。下らなすぎる考えのせいで食欲が失せてしまった。
「ごめんな」
 目についたゴミ箱に、弁当箱の中身を捨ててから、俺は恵に詫びた。こうしてつまらない思い出なんてものも、一緒に捨てたつもりになっていた。


7・美江子

 最近になってようやく、私はフォレストシンガーズ専属マネージャーに近くなってきた。当初は社長が修行をさせると言って、他のミュージシャンのマネージメントも担当しては、大失敗をしたりもしていたのだが、これでやっと、半人前程度にはなれたはずだ。
 二十六歳になった春。フォレストシンガーズデビューから一年半。まだ完全にフォレストシンガーズ専属ではないが、近づいてきているだけでも私はハッピィだった。
「山田さん、いたの?」
 事務所にいる私に声をかけてきたのは、我がオフィス・ヤマザキではトップスターの、杉内ニーナさんだ。新米時代から私になにくれとなく教えてくれた、母に近い年頃であろう、グラマラスな美女である。
「社長はいない?」
「今日は仕事で遅くなるかもしれないし、直帰になるかもしれないから、事務所を閉めて先に帰るように言われてます」
「そう。社長もがんばってるね。そしたら、山田さんは私と食事してから帰らない?」
「はい、嬉しいです」
「デートはないの?」
「ありません。ニーナさんは?」
「私はいいんだけど、山田さんは若いのに、男体験はたくさーんしなくちゃ駄目よ」
「たくさーん、ですか。ニーナさんはたくさーんなさったんですか」
「まあまあだね」
 淡いピンクのスプリングコートを着たニーナさんと、連れ立って事務所から出た。ニーナさんがタクシーを止め、運転手に告げた店の名は「アームストロング」。なんの店かも知らないままに、タクシーを降りて入っていったのは……うわっ、であった。
「ニーナさん、ここ、ホストクラブですか」
「そうよ。嫌い?」
「嫌いというよりも、はじめて来たものですから」
「私がついてるんだから平気でしょ。怖くなんかないからね」
「はい」
 ホストクラブなんて初体験だが、印象としては、目にも綾なる美青年が群れを成して、だったのだが、ところが、私たちの席についてくれた青年には、美がつくとは言いがたかった。
「あなたってホスト?」
「そうですよ。レオンっていいます。あなたのお名前は?」
「美江子。あのね、ニーナさん?」
「そっちはそっちでやっててね。私は彼と楽しくやるから」
 つめたくあしらわれたので、私はレオンに向き直った。
「ニーナさんについてる男のひとは、青年じゃないよね」
「うちには中年もいるんですよ。ニーナさんは若くはないから、ホストも若くないほうがいいんですって。そうおっしゃるお客さまもいますんで、美少年から美老人まで取り揃えてあります」
「老人もいるの?」
「初老だったらいますね」
「へええ」
 ちらちらとよそのテーブルを見やると、綺麗な青年もいる。が、レオンは……言ってはいけないだろうから、私は彼が作ってくれた水割りを飲んだ。
「ニーナさんは常連さん?」
「常連さんでもないんですけど、時々は来て下さいます。深入りはなさらないみたいですね」
「そうなんだね」
「美江子さん、ニーナさんの話しばっかりしないで。僕はあなたを美江子さんと呼べばいいの? 美江子ちゃん? 美江子?」
「美江子さんでいいです」
 ニーナさんは中年ホストとフロアに出ていって踊っている。ムードミュージックが流れていて、私は居心地が悪かった。
「美江子さんのお仕事、聞いてもいい?」
「ニーナさんの仕事は知ってるの?」
「お金持ちの奥さまでしょ」
 そう言ってあるのならば、そうしておこう。
「私の仕事はなんだと思う?」
「そうだなぁ。OLさんって感じでもないけど、主婦でもなさそうだね。一流商社かなんかで働く、一流大学卒のキャリアウーマン?」
「三流大学卒の三流ウーマンです」
「やだ。ご謙遜」
 金持主婦のニーナさんの連れは、なんの職業がふさわしいのか? 思いつかない。レオンも突っ込んで尋ねようとしなかったので、それ以上言うのはやめておいた。
 しかし、ホストと客はどんな会話をするのがふさわしいのか。ホストクラブに連れてこられるとは意表をついていたので、心の準備もできていない。レオンが美青年だったとしたら、綺麗な顔を鑑賞していればいいのだろうが、この顔は見ていて気持ちよくもならない。
 私が無口でいると、彼も会話に困るのか、ほとんど飲んでいない水割りを新しくしたり、果物を取ってくれたりして、居心地がよくなさそうだ。
「お客さんとはどんな話をするの?」
「他のお客さんは他のお客さん。美江子さんは美江子さんのしたい話をして」
「そうだよね。でも、話題がないの」
「じゃあ、踊りましょうか」
「ダンスは苦手」
「ニーナさんはお上手だよね」
 見ると、ニーナさんは優雅にフロアをすべるようにして踊っている。ニーナさんはステージでダンスも披露するのだから、お上手なのは当然なのだが、言うわけにはいかない。困った。
「ニーナさんがごはんを食べにいこうって……そのつもりだったのに」
「そしたら、ごはんにします?」
 メニューを出されて覗いてみたら、料理にもお酒にも値段が書いていない。こんな店はさぞかしお高いのだろうと思うと、迂闊に注文もできなくなってしまった。
「美江子さんって可愛いね」
「どういう意味?」
「どういう意味っていうか、可愛いからそう言ったんだよ。気を悪くした? ごめんなさい」
「可愛いってのは、女に対する褒め言葉になるとは限らないんですよ」
「そうですか。ごめんなさい」
 なにを言われようとも、客にはさからわないのがポリシーか。見上げた心がけではある。私はいつしか、お客に対する接客業の心得を学ぶつもりになっていた。
 シンガーズも接客業と似通った部分はある。ファンの方々に媚びるばかりではいけないのだろうが、歌ってお客さまたちに気持ちよくなってもらうのは、大切な心得だ。もうじきフォレストシンガーズ初のワンマンライヴがあるので、参考にならないかと思って、レオンと話した。
「あなたたちって、お客さんに無理を言われても怒らないの?」
「怒ってたら僕らの仕事はできませんよ」
「無茶を言うひとはいない?」
「いるけど、受け流すのも必要だね」
「プロ根性に徹してるのね」
「もちろん。僕はホストのプロだよ」
 年齢は私と同じくらいか。にも関わらずホストの年季が入っているのか。熱心にプロ根性について話し込んでいると、ニーナさんが戻ってきた。
「ここではごはんを食べるっていってもね、ストレス解消はできたから、美江子ちゃん、出ましょうか」
「ニーナさん、もうお帰りですか」
 レオンは残念そうに言い、中年ホストも言った。
「またのご来店を心よりお待ち申しております。ニーナさん、そちらの美しいお嬢さんも、お気をつけてお帰りになって下さいね」
 中年ホストも美貌とは言えない顔立ちではあるが、美声だった。甘い美声に送られて外に出ると、ニーナさんは言った。
「レオンとなんの話をしてたの?」
 なんの話をしていたのかを口にすると、ニーナさんはくすくす笑い出した。
「山田さんもプロのマネージャーになってきたね。見上げた心がけだわ」
「褒めて下さってます?」
「褒めてはいるんだけど、ホストクラブでそんな話って、レオンは面食らっただろうね。この女、何者だ? よそのホストクラブの回し者で、スパイに来たんじゃないのか、って」
「そうなりますか」
「なるかもね」
「いけませんでした?」
「いいんじゃないの? そうすると、山田さんにはなかなか有意義なひとときだった?」
「はい、ありがとうございました。社会勉強もできました」
 なぜだかほっと息を漏らして、ニーナさんは言った。
「山田さんって根っから真面目な女? そうは思えなかったんだけど、私が見誤っていたのかしら」
「私は真面目です」
「真面目な顔をして、私は真面目ですって、真面目な女が言う?」
「真面目だから真面目だと言ってるんです」
「はいはい、わかったわよ。ごはんに行こうか。なにを食べたい?」
「ニーナさんさえよろしかったら、天ぷらだったら嬉しいな」
「うん、だから私は、あなたが好きよ」
 ほっぺたにちゅっとされたので、お返しにキスしてあげた。
 私の台詞のどこが、ニーナさんのお気に召したのかは不明だが、嫌われるよりはいいだろう。嫌いな女に好きだと言うほどに、ニーナさんは皮肉屋でもなく屈折してもいないはず。私も深く考えるのはやめよう。
 今夜はニーナさんにごちそうしてもらえるのだろうから、高級天ぷらかな、おいしそう、と思うと、口の中に唾液が湧いてきそうだった。揚げ物は太るけれど、そんなことは忘れて、女同士のお喋りも、おいしい天ぷらも、おなかいーっぱい食べようっと。

未完
第五部に続く
 

 

 
 

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おはようございます!あかねさんのお仕事までもう少し日がありますね。調子はどうですか?

今日は二日かけてここまで読ませていただきました。
おとといの夜に半分ほど読んでたのですが・・・今朝続きを読ませて頂きました^^
早く追いつきたいと思ってるのですが、なかなか。

今回は海のシーンも出てきましたね。私も海のシーンは大好きです。美江子さんのほっそりした体型もわかり・・・うらやましいなあ・・と。
それからホストクラブも興味深かったです。

続きを楽しみにしていますね♪

嬉しいでーす

ほんとにいつもありがとうございます。
仕事まではあと一週間ほどありますから、今のうちに書こうと思うのですが、焦ると書けませんね。

美月さんの小説も読ませてもらい、感想を書いてはいるのですが、他のみなさんのように上手な言い回しが書けなくて、俗っぽくってすみません。

ホストクラブなんて私は行ったことはないのですよ。
小説で読んだのをぱくったりしているわけですが、こんなのでいいのでしょうか?
自分に経験のないことを書くときって、そういうのもありません?

私も

ホストクラブ行ったことないです(笑)
もっとも縁のない世界かなと・・・。

あります、あります。
そんなんばっかりですよー。想像です。
面白いし、伝わってますよ。大丈夫。

安心しました

今度一度、取材のためにホストクラブにご一緒。。。
そんなお金、ありませんしね。
想像でがんばりましょうねv-275
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