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小説18(公園にてⅢ)

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フォレストシンガーズストーリィ・18

「公園にてⅢ」

1

 東北地方で雪まみれになる仕事だというわけで、雪には慣れている乾さんと章が、事務所の社長からテレビ出演を仰せつかった。俺はユキちゃんなんだけど、漢字の「雪」にはなじみがないので、美江子さん、本橋さん、シゲさんと四人で東京で留守番だ。もちろんテレビは気になるので、四人で観賞していた。
 身長は高くもないが、横幅は十二分にあるジャパンダックスのシブとゴン、横幅はあんまりないけど、背丈は出演メンバーのうちではもっとも高い乾さん、背丈も横幅もない章、が画面に登場し、順番に視聴者に挨拶をした。他の三人は微笑をたたえていたのだが、その時点で章は渋面、その上にがちんごちんになっているふうに見えた。
 バラエティ番組などというものは、意味もないドタバタをやって視聴者を笑わせてこそ命、なのであろうか。番組の趣向は、雪道を四人の男が走り回り、逃げ回る鳥をつかまえる、それだけである。
「なんなんだよ、テレビに映ってるのは乾ばかりじゃないか。章はどうした、シブとゴンはなにをやってるんだ」
 最初はカメラが乾さんひとりを追いかけていた。乾さんは飛べない鳥をひょいひょいととらえては次々に籠に放り込む。鮮やかな手際に俺は拍手していたのだが、本橋さんは早くも怒りかけていた。たしかに、今回の出演者は四人のはずだ。他の奴らはどこでなにをしてる? 俺も画面に向かって言ってみた。
「こらー、章、出てこーい。あれ? 出てきたみたい」
 乾さんが映っている分には、お見事、ですんでいたのだが、カメラが切り替わると、章とゴンが取っ組み合いをやっていた。
「……なにやってんだ、あいつらは。仕事中になにをしてるんだ」
「リーダー、テレビ見て怒ってちゃ精神衛生によくありませんよ。こういう番組は楽しむためにあるんですから」
「無関係な視聴者だったら無責任に笑ってられるんだろうけど、俺たちは半分当事者だろうが」
 そりゃそうだけどね、だったら俺も怒らないといけないのかな、と思っていると、シゲさんが画面を指さした。
「……あれはなんだ?」
「ピンクのハート」
「それはわかってますよ、美江子さん。なんでここにそんなものが出てくるんですか」
「男同士で甘いムードになってるっていうのか、そんなふうに見えるっていうのか、そういうシーンだとたまに出てくるよ。男同士の妖しい関係を喜ぶ女性はけっこういるみたい」
「……あれのどこが妖しいんですか」
 シゲさんは焦っていて、美江子さんは笑っている。章とゴンの取っ組み合いからまたまたシーンが変わって、乾さんもそちらに登場していた。乾さんとゴンを囲んで、手書きのピンクのハートがゆらゆらしている。ふむ、こういう演出をするんだな、と俺は納得し、協力してあげることにした。
「ゴン、俺は前からおまえを……わかってたんだろ?」
 ぎょぎょぎょっ、って感じの本橋さんとシゲさんに注視されたのだが、俺はかまわず続けた。
「俺はおまえとこうなれる日を夢見てたんだよ、ゴン、キスして……駄目だよ、乾くん、俺には……俺には……禁断の恋は……そんな……乾くん……俺もきみが……ああ、ゴン、愛してるよ」
 我ながら画面とぴったりのアテレコになった。現実では乾さんが雪に足を取られて何度も何度もひっくり返り、何度も何度もシブとゴンを巻き込んで雪煙を立て、ついでにだか自然にだか、シブやゴンを蹴飛ばしたりころばせたり……と見えていた。曇りなき目で見たらそうなのだろうけど、別の見方もできるではないか。
「やめろ」
 かなり本気で怒り出した本橋さんの拳骨が飛んできて、俺は言った。
「だって、ピンクのハートが飛んでるのはそういう意味だからでしょ? どうせやるんだったら究極のラヴシーンにすればいいんだよ」
 ラヴシーンだぁ? 馬鹿野郎、やめろっ、と本橋さんは完璧に本気で怒り、シゲさんも憤怒の形相で言った。
「これのどこがラヴシーンだ。おまえの頭の中はどうなってんだよ」
「身の毛もよだつ冬の怪談、ってほう? シブやゴンを知ってる当方としましては、そっちのほうがまっとうな感想かもね。いや、だからこそですよ。気持ち悪いシーンを俺のこの美声で美しい愛の交歓シーンにと……」
「やめろと言ってるだろ。蹴り倒すぞ」
「そうだ、本橋さんの言う通りだ。やめないと投げ飛ばすぞ」
「……もう、ふたりとも真面目すぎ」
 先輩たちは怒っているが、美江子さんは笑っている。くっくっくっくっ、が、本気の爆笑になりつつあった。
「美江子さんはテレビの楽しみ方を知ってますよね。怒ってちゃ駄目、笑わなくちゃ。はい、リーダーもシゲさんも笑って笑って。角度を変えて見ればこのシーンはこうとも受け取れる。ゴンとラヴシーンを演じていた乾さんのそばにやってきたシブが、潤んだ瞳で乾さんを見上げて、こう言うんですよね。俺だって乾くんが好きなんだよ、だからこそなんだよ、ああやっていやがらせをしたのは、乾くんに見つめてほしかったから……はい、わかりました、やめます」
 ぎろぎろっと先輩ふたりに睨まれて、ちぇ、ここからがいいとこなのに、といじけていると、どうにかこうにか笑いを止めた美江子さんが言った。
「本橋くんもシゲくんも、そんなにかっかしないの。ね、幸生くん?」
「はい、美江子さんのおっしゃる通りです。なになに?」
 言ったら本橋くんとシゲくんがもっと怒りそうだけどなぁ、でも、言っちゃお、ともったいぶってから、美江子さんは言った。
「絵的にはジャパンダックスの彼らよりも、乾くんと章くんのほうがよくない?」
 数秒の間、空気を静寂が支配した。本橋さんは頭を抱え、シゲさんは立ち上がって逃亡し、美江子さんはシゲさんのうしろ姿を目で追っている。俺としても言葉がなかったのだが、なんとか声を出した。
「美江子さーん、それはリアリティありすぎるからやめましょうよ」
「乾くんと章くんのラヴシーンにはリアリティがあるの?」
「ないっ!! そんなもんはない!! 幸生、この大馬鹿野郎、くそ馬鹿野郎、そこへ直れ」
「リーダーったらぁ、反応が激烈すぎますよ。冗談だってばっ!!」
「おまえの身体が冗談でできてるのは知ってるよ。しかし、俺の頭が破裂しそうな冗談を言うな」
「わかりましたからぁ」
 ふーむ、そういうのは本橋さんとシゲさんは大嫌いなんだな、と俺が頭にその事実をインプットしていると、美江子さんがくすくす笑いながら言った。
「そんなに怒るのは……やめよう。これ以上言うと幸生くんが投げ飛ばされる恐れがあるよね。では、真面目な話。だけど、これってほんとはなにやってんの?」
「報復かもな」
 俺が黙ったせいなのか、そこに思い当たったせいなのか、本橋さんはにやりとした。ラヴシーンだと怒るけど、報復となると笑う、本橋さんらしいと言うべきか。画面は昼食シーンに変わっていて、男たちが煙に咳き込みつつ焼き鳥をこしらえていた。
「幸生、おまえが変な声を出すから、真相がなんなのかわからないままになっちまったじゃないか。録画はしたのか」
「あ、忘れてた」
「……忘れてた? 乾と章に見せてやれないじゃないか」
「うえーん、ごめんなさい。ユキちゃんの大失敗でしたっ。テレビ局にお願いしにいってきます。録画したのを借りてきますから、リーダー、許して」
「そこまでしなくていいんだよ。まったくおまえは、そうやってなんでもかんでもごまかしやがって……」
 その日のうちに帰ってきた章は、そんなもん、録画なんかしなくていいよ、忘れてくれてラッキーだったよ、と言い、乾さんも言った。
「只中にいるほうがまだしもだよ。録画なんか見たくもない。幸生、よくやった」
「はあ、そんなふうに褒められるとは想定外でしたよ。見て、ここ。リーダーったらさ……俺の美声によるアテレコで怒って、ぼかぼかやるからたんこぶができちゃったよ」
「おまえが美声だというのは認めてもいいけど、どれ、見せてみろ」
 頭を差し出したら、乾さんにまで殴られた。
「たんこぶの上にたんこぶができるよぉ。ひどーい」
「どんなアテレコをやってたのかは章に聞いた。繰り返すな。二度と聞きたくないぞ。言うなと言ってるんだ。言うと……わかってるんだろうな。たんこぶが一メートルほどの高さになる覚悟でだったら言え」
「言いませんよ。乾さんったら……章、俺はなんでこんなにみんなに怒られなくちゃいけないんだろうな」
「当たり前だ。馬鹿だからだ」
 暴力的な先輩がそろってて、俺たちって蹂躙されっぱなしだよな、と言うと、章は再び、おまえが馬鹿だからだ、と言い捨てた。乾さんのは怒ってみせてるにすぎないと俺は思えるのだが、章はよく言うのである。
「わかってるよ、俺がこんなだからだよな。俺ってリーダーにも乾さんにも怒られてばっかりだ。おまえも怒られてはいるけど、次元がちがうじゃないか」
 そう、章が怒られてばかりいるのは事実で、その原因を作るのが章本人だというのも事実だ。俺にしたって先輩たちには、馬鹿野郎、いい加減にしろ、うるさい、黙れ、なんて四六時中言われてはいるけど、それは章が叱り飛ばされるのとはちがっているというのも事実なのだろう。章にも自覚はあるのに、性格なんてものはどうにもならないのであるらしい。
 北海道生まれのくせして寒さに弱く、身体も丈夫ではない章は、雪の中であぱれ回って風邪を引き、数日寝込んでいた。風邪が治ったと思ったら、押しかけ彼女だか押しかけ友達だかの女の子と大喧嘩をやらかして、本橋さん以上の強烈なパンチを食らったのだと、公園で俺に打ち明けた。
 鼻っ柱にどっかーんと一発であったらしい。自信過剰の鼻っ柱は折られてもいいのかもしれないが、章は自信過剰どころか、些細なことで自信喪失しては落ち込む奴だ。鼻の骨が折れなかったのは僥倖だったではないか。弱いボクサーみたいな顔にならなくてよかったな、章のとりえはその綺麗な顔なんだから、と言ったらすねるだろうから言わなかったけど。
 ロックバンド時代からの章のファンだった悦子、えっちゃんの話をしたあとで、章は言った。
「ほんっとにおまえの口はよく回るよな。俺も口は回るほうだと思うんだけど、おまえとは別方向に回って、人を怒らせてばっかりだ。おまえは和ませるだろ。そっちのほうがほんのすこしはいいよな」
「ほんのすこしか……そうだよな。俺がこうやって喋りまくると、本橋さんやシゲさんは怒るけど、怒るほうがまちがってるんだよ。だろ?」
「深刻ななにかで怒ってるのが、おまえの馬鹿台詞に怒るほうに方向転換するんじゃないか。うらやましいよ」
「俺がうらやましい? ほおお、章、おまえもすこしずつわかってきたね」
「わかりたくねえよっ」
 うらやましいだなんてよく言ってくれるよな。綺麗な顔……章のとりえはそればかりではなくて、その特異なまでに高い声も、鍛錬すれば素晴らしい才能が花開くであろう作曲の手腕にしても、俺にはおまえがうらやましい。俺は幼稚な歌詞を書いてるのが関の山で、素晴らしい才能には手が届かないのだから。
 だけどさ、俺はおまえみたいな美形じゃないけど、おまえよりは都会的だからね。口だっておまえ以上に達者だし、ユキちゃんは可愛いね、って言ってくれる女の子もいるんだよ。男が可愛いなんて言われて喜ぶな、ってリーダーは言うけど、可愛いのは美点ではないか。軽侮がまじっているのだとしても、可愛いと言われたら褒められているのだと考えることにしている。
 すっかり冬景色になった公園に、今夜はひとりでやってきた。えっちゃんの話を聞いたのもここ。過去も現在も、ここではいろんないろんな出来事があった。
 大学時代には一年きりで、章は俺の前から消えてしまった。あのころは合唱部の仲間としてつきあっていて、そう深い関わりはなかったから、章の心の底までは見えはしなかった。章と再会してフォレストシンガーズに引っ張り込んで、プロとしてデビューして……再会してからの日々にも、章と俺にはさまざまな事件があった。そうして章の人となりが、次第に見えてきた。
 完全な形では見えていないのかもしれない。人間は一面だけでは計り知れない存在だと、わかったような台詞を呟いて、俺はつい最近のできごとを思い出していた。
 
 
 うしろ向きの章の肩が震えていた。泣いてるのか? なぜ? 女にふられたからって人前で泣いたりしないよな? なにか歌ってやろうか。ふざけた歌で章の気をまぎらわせて怒らせてやろうか。そう考えたのだが、歌が浮かばない。俺が当惑しているうちに、章はスタジオから飛び出していってしまった。
「乾さん、なにかあったのかな、章」
「だろうね。なにもないのに章だって泣かないだろ」
「やっぱ泣いてました?」
「そのようだった」
 感情の起伏がやたらに激しい章は、怒りも落ち込みも人一倍だ。スタジオには乾さんと俺がいて、章が出ていったドアを見ていた。
「悔し涙かなぁ。悲しいのかな。ひとってさまざまなことで泣きますよね」
「おまえは泣いたことはあるのか」
「ないよん」
 しらばっくれてみたけど、乾さんには泣き顔を見られた記憶がある。そのときには本橋さんもそばにいた。俺は感情ではなく理性に生きる男であるつもりだが、そう言ったらみんなに爆笑される恐れがある。章だったら言うだろう。
「おまえのどこに理性があるんだ。本能で生きてんだろ、おまえは」
「食欲、睡眠欲、性欲……人並みには本能はあるけど、理性で煩悩を押さえ込む術も知ってるよ」
「煩悩を振り払う百八つの鐘の音……大晦日の寺の鐘」
「なに言ってんだ、てめえは」
「彼女と初詣に行きたいな」
「話をそらすな」
 架空の会話は俺の癖である。ひとりでいるときも脳裏で仲間たちと会話をしている。乾さんがなにか言ったので章の声を締め出した。
「乾さん、話をそらしちゃいや」
「は? そらしてないじゃないか。ひとの話を聞いてないのはおまえだろ」
「ぼーんじゃなくてごーんか。大晦日の寺の鐘、音はシゲさんの声でやるとよさそうですね。人間の悲しき煩悩を払うんだな。乾さん、一年の煩悩を払うために、大晦日の夜から初詣に行きましょうよ」
「大晦日の鐘の音? シゲの声? どこからそういう発想になるんだよ」
「和服美女とがいい? 華やかな振袖姿の可愛い女の子か。俺もそっちがいいなぁ。幸生くん、帯がほどけかかってるの。どうしたらいい? えー、俺、帯なんか知らないよ。ほどけかかってるんだったらほどいちゃおう。行こ行こ、ってね。きゃあ、いやらしい」
「……」
 呆れ顔の乾さんが黙り込み、俺の脳裏に妄想がふくらんできた。帯がほどけかかって困っている可愛い女の子は誰? 顔を見ようとしたら章だった。
「……げげーっ!! おまえはなんだって女装をしてるんだっ。それはロッカーのコスプレじゃないだろっ」
「幸生、気はたしかか?」
「はっ、はい、たしかです」
 頭の中で妄想したり、架空の会話をやってるだけならいいけど、現実を侵食すると危険な奴になってしまう。気をつけないと電波系ってやつになりかねない俺かも、と考えて、俺は乾さんに向き直った。
「章はほっといていいんですか」
「おまえもほっといて大丈夫か」
「……俺は大丈夫。毎度の癖ですから。女装の章は追っ払ったし、電波も追い払えました」
「女装の章……電波……おまえにはついていけないよ」
「ついていけるでしょ。おたくったら本橋さんじゃないですか。あのリーダーと長年つきあってる乾さんなんだから、俺ごときは可愛いもんでしょ? ごろごろにゃんにゃん、可愛いユキちゃん」
 それから数日たって、俺は章に問いかけた。その日も章は落ち込んでいて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「あれはなんだったんだ? ほとぼりは冷めただろ。言え」
「なんの話しだよ」
「今もそうらしいけど、この間、ここで泣いてたじゃないか」
「……泣いてないぞ」
「今は泣いてないのかもしれないけど、二、三日前のあれだよ」
「どれだよ?」
 近いうちに函館でショーがある。そのリハーサルをやってからスタジオに戻り、先輩たちは先に帰宅した。俺と章はスタジオに残っている。落ち込み気分になって章がべそをかいていたのは、あれしか考えられない。五人が順番にソロパートを歌い、五番目の章のパートに他の四人がコーラスをかぶせる形の歌だった。章がそこで絶句し、本橋さんの叱声が飛んだ。
「章、ぼーっとしてなにを考えてるんだ」
「あ……歌詞が……ど忘れして……だけど、今はやり直しがきくでしょ? そんな怖い顔しなくても……」
「リハーサルでぶったるんでても、本番になったらしゃんとするってのか? なめてるんじゃないぞ、章」
「なめてませんよ、たるんでませんよ。人間なんだから誰にだってまちがいは……リーダーだって乾さんだって本庄さんだってまちがえたことは……んん? あったっけ?」
 なぜか先輩たちは、章や俺のような失敗をしでかさない。歌詞が飛んで頭が真っ白、という経験は章や俺にはあるのだが、本橋さんもシゲさんも乾さんも、断じてそういうことはないのである。ない、と思い当たったらしき章は、俺に救いを求めた。
「幸生、おまえはあるよな」
「あるよ。俺にもあるってのはおまえの心を軽くするわけ? おまえや俺は先輩たちみたく超人じゃないもんな。凡人だもんな。まちがえるのは人間としては当然なんだけど、まちがえちゃった、きゃはは、ですむほど世の中甘くない。はい、リーダー、反省してます。そのせつもあのせつもすみませんでした」
「おまえにゃかなわないよ」
 苦笑いの本橋さんが、最初からもう一度、と言い、その場はそれですんだ。が、章はこだわっていた。
「後悔してたんだよ」
「なにを?」
「こまかいところまでは覚えてないけど、今日もだったもんな。あんな怖い顔して、たるんでる、ってさ」
 こまかいところは覚えていない、なんてのは嘘だろう。忘れるほどの日はたっていない。だが、今日の一幕が数日前のべそかきにつながったのは、章も俺も同様だったようだ。
「泣いてはいないんだよ。ただ、思い出すとまぶたが……」
「熱くなってきた、とね。それでべそかいてたのか。おまえ、いくつだ。ガキでもなければ爺ぃでもねえだろ。いちいち泣くな。んでさ、あれはそれ?」
「あれはそれのあれはこれの……禅問答かよ。だからさ、おまえの言いたいあれのときは、本橋さんにがんがん怒鳴られて、頭に来て手を出しそうになって……」
「おまえが?」
「そう、俺が」
 なんとまあ、前代未聞ではなかろうか。非武装中立平和がいちばん、のシゲさん、売られた喧嘩は買う、の主義のリーダーと、このふたりは両極端なのだが、乾さんと俺はシゲさん寄りだ。章はどっちつかずの中途半端な奴だが、なにしろひ弱なので暴力は嫌いなはずだ。因縁をつけられて殴られても殴り返さない。返さないのではなくて返せない。俺も章を笑える義理ではないのだが、章ほどではない。いざとなれば口で勝負できる、つもりだけど……暴力沙汰はあんまり経験ないし。
 口は章も達者なほうなのだが、その方面も乾さんや俺ほどではなく、なににつけても中途半端な男なのである。そのくせ反抗心は強いので始末に悪い。反抗心をこぶしに込めるタイプではない章が、本橋さんを殴りそうになった? びっくり仰天だった。
「殴ったの?」
「殴れるわけないだろ、俺が」
「だよな。ああ、びっくりした」
 びっくり仰天も中途半端になるのが章の章たる所以か。ただし、章はもうひとつ、俺を驚かせるエピソードを口にした。
「リーダーに怒られたの発端はたいしたことじゃないんだ。俺のガキっぽいつっぱりが原因ってのかな。でな、俺、本橋さんと睨み合ってたんだ。本橋さんはなにも言わなくなって、俺の手を見てた。目はなにか言いたそうだったよ。殴りたいんだったら殴ってみろ、だったのかな。できるもんならやってみろ、だったのかな。おまえなんかに俺が殴れるか、だったのかな。一度ぐらい殴られてやってもいいぞ、だったのかな。俺に手を上げてただですむとでも思ってんのか、だったのかな」
 想像力だけは豊かな章だから、あれこれ考えて動けなくなったのだろう。そこは章らしいと言える。
「そうやって本橋さんとふたりして、固まってたんだ。俺の耳元で嵐が吹き荒れてる気分だった。だから気がつかなかったんだけど、いつの間にかそばに乾さんがいたんだよ。出しはしたけど動かせない。引っ込みもつかない。そんな俺のげんこつをいきなり取って、乾さんが俺の頭にぶち当てた。それで呪縛がとけたっての? 俺はその場から走り出した。それからうだうだ考えてた。悪いのは俺なのに、なんで潔くあやまりもできなかったんだろ、ってうじうじしてたんだよ」
「……つまりなにか? 乾さんは知ってたのか」
「俺がなんであんなだったか? 知ってたに決まってんだろ」
 嗚呼、と嘆息するしかない。乾さんは役者が一枚も二枚も上手だってのか。知ってはいたけど改めて愕然とした。だから乾さんって嫌い、と言ってみると、今泣いたカラスが笑ったってでんで、章はにやにや笑いを浮かべた。
「おまえにはないんだよな」
「……ないって?」
「リーダーや本庄さんや、特に乾さんに、俺が怒られるような次元で怒られたことはないだろって言ってんだよ」
「時限爆弾が破裂しそうな勢いで怒られたこと……か」
 うん、ない、と言ったら、そうだろうな、と章は言ったけれど、実はある。話そうか、やめておこうか、迷ったあげくに話さなかったけど、俺にも乾さんにこっぴどく叱りつけられた経験はある。いつだったか本橋さんに話したのとは別の、本当の話があるのだけど……


2

 大学には合唱部以外にも友達が大勢いて、悲しい記憶もあったのだが、おおむね楽しい日々を送っていた。三年生になったある日、ゼミではいちばん仲の良かった中西に誘われて、「ディスコ」と名づけるにふさわしいレトロな店に遊びにいった。女の子も男の子もごちゃごちゃになって飲んで踊って、心地よく疲れてテーブルに戻ったら、中西が俺をつついた。
「三沢、あの子、浮いてるよな」
「どの子? ああ、可愛い子じゃん。だけど、ぽつねんとしてる。ひとりで来てるんじゃないよな」
「友達がいるみたいだよ。他の子はみんな踊りにいったのに、私はいいわ、って感じで残ってるんだ」
「ふーん、気に入ったのか? 踊りませんか、って言ってこいよ」
 となりのテーブルにいたその女の子は、服装も地味なら化粧っ気もなく、純朴な田舎の女子高生みたいだった。いや、今どきの田舎の高校生はあんなのではないだろう。彼女自身もレトロな高校生に見える。よく見れば可憐な子なのだが、こんな店にいるとたしかに浮いていた。
「いっしょに行こうぜ」
「俺に頼るわけ? ナンパなんてのはひとりでやるもんだよ、中西くん」
「いいから行こう」
 ナンパはひとりでやるものだと決まってはいない。俺はひとりでやるほうが好きだけど、中西にはその勇気がないようなのでつきあってやることにした。
「はーい、踊らない?」
 声をかけると、彼女はびくんとした。
「こんなところに来て、すわっててもつまんないでしょ? 三人で踊ろうよ」
「……私はいい」
「どうして? ディスコってのはフィーバーするもんでしょ? うわわ、俺って古ーい。ばあちゃんがフィーバーとか言ってたもんで、口から出ちゃったよ。きみは高校生? 俺は言うことは古いけど、これでも大学生。大学三年の三沢幸生です。こっちは友達の中西くん。下心なんかないんだよ。楽しもうって誘いにきただけ。きみの名前はなんていうの?」
「くるみ」
「くるみちゃん? かーわいい名前だね。くるみちゃん、踊ろうよ」
 さあさあ、楽しもうよ、と手を取ろうとしたら、彼女はその手を引っ込めて背中に隠してしまった。
「ごめんね。いきなり手を握ったりしたらいけないよね。くるみちゃんは校則のきびしいお嬢さま学校の高校生で、友達に連れられてこんなところに来てみたものの、どうしていいのか困ってるんだよね。そんなふうにしてるとむしろ、悪い男に目をつけられるよ。俺たちがボディガードしてあげる。そのほうが安心だって。俺たちは神に誓って悪いことはしないから」
「そうそう、俺はなんにもしないよ。こいつは……」
 するかもしれないけど、と中西が言いそうだったので、俺は奴の言葉をさえぎった。
「おまえはよけいなことを言うつもりだったら黙ってろ。喋りは俺にまかせておけばいいんだよ」
「だよなぁ。俺もこいつとは大学に入ったころから仲良くしてるんだけど、いまだに呆れるんだよ。ほんっとによく口の回る奴だろ? 三沢、おまえが喋りまくるから、くるみちゃんは自己紹介もできないじゃないか」
「そうでしたね。くるみちゃん、自己紹介してくれる?」
「自己紹介っていっても……私は高校生じゃないよ。大学一年生」
「ああ、そっか。若く見えるね」
「若くって……子供っぽいって意味?」
「いえいえ、そんな意味じゃありません」
 ようやくぼつぽつ口をきいてくれるようにはなったのだが、踊ろうと言ってもかたくなに首を振る。くるみちゃんの友達は女の子ばかりであるらしく、フロアでよそのグループの男どもと楽しくやっているようだ。中西くーん、とうちのグループの女の子に呼ばれた中西は立っていってしまい、テーブルにはくるみちゃんと俺が残された。
「俺はダンスは嫌いじゃないけど、歌のほうがもっと好きなんだよね。よし、DJのところに行ってくる。くるみちゃんのために生歌を歌わせてもらってくるよ。なにかリクエストは?」
「え? 歌うの?」
「ディスコナンバーだって歌えるよ。アースウィンド&ファイアーとか? この店だと古い歌がいいよね。グループサウンズナンバーなんかもいいかも」
「古い歌なんか知らない」
「じゃあ、俺が適当にセレクトして歌う」
「やめたほうがよくない? 恥ずかしいよ」
「俺は恥ずかしくないよ」
「私が恥ずかしいからやめて」
 もじもじしちゃって可愛い、と俺は改めてくるみちゃんをまじまじ見つめた。見つめると目をそらす。今どき珍しい恥ずかしがり屋さんらしい。俺にはガールフレンドならいるけれど、恋人と呼べる女の子はいない。くるみちゃんがそうならないだろうか、と思ったら燃えてきた。
「くるみちゃんが恥ずかしがるってのは、俺を連れだと認めてくれたわけだね。関係ない男だったら恥ずかしくなんかないもんね。DJのところに行ったら駄目?」
 駄目、と小声で言った。
「よし、そんなら出よう」
「……ふたりで?」
「ふたりで。くるみちゃんにはこういう不健康な店よりも、外の空気のほうが似合うよ。ゆっくり歩いてゆっくり語り合おうよ。行こう、いこいこいこっ」
「……あのぉ、あのね……」
「いいから行こう」
 困ったなぁ、という表情になりはしたものの、くるみちゃんはついてきた。遠くにいた中西が、口を動かしている。なんだよぉ、そうなんのかよぉ、と言っているのが読み取れたので、ではでは、お先に失礼、と手を振って、くるみちゃんとふたりで外に出た。
 よく喋りよく笑い、感情が豊かで気が強い、そんな女の子としかつきあったことのない俺には、おとなしいくるみちゃんが新鮮だった。そのころの俺には口説いている女の子がいたのだが、彼女は妙な主義を持っていて気楽に寝てはくれない。率直に言って、俺は女に飢えて……なんてわけではないのだが、いや、そうだったのかもしれない。
 そうなのかなぁ。俺はくるみちゃんと寝たいだけなのかな。だってさ、俺はやっと二十歳の若い獣だよ。女なしでは人生楽しくないじゃん、などと心では考えつつ、口は全開にしてくるみちゃんに向かって話しかけ続けていた。次第にくるみちゃんもすこしは笑ってくれるようになって、彼女の自宅近くまでは送らせてもくれた。電話番号も教えてくれた。また会おうよ、と言ったらためらいがちにうなずいてもくれた。
「嬉しいな。おやすみのキスしていい?」
 そんなのいや、そんなの駄目、って顔がまた可愛くて、そのときには俺も諦めたのだった。
 それから幾度かデートして、だんだん親しくはなっていったけれど、なれなれしくはしてくれない。手も握らせてくれない。キスなんてあり得ない。さらに先はさらにあり得ない。ワオンちゃんといいくるみちゃんといい、近頃の俺ってなんでこう難攻不落な女の子とばかり縁ができるんだろう。
「でもね、あの子よりはあの子のほうが脈はあるんじゃないかと……」
 すでにフォレストシンガーズを結成していた。本橋さんと乾さんは大学を卒業していて、就職はせずに歌うかたわら、アルバイトをしていた。シゲさんと、当時はメンバーだったシゲさんの親友の小笠原のヒデさんと、五人で公園で練習をしていた。そんなころに、俺は乾さんに話したのだった。
「あの子とあの子……名前を言うなと言ったのは俺だけど、どっちも俺の知ってる女の子か」
「最初のあの子は乾さんも知ってる子、あとのあの子は知らない子です。お嬢さま女子大の一年生でね、無口でおとなしくて硬くて、今時の女子大生だなんて思えないんですよ。そこがまたいいんだけど……」
「天然記念物か。シゲみたいだな」
 本橋さんとシゲさんはまだ来ていなかった。ヒデさんが言い、俺は心で応じた。なんぼなんでもシゲさんと較べたらくるみちゃんが気の毒だよ。
「ヒデさんがそんなこと言ったら、ベッドでシゲさんを抱いてるみたいな気分に……うげげぇ、やめてやめて」
「変な想像すんなよ。やめてやめてはこっちの台詞だ」
 こら、幸生、と乾さんが怖い顔をした。
「無理強いはするなよ。おまえはそんな奴じゃないよな」
「無理強いなんかしませんけどね。でもさ、ああいうタイプには強引に出るのも必要じゃないかなぁ、と思わなくもないってのか、ワ……わわわ」
 そのころの俺の女友達ナンバーワンは古久保和音、「かずね」と読むのだが、俺はワオンちゃんと呼んでいた。ワオンちゃんとだってベッドインしたかった。それがどうしても落ちないんだよぉ、落ちないけど落としてみせる、と俺が言ったら、乾さんは言ったのだ。
「好きにすりゃあいいけど、そういうことを他人に話すものじゃないんだぞ。俺はあいつを落としてみせる、だなんて、つきあってる男が友達に言いふらしてる、そうと知った彼女はどんな気持ちになる? おまえの恋人以前って女の子は何人か知ってる。その中の誰なんだかは俺は知りたくないよ。名前は言うな」
 そういうわけで名前を口にしてはならないのだ。ワと言いかけてわわわ、とごまかして、俺は続けた。
「わわわのわってのか、その子とはちがってあの子は、ためらってるだけなんですよ。必死で口説いたらその気になってくれる。今はその段階なんですけど、彼女だってきっと俺が好きなんだから」
「好きじゃなかったらデートはしてくれないよな」
「でしょ、ヒデさん? 乾さんは知らないけど、ヒデさんはそんなつきあいしてる女の子だったら、ベッドに行きたいよね。行きたくなくないでしょ?」
「うーん、まあな」
「おまえはその子に恋をしてるのか?」
 恋? そこまでじゃないかなぁ、と呟いたら、乾さんはますます怖い顔になった。
「おまえがナンパが趣味なのは知ってるよ。そこから恋がはじまる場合もあるってのはおまえの持論だよな。そういうこともあるかもしれない。しかし、遊びはやめろ」
「乾さんまでそんなに硬いこと言って……シゲさんじゃないんだから」
「硬いんじゃないよ。彼女もその気ならまだしも、無理強いはするな。約束しろ」
「なんで乾さんが……赤の他人の見知らぬ女の子なのに……」
 ちょっとちょっと、とヒデさんが割って入ってきた。
「乾さんと幸生がそんな話でもめなくてもいいじゃありませんか。その話はやめにしましょう。幸生、もうやめろって」
「なんだかむかつく。ほっといてほしい」
「幸生……やめろ」
「乾さんの台詞って、俺とたったふたつしかちがわない若い男だとは思えないんだよね。おばあちゃんの影響ですか。乾さんは絶対に遊びでは女の子とは寝ないの? 女がほしくて狂おしい気分になったりしないの? しないんだったらそっちが異常なんじゃないんですか。するんだったら俺のことはほっといて、自分のことを考えたらいいんだよ。お節介がすぎるって言うんですよ、乾さんは」
 やめろ、とヒデさんが俺の胸倉をつかみ、乾さんがその手を引き剥がした。
「幸生の言い分にも一理あるよ。俺はお節介で、自分の……いいよ、ヒデ、おまえが怒るな。幸生、俺はおまえの良識を信じてるから。遊びの恋なんて虚しいんだ、って考えてほしいと……いい、もういい」
 だから俺は……の続きがなんなのか聞こえなかったけど、そう言いながら乾さんはどこかに行ってしまい、そのあとでヒデさんに怒られた。
「おまえの口ってのは動き出したら止まらないんだよな。乾さんはおまえのためと、その女の子のためを思って意見してくれたんだろ。なんだよ、あの口答えは」
「ふんっだ。乾さんって……なんかこう、むかつく」
 今から思えば、あのころの俺も章とおんなじ考えなしのガキだったのである。むかつくむかつくむかつく、を連発して、うーん、まあ、そんなところはたしかにあるけど……とヒデさんもむにゃらむにゃらと口の中で呟いていて、そうしていたら本橋さんもシゲさんも公園にやってきて、練習が開始された。
 考えなしの俺は、乾さんに意見されてよけいに燃えた。口説いても誘惑しても糠に釘のくるみちゃんに業を煮やして、あるときついにやってしまったのだった。
「……くるみちゃん、俺、腹が……」
「おなかが痛いの? どうしよう。帰る?」
「帰るまで保たないよ。ちょうどいい……あそこ……あそこに行こう」
「あそこ?」
 わかっていて言ったのだ。腹が痛いと言ったのは嘘っぱち。彼女をホテルに連れ込みたいための芝居だった。脂汗を流しているかのように、苦悶の表情で芝居をしていたら、くるみちゃんもうなずいてくれた。
「こんなところははじめて?」
「……うん。三沢さん、おなかは?」
 ホテルの一室に入ると、俺はすっとぼけてみせた。
「あれぇ? 治っちゃったよ。けどさ、腹痛ってのは波があるからね。ちょっと待ってて」
「そう?」
「ついでだからお風呂に入ってこない?」
 途端にくるみちゃんの顔が険悪になった。
「……だましたの?」
「だましてないよ。腹が痛くなったのはほんとだもん。治ったのもほんと。くるみちゃん、怒らないで聞いて。俺はきみが好きだよ。何度も言ったでしょ? 今時の男女交際ってのは、ここへ到達するのが自然なんだ。いいよね? いいだろ?」
「私は……私も……そりゃあ、三沢さんは嫌いじゃないけど……こんなのいやだ」
「今回はいや? 次がある?」
 部屋の隅っこへと逃げ出して、くるみちゃんは長時間黙っていた。うつむいて考え事をしているくるみちゃんを見ていると、俺の心にはいくつかの想いが浮かんできた。俺はくるみちゃんが好きだよ、好きだから寝たいんだよ、恋とまでは行かないけど、好きだから寝たいっていけないのか? 乾さんはなんだかんだと言ってたけど、ほっといてったらほっといて。俺は俺のやりたいようにやるんだから。
「……くるみちゃん?」
「友達に言われたの。私は……私だって知ってたよ。三沢さんはこうしたかったんだよね。だから友達に相談してみたら、どうしてそんなので悩むの? って言われた。そういうものなんだね」
「そういうものだと俺は思う」
「うん、いいよ」
「自棄になってない? 怒ってないの? 俺はきみに嘘をついて……」
「やっぱり嘘だったの? だけど、私を好きだからなんだよね。私がくよくよ悩んでたからなんだよね。私を愛してくれてるんだよね? だから、いいよ」
「……うん」
 願いがかなったはずなのに、どーんと暗くなってしまった。愛? 愛してる? 心の中を探してみても、愛なんかない。欲望しかない。それでもすることはして、くるみちゃんを送っていって、アパートに帰るつもりが乾さんの部屋へと足が向いた。
「……なんだ、幸生? 浮かない顔をしてるんだな」
「この間の続きを言いにきました」
「続き?」
 まあ入れよ、と言われて部屋に入り、俺は突っ立ったまんまで乾さんを見上げた。
「レイプに近いね、あれは。やっちゃった」
 詳しくは話さず、俺は乾さんを見つめた。乾さんはなにも言わない。表情に翳りが出て、俺をまっすぐ見つめ返して口をきかずにいる。口の高速回転は俺に拮抗するほどの乾さんが無言でいるなんて、頭が錯乱してきて俺は言葉が口からほとばしるのにまかせた。
「だって、乾さんが悪いんですよ。よけいな意見なんかしてくれちゃうから。俺は乾さんの息子でも弟でもないのに、ましてくるみちゃんとは乾さんは会ったこともないのに。よけいなお節介なんかするから、俺のその気が高まってきたんだ。ホテルに連れ込んでやっちゃったよ。さばさばしましたよ。これで思いは遂げたから、あんなうっとうしい女とは別れたっていいんだ。無口で控えめなんて、俺には合わないもんね。身体は悪くなかったから……」
 黙れ、と乾さんが低く言い、俺はぎくっとしたのだが、なおも言った。
「女ってさ、一回寝たら箍がはずれるってのか、身体がほしがるってのか、レイプされて惚れるってのもあったりするんでしょ。だからさ、彼女もこれで俺にぞっこんになっちゃったりするかもしれない。そんならあと何度かは抱いてやってもいいよね。いいんだけど、いつまでもつきまとわれたりしたら困るな。乾さんにだってそんな経験はあるんでしょ? だから俺にあんなふうに言ったんでしょうが。どうやって捨てたらいいのかな。そっちのアドバイスがほしいな」
「黙れと言ったはずだ」
「黙りませんよ。彼女の裸はねぇ……」
 がっつーんっ、と頬に衝撃が来て、俺は見事に吹っ飛んだ。乾さんはそ知らぬ顔で煙草を取り出し、俺を見もせずに火をつけている。あまりのことに口がきけなくなって、俺はただ頬をさすっていた。
「死ぬほど痛い……泣いていい?」
 返事がない。
「ひでぇ。あんまりだよ。乾さんの口達者は俺以上なんだから、予告してくれなくちゃ。それ以上言うとぶん殴るぞ、って前置きがあるでしょうに、普通は。そしたら俺も黙るのに……ひどいひどい、ひどいわっ。うえーん、えーんえんえんええんえんえん」
 泣き真似をしていたら、本当に涙がこぼれてきた。
「あれれ? あれれ? 目から水が出てきた。これってなに? 乾さぁん、なんとか言ってよ。どうして無言でいるんですか。乾さんが黙りこくってると、がんがん口で怒られるより怖いってよくわかりました。リーダーのパンチなんかと桁違いのパンチじゃん。すっげえ力あるんじゃん。リーダーはいっつも本気では怒ってないから? リーダーが本気で怒ったら、乾さんのパンチよりもっとすげえの? こわっ、怒らせないようにしよう。ねえねえ、乾さん、なんか言って下さいよぉ。つまんねえな、俺、乾さんに嫌われちゃった? 馬鹿のきわめつけだもんね。歌でも歌おうかな」
 しようがないので歌ってみた。

「忘れてしまいたいことや
 どうしようもない悲しさに
 包まれたときに男は酒を飲むのでしょう
 飲んで飲んで飲まれて飲んで
 飲んで飲み潰れて眠るまで飲んで 
 やがて男は静かに眠るのでしょう」

 フルコーラス歌うしかないかぁ、と気持ちをよそにやりつつも歌っていたら、乾さんがほっと息を吐いた。
「そんな歌はガキには似合わないよ」
「……あ、やっと口きいてくれた。乾さんは大人ですよね。俺みたくガキじゃないよね」
「俺もガキだよ。おまえに口はばったい意見をして、自己嫌悪に苛まれてた。俺だってさ……言いたくない。言いたくないけど、さっきのは本当か」
「さっきの? レイプ? いえ、お互いの合意のもとではあったのですが、俺も言いたくなーい」
「そうか。言いたくないんだったら言うな。恋でもない恋をして虚しかったんだろ。だから浮かない顔をしてたんだよな。彼女についてなんだかんだと言ってたのは、本心じゃないんだろ?」
「……わかりません。なーんもわかんない。だから俺はガキなんだよぉ」
「俺もガキだよ。いくつちがうんだ? たったのふたつだろ」
「ガキか大人かは、年齢だけではない」
「……そうかもしれないけど、俺だってな……自戒の台詞でもあったわけで……」
 ふたりして言いわけめいてうだうだ言って、語尾をとぎれさせっぱなしで、あの夜の乾さんも俺も実にらしくなかった。それからしばらくは練習がなかったので、俺のほっぺたの殴打の跡をみんなにごまかす必要はなかったけど、俺の心に深く刻まれた想い出になった。
 あれは乾さんと俺の秘密だよね。章にも話さない。そうやってこっぴどく乾さんに怒られた想い出……章が怒られてたときには乾さんは口を駆使していたけど、俺のときには言葉じゃなくて……乾さんらしからぬ叱責のやり方で。だからやはり、章が怒られるのとは全然ちがっていた。
 自己嫌悪は俺のほうで、くるみちゃんには連絡しなくなって、彼女からもなにも言ってこなくて、それっきり別れてしまった。あれから二年、俺は懲りずにナンパして、懲りずに愛のないメイクラヴをして、虚無感に襲われたりもしているけど、乾さんはもはやそれについては意見をしなくなった。おまえはあいかわらず、って俺に言いかけては口を閉ざす。
 時には俺の中に生まれる恋心もある。しかし、それって本気の恋なのか? と問いかけても自身の心は答えてくれない。その点は章のほうがまっとうなのか、純真なのか。俺は真実の愛を求めてさすらう狩人、だなんて気取ってみても限りなく虚しくて。
 

3

 あのころの俺は生意気なガキ……って歌もあったっけ。あれから二年、俺は今でも生意気なガキのままだけど、乾さんはずいぶんと大人になった。いや、あのころから俺には大人に見えていた。俺もガキだと自ら言うけど、俺なんかよりはずっと大人でしょ? と言っても、乾さんはうなずかないのだが。
 現在では章という俺の同類のガキが加わって気が楽になった部分はあるのだが、真実の恋はどこにあるんだろう、と折に触れては考えて、そんなのないのかもなぁ、と諦める、堂々巡りの繰り返し。
つきあってる子はいるにはいる。本橋さんにも乾さんにもいるはずで、章にはえっちゃんがいる。シゲさんには片想いの果てに破れた恋があって、みんな若いんだもんね、そりゃあなにかとあるよね、と俺は思う。シゲさんを天然記念物だとヒデさんは言っていたけど、俺にはそんなシゲさんがちょっとばかりうらやましい。だけど、こんな俺が俺なんだから、こんな俺と折り合いをつけていくしかないよね、とも思うのだった。
「公園に行こうよ」
 寒いのに公園ばっか、とえっちゃんは章に言うのだそうだ。文香はなんて言うかな? と顔色をうかがってみたら、彼女は言った。
「寒いから人はいないよね。幸生くんとふたりっきり」
「ふたりっきりは嬉しい?」
「どこに行ってもふたりっきりにはあんまりなれないし、ホテルはお金がかかるしね。公園でデートして寒くなったら、幸生くんの部屋に行こうよ」
「散らかってるから」
「掃除してあげる」
「ああ、そう。それはどうも……」
 近くの喫茶店でたびたび会って、なんとなくつきあいはじめた文香は、ごく平凡に今時の女の子だ。なのに掃除をしてあげるだなんて言われたら言われたで、うっとうしくなったりするのは贅沢ってものだろうか。
「寒いね」
「冬だからね」
 ベンチにかけたら、文香は俺に身を寄せてきた。寄せてきたついでにキスしてくれて、気持ちはいいけど燃えない。俺は難攻不落な女にこそ燃えるタイプらしい。因果な体質である。
「文香ちゃん、別れよう」
「別れる? どうして急に?」
「急にじゃないんだよ。他に好きな子ができたんだ」
「……それって私の気持ちをためしてるの? そんなに急に言い出すなんておかしい。私は幸生くんが好きだよ。幸生くんは私が好きじゃなかったの?」
「好きだったんだけど、その子はもっと好きだ」
「その子に会わせて。対決する」
 あちゃ、そう出るか。泣くか怒るか殴るか、修羅場になるかあっさり去っていくか、想像のバリエーションはいくつかあったのだが、対決すると言い出すとは意表をついていた。
「対決したって無駄だよ。俺の気持ちはその子に向いてるんだから」
「対決したいの。取り返す」
「きみはそんなに俺が好きなの? 遊びでしょ?」
「他の女に取られるなんてプライドが許さない。女の意地だよ」
「うへ……」
 言うんじゃなかったか。ややこしいことになるんだったら、このままつきあっててもいいか。
「ごめん、嘘。きみには見抜かれてたね。きみの真心をためしたかったんだよ。そんなふうに言ってくれて嬉しいよ。文香ちゃん、俺はきみが好きだ。よそ見なんかしないよ」
 上っ面だけの言葉なんかはいくらでもなめらかに出るけど、愛してる、とは言わないのが、せめてもの俺の真心。だって、愛してなんかいないんだもん。なのにさ、章のように、愛してない女の子とは寝ない、二股は絶対にしない、恋してもいない女の子とは友達でいる、とも言い切れなくて、俺ってほんとにちゃらんぽらんな奴だよなぁ、と苦笑いしつつ立ち上がった。
「俺んち行く?」
「そうだね。もう、幸生くんったら、びっくりするじゃないの。そういう嘘は駄目だよ」
「ごめんね」
 怒った顔して殴る真似をしてみせる文香の肩を抱き、歩き出そうとした足が止まった。
「……どうしたの?」
「しっ!! こっちこっち」
 時々ふっとここに足が向く。他の四人もなにかといえばこの公園に立ち寄っているらしい。そんなに遠い昔ではないのに、アマチュア時代をなつかしんでいるのだろうか。あのころはよかったな、では決してない。プロになれた現在のほうがずっといい。なのにどうしてだかここに来たくなる。
 そんなわけで今夜も文香と来たこの公園は、本橋さんのアパートの近くだ。本橋さんがいても不思議はないのだが、彼はひとりではなかった。女の子と連れ立っている。本橋さんよりは低いけど、俺よりも背の高い女性のシルエットが見えて、俺は文香を木陰に引っ張り込んだ。
「だから……いいって……だから俺は……」
 低くぼそぼそ喋っているので、本橋さんの声は全部は聞こえない。彼女の声も細くて聞き取りづらい。
「……そんな……ちがうって言ってるのに……」
「ちがわないよ……いいんだ……だから……」
「……くれないのね? ……だから……」
 だから、だから、ばっかりで話がよく見えないのだが、別れ話なのだろうか。知らんぷりして通りすぎればよかった。こうなると出るに出られなくて、文香ももぞもぞしている。寒いのでぴったりくっついて、俺は見るともなく本橋さんを見ていた。見えるのは本橋さんの背中だ。肩のむこうに彼女の顔が見え隠れしている。外灯のあかりが遠くて、彼女の顔はぼんやり霞んでいた。
「……ルミちゃん」
「……本当なんだから」
「わかったよ」
 腕を伸ばして、本橋さんはルミちゃんと呼んだ彼女を抱き寄せた。キスシーンとなるのは目に見えていたので、その機を逃さず文香の手を引っ張って走り出した。
「んん? こらっ!! なにをしてやがるんだっ!!」
 覗き魔だとでも思ったのか、本橋さんが怒鳴った。迫力ありまくりの怒声だったが、俺は振り向かずに走り続けた。顔を合わせたらお互いバツが悪すぎる。俺だと気づかないでくれ、と祈るしかなくて、俺は文香と手をつないでひたすら走った。
「……幸生くん、息が……息が……」
「あ、ごめん。あれは見なかったことにしてよね」
「今のカップルは誰?」
「知らないひと」
「また嘘ばっかり」
 公園から出ると、走るのはやめて歩き出した。なにがなんだか半分も理解できなかったけど、リーダーも大変みたいですねぇ、と声には出さずに言って、再び文香の肩を抱いた。


 みんな若いんだもんね、なにかとあるんだよね、の「なにかと」がまちがいなく本橋さんにはあって、なのになにもないみたいな顔をしている。乾さんにも「なにかと」あるはずだけど、なんにもないそぶりをしている。シゲさんにもあったけど、そんなことはなかった顔をしている。このあたりが大人とガキの境界線なのか、だったら俺も今後は、「なにかと」あってもなんにも言わないでおこう、と決意したのは、章が言い出したせいもあった。
「乾さんは気がついてたんでしょ。疑わしそうに見てましたもんね」
「俺がなにに気づいてたって? 何日か前のおまえの顔か」
「その通りですよ。乾さんの推測ではどうなってたんですか?」
「そうだな、いくつかは考えられる。デビュー前にもあっただろ。男に因縁をつけられて殴られた。あるいは、別れ話がこじれて女に殴られた」
「街でどっかの男と殴り合ったってのは?」
「おまえがそういう勇ましいことをやったんだったら、訊かなくても言うんじゃないのか。だが、おまえは言葉を濁した。殴られた跡なのが一目瞭然であるにも関わらず、寝ぼけてころんで顔をぶつけたと言ってたよな。おまえが寝ぼけたなんてのはありがちだけど、あそこまでひどくぶつけたりしないだろ。仮にそれが本当だとしたら、微に入り細にうがって、これこれこういう状況でどこにぶつけた、とまで言うはずだ。おまえの性格上、正直に話す場合は話がこまかいんだよ。なのにあのときはあんなふうだった。これはごまかしてるな、とは思ったよ」
 ふむふむ、やはり乾さんは、ひとつのことがらを多面的に見て判断するわけだ。俺がそう考えていると、乾さんはなおも言った。本橋さんとシゲさんも、ふむふむと聞いていた。
「デビュー前にシゲのおかげで殴られずにすんだときには、おまえはそのときの状況を詳しく話した。俺は見てなかったけど、見ていたかのように鮮やかに覚えてるよ。おまえはひとつのできごとを簡潔明瞭に説明するのが上手だ。なかなかの才能だと思えるよ。横から話を脱線させる奴がいなければ、だな」
 それは俺だろう。そんなら今は黙っていよう。
「あれやこれやと考え合わせると……言っていいのか」
「いいですよ」
「……話したくてうずうずしてきたのか? おまえらしいよ。つまり、これはおまえの話したい話題の前振りってわけだな。ならば決定。女の子だ」
「……参りました」
 胸に秘密をしまっているとうずうずしてきて、口からもわもわっとこぼしてしまいたくなる。章とはそういう奴であるらしい。俺にもその傾向はなくもないが、そんならよけいにだ。章にできないことを俺はやる。秘密は秘密のままで胸にしまっておく。よし、やってやろうじゃん。俺はおまえみたいになんでもかんでも喋らないんだよ、と章に言ってやれる日のために。
「女に殴られてあんなになったのか?」
 むろんみんな、あの日の章の顔は覚えている。本橋さんとシゲさんにしても、誰かに殴られたんじゃないのか、と考えていたはずだ。そこを追求しなかったのも大人らしさのあらわれか。俺は追及したくてうずうずしていて、章が話さなかったらヘッドロックをかけてでも聞き出していただろう。今は章が進んで話しているので、本橋さんが尋ねたのだった。
「そうなんですよ。俺の周りにいる女は暴力的なのばっかりでね。スーもそうだったけど、あいつも……あ、あいつってのは女の子ではあるけど、彼女じゃないんですよ。ただの友達ですから」
 そう前置きしておいて、章はえっちゃんとの出会いから最近の話しまでを一息に述べた。
「あんなのは好きでもないんだ。嫌いとも言い切れないからデートしたりはしてるけど、デートとも呼ばないのかもしれない。でね、なんで悦子に殴られたのかと言えば……俺が悪いのかなぁ。そこんところを知りたくて話してるんですよ」
 章がフォレストシンガーズに参加したばかりのころは、彼には最愛の彼女がいた。章がやっていたロックバンド、「ジギー」のベーシストだった彼女との、出会いも別れも章は話している。俺はスーちゃんと会ったこともある。小柄で愛らしい女の子だったけど、気性は荒いのだと章は言っていた。
「章の彼女にしとくにはもったいない美人じゃん。スーちゃん、章のどこがよくてつきあってんの?」
「章ってひがみっぽいし頼りないし、ほっとくとどこへ行っちゃうかわからないようなところがあるんだよね。あたしが守っててあげないとどうしようもなさそうっていうか……」
「母心?」
「そうかも」
 なんだとぉ? と章は怒っていたけれど、そういう恋もあるのだと俺はうなずいたものだった。章にはスーちゃんはぴったりの恋人だったのに、彼女は章を捨てた。そのスーちゃんが背が高くて売れててかっこいいロッカーと結婚するらしいとえっちゃんは言い、章はぶち切れたのだそうだ。
「無茶苦茶言ったのは俺が悪かったのかもしれないけど、あいつも悪いでしょ? 俺の心をぐさぐさっとえぐったんだ」
「俺みたいに?」
「乾さんは関係ありませんよ。だけど、今回はやり返さなかった」
「うん、よしよし、上出来だ」
 そんなのどっちもどっちだろ、と乾さんは呟き、どっちも悪いんじゃないのか、と本橋さんも言い、シゲさんは言った。
「喧嘩ってのは結局、どっちも悪いんだよな。しかし、俺はおまえが……いや、いい」
「シーゲさん、なにが言いたいの?」
「おまえにはなにも言いたくないんだよ。黙ってろ」
 言わないからね、と目配せすると、シゲさんは咳払いし、俺は章に問いかけた。
「章、そんでえっちゃんとは仲直りしたのか?」
「仲直りするような仲じゃないけど、前と同じにつきあってるよ。恋人じゃなくても、女の子が身近にいてくれると……なんていうのかな。俺は悦子とはほんとにほんとになんにもしてない。デートはしてもキスもしてない。そんな女の子でも、悦子は俺の話を聞いてくれるし、暴力もふるうけど優しくもしてくれる。嘘も言うけど親切なところもある。だから……」
「彼女はおまえを好きなんだろ」
 乾さんが言い、章は首を横に振った。
「それは俺にはなんとも……」
「そうか。それはそれでいいのかもしれないな。部外者がとやかく言うようなことでもないし、喧嘩はともかく、そんな仲も決して悪くはないと思うよ。先がどうなるかは……ま、いいんじゃないのか」
「そうかなぁ」
 珍しくシゲさんが反論した。
「俺には章の言い草は身勝手に思えますけどね。えっちゃんとやらもこんな奴にこだわってないで、恋人になれる男とつきあえばいいんだ」 
 くそぉ、俺も章みたいに……とシゲさんはもごもご言い、章はうつむいてなにやらぼやいている。雰囲気が悪くなってきそうなので、俺は言った。
「リーダーは男に殴られるのと、女に殴られるんだったらどちらがいいですか?」
「どちらもいやだよ」
 とは言ったものの、本橋さんは言い直した。
「おまえは女に殴られるほうがいいんだったよな。そのほうが痛みが少ないからか。そうとも限らないぞ。そのえっちゃんのパンチは相当なものだったんだもんな。章の面はああなってたもんな。俺は男に殴られるほうがいい」
「なぜ? リーダーってそんな趣味があるんですか? 男に殴られたら気持ちいい? きゃあ、変態」
「……馬鹿たれ。そうじゃねえよ」
 なぜなら、と言いかけてにやりとした本橋さんの表情が、その続きを物語っていた。
「はあ……乾さん、そういうわけですね」
「そういうわけみたいだな」
「リーダーらしいな。俺は男に殴られるなんていやですよぉ。喧嘩なんかしたくもないよぉ。女の子とも喧嘩はしたくないけど、男となんかもっといやだよ。リーダーとはそこだけが相容れない」
「おまえとは俺はすべての面で相容れないんだよ」
「そんなこと言ってぇ、ユキちゃん、寂しい」
「それをやるな」
 はーい、と答えて窓を開けてみると、外が銀色の景色に変わっていた。
 本橋さんは暴力が得意だけど、章や俺をぼかっとやるのは挨拶がわりみたいなものだし、シゲさんがたまにやるのは説教がわりで、章とやるのは遊びだ。乾さんだけが実はかなり怖い。にしても、一度乾さんに思い切り殴られたのは、むしろ俺の目を覚まさせてくれたというのか……あとから乾さんは言ったっけ。後悔できるのは、おまえの心に真っ白なものがあるからだよ、って。
 うるわしき誤解だったのかもしれない。俺はあいかわらずこんなだけど、まがりくねった道を歩いて、いつかは真実の恋に到達……なんてねぇ、そんなことがあるんだろうか。まあいいか。今はそんな話をしてるんじゃないんだし、若いうちはなにかとあるさ、とでもおのれに弁解しておくしかない。
 うしろではシゲさんが、んんと、みんなわかってるみたいだけど、どういう意味で? と悩んでいる。乾さんがシゲさんの疑問に答えていた。
「シゲは非暴力主義だろ。女に殴られたって断じて殴り返さないよな」
「ガキのころだったら同級生の女の子にぽかっとやられたりした覚えはありますね。姉貴にも殴られたことはあります。姉貴を殴り返したことはあるけど、それもガキのころの話で、今だったら姉に殴られてもやり返したりはしません」
「……本庄さんってそういう話には姉さんしか出てこないの?」
 こら、章、よけいなことを言うな、と足を蹴ったら、あ、そっか、と章は口を閉じ、乾さんが続けて言った。
「だからだよ。本橋だってそうだから、男に殴られるほうがいい、って答えになるんだ」
「やり返せるから?」
「みたいだね」
 はあ、なるほど、とシゲさんはうなずき、乾さんは本橋さんを見た。
「おまえはどうなんだ、乾? おまえは女に殴られるほうがいいのか」
「そこから甘いシーンに持っていけるんだったら、愛するひとのパンチのほうがいいかな」
「……けっ、ほざいてろ。シゲは?」
「女に殴られる……想像もできません」
 知ってるつもりだったけど、シゲさんってそっち方面の経験不足なんだね。だからこそあんなにも純情なんだな。俺の中学生のころのほうが、シゲさんよりすれてたかも……なんて考えつつ、窓の外を見ていた俺は言った。
「ユキちゃん発見、雪。雪が積もってますよぉ」
「……つまんねえシャレ」
「シャレだと即座にわかるところは、さすが章。雪合戦しましょうよ」
 恋愛話もいいけど、シゲさんがひがむしね。俺もついついつられて、さきほどの決意が砕けてしまいそうだし、健康的に雪合戦もいいんじゃない? 無邪気な子供に戻ろうよ。雪はやんでいて真っ青な空。絶好の雪合戦日和だった。
「いい年して雪合戦か」
 そう言ったわりには、シゲさんが真っ先に立ち上がった。
 スタジオの近くにも公園がある。寒いのに、とぶつくさ言いながらの章も立ち上がり、やろうやろう、と乾さんも賛成し、おーし、やるか、と本橋さんも言って、全員で公園へと走っていった。雪を丸めていると、むこうからジャパンダックスの連中が歩いてくるのが見えて、乾さんが手を振った。
「おーい、仲間入りしないか。雪合戦やろうぜ」
 やりたくもないね、とはねつけるだろうと思っていたのに、ターコが乗り気になった。
「やろう。ジャパンダックス対フォレストシンガーズの真剣勝負だよ。シブ、ゴン、あんたらは力はあるだろ。こんな奴らに負けないよね」
「いいけど、五対四だと分が悪いよ」
 ルッチが言い、シブも言った。
「そうだよな。こっちは女がふたりいるんだし」
「かといって、そっちから加勢に来られると気分がよくないしな」
 ゴンは言い、俺は応じた。
「本橋さんとシゲさんと、シブとゴンってのがいい勝負じゃん。ルッチとタコ、じゃなかった、ターコ、彼女たちと、章と俺がいい勝負になる。そしたら乾さんは審判してくれます?」
「うん、そうしようか。ただし、雪で石をくるむのはなしだよ。お嬢さんたち」
「あ、ばれた?」
 今日はいつになくこいつらが闊達に見える。雪には根性の悪い奴らをも子供に返らせる効果があるのだろうか。不利だ不利だ、となおも言っているゴンに、ターコが言った。
「武器は雪なんだから、男も女もそうはちがわないよ。ゴン、あんたはあたしらをなめてんのか」
「そうだよ。あたしらはこんなちびには負けない。あたしらのほうが三沢や木村より背も高いんだからね」
「言ってくれるじゃん。俺らもこう言われたら燃えるよな、章?」
「燃えて雪をとかしちゃったりして……?」
「そうだ、その意気だ。やるぞ」
 我らがリーダーが宣言し、四対四の雪合戦が開始された。
 デビュー前にはあの公園で、思い出をいっぱいこしらえた。これからはこの公園で、きっと思い出をいっぱいこしらえる。前途は楽なものではないだろうけど、ひとときは先のことなんか考えずに楽しもう。ジャパンダックスにもフォレストシンガーズにも、素敵な未来が待ってるといいね。
 今後もきっと、俺たちにもきみたちにも「なにかと」あるんだよね。恋も仕事もそれ以外のこともひっくるめて、俺たちの未来に幸多かれし……なーんて心の中で言って、俺はシブの腹を目がけて雪玉を投げつけた。でっかい腹に当たった雪玉が跳ね返って遠くへ飛んでいった。
「いってぇ!! 雪の玉なのにやたらに硬いじゃねえかよ!!」
「そりゃそうだよ。必死で固めたんだもん」
「きみの腹も硬そうだね、シブくん。なにが詰まってんの?」
 審判の乾さんが言い返し、ルッチも言った。
「シブはさっき、雪だるまを丸呑みしたんだよ。ってえか、あんたが雪だるまそのものじゃん。そんなおなかしてると身軽に動けないよ。ターコ、先にシブのおなかを集中攻撃して、ちょっとへこませてやろう。行くよっ!!」
「それ、いいね。そっちのみんなも手伝って!! 乾くんもっ!!」
 うわーっ、いじめだいじめだっ!! と叫んでシブが逃げていく。いくつもの雪玉がシブの腹ではじけ、笑い声もはじけて、気がつくと社長が美江子さんとふたりで、そんな俺たちを見物していた。社長は満悦の表情で、仲良くなったらしいな、よかったよかった、と笑っていた。
「社長、ジャパンダックスサイドに加わって下さい!! 美江子さんは俺たちのほうにっ!!」
 俺が叫ぶと、私もか? と社長は困った顔をする。美江子さんが社長の手を引いて走ってきた。俺は雪玉を、シブのよりはやや小さめの社長の腹に投げつけた。やったなぁっ! と社長も雪を固めて投げつけてきた。
 雪ってのは若者たちのみならず、中年のおじさんまでを若返らせるのであるらしい。俺もユキなんだから、雪に負けずにみんなを笑わせて、みんなの緩和剤になるように、これからもせいぜい努力しなくっちゃね、と、再び雪が舞いはじめた冬空に向かって、俺は決意を新たにしていた。うん、ユキちゃんの使命はきっとそれに尽きるのだから。

END




 

 

 
 
 



 

 



 
 
 





 
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~ Comment ~

おおお、なんか進みましたね。

恋愛色が強かったですが、物語もじわりと進みましたね。
幸生くんのちょっと意外な一面。
そして、それぞれの恋愛観、のような語り。
みんな、どんどん大人になっていきますね。
こうやって順を追うと、こちらも一緒に進んでいる感があって世界がぐんぐん広がって、景色が違って見えてきます。

ちょうど季節は冬。
次回は春。

早く春が来ると良いな(^^)

fateさん、ありがとうございます

読み返してみますとたしかに、恋のような恋でないような、そんなカラーが強くなってますね。
このころはみんな、若いですものねー。

フォレストシンガーズは一番最初に章三十歳、という物語を書き、過去に戻ったり時が進んだりして、「公園にて」あたりはかなり初期に書いたものなのです。

まだ幸生も紅顔の美少年(ぶっv-14)、ではなく、フツーですかね。幸生はこの後、「俺がちょこっと変態だったら、誰かに迷惑かけるのかよ」とのたまう、厚顔の三十男になりますので。

たのしかった~^^
ユキちゃん、全開というかんじで、彼のガキな部分も、あがいてる部分も、純粋な部分も、ワルな部分も、いろいろ見てしまった感じ。

男の子の恋愛事情って、大変ですよね。
女の子のように、相手任せにできない。
自分で切り開かなきゃいけない。
純粋に恋してるのか、欲望なのか、分かんなくなっちゃうことだってあるでしょうね。
そんなことを、実は結構悩んじゃってる(んであろう)ユキちゃんが、かわいいです。
スマートに恋愛しちゃう男よりも、魅力的だよ~。

でも、くるみちゃんの時とか、第3者から見たら、軽薄な男に見えちゃうんでしょうけど。(がんばれ)

改めて、「男」をやるって、大変だよな~って思いました。

冒頭の、TVを見ながらのシーン、めちゃくちゃツボでした。こういう場面(マスコミに登場する場面)これからも、増えてほしいです^^

limeさんへ

いつもありがとうございます。

私にとってはこの子たちはみんな可愛い息子ですけど、その短篇を書いているときには特に主人公に思い入れていて、愛情も全開だったりするのですよね。
limeさんにだったらこの気持ち、わかっていただけると思います。

ですから、ユキちゃん全開、そう言っていただけるのも嬉しいです。

私のキャラにもどこかの徳永渉みたいに悩まない奴もいますけど、ユキはナイーヴ……ってほんとか? のつもりでいます、本人は。

テレビを見ながらなんだかんだやってるシーン、そう言っていただくとまた書きたくなりました。
本物の芸能人って、自分が出ているテレビを見てどう考えてるんでしょうね? 

NoTitle

・・・そういえば、ラブホテルは使ったことないですね。
ああ、ラブホテルを、という意味であって、普通のホテルに行きます。
私はなんだ、風情とか雰囲気とか食事とかお酒とかそういうものを大切にする方なので。その延長線上の嗜みであって、順序が違うような気がしますけどね。・・・それが若さか。
私も若い頃はもっと直線的だったですけどね。
・・・今も十分若いか。

LandMさんへ

コメントありがとうございます。
愛用のパソコンの調子がおかしくて、今は別のパソコンで書いているのですが、もしかしたら修理に出さなくてはいけないかもしれなくて、訪問や返信ができなくなるかもしれません。
しばらく来なかったらそのせいだと思ってやって下さいね。


さて、ホテルですか~うむむ。
LandMさんは今でも十分若いとのことで、おばさんから見るとうらやましいです。
まぁ、男性もいろいろですからね、幸生みたいのもいますよね。
幸生みたいな奴がなつきにきたら、私だったら説教しそうです^^
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